新歩道橋1058回

2019年7月20日更新


 店の照明が消えた。細長いカウンターの奥にある小さな庭園だけが、くっきりと浮かび上がる。草木の緑が色濃い装飾用のそれは「坪庭」と呼ばれるそうな。その手前に女性の人影が、うすらと見えて、彼女が吹き始めたのは篠笛である。哀感に満ちたその音色が、しょうしょうと店の空間を満たす。カウンターの酔客も僕も、粛然として束の間「いにしえの魅惑」へ導かれる。
 7月9日深夜、場所は北陸金沢のひがし茶屋街、美しい出格子の古い町並みの大路は、寝静まったように人影もない。その通りの奥、突き当りの右側角で、ひっそりと営むスナックが一軒。篠笛を吹いた佳人はその店のママで、元芸妓。愛用の篠笛を見せて貰ったら、うるし塗りの黒で、この方が素の竹笛よりも音色が丸く優しげになるという。1820年に町割を改めお茶屋を集めたこの地区で、伝統を守る昔気質の女性と思ったら、毎朝10キロを走り、東京五輪の聖火リレー走者に応募する気だと、明るく笑った。
 翌10日昼前から、僕は金沢テレビの「弦哲也の人生夢あり歌もあり」にゲスト出演した。作曲家弦哲也が石川県のあちこちを訪ね、ゲストとその風土や景観の妙を語り、双方の夢や歌心を披露するのが狙い。地元の名士・作家五木寛之が「恋歌サミット」というイベントをやり、弦がそれに招かれたのが縁で、彼がホスト役のこの番組が生まれたと言う。以来、金沢通いをして14年、弦はもはや優秀なこの町ガイド。車で移動する間の発言も、「ここが武家屋敷跡」「ここが近江町市場」「あれが兼六園」「あれが21世紀美術館」「こちら側が犀川、あちら側が浅野川」...と懇切ていねい。ついには加賀百万石の歴史や栄耀栄華にまでおよんだ。
 ところで番組のロケだが、午前から夕刻までで3本分。訪ねた先は林恒宏さんが活動の拠点にする「語りバコ」と、平賀正樹さんが経営するジャズ喫茶「もっきりや」の2カ所。林さんは発声と言語の指導者で研声舎を主宰する「声の達人」ナレーター、俳優として活動するほか、ビジネスマン向けのボイストレーニングにも精を出す。平賀さんは精力的なレコード・コレクターで、有名無名のミュージシャンや歌手たちと親交のあるマスターだ。
 林さんと「声談義」になるのは、僕が舞台役者をやっているせい。実は6月の新歌舞伎座公演にも金沢テレビのクルーが入っていて、主演の川中美幸と松平健にからむ僕の場面を取材していた。それもインサートする番組だから、僕は身にあまる光栄に恐縮しきり。林さんが室生犀星の詩を朗読する技には、弦ともども膝を打ったものだ。
 平賀さんの「もっきりや」では〝幻のブルースシンガー〟と呼ばれた浅川マキの話になる。彼女は近辺の美川町の出身。寺山修司がプロデュース〝アングラの女王〟として頭角を現わす1960年代から、僕もその一部始終につき合っている。昔々のこと、真夜中に突然マキから歌いたいという電話があり、平賀さんが店に客を集めなおして、明け方までアカペラコンサートを開いたなどというエピソードが出てくる。店には彼女のファーストアルバムもあった。僕は寺山の詞、山木幸三郎の曲の「ふしあわせという名の猫」を所望する。最近秋元順子のアルバムを制作、カバーしたばかりだから、感慨が生々しい。ニューハードのギター奏者で作、編曲をやった山木も、ふらりとこの店に現れたと言う。
 厄介だったのはこの番組、ゲスト出演したら必ず一曲ずつ歌う決まりごとがあったこと。ディレクターの注文で僕は、プロデュースした「舟唄」をまず歌う。声の達人の林さんが歌詞を朗読したあと、同じ部分を弦のギター伴奏でという趣向。作りはしたが歌うことなどなかった作品だが、アンコのダンチョネ節は小林旭の「アキラのダンチョネ節」の後半
 〽嫌だ、やだやだ、別れちゃ嫌だと...
 をパクってお遊びとした。
 平賀さんの店では、ステージで「夜霧のブルース」をやる。弦のイントロが思いっ切りブルースだったが、こちらはバーボンをチビチだからいつもの気分。マスターは音楽評論家の歌ってのは、そんなもんか...と思ったろう。
 さて、冒頭に書いたひがし茶屋街の件は、撮影前夜に前乗りしての見聞。その後僕は酔いに任せて片町新天地へ足をのばした。こちらは一転、巨大な迷路めいた路地を埋めて、居酒屋やバー、レストランなどが密集する庶民の歓楽街。その一軒のバーで、僕はレコードで「カスバの女」を聞いた。昭和20年代のエト邦枝のヒット曲である。そんな昔との出会いも飛び出して、金沢の1泊2日は、実に何とも感興深いものになった。
週刊ミュージック・リポート