新歩道橋1051回

2019年5月12日更新


 久々に仲町会のゴルフコンペがあった。4月17日、名門の千葉・鎌ヶ谷カントリークラブ。西コースのスタートホールの第1打。ドライバーショットが自分でも驚くほど、よく飛んだ。
 「ナイス・ショット!」
 同じ組の作曲家弦哲也や後の組の四方章人、アレンジャーの南郷達也らから〝おほめ〟の声がかかる。その他の声には「えっ? どうしたの?」に似た怪訝の気配がにじんだが、
 《ようし! 大丈夫だ、この調子なら》
 と、僕はひそかに自分自身を励ました―。
 それなりのヒミツはある。前夜は一人、ゴルフ場近くのビジネスホテルに泊まった。葉山から早朝移動の体調ロスをまず避ける。次に「80才を越したんだから」と言い立てて、シルバー・ティーから打つ特権!? を獲得した。距離的に大分オマケがある。三つめは、亡くなった作曲家船村徹の形見分けのドライバー。まだビニールで覆われて未使用だったが、テレビの通販番組で〝驚異的飛距離〟と宣伝されている業物である。もっとも僕が、それを誇示するのはいい当たりの時だけ。チョロでは故人に顔向けが出来ない。
 「年齢なんて関係ねえよ」
 とうそぶいていたのは、70代後半まで。80才を過ぎたら〝思い込み〟と〝体調〟のギャップが、やたらに大きくなった。2月末に小西会コンペで遠征したボルネオ(マレーシア)では醜態を演じた。1ラウンド終わって、ホテルの部屋へ戻った午後、食事もそこそこに熱を出して寝込んだ。熱中症まがいで、まだ冬の日本から気温35度の現地、体の対応が追いつけなかった。病院へ連れて行かれて点滴を受ける。夜は一行の酒盛りに復帰するにはしたが...。
 「統領、タフだねえ」
 「80過ぎとは思えないよ」
 などというはやし言葉に、常々〝その気〟になったのは愚の極みと思い知った。その後だけに千葉の「ようし!」は、大事な体力の確認である。ゴールデンウィーク明けの15日から、6月の大阪新歌舞伎座公演のけいこが始まる。
 劇場開場60周年を記念した松平健・川中美幸特別公演で、平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」が第一部。浅草龍泉寺町の裏長屋を舞台に、気のいい水売り行商の六助(松平)とかかあ天下の女房はな(川中)を軸にした時代もの人情劇である。僕は町内の世話役甚吉という役を貰って、一場面だが両主役にからむ。年のせいで体にガタが来ていて...じゃ面目が立たない。
 セリフを一生懸命覚えながら、栃木・下野新聞の連載の書きだめをする。「続・素顔の船村徹~共に歩んだ半世紀」で、昨年1年間、月2本で24本書いたものの続編である。昭和38年の初対面以来、僕の船村歴は54年。知遇を得て密着取材、〝外弟子〟を称して鳥羽一郎ら〝内弟子5人の会〟には兄貴風を吹かせている。最晩年の心臓手術から文化勲章受章、亡くなっての通夜、葬儀、1周忌、3回忌の法要まで、ずっと身辺に居たから、ほとんど〝親戚のおじさん〟状態。書くべきネタは山ほどあり、しかも下野新聞は船村の地元発行紙だから、気合いが入らざるを得ない。
 5月分2本は入稿した。6月は大阪暮らしだから、あちらへ入る前に書いておこう。年寄りのぺいぺい役者が、公演の合い間に原稿書きなどもってのほか。ご一緒する向きが僕を〝二足のワラジ〟と知ってはいても、それに甘んじては芝居の世界のお行儀として最悪だろう。第一、資料のあれこれを宿舎のホテルに持ち込めば、大荷物を運搬することになる。
 昨年24本、今年24本の連載となると、合計すれば単行本一冊くらいの分量。それを船村メロディーの曲目ごとに書くのだから、こちらで数えれば48曲分。さて、どの歌にしようか、あれも書きたいし、これも捨て難い。誰もが知っているヒット曲ははずせないし、隠れた名曲もある。北島三郎を筆頭に、育てられた歌手たちにも触れておきたい。それやこれやに思いをめぐらせる日夜、亡くなった船村が、僕の脳裡からずっと居なくならない。
 「...という訳でさ」
 なんて言いながら、ドライバーショットをビシッ、時にチョロ。スコアは西コース49、東コース54の合計103になったが、ぴったりオネストで、僕としてはまずまずの成果。しっかりけいこに励み、その間に雑事もこなして、これなら元気に大阪へ入れそうと気をよくしている。
週刊ミュージック・リポート