新歩道橋1046回

2019年3月23日更新


 「二度とない人生だから...」
 を冒頭に置いて、いくつかの心得が並ぶ。いわく―、
 「太陽や月、星に感謝して、宇宙の神秘を思い、心を洗い清めていこう」
 「風の中の野の花のように、命を大切にして、必死に、丁寧に生きていこう」
 「お金や出世より、貧しくとも心豊かに、優しく生きてゆこう」
 「残り少ない人生だから、沢山の〝ありがとう〟を言うようにしよう」
 箇条書きにそんな言葉が次々...。一部省略、一部割愛したが、これは亡くなった作詞家下地亜記子の信条であり、同時に遺言にもなった。
 親交のあった歌手真木柚布子は、病床の下地からこのメモを示されて胸を衝かれた。下地はこの時すでに、自分の病状の厳しさを知り、残された日々がそう長くないことを、予感している気配があったと言う。後に真木は、渡されたメモの重さに思い当たる。作詞歴40年、72才で逝った下地は、自身の生き方考え方、歌づくりの姿勢を総括、それを歌みたいな表現で、真木に伝えたのではなかったか!
 3月11日、中野サンプラザ13階のコスモルームで、真木は「下地亜記子先生との思い出ライブ」を開いた。「託された詩があり、伝えたい歌がある」をテーマに、3回忌の追悼イベント。彼女のファンや下地の知人、関係者など230人が集まった、こぶりのディナーショーである。その舞台で真木は、下地の遺言を朗読した。作曲家樋口義高のギター演奏がバックで、寄り添うように静か。
 《3回忌に、こういう催しもありなんだ...》
 2月16日に作曲家船村徹の3回忌の宴を、司会で手伝ったばかりの僕は、それとこれとを思い合わせる。船村の場合は、故人と親交のあった人だけを招いて、遺族の「アットホームな雰囲気に」という希望を満たした。一方下地の場合は、真木が下地作品を歌いまくる歌謡ショー。冒頭と幕切れに息子の下地龍魔があいさつをしたことだけが、それらしさの演出だ。
 ともかくにぎやかだった。曲目を挙げれば、お祝いソングの「宝船」から、本格演歌の「北の浜唄」「夜叉」「雨の思案橋」にコミカルな「ふられ上手」「助六さん」リズムものの「大阪ブギウギ」「夜明けのチャチャチャ」じっくり聞かせるのは歌謡芝居「九段の母」...である。劇団四季に居たこともある芸達者・真木のために書いたとは言え、下地の詞世界の幅の広さがよく判る。隣りの席に居たキングの中田信也プロデューサーが
 「売れ線ばかり作っても、おもろないもんねえ」
 と笑ったが、彼が主導したトリオならではの面白さが前面に出ている。
 下地は世渡り下手な作詞家だった。広告代理店のコピーライターから転じたと聞くが、歌謡界の表通りに出てはいない。それでは裏通りに居たかと言えばそうでもなく、コツコツと「自分の道」を歩いて来た人だ。決して器用な人だとも思えない。歴史ものにはちゃんと下調べをした痕跡があり、書いては消し、消しては書いた推敲のあとが歴然。歌の常套フレーズの中に、自分の言葉を書き込む粘り強さで、中には言葉山盛り、書き過ぎと思える作品もあった。安易に流れることを嫌った彼女の作詞術は、いってみれば力仕事で、出来栄えは〝おとこ前〟だったろうか。
 真木もまた、表通りではなく、自分の道を行く歌手である。先に書いた曲目がそれぞれシングルで発表される都度、
 《中田は一体、何を考えているんだ?》
 と、企画の蛇行、路線の見えなさに疑問を持ったものだ。それが過日、真木のコンサートを見て、眼からウロコが落ちた。趣きが多岐にわたる作品群を、巧みに並べ合わせた構成で、まるで「ひとりバラエティー」の面白さ。歌謡ひとり芝居も情が濃いめで、僕は不覚にも涙ぐんだりした。
 《彼女はそういうタイプのエンタテイナーなんだ...》
 と合点する。それは流行歌の歌い手だから、一発ブレークを念じないはずはない。しかし下地・真木・中田のトリオは、ヒット狙いにあくせくするのを避け、真木なりの世界を作ることにも制作の狙いを絞っていたということか。
 下地3回忌ショーの客席で右隣りに居たのが元JCMの岡賢一社長。森山慎也の筆名で香西かおりの「酒のやど」ほかのヒットを持つ人だが、 「この催しを決定的にいい会にしたのは、真木の誠意と歌手としての実力だな」
 と感嘆していた。下地亜記子ももって冥すべきだったろう。
週刊ミュージック・リポート