新歩道橋982回

2017年5月27日更新


 昔、かまやつひろしから、ミカンが一箱、自宅に届いたことがある。年の瀬近いころだが、彼からお歳暮がくるとは思えない。それから半月くらい後、当時溜池にあった東芝のスタジオへぶらりと訪ねたら、吉田拓郎も一緒に居た。「わが良き友よ」のレコーディングをしていて、ミカンの理由を聞いたら、
 「プロモーションですよ」
 と、かまやつが笑った。あの1曲に期するところあってのことと僕は合点した。それ以後かまやつからプレゼントが届いたことはない。その後、ここ一発! の勝負作がなかったということになるのか?
 5月2日、そのかまやつのお別れの会が開かれた。六本木のグランドハイアット東京でのこと。受付までに行列が出来、会場へ入るのにまた行列。1000人を越す音楽仲間が集まり、まるで人気絶頂のミュージシャンのコンサートみたいな賑いになった。それもそのはずで、かまやつが所属したザ・スパイダースが、11年ぶりにまた集結した。不謹慎かも知れないが、正直なところ僕も、彼らの雄姿!? との再会に、浮き浮きした気分になっていた。
 立錐の余地もない会場をかき分けて、僕は友人とかぶりつきに陣取る。最前列というやつは、取材する方もされる方も、面映さが先に立つから避けて来たが、この際そんなことは言っていられない。グループサウンズ・ブーム以前から、僕はジャズ喫茶に出かけ、ウエスタンカーニバル全盛の時期は日劇の、いずれにしろスパイダースの楽屋にいた。リーダーの田邊昭知と取材で知り合い、以後ずっと彼の客分の扱いを受けていた。ありがたいことに、かまやつも堺正章も井上順も、一目おいてくれて、休憩時間に彼らがポーカーに興じる隣りで、僕は田邊にすすめられた白土三平の漫画を読んでいたりしたものだ。だからこの日僕は、スパイダースそのものを、あのころのままの近距離で見届けたかったのだ。
 「フリフリ」「サマー・ガール」「ノー・ノー・ボーイ」「バン・バン・バン」と、懐かしい曲が並ぶ。笑顔を見せながら、そのくせ必死ではないかと思える田邊がドラムを叩く。髪は黒々としているが、額には大幅な奥行きが生まれている。キーボードの大野克夫は長髪のままだがこれがまっ白、リードギターの井上堯之は口ひげもあごひげも白い。ベースの加藤充は83才、最年長と聞けば「そうだろうな」と思える風貌になっている。井上が雰囲気変わらず、ステージ上の役割も変わらずに見え、やんちゃな言動がシックな紳士ふうに変わった堺と、ボーカルの二人はまだ十分に現役の気配。平均年齢75・6才だと言うが、6人が勢揃いすればそれだけで、ちゃんとスパイダースの存在感が濃厚ではないか!
 そんな中にかまやつを立たせてみると...と、僕はイメージごっこを始める。髪型かわらぬ彼はニタ~ッと笑って、ごく自然なたたずまいになる。ひょうひょうと融通無碍な男だった。スパイダースの解散でGSブームは終焉となったが、かまやつは拓郎と組むなどフォーク勢と合流、ニューミュージックの一角を占め、世代が変わってJポップ勢が台頭しても、ベテラン格としての座を確保していた。長年、それを可能にしたのは「彼の持つすぐれた音楽性」と、この日集まったミュージシャンたちは口を揃えた。西欧の音楽とその流れの変化を先取りし続け、体現したセンスもまた融通無碍だったということだろう。
 スパイダースのデビュー曲「フリフリ」は1965年のヒット。発売元は日本クラウンだったが、演歌歌謡曲中心のこの会社は、クレジットを「歌堺正章、井上順、演奏ザ・スパイダース」というように分けて表記した。「歌も演奏もひっくるめてスパイダースだ」とする田邊の言い分がどうしても通らないため、彼らはフィリップスに移籍したという、今になっては笑い話のエピソードが残っている。そんな時代からもう50年以上の年月が経過したが、この日のスパイダースは、あのころのカッコ良さをとどめて、少しも色あせていないのが愉快だった。そう証拠づけるみたいに会の最後は、かまやつの仲間や後輩の若手100人が「あの時君は若かった」を大合唱している。
 記者たちから出た「スパイダースはこれからも演奏するか?」という質問に、田邊の答えがふるっていた。
 「基本的にはもうないと思うけど、また誰かが死ねばやるかも知れない」
 会場の宙空から高笑いが聞えた気がした。もしかするとそれはかまやつ本人だったかもしれない。
週刊ミュージック・リポート