新歩道橋1040回

2019年1月27日更新


 「星野先生は、めんこいなあ...」
 と、それが口癖の男がいた。作詞家星野哲郎を見やりながら、少年みたいな眼をキラキラさせて酒を飲む。当の星野は温顔しわしわとテレ笑いしながら、杯を交わす。昭和61年から21年もの毎夏、二人はホテルの宴会場やバーで、そんな出会いを繰り返した。場所は北海道の漁師町・鹿部。相手は地元の有力者・道場水産の道場登社長だ。
 この欄にもう何回書いたか判らない。鹿部は函館空港から車で小一時間、川汲峠を越え、噴火湾の海沿いに北上したところで、人口4000。星野はそこで、定置網漁の船に乗って綱を引き、番屋でイカそうめんに舌つづみを打ち、昼は漁師たちとゴルフ、夜は酒宴の2泊3日を過ごした。海の男や港の女を主人公に、数多くのヒット曲を書いた〝海の詩人〟星野の、いわば〝海のおさらい〟の旅だ。
 実際に彼が東シナ海で漁をするトロール船・第六あけぼの丸に乗っていたのは、終戦後のわずか2年。病を得て海を断念、作詞家に転じたが、功なり名遂げてもなお、
 「海で一生を終わりたかった」
 と言うこだわりがあった。
 「僕は鹿部へ、心身に潮気を満たすために来ている。昔、船乗りだった僕から、いつか潮気が失せていたら、これ以上の恥はない」
 星野は〝鹿部ぶらり旅〟の本意をそう語ったものだ。
 一方の鹿部の人々には、知名人を招いて活性化を計る〝町おこし〟の狙いがあった。「21世紀を考える獏の会」のメンバーが、たまたま星野に声をかけたのは函館空港。ひょんな出会いが「海」と「男同志」をキイワードに、21年分もの友情で結ばれたことになる。その獏の会のメンバーで、星野の招へい元を買って出たのが道場登氏。20代で独立、たらこ専門の会社を興し「たらこの親父」の異名を道内にはせた立志伝中の人だ。それが大の酒好き、歌好き、ゴルフ好きで、あっという間に二人は肝胆相照らす仲になった。
 海の男の特徴は、寡黙であること。無造作に身軽なこと。さりげなさと完璧さを持ち合わせ、あ・うんの呼吸で心を通わせ合うこと。だから彼らは、自分の本能を信じて生き、自然、虚飾の部分はそぎ落とされている。星野の旅のお供を続けた作曲家岡千秋、作詞家里村龍一と僕は、星野と道場のとっつぁんの交友の傍に居て、そんなことを学んだ。乞われれば岡は「海峡の春」や「黒あげは」を弾き語りで歌い、里村は釧路訛りのだみ声「新・日本昔ばなし」なるブラックユーモアで、漁師とそのかみさんたちを大笑いさせた。
 星野が逝ったのは平成22年11月で享年85。僕らトリオは、驚いたことに、
 「お前らが、星野先生の名代で来い!」
 という道場社長の鶴の一声で、その後も鹿部詣でを続けた。行けば行ったで、払暁の釣りやゴルフ、昼からの酒である。ゴルフコンペにはずっと「星野哲郎杯」の横断幕が張られた。海の男のもう一つの特徴は、故人の追悼に心を砕く情の深さ。道場氏の場合はこれに、視野の広さ、心根の優しさ、無類の寂しがり屋が加わる。
 海の詩人と日本一のたらこの親父の友情に、ピリオドが打たれたのは今年1月5日午後だった。正月三が日は相変わらず飲んでいたという道場社長の訃報は、あまりにも突然だった。誤えんが原因の心不全。尚子夫人が気づいた時は、居間のソファに寄りかかる形だったそうだ。9日午後6時から通夜、10日午後1時からが葬儀。僕らは初めて冬の鹿部へ飛んだ。岡と里村と僕、それに元コロムビアの大木舜、作詩家協会の高月茂代と、僕の後輩でスポニチプライムの高田雅春が9日の便。高田は事あるごとに僕らのツアコンにされる。10日当日は、仕事で体が空かなかった星野の長男有近真澄の代理で由紀子夫人と星野の秘書だった岸佐智子がとんぼ帰りだ。
 葬儀は僕らがいつも宿舎にしたロイヤルホテルみなみ北海道鹿部のホールで、株式会社丸鮮道場水産の社葬として営まれた。ゴルフで顔なじみの男たちが、道場家長男の真一君、二男登志男君を中心に立ち働く。喪主の尚子夫人と長女真弓さんは気丈な立ち居振舞い、指揮するのは渡島信用金庫の伊藤新吉理事長で葬儀委員長である。読経は曹洞宗の僧侶が8人、ご詠歌は7人の婦人たち。焼香する人々は鹿部の人々全員かと思えるほどの列を作った。32人もの子供や孫、親戚の人々に囲まれて、道場氏の遺影は鹿部のボス然とした笑顔。戒名は「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」享年79だった。
週刊ミュージック・リポート