新歩道橋912回

2015年5月23日更新


 東日本大震災から4年2カ月余、仮設住宅を出て新天地を求めた家族は、まだ全体の4割前後。仙台の仮住まいに残るのは、東北各地で被災した人々だが、あの日、どこに居て、どんなことを体験し、何を失ったかなどを、このごろ少しずつ話せるようになったと言う。抱いている心の傷はなかなか口に出せず、お互いがそれをおもんばかって、聞くことも避けて来た。そんな壁をわずかにせよ越える気運が生まれたのは、あれからの年月と、新しく生まれた人間関係があってのこと―。
 5月9日、JR仙台駅近くのシルバーセンターに、大勢の人が集まった。「仮設住宅住民交流会」である。市内にある八つの住宅の人々が、初めて横のつながりを持っての第一回。そのきっかけになったのが、高橋樺子という新人歌手と「がんばれ援歌」という歌。この日も集まった人々が、高橋を中心にこの歌で踊り、大合唱した。
 「がんばれ援歌」は3・11の直後、作詞家もず唱平が発案、仲間の荒木とよひさ、作曲の三山敏、岡千秋が応じて即座に作った。
 ?負けたらあかんで、がんばろう、西日本(にし)の空から、がんばれ援歌...
 というフレーズが2番にある。阪神淡路大震災を体験した関西からの応援歌で、楽曲のすべての権利が支援の寄金にされている。
 この曲をレコーディングした高橋は、出来たてほやほやを持って被災地へ駆けつけた。同行したのはもずの秘書で高橋のマネジャー格の保田ゆうこ。今回の仙台行きで29回目だそうだが、二人はその都度仮設住宅に泊めてもらって、被災した人々と親交を深めた。人気者の慰問ではなく、いわば共生型の支援が、仮設の人々の心に届いたのだろう。彼女ら二人はいつか、応援する身が応援される立場になり、高橋の第二作「そんなに昔のことじゃない」の東京での発表会には、仮設の人々がバスを連ねて駆けつけたこともある。
 「俺も見に行くよ」
 4月中旬のこと、三越劇場へ僕が出た芝居「居酒屋お夏」(名取裕子主演)を見に来たもずと一杯やった夜に、仙台へ同行する約束をした。もずの強い社会的関心と実行力の、現場の一つを目撃する心算。
 「本当でっか?」
 喜んだもずは、その場で秘書の保田に連絡を取る。仙台イベントは5月9日である。その前夜に僕は帝国ホテルで三木たかしの七回忌の会を仕切って品川泊。仙台日帰りをやった翌10日には、三木の身内の法要で浅草の安昌寺に行き、会食を中座して友人・新田晃也の歌手活動50周年リサイタルでなかのゼロホールへ...というスケジュール。年寄りには相当ハードな三日間だが、
 《義を見てせざるは何とやらと言うしな...》
 もずとの約束は酒の勢いも手伝っていた。
 仮設住宅住民交流会は、盛り沢山のイベントだった。まず八つの仮設の代表が、この四年間と身内(!!)の高橋樺子について語るのが第一部。お次が各仮設ののど自慢が出揃うカラオケ大会。これは作曲家三山敏、もずと一緒に僕も審査を手伝った。交流の実を挙げる趣旨で、別にコンテストではないから、三人三様に出場者をほめ倒すと、これが受けた。第三部は各仮設のグループが「がんばれ援歌」の踊りや元気ダンス、「花は咲く」ほかのコーラスなどで、日ごろの鍛錬のほどを競う。大阪から参加した日本民踊協会の面々は「西馬音内盆踊り」だ。四部が高橋のオンステージで、ヒロシマに材を取った新曲「母さん生きて」を含めて7曲。おしまいが会場を移して、仮設の人々の懇談会!
 午後1時に始まって、ゆうに6時間を越える長時間イベントだったが、会場にあふれたのは満面の笑みと盛んな掛け声やヤジ、高橋を娘や妹に見立てた「ハナちゃん!」の連呼。僕は仮設の善男善女が取り戻した、ひとときの開放感とそれを楽しむ明るさに、感慨ひとしおだったが、シルバーセンターはその性格上、缶ビールさえご法度なのがシャクのタネ。祭りにはアルコールがつきものだろうに!
 歌手高橋を僕は「カバコ!」と呼んで親しい。名前の樺子がそう読めるニックネーム。赤ポロシャツ、白ズボンのこの「災害支援型歌のお姉ちゃん」は、大阪の人なのに東北が育てた不思議な縁の歌い手として、やがて脚光を浴びることになるだろう。
週刊ミュージック・リポート