新歩道橋1010回

2018年3月11日更新


 眼下の海にも、対岸の富士山にも、紗がかかってぼんやりしている。よく晴れた日なのに、クソッとカーテンを閉める。時おり岩でも削るかと思うような激しい音がする。わが家の猫の風(ふう)とパフは、背中を低くしてリビングルームを這い歩く。奴らはことさらに音に敏感なのだ。
 実は、人間にとっては別に、特異なことではない。住んでいるマンションの大規模修繕が始まっただけで、建物全体がやぐらみたいな足場に囲まれ、半透明の幕が張りめぐらされている。それがたまたま、東京へ出ずに済む休日も工事が行われている訳で、僕は海を眺める楽しみを諦め、もう一つの楽しみに取りかかる。たまってしまったCDを、外部からの雑音の合間に聞き取る作業だ。
 《ほほう》
 と気分が良くなるCDに出っくわした。竹島宏の歌で「恋町カウンター」と「ほっといて」(Aタイプ)「嘘つきなネコ」(Bタイプ)とカップリングを交えた3曲。全部松井五郎の詞、都志見隆の作、編曲で、こじゃれたポップス系歌謡曲だ。「恋町カウンター」は、いかにも都会的な若い男女の深夜のときめきの光景を切り取ってなかなかである。
 まず、竹島の声がいい。甘く明るくよく響いて、歌謡曲勢にありがちな、かげりがない。その利点は歌唱に生かされて、軽快な曲と編曲に弾み加減のノリが快い。余分な感情移入がなくすっきりスマート。高音部の艶も高揚もほどほどで、今日的な若者の生活感がにじむ。息づかいを含めて、細心の気くばりをしているのだろうが、全体に気負いが見えず、らくらくと歌っている親近感もある。
 それもこれも、作品の力によることが大だろう。男女のぎりぎりの一瞬を捉えた松井の詞は1コーラス4ブロックの11行。それを都志見の曲が簡潔な表現で、一風変わったラブソングに仕立てた。終電車が過ぎたころ、目配せの5分前、誰かの名前は伏せて、二人とももたれたい肩を探してる...と、刹那のひとときなのに汲み取れば、ストーリー性まで秘めている。
 こう書けば、いいことづくめのベタぼめだが、作品も歌唱も、従来のポップス系歌謡曲とさえ一線を画していると思うのだ。はやり歌永遠のテーマの色恋沙汰を描きながら、着想が違い、文体が違い、タッチが違う妙がある。前作「月枕」の成功と、歌手15年を超える研鑚をベースに、メーカーの宣伝資料が「今まさにブレーク寸前!」と気合いが入るのも、判る気がする。
 仮に活躍中の若手の名前を並べてみる。左から民謡調の福田こうへい、演歌の三山ひろし、歌謡曲の山内惠介と、キャラと作品傾向を考えれば、竹島にはその右側に立ち位置を占める可能性がある。この比較は決して歌手たちの優劣や実績の多寡を指すのではなく、彼らそれぞれの独自性を考えてのこと。福田から順に、伝統的な境地から次第にポップス色に近づく差異があり、情緒的湿度も異なっている。それぞれがその特色でファンの支持を集めている三者に、竹島は一味違う角度から参戦することを、スタッフは狙っているのだろう。
 不明にして僕は、竹島のこれまでについて、あまり多くを知らなかった。そこへいきなり「恋町カウンター」だから、全く別のカウンターをくらった心地で、少々うろたえた。〝はやり歌評判屋〟として、それは何とも快い刺激ダメージで、
 《これだからこの商売やめられないな》
  と再確認したりする。
 このところ昭和回顧ものばやりで、僕はBSテレビのあちこちから、昭和のいい歌、昭和の卓越した歌手や歌書きたちの特番に呼ばれている。
 「昔のことを知っている方が少なくなっていて...」
 と、消去ふう起用があからさまなケースもあるが、だからといって得得と、年寄りの知ったかぶりをしゃべっているばかりなのはいかがなものか。数多く、昭和の歌びとたちの知遇を得、その光栄に浴して来たことが、僕の大きな財産としても...のことだ。雑文屋なら昭和を検証しながら、新しく生まれる才能とその所産に見配りしなければという、自戒の念も新たにする。
 さて、間もなく平成も終わり、新しい元号の時代がやって来る。歌は世につれはするが、世が歌につれることなどはない。ましてキナ臭いことのみ多い昨今。そんな政情や世相を横にらみしながら、平成の歌のラストスパートを追跡することにしようか。
週刊ミュージック・リポート