新歩道橋999回

2017年11月12日更新


 時間ぎりぎりに飛び込んだ新宿文化センター大ホール、客席の1階20列に手前から作曲家岡千秋、作詞家石原信一、編曲家前田俊明が並んでいた。10月23日、未明に大きな台風が関東を駆け抜け、まだ天候が怪しげな夜で、神野美伽のコンサート2017がその催し。
 「おっ〝竜の海〟の3人が揃っているな!」
 と声をかけながら、僕はその奥、28番の席にもぐり込む。神野のコンサートを見に来て、他社の歌手の曲名を口にするのは不謹慎だが「竜の海」はブラジル生まれの日系人エドアルドの新曲。長いつきあいがあるし、前記3人がいい仕事を見せ
 《あいつもこの曲で、かっこうがつく。歌も相当にいい仕上がりだ》
 と、異国日本で頑張る好青年の後押しをしたい気分から、久しぶりに興奮していてのこと。
 で、当の神野だが、幕あけに「王将一代小春しぐれ」をガツンと演った。演歌3コーラスが浪曲の〝あんこ〟になった形の長尺もの歌謡浪曲。語り、唸り、歌うさまは気合十分をアピールする選曲か。作曲した市川昭介が師匠で、創唱した都はるみが同門の姉弟子という間柄。引き続き「涙の連絡船」「はるみの三度笠」「好きになった人」など6曲を並べたあたり、2人へのリスペクトやトリビュートの意図が歌唱ににじむ。
 大江千里と「夢のカタチ」をレコーディングしたニューヨークのスタジオ、セントラルパークで心境を語る映像をはさんで、このところの神野の世界が、お次にあらわになる。
 あちらで知り合ったジャニス・シーゲルと歌う「リンゴ追分」やペルー出身のエリック・フクサキとデュエットする「奴さん」や「キサスキサスキサス」などは、激しい和洋折衷の趣き。着物をパンツスーツに着替えて、ノリはやたらにポップスだ。5年前にニューヨークのライブスポットで歌い「演歌のアイデンティティー」を確認したというこの人は、そこから歌世界が変わった。
 僕が驚倒したのは平成25年秋、渋谷公会堂でやった歌手生活30周年リサイタル。バンドの大音響と呼応した大音声で、ここを先途と歌った数曲は、キモノ姿のままロック・スピリット横溢で、客席を圧倒したものだ。カバー曲が多いのは吠えやすい選曲...と後で合点した「酔歌~ソーラン節バージョン」「無法松の一生ニューバージョン」...。
 そんな意気込みは今回のステージにも表われて「無法松の一生」「座頭市子守唄」があり「黒田節」はブギウギ仕立て。ふつう演歌歌手は、与えられた作品をそれらしく、どう表現するかに腐心するものだが、昨今の彼女は自分自身を表現、開陳するために、楽曲を道具とする。「思うままに歌う」「求めて生きる」生き方を、歌声に託して全身全霊を傾けるのだ。面白いことに歌いながらステージを動き回る姿は、着物でもロックふうな激しさ。ノレば自然にそうなってしまうのか。
 さはさりながら、積み重ねて来たヒット曲は演歌だから「浮草の川」「恋唄流し」「浮雲ふたり」などは、抑えめの歌唱でそれらしい風情。立ち居振舞いまで、和風の動きに切り替えている。ロック調のパートでも、攻めて歌うばかりではなく、間にはさんだ「紅い花」を、曲なりにしみじみ歌って陰影を作った。左隣りの前田俊明、右隣の作詞家麻こよみの拍手も大きめになる。
 《これも流行歌二刀流って奴かも知れない》
 僕はこの夜の神野をそう考えた。ロックバージョンが直球、演歌バージョンを変化球と見立てる。あらわになるのは、彼女の音楽に対する姿勢、ド根性と、艶やかな演歌の世界だ。この節、演歌歌手のありようも変化したもので、神野はその先頭を走っていることになる。そう言えば彼女の後援会紙「MFC」で神野は政治にも言及していた。今の政治には不安を通り越し、不満を突き抜け、怒りが諦めに変わり始めたと言い、政治家ってただの職業に過ぎないのか。農家だって建築家だって、その仕事が上手く運ばれなくなれば、その道のプロとして思い切った舵取りを身を以って行うだろうに、自己責任の伴わない職業ジャンルの一つが、政治であってはならないはずだ―と力説する。
 「歌手が話してはいけないことと教わったはずの〝政治〟なのに、35年経つと歌手もこうなる」
 という結びには《ほほう!》と感じ入ったものだ。
週刊ミュージック・リポート