新歩道橋915回

2015年6月24日更新


 「昔々、地球の生き物が二手に分かれた。陸で生きることにした面々が人間になり、海で生きる気になったのがイルカになったんだ」
 作詞家星野哲郎が酔余、そんな話をしたことがある。温顔を笑いでしわしわさせながら、続きがあって、
 「ところがさ、海で生きるつもりだったのに、間違えて陸に上がっちまった奴がいる。その人間たちはどうしたと思う?」
 僕らの顔を見回してひと呼吸、いい間(ま)をおいて彼は結論を言う。
 「潮鳴りに呼ばれるようにさ、海に集まって漁師になったんだよ」―。
 北海道・鹿部はそんな〝勘違い族〟の棲み栖である。函館から車で小一時間、川汲(かっくみ)峠を越え噴火湾沿いに北上したところにある漁師町。星野哲郎は昭和61年から平成18年までの毎夏、21年間ここへ通った。払暁、漁師たちと定置網漁に出、豊漁で帰港すれば番屋の朝食。いかそうめんだのマンボウの肝和えだの、ばばがれいの煮つけだのと、とれとれの海の幸に舌つづみを打って、昼前からはゴルフ・コンペ、プレーが終われば車座の酒になる。
 「僕はこの町へ、潮気を満たすために来る。もともと船乗りだった僕から潮気が失せたら、これ以上の恥はないからね」
 そう言って星野は、鹿部の人々の素朴だが熱い情に触れ〝海の詩人〟のおさらいをしたものだ。
 星野の没後5年、驚くべきことに「星野哲郎ぶらり旅」は、今も引き続き行なわれている。6月8日からの2泊3日、作詞家里村龍一、作曲家岡千秋と一緒に、僕もいつも通りに参加した。去年からの飛び入りは花屋マル源の鈴木照義社長。出迎えてくれるのは、旅の招へい元として一切合財を取り仕切る地元の有力者道場水産の道場登社長夫妻、何くれとない気遣いの息子の真一専務、受け入れの指揮をする新栄建設岩井光雄会長と、信用金庫の伊藤新吉理事長らおなじみの面々。僕らが「ただ今!」の気分なら、彼らは「お帰り!」の笑顔なのだ。天候の都合で海には出なかったが、その代わりみたいなゴルフ三昧と満腹の海の幸に昼夜をわかたぬ酒。お返しは岡の弾き語り10数曲と、里村の爆笑もの「新・日本むかし話」...。
 《それにしても...》
 と、僕は感じ入る。星野が逝って来年の秋はもう7回忌である。親族はともかく、近隣の親しい人々でも忘れがちになる年月なのに、鹿部の人たちはどうだ。〝ぶらり旅〟の名称までそのままで7回忌イベントも、
 「この町でやろうか!」
 と、道場社長が真顔で言いだす。彼の75才の誕生日をみんなで祝って、コンペの名称こそその記念になったが、集まった人々は星野ツアーとほとんど同じ。先生はああだった、こうだったと、星野談義に花が咲くし、カラオケで歌うのは「兄弟船」や地元にネタを取った「すけそう大漁節」などの星野作品で「海峡の春」の
 〽漁師に生まれてよかったね...
 なんか、みんなのテーマソングみたいに声を合わせる。漁師のカラオケは〝ド〟がつくくらいの演歌一点張りだ。
 道場社長は〝たらこのおやじ〟の異名で、このコラムでもおなじみ。星野が鹿部詣でが出来なくなった晩年から、
 「おめぇら、先生の名代で来てくれや」
 と少年みたいな眼で僕らを誘い、今日まで手厚いもてなしが続いている。星野のお供で世話になって以来、僕のお呼ばれももう21年めだ。社長は最近体調不良でゴルフこそお休みだが、酒の方は相変わらず。悪童連の連日のゴルフを酒で見送り出迎えし、夜っぴての酒宴は席の真ん中に納まって、周囲の賑いを肴にグビリ、グビリ。乞われれば十八番の「さざんかの宿」と「骨まで愛して」を、たらこ流に絶唱する。そのたたずまいは、ありし日の星野との交歓そのまま。〝情の詩人〟星野は、そんな鹿部の人々の濃いめの情がたまらなく嬉しかったのだとよく判る。
 僕は今回の旅で、初体験を二つもやった。一つは与えられた部屋で何とロイヤル・スイート。以前、韓国のノテウ大統領が、引退後によくやって来て長逗留した豪華版だ。もう一つはゴルフコンペでの出来ごと。116も大叩きをし、ハンデを33・6ももらったのにブービー賞である。ちなみに参加者44名の最年長らしいが、幾つになっても〝初〟が残っていることは、捨てたものじゃない。
週刊ミュージック・リポート