新歩道橋1045回

2019年3月10日更新


 元第一プロダクション社長岸部清さんの死は、淡路島で聞いた。2月11日、作詞家阿久悠の故郷のこの島で、阿久作品限定の大がかりなカラオケ大会「阿久悠音楽祭2019」をやったことは、この欄でも書いた。その大会が終わり、大盛会に気をよくした打ち上げで、ひょいと席をはずしたのが同行した友人の飯田久彦。戻るなり神妙な顔で囁かれたのが岸部さんの訃報だった。
 通夜・葬儀の日程はどうなったか...と、葉山の自宅へ戻ったら、スポーツニッポン新聞の後輩記者から電話が入る。岸部さんの人柄や業績についての問い合わせ。
 《そうか、彼らは岸部さんが元気だったころを知らないんだ。ま、戦後のプロダクション隆盛時代を作った、いわば一期生のせいか...》
 岸部さんの笑顔を思い出す。ぴんからトリオの「女のみち」の件になって、これは結局書かないだろうな...と言いながら、自慢話をひとつした。ある日、霞ヶ関の第一プロ社長室に呼ばれて彼らのテープを聞かされた。
 「どう思う?」
 岸部さんは「女のみち」の値踏みに窮していた。
 「三振かホームラン。限りなくホームランに近い。だけど、ひどい歌詞です。まるで素人でしょう。大当たりはするけど、作品論としてはイマイチもいいとこかな」
 僕はえらそうに太鼓判を押した。何といっても説得力が強力なのは、宮史郎の歌声。悪声の一種だが、だからこそ底辺の女の嘆き歌にビシッとはまっていた。森進一や金田たつえがそうだが、たぐいまれな悪声は、時として天下を取る魅力に通じる。
 大ヒットした。そのころ親しかった第一プロの若手、只野・島津両君が、嬉しそうな顔で、
 「社長がお礼に、台湾旅行に行こうと言ってます」
 のお使いに来た。「バカなことを言うな。はいそうですか、今回はようございましたねなんて、ノコノコ出かける訳はないだろう」と言下に断ったら、二人は虚を衝かれた顔をしたものだ。
 18日、青山葬儀所の岸部さんの通夜に出かける。葬儀委員長がホリプロの堀威夫最高顧問、副委員長が田辺エージェンシー田邊昭知社長とプロダクション尾木の尾木徹代表取締役、世話人がバーニングプロダクションの周防郁雄社長と、業界の大物が勢揃いだ。現役を退いて久しい岸部さんだが、この世界の草創期に名を成した人である。歌社会が総出の弔いになって当然だったろう。
 《ところで只野、島津はどうした?》
 立ち働く元第一プロの諸君を見回したら、
 「只野は大病をして動けず、島津は今のところ連絡がついていない」
 と、教えてくれる人がいた。親しかった分だけ、二人の不在には舌打ちしたい無念さが残った。
 帰宅したら届いていたのはザ・キングトーンズのリードボーカル内田正人の訃報である。「グッドナイト・ベイビー」のヒットで知られる日本の〝ドゥーワップ〟の草分け。小沢音楽事務所に所属、長い親交があったが、小澤椁社長も「グッドナイト...」他を作曲した異色の歌書きむつひろしも、亡くなってずい分の年月が経つ。
 内田は僕と同い年の82才。葬儀は近親者だけでやると聞くと、手を合わせる機会がない。むつひろしを弔ったのは平成17年の9月、「八月の濡れた砂」や「昭和枯れすすき」を書いた異才だが、最晩年は、がんの苦痛と戦っていた。その気をまぎらわせることと激励の意味も含めて、
 「最後に1曲、これぞって曲を書き残せよ。ちあき哲也に詞をつけてもらって、内田正人に歌わせるから」
 と、無茶振りをしたことがある。ところがそのころすでに内田は脳梗塞で倒れていて、以降長い闘病が続いた。そうこうするうちに親友のちあき哲也も旅立ってしまい、むつひろし最後の傑作曲は、宙に浮いたままになった。
 2月25日から僕は今ボルネオに居る。正確に言えばマレーシアのコタキナバルというところで、ハワイのマウイみたいな景観とリゾート施設が整う。連日30度の気温だが、昔の日本の夏みたいな過ごしやすさの中で、小西会の遠出のゴルフ・ツアー。ボルネオはもう10回近く通っているが、幹事長の德永廣志テナーオフィス社長が、
 「小西会もやばいよ。みんな年取っちまって、体調不良のいい訳ばかりだもん」
 と嘆く。結局参加者はゴルフの2組ほど。苦笑いしながら、平成最後の春、僕は遠のいていく昭和と、親しかった人々の友情を思い返している。
週刊ミュージック・リポート