新歩道橋1002回

2017年12月3日更新


 「森進一の『さらば友よ』よかったぞ。あの調子なら、まだまだあるな...」
 と言ったら、元ビクターの制作部長で、森の歌づくりに携わった朝倉隆が、
 「そうですか、聞きたかったな」
 と、嬉しそうな顔になった。11月18日の深夜、場所は山形県天童のスナック。元テイチクの千賀泰洋、元日本テレビの木村尚武も居る。僕はその日午後、東京国際フォーラムのホールAで「阿久悠リスペクトコンサート」を見、その足で山形入りした。
 いいコンサートだった。久々に阿久悠の世界にどっぷりとつかった。石川さゆりが「能登半島」「津軽海峡冬景色」を歌い、岩崎宏美が「ロマンス」と「思秋期」を歌う。Charが「逆光線」と「気絶するほど悩ましい」大橋純子が「たそがれマイラブ」と来て「ざんげの値打ちもない」で登場した北原ミレイは、引き続き珍しく「北の宿から」も歌った。それぞれが阿久への敬意をコメントしながら、その作品があってこそ今日がある思いを歌にこめるから、聞き応えなかなかだ。
 見応えも含めれば「どうにも止まらない」「狙いうち」の山本リンダが会場をどよめかせる。久々の石野真子は「失恋記念日」を往年のままのかわい子ちゃん歌唱。代打ちもにぎやかで「フィンガー5メドレー」を名古屋で活動するというBOYS AND MEN「ピンクレディーメドレー」はMAXで、増田恵子は彼女らと「UFO」という具合。「勝手にしやがれ」と「もしもピアノが弾けたなら」を松下優也が歌って、イケメンぶりもアピール...。そして最後を締めくくったのが、森の「さらば友よ」と「北の蛍」だった。
 阿久の没後10年、生誕80年、作詞家としては50年になる勘定の節目の催しである。ヒット作を福山雅治、德永英明、玉置浩二らが歌ったアルバム「地球の男にあきたところよ」をはじめ、各メーカーが一斉にトリビュートアルバムを出し、それには1曲、阿久の未発表作品が加えられている。吉田拓郎が作曲、林部智史が歌った「この街」などがその一例だ。
 コンサート唯一最大の仕掛けは、曲ごとに歌詞を写し出す巨大なプロジェクター。多くが阿久の直筆で全曲フルコーラスだ。活字人間の僕は、癖のある筆跡の阿久の詞を読み、改めてその構成力の確かさ、みずみずしい表現、含蓄の妙、時代を照射する視線と発信力の凄みを合点しながら、彼や彼女らの歌を聞いた。1970年に異端作「ざんげの値打ちもない」を吹聴しまくって始まった阿久との親交は30年余。エッセーや作詞講座、連載小説に、27年も毎夏の大河連載になった「甲子園の詩」などを〝初づくし〟でスポニチに執筆して貰ったから、彼の癖字は生涯のおなじみである。観客の一人々々も、阿久作品と出会った時期のあれこれを思い返していたろう。
 会場には阿久夫人雄子さんの晴れやかな笑顔と、一人息子深田太郎君の甲斐々々しい動きがあった。実はこの二人とは前々日の16日、昭和女子大人見記念講堂の「石川さゆり45周年記念リサイタル」でも顔を合わせている。ごぶさたのお詫びやつもる話もしたかったが、二度とも「やあやあ...」と手を振ったり握手をするにとどまった。秋は雑文屋稼業の書入れで、残念ながら意を尽くす時間がない。
 《えらいものを見たものだ...》
 山形へ向かう新幹線の車中で、僕はつくづくそう思った。あれだけの出演者を集めたとしても、それぞれが自前のヒットを並べるだけなら、大ホールの空気はおそらく、寒々としたものになったろう。それが司会もなく、出て来ては歌い、歌っては去る単純な進行でも、会場の人々の心をわしづかみに一つにつなぎ、熱い雰囲気にまとめ上げたのは、阿久悠の「作品力」そのものだった。没後10年の今も、阿久が構築した歌世界は、スケール大きく、生々しく、新鮮さまで加えて生きていた。これは他の歌書きにはない攻撃的な〝美〟の集積でもあったろう。新鮮といえば「五番街のマリー」と「ジョニィへの伝言」を歌った新妻聖子の声味と率直な歌唱にもそれを感じた。
 山形・天童へ向かったのは、「佐藤千夜子杯全国カラオケ大会」の審査のためである。矢吹海慶という坊さんと福田信子という人を頭にしたおばさんたちが懸命の、手づくりのイベントを愛してもう13年も通っている。結果僕の週末は、やたら堂々とメジャーなイベントと、何とも情の濃いマイナーな集会を掛け持ちすることになった。
週刊ミュージック・リポート