新歩道橋988回

2017年7月16日更新


 近ごろは、歌うこともあまりないが、ふと思い返すだけでジンと来る歌がある。小林旭が歌った「落日」で、落魄の男の真情が率直だ。なにしろ歌詞の一番で
 〽ままよ死のうと、思ったまでよ...
 とうそぶいた主人公が、三番で思い止まり、
 〽どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて、生きてみせると自分に言った。
 と筆致も痛切で、作詞したのは川内康範―。
 7月5日午後、東京プリンスホテルで開かれた作曲家北原じゅんの「お別れの会」で、僕はこの作品にまた出っくわした。87才で逝った北原の遺影に花を手向ける会場。音量薄めに流されていた曲の中のことで、北原の代表作の一つだ。旭の再起のために川内が書いたこの詞に、北原はどんな思いで向き合ったろう? 川内の侠気がズバリと簡潔だが、侠気なら北原も人後に落ちない。樺太(現サハリン)から引き揚げて、ヒットメーカーの地位を築くまで、そこそこの辛酸は体験、肚は据わっていたはずだ。
 シャイな人が居直ったように、言動きびしい人だった。一見気むずかし屋の彼が、胸中に秘めていた熱さや優しさは、知る人ぞ知る側面。しかし作品には、それが歴然としている。北島三郎が歌った「兄弟仁義」瀬川瑛子の「命くれない」水前寺清子の「ゆさぶりどっこの唄」美樹克彦の「回転禁止の青春さ」...。作詞者が星野哲郎、吉岡治らに替わっても、どの曲もみな北原流に熱い。メロディーの核にたぎる情があり、一気に語り尽くそうとする覇気がある。
 昭和39年に発足した日本クラウンの、若い旗手になった西郷輝彦のデビュー曲「君だけを」で北原も第一線に浮上した。当然、この社の専属になる。それが後年、東芝所属の実弟城卓矢に「骨まで愛して」を書いた。その時のペンネームが文れいじ。作詞が川内康範だし、溜池の交差点をはさんでこっち側とあっち側の2社にまたがる隠れ仕事。
 「ま、頭隠して尻隠さずみたいなもんでしょ」
 僕が冷やかしても本人は、ニコリともしなかった。
 親交が続いたのは「命くれない」あたりまで。その前後僕は、
 「絵を描いてる。見てくれ」
 「小説を書いた、読んでくれるか!」
 と、畑違いの仕事でよく呼び出された。
 《この人の情熱は、止まるところを知らないな》
 と、頭が下がる思いでいたら、お次は娘をプロゴルファーにする。教えるためのライセンスも取った...という話。守備範囲が違うから、熱烈父子をスポニチ運動部の同僚に託した。その後、心ならずも長いごぶさたのあとの訃報だった。
 《がんか! この病気だけは手に負えないな...》
 そんな思いに胸ふさがれながら、実はこの日、僕はもう一人、スポーツ報知の元記者細貝武氏の「お別れの会」に出席していた。68才の若さでこの人を逝かせたのもがんである。鼻めがねにチョビひげ、ひょうひょうとユーモラスな言動が、長く歌社会の人気を集めていた。飲んべえでカラオケ好きで、やたらタッチする女好きのご仁。あいさつした小林幸子や川中美幸がそれに触れると、会場にはクスクス笑いのさざ波が立つ。しかしこれが同時に、腕ききのスクープ記者で、物書きとしてもなかなかだったから、ライバル紙同志だが、妙にウマが合った。若いころ、
 「スポニチへ呼んでくれないかな。一緒に仕事をしたいんだ...なんてね」
 と言われたことがある。もともと冗談まじり多発の人だから、こちらは真意をたださぬままにした。
 細貝氏の会は歌社会のお歴々をはじめ、レコード会社、プロダクション、物書きなどスタッフ系が大勢集まって、彼の人柄をしのばせた。一方の北原の会は、北島、西郷、水前寺、美樹、瀬川らスターたちに叶弦大、新井利昌、たかたかし、水森英夫、幸耕平ら作家たちも顔を揃えて、粛々とうわさ供養の趣きがあった。
 2会場でアルコール分も少々...の僕は、この日、続く仕事バタバタの中で、また川内康範の一言を思い出す。
 「いま、わがふるさと日本は、確たる国家経営の指針を持たず、伝聞、妄想の中に在る」
 平成5年に彼が書いたものの一部だが、昨今の政治的ゴタゴタを見事に言い当ててはいまいか!
週刊ミュージック・リポート