新歩道橋1060回

2019年8月10日更新


〽ナムカラカンノトラヤ~ヤ...
 がまた出て来た。太平洋戦争に日本が敗れた昭和20年、疎開して一時世話になった寺で、耳で覚えたお経の一部である。当時僕は小学校3年生(そのころはまだ国民学校と言った)だから、その意味など判るはずもない。歌謡少年の僕は、おまじないみたいに音だけで、これを覚えた。片仮名で書くしかないが、その表記だって正確とは全く思えない。
 それにしても、ひと夏に2回である。1回目は7月12日の臨海斎場、ひばりプロ加藤和也社長の運転手・西澤利男氏の葬儀で聞いた。そして今度は同じ月の21日、永平寺別院長谷寺で営まれた作詞家阿久悠の13回忌法要で耳にする。阿久の墓は当初、伊豆の高台にあった。家族が住居を東京に移したころに、それも東京へ移転した。場所は六本木通りを青山の骨董通りへ右折する手前の角である。〝怪物〟の名をほしいままにした阿久の、〝主戦場〟にあたる界隈。ここならみんな、思いつく都度、いつでも墓参りが出来よう。
 近ごろちょくちょく連絡を取っていた息子の深田太郎から、
 「親族だけでやるつもりだけど...」
 と聞いた僕が、
 「俺も親族みたいなもんだろ!」
 と強弁して押しかけた法要である。
 《もう13回忌か...。それにしても午前10時からってのは早いな。俺、葉山からだぜ...》
 身勝手な感想を抱えながら、控え室に通されたら、雄子夫人に太郎夫妻、阿久が見ぬままに逝った孫を中心に、集まったのはごく少人数。血縁でないのは、オフィス・トゥーワンの海老名俊則社長夫妻と僕だけだった。間もなく本堂へ。僧だけはすごく大勢である。メインの椅子に1人、それに両側で従う僧が5人ずつ。その後ろにもかなりの僧たちが控えていて、鐘と木魚の係りが1人ずつといった具合い。参列した僕らより相当に多い豪華版だ。
 《内々でやっても、することはきちんと、堂々と構えるあたりが、実にあの人の法要らしい》
 長いこと歌づくりに密着したが、阿久は僕らのスポニチに、エッセイや連載小説、作詞講座に27年におよぶ大河連載「甲子園の詩」などを精力的に寄稿した。しかしその間、慣れや手抜きのゆるみたるみが、一切なかった事に改めて感じ入る。
 粛然たる法要もいいもので、読経の声がまっすぐに胸に来る。その中に「愛語」という言葉が出て来た。たまに耳にすることのある熟語である。阿久も僕も言葉や文字を繰る仕事をして来た。
 《この際だから、この言葉が経の中でどういう意味を持つのかを考えてみるか》
 僕は帰りしなに「修証義」なる小冊子を買い求めた。曹洞宗宗務庁刊で100円である。それによれば、衆生を利益する「四枚の般若」というのがあり、一が「布施」二が「愛語」三が「利行」四が「同事」で「これすなわち、薩?の行願」だと言う。仏の教えや戒めということか。
 「愛語」にこだわる。これは赤子の思いを貯えて言語するもので、徳あるは讃(ほ)め、徳なきは憐み、怨敵を降伏し、君子を和睦させることを根本とし、聞く人を喜ばせ、心を楽しませる。聞いた人は肝に銘じ、魂に銘じる。だから「愛語」は「廻天の力」があると言うのだ。
 《なるほど、そういうことか...》
 と、僕は腑に落ちた気分になる。
 今回の法要は、お清めの食事もなしで墓に焼香して散会した。これもいい! と共感しながら、手土産に添えられた太郎と雄子夫人のあいさつ状を読む。
 「時代が昭和から平成、そして令和に突入いたしました。いつの時代も音楽が聞こえてくるような平和な世の中を祈り、これからも阿久悠が遺した歌の数々が、令和を生きる皆様の心のよりどころになるように、私どもも努力して参ります」
 とあった。
 阿久が書いた山ほどのヒット曲は、すべて彼が発した「愛語」だったと思い知る。流行歌に彼は、彼の信条や哲学を全力をあげて書き込んだ。だからこそ彼の作品は良質な娯楽として、長く人々の心を楽しませ、感興を深いものにするのか―。
 「今回は珍しく、抹香くさい内容だな」
 と思われる向きもあろう。10月で83才と馬齢を重ねた男の、老境が書かせたものとお汲み取り頂きたい。7月までとは一転、酷暑の日々が来た。間もなく「お盆」で9連休とかになる。帰省する人々、外遊する人々などで、みんなは大移動する。そんなお楽しみの中で、
 「〝愛語〟なあ...」
 なんてひととき、あれこれ思い返すのも、一興じゃありませんか!
週刊ミュージック・リポート