新歩道橋1056回

2019年6月30日更新


 ホテルの部屋、電話器のメッセージ・ランプが点滅する。酔眠にその朱色がまぶしい。
 《東京の便り、それも音楽界からか...》
 案の定、キングレコードからのCDがフロントに届いていた。秋元順子の新曲のオケとテスト・ボーカルが収められたものだ。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲の「たそがれ坂の二日月」で、アレンジは川村栄二。
 《いいね、いいね...》
 と深夜、ひとりで悦に入る。編曲は杉本と相談、異口同音で川村に決めた。すっきりと今日的な味わいのポップス系で、おとなの情感が粋だ。歌い手の〝思い〟に預ける音の隙間づくりが心憎く、秋元の歌声が生き生きとするはずだ。
 詞の喜多條は僕の推薦、いきがかりがいろいろあるから虚心坦懐、大ていの無理は聞いてもらえる。作曲の杉本は秋元のリクエスト。詞の思いの伝え方が彼流の語り口とリズム感で快い。テストの秋元の歌には、杉本流の口調があちこちにあってニヤニヤする。これを彼女は、少し時間をかけて、きっちり彼女流に仕立て直すだろう。それだけの個性と年輪の味わいを楽しみにしようか!
 手数をかけているのは、キングの湊尚子ディレクターである。プロデューサーの僕が、大阪・新歌舞伎座6月公演に出ていて不在。そのくせ、作品の狙いはどうの、ジャケットはどうの...と、あれこれ伝えた面倒を、着々とココロとカタチにしてくれるはず。届いたCDはその経過報告の手紙つきだ。
 「そんな無茶なことしてて、本当にいいんですか?」
 川中美幸側近の岩佐進悟が制作者不在を心配する。新歌舞伎座は川中と松平健の2座長公演。けいこから本番まで、責任者としてずっと一緒の岩佐とは、
 「シンゴ、お前なあ...」
 と、呼び捨てのつき合いが長い兄弟分だから、何ごとによらず肚から話し合う仲だ。
 進悟が気づかうのも当然なのだ。僕は秋元のアルバム「令和元年の猫たち」も同時進行でプロデュースしている。長いことメモして貯めて来た〝猫ソング〟の集大成のつもり。昨今の猫ブームを当て込んだと言われればその通りだが、作品はそれぞれ、埋もれたいい作品揃いである。例えば、寺山修司が浅川マキのために書いた「ふしあわせという名の猫」は、寺山ならではの筆致と情感。昔、なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」の中の1曲「猫につけた鈴の音」は、面白くてやがて悲しいシャンソン風味だ。
 子供が欲しいと言った女。それが愛の形とは思わないと拒む男。失望して女は去るのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなって、のそのそと歩くけだるい夏の昼ざかり。男はその猫に鈴をつけてあげて「おめでとう、おめでとう」と頭をなぜるのだが、その胸中はいかばかりか。
 《自作自演の礼ちゃんも、ここまでは歌えなかったな》
 と、僕はひそかに憎まれ口を叩く。秋元が歌い、語る味わいの精緻さを思えば、この楽曲は初めて、手がけるべき歌手を得たということになるだろう。
 犬は餌をくれる人間を、自分にとっての神だと考える。猫は人間が餌をくれるのは、自分が神だからだと思うのだ。そんな言い伝えが、ヨーロッパのどこかの島にあると聞いた。猫は決して口外しないが、人間の営みのすべてを熟視し、何も彼も知り尽くしている。歌づくりの名手たちは、そんな猫の人生(!?)を描き、猫に人間の哀歓を託して来た。今作には阿久悠が書いた「シャム猫を抱いて」や「猫のファド」も加えた。中島みゆきや山崎ハコが生みの親の猫ソングも、得がたい味わいがある。猫で連想するおなじみの曲ならちあき哲也の「ノラ」それに「黒猫のタンゴ」か。
 別便でまた、湊ディレクターからトラックダウンしたそんな9曲分のCDが届く。これまた深夜、用意のウォークマンでしみじみと聞き直す。秋元の歌唱も秀逸だが、何よりも、作詞家たちの人生観や世界観が深い。聞けば聞くほど、さりげなく暖かく、しみじみと胸に刺さってくる。
 《うん、これはなかなかのアルバムだ!》
 酒の酔いが醒めてまた、別の酔い心地を味わいながら、自画自賛のひととき。芝居に打ち込む折々に思い当たるのだが、僕の正体はエエかっこしいのナルシストなのかも知れない。
 月末、ひと仕事終えたら僕は、1カ月ぶりに葉山の自宅に戻る。ドアを開けた瞬間、わずかに身構える愛猫の「風(ふう)」と「パフ」の2匹は、次にまた、
 「何だ、お前か!」
 という顔をするだろう。
週刊ミュージック・リポート