新歩道橋983回

2017年5月28日更新


 「和顔院釋感謝居士」が戒名。こんなに判りやすいタイプに初めて出っくわした。その字面通りに、穏やかな笑みを浮かべた遺影がカラーで大きめ。亡くなった友人、音楽プロデューサー山田廣作の密葬の祭壇である。5月15日が通夜、16日が葬儀で、場所は東京・高輪の浄土真宗・正満寺本堂。金色を主にした寺院装飾を背景に、菊花を2段重ねの祭壇で、棺と遺影の周囲が蘭の花でおおわれて全面白一色。実にすっきり、清潔感があって豪華だ。
 虚血性心不全で彼は亡くなった。5月8日のことだが、東京・経堂のマンションの一人暮らし。驚きあわてた山田ファミリーと、生前の彼の希望通りに、ごく内輪、身内だけの弔いを組み立てた。ふつうなら家族葬だが、75才の生涯を独身で通した故人だから友人葬の趣き。準備段階からそうなりそうと見当はつけたが、フタを開けて多岐にわたる参会者に驚いた。歌社会の面々が3分の1、他業種の紳士たちが3分の1、故郷福岡・大牟田の親族、知人、同級生などが3分の1で約70名。本人と親交のあった僕も知らぬ顔が揃う。
 《そういう男だったのだ》
 と、僕は合点する。歌社会の交友は狭いが深い。その傾向は他方面でも徹底していたらしく、集まった人々に親しさの気配が濃密だ。ゴダイゴで成功「珍島物語」「無錫旅情」「人生いろいろ」などのヒット曲連発で知られる辣腕プロデューサーだが、剛腕ぶりも相当なもので、鉄拳を振るった事件も二つほど。その都度本人の真意を確かめたが、もっともな言い分があるにはあった。
 「でもさ、一寸の虫にも五分の魂だけど、暴力沙汰を起こしちゃ、盗っ人の三分の利だよ」
 と僕がいなしたら、不本意な顔をしたものだ。
 頑固一徹、こうと信じたらテコでも動かぬ九州男児でマイペース、毀誉褒貶あれこれも意に介さないところがあった。それが中国や韓国、北朝鮮に出かけて歌づくりをしていると思ったら、晩年はケネディ一家と親密になり、ダライ・ラマ14世と組んで歌づくりと、妙な国際派になるから、正直なところこちらは目が回った。人との縁を大切にしたことが、めぐりめぐって発展した結果なのだが、相手の懐にスパッと入る名手で、それを許し共鳴する相手を見分ける才能にもたけていた。
 それが、盟友と信じた日音・村上司社長、相棒の作詞家中山大三郎に先に逝かれ、長く失意を語っていたが、昨年暮れに音楽界の大物・石坂敬一氏を見送ったのが、相当に応えたらしい。自身も頸椎の手術をしたあたりから体調をこわし、次第に往年の精気や気概を失っていてのこと。正満寺には早くから自分の墓を作り、住職に〝もしも...〟の依頼もしてあった。住職が昔、渡辺プロに所属、ハワイアンを歌っていたという粋人で、ウマが合ってか冒頭に書いた戒名も、山田の意を汲んだものと聞く。
 世に〝マザコン〟の男は多いが、山田の場合は〝老婆コン〟とでも言えそうな一面で知られた。上京して作曲家浜口庫之助の門を叩いた歌手志願の昔、謡曲と茶の作法を学んだ世田谷の有田のおばあちゃんとの縁がその事始め。息子同様の好遇を受けた恩を生涯忘れず、彼女の没後も供養を尽くした。歌手市丸や女優夏川静枝の晩年を親しく見届けたのもその流れか。正満寺にはもともと、有田のおばあちゃんの墓があった。その傍で眠る気の山田は、中山大三郎の墓もここに呼び寄せている。
 5月16日、荼毘にふした桐ケ谷斎場で、僕は彼の骨を拾う。生き方同様に太く立派な骨の山だった。ゴルフをやれば、地球をぶっ叩くみたいに頑健だった彼が、最後まで骨太な男の生き方を貫いたことに感慨が深い。粛々と後に続く男たちを見回しながら、彼の面倒見のよさと愛情の深さも再確認した。ハマクラさんのマネジャーだったころに知り合い、長い親交があった。作りたい歌を作って、まるで狙撃手みたいにヒット戦線を独歩した強面のスキンヘッドだが、素顔は繊細な感性と、生真面目で一途な生き方の男だった。それにしても、寂しさに耐え切れずに彼が、親しいお仲間の後を追って逝ったのだとすれば、残された俺たちは一体何だったんだよ? と、一言いいたい愚痴や未練が、澱みたいにこちらの胸中に沈んでいる。
週刊ミュージック・リポート