新歩道橋972回

2017年2月19日更新


 1月31日の夜、奇妙な酒盛りをやった。シャレの呼びかけに集まったのは、小西会のメンバーを軸に28名ほど。場所は銀座5丁目の「いしかわ五右衛門」で、ここ10数年、僕が通いつめた店だ。集合を午後8時30分にしたのは、なじみの客がひとわたり、名残を惜しんだあとのいわば第2部。僕らだけで店を占拠、ゆっくりやろうという算段で、実はこの店、この夜で店じまいだった。
 食材の仕込みがしっかりしていて、腕のいい大将と若い衆が板場を仕切り、気のいいお女将が明るめの言動、居心地がいいのは(これが肝心だが)音楽が一切ないこと。うまい肴に気に入りの焼酎、連れとゆっくり話をするには、下手くそなカラオケなどもってのほかだ。幸い客だねが良いから、お追従のバカ笑いも聞かれない。自然に、居酒屋というよりは、小料理屋の趣きと風情があった。
 僕はもともと、ハシゴ派ではない。気に入った店があると脇目もふらずにせっせと通うタイプで、慣れて来れば自分の家みたいに振る舞う。それにはそれなりに、客としても気を遣うのだが、居心地をよくするためなら、さして苦にならない。「そうか、そうか」と合点して、よく一緒だったのは作詞家吉岡治夫妻。「のどぐろが絶品。他店では喰わなくなった」と唸ったのは、大阪から上京するたびの作詞家もず唱平。仲町会も宴を張ったから、弦哲也、四方章人、喜多條忠、若草恵、前田俊明、南郷達也ら作曲、作詞、編曲家勢と飲んだ。個人別では岡千秋、里村龍一、役者の松平健と真砂京之介、フラメンコの長嶺ヤス子...。そういや生前、三木たかしも来たか。
 憎っくきは東京オリンピックである。小池百合子都知事と組織委員会の森喜朗会長が睨み合い、丸川珠代担当大臣にIOCまでがからんですったもんだ。それを横目にゼネコンとその一派が、ウハウハ顔で大工事に熱中している。それが都内であっちもこっちも。五右衛門が閉店するのもそのあおりで、銀行の子会社がビルを買い取って早々の追い立て。周辺の土地と糾合して、そこそこのビルを建てる気らしい。店のすぐ前の旧松坂屋あたりは、巨大なビルに変身した。それもこれも五輪のせい...と、女将と僕らはお化け建築物を見上げて溜息をつく。
 僕はここ2~30年の間に、居心地のいい店を転々とした。いずれも赤坂だが、「井上」がなくなり、そこの板前が出した「英屋(はなや)」も撤退、キンキの煮つけが名物だった「あずさ」も店を閉めた。それぞれそれなりの理由があってのことだが、背景にあるのは安価で駄物の居酒屋の繁盛。若者たちは肴の味やコクだの、板前の腕や酒の品揃えだの、店の風情だのには無頓着。騒々しさも賑いのうちで、年配の先輩が心利いた店へ連れて来ても、おごり手が定年になればそれっきり。世代的に客の後が続かない。
 あのころは、阿久悠が隣りの席に居たなあとか、あの店では内田裕也とよく飲んだなあ...とか、そもそも、紹介してくれたプロデューサーの山田廣作は元気かなあとか、酔うと昔を思い返す。酒を会話の潤滑油にして、僕の夜はおおむね仕事の話や相手の相談事などを聞き、いずれにしろどこかで、歌社会のあれこれにつながる。飲んでまで仕事の話はしないと眉をひそめる向きもあるが、僕はその類ではない。心許して本音のやりとり、お互いの生き方考え方にも触れて「仕事」の二字で連想するほど、野暮でも功利的でもないのがミソだ。
 通い続けた店には、それぞれの時期の交友の痕跡があり、ある意味では時代の匂いさえ残る。それもこれも今やセピア色になりつつあるが、それをつなぎ合わせると僕の来し方の光景が、かなり色濃く鮮明で実感的だ。年寄りの世迷い言じみるが、僕はいつも、いい友だちに囲まれ、すごく才能のある人々と旬の時期の出会いに恵まれていた。手にした金はほとんど飲んでしまったが、今ではその体験が得がたい財産として僕の胸中に残っている。
 五右衛門に似た立ち退き話は、銀座のあちこちで聞いた。この盛り場にはやがて、横町や小路が無くなってしまうのか! 五右衛門の大将と女将は3月ごろ月島に小店を出すと言う。僕は春過ぎから、彼らのもんじゃを喰いに、通うことになるのだろうか?
週刊ミュージック・リポート