新歩道橋1074回

2020年2月22日更新


 第一景は公園、その群衆の中の一人に僕は居る。占い師としての装束は、お衣装さんの女性が着せてくれた。小道具もそれなりで板着き、音楽が始まり、緞帳が上がる。緊張の一瞬である。ところが―、
 客席がまっ白なのだ。ン? と、一瞬こちらの気持ちがたたらを踏む。目を凝らせばそこに出現しているのは、マスクの大群である。2月、明治座の川中美幸公演、世の中は新型コロナウイルスの疑心暗鬼が蔓延している。中国の武漢に端を発したこの疫病は、正体は判っていても伝播の実態が多様でつかみにくく、国内で死者も出た。とりあえずマスクと手洗い...と対応の指針がシンプルなだけ、東京はマスク顔の氾濫になった。劇場も同様なのだが、面白いのは休憩時間の後の客席。マスクの数が半分以下に減っている。食事のあとはやはり鬱陶しいのだし、危機感もとりあえず棚あげというのが、庶民感情なのか?
 大劇場の長期公演に入ると、月日や曜日、時刻などがひどくあやふやになる。ま、やっているのが非日常の世界のせいだろうが、楽屋と舞台の行き来ばかりは、実に正確に規則正しい。次の出番で劇場下手の階段を上がると、途中で必ず仕事が終わった役者に会う。「お疲れさま」「行ってらっしゃい」などと、小声のあいさつを交わし、スタッフの懐中電灯に導かれ、位置につけば、必ず主演の川中美幸の後ろ姿がそこにあるといった按配。彼女主演の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の一場面だが、観客が見ている舞台上の役者の流れと相対する型で、舞台裏も人が流れているのだ。
 ふと客席に眼を移す。舞台上の暗闇で揺れるちょうちんの灯りに合わせて、ペンライトが揺れている。灯りを手にする彼我の男女をいい気分にする一体感。川中のヒット曲の一つ「ちょうちんの花」が必ずこういう現象を起こす。
 《阿久悠の詞だな、飲み屋の一隅で、〝人生ばなし〟をするという表現が、いかにも彼らしい...》
 などと、楽屋の僕は老俳優から突然、はやり歌評判屋に立ち戻る。歌手とヒット曲の関係は微妙で、発表の新旧関係はなく、歌手が舞台に乗せる作品というものが必ずある。川中で言えば「ふたり酒」と「二輪草」は欠かせない。これは彼女の今日を作ったヒットだから当然。その他に必ず歌われるのが、前出の「ちょうちんの花」や「豊後水道」「遺らずの雨」「女の一生汗の花」などだ。
 「女の一生...」は彼女と亡くなった母親久子さんの苦しかった一時期をテーマに、吉岡治が詞を書いた。川中がショーの中で、必ず触れるのが母親の話で、この曲が出て来るのは無理がない。面白いのは「豊後水道」が阿久悠「遺らずの雨」が山上路夫と、作詞家は分かれるが、ともに三木たかしの作曲。両作品に川中は特別な感興を持つようで、詞に魅かれるのか、曲に酔うのか、この2曲の川中の歌唱は、いつも情感が濃い目になる。
 三木たかしに生前、その様子を伝えたら、彼はひどく驚き、喜んだものだ。歌書きにとっては、ヒット曲を作るのも嬉しい仕事に決まっているが、年月が経過してなお、自分の作品が歌われ続けている喜びはひとしおのものだろう。ところが作家たちは新しい歌づくりに追われるあまり、歌手たちそれぞれの活動の情報はあまり得ていない。作品が一人歩きをしていると言えば言えて、それはそれで心温まる出来事だが、さて、最近歌現場にあまり姿を見せぬ山上は、「遺らずの雨」がそんなに熱く、そんなに長く歌い継がれていることを、知っているだろうか? お節介な話だが、そのうち本人に伝えたいものだと思ったりする。
 それにしても...と思うのは、阿久悠、吉岡治、三木たかしらの不在である。彼らは多くの歌手たちに、その財産となる作品を遺して逝った。川中の場合〝しあわせ演歌〟の元祖と呼ばれる、たかたかしと弦哲也が健在で、彼女のための歌づくりに力を注いでいる。それが歌手川中美幸の幸せだろうが、亡くなった歌書きたちの手腕の確かさにも、また改めて思いいたる。近ごろの演歌、歌謡曲は、ずいぶん長いこと作品が痩せ過ぎてはいまいか? 苦しさを増す商業状況があるにせよ、目先の成果を追うあまり、安易に慣れ過ぎてはいまいか?
 川中の新曲は「海峡雪しぐれ」で、たかと弦のコンビ作。スタッフから「演歌の王道を!」と言われたと話しながら、川中は哀愁切々の歌唱。共演の松井誠がさっそく「僕も踊りのレパートリーに」と、如才のない発言をしている。
週刊ミュージック・リポート