新歩道橋992回

2017年9月3日更新


 「要は口べらしですよ。俺が集団就職列車に乗った理由は...」
 歌手新田晃也が他人事みたいに少年時代を語ったから、胸を衝かれた。極度の貧しさで食糧問題が深刻な家庭から、役に立たない子が放り出される。飽食の時代の今日、もはや死語かと思っていた「口べらし」は、文字通り〝食べる口〟をへらす庶民の苦肉の策だった。
 昔々から地方によくあった例だが、新田の場合は昭和、それも太平洋戦争に敗れた戦後のこと。
 「それだって、ずいぶん昔じゃないか」
 と口をとがらせる若者がいるかも知れないが、昭和30年代後半、近ごろよく耳にする東京オリンピックの少々以前と言うから、たかだか50年ちょっと前のこと。似たように〝飢え〟を体験した僕にはつい〝この間〟とも思える時期なのだ。福島県伊達市の中学を卒業と同時に、新田は集団就職列車に乗って東京へ出る。似たような境遇の子たちだけが鈴なりになった列車が、地方から都会を目指した。彼がまず中央線沿線のパン屋に就職したのは、食べ物につられてのことか。
 新田は歌手歴52年、もう70代に入っているが〝巷の実力派〟として、一部に根強いファン群を持つ。みんな新田の圧倒的な力量と得難い魅力、マイペースの生き方と〝歌いざま〟に共感し支持している人々だ。テレビによく出て名前と顔が売れ、そこそこのヒット曲を持つ人だけが歌手ではないと、僕は常々思っている。一般的には無名でも、しっかりと自分の世界を作り、熱心なファンを獲得して巷で歌う人々も得難い歌手の仲間だ。福井には越前二郎、名古屋には船橋浩二、浜松には佐伯一郎、山形には奥山えいじ...と、いわばそんな〝地方区の曲者〟たちと僕は長い親交を持つ。もう40年を越すつきあいの新田は、僕に言わせれば「三流のてっぺん」を占めるその代表格なのだ。
 彼らともそうだが、僕の交友パターンは人柄本位才能本位。学歴も資金も持たぬ男が、裸一貫から身を起こすさまが潔くも頼もしく思えるのは、僕が高卒の片親育ちでスポニチのボーヤあがりの経歴に、内心応分の自負を持つせいか。だから歌社会の友人は誰にしろ、その生まれや育ち、学歴などをチェックしたことはない。それなのに新田の「口べらし」に出っくわしたのは、長くレギュラー出演するUSENの「昭和チャンネル」で、8月23日に新田の特集を収録したせい。彼の作品20数曲を並べて5時間近い長尺だから、内容は歌手新田晃也の半生記になった。
 「何しろ俺は8人めの子だったから...」
 という新田発言にも「ン?」になる。貧乏人の子沢山のたとえはあるにしても...と思ったら、父母が3人ずつ子連れの再婚で、彼は新生活の2番目の子だった。上京して以後新田はパン屋、新聞販売店、左官屋、魚屋などを転々、貧乏ぐらしを脱出したのが、新宿のサパークラブでの弾き語りで、これが新田の歌手生活の起点になる。その後銀座に出て「ポール」の呼び名の売れっ子になり、一時はかけ持ちの店3軒、月収100万...。そのころ縁があって「阿久悠のわが心の港町」というアルバムの9曲を、上村二郎の名で全曲歌ったのが初のレコード。これを機にメジャーデビューをと、関係者にすすめられたが徹底的に固辞した。
 「あの世界には絶対に入るまいと思っていた」
 と、本人がいう〝あの世界〟は当時の歌謡界。どうやらだまされ続けた末に、人間不信におちいったらしいのだが、
 「田舎者で不器用だったけど、一番感じやすい年ごろだったから...」
 と、苦笑してその細部は語らない。時代を演出する作家や職人肌のプロデューサー、野心的なディレクターなどのプロから詐欺師ややくざまでが、百鬼夜行するのが当時の歌社会、その底辺での体験が、トラウマになったらしいのだ。
 孤立無援、独立独歩の演歌系シンガーソングライターが、独自の今日を自力で獲得したのが新田である。そんな苦闘の時期の作品に「友情」という曲があって、僕はこの1曲で彼に脱帽した。
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする...
 自作をこう切り出したあたりに、生半可な一流をしのぎ切る三流歌手の意地と芸があらわだった。最近の新田は同郷の作詞家石原信一と意気投合、いい歌を連作している。遅まきながら彼流のメジャー展開である。
週刊ミュージック・リポート