新歩道橋1068回

2019年11月9日更新


《北島三郎は元気だ!》
 そう書くっきゃないな、これは...と思った。10月27日昼、東京プリンスホテルで開かれた作曲家中村典正のお別れの会でのこと。弔辞で彼は中村との交遊を語り尽くそうとした。弔辞は大てい書いたものを読み、故人の人柄や業績をたたえて型通りになるものだ。それを北島は遺影に正面切って、淡々と、時おり語気を強めながら、素手で語りかけた。言いたいことは山ほどある。時間的な長さなど意に介さずにまっしぐら。その熱意と音吐朗々に、僕は感じ入った。
 お別れの会は日本クラウンの和田康孝社長と北島、それに中村夫人の歌手松前ひろ子が本名の中村弘子として3人が施主。北島は中村の友人であり、歌手代表であり、松前のいとこに当たるから親戚代表でもあったろうか。中村の作曲家デビューは北島の「田舎へ帰れよ」で昭和39年。その前年に創立されたクラウンは、この年の正月に第1回新譜を出している。コロムビアから移籍、クラウンの看板歌手になった北島と中村は、いわば同社同期の間柄。その後中村は北島のヒット曲「仁義」「終着駅は始発駅」のほかに「盃」「誠」「斧」など話題の一文字タイトルの歌づくりに参加している。
 「歌手志望だったことは知らなかった...」
 北島はつき合いのそもそもから語りはじめた。昔、歌手の登竜門として知られたコロムビア歌謡コンクールで入賞、山口・周南市から上京、歌手若山彰の付き人になり、作曲家原六郎に師事、作曲に転じた中村の、苦労人ぶりに気づいたのかも知れない。
 「いやなところを一度も見せたことがない、いい男だった」
 と言うのは、人前に出たがらない謙虚さと、囲碁、盆栽を趣味とする穏やかな人柄、麻雀とゴルフでの人づきあいなどを指していそうだ。
 松前は北島の父方のいとこである。彼は当初彼女のプロ入りを渋ったとも聞くが、何くれとなく面倒を見たのだろう。中村に松前との結婚をすすめたのも俺...と弔辞は続いた。晴れてプロになった松前は、交通事故で声を失い、8年間ものブランクを余儀なくされている。中村がその間を支えて、再起から今日にいたる〝夫唱婦随〟ぶりにも、心を打たれていよう。
 中村・松前夫妻は、門を叩いた三山ひろしを中堅演歌一方の旗頭に育てあげている。そのうえ娘の結婚相手として迎え入れた家庭づくりも堅実。性格的にはどうやら〝婦唱夫随〟の一端がうかがえるが、地方から捨て身で上京、名声と一定の平穏を得た彼らの生き方と身辺の固め方は、北島の若いころと軌を一にしているかも知れない。
 ボスの肝入りの会だから会場内外には北島一家の顔が揃った。クラウンゆかりの古い人々の顔もずらり。みんなに親しまれたトラちゃんに献花する顔ぶれには、昨今の歌謡界と古きよき時代の歌謡界が交錯して見えた。ニックネームの由来は、中村がまだ無名だった昭和40年代にさかのぼる。彼の航空券を手配する担当者が、姓は判るが名が判らず「ええい、面倒」とばかり「とらきち」と書き込んだそうな。当時プロゴルファーの中村寅吉が有名だったことからの連想。そう言えば...と思い出すのだが、創立からしばらく「クラウン・スターパレード」一行が地方へよく出かけた。各地の民放テレビで歌手勢揃いの番組を放送、合わせて、首脳陣がその地区のレコード販売店主と会合を開き、よしみを通じた作戦。僕も取材で何度か同行したが、作曲家「中村とらきち」の名前の部分に、どういう漢字を当てはめたかは定かではない。いずれにしろ日本の7社めのレコード会社として誕生したクラウンの、牧歌的な時期の話ではある。
 お別れの会の献花の返礼に、北島は松前と三山にはさまれ、椅子に座って対応した。彼が頸椎の手術のあと、立ち居振舞いに窮していることは周知の事実。
 「それにしても、元気ですな」
 と握手した僕の右手を、彼はしばらく放さなかった。彼や中村が過ごしたここ50年余を、よく知っている僕への懐旧の共感か。古きよき時代のあれこれを語り伝えたい思いが、彼の談話を長いものにしているのは、このところ恒例なのだ。
 息子に先立たれ、身体が思うに任せぬいらだちもあるはずだが、それは表に出さず、北島三郎の動きは活発である。原譲二の筆名の作曲活動は旺盛だし、新曲も8月に出した「前に...」が今年のCD3枚目。
 〽かわすな、ひるむな、ためらうな...
 〽おごるな、迷うな、恐れるな...
 と伊藤美和の詞に託して力説力唱する。中村典正と北島は83才。はばかりながら僕も同い年だが、元気な北島に尻を叩かれている心地がしたものだ。
週刊ミュージック・リポート