「白雲の城」をガツンと決めた。9月、明治座の氷川きよしだが、気合いの入り方が半端ではない。音域も声のボリュームもめいっぱいの〝張り歌〟で、それが客席に刺さって来る。「気合い」かと思ったがそれを越えて、伝わったのは「気概」の圧力と訴求力だった。
《うむ、なかなかに...》
などと、客席を見回す。僕の1階正面13列5番の席から斜め前方へ、空席が規則正しい列を作る。コロナ禍の最中の苦肉の興行、観客の両脇を1席ずつ空けて「密」を避けた結果だ。平時なら満員になる氷川公演だから、やはり少々寂しいが、時期が時期でやむを得まい。
司会西寄ひがしのトークが、景が変わるごとにかなり長めになるのは、氷川の衣装替えの時間かせぎ。大分板についているのは、氷川と一緒に働いて20年余、彼は彼なりの進化を目指した成果か? お次の景はガンガン音楽のボリュームまで上がって、氷川ポップスである。作詞もしたという「Never give up」を中心に、発声も唱法もガラリと変わるロックで攻め込んで来るさまは、まるで別人。
しかし当方は別に驚かない。6月に出た彼のアルバム「Papillon」を聞いているせいで、呼びものの「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめ「Love Song」だの「Going my way」だの、ロックにバラード、ラップなどが14曲、演歌の「エ」の字も歌謡曲の「カ」の字もなかった。その一部が明治座の舞台に乗った訳だが、さて、熟女ファンの反応は? と見回して、これには相当に驚いた。歌謡曲・演歌の時には横揺れに穏やかだったペンライトが、一転して縦乗り。要所では高く突き上げてWAUWAU...。こちらも見事に「進化」しているではないか!
「こちらも...」と書いたが、氷川の昨今は「進化」などより「孵化」「変化(げ)」の印象が強い。今公演の第一部、芝居の「恋之介旅日記」(作、演出池田政之)にも「限界突破の七変化」のサブタイトルがついている。動くグラビアみたいに、「美しい氷川」をあの手この手。おなじみ芸達者の曽我廼家寬太郞、二枚目の川野太郎に今回は、僕の友人真砂京之介が仇役で出ていて、おしまいには大仰に斬られた。山村紅葉の女親分も笑わせるが、そんな中の氷川は、前回のこの劇場公演のこの役よりはセリフも多め、ところどころで見得を切ってファンを喜ばせる。「役者が楽しくやらなきゃ、お客は楽しめない」いつもの池田演出だ。
音楽性も大いに変わったが、並行するビジュアル面も激変した。昔々、丸山明宏(現美輪明宏)の化粧姿は「シスターボーイ」と呼ばれ「異形」や「異能」のただし書きがついた。ところが昨今は、女装タレントも大にぎわいで、それが「異端」などとは誰も思わぬ時代。氷川はそんな時流の中で、ためらわずに彼自身の内面も外面も自由に解放している。最高の価値とする「美しさ」をひたすら求め、信じるままに装い、それを楽しむ自分を歌でメッセージしているように見える。
自分の心の「なりゆき」に任せ、美の世界に「なり切る」生き方を選ぶことは、人気者にとっては相当な覚悟を必要とする。ファンの期待と行き違い、違和感を生み、失望させ、最悪モトもコもなくす恐れがあるせいだ。氷川はそんなイメージの世界を、独特のイメージ展開で切り抜け、熱心な熟女ファンたちまで説得してしまった。
「もう演歌歌手じゃないし...」
と、氷川は舞台でひょいと言った。そう言いながら「箱根八里の半次郎」をはじめ股旅ソング5曲を歌ってみせる。デビュー当時の荒けずりさは残したまま、歌唱に軽やかな味が加わっているのは、彼がロック的現在位置から往時へ「さかのぼって」見せたせいだろう。
「自分を表現することを恐れない。そうすることで新しい発見や出会いがあり、前とは違う人間になれた」
こう語ったのは、人種差別に抗議しながらテニスの全米オープンを戦い、優勝してのけた大坂なおみである。僕は一瞬、彼女の顔に氷川の顔を重ね合わせた。何ごとにも臆することなく、耽美の世界を追求する氷川の勇気と重なったせいだ。
この公演、僕の右隣り、空席を一つ置いた13列3番に吉岡あまなを招いた。亡くなった作詞家吉岡治の孫娘で、ずいぶん昔、川中美幸・松平健公演の明治座で一カ月、僕と真砂の楽屋内を手伝ってもらった縁がある。当時高校生活最後の冬だった彼女は、大学を卒業、もう立派な社会人になっている。