10月22日の月曜日は雨。翌23日火曜日は小雨。小豆島に居た。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の大きさ。映画「二十四の瞳」の舞台になったことや、有数のオリーブ産地として知られる。かつて、この島おこしのために石川さゆりの「波止場しぐれ」を吉岡治が作り、その縁で2000年までの5年間限定の、新人歌手育成イベント「演歌ルネッサンス」を主宰した。土庄港には歌碑や吉岡の顕彰碑などが建つ。
羽田から高松へジェット機で80分、空港から高松港へ車で50分、そこから小ぶりの高速船で30分余の旅程。イメージよりは決して遠くはない距離で、資料などパラパラめくっていたらまたたく間に着いた。吉岡の演歌ルネッサンスの片棒をかついで、僕も毎年通った場所。顕彰碑には長文の〝いわれ〟を書き、その除幕式にも参加、島へ渡るのは6年ぶりという勘定になる。
出迎えたのは、一連の吉岡ムーブメントを支えた島の幹部。20年近く前の初対面では、島の商工会議所のメンバーで、血気盛んな青年たちだったが、今では壮年から老境にかかる紳士たちの笑顔だ。メンバーの一人の寿司屋「弥助」で早速の酒になる。おやじが奮発した地元の魚を中心に、美味しいもの山盛り、亡くなった吉岡とのあれこれで席は大いに盛り上がる。
そもそもは彼らが〝島おこし〟企画に、ご当地ソング制作を吉岡に直訴したのが事の発端。突然飛び込んで来た彼らの熱意に、吉岡がほだされて歌を書き、イベントを興した。彼には〝演歌おこし〟の期待が生まれて、二つの〝おこし〟が合流した経緯がある。それだけに詩人と島人との絆は尋常ではない強さ。??岡の没後10年が再来年になるのを機に、追悼と感謝のイベントをやりたいと、今回は〝直訴〟のおはちが僕に回って来た。
「どうせやるなら、島外から大勢の人を呼べるものがいいよな」
「それなら全国規模の歌謡祭、素人参加で歌うのは吉岡作品限定だ。ヒット曲は山ほどあるんだし...」
「ゆくゆくは、吉岡先生の記念館も作りたいんだけど...」
と、話がふくらみ具体的になる。その席にニコニコ参加していたのは、この欄でおなじみの「路地裏ナキムシ楽団」の主宰者田村武也とプロデューサーの赤星尚也。田村は作曲家協会弦哲也会長の息子だが、吉岡イベントの相談なのに、なぜ吉岡の息子天平ではなく彼が同席したのかについては、それなりの理由があった。
島の有志を代表して、8月中旬に上京したのが小豆島ヘルシーランドという会社の柳生好彦相談役。広大なオリーブ畑を持ち、その実や葉などから開発したオリーブオイルや化粧品、健康食品など関連製品で成功した創業者だ。最近は会社を息子に委ね、もっぱら島の芸術、文化発展の諸策に奔走していて、話が吉岡イベントから「ナキムシ楽団」公演の招致に発展した。
何とこの島には、1686年ごろに始めた農村歌舞伎用の劇場がある。舞台だけに屋根があり、客席は露天の段々。肥土山離宮八幡神社境内に位置、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。聞けば昔々は集落ごとにこの種の会場が30カ所もあり、小豆島は演劇文化の島でもあったとか。300年余の伝統の劇場と「青春ドラマチックフォーク」を標榜する新機軸の音楽劇のコラボ。来年が10回公演に当たるナキムシ楽団側も大いに血が騒いで、早速下見に! と、田村・赤星コンビが僕に同行することになった。
肥土山劇場は茅葺きの屋根、木造で、改築、補強は続けたが姿形は昔のままで、樹々の中にうっそうとたたずんでいた。花道があり、人力で動かす回り舞台やセリもある。古色蒼然〝いにしえの芝居の神〟に守られる風情で、作、演出、作曲から歌唱まで、オールマイティの才人・田村の心が揺れぬはずはない。
僕もこの場面では、吉岡イベントの協力者からナキムシ楽団公演のレギュラー役者に早替わり、武者ぶるいをするくらいに心を動かされていた。
気がかりは舞台表裏の使い勝手や音響、照明などテクニカルな部分。その細部を検討する宿題は残ったが、来年秋にはナキムシ楽団初の遠征公演が「GO!」になる。招へい元の柳生相談役も「ようしッ!」の気合いの面持ちになった。
小豆島1泊2日の旅で、二つの大仕事が決まった。それもこれも〝吉岡治の縁〟と〝絶妙の出会い〟のたまものである。僕は今月82才になったが、病気はおろかボケている暇もない。