新歩道橋990回

2017年8月11日更新


 山崎ハコのアルバム「私のうた」を聴く。昔々、あの「織江の唄」に泣かんばかりの思いをして、以来ずっとファンになり、親交がある歌手の近作だ。1曲目の「ごめん...」は、ギターを爪弾きながら歌う彼女が、すぐ目の前にいる気配でクリア。どうやら死んでしまった男が、悲しむ女に「ごめん」と言っている情景を歌う。ひたむきな歌声があのころのままで、切ない。「一位の恋」もひなびた淋しさをたたえ、恋を失った女が眺める「街の灯・ゆらり」はアップテンポでキュート。続く「森のスクリーン」はボサノバ「セピアは光る」は、彼女なりのロックンロール...。
 いきなりドカン! と大きな音がして、臆病者の雌猫パフが一目散で逃げた。7月26日夜、気づけば葉山は花火大会。ハコを聴くことを中断してベランダに出れば、眼下の海の裕次郎灯台の向こう側、台船から空へ次々と光の花だ。いつもは友人が集まって、大酒盛りになるのだが、この夜は僕一人。芝居あがりの疲れが出ているし、締切りを過ぎた原稿が2本ほどある。海の上の狭い場所から打ち上げるから、花火も当初は単発。子供のころ田舎で見たような地味な趣きが、ハコの歌の余韻に似合わなくもない―。
 ずいぶん久し振りに彼女に会ったのは、7月8日、NHKホールの「パリ祭」会場。S席1階C1列20番の僕の隣りへ、彼女は開演ギリギリに入って来た。小柄やせぎす、顔中マスク、もしや...と思ったが終演まで知らぬ顔をした。菅原洋一が「愛の讃歌」で年に似ぬ快唱をすれば、音楽的基礎体力!? の確かさを思い、加藤登紀子の「雑踏」は、近ごろの彼女の歌の弾け方が好ましい。堀内美希、滝むつみの健在を喜び、佐々木秀実の歌が大ホールにやっと似合ったことにヤレヤレ...と、友人たちの近況のあれこれ。
 「やあ、しばらく...」
 と、ハコとごぶさたのあいさつをしたあと、僕は彼女を7月23日午前の中目黒キンケロシアターへ誘った。何回かこの欄に書いたが、路地裏ナキムシ楽団公演「あの夏のうた」をやっていて、僕がかなり泣かせる役で参加している。「ウン、行くよ」と彼女は快諾したが、災難はどこででっくわすか判らないとも思ったろう。劇場には楽団と僕あてに立派な花が届いて、見に来た彼女はまた顔中マスクのまま、
 「よかったよ、ウン...」
 と笑ったものだ。
 葉山の花火は夜7時30分ごろから1時間ちょっと。マンション5階の僕んちは、それと正対する特等席で、僕は焼酎三岳のオンザロックと、手に入れたてのIQOSをくわえ、奇妙な味の煙をプカリプカリだ。ひなびた花火も大詰め10分ほどは、それなりの豪華さを演出する。マンション前は、一方通行の細い道路に防波堤。見物客の大人が寄りかかるのにちょうど良い高さで、それより二、三歩手前で子供たちが、時おり歓声をあげた。
 18才でデビュー、20才くらいで辞めるのではないかと言われたハコは、歌手歴42年。どうやら還暦。
 《もう、そんなになるのか...》
 と、感慨少々でまた、アルバムに戻る。一人風に吹かれて涙がかわくまで、丘の土で...という女の「鳥に帰る」も、詠嘆の色が濃いハコ節。「歌ひとつ」では、歌うには勇気が要る、恋をするには覚悟が要る。あなたに届け私の歌...と、歌い続ける決意を語る。そして表題曲「私のうた」は、泣いて歌をせがんだ子へ、メチャクチャな子守唄だが、あなたへの子守唄だ...と、自作自演の歌の意味合い、位置づけを語った。
 〝暗い少女〟はイメージ戦略だろうが...と、彼女はパンフレットに書いている。戦略でも何でもいいよ...と僕は考える。「織江の唄」で受け取ったあのイメージは、そのまま僕の脳裡に沈殿しているし、その延長線上で今も、僕は僕のハコを聴く。市井で傷つきながら生きる日々への悔恨を、率直な詞とシンプルな曲で綴るハコの真実は、人間そのもののいじらしさの美学みたいに、今もこのアルバムを貫いているではないか!
 さて、「青春ドラマチックフォーク」を標榜するのが我がナキムシ楽団の面々。それが大先輩の山崎ハコを客席に迎えて、いつにない緊張と昂り方を示したのが愉快だった。
週刊ミュージック・リポート