新歩道橋1087回

2020年9月13日更新


 《弾き語りっていいね!》
 である。9月2日午後、浅草公会堂で五木ひろしを聴いたが、これがまず第一の実感だった。「ITSUKIモデル弾き語りライブ」「今できること、ソーシャルディスタンスコンサート」がキャッチコピーのイベント。コロナ禍まっ最中だから、観客はマスク、手指消毒、検温、氏名に席番と連絡先を提出、声援はご遠慮、応援は拍手とペンライトが条件。客席1082の会場半分の、529席で前のめりのファン相手に、ギター一本の「よこはまたそがれ」から文字通りの熱唱が圧倒的だ。
 気合いの入り方が半端ではない。生ステージを演歌畑じゃまず、俺がやらなきゃ誰がやる式の気負いがあったろう。2月の大阪新歌舞伎座以来、半年ぶりの生歌でもある。前日に1回、この日は2回のステージで、声がやや太めに聞こえたが、それも代表作のあれこれに説得力を加える。途中からバックにキーボード、ギター、バイオリンが加わったが、弾き語りの手作り感はそのままだ。伴奏音が薄いと、自然に歌声が前に出る。歌詞が一言ずつ、生き生きと伝わる。作品への共感や愛着が歌声を熱くする。息づかいも生々しく、歌巧者ならではの声の操り方、ロングトーンが高揚、随所に生まれる情感の陰影...。
 よくあることだが、歌が巧みな人の場合、聴く僕の目の前を歌が横切っていく。オーケストラと一緒だと、歌と音楽が寄り添うせいか。いい音楽といい歌のコラボは、それならではの魅力を作りはするが、作品にこめられた真情の色は薄めで流れがちになる。それに比べれば弾き語りは、歌う人の思いと作品の情念が、束になって攻めて来る。歌が聞く僕に向かって、縦に刺さって来る。「横」よりは「縦」の訴求力が、まさに流行歌の命だ。BSフジで7本ほど撮った「名歌復活」という番組で、僕は弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人の4人の弾き語りから、僕はそんな確信を持った。彼らも巧みだが、五木はプロである。比べればそれなりの経験と自負と野心までが歌に乗る。
 《演歌っていいね!》
 彼の新しいアルバムのタイトルと同じ感想を僕も持った。後輩たちの最近のヒット曲をカバーした選曲で、言わばいいとこどり作品集。その中からステージに乗せたのは、坂本冬美の「俺でいいのか」鳥羽一郎の「男の庵」川野夏美の「満ち潮」山内惠介の「唇スカーレット」の4曲。
 旬の歌手にはいい作品が集まるものだが、その鮮度と刺激性を汲み取った企画。そのうえに俺ならこう歌う! の〝お手品〟意識も秘めた歌唱だ。この企画のきっかけになったと言う「俺でいいのか」は吉田旺の作詞、以下前記の曲順に書けば、いではく、及川眠子、松井五郎とやり手の詞で、作曲は徳久、弦、弦と続いて「唇のスカーレット」は水森英夫である。作家同士のココロが動くから、いい詞にはいい曲がつくものだ。
 今回のライブのゲストは坂本冬美。2月あたままで大阪で五木と「沓掛け時次郎」を共演した仲で、こちらも半年ぶりの舞台。その間に「俺でいいのか」がヒット曲に育っていた。「夜桜お七」と「また君に恋してる」で新境地を開いた冬美だが、やはり本籍地は演歌。それをこの作品で明確にできたからご同慶のいたりだ。五木の伴奏で歌ったが、冬美の味わいがいかにもいかにも。合わせて吉田旺作品の「赤とんぼ」も歌って、こちらもちあきなおみとはまた違う〝こまたの切れ上がり方〟が面白かった。
 《演歌は、フル・コーラスがいいね!》
 が、この日考えたことの三つめ。これも「名歌復活」でこだわり続けている点だが、歌詞には全部、起承転結、あるいは序破急の心の動きや物語性が書き込まれている。ところがいつのころからか「テレビサイズ」とカットが当たり前になっていて、3コーラスものなら一番と三番。2ハーフものなら1ハーフ。番組の限られた時間の中に、なるたけ多くの歌手と作品を...という算段だろうが、紅白歌合戦を筆頭に、作品が損なわれること甚だしい。近ごろはそれを前提に二番を手抜きする作詞家がいるが、これなど論外だ! プロの歌手が縮小2コーラスで、下手くそなカラオケ族がフルで歌ういやな現象をどう考えるべきか?
 五木はこの日、作品本位を貫いて全曲フルコーラスを歌い、冬美もその通りにした。我が意を得たり! である。今回はベタぼめコラム。僕はひところ五木の歌づくりを手伝った経験があって、歌の巧さはよく判っているが、今回ほど胸に刺さるいい歌と人間味が濃かった舞台は初めてと思っている。
週刊ミュージック・リポート