新歩道橋930回

2015年11月15日更新


 パーティーではなるべく、隅っこに居る。出来れば出入り口の近く。乾杯のあとあたりで人々が動き始める。飲み物や料理へ向かう多くの顔を、ここからならほぼ見渡せる。そのうえでこちらは少し動く。親しい作詞家や作曲家、編曲者たちへのあいさつ。主賓あたりの席へまっすぐ往き来するのは、世話になっている人や、最近の出来事!?の関係者を見つけた時で、さりげないが取材でもある。新聞記者だったころからの身の振り方や立ち位置が、習性になっていて今も変わらない。
 11月4日の昼、霞ヶ関ビル35階で開かれた水森かおりのデビュー20周年パーティー。会場を一回りした僕は、例によって出入り口そばの隅に居た。談笑の相手は左側に水森英夫、右に景山邦夫プロデューサー。ともに水森の育ての親で、
 「景さん、振り出しはどこだっけ?」
 「ロイヤル・レコード、昭和39年かな...」
 なんてやりとりをする。お祝いに集まった人々にあいさつしながら、水森がやって来る。雑踏と雑音の中だから、彼女のあいさつは相当な大声だ。
 「そんなにデカイ声を出してて、大丈夫か?」
 僕がいらぬ心配の声をかける。えへへ...と笑う彼女に代わって、
 「大丈夫! うん、大丈夫だよ」
 と応じるのが作曲の方の水森で、彼女の地声をしっかり鍛えた自負がありありだ。
 ピンクのドレスの水森が右肩からすっと近づく。僕も右肩を少し回して、恒例のハグになる。業界の男たち衆人環視の中だが、彼女が当たり前の顔だから、僕もうろたえたりはしない。初めてじっくり話したのは「尾道水道」のころだから、平成12年か。もう15年のつき合いになる勘定だが、僕らのハグはそのころから続いている。その後「東尋坊」で第一線に浮上した彼女は、今やご当地ソングの女王である。ここまで功成り名とげているのだから...と、僕には内心多少の斟酌はあるのだが、変わらないのがこの人の人柄、そんなひとときに僕は、正直なところ悪い気はしない。
 歌手の作品の捉え方は、大別して二つと思って来た。作品の主人公になり切ろうとするタイプと、主人公を演じようとするタイプ。前者に都はるみ、後者に石川さゆりをひき合いに出すことが多い。ところが水森は、主人公を中心に、周囲の風景までを俯瞰して捉えるという。
 「天気予報のおねえちゃんみたいかなあ」
 その実態を彼女はあっけらかんと話した。歌ひとつのドラマが天気図で、主人公の心情はその中心で渦巻く気圧みたいなものなのか。
 《演歌に、レポーター型という、もう一つの着想が加わるか、これは明らかに平成型だな》
 と、僕は合点する。彼女のご当地ソングの内容は全部傷心の女一人旅である。その切なさ辛さを彼女は、
 「こういう人がいるのよ!」
 と伝えていることになる。ほどの良い客観性。そうでもなければどの作品も、あんなに明るい声と笑顔で歌えるはずがない。結果、彼女の人柄が歌に色濃くにじんで、それが優しさや包容力として聴く側に伝わるのだろう。
 《木下龍太郎が作り出した路線を、仁井谷俊也らが引き継いで、手をかえ品をかえだな...》
 帰りしなに僕は、久々に秋晴れの空を見上げた。からっと明朗快活で、湿度少なめな水森かおりの世界に通じるさわやかさがある。10数年にわたるこの連作は、逆に考えれば意図的なマンネリ路線である。それを飽きさせず、目先を変え続けているのは、作曲する弦哲也の細やかな創意と技、本人の進境と賢さだろうとも考える。
 会場で元平凡の髙木清先輩から、
 「きっと来るだろうと思ってさ、みんな亡くなったけど...」
 と、古い写真13枚を貰った。全部僕が写り込んでいるスナップで、それぞれに一緒にいるのは石本美由起、星野哲郎、吉岡治、名和治良、前田利明、石井昌子、松尾幸彦ら...。唯一ノー天気に明るいのは、赤いチャンチャンコの原田英弥との一枚くらい。彼の還暦祝いのものだろうが、さて、あれからもう何年になるのだろう?
週刊ミュージック・リポート