新歩道橋964回

2016年11月5日更新


 やっぱり話は〝心友〟高野公男のことで終始した。文化勲章受章が決定した作曲家船村徹の記者会見。10月27日午後、代々木上原の日本音楽著作権協会(JASRAC)の会場はおめでたムード一色。彼はこの協会の名誉会長だ。
 「大勢の先輩たちの忘れものを、私が拾って届けることになったような感じで...」
 と受章の感想を切り出し、私なんかが...と続けた船村の語尾が揺れる。もともとシャイで、いつもなら冗談まじりになるのが、事が事だけに慎重に言葉を選んでいる。大衆音楽がこういう形で認められた光栄と嬉しさは限りないが、84才、手放しで喜んだりはしにくいのだろう。
 春日八郎が歌った「別れの一本杉」でブレーク、気鋭の歌書きコンビとして登場したのが船村と作詞家の高野公男。しかしその翌年の昭和31年9月8日、高野は26才で亡くなっている。船村は24才だった往時を思い起こして、今回の受章はまず、高野の霊に報告したという。
 「なにしろ敗戦の8月15日以降、日本の国がどうなり、みんながどう生きていけるのか...」
 という混乱の中で、出会った二人が
 「焼野原で働いている人たちのために歌を作ろう」
 と誓い合い、高野が出身地の茨城弁で書く詞に、船村が出身地の栃木弁で曲をつける歌づくりが
 「きょうまで続いて来たようなもので...」
 と作曲生活を総括する。記者たちの笑いを誘ったのは
 「若い人たちの運動会みたいなものもいいけどねえ...」
 という昨今の音楽状況の捉え方。それはそれとして認めながら、
 「日本語のすばらしさを生かし、伝えることで、今まで通りのお手伝いをしたい」
 というのが、問いに答えた作曲家としての〝今後〟だと言う。
 それにしても、大変な一年になった。心臓手術であわや...の危機を脱したのが5月6日、茨城・水戸でやった「高野公男没後60年祭演奏会」の舞台裏は車椅子。加齢のせいもあり、極度に落ちた体力回復と歩行のリハビリ中に、今回の吉報である。11月3日は天皇陛下から勲章を拝受するのだから《しっかり歩いてうかがう》と覚悟を決めた。
 そんな船村を笑顔にしたのは、弟子たちの活動。鳥羽一郎を筆頭に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会が、2日前の25日、九州の天草市民センターで「頑張れ熊本! チャリティー公演」をやった。それぞれが師匠から貰った作品を歌い、内弟子ぐらしの話もしながら「別れの一本杉」「矢切の渡し」「風雪ながれ旅」「おんなの宿」など、船村の代表曲でノドを競った。
 鳥羽がほぼ3年、あとの4人はみな10年前後、船村の身辺で暮らし、学んだから〝義〟も〝情〟も十分に心得ている。それが相談して決めた催しで「ぜひ僕の故郷で」と三男格の天草が受け「よし、行って来い!」と師匠から背中を押された。歌唱は鳥羽の「晩秋歌」「海の祈り」がお手本なら、応分の力量を持つ4人の弟分たちも、緊張と昂揚でビリビリ状態。誠意がもろに歌に出るから、昼夜2回、満員のファンも呼応して大喜びだ。
 《船村一門らしい、いいショーになった》
 と、同行した僕は感じ入ったが、チャリティー金額「450万円!」には、受け取った熊本県の小野泰輔副知事、中村五木天草市長が驚き、会場がどよめいた。聞けば歌手たちはノーギャラで旅費宿泊費も各自負担。入場料から会場費と制作費を差し引いた残り全額が寄付されている。
 熊本空港から益城町を回り、緑川沿いに天草へ入った。瓦礫の山はあちこちに残り、一階がつぶれた家もそのまま。屋根をブルーシートでおおった家には人影もなく、大小の川岸には土のうの列。車で行く道路も改修したとは言えがたがたで、復旧、復興にはまだまだ遠い。そんな惨状をまのあたりにすれば、
 「収益の一部をどうぞ...なんて言ってられませんよ」
 と道々、鳥羽がボソッと言い、ゲストで駆けつけた森サカエが大きくうなずいたりしたものだ。
週刊ミュージック・リポート