新歩道橋997回

2017年10月15日更新


 10月3日火曜日夜、川中美幸はNHKテレビの「歌コン」で「おんなの一生~汗の花」を歌った。1日に母親久子さんが亡くなって、わずか2日後の生放送である。
 《つらい選曲だな。彼女、大丈夫か!?》
 テレビを見ていて僕は、川中の心中をおもんばかった。作品が作品で、歌の主人公は久子さんそのもの。苦労の日々を母娘で生き抜いたさまと娘の感謝を、吉岡治が詞にし弦哲也が曲を書いた。いわば実話もので、平成15年に出来て以来、彼女はステージでよく歌い、その都度久子さんとのエピソードを話した。
 〽負けちゃ駄目だと手紙の中に、皺くちゃお札が入ってた...
 母を見送った直後には、生々し過ぎる作品である。川中が歌いたがったはずはない。しかし、歌手生活40年の矜持がある。個人的な感傷に溺れるわけにはいかないと、彼女は自分を鞭打ったのだろう。眼にたまった涙をあふれさせずに2コーラス、彼女は歌い切った。そして誰に言うともなく「すみません」と頭を下げ、共演の歌手たちの列へ戻りながらもう一度「すみません」―。
 僕が久子さんの死を知ったのは、10月1日の朝8時過ぎ。川中の側近岩佐進悟からの連絡だった。「シンゴ!」と呼び捨てでつき合う友人から、朝のこんな時間の電話である。要件は即座に判った。92才の久子さんの病状が厳しいことは知っていたせいだ。臨終が午前4時30分、胃がんからの心不全...。僕は不祝儀の相棒マル源の鈴木照義社長に連絡、渋谷の川中の事務所で、事後の対応を急ぐことにする。
 3年前、川中と松平健の合同公演のけいこ場から、川中が姿を消した、夕刻戻った彼女は何事もなげだったが、実はこの時、久子さんが心筋梗塞で倒れていたと後で知る。それ以来久子さんは骨折などで入、退院をくり返し、胃がんも発見される。ここ一年余りは自宅で療養する彼女に、添い寝をするくらいの川中の介護が続いていた。僕は川中公演で初舞台を踏み以後10年、一座のレギュラー。言わず語らずでも、おおよその見当はついた。
 《一卵性母娘なあ...》
 葉山から渋谷へ移動する道々、僕は美空ひばりと喜美枝さんを思い出す。容態急変を息子哲也からの連絡で駆けつけた僕は、ひばりに促されて喜美枝さんの死水をとった。あの母娘は古い時代の芸能界仕組と戦い抜いた。川中の場合はもう少し、芸能界が新しくなった時期に、鳴かず飛ばずの娘の苦しみを、生活ごと母が支え励ました庶民性がある。いずれにしろこの2組に共通するのは、母が娘のファン第1号だったことか。
 久子さんは若いころ、大衆演劇の娘役者をやった時期がある。川中の大劇場公演の千秋楽など、着飾って娘と一緒に舞台に立つ茶目っけを持っていた。
 〽煮豆も根性で花咲かす...
 と、吉岡が「女の一生」の2番に書いたフレーズは、久子さんの口ぐせだったそうな。お好み焼屋の看板おかんとして、苦労を苦労と思わぬ働き者の胸中に生きていたのは、浪花女の楽天的な諧謔精神だったかも知れない。
 喜美枝さんが亡くなって
 「私、もう歌えない!」
 と悲嘆に暮れたひばりは、しかし、間もなく地方公演から仕事を始めた。ファンが待っているなら、笑顔で歌うのがプロ、出演が前もって決まっているテレビなら、母を見送った直後でも、泣かずに歌うのが川中の仕事だった。親の死に目にあえぬのが芸人の世界...とすれば、ひばりも川中も母親の臨終にちゃんと立ち合い別れを共有できたことが、せめてもの幸せ、慰めと言えば言えるだろう。
 10月6日午後6時からが通夜、7日正午からが葬儀告別式で、川中久子さんは品川・荏原の霊源寺で、大勢の人々に見送られる。この原稿を書いているのは6日の午前零時過ぎ、読者読兄姉の眼に触れるころには川中家の葬いは済んでいることになる。
 「さて...」
 と僕は、その2日間を式場に詰め切る気持ちを、粛々とかかえ直した。葬儀委員長は作曲家弦哲也が引き受けてくれた。日本作曲家協会の新しい会長だが、川中のヒット「ふたり酒」で一緒にブレークして、二人は戦友同志だ。
週刊ミュージック・リポート