新歩道橋1024回

2018年7月29日更新


 「彼女はひとつ、抜けたな。持ち前の明るさの芯に陰りがなくなった。演技にもそれが出て、今や全開放と言うところか」
 明治座で奮闘中の川中美幸を観て、演出家の大森青児が言い切った。ここ2・3年、川中の持ち前の明るさにも、いまひとつ吹っ切れなさを感じていたらしい。演出家の眼というのは恐ろしいもので、長く一緒に仕事をする僕らには見えなかったものが、ちゃんと見えているのか。僕らから見れば彼女はここ10年ほど、いつもながらの明るさで〝人の和〟の中心に居り、細やかな気くばりもいつも通りでしかなかった。
 7月の公演中に彼女は、亡くなった母親久子さんの初盆を迎えた。言い伝えどおりの飾りつけをし、迎え火を焚いて何日か、帰って来た久子さんの霊と心静かな時を過ごしたろう。庶民の暮らしの中に、今も息づいている風習だが、彼女のそれとの取り組み方は、なまじのものではない。小さな飾り壷に遺骨の一部を容れて、そっと持ち歩くさまにも、母娘の情愛の深さがうかがえる。そして彼女は、そういうやり方をごく個人的なものとして、周囲の人々にも感じさせずに来た。
 母と娘の心の通わせ方を、僕は美空ひばり母子に長く見て来た。二人の間には時々、抜き差しならぬ闘いが生まれる、芸ごと本位の厳しさがあった。それに較べて川中の場合は、お互いが相手を包み込みながら、夢を追う暖かさと穏やかさがあった。母娘の情の表れ方がごく庶民的で、それが川中の独特の魅力に通じていたかも知れない。
 川中の明治座公演は、池田政之作・演出の「深川浪花物語」で、大森は一人の観客として劇場に現れた。以前「天空の夢」という芝居を演出、川中に芸術祭賞を受賞させたいわば同志。当然、芝居そのものを彼なりの眼で見守ったろうが、ズケリと言った一言の方に重みがあった。久子さんの長い闘病や川中の献身的な介護、そのうえに母を見送った傷心などの情報は得ていたはず。それを皮相的には捉えず、川中の心の内側やその奥をこの人は透視している。
 《「抜ける」は一つの境地を「通り抜ける」意か、ひどく簡単な表現だが、恐ろしく意味あい深い使い方だ...》
 観劇後の大森を囲んで、仲間うちの飲み会をやりながら、僕は彼の言葉に耳を傾けざるを得ない。NHKで多くの大作ドラマを演出した人だが、30代後半に仕事上の壁に突き当たったことがあると言う。それでもひるまず自分流を貫いたある日、先輩制作者に言われた一言が、
 「うん、抜けたな、もう大丈夫だ」
 だったそうな。本人は全く自覚症状などなかったが、ずいぶん後になってから、確かにそのころ、階段をひとつ上がったような応分の手応えに気づいたと言う。そんな状況をまたある知人は、
 「ぶち当たったのは大きな壁と思ったろうが、何のことはない、紙一枚ほどのものだったはずだよ」
 と言ってニヤリとしたとか。
 何の仕事でも同じだろうが、その気になって踏ん張れば踏ん張るほど、その仕事の物心ついたころに、壁を感じることがある。その時に眼の前に現れるのが目に見えぬ階段で、それを一枚ずつ自力でのぼれば必ず活路は開ける。その階段にいつ気づいてどう対応するか、気づかぬまま物事を「慣れ」でこなしていくかが、人間の岐路になる...。
 門前仲町あたりで一杯やりながらの話が、どんどん深くなっていく。それも力説論破の勢いではなく、さりげない世間話ふうに展開していくのだから、こちらはだんだん酔っていられなくなる。僕は大森演出の「天空の夢」で約8分、主演の川中に人の道を教え諭し、ついには彼女を号泣させる大役を貰ったことがある。二人だけの一景、舞台装置もその場だけの夢みたいな出番で、あれは確かに、僕の役者としての一つの頂点だった。しかしさて、7年ほど前のあの芝居で、僕は「抜ける」ことが出来たのかどうか?
 その成否はさておいて、「抜ける」ために必要なのは、人生の岐路を実感する出来事との遭遇や、与えられた大きなチャンスなど、いずれにしろ人間関係に由来することが多い。だとすると僕は、80年余を流れに任せて生きて来て、結果長い病いとして身につけたのは「人間中毒」と「ネオン中毒」の二種である。数多くの一流の仕事師や人生の達人との出会いや刺激的な出来事の見聞に恵まれはしたが、果たしてこれまでにどこかで「抜ける」ことが出来たのかどうか、この先「抜ける」ことが出来るのかどうか。酔余、深夜の物思いは、あてどなくなるばかりになった。
週刊ミュージック・リポート