新歩道橋981回

2017年5月14日更新


 「まだ、ちゃんと泣けてないのよ」
 亡くなった作曲家船村徹の夫人福田佳子さんが、ポツンと言った。彼が逝ったのは2月16日で84才。体調を崩してはいたが、突然の死だったから、衝撃の方が強かったろう。それから大掛かりな通夜、葬式。四十九日法要を営んで納骨したのが3月31日だ。佳子さんは船村の事務所喜怒哀楽社の社長でもある。それまでもそれからも、多忙を極めた。テレビやラジオは、ひっきりなしに追悼番組を組んでいる。映像では元気そのものの船村が、しみじみと自作を歌っている。だから喪失感がやって来ない。時にそれが来たとしても、ひたっている心のゆとりが、まだ無い―。
 夫人がワインを口に運ぶその右隣りで、僕はハイボールをちびりちびり。グラスを運んでくれたのは、二女の渚子さんだ。4月25日夕の明治記念館。開かれていたのは五木ひろしのレコード会社ファイブズエンタテインメントの創立15周年感謝の集いで「船村先生思い出の曲とともに」のサブタイトルがつく。五木は即、船村作品「わすれ宿」と「男の友情」をレコーディング、その翌日の26日に発売する間合いで、CDは追悼盤、催しは追悼の会にもなった。船村夫人はその主賓。会の冒頭にあいさつするのがお役目だ。五木への感謝と、多くの人々に船村作品が歌い継がれていくことが願いと、言葉は少なめで簡潔。その辺は船村そっくりだった。
 五木がステージで突然、涙で絶句した。会の中盤、彼と僕が船村との縁を話していた途中だ。五木が第一線に浮上したのは、伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」で10人抜きしたのがきっかけ。これはよく知られた話で、審査員の一人作詞家の山口洋子が乗り出し、スター歌手への道を開いた。もう一人の審査員が船村で、五木が「男の友情」を歌った5週目に、絶賛したコメントがこの夜披露された。淡谷のり子や評論家の竹中労も加わり、辛口づくめで知られた番組だが、辛口では人後に落ちぬ船村が、珍しくぞっこんの弁。
 「おめでとう、よく頑張ったね。君のような歌手は歌謡界において貴重だよ。みんなも彼を見習わなくてはいけない」
 往時の若々しい声が、要旨そんなことを言っている。それ以来、船村の存在そのものが、歌手五木ひろしの心の支えになった。
 生涯そうだったが、船村は嘆き、怒っている人だった。日本人が元来持っていた正しさ、美しさ、清さ、潔さ、厳しさ、貴さが失われ、軽佻浮薄に堕している時代そのものに我慢がならない。だから五木の背水の陣の歌唱と真摯さに心打たれたのだろう。実は亡くなった作詞家阿久悠にも、船村の怒りは共通していた。五木のファイブズエンタテインメントの旗揚げ作品「傘ん中」と「二行半の恋文」は、二人の作品。「国士」とも呼べそうな二人の「日本よ、日本人よ!」の心がスパークしたところに、意味も意義もあった。
 船村は古賀政男、西条八十らが作り上げた歌世界に挑戦した異端児。それが多くのヒット曲を生んだ実績で、ついには王道を極めた。そんな船村を仮想敵国の一人と想定してこの世界へ入ったのが阿久悠である。その後こちらも文句なしの実績で、新しい王道を築いている。いわば異端児二世代の組み合わせだったから、五木の新出発をプロデュースで手伝った僕も気骨が折れた。アルバム「翔・五木ひろし55才のダンディズム、船村徹、阿久悠とともに」14曲は、そんな作家同志の共感を戦いの中から生まれた。
 師事した作曲家上原げんとに無名のまま死別して、歌謡界の孤児になった五木は、山口洋子とマネジャーの野口修氏と出会い、徳間康快氏の知遇を得て第一線に浮上した。以後心の師とした船村と阿久のコンビ得て独立し、今日にいたる。端整で精緻な歌唱と一途な生き方があってこその成功だろうが、作曲家吉田正、作詞家星野哲郎、歌手美空ひばりも含めて、振り返れば貴重な縁に恵まれて来た69才だ。
 ステージの五木を見守って、佳子さんと渚子さんはしばしば目頭をハンカチで抑えていた。歌われた船村作品には、それぞれに尽きぬ思い出が積み重なっていてのこと。船村家の女性二人にとって、伴侶と父親を失った個人的な喪失感が腑に落ちるためには、まだ相当な時間が必要なのかも知れない。
週刊ミュージック・リポート