新歩道橋1079回

2020年5月25日更新


 BSテレビで平成の流行歌がよく流れる。新型コロナウイルスの影響が激甚で、番組制作が出来ぬための再放送。当方は巣ごもりのながら視聴で、時に胸を衝かれる。川中美幸の「二輪草」成世昌平の「はぐれコキリコ」水森かおりの「東尋坊」以降ご当地シリーズの全曲、神野美伽の「浮雲ふたり」をはじめ、亡くなった編曲家前田俊明の作品がやたらに多い。彼が平成のこの世界の代表であることを再確認してズンと重いのだ。
 訃報は子息前田安章さんのFAXが、友人から転送されて知る。亡くなったのは4月17日午後4時44分で、23日に通夜、24日に葬儀を桐ヶ谷斎場で営む。家族葬につき弔問、供花などは一切謝絶とあった。脳腫瘍を手術、全快して現場復帰後しばらくして再発、また仕事を離れた長い闘病があった。享年70、早すぎる死を家族だけで静かに...の思いがあろうし、コロナ感染の〝3密〟を避けたいおもんばかりもあったろう。意を汲んで僕は後々に無念の弔意を伝えることにした。
 つき合いの始めは取材。前田の出世作は昭和56年、山川豊がレコード大賞の新人賞を受賞した「函館本線」で、僕はこれに肩入れをしたスポニチの音楽担当記者。もっともこの時期、親しくなったのは前田ではなく、当時の東芝EMIの宣伝マン市川雅一氏で、双方カラオケのレパートリーにした。
 当時の編曲界は斉藤恒夫、池多孝春、川口真、丸山雅仁、桜庭伸幸らが独特の音楽性を競っていた。そこへ参入した前田は、鈴木淳、弦哲也、岡千秋、四方章人らの作曲家勢や各メーカーのディレクターたちと親交を深め、独自の世界を切り開く。曲により飾る色あいはさまざまだが、
 「シンプルで華やかさがあり、歌いやすく、明解なもの」
 を本人が狙って華麗さが独自でひっぱりだこ。平成4年には藤あや子の「こころ酒」10年には川中美幸の「二輪草」でレコード大賞の編曲賞を受賞。17年と21年にはオリコン・トータルセールスの編曲家部門で1位を占めるブレークぶりだ。
 「これも俊ちゃんか! おめでとう!」
 「おかげさまで...」
 例えば平成10年のレコード大賞。グランプリ候補の優秀作品賞10曲のうち8曲はJポップ系、残る2曲が川中の「二輪草」と田川寿美の「哀愁港」で、双方前田編曲だった。その表彰式、トロフィーを手渡す制定委員の僕と受け取る前田に、
 「私語が多過ぎないか?」
 と笑ったのが制定委員長の船村徹だった。
 そのころはもう、弦、四方に編曲の若草恵、南郷達也、石倉重信らとともに、ゴルフとうまいもの探索の〝仲町会〟に、前田も名を連ねる飲み友だち。四方の作曲で僕がプロデュース、古川健仁がディレクターの永井裕子は、10年間ほぼ全曲、前田にアレンジを託してもいた。
 「俊ちゃん!」「統領!」
 と呼び合って、ゴルフ場からの帰路、前田の車に便乗したことなど数え切れない。
 台東区入谷の生まれ。3軒隣りが教会で、讃美歌を聞きながら育つ。小学校5年の時にお年玉でギターを買った。マンドリンを弾き編曲もしたのが中学時代、作・編曲で身を立てる気になったのが17才で、明大マンドリン倶楽部に入り古賀政男の教えを受ける。ざっとそんな音楽的生い立ちの前田は宝飾屋(かざりや)の男3人兄弟の三男坊。江戸っ子だが温和でシャイな人柄で、律儀で実直な仕事ぶりはもしかすると、父から受け継いだ〝職人の血〟が生きていたろうか?
 病気が再発した昨年、
 「当分仕事を離れて、リフレッシュした方がいい。ま、我慢も仕事のうちさ」
 と伝えたら、
 「しばし、外野から観戦させてもらうことにします」
 という返事が来た。毎年夏ごろに届いた、愛妻との海外旅行のラブラブ写真つきポストカードはそこで途絶えた。
 「退屈してないか? 遊びで曲でも書いてみちゃどうだろう...」
 僕がジョークの見舞いで渡した歌詞1編に、嬉しそうに曲を3ポーズも書いた。大阪の作詞研究グループ詞屋(うたや)の杉本浩平が作詞した「古き町にて」という作品。著名な演出家や大学の教授、小説家、エッセイストなど顔ぶれが面白いから僕も長くかかわって来たが、その私家版アルバム第2集「大阪亜熱帯」の最後に前田作品を据えた。知り合いの歌手は山ほど居るが、皆契約先があって手伝って貰えず、結局歌ったのは僕。雑文屋、舞台の役者の2足のワラジの3足めだ。
 「統領、歌手としてもなかなかです」
 昨年秋ごろ届けたアルバムに、本人から来た電話のお世辞が、最後のやりとりになった。
週刊ミュージック・リポート