新歩道橋1017回

2018年5月27日更新


 《さてと...》
 とりあえず居間のソファから腰をあげる。ゴールデンウィークも終わり、珍しく東京へ出ないウィークデイ。眼前の葉山の海とうんざりする政治状況をテレビでぼんやり見比べていた午後だ。チャイムが鳴り、愛猫2匹のうち若い方のパフが緊張する。人嫌いなこいつが及び腰なのへ、
 「郵便局の人だよ。玄関へ出てみるか」
 とからかったが、奴はさっさと別室へ消えた。
 届いたのは加藤登紀子からの荷物。
 《いかん、いかん...》
 と、今度は僕が及び腰になる。実は彼女のコンサートだが「出席」の返事を出しながら、突然の急用で連絡もせずに欠席していた。4月21日、オーチャードホール。一瞬、その言い訳が脳裡をよぎりながら、受け取ったものの中身は彼女の自伝「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版刊)だ。表紙をあけると献辞があって「すべてのピースがなつかしいです!!」と見慣れた文字とサイン―。
 それが癖で、まず「あとがき」へ眼が行く。母親淑子さんが昨年101歳で亡くなったとある。彼女が書き残したメモから「ハルビンの詩がきこえる」の本が出来、結婚から終戦、引き揚げの10年が凝縮されていたとか。当然加藤もその中に居て、子供ながら終戦直後の混乱を体験したことになる。もう1冊、父親幸四郎氏が「風来漫歩」という自伝を残していて、その2冊が、それぞれの一生がそれだけで凄い歴史と思えたと加藤は書く。
 次いで目次をたどる。「愛の讃歌」「百万本のバラ」「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」「鳳仙花」「ANAK(息子)」「さくらんぼの実る頃」「リリー・マルレーン」「花はどこへ行った」などの曲目が並ぶ。みんな彼女が愛唱し、ヒット曲としていて、作品が持つ歴史と彼女の自分史が交錯する書物だ。例えば「百万本のバラ」はラトビアの子守唄が、ロシアでこの曲名の流行歌になり、やがて進入したソ連軍の戦車に抵抗、独立したラトビアの人々の歌になったこと。そして加藤が現地でコンサートを開き、この歌に出会った前後のあれこれ...。「さくらんぼの実る頃」は50年前のパリ・コミューンの歌だし「悲しき天使」はその50年前のロシア革命前後の歌だったとも彼女は書く。
 《それにしてもまあ、びっくりするくらいに世界のあちこちを、よく旅した人だ》
 僕は「ひとり寝の子守唄」を自作自演して以後、吹っ切れたように行動的になった彼女を、そう見守っていた。加藤の歌手生活が今年53年なら、僕の加藤歴も断続的にしろ53年になる。勤め先のスポーツニッポン新聞社と石井好子音楽事務所がやった日本アマチュアシャンソンコンクールの2回目で彼女が優勝した時から、加藤番だったから、彼女の初期とのつき合いはことさら濃いめ。
 シャンソン―歌謡曲―シンガーソングライターと、足早やな変化を遂げたあと、彼女は各国の旅から楽曲を持ち返り、自分で詞を書いて歌うようになる。
 《世界の歌のいいとこどりかねえ...》
 と、そんな感想を持ったり、
 《結果これは、加藤登紀子というジャンルか》
 と感じ入ったりする時期もあった。
 巻末の年表を見る。駒場高校2年、60年安保闘争のデモに参加、68年東大卒業式ボイコットの座り込み、全学連の藤本敏夫氏と出会い、72年中野刑務所で藤本氏と獄中婚、長女出産、76年、藤本氏「大地を守る会」設立、2002年藤本氏死去、その間に二女、三女をもうける...と、青春期以後の私的足取りと精神史がうかがえる。
 《まあ、それにしてもよく歌い、よく書く人だ》
 歌う外国曲はすべて、自分の歌詞に書き直した。著作物も多数で、多くが僕の本棚にある。音楽と一緒に世界の人々の歴史と文化を越境しつづけて、雑文屋の僕など恐れ入るくらい、多岐にわたる。今や精力的な文化人と言ってもいいか。そんなことを思いながら、テレビをつけたら、画面にまた加藤登紀子である。5月9日、NHKの「ごごナマ」で
 「近々3回目の25才の誕生日を迎えるの」
 と、細い眼がなくなるくらいの笑顔で、自分の年齢を語っていた。
 《さてと...》
 僕は年寄りの怠惰を決め込んでいた午後から、やや覚醒する。コラムを一本書いて、加藤自伝の本文を読むとするか!
 「昼めしが遅れてるよ!」
 気がつけば、猫のパフと姉さん格の風(ふう)が、餌の催促をしに来ていた。
週刊ミュージック・リポート