新歩道橋1030回

2018年10月6日更新


 《そうか、山川豊は立ち姿がいい歌手なんだ》
 9月16日夕、浅草公会堂で開かれた彼のコンサートの冒頭で、僕はそう一人合点した。ステージ中央の階段の上に、彼は立っていた。その背景にあるのは、真っ赤な空で、10月に還暦を迎える山川の〝来し方〟を示す夕焼けか、それとも〝行く末〟を暗示する朝焼けか。スポットライトが当たると案の定、彼は陽光に対峙していて、客席へは後ろ姿である。長い足、年を感じさせぬ体型のスマートさ...。
 〝立ち姿〟はやがて〝たたずみ方〟に変わる。「今日という日に感謝して」のオープニングから、立て続けに歌う各曲のイントロで、彼はそんな感じでしばしばたたずんでいた。「さあ行くぞ!」の気負いを見せるでもなく、ファンサービスのポーズも作らず、これが彼流の自然体なのか。「ときめきワルツ」「愛待草より」「流氷子守唄」とおなじみの曲が続く。基本的には口下手。「流氷...」の前では、珍しく海ものの作品が来て「これは鳥羽一郎のものじゃないのかと...」と、笑いを取るトークも訥々としている。司会の西寄ひがしが出て来ると、話は彼に預ける。一人語りの時は「うん」がちょくちょく出て来て、自分の話を確認しながらの気配がある。
 「この前はテレビが入っていたけど...うん...」
 と、2年前の35周年コンサートに触れた。それが今回はないのが少し寂しいのか、それとも、だから伸び伸びとやれるのか。「船頭小唄」から「丘を越えて」「かえり船」「港町十三番地」「黒い花びら」「高校三年生」「潮来笠」「君といつまでも」などをはさんで「見上げてごらん夜の星を」まで、いい歌といい時代をたどる13曲メドレーは一気、一気だ。
 イントロで西寄のナレーションがあおる伝統的演出の「きずな」「しぐれ川」「夜桜」「友情(とも)」などでもそうだが、山川の歌いながらの動きは、舞台上手で1コーラス、下手へ移動して1コーラス、中央に戻って1コーラス、深々と一礼という具合い。ただひたすら歌うことに集中していて、ファンとのやりとりもごく少なめ、プレゼントは舞台では受け取らない。
 《テレビ中継がなくて、よかったんだ、やっぱり...》
 と、僕はまた合点する。あれが入ると絵づくりのための余分な演出が加わる。茶の間の客向けの選曲も出るだろう。歌手歴37年、それはそれでうまくこなすだろうが、彼は一途に歌い募る方が好きなんだろうし、浅草まで来た客は、それが望みでもある気配だ。
 《37年か、彼も還暦だと言うし、こっちもその分年を取ったな...》
 僕は客席で〝もう一人の山川豊〟を思い出す。昔いわゆる〝ご三家〟の筆頭・橋幸夫のマネージメント一切を取り仕切っていた人の名である。若くして亡くなったのだが、その人柄と剛腕が一時代を作った。親交を持ったお仲間が長良プロダクションの長良じゅん社長(当時)とバーニングプロダクションの周防郁雄社長。歌手山川は、この有力者二人がビラ配りまでする力の入れ方で育てた。メーカー、プロダクションを縦断して、亡くなった山川豊氏の弔い合戦の様相まで呈した大仕事。昭和56年、西暦で言えば1981年の2月、山川とデビュー曲「函館本線」はその波に乗る。僕はこの作品で、作詞家のたきのえいじやアレンジャーの前田俊明の名を知った。
 山川の魅力は独特の中、低音の響きだが、高音と節回しにもなかなかの味がある。「函館本線」のヒットは「面影本線」「海峡本線」の三部作になり、山口洋子・平尾昌章コンビの「アメリカ橋」「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」のアメリカ3部作が生まれ、最近の「螢子」「再愛」「黄昏」につながる。
 そんな歩みを歌い綴ってアンコールまで38曲。その間の衣装替えは白のスーツに着物の着流し、黒のスーツと上衣を赤のジャケットに替えた4ポーズ。舞台装置もほとんどなしで、背景が都会の影絵になるほか、照明で彩りを替えるシンプルさだ。〝歌を聴かせる〟ことに終始した演出は、スター歌手の〝どうだ顔〟や、人気歌手の〝媚び〟とは無縁なことが、いっそさわやか。
 言ってみれば〝地味派手〟の境地で、前面に出たのは彼の人柄と歌一本やりの取り組み方。
 《変わらない人だなあ》
 日曜日、ずいぶん様変わりした浅草詣での人々の波の中を、僕はそんな感慨を持って往き来したものだ。
週刊ミュージック・リポート