新歩道橋1084回

2020年8月2日更新


 友人の境弘邦にさっそく電話をした。
 「届いたよ、読み返してるけど面白い。各章各節ごとに頭のツカミがしっかりしてエピソード仕立てだ。これじゃ俺の商売あがったりだよ」
 と言ったら、声まで笑顔のリアクションは、
 「あっちこちから電話がかかりっぱなしで、応対にいとまなしって感じでさ...」
 その日、彼の知り合いに一斉に届いたのは、著書「昼行灯の恥っ書き」である。つまりこのコラムの反対側のページで、平成27年秋から2年間、彼が書き綴った「あの日あの頃」が本になった。この種回顧ものは、とかく自慢話の連続になりがちだが、彼は交友録的角度と裏話でそれをうまくかわしていて、好感度が大きい。
 「昼行灯」とは子供のころに父親から言われた特徴らしく「ぼんやりしている」の意か? そんな子が長じて「転がる石に苔むさず」を念じ「陰日向なく、好き嫌いなく、無欲で、身を粉にして働いた」日々の記録だ。彼は昭和12年3月、僕は11年10月の生まれで、ほぼ同い年、同じように僕もよく働いた。日本が太平洋戦争に負けた20年は小学校(当時は国民学校)3年生の夏で、その混乱にもろに巻き込まれ、生きることに必死で何でもした。国中が極度に貧しかった時代を、彼と僕は共有していることになる。
 本のサブタイトルは「美空ひばりの最後を支えたプロデューサーの手記」とある。
 《彼女についても、似た体験をしたんだな。後で考えれば表裏一体の例も多い...》
 平成元年6月24日に彼女は亡くなった。享年52、手記によれば境はその日、北陸加賀温泉郷の旅館に居た。音楽評論家対策で、急遽ひばり邸へ戻ったのは翌日の昼前である。僕はスポニチの傍系会社の旅行で箱根に居り、タクシーを飛ばしてひばり邸に入ったのは、当日の午前3時過ぎ。すでに黒山の取材陣がひしめいていた。境の顔を見るなり、コロムビアの宣伝担当大槻孝造は泣いたと言う。緊張が解けたのだろう、午前4時ごろ、ひばり邸に居た関係者は彼一人で、表の取材陣は亡くなった事実確認を急いでいた。息子の和也君を出す訳にはいかないし、僕は彼らと同業、無理を承知で大槻に対応を指示した。亡くなった時間、場所の確認、遺体は戻っているが、事後も含めた詳細は決まり次第発表する...。
 境は遺体と対面後に赤坂のコロムビア本社へ戻る。事後の相談と記者会見の準備だ。僕はスポニチの号外をひばり邸の前でも配ることを指示、NHKテレビの午前7時からのニュースでそれが大きく報じられるのを見て、深川・越中島のスポニチ本社へ戻った。徹夜仕事になったスタッフをねぎらい、その足でコロムビア本社へ入る。
 役員会議室。コロムビアの正坊地隆美会長をはじめ役員全員に順天堂大学病院の主治医ら3人の医師が揃う。境はその部屋の入り口付近に、社員ではない3人の顔を見つける。ひばりの付き人2人と僕だ。境は一瞬まずい! と思うが、ひばりと僕の親密な信頼関係を考えてそのままにした。記者会見では「医学的に正確な説明をお願いする」のが、役員の希望。それに境が異を唱えた。九州での入院時の記者会見で、ひばりの股関節のレントゲン写真を公表してしまった悔いがあった。だから彼は主治医に、
 「必要最低限の報告にとどめ、安らかな最期だったとつけ加えて下さい」
 と頼んだ。歌謡界の女王の死は美しいままにしたい。余分なリアリティは必要ない。そう思い定めた彼が、僕を見返す。手記によれば僕は何度も頷いたという。
 境は制作責任者として、コロムビアの演歌路線を確立、ひばり作品のプロデュースから衛星放送による全国葬までを立案実現「ひばり部長」と呼ばれた。昭和53年からほぼ12年、僕がひばり密着取材に恵まれたのは50年からのほぼ15年。当初彼には僕が癪のたねだった。事あるごとにひばりが、
 「小西さんに聴いて貰って、小西さんは何て言ってた」
 と聞くせいだ。しかし彼らが「おまえに惚れた」などで、ひばり作品をカラオケ対応路線に転じ難渋していたころ、本人の質問に僕が、
 「ひばりさんならではの大作も魅力的だけど、カラオケファンにあなたらしいお手本を示すことも大事ではないか」
 と答えて、結果側面援護をしていた事実を彼は知るよしもない。
 没後30年余、境と僕のひばり体験は、そういう表裏一体例を幾つも作っていた。コロナ禍がひと段落したら僕は、彼とそんなあれこれを突き合わせてみたいと考えている。
週刊ミュージック・リポート