新歩道橋965回

2016年11月20日更新


 「大阪しぐれ」の歌詞はけっこう隙間があったなと思う。それでは作詞家吉岡治は、先輩の石本美由起同様に、そんなタイプの書き手で、作曲した市川昭介や歌い手に事後を託したのか? いや、あながちそうでもない。「天城越え」はどんどん隙間を埋めて、歌づくり合宿をした作曲家の弦哲也を閉口させているし...。
 千葉・大綱のサクラホテルで、深夜にぼんやりとそんなことを考えていた。BS朝日の「昭和偉人伝・吉岡治」のビデオ撮りで、彼についてしゃべったのが10月31日の午後。そのあと千葉へ移動したのは翌11月1日、季美の森ゴルフ倶楽部で彼の7回忌メモリアルコンペに参加するためだった。丸2日、吉岡治漬けである。
 〽くもりガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか...
 は、吉岡の「さざんかの宿」の名文句。昔から演歌書きたちは、歌い出しの2行をどう決めるかに腐心している。それが歌の入り口であると同時に、作品全体を象徴して聴き手の酔い心地を決定的にするせいだ。「くもりガラスを拭いたって、何も見える訳がないじゃないか」などと、即物的な感想を持った向きもあるやに聞いたが、それは詩情とか情感とかに遠い人の受け止め方で、大衆はためらわずにこの歌を支持した。
 メモリアルコンペには25人が参加。こぶりな規模だが吉岡と親交があった面々が揃い、いかにも彼を偲ぶ催しらしい雰囲気になる。ゴルフに参加しなかった向きまで、終了後の宴に遠路はるばる参加したのも、吉岡の情の熱さを思ってのことか。みんながそれぞれの思い出話をしての〝噂供養〟で、優勝した元ビクター制作部長の朝倉隆が、自分のゴルフではなく、もっぱら遊びのグループ〝仲町会〟を語ったのもそのせい。吉岡はこの会の有力なメンバーで、朝倉は永久幹事。この日は昼すぎまであいにくの雨だったが、
 「こんな雨の日にやっていられるか!」
 と、昔、吉岡が伊豆あたりのゴルフ場で、勝手に途中リタイアしたのを思い出して、僕はクスクス笑った。
 4位になった弦哲也が、吉岡との仕事を187曲と言い切ったのには驚いた。そんなに沢山...とびっくりし、この日のために数えなおしたのか...と、彼の吉岡思いと律儀さに感じ入る。
 〽聞こえるはずない汽笛を聞いて...
 の歌い出しに、行き暮れた女の嘆きを聞く思いで、僕が好きな「越前岬」の作曲者岸本健介は、宴会のみの参加だったが、
 「あのヒットのお陰で、作曲を諦めるかどうかの迷いを吹っ切ることが出来た」
 としみじみした。そう言えば吉岡も「真っ赤な太陽」「八月の濡れた砂」「真夜中のギター」のあと、作詞を断念しかけていた。おりからのフォーク・ブーム、GSブームに対して、演歌歌謡曲の存在理由に疑問を感じてのこと。それが新宿での談論風発で「演歌の娯楽性」に思い当たり、眼からウロコが落ちたと後に話していた。行き詰まる後輩に優しかったのは、そんな体験を持っていたせいか。
 《あいつが居ればその間の事情を、くわしく聞けたのに...》
 僕は当時の吉岡の議論相手だった中村一好プロデューサーまで、ついでみたいに偲ぶことになる。
 コンペは吉岡夫人久江さんの3回忌もあわせて行われた。長男吉岡天平の発案に四方章人ら仲町会有志が賛同してのこと。宴に先立つ時間、天平を中心に吉岡家の人々が賞品を揃えるなど、一家総出で甲斐々々しかったのもほほえましい。メンバーは天平に夫人の真弓、息子の冬馬、吉岡の長女あすかと娘のあまなの5人。あまなは吉岡夫妻の孫で学習院大学生。かつて、役者の僕の付き人として明治座に一カ月通った。冬馬は夫妻が笑顔を見ぬままに逝った孫でまだ1才とちょっと。〝忘れ形見〟と言えようか。
 吉岡は自ら「後ろ向きの美学」を標榜、悲愁の中でかすかな救いを求める女心ソングを書く名手だった。その後、ブームみたいに不倫ソングを書く向きは多くなったが、みな彼の域にはほど遠い。
 《あれは結局、吉岡治という一つのジャンルだったのか!》
 僕はそう合点するが、それにしても寡黙で一見とっつきにくい男だった。天城白壁荘で彼が主宰した句会の彼の一句を思い出す。
 「霊柩車、春あわあわと雪纏い」
 やっぱり彼の美意識は暗めだったなあ...。
週刊ミュージック・リポート