新歩道橋923回

2015年9月6日更新


 「困ったときは弦哲也」という業界フレーズがある。この作曲家を頼るのがヒット曲を生む近道と、制作者の多くが考えるせい。弦の大きな実績が物を言っている。それが僕の場合は、
 「困った時は新田晃也」
 になる。無名だが歌手歴50年で記念曲「母のサクラ」を出している男。どんな曲でも歌いこなす歌巧者だから、とても重宝。僕がやるトークイベントで生歌が欲しい時は、大てい声をかける。「はいよ!」と彼は気楽に、ギターを抱えて飛んで来る。昔々は「ポール」と名乗って、銀座の名うての弾き語りだった。
 8月22日午後、僕は代々木上原のけやきホールで「石坂まさを、藤圭子の世界」というののホストをやった。古賀政男音楽文化振興財団の「殿堂顕彰者の歌を歌い継ぐ」という講座の20回目。この日が藤の命日で、石坂は半年前の3月9日に亡くなっていて、双方今年が三回忌というのが事のきっかけだ。二人と親交があったから「往時の話をしてほしい」と、財団の宮本青年から来た話で、ゲストは当然、石坂と藤の時代を作った音楽プロデューサーの榎本襄氏。僕が長く「ジョーさん」と呼ぶ人だ。
 藤圭子の代表作は何曲か、CDで流す。しかし、おっさん二人のおしゃべりにそれだけでは、200人あまりの客に愛想がないから、生歌用で渚ようこに声をかける。藤の影響を受けて歌手になったこの人は、彼女に似たしわがれ声が魅力で、新宿ゴールデン街に店を持ち、マイペースで歌う、いわば〝職業歌手〟だ。
 藤の曲については、これで手当てがついたが、石坂は藤以外の歌手にも、いい作品を沢山書いた作詞家。小林旭が歌った「北へ」や五木ひろしの「おしどり」も聞きたい...となって、新田の出番が来る。この講座で「三木たかし編」をやった時も彼をわずらわしたし、以前、千住のシアター1010で星野哲郎トリビュート企画をやった時も、彼に歌ってもらった。それやこれやの縁つながりで、二人の歌手は期待通りの舞台だったし、ジョーさんとの話も石坂・藤のエピソード山盛り。終演後に宮本青年が、
 「皆さん楽しんで帰られました。とてもうまく行きました」
 と手放しだったから、お世辞半分にしても、ま、そこそこの内容になったということか。
 驚いたのは客席に、阿久悠の息子深田太郎が来ていたこと。阿久が藤に「東京から博多まで」を書いてはいるが、石坂とは関係がない。それなのに「何故?」と聞いたら
 「渚さんの応援です」
 と答えた。そう言えば彼女は、晩年の阿久と仕事をしていて、この日も彼の「ふるえて眠る子守唄」を歌った。そう言えば...が実はもう一つあって、新田晃也なのだが、阿久の初期のエッセーふうアルバム「わが心の港町」の全曲を歌った上村二郎がこの男だった。弾き語り時代のことで「そのままプロに...」という阿久らの誘いを固辞、以来ずっと巷で歌って来た意地っ張り。彼の50周年の起点がこのアルバムになっている。
 会場にもう一人、石坂の長男沢ノ井良太も顔を見せていた。僕は石坂に強要されて、彼と二男の周治、三男の遊の名付け親になっている。ステージに呼び上げてその間の話を良太の前で初めてした。生まれるから名前をつけてと石坂に頼まれた当時、僕は徹底的に断った。そんなことをして他人の子の生涯に責任なんて持てない、というのがこちらの言い分。ところがその子のお七夜の深夜に「まだ名前がない」と、石坂から苦情の電話がある。何と言ってもダメはダメ...と言い続けたら、
 「それでは〝良太〟と頂きます」
 とまで言い出し、
 「勝手にしろよ!」
 と僕が言い放った結果この名になった。今ではもう笑い話の一件だが、良太青年はステージを降り際に一言、
 「小西さん、今からでも責任を取って下さい」 と僕をひと睨みしたものだ。
 その何日か後、星野哲郎の長男有近真澄にたまたま出会ったら、彼がやるライブのちらしを渡された。9月16日夜、渋谷とあるが、共演するのが何と深田太郎のバンドだと言う。歌社会親子二代の交遊はあちこちで、実に何とも、とめどがないものだ...と、僕は観念した。
週刊ミュージック・リポート