新歩歩道橋991回

2017年8月27日更新


 「おっかあ、そこんところ、よろしく頼むよ」
 鳥羽一郎が口にした懸念は弟分の歌手静太郎、天草二郎の今後。「おっかあ」と呼びならわしている相手は喜怒哀楽社社長の福田佳子さんで、亡くなった作曲家船村徹夫人だ。同席した静がウンウンと肯く。天草はテレたような微笑を浮かべた。万事判っている! の面持ちなのは、船村の長男で作、編曲家の蔦将包―。
 8月15日午後、神奈川・辻堂の船村宅に集まったのは、鳥羽一郎を筆頭にした内弟子5人会の面々。彼らの師匠(おやじ)船村の初盆の法要がある。玄関を入ったすぐの左側、広い応接間兼リビングルームが、今は仏間になっている。正面の仏壇には、船村のものに加えて、福田家先祖代々、戦死した長兄福田健一氏や夭折した盟友の作詞家高野公男の位牌が並ぶ。周囲には思い思いの供花が彩りを添え、ほどのよい供え物の山。長嶋茂雄のスタジャンや松井秀喜のユニホームが眼をひく。巨匠の〝お宝〟だ。ところどころにありし日の船村の笑顔の写真...。彼の催しには珍しく雨で、それが記録的に続いた一日、お盆の書き入れで大忙しの泉蔵寺住職の読経を受けて、僕らは焼香した。
 まだ明るいうちから、すぐに追悼の酒になる。仏間の左側に向き合わせのソファーが10余人分。その正面で皆と正対する席が船村の定位置だったが、今は僕が座る。外弟子歴54年、僕は鳥羽らの兄弟子を自他ともに認じていてのこと。少し酔いが回ったところで鳥羽が、冒頭の発言をした。静と天草のための新曲をぜひ...という懇請である。最後の内弟子村木弾は、船村の最後の作品「都会のカラス」を出したばかり、その上の走裕介は、ほぼ定期的にCDを出すチャンスに恵まれている。問題は二男と三男に当たる静と天草が、ここのところ新曲が途絶えていた。師匠を失った二人の心細さを鳥羽が代弁するのか。作曲は当然、跡目を継ぐ蔦の仕事になる。
 「おとうちゃまが、天草君用にって残していった曲があるのよ」
 思いがけない曲を佳子夫人が口ずさむ。能沢佳子の芸名で昔とった杵づか、小声だがメロディーの輪郭はきっちり伝わるのへ、
 「だめだこれは。お前らには無理。これは俺が歌うしかない!」
 鳥羽が突然宣言した。いかにもいかにも...の船村メロディーが絶妙のせいだが、静と天草は「そんな!」と絶句、僕が「まあまあ...」と割って入って大笑いになる。持ち出された譜面には「天草情歌」のタイトルと、昨年3月17日の記入がある。船村が心臓の手術に踏み切ったのは5月6日、あわや心不全の危機に陥ってのこと。呼吸困難を訴えながら船村は、そんな絶不調の中でも弟子のために心を砕いていたのか。
 未発表の旧作だが、問題は中山大三郎の詞が一番しかないこと。今年4月7日に彼の13回忌法要をやったばかりの三佐子夫人に、その場で電話をする。彼らは晩婚で、彼女は結婚生活10年のうち7年ほどは彼の看病の日々だった。問題の歌詞はそのずっと昔、中山が船村家へ出入りしたころのもの。資料も記憶もないが、三佐子夫人は中山の弟子たちと話してみると言う。
 「もし見つからなかったら、こちらでそれなりに対応するよ」
 やや乱暴に僕は話を引き取った。それもこれも縁である。三佐子さんとは中山の法要以後、彼の盟友だったプロデューサー山田廣作の通夜、葬儀、納骨、偲ぶ会を一緒にやった心安さ。中山と山田が東京・高輪の正満寺で、墓仲間の縁もあった。
 船村家の偲び酒は夜半まで続いた。内弟子5人はこもごもに、長く寝食を共にした師匠の思い出を語った。いずれにしても静と天草用の企画は、年内には具体化、情が深い鳥羽の弟分思いはいい形で成就するだろう。
 「ところで...」
 と一呼吸あって、彼が僕の呼び名を「ボースン」にすると宣言した。
 「甲板長だ。漁の現場を取り仕切って、船長よりも偉いんだ」
 と元船乗りの説明がつく。衆議一決、船村家界わいでは、以後そう呼ばれることになった。川中美幸一家の「ボス」歌社会から芝居の仲間まで浸透した「統領」に続き、これで僕の仇名は三つめになった。
週刊ミュージック・リポート