新歩道橋1044回

2019年3月10日更新


 「仲間たちをなァ、大事になァ」
 これが亡くなった作曲家船村徹からのメッセージ。本人の筆跡で、遺影とともに祭壇に飾られた。透明のアクリル板仕立てで、背後の桜の花が透けて見える。その前には位牌と、生前愛飲した酒「男の友情」のボトルや愛用のグラス、周囲には春の花々が揃う。2月16日の祥月命日、グランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」でのことだ。
 業界の葬儀屋よろしく、数多くの作家や知人の葬儀や法要を手伝って来たが、
 《3回忌が一番むずかしいな》
 と常々思っていた。亡くなってまだ2年、大ていの遺族は喪失感が生々しい。それに引きかえ参会者の方は、去る者は日々にうとし...で、双方の偲ぶ心にギャップがある。ことに歌社会の面々は、仕事上の懸案事項があれこれあって、自然わいわいがやがやになりやすい。新聞記者時代の僕など、人が集まればネタ探しが最優先だったから、不逞のやからの見本みたいだった。
 「だから今回は、うちうち、アットホームな感じでやりたいの」
 船村夫人の佳子さん、施主になる長男蔦将包とその嫁さゆりさん、船村の娘三月子さん、渚子さんの意見が一致した。
 「判りました」
 と、その意を受けたのが、構成、演出など全体取り仕切りのボス境弘邦と、相談しながら飾り物や花の細工をしたマル源社長の鈴木照義と僕...と、いつものメンバーだ。
 そこで参会者名簿だが、生前の船村と個人的に親しいつき合いのあった人にしぼる。当然親戚の人々、船村の弟子たちの同門会、船村の故郷の栃木、コンビだった作詞家高野公男の茨城勢、後輩の作曲家と作詞家、薫陶よろしきを得た歌手たちということになる。レコード会社やプロダクション関係はごく一部になったから、後日、
 「何で俺が呼ばれなかったの?」
 と疑義を唱える向きには、境と僕の責任だからと謝ることにした。それにしても〝うちうち〟なのに参会者150人である。さすが巨匠船村...と、僕は感じ入る。
 もうひとつの〝それにしても〟だが、素人の僕に司会のおはちが回った。昭和38年夏の初対面以来、知遇を得て船村歴54年、物書きの志と操を習うよりは盗んだ外弟子である。ことに師の晩年は連日のように密着、船村家の番頭格になったうえ、ここ10年余は舞台で役者をやっていて、年も年だから、人前に出てもあがらないだろう...ということでご指名にあずかった。
 《ようし、それなら俺流に...》
 と境の台本を書き直して、本番前には栄養ドリンクなどを飲んだ気合の入れ方。
 来賓のあいさつは、船村の秘書係りまでを長く務めた浅石道夫ジャスラック理事長、船村の件ではこの人を絶対はずせない歌手北島三郎の二人だけ。それでも予定より15分押した。話したいことは山ほどある人たちだから仕方がないにしても、
 「あいさつが〝長い〟と言い切る司会者は初めて見た。僕なんか、口が割けても言えませんよ」
 と、本職の司会者荒木おさむに笑いながら激励された。万事この調子で、それが僕の〝うちうち流〟コンセプト。献杯の五木ひろしには
 「あいさつ、長くなてもいいよ」
 と声をかけた。伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」での船村との出会いから、師匠だった上原げんととのいきがかりまで、こちらも山ほどの思いを持つ。いつもは「仲間たちバンド!」で終わりの紹介だが、メンバー12人を一人ずつていねいに紹介、みんなに一言コメントを貰った。彼らが選んだ船村作品「みだれ髪」「柿の木坂の家」と、家族が選んだ「街路樹」「風雪ながれ旅」を演奏でしみじみと聴く。
 会場入って右側が、まるでフリーマーケット状態。背広上下が2点をはじめ、ジャケット、ジャンパー、コート、作務衣、帽子、ネクタイのセット、ぐい呑み等々。これが全部船村の遺品だったが、カラくじなしのくじ引きで、にぎやかな形見分けになった。お別れは例によって星野哲郎作詞船村徹作曲の「師匠(おやじ)」を関係者の感謝をこめて。歌ったのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会、送り出しの演奏は「宗谷岬」で、会場にも戸外にも、春の気配が濃かった。
 次の日、作詞家の喜多條忠から電話が入る。
 「司会、よかったです。船村先生より俺の方が、足が5センチ長いことが判りました」
 どうやらくじ引きで背広が当たり、帰宅してすぐに着てみたらしい。
週刊ミュージック・リポート