新歩道橋1083回

2020年7月18日更新


 会場の座席番号と姓名、連絡先を渡して来た。6月28日のことで、この原稿を書いているのが7月8日だから、あれから10日経つ。まだ何の連絡もないから、とりあえず無事か。同じような感想を持つ人々も多かろうが、いやいや...とまだ警戒心を維持するのは、歌手加藤登紀子とそのスタッフ、関係者だろう。東京・渋谷のオーチャードホールで、彼女が1000人の客を入れたコンサートをやっての後日―。
 プロ野球、サッカー、大相撲などのスポーツや、歌手のコンサート、演劇公演などが、やるとすればすべて無観客、リモートのこの時期、加藤コンサートはちょっとした事件になった。マスコミが詰めかけ、会場入口には落ちつかぬ顔の長蛇の列、マスク着用、サーモグラフィーによる検温、手指の消毒、ソーシャルディスタンスの確保、スタッフはフェース・シールド...。当然と言えば当然だが、およそ娯楽とは縁が遠いものものしさ。だから加藤のステージでの第一声は、
 「今日はありがとう。いい眺めよ。相当な覚悟をして来てくれたのよね」
 になる。市松模様とはよくも言ったりだが、観客は前後左右を一席ずつ開けて1000人。僕は2階R1列15番の席、つまり舞台に向かって右側の2階バルコニーから、舞台と客席を等分に見下ろす位置についた。
 「Rising」「Revolution」と2曲歌ってコメント「知床旅情」からは話しながらの歌になる。歌手生活55周年記念のコンサート。一部はどうやらその年月の自分を振り返る趣向と気づく。「知床旅情」はある男との交友からすくい上げた曲といい、1968年、
 「ある夜、ある男と出会い、それから1年後に出来た歌」
 とタネ明かしめいて「ひとり寝の子守歌」に入る。大方のファンも先刻承知だが「ある男」とは亡くなった加藤の夫君、全学連のリーダー藤本敏夫氏で、加藤は1972年6月、獄中の彼と結婚している。「誰も知らない」「赤い風船」などを歌い、レコード大賞の新人賞も受賞した歌謡曲系のデビューだが、藤本氏との共鳴を機に、シンガーソングライターに転身した。
 中島みゆき作詞作曲の「この空を飛べたら」や河島英五の作品「生きてりゃいいさ」も出てくる。
 〽人間は昔、鳥だったのかも知れないね、こんなにもこんなにも、空が恋しい...
 という中島の歌詞に胸うたれ、河島との共演のエピソードで共感を語った。その時期の彼女の切迫した思いが、作品と重なったのだろう。「この手に抱きしめたい」から明日を見据える「未来への詩」で、彼女は一部をしめくくった。
 加藤は1965年、日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝して歌手になった。石井好子音楽事務所とスポーツニッポン新聞社が共催したイベントだから、スポニチの音楽担当記者の僕は、当然みたいに加藤番になる。以後55年、加藤の歌手活動と同じ年月を、僕は彼女に伴走したことになる。時代が時代だから、彼女と藤本氏の交友は、周囲を騒動とさせた。やがて二人は千葉に大地を守る会と有機野菜などの農場を立ちあげ、3人の娘に恵まれた。加藤は世界各国を旅行、先々から〝共感する作品〟を持ち帰り「百万本のバラ」など多彩なレパートリーを作る。いずれにしろ55年、彼女の生き方は挑戦と波乱に満ちており、精神的浮沈も激しかった。
 「ある時、ある人から君はノンフィクションの人だね...と言われて」
 と加藤はステージで笑った。彼女の歌手活動と自作自演する作品が、その時々の彼女の生き方やさまざまな出来事と表裏一体であることを指して妙だ。
 加藤は当初、無観客で考えた。ところが国が「50%1000人までOK」と指針変更したから「天の声!」と受け止めて、有観客の決行を決めたと言う。1943年12月生まれだから76才のはずだが、この人の姿勢は相変わらず〝鉄の女〟なみだ。低音を街角の老婆の呪文みたいに響かせ、中、低音はひび割れ方そのままの声を限りなくたかぶらせて、思いを祈りに昇華させる。ふっくら堂々の体型を長い布、裾ひろがり三角形のドレスに包んで、笑顔のトークは下町おばさんみたいな包容力も示した。
 二部のゲスト出演は次女のYaeで、これまた堂々の声量。千葉の農場は娘たち夫婦が守っていて、加藤家は安泰に見えた。6月28日のこの夜、僕はみんなと一緒に、舞台の加藤とエア・ハイタッチをし、誰にも会わず誰とも話さずに帰宅した。
週刊ミュージック・リポート