新歩道橋1031回

2018年10月7日更新


 JR中野駅の南口商店街を少し入った右側「さらしな本店」に立ち寄る。サンプラザ・ホールでコンサートを見たあとの〝おきまり〟だ。「そば焼酎のそば湯割り」を頼むと、小徳利に焼酎、ポットにそば湯が出る。濃いめ薄いめは客次第。つまみは「そば味噌」と、これが妙なものだが「いちじくの味噌煮」で、味噌がダブルが、好きなのだから仕方がない。いつも一人でチビチビやりながら、今見て来たコンサートのあれこれを、のんびり振り返るのだ。
 《水森かおりなあ、あの人の魅力を一言で言えば〝下町娘の愛嬌〟ってことかな...》
 「愛嬌」はふつう「愛敬」と書く。「にこやかでかわいらしいこと」「こっけいでほほえましいこと」と、これは「広辞苑」の説明だが「こっけい」は語弊があるから「コミカル」くらいがいい。漢字表記は「愛嬌」の方が、字面からも似合いに思えるのだ。そう言えば僕は、久しぶりに彼女の「ぴょんぴょん」と「ひらひら」を楽しみに出かけた。1曲歌い終わるごとに彼女は、嬉しそうに飛びはねる。客席からの拍手には、両手をバンザイの形にあげ、てのひらをひらひらさせて応じる。
 9月25日の「メモリアルコンサート~歌謡紀行~」毎年恒例だが、この日が水森の24回めのデビュー記念日で「おしろい花」が第1曲。心情表現切々で、歌詞の一言ずつを噛みくだくように、ていねいに歌う。これがデビュー曲で、あのころ彼女は歌謡曲をこう歌っていたことを思い出す。そんな調子で「よりそい花」「いのち花」「北夜行」「竜飛岬」...。
 〝ご当地ソングの女王〟と呼ばれるまでに大成したきっかけは「東尋坊」だった。恋にはぐれた女が傷心の旅をするシリーズ。その彩りとして、各地の風物が歌詞に書き込まれた。作詞家木下龍太郎の連作は、彼が亡くなるまで続き、その後は後輩たちが腕を振るっている。この日ステージで歌われたのは「安芸の宮島」「松島紀行」「熊野古道」「ひとり薩摩路」「五能線」「鳥取砂丘」の順。
 木下はよく旅をする作詞家だった。歌ごころを揺らす旅なのか、それとも本当の旅好きだったのか。本人に言わせれば、
 「ずた袋ひとつぶら下げて、ふらっとね...」
 というスタイル。いずれにしろそんな体験が、一気に生きたのが水森の歌づくりで「五能線」など彼でなくては出てこない。「どこにあるのよ」と、僕らはいぶかって、本州の北端、日本海沿い...の説明に「へえ!」になったものだ。
 このシリーズを水森が、
 「お天気お姉さんの立ち位置で歌ってるの」
 と言ったことがある。詞に書き込まれている風景を天気図みたいに大掴みに捉え、その中にたたずむ主人公の姿と心境を、聞き手に伝えるらしい。いわば「客観」と「主観」が交錯する歌表現。それが主人公の失意をほど良くさりげなく、明るめにして、先行きの希望につなげる境地を生んでいるのか。
 「東尋坊」前後から、僕は彼女と親しくなったが、素直でざっくばらんな下町娘の人柄の良さは、ずっと変わらない。ま、人柄はどうでも、作品と人間関係、それに運に恵まれさえすれば、ひとかどの歌手にはなれる。しかし、長もちするために必要なのはやっぱり人柄で、そうでなければ〝女王〟にはなれまい。水森の場合はその人柄が巧まずに、言動に出っぱなしなのが、ファンに強い親近感を持たせてもいよう。
 シリーズの陰の力持ちは作曲家の弦哲也で、長く続く路線の1曲ずつに、彼流の細やかな心遣いと工夫が生きている。この日のコンサートでは「釧路湿原」をテーマに「北国ひとり旅」というショート・ストーリーを書き、彼女の演技者としての一端を披露させている。
 目下ヒット中の「水に咲く花・支笏湖」を歌った大詰め、
 「アレをやるね、アレを...」
 と、水森が「紅白歌合戦」でやった宙吊りで歌った。やれやれ...と席を立った僕に後ろから、
 「やあ、お疲れさまでした。雨の中をどうも...」
 と声をかけてきたのが弦で、まるで水森の父親みたいな笑顔だった―。
 「さてと...」
 と僕は「そば焼酎」と「さらしな本店」を後にする。終演後の楽屋で彼女の笑顔を見るのはパスしたが、
 《こういう楽しみ方も、ま、いいとするか...》
 中央快速で東京へ出て、横須賀線で逗子へ。水森の〝下町娘の愛嬌〟を思い返しながら、1時間半くらい〝気分のいい旅〟である。
週刊ミュージック・リポート