新歩道橋944回

2016年4月23日更新


 自称〝暴走老人〟の元東京都知事・石原慎太郎氏が作詞家として登場した。4月12日、東京・品川プリンスホテルのステラボールで、五木ひろしが開いた新曲発表イベントの舞台。石原氏が作詞、五木が作曲と歌を手がけた「思い出の川」を生の歌唱で聞き、
 「いい歌だ、ジーンと来た。これで晴れて死ねるよ」
 と、ジョークまじりの発言。いつになく如才のない言動で、集まった500人の五木ファンを喜ばせた。
 5行詞3コーラスの惜春歌である。昔、弟の石原裕次郎のために書いた「狂った果実」を思い起こしながら、さぞやさぞ...と身構えて聞いたら、拍子抜けするくらいシンプルな詞で、すっきりした筆致。川の岸辺に立って「失いし恋」や「過ぎゆきし青春」を回想し「あの人」や「あの友」は今どこに...と語る。新しい歌づくりの気負いなどなし、いかにも文学者らしいケレン味もなしで、これがおん年83才の率直な感慨なのか?
 それがかえって、流行歌の定番としては生きた。
 「これが語るべき詞で、歌いあげない方がいいと思った」
 という五木の曲づくりはツボを心得た処理で、歌唱も実に細やかで穏やか。「小さく歌って大きく伝える」歌の極意のひとつを示し、聴いたあとにしみじみ、すがすがしさを残す抒情歌になった。
 実はこの歌が出来上がった夜、五木本人から電話を貰っていた。珍しいことだから何事か? と思ったら、
 「石原先生とまた会って歌が出来た。14年ぶりですよ。これも縁というものだと思って...」
 と、声がはずんでいた。そう言えば...と思い出す。三宅島が大災害にあって、島民が東京へ避難していたころ、当時の石原都知事の意を汲んで「望郷の詩」というのをプロデュースしたことがある。三宅島の長谷川村長の原案で、作詞が阿久悠、作曲と歌が五木。2003年5月、CDを出した五木と知事が大いに意気投合したものだ。
 同じ田園調布に住む二人が、ぱったり再会したのが昨年5月、行きつけのレストラン。それが今回の歌づくりの発端になったというから、確かに合縁奇縁には違いない。それにもう一つ、五木の電話の声がはずんだのは、作品への自信だろう。
 「いい歌が出来た!」
 そんな実感が伝わる声音だった。
 《へえ、それはよかった...》
 と、一件をやり過ごし気味だった僕が、五木とたまたま出会ったのが、3月30日で、元NHKの飯田忠徳氏の通夜の席。
 「発表会の知らせ、行ってる?」
 と聞くから「いや...」と答えたら、マネジャーが飛んで来て、翌日には品川プリンスの会の通知がFAXされて来た。石原氏は最近出版した「天才」が、田中角栄元首相の人間と業績を描いてベストセラーの呼び声が高い。仇敵と目されていた間柄だから意外性も強く、にわかに角栄氏再認識の時の人めくことに興味もあって、出かけた。
 そんな角栄論も一言あって、石原氏が歌好きの一面を垣間見せたのは、島倉千代子の「思い出さん今日は」の三番の歌詞を諳んじてみせたあたり。
 〽誰かの真似して小石を投げた、ポチャンと淋しい音がした...
 に始まって、
 〽つまんないのよ何も彼も、あの日は遠い夢だもの...
 まで。自作の「思い出の川」にまつわる老境の感慨を語るひき合いに出したのだが、星野哲郎のこの詞が、強く印象に残っているらしい。それにしても古い歌の歌詞を1コーラス分、淀みもなく口にするあたりは、なかなかの思い入れと言わざるを得まい。
 「しかしねえ、このごろの若い連中、シンガーソングライターの歌か? みんなつまらねえなあ」
 とバッサリやれば客席から拍手がわく。記者団の取材は二人を囲んで、舞台上で展開した。集まった五木ファンには、これもまた妙に生々しく、風変わりな趣向だったろう。
 「これでまた印税が入る。次の詞ももう五木君に渡してある」
 この日ばかりは悦に入ってか石原氏、ほとんど暴走なしの好々爺ぶりだった。
週刊ミュージック・リポート