新歩道橋952回

2016年7月3日更新


 芸映の青木伸樹会長が亡くなった。その一報は元RCA―テイチクの佐藤裕一氏からの電話。深夜に留守電で聞いて、ふっと体中の力が抜けた。スポニチの駆け出し記者時代からずっと目をかけて貰った恩人の一人だ。翌日、事務所からの訃報がFAXで届く。6月12日に心不全で亡くなって享年90才とある。何はおいても焼香にかけつけなければならない―。
 6月12日の通夜は遺らずの雨。世田谷の勝国寺青龍殿には、弔問の列が長く続いた。葬儀委員長が田邊エージェンシー田邊昭知社長、世話人がイザワオフィス井澤健代表とバーニングプロダクションの周防郁雄社長。歌社会最大級の顔ぶれで、青木さんの大きな実績と人望への敬意がしのばれる。
 《歌社会、最後の大物ということになるか...》
 僕は来賓席の一隅で、青木さんの逆鱗に触れた一件を回想する。あれは芸映所属の西城秀樹の「ヤングマン」と新栄プロが後押しするジュディ・オングの「魅せられて」が、レコード大賞を争った昭和54年のことだから、37年前のことだ。
 暮れ近く芸映の鈴木力専務(当時)から、電話が入った。
 「レコ大のことで社長(当時の青木氏)が相談したいと言ってる。いつがいい?」
 僕は一瞬ウッ! と詰まった。俳優の伴淳三郎にかわいがられたのが縁で、芸映の人々とは親交を深めていた。所属する松尾和子、大津美子らベテランや西城、神野美伽らとも仲良し。陰にいつも青木さんの温情があった。大体、パーティーの席などで、この人に声をかけられるだけで周囲の眼の色が変わる。記者としてはこの上ない引き立てである。温和だが率直、歯に衣きせぬ青木さんのことだ。会えば話はレコ大票集めの細部にわたり、審査員個々への対応についてまで、腹を割った内容になるだろう。
 一方で、新栄プロの西川博専務からも同じ電話が入っていた。こちらの西川幸男社長(当時)からも、並ではない知遇を受けていた。日本クラウンがスタートした昭和39年からのことで、青木さん同様、レコ大作戦については、水面下の動き等であけっぴろげになるはずだ。審査員の一人としては動きの取れない板ばさみである。
 「申し訳ないけど、年内は伺えません。年が明けたらごあいさつに行きます」
 僕は双方に同じ返事をした。二人の大物から腹蔵のない話を聞き、
 「そういうことだ、頼むよ小西ちゃん」
 と言われても、僕には1票しかない。どちらに投票しても、一方を裏切ることになる。それなら双方に会わぬ不義理をしたうえで、自分なりの票を入れさせて貰うしかあるまい...と、これが僕の苦渋の結論だった。
 「長いつきあいなのに、顔を見せることさえ断るのか!」
 案の定、青木さんと西川さんは激怒した。双方信義第一の人である。そのままほおかぶりの僕は西城に投票する。彼が芸映の子飼いであり、ジュディは新栄の頼まれものと読んでのこと。結局レコ大はジュディが獲ったが、両社長の怒りは賞の帰趨とは関係なく収まるはずもない。僕はその年で審査を降り、後輩の百瀬晴男記者に後を託した。
 「お前も先行き、このくらい大物に認めてもらって立ち往生したら、後釜につなげろよ」
 という忠告つきである。
 西川さんのパージが解けたのは、その後藤圭子が新栄に移籍して相談を受けた時。青木さんとは会合で会っても、こちらが遠慮がちになった。それから21年めの平成12年、僕がスポニチを卒業する暮れに、青木さん、鈴木さんから思いがけなく慰労の食事に呼ばれる。開口一番、
 「その節は不義理をいたしまして...」
 と僕が詫びると、
 「あああの件なら、翌年に西川さんが事務所へ来られて...」
 と、間髪を入れぬ青木さんの発言、一件から長い年月のあとの会話がこれだった。
 通夜の青木さんの遺影は笑顔が穏やかだった。
 「会長! 僕は本当にあの夜、許して貰えたんですか? そう甘えていいですね!」
 僕はそう問いかけながら合掌した。新栄の西川会長もすでに亡く、残された僕はとても寂しい。
週刊ミュージック・リポート