新歩道橋939回

2016年2月27日更新


 《集団就職列車なあ...》
 作詞家坂口照幸と話していて、ふと胸の詰まる思いをした。2月19日「USEN・昭和チャンネル」の録音でのことだ。彼は長崎・松浦市からその列車に乗って、名古屋へ出たと言う。昭和30年代、列車は全国の地方から都会を目指した。中学を卒業したばかりの男女をぎっしり詰め込んで、若い労働力の獲得、移送である。
 井沢八郎の「ああ上野駅」が、そんな若者の都会暮らしを歌って、ヒットしたのが39年。50年以上も前のことだから、昨今、カラオケで歌う人もめったに居ない。しかし、僕の身辺にはそんな青春時代を持つ男は、ざらにいる。例えば〝巷の名手〟と呼んでいる歌手新田晃也は福島・伊達から東京へ出た。民謡調の作曲で一部に認められている榊薫人は、仙台在からその列車で上京している。新田はパン屋、榊は板金工場で働いたが、歌への夢に突き動かされて、新田はネオン街の弾き語り、榊は新宿の流しから今日へのきっかけをつかんだ。
 坂口は夜学の高校から大学へ進み、やがて作詞家を目指す。小学校高学年のころ、森進一の歌と生い立ちを知って心動かされていたと言う。大学を1年で休学、独学のお手本にしたのは単行本の「阿久悠の実戦的作詞講座」の上、下巻。あれはスポニチ時代に僕が企画、毎週土曜付け紙面に2年間連載したもの。ふた月で1人、スター級の歌手のための詞を公募、レコード化を狙って、都合12人の歌を作った。越路吹雪、菅原洋一、研ナオコ、前川清、美空ひばりらがターゲットで、ヒットメーカーの阿久悠が彼の作詞法を具体的に全開陳したから、作詞家志願者のバイブルになったはずだ。
 「へえ、そうだったのかい」
 「そうだったんですよ」
 坂口との問答は、そんなふうに進んだ。「昭和チャンネル」の僕の番組は、主に作詞家や作曲家をゲストに、代表作20曲余をまじえながら、その半生に触れる企画。5時間近くの語りおろしだから、毎回レアな話の連続になる。苦労話が多い中でも、坂口の場合は極めつきで、上京して吉岡治の運転手兼内弟子になるのは30才目前。デビュー作、大杉美栄子の「雪つばき」が昭和62年だから、相当な遅咲きで、今年58才、作詞生活は28年になる。
 歌書きたちは...と言うよりは、当時の男たちはみな〝心の飢え〟を生き方、考え方のバネにした。就職列車に乗らないまでも、作曲家の三木たかし、浜圭介、弦哲也、岡千秋、作詞家の池田充男、荒木とよひさ、石坂まさをら旧知の歌書きは全員、心の漂泊を体験「なにくそ!」と歯がみした青春時代を持っている。船村徹や星野哲郎も、人後に落ちない反骨の人だ。
 〝飢え〟は心だけではなく、実際喰えない時期が続いた。スポニチのアルバイトのボーヤ時代、空腹のあまりJR王子駅から飛鳥山の坂が上れなかったのが、今となっては僕の笑い話。そんなころ、道ばたに10円玉を探したと言ったら、元コロムビアの制作のボスでミュージックグリッド社を興した境弘邦は、ひもにつけた磁石で道をさらったそうな。そのうちにお隣りの彼のコラム「あの日あの頃」にそんな話が出て来るかも知れない。
 〝涙が演歌の道づれ〟だとすれば〝飢えは男の起爆剤〟だ。なかにし礼は大連からの引き揚げの無残を抱え、歌を書く営為を
 「世の良風美俗に一服の毒を盛る」
 と言い放ったことがあるし、万事順調に見えた阿久悠も、歌を書く本意を、
 「狂気の伝達でしょう」
 と語ったものだ。〝毒〟も〝狂気〟も、心の飢えが発酵してこその産物だったろう。
 2月、一緒に芝居をしている大衆演劇の座長門戸竜二は孤児の育ち。生き別れた親が気づいてくれれば...と、本名で舞台を踏んだというのも胸を衝かれる話だ。
 見回せば若者たちは現在、衣食満ち足り、物みなすべて手にすることが出来る平穏の日々に育った。しかし、世情も政情も、昨今、あきらかに混迷、不穏の気配を強め、剣呑な空気がしのび寄っている。歌は世につれるが、世が歌につれることはありえず、それは時の権力につれるものだろう。こんな時代の潮目の変化は、若者たちの心に、一体どんな新しい〝飢え〟を育てていくことになるのだろう?
週刊ミュージック・リポート