新歩道橋1065回

2019年9月28日更新


 年がいくつになっても、面白いことに目がない。新聞社勤めが長かったことが、性分に輪をかけていようか。近ごろは、行動半径こそせばまっているが、人間関係は深く、意外な方面へ広がって心躍ることが次々。ここ12年ほど、舞台の役者に熱中しているのもそのひとつ。ズブの素人が、70才からこの道に入ったのだから、それなりの苦心や緊張も味わっているが、要は面白くてたまらないのだ。それにしても―。
 大阪の行きつけの居酒屋から、歌手のCDの売り込み!? が届くとは思ってもみなかった。差し出し人は「久六」の女将今井かほるさん。作品は田村芽実という歌手の「舞台」「花のささやき」「愛の讃歌」の3曲入りで、
 「息子が小西さんに聴いて欲しいと何回も言うので...」
 という手紙が添えられている。「久六」は川中美幸公演などで1カ月くらい大阪住まいをする時の、僕の夜の拠点。気に入った店があると通い詰めて、わがままな常連客になる癖があるが、この店も10年を越すつきあいだ。店では「おっかさん!」と呼ぶ女将と長く意気投合していて「息子」と言うのは二代めの大将克至さん、これが熟年筋金入りのアイドル・オタクで、歌手田村は愛称が「メイメイ」とあり、ジャケット写真も、いかにも...のいでたちである。
 「おっかさん」と「大将」は、僕の泣きどころもしっかり抑えていた。3曲のうち「花のささやき」が、亡くなった阿久悠が遺した詞で、作曲がその息子深田太郎とある。川中美幸一家の役者やミュージシャン、マネジャーらを中心に、お仲間と夜な夜なおだを上げるのだから、阿久父子と僕の親交も、店の2人はよく聞き知っていたのだろう。手紙の行間に「これが気に入らぬはずはない」といいたげな笑顔が並んで見える。
 《それはそうだよな》
 と、僕はニヤつきながらCDを聴く。実は少し以前にも聞いていて、そちらは阿久の息子の太郎から届いていた。それも彼が出版した書きおろしの『「歌だけが残る」と、あなたは言った―わが父、阿久悠』(河出書房新社刊)と一緒。そのあとがきで彼は『田村は「二〇一八年にソロデビューした天才歌手」』と触れている。その時期太郎は、彼女のミニ・アルバムに父子共作の「カガミよカガミ」を提供したとかで、そうすると今作は、2作めになるのだろうか?
 太郎は20代にバンドを組んでいたころ、
 「セックス・ピストルズの演奏に、ヘンリー・マンシーニのメロディーを乗せたい」
 と、思いつきを話したという。それが50代になった今日、こういう姿の音楽になったものか...。
 〽はしゃいでいるだけで本気が苦手、いつもジョークで、たがいに笑わせて...
 と、阿久の詞は年ごろの女の子の不器用な生き方と生きづらい時代にふれる。「たった一人を死ぬほど思いつめる」恋を思い描きながら、主人公は、ふと、
 〽夢中、熱中、チュウチュウチュチュチュ...
 なんてフレーズを口ずさむのだ。メロディーとリズムは、そんな若い娘の屈託を軽めに、多少の苦渋もにじませながら、太郎ロックとでも言えそうなセンスだ。
 メイメイこと田村芽実の歌声が、何とも言い難い魅力を持つ。朗々とは声を張らず、幼げな口ぶりで語ることもなく囁くともない。それがアイドル世代のもの言いに通じるさりげなさと頼りなさに聴こえ、今ふうな心のゆらめきやときめきを伝えるかと思うと、ドキッとするような妖しい声味が出て来たりする。これがハロプロ・オタクの「大将」をうっとりさせ、作曲者深田太郎をして「天才」と呼ばせるゆえんだろうが、正直なところ旧々世代の僕は、心中たたらを踏む心地もしないではない。
 ところで太郎の著書だが〝怪物〟と呼ばれ、時代を疾駆した大物作詞家と、繊細な感性を持つ一人息子の、極めて特異な父子関係を語って実に興味深い。多忙に追われ、めったに帰宅しない父を迎える時は「特別な客」に見えた子供のころから、「父以外のもの、ロック」と出会う青春時代、「阿久悠と関わらない人生」をテーマにした学生時代「株式会社阿久悠」の取締役として、父の歩みを検証、その業績を後世に伝える昨今までを、敬意をこめ注意深く、率直に伝える好著だ。
 大阪の居酒屋「久六」には、僕の留守中も在阪の役者さんが現れ、僕の東京の芝居の様子は、在京の女優さんがメールで「大将」に伝えているらしい。おっかさんの手紙には、
 「早く大阪へ戻って! 来たら必ず店へおいで」
 の意も、さりげなく書き込まれていた。
週刊ミュージック・リポート