新歩道橋917回

2015年7月13日更新


 「東京大衆歌謡楽団」というグループ名にまず引っ掛かった。公式デビューが「昭和九〇年六月一七日」というのも曰くありげだ。同名のアルバムの副題が「街角の心」で、収められているのが「東京ラプソディ」「一杯のコーヒーから」「緑の地平線」「誰か故郷を想わざる」と来るから、
 《何を考えてんだ、一体?》
 という疑念がわく。兄弟3人が歌う懐メロとは判るが、それにしても古過ぎる。昨今、懐メロと呼ばれるのはせいぜい、春日八郎、三橋美智也、フランク永井らの昭和30年から40年代もの。それでも古~い! と眉をひそめて、若者たちが名指すのは、もう吉田拓郎や井上陽水あたりだ。そこで―。
 彼らのデビューお披露目演奏会というのを見に行く。6月15日夜、銀座のビアホール〝ライオン〟の5階ホール。詰めかけたのはメディア中心の歌社会の人々で、年配の人が多めなのは、僕と似たような気分のせいか?
 「ふむ...」
 僕は相当な昔々にタイムスリップする。何しろ彼らが歌う「東京ラプソディ」が世に出たのは昭和11年だから僕と同い年。「二人は若い」「緑の地平線」となるとその前年の作品で、知ってはいるし歌えるが、それは戦後に流行りなおしたせい。歌謡少年だった僕がリアルタイムで体験したのは「長崎のザボン売り」(22年)「白い花の咲く頃」(25年)「上海帰りのリル」(26年)あたり以降だ。
 ボーカルの長兄髙島孝太郎が、そんな古い歌にとりつかれたのは、富山のおばあちゃんがよく聞いていたレコードからだという。
 《「誰か故郷を想わざる」は、おばあちゃん譲りか》
 僕は憮然とする。この歌が生まれた昭和15年、古賀政男のメロディーがむずかし過ぎると歌手霧島昇は気乗り薄だった。それなのに太平洋戦争に従軍した兵士たちが外地で大歓迎、あわてた霧島が歌うようになったという昔話を、誰かに聞いたことがある。その兵士と富山のおばあちゃんが、ごっちゃになってしまうではないか!
 元歌は霧島に藤山一郎、楠木繁夫、小畑実、津村謙らが歌っている。今思い返せば朗々と、みな折目正しい歌唱だった。驚いたことに孝太郎の歌は、発声も歌い回しも彼らそっくりで、昔の音楽学校出身者の律気さを持つ。髪型、ファッションも含めて連想したのは岡本敦郎である。若いころバンドをやっていたと言うのに、そんな唱法をどこで身につけたかと尋ねたら「モンゴルのホーミーを研究した」が答えだから、また驚いた。
 アコーディオン担当の二男雄次郎、ウッドベース担当の三男龍三郎も口を揃えたが、彼らがそんな古い歌を覚えたのは、レコードを聞き込んでのこと。最近はCDの復刻盤が出ているが、以前は古いレコードで値が張って苦労したと笑いながら「2000曲は聞いたかな」とあっさり言った。
 とことん昭和にこだわるから、CD発売の今年が「昭和九〇年」楽団結成は「八四年」だから6年前になる。浅草や巣鴨の街頭で歌い、年寄りに支持されて地方へも出かけ、その話題がテレビやラジオで取り上げられて今回の公式デビューにこぎつけた。仕事先のリハビリセンターで出会った長嶋茂雄氏が「スポーツ以外でこんなに感動したことはない」とコメントしているのも話のタネだ。
 《さて...》
 と僕は会場で腕組みをする。僕個人は大いに面白がり、昔を思い返して感慨ひとしおだったが、今の若者たちにこれが通じるのかどうか。勧進元のコロムビアは「今歌う、忘れかけた心を照らす歌」を惹句に「昭和には、日本人の心にやすらぎがあった、希望や夢があった。それを今に伝えたい」と力んではいるのだが...。
 お披露目会で出会った同業の最長老は長田暁二さん。この人は昭和の歌の生字引きだから支持層の幅はどのくらいになるかしら? と聞いたら、
 「ま、団塊の世代以上かな」
 が御託宣だった。だとすれば少数派突破が彼らの命題になろうが、確かにこんなささくれだってキナ臭い時代だもの、僕ら年寄りにホッと一息つかせるのもまた、大事な仕事ではないか! と、僕は鵜呑みにした。
週刊ミュージック・リポート