新歩道橋998回

2017年11月4日更新


 読経の途中で僧侶が椅子から立ち上がった。
 「喝!」
 と、びっくりするくらいの大音声。どうやら臨済宗の引導らしく、だとすればここで、友人の俗名赤間剛勝は、戒名の「金剛院響天勝楽居士」に替わったのか。10月17日午前、大田区東海の臨海斎場で営まれた葬儀告別式のこと。お経は「ナムカラカンノトラヤーヤ...」で、これは疎開して身を寄せた茨城の寺で、10才のころの僕が覚えた片言の切れっぱしだ。
 「来年が歌手になって40周年。赤間さんに喜んでもらえると思っていたのに...」
 仙台から駆けつけた佐藤宗幸が、弔辞の途中で「青葉城恋唄」を歌った。アカペラで抑え気味の歌声が、会場に沁みわたる。この曲のデモ・テープを吹き込んでいたのを、別のスタジオで仕事をしていた赤間が聞きつけ〝運命の出会い〟が生まれて、佐藤はキング入りしたという。宮城出身の赤間が、仙台の風物を歌い込んだこの作品に魅せられたろうことは想像に難くない。それがそのまま大ヒットになったのだから、二人の交友は相当に深くなったろう。
 享年77。それにしても若過ぎる死...と、誰もが惜しんだ。前日の通夜にも弔辞が捧げられて、指名されたのは大月みやこと僕。大月はデビュー前後から赤間と親交があり、一時ビクターへ移籍した彼女に「戻っておいで」と声をかけたのも赤間だった。
 「古いガールフレンドにしてもらって、事あるごとにみやこちゃん、みやこちゃんと...」
 と、大月は弔辞の途中で何度か声を詰まらせた。
 キング入社が昭和38年の赤間と、同じ年にスポニチの取材セクションに異動した僕は、いわば同期生。親交は54年にもおよんだ。当初宣伝に配属された彼とは、竹腰ひろ子の「赤い皮ジャン」だのいとのりかずこの「女の旅路」だので盛り上がり、彼が制作に移ってすぐ、バーブ佐竹の「ネオン川」をヒットさせると祝杯をあげて大騒ぎした。
 「ネオン川」は佐伯としをの作曲。バーブは吉田矢健治の弟子で「女心の唄」も吉田矢の作曲。しかも、この二人はライバル同士で、犬猿の仲と言われた。キングの社屋の垂れ幕にどちらかの作品が掲げられ、他方がやって来ると社員が大急ぎで幕を引きおろすほど、ピリピリする間柄。そんな二人の関係に割って入ってヒットを作ったのが赤間である。あの温厚な彼に、そんな度胸があったのかと、僕は見直したものだ。
 春日八郎、三橋美智也を柱にしたキング黄金時代も末期の昭和40年代、歌謡界は大きく様変わりする。作家の専属制が崩れ、放送局が音楽出版社を作り、プロダクションが力を強め、歌手の新旧交替の時期が来る。キングもそれまでの社内競合システムでは間に合わず、外部勢力との協力や提携が必要になった。
 そこで持ち前の力を発揮したのが赤間だった。穏やかな笑顔とソツのない言動、我を張らぬ柔軟な人づき合いの人徳と才覚が生きて、キングの体質改善そのものに寄与する。先輩を立て後輩の面倒も見て、もろもろの相談に乗る。この世界の〝やり手〟は、とかく強引で生臭さも持つものだが、赤間が広げて行った人間関係は、ベタつかず、適度の距離感を示してユニークだった。
 キングの常務取締役という重責を担った後、フリーになっても、ともかくマメによく動いた。闘病日誌もノート1冊分。多方面への感謝が綴られていたと言う。通夜、葬儀を取り仕切ったのは坂本敏明社長が指揮したキング勢で幹部以下総勢50人余が働き、歴代社長が顔を揃え、他メーカーの人々も目立ち、バーニングの周防郁雄社長をはじめお歴々が詰めかけた。喪主で甥の赤間光幸氏や坂本社長、大月と並んで僕も立礼に加わったが、
 《敵が居ないと言うのがこの男の凄さか!》
 長く続いた弔問客の列に低頭しながら、僕はしみじみそんなことに思い当たった。
 レコード大賞の審査員をやり、音楽評論家と呼ばれながら、彼はこの世界の穏健なコンサルタントだった。僕に示された友情はもう一つある。70才で明治座初舞台を踏んで以降、僕が出る芝居を全部見て、
 「僕は役者のあんたの追っかけだよ」
 と、関西まで来てくれた。シャレでも冗談でもないよなと、最初から赤間ちゃんは、真面目な視線の得難い観客の代表だった。
週刊ミュージック・リポート