新歩道橋975回

2017年3月19日更新


 改めて船村徹を聴く。
 「やっぱりいいね。こういうふうにまとめるとなお、実にいい」
 元NHKの益弘泰男さんがしみじみとした声になった。3月1日午後の中野サンプラザホールの楽屋。モニターには今しがた飛び込んで来た鳥羽一郎の、音合わせが写っている。NHKが3月26日に放送する「昭和の歌人たち・作曲家船村徹」の公開録画。月は変わったが、2月16日に船村が亡くなってからまだ13日めだから、関係者には追悼の空気が漂う。
 さて本番。「別れの一本杉」「王将」「柿の木坂の家」「雨の夜あなたは帰る」「兄弟船」「あの娘が泣いてる波止場」「三味線マドロス」「ご機嫌さんよ達者かね」「男の友情」「東京だョおっ母さん」「おんなの宿」「ダイナマイトが百五十屯」「哀愁波止場」「ひばりの佐渡情話」「みだれ髪」「さだめ川」「紅とんぼ」「矢切の渡し」「なみだ船」「風雪ながれ旅」「女の港」「のぞみ(希望)」「宗谷岬」と登場順に23曲。2時間番組だからたっぷりめだ。
 歌うのは天童よしみ、大月みやこ、氷川きよし、島津亜矢、大石まどかに、鳥羽を筆頭にした静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の船村の内弟子5人会。船村とゆかりのある歌手揃いで、それが交互に彼の名作と取り組むかっこうだ。
 「へえ、あんたも辻堂の船村家にいたことがあるんだ...」
 と大石に言ったら、デビュー曲も船村メロディーだったと答えが返る。いずれにしろ企画が企画だから、歌手たちは気合いの入り方があらわ。「決める!」心意気が表面に出て、歌手それぞれのファンの反応も熱い。
 僕の出番は番組の中盤以降。司会の石澤典夫アナ・由紀さおりと、船村にまつわるエピソードを話す。例によって「年寄りの知ったかぶり」だが、スポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初取材したのが昭和38年秋。以来ひとかたならぬ知遇を受けて、僕の船村歴は54年になる。話すネタは山ほどあるが、僕が彼から学んだのは「物書く人の潔さ」で、こちらも教わるより盗めの日々。後年〝弟子〟を自称、やがて船村も笑って認めた。弟子としては北島三郎の後輩、鳥羽らの先輩に当たるから、内弟子5人会は呼び捨てのつきあいだ。
 《彼が抱えていたのは、戦死した男2人への無念の歯がみだな。》
 歌手たちのノド較べを聞きながら、僕はそんなことを考える。一人めは心友の作詞家高野公男。一緒に作った「別れの一本杉」がブレークした直後、高野は26才で夭折した。船村はその時24才、交友はわずか7年だった。歌謡界を征覇する野心の突然の中断、高野の死はまさに志なかばの戦死だった。もう一人は船村の実兄福田健一氏。終戦の前年、フィリピン、ミンダナオ沖で輸送船「長城丸」が撃沈され、23才で戦死している。年の離れた兄が吹くハーモニカが、船村の音楽への物心を誘ったと聞く。高野の命日9月8日は茨城・笠間の墓参を欠かさず、奇しくも同じ命日になった2月16日は、健一氏を靖国神社に訪れるのが船村の年中行事になっていた。
 《きわめて個性的な船村の哀愁メロディーの起点は、若くして死んだ2人への追悼と、無残に失われた彼らの青春を、引き継ぐ思いの深さだろう》
 僕はそういうふうに合点もした。美空ひばり、ちあきなおみに代表される女唄にその色が濃く、北島三郎、鳥羽一郎の男唄にも、勇壮の陰にひと刷毛、哀愁の色がにじむではないか!
 こだわらなければ流される。こだわり過ぎれば世間を狭くするのが、僕ら凡人の常だが、船村はこだわり抜いてその壁を突破、独自の世界を展開、発展させている。終生変わらなかった栃木訛りも、彼の出自の証明であり、高野が口にした、
 「俺は茨城弁で詞を書く。君は栃木弁で曲をつけろ」
 を遺言めいて守り続けている証しかも知れない。
 話はテレビ収録に戻るが、船村同門会の会長・鳥羽は、この日終始沈痛な面持ちだった。「別れの一本杉」や「のぞみ(希望)」を歌ったが、歌唱は粛然と作品本位に抑えめ。2月23日の葬儀で
 「おやじの魂は俺の体に入りました!」
 と弔辞を読んだ心境が、そのまま維持されている気配で、唯一、いつもの野放図さが垣間見えたのは、「兄弟船」の歌唱だけだった。弟分の4人はそれぞれ、歌い慣れた師匠の作品に寄り添って訴えるように歌った。
週刊ミュージック・リポート