新歩道橋1003回

2017年12月17日更新


 《そうなんだ、彼女の場合は、歌手が芝居をやるんじゃなくて、役者が歌を歌っているということなんだ》
 真木柚布子の演歌ミュージカル・一人芝居「知覧のホタル」を観て、改めてそう合点した。11月21日、渋谷の伝承ホールでの体験だが、何だかまだ生々しくその感触が残っている。
 「知覧」と言えば「特攻隊」である。太平洋戦争の末期、爆弾を積んだ飛行機ごと、米軍の船艦に突っ込んで行った若者たちと、その基地として知られる。兵士たちは生還を期さない。一命を賭して祖国を守り、愛する人々を守るために出撃した。決行までの短い日々、心を固めていく青年たちを世話した娘たちがいた。彼女らは今生の別れを胸に秘め、桜の小枝を振って彼らの出撃を見送った―。
 真木はいきなり、老婆の姿で登場した。敗戦後相当の時間が経ての述懐である。それが娘姿に戻れば、危機的戦況の往時になる。語られるのは戦死した兵士の一人と、淡い恋心を抱いた娘との、出会いと束の間の心の交流と別れ、そしてその後...。
真木は初々しさと恥じらいを含めた娘時代を生き生きと演じ、老婆になった部分は、戦後の兵士の家族とのこと、彼への追想などを、達観の静けさで語った。二つの時代を往き来しながらの一人芝居。なかなかの訴求力だ。
 不覚にも...とあえて書くが、客席で僕は泣いた。周囲を気にしてそっと拭った涙が、止まらなくなった。幸い関係者の姿はない。取材陣は前日の公演に集中していたらしい。お陰で僕は観客の一人としてまぎれ込めていた。もともと冷静さを維持する取材者の立場が崩れやすく、酔いやすい体質である。ここ10年ほど舞台の役者をやっていることが、芝居を感じやすくしてもいようか。
 真木の知覧での見聞が形になったと聞くが、企画原案・脚本の中嶋年張、演出の久世龍之介の仕事ぶりがいい。声高に反戦を訴えることもなく、戦時下の恋を語るセンチメンタルで過剰な気恥ずかしさもない。力説すれば理が先立って観客の腰がひける。そんな題材を淡々とセリフにし、あとは真木の演技に任せた。演説よりは例え話の方が、しみじみと真意が伝わる手口か。
 僕は80才を過ぎた。涙腺も弱くなっている。しかしそれよりも強く反応したのは、少年期の戦争体験だった。男たちがみな戦場に出て行って、後はお前らが守れと教育された「銃後の少国民」の一人。本気で竹やりで戦う覚悟だったが、終戦が国民学校(現在の小学校)3年の夏である。昨今に較べれば、ずいぶん大人びた少年だったから、ドラマのあらましが、そうだったろう、確かにそうだったという実感を伴っていた。
 二部は歌謡ショーである。持ち歌の「雨の思案橋」「越佐海峡~恋情話」「しぐれ坂」「北の浜唄」「ホタルの恋」などの演歌に「助六さん」「夜叉」「お梅哀歌」の日本調。果ては「渚のビギン」「紫のマンボ」「夜明けのチャチャチャ」まで出て来る。その都度衣装を替え、歌い、踊り、ほどの良いトークで、客を乗せて賑やかなものだ。
 やがて30周年のキャリアだ。シングル盤を聴き続けて来たが、企画の蛇行とも思えた。あれもこれも達者にこなすことを、器用貧乏か? と疑ったこともある。どれかひとつに路線を絞ってヒット曲を作り、それが本線、他は枝葉という、従来の歌手のレパートリーづくりを前提に考えたこちらの不明を改めねばなるまい。役者が歌をやる幅の広さと、よく知るファンは彼女のステージを一緒になって十分に楽しんでいた。二部はいわば、真木の〝ひとりバラエティー〟で、珍しいがこういう領域もあったのだ。
 ショーの途中、真木は如才ない握手で会場を回った。観客の一人として僕も、それらしく彼女の手を握った。その時一瞬、残る片手を胸に当てただけで、さりげなく次へ移る彼女に「ン?」の気配が残ったように思えた。
 《そうだよな、覚えている訳はないよな》
 僕が彼女と会ったのは一回だけである。スポーツニッポン新聞社を卒業、NHKBSにあった「歌謡最前線」で司会をやった時に、彼女はその出演者だった。10年以上前のこと。ちょうど芸名を今の漢字に変えたころで、番組内でチラッとその話をしたのを覚えているだけの間柄だった。
 ステージへ戻った彼女がファンにありがとうと礼を言いながら、突然僕の名を挙げたのにはのけぞるほど驚いた。バレたか! と僕は、涙の分まで見すかされた気分でうろたえたものだ。
週刊ミュージック・リポート