新歩道橋937回

2016年2月7日更新


 ゴルフの初打ちは、1月19日に葉山国際でやった。大雪騒ぎの最中だったが、湘南は雪もなく晴天。そのかわり大風で、打球が舞い上がり、フェアウェーを横切ってOBゾーンへ消える。寒さに震え、こごえる手に息を吹きかけながら、何とか完走したのは小西会の物好き2組ほど。
 僕が暮れから大阪・新歌舞伎座に居て、恒例の忘年会も新年会もなかったから、それも兼ねて...と楽屋まで来て言い募ったのは、幹事長のテナーオフィス徳永廣志社長だ。うまい具合いに今回は、彼が優勝した。参加して三位までに入らなかったら、ハンデがその都度一つずつ増えるのが、この会の取り決め。これなら誰でもいつかは優勝出来る仕組みが奏功、トクのハンデは30後半に積もっていた―。
 そんな話をしたら、作詞家の喜多條忠が
 「よくやるよ!」
 と渋面を作った。彼は暮れに助骨を痛めて、ゴルフは当分おあずけという。会議の部屋を出ようとした時、出会い頭に他人とぶつかり、よろけたとたんに机で打ったらしい。相手は誰だ? と問いただしたら、編曲の石倉重信の名が挙がったので笑った。彼の骨太のがっしり体躯を思い出したのだが、石倉は仲町会、喜多條は小西会の親しいお仲間だ。
 「あれ、聞いたよ」
 と、喜多條との立ち話が歌のことになる。暮れに本人からそこそこの笑顔で告げられた曲目が「女人荒野」で、杉本眞人の作曲、石川さゆりの歌。
 〽だって、なにが哀しいかって言ってもさ...
 という歌い出しから、詞も曲も演歌歌謡曲の枠組みをはなれた散文型口語体。死んだちあき哲也がよく言っていた、およそ歌になりそうもない歌詞に、彼流の曲をつけるのが杉本で、喜多條はその辺を狙ったのかも知れない。破調だから歌い出しは当然語りになる。それが5行分ほどあって、6行めで一応、演歌的に盛り上げ、おしまいの3行分でそれらしく納めたのが杉本の曲。合計11行の長尺だ。
 《それにしても、いきなり〝だって〟から歌を始めるか...》
 喜多條のヤマっ気に僕はニヤリとした。杉本とのコンビだからこその発想だろうが、聞き終えて僕は、ちあきなおみの「かもめの街」を連想する。あれが杉本が書いたポップス系としたら「女人荒野」は和もの系に聞こえる。歌うのが石川さゆりだからそうなるのか、歌い出しの語りに日本調の匂いを嗅いだものだ。
 〽海の音、風の音だけ、微笑みながら、女人荒野に立ってます
 というのが、結びの歌詞。
 《よくまあ、女を立ち尽くさせる奴だ...》
 と、僕がそこまで来て思い出すのは、五木ひろしの「凍て鶴」。あれは別れた女を雪原に立ちつくす凍て鶴になぞらえた男唄で、
 〽それでも俺を許すのか
 と結んだ。今度はそれの女版。別離のヒロインを心の荒野に立たせている。彼が珍しくどこかの立ち話で
 「聞いてみてよ」
 と囁いた陰には、そんな二作への思いがあったせいかとも、合点した。
 「ねえ、さゆりの歌はどうだった?」
 と、喜多條が聞く。
 「うん、あの人らしくひと芝居してるよな」
 と僕が答える。さゆりは歌を「演じる」タイプの歌手だと思っている。ことに女の情念ものに際立つが、作品のヒロイン像を身をもって演じ切ろうとするのが特色だ。そのせいか彼女にはいつも、新しい意欲的なシナリオを欲しがる気配が強い。
 作品によって自分の色を変え、独特の存在感を作りたいせいだろう。かつては彼女のそんな欲求を吉岡治や阿久悠や三木たかしらが満たして来た。昨今は前作「ああ...あんた川」の吉幾三や今回の喜多條・杉本が呼応した形になるのか。
 三木たかしの最後の傑作になったと信じる「凍て鶴」とは少々違うが「女人荒野」が詞、曲、編曲(坂本昌之)歌ともに、足並みを揃えた意欲作であることは確かだ。何をやってもCDが売れないと嘆きながら〝売れ線もどき〟づくりに腐心するよりは、市況など度外視して、意欲作、異色作を世に問う蛮勇も、この時期重要なことと思うが、いかがなものだろう?
週刊ミュージック・リポート