彼は扇子を胸の前でバタバタさせながら、よく美空ひばり家へ現れた。
「よォ、おす...」
居合わせた誰に言うでもないあいさつは、そんな一言。昔、ひばりの実弟哲也の不祥事から、一家が孤立していた時期も、彼の行動は変わることがなかった。ひばり母子と親交があったNHKの製作者たちが、その周辺から一斉に姿を消しても、人なつっこい笑顔で、彼だけが出没する。それは彼一流の男気だったろうか。
3月30日が通夜、31日が葬儀で、僕らは彼、飯田忠徳氏を見送った。式場は外房線鎌取駅から車で10数分の千葉市斎場。彼の肩書きは「元NHK総務局特別職部長」葬儀委員長は元NHK会長の海老沢勝二氏で、喪主は夫人の菊江さん。
《たしかに特別だったな。忠さんは、フリーパスで会長室へ出入りしていた...》
通夜で焼香する弔問客に、目礼する海老沢会長の赤い眼と眼を合わせながら、僕はふとそんなことを思い返した。
「この人も、茨城育ちで、同郷の友だちですわ」
飯田忠さんに、会長を何回も紹介された。作曲家船村徹の歌供養の席とか、大きな行事がある都度のこと。間にかなりの時間がはさまれてはいたが、以前に紹介したかどうかなど、彼はまるで斟酌しない。だから僕は、海老沢氏の名刺を何枚も持っている。
キーワードは「茨城」だった。会長と忠さんは茨城の同郷人。それが信じられないほどの絆の強さの素になっていて、忠さんは扇子をバタバタと局内も歌社会も、独自の言動で闊歩した。会長との関係を誇示する訳でもなく、それに図に乗る気配もなく、人当たりは愛すべき忠さんのまま。しかし、彼の忠勤ぶりは、人前でもそれとはっきり判る挙措で、会長も当たり前みたいに受け止めていた。強固な意志の疎通と信頼をうかがわせて、僕にはそれが、近ごろ稀なサムライの主従に見えた。
通夜の席には、歌社会の重鎮が顔を揃え、五木ひろしや大月みやこの顔も見えた。スポニチの後輩の元尾や島倉、日刊スポーツの笹森記者も居る。小声で交わす会話から「紅白」の二字がもれたりして、彼らと忠さんとのつき合いの一端がしのばれる。会長との太いパイプが情報源としての思惑を生んだが、結局親しまれたのは、忠さんの人柄だったろう。お清めの席の隅で、ひばりの息子加藤和也と有香夫人の涙が止まらない。僕は少しの間、和也の肩を抱いた―。
忠さんと僕のつき合いが深くなったのは、ひばり家周辺でのこと。社会復帰した哲也に僕はきつい注文ばかりした。ことに以後の交友関係については、以前の仲間と距離を置くこと。
「そうしないと、またひばりの弟が...というネタになって、姉さんに迷惑をかけるぞ」
と、言わずもがなの念まで押した。ひばり母子と長い親交があっての差し出口だ。そんな時期、哲也と忠さんは肝胆相照らす仲になった。昼も夜もの親密なつき合いが続き、忠さんは生まれた息子を「哲也」と名づけたほどだ。一匹オオカミふうなお互いの気風がハモったのだろうが、ここにも忠さんの男気が見てとれる。その親交は哲也の没後、彼の実子である和也に引き継がれていた。通夜、葬儀に和也が泣くはずである。
通夜のあと、
「車持って来てますけど...」
と言う夫妻の申し出を辞退して、僕はテナーオフィスの徳永廣志社長と電車で帰った。鎌取から逗子へは総武快速と横須賀線が相互乗り入れしていて一本道である。グリーン車に乗り、ハイボールの缶を求めてお清めの雑談。
「トク、忠さんは71才、お前と同い年だったんだな。はじめは俺と同じくらいかと思ってたけど...」
「小澤社長も3月に亡くなったでしょ。忠さんと同じ年くらいじゃなかったですか...」
トクは小澤音楽事務所社長の小澤惇を親とも兄とも追慕する男で、僕らは3日前の27日に、小澤の7回忌しのぶ会をやったばかりだった。
忠さんの通夜の30日は、昼の気温が22度ですっかり春。そう言えば、作詞家の中山大三郎も春に見送った。満開の桜の季節にはなぜか、いい友人が逝くものだ...と、二人はしばらく無口になった。
