2020年10月3日更新


訃報
小西良太郎さん逝去

 本誌連載コラム「小西良太郎のカラオケ談義~殻を打ち破れ!~」や日本アマチュア歌謡祭審査委員長でNAK会員にお馴染みの小西良太郎さんが、さる5月13日、膵癌でお亡くなりになりました。

 小西さんは東京都生まれ、疎開先の茨城県水海道高校卒業後1958年にスポーツニッポン新聞社に“坊や”(見習い)として入社、その後音楽担当記者の第一人者として活躍し、文化部長、運動部長、編集局長、常務取締役を歴任後2000年に退社。その後は音楽評論家、音楽プロデューサー、晩年は若い頃の夢だった俳優として東宝現代劇75人の会に所属し活躍されました。

 この間、音楽プロデューサーとして八代亜紀の『舟唄』、坂本冬美の『夜桜お七』、五木ひろしの『傘ん中』等数多くの歌手曲制作に携わり、1993年から7年間日本レコード大賞の審査委員長も務められました。また、美空ひばり、船村徹、星野哲郎、阿久悠を筆頭に多くの歌手や作詞作曲家と親交を深め、その幅広い人脈と人望により“演歌歌謡界のドン”、後輩の業界人からは“統領”と慕われる演歌歌謡界史上稀有な存在でした。主な著書に「美空ひばり-ヒューマンドキュメント」、「海鳴りの詩-星野哲郎歌書き一代」、「美空ひばり・涙の河を越えて」、「ロマンの鬼 船村徹」等があります。

 NAKとは、1982年創立時の相談役、1983年第1回日本アマチュア歌謡祭の発起人、創立20周年記念曲『望郷新相馬/お父う』(花京院しのぶ)の音楽プロデューサー、本誌本年5月号で257回(21年5ヶ月)に亘った連載コラムの著者として、とりわけNAK事務局の精神的支柱として大恩のある方でした。編集部に寄せられた最後のお言葉は「雑文屋として生き、雑文屋として幕を閉じる」。

「おぅおぅ〇〇か!」という電話が今にも事務局にかかってくるようで、ご逝去が信じられません。享年87。長きに亘る大恩に感謝し、深甚なる哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りいたします。

NAK(日本アマチュア歌謡連盟)本部事務局


殻を打ち破れ255回

 坂本龍一が亡くなった。71歳とまだ早過ぎる年齢と闘病の厳しさが、訃報に接した人々の胸を詰まらせた。理知的で「教授」をニックネームとした彼の音楽的業績は、世界中のファンに愛され、尊敬された。YMOの成功、「ラストエンペラー」の米アカデミー賞作曲賞受賞、「戦場のメリークリスマス」の成功などは、誰でもすぐに思い出せる戦果だろう。

 一方の闘病は2014年に中咽頭がんを発症、一度は寛解したもの、2020年直腸がんが両肺に移転、ステージ4を公表、その後転移先を追って、一年に六回もの手術に耐えている。

 僕は坂本の死を伝えた4月3日付のスポーツニッポン新聞の一面を凝視した。メインの見出しは「坂本龍一さん死去」とストレートだが、それより目立つ大きさの2行が、中央部分に「つらい。逝かせてくれ」とある。本人がピアノに向かう後ろ姿が、全体にボケけた黒一面の中の2行が、かえって浮き上がって、僕の眼を射る。死の一、二日前の言葉と聞く。

 ≪あれほどの人物が、そこまでの苦痛に追い込まれていたのか!≫

 一般論だが、心身の苦痛は、耐えたり秘めるほどその度合いを増す。坂本の場合は世界的なスターである。人前で泣き言などもらさぬプライドも自負もあったろう。「秘す」「耐える」を前提にした闘病九年である。それを続けても一向に“完パケ”にならぬまま、次から次…だった。昔、作詞家の阿久悠ががんに倒れた時、アポナシの僕がたまたま医師の説明に立ち会う事があった。手術は成功したが転移の有無は「これから徹底的に」との見解である。医師の退室後に阿久がボソッと言ったのが「なかなか完パケにならない」だった。克己心強固で有名な人でも、音楽用語でいらだちを吐き出すのか、不謹慎だが僕はその時はニヤリとしたものだ。

 それやこれやを思い返している時、妙な息苦しさを覚えた。“加齢による”ただし書きがつくが、体のあちこちに不具合が出ている身である。パルスオキシメーターで計ったら「92」と出た。

 ≪いかんな、これは。確か95以下は危険ってことだった…≫

 コロナ禍大騒ぎのころ聞きかじった豆知識である。高齢者で既往症持ちはなおヤバイ。家人に近隣の葉山ハートセンターに相談してもらったら「すぐ来い!」の返事。「リアクション過剰だな。ヒマなのかしらん?」

 と、また不謹慎に笑って出かけたら、即入院の運びになってしまった。

 点滴と投薬で、ひどい“むくみ”を除去することと、節々の痛みに対応する措置を受けながら、自宅と同じ葉山の海を眺める日々である。

 入院した翌日、僕は担当の看護師さんの発言に飛び上がった。「このベッドには昔、有名な人が寝たのよ」「ふ~ん誰だろ?」「船村徹という人よ、知ってるかなぁ」春の陽だまりの中の問答とも思えぬ衝撃だった。七年前の平成五月に確かに彼は、この葉山ハートセンターで七時間にわたる心臓手術を受けて一命をとり止めた。駆けつけた僕は、あわや心不全の危機を脱した彼の一部始終を目撃している。病状の違いがあるとはいえ人生の師匠と僕が、かつぎ込まれた集中治療室の同じベッドに身を委ねるとは! そんな偶然があってもいいものか、許されることなのか?

そう言えば60年代のあのころ、坂本の映画二本を撮った大島渚監督は新宿ゴールデン街の電柱にもたれかかっており、唐十郎はドブ板にすわり込んでいた。作詞家吉岡治とねんごろになったのは、作曲家むつひろしとの親交が端緒か。「八月の濡れた砂」の同名の主題歌だったが、監督は藤田敏八で、やはり新宿でトグロを巻いていた。浅川マキが歌い始めたのも新宿。あのころの新宿は異端の若者たちの情熱が毎晩爆発し、僕らはそれにそそのかされていた。

 大島渚の「愛のコリーダ」が写真集になり三一書房が摘発された時、僕も警視庁に呼ばれた。露骨さ同じ写真が映倫を通さないままスポニチに載っていた。入手経路を聞かれたが「取材努力」とだけ答えた。驚いたのは隣りの席で尋問を受けていた若い女性が「そのあと、金は取ったんだろ、金は、ン?」と年輩の刑事から怒鳴られた一幕だけだった。




 視界の中にボンヤリと猫が居る。眼をこらすと、愛猫の風(ふう)である。こちらは抗がん剤の苦痛と戦っているというのに、相変わらずの惰眠かと、もう一度眼をこらすと、前足を十文字に組み合わせている。これがコイツの粋なポーズなのだ。
 風の向こうに海が見える。相模湾である。その向こうに富士山―そんな光景を眺めながら、一体何本このコラムを書いたことだろう。1000本を越えた時は相当に驚いた。それを「通過点かな」とうそぶきながら今ではなんと1148回である。長い年月、お世話になったものだ。感謝にたえない。見当ちがいのWBCの感激を書いたこともある。杉良太郎のボランティア話でお茶をにごしたこともある。他誌には坂本龍一の死をとっかかりに大島渚や阿久悠、吉岡治、なかにし礼らとの交遊のきっかけにふれたこともある。いずれにしろ、古い話だが、ネタに窮してのことだ。ベッドからひとりで起きられない身としては、なんともお恥ずかしい話だ。雑文屋がネタに困るようでは商いとして成立する訳がない。
 まことに身勝手な話で申し訳ないが、このコラムを今回で終了とさせていただきたい。長い間、ご愛読いただいた向きには、心からお詫び申し上げます。




殻を打ち破れ254回

 あれは二月だったか? 網走まつりはむちゃくちゃ寒かったな…≫

 初夏みたいなぽかぽか陽気の湘南・葉山で、14年前の冬を思い出した。走裕介の新曲『篝火のひと』を聞きながら。デビュー15周年記念シングルという惹句にも、そこそこの感慨を覚える。出身地網走の「網」をはずして「走」を芸名にした作曲家船村徹の内弟子の一人。故郷でデビュー発表会をやるというので、勇んで出かけた。僕は50年を越す船村の“歌わない”弟子だから、走は弟分にあたる。

 新曲はバラード。松井五郎が詞を書き、船村の子息・蔦将包が作曲と編曲をした。

 ♪たどり着く先が どこかさえも訊かず 花のない道で 迷う空を見たろう…

 と、別れたひとの尽くし方をしのびながら、主人公の男は、感謝の思いを胸中でゆらす。少し長めの歌詞3行分を語り、次の3行をサビにして思いをたかぶらせる構成は、詞、曲ともに判りやすく、聴く側の心に届く。デビュー以後しばしば、声に頼り誇示する青っぽさが抜けぬ歌い手だったが、歌唱にほどほどの抑制が利いているのは、心がけたのか、身につけたのか。いずれにしろ15周年の転機を考えたのは確かだろう。

 ≪しかし、網走の酒はきびしかった…≫

 そんなことも思い返す。氷の路地に並んだ屋台に首を突っ込んだが、足踏みをしながらのコップ酒、飲んでも飲んでも酔えなかった。酔狂なことに僕は、マレーシアのコタキナバルで仲間と遊んで帰国、その足で網走に入った。南国のゴルフ三昧が連日30度、北国はマイナス15度で、45度の温度差である。走が歌ったステージも、座ってなどいられぬ客席も氷仕立て。こんな所で生まれ育った青年は、そりゃあがまん強くなるだろうと合点したものだ。

 船村徹七回忌の今年、走が新境地を目指せば、もう一人の内弟子村木弾は師匠の“哀歌”の世界を引き継ぐ気配が濃い。こちらの新曲は『お前に逢いたい』で

 ♪たった一人の 女さえ 守れずその手 振り切った…

という男の詫び歌。作詞した原文彦は、三番の歌詞で、

 ♪背中(せな)で聴いてる 船村演歌 かくした涙に 春が逝く…

 なんて、すっかり“その気”だ。

 カップリングの『ほろろん演歌』を書いた菅麻貴子も『昭和のギター』『路地づたい』『遠い汽笛』など、あのころおなじみの単語をちりばめている。作曲は2曲とも才人徳久広司で、船村メロディーには近寄らぬ、ギター演歌に工夫を見せる。デビュー7年目の村木は委細かまわずスタスタと歌い進めるタイプだったが、『お前に逢いたい』を二度繰り返す歌い収めでは、哀感少々うねらせてそれなりの色を作った。

 走と村木はコロムビア所属で、たまたま新曲の足並みが揃った。こうなれば二人の兄弟子の静太郎と天草二郎の新曲も期待したくなる。こちらはともにクラウンの所属だが、さて、新曲はいつごろ出す準備がすすんでいることやら。制作陣は顔見知りだがら「その辺、どうなのよ」と、お節介を焼きたくなるのは、こちらの二人も僕には弟分に当たるせいだ。

 鳥羽一郎を長兄に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の5人が船村の“内弟子5人会”を名乗る。師匠の没後は「演歌巡礼」と師匠のイベント名を引き継いで、船村作品を歌い継いでいる。6月12日、船村の誕生日で、会場は栃木・日光の記念館に隣接するホールだが、このところコロナ禍で延期や見合わせの憂きめを見ていた。

 「今年はやります。準備中です!」

 の知らせが、同門会事務局から届いている。連中の顔を見に日光へ、僕も気合十分である。




 ふっとなぜか、涙が出そうになる〝いい歌〟と出っくわすことがある。理由を考えてみる。①時代背景がはっきりしている②いつまで経っても忘れられない体験そのものが詩に生きる③その光景と向き合う主人公の視線が一途だ④歌表現も率直で、余分な感情移入がない⑤そういう歌唱を可能にする、すずやかな玉のような声の持ち主である―。
 ざっと数え上げれば、このような特性を持つ主である。牛来美佳(ごらい・みか)というシンガーソングライターの歌で「いつかまた浪江の空を」という曲。僕が歌詞の一行目から、ウルッと来たのは、東日本大震災を舞台にすることを、あらかじめ知ってもいたからだろう。震災以前からこの人は福島県浪江で育ち、被災時は第一原発内で働いていた。当時5才の女児と母子家庭として避難した先は、群馬県太田市。そこを拠点に音楽活動を始める。東方神起、JUJU、西野カナらに作品を提供、ボランティア活動にも活発な山本加津彦との共作。影響は大きく広がり、ももいろクローバーZの佐々木彩夏がプロデュースする地元アイドルグループ「浪江女子発組合」が、この曲をメインにアルバムを作っているという。
 〽遠く遠く 窓の外を眺めて、元の未来 探すけれど どこにあるの(中略)伝えたくて、諦めたくなくて、想い歌に叫ぶけれど どこに届くの(中略)いつかまた 浪江の空を またみんなで 眺めたいから 歩くよ どこまでも歩くよ 涙がいつか 笑顔に変わる日が来る(中略)浪江で会おう!
 中略をはさみながら、歌詞全体の要旨をまとめるとこうなる。世界的な惨事のあれこれをあげつらうことなく、復活への渇望を一途に語り、訴え、祈りつづける。
 「歌は伝えるためのものであり、一人ひとりの心に届ける歌手でありたい。それが私が歌うことの使命です」
 牛来はそう決意して歌いはじめたという。
 山本と組んだプロジェクトは、YouTubeから若者の支持を集め、牛来のチャリティコンサートは1000人規模に育ち、地方メディアが注目、それは中央メディアの目にも届いた。エフエム太郎(群馬・太田)エフエム桐生(群馬・桐生)などのラジオパーソナリティーの仕事もふえる。また、2022年10月、東京ドキュメンタリー映画祭で上映された「福島からのメッセージ」のエンディング・テーマになり、この映画はカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンでも上映されるという。
 実にきちんと計画された作業の戦果とも言えそうだが、東京に居て入手できる情報ではなかった。音を聞き、資料に目を通して、まさにあれよあれよである、外国にまで歩を伸ばすということは、歌詞と遜色のない、美しく親しみやすく、みんなが賛同しやすい、見事なメロディーがついているせいだろう…と、もはやベタ褒めになってしまう。冒頭に書いた〝いい歌〟の要件のうち①②③④⑤はヒット曲づくりの要諦のはずだ。あとは作品に似合う声そのものだろう。
 横道にそれるが、ボランティア・キングとでも呼ぶべきは杉良太郎と考えている。当初「売名行為」とさんざんたたかれたが、今や「継続こそ生命」のおもむきまで呈している。昔、ホテルの玄関で見慣れぬ旗を立てた高級車から降りる彼と出会った。
 「どこの国旗だい?」
 「ベトナムだよ。いろいろ忙しい。それより同名のよしみだ。一緒に芝居やろうよ」
 「ああ、そのうちな…」
 そんな立ち話になったが、あれから彼はベトナムに、一体いくつの学校を作ったことだろう。
 「いつかまた浪江の空を」に戻る。震災前の浪江の小学校の生徒数は浪江558、幾世橋122、請戸93、大堀157、苅野174、津島58だったが、その多くが命を失った。全部休校となり、60キロ離れた二本松市の仮校舎に統合されたが、21年3月に閉校、最後の卒業生は一人だけだった。CD最後の1フレーズ、
 「浪江で会おう!」
 を歌っているのは、2015年に仮校舎に通っていた21人の生徒である。これがまた最後の最後に、僕の涙腺をゆるめた。生徒たちの声がみんな元気で、陰りもなく「明日の希望」を歌うのだ。その無邪気さは
 「また明日な!」
 と茨城・筑波の原っぱで手を振った僕の幼児体験に重なった。惨事をモロに体験した彼らにも、それを情報としてしか知らぬ僕らの今日にも、きっと夕焼けの空はまっ赤だろう。祈りをあっけらかんとリフレインする彼らと、絶対に風化させてはならないと念じる僕が、一本の熱線でつながった心地がした。




 試合前に選手たちを集めて語るメッセージを、近ごろでは「声出し」というらしいが、WBC決勝戦直前の大谷翔平投手の発言は、そんな生易しいものではなかった。
 「憧れるのをやめましょう。トラウトが居て、ベッツが居て、誰もが聞いている選手が居るが、僕らはトップになるために来た。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」
 僕ら世代はこれを「檄を飛ばす」と表現する。声高な激しさこそなかったが、ものの見事に的を得て、選手たちの胸を打ったろう。米大リーグで活躍した先輩たちや、今、ここに居る大リーガーたちは、アメリカに憧れて彼の地へ入った。まだ国外へ出たことのない選手たち、ことに若い投手たちも同じ憧れを持っていたはずだ。
 ごく率直に、大谷は胸の裡を語っていた。
 「今日一日だけ、大リーグへのリスペクトを捨てよう」「リスペクトしているうちはとうてい勝てない!」
 僕はテレビで〝大谷檄〟を全文聞き、テロップでも読んだ。淀みない口調と、それ自体が立派な文章になってる見事さに驚いた。
 《もしかすると、スピーチ・ライターが居るのか?》
 と疑ったが、苦笑してすぐそれを打ち消した。大谷自身のこれまでの発言が、程の良い本音と滑らかな口調で貫かれていることに気づいていたせいだ。その場を思いつきのフレーズでしのいでいく気配がまるでない。僕はその陰に、筋肉や技を鍛えるだけに止まらず、彼が生き方考え方まで鍛錬して来た日々を感じる。ここまでしっかりと自分を語れるスターを見たのは初めてだ。
 まるで劇画みたいな、あるいは大方の想像を超越する場面を連続させたのが、今回のWBCの侍ジャパンだった。その名場面は後日何度繰り返して見ても、心躍る楽しさがあった。そして、それを語る栗山監督の発言もまた、実に見事だった。ことに日本プレスクラブで語った2時間近くを、僕はあきれ返る心地で見守った。
 「全ての選手がみんな、本当に力があり、凄いメンバーが、頼むぞ、信じているぞと、力を合わせてくれた感じです」
 「みんなが自分の役割をしっかり果たしてくれた素晴らしいチームだった。野球ファン全員の思いを込めて〝ありがとう〟を言いたい」
 「野球の面白さ、凄さ、怖さを選手たちが見せてくれた。この選手たちのお陰で、多くの子供たちが野球をやってくれるようになると思う」
 「これからも是非、野球のことをよろしくお願いします」
 チーム作りから全試合の陰には、彼ならではの深謀遠慮があったはずだが、それについては多くを語らない。むしろ言葉を継いだのは、選手たちを信じる力、それを各人に十分に伝える力、そのために細心の準備をし、必ず正面を向き合って話した…ことなど。もしかすると栗山監督の勝利は、野球少年時代からの夢、それを今日の采配に生かせた研鑽、それを伝えた選手たちへの信頼だったのかも知れない。
 僕は作家の井上ひさしが遺した言葉を思い出す。
 「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に」
 これは文章で伝えることの要諦として、僕がしばしば思い返している言葉だが、栗山監督、大谷翔平の二人の言動に共通していたように思えた。ことに強く感じたのは、伝えたい相手との目線の合わせ方で、二人にはポーズなどでは決してない、真摯さでそれを感じた。
 これまで、各ジャンルの指導者に目立ったのは「上から目線」と、自分流の哲学!? の「押しつけ」だった。学ぶ側はそれを当然みたいに受け止め、相手の真意を汲み取ろうとし、かなり厳しい時間を過ごす。判ればいいが、判りそこなったらそれまでよ…の〝自己責任〟か。またスター級の人々には、とかく多くを語らないことを美徳と心得る向きが多い。質問にきちんと答えず、言葉少なに切り上げることを潔しとする姿勢はいかがなものか。
 そういう意味では栗山監督と大谷翔平の〝謙虚な能弁〟は、得難いものである。ことに大谷はプレーの厳しさと実績がこれに加わっており、彼の二刀流を完成に近づけたのが栗山監督なのだからなおさらだ。
 この二人の脚光の浴び方と、それに対応する(あるいは対応出来る!)姿勢に僕は、野球だけではない、〝新しい時代〟の到来を感じた。この欄には初めて珍しいネタを書いた。加齢により、体にあちこちに不具合いを生じた結果、WBC侍ジャパンの全試合をテレビ観戦、興奮したあまりのことである。



殻を打ち破れ253回

 大通りから階段を降りた地下1階、右手にあった引き戸を開けた。居酒屋の賑いそこそこの雰囲気はいい。しかし、L字のカウンター席の内側で、包丁を使っていた親父が、こちらへちらっとあげた視線をそのまま、料理に戻した。無愛想な“大将”の反応に

 ≪いかんな、これは俺好みの店じゃない…≫

 と帰りかけたら、

 「いらっしゃい、どうぞ」

 女将らしい老女の、暖かめの太い声がかかった。ふっくらと下ぶくれの顔が、仏さんみたいに柔和な笑みを浮かべている。ふっとそれに誘われてのれんをくぐる。大阪・新歌舞伎座近くの「久六」という店だが、そんな一見の客の僕は、その月のうちに常連の一人になった。

 僕はよく一人で店探しをするが、この夜も予感は的中した。愛想のない大将も腕は確かで料理は美味。おっとりふんわりの女将の対応は春風駘蕩の趣き、客は地元の人ばかりで、それも好都合だった。レギュラーで出ている川中美幸一座の大阪公演は、せりふがいつも関西弁で、慣れない僕は公演の一ヵ月、店中の土地訛りに囲まれ、独特のイントネーションを肌で覚えようとしたのだ。

 その「久六」が昨年暮れに閉店、今年2月中にやはり新歌舞伎座そばにまた店を開くという。10年以上通いつめた店だから、連絡は密である。川中公演の予定はまだないが、開店祝いには出かけたいものだと思う。それにしてもここ数年、あちこちで展開された「再開発、立ち退き」という奴は、なんとも癪にさわる。店をやめさせ、更地にしておきながらそのまま。コロナ禍に物価高騰のせいもあろうが、店は存亡の危機に直面するし、常連の僕らは路頭に迷うのだ。

 行きつけの月島のもんじゃや「むかい」も今年1月いっぱいで店を閉めた。もともと銀座5丁目にあった小料理屋「いしかわ五右衛門」が、移転して商売替えをしたところ。前回も今回も理由は同じ「再開発」である。大将が体調を崩していて女将も年だから、3軒めはナシで廃業するという。銀座店から月島店にかけて40年余のつき合いだから、小西会の面々と店じまいパーティーを開いた。銀座の時もやったから、物好きな話だが、2度続けた納め会である。

 僕の店選びのポイントは①大将の腕がいいこと②気のいい女将の応待がいいこと③カラオケその他音楽がないこと。取材や打合わせのあれこれ、親交の相手などと、おいしいものを少々食べ、じっくり話が出来る必要がある。その条件が揃うと僕は徹底的に通いつめる。

 銀座の店には作詞家吉岡治夫妻がよく来た。月島には作曲家の弦哲也、四方章人、編曲の南郷達也らと組む仲町会の面々と宴会をやった。小西会には亡くなった作詞家の喜多條忠や、美空ひばりの息子加藤和也と有香夫人なども加わっている。

 ≪そう言えば…≫

 で思い出すのだが「いしかわ五右衛門」以前は赤坂の「英家(はなや)」や「あずさ」を根域にした。英家には作詞家阿久悠や作曲家三木たかしらを伴い、あずさではロックの内田裕也、作詞家のちあき哲也らと飲み、歌人の林あまりと『夜桜お七』の下ごしらえをした。

 居酒屋には恩があるのだ。その時期ごとに、有力な知人や親密な友人たちと、僕はそこで多くの仕事をした。僕の居酒屋遍歴はそのまま貴重な才能の持ち主たちとの縁を示している。条件が条件だから、みな少々値が張る店だったが、昨今、そんな好条件の店が少なくなっているのも、もうひとつの癪のタネである。





 過日、秋元順子が東京・丸の内のコットンクラブで歌った。ジャズを中心にした曲ぞろえがお手のもの、長いキャリアで身につけた〝ゆとり〟が窺えるステージになる。トークの多くに付くのは駄ジャレのオチで、ベテランの風格と下町おばさんの庶民性が交錯する。ファンにとってはその落差が楽しいらしく、「さあ、笑うぞ!」とばかり、駄ジャレ連発を待ちかまえる気配…。
 終盤にオリジナルを歌った。「愛のままで」「なぎさ橋から」「一杯のジュテーム」。彼女の出世曲の「愛のままで」は花岡優平の曲が、なんともなんとも…の魅力で「これはヒットするはずだわ」と合点がいく。「一杯のジュテーム」は、NHKの「ラジオ深夜便」がらみで、おかゆの作詞、作曲。秋元をしっかり勉強したらしく、今ふうのさらっとした作品で、あえて秋元に〝歌わせない〟狙いか、彼女が声を張る部分がほとんどない。近ごろのポップスの流れに浮かべた趣向なのだろう。
 《さて、反響はどうかな?》
 と、僕が身構えたのは「なぎさ橋から」だった。
 喜多條忠の詞、杉本眞人の曲で、亡くなった喜多條の最後の作品。制作にかかわった僕は、このコンビでシングル「たそがれ坂の二日月」「帰れない夜のバラード」「いちばん素敵な港町」を作っている。「なぎさ橋から」は三枚めのカップリング曲で、
 「3年やって、きっちり芯を食ったな…」
 と、作家二人と笑い合った出来。それなのにあえて「いちばん素敵な港町」をメインにしたのは、この作品がアフター・コロナ、ウイズ・コロナの穏やかな日常を提示したせい。やはり新聞屋くずれの僕らしさが抜け切れていない。芯をくった「なぎさ橋から」は、後でメイン曲に仕立て直して世に出したが、これは当初からの作戦だった。
 手前ミソと笑われるのも承知で書くが、コットンクラブでの客の反応は、なかなかに熱かった。ことに女主人公がバスで去る彼に手をふる最後が、ドラマチックに生きた。
 〽何度も何度も手を振る…
 というフレーズが、それこそ何度も繰り返したあげくに、
 〽あなたに、手を振る…
 が、悲痛なくらいにたかぶって、歌が終わる。秋元のレパートリーとしては、珍しい生々しさが、客の胸に届いたろうか?
 せっかくの作品だったが、「ラジオ深夜便」での多めの露出もあって、メーカーはおかゆ作品に切り替えている。それはそれで今日びの商売だろうが「なぎさ橋から」は、秋元が歌い続けてさえいれば、すぐに陽の目を見直すだろう。
《しかし、歌手にとっていちばん大事なのはやっぱり声だな》
 と、ごく当たり前のことを再確認する。秋元が60才を過ぎてからでもブレークしたのは、あの声の持ち主だったせい。そういう意味では彼女は、歌の神サマに選ばれた一人だろう。もともとプロの歌手は、そんな独特の声の持ち主に限られる職業。しかし、神サマに選ばれる稀有の才能はごく少ししか居ないから、はやり歌商売はカタログ揃えのために似て非なる歌手を量産する。本人の悲願を果たしてやろうとか、アイドルになれそうなキャラがいいとか、節回し歌唱力はこれでなかなか…とか理由はさまざまだろうが、不足分は作品の良し悪しで補う。
 秋元が手中に収めたもう一つのよさは、客質に見える。男女ほぼ同数の熟年層。それが〝昔からのつき合い〟みたいな親密さで集まってくる。思慮分別のある年齢層だから、熱狂的にはならないが、コンサート会場にはいつも、彼女の世界を〝共有〟する気配が濃い。平たく言えば〝仲間内〟なのだ。この世代はCDを買わない…という共通認識が、メーカー内にあるが、それはJポップなど若者ものに比べてのこと。神サマに認められた声の持ち主に、応分の作品を揃えれば、歌をどんな容れ物に託しても、売り上げはそれなりに堅調を示すはずだ。
 そんな考え方で、これまでも秋元作品を用意して来た。奇をてらった目立ち方よりも、彼女なりの本格派ぶりを手さぐりする。喜多條・杉本コンビは、十分に期待に応えてくれた。
 《さて、この辺で少し手をかえようか…》
 僕は次作の候補に作詞の田久保真見、作曲の田尾将実を考える。二人とも頼り甲斐のある才能の持ち主だし、僕とは長くごく親密なつき合いが続く。その手前、半端な詞、曲を届けて来る気づかいは全くないだろうと思っている。





 「花魁」と書けるかな? と思い、やっぱり不安になって辞書をひいた。「おいらん」の表示だが、その思い切り派手な衣装を着た丘みどりが、視線をじっとこちらに投げている。「椿姫咲いた」のジャケット、タイトルもインパクトが強い。
 《ふむ、勢いに乗っての異色作か…》
 と合点しながら、歌詞カードを見て驚いた。作詞林あまり、長く親しいつきあいで、昨年も僕んちへ遊びに来たが、また歌を書いたなんて話は、おくびにも出さなかった。30年ぶりに見るこの人の歌詞。坂本冬美の「夜桜お七」は1994年の発売だから、彼女とプロデューサーの僕が、ばたばた試行錯誤していた日々から、そんな年月が間にはさまっている。
 大がかりな作品である。オペラの「椿姫」を下地にしたせいか、杉山ユカリのアレンジも前奏からいかにもいかにもだ。そこへいきなり、
 〽死にたいなんて思ってた、あの頃がいま、懐かしい…
 と、歌詞が「死」から始まる。愛する男から、ホタルみたいに消えようとする女心が激しい。はやり歌っぽくない金子隆博の曲とともにひとくさりあって、
 〽真っ赤な椿ぽろりん、ぽろりん、うまいさよならなんて、できるかしら…
 のサビから聞き手を乗せて、歌いおさめは案の定、
 〽椿姫、咲いた!
 と、丘の歌が昂って余韻を残す。
 《あまりらしい発想と表現で、やれやれだよ…》
 そう言えば「夜桜お七」を作曲した三木たかしがあの歌の、
 〽いつまで待っても来ぬ人と、死んだ人とは同じこと…
 というフレーズを大いに珍重したものだ。
 留守電に「折り返して!」と吹き込んでおいたら、あまりの返電は最初から笑い声だった。キングのディレクターから依頼があって、7編ほど届けたらしばらくはナシのツブテ。いつ僕に報告したもんか、もしかすると全部没かも…とモヤモヤしているうちに言いそびれ、ある日突然「やるよ」の連絡があって吹き込みになった…というのが経緯らしい。
 「そうですか、聞いて貰えましたか…ふふふ…」
 と、彼女はまだ笑っている。
 「夜桜お七」は、冬美の師匠の猪俣公章が亡くなって、その後の旗ふりも含めた頼まれ仕事だった。まだスポーツニッポン新聞社に在籍中の〝ブンヤ気質〟も手伝って、ああいう企画になった。林あまりはもともと畑ちがいの歌人。それを赤坂の小料理屋「あずさ」あたりに呼び出して、作詞家デビューをそそのかした。企画にそぐわないか? と星野哲郎、阿久悠、なかにし礼、吉岡治ら親交のある作詞家を、消去法で消して、あまりを口説く。異色作には異色の人材が必要…の思い込みで、作曲ははじめから三木、アレンジは若草恵とこれは決め打ち。ところが仕上がりがあんなふうだから「冬美を潰す気か!」と関係筋総スカンの難産になった。
 冬美の新境地に自信を持っていたのは「私、この曲好きよ」とぶれなかった冬美本人と僕ら制作陣。三木など「ヒットしなかったら坊主頭になる」と、記者陣相手に息まいたものだ。それやこれやの大騒ぎの中で僕はあまりに「これが当たれば、作詞依頼がドカドカ来るぞ、その覚悟をしておけよ」と助言した。ところがあの時期のあの作風は、メーカー各社の腕利きたちにも敬遠されてか、その後パッタリで、30年が過ぎてしまったことになる。
 丘みどりは旬の歌手である。歌唱力も十分で歌手になる前の経験もいろいろみんな生きている。バラエティ番組に出ても、妙にやかましい芸人たち相手に五分で応対して、なお彼女らしさを崩さないあたり「利発な美女」の印象が強い。波に乗る勢いというのは凄いもので、それが「椿姫咲いた」の野心作につながったのだろう。
 「歌い手がいいよ。いい時期の丘でよかった。あのころは冬美も旬だったけど、周囲の頭がまだ固過ぎたんだな」
 と、あまり起用の嬉しさの念押しをしたが、それにしても時代は変わるものだとも思う。林あまりは実は歌人以外にも成蹊や武蔵野、多摩美の各大学で講座を持つ教授で、紀伊國屋演劇賞の審査を務める評論家。敬虔なクリスチャンで、教会の日曜教室も絶えず手伝ってかなり忙しい。
 《夜桜お七から椿姫なあ。このドラマチックな展開が今回は引く手あまたにつながるかどうか…》
 僕は〝あまり30年めの冒険〟の行く方をそう注視する。作曲の金子は元米米CLUBの人と聞いて思い出した。「お七」の編曲者若草恵に出した注文は「能を米米でやるイメージで」だった。



殻を打ち破れ252回


 ≪そうか、年齢が年齢だものな。長いこと得意にして来た“張り歌”から穏やかめの“語り歌”に移行する気配がある…≫

 友人の新田晃也から届いた新曲を聴いてニヤニヤする。『旅の灯り』と『さすらい雲』の2曲。ここ何曲か作詞家石原信一のものが続いていたが、今作は本人の作詞、作曲。もともと演歌のシンガー・ソングライターだった往時へ戻っての、ひと勝負ということか。

 昔々、春日八郎の楽屋で会った。バーブ佐竹のそばに居たこともある。紹介される都度「おう」とか「よろしくな」とか言って、だんだん親しくなった。阿久悠が作詞をはじめた初期、全国の港町を回って歌を作り、本人のナレーションでつないだアルバム『わが心の港町』を出したが、その全曲を歌ったのもこの男。演出家の久世光彦らが気に入って、本格的な歌手活動をすすめたが

 「いまさら、一から苦労する気なんかありませんよ」

 と、にべもなかった。そのころ彼は銀座で名うての弾き語りになっていて、大層なギャラを手にしていたようだ。

 福島・伊達の出身。芸名と同じ地名が近所にあって“晃也”は“荒野”だったか? 集団就職列車で東京に出て、しばらくは真面目に働いたが、夢を捨て切れずにこの道に入った。

 「ま、口べらしですよ。あのころはよくあった話で…」

 上京の理由をボソッと言ったことがあるが、自作自演の作品には望郷ソングと母をしのぶ歌が目立つ。プロになることを嫌った男が、プロになれたのは時代の変化、フォーク勢と似た発想の演歌系で、誰の世話にもならず、気ままにマイ・ペースが保てる。そんな身分を選んだのはきっと、歌謡界の入り口で嫌な体験をしたせいだろう。昔々、この世界の底辺にはやくざも詐欺師もそれまがいも、大勢居たものだ。

 ところで新田の新曲だが『旅の灯り』は失意の女性が主人公に聞える。それとははっきり歌っていないが、「添えぬ運命」だの宿の湯にうつる「涙の素顔」だのがそれらしい。声をおさえめに語る風情だが、よく響く声にふとフランク永井を連想する。『さすらい雲』は馬鹿を承知で裏町暮らしの男が主人公。彼や僕らの年代は哀愁ものの泣き歌が基本だ。昭和に入って間もなくから日本は戦争つづきで、庶民は苦しい生活を強いられた。そんな嘆きが流行歌に託されて来たせいか。

 そういう意味ではレコード大賞も紅白歌合戦も脱演歌、年寄りにはなじみの薄い曲が並んだ。それが今日このごろの流行の波頭ならそれを中心にするのはもっともな話。しかし流行歌は年代別に分断し、若い層の支持は細分化して久しい。世代を縦断する大ヒットが生まれない時代、それはそれで戦後このかた世の中平和に過ごせた証だろう。

 しかし、分断化、細分化が進んだ現状を反映するだけでは、大型番組の視聴率は稼げない。レコ大が過去の受賞者シーンを多用するのはそのせいだろうし、紅白にいたってはポップス系ナツメロの特集が目立った。「特別企画」としてはさみ込んだ加山雄三、松任谷由実、安全地帯、時代遅れのRock'n'Roll Bandの桑田佳祐、佐野元春、世良公則、Char、野口五郎などがそれで、視聴率が尻上がりになっている。

 演歌系ナツメロは、彼らよりまたずっとさかのぼる年長組で、BSテレ東が歌手協会イベントを12時間ぶっ続けで放送した怪挙!? で明白になった。何十年ぶりかで白根一男を見たが、昭和40年代のはじめごろ、銀座で飲んでいて不埒な連中に「何か歌え」とからまれ、僕が代わりに『次男坊鴉』を歌って難を逃れた事を思い出した。僕ら二人は同い年だった。




 
 作詞家もず唱平は沖縄に居る。当初は大阪が寒いうちだけと言っていたが、昨今はどっぷりあちらで、活動の拠点とした気配だ。昨年の秋「沖縄発ニューレーベル」を標榜する会社UTADAMAMUSICが生まれた。第一作がもずが作詞した「さっちゃんの聴診器」で、弟子の高橋樺子が歌って今年1月の発売。沖縄インディーズだが、徳間ジャパンと提携、全国で販売されている。
 「さっちゃんの聴診器」は不思議な訴求力を持つ歌である。冒頭から何度も繰り返すフレーズが、
 〽もっと生きたかった、この町に、もっと生きたかった、誰かの為に…。
 の2行で、その間にいかにももずらしいオハナシの4行がはさまる。いずれもさっちゃんの聴診器が聞き取った形だが、例えば鳶職の権爺からは故郷の祭囃子、19才のフーテンの背中では、風邪をひいた入れ墨がべそをかく。昔、有名だった踊り子の乳房からは、かつての喝采とタップダンスの音が聞こえる…といった具合いだ。
 もずがこの詞を書くきっかけになったのは、NHKテレビのドキュメント番組だった。驚いたことに彼のデビュー作「釜ヶ崎人情」がモチーフで、主人公は当地で献身的な医療に従事した女医矢島祥子さん。〝西成のマザー・テレサ〟と呼ばれ愛された人だが、30代で不審死をとげている。自殺他殺と双方の見方が今も残るが、もずはその若い死の無念を、繰り返しのフレーズにこめた。思いの強さは歌の終盤にあきらかで、高樺の歌声のその部分に男声コーラスが寄り添い、最後の「誰かの為に」は絶叫みたいなたかまり方を示す。気づいて欲しいのは社会貢献の貴さだろう。
 沖縄に生まれた「株式会社UTADAMAMUSIC」の社長はもずの秘書の保田ゆうこ。ビクターを振り出しにメーカーを転々とした藤田武浩が役員で加わり、もずは「顧問」だが、彼の今後の活動の拠点になろうことは明白だ。もともと沖縄の文化や音楽に関心を持っていた彼は「大衆音楽の成功はハイブリッド」と思い定めており、沖縄と日本の音楽の融合の手伝いを始めた。本人に言わせれば、
 「80代に入って、人生卒業のシーズンを迎えた。この際新しいハイブリッドの具体化を考え、およばずながら、若い世代のためのタネまきもしたいと思っている」
 ということになる。
 唯一の弟子高橋樺子のためのシングル・リリース計画というのがあって、矢島敏が作曲した「さっちゃん…」を皮切りに、4月に「ウートートー」(仲宗根健作詞、矢島作曲)7月に「うりずんの二人」(高林こうこ作詞、田中裕子作曲)10月に「人生は歌」(もず作詞、矢島作曲)と矢つぎ早やだ。矢島敏は矢島祥子さんの実兄でミュージシャン、仲宗根は沖縄のカラオケの先生、高林は大阪在住で、もずの長年の友人と人脈もハイブリッドふう。この4作品で、インディーズ活動を一気に全国区に育てる目論みと見てとれる。
 歌手高橋樺子は明るく率直な歌唱が魅力の〝歌うお姉さん〟タイプ。東北大震災では仮設住宅に泊まり込みの支援活動を続け、地元の人々が無名の彼女を「仮設の星」「私たちが育てたハナちゃん」と応援するほどの親交を深めた。音楽健康指導師の活動も兼ね、今は「さっちゃん…」のプロモーションで全国を走っているが、東北支援も欠かすことがない。この歌の穏やかな訴え方は、聴診器を聞く人々に、
 〽渡して聴かせる我が胸の、呼気は今宵も生き生きと…
 と、もず本人の心境まで吐露して聴こえる。80代も中盤、お互いに加齢による体の不具合いも抱える仲だが、俄然〝その気〟のもず唱平が少々まぶしいくらいだ。
 それにしても…と思い出すのは、彼の出世作「花街の母」の難産。民謡出身の金田たつえが歌謡曲に転じることに反対したメーカーや関係者が、レコード販売地域を関西に限る〝おしおき〟をした。以後金田は3年におよぶ行商・宣伝活動で、この歌をヒット曲に育てた経緯がある。あれは近ごろ歌手たちが展開する手売り・プロモーションのはしりかも知れないが、もずはその実態を身近に体験している。そういう意味では、最初からインディーズ活動で頭角を現わしたような作家で、それが高橋のための強気4連発に現れてもいようか?
 《それにしても、ずいぶんせっかちになったもんだ…》
 僕は近ごろ、もず唱平の長電話や、きかん気の顔つきを思い浮かべながら、那覇地方の天気予報をテレビで、まじまじと見据えたりしている。



 
 《結局、俺は「酒」が好きだった訳じゃないんだ》
 と、今さらながら気がついた。スポーツニッポン新聞社勤めからその後の雑文屋ぐらしは、月曜から金曜まで、仕事先の方々や仲間内と、毎晩酒を飲んでいた。それがここ3年ほどのコロナ自粛である。加齢による不具合があちこちに出て来て、外出、外食も控えたから、アルコール類とは縁遠くなっていた。それでは〝呑ん兵衛〟を自他ともに許していたあのころの暮らしは、一体何だったのか?
 《つまり、俺が大好きなのは「酒」そのものではなくて「酒盛り」だったんだな…》
 今ごろ何を言ってんのよ! と、顰蹙を買いそうだが、これが結論である。要するにグビリグビリと晩酌をやるタイプではない。仲間うちでよく言えば談論風発、ありていに言えば、ラチもないおしゃべりに興じる会合が大好き。つまり長年そんなふうに人の縁を泳ぎ回って、すっかり持病にした成人病が「人間中毒」「ネオン中毒」なのだと自分の正体がはっきりした。
 きっかけになったのは1月30日に月島で開いた〝小西会〟の総会!? である。ここ3年、誰とも会っていない。去年の夏にはコロナ陽性の入院騒ぎ(無症状)をやり、その後人前に出ていないから、メンバー諸氏が心配してくれていた。音楽業界の面々に元スポニチの仲間だが、かかって来る電話は「安否確認」である。古いメンバーが亡くなった例もあるし、みんな年寄りだから、あちこち傷んでもいる。あんたは実のところどうなの? の問いに、一ぺんに答えようと全員集合! の声をかけた。案の定体調不良組もおり、集まったのは22人で、開宴は午後4時。
 幹事長の徳永廣志ははたち過ぎから僕んちに出入りしていた。作詩家協会石原信一会長は、大学を卒業した時分からのつき合いだから、お互いにやたら若かった。美空ひばりの息子・加藤和也が「うるせえな、もう寝ろよ」と、深夜、ひばりさんと盛り上がっていた酒宴に文句をつけたのはまだ小学校低学年のころか。彼ももう50代なら、その隣りで一座を見回し、大いに面白がっている有香夫人と会ったのは、いつごろだろう? つかつかと僕の面前に現れて、
 「高知から今、つきました!」
 と口上に及んだのは、歌手の仲町浩二で、スポニチの後輩。歌手になりたい一心で僕に密着していたのが定年を迎えたので、一度くらい〝いい思い〟をさせようと、CDを一枚出した。本人はすっかり〝その気〟で、故郷の高知を拠点にがんばってもう10年余になる。
 《3枚めのシングルは、これっきゃないな!》
 と、「高知いの町仁淀川」とごくピンポイント狙いのご当地ソングを作ったら、地元が大騒ぎになった。作詞がご当地出身で、星野哲郎の弟子紺野あずさ、作曲が仲町を弟子みたいにかわいがってくれている岡千秋。プロデューサーの僕が手ばなしになるくらい、いい作品に仕上がって、本人は意気軒昂なのだ。
 この日の会場は、月島のもんじゃ屋〝むかい〟で、実はこの店1月末日で閉店が決まっていた。
 《それならこの際、さよならパーティーも一緒にやろうか!》
 という趣向になった。もともと銀座5丁目で「いしかわ五右衛門」という小料理屋をやっていたのが、再開発立ち退きで月島に移り、商売替えをした。五右衛門からむかいまで、僕が通いつめた年月は40年を越える。
 銀座には阿久悠、吉岡治夫妻、三木たかしら大勢を招いた。月島には仲町会の弦哲也、四方章人、南郷達也、若草恵、亡くなった前田俊明らもやって来た。その他メーカー各社の腕ききディレクター、プロダクションのお仲間など、みんな僕の人間中毒、ネオン中毒の基を作った人々で、酒宴はいつも笑い声が絶えなかった。
 五右衛門の店じまいも小西会がさよならの会を開いた。今度はむかいのお別れパーティーである。宴の終盤には大将とお女将さんも加わる。もともと腕のいい板前の料理と、気っ風のいい女将のもてなし、音楽抜きの話しやすさが美点の店だった。今度もまた再開発、立ち退きと、同じ理由の閉店というのも珍しい。だが待てよ―。
 これを機に二人は商いを卒業するという。年が年だから3軒はナシだ。とするとこの夫婦との40年余、親戚以上のつき合いはここで絶えることになる。生涯もう会えないのは寂し過ぎようと2人を小西会に招き入れることにした。思いつきだが、二人を大喜びさせて縁つなぎの名案になったと思っている。



殻を打ち破れ251回

 
 高知の四万十川は有名だが、地元にはそれに対抗する清流・仁淀川がある。「によどがわ」と読むのだが、前者が全国区なら後者はまだ地方区の知名度に止まっていようか。神奈川に住み、東京を仕事場とする僕には、なじみのない名勝だが、ここを舞台にした歌づくりをした。友人の歌手仲町浩二が世話になっている地域のせいだ。ご当地の友人がもう一人居て作詞家の紺野あずさ。彼女に詞を頼み、作曲は長いつき合いの岡千秋に頼んだ。出来上がったのが『高知 いの(ちょう) 仁淀川』で、編曲は石倉重信。

 ピンポイントのご当地ソングである。レコーディングのあと、仲町が「いの町」へ持ち帰ったら、情報だけで町が大喜びした。仲町が仁淀川波川公園で開かれた土佐の豊穣祭「神楽と鮎と酒に酔う」に呼ばれて歌ったのが11月。この祭りは川沿いの仁淀川町、越知町、佐川町、日高村、土佐市に「いの町」を加えた6市町村が勢揃いする催し。吹き込み直後なのでまだCDは出来ていず、本人の歌だけのお披露めになったが、盛り上がりはなかなかで

 「何でいの町だけなんだ。われわれの地名も入れば、もっとよかった…」

 と、他町の町長さんたちがうらやんだ。

 「いの町」は「いのちょう」と読み、原稿に書くときは、まぎらわしいので困る。あまり知られていない町だから、反響を心配してすべり止めにカップリング曲は『おまえの笑顔』にした。2曲とも「いの町」と恋人のもとへUターンした男が主人公。もしかするとこちらの方が、幅広い聞き手、支持者を獲得できるかも知れない欲目があった。

 「どうしたもんだろうね?」

 と相談したら、岡千秋は言下に「高知 いの町 仁淀川」と答えた。泣けるくらいのいいメロディーを書いてくれているから「やっぱりな」と、僕も合点した。

 岡と仲町の縁も長い。仲町をデビューさせたのは2013年で、岡の作品『孫が来る!』を歌い、岡との競作を話題にした。以後ずっと仲町は弟子みたいに大事にしてもらっている。仲町はもともと、僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞社の後輩社員。僕は編集、彼は広告と所属先は別々だが、仲町が僕に密着したのは熱心な歌手志望だったせいだ。聞いてみれば確かにいい声だし節回しも巧みだが、五木ひろしのそっくりさんだった。

 諦めさせるために北島三郎や一節太郎の例を出した。“流し”出身の北島は、曲によってそれを歌った歌手の癖が出てしまう。それを師匠の船村徹が「声帯模写じゃないんだ」と歌唱法を改造させた。一節は三橋美智也似の美声だったが、師匠の遠藤実が「三橋は一人きりでいい。声を変えろ」と厳命して、あの声につぶさせたエピソードがあった。

 その仲町がスポニチの定年を迎えたから、

 「いっちょ行ってみるか!」

 と声をかけた。僕自身がスポニチを卒業後、70才で舞台の役者を始めた物狂いの日々。長い間諦めさせていた歌手への夢を、一度くらいは見させなければ義理が悪いと思った。しかし、年が年で、後押ししてくれる事務所もない。重点的に故郷の高知で活動して地歩を固める作戦にした。だから5年後の第2作は『四万十川恋唄』で、その4年後の第3作が今作になったわけだ。

 12月2日、いの町役場に隣接するホールで、仲町の新曲を発表する会が開かれた。町と観光協会の肝いりで、地元の善男善女がわんさか集まった。ゲストが豪華版で作詞の紺野と作曲の岡。乗りのいい岡はピアノの弾き語りで『長良川艶歌』や『黒あげは』など10曲近く歌っての大サービス。仲町は負けじとばかりに力の入った歌唱で面目を施した。

 地元に居着いて、人柄と熱意を認めてもらえた仲町の故郷奮闘である。仲町といの町界わいの人々は、きっといい新年を迎えることだろう。






 《いいじゃないか、おしゃれなポップス風味。このほどの良さなら、彼女の演歌ばなれも歓迎だな…》
 出来たてほやほやの川中美幸の新曲「冬列車」を聴いての感想だ。作詞、作曲、編曲が田村武也。ほどの良さは、まず作品にあり、川中の歌唱がそれに寄り添っている。
 〽もうどのくらい眠っていたかしら、カタカタ揺れる窓が冷たい…
 歌い出し口語調の歌詞2行である。女主人公が乗っているのは、暗い海の底をゆく列車。海峡を越える失意の一人旅か? と聞き進むと、彼女は男の温もりを確かめるように顔を埋めたりする。
 道行きソングなのだ。この種の古典的作品なら、石本美由起作詞、船村徹作曲、ちあきなおみ歌の「矢切の渡し」がある。あれは男の決意に女が命を預けた悲壮感が歌の芯にあった。田村の今作は、何も言わずに道づれになる男の優しさに、女が心を預ける。そしてサビが
 〽離さないで、離さないで、行方しれずの冬の列車…
 と昂揚する2ハーフ。そのサビを2回繰り返したあとの最後の一言「離さないで…」は、メロも歌唱も月並みな収まり方をせず、未完の気配を残す。万事不透明、生きづらさばかりが先立つ時代なら、二人のこの歌の先行きも、あてどないままだ―。 流行歌はここ数年、静かだがはっきり地殻変動を示している。ことに演歌勢は歌謡曲へ、歌謡曲勢はポップス系への傾斜が目立つ。歌詞のあまりの古色蒼然に飽きたらぬ歌手周辺が、求めた活路がポップス系のカバー。思い思いの選曲で独自の色あいを作る歌手が増えたが、オリジナルとなると書き手が見当たらない。シンガーソングライターに依頼しても、坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」では面白いが極端すぎよう。昔は歌手たちを半歩ないし一歩前進させる才能がいた。例えば「シクラメンのかほり」の小椋佳「襟裳岬」の吉田拓郎「飾りじゃないのよ涙は」の井上陽水「かもめはかもめ」の中島みゆき…。
 田村武也はその点、はなからほどが良いのだ。作、演出を担当する劇団の名が「路地裏ナキムシ楽団」標榜する音楽が「青春ドラマチックフォーク」で、上演回数を「第○泣き」と数える。昭和テイストの情感を〝涙〟をスパイスに表現したうえで、感性やセンスの基本が今日的。新しい流行歌を書く資質がドンピシャリの感がある。
 川中は「ふたり酒」のヒットで第一線に浮上した。〝しあわせ演歌の元祖〟と呼ばれた仲間は作詞のたかたかしと作曲した弦哲也。その後川中・弦は親密な交友と歌づくりを続け、お互いを〝戦友〟と呼ぶ。本人はあまりそれに触れたがらないが、田村はその弦の一人息子。独自の音楽、演劇活動が長いが、父の歌づくりもまた身近で知り尽くしていた。川中とは初仕事だが、彼女が狙うべき路線と彼が書きたい世界の接点は、はっきり見えていたろう。父は日本音楽著作権協会と日本作曲家協会の会長を兼ねている。最近彼の事務所弦音楽企画の代表取締役は息子に禅譲した。父子ともに新しい年への線路を敷いたばかりだ。
 親交のある人たちの、新年の魅力的な挑戦に触れるのは、うれしいものである。親友の歌手新田晃也からは、昨年12月5日ファイナル・ミックスというメモつきの新曲が届いた。「旅の灯り」と「さすらい雲」の2曲で、本人の作詞、作曲。ここしばらく作詞を石原信一に任せた新機軸を歌って来たが、もともとの演歌系シンガーソングライターに戻って、ひと勝負の年にする気らしい。集団就職列車で福島を出て、夢を捨て切れずにこの道へ入って以後独立独歩、ひところは銀座で名うての弾き語りも体験したベテランで、新曲は古風な失意の女の夜汽車ものだ。
 僕は新聞記者出身のせいか、まず新しいものに眼が行くが、演歌の古風も決して否定する気はない。そういう歌を支持するファンはいるのだし、極みの完成度を目指す意欲なら尊いと思っている。好きになれないのはその古さにどっぷりの安易な歌づくりだけだ。しかし面白いと思うのは、僕ら旧世代の流行歌が〝泣きたい一心〟が基本だったこと。だから新田も、同じ世代に並べては申し訳ない川中も、歌唱の軸が〝泣き節〟になっている。田村の作品から感じるのは、ご時勢ふうの泣き方の変化、泣き過ぎぬ抑え方がおしゃれだと思うがいかがなものだろう。
 もう一人おまけみたいで悪いが、ブラジル出身の年下の友人エドアルドからは、
 「2023年、新曲〝夢でもう一度〟をリリース、トップに立ちます。力をください」
 という年賀状が来た。さて、どういうふうに手伝おうか?




殻を打ち破れ250回


 「吉岡さん、来ました。おおきい人と一緒で、ボクサーだって。あの人もおおきいしね…」

 いつだったか、行きつけの月島のもんじゃ屋“むかい”の女将から報告されたことがある。友人の吉岡天平のことで、亡くなった作詞家吉岡治の長男。巨漢2人連れに驚いたらしいが、そう言えば彼もボクシングジムに通っていると聞いていた。その天平から葉書が届いた。「想望するリングへ」と題した「吉岡天平写真展」のお知らせで11月1日から12日が東京・銀座、来年の2月7日から18日が大阪で、いずれも会場はキャノンギャラリーとある。

 葉書いっぱい大写し写真は、ヘッドギアをつけたヒゲづらのボクサーのアップ。見知らぬ男だが、カメラ目線の眼がカメラを通り越して、妙に穏やかに遠めに投げられている。スパーリングの途中のワンショットだろうが、彼の眼は一体何に向けられて、何を見ているのか? 天平からのメッセージは「ここまで辿り着きました。お待ち申し上げております」と走り書きの一行。

 ≪そうか、スポーツ写真を撮ると言っていたが、ボクシングに特化してずっと頑張っていたんだ。あれからもう6年になるか…≫

 天平は僕らの遊び仲間で作曲家の弦哲也、四方章人らと吉岡治もメンバーだった仲町会の面々と、よく呑んだ。年下だから呼び捨ての友人である。

 天平が追っているのは、小原佳太というボクサー。アマチュアで70戦55勝(30KO)15敗、プロで31戦26勝(23KO)4敗1分の戦績を持ち、三迫ボクシングジム所属。現在日本ウエルター級チャンピオンで3度防衛中とある。天平は小原がIBF・IBO世界スーパーライト級王者エドゥアルド・トロヤノフスキーに挑戦した2016年9月、ロシア、モスクワ戦から密着取材をしているらしい。

 他国で拠点とする「Boxingジム探しから始まり、減量による選手の身体と心の変化、それを支えるトレーナーとジムの同志、異様な雰囲気の漂うアウェーでの試合、惨敗からの再起と、凝縮されたBoxingを撮ることでドキュメンタリーの面白さに、僕は目覚めることが出来た」

 と、天平は写真集に書いている。以後彼は小原が2017年8月WBOアジア太平洋ウエルター級タイトルマッチに勝利、翌18年4月2度めの防衛は失敗、そのまた翌年8月に王座を奪回、19年3月、アメリカ、フィラデルフィアでのIBF同級王座挑戦者決定戦で判定負けを喫するなど、あわただしい浮沈の日々を追跡した。天平がカメラを向けるのは戦う男の生きざま。モスクワでのジムでのトレーニングや、現地の人々との交友、地下鉄でのワンショット、筋肉そのものの見事さや、オン、オフの境めで見せるハッとするような笑顔など、小原の喜怒哀楽の瞬間を凝縮して切り取っている。そんなドラマの緩急が、冷静な視線と叙情の感触で捉えらえ、肉と肉、拳と拳、意志と意志、本能と本能が激突するクライマックスへ行き着くようだ。

 「ボクシングには、いつごろから興味を持ってたのよ?」

 と聞いたら

 「おやじが岡林信康さんの息子がボクサーになったから、応援しろと言った時ですかね」

 と笑った。天下の女ごころ艶歌の書き手とフォークの神様の交友が、次の世代にこんな影を落としているのが愉快だった。

 天平は写真を水谷章人氏に師事、4年で水谷塾を卒業した。父親の作品の権利全般を維持、展開する仕事も含めた会社Zeusと深川のM16Galleryを経営する51才。東京と大阪のキャノンギャラリーは、出展者が厳重な審査を受ける難関で、出展できるのは「100人のうち7人」とも。吉岡天平は今回の催事をもってあっぱれプロカメラマンの第一歩を踏み出したことになろうか。小原佳太は現在世界ランク10位、36才。なお世界王者への夢を生き続け、天平はそれに同伴する気だ。





《そうか、これが今年最後の大仕事の証か…》
 12月、眼の前に積まれた本に、感慨がひとしおである。栃木の下野新聞社が出してくれた「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年小西良太郎」だが、船村の故郷のこの新聞に、2年ほど連載したものに加筆。内容とにらみ合わせて、船村語録を50近く添えた。昭和38年夏、スポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、私淑して54年「物書きの操と志」を学んだ師とのあれこれだ。この本が何と、年末までに300冊余も音楽関連の人々のもとに出回った。これまでに何冊か本を出したが、こんな僥倖に恵まれたケースはない。
 《結局のところ、最後までお世話になっちまったことになる…》
 船村家のお陰なのだ。来年2月16日が、船村の七回忌にあたる。ところがまた尻上がりのコロナ禍。法要の会を催すかわりに、船村のCD6枚組ボックスと、僕の本を関係者に届けようということになった。船村夫人佳子さんと娘の渚子さん、息子の蔦将包の夫人さゆりさんの心尽くしだ。船村もにぎやかなことは好きだったが、ウイルス蔓延の心配事を抱えたまま、人を集めることなど望まないだろう。船村家の発案に、僕は一も二もなかった。
 「生誕90年記念、七回忌に向けて」がサブタイトルのアルバム「愛惜の譜」が何ともいいのだ。おなじみの名曲のほかに、グッと来る佳作が揃った自作自演盤。本でも触れたが「泣き虫人生」「ハンドル人生」「三味線マドロス」「男の友情」など、高野公男との初期のものから「希望(のぞみ)」「東京は船着場」「愛恋岬」「新宿情話」など、どれを聞いても船村身上の〝哀歌〟だからしみじみ沁みるのだ。
 振り返れば僕は、新聞記者の昔から今日まで、密着取材に没頭して来た。相手さんがそれを許してくれる場合に限るが、𠮷田正、船村徹、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、三木たかし、美空ひばりなどがその例。取材対象に一定の距離を保ち、第三者的立場を取るのが公平無私の記者だと言われれば、公私ともにドップリの僕流は邪道だろうが、心中期したのは「癒着と密着は違う」の一言だった。茨城の田舎の怠惰な高校卒の僕は、一流の人々から生き方ぐるみで多くのことを学んだ。船村や星野を師と仰ぐのはそのせいだ。
 今回の出版で、僕は二人の師を書くことが出来た。「海鳴りの詩・星野哲郎歌書き一代」と今作で「ロマンの鬼」は星野が書いた船村への献辞から引いた。これまた幸せなことに、船村を学ぶことは星野に通じ、星野を追跡すれば船村を知悉することで表裏一体。おまけに二人は、美空ひばりをはさんで知り合い、昭和最後のヒット曲「みだれ髪」を書くまで、親交を深めている。僕はそのひばりの晩年にほぼ15年間密着「美空ひばり・ヒューマンドキュメント」「美空ひばり・涙の河を越えて」の2作を出版する光栄に浴した。いずれにしろ、先に挙げた作曲家3人、作詞家3人、歌手1人については、一番長く一番そばに居た取材者だった。
 6年ほど前になるが「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を出版した。戦後のヒット曲100曲についてのエピソードを縦糸に、僕の歌まみれの半生を横糸にからめた内容。歌謡少年が流行歌記者になり〝はやり歌評判屋〟の今日までがちらついている。読後感として「面白かった」の声を頂いたが、一部に
 「俺が俺が…の自慢話ばかりで、鼻についてやりきれない」
 というお叱りも頂いた。何ごとによらず自慢話は避けるべきだが、僕が書くものはすべて、私的部分が色濃い「体験記」である。演歌・歌謡曲を作り、歌う人々に伴走して、その実態を伝えている。個人的なかかわり方が、ヒット曲の場合、どうしても自慢話に受け取られがちになるが、では、それをどうするべきか? おまけにプロデュースにまで手を伸ばしている。新聞社づとめのまま、レコード大賞を取ったり、その他の賞で、作家や歌い手とハイタッチをした例も少なくない。その間の経緯を書けば、これはもう自慢話そのものになってしまう。
 馬齢を重ねてとうとう、師匠2人の没年を越えてしまった。86才、さて来年はどういうタッチで物を書いたものか? と、反省もまじえながら、これが今年最後の回である。ご愛読を深謝しながら、しかし「性分って奴は変わらねえだろうな」などとも考えている。




 山形の天童市に出向く。例年の「天童はな駒歌謡祭」の審査で、歌どころ東北のノド自慢70余名を聞く。このところ体調不良をかこって出歩かないが、わがままを言ってはいられない。佐藤千夜子杯全国大会から引き続き10数年の審査委員長役。地元の高僧矢吹海慶師も待っている。その滋味と諧謔に触れる方が、歌を聞くより楽しみな逆転現象まで起こっている。旅って奴の妙趣は、会いたい人に逢うことじゃないか!
 山と海と田畑に恵まれた地方である。自然相手のせいか、東北の人々の歌は大音声でやたらのびのび、いい気分が極まるタイプが多い。別にプロを目指す訳ではないから、それはそれで結構。そんな大向こう狙いの「うまい歌」から、酔い心地がほどほどに客席に届く「いい歌」を見出すことを、審査のメドにする。「沁みる歌」探しだ。
 コロナ禍でここ二、三年、あちこちのカラオケ大会は揃って自粛している。ところが天童は実行委員長として「口も出すが金も出す」と評判の矢吹高僧の号令一下、
 「感染防止に万全を尽くして、やるものはやる!」
 という張り切り方。考えられる手は全部打って、審査員のマスクさえ会の前後半で取り替えるくらい入念だ。そのせいか地域主体のこの催しに、遠来の挑戦者が加わる。大阪、京都、滋賀、千葉あたりから、歌えるならどこへでも行く人々の気合が入る。結局グランプリには、山形・寒河江市の佐藤信幸という人を選んだ。曲はちあきなおみの「冬隣」で、よく響く美声と抑制の利いた語り口の「めりはり」が魅力的だった。めりはりは「減り張り」「乙張」と書くと辞書にあるが、表現者の感性に負うところ大。「冬隣」という選曲もよかった。いい作品の酔い心地がプラスアルファになる利点がある。福田豊志郎さんの「男宿」にもそれが言えた。カラオケ巧者たちが鳥羽一郎のカップリング曲から掘り起こした作品だが、サビ以降の詞曲が、誰が歌っても沁みるタイプだ。
 「ところで和尚、実はねえ…」
 と、僕は久闊を叙したうえで、矢吹海慶師に詫びを入れた。音楽祭が11月13日、それから一週間後の20日には、彼のお祝いの会がある。日蓮宗の「権大僧正」に任じられた名誉をたたえ、同時に妙法寺住職の座を副住職で息子の矢吹栄修氏にバトンタッチ、それに「卒寿」90才のおめでたが重なっていた。ところが軟弱に過ぎる僕の体調は、週に2度の天童詣では無理と、主治医の助言に出っくわした。新幹線で片道3時間、一泊二日を繰り返すだけだが、行けば名物の「芋煮」と「青菜漬け」酒は出羽桜の「雪漫々」に「枯れ山水」と銘酒揃いで、甘露カンロ…の夜になることを、見抜かれての宣告だ。
 「権大僧正」というのは、
 「山形ではこの人一人、東北でも二、三人という偉い位だ」
 と、歌謡祭のスタッフがわが事のように自慢する。天童、ひいては山形、東北にまたがるだろう社会貢献が長く、数々の要職をこなして来た実績が、高僧の行跡に加わっていようか。それが初対面の時から、僕に「和尚!」と呼ばせる分けへだてのなさ、人懐っこさと人望を見せて来た。
 息子の栄修氏は48才、山形県会議員としてもう11年働いて、社会貢献も和尚ゆずり。サッカーのモンテディオ山形の新スタジアムを天童に建設、それに農業テーマパークとスマート農業を合わせる構想や、里山整備から子育て福祉支援、観光専門職大学の創設などの提案を「天童、躍動! の十策」とかかげて活動している。
 《そうか、和尚を祝う会は、世の中ふうに言えば彼の〝終活〟を見届ける催しになるのか…》
 と、僕は合点しかける。しかし待てよ、ここ十数年のつき合いで、和尚から〝過去〟の話を聞いたことも、その匂いを嗅いだ記憶もほとんどない。他愛のないジョークを連発する以外は、いつも「あれをこうする」「これはこうすべきか」と、現在進行中の話ばかりだ。出会ったころは舌がんをカラオケで制圧し、今度会ったら二月ごろに大腸がんの手術に成功したと笑った。
 心身ともに驚くべきタフさと行動力を示す90才である。どうやら僕が欠席した祝賀会を起点に、この人はまだ〝これから〟を見据える算段と気概を示したようだ。酔えば酔うほどチャーミングなこの高僧には〝過去〟は不要で、昨日までが〝現在〟なら今日からが〝未来〟というタイムスケジュールが用意されているのか。栄修氏も「何をやったか」よりも「何をやるか」が大切と説いていた。僕は和尚の今回の節目イベントを「終活」などと言う生半可なものではなく、毅然とした老後を生きる「毅活」とでも称すべきものかと考えている。



殻を打ち破れ249回


 或る日突然、赤トンボの群れが現われる。まるで湧いて来た勢いで、マンション5階に住む僕の、眼の前まで舞い上がる。海辺の町への秋の知らせだ。10月2日、対岸の箱根や伊豆半島の稜線を染めて、陽が沈む。中央に影絵の富士山がクッキリ、上手の江の島燈台の光りが回りはじめ、下手の伊豆大島方向には、淡い黄色の月が出た。五日月くらいの太り方で、富士の左上あたりに出来た飛行機雲が、夕陽色に変わる――。

 そんな風景を眺めながら、僕は≪さて、電話を一本かけなければ…≫と、自分のお尻を叩く。ベランダでぼんやりしていると、思い立った事と体の動きの間に少しだが時間差が生まれる。さっさと行動に移らないのは、景観のせいか、年齢のせいか。

 「それがさ、レコーディングのスタジオで、実は…と打ち明けられてさ…」

 歌手中条きよしが7月の参議院選に出馬することを、作詞家星川裕二は突然そう知ったと電話口で話した。彼が詞を書き、杉本眞人が曲を書いた『カサブランカ浪漫』がかなりいい仕上がりなのだが、しかし代議士先生になった中条が、この作品をどう歌っていけるのかが気になる。CDは9月7日に出た。

 ♪雨に濡れてる 白いカサブランカ 気高く清らな 君と重なる…

 と、歌の主人公は別れた人をしのぶ。幸せな日々を夢見て相思相愛だったから、

 ♪冬の木枯らし 吹き荒れた夜でも 肌寄せ合って 夜明けに溶けた…

 という。僕はこの「溶けた」を珍重する。歌謡曲によく出てくるシーンだが、おおむね表現は下世話で、ここまできれいに婉曲なケースは初めてだ。相手が「気高く清らな君」であることとの対比だろうが、なかなかの美意識と言っていい。星川は杉本と組んで『吾亦紅』などいい歌を沢山作った松下章一プロデューサーのペンネーム。もともと星野哲郎門下の作詞家が、制作者になって一時代を作った。無類の酒好きで好人物。仕事に品があるのは師匠譲りか?

 中条の歌がまたいいのだ。杉本が書くメロディーには、本人の“口調”に似た強い個性がある。ぶっきらぼうに聞える表現だが、陰に繊細な思いがあり、情が濃い。彼の曲を貰った歌手の多くは、デモテープの杉本節の影響からどう離れ、どう自分流を作り出せるかに苦心する。これがなかなかの大仕事で、だから僕は杉本に、

 「お前さんが書いた曲を、一番うまく歌えるのはお前さん本人だな」

 と、笑ったりする。その厄介なハードルを、中条はうまい具合いにクリアした。おなじみの細めの声をしならせて、独自のフレージングを作り、思いのたけに熱がこもるのは、年の功か、作品がよほど気に入ってのことか?

 中条と僕は昨年の4月21日「武田鉄矢の昭和は輝いていた」のビデオ撮りで、テレビ東京のスタジオで久々に会っていた。彼が『うそ』をヒットさせたのは昭和49年だから47年前。そのころ少したっぷりめの話をしたが、以後そんな機会はほとんどなかった。第一僕はスポーツニッポン新聞社を卒業してもう22年にもなる。≪覚えちゃいないだろうな≫とたたらを踏んでいたら、先方が

 「どうも、お久しぶりです」

 とにこやかに現われた。お互い年を取ったと世間話をしたが、その人ざわりの良さにその後の彼の仕事ぶりと自信を感じ、そこから生まれたろう好感度に感じ入ったものだ。

 新米政治家のスケジュールと人気者の芸能活動どう折り合いをつけられるのかは、僕には判らない。しかし、せっかくのいい歌である。『カサブランカ浪漫』がその間に埋没して“幻の秀作”にならぬよう、祈るような気持ちになっている。






 10月27日、中野サンプラザホールで日本クラウンの60周年記念コンサートがあった。知らせてくれた人は「ウスイ」と名乗った。きっと亡くなった作曲家三島大輔の息子だと思う。三島には星野哲郎作詞の隠れた名曲「帰れないんだよ」がある。当時彼は伝説のプロデューサー馬渕玄三氏に命じられて、新潟のキャバレーでピアノを弾いていた。まだペンネームの三島を名乗る以前で、作曲者名は臼井孝次だった。昭和44年ごろのそんな話を後に本人から聞いたが、息子と会ったのはそのころと三島の葬儀の後何回か。
 《創業60周年か。ということは俺のこの世界お出入りも、60周年という勘定になる…》
 伊藤正憲専務を旗頭に、コロムビア脱退組がクラウンを興したのは昭和38年。僕は同じ年の夏にスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材部門に異動、39年元旦のクラウン第一回新譜から密着した。前回の東京オリンピックの年だから、ずいぶん昔の話だ。
 いつの時代も似たようなものだが、情報はその業界の大手に集まり、そこを起点に応分の信憑性を持って拡散する。コロムビアはレコード業界の老舗で、脱退したクラウン勢とは敵対する。北島三郎、五月みどりらが移籍するのを止めようと裁判ざたにおよんでおり、
 「新興勢力? ふん、あんな会社すぐ潰れるよ」 と息まいたのが、業界世論ふうに行き交った。そのせいか七社めの新会社を取材する他社の先輩は少ない。
 《潰れるなら、その実態を見てみようか》
 僕がクラウンに日参したのは、そんな向こう見ずの野次馬根性からだったが、相手さんは社をあげて意気軒昂。誰でもいらっしゃいと開放的で、それが新米記者には居心地がよかった。伊藤専務以下幹部の皆さんにもよくして貰えたし、作曲家米山正夫、作詞家星野哲郎を知り、編曲の小杉仁三とは飲み友だちになる。当初クラウンと親しかったプロダクションは新栄プロだけで、西川幸男社長には、
 「僕は新聞記者は嫌いだ」
 とすげなくされたが、やがて、めげずになつけば気持ちは通じる記者の心得通りになった。
 それやこれやで僕は、メーカーは「クラウン育ち」プロダクションは「新栄育ち」を自称する縁に恵まれる。それぞれのビジネスの深い部分や、それを支える独特の美意識や信義、即断即決の潔さ、出る釘を打たずに育てるチームワークの妙などを学んだのだ。
 だからこそ、クラウン歌手総出のイベントには、喜び勇んで出かける返事をした。発足当時の侍たちは、もう誰一人残ってはいまいが、枯れ木も枝のにぎわい、顔を出さねば義理がすたる―と、勢い込んだがしかし、思うに任せなかった。このところ体調いまいちで、足腰の衰えを痛感している。歩幅短めのチョコチョコ歩きは、人に見られたくないし、第一、神奈川の葉山から東京の中野まで、往復出来る自信がない。北島三郎や水前寺清子に、ごぶさたのあいさつもしたい、ひと時代ずつクラウンを支えた中堅、ベテランたちの〝その後〟も知りたい…と、最近はとんと消息も聞かぬ親しかった歌手たちの顔を思い浮かべるに止まった。
 そう言えばこの秋は、節目の周年記念コンサートをやった歌手たちが多かった。中にはわざわざ電話で誘ってくれたスターさんもいたが、残念ながらほとんど不義理をした。コロナ自粛の巣ごもりがまだ続いていて、顔を見ない相手や日々が不思議ではないことに、免じてもらってもいたろうか。
 「昨夜もテレビで見たよ。よく出てるなあ。ま、元気そうで何よりだよ」
 なんて電話をよく貰う。BSテレビの「昭和歌謡曲特番」があちこちにあり、知ったかぶりおじさんの僕の出番は多い。これが例外なくしばしば再放送をしていて、だから相手の二の句は
 「近々一ぱいやろうよ。つもる話もいろいろあるし。大体、年寄りは暇だよな。アハハハ…」
 と、屈託のない誘いになる。
 「そうだな、早めの忘年会もいいし、年が明けてでもいい。そのうちスケジュール合わせをしよう」
 とこちらもそれまでに足腰を鍛え直す算段をする。それにしてもしばらく、酒を飲んでいない。一人酒では浮いた気分にもならず
 《結局俺は酒が好きな訳ではなく、わんさか集まっての酒盛りそのものが好きなんだ》
 と、今さら気がついたりしている。
 来月には下野新聞社から師の七回忌を前に「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年~小西良太郎」という本が出る。この夏から秋は結構よく働いたんだ…と自分に言ってみる。僕が長くかかえている成人病の「人間中毒」と「ネオン中毒」は、年明けの復活を目指している。





 突然「司馬江漢〝東海道五十三次〟の真実」という書物(祥伝社刊)に出っくわした。對中如雲(たいなかじょうん)という人が筆者で、帯には「はたして広重はこの絵を見たのか?」「元絵論争に最終決着」というフレーズが躍る。美術関係には全く門外漢の僕にも、広重はあの浮世絵の歌川広重と判り、彼が東海道五十三次を絵にしていることも知っていた。とすると司馬江漢の五十三次との関係は一体どうなる? 広重のオマージュとするのか、それともパクリとするのか?
 《えらいこっちゃ、これはにわかに迂闊なもの言いは出来ないぞ!》
 面白そうなら何でも飛びついたスポーツニッポン新聞の、カワラ版記者のころの血が騒いだが、
 《それにしても、何でまた彼が、こんなことに首を突っ込んでるんだ?》
 接触して来たのは、古い友人の奥田義行氏である。「司馬江漢研究会」というのの副代表になっている。電話をかけたら、
 「あんたなら乗る話じゃないかと思ってさ、ははは…」
 と、昔と変わらない声で笑った。知り合ったのは彼がザ・スパイダースのマネジャーだったころと思う。グループサウンズ・ブームの主導者スパイダースのリーダー田邊昭知と親しくなった僕は、「ウエスタンカーニバル」の日劇の楽屋に入りびたりだった。リーダーの客分として扱われた僕は、彼を「奥田!」と呼び捨てにしたように思う。その後奥田は井上陽水がデビュー当初アンドレ・カンドレを名乗っていたころを担当したり、RCサクセションの忌野清志郎を手がけたりした。
 「いつまで西洋乞食のお先棒をかついでいるんだ、うん?」
 と、私淑していた作曲家船村徹に言われたころだ。スポニチにGSがらみの記事をでかでかと連発する僕がシャクにさわったのだろう。
 「あれはな、停電したら成立しない音楽だぞ」
 酔っての放言だが、若者の音楽とエネルギーを認めながらの八つ当たりだった。
 奥田氏の活動はやがて、音楽制作者連盟のボスになり、テレビ、ラジオなどでどの楽曲が使われたかを、即刻克明にチェックできるシステム作りにかかわったりしたが、その後はすっかり疎遠になっていた。聞けば4年ほど前に、この業界を卒業して転居した伊豆高原で、冒頭の對中氏と出会ったらしい。對中氏は伊豆高原美術館(現在閉館)の館長などを務めた人で、30年前に江漢(1747~1818)の五十三次の肉筆画に魅入られ、以後その研究に没頭して来た。同時代の広重(1797~1858)が実は東海道五十三次を歩いた事実がないことが、江漢を〝元絵〟とする根拠らしい。
 それにしても芸能の仕事とはまるで畑違いの分野になぜ? と聞いてびっくりした。奥田氏の趣味は古美術や中国骨董。もう20年も続けている中国の書道で、賞も取っているという。聞いてみなければ判らないものだし、人は見かけによらぬもの(失礼!)で、長いつき合いを重ねても、人の素顔や正体まではなかなかにうかがい知れないものと、つくづく思い当たる。奥田氏は昔ながらの才覚で、この研究のための資金集めまで手伝っているらしい。
 《趣味が老後に生きて、第二の人生というのもうらやましい。そこへ行くと俺は…》
 なんて、当方は肩をすくめる。僕の〝はやり歌狂い〟は、中学、高校時代からの〝趣味〟だった。上京してスポニチのボーヤ時代は、ラジオののど自慢に出たり、流しのまねごとをしたりと結構楽しんでいた。それが音楽担当記者に取り立てられて以後は〝仕事〟になってしまった。好きこそ物の…のたとえもあるし、歌社会にどっぷりつかって今日まで、多くの人々との縁にも恵まれて、望外の幸せな日々を送って来た。この年になってその上に、何を望むか、何をうらやましがるか…と自分を叱咤するのだが、しかし、少し残念なことに僕には〝趣味〟そのものがなくなってしまっている。
 冒頭の部分で僕は広重の仕事をオマージュかパクリかと書いた。「パクリ」は芸能界チックな表現で、この際、不穏当で下衆っぽいかも知れない。資料をもとに仕事をするという作業はどこの世界にもあることだ。對中氏の著書には巻頭110ページにわたって、江漢と広重の絵が、宿場ごとにカラーで並べられ、対比の妙を示している。「そう言われればそうか」「しかしなあ…」と、ド素人の僕がそれを見比べたところで答えなど出しようもない。長い年月、洋の東西の専門家が研究を続けている一件である。これもご縁だからせめて、友人の奥田義行氏のこの件の今後を、面白がって追っかけてみることにした。





 懐かしい名前に出っくわした。作曲家榊薫人、売れっ子にはいまひとつだったが、カラオケのスタンダードになった「お父う」を遺していった友人だ。
 《もう3回忌になるかな?》
 ごく親しいつき合いをした相手だが、彼の死は日本作曲家協会会報の消息欄で知った。正確を期した方がいいから協会へ電話をした。
 「亡くなったのは令和2年8月6日です」
 ちょっと間があって、知り合いの事務局嬢の返事の声が明るい。長くレコード大賞の審査委員長をやり、今は制定委員ほかで、いろいろ世話になっている間柄が、声の色に出るのが嬉しい。〝ちょっとの間〟はきっと、いろいろある書類で確認してくれてのものだろう。
 昔、スポーツニッポン新聞社に勤めていたころ、榊はせっせと訪ねて来た。彼の作品を聞けと言い、気に入ったものがあれば、レコード会社の誰かに推薦してくれと言い分は一途だ。アポなしで飛び込んで来て、こちらが会議などで席をはずしていると、いつまででも待った。当時僕は社屋3階のとっかかりに一部屋持っていて、夕刻前後に歌謡界の客が多く出入りしていた。厄介な問題を持ち込んで来る彼らの相談に乗るのも仕事のうち。作品の売り込みの手伝いも、確かにいくつかはしている。
 花京院しのぶの「お父う」と「望郷新相馬」のカップリングは、そういう榊の押しの強さから生まれた。たまたま僕が世田谷の経堂に転居したら、彼はすぐ近所に住んでいたからたまらない。今度は僕のマンションに日参で、室内の植木〝しあわせの樹〟の世話までしはじめる。宮城の出身、集団就職列車で上京、クリーニング屋だか板金屋だかで働いたが、歌手志願の夢が捨て切れず、新宿の流しのボス阿部徳二郎を頼り、流しが下火になったらクラブの弾き語りに転じた―と、僕は彼の半生にくわしくなった。
 閉口したのは彼のメロディーの突拍子もない昂揚で、高音をとめどなく多用するのは、彼の情熱そのものにありそう。「それが余分だ」「何とかこのままで」のやりとりが続いて何年か、たまたま花京院の歌づくりをプロデュースすることになった。元岡晴夫の前座歌手がマネージャーになり、その後キングのマネージメント部門に籍を置いて、初期の大月みやこを担当した島津氏が持ち込んで来た話。島津氏は花京院を〝女三橋美智也〟に育てることを夢とした。榊は三橋命…の信奉者で、高音多用はその影響もある。
 《もし三橋さんがまだ存命で、彼のための曲を書くことになったら、俺ならこういうものを書く…って奴を50曲くらい書いてみちゃどうだ》
 榊と花京院の活路を考えた僕の難題だが、榊は懸命に応えた。「出来た!」「聞いて!」の連日になる。メロ先で確かに50曲近く書いたものから2曲を選んで、例の高音癖を整理する。そこそこの姿形になった曲に、はめ込みの詞を里村龍一に頼み、ビクターの当時制作部長だった朝倉隆を口説いてレコード化にこぎつけた。「望郷新相馬」は新相馬のさわりを曲に入れて、タイトルは決め打ち。渋谷の居酒屋で打ち合わせをしたら、酔った里村が隅田川岸の青テントの話を持ち出し、妙に熱っぽくなった。
 「うん、ホームレスの歌を書くのか。里村龍一が社会派になるということか」
 僕が冗談めかして、里村案の「お父う」が生まれた。
 よくしたもので榊の突拍子もない高音が「お父う」の歌い出しに生きた。花京院も仙台に居すわり、長く地盤づくりの修行をしたから、歌にしっかり背骨が出来ていた。僕の狙いは「カラオケ上級者御用達」である。音域が広い難曲仕立てで、ガンガン歌いたがる歌巧者熟女たちを挑発する。目先のヒットは度外視、榊と花京院の持ち味を生かす。CDは2~3年に1枚と、はなから長期戦の構えだ。その計画通りに榊・花京院コンビは〝望郷シリーズ〟を連作、榊は数少ない民謡調作曲家として、一部に認められた。ホッと一息の僕らは、花岡優平、田尾将実、藤竜之介らと一緒に屋久島旅行で盛り上がったりもした。
 昔話が長くなったが、榊の名前を見つけたのは歌手白雪未弥のシングル「どうだば津軽」で詞はいではくが書いていた。白雪の経歴は高2で「青少年みんよう全国大会」優勝、19才で「お父う」を歌いNHKのど自慢(結城市)チャンピオンになり、平成23年8月、榊に師事とある。そうか、彼女が榊の最期を看取った弟子かと合点が行く。
 《師匠の3回忌に師匠の曲を世に出す。偉いもんだ。榊が元気なら、カップリングの「夢の花舞台」を一緒に踏みたかったろうに…》
 僕は白雪の伸び伸び晴れやかな歌声に、榊の乱暴なピアノの音を思い返していた。





殻を打ち破れ248回

 便りが来たのにリアクションを先延ばしにしたら、ひどく心配した友人がいる。音楽プロデューサー境弘邦。これがなぜか遠回しに、別の友人に質した。

 「あんたはしょっ中彼と連絡を取ってんだろ? 音沙汰ないけど元気なのか? 年が年だからな。何事もなければいいが…」

 そう言ってるよ…と、彼の気づかいが中継された。境と僕は同い年、基礎疾患アリの要注意高齢者同志である。自分のことはタナに上げて…と、苦笑しながら電話を入れた。

 「ごめん、ごめん、人なみにコロナに感染してな、一週間、新橋の慈恵に入院してた。いや、症状は軽めだったから、もう心配ないよ」――。

 彼から届いていたのは、演歌のテスト盤だった。

 「古いヤツと言われるのを承知で、こんなものを作ってみました。酒のお供に聴いてみて下さい」

 なんて手紙つき。『望郷歌』という4行詞もので、作詞荒木とよひさ、作曲船村徹、編曲伊戸のりお、歌唱髙瀬一郎とある。なに? 作曲が船村徹? もしかして旧作のカバーか? それとも貴重なストックものか? 船村は亡くなってもう、来年が七回忌だぞ!

境はこの作品を3人の知人に届けたと言う。そのうち2人からは即反応があったのに、残る1人の僕はナシのつぶて。感想を待つ身ならそりゃあ、イライラもしたろう。

 聴いて驚いた。決定的な船村メロディーなのだ。今や古典的なくらいの4行詞ものの、どこを切り取っても彼のメロディー。独特のフレーズが見事な起承転結を作って、息づかいまで聞こえる。そのうえ展開がドラマチック。とかく4行詞ものは、小さめにまとまりがちだが、その短かさの中でこの作品は、剛胆なくらいにサビの高揚を決めた。繊細にして大胆、大を成したこの人の典型的な作品ではないか!

 境がコロムビアの制作責任者だったころ、都はるみ用に依頼したもののストックだという。歌う髙瀬もそのころデビューさせた人で、鹿児島エンパイヤ―の出身。そう聞けば、そこそこの年だろうに、船村作品におもねることなく、率直に若めの声を張る。そのシンプルさがまた何とも言えない。

 荒木の詞は、当時のままと言う。一番に「母恋い」二番に「心に鳴る汽笛」三番に「帰郷の思い」をテーマに据えて、過不足なく表現きりっとしている。そうだな、船村も荒木も人後に落ちぬマザコン。男は多くがそうで僕も同類だが「望郷」の発端はどうしても「母」になるか。

 ふと胸を衝かれるのは三番である。

 ♪溜め息よ いつか帰ろう 人生の 旅の終わりに…

 というフレーズに導かれて、行く先は瞳に浮かぶ「幼い日」になる。出発点が「星空が見えぬ街も」というあたりが荒木の若さだが、望郷のしみじみは作家の年齢差を超えるものか? 僕が54年間も密着取材を許された船村は、晩年にその思いを深くする気配があった。戦後の焼け跡で志を得ぬまま、不埒な青春を戦った歌書きが、異端からスタート、やがて歌謡曲の王道を極めて文化勲章である。それが最終的に書きたがったのは「水墨画みたいな作品」だった。功なり名遂げた後の「枯淡」ではなく、そういう静謐な世界に、彼なりの熱い息吹きや祈りを書き込みたかったらしい。

 スポーツニッポン新聞の記者だったころ、雲の上の人だった船村は、亡くなった時は4歳年上でしかなかった。それが今では、僕はもう彼の享年を越えてしまった。遅ればせに聴いた境作品『望郷歌』に触発されて書いたあれこれである。

 ン? 「ブレイン・フォッグ」だと? 『夜霧のブルース』はよく歌うが、コロナ後遺症で脳に霧がかかるのは勘弁だ。まさかこれが認知症の兆しなんかじゃあるまいな…。





殻を打ち破れ247回


 突然、花火があがった。夕方の六時ごろ。

 ≪え~と、何だっけな、あの花火は…≫

 僕は読みかけの本から目をあげ、ボーッと考える。あれは何かの合図か、そうだ、今夜、花火をやるぞ!というお知らせの一発だ! 7月28日、葉山の花火はそれから1時間半くらい後に始まった。コロナで中止が続いて、3年ぶりになるか――。

 眼下の海、名島の鳥居と裕次郎灯台の向こう側に、台船が浮かぶ。そこからポンポンとあがる花火は、ごくシンプル。大輪の花のあれこれに、ハート型や宇宙船ふうな小型。シャーッと音を立てるしだれ柳などが続く。あげる足場に限定されるから、派手な仕掛けはなし。盛り上げ用の演出は連発して頼って、何種類かの花火が夜空に重なる。自然の演出も加わった。花火の背後の小田原や箱根あたりに束の間、稲妻が照明の妙を生むのだ。

 今年の夏、逗子や鎌倉の花火は早々に中止を決めた。コロナ禍第7波、神奈川も感染者が万単位へ、誰もが無理もないと思った。ところが葉山は決行である。観光客を呼ぶよりは、住民やその縁者のお楽しみ、湘南の若者たちも少々…の小規模ならという目論みか?

 僕の住むマンションは5階の角部屋。ゆるい形状の岬の突端に位置して、一方通行の細いT字路と防波堤を見おろす。その先は海だから、ベランダは花火の台船にほぼ正対する。ま、特等席ではあろうか。

 「昔々、少年の日に見た花火の、ひどくひなびた趣きがある。それを肴に一杯やるからおいでよ」

 友人に声をかけて、例年、小さな宴会をやったが、今回はそれはない。呼べば誰に迷惑をかけるか判らないし、それにこちらは連日“要注意”が声高かな高齢者で、体調いまいちである。カミサンが隣りに居て、時折り嘆声をあげるくらいで、アルコール類もなし。リビングでは老猫の風(ふう)がヘソ天でゴロリ。音に敏感な若猫パフは、驚きあわてて部屋中を駆け回ったが、どこへ隠れたか姿もない。

 2日前に読んだ毎日新聞夕刊のコラム「憂楽帳」を思い出す。6月に横浜市磯子区民文化センターで開かれた美空ひばりをしのぶイベント「杉劇ひばりの日」の記事。ひばりの初舞台は1946年の旧杉田劇場。2005年開館のセンターの愛称はこの劇場に由来する「杉田劇場」。

 ひばり追悼イベントは大がかりなものが多く、地元ではそれらしいものがなかった。センターの中村牧館長が「33回忌を逃がしたらもう出来ない」と企画して、昨年立ち上げた会。それが定例化して2回目のことし、ゲストのミッキー吉野が、磯子のひばり御殿の話をした。彼女の誕生パーティーには庭でバンドが演奏、出店がにぎわったそうな。聞いた長男のひばりプロ加藤和也社長が「20年早く生まれたかったなぁ」とうらやんだらしい。コラムを執筆した田中成之記者は、そんな素朴な地元イベントを、はじめひばりの「静かな凱旋」と思い、やがて凱旋より「帰郷」がふさわしいと思い直したと書いている。

 ≪和也社長にとっては、久しぶりに心穏やかないい会になったかも知れないな≫

 以前、うちの花火飲み会で童心に返った彼と、最近一緒に飲んだのは6月29日、秋元順子のコンサートのあとだから、もうひと月も前だ。大がかりな追悼イベントも諸事大変だろうから33回忌でひとくぎりに…とねぎらったら

 「そんな急に特急列車から飛び降りろなんて言われたって…」

 と返された一言で彼の決意の重さをまた知らされた。

 さてと、花火は終わった。僕は孤独な花火見物から腰をあげる。クラシックの第一人者鮫島有美子が、尊敬するあまり腰が重かったというアルバム『ひばりさんへのオマージュ』でも聞くことにするか…。




 取材のアポを取ろうとしただけなのに、相手は、
 「会いたくない」
 と言う。北海道在住の人だが、こちらも粘って、
 「そっちへ行くけど、いつごろがいいです?」
 と聞くと言下に
 「来ないでくれ。来ても会えないよ」
 と答えた。声に不機嫌な気配もないことだし、とりあえず出かけた。千歳空港に着いて電話をしたら、
 「来ちゃったの。困るなあ」
 と言いながら、落ち着く先を教えてくれた。札幌の北海道放送そばの喫茶店。現れた作曲家彩木雅夫は、その期におよんでもまだ、迷惑そうな表情を隠さなかった。
 50年以上も前のことなのに、そんなやりとりを今でもはっきりと覚えている。取材されることをこんなに嫌がる人も珍しかったし、彼が書いた「長崎は今日も雨だった」という曲も何だか不思議だった。愛した人を探してひとりさまよう長崎、なぜか雨ばかりだとボヤくばかりの永田貴子の詞に、彩木の曲が妙にダイナミック。それをまた内山田洋とクールファイブのボーカル前川清の歌がまるで吠えるようだ。
 九州と北海道を結ぶと、こんなにパワフルなミスマッチが生まれるのか? 彩木に会いたかったのは、東京では見かけないこの種の流行歌の謎を解きたいからだった。会ってみれば彩木はテレビ局プロデューサーで、やたらに機嫌が悪いのは、ヒット曲を生んだあとの周辺の変化に、立ち場上困惑しているせいと判った。
 「どういう狙いでああいう曲にしたのか?」
 と言う問いにも、
 「自然にそうなっただけだよ」
 と、さしたる意気込みはない。僕は少々拍子抜けしながら、この先の作曲活動を尋ねた。東京へ出て一旗あげるのか? 彩木は滅相もないという顔つきで、否定した。
 その時期僕は、小澤音楽事務所の小澤惇社長の相談に乗って、菅原洋一の「知りたくないの」「今日でお別れ」などのプロモーションに助言をし、作詞家石坂まさおの藤圭子売り出しの相談にも乗った。「新宿の女」をアピールする「新宿25時間キャンペーン」を提案、その現場にもつき合っている。スポニチが主催した「シャンソンコンクール」で優勝、友だちになった加藤登紀子は「ひとり寝の子守唄」を自作自演、フォーク勢の一角に食い込んでいく。
 それやこれやでピリピリと刺激的な日々に「密着は癒着ではない」と芸能記者としては一線ぎりぎりの体験をしながら、僕は流行歌が生まれ、育っていくまでのルポをせっせと書いていた。そんな中での彩木の存在感は、おっとり善い人ふうで微温と感じたから、記事は前川の異才ぶりに的をしぼり直した。
 しかし、彩木雅夫はやっぱり只者ではなかった。北海道放送のプロデューサーとして応分の活躍をし、事務所も興して東京の歌謡界と連絡を密にし、やがて札幌の名士になって行く。年に一度のフジ産経グループのボス羽佐間重彰さんの会では、必ず上京した彩木と顔を合わせた。テレビマンとしては相変わらず地味めな立ち居振舞いだが、よく見ればじっくりいい仕事をしている自信をにじませてもいた。
 彼が書いた殿さまキングスの「なみだの操」は、コロムビアがぴんからトリオで大ヒットさせた「女のみち」のビクター版後追い企画。しかし彩木の仕事は、そんな意図を超越するオリジナリティを感じさせて軽快だった。驚いたのは森進一に書いた「花と蝶」の出来栄えである。川内康範ならではの妖しげで濃密な4行詞に、予想外のメロディーをつけて、森の呻吟する歌唱を引き出し、生かしている。特異な女心ソングで頭角を現した森のレパートリーに、この作品はやや文学的な深さまで加えてはいなかったろうか。
 その彩木雅夫が9月16日肺炎のため死去した訃報に接した。89才、密葬が営まれ、11月3日には札幌パークホテルで音楽葬が開かれると言う。北海道に根をおろし、東京の歌謡界を望見しながら、いい仕事をしたいい人生だったろう。発表した楽曲が200曲余と寡作なことにも、彼らしく図に乗って浮かれない手堅さがうかがえる。
 3つ年上の彩木の穏やかな笑顔を思い出す。
 「うん、お互いに元気でな…」
 と年に一度、羽佐間さんの会で会うごとに、彼が言った一言も思い出す。
 《11月か、北海道はもうかなり寒いな、すすき野あたりでスポニチ北海道の連中と一杯やるのも悪くないか…》
 僕は彩木の音楽葬に心ひかれる。「行くよ」と言えば彼は今度も
 「来ないでくれ」
 と、ボソっと言うのだろうか?





 9月14日訃報が届いた。このミュージックリポートを発行するレコード特信出版社の元代表取締役会長齋藤幸雄さんが亡くなった。腎不全のためで92歳。3日のことで7日に家族葬が営まれたと言う。業界のパーティーなどでよく会った温顔を思い出す。ちょっとテレたような笑いを引っ込め、視線をはずして、
 「うん、読んでるよ」
 と、よそを向いたまままた笑顔をつくる。実力者だがシャイな人だった。
 僕のこのコラム「新歩道橋」の連載を引き受けてくれた。もう1100回を超えて、28年以上前からのご縁である。「歩道橋」は、昔々、先輩記者だった岡野弁氏が産経新聞を退社して興した「ミュージック・ラボ」誌でスタートした。レコード業界の動きを数字で可視化するオリコンが創刊され、
 「あちらがデータなら、こちらは理論でいく」
 と岡野氏が対抗、踏ん張った情報誌だった。当時まだスポニチの駆け出し記者だった僕に、署名入りのコラムが任されたのは、
 「理屈っぽい誌面に、多少の楽しさも、な!」
 という岡野氏の狙いがあってのこと。
 そのミュージック・ラボが業界の応援を受けながら、長い使命を終えて廃刊になったあと、
 「あの欄がなくなるのは残念だ。後のことは俺に任せてよ」
 と、齋藤会長との縁を結んでくれたのは、元東芝EMIの市川雅一制作本部長だった。曲がったことが大嫌いで、血の熱いやり手のこの人とは、彼が宣伝部員だったころからの家族ぐるみのつき合い。人柄の良さを「仏の市ちゃん」と呼びならわして、よく安酒を呑んだ。
 市川氏の芸能界ぐらしの振り出しはテアトル系ストリップ劇場の文芸部。楽屋泊まりの新人踊り子が、
 「お兄ちゃん、寒い!」
 と訴えるのを、古毛布を探し出して来て励ましたエピソードを持つ人情家だった。昭和31年に上京、スポニチのアルバイトのボーヤに拾われたころの、僕のささやかな娯楽はストリップ劇場通い。
 「坊や、また来たの、好きねえ」
 などと、大姐御ストリッパーにからかわれながら、無名のころの渥美清や海野かつお、三波伸介、石田瑛二なんてコメディアンのコントに病みつきになっていた。そんなバカ話でも気が合った市ちゃんも、今年4月23日、87歳で逝って家族葬が営まれた。最後まで「新歩道橋」を楽しみにしてくれていたことは、この新聞をずっと届けたテナーオフィスの徳永廣志社長から聞いていた。
 齋藤会長は栃木の人で作曲家船村徹の出身地船生村(当時)の近隣の育ち。
 「あのよ、船さんがだよ…」
 と、たまに会うと昵懇の間柄の話をひょいとした。僕が長く知遇を得て、弟子を自称することまで知っていてのこと。ありがたいことにそんなご縁が、梶浦秀博現社長にまでつながって、もうこちらの方が長くなったか。
 訃報に接した14日は、夏に逆戻りしたような暑い日だった。体調いまいちの雑文屋としては散歩する気にもならず
 「あの欄にこれでも書くかな」
 と、福田こうへいの民謡アルバム「ふるさと便り」を聞いていた。これが「気仙坂」「沢内甚句」「一寸きま」などの岩手ものや「秋田港の唄」「長者の山」などの秋田もの「南部餅つき唄」「南部トンコ節」「黒石じょんから節」などの青森ものと、聞き覚えのまるでない歌ばかり。歌詞カードを見ながら聞いてもよく判らない東北弁で「どこの旦那様、今朝のしばれに何処さ行ぐ、娘子だましの帯買いに…」だの「月の夜でさえ送られました。一人帰さりょか、コリャこの闇に」だとか「山で切る木はいくらもあれどナー、思い切る気はサアサ更にないナー」なんて艶っぽいことを言っている。
 福田はお国訛りそのままの東北民謡に特化。そこへ行くと三橋美智也は訛り抜きで全国の民謡をカバーした。あれはあれで凄いことだったのだ…と思い当たる。そんなところへ思いがけない齋藤会長の件と、ひきづられての市川氏の思い出である。家族葬という〝あいまいな別れ〟に、一瞬、時が止まる心地になる。置いてけぼりをくったようなこの突然の喪失感と、どうつき合い、どうおさまりをつけていけばいいものか?
 そう言えば福田こうへいの担当プロデューサーの古川健仁が
 「民謡は福田の方がプロであの地方のものだから、プロデュースを彼に任せたよ」




 先週号に「コロナ感染」「即入院」のバタバタを書いた。8月中旬の出来事で、以後自宅謹慎、人に会わず酒も飲まない〝つもり〟だったのは、お騒がせの責任を感じての社交辞令。雑文屋の僕が家にこもっていては商売にならない。そこで舌の根もかわかぬうちに、東京・赤坂へ出かけた。友人の歌手仲町浩二のレコーディングで、僕はプロデューサーだ。
 「何だい、やったんだって? 頭領もつき合いがいいねえ…」
 出会い頭に作曲家岡千秋の一声である。新型コロナの危険が声高になったごく初期だから一昨年か、この人は早々と感染して話題の主になった。いわば〝コロナ先輩〟で、
 「あんなものは風邪と一緒、問題ない、問題ない」
 と口調が強め。たしか発症した当時は「相当にきつい」と嘆いていたはずだが、ノド元過ぎれば何とやらか。
 ほとんど無名の仲町のために、いいメロディーを2曲書いてくれた。「高知いの町仁淀川」と「おまえの笑顔」で、僕としては大いに恩に着なければならない。ことにメインの「高知いの町仁淀川」が、情感濃いめの抒情歌で、どこかに船村メロディーの匂いもする。「いの町」は「いのちょう」と読み、高知の水の景勝地。「仁淀川」は「によどがわ」と読み、有名な「四万十川」をしのぐ清流と聞く。「仁淀ブルー」と呼ばれて水質日本一。手すきの「土佐和紙」の里として知られる。
 仲町はもともとスポーツニッポン新聞社の広告セクションで働いていた後輩。若いころからの歌い手志願だったのが、定年を迎えるというので、記念にCDを作った。僕自身が70歳で舞台役者になった件もあり、「お前も、な!」の気分で、五木ひろしのアルバムから「孫が来る」(池田充男作詞、岡千秋作曲)をカバーした。仲町はすっかり〝その気〟になったが、業界の助っ人などないから孤立無援。全国区狙いは無理…と、縁のある高知へ通いつめる作戦をとった。2作めのオリジナルを「四万十川恋唄」にしたのも、ご当地人気を期待してのこと。
 ここ10年近く、仲町は健闘したのである。高知ではそこそこの顔と名前になり、驚いたことに親身に応援してくれた女性と所帯を持ち、すっかり高知土着の歌手になってしまった。長く続くコロナ禍で全国相手の歌手たちの活動範囲は縮んだ。しかし仲町はご近所まわりの仕事から地域を攻められる。だから今度は「高知いの町仁淀川」である。仲町が事務所を持ち、有力な後援者やお仲間が大勢居る町だから心強い。前作の四万十川よりさらにピンポイントの、いい詞を書いたのは紺野あずさ。星野哲郎門下で長いつきあいがあり、高知の生まれと育ちで、四万十川も仁淀川周辺も熟知していた。それが故郷の町へUターン、恋人に「待たせたね」「ごめんね…」の男を主人公にしたから、仲町は作品を自分の老後の青春に重ね合わせて、泣いた―。
 時おりあちこちに書くが、僕は全国的に顔と名前を知られ、ヒット曲を持つ人だけが歌手とは思っていない。地方に根を張って、土地の人々と歌で交流するタイプも立派な歌手なのだ。「地方区の巨匠」と呼んで親交を深めた浜松の佐伯一郎は亡くなったが、東北には「うまい酒」という乙な作品を歌う奥山えいじが居て、農業にも従事する。所沢から全国を睨む新田晃也は70歳を過ぎてもバリバリの本格派、近々中野でディナーショーをやる。福井には船村徹の弟子の越前二郎がいて、近隣に歌謡教室を開くなど活動は精力的…。僕はそんな彼らと友だちづきあいをしている。その路線につなげたいのが、仲町浩二なのだ。
 今回も岡千秋がしっかり歌唱のレッスンをしてくれた。ヒットメーカーが、稼ぎにならぬ歌手にボランティア。「すまないね」と頭を下げたら、
 「これでCD3枚めだもの、彼はもう弟子みたいなもんだからさ」
 と笑った。旅が好きで、歌心を旅で揺すり育てるタイプの彼には「高知いの町」も心に沁みる旅先の一つらしい。
 「秋にでも一緒に行こうよ、頭領…」
 と誘う彼のそばで、紺野も
 「私も行きたい!」
 と賛成し、当の仲町は
 「いの町のいいところ、端からご案内します」
 と、ここばかりは力が入った。
 ところで僕のコロナ騒ぎだが、先週のこの欄に書いて、見舞いの電話がかなり来ることをひそかに期待した。ところがたかだか三、四本で、最近沖縄に住む作詞家のもず唱平など
 「俺もやったぞ!」
 と電話の向こうで大声で笑った。見苦しいほど周章狼狽した手前、僕は、シュンとなった。




殻を打ち破れ246回

 

 「立派になったな、うん。感激したよ、見事な座長ぶりだ。見に来てよかった、会えてよかった!」

 ま、本当にそう思ってはいたが、口に出していい相手だったかどうか?「剣戟はる駒座」の座長・津川鵣汀。いくらこちらが年上としてもキャリアがまるで違った。13年ぶりに横浜の三吉演芸場に出演中の、関西の人気一座を統率する座長である。そうは判っていても懐かしさが先に立った。14年前に「鵣汀(らいちょう)!」と呼び捨てにしたころの彼は15才。僕はと言えば70才で初舞台を踏んで3年め、芝居も3本めの素人同然だった…。

 そんな出会いは平成20年8月、東京・千住のシアター1010で上演した「耳かきお蝶」(脚本岡本蛍、演出岡本さとる)名取裕子・南原清隆主演の時代劇で、名取が客に膝枕をさせて耳の垢を取り、心を癒やす天使みたいな役どころ。そのお蝶に弟子入り、日夜、小間使いみたいに働く勝気な少女おつるが鵣汀で、僕はお蝶の常連客の代表格で、魚屋の隠居・大和屋五郎兵衛だった。

 この鵣汀という少年のコメントが

 「女の子の役は苦手だけど、お客さまに“あの子女の子?”と間違えられたらOKかな」

 ≪何を小癪な!≫

 と内心では思ったが、座長・津川竜の長男で、生後10ヵ月には舞台に立ったという芝居ぶりに目をみはる。実にてきぱきと小気味よく、泥くささも嫌味もなく、かわい気すっきり素直なのに脱帽して、年齢差ぬきの友だちになった。大衆演劇の世界では、楽屋で生まれ、そのまま全国を転々…という話をよく聞くが、鵣汀には座長の父、女優の母・晃大洋(こうだい・はるか)弟の津川祀武憙(つがわ・しぶき)と一緒の環境があった。それが良かったのか、だから一層厳しかったのか、いずれにしろしっかりと、受け継いだ芸の血があったろう。

 それが…それがである。今や29才、2児の父となった鵣汀は、祀武憙と兄弟2座長の2枚看板で、6月1日から28日まで、三吉演芸場で一ヵ月公演である。芝居とショーの2本立てで3時間を出ずっぱり。5人の子役を加えれば15人の一座を率先垂範、これでもか!これでもか!の熱演で客席を圧倒した。弟ともども青年の覇気と少々のユーモアで実によく動く。ショーになればおなじみの女装が小粋だったり、ポップス系の音楽にノリノリ、キレキレは、一座全員とまだ踊るのか!そこまでやるのか!の超たっぷり…。

 「総裁」を名乗る勝龍治はおそらく祖父。嵐一郎が一時代を築いた嵐劇団を後継、パワフルな芸風を引き継いだ人と、橋本正樹氏の著書「晴れ姿!旅役者街道」で読んだ。ファンからの“お花”(金品などのプレゼント)に合掌するのもこの人の感謝の表わし方とか。鵣汀一座の面々は、舞台のパワフルさもお行儀もちゃんと受け継いでいた。

 僕は根っからの大衆演劇ファンである。70才初舞台は明治座の川中美幸公演だったが、その後沢竜二の全国座長大会に呼んでもらい、門戸竜二公演もレギュラー。実は作詞家荒木とよひさに誘われて三吉演芸場の三代目大川竜之助一座に参加、ぶっつけ本番で4日間に4演目をやったのが、そもそもの舞台初体験だった。その後大物の若葉しげるに目をかけてもらい、大川良太郎や竜小太郎と芝居をし、ごく最近では梅田劇団総座長の梅田英太郎の教えにも接した。

 14年前に鵣汀と知り合った時に「お前さんの結婚式には必ず出る」と約束したが仕事で果たせぬまま、彼の父津川竜の葬儀にも出席出来なかった。横浜でその二つの不義理を詫びたが

 「気にしないで下さいよ、そんなに…」

 と、鵣汀兄弟と母親の反応は芝居同様に温かかった。





 《なんでやねん、蟄居3年とじこもり、我慢々々でなんで陽性?》
 関西弁と愚痴がごっちゃで、われながら情ない。コロナ陽性を宣告された瞬間に、思い浮かんだフレーズ。後日、思慮分別ありげな短歌に書き直せばいいのだろうが、まるでその気にならない。何しろ8月5日のこの日、全国の感染者は23万3676人で、末尾「6」のうちの「1」が僕らしく、重篤化する可能性大の高齢者なのだ。
 コロナウイルス感染症の治療薬はのみ薬である。「パキロビッド・パック」なる錠剤を3個ずつ1日2回、朝晩に服用する。内容はウイルスを増殖させる酵素の働きを抑える「ニルマトレルビル」と、その効力を助ける「リトナビル」との組み合わせ。朝と晩、内容が異なるやつを5日間、間違えずにのみ切る必要がある。ファイザー製でパッケージの注意書きは英文のまま。2022年2月に特例承認されているという。「特例」とは、外国ですでに投薬の実績があり、国内でも緊急の使用が必要なことから、厚生労働大臣が特別に承認したことを指す。つまり、承認のための通常の条件を満たさなくても背に腹はかえられず…というケースだ。
 当然だろうが、投薬を受ける僕は「同意書」にサインをする。副作用があれこれ報告されていると言う。医師が詳しく説明してくれるのだが、専門用語は多めだし、こちらは動転のきわみにいて、言葉が素直に入って来ないから、
 「わかりました。お任せします。何とかして下さい。お願いしますよ」
 ともう泣かんばかり。この原稿で能書きを書けるまでになるのは、入院して二、三日後、渡された懇切ていねいな説明書を読んでのこと。多少落ち着きを取り戻してはいるがそれにしても、文章だと理解が早いあたり、根っからの活字人間だと、苦笑いした。昭和31年、スポーツニッポン新聞社にアルバイトの〝ボーヤ〟で転がり込んで以来、活字がらみの暮らしがもう66年にもなる…。
 長いこと、新橋の慈恵医大病院の世話になっている。痛風や前立腺肥大を手はじめに、3年に一ぺんくらいの人間ドックもここ。年を取るごとに何か出てくると、その都度担当部署に紹介してもらう。今回もたまたま、そんな治療の続きで5日は気楽に出かけた。問診で2日ほど前に37度代の熱があったと告げたら、一応検査すると別室に案内され、小1時間あとに予想だにせぬ宣告である。無症状だが即入院を希望する。つれあいは勤め人で、感染は何としても避けたい。ン? もう濃厚接触者か!
 発症して苦しんでいる人々の実情は知っていた。入院先が見つからず長時間救急車のまま行く先探し。自宅療養やむなしになって、往診も受けられず、病状が重篤化した例も少なくない。医療態勢が逼迫、従事者も感染、現場を離れざるを得ない惨状もある。それなのに僕は、発覚したその足で入院という恵まれ方である。主治医の好意もあろうが、僥倖としか言いようのない処遇だ。外来棟4階からコロナ専用のE棟4階へ、乗せられた車椅子ごとすっぽり防護用の袋に包み込まれて移動する。大きな病院というのは、凄い仕組みになっていた。壁の内側にもう一つの建造物があるのだ。縦横に走る通路がまるで巨大な迷路で、どこをどう通り、エレベーターをどう乗り換えたか見当もつかぬまま、E棟に着く。見回せばテレビでよく見たあの野戦病院ふうものものしさ。
 看護師さんも完全防御スタイルである。昼当番と夜当番を名乗る2交替だが、実は何人の世話になるのか見当がつかない。眉と眼だけでは誰がどの人か識別出来ないのだ。若い彼女らは医療器具とパソコンつきの台車でやって来て、実にてきぱきと作業をこなす。倦怠感はないか、吐き気や食欲の変化はないか、ノドは痛くないか? 飲食に支障はないか、息苦しくはないか…そんな質問は、感染症のものか、例の治療薬の副作用についてか? 怖いのは一人きりの夜中だった。気のせいか熱が出て、少し息苦しくなる。年寄りは突然容態が悪化する情報を、ついつい我が身に思い重ねて眠れなくなる。
 幸いなことにきつい症状も出ず、副作用もさしたることなしで、僕は12日、退院の許可を得た。入院1週間、発熱した日から数えて10日が、要治療の日数だったらしい。その間外部との接触は電話に限られていたが、僕はそれでいくつかの仕事をした。これは内証だが全英オープンの渋野が1打差で3位の残念も、映画「フィールド・オブ・ドリームス」のとうもろこし畑から現れた鈴木誠也が、いきなり先制の長打を放つのも目撃した。
 その後は葉山の自宅で、また平穏な蟄居生活である。人にも会わず、当然酒を飲む機会もない。





 笑うだろうなと思ったが、やっぱり笑っちまった。吉幾三の「と・も・子…」という歌。最初から長めの台詞が、いかにもいかにも…のお話なのだ。
 「買いものに行って来ま~す」と出かけたとも子は、そのまま帰って来ない。おいてけぼりをくった主人公は、彼女のパンティに頬ずりしたり、かぶって歩いたり…。そんな前置きを、吉は東北弁まる出し、いきなりのハイテンションでスタートする。この瞬間湯わかし器ふうエネルギーの突出は、この人の得意技だ。
 とも子は歯のきれいな人嫌い、髪の毛きちんと分けてる人嫌い、オーデコロンつけてる人も嫌いで、どんなに汚くても、心のきれいな人が好きだった。だから主人公は歯もみがかず髪はボサボサ、風呂なんか入ったこともねえ…と彼女に応じた。やむを得ず主人公はとも子探しの旅に出る、盛岡、仙台、福島、山形、秋田。噂で青森まで追ったら、人違いのすごい美人…。
 秋の函館でやっと追いつくが、とも子はいきなり泣いて、子供が出来たと言う。「誰の子?」と聞いても「知らない」と答える。引用とは言え、書けばこうまで長くなるが、吉のセリフ回しはよどみなくスピーディーだから、こちらは、
 「ムフフ…、ウフフ…」
 と切れ間なしに笑うことになる。バカバカしいおハナシを、どうだ! どうだ! と、どんどん攻めて来るのも、この人の芸なのだ。
 それがガラッと変わって、歌に入る。
 〽この歌をあなたに聞かせたかった(中略)間に合わなかった花束のかわりに…
 と、標準語で堂々のバラード、とも子へ届ける遅かったラブ・ソングを、いいメロディーと朗々の歌唱である。実は台詞の最後に仕掛けがあって、主人公の東北弁独白は、とも子の死から3回目の秋で終わっていた。こういうコメディーからシリアスものへの極端なギアチェンジも、この人独特の芸なのだ。
 7月、彼は明治座公演中だった。久しぶりの実演(!)だから、早速見に行くつもりだった。以前、同じ楽屋で生活して、いろいろ教えてもらった先輩役者の安藤一人も出ていて、再会の楽しみもあった。ところが80才を過ぎての〝夏のカクラン〟で体調を崩し、折からコロナ感染数も天井知らず。「年が年なんだから…」と医者と家人からたしなめられると、自粛せざるを得なくなった。
 7月27日、エンゼルスの大谷が21号を打ち、カブスの鈴木も8号を打ったことだし…と、気を取り直して聞いたCDが、50周年記念アルバムⅡ「ギターと吉と~吉幾三」だった。「酒よ」「泣くな男だろう」「別れて北へ」「あんた」「エレジー~哀酒歌~」などを、藤井弘文のギターで歌っていて「と・も・子…」は最後に収まっている。
 歌詞集の表紙をめくると、いきなりモノクロの吉のクローズアップで、仔細ありげな視線を右上へあげている。この素顔ふうと闊達な芸人ふうが、行ったり来たりするのもこの人の芸のうち。だから当方も、
 《そうか、そんな顔から始めるのか》
 と、はなからお楽しみ気分になる。もともと舞台で、自分が書いた台本の芝居なのに、ギャグで突然ひっくり返して、共演の女優を笑いで身をよじらせる手口の持ち主である。どこまでがマジでどこからがギャグなのか、油断がならない。そう言えばあちこちで、出会う都度立ち話などしたが、どれが吉の真顔なのか、よく判っていないことに気づいたりする。
 相変わらず、歌のネタは「酒」と「あんた」だ。男はいつも屋台の酒に過ぎた日々をしのび、思い浮かべる女は〝あんた〟である。この女性がまた思慮分別もなく男に惚れ込み、運の悪さや己の愚かさも引きずったまま生きていく。大てい降っているのは雨、積もっているのは雪でマンネリと言えばマンネリなのだが、そう思わせないところに吉の魅力がある。東北弁の重さが作る歌声の〝圧〟や訛りが作るアクセントの妙、吉の朴訥な作詞作曲法や表現力など、あれこれ思い浮かぶが、何よりもズンと来るのは、主人公たちの思いの一途さだ。男も辛いが女も辛い。そんな業(ごう)をかかえて、社会の隅で生きる人々へ、吉の視線が温い。
 記念アルバム「ピアノと吉と」は3月に出た。「ギターと吉と」は5月発売。3枚めの「あなたの町へ吉と」を9月に出して、4枚め「語り歌」は11月、5枚目の「未来に残す歌」は来年2月に出す予定だと言う。50周年アルバムの5連発で、セット用収納ボックスをプレゼントする案もついている。
 全編本人のプロデュースによる自作自演。これはまたずいぶん根気の要る仕事を始めたものだが、この人はそんな凝り性でもあったのか?
 《マジかよ! 御身御大切に…だなこれは…》
 少しあきれて僕は何かのはずみに見せる吉の、テレ方を思い出す。あの人間臭さが、このベテラン歌手の「かわい気」に通じる強味なのだ。




殻を打ち破れ245回


 ≪素人の歌巧者というのも度し難いもんだ。カメラ目線、挑む色でまっすぐに眼を据えて来るじゃないか…≫

 スクリーンにクローズアップされた女性から目を落として、僕は審査表に点数を走り書きする。最高点から「2」点減らした数字。後からもっと凄い人が出て来た場合の予備だが、この日その心配はなかった。5月28日、メルパルクホールで開かれた「日本アマチュア歌謡祭」グランプリ部門の出場者は1名欠席したから99人。その難関を突破したのは三津谷有華さんで、歌ったのは『人形(おもちゃ)』――。

 荒木とよひさ作詞、浜圭介作曲で、香西かおりのヒット曲になったこの作品を、覚えている向きも多かろう。「私はあんたのオモチャじゃないのよ!」と、不実な男に別れを告げる女心ソングだ。その場面の啖呵を軸に考えれば、女性の気強さばかりが浮いて出る。しかし二人にだって相思相愛の時期はあったはず。それがこんな別れになって、相手を責める思いの陰には、愛した男を失う傷心もひそんでいるだろう。愛憎あいなかばするドラマは複雑で、そのうえに浜圭介一流の、粘着力のある名曲である。

 このイベント、参加する熟女たちの衣装は和洋さまざま、水商売ふう着物から金ピカゆらゆらドレスまで実に賑やかだ。その中でグランプリを得た三津谷さんは、タイトなドレスに野性的とも思える姿態と表情。楽曲を一気に歌い、2コーラスそれぞれの歌い収めで、挑むような眼をカメラに決めた。

 この歌謡祭は今年が37回め。発足5年までは僕の勤務先だったスポーツニッポン新聞社が主催した。現存する全国レベルの大会では最古、参加者のレベルも最高の呼び声が高い。当初から立ち上げにかかわったのが縁で、僕はずっと審査委員長を仰せつかっている。会の自慢は腕利きの各社プロデューサーを審査に動員していることと、参加者を5人ずつに分け、その場で各人に講評を加えることだろうか。

 そんな審査を束ねているから、表彰式も手伝うことになる。毎年面くらうのは熟女たちの変貌で、ステージ衣装を脱ぎ普段着になるから、ステージに全員勢揃いした彼女たちはただのおばさん(失礼!)に逆戻りしている。だから表彰状や賞品を渡す都度「何を歌った人?」と聞き、その答えに反応、作品のいわれなどを話して、受けたりするから、司会の夏木ゆたか・玉利かおる両氏に「長いよ!」と苦情を言われたりする。

 『人形(おもちゃ)』の三津谷さんもその例にもれなかった。グランプリの名を呼ばれると、顔を両手でおさえ大声をあげて派手めの反応。喜びの声を聞き出そうとしたら、筋金入りの(また失礼!)東北弁で青森の人41才と判った。スクリーンで見たプロ顔負けの立居振舞いとは、まるで別人である。

 最優秀歌唱賞が『恋は天下のまわりもの』を歌った内藤加菜さん(東京)で27才の歌手志願。60~70才が多数の参加者の中では2人は若い受賞者だ。歌われた楽曲の最多は杉本眞人が19曲で、若草恵と小田純平がそれぞれ5曲、浜圭介が4曲と、“歌い甲斐”や“歌い栄え”のあるむずかしめの作品が目立った。はやり歌の流れの変化が見える気がする。

 コロナ禍で2年自粛、3年ぶりの催しだった。新聞やテレビでは連日連夜、ロシアとウクライナの戦争の惨状が報道され、「日本もそろそろ戦争の準備をしよう」などと、バカなことを言い出す政治家も出て来て、世論が誘導されそう。北朝鮮はやたらにミサイルを打ち上げるし、台湾有事も問題…と確かに空気は不穏だし、あおりを食らって物みな値上げで生活が圧迫されるなか、剣呑な事件も続発している。生きにくさ、暮らしにくさにじりじりしめつけられて、ロクなもんじゃない日々。しかしこれでも日本は平和なのだ。一昼夜、嘆き悲しむはやり歌ざんまいをどっぷり体験しながら、この平和こそ大切にしなけりゃなと思った。大会の審査委員長講評で、それを言やあよかったなと今ごろになって考えている。




 明らかに〝米寿の歩み〟だった。今年のパリ祭2日めの7月7日、渋谷オーチャードホールのステージへ、舞台下手から菅原洋一が登場する。客席から温かめのくすくす笑いも起こった、歩幅狭めのおじさん歩きである。無理もない。昭和8年8月生まれだから88才、それがひとたび歌となれば音吐朗々の「マイ・ウェイ」である。国立音楽大学声楽専攻科卒業の基礎の確かさが、びっくりするほど生きている。
 このところのパリ祭に菅原はレギュラーで出ているが、僕も観客としてほぼレギュラー。知遇を得たシャンソン歌手石井好子が、昭和38年に日比谷野外音楽堂で始めた第1回から、ずっと見ている。今年が第60回、石井の生誕100年を記念…という長寿イベント。客席にも〝ご長寿さん〟が目立った。杖が頼りの紳士淑女、車椅子の数も多く、母親の手を引く風情の娘さんも、立派に熟女だ。シャンソン愛好者たちは、高齢化が顕著な演歌ファンの年代をゆうに超えている。
 《昭和38年なあ。パリ祭と菅原の人気歌手歴は、ほぼ同じということか!》
 古きよき時代を生きた人々の中で、僕の回想もタイムスリップする。前の東京オリンピックの前年だが、小澤音楽事務所を興したばかりの青年社長小澤惇が、スポニチ記者の僕を訪ねて来た。オープンリールのテープレコーダーで聞かされたのが菅原の「恋心」と「知りたくないの」で、どちらをA面にするかという相談。彼はタンゴのオルケスタ・ティピカ東京専属からソロシンガーに転じたが全く売れず、この2曲が最後とポリドールから引導を渡されているという。
 僕は即座に「恋心」を名指した。越後吹雪と岸洋子が吹き込んだ情報を持っていて、「競作」で菅原の名前を売る魂胆。しかし結果、大勝ちしたのは岸で、菅原は残るもう1曲の「知りたくないの」で再挑戦する以外に手はない。折から五輪対策でネオン街の深夜営業はご法度。ところが菅原がレギュラーだった泉岳寺のホテル高輪のトロピカルラウンジは、銀座、赤坂界わいのホステスさんたちの〝脱法隠れ穴場〟として賑わった。「知りたくないの」は彼女たちに支持され、その情報を週刊誌―ラジオ―有線放送…と拡散、ネオン街を攻める作戦は、成功までに実に3年の時間を要した。当時の僕はほやほやの音楽担当記者。しかしそれ以前に5年間、スポニチの芸能面を編集した体験から、まだ業界に認知されていなかった「プロモーション」のあれこれはお手のものだった。
 今回のパリ祭で、一番「いいネ!」に思った歌手は川島豊だった。歌ったのは「行かないで」だが、哀願の囁きの前半からサビの大音声への切り替えが秀逸で、独特の情感をドラマチックに伝えた。昨今のシャンソン歌手の多くは大学の声学科出身の本格派で、美声と大振りな歌唱で客席を圧倒する。彼らと川島の違いは、ほどの良い声味と濃いめのフィーリング。本格派にありがちな歌の無表情な乾き方に対して、適度の情緒的湿度と酔い心地を保っていたこと。そう言えば菅原もかつての本格派だが、声に得も言われぬ憂いを秘めていた。
 《えっ? そうか、やっぱりな…》
 プログラムの川島のプロフィールを見て、驚きもし合点もした。友人のパリ祭プロデューサー窪田豊にも確認したが、川島は一時ザ・キングトーンズで歌っていた時期を持つ。「グッドナイト・ベイビー」が大ヒットしたこのグループも小澤音楽事務所の所属。「知りたくないの」の一件以後、この事務所の陰の相談役にされた僕が手がけた仕事のひとつだった。
 持って生まれた〝いい声〟と、応分のキャリア、ジャンルを問わず歌い込んだ体験…と言えば、この日注目した秋元順子にも通じる。ここ3年ほど彼女のシングルやアルバムをプロデュースしての〝身びいき〟もある。長いパリ祭体験で石井好子、高英男、深緑夏代、芝野宏をはじめ、多くの知人、友人歌手を見て来たが、制作にかかわる例は初めて。しかし、彼女の「愛の讃歌」は安心し切って聴けた。一、二カ所小節が回ったのも彼女らしいとニヤニヤしながらだが。
 実はこの人、杉本眞人が作曲、喜多條忠の遺作になった「なぎさ橋から」がヒットの軌道に乗っている。この曲を披露するにはパリ祭のスケールは、打ってつけだったが、
 「石井さんの遺言で、オリジナルは取り上げません」
 と窪田プロデューサーが言うので諦めた。歴史ある催しを宣伝の場にしたくないと石井は考えていたのだろう。しかし、プログラムの秋元の欄にはこの歌が「サビのリフレインが切なく印象的と好評を博している」と明記してあったから、ま、よしとするか。 





 観客に「え~ッ」とか「わあ~」とか「マジか!」とか思わせたい。そう驚かせたいのが作・演出の堤泰之の意図だとすれば、氷川きよしは〝待ってました〟とばかりに共鳴、すっかり〝その気〟の舞台を展開しているようだ。彼の特別公演「ケイト・シモンの舞踏会~時間旅行でボンジュール~」だが、6月が東京・明治座、7月が大阪・新歌舞伎座、8月が福岡・博多座、9月が名古屋・御園座と、この夏ぶっ通しの奮闘になる。
 初めての現代劇、それも1700年代のフランス、パリへタイムスリップするアイディアもの。氷川が5役の美男・美女に扮するファッションの動くグラビア的魅力、共演者全員の役名が洋菓子というコミック仕立て、多彩な共演陣が右往左往するにぎやかさと、客をノセるネタが次から次だ。
 「ありのままに生きる姿が美しい」
 とする氷川の昨今は、変身とも孵化とも見えるビジュアルの変化から、デビュー以来の演歌・歌謡曲の世界へ、ポップス、ロック系レパートリーを積み増して拡大中。それも男女の性別を超えた美しさの追求が軸にあるから、何とも刺激的な存在感で、いわば〝氷川きよし第Ⅱ期〟だろう。今回の長期公演は、そんな氷川本体そのものをストレートに劇化していて妙だ。
 彼の大劇場公演は2003年夏の名古屋・中日劇場が最初。「箱根八里の半次郎」や「大井追っかけ音次郎」のヒットをヒントに演目は「草笛の音次郎」で、演出は映画監督の沢島忠だった。沢島は美空ひばりの映画を数多く演出した人。氷川の歌手デビューに力を尽くした長良プロ先代の長良じゅん社長は彼を〝ひばり男版〟のスターに育てたい考えを持っていた。ひばり本人や沢島とも昵懇の間柄で、戦後の芸能界の実態をつぶさに体験、ビジネスとして来た人だ。
 スター歌手の大劇場公演は、時代劇が主流で、氷川もその後、森の石松、一心太助、め組の辰五郎など、おなじみの主人公をコミカルに演じて来た。時に銭形平次の少年時代という苦肉の演しものも生まれたが、変化の兆しは最近2年続いた「お役者恋之介の珍道中」というオリジナルで、作・演出は池田政之。この辺までが歌手芝居の流れや常識の枠内だったとすれば、今回の演目はその限界を突破したことになろうか?作・演出の堤は大学在学中からミュージカルづくりを始め、多岐にわたる演劇集団と発表の場でオリジナルを上演し続けるベテランと聞いた。
 ブルボン公爵家の執事バームクーヘンを演じるのは氷川が〝師匠〟と呼ぶ常連共演者の曽我廼家寛太郎。それに拾われて使用人の教育係にされる氷川は、大仰なたまねぎ頭に腰の曲がった老婆ふうで、青島幸男の「意地悪ばあさん」イメージの言動が客を湧かせた。ほかに彼が扮するのはマリー・アントワネット、ジャンヌ・ダルク、ルパン、騎士などだが、いずれも〝それぞれ風〟で、歴史上人物とは無関係。ショーの司会でおなじみの西寄ひがしは公爵ブルボン役を貰ったが、なぜか突然肉まんじゅうになって出て来たりする。芝居の幕切れは当然みたいに舞踏会の豪華けんらん―。
 「等身大で演じる面白さ」
 を体験中という氷川は、のびのび楽しげで、確かに自然体に見える。2000年に22才で歌手デビュー、今年23年め、45才になったキャリアと慣れ、それなりの分別もあろうが、何しろごく多彩に限界突破中のエネルギーが彼自身にあるのだから、舞台の熱量も相当に高めだ。従来の時代劇では、彼に〝あて書き〟をした台本でも、役になり切れなかった「やらされ感」が残っていたということだろうか。第二部の「コンサート2022」は新曲の「群青の弦」をはじめ「箱根八里の半次郎」「大井追っかけ音次郎」「白雲の城」などから「きよしのズンドコ節」まで、22年分の財産ソングを一気呵成。アンコールになると「限界突破×サバイバー」ほかのロック系ガンガンの締めである。客席のペンライトも一部、それに反応して細かめのリズムに変わった。
 《なるほどな、客の方も変化、若返っているんだ》
 と僕は納得する。以前は客席びっしりのライトが演歌ノリで一斉に揺れたが、最近はそんな組織立った感じがなく、ライトの数や位置も思い思い。ファン層の若返りがちゃんと垣間見えた。
 僕が明治座公演を見たのは6月23日夜の部で席は正面17列28番を用意してもらった。亡くなった先代の長良社長とは長いつき合いだったが、最近の氷川の自由闊達をどう楽しんでいるだろう? 彼が目標とした〝ひばり男版〟は本人の自己開放や時流と相まって、こういう型に変化、成就している。現在の指揮官が実子の二代目神林義弘社長であることを思い合わせると、感慨深いものがあった。





殻を打ち破れ244回


 『泣き虫人生』『ハンドル人生』あたりから鼻歌でなぞる。ああ船村徹作品だな…とうなずく人が居たら、相当なはやり歌通である。それが『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』あたりになれば、そうそう! と合点する向きも増えようか。昭和30年に世に出た高野公男・船村徹作品。それを吸い取り紙みたいに覚えた僕は、当時高校を卒業する前後。ぼろ学生服に破れ帽子、腰に手拭いをぶら下げた高足駄ばき、今では“バンカラ”とか“硬派”とか言っても「それなあに?」と聞かれそうだが、質実剛健を気取った学生ファッション。当時でももはや時代おくれの、極く古いスタイルの高校生だった。そんな格好で流行歌狂いも「軟派」っぽくて少々矛盾しているが、意に介さない。作詞家高野は僕が育った茨城の人、作曲家船村は隣りの栃木の人で、同郷の先輩意識が強く、何よりも2人の作品はきわめて新鮮な魅力に満ちていた。

 突然の昔話になったが、僕は今年のゴールデンウィークを、船村の足跡を追うことに集中した。来年2月が7回忌に当たるのを期して、船村本を作ることになっての孤軍奮戦である。令和元年ごろ、船村の故郷栃木で発行されている「下野新聞」に連載記事を書いた。週に1本水曜日付けで50週は頑張ったろうか。今回の本はその下野新聞社が出版元で、連載した記事プラス新企画という内容になる。昭和38年にスポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、知遇を得て密着取材した54年分の集大成! と意気込んで、資料と首っぴきの日々。コロナ禍で友人との酒盛りも不可だから、ちょうどいいか!

 栃木県には海がない。幼少のころ船村は母親ハギさんと日光へ出かけて、大きな水面を見た。母に「あれが海け?」と尋ねたら、彼女は言下に「そうだ、あれが海だ」と答えたと言う。2人が見ていたのは、実は中禅寺湖だったと言う記述には笑った。笑いながら好奇心満々の船村少年を思い浮かべた。

後年船村が語ったハギさん像は、つぎはぎの着物にぼろもんぺ、寝ているところを見たことがないほど、働きづくめの人だった。何冊かの懐想本を読むと、船村がハギさんを語る筆致がしみじみ温かいことに気づく。本名福田博郎の船村が世に知られるようになっても、彼女は「デレスケ(馬鹿者くらいの意)が!」と信じなかった。弟子として成功させた北島三郎や鳥羽一郎を郷里に連れ帰ると、母は彼らにしきりに謝った。「こんなデレスケにつきあってくれて、親御さんはさぞ迷惑なことだろう」という気づかいで、弟子はいつもVIP待遇、彼はいつもバカ息子扱いだった。

 船村がヒットメーカーに大成しても、ハギさんが「あれはいい歌だ」とほめたのは『東京だよおっ母さん』1曲だけ。東京見物をすすめても応じず、家を守って栃木を出たことがなかった母をモデルに、作詞家の野村俊夫に詞を依頼した歌である。息子の思いが母に通じたのかも知れない。

 ハギさんは昭和55年2月、89才で亡くなった。船村はその棺に即席の短歌を書いてしのばせた。「ぼろもんぺ 好きかと問えば好きだよと 笑いし母の通夜に雪降る」――。

 ≪男は大なり小なりみんなそうだが、船村徹という人も、実はマザコンだったんだな…≫

 僕は母親の女手ひとつに育てられ、いまだに飼っている猫まで雌という筋金入りのマザコンである。僕が知り合ったころの船村は、まだかなりの強面で、酒の席などで僕はいつもピリピリしていた。そんな大作曲家の素顔に合点しつつ、僕の船村再探検はしばしば横道にそれながら、まだ当分は続きそうだ。







 見慣れない数字が並んだケイタイ番号だが、とりあえず受話器を取った。「もしもし…」と、相手は聞き覚えのありそうな声だが、誰かは判らない。それが神野美伽本人だったからうろたえた。前日の6月7日夜、中野サンプラザホールで、彼女のコンサートを見たばかりだ。
 「まだボディブローが効いてるよ。パワフルなんてもんじゃないね。うん、あなたの近ごろの姿勢には敬服してますよ。ホント…」
 大急ぎで前夜の感想を口走る。長い親交があるが、電話が来たのは初めて。終演後にスタッフから楽屋へ誘われたが、断って帰った後ろめたさもあった。
 タイトルからして「さあ、歌いましょう!」ってコンサートだった。第一部がいつものバンド神野組に東京キューバンボーイズのホーンセクションを加えて、「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギー」「ホットチャイナ」…である。幕開けから身もココロも全開放の大音声が、聴く僕のボディーへめり込んで来た。敗戦直後の笠置シヅ子の奇跡についてコメントしたかと思えば、お次は江利チエミの再評価で「テネシーワルツ」「旅立つ朝(あした)」を取り上げ、「マンボメドレー」ミュージカルナンバーから「あの鐘を鳴らすのはあなた」までぶっ続けで休憩になる。
 《そうか、「江利」の日本語表記と、あちらイメージの「エリー」とでは、イントネーションが違うんだ…》
 神野のトークで知った新事実を反芻しながら周囲を見回す。着席のままの多くは茫然自失。買い物や化粧室を目指す高齢者の足取りは、おぼつかなげで、みんな神野魔術に圧倒されている。
 それはそうだろう。ふつうの演歌は歌手が切なげに身をよじり、歌声にシナを作り、吐息まじりの陰影を作るなど、差す手引く手で作品の哀愁ドラマを体現してみせる。ところが神野の場合は、伝えたい音楽的意志と自己主張が先にあり、作品はそのためのツールになる。いわばロックのノリで、歌たちは強烈なエネルギーで吐き出された。
 第二部はおなじみ「酔歌ソーラン節バージョン」に「海の伝説(レジェンド)」「日本の男」「千年の恋歌」「無法松の一生」「男船」などが並ぶ。演歌的哀訴は「浮雲ふたり」で聞かせたが、これさえもやはりスケールが相当に大きめ。これまでの演歌表現、常識の枠組みをとっ払って演歌を変えたいボーカリストとして活路を開きたい野心が、ステージにあふれている。選曲と構成の準備に時間をかけたろうことは、曲ごとに意味あいや意義に触れるコメントがついたことで察しがついた。
 貰った電話だが質問をニ、三する。ノドは大丈夫なの? には
 「平気、平気、あしたからは四国、ずっと歌えるからそれがうれしい」
 コロナ禍の2年余、その間に危機一髪の緊急手術をしているが、全快してるの、本当に? には
 「それは、まだきついですよ。でもだましだましね。ゆうべだって、そんな気配は見せなかったでしょ?」
 この人が近ごろあらわにしている正体は〝しなやかな野性〟みたいだ。
 江利チエミつながりになるが、6月15日午後には渋谷の大和田さくらホールで永井裕子の「酒場にて」を聴いた。「22周年記念リサイタル2022夢道Road to 2030」という催しで、20周年行事が延び延びになっていた。
 「同じキングの大先輩が亡くなって40年ということで、心して歌い継ぐことにしました」
 と言うチエミのこのヒット曲は、記念曲「櫻紅」のカップリングに収まっている。永井もやっと歌える喜び山盛りで「菜の花情歌」「そして…女」「愛のさくら記念日」「華と咲け」「ねんごろ酒」「勝負坂」などを、これでもか、これでもか…だ。
 《チエミ没後40年か、亡くなったあの日に大あわてで追悼文を書いた…》
 僕はスポニチの記者時代にあと戻りした。高倉健と離婚、3人娘の美空ひばり、雪村いづみともども新しい活路を手探りしていた辛い時期に、酔っての孤独死である。原稿に「酒場にて」の歌詞を引用したいがキングの人々は出払っており、手許に資料はないし、当然だがネットなどない時代。
 〽死ぬこともできず今でも、あなたを思い…
 という二番が切なく符合するのを、この曲を愛唱していた新宿のクラブのママをつかまえて、電話の向こうで歌わせて何とか間に合わせた。あれは〝かずみ〟という名の別ぴんさんだったが、今はどうしていることやら。






 《そうか、今度はその手で来たか、なかなかの生地で、こまやかな仕立て方…》
 そんなことを思いながら、坂本冬美の「酔中花」を聴き直した。ひと晩あいだを置いて、もう3度めになるか。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、南郷達也の編曲と三拍子揃って、冬美の出番が整えられている。
 〽後をひくよなくちづけを、残して帰って行ったひと…
 歌い出しの2行分、結構なまなましいやつを、冬美はスッとさりげなく手渡して来る。メロディーも低めから出て中くらい、声のボリュームも小さめだから、こちらは自然に聞き耳を立てる。ストーリーはおおよそ見当がついた。帰る先を持つ男と置いてけぼりの女。よくあるお話だが吉田旺がひとひねり、「おとな同志の粋な関係(なか)」とわきまえさせておいて、それでいいはずなのにやっぱり気持ちが後を追うから
 〽あたし、ヤダな、めめしくて、とまどい酔中花…
とおさめる。徳久のメロディーもそんな女主人公のココロのうずくまり方を、心地よい起伏と軽めのリズムでスタスタとこだわりがない。「はい、あとは冬美さんあなたなりに、どうぞ!」という気配だ。
 委細承知…なのか、冬美は歌全体を七分目から八分目くらいの声の使い方で、言葉のニュアンスに歌唱の重点を置く。1コーラスに四、五個あるキイワードとサビのフレーズはきっちり立てて、後はそれぞれの語尾の息づかいで仕立てた。決定的なのは各コーラスの歌い収めの「酔中花」の「か」の伝え方。その前に一番から順に「とまどい」「ゆらゆら」「さみだれ」とある気持ちの揺れ方をそのままに、ふっと吐息まじりに〝置いて〟みせての「か」なのだ。不実な男にひかれながら、そんな自分をいとおしむ風情もあって、聴くこちらはその最後の最後の「か」で殺された。
 「夜桜お七」と「また君に恋してる」を転機に、演歌からポップスまでオールマイティの世界を構築した人である。どんなタイプの楽曲を歌っても、一声で冬美と判る声味がオリジナリティの源。それは張った時の声の輝きと哀感に代表されていた。それがどうだ、今作くらいに抑えめに歌っても、きちんとその魅力は維持されている。おおらかに「広げる」寸法から、こづくりに「ちぢめる」歌い方に変化して、手に入れた構成力と訴求力が、この人のこのところの進化、稔り方かも知れない。カップリングは名作「紅とんぼ」だが、作曲者船村徹に聞かせたかったくらい〝語尾の情感〟が生きている。
 「俺でいいのか」以来、もう3年になるのか。あれも吉田・徳久のコンビで、なかなかの出来栄えだった。「ブッダのように私は死んだ」には少々おどされたが、坂本冬美の歌手としての〝本籍〟はやっぱり演歌だと思っている。ドレスの冬美もいいが、時には着物でこのタイプを決めてくれれば溜飲が下がる。そんなファン心理を読み切るように前作は男唄、今作は女唄。
 「なかなかの手並みと言わざるを得ないな」
 ついこの間、日本アマチュア歌謡連盟の全国大会で一緒になった山口栄光プロデューサーに、そう言えばよかったなと思う。審査員紹介の舞台から、小さい即席階段を客席へ降りる足どりがおぼつかなくて「肩を貸してよ!」と頼んで介護!? されたばかりに、そっちに気を取られた。
 さて、もう一度冬美だが、9月20日から一カ月、明治座公演をやるチラシが届いた。中村雅俊と共演で演目は「いくじなし」とある。平岩弓枝作、石井ふく子演出のこの作品は、浅草龍泉寺町の裏長屋が舞台。水売りの六助は気のいい男だが、下町気質のおはなの尻にしかれっぱなしというのが冬美と中村の役どころ。それが夏のまっ盛りに井戸の水が涸れたからさあ大変、井戸替えの人手集めに聖天町の世話役甚吉がやって来て―と、何でそんなことを知っているかと言えば、実はこの作品、3年前の2019年6月に、川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座公演でやっていて、僕はその甚吉をやらせてもらった経緯がある。
 出番は一カ所だが、川中・松平両座長にからんだいい役。スポニチの記者時代に何度か会っている石井の演出だから大いに緊張した。その旨に加えて「こんな身分になってからは、初めてお目にかかります」とあいさつ。せっせとけいこに励んだが、演出家からのダメ出しがない。心細くなってお伺いを立てたら「いいんじゃない」と微笑を返されたものだ。さて9月冬美の「酔中花」も聞きに行くが、甚吉役はどなたが? というあたりも、興味津々である。




殻を打ち破れ243回


 名手! と紹介された。尺八の素川欣也氏。吹き口に情熱そのものを注ぎ込むような演奏が、会場の空気を揺すり圧した。ひなびた味わいがドラマチックな起伏を示して、ふと『リンゴ追分』の1フレーズを聴いた心地もする。それが『与作』のイントロに収まって、弦哲也が歌に入る。何だか妙にリラックスして、いつになく歌が軽やかだ。4月2日夜、原宿のラドンナで催された彼の「LIVE2022旅のあとさき~ふたたびのうた」のスタート・シーン。素川氏はこの場面だけのスペシャル演者だった。

 『与作』は弦が昔、NHKの「あなたのメロディー」の下請けで、発掘した作品。応募曲から目ぼしいものを選び出す、無名時代のアルバイトだったが、後に北島三郎がレコード化、彼の代表曲の一つにした。しかしこの曲がこの番組1977年の年間最優秀曲に選ばれるまでは、番組内で弦が歌い続けた。ギターの弾き語りで共演したのは尺八の村岡実氏と、そう思い出せば、今回のライブの冒頭に、同じ演出でこの曲を据えた弦の胸中も想像に難くない――。

 節目を大事にする人で、音楽生活55周年が一昨年。記念コンサートをやるはずが、コロナ禍で昨年6月の北とぴあに延び、ライブが今年になったから57年めのステージになる。売れない歌手時代から全国を歌い歩き、歌手と作曲家兼業時代も旅暮らしだった。作曲した最初のヒットが内藤国雄の『おゆき』で1976年だから、それまで11年の苦吟の年月がある。振り返れば思いは深かろう。

 人には出会いの数だけ別れがあると言う。弦には運命的と言ってもいい別れがあった。ハワイのスタジオで『北の旅人』をレコーディングした石原裕次郎。いずれ日本で…と握手して別れたが、裕次郎はこれの曲を歌うことはなく逝き、作品だけが一人歩きして弦の代表曲に育った。『裏窓』は亡くなる1年前に美空ひばりが吹き込んだ。作曲家として会わねばならぬ頂きの人に、何とか間に合っている。弦は“昭和の太陽”二人との縁を語りながら、その2曲を歌う。淡々と、作品を慈しむような味わいがあった。

 心ならずも見送った友人の名も挙げた。作詞家の喜多條忠や坂口照幸…、中村一好プロデューサーの名も出て来た。この日が命日だと言うが、没後何年になるだろう? 彼とパートナーの仲だった都はるみは引退同然。「元気なんで、また歌ってくれないかな…とは思うけど」と、弦が心底惜しそうに言って歌ったのは『小樽運河』で、都が一度引退、再び歌謡界へ戻った時の再出発作だった。

 彼は長く金沢へ通っている。歌づくりと石川県の各地を訪ねるテレビのレギュラー番組を持っていてのこと。その他に北海道にも福島にも九州にも、多くの知人、友人が居る。不遇の時代に鈍行列車で全国を回って出会った人々との、親交も続く。つらい時期に背を押してくれた数々の人情が、彼の作品の情の濃さと温かさを作ってはいまいか。この夜のライブで、そんな出会いを代表して舞台に上がったのは川中美幸で、お互いの代表作『二輪草』を笑顔でデュエットした。『ふたり酒』で第一線に浮上した二人は、作詞したたかたかしとともに“しあわせ演歌”の元祖と呼ばれる“戦友”である。

 『飢餓海峡』と『天城越え』はビシッと決めて弦哲也74才、この日ステージで垣間見せたのは「酒脱」の小粋さとおおらかさに思えた。たまたま当日の朝刊全紙は、彼の日本音楽著作権協会会長執任を伝えていた。その件は笑顔で流し、アンコールで歌った『我、未だ旅の途中』で示したのは歌書きの気概だったか、会場周辺で忙しかったのは弦ママの愛称で知られる夫人と音楽家の息子田村武也、秘書の赤星尚也だった。




 その日の夕方、渋谷のライブハウスPLEASURE PLEASUREの関係者受付には長い行列が出来た。知人を見つけて手を挙げる女性、グウタッチする男性4人組、仕事の続きみたいに小声の会話の男女…。いろんな業界の匂いを漂わせる人々が「山崎ハコ・バースデイライブ復活! 〝飛びます〟」開演前のにぎわいを 生々しくする。5月14日、開演は16・00。僕もその列の中の一人だ。
 《どの劇場、コンサートやライブ会場に行っても、関係者がここまでの数になることはないな》
 会場入り口でそう思ったし、1階K列10番の席についても同じことを思った。一般のファンと比べると年齢が少し上で、身なり、態度物腰が独特。ハコを〝捨ておけない気分〟が一様ににじむようだ。ハコの弾き語りの1曲目は「望郷」で、青い空白い雲と一緒に語られるのは、神社の石段、舞っていた蝶、かぶと虫やおばあちゃん。2曲目が阿久悠の遺作から彼女が選び出した「横浜から」で、港町をさすらう娘の独白である。以下「ヘルプミー」「SODASUI」「私が生まれた日」「新宿子守唄」などが続く。
 要するに山崎ハコの世界はとても切ないのだ。一生懸命に生きても辛い。夢と現実の行き違いが辛い。男も辛いし女も辛い…。ハコはギターをかき鳴らして哀訴する。歌が高音部にかかると、声は艶と張りと粘着力を増し、悲痛な響きを濃くする。低音部へ落ちると、呟きくらいのボリュームになって、客は引き寄せられるように聴き耳を立てざるを得ない。
 僕は1曲ごとに彼女の述懐を聞き届け、その胸中を探ろうとする。そんな作業はしばしば、僕に少年時代の満たされぬ思いや鬱屈を振り返らせ、共感を増しながら、彼女の世界に引き込まれていく。あんなに小柄でやせぎすな体をふるわせて、それでもあんなにひたむきに…と、キャラと歌唱から感じ取る情感は「いじらしさ」や「けなげさ」「いたいけな純真」で、それは僕らが世俗にまみれてとうに見失ったものを突きつけて来る。だから彼女を捨ておけなくなるのだ。
 そんな僕の感興は初ヒットの「織江の唄」から始まっている。その後40数年の歌手活動と浮沈の中で、彼女は変化し成長したろうが、僕の方は第一印象を引きずったままだ。ハコの舞台は続いて、新宿花園神社の椿組公演の映像と主題歌を歌う彼女になり、「今年もやるからネ」の予告があって幕切れの「ごめん…」「縁(えにし)」アンコールの「BEETLE」「気分を変えて」につながる。このうち3曲は去年の7月4日に、原宿クエストホールで彼女が開いた「最初で最後の安田裕美の会」で歌われた。安田はハコの夫君で、尊敬する先輩であり、よき理解者で同志でもあったギタリストだが、2020年7月6日に亡くなっている。
 そんな事情もハコを〝捨ておけない〟具体的な理由のひとつなのだが、ハコは
 「この2年、5曲しか歌ってなかったし…」
 「安田さんに、もう歌えなくなっちゃったの? 僕の責任かななんて言われたくないから、この会をやることにしたの」
 「こんなに沢山の人がいてくれるんだもの、復活だ、大丈夫だヨと言いたい、皆さんありがとうございました」
 と言葉を継いだ。5曲だけ歌ったというのは原宿の催しを指し、彼女が最後まで夫君を「安田さん」と呼んだことは、みんなが知っていた。
 話はコロッと変わるが、その3日後の17日、僕は宇都宮の下野新聞社へ出かけた。以前連載した作曲家船村徹の追跡記事を、来年の7回忌を機に単行本にする打ち合わせ。応分の加筆をするほか、船村語録も加えたい希望と原稿を届けるトンボ帰りである。始発駅の逗子から終着駅の宇都宮へ片道3時間、湘南新宿ラインで往復した車窓は、東大宮あたりから田園風景が広がった。水田には植えられたばかりの早苗が青々と風になびき、黄色に色づいているのはおかぼ陸稲か。屋敷山にかこまれた農家は古めかしく、対照的に新しい文化住宅はカラフルだ。
 レモン酎ハイをチビチビやりながら、ふとこれが僕の原風景か! と感じ入った。疎開して小学3年生から高校卒まで暮らした茨城・つくば市の隅の旧島名村は、知人を頼っただけの縁だから故郷ではないのだが…。
 《しかし、昭和そのものだなあ! 船村徹先生も山崎ハコも。俺も人後に落ちないか…》
 何だか突然、ここのところの感傷の意味が、妙に腑に落ちた。ちょこっとだけにしろ、旅って奴はいいものだと思った。




 

 カラオケ雑誌で歌詞を先に読んだ。朝花美穂の「しゃくなげ峠」だが、もず唱平ならではの世界、ドラマ設定も情感表現の確かさも、久しぶりにいい仕事をしている。
 《それにしてもおかしいな。なぜか出来たぞ! の報せがない―》
 新曲が出るごとに、どや顔のCDが届く相手なのだ。長いつき合いだからこちらも、その都度どこかに感想を書く。それが今回は…。
 会いたい! と、性急に月島の店「むかい」へ現れた。作曲した宮下健治、歌った朝花に担当ディレクター、所属プロダクション社長と5人連れ。浅草のレコード店でお披露目歌唱をやった後とかで、やたらに気合いが入っている。当方は当日朝、一応CDは聞いて出かけた。だから「ン?」になる。初対面の朝花は鳥取・米子出身の23才。歌の感触よりも少々若くて、この業界5年生とか。
 実はこの人の、歌いだしの得も言われぬ〝けだるさ〟にゾクッと来ていた。主人公の遊女ははたちだが、
 〽故郷はどこだと問う…男に、
 〽無いのと一緒と答える女…なのだ。おそらくは世の辛酸をあらかたなめたろうタイプ。それを自分が居たところと語る
 〽山裾の紅い燈、指差す憂い顔…
 の歌い出しの1行分で、朝花は作品の色も中身も決めていた。
 ベテラン歌手が持つ生活感…と勘違いしていたが、どうやらこれは宮下の演出。4小節に2ヤマ、やるせなげなメロディーをうねらせて、朝花の息づかいを決めた。演歌は歌い出し2行分の歌詞で決まると、古くから言われて来たが、メロディー4小節、歌詞1行分でもこんなに〝決まる〟ことを再発見する。
 宮下は元歌手、シングルを15枚出した経験を持つ。そのころ身につけたろう昭和30年代から40年代の演歌のエッセンスに、昨今のはやりすたり、書きたいものへの熱意などが加わると、こういう曲になるのか。その〝けだるさ〟はほどが良い。古いタイプの演歌はシナを作るのが詠嘆の技だが、朝花にはそれがない。シナを作れば歌が嘘になるレッスンを、宮下はこの娘に重ねて来たのだろう。
 ビールで多弁になるもず唱平の隣りで、一生分の酒はもう飲んだからと、素面の宮下は、
 「詞に惚れ込みました」
 と、ボソリと言った。
 〽死出の旅路を厭わぬ男、心を任せて紅差す女…
 道行を止めるのは声を限りに啼く蜩、二人が立ち尽くす峠に咲くしゃくなげは、白か淡い紅色、初夏の光景が絵に描いたようだ。師匠の惚れ方が愛弟子に伝染する。「遊女」「道行」は近ごろでは死語に近いが、そこまで思い詰める愛の形を、朝花は、
 「古典文学みたいに感じた」
 と言う。厚みのある声が表と裏の境目のない利点を持ち、こぶしも適度、歌う語尾にゆとりまでにじむ。大衆演劇が好きという芝居心が、芸の芯にありそうな歌唱だ。
 もずは自称「未組織労働者の哀歓」の書き手である。理屈っぽさが癖の彼らしい言い回しだが、要は社会の底辺に生きる人々の、けなげさや一途さを描くのが長年のテーマ。デビュー作の「釜ヶ崎人情」や出世作の「花街の母」で一目瞭然だろう。前回会ったのは大阪で2年前くらいになるか、行きつけの居酒屋「久六」で、もずが
 「マーケットリサーチをすれば…」
 などとグズグズ言うのにいらだって、
 「誰が何を欲しがるかなんて、ほっとけよ。もずはもずの書きたいものを書けばいいんだ!」
 と、僕は酔いに任せて言い募った記憶がある。そんな思いが冒頭に書いた「良いじゃないか!」につながった。そのうえに、宮下の曲、朝花の才能に出っくわしている。めぐり合わせの妙で久々に三拍子揃った仕事である。今作はひょっとすると彼の代表作の一つに育つかも知れない。
 そんな当方の思い込みをよそに、もずがその夜力説したのは、沖縄音楽と日本のそれの接点の新しい発見。古賀政男が出て来たり船村徹が出て来たりで、相変わらずの論客ぶりだが、ま、あの年になってまた、新しいテーマを見つけたのなら、ご同慶のいたりとしようか。それやこれやを抱えて、もず唱平は沖縄からやって来る。寒いうちだけ…という生活が、どうやらあちらに根がおりそうだ。
 「大阪から来るんと、違いはないんですわ、2時間半ちょいで…」
 新幹線と飛行機をそう計算して、事務所も那覇に構えたらしく、
 「一度遊びにおいで下さい。5匹の猫がお出迎えします」
 秘書の保田ゆうこや歌手の高橋樺子らが、癒され加減にそんなことを言っている。





殻を打ち破れ242回


 ≪ほほう、何とまあ、似合いの曲に出会ったもんだ…≫

テレビで歌う三沢あけみと新曲『与論島慕情』を見比べ、聞き比べてそう思った。『島のブルース』でいきなりブレーク、それを代表作と歌い続けて来た人である。あれはたしか奄美大島が舞台。それが今度は与論島である。長野出身なのに奄美の出と、よく思われた彼女には、似合いの作品じゃないか!

 4行詞4コーラス、素朴な歌である。はじめの2行で島の風物を淡々と歌い、次の2行が与論島讃美。それも「夢にまで見た」「離れ小島の」「あつい情けの」「帰りともない」に「与論島」をつないだ4パターンに、例の鼻にかかった声で艶を加える。作詞、作曲家の名に耳なじみはない。聞くところによれば、島の人が作り、島唄として歌い継いで来た“地産地消”ソングらしい。

 そう言えば…と思い出す。奄美あたりは世界自然遺産に登録されたばかり、三沢は今年が歌手生活60年で、このシングルはダブルの記念盤になった。それにしても――。

 収録された2曲目には相当に驚く。三沢の恩師渡久地政信の作曲だから是非!となったのだろうが、詞は川内康範による漂泊・無頼の男唄。明日の行く方を雲に聞き、風に聞いてみたところで、答えはいつも自問自答した通りでしかない。それならば

 ♪どこで死のうと生きようと(中略)天上天下ただひとり 頼れる奴はおれひとり

 と思い定める内容だ。

 『流れの雲に』がタイトル。先ごろ高倉健の遺作アルバムが話題になったが、それに収められた1曲だった。川内の4行詞3コーラスが、彼ならではの簡潔な表現で相当な迫力。技を使わず淡々と、そのくせ言い切ってしまう技の凄味がある。その圧力を委細承知と引き取って、渡久地は穏やかなワルツに仕立てた。あとはたっぷりめに、歌い手の器量に任せる趣向だ。三沢は天を仰いだろう。これを女の私に歌えというの? 自分の胸を叩いて、何をひき出し、何をきっかけに歌えというの? 僕も聞く前にはミスキャストだと呆れた。ところが三沢は捨て身の“やる気”と年の功で、力まず飾らず率直に語りこのハードルをクリアした。男の中の男が歌う男唄と真逆の柔らかさで“異種交配”の面白さを生み出した。

 ♪どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて 生きてみせると、自分に言った…

 昔、川内康範が小林旭に書いた『落日』の衝撃を思い出したくらいだ。

 3曲めは彼女のための新曲である。さわだすずこが作詞、徳久広司が作曲した『幸せの足音』で、軽快な今日ふう歌謡曲にホッとする。冬の厳しさに耐えて咲く福寿草、梅雨の合い間に色を変える紫陽花、やがて雨上がりの虹を見上げて、幸せの足音を聞く女心ソングだ。

 『与論島慕情』は、昨年思いがけなく業界の実力者からプレゼンされた。「いい歌だし、どうせなら私、来年が60周年なので…」と、甘えて記念曲にしてもらった。恩師の情にも報いたいと言ったら『流れの雲に』を提案された。渡久地作品の旧作なら数多くあるのにどうして…とは思ったが、挑戦する若さはまだ残っていた。『幸せの足音』は今日現在の気持で歌えた。節目の年だから記念盤を何とか…と思いながら、でも無理かと言い出しかねていたところへ、降って湧いたようにいい話のあれこれである。

 「神様が最後のチャンスを下さったの、きっと…」

 と、三沢は声をはずませる。「よかったよな」と応じる僕は、彼女とこの世界では年上の同期生。東映のお姫様女優から歌手に転じたばかりの彼女を、ホヤホヤ記者として取材したのが昭和38年だ。とすると「俺もこの道60年か」と思い当たるがすでに足腰衰えていてヤレヤレ…である。




 《「カップリングソング・ライター」って呼べる作曲家も居るんだ…》
 4月8日夜、赤坂のMZES TOKYOで田尾将実のライブを見てそう思った。メインの曲は歌い手のキャラや制作者の狙いなど、いろんな条件と制約がある。曲づくりはそれに添って万全を期す。しかしカップリング曲は、書き手の裁量に任されることが多いから、田尾はその自由さを存分にして来たらしいのだ。
 「夜のピアス」「彼岸花の咲く頃」「泣かせたいひと」「再会」「冬椿」「あなたのとなりには」など、どれがそのケースかは判らないが、なじみの薄い曲が並んだ。
 〽男なんてまるでピアス、いつの間にか失うだけ、男なんて夜のピアス、心の穴に飾るだけ…
 冒頭の曲の聞かせどころ。字づらだけでは醒めた女心がシャープなだけで、かわい気がまるでない。しかし、田久保真見のこの詞が、田尾の曲の哀調に乗ると、主人公の喪失感や孤独が切なげに、表に出て来て沁みる。このコンビの美点かも知れない。
 「いい歌になるかどうかは、歌詞次第ですよね」
 田尾は真顔でそう言う。いい曲を書く力量が前提だろうが、彼なりの自信が口調ににじむ。
 「彼岸花の咲く頃」は、
 〽赤い彼岸花逆さに吊るして、線香花火みたいねと無邪気に笑った君…
 に、突然別れを告げられた少年の歌。喫茶店、ルノアールの絵、映画や本の話に明け暮れた少女との日々がみずみずしく、彼岸花の赤までが目に浮かぶ。作詞家のいではくが「ずいぶん昔に書いたものだけど」と、そっと差し出したというのもいい話だ。
 いい詞に出会うと田尾は動く。円香乃の「別れの朝に」の時は、お台場を歩き回ったらしい。女主人公は男のYシャツをいつもの引き出しに収め、念のため目覚まし時計もかけておく。彼の留守の夜は、灯りをつけたままで帰る。窓の灯りにほっと一息つけるだろう。部屋にはカトレヤの花を飾った。いつかこの部屋に、穏やかな幸せが訪れることを祈って。そんな別れの日を彼女は、
 〽あなたのために出来ることは、私にはもう何もない…
 と結ぶ。田尾はこの主人公の優しすぎるほどの心根に、作者円のそれを重ねて感じ入るのだ。この日ゲストで歌ったチェウニの「駅」は高畠じゅん子の詞だが、これを持って田尾は、なぜかシンガポールまで出かけている。
 今回のライブは昨年やるはずがコロナ禍で延びた。たまたま毎日新聞の川崎浩氏が、歌う作曲家のライブのシリーズを企画、田尾にも声を掛けた。発端は遊び心だが、受けた田尾は一大決心をする。ヤマハのポプコン入賞を機に音楽生活が50年、年も70才で、節目の年。初めてのライブだから音楽関係者に見てもらおうと、その席決めまでする念の入れ方。キャパ40の会場なのに腕利きのミュージシャン5人をバックに、本格的なスケールの舞台にして、熱い血のおもむくままだ。
 田尾と僕の親交は25年ほど。作曲家協会が主催したソングコンテストの審査の座長を僕が手伝い、彼は平成10年に石川さゆり用の「キリキリしゃん」翌年に五木ひろし用の「京都恋歌」でグランプリを連覇した。しかし業界の待遇は依然変わらないと言うので、その前後の受賞者花岡優平、藤竜之介、山田ゆうすけに作詞の峰崎林二郎らを加えて「グウの会」を作った。酒盛りもやるが、同じ詞にみんなで曲をつける腕比べなどをやって、彼らの背中を押す算段。「愚直に行こう!」の意の「グウ」である。このコンテストは作曲家三木たかしが主導した。田尾が彼に、
 「ヒット曲が沢山あっていいですね」
 と言ったら、三木は
 「それよりも、捨てた曲の数では誰にも負けないよ」
 と答えたという。田尾は以後その言葉を自分の指針として来た。
 下関・豊浦町の漁師の網元の息子である。激しい気性を裡に秘めた直情径行型でストイック、作る曲も一途で妙に粘りけが強かった。しかし最近の作風はそんな粘着力を削ぎ落とし、いい哀愁メロディーにいい詞、ポップス系フィーリングと心地よいリズム感で、ライブの成果は「22年型正調歌謡曲」と呼んでもいい充実ぶりを示した。
 張り切りすぎて後半、声が嗄れた。本人は大いに反省したが、その弱さを補おうとする懸命の歌唱がこれまた一途で、かえって人間味を濃くした。やはり田久保との「東京タワー」をアンコールに据えた。東京へ出て来た当時の夢や失ったもののあれこれを、2人がこの曲に託した気配があった。昭和31年はたち前に上京してしばらく、似た思いで東京タワーを見上げた僕も、往時を思い返して鼻先がツンとなったりした。





〝旅役者見習い〟を自称している。縁あって大衆演劇界の雄・沢竜二の全国座長大会にレギュラー出演しての身分。〝旅役者〟〝ドサ役者〟を誇称する沢のひそみに習ってのことだ。
 3月27日午後の池袋、シアターKASSAIの舞台で、
 「親分大変だ! 親分…、じゃなかった、大変だよ沢さん!」
 やくざの代貸姿の僕が、下手そでから飛び込む。中央には国定忠治の赤城山の場の沢が居て、
 「何だ? 何だ? どうした」
 になる。その耳許へ、
 「川中さんがさ、川中美幸さんが見に来てるんですよ! おしのびで…」
 と報告するから、場内の客までが一斉に「えっ?」になった。
 催しは沢竜二プロデュース「春の若手時代劇まつり」の千秋楽。会場もこじんまりした実験劇場タイプで、パイプ椅子を並べてふだんは50から70席と言う。それをコロナ禍対応で飛び飛びにしたから、30人前後の客相手に膝づめ芝居だ。その一隅からつば広帽子の川中が立ち上がり、笑顔で手を振る。少人数でもちゃんとどよめく客席へ、
 「握手を求めたりしちゃダメだよ。こんな時期だからね…」
 と、沢が大喜びのファンに注意をする。
 実はその前日の26日夜、渋谷の川中のお好み焼きの店で、亡くなった放送作家あかぎてるやを偲ぶ会が開かれていた。沢は芝居づくりや歌づくりでごく親しくつき合った仲だから、公演を中抜けして参加、池袋―渋谷をとんぼ帰りした。舞台化粧のままだったのを見て、川中は「よし、見に行こう!」と決めたらしい。もともと「あれが原点」と言うくらいの大衆演劇好きの人なのだ。僕は彼女から声をかけて貰って、70才で明治座が初舞台。以後一座のレギュラー出演者だから、この日は2人の大座長との縁にはさまれる光栄に浴したかっこうになった。
 公演初日には、友人の歌手新田晃也が弟子の春奈かおりと現れた。差し入れは例によって心づくしの「空也」のもなか。新田は演歌系シンガーソングライターのベテランだが、呼び捨てのつき合いが長く、当然春奈もお前呼ばわり。ところが今公演メインの若手座長若奈鈴之助が、彼女に直立不動になったから驚いた。聞けば彼は春奈の母親の弟子だったそうな。そういえば春奈からは母が座長の〝若奈劇団〟で、3才で初舞台を踏んだ昔話を聞いたことがあった。鈴之助の現住所は茨城の守谷。僕はその隣町の水海道一高の出だと、奇縁に話が飛び、彼がそれ以前は長く会津若松に住んだことを聞き流した。彼の師匠率いる若奈劇団は千葉・白浜で旗揚げしたあと、会津で常打ち活動をした件に、思いいたらぬ迂闊さがあった。
 今回一緒になった若手座長は鈴之助に愛望美、副座長が若奈葵、愛美萌恵らで、九州の名門梅田英太郎と沢一門の木内竜喜はベテラン座長。それに沢公演おなじみの岡本茉利が傍を固める5日間6公演。芝居が「上州悲恋地獄」「夫婦酒」「三日の娑婆」と日替わりの3本で、僕は大工の熊さんややくざの代貸などでチョロチョロした。
 二部はおなじみの舞踊ショー。座長大会でベテランたちの出番もずいぶん見学したが、今回、初めて見て感じ入ったのは梅田英太郎の〝眼芝居〟だった。ワルの上州屋茂五郎役は恐いくらいの眼力に凄みを利かせたが、女形で舞う「細雪」はその眼が哀恋のきわみを漂わせ、まばたきまでがしっかり芝居する。それを生かすためか、眉は細く薄めの仕立て方に見えた。
 この人、別の日には「さざんかの宿」も踊ったが、歌は五木ひろしバージョン。鈴之助は小林幸子の「おもいで酒」を踊ったが、よく聞けば歌は坂本冬美である。岡本茉利は懐かしい「東京アンナ」を踊ったが、歌っているのは大津美子ではなく美空ひばりと、それぞれのこだわりが見え隠れする。舞台でしきりに謝っていたのが鈴之助で、川中が来ているとは知らず「ちょうちんの花」を踊ってのひと場面。この曲、川中が公演ごとに必ず歌うお気に入りだから彼女は上きげんで、それほど恐縮するまではなかった。
 沢は3本の芝居の潤色、演出のみで出番はなし。若手を育てたい一心のプロデュースのせいだが、第二部では「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」「無法松の一生」新しくCDを出した「人生はうたかたの夢」を、まだ若々しい声で聞かせた。
 それやこれやを舞台そでで取材!? もした僕は、若奈鈴々音、若奈鈴、空馬大倫ら美女や美青年に介護され加減の日々。何しろ令和2年2月の川中美幸明治座公演「フジヤマ〝夢の湯〟物語」以来2年1カ月ぶりの舞台である。
 「好きなんだよな、あんたも」
 と沢は笑うが、何はともあれ嬉しくてたまらない陽春になった。



殻を打ち破れ241回

 

「山田、40周年だってな。記念曲は出来てるのか?」

 「はい。サンプル盤と資料、持って来てます!」

 鳥羽一郎のマネージャーとのやり取りである。マネージャーで年下とは言え他社の社員。それを呼び捨てにするのは乱暴に過ぎようが、僕らの間にはそれでいいとする黙契がある。何しろ僕は、彼が仕える鳥羽そのものが呼び捨てなのだ。作曲家船村徹の弟子としては、僕の方がキャリアが長く、年長のせい。そんな鳥羽のそばで、山田に「君」や「さん」をつけるのは、いかにも収まりが悪い――。

 「ほほう」

 資料で読めば、歌詞が得も言われずに、よい。

 ♪泣きたくなるよな 長い一本道を 歩いて来ました まだ歩いています…

 と、歌の主人公は歌い手の道のまだ旅なかば。村はずれの桜の花に、人気の春や不入りの冬を思いながら、舞台で演じる花に、芸する人の覚悟を託す。不器用だが、一途に生きて行きたい。果てる時は最後のひと息まで演歌に仕立てて…と、“来し方”と“今”を見据えたうえで、結びのフレーズが絶妙なのだ。

 ♪いつか必ず この来た道に かかとそろえて おじぎをします 過ぎた月日に おじぎをします

 かかとをそろえるのは、直立不動の姿勢をとること。主人公は最後の日には、自分の歩いて来た道に敬礼したいと、そう念じる。タイトルが『一本道の唄』作詞者はあの武田鉄矢。男の気概がうかがえまいか!

 「これは武田鉄矢の心情そのものだな。それがぴったり鳥羽一郎にはまっている。そうそうお手軽に書ける歌詞じゃないよ」

 そう言ったら鳥羽は、こちらに向き直って

 「そうです。俺もそう思います」

 と、語気を強めた。武田に詞を依頼するのは、彼の発案。番組で一緒になったこともあり、よく彼の仕事を見ていて、相通じるものを感じたのだろう。九州出身の武田は坂本龍馬を信奉、バンド名も海援隊を名乗る。もともとは、本音を詞の芯に置くフォークのシンガーソングライター…。結果論になるが、鳥羽の眼のつけどころが生きた。

 鳥羽は星野哲郎・船村徹コンビの連作で、海の歌の語り部になった。元船乗りの経歴もキャラクターもそれに似合いで、作品の軸は男の真情。昔ならそれは任侠路線の型でもてはやされた。しかし昨今の風潮からは、暴力団肯定のそしりを受けかねない。泥くささ承知で男の熱情を描こうとしても、草食男子横行の世相ではいかんともしがたい。そんな中で鳥羽と武田には、苦虫を噛む“硬派”の共通点があったろうか。

 作曲したのは息子の木村竜蔵である。鳥羽の息子2人は「竜徹日記」のユニット名で音楽活動をしている。その若いセンスに期待したのは担当ディレクターで、度重なる打合せとダメ出しの末に作品を仕上げた。

 「大物作曲家に頼んで、もしイメージが違うものになっちゃったらね、手直しもむずかしくなるじゃないですか」

 鳥羽が肩をすくめた。息子の才能を信じると同時に、歌詞から得たイメージを、最大限大事にしたかったのだろう。

 僕はそんな話の直後に、鳥羽のこの作品を生歌で聞く。40周年、歌詞みたいにまっすぐに生きた男の気概が、会場の人々に届くのを目撃した。僕ら2人が一緒に舞台を踏んだのは、昨年暮れの新宿文化センター「沢竜二若手座長大会」で、僕はおばかな飲み屋の女役のヘボ役者だった。

 功成り名とげた鳥羽が、僕に呼び捨てを許すのは、彼流の洒落気分。山田もそれに倣っているのだろうが、その仕事ぶりはいつもながら、言動てきぱきスピーディーで小気味よかった。




 ひと仕事が終わる。「お疲れさんでした」のあいさつのあと、相手の眼を見ると、
 「軽く一杯いこうか!」
 なんて言葉がすい…と出てくる。去年の夏、7月19日の日曜日も、そんな空気になった。神奈川県民ホールで福田こうへいのコンサートを見てのことで、相手は作詞家の坂口照幸。
 横浜の「中華街でも…」と結構その気の坂口に、
 「いっそのこと、逗子までおいでよ。行きつけの中華で〝せろりや〟という店がある。創作系で思いがけない料理が、やけにうまい」
 と、強引にこちらの土俵へ誘うのは、支払いなどで余分な気を遣わせたくないせい。
 この日、福田が歌った新曲は、彼の作詞の「男の残雪」である。男の気概やしあわせ演歌に通じるフレーズなど、欲ばった内容。おそらくは担当プロデューサーの要求が多かったのだろうと推測するタイプだ。もともとかっちりと、彼流の5行詞ものなどで、コツコツ推敲を重ねる仕事ぶり。歌い出しの2行を中心に〝決めるフレーズ〟捜しもする男だ。
 例えば島津亜矢の「縁(えにし)」で書いた
 〽なんで実がなる花よりさきに、浮世無情の裏表…
 大泉逸郎の「路傍の花」で書いた、
 〽人生晩年今わかる、めおと以上の縁はない…
 小桜舞子の「しのぶ坂」で書いた
 〽人の心は見えないけれど、心遣いはよく見える…
 なんてあたりがその例。
 長崎から集団就職列車に乗った。井沢八郎の「ああ上野駅」がヒットした昭和30年代も終わりごろ。坂口がたどり着いたのは東京ではなく、名古屋だった。ここで地元の作詞家の手ほどきを受け、詞を書き始めた歌好き。やがて上京、作詞家吉岡治の運転手を兼ねた弟子になる。当時彼は、うれしいことを言ってくれた。
 「阿久悠さんの〝実戦的作詞講座〟をすみずみまで読んでます」
 講座は僕の依頼で阿久が歌づくりのノウハウを全開陳したもの。スポーツニッポンに2年間、週に一度の連載で、大勢の応募者が腕を競った。上下巻の単行本にしたのが昭和52年。坂口はこれを座右の書にしたらしい。
 何年か後、師の吉岡の逆鱗に触れる。芸事でも同じことだが、修行は「教わるより盗め」が基本。師の仕事や暮らしに密着、種々相を汲み取って己の知恵や財産に蓄える。ところが坂口はその盗み方を間違えたらしい。勘当された後、吉岡を通じて知り合った中村一好プロデューサーに眼をかけられて、その仲間と親しくなる。坂口の詞に多く曲をつけた弦哲也、徳久広司らがそうで、都はるみに「あなたの隣りを歩きたい」を書いているのが、いじらしい。
 彼らは坂口を仇名の「キョショー」と呼んだ。それを「巨匠」と聞き取って、不審を口にしたのは大物作曲家の遠藤実。実は「虚匠」が正解で、坂口を発展途上の詩人…と親しみを込めていたのだろう。師の吉岡は平成22年5月17日、心筋梗塞のため76才で亡くなった。首を切られたままの坂口は通夜葬儀に顔を出していいか迷った。葬儀委員長を務めた僕に聞いて来たから、
 「それはそれ、これはこれ、焼香においで。思い当たるふしはあるんだろうから、霊前に詫びて、これからのことを報告したらどうよ」
 という段取りにした。
 話は去年の夏に戻るが、飲みながら坂口といろんな話をした。前妻ががんの余命宣告を受けたショックを抱えて、懸命の看護をした。彼女が亡くなったあと、僕は、
 「供養の思いは、いい詞を書いて果たすといい。早く立ち直れ!」
 と激励したものだ。それから何年か、今は新しいつれ合いと暮らしていると彼は打ちあけた。それはめでたい。仲間うちのお披露目くらいはしよう! と、僕は提案した。彼は三門忠司の「百年坂」で、式もあげないままの男の負いめを書いていたし…。
 そんな酒盛りからひと月ちょっと。坂口夫人の亜稀さんから葉書が来た。
 「肝硬変で入院しましたが、退院しました。ご心配をおかけして…」
 ガツン! と来た。そうとは知らなかった。坂口は病気のことなど一言も口にしなかったのだ。そして今年3月5日、彼の訃報が届く。アルコール性肝硬変脳出血のため死去、65才、告別式は近親者のみで行う―。
 僕は慙愧の思いをかかえて立ちすくんだ。
 心優しいが世渡り下手のあいつは、中堅作詞家として中堅歌手の詞を多く書いた。結果大ヒットで大成するのはこれから…という矢先の早世である。
 《ハイボールを2杯も飲ませて、もう…》
 訃報から2週間たっても、僕の心には後悔と無念のトゲが刺さったままになっている。




殻を打ち破れ240回

 

 星野哲郎の著書「妻への詫び状」に「我が“神田川”時代」という一節がある。昭和32年の秋から東京・吉祥寺の「いずみ荘」というアパートの四畳半で、朱実夫人と同棲生活をはじめたころを述懐する章だ。

 「僕らは貧しかったが、幸せだった。(中略)若いふたりの同棲生活を歌った『神田川』という曲がヒットするよりずっと前のことだが、当時のことを思い出すとき、あれはまさしく僕らの“神田川”時代であったなぁと思う」

 とある。『神田川』の作詞者喜多條忠はこの一文を読んでいるに違いない。星野は日本クラウンを代表した作詞家。喜多條の『神田川』は同じクラウンから発売されたかぐや姫のアルバムの1曲で、シングルカットに指示したのが伝説のプロデューサー馬渕玄三氏。星野のヒット曲に数多くかかわった人で、喜多條は星野を密かにこの道の師とし、馬渕氏を生涯の恩人と呼んでいた。感銘は深いはずだ。

 星野が長く伊豆の伊東あたりで清遊していたことは、よく知られている。喜多條が最近『なぎさ橋から』という詞を書いた時に、

 「同じ名前の橋はあちこちにあるけど、伊東のやつがなつかしいな」

 と話したのも、星野からの連想だろう。僕らのゴルフと酒盛りの遊びの会・小西会の有力メンバーの一人として、彼は何度も伊東のサザンクロスでプレーしている。このゴルフ場も星野が通い詰めたところで、彼の没後もちゃんと「星野先生の部屋」が維持されている。

 「これも縁かな。せっかくだから“なぎさ橋から”を、伊東の皆さんに聴いてもらおう」

 と僕は思いついた。昔々、星野が書いた『城ケ崎ブルース』の歌碑が、レコード発売と同時に完成したことがある。駆け出し記者の僕はびっくりして取材に出かけた。伊東の人々は歌好きで、時にこんな異例の出来事をしでかすのだ。

 ♪行かねばならぬ男がひとり 行かせたくない女がひとり…

 と、僕は今でもちゃんとこの歌を歌える。その前後から星野の知遇を得て、弟子を名乗ることも許された。当然みたいにサザンクロスへお供もしたし、知り合った伊東の有力者も多い。

 『なぎさ橋から』は一度、秋元順子の『いちばん素敵な港町』のカップリングとして世に出ている。制作当時、作詞した喜多條と作曲した杉本眞人が

 「こっちこそ“推し”だよ。このタイプの歌は、僕らじゃないと書けない!」

 と口を揃えて訴えたが、プロデューサーの僕が押し止めた。この作品の悲痛な訴求力は、コロナ禍が下火になってこそ生きる…としての温存である。新種のオミクロン株の動きが不穏だが、新しい年へ “コロナ以後”“ウィズ・コロナ”暮らしの気配は、社会に芽生えつつある。作品への反響も大きい。

 「よし、年明けにひと勝負だ!」

 作家ふたりの希望を入れて、秋元で再度レコーディング…の段取りを決めたところへ悲報が飛び込んで来た。11月22日、喜多條忠が肺がんのため死去した。働き盛りの74才だもの、僕らは声を失った。

 「彼のためにも、何としてもヒットさせよう。そのためなら何でもするよ」

 スタジオで杉本が決意を語り、秋元がうなずいた。「いい作品を新装再開店!」の試みが、身内では「喜多條の弔い合戦」に変わってしまった。

 星野と喜多條、それに伊東の人びととの縁を辿って、1月に現地でPVを撮影、2月に新曲としてのお目みえに『なぎさ橋から』は大きく舵を切ることになった。



 タイトルからして「やせっぽちのカラス」である。意表を衝かれるが、何だかふっとなつかしげな気分にもなる。で? そのカラスがどうしたのさと、こちらは、聞き耳を立てる。そのカラスは、泣いていると言う。「世知辛い時代になったね」と―。
 歌っているのはおがさわらあいという歌手。隣りでギターを弾いているのは作詞作曲した田村武也。歌に戻れば、どこかの町の夕焼けを背に、カラスを見上げたのは若いカップルだ。くだらない話に笑い合い、ささいなことでも楽しくて、それだけで十分幸せな二人。
 それがつまずいて転んで、すりむいた夢を抱きしめながら生きることになる。男は下北で時代遅れの歌ばかり歌って、女は、たった一人の客だったのだが…。
 《そうか、そういうふうに話は展開するのか。判るなって気分で、歌がやけにしみてくる…》
 僕は客席で自分の若いころの感傷へ舞い戻る。昭和のあのころ、若者たちの多くはそういうふうに暮らして、そういうふうに夢にはぐれた。それでも気を取り直して、何とか平穏に生きて来たから今日がある。平成を過ぎて、令和になって、でも時代そのものは変わっちゃいないのか? 2月12日夜、僕が居たのは、ラドンナ原宿というミュージックレストラン。「日曜日思い出堂」と名づけたおがさわらのライブで見回せば、Z世代と呼ばれる若者たちが、
 〽どうにもならないことだらけで…
 〽明日にしがみついて、笑って泣いて…
 と行き止まりの青春の歌を、わがことのように聞いているではないか!
 《泣かせやがって、この野郎!》
 昔々、作詞家の星野哲郎が歌手小林幸子に書いたこのコトバを、同じように親愛の情をこめて作詞作曲者田村武也に伝えたくなる。彼は路地裏ナキムシ楽団を主宰、歌謡と芝居のコラボの新機軸の舞台で、作、演出、演奏、歌を担当する。僕は役者として数多く共演をし、長い親交がある。この仕事を「青春ドラマチックフォーク」と銘打つ彼は、ともかく一心に、客を泣かせ続け、その思いは、おがさわらの歌づくりにも徹底している。
 「あんた」という歌が出て来る。歌詞にいきなり
 〽自動販売機の安い缶チューハイで…
 というフレーズが出て来て、それで若い二人は何かの記念日を祝った。しかし、喧嘩も弱いくせに正義感だけが強い甲斐性なしの男は、風に吹かれてどこかへ消える。孤独には慣れているつもりだった女は、男の名を呼びながら無理して笑って、ひとり空まわりしている―。
 いつの時代も多くの若者たちには生きづらく、夢は途絶えがちだ。田村はその種々相を、市井の人々の姿から切り取って見せる。青臭い理屈は避け、メッセージ臭のフレーズも使わず、人肌の温かさとやさしさの説得力を示す。僕は彼の脚本で芝居をしながら、時折り涙を流した。どっぷりと役に漬かるのではなく、彼から手渡された登場人物とその悲哀を共有してのことだ。
 田村がおがさわらのための作品で示すエピソードも悲哀に溺れることはない。よくある話のよくある悲しみを、見詰め視線が穏やかに、その陰に生きづいている。売れ線を狙うのではなく、率直に心情を吐露する手法が得難い。しかしメロディーは哀訴型そのもので、思いは昂って音域をどんどん広げていく。
 それを「歌」にしおわすのが、おがさわらの役割である。決して有名ではないが、キャリアと力量はそれなりに持ち、民謡でも鍛える地声の強さが生きる。最高音部を地声で押すのか、裏声で抜くのか、その違いで歌は、圧力を増したり透明感を漂わせたりする。アンコールを含めた12曲は全曲田村の作詞作曲による。彼はおがさわらのための歌づくりに注力し、おがさわらは彼の作品だけを歌う仕事に特化する。作者と表現者の緊密な息づかいがあって、おがさわらのライブは、田村のライブでもあった。ライブだから「パズル」「願いの森」「心に咲く名もない花」など、ノリノリのメドレーもある。二人の世界に親しんで来た気配の客が、いい雰囲気を作る。年齢の差も感じずに、僕は生ビールでほろ酔い、その空気にとけ込んだ。
 「新曲もよかったよな」
 「うん、アルバムが6月に出るってか…」
 ファンらしい青年二人連れの会話を小耳にはさみながら、終演後僕は表参道に出る。まん延防止等重点措置とやらで、この時間、行きつけの店ももう閉めるころだ。
 《ま、いいか…》
 僕は割と素直に帰路についた。




 
 《そうか、彼も今年1月で古稀を迎えたか。それにしてはジャケットの横顔写真、けっこう若く見えるじゃないか…》
 届いた花岡優平のシングル「恋ごころ」を眺めて、少し穏やかな気分になる。1月中ごろからずっと、東京や神奈川は好天続き。葉山のわがマンションの正面には、見本みたいな雪の富士山が鎮座していて、気温はとても低い。花岡はいつのころからか、故郷の大分・別府に戻って暮らしているらしい。
 「恋ごころ」と言っても昔々、越路吹雪、岸洋子、菅原洋一が競作した、あのシャンソンではない。あの時は岸が一人勝ちをし、僕は一敗地にまみれた菅原が、その無念をバネに「知りたくないの」で蘇生するのにかかわったものだ。
 花岡の「恋ごころ」は本人の作詞作曲。これも昔々彼が実弟の花岡茂らと組んだ〝音つばめ〟で歌っていたころの作品である。その後彼のソロアルバムに収められていたが、なぜか最近ユーチューブの動画再生で大モテ、それを機に吹き込み直しをして新装再発売となった。本人は
 「まるで奇跡が起こったみたい」
 と、驚いているそうな。
 僕が花岡と初めて会ったのは、作曲家協会で三木たかしが主導、僕が選考の座長の「ソングコンテスト」をやっていたころだから、これもずいぶん昔。彼の名前で思い出したのだろうが、
 「もしかしてお前さん〝音つばめ〟か?」
 と聞いたら、嬉しそうに肯いたものだ。そのころ「ガッツ」と「ヤングフォーク」の雑誌2冊が覇を競い、僕はフォークの連中の仕事ぶりについて、双方に書きまくっていた。アルバムを聞いての原稿で、会わないままの相手も大勢居り、音つばめもその一例だった。
 改めて新しい「恋ごころ」を聞く。思い届かぬ恋ごころを、一輪の可憐な花に託して歌う青春抒情ソング。かの人の心惑わす花になりたい、心安らぐ花になりたい、心惑わす花になりたい…と念じる優しげな詞に、フォークタッチのメロディーが甘い。後年、秋元順子の歌でヒットした「愛のままで…」に通じる、ロマンチックな歌謡曲性もあり、花岡の歌唱も熟して渋い。こんな時代だからこそこんなふうに、素直で心に染みる作品が、作者も知らぬ間に人々の心に浸透するのか。
 そのころソングコンテストでは、田尾将実、藤竜之介、山田ゆうすけらの作曲勢に、作詞家の峰崎林二郎らがグランプリを受賞、彼らと「グウ(愚)の会」を作って盛り上がった。協会のイベントで認められても、変化は曲の売り込みに行くとお茶が出るようになっただけだという。そんな狭き門に向き合う彼らの背中を押したい気持ちが強かった。
 あまり人と群れたがらない花岡を「孤立無縁」と書いたら、
 「そんなことはない!」
 と口をとがらせた彼の、生涯の相棒は弟の茂だった。それが大いに売れた秋元の所属事務所社長として奮闘する中で急死する。花岡の傷心は並みではなく、長い間交友も途絶えた。それがぶらりと僕が出演していた明治座に現れたのは、3年ほど前。
 「この際、世話になった人たちの顔を見ておこうと思ってさ」
 と、冗談とも思えぬ一言を真顔で言ったものだ。
 親交の間、花岡は福生や茨城に住み、鎌倉に居るかと思えば月島のタワーマンションで暮らした。演歌歌手を育てることに熱中、それが昂じて再婚するが、さしたる年月を経ずに離婚する。この件にも僕はかかわっていて、相手の歌手は僕が疎開した茨城の中学時代の球友の娘。父親がサードで僕はセカンドだった。彼女は昨今ステージトラックを武器に走り回っている川神あいだ。
 花岡は今月発売の北原ミレイにも作詞、作曲した「卒業」を書いている。田久保真見の詞がすっきりなかなかな「薔薇の雨」と両A面扱いだそうで、こちらは
 〽私は大丈夫よ、身軽に生活(くらし)ていく…
 と語る女主人公が
 〽あなたは大丈夫よ、自分の思うように…
 と相手をおもんぱかり、
 〽何にも気にしないで、卒業、二人の愛は…
 と、どうやらおとなのお別れソングだ。
 それやこれやで音信が絶えたりつながったりの花岡は「恋ごころ」のカップリングの「ヨコハマ」には、こんなフレーズをまぎれ込ませている。
 〽きっと人生は、愛する人を求めて漂流(さすら)う旅なのね…。
 花岡の近作からのぞいたときめく恋から、結婚、おとなの別れ…。どうやら〝愛の詩人〟の彼は、歌づくりにも似た遍歴を経て今、故郷別府で、彼なりの平穏な日々を獲得したのだろうか?





殻を打ち破れ239回

 美空ひばりが遺した歌が3曲も出て来た。『みだれ髪』『ひばりの佐渡情話』と『哀愁波止場』で、いずれも相当にむずかしい歌だ。

 ≪大丈夫か? 歌い切れるか、ひばり33回忌のあとだよ…≫

 審査員席で、僕は他人事ではない心配をした。ひばりとは晩年の15年間を、唯一の密着取材者として親しいつき合いをさせてもらった。3曲とも作曲は船村徹で、この人にも長く身辺に居て、自称弟子を許されていた間柄。『みだれ髪』はひばりが奇跡的に復活したレコーディングに立ち合っている。

 11月14日、山形の天童で開かれた「天童はな駒歌謡祭2021」での話。グランプリを取ったのは大野美江子さんで『みだれ髪』の歌唱がしみじみと情が濃いめ、他の出場者を静かに圧倒した。その歌唱からは美空ひばりという大歌手への、敬意と愛情の深さが聞こえた。歌詞をかみくだき、メロディーを自分のものにした努力、理解の向こう側に“ひばり愛”が息づいていたのだ。

 残る斎藤まさ江さんと鈴木華さんも、楽曲を掌の中の珠のように大事に歌った。難曲をちゃんと自分のものにして、参加48人のうちベスト15に入っている。みんなが長いひばりファン歴を持つ人だと判る。おそらく3人とも、歌った作品にひばりと自分の青春や生き方を重ね合わせている。そのうえで、

 「ひばりさんの作品を歌って、見苦しい真似は出来ない…」

 と、かなりの緊張の中で自分を励ましたに違いない――。

 ≪それにしてもこの時期、よく踏み切ったものだ≫

 と、感じ入ったもう一つは、この催しの実行委員会の決断である。開催した11月は確かにコロナ禍は下火になっていた。しかし、やると決めるのはその数ヵ月前のことで、肝心の出場者の募集をはじめ、さまざまな準備がある。その時期はコロナ禍がまっ盛りだったはずだ。それを、

 「歌は生活の伴侶であり、文化だ。歌の流れを途絶えさせてはいけない!」

 と、大号令をかけたのは実行委員長の矢吹海慶師だったと言う。日蓮宗妙法寺住職のこの人は、長く市の教育や文化、伝統の維持に力を尽くした有力者で、大のカラオケ好き。僕は19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」を通じて知遇を得、親交ははな駒歌謡祭に持ち越される光栄に浴している。ぶっちゃけた話、みんなの歌を聞くよりも、この年上の粋人に会いに行くのが、年に一度の楽しみなのだ。

 催しは大胆な決断と細心の注意で行なわれた。出場者も観客もコロナ対策は徹底しており、出場者は歌う都度消毒したマイクを、ビニールの手袋をして受け渡しした。もともと感染者が少ない山形へ、大騒ぎの神奈川から東京を経由しての参加である。こちらがウィルスを持ち込んだら大変…と、内心ひどく落ち着かない気分だった。

 ところで歌についてだが「聞かせる」よりは「伝える」気持ちが大事だと思っている。ことに上級者に多い「聞かせる」タイプは、声と節に自信を持つせいで、野心が強めに出てしまう。声も節も実は作品を表現するための道具に過ぎないことに、気づく人は少ないのだ。一方「伝える」タイプは、作品に託された思いを理解、それに自分の思いを重ねて、聞く側に心をこめて手渡そうとする。選曲から歌唱までの道のりで、どのくらい作品を突き詰め、自分自身を突き詰めたかで、その人の人間味がにじむ「いい歌」が生まれるのだ。

 冒頭に書いたひばりソングの3人は、信仰に近い“ひばり愛”が、お人柄の歌の下地になっていた。このくらい歌い手そのものに没頭することも「いい歌」づくりの手がかりになるのかも知れない。




 新年、群馬県の高崎から小さな箱が届いた。
 《年賀状の変型かな? 近ごろたまに、アイディアものが来ることがある…》
 差出人は吉岡あまな。そう言えばこの人は社会人になって5年め、高崎に赴任して2年になる。
 少し心が躍って包装をほどく。黒い小箱に「小豆島産 手摘みオリーブオイル EXTRA VIRGIN」の銀文字。120mlの小びんが収められていた。
 《ほほう、これはこれは…》
 と同封された手紙を読む。年頭のあいさつの後に、
 「さて、小豆島の〝波止場しぐれ〟の歌碑のお隣に植樹させていただいたオリーブの木になった実で、今年はオイルを作っていただきました」
 と、見慣れた几帳面な文字。手紙の主は、亡くなった作詞家吉岡治の孫娘である。彼女が植えた木に、オイルが作れるくらい沢山の実がなったのかと驚きながら、大切に世話をしてくれている人がいることに、心からの感謝の思いも綴られている。
 吉岡が作詞、岡千秋が作曲、石川さゆりが歌った「波止場しぐれ」が世に出たのは1985年である。島の青年会議所の代表が上京、吉岡にご当地ソングを作って欲しいと直訴した。瀬戸大橋が出来ることが話題になっているのだが、小豆島はエリア外でその恩恵のカヤの外。危機感から島の若者たちが、流行歌で「島おこし」を計画したのがヒット曲の背景だった。
 安直な思いつきではあるが、吉岡は彼らの素朴な人柄、熱い郷土愛、一途な情熱、無類の人なつこさに感じ入った。うまい具合に作品はヒット、島人と詩人の交友は熱く深くなり、2年後には歌碑が土庄港に建つ。映画の「二十四の瞳」のモニュメントと並んで、島の観光資源の一つになった。それからまた2年後の1994年から、吉岡は島で新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を興す。優勝者には奨学金名目の賞金と、吉岡のオリジナル作品を得るチャンスが贈られる。最初から5年限定の「演歌おこし」だったが、育った歌手たちの代表格は岩本公水だ。
 《植樹かあ、さてな…》
 僕は往時を振り返る。歌碑が出来た時は島へ行っていないが、「演歌ルネッサンス」は5年間皆勤。弦哲也、四方章人、もず唱平ら参加の作家勢や各メーカーのディレクターたちと大いに盛り上がった。総集編みたいな番外イベントにも出かけたし、2012年の吉岡の顕彰碑の除幕式にも参加した。何しろデザインした吉岡の長男天平氏の注文で書いた「詩人と島人の絆」の顛末が長文で、それがそのまま石に刻まれたから、光栄と恐縮がダブルになっている。
 記念植樹はその都度やっている。今回オイルになったのは、そのうちどの回のものか? あまなに電話してみたら、
 「私が高校生だったから、歌碑が出来た時だと思う」
 と答えが出た。彼女はその後学習院大学に進み、卒業後は教育システムを開発、教材の普及も手がける会社で働いている。大学に入学する前の休みだった2014年の2月、明治座の川中美幸・松平健公演に出ていた僕らの楽屋で、志願して付き人をやってくれた仲。舞台裏でちょいとした人気者になったものだ。
 吉岡が亡くなったのは2010年5月17日、76歳の初夏で、長くパーキンソン病と闘ったあとの心筋梗塞が原因だった。あれからもう12年が過ぎ、今年は13回忌にあたる。長男天平氏は映像制作の会社を経営、スポーツ関係のカメラマンとして修業をし、最近深川に自前のギャラリー「M16Gallery 」を開いた。彼の長男冬馬君は、吉岡が見ずじまいになった二人めの孫だが、今年7才になるか。
 問題のオリーブオイルを送ってくれたのは、弥助さんだという。確か当時の青年会議所の有力なメンバーの一人で寿司屋の大将。
 《そうか、吉岡のひとと仕事は今も、島でこういう形で生きているんだ…》
 と懐かしい顔を思い浮かべる。小豆島とは縁がつながり、全国規模のカラオケ大会「吉岡治音楽祭」や僕も出演する「路地裏ナキムシ楽団」公演などが計画されたが、コロナ禍で延び延びになっている。何とか今年こそ…と関係者と話しているが、さて、オミクロン株なるウイルスの奴、この猖獗(腹が立つのでワザとむずかしい字を使う)はどこまではびこるのかどこで止まるのか。
 樹木の果実が育つ小豆島の自然のすこやかさと、過ぎる年月のスピードの早さに驚きながら、非売品と言うオリーブオイルを心して賞味する新年、人の縁と想い出が沢山あるのは、何とも嬉しいことではある。





殻を打ち破れ238回

 田川寿美が『ひばりの佐渡情話』をギターの弾き語りで歌う。それに“つれ弾き”の形でつき合ったゲストのギタリスト斉藤功が、

「古い知り合いだもんね。セーラー服でスタジオ入りしたころからだから…」

と笑顔で感慨を添えた。

「そうよね、そうだ、うん、ふっふっふっ…」

田川本人の相づちは、まるで仕事場の隅の世間話みたいに、早口で飾り気がない。彼女のデビュー30周年記念コンサートの舞台上なのだが――。

 11月1日、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで、僕が案内してもらった席は1階14列21。中央右側やや後方で、客席が広く見降ろせる。開演17時に少々早めについて、所在なくあたりを見回して気がついた。この期におよんで何と、読書する紳士が2人、カラーのイラスト集をめくる御仁が1人。演歌歌手の客席では、まず見かけないケースだ。改めて視線をもうひとめぐり。帽子が目立つのは熟年男性の数の多さだ。

 ≪そうか、田川はこういうファン層の支持を受けているのだ!≫

 と、僕は合点した。

 『女…ひとり旅』でデビューした初期は『哀愁港』『北海岸』『女の舟唄』などの曲名が目立った。いわば“演歌の本道狙い”。しかし、コンサートには『一期一会』『心模様』『倖せさがし』『楓』『雨あがり』などが並ぶ。15才で和歌山から上京、16才でデビューした彼女の“その後の心模様”が見てとれる曲目。演歌の定番から、彼女なりの色あいの作品を求めた結果だろう。

 そんな彼女の歌手生活の途中、所属する長良プロダクションの先代社長長良じゅん氏に聞かれたことがある。

 「芸名が地味だからパッとしないのかな? 改名も考えてるんだ。相撲とりだって四股名を変えて出世するケースもあるし…」

 当時から田川は、そこそこ売れていたのに、長良社長の夢はもっと大きかったのだろう。作品は良い、コロムビアも力を入れている。事務所だって大手で影響力に相応の自負もある…。

 「成長するごとに名前が変わる魚はいるけど、どんなもんですかねぇ…」

 と、僕は冗談で長良社長の迷いをはぐらかした。

 その田川が突然変身した。作家五木寛之の作詞と肝入りで『女人高野』である。まるでロックの曲想とけばけば衣装で、エレキギターを小脇に抱えたイメチェン。

 「いいねぇ、面白いじゃないか!」

 と僕は悪ノリしたが

 「長良社長が、本人をあんまりそそのかして欲しくないよな…って言ってましたよ」

 と、コロムビアあたりから小声の電話が届いたものだ。

 その『女人高野』もコンサートの中盤に、黒の打掛け姿で歌ったが、今になってみれば特段刺激的にも聞こえない。時代や流行歌の流れの変化があろうし、彼女自身も作品をすっかり体になじませていた気配…。

 「いろんな人との出会いがあって、幸せでしたよ。ありがとうとごめんなさいを繰り返して来たけど、ハッハッハッ…」

 「大先輩たちが活躍していて、後輩たちも元気、私は中間管理職みたいな立場、ふっふっふ…」

 田川は理屈をこねて関係者を悩ませた20代と、それやこれやで手にした現状をそう話した。瓜ざね顔に秀でたおでこを丸出し、歌は声も節も誇らずに、トークは社交辞令ぬきの本音っぽさ。田川寿美は今そんなふうに“おとなの歌手”としての居場所を獲得し、ファンは彼女のたたずまいに、聡明な生き方を見ているのだろう。コンサートは長良プロ二代目の神林義弘社長が陣頭指揮した。残念なことに先代社長は、ハワイで客死したが田川のこのごろにすっかり安堵していることだろう。





「これは俺たちコンビだからこそ生まれた曲だと思うけど…」
 作詞した喜多條忠が言いつのる。秋元順子のシングル用レコーディングが済んだスタジオ。
 「そうだよ。ここまでのもんはそうちょくちょく出来るもんじゃねえよ」
 作曲した杉本眞人も口をとがらせている。楽曲は「なぎさ橋から」で、今年3月25日の話。
 「判っちゃいるけど、これはカップリング。メインは〝いちばん素敵な港町〟でいく。〝なぎさ橋〟はいずれまた、出番が来るよ」
 プロデューサーの僕はあっさり彼等の主張を退けた。
 コロナ禍は勢いを増すばかりの春先だった。東京五輪は「延期か中止」が声高で、秋には選挙がある。菅首相はコロナ対策が後手々々で批判の的だ。こんな厳しい時期に惚れたはれたソングは暑くるしく説得力に欠ける。むしろ
 〽嘘も過ちもみんな人生(中略)生きてゆこうね許し許され…
 と〝港町〟の方は、差別や分断を皆で改め、寛容のコロナ後へ、静かなメッセージを秘めていた。
 結局東京五輪は強行、アスリートたちの活躍でメダル・ラッシュになったが、賛否両論は尾をひき、僕らは「それはそれ、これはこれ」の吹っ切れなさを抱えたまま。衆議院選は菅内閣が最後までバタついたが、ワクチンがきいてかコロナ感染が下火になり、劣勢のはずの自民党が思いがけなく大勝ちした。
 5月26日にCDを発売した「いちばん素敵な港町」はセピア色の港の風景をバックに、おおらかで優しい喜多條の歌詞と、杉本らしい語り口のメロディーが世相になじみ、大方の支持を得た。喜多條は2年越しでがん闘病中だった。告知を受けた時からその報告を受けながら、僕は小康状態を見はからって歌づくりを進める。肺がんが脳に転移、一時視力を失う危機もあったが、喜多條の創作意欲は衰えることがなかった。「あと何編書けるか」などと思い詰めて居はせぬかと、僕はいつもの乱暴なダメ出しをしている夢を見る夜もあった。
 何回めかの退院後電話があったのは10月9日。
 「今回は少しきつかったけど、我が家は極楽だね。体調は一日々々良くなってる。うまい具合に峠は越した。もう大丈夫ですよ」
 勢い込んだ口調で、声に張りがあったものだ。
 《よし、ぼちぼちもう一勝負だな…》
 僕は「なぎさ橋から」を作り直し、再発売する段取りをキングの湊尚子ディレクター相手に詰めに入る。案の定、こちらを支持するファンの動きが、あちこちで起きている。
 〝なぎさ橋〟は実は全国各地にある。「伊東にもあったな」と言った喜多條は、20年ほど競艇評論に没頭して、歌謡界を離れ全国を旅している。その体験が作詞家へ復帰以後の仕事に生きてもいた。伊東は作詞家星野哲郎が生前通いつめた町で、僕はそのお供でよく出かけ、知り合いも多い。星野のお仲間は人後に落ちぬ歌好き揃い。
 《伊東か、一度聞いてもらいに行くか》
 〝新・なぎさ橋から〟は、年内に秋元で再ダビング、来年2月発売のレールに乗せ、喜多條の希望に沿う決定をした。それを伝えるために彼の携帯に電話を入れる。思いもかけず、出たのは輝美夫人だった。その瞬間、とっさに僕は喜多條の病状が重篤であることを察した。胸がつぶれる思いで〝なぎさ橋〟再制作を伝えてくれるよう、輝美夫人に頼むしかない―。
 11月22日、喜多條は旅立ってしまった。信じるまま、あるがままに生きた「無頼の純真」競艇場を軸にした「放浪の旅の孤独」「ギャンブラーの大胆と哀愁」「詩人の繊細」「仕事師の辣腕」「闊達な人づき合い」…数えたらきりがない美点の持ち主だった親友と働き盛りの歌書きを、僕は同時に失った。無念の重さは仲間と「なぎさ橋から」の新装再開店を、弔い合戦として戦い抜くしかないか!
 12月7日夕、TBSで開かれた第63回日本レコード大賞表彰式に出かけた。制定委員の一人である僕の役割は、賞のプレゼンターで「特別功労賞」の楯を手渡す係り。壇上で僕は、日本作詩家協会名誉会長の喜多條忠の分を息子由佑氏に、友人の作編曲家川口真の分も息子真太郎氏に託した。作曲家小林亜星の分は、彼が遺した会社の松井洋佑代表取締役が受け取る。それぞれ音楽界に貢献した大きな功績をたたえての表彰である。他の部門の贈賞は大きな拍手に包まれ喜びのコメントがついた。しかし喜多條も川口も、訃報に接して間もない僕は、拍手など出来ようはずもなかった。





 曲名かな? と思ったら、店名だった。「晴れたら空に豆まいて」と来た。ライブハウスだろうと思ったら表記はレストランとある。代官山の大通りに面した一角、地下へ続く階段に行列が出来ていたのは午後6時前。「有近真澄グラムロックを歌う~いまどきのファントム」というライブが、その日11月17日の僕のおめあてだ。
 様子が判らないので店へ入って聞くと、すでに全席売切れという。関係者に余分な気遣いをさせたくないと、アポなしで飛び込んだ配慮が裏目に出た。
 「えっ? ソールドアウト? そんなあんた…」
 戸惑った声が大き過ぎたか、関係者の一人が駆け寄って来た。有近夫人の由紀子さんで、当方の突然の出現にもあわてず騒がず「関係者席」のボードと席をてきぱきだから恐縮このうえない。ステージに登場した有近は眉と眼の周辺に隈を作ったメイクで、まがまがしさの気配を少々。ベース、ドラム、キイボード、ギターの4人の仲間と、いきなりテンション高めの歌。
 「変光星」「セックスの虜のバラード」「T.V.DOLL」「あなたのいない世界で」など、自作を中心にガンガン行く。小ぶりな会場を圧する音楽は「聴く」のではなく「体感する」しかない。見回せば女性ファンがリズムに乗って、体を揺すり、うねらせ、手が舞い足が床を踏む。
 グラムロックは1970年代、イギリスで生まれてデヴィッド・ボウイがその代表だと言う。
 《70年代なあ、日本じゃその時期が〝歌謡曲の黄金時代〟だった…》
 作詞家の阿久悠が「ざんげの値打ちもない」の暗さと「また逢う日まで」の明るさの両極を書いて、僕を驚かせた。鶴田浩二が
 〽古い奴だとお思いでしょうが…
 と、旧世代の苦渋をセリフに乗せ、新世代の加藤登紀子が「知床旅情」吉田拓郎が「旅の宿」を歌い、五木ひろしが「よこはま・たそがれ」で再浮上、若いファンはグループサウンズ・ブームやフォーク・ブームの余波を追い、そんな勢いが合流してニューミュージックが生まれる。小柳ルミ子ら清純派と山口百恵ら中3トリオが登場、流行歌の各ジャンルが花盛りで、老若男女がその多様性を楽しんだ―。
 有近のライブのゲストはROLLY。異形の彼は、エレキギターをかき鳴らして「アナコンダ・ラヴ」や「気になるジーザス」をぶち上げる。ライブは3つのパートに分かれていて、有近とROLLYがデュエットしたのは2つめのパート。それが突然「世界は二人のために」だから、僕は少々驚く。山上路夫が作詞、いずみたくが作曲、相良直美が歌ったこのヒット曲は、制作したディレクターまで友人で、それなりに思い出深い。
 この曲で気づくのだが、有近たちの歌唱は歌言葉をぶち切りに分解、それぞれの単語を爆発させ、客席に叩きつけながら、歌として再構築する。歌言葉の含蓄や余韻や情感をそぎ落として、メロディーをロックのエネルギーに乗せるのだが、時に繊細な手触りも感じさせて、荒々しさの中に一定の品性も感じさせるあたりが、魅惑的だ。
 「ヒッチハイカー」「BORON」「死ぬわけじゃないんだし」などの有近ソングがあって、パート3にまたROLLYの登場。2人が愉快そうに声を合わせるのが「サ・セ・パリ」や「セ・シ・ボン」で、アンコールが有近の「愛の讃歌」で収まる。そう言えば僕は石井好子が主催した「パリ祭」を1回目から見ており、このところレギュラーのROLLYはすっかりおなじみ。有近がボーカリストであることに気づいたのは、やはり石井が主催したコンサートが最初だった。
 《えっ? 有近が歌うの? あの作詞家星野哲郎の長男が? 本当?》
 そう仰天したのはもう何10年前になるか!
 有近のグラムロックは、現在の彼の音楽的主張に加えて、歌が元気だった70年代にさかのぼり、あのころに触れ合った作品を再発掘する試みにも思えた。いい作品はいつの時代もいい…という姿勢で、いいもの選び出すのは独特のセンスだろう。
 「この人の音楽には、言葉が生きていて、そこがカッコいいと思うの」
 隣席の女性の感想にうなづき、僕は居合わせた作詞家の真名杏樹と少し話をした。彼女は作曲家船村徹の長女で、有近と一緒に歌づくりもする。僕は双方と親子二代のつき合いということになる。




殻を打ち破れ237回


  山口県周防大島の星野哲郎記念館が、面白い企画をやる。館内の写真パネルを大幅に入れ替えるのだが、その1枚ずつに追悼の俳句を一句ずつ添えることにした。詠み手は星野の後輩の作家勢で、長く「虎ノ門句会」で腕を競う面々。掲げられる写真は24枚で、ありし日の星野の姿が収められていて、温和な詩人の素顔がほほえましい。

「伸びてゆけ開導五人のつくしんぼ 高坂のぼる」

 の句は、星野の母校・開導小学校の閉校式の写真とセット。紅白の幔幕を背に、星野と5人の生徒がちょこんと並んでいる。過疎の島の学校がなくなる時の子供の数はこんなものなのか。ふるさとの冠婚葬祭やさまざまな行事に、率先して参加した詩人の「島想い」がしのばれて胸キュンになる。

 「缶拾う言葉も拾う春の朝 鈴木紀代」には

「あぁ、あのころの…」と合点される向きもあろう。昭和54年、心筋梗塞で倒れたあとに日課とした小金井公園での「夜明けの缶拾い」の1ショットと並ぶ。そんな或る日、出会った初老のホームレスに「あんたも仕事がないのか」と言われ、星野は「作詞の依頼が途絶えたら、同業サン(?)になるか!」と撫然としたらしい。

 「日傘受け横綱作家揃い踏み 川英雄」

 の写真では、星野と作曲家船村徹が、宮本隆治アナのインタビューを受けている。後ろにはNHKの下平源太郎プロデューサーが写り込んでいて、島でやった「全日本えん歌蚤の市」の一景と判る。当時日本クラウンの幹部だった広瀬哲哉と僕が、下ごしらえで働いた連続イベントの平成15年夏の分。主宰者星野に「ゲストはあの人でしょう?」と謎をかけたら「僕の口からはそんなこと、絶対に頼めないよ」と尻ごみするので、僕が船村に出演を依頼した。船村は星野が作詞生活に入るきっかけを作った人で、常々「神だ!」と語った相手。「恩人出馬」にその喜びようったらなかった。

 「丹精を込め大輪のダリアかな 沖えいじ」

 は、都はるみ、水前寺清子との3ショット用。

 「合縁に寄せる夏波歌きずな 林利紀」

 は島津亜矢との2ショット用。

 「歌書きのうどん打つ夢麦は穂に 二瓶みち子」

 は星野が講演で歌づくりを語るアップに添えられて、なかなかに意味深である。

 全24枚のパネルのうち、島倉千代子、畠山みどり、北島三郎、鳥羽一郎らと写っている5枚については俳句を来館者から公募とファン参加分も残されて「虎ノ門句会」分は19枚19句となった。この句会は34年前にJASRAC(日本音楽著作権協会)にかかわる人々が作った歴史を持ち、以前協会が虎ノ門にあったことからこの名称が残る。作曲家飯田三郎、渡久地政信や作詞家横井弘ら大勢が加わり「鬼骨」の号で星野も参加していた。現在はJASRAC会長も務める作詞家いではくが会長。世話人の二瓶さんの話では、コロナ禍で例会はしばらくお休み。投句で毎月作品を集め、会報が最近400号を迎えたとか。

 ≪もろもろの情熱、大したもんだ…≫

 と僕は感じ入る。日光の船村徹記念館づくりも手伝って思うのだが、主導する自治体にとって箱モノの記念館は「開館が即ゴール」になりがち。ところがそのソフト面も担当、集客対策を練るチームにとっては「開館こそスタート!」で以後絶え間ない企画立案が求められる。星野記念館は平成9年開館だから今年で14年。その間の知恵者は星野の長男有近真澄君と長女桜子さんのダンナ木下尊行君だろうか。

 この企画展は星野が亡くなった11月を機に今年11月11日から来年の5月まで開催される。星野との親交47年、記念館づくりにもかかわった僕は、久しぶりにのぞいてみようかと思っている。




 横並びにギターを抱えた作曲家の弦哲也、徳久広司、杉本眞人が居る。その向こうのピアノ前には岡千秋が居て、それぞれが弾き語りをやる。場所はこじゃれたナイトクラブの一隅で、彼らは1曲ごとにキイを確認、短めのジョークも交わす。4人が合奏、各人が1曲ずつ歌う趣向で、曲目は徳久が「雨の夜あなたは帰る」杉本が「真夜中のギター」岡が「黒あげは」で弦が「夫婦善哉」…。
 めったに見られぬ情景を、女連れの僕は、グビリグビリとグラスを傾けながら堪能する。それぞれがお気に入りの楽曲を自在に歌うのが弾き語りの妙味。人柄や年の功までが歌声ににじむのだ。熱心な歌謡曲ファンなら気づかれようが、歌われた4曲はみな亡くなった作詞家吉岡治の作品。歌う4人の間にはアクリル板の衝立があって…と書けば、熱心なテレビ番組の視聴者なら、ああ、あれか…と気づかれよう。実はBSフジの人気特番「名歌復活」最新版の録画風景で、僕が飲んでいるのはウーロン茶。もっともナイショでスタッフが仕込んでくれたのか、アルコール分の匂いが心なしかかすかに…。
 この番組、一発勝負の企画が「好評につき続編を…」となってもう5年、今回が9本めとなった。ヒットメーカーの4人が、それぞれの自信作や埋もれた佳作を歌い、敬愛する先輩作家たちが残した昭和のメロディーを歌い継ぐ。原則フルコーラスで、時に楽曲交換のお遊びもある。ちなみに僕の役柄は「聞き手」で、女連れと書いた相棒の松本明子は「進行」と、台本にある。
 「あの妙に威張っているじいさんは何者なんだ?」
 と、オンエア当初、杉本は知人に聞かれたそうな。それはそうだろう、番組中の僕は杉本を呼び捨て、弦を弦ちゃん、徳久を徳さん、岡を岡チンである。スポーツニッポン新聞の記者時代から〝はやり歌評判屋〟を自称する今日までの、彼らとの親交がそのままで、そのうえしばしば昭和歌謡の知ったかぶりじいさんの言動をはさみ込むせい。
 「で、俺を何と説明したのよ」
 と杉本に聞いたら、
 「しょうがねえんだよ、行きがかりでな…と言うしかねえだろ」
 と笑ったものだ。
 吉岡作品のコーナーでは当然みたいにあけすけな話が出て来た。人呼んで「ごちそうおじさん」意中の女性に出会う都度、ごちそう攻めにするさまを、彼らは見ていた。
 「それがね、なかなかフィニッシュまで行けないのよ」
 「結局タネを蒔くばかりだけど〝その後〟を妄想して歌を書いてたんだな」
 「自称〝孟宗竹〟の昇華が見事でさ、書き上げた世界は〝後ろ向きの美学〟」―。
 売り出し前の若いころ、彼らは盛り場に蟠踞、歌を語り時代を語ってケンケンガクガク、さながら新宿梁山泊の連夜を過ごした。その中で演歌を書く意味や意義を自問していた吉岡は、時に逆上したような蛮声で歌った。
 〽生まれ在所は長州江崎、腕は二流の艶歌書き、なにが不足で盛り場ぐらし、家にゃ女房子供が待つものを…
 田端義夫の「大利根月夜」の替え歌である。
 今回は番組で、岡と杉本がヒット曲を交換した。杉本が歌う「紅の舟唄」はブルース仕立てで、あの乱暴な口調がゆったりたっぷりめ。最上川のどこかを、風に吹かれて流れる風情があった。岡が歌った「吾亦紅」は主人公の雰囲気がなぜか漁村青年ふう。元歌の杉本の都会の青年ふうたたずまいと対比して、野趣に富んだのが愉快だった。
 弦は石川さゆりでヒットした「飢餓海峡」の情念を女唄仕立てで。歌詞の、
 〽連れてって―…
 の部分の歌声が、かぼそくしなり、糸を引いてふるえるのを、杉本が、
 「あそこがきっちり女になってたねえ」
 と論評する。
 徳久は22年ぶりに陽の目を見た高倉健の「対馬酒歌」を初披露。荒木とよひさの詞を健さん気分で読んだら、ひとりでにメロディーが生まれた実情を語って、歌唱も健さんになり切りの語り口だ。
 岡の「黒あげは」は、作詞家星野哲郎のお供で20数年、一緒に出かけた北海道の漁師町・鹿部で、毎年夏に聞いてすっかりおなじみ。何度聞いてもグッと来るのは、吉岡の詞の哀切が岡のしわがれ声に生きるせいか。
 杉本はこの秋、人知れず逝った作詞者松原史明をしのんで、万感の「紅い花」を歌った。それやこれやの今回の「名歌復活」は、何と放送予定が来年3月5日である。作曲家4人のスケジュール合わせのむずかしさと、年度内制作の台所裏があってのことだそうな。





 友人の歌手新田晃也が新曲「雨の宿」を出した。歌手活動55周年と喜寿を記念した作品だ。長く巷で歌って来た男である。業界の思惑を離れた演歌系のシンガー・ソングライター。「夢さすらい」「吹き溜まり」「前略ふるさと様」「冬・そして春へ」「母を想えば」などの自作曲を並べれば、独立独歩で生きた年月の、その折り折りの心模様がしのばれよう。
 長いつき合いである。彼を知ったのは「阿久悠の我が心の港町」というアルバムに接して。作詞家の阿久が全国の港町を旅取材。オリジナル曲を書き、合い間に本人が短いエッセーふうコメントを語った異色作で、全曲を無名の新田が歌っていた。アルバム発売が1976年だから、新田とは以後45年前後の親交が続いている。
 胸を衝かれた新田作品がある。「友情」の歌い出しの、
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする…
 という2行。15才で故郷を離れ、無名歌手のままの里帰り。それでも友だちは温かい握手で迎えてくれた。本人の実感が歌になったのだろうが、そんな自分を彼は「三流歌手」と断じてはばからない。僕はもともと、テレビで全国に名や顔と声も売り、一流と目される人たちだけが歌手とは思っていない。亡くなった浜松の佐伯一郎を筆頭に、地域で親しいファン相手に膝づめで歌う友人たちもまた、立派な歌手だ。しかしそんな地方区歌手の中でも「三流」に胸を張る歌手は新田だけである。
 新田は1959年、福島・伊達から集団就職列車に乗った。中卒の15才で阿佐ヶ谷のパン屋が就職先。そこを2年で離れ、ジャズ喫茶のボーイ、純喫茶のバーテンを経て、バーブ佐竹の付き人兼運転手になるのが上京5年後。修行2年で新宿のサパークラブで弾き語りデビュー。阿久のアルバムに起用されたころはもう、銀座で名うての弾き語りとして知られていた。その出会いが歌謡界入りの好機だったが、「今さら新人歌手なんて…」と固辞している。人気弾き語りの収入は当時相当な額だったし、それ以外に業界周辺で、かなり痛い思いをしたらしいのだが、今日まで多くを語らないままだ。
 集団就職列車に乗った理由を、新田は屈託のない口調で、
 「口べらしですよ」
 と言い切った。僕は疎開した先の茨城で、そういうケースをいくつも見聞していたので、これにも胸を衝かれた。農村の貧しい暮らしから、ひとり家族が減れば、その分だけ家計が助かる。新田が福島を離れた1959年は昭和34年である。敗戦から14年、復興成る! の取り沙汰の陰に、そんな苦難がまだ続いていた。巷の歌い手は昭和のギター流しから弾き語りに推移して、平成、令和へ、カラオケが我が物顔になる。そんな流れの三つの時代を生き、新田は巷で歌いつのって来たことになる。
 10月11日、練馬文化センターつつじホールで開かれた彼の記念コンサートに出かけた。彼が歌い手を志した時代は大音声の〝張り歌〟が主流だった。新田もファンが必ずせがむ「イヨマンテの夜」や長尺の「俵屋玄蕃」を得意として来たが、喜寿の77才である。〝張り歌〟に〝語り歌〟の要素が加わり、中、低音の響きが心地よく、歌唱に年相応の滋味が生まれていた。隣りの席には作詞家の石原信一。10年前に僕が引き合わせたが、その間に2人は「振り向けばお前」「寒がり」「もの忘れ」「昭和生まれの俺らしく」など、熟年世代の歌を一緒に作り、石原は今や作詩家協会の会長だ。
 新田がステージで見せたのは、「三流の意地」「三流を超える芸」「三流の矜持」だったろう。一流作家を動員、有力プロダクションの後押しで一流を目指し、それに成功するのはひと握りの才能である。しかしそれも10年後には二流、もう少し時が過ぎれば懐メロ歌手に落ち着く例はかなり多い。それに比べれば、新田が三流に徹して歩いた我が道は尻上がり、ついに「三流のてっぺん」に到達していてなお、コンサートタイトルを「喜寿に羽ばたけ!」と、当然みたいにまだ前を向いている。
 以前、大作曲家船村徹の「喜寿」を、異端から出発、王道を極めた実績と人望から「毅寿」と置き換えて喜ばれたことがある。それと新田ではスケールも人物もまるで違うが、生きざまの潔さに感じ入って、ひそかにこの男にも「毅寿」を進呈してもいいかと思う。
 ゲスト歌手は新田の弟子の春奈かおりだった。師匠作品の「会津望郷歌」と「里ごころ」を歌ったが、大衆演劇出身の芸で、セリフ入りの「一本刀土俵入り」がなかなかだった。




殻を打ち破れ236回

 
 井上由美子はコロナ対応のワクチン「モデルナ」の2回目の接種を受けた。副反応が強いと聞いたので、OS-1や頭痛薬を用意したのが8月10日。12日にチクッとやったが、翌日ドカンと来た。体中が痛い、頭が割れそう、体温はみるみるうちに39.2度。しかし一夜あけた14日、眼をさましたら体温は36.7度に下がり、体も頭も前日とは大違いで軽い。業界屈指の小柄のせいか、頭痛薬は小児用

バファリンで間に合った。あとはもう「沢山の抗体が出来ること」を祈るばかり――。

 井上はそんな顚末をファンクラブ会報で報告している。それも接種に向かう車中の緊張の面持ちから、薬の錠剤、飲料水の容器、ごていねいに発熱した時や平熱に戻った時の体温計などの写真つき。高熱は赤く、平熱は緑と、体温計の色までクッキリだ。

 この人の会報は毎回、なかなかに面白い。仕事場のスケッチや共演歌手との記念写真を手始めに、たべた果物、スカイツリーにびっくりした1ショット、壊れて片方だけ耳にかけていた眼鏡、ここしばらく使っていなかったタブレットの解約金が5万円…と、身辺雑事のあれこれが写真つき。「うちのオバチャン」なる人物が、らくらくフォンからふつうのスマホに取り替えて難渋しているレポートもある。

 好評発売中!の『オロロン海道』をPRして「歌えるってしあわせ」なんて、表向き商売用アピールは、ちゃんと表紙の1面にある。脱線まがいがほほえましいエピソードは2、3面の見開きで、これが彼女“らしさ”満載だ。魅力は本音っぽさ。

かなり前に見たコンサートで、

「お金がほしい、お金が要るんです、でないと事務所がつぶれそう!」

 と、所属プロダクションの窮状まで、ネタにしたのに大笑いしたことがある。そのコンサートの幕開きが、近所の商店街から自転車で舞台へ飛び出す演出で、これも井上のアイデア。開演前にはファンのおじさんおばさんが、同じ舞台上でカラオケを楽しんでいた。何だかあの時出会ったおじさんやおばさんと、同じ気分で彼女の会報を眺めている。毎月送られて来るところを見ると、事務所も何とか持ち応えているのだろう。

 作詞家の荒木とよひさが「俺より上」と、文章のユニークさをほめていたのが、離婚した神野美伽。彼女のファンクラブ会報も毎月届くが

 ≪そう言われれば、確かにそうだ…≫

 と、別れたダンナの発言に僕は合点する。短めのエッセイが毎回、社会の動きに反応したり、人情の機微に触れたり、身辺の事柄への感慨を語ったりして、なかなかに「深い」筆致なのだ。もうベテランの域に達した神野の、芸事に対する熱いまなざしや、人としての熟し方が、平易な文章で率直に語られて、何とも得難いのだ。

 熱い!と言えば、山内惠介の会報も相当に熱い。といっても山内本人の発信ぶりではなく、彼の所属事務所の三井健生会長の熱弁。会報そのものを飾るのは、山内の舞台写真が表紙から7ページ分もカラフルなグラビアふう。彼の美男ぶりの強調に、胸を熱くしるファン用だ。その後ろの1ページ分が三井会長の出番となる。

 「演歌の王道」と名づけた連載で最新号が58回め。「コロナ禍で魅せた“名刀惠介”の斬れ味」のタイトルで、20周年記念曲第2弾『古傷』が上半期演歌歌謡曲部門で総合1位の報告から始めて、コロナ下でのそのプロモーションの実情、コンサートや大劇場公演との対応やその成果などをこまごまと語りながら、ついに山内の歌唱技術の「深究心と精神力」を力説する。

 何と字数にして6000字超、400字詰め原稿用紙15枚分の大作!?をぶち上げる情熱、精神力、持続力には、雑文屋稼業の僕も、ただただシャッポを脱ぐばかりだ。





 餌に鴎が食いついた。そのまま敵は海中へもぐり、漁師が竿を振っても離れない。仕方がないからつかまえて、船のストーブで焼いて食った。それはいかん、鴎は漁師の守り神である。若い漁師鈴木政市は同罪の仲間と2人、水夫長にボコボコにされた。作詞家里村龍一の昔話である。酔って興に乗ると話を面白くする癖があるが、この話は彼のいかついキャラとダミ声の釧路弁にやたら似合うから、僕は鵜呑みにした。
 作曲家船村徹に勘当された話は一部によく知られている。師の作品「宗谷岬」の歌詞につけた難癖だが、「流氷とけて春風吹いて」に「流氷はとけるのではなく、流れて来て流れ去るのだ」といい「はるか沖ゆく外国船の煙もうれし宗谷の岬」には「はるかな船が外国船となぜ判る? 今どき、煙を吐いて走る船など居るか!」とやった。
 「小賢しい! 出て行け!」
 船村の一喝で里村は大作曲家の内弟子の座を失う。深夜のこと、辻堂の船村家を出ても東海道線はもうないうえに雨。やむを得ず里村は駅前の電話ボックスで、立てかかった形で眠ったそうな。
 「他にもいろいろあったろ? それが積み重なって、お師匠さんが爆発したんだろ?」
 と僕がやはり内弟子だった鳥羽一郎を問い詰めても彼は、
 「そんなことはありません」
 と断言してはばからない。もっとも彼には里村に借りがある。船村宅には弟子入り志願があとを絶たず、その電話を断る係りが里村だった。ところがなぜか、鳥羽の問い合わせにだけは、船村の居場所を教えている。その足で九段のホテル地下の寿司屋へかけつけた鳥羽は、船村との縁を結ぶ幸運に恵まれている。
 作詞家里村龍一は無頼の詩人だった。歌謡界では「毀誉褒貶」のうち「毀」と「貶」ばかりが山盛りで、無骨と無遠慮、深酒で時に切れた。奇行、蛮行の噂が先行し、それが世論となる業界だから、つき合いの当初、僕は3人の有名作曲家とのトラブルの理由を問いただした。1人分ずつ聞いて行き、3人めの名を挙げたら、
 「頭領(これ小生の仇名)何でそこまで知ってんだ? そりゃあ俺の3大悪事だァ」
 と来たものだ。3件それぞれに彼なりの言い分はあるにはあったが、
 「世の中通らねぇよな。盗っ人の三分の理だ」
 と、僕は総括した。何人かの友人から、
 「何であいつとなんかつき合うんだよ」
 と忠告や苦情を言われていたから、僕も気合いが入っていた。
 「望郷酒場」(千昌夫)「望郷じょんから」(細川たかし)「流恋草」(香西かおり)など、いい歌を沢山残して里村は逝った。「望郷」と「酒」と「詫び心」の3点が多くの作品に共通して、作家本人と作品の主人公は、いつも志得ぬまま酒場の隅で酔いどれており、戸外の夜汽車や船で動くのは彼の想念ばかり。故郷はいつも帰れない場所で、親身内には詫び切れぬ深い事情を背負っている。
 北海道・釧路の出身である。この街は昔から炭坑の荒らくれと遠洋漁業の命知らずが火花を散らしていたそうな。一度、彼の凱旋イベントに同行したが、実際出迎え衆の中には剣呑な気配をにじませた男たちもいた。深夜、天井がガラス張りのホテルのラウンジで一緒に飲んだ。
 「霧だ! 頭領、これが釧路の霧だ!」
 天辺にまっ白な霧が一気に押し寄せた時、立ち上がり両手を広げて叫んだ里村の眼の光が忘れ難い。それが顔に似ぬ、
 〽風にちぎれてヨー、のれんの裾を、汽車がひと泣き、北へ行く(望郷酒場)
 なんてフレーズを書く。
 タイトルもうろ覚えだが、
 〽酒で心が旅する夜は、いつもはじめにお前を思う…
 なんて泣かせ方もする。
 〽いつになったらひとこと言える。かけた不幸の詫び言葉(望郷新相馬)
 「不良の純真」を終生抱いたまま、里村の汽車の終着駅はどこだったのか? 酔うた心に思い出したのは誰の顔なのか? 詫びなければいけなかった相手は一体誰で、それはなぜだったのか?
 里村と作曲家岡千秋と僕は、作詞家星野哲郎のお供で20年以上毎夏、北海道の鹿部へ通った。里村の訛りのきつさは、この漁師町のそれとほぼ同じで、彼は伸び伸びといつも、ここでもしたたかに酔った。親友の岡は里村の臨終に間に合ったと言う。二人めの師となった星野と、星野の盟友で鹿部の有力者道場登氏は彼岸で、揃って無頼の詩人里村龍一を出迎えるだろう。10月14日の今日、僕は築地本願寺へ彼の通夜に出かける。



 大阪の町・枚方を「ひらかた」と読むことは、作詞家もず唱平とのつき合いで知った。彼はこの町に住んで45年、このたび思い立ってこの土地に縁のある歌を作った。北河内、淀川流域のこの町で知られるのは、京街道の主役だった三十石船で、伏見から天満まで半日の航程。それを舞台にもずが書いたのは「三十石船哀歌」で、歌では〝船〟が抜けて「さんじっこく」となる。土地の人々が呼びならわした通り名なのか。
 売れ線ソングとして世に問うよりは、土地の風物、歴史の一端として遺したい歌なのだろう。「堀江の新地」「堀割」「八軒家」「造り酒屋」などのディテールが並ぶ。その造り酒屋の下働きに15才で出された娘が主人公。兄さんみたいに優しい船頭に惚れたのが初恋だったが、家の貧しさゆえに売られていく。哀れんで鳴くひばりに「忘れてくれ」がせめてもの伝言…というストーリー。
 「小生の歌づくりの宗旨、恵まれぬ底辺庶民の応援歌、幸せへの哀訴です」
 ともず本人が狙いを語る。
 《〝宗旨〟と来たか、やはりそれが原点だ…》
 と僕はニヤリとする。その昔「釜ヶ崎人情」で作詞家デビュー、金田たつえが歌った「花街の母」がブレークしたころは、
 「終生、未組織労働者の歌を書く!」
 と、胸を張ったものだ。前者がドヤ街の「たちんぼ」後者が「子持ちの芸者」が主人公で「よおしっ!」と、僕は共鳴、後押しをして以後親交が続いた。
 「花街の母」は当初、
 「コブつきの芸者の歌なんぞ、誰が喜んで聴くか、誰が歌うか!」
 と総スカンだった。金田が「江差追分」の歌い手から歌謡曲に転じたのも問題視されて、レコードの販売は関西限定。それでもめげずに行商の長期戦、近ごろでは〝お仕事〟になった盛り場プロモーションの実と、金田の悪声のわびしさ辛さがリアリティに通じて、息の長いヒット作に育った。
 「三十石船哀歌」を歌うのは、「はぐれコキリコ」など、もず作品を一番多く歌った成世昌平で、作曲も堀慈の名で彼。関西では名うての民謡歌手が、歌謡曲でもヒット曲を持つ成世らしく、高っ調子の民謡フレーズを盛り込んだ曲にして、のうのうと歌っている。なまじの感情移入よりは、その方が聴き手の胸に沁みる算術なのだろう。
 それよりも《えっ?》《おいおい!》になったのはもずの手紙の中段の1行で、
 「残余の人生を考えますと、この世の置き土産になるやも知れません」
 と述懐していること。残余の…と言ったって、まだ80代のなかば。このところ、もっと若いヒットメーカーが次々と逝ってはいるが、もずにそんなふうに達観されちまったら、少々年上の僕は一体どうなるのだ? 人の縁を辿って成り行き任せ、出たとこ勝負で憂き世を泳いで来た僕は、いけしゃあしゃあの楽天家だから、まだ残余なんぞ数えちゃいない。
 「花街の母」が世に出たのは昭和48年だからちょうど48年前。一極集中の東京へは出ず、関西で踏ん張る肚を決めるのがそれから3年前後とすれば、45年前に家でも建てて、以後ずっと枚方暮らしになったのか? 彼我比べるべくもないが当方は、親の代からの貧乏借家住まい。19才で茨城から上京、勤め先こそスポーツニッポン一筋だったが、北区滝の川を手始めに、現在の葉山海っぺりまで転居すること12回、10年住めば飽きが来て次! の流れ者生活で、定住型のもずとは、そこのところが違うのか…と一人合点する。
 もず唱平から届いたもう1枚のCDは、三門忠司が歌う「峠の夕陽」という股旅もの。ところが
 「一つ峠を越えるたび、いつもお天道様に叱られて、この身が真赤に染まるんだ」
 なんてセリフ入りで、五十路のやもめ暮らしの母親を、助けることすら思うに任せぬ禄でなし…と主人公はボヤいてばかり。隣りのおみよとの二世の誓いを反古にした悔いも手伝い、なんとも颯爽としない流れ者なのだ。コロナ禍でまるで先が見えないモヤモヤ時代には、無職渡世の男もため息まじりになると言うことか。
 カップリングの「望郷ヤンレー節」は3番の歌詞がもず流で、村の娘が紅灯の新地の女になった噂に、
 〽まさかあの娘じゃあるまいな…
 と、主人公がたたらを踏んだりする。2曲とも作曲は三山敏で「花街の母」で一緒にブレークしたお仲間。こちらも関西在住のまま〝東京望見〟の仕事を続けて来た人だ。もずの新曲はあれもこれも、いわば原点回帰の趣きだらけだが、後生だから〝人生、残余の置き土産〟なんぞと弱気を見せないでおくれよ! と僕は「哀訴」するしかない。





殻を打ち破れ235回


 「そうか、来年でもう60回か。俺、日比谷野音の第1回から見てる。感慨深いなぁ」

 「その第1回に出演した方、もう誰も居ません。主宰者の石井好子さんをはじめ、皆さん亡くなってしまって…」

 7月14日夕、渋谷・オーチャードホールで開かれた「パリ祭」の開演前、窪田豊プロデューサーと僕の立ち話だ。年に一度のシャンソンの祭典。2日続きのイベントで、珍しくシャンソンを歌う藤あや子が13日、ボサノバの小野リサが14日のゲスト。鳳蘭、菅原洋一、前田美波里、美川憲一、山本リンダ、クミコあたりが日替わり出演、30人近くの歌手たちがノドを競うが、このジャンルはベテランが多い。構成演出の髙平哲郎の今回の趣向は、第一部が「偉大なる三大B」と名付けて、頭文字がBのジルベール・ベコー、バルバラ、ジャック・ブレルの世界、第二部はエンリコ・マシアス特集。

 演歌全盛期育ちの僕が、シャンソン界に首を突っ込んだのは、石井好子の知遇を得てのこと。彼女の事務所と僕の勤め先のスポーツニッポン新聞社が日本シャンソンコンクールを共催、加藤登紀子をはじめ若い才能を多勢送り出した。お陰で高英男、深緑夏代、芦野宏、岸洋子らとの親交にも恵まれた。

 しかし、石井音楽事務所のスタッフからは、危険分子呼ばわりを受ける。若い歌手たちがフランスの“本家”の歌に、「型」から入ることばかりに腐心する姿勢を批判したため。ピアフ風とかアズナブール風とかを競うより、作品のココロと自分のココロを考え合わせなきゃ、演歌・歌謡曲をご覧よ、それがちゃんと出来てるよ!

≪しかしパリ祭もいつのころからか、ひどく健全な大音声大会になったものだ…≫

今回の客席で僕はそんな感想を持つ。経歴を見れば多くの歌手たちが、大学の声楽科出身の本格派である。訓練された美声を快く響かせて、それはそれでひとつの魅力だろう。しかし、昔から「人生の機微を歌う文学性」を語った鬱屈や人肌の説得力が後退してはいないか?

 ほほう…と、彼女らなりの色あいにじませて感じたのは『神の思いのままに』のやまこし藍子、『リヨン駅』のリリ・レイ、『ミモザの島』の花木さち子あたりで、大音声タイプの完成型と思えた『アムステルダム』の伊東はじめは、この道55年のキャリアだった。

 それから4日後の同じオーチャードホールで、僕は「時には昔の話を・加藤登紀子コンサート2021」を聞いた。

 「どんなに暗い時代にも、人は輝いて生きようとします。信じられないほど罪深く愚かだけれど、きっと本当は素晴らしく生きられるはずだと、信じて」

 加藤はプログラムにそんなことを書く。コロナをめぐるその場しのぎの政策への不信、先行きが見えない焦燥感の中で、強行された東京オリンピックと見事なほどのメダル・ラッシュ。それはそれこれはこれ…と、相反する思いを別々に抱えながら、失速する日々…。

 「でもね、長く遠い未来としても、その第一歩が“今日”だと考えたいのよね」

 ふつうコンサートは歌の合い間にトークが入る、いわば“つなぎ”の役割。加藤の場合は逆で、語るべき思いが先にあって、合い間にそれに似合いの歌がはさまる。そんな人間味とエッセイを聴くような手応えが、彼女のファンをとりこにするのだろう。

 『ひとり寝の子守唄』も『カチューシャの唄』も『愛の讃歌』もアンコールの『百万本のバラ』も、彼女が「混惑」の時代と決意を語る舞台で、ちゃんと役割を持っていた。

 ≪非常事態宣言の乱れ打ちと東京五輪なぁ≫

 アクセルとブレーキを踏み間違えたのは、高齢ドライバーだけじゃないよな!




 趣向を変えてきっちりと、ドラマを大きく展開するのは、芝居にしろショーにしろ、第2部の冒頭というケースが多い。9月14日夕、国立劇場大劇場で開かれた「大月みやこスペシャルコンサート〝歌ひとすじ~出逢いに感謝~〟」も、その例にもれない。大月は「雪国」の駒子と島村「婦系図」のお蔦・主税の愁嘆場を、一人芝居で熱演してみせた。コロナ下の公演、声援はご法度だからファンは盛大な拍手で応じた。
 映像と陰ナレーション(これも本人)で、おおよその設定を説明しておいての、男女の別離シーン。「雪国」では駒子と島村のやりとりを演じ分け「婦系図」は綿々とお蔦のひとり語り。双方悲嘆のきわみから「夜の雪」「命の花」の歌に入る。歌手生活57年「今、女を歌う」をモットーにして来た大月が、自分の表現世界を絵にし歌にして、女の情念をあらわにしたシーンだ。
 国立劇場で歌手がワンマンショーをやるのは、珍しい。劇場の格式がそうさせるのか、歌手たちがハードルを高めに考えるせいか。第1号は五木ひろしで、調べてもらったら2008年3月。ちょうど流行歌100年に当たったから、その流れと意味あいをショーに仕立てた。間に谷村新司をはさんで、今回の大月は演歌・歌謡曲勢では2人目。幼少時代の童謡から始めて今日にいたる、彼女の半生をテーマとした。劇場が劇場だけに、単なるヒットソングショーとは異なる構成・演出を必要としたのか?
 昔々のある日、近県でやっている春日八郎ショーに出かけた。取材相手は春日ではなく司会者の北条竜美。岡晴夫、小畑実ら一流歌手だけを手がけた名調子の有名人だが、大いにテレて
 「あたしなんかより、前途有望な娘がいます。あちらを取り上げてやって下さいよ」
 と名指したのが大月だった。1964年にデビューして、春日や三橋美智也の前座で19年もの下積みを体験した彼女を、
 「よく知ってます。あの人の第1作〝母恋三味線〟や次の〝潮来舟〟を歌えるくらいに」
 と答えたら、北条は憮然としたものだ。
 国立劇場の大月は大先輩二人の「あん時ゃどしゃ降り」「山の吊橋」と「哀愁列車」「おんな船頭唄」を歌って往時を語る。デビューが前の東京オリンピックの年だから覚え易いが、僕はその前年にスポーツニッポン新聞社の内勤から取材部門に異動したホヤホヤ記者。いわば〝同期〟のよしみで、その後長く彼女と親交を保った。
 大きな転機は、結果代表作となる「女の港」を得た1983年。ところが当初、有線放送の反響ばかりが先行、歌手名が置いてけぼりになりそう…と本人があせった。「大丈夫、結果はあとからちゃんとついて来る」と、僕は慰め役になった。ショーはその曲のほか、レコード大賞最優秀歌唱賞受賞の「女の駅」同金賞ほかの「乱れ花」レコード大賞グランプリの「白い海峡」など6曲で、順調な歩みを示して大詰めを飾った。
 1989年6月24日、大月はたまたま小林旭と食事をしていた。その日に美空ひばりが亡くなったから、彼女は色を失う。少し前からコマ劇場長期公演のオファーが届いていた。
 「私、だめ。お芝居好きじゃないし、出来ると思えない。絶対やらない!」
 食事の席で彼女はそう言いつのる。ダダをこねながら相手の反応を見て参考にするスターたちによくある手口。
 「何を尻ごみしてるの。ひばりさんが亡くなって、歌手芝居の一カ月公演は、みんなで後を継がなきゃならない。あんたもその候補に選ばれたんだもの、光栄と考えなよ」
 僕の激励の弁のうち〝ひばり以後〟の部分で、どうやら彼女は得心した。即刻その年7月に「浮草おんな旅」を新宿コマでやって、2年目の2月公演「婦系図~お蔦ものがたり」を見た僕は、不覚にも泣かされた。なかなかにやるじゃないか!
 話は国立劇場に戻るが、能弁の彼女は、ショーのMCもほとんど自前。連発するのは「凛とした女の生き方を…」「歌えることのしあわせ」「素敵な人との出逢いがあってこそ」「私を支えて下さるのはファンの皆さま…」
 自慢のノドも節回しも健在を誇示、歌は客席に攻め込む勢いを持った。イントロに合わせる司会者の美辞麗句も梃子に、彼女の歌の基本は大向こう受け狙い。時に過剰なほどの表現の核にあるのは、三橋、春日の昭和40年代に身につけたものと、同じ時代を生きた僕は思う。そんな古風と今様をうまく混在させる大月の芸を堪能したファンも、熟年熟女たちだった。





 日本の四季を代表するような映像が次々と展開する。舞台いぱいのスケールと鮮やかな色彩に圧倒されそうだ。五重の塔に紅葉、桜吹雪もあったか? 一望の草原、密集するひまわりの花、雄大に波打つ海、満ちてゆく月の変化…。その光景の中に、男と女の影が白く浮き出て、すぐに溶けて散る。どうやら切ない恋の顛末を暗示、それを市川由紀乃の歌がつなぐ。「ひだまり」彼女が作詞した「満ちては欠ける月」「蝉しぐれ」…。
 この辺までの市川の役割は〝歌う語り部〟で、若い男女のシルエットや彼女の衣装には〝いにしえ感〟が漂う。9月1日夜、渋谷のLINE CUBE SHIBUYA(つまり旧渋谷公会堂)で開かれた「市川由紀乃リサイタル2021~超克」後半の見せ場だ。
 ロマンチックな恋の影絵物語が、突然、生々しい情念劇に転じて、ファンは息をのむ。大詰めの「秘桜」を歌い舞う市川が、ドラマの主人公に変身、
 〽逢いたいよ、逢いたいよ、闇をすりぬけ、抱きに来て…
 と、身を揉むのだ。夢幻の世界から、現し身への転換である。それも作詞家吉田旺がねっちりと書いた、
 〽ついて行きます奈落まで、罪をはらんだ運命恋…
 と、愛憎ただならぬ執念を形にする。客席に背を向けた市川が、振り向く顔には姥の面、もう一度振り向けば般若の面。
 〽燃えて儚い秘桜の、花は煩悩、ああ百八色…
 の結びでは、市川の姿が埋もれるくらいおびただしい花びらが降る―。
 《そこまで作りこむか!》
 と、僕は感じ入る。用意された席「1階6列28番」は、前から3列めほぼ中央で、〝その気〟の市川の表情の変化までが手にとるようだ。
 《そう言えば〝リサイタル〟を名乗るイベントも久しぶりだ》
 なんて感想も生まれる。昔は年に一度くらい、歌い手たちが趣向を凝らし根をつめた演し物を世に問う勢いで、リサイタルの舞台に乗せたものだ。近ごろは〝ライブ〟の方が一般的で、いわば自分ヒットパレード。さほど力み返ったりはしない。そこのところを「超克」の自筆の筆文字までタイトルに使って、市川とスタッフは気合を入れた。彼女はこれまでの自分を超えようとした。コロナ禍で思うに任せない日々を超えようとした。キャパ2000の会場に半分の1000以下の客を入れて、同時生配信の手も打ったが、さて、採算はどうなったことやら。
 おなじみの曲も出るには出た。「雪恋華」「横笛物語」「なごり歌」がショーの導入部に。「心かさねて」と「命咲かせて」はアンコールの出番。何しろ新趣向は他にも二つあって、その一つが埼玉栄高校吹奏楽部とのコラボ。高校生のリクエストで「津軽海峡・冬景色」も歌ったが、密になることを避けて、吹奏楽部のVTRとの協演である。もう一つは、近作でつき合いの出来た吉田旺の作品集。「喝采」「晩夏」「雪」の3曲を、男声のナレーションでつなぐ。人気歌手の主人公が、公演の旅先で別れた彼の訃報を受け取るのが「喝采」のストーリーだが、ナレーションは生前の彼が、彼女に語りかける筋立てになった。
 「こころ穏やかに…」
 というのが、市川のブログの決め言葉だと言う。そういう「穏やかさ」や「ほどの良さ」が、彼女の魅力と思い当たった。いい歌声だがことさらに、それを誇らない。歌巧者ではあるが節のあやつり方に腐心する気配はない。デビュー当時のトラブルから今日まで、平坦ではない道のりを越えた葛藤や努力を示すコメントもない。長身でのびのびした姿態が、舞台を大きめに飾る。売り出し前には先輩たちに並ぶと遠慮して身をちぢめたエピソードも今は昔だ。その愛すべき「穏やか」で「ほどの良い」キャラと芸風が、この夜ばかりはめいっぱい激してみせた。この人の自信と野心の現れだろうか?
 ロビーの一隅に人だかりがあった。「フラワーモニュメント」と言う花の壁で、市川の等身大のパネルも微笑している。そのかたわらに、合格発表みたいな個人名カードが飾られていて、その一部を指さして「あった」「あったぞ!」などという声が行き交う。実はこのモニュメントは、ファンの寄金、一口5000円で作られていて350人分。名札はそれぞれ出資者を示す。時節柄、握手会などの接触を自粛して久しいスターとファンの、新しい交流パターン。この業界の冠婚葬祭を一手に引き受けている花屋「マル源」(鈴木照義社長)の提案とか。なかなかに味なことをやるではないか!




殻を打ち破れ234回


 ステージに上がる踏み台が3、4歩分。

 ≪ここでふらついたら、ヤバイよな…≫

 と、腹筋に力をこめた。背後の客席には知った顔がそこそこ。年は年にしても彼らには「やっぱり年だな」と思われたくない。

 ステージ正面にギタリスト安田裕美の遺影。形通りに献花する。不謹慎な雑念がよぎったのは、故人とは面識がなかったせい。いたわる思いが深い相手は歌手山崎ハコ。安田は彼女の夫君だった。7月4日午後、原宿クエストホール、この日熱海で土石流の惨事を引き起こした雨は、東京にも降っていた。

 「最初で最後の安田裕美の会です」

 いわば施主のハコが、きっぱりと言い切った。“送る会”でも“しのぶ会”でもない。いつも「裏方に徹したい」と言い「歌い手の後ろで、この人うまいなぁと思いながらギターを弾いていたい」とした安田を、没後1年後に一度だけ、ステージの主人公に据える。そのうえでハコは、みんなと彼について語り、彼が手がけた曲を歌いたかったのだろう。午後の回は音楽関係者やごく親しい人々が客、夜は熱心な安田、ハコファンを中心に一般の人が集まった。

 安田は小室等や石川鷹彦のお付きを振り出しにギターを学び、井上陽水、小椋佳、大滝詠一らのレコーディングやツアーの常連になる。スタジオミュージシャンとしての仕事は歌手のジャンルを越え、多岐にわたった。年に一度は渡米、海外のミュージシャンと交流、ギター演奏の奥をきわめた腕利きだ。

 そんな安田をハコは終始「安田さん」と呼んだ。慣れない東京で、一途に多難な道を歩き続けたハコからすれば、幅広い人脈と活動の場を持つ安田は、尊敬する先輩で、よき理解者で、やがて同志にもなったろう。大ヒットした『織江の唄』をはじめ、数多くの作品を共にした二人は、九州の娘と北海道の男の縁(えにし)を育て、2001年元旦に結婚、2020年7月6日、死別する。

 この日ハコが歌ったのは、阿久悠の遺作の1曲『横浜から』に『SNOW』『BEETLE』『縁』『ごめん…』の5曲。安田が参加したカラオケとハコのギターの弾き語りが合流した。

 ハコが詞、曲を苦心して1曲作りあげると、安田は「よく出来たねぇ」とねぎらったらしい。ハコのギターのイントロを「あれ、そのまま使おうよ。とてもいい…」と、安田が編曲に採用したこともある。ハコが興奮し、安田がうんざりしたのは雪。ハコの昔話は、ふるさとの空や雲、神社の石段、ちょうちょやかぶと虫やおばあちゃん…。

 それらを安田は、いとおしげに見守った。ステージに山ほど写し出された安田写真は、長めの髪、サングラスの奥の優しげなまなざし、ふっくらした頬、似合いのあごひげ、丸っこい体つき…。その穏やかな包容力が、ハコの問わず語りを見ていた。

 ≪そうだよな。いつも捨て置けない人なんだよ彼女は…≫

 いじらしさやけなげさが、彼女のキャラ。歌は哀訴型で、ひたひたと聴き手に迫る。幼さも含めた純粋さが一途で、それは僕らが世俗にまみれ、いつの間にか磨滅してしまった大切なものだろう。だから僕はハコがデビューしてすぐから40年くらい、断続的に彼女を追跡してきた。

 ♪伝えたいのはいつだって 抱きしめて言いたい 愛しているよ死ぬほど好きさ 死んでも好きさ ごめん…

 アルバム『山崎ハコセレクション~ギタリスト安田裕美の軌跡』のラストソングである。ギリギリまでギターを弾きながら、安田ががんと戦った3年間と、それに寄り添ったハコの思いに、胸が痛い一日になった。




 遠くから突然、坂本九の歌声が流れて来た。つけっぱなしのテレビが映していたのは東京オリンピックの閉会式。歌声はその会場からで、「ン?」あれは「上を向いて歩こう」か? 「見上げてごらん夜の星を」か? 確認しようと、あわててボリュームを上げたが、テレビの画面はもう次の光景に移っていた―。
 日航ジャンボ機の墜落事故は1985年のことだから、8月12日で36年になった。坂本九の37回忌の年だ。そう言えば今年は、彼の生誕80年に当たるとか。僕の思いはさっさとオリンピックを離れて、あの事故で亡くなった働き盛りのポップスシンガーに移っていた。乗客乗員520人が犠牲になった事故の現場は、群馬県上野村の御巣鷹の尾根。日本中が震撼した出来事で、坂本九はその遭難者の一人だった。
 機影がレーダーから消えた…という一報から、当時の勤め先スポーツニッポン新聞社の僕らのスペースは、名状しがたい空気に包まれた。ジャンボ機が一機、所在不明。それはどういう意味を持つのか? 以後事態がはっきりするまで、どういう経過を辿るのか? 芸能関係の取材を主とするチームには、想像も出来ないまま、記者たちは楽観的な見方から悲観的な考え方を口々に伝え合う。最悪の事態を想定し、事実関係をひとつずつ積み重ねて、最悪から抜け出す習慣と手順を持つ僕らは、にわかには身動きも出来ない。
 全員で首っぴきになったのは、乗客名簿だった。片仮名表記、横書きのおびただしい名前の中から、気になる名前を選び出す。それぞれが、知っている限りの有名人の姓名を思い浮かべながらの作業。思い当たりがあればその人の現在位置を確認する。同姓同名の別人はよくあるケースだ。その間に日航機の動きが、少しずつ判って来るが、乗客の一人「オオシマヒサシ」が坂本九の本名とは結びつきにくく、それを当人だと鵜呑みに出来ようはずもない―。
 手許に「星を見上げて歩き続けて」という書物がある。5月に光文社から出版されており、著者は坂本九夫人の柏木由紀子で、彼女から届けられた。「突然の別れから物語は始まる。再び幸せの星を見つけるまでの〝心の軌跡〟」が帯にある文章。彼女の友人の歌手竹内まりやの
 「由紀子さんの笑顔の向こうには、底知れない悲しみを乗り越えた人だけが持つ、本当の強さと優しさがあった」
 という言葉が添えられている。
 事故から4日後の8月16日午後、藤岡市の旅館に詰めていた由紀子さんに、まず届いたのは坂本九のカバン。夕方には遺体安置所で、彼女は本人の確認をする。彼が身につけていた笠間稲荷のペンダントが手がかりだったが、翌朝の新聞の見出しがもう一つひどいショックを与えたと言う。
 「柏木由紀子、未亡人」
 その時彼女は38才、遺された女児2人は長女花子が11才、二女舞子が8才だった。
 「その時のことは今でも思い出したくないです」
 と告げながら、柏木はこの本で、彼女と坂本の別れから今日までの日々を、実に率直に書いている。年月が彼女をそんな境地に導いたのか、それとも生来、物事に激することのない穏やかな人柄なのか。29才と23才で結婚、幸せすぎて恐いくらいの毎日から、信じられない事故、気丈な日航との交渉や、墓のこと、娘たちの成長、女優業の再開などの事実が、ほとんど話し言葉の文章で進む。まるで笑顔の彼女が、目の前で語りかけてくるような心地になる本だ。
 長女の花子はシンガー・ソングライターで、ラジオの番組を持ち、宝塚歌劇で活躍した二女舞子はドッグセラピストで、犬の洋服のブランドを立ち上げている。結婚した娘たちは、実家の近くで暮らし、母娘3人は2004年から年に一度「ママ エ セフィーユ」(フランス語でママと娘たち)をタイトルに、コンサートを開いている。一年かけてこらす趣向が少しおしゃれで楽しく、坂本九への愛にあふれていて、招かれる僕は出席する都度穏やかで温かい気分になれたものだ。
 記者時代に僕は、彼を「坂本さん」と呼んだ。芸能人をなれなれしくニックネームで呼ぶことを避けるから、どうしても「九ちゃん」にはならない。しかし「坂本さん」ではいつも違和感がザラついたが、彼は何事もなげな笑顔で、親しげな応対に終始した。
 墓は尊敬していた榎本健一との縁で、六本木通りを渋谷に向かって、右側の永平寺別院長谷寺にあると言う。あそこには友人の作詞家阿久悠も眠っている。一度2人を訪ねてみたいと思っている。




 みなとみらい線・日本大通り駅から徒歩8分、神奈川県民ホールへ、熟年男女が行進した。7月19日月曜日の午後1時、相変わらずの暑さだが、人々の歩みは物見遊山ふうにゆっくりめで、軽い。行く先は福田こうへいコンサート。去年7月にやるはずだったものの振替公演。道々交わされる会話はコロナ禍の不満や、久々に再会した友人との近況報告など…。
 待ち兼ねたのは観客だけではないとでも言いたげに、福田のステージはいきなりハイ・テンション。「南部蝉しぐれ」も「北の出世船」も「天竜流し」も「筑波の寛太郎」も、一気! 一気だ。客席もそれに呼応して…と行きたいところだが、反応は盛んな拍手とペンライトの波に限られる。マスク、検温、手指の消毒、声援ご法度は、このところどの公演でも当たり前になっている。
 「それでも、熱気は感じるなあ。うん、会うのは久しぶりだしねえ」
 なんて、福田のトークは如才がない。東北弁丸出しで、笑わせネタもちょこちょこ。メジャーデビューして10年、それなりの進化とそれなりの自信が見える。
 新曲は「男の残雪」で、坂口照幸の詞、四方章人の曲、南郷達也の編曲。歌い出しが高音、サビも高音、歌い納めが高音のメロディーを、僕はW型と呼んで珍重する。そんなヤマの張り方は、言うは易く作るには難しい。メロディーのどこかに〝つなぎ〟の無駄が出るか、無理を押し通して破綻するかになるせいだ。しかし四方の今作は、ほとんど高音へ行きっ放し、福田の声と節を存分に生かす算段で、これならインパクトは強いし、売れ足も早いだろう。
 坂口が書いた詞も欲張っている。タイトル、イントロ、歌い出しの2行…と、素直に聞けば「男の決意ソング」ふう。そこに以心伝心で生きて来て、明日の山も一緒に越える女性との〝しあわせ演歌〟要素が混ぜ込まれる。この狙いを成就するには、どうしても決まり文句の多用になる。愚直なくらいコツコツと、演歌の姿形を整えようとする坂口にしても、今回は苦労したろう。
 それやこれやを福田は、委細構わず歌いまくる。ゆうゆうと言うか、のうのうと言うか、細部にこだわらないのが福田流。CDを聞けば多少の心情表現は確かにあるが、ステージとなると行け行け! でもはや野放しである。
 《そうか、民謡は声と節が勝負だものな…》
 僕はそういうふうに納得する。気分は微苦笑だ。男と女の色恋沙汰が流行歌の永遠のテーマ。その微妙さに踏み込めば、表現はどうしても多岐にわたり複雑になる。細分化する心情のあれこれを向こうに回して、民謡調の福田の歌唱は真一文字。発出するのは若さと熱度だ。民謡の持つ野卑なまでのエネルギーで、彼は野放図にコンサートの2時間を走り抜け、客を圧倒する。技の一端を見せたとすれば、マイクをはずし地声で聞かせた「江差追分」か。
 隣りの席に居たプロデューサー古川健仁は、古いつき合いである。コンサートを見終わって顔見合わせた僕らは、
 「見聞きしているだけでも疲れるよなあ」
 と笑い合った。伴奏もフルバンドに津軽三味線や尺八を加えたナマ。それを圧し続ける福田の大音声である。僕は昼の部だけで十分堪能したが、福田は昼夜2回公演である。タフでなければスターじゃないのだ。
 コンサート中盤、いきなり僕の名が呼ばれてびっくりした。ナナオという一風変わった名前の男性司会者が、来客の一人として念入りな紹介をしてくれた訳だが、
 「さて、どこに居らっしゃいます?」
 と彼が言う。客席の頭が一斉に右左に動くさまに恐れをなした僕は、手も上げず起立もせずに身をちぢめた。
 「それにしても古川、どの作品も直球一点ばり。先々もずっとこのままで行けるのかねえ」
 「それなりの幅は作ろうとは思うけど、今は売れてる流れに任せてということかと…」
 突然僕らは音楽評判屋と制作プロデューサーに立ち戻った。そうかも知れない。人気稼業は時相場、ダッシュが加速している時期は、余分な小細工などその勢いを削ぐだけになるか。
 「それにしても…」
 と、僕はもう一方の隣席の作詞家の坂口に、
 「東北訛りがきつすぎて、歌詞がほぼほぼ判らないのは困るよな」
 と小声で言ったら、
 「僕、最近耳が遠くなって来てまして…」
 と、やんわり切り返された。



殻を打ち破れ233回

 

 JR中野駅のホーム午後2時20分過ぎ、下りのエスカレーターの列に加わってふと思った。この行列はおそらく、その後右折して改札口へ向かうだろう。ニヤニヤしながらついて行くと、熟女集団の行動はその通りになった。目指すは中野サンプラザ。この日6月3日の午後3時から「三山ひろしリサイタル2021~歌の宝石箱~」が上演される。一行と僕は少し足早やになった。

 本当は昨年9月に予定された催しだった。それがご他聞にもれずコロナ禍で延期。その分だけ三山本人も気合いが入っていた。『お岩木山』『男の流儀』『四万十川』など、おなじみの曲から、ガンガン行く。ひところよりは歌声に厚味が出て、中、低音がよく響き圧力が強い。デビューからしばらくをボクシングのバンタム級くらいに見立てれば、今ではライト級のパンチ力…。

 会場は例によって感染対策の3密ご法度。客席は一席ずつ空けた市松スタイルで、声援もなし。一斉に揺れるペンライトと拍手が三山とファンを結ぶよすがだ。1階19列22番の僕の席の前に、お仲間風情の熟女トリオが並ぶ。左側の一人はオペラグラスで三山を熟視する。中央の一人はかなりいいノリでライトを振り、一曲終わるごとに拍手へ切り替えが忙しい。右側の一人は身じろぎもせずに三山の歌に聞き入り、忘我の境地――。

 「趣向ヤマモリです。お楽しみ下さい」

 と三山が幕あけに予告した内容は“星の歌づくし”がその1で『星降る街角』『星の流れに』『星影のワルツ』『星はなんでも知っている』『星のフラメンコ』など昭和歌謡のあれこれ。その2が長編歌謡浪曲で“忠臣蔵外伝”ふうに、吉良側から上杉綱憲と千坂兵部の物語。「声・節・淡呵」が浪曲の3要素だが、三山流のこなれ方がなかなかだ。その3は“歌で世界旅行”企画で『5番街のマリーへ』『翔んでイスタンブール』『時の流れに身をまかせ』『バナナボート』『サンタルチア』『慕情』などのごちゃまぜ。

 休憩時間には「あんたテレビに出てる人でしょ」「バレた?」なんてやりとりをしながら、前列の熟女トリオと交歓する。この日のステージは、近々CSテレビで放送され、秋にはDVDで発売されるとか。選曲の賑わいと、三山の気合の入り方が、なるほどと合点が行く。トラブルがあった長尺浪曲は終演後に撮り直しだが、物の言いがついて取り直す大相撲の一番みたいなオマケになった。

 左上腕部にしこりが残り、動かすと少し痛むことに気づく。前日夕、居住地の葉山町福祉文化会館でコロナ対策のワクチンを接種したせいと思い出す。つれあいや友人を督励、ネット対策までした予約騒ぎだったが、何のことはない、思いついて電話をしたらパッとつながって自分で取れた。クーポン券と、書き込んだ予診票、身分証明の保険証などを持ち、準備おこたりなく出かけた接種風景と、サンプラザの客席の景色が重なる。65才以上の接種が1000万人を越えたと官邸が大騒ぎした日、初対面の熟女トリオも注射仲間みたいで、とても他人とは思えない。

 三山は25才で四国から上京、28才でデビューして13年になると話した。作曲家中村典正とその夫人の歌手松前ひろ子の薫陶を受け、結婚もし子も成した。公私ともに穏健にして堅実な“その後”である。41才の男ざかり、働きざかりのステージが、それなりの充実ぶりを示した。

 三山の新曲は『谺-こだま』で、作詞者いではくと作曲者四方章人とばったり会った。四方は仲町会のお仲間で、顔を合わせれば酒…の仲。それが「ずっと自粛、家呑みを励行してます」とさっさと帰ろうとするから、まだ宵の口なのに「じゃあね!」と別れた。何だか忘れ物をしたような気分だった。





 東北の〝職業歌手〟奥山えいじの新曲「うまい酒」が妙にしみじみしている。槙桜子の詞、伊藤雪彦の曲で、一番がちょいと一息の〝ひとり酒〟二番が友だちとの〝つるみ酒〟三番が夫婦の〝ふたり酒〟という歌詞。庶民の暮らしの中の、安らぎの場面を並べ、人生良いことばかりではないが、うつむかず明るめに暮らすことが肝要と訴える。こんな時期だけになおさら…ということか。
 奥山とは山形・天童で開かれていた佐藤千夜子杯歌謡祭でよく会った。全国規模のカラオケ大会で、僕は審査委員長、彼はゲスト歌手。農業で生計を立てながら、プロの歌手を兼業するから、あえて〝職業歌手〟と呼んで仲良くしている。東北は米どころ、酒どころ、歌どころである。そんな空気をまとった奥山は、地元に蟠踞しながら、ごくふだん着の顔つきと物言いで、のびのび歌っているのがいい。
 歌唱は一口で言えば〝くさい〟魅力。歌全体にほど良い訛りがあって演歌向きだ。声味と節のあやつり方は宮史郎や宮路オサム似で彼らより少し若め。言葉つなぎにゴツゴツ感を残し、大きめのビブラートでそれをつなぐ。前作の「只見線恋歌」よりは歌のゆすり方が強め。もしかするとベテラン作曲家伊藤雪彦の、独特の〝歌のさわり方〟を学んだのか。いずれにしろ〝押し〟が強めの仕上がりだが〝嫌味〟がないのは人柄のせいだろう。
 僕はテレビ出演で顔が売れ、ヒット曲にも恵まれているスターたちだけが歌手とは思っていない。彼らを一流と考えれば、地方でコツコツと支持者を集め、いい仕事をしている歌手もプロ。全国区歌手と比べれば地方区の歌手で、一般には無名だから三流と目されようが、三流には三流の芸と意気地があろうし、僕はそれを得難いものと思っている。
 地方区の巨匠と呼んだ静岡・浜松の佐伯一郎は亡くなったが、他にも各地に、親交を重ねる地方区さんは多い。そう言えば埼玉・所沢あたりの新田晃也に会ったら、近々レコーディング、秋には大きめのコンサートをやると言っていた。彼らは別に、全国制覇を諦めている訳ではない。地盤を持ってガツガツしないだけだ。東京に一極集中する歌謡界へ、彼らが逆転突入する夢を果たしたら、それは愉快なことではないか!
 僕は今年も、山形の天童へ出かける。佐藤千夜子杯歌謡祭は19年続いて一昨年終了したが、昨年からはそれに代わって「はな駒歌謡祭」が開かれている。審査の縁がつながった訳で、米は「つや姫」酒は出羽桜の「雪漫々」や「枯山水」肴は「芋煮」と「青菜漬け」という美味との縁も継続中だ。イベントの主導者は名刹妙法寺の主矢吹海慶師、この人は日蓮宗の高僧、天童の有力者で、僕より年上だが、カラオケを通じて〝ためぐち〟の付き合い。ジョーク山ほどの酒をともにして、その粋人ぶりに甘えている。
 今年は11月14日の日曜日が本番だが、前夜入りしてあたためる旧交に、今からワクワクする。その時分はもうかなり寒いだろう…とか、コロナ禍は大事にならずに過ぎていようか、顔なじみのスタッフはみな達者か…など、あれこれが思い浮かぶ。7月にはファイザー社のワクチン接種の2度めも終えている僕が、ウイルスを持ち込む心配はなさそうだ。
 もともと僕は「人間中毒」と「ネオン中毒」の患者である。スポーツニッポン新聞社の記者から今日の雑文屋兼業の役者まで、人の流れに添い、大勢の知人友人を得て暮らして来た。縁を結び縁に感謝する人間中毒だ。その場、その流れの潤滑油が酒で、その勢いもかりての虚心坦懐、人を知り人に許された根城はネオン街だった。それが昨年以降、巣ごもり・自粛の日々である。人に会う機会が激減し、その分、酒を飲むケースもきわめて少なくなった。たまに仕事をしても、お仲間はそそくさと帰路に着き、僕はすごすごと帰宅する。これでは二つの中毒の症状は悪化する一途ではないか!
 本を読み、テレビを見る日々は、日付けや曜日までが怪しくなり、体重だけが増え続ける。これはいかん…とウォーキングまがいに出かけても、
 ・弓なりに森戸海岸800歩、怠惰な僕は2往復ちょい…
 がいいところ。これ一応は短歌の字脚になってはいる愚作である。
 今日7月14日、木曜日は、浮き浮きと渋谷オーチャードホールの第59回パリ祭を見に出かける。シャンソンの祭典である。冒頭の奥山えいじは東北ふうに〝くさい〟が、これから出会う彼や彼女たちは、パリふうに〝くさい〟のが面白い。





 「夜霧のブルース」と「別れのブルース」が、好きな古い歌の双璧である。それがここ数年は「別れのブルース」に、愛着が傾いている。
 〽窓をあければ港が見える、メリケン波止場の灯が見える…
 と、藤浦洸の詞が淡々と風景をスケッチ、
 〽むせぶ心よ、はかない恋よ、踊るブルースの切なさよ…
 と結ぶ。2コーラスめでどうやら船乗りと港のダンサーの恋と見当がつくだけで、事の顛末、それを取り巻く状況の説明などは全くない。2行ずつの詞の3段重ね、情感を揺らし積み上げるのは、服部良一メロディーだ。
 《そうか、この作品のキモは、歌い手と聴き手の想像力に任せられる心地よさか…》
 見回せば近ごろの流行歌は、説明過多にも思える。作詞家たちが、手を尽くそうと努力する結果ではあろうが…と合点して、作詞家の喜多條忠と作曲家の杉本眞人に話をもちかけた。男と女の仲に埋没しないで、もっとおおらかな恋唄を作ろう。喜多條、まず欲しいのは景色だ!
 秋元順子の新曲「いちばん素敵な港町」のタネ明かしである。こんな時代のこんな閉塞感を見据えて、心を石にしないで、優しさを取り戻そう。みんなカモメ同志さ、差別なんて無しだよ…と、喜多條のメッセージが埋め込まれる。
 あの歌は昭和12年に世に出た。84年も前の作品が、聴けばしっとり寄り添って来る。これは絶対今に通じる! と、秋元の新しいアルバムのメインに据えた。「昭和ロマネスク」がタイトルで「かもめはかもめ」「水色のワルツ」「公園の手品師」など、よく知られた曲の間に、埋もれたいい歌をはさみ込む。「暗い港のブルース」と「誰もいない」はなかにし礼「港町三文オペラ」は阿久悠「芽生えてそして」は永六輔「黒の舟唄」は能吉利人の詞…。
 なかにしの頽廃の美学、阿久のドラマづくりの妙、永のセンチメンタリズム、能の達観…と、詞には彼らならではの味わいが深い。それを作曲家たちが見事に生かしている。それらをうまく組み合わせて構成すれば、単なるカバーの域を越す新しい物語性が構築できはしないか。ヒット曲は時代を記憶させ歴史を物語り、埋もれたいい歌は、それを発見し、愛した人の個人史のメモにあたる。いいね、いいね、昭和モダニズムだね…と、秋元も制作スタッフも、桑山哲也をはじめ編曲まで頑張った秋元バンドの諸氏も、大いに盛りあがったものだ。
 悪ノリは6月30日昼、ティアラこうとうで開かれた秋元のバースデーコンサートにまで持ち越された。何と構成・演出の依頼が来てこの際だからヨッシャヨッシャ。本人と相談して2部構成の選曲配列を決め、秋元用コメントのメモを作り、港だの海だの街角だのの風景を短冊型のスクリーンにチラチラさせようぜと、その程度のお手伝いで、現場処理は舞台監督の伊藤昭年氏に丸投げした。合言葉は「シングル・イズ・ベスト」で、秋元の歌の巧さと魅力を強調できさえすれば、それだけでいい。話してみれば伊藤氏、舞台の仕事は三橋美智也が振り出しとかで、三橋と親交のあった僕らは、しばし懐旧談のあれこれになる。
 コンサートの企画・制作はテナーオフィスの徳永廣志社長。小沢音楽事務所でこの世界に入り、僕とはもう50年を越えるつき合いで「徳!」と呼びならわしている男だ。それが秋元の所属先になったから、彼は当然みたいな顔で歌づくりを僕に丸投げした。
 徳永社長にすれば今回のコンサートは秋元を引き受けて最初の手打ちイベントで、あちこちに熱心な動員をかける。彼が幹事長をやっている小西会の面々など、時節柄、事後の酒盛りはナシでやむを得ないと笑顔を並べた。音楽事業者協会の徳永のお仲間、業界のお歴々なども勢ぞろいで、
 「あんたの構成・演出だと強力に売り込まれてねえ」
 と冗談めかす。その分、ショーの出来不出来の責任は重大だった。終演後も笑顔は並んだままだったから、ま、秋元の力量がアピール出来たと言うことか。
 帰宅後留守電を聞いて胸を衝かれた。元東芝EMIの幹部市川雅一氏からで、長く闘病中なのに、
 「あんたが仕掛けているのに、行けなくて申し訳ない。知っての通りもう歩けないんでね…」
 受信時間が何と、当日の午前6時過ぎである。僕は前夜から会場近くに泊まり込んでいての行き違い。あいつに電話をしようと、彼はまんじりともせずに朝を迎えたのかと思うと、涙が出そうだった。



殻を打ち破れ232回


 ≪「ドキュメンタリー青春」なぁ、当時田原総一朗が仕切ってたシリーズで、テレビ東京の人気番組だった。戦闘的な語り口が若者に受けていた…≫

 友人の寺本幸司が上梓した「音楽プロデューサーとは何か~浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る」(毎日新聞出版刊)を読んで、50年近く前の日々を思い出した。寺本が出演したのはこのシリーズの一本「新人狩り」で、彼が浅川マキを世に出すために奔走する姿を追った。一部分を三軒茶屋のわが家で撮影したのは、寺本が初代の有料同居人だったせいで、家主の僕にも出ろと言う。

「居候のテラが主役で俺が脇役? そんなもんに出られるか!」

 と冗談めかして断った。僕らの同居は業界内極秘で、代わりに小西家を代表チョイ役を務めたのは愛猫のキキ。眼が金色と銀色の奇っ怪なかわいさから、その名があった。

 寺本の本はサブタイトルにある4人のシンガーソングライターとの出会いから別れまでが中心。とりわけ彼がこの世界に入って一からを共にした浅川のことに、相当な紙数が削かれている。寺山修司と組んだ歌づくりや、新宿の映画館の地下にあった小劇場「蠍座」でのイベント「浅川マキを聴く会」の成功などのあれこれには、僕も首を突っ込んでいた。当時の僕はスポーツニッポン新聞の音楽担当記者から文化部長になる30代後半。面白いものには片っぱしから反応して、紙面に新風を!と気負い込んでいた。その眼の前で寺本が奮戦、黒づくめのマキが“アングラの女王”として若者たちの耳目を集めていくのだから、当然こちらもワイワイ・ドキドキになる。

 ちょうど1960年代後半から70年代、学園闘争から安保闘争、ベ平連、成田三里塚闘争など、若い世代が闘争的だった時代である。僕は大学闘争で頑張った青年たちを書き手に、スポニチに特集「キャンバスNOW」を作った。若者たちによる若者たちのページで、寺本にはそちらのプロデュースも頼んだ。そのせいか、おんぼろ西洋館の2階大小5室のわが家は、若者たちのたまり場になる。寺本がフォークからロックへ手を広げていて、僕の方は演歌、歌謡曲系。それに放送作家、ルポライターとごちゃまぜの酒宴がひっきりなしだ。

 売り出し前の作曲家三木たかしや中村泰士、作詞家の石坂まさをが居り、浅川マキのあとにはやがて藤圭子になる阿部純子が来たりする。寺本の仕事の拠点J&K企画室には喜多條忠がいて、マキのための詞を書いていたし、キャンバスNOWのメンバーには石原信一が居たから、近ごろの作詩家協会会長の二代続きが酒を飲んでいた勘定になる。

 寺本の本には僕についての記述もある。『今は幸せかい』でカムバックをはかる佐川満男に“元スター”の態度を返上させるために、

 「すすめられた椅子にドッシリ座るな、椅子の前の方三分の一に座れば背筋が伸びる」

 と忠告したあたりだ。この行儀作法は『君こそわが命』で第一線復帰を目指した水原弘に指示したのが最初。僕は水原、佐川双方の作戦参謀だったが、それも水原の仕掛け人名和治良プロデューサーとの縁や、小沢音楽事務所小沢惇社長の独立と菅原洋一売り出しを陰で手伝ったのが縁になっていた。

 寺本の会社は小沢事務所系だった。寺本と僕は同居を徹底的に内緒にした。「小西の家賃は小沢の負担らしい」などの根も葉もない噂を封じるためである。髙樹町の店“どらねこ”で一緒に飲んでも、僕らは別のタクシーで別方向から帰宅した。昨今もそうだがこの業界は、噂がそのまま事実になって払拭出来ないことが多過ぎるのだ。


 
 旅の終わりはいつだってひとりに戻る。ふと思い返すのは訪ね歩いた先々の風物、触れ合った人々の営みや人情…。ずんと胸に来る孤独の中で、男は歌を書くのだろう―、と、まあ、そんな雰囲気を作って、弦哲也は「北の旅人」から歌い始めた。6月11日午後、東京・王子の北とぴあ・つつじホール。「音楽生活55周年記念ライブ」と銘打った自前のイベントで、タイトルは「旅のあとさき」。
 同じ題名の記念アルバムを作った。それとギターを携えて、全国を回るつもりだった。55年の節目は実は去年、デビュー当時と同じ形で…と意気込んだが、コロナ禍で断念、1年遅れでこの日の催しになった。まだ非常事態宣言下、客の数を絞り、検温、手指の消毒、マスク着用などおこたりなく、楽屋へのあいさつは謝絶。受付けで友人の大木舜が顔を見るなり、
 「終宴後は何もないからね、打ち上げもやらないよ」
 と宣言した。やはりここも〝お疲れさん〟の酒は抜きか!
 弦の歌は「五能線」「夏井川」「新宿の月」「渡月橋」「大阪セレナーデ」と続く。仲間のバンドをバックに、舞台中央、ほど良い高さで椅子に掛け、弦はおなじみの弾き語りだ。
 《確か50年のテーマは「旅の途中」だった。それが5年後の今回は「あとさき」か…》
 古稀を大分過ぎて、ゆっくり来し方を振り返り、これから先に思いを馳せる心境になったのか。思いなしか歌声にこもる〝情〟に〝滋味〟も加わって聴こえる。もともと弾き語りの良さは、息づかいが人肌で、歌い手の人柄やその道での成熟まで匂うところにある。
 O―7の僕の席の右隣りがあいていて、通路側のその隣りに、川中美幸が滑り込んで来た。
 「ごぶさたして、済みません」
 と、僕があいさつするのは、川中一座の役者として14年も世話になっているせい。座長も人を反らさぬ対応で、飴玉が一個そっと手渡される。その後弦の歌に集中していて、ふと気づいたらその川中が消えていた。
 《仕事の途中の顔出しだったのか…》
 と、弦の歌に戻る。曲目が「長崎の雨」になって2コーラスめ、突然川中が歌いながら登場したから驚いた。そう言えば彼と彼女は「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった。これは〝戦友〟としての心尽くしか。
 第2部は「おゆき」に始まり「ふたり酒」「鳥取砂丘」「裏窓」「天城越え」など、彼の作曲家の歩みをヒット曲で辿る。第1部の「北の旅人」は石原裕次郎、2部の「裏窓」は美空ひばりのために作った。〝昭和の太陽〟と弦が讃える2人である。胸中には、一緒に仕事をした誇りがありそうだ。
 曲ごとにあれこれ、思いも語った弦のライブは「演歌(エレジー)」がラストソングになる。
 〽俺のギターが錆びついて、指が切れても切れないこの意地で、生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
 「演歌」を「エレジー」と意味を広めに歌って、この曲は弦の〝これから〟の決意表明になる。作詞したのは息子の田村武也で作曲は弦本人。父の生きざまに息子が呼応しての歌づくりだったろう。無名のままの早めの結婚で生まれた息子は、一時弦の親元に預けられて育つ。祖父母を親と思い込んだ幼時、弦は父親の愛を実感させるための暮らしで息子に密着、朝型の歌書きになった。売れない歌手と作曲家から脱出できた「ふたり酒」を息子は「お風呂の歌」と呼んだ。この曲のヒットで、弦夫妻は初めて、風呂つきの家に住めたと言う。その息子も今は壮年、父のために詞を書き、記念アルバムのうち3曲「大阪セレナーデ」「夏井川」「新宿の月」の編曲もしている。
 会場で僕はその武也とグータッチをした。首にタオルを巻いた彼は、どうやら父のライブの裏方のボスで演出者。もともとステージ・ネームを田村かかしと名乗る彼は、路地裏ナキムシ楽団を主宰する。作、演出から音楽、照明まで手がけボーカルも担当、フォークソングと芝居を混在させる新機軸公演を続けている。僕はその一座のレギュラー役者として、彼の優れた才能と統率力を目のあたりにして来た。ナキムシ公演もここ2年、やはりコロナ禍で休演中である。
 「その見果てぬ夢を、親父のライブで使ってやしないかい?」
 「ははは…。判りますか、やっぱり…」
 僕らはそんなやりとりをした。スクリーンを駆使する舞台表現などに、彼のセンスが生かされていたせいだ。
 5日後の6月16日、弦からていねいな礼状が届く。「ありがとう」を連発して、穏和で堅実、人望を集めるヒットメーカーの、律儀な一面である。





 《おや、ずいぶん変わったな。うん、いい笑顔だ。いいことがあったみたいな気配まである…》
 CDのジャケット写真というものは、歌い手の訴え方があらわで面白い。自分が作りあげた世界に鷹揚におさまるベテランから、精いっぱい存在をアピールする若手まで、人により作品によって実にさまざま。女性歌手の場合は、衣装やメーキャップも工夫して〝それらしさ〟を演出する。しかし、いかにもいかにも…の決め方よりも、ふっと心のうちを伝えるような、さりげないタイプの方が僕には好ましい。
 そんなふうに今回、呼び寄せられたのは石原詢子の「ただそばにいてくれて」で、平仮名10文字のタイトル、洋装でほのぼの暖かめの色調がなかなか。何か新しい発見がありそうな予感がする。それはそうなのだ。いつもの彼女は着物演歌ひとかどの歌い手で、気性きっぱりめの自己主張がジャケットにも強かった。それにひきかえ今度は何を歌うのさ? と、歌詞カードをのぞくと、古内東子の作詞作曲とある。ほほう、そういう路線か―。
 聴いてみたら、中身もなかなかにいい。ひところ〝恋愛の教祖〟なんてもてはやされたシンガーソングライターの、いかにも古内らしい詞と曲の起伏を、石原がすうっと一筆描きの絵みたいな率直さで歌っている。雨あがりにふと会いたくなる人を歌の主人公は持っている。生きづらい世の中だが、その人に出会えて彼女は自由になれた。ただそばにいてくれるだけでも、同じ時代を生きていると感じられる嬉しさ…。
 一筆描きの絵にしても、激するパートはちゃんとある。サビに当たる詞の何行分かだが、石原はそこを、語り口は変えぬまま思いの強さを濃いめの色に染めてクリアする。もともと父親ゆずりの詩吟・揖水流から歌表現を身につけた人。それが父親が敷いたレールに反発、演歌に活路を求めた。声をはげまし節を誇る唱法が、この人の下地になっていた。デビュー以降しばらく、内心ではガンガン歌ってこれでどうだ! の時期があって、キャリア20年前後〝歌う〟ことと〝語る〟ことの意味合いに思い当たる。「三日月情話」や「夕霧海峡」を越え「港ひとり」に到達したあたりに、僕が「いいね!いいね!」を言ったのは平成27年ごろだから、歌手生活も27年あたり。
 今回の「いいね!」は、それから6年ぶり2度めである。演歌で一皮も二皮もむけたあとに、唱法までがらりと変えたポップス展開だ。古内の作品は、揺れる女性の思いを生き生きと、揺れる言葉とメロディーにして独特。そこに石原は共鳴、古内の思いのたけに自分の思いのたけを重ね合わせることに成功している。
 演歌の場合、声が先に聞こえがちだが、今作は声よりも思いが先に届いて来るやわらかな確かさがある。歌い手としてとてもいい時期に、似合いのいい作品と出会えたケースだろう。「ただそばにいてくれて」には、主人公の生き方、たたずまいまでが感じられる。カップリングの「ひと粒」は主人公の思いがひたむきに一途で、こちらの方が少し若めか。
 そう言えば…と思い出した。趣味が旅行とカントリー・ウエスタンで、年に一度はアメリカへ旅していた話。その時は「ほほう!」と聞き流したが今になって思えば、そんな体質とポップス系の新曲である。これが石原なりの多様性なら、詩吟→演歌と彼女の可動域を決めつけていたのは、こちらの了見の狭さだったろう。もっともこのコロナ禍では、好きなカントリーを聞くアメリカ旅行など夢のまた夢になっていようが…。
 6月2日、やっとこ予約が取れて、コロナのワクチンを打ちに行った。会場の葉山町福祉文化会館は、当然のことながら熟年男女で大わらわ。クーポン券と身分証明書を持ち、予診票を書き込み、医師の問診を受けて接種、その後2回目の予約を申し込む待ち時間が、事後の体調観察の時間に当たる。現場到着からほぼ1時間、見事にソーシャルディスタンスを保ちながら、僕は会場内をゆっくりと流されたものだ。
 帰宅しても無為徒食の日々だから暇である。よし、もう一度聴いてみるか! と、石原の2曲を、今度はウォークマンで吟味する。聞きながらジャケット写真を見直すと、少しもの言いたげで穏やかな笑顔には、今作の達成感めいたものまでのぞける気がした。それにしても何年か前、都はるみのラストコンサートの楽屋で顔を合わせたきりだから、石原にもずいぶん長いこと会っていない。歌手生活は33年めに入っているだろうが。




殻を打ち破れ231回


 3月15日、東京・関口台のキングレコード・スタジオへ出かけた。秋元順子の新曲『いちばん素敵な港町』と『なぎさ橋から』の編曲打合わせ。作曲した杉本眞人とアレンジャー宮崎慎二が話し合うあれこれをプロデューサーの僕はニコニコ聞いている。大病克服中の作詞者喜多條忠は所用で来ない。ま、無理をすることもない――。  

 その日、友人の古川健仁プロデューサーは別室で福田こうへいのレコーディングをしていたらしい。

 「残念だったな。来てると判ってりゃ、のぞいてもらいたかった。福田とね、三橋(美智也)さんのデュエットをやってたの。古いカラオケと三橋さんの声を、資料から取り出してさ…」

 後日彼からかかって来た電話に

 「そりゃあ面白そうだな。CDに焼いて送ってちょうだいよ」

 と僕は応じた。

 そのまた後日、届いたCDを聴いてみる。『おさらば東京』『星屑の町』『赤い夕陽の故郷』の3曲。テンポが快いのが共通点で、当時のカラオケは音が薄めでシンプル。それに合わせて三橋と福田が、かわりばんこに歌ったりサビで合唱したりする。民謡調の先輩後輩がそれぞれ小ぶしコロコロで、のうのうと歌っている。発売は6月になると言う。

 「ま、単なる思いつきですがね…」

 と古川は言う。この人は平成19(2007)年にも妙な思いつきのアルバムで、レコード大賞の企画賞を取っている。『作詞家高野公男没後50周年記念・別れの一本杉は枯れず』という代物。高野の作詞、船村徹の作曲、春日八郎歌の『別れの一本杉』は、昭和30年代に大ヒットした望郷歌謡曲の名作だけに、カバーした歌手は山ほど居る。その中から目ぼしいのを集めて、スターの共演ものにしたアイデア商品だ。同じ楽曲だけ並べても歌手それぞれの味つけ、仕立て方が多彩だから、聞き手を飽きさせない妙があり、コロンブスの卵古川版だった。

 届いたサンプルの表示は「福田こうへい&三橋美智也」と、福田が前に出ている。ナツメロものなら三橋が先になろうが、位置づけは今が旬の福田のサービス盤が狙い。コロナ禍が長く続いて、歌謡界もご他聞にもれず万事手づまり。その中で話題先行型の打開策に…の算術もありそうだ。

 ≪星屑の町かぁ…≫

 久しぶりに三橋の声を聞いて、僕はふと、往時の体験へ引き戻された。あれは昭和38年の秋。向島の料亭で飲んだあげくに、大スター三橋と駆け出し記者の僕が、あわや大立回りの騒ぎを起こした件だ。前年の紅白歌合戦で『星屑の町』を歌った三橋は、声もボロボロの惨状、大舞台での大失態である。今年も出演するそうだけど、一時でも「引退」を考えたりはしなかったものか? どんなに角の立たない言い回しをしたところで、僕の質問は彼の痛い所を突いた。激怒した彼はテーブルをひっくり返して

 「何が言いたいんだ! 表へ出ろ!」

 芸者が悲鳴をあげて逃げる。立ち上がった三橋と僕の間に割って入ったのは、同席した国際劇場のプロデューサーと演出家。それをきっかけに僕は頭を抱えて遁走した。

 仕事は万事本音…と思い込んでいた僕の若気の至りだが、そのころ三橋は、深刻な家庭問題の悩みが限界に達していたと後で知る。これを機に僕は彼との望外の親交に恵まれた。

 60年近くもこの世界でネタ拾いをやれば、いろんな出来事に出っくわしている。舞台裏話、ヒット曲にまつわるあれこれも山ほど体験した。そして昨今、僕は昭和歌謡の「知ったかぶりじいさん」になっている。





「無名」というタイトルの歌詞は、ずいぶん前から僕の引き出しに入っていた。田久保真見が書いた5行詞で、持って来たのは歌手の日高正人。
 「うん、お前さんにゃ似合いだな。いつ世に出すか、楽しみにしてるよ」
 と、彼を励ました記憶がある。もう喜寿になるが、若いころたった一人で武道館をいっぱいにして〝無名のスーパースター〟を売りにして来た男だ。
 その詞がこの4月、都志見隆の曲、日高の歌で発売になった。
 桜の花ほどの派手さはないが、土手のつくしの真っ直ぐさ…を前置きに、
 〽一生懸命、一生懸命生きたなら、無名のままでも主役だろ
 と一番を結ぶ。僕は昔からよく彼を紹介する時
 「イケメンでもない。いい声でもないし、歌が特別上手いわけでもない。しかし〝一生懸命〟がそのまんま背広を着て、汗水たらして走り回るのを見たら、後押ししたくなるじゃないか…」
 とコメントして来た。
 容貌魁偉、グローブみたいな手でテーブルを叩いてしゃべる感激家で、感きわまるとすぐに泣く。何十年か前から我が家に出入りし、小西会のメンバーにもなっている憎めない男。それがボソボソと「無名」を歌うのは、決して激情が胸につまってのせいではない。5月11日に電話をしたら、
 「歩行器で、やっと歩けるようになった。もう大丈夫です!」
 と、あまり大丈夫そうもない口調の近況報告がある。去年の8月21日に自宅前で転んで首の骨を折った。脳梗塞をやったことがあり、もろくなっていたか。意識不明のまま大病院にかつぎ込まれて手術、12月に退院するところまで奇跡的に回復して、以後ずっとリハビリ生活を余儀なくされて来た。ご難はもうひとつ重なっていた。日高の意識が戻らぬ時期に、母親スエミさんが97才で亡くなっている。彼女に何事かあった時は、僕に葬儀委員長を頼むと、母思いの日高の伝言を受けていた僕も、知らぬままの出来事だった。
 しかし、もともとしぶとい男である。そんな心身ともに最悪の状況の中で、彼は「無名」のレコーディングをした。若いころは大仰なくらいの〝張り歌〟が得意。それが年の衰えとともに〝語り歌〟に転じた。ところがよくしたもので、武骨、世渡り下手のキャラそのままが、優しげな語り口に生きる。それに今回加わったのが、人生の奈落を見た男の、苦渋の息づかいか。
 〽何もなくても温もり情け、そばにお前がいればいい…
 と田久保の歌詞は三番で人生の相棒を登場させる。歌謡詞によくある手法だが、日高の場合はそれが現実に重なった。8年ほどのつき合いの酒場のママ恵子さんの存在で、彼女が日高を献身的に看病した。手術には親族の同意を必要とする。恵子さんは大阪から駆けつけた日高の実妹と相談、急遽日高の籍に入って医師に手術を懇請した。回復しても自失気味の日高の背を押して、
 〽一生一度の人生だ、無名の主役を生きてゆく
 と、この歌を結ばせている。
 僕は昔から日高に、
 「三流のてっぺんを目指せよ」
 と言い続けて来た。一流のスターになるには、それなりの才能と人徳、有力な業界勢力との出会いや、作品に恵まれる地の利、時代の風をはらむための時の運を必要とする。デビュー以後10年前後までにそれを得ぬまま、それでもこの道で頑張るのなら、「三流」の立場を自認、ひそかに「三流」の矜持を胸に、居直る必要がある。そんな境遇の歌手は大勢居る。目指すべきはその軍勢のトップ、つまり〝てっぺん〟ではないのか!
 作品と歌手の行きがかりは不思議である。冒頭に書いたように田久保の歌詞は、以前から僕の手許にあり、彼の生きざまを表現していた。それが日高の再起作として、この上なしのレアな説得力を持ってしまった。コロナ禍で、歌手たちはみな活動の場を失ったままだ。その分日高は、ステージに戻るためのリハビリの時間も与えられたことになる。
 「これが最後です。頑張ります。三途の川からあにさんに呼び戻して貰ったんですから!」
 日高は妙なことを口走った。〝あにさん〟は彼が使う僕の呼び方である。お前が三途の川を渡るのを、俺が止めたと言うのか? この期におよんで、日高は嘘のつける男ではないし、場あたりの冗談にするネタでもない。おそらくはうなされるままの夢にでも、いつもきついことを言う僕を思い出したのだろう。だとすればこちらもこの際、性根をすえて最後の後押しをせざるを得まい。 



 


「こちらはもう、しょうけつを極めておりますわ、はははは…」
 電話でいきなり、作詞家のもず唱平がむずかしい熟語を使う。長いつきあいで、そういう癖のある相手と判っているが、さて「しょうけつ」ねえ。大阪のコロナ禍激化を指して「悪いものがはびこる」の意だろうが、文字が思い浮かばない。突然出て来たとして、読めはしても書けはしないな、これは…。
 「こっちももうすぐ、そっちに追いつくよ、困ったもんだ」
 と、大阪―東京(居住地で言えば神奈川か)のやり取りをしたあと、急いで辞典をひく。歌手の上杉香織里が「風群(かぜ)」でデビューした時の記念品。奥行に1993年10月の改訂版で第8刷発行とある。21年もお世話になっているということか!
 ところで「しょうけつ」だが「猖獗」と書く。凄い字面だこれは…と閉口しながら、近ごろは政治家も書けそうもない熟語をよく使うことを思い出す。例えば医療事情が「ひっぱく」しているケースだが、字にすれば「逼迫」である。必要となれば「ちゅうちょ」なく…と彼らはよく言うが「躊躇」なく発言はするが、一向に実行が伴わず、それやこれやで今や3回めの緊急事態宣言である。
 4月26日、渋谷・神泉のUSEN本社へ出かけた。都知事は「東京へ来るな」と言うが、神奈川・葉山からその禁を犯す。「不要不急のことで動くな」と、神奈川の知事も言うが、こちらはUSEN昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」の録音で、7月放送分を早めに仕上げねばならない。今回のゲストは歌手の原田悠里だが、彼女のヒット曲27曲をはさんで4時間超のおしゃべり。レギュラーの相方チェウニともども、原田の歌手生活40年を総括、その生き方考え方に迫る。7月の毎週月曜日に1日6回放送する大作である。「不要」などと言っては欲しくない!
 感染対策はきちんとやる。僕と原田はマスクしたまま、透明のボードをはさんで向き合う。原田の隣にいるチェウニは、透明のお面をかぶり、マスクをかけ老眼鏡までだから、一体どこのおばさん? 3人の話が盛り上がるのに水を差しかねないのは、何回かの中断と換気。力の入った仕事のあとは、お疲れさん! の一杯をやるのが習慣の僕も、スタジオを出ると、
 「じゃあね!」
 の一言で逗子行きの湘南新宿ラインに乗る。
 ご他聞にもれず原田も、仕事は全部延期や中止で自粛生活の日々。そこで彼女が編み出したのが「一人合宿」だという。読書などの勉強は教師と生徒、体育の時間も生徒で、食事のためには料理人など、一人で何役かをこなすことにし、それぞれの行動を時間表に書き込み管理する。一日の時間をずるずる怠惰にしないためのアイデアか。
 「初めて聞くけど、それいいかも!」
 と、チェウニが共鳴した。
 原田の血液型はAである。ものごとにこだわるし、徹底して学習したがる。著書に「ひばりとカラス」があって、美空ひばりの魅力とマリア・カラスの凄みを並べ合わせて追及した。二人の生い立ちや行動を時系列でチェックして、タイムスケジュール表まで作ったそうな。一人合宿もそうだが、規範、規律を大事にし、それを自分にもあてはめる。天草の生まれで育ちだから、土地言葉でいう「ぴら~っと」する時間も作りはするが、これは緊張と開放の間の小休止らしい。
 子供のころからの歌手志願、鹿児島大学教育学部で音楽を学び、一時横浜の小学校で教師をしたのは、父親の希望に添ってみせながらの親離れで初志貫徹。北島三郎に直訴の型で弟子入りしたことはよく知られているが、それまでの5年ほどはスナックで弾き語りをやったり、業界人にだまされて金を要求されたり…の苦い経験もそこそこした。大学で学んだのはソプラノのオペラ。それが歌謡曲・演歌に転じるには「地声が使えない。小節が回らない。間(ま)が取れない」の3重苦も体験した。
 この日録音中に原田が泣きだした。チェウニがティッシュペーパーを渡したのは、彼女が二葉百合子に師事、継承の役目も託された浪曲「特攻の母~ホタル」に触れた時。散華した若者たちの青春の思いが、CD化の仕事の域を超えていつまでも原田の脳裡や体内に深く根づいているらしいのだ。
 「コロナからも学ぶことは沢山あるよね」
 変異ウイルスの猛威が関西圏、関東圏に拡大しているところへ、もっと強力なインド種まで出現した。素顔がキッとなった原田悠里の対応は、さて、これからどう展開していくのか?僕もオチオチしていられなくなった。





殻を打ち破れ230回


 2021年2月27日(土)午後4時30分、所は東京・明治座の1階席正面11列25番に、僕は居た。そこから左へ3席ほど空いて、林あまりが居る。歌人で演劇評論家、大学の先生で敬虔なクリスチャンという才媛。30年近いつきあいの僕らが、並んで向き合った舞台は「坂本冬美芸能生活35周年記念公演」で泉ピン子が友情出演する。

 「しかし、お前さんと並んであれを聞くことになろうとはな…」

 「そうですね。あれからもう27年も経ちますし…」

 これ、芝居ではなく、客席での僕らのやりとりである。昔々の1994年、僕がプロデューサーで彼女が作詞家、三木たかしと一緒に作ったのが『夜桜お七』で、冬美は第二部のショーのおしまいに、これを歌うことになっている。ま、それは見てのお楽しみということにして…。

 第一部は人情喜劇「かたき同志」(橋田壽賀子作、石井ふく子演出)である。幕が上がると舞台を橋が横切っていて、その上を人々が行き交う。問題提起するのは若いカップルの丹羽貞仁と京野ことみ。相思相愛なのだが、橋をはさんであちらとこちら、丹羽は大店の呉服屋の若旦那、京野は居酒屋の娘で身分が違って許されぬ仲。双方、今夜あたりに二人の決意を親に伝える約束をする。

 そこへ息子や娘を探して登場するのが二人の母親で、呉服屋の女あるじ坂本冬美は、ひきずる着物の裾をさばいて、やたら上品な奥方ふう。他方の泉ピン子は酔いどれ客をさばく下町居酒屋の女将で、気っ風のよさ丸出しだ。

 筋書きを知らぬまま見れば、時代劇版ロミオとジュリエットに勘違いしそう。ところが本題は母一人子一人2組の母が、意にそぐわぬ我が子にいらだって「かたき同志」になるお話。ピン子が冬美の大店へ乗り込んだり、冬美がピン子の店へ敵情視察に現われたりの、角突き合いが丁々発止。ついにはお互いに身の不運を嘆き、無念を共有するにいたる。

 小気味いい演出に、泣き笑いの客席を沸かすのは、年増2人が泥酔する大詰め。わが子の祝言なんかより、女ひとりの老後に思い当たり、思いのたけをぶつけ合い、飲めや歌えの自棄っぱち大騒ぎ。そのあげくピン子は酔いつぶれ、冬美は仁王立ちで天を仰ぐ。2人の最後のセリフは、

 「ひとりぼっちは、淋しいよねェ…」

 でチョン! だ。

 ≪いいよなあ、恵まれてるよ。冬美は…≫

 僕の感慨は個人的になる。2年前の6月、冬美・ピン子はこの劇場で「恋桜-いま花明かり-」をやった。同じ月、大阪・新歌舞伎座は松平健・川中美幸特別公演「いくじなし」で、双方石井ふく子演出。僕はこちらに、ご町内世話役の甚吉で出演した。大物演出家石井とは、記者時代に面識はあったが、役者に身分を変えてからは初対面。大いに緊張したが、それなりに一生懸命だった。

 それが今回は、冬美が再び石井演出で生き生きとし、僕は音楽評論家に逆戻り「冬美の“進化”と“深化”」なんて能書きをパンフレットに書いたに止まる。石井演出でまた演りたい! 恥ずかしながら年甲斐もなく、役者のやっかみが先に立つのだ。

 さて、ショーの大詰めの『夜桜お七』だが、歌う前に冬美は客席の僕ら2人の名前を連呼、4半世紀越えの謝辞とした。身にあまる光栄である。冬美は少し肉厚になった歌声、年輪なりの歌唱の深彫りで、お七を往時よりグッと艶っぽくしていた――。

 「あら、いい月が出ている!」

 一緒に劇場を出たら、林あまりが空を見上げて芝居のセリフみたいに一言。終演が午後7時35分である。非常事態宣言下では、行きつけの店はみな8時閉店する。やむなく僕らは冬美とまん丸の月に別れて、素面のままそれぞれのねぐらへ帰る電車に乗った。



 頼まれて単行本の帯を書いた。推薦コピーである。
 「タフな行動力に感動! 山陰を離れず音楽を糧に、辿った数奇な半生に脱帽。小説にしても面白すぎる!」
 いささか長く歯切れが悪いが、何案か渡したものを本人がつなぎ合わせて、こうしたいと言うからOKした。石田光輝著「あの頃のままに~遠回りしたエレキ小僧」(小さな今井刊)。
 届いた本を見てニヤリとした。帯に名を連ねる向きが他にも2人居て、作、編曲家の伊戸のりおと司会者、ラジオパーソナリティーの水谷ひろし。双方僕も旧知の間柄だが、そう言えばエレキギターだのグループサウンズだのの体験者として、著者石田と彼らには〝お仲間感〟がある。
 石田光輝の名は、多くの作詞家、作曲家におなじみのはず。というのも、日本作曲家協会が主催する作曲コンテストの常連応募者で、入賞6回、石川さゆりの「長良の萬サ」鳥羽一郎の「秋津島」川中美幸の「ちゃんちき小町」などがCD化されている。鳥取・境港生まれ、米子市在住の有名人なのだ。
 このコンテストの初期、僕は協会側の担当者三木たかしと組んで、選考の座長を務めていた。石田と知り合ったのは石川さゆり用に「長良の萬サ」を選んだ時。作詞者は峰崎林二郎だった。前後してこの催しで親しくなった歌書きには、田尾将実、花岡優平、藤竜之介、山田ゆうすけらが居るが、当時は皆無名。
 「グランプリを取って、仕事に変化は生まれたか?」
 と聞いてみると、
 「作品の売り込みに行くと、お茶が出るようになったけど…」
 と異口同音だった。登竜門を突破しても、仕事環境が劇的に好転することはない狭き門―。
 それならば…と「グランプリ会」を作った。受賞者が集まり、用意した課題詞を競作、売り込み作品の完成度を上げようという企み。切磋琢磨しながら親睦も深め、作曲界の次代を担うグループになろう! とぶち上げたら、みんなが賛同した。最初のうちは狙い通りで、意欲作がいくつも生まれたが、そのうち厄介なことになる。グランプリ受賞者は年に2人ずつ出るから、会員がどんどん増える。ついには当時経堂の我が家のリビングにあふれんばかりになって、何のことはない盛大な酒盛りに終始する騒ぎに。
 そんなところへ石田が登場した。米子からはるばる上京して、はなから突っ張り加減。メンバーは多くが東京在住。それぞれが一丁前の面魂でカンカンガクガク。石田とすれば地方からの新入りだが高校時代からGSバンドを組んで、地元ではちょいとした顔…。その負けん気が座の一部に渦を作った。呼応する連中も血気盛んで頼もしくはあるが、これでは全然勉強会にならない。別に当方負担の酒、肴代が惜しかった訳ではないが、会は間もなく解消した。
 その後しばらく、石田は疎遠になるが、コンテストでの活躍ぶりは作曲家協会報でよく見ていた。後で知るのだがこの人、高校時代から独学で作詞、作曲も試み、エレキバンド、ザ・スカッシュメンを組んで勉強などそっちのけ。卒業後にサラリーマンやデザイナー見習いなどもちょっとやるが、おおむねキャバレーやクラブのバンドマンと歌手の生活。地元では一流どころにのし上がるが、夢は作曲家だから大阪、東京へひっきりなしに現れて作品の売り込み、一部形にはなったがヒットには恵まれず「賞獲り男になるぞ!」宣言。晩年に高校時代のザ・スカッシュメンを再結成するなど、音楽世界を休む暇なく右往左往した。
 その晩年は悲痛でもあった。自分で興した音楽事務所が仲間の裏切りでつぶれて自己破産。膀胱がんを発症、それがこじれて4年間に11回も手術するが、その間にもコンテスト応募は続き島津悦子の「鹿児島の恋」を出すしぶとさ。全快すれば復活ライブ、知人の支援で自前のライブハウス「SHOWA66」を持つのが2016年4月1日、66才の誕生日という嘘みたいな話…。
 単行本「あの頃のままに」は70才になった石田がそんな自分の蛮勇はちゃめちゃ音楽盛衰私史を、あけっぴろげに書きまくった197ページ。面白くておかしくて、時に切なく胸を衝かれる手記である。これがまた地域コミュニティ「小さな今井」のコンテストに応募、特別賞を受賞して書籍化にこぎつけたあたりが、いかにも石田流。自称〝生涯現役のエレキ小僧〟境港に快男児あり! と言わねばなるまい。



 通販番組のうまいものにオーバーに反応したり、俳句をひねったり。笑顔のままの毒舌が人気のおっさん梅沢富美男が、絶世の美女になるのだから大衆演劇は愉快だ。1月にやる予定がコロナ禍で延期、3月にやっと幕が上がった「梅沢富美男劇団千住新春公演」を見に出かけた。東京・千住のシアター1010で、ゲスト出演は中堅どころの門戸竜二と竜小太郎。
 感染予防万全の観客がドッと沸く。いきなり登場した梅沢は、いや味な年増芸者で、化粧はまるでおてもやん。それが後輩芸者の門戸に無理難題を押しつける。大金を落として途方に暮れる番頭の竜を、門戸が金を立て替えて救おうとすると、
 「いい役を貰って、もう…、いい気分だろうよ、そりゃあ!」
 梅沢が聞こえよがしに呟く。
 門戸芸者が相思相愛の若侍との縁を断たれる愁嘆場では、
 「いつまでやってんだよ、まったく。いい加減にしろよ…」
 と半畳を入れる。芝居の登場人物のままの野次で、思いがけず毒舌おじさんの一面をひょいとのぞかせる。その間(ま)のよさと程のよさ、座長のいたずらに客は大喜びだ。
 公演は3部構成。1部が芝居で2部が歌謡オンステージ、3部が劇団揃い踏み「華の舞踊絵巻」となる。1部でアクの強い三枚目をやった梅沢は、2部は黒のタキシードでちょいとした紳士だが、ここでまた、
 「ヒット曲はこれっきゃねえんだから…」
 と自虐ネタでニヤリとしながら「夢芝居」と新曲を2曲ほど。あとは司会者ふうに竜と門戸を呼び出す。竜の歌は時代劇扮装で「新宿旅鴉」門戸はスーツで「デラシネ~根無し草」
 門戸は両親が離婚、捨てられて関西の施設で育った。旅興行で全国を回れば、生みの母親に会えるかも知れないと役者になったエピソードの持ち主。それを下敷きにして「デラシネ」は田久保真見の詞、田尾将実の曲、矢野立美の編曲で作った。僕は門戸の座長公演ではレギュラーのぺいぺい役者。それが歌となると、こちらがプロデューサー、彼が歌手と、立場が逆転するつきあい。
 「それにしてもだよ、子供を何人もおっぽり出して居なくなるなんざ、ろくなもんじゃねえな。そんなおっ母さんなんか、探すことはねえよ」
 梅沢のきつめのコメントで歌に入るから、門戸のさすらいソングが妙に沁みる。ありがたい曲紹介と言わねばなるまい。
 《何度聞いても飽きが来ないってことは、いい歌だってことだな…》
 と、客席の僕はひそかに自画自賛する。近々次作を出すつもりの2曲が出来ていて、門戸は作曲した田尾のレッスンに通っている。舞台で歌い慣れたせいか、腕があがって来ているのが楽しみだ。
 お待たせ! の第3部は、豪華絢爛である。出演者全員の揃いの衣装や背景や小道具のあれこれが、投資!? のほどをしのばせる。それが舞台一ぱいに妍を競い、その中心で梅沢や門戸、竜が舞う。
 「正直言って、金かけたよ、うん、これには自信がある、見ててくれよ!」
 2部の歌謡ショーで予言した通り、ぜいたくでカラフルな見せ方だ。テレビでは素顔が多い梅沢が、こうまで変わるか! と感嘆するみずみずしい美女になる。踊りも派手めの緩急で、決まりのポーズでは、すいと視線を泳がせ、ふっと口角を上げる。拍手と嬌声、それにクスクス笑いもまじって、劇場の空気がとても親密だ。
 僕は多くの大衆演劇を見て来た。年末恒例の沢竜二全国座長大会でも、たくさんの役者たちと一緒の舞台を踏む。見聞した舞踊の決まりシーンでは、大ていみんなが見得を切った。大なり小なりだが「ことさらに目立つ表情や所作」を示すのだ。俗に言う〝どや顔〟だが、ファンはそれを支持、歓迎する。ところが梅沢はそこが違う。「どうだ!」と決めるかわりに「ねえ、こんな感じ?」と客に同意を求めるやわらかさがある。
 〝下町の玉三郎〟で人気を得て以後、古稀も越えた今日までの年月で、もしかするとこれがこの人が行き着いた境地なのか。そう言えば毒舌と呼ばれる語り口も、実は率直に本音を語る心地良さに通じるのだ。この人は積み上げて来た芸も、今また手にしている人気も、誇示することなく、上から目線にならない。芸の芯にあるのは人柄そのもの。それをよく知っているファンを目顔で誘って、一夜の娯楽を「共有」する気配が濃いのだ。
 大詰めは「劇団後見人」の位置づけの兄梅沢武生との競艶。葛飾北斎か? と見まがう荒波の絵をバックに、演じるのは美男美女の道行きである。舞踊から一歩踏み込んだドラマ仕立てのあの手この手に、見物衆はヤンヤ! ヤンヤ! だった。


殻を打ち破れ229回

 その娘とはしばし顔を合わせていた。笑顔がよくて物腰てきぱき。初対面からごく自然な愛嬌があり、長くつき合ってもなれなれしくはならない。人づき合いがいいバランスの彼女を、親友の歌手新田晃也は「俺の弟子です」と、事もなげに言った。

 その人・春奈かおりが、久々の新曲を出した。『さとごころ』『初島哀歌』『愛でも恋でも』の3曲入り。全部新田の作曲で3曲めは師弟のデュエットである。新田は長く演歌のシンガーソングライターとして活動しているが、今回はプロデューサーも宣伝マンも兼ねる気配。CDは彼から届いたが、

 「さっそくご挨拶かたがた資料を持参したかったのですが(コロナ禍で)思うに任せず…」

 と、ていねいな手紙つきだ。

 ≪ほほう、可憐なくらいのいい声で、望郷ソングを素直に歌っている。技を使わないところが、作品の色に合っているか…≫

 さっそく聞いてそう思った。新田は昔々、福島・伊達から集団就職列車で上京、歌への情熱やみがたく、70代の今日まで一途に孤軍奮闘して来た。それだけに望郷の思い切々…の作品が多く、今作は師匠のそんな心情に、春奈が巧まずに反応したことになろう。

 10年ほど前、大衆演劇の名座長だった若葉しげるに、いきなり

 「うちの子が世話になってるんですよね」

 と言われて驚いたことがある。全国座長大会の主宰者沢竜二に役者として誘われ、浅草公会堂の楽屋に入った日のこと。こちらぺいぺいの老役者、あちら名うてのスター役者だから、緊張しっ放しの僕は咄嗟に誰のことか思いつかなかった。

 それが春奈の件だった。彼女は母親に連れられて「若葉しげる劇団」に参加、3才で初舞台を踏んだらしい。10年後に母親が「若奈劇団」を旗揚げして6年間、房州白浜のホテルに専属、その後福島・会津若松でまた常打ちの日々を過ごす。その間、彼女はどうやら一座の看板スターだった。それがカラオケ大会で認められ『墨絵海峡』(坂口照幸作詞、弦哲也作曲)でデビューしたのが1996年。以後新田に師事してCDは今作が4作めだから、今どき珍しいのんびり派だ。

 ≪何だ、同業さんなんだ。年はずっと若いが、キャリアじゃ俺の先輩じゃないか!≫

 僕は沢竜二の全国大会にその後もレギュラー出演、若葉には何くれとなく世話になり、教えられること多かった。人波にまぎれこみそうに、小柄でごくふつうのおじさんが、舞台上はまるで別人の芸、かわいいお尻ぷりぷりの町娘姿など、惚れ惚れとした。知人の橋本正樹の著書「あっぱれ!旅役者列伝」(現代書館)によれば1962年、関西の猛反対を押し切って上京、三軒茶屋の太宮館の専属になったが、高速道路の建設で劇場が廃業、手痛いショックを受けた…とある。

 ≪えっ! こちらはごく近所だった!≫

 僕はまた驚く。東京五輪の直前、国道246のその工事で僕も難儀した記憶がある。当時、三軒茶屋の左手奥、上馬の西洋ぼろ屋敷に住み、若者たちが勝手に出入りして、議論と酒盛りに明け暮れた日々があった。売り出し前の作曲家三木たかし、中村泰士、作詞家の石坂まさお、歌手は浅川マキ、藤圭子らが顔を出し、最近新田とコンビの仕事をしている作詞家の石原信一も常連だった。

 世間は狭いと思うし、縁は異なものではないか! 春奈かおりのおっとりお人柄の歌を聞きながら、いろんな顔が数珠つなぎである。

 春奈の母親は3年前に引退、劇団旗揚当初に縁のあった房州白浜で、居酒屋良志久(らしく)庵を開いているとか。春奈はここでも看板娘なのだろう。コロナが下火になったら一度、海が間近のその店へ、新田ともども行ってみたいと思っている。




 「この際だから、演歌の王道を行きましょう」 と、川中美幸とそのスタッフは、肚を決めたらしい。昨年その路線の「海峡雪しぐれ」を出し、今年は「恋情歌」で、姿勢を踏襲している。作詞がたかたかしから麻こよみに代わったが、作曲弦哲也、編曲南郷達也は変わっていない。
 僕は去年の2月、明治座で「海峡雪しぐれ」をたっぷり聞いた。彼女はショーで毎回歌ったし、休憩時間にも繰り返し流されていた。共演者の僕は楽屋でそれを聞きながら、彼女らの言う「この際」の意味を考えていた。ここ数年、女性歌手たちの仕事はポップス系に傾倒している。アルバムやコンサートではカバー曲が目立つし、シングルもポップス系の味つけが増えている。
 川中はきっとそんな流れを見据えて「演歌の王道」を極め、守る思いを強めるのだろう。ベテランの域に入って、内心「せめて私ぐらいは…」の自負も抱えていようか。
 改めて2作品を聞き直す。前作「海峡…」は、
 〽いまひとたびの春よ、春…
 と、幸せを待つ女心が一途で優しいが、取り巻く気候はきびしい雪しぐれだ。それが今作「恋情歌」だと、
 〽たとえ地の果て、逃れても、あきらめ切れない恋ひとつ…
 と女心が激しくなり、情念がとても濃いめだ。弦が書いたメロディーも、前作はやや叙情的だったが、今作は冒頭からガツンと来て、起伏も幅が広く激しい。
 川中の歌唱は2曲とも前のめり気味。思いのたけ切々で、主人公の女性の胸中を深く歌い込もうとする。演歌本来の「哀訴型」で、これが彼女の「王道」や「本道」の中身だと察しがつく。その実彼女は「ふたり酒」や「二輪草」の、歌い込まないさりげなさや暖かさの包容力でヒットに恵まれた。それはそれで身の果報だろうが、本人はもともと、身をもむくらいに切々と、やっぱり歌を泣きたいのだと合点がいく。
 はやりものや文化は何事によらず、古い良いものの極みを求める努力と、古い殻を打ち破る新しいエネルギーが二本立てで、せめぎ合って前へ進むものだろう。そういう意味では、川中が「この際…」と思い込む世界は、古い側に属すことになる。しかし古い器に新しい酒…の例えもある。昔ながらの「哀訴型」に、今を生きる彼女の感性が投影され、極みを目指そうとするなら、それはそれで今日の産物になる。作家もスタッフも、呼吸しているのは現代だ。
 僕は新聞屋くずれ。長く媒体特性を軸に見なれない面白いもの、時流の先端になりそうなものに強く反応して来た。下世話な新しいもの好きである。そのせいか、女性歌手たちのポップス傾倒に好意的だが、しかし、それにも得手不得手、似合う似合わないはある。それなのに、一つが当たると一斉になだれを打つこの国の付和雷同ぶりが、歌謡界も例外ではないのはいかがなものか。対極にあるものをないがしろにしない踏み止まり方も応援したいものだ。
 話は変わるが、市川由紀乃の新曲「秘桜」を聞いて《ン?》と感じたことがある。彼女もまた「哀訴型」の歌手だが、その感情表現はやや醒め加減で、情緒的湿度はさほど高くない。そのほどの良さが〝今風〟なのだが、感じ入ったのは彼女の歌ではなく、作曲した幸耕平の筆致の変化だ。市川のヒットほかを書き続けて、
 「この辺で俺も一発!」
 とでも言いたげな「本格派」への試みが聞き取れる気がする。
 もともと打楽器に蘊蓄が深い経験のせいか、リズムに関心の強い人と聞いていた。作品そのものも軽快でリズム感の強いものが多い。演歌を書いても多くの歌手に、リズム感の肝要さを説くエピソードをいくつも聞いた。大月みやこでさえそう言われたと話したものだ。
 それが今作では、リズム感第一を棚にあげてメロディー本位、もう一つ先か上かの作品へ狙いがすけて見える。作品の色あいは演歌よりはむしろ歌謡曲だが、亡くなった三木たかしの世界を連想した。いずれにしろ演歌、歌謡曲を守ろうとする人や逆にそれを目指す人がともに頼もしい時期である。
 僕は役者としては川中一座の人間だが、長く彼女とは会えぬままになっている。時節柄芝居の話がなかなかで、お呼びがないせいだが、彼女の側近の岩佐進悟からは、
 「会えぬ日が続き寂しい限り。コロナが落ち着いたら是非とも一献」
 なんてFAXは来る。もちろん委細承知! である。




 中村美律子の「あんずの夕陽に染まる街」を思い返しながら、葉山・森戸海岸を歩いた。花岡優平の作詞作曲。迷いつつも同窓会で帰郷した女性が、泣きたくなるほど愛しい日々を振り返る。街は夕陽に染まって、それがどうやら淡紅のあんずの花の色。心に灯るのは、あの人が好きだった純情時代のあれこれ…。
 ニューバージョンのただし書きがついていた。
 「こういう時期に似合いだから…」
 と、装いを改めての再登場か。ゆったりめの歌謡曲、どこか懐かしいメロディーに、花岡がよく書く〝愛しい日々への感慨〟が揺れる。確かにこの時期、演歌で力むよりは、こういう〝ほっこり系〟が、妙になじむ。
 《あんずなあ、季語とすれば春か…》
 昼さがりの海岸を、巣ごもり体重増対策で歩いていて、歌の季節感に行き当たった。というのも、ひょんなことからJASRACの虎ノ門句会の選者を頼まれてのこと。作詞家星野哲郎の没後10年の会で、門弟の二瓶みち子さんにやんわり持ちかけられたいきさつは、以前にこの欄に書いた。最近令和2年分から小西賞に、
 「ママの手を離れて三歩日脚伸ぶ」関聖子さん
 を選ばせてもらった。会長のいではく賞は、
 「音重ね色重ねゆく冬落葉」これも関聖子さん。
 弦哲也賞は、
 「自然薯の突き鍬錆びて父は亡き」川英雄さん。
 いわば歌書きたちの句会年間3賞で、関さんはダブル受賞、大病をされた後とかで、これで元気を取り戻されるかも…と後で聞いた。
 森戸海岸は、葉山マリーナから森戸神社まで。逗子海岸や一色海岸と比べるとこぶりだが、正面に富士山が鎮座する。ヨットやウインドーサーフィン、シーカヤックなどに、近ごろ流行りの一寸法師ふうスタンドアップパドルボードに興じる人々が点在してにぎやかだ。海岸には老夫婦の仲むつましさや犬の散歩、走る若者、娘グループの笑い声などがほど良く行き交う。
 《しかし、あれはやり過ぎだった。意あまって脱線したようなもんだったな》
 中村美律子の笑顔を15年ほど昔にさかのぼる。彼女の歌手20周年記念アルバム「野郎(おとこ)たちの詩(うた)」を作ったが、シングルカットしたのが「夜もすがら踊る石松」で、阿久悠の詞に杉本眞人の曲。和製ラップふう面白さに悪乗りして、中村の衣装をジーンズのつなぎ、大きめのハンチングベレーで踊りながら歌うと意表を衝いた。ところがそれでテレビに出したら、あまりといえばあまりの変貌に、彼女のファンまでが、
 「あんた、誰?」
 になってしまった。
 そのアルバムは阿久の石松をはじめ、吉岡治の吉良の仁吉、ちあき哲也の座頭市など、親交のある作詞家に無理難題の野郎詞を書いてもらった。中村の衣装は勢いあまっての失敗だったが、作品集自体はその年のレコード大賞の企画賞を取っている。もっともその直後に中村が東芝EMI(当時)からキングに移籍。販売期間がきわめて短く、〝幻のアルバム〟になったオマケもついた。
 森戸海岸が好きな理由はもう一つ、神社手前の赤い橋そばに、古風でいいたたずまいの掲示板がある。これが葉山俳句会専用で、毎月の句会の優秀作が掲示されている。先日その前に立っていたら妙齢のご婦人に、
 「皆さん、お上手ですよねえ」
 と同意を求められた。
 「そうですね、実にいい!」
 と、僕は笑顔を返したのだが、短冊にきれいな筆文字の一月例会分では、
 「小魚の跳ねる岬を恵方とす」矢島弥寿子さん
 が、海のそばで暮らす人の実感いきいき。またしても書くが〝こんな時期〟だからこそ、小さな生き物のエネルギーに、先行きの望みを託す気持ちに同感する。
 もう一句、胸を衝かれたのは、
 「かの山もかの川も見ず年明くる」増田しげるさんで、コロナ禍自粛のままの越年なのか、もしかすると…と、まだ見も知らぬ詠み人の体調まで少し気になったのは句の静かさのせい。
 神社から海岸通りへ戻り、御用邸方角へ少し歩くと真名瀬(しんなせ)という漁港がある。こちらもこぶりで遊漁船が四、五隻、未明から昼ごろまでに出たり戻ったり。小さな舟の二、三隻は漁師の仕事用か。僕が散歩する時刻には、みんな一仕事終え人影もない。それを見回して、
 《ふつつかながら俺も一発いってみるか…》
 とその気になって一句ひねった。
 「漁港のどか、マストに鴉こざかしげ」
 別に鴉にふくむところがあるわけではない。すいっと横切ったカモメを目で追うさまがそう見えただけのことだ。


殻を打ち破れ229回

 『王将一代』と『王将残照』という歌を聞いている。正月の4日、コロナ禍の急激な拡大で、いつも自宅に人を集めた忘年会も新年会も今回はなし。つれあいは仕事で東京へ出ており、一人きり、猫二匹相手の自粛生活のひとときで、机の上のCDに手が伸びた。2003年10月22日発売とある。

 作詞は友人の峰﨑林二郎、作曲と歌は50年来のつき合いの佐伯一郎だ。2曲とも将棋の坂田三吉が主人公、

 ♪浪速根性どろんこ将棋 暴れ飛車だぞ勇み駒…

 ♪苦節春秋十と六 平で指します南禅寺…

 などと、勇ましいフレーズが並ぶ。それに哀愁ひと刷毛の曲をつけ、佐伯の歌は声を励まし節を動員して「ど」のつく演歌。めいっぱいに歌い切って“どや顔”まで見える。

 ≪彼の会もにぎやかだったな。昔なじみの顔が揃って、“地方区の巨匠”の面目躍如だった…≫

 暮れの12月23日、浜松で開かれた佐伯のイベントを思い返す。畠山みどり、川中美幸、北原ミレイをはじめ沢山の花が会場を取り巻く。ロビーには芸能生活65年分の記念の品がズラリ。

 「小西さんと一緒に出てるよ、ほら!」

 と、和枝夫人の明るい声に呼ばれると、大型テレビに彼が歌い、僕が能書きを言っている場面が映っている。あれはスポーツニッポン新聞社を卒業 NHKBS「歌謡最前線」の司会を任された番組の1シーンだから、2003年ごろのものか。開演前のひととき、会場には佐伯の歌声が流れている。得意とした岡晴夫のヒット曲や船村徹作品のあれこれも。

 そう言えば昔々「船村徹・佐伯一郎演歌ばかの出逢い」というアルバムのライナーノートを書いた。1960年代の中ごろ、飛ぶ鳥落とす勢いのヒットメーカー船村と無名の若手歌手佐伯が意気投合して、曲を書き歌い合った珍しいコラボ盤。それに書き物で加わった僕も、ご他聞にもれぬ“演歌ばか”で、取材部門に異動したばかり、28才の駆け出し記者だった。

 その前後から佐伯との親交が始まる。やがて彼は故郷の浜松に戻り、作曲家・歌手・プロデューサーとして地道な活動に入った。熟年の歌手志願をレッスンし、成果が上がれば芸名と作品を与え、レコード化もして地域のプロ歌手へ道をひらいた。人気が出れば仕事の場も紹介、そのうちに佐伯一門が東海地区で活躍するにぎわいを作る。地元で盛大なディナーショーをやり、勢いに任せて弟子たちを引き連れ、浅草公会堂でコンサートを開くのが恒例になった。トリで歌いまくるのはもちろん佐伯で、僕はいつのころからか彼を“地方区の巨匠”と呼ぶようになった。テレビで顔と名前を売る全国区の人々だけが歌手ではない。地方に根をおろし、ファンと膝づめで歌う歌手たちも、立派なプロだし地方区のスターなのだ。

 佐伯の娘に安奈ゆかりという女優が居る。彼女と僕は一昨年と昨年、川中美幸の明治座公演で一緒になった。その共演を一目見ようと、昨年春、佐伯は明治座に現れた。「無理をするな!」と止めたのだが、言い出したらきかぬ彼は車椅子で、それが彼と僕の最後の歓談になった。

 タネ明かしをしよう。昨年12月23日のイベントは、実は83才で逝った彼の葬儀だった。コロナ禍で家族葬ばかりのこの時期なのに、演歌一筋に生きた彼のために「ラスト・ステージ」を演出したのは和枝夫人や長男の幸介、安奈ら遺族の一途な思いで、会場はイズモホール浜松の貴賓館。乞われて祭壇の前に立った僕は

 「おい、ここはまるで浅草公会堂みたいだな」

 と、少ばかり思い出話をした。冒頭のCDは、その日会葬御礼として配られたものだった。



 「料理なんて、ちゃんとやるの?」
 「うん、いろいろ考えながらね。おたくは?」
 「あたし、やらない。だんながする(笑)」
 熟女二人のやりとりである。ご近所づきあいの主婦の立ち話みたいな風情。そのうち子供は作らないのか、そこまでは望まない、もう年が年だしねえ…と、突っ込んだ話も妙にさりげない。
 会話の主は、実は歌手のチェウニと島津悦子。場所が東京・神泉のUSENのスタジオで、僕ら3人は「昭和チャンネル、小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」を録音していた。コロナ禍対策が徹底しているから換気のために話がしばしば中断する。だからそんな所帯じみた話は、マイクがオフになっている時に限られる。人気稼業の二人だもの、本番中はそんな〝素〟の部分は避けて通るに決まっている。
 番組は月に一度の収録で毎週月曜日に放送中だ。僕が話し相手でチェウニがアシスタント。ゲストで呼んだ人の歌20数曲を聞きながらの四方山話だから5時間近い長尺ものである。長いこと作詞、作曲家やプロデューサーなどがゲストだったが、ほぼひと回りしたので近ごろは歌い手も来る。人選は元NHKの大物でこの番組のプロデューサー益弘泰男氏にお任せ。いずれにしろ気のおけない相手がほとんどだから、雑談めいたやりとりが、いつも賑やか、時に核心を突く。
 近作「俺と生きような」がヒット中の島津は九州の出身。静岡でバスガイドをやった後に東京へ出て、歌手になったキャリア30年超のベテラン。ほだされたと言う相手と結婚して金沢に住み、仕事現場へは長距離出勤を続けている。気性も言動も、こざっぱりした〝男前〟で、飾らずべたつかずの人づき合いのほどの良さが好かれて、作家たちと親交がある。作品が一番多いのは弦哲也で岡千秋、徳久広司がそれに次ぐから、さしずめ3冠。石本美由起、松井田利夫、伊藤雪彦、市川昭介、吉岡治らとも縁があった。うるさ形も多いが、
 「何だか、お酒のもうか、ハイ…なんて感じで、皆さん優しかったわよ、アッハッハ…」
 と屈託がない。
 不要不急の外出は自粛中を強いられる昨今だが、この番組だけはちゃんと神泉へ出かける。そのかわりスタジオでは、美女二人と僕が透明の間じきりで隔てられ、三人ともマスク着用のまま、相棒のチェウニはその上に老眼鏡をかけ、透明のお面までかぶっているから、
 「どこのおばさんヨ」と僕に冷やかされる。
 この人がまた、すたすたと率直な物言い。時に僕が使う熟語に、
 「待って! それ、どう意味ヨ?」
 と割って入るとにわかに日本語教室になる。来日して20年を越え、お祝い騒ぎなしの結婚をし、少し前に日本に帰化していて、
 「あたし、ここに、骨をうずめるからネ…」
 と言う時は、眼も笑わない。16才の時に一度日本へ来た。僕はレコードで彼女のあちら楽曲「どうしたらいいの」を聞いて惚れ込み、会おうと探したら帰国してあとの祭りだった。それが再来日しての「トーキョートワイライト」でやっと会えて、以後ずっと親しいつき合いだ。
 「この人、あたしが初恋のひとだったのヨ」
 と、僕を誰かに紹介する都度、彼女は自慢げな表情を作る。
 そんな気の合い方で、あれこれ突っ込むから、ゲストに来た向きは大変だ。作詞家の池田充男は若い日に、小樽から駆け落ち同然に呼び出した夫人とのそもそもを、根堀り葉堀りしたら、
 「そこまで言わせるか!」
 と慨嘆して、結局全部しゃべった。
 亡くなった作詞家仁井谷俊也は、出演分を2枚のCDに落として、車でいつも聞いていた。内容が彼の一代記になったせいか、
 「あれはいい番組です」
 と、顔を合わせるたびに言いつのった。
 人前に全く出ず〝作詞家は陰の存在〟を通したちあき哲也が「来る」と言うので緊張したのは、がんとの闘病がもう深刻な時期だったせい。珍しく熱い口調で仕事と生き方を語り尽くしたのは、僕との親交へ、覚悟の上のお返しだったのか。
 神泉へ、恵比寿駅からタクシーを使うことがある。逗子から湘南新宿ラインで出ての乗り継ぎ。旧山手通り途中の青葉台に、ひところ通いつめた美空ひばり邸がある。それをひばり家の嫁有香に話したら、
 「収録が済んだ帰りに、是非一報を!」
 ということになった。今は記念館と事務所になっているそこから、近所の〝いいお店〟へ案内してくれるそうな。久しぶりに〝二人呑み〟をやるかな―。


  
 吉幾三の詞や曲にある独特の〝語り口〟と、走裕介の〝歌いたがり癖〟がどう合流できているか? そんなことをポイントに走の新曲「一期一会」を聞いた。結果としては案じることもなかった。その理由の1は、吉の詞が人との出会いはみんな意味がある。一期一会と思えばこそ…と、3コーラス&ハーフを一途に語り続けていること。その2は、メロディーが3連の快い起伏で、一気に歌い切れるタイプだったことだ。
 それを走は、いい気分そうに歌い放っている。もともと声に応分の自信を持っている男が、すっかり解放された気配。しかし、少年時代からあこがれた吉の作品だけに、それなりの敬意を払ってもいようから、歌が野放図になる手前で収まっている。ワワワワーッで始まった男声コーラスが、終始伴走していて、
 《クールファイブの令和版っぽいな》
 と、僕はニヤニヤする。
 作品ににじむ魅力は、若者の覇気だろうと答えを出して、さて、他の3人はどうしているか? が、気になった。走は鳥羽一郎を頭にする作曲家船村徹門下の〝内弟子五人の会〟の1人。先輩の静太郎、天草二郎と後輩の村木弾の間にはさまった四男だ。鳥羽は3年で卒業したが、残る4人の内弟子生活はみな10年前後。師の背中から生き方考え方も学んだ男たちだから、吉も走について、
 「基本的な部分がちゃんと出来ている」
 とコメントしたそうな。
 はばかりながら僕は、彼らの兄弟子として、大きな顔をしている。昭和38年に28才の駆け出し記者として船村に初めて会い、知遇を得た54年のキャリアを、彼らも認めている。そう言えば10年以上前、吉、鳥羽と3人で北海道・鹿部で飲んだことがある。その時僕が鳥羽を呼び捨てで、あれこれこき使うことに、吉が「どうなってんだ!」と気色ばんだ。
 「俺と彼じゃ船村歴が違うのよ、だから兄弟子。鳥羽も弟分でつき合う洒落っ気があるのよ」
 と釈明したら、
 「そんなのありかよ」
 と、吉が納得した笑い話があった。その鳥羽と五人の会の面々は、亡くなった師・船村が遺した作品を歌い継ぐことを使命としている。日光にある船村徹記念館に隣接するホールで、毎年開く「歌い継ぐ会」も見に行っていたが、コロナ禍でこのところ中止が続いている。
 「どうしてるよ、みんな…」
 と声をかけて、酒盛りでもしたい気分だが、ご時世柄それもご法度。ウジウジしかけたら「いい加減にして下さい。一番危険なお年寄りなんですから」と、家人にたしなめられる始末だ。
 《そう言や、彼ともずいぶん長いことごぶさたで、飲んでねえな…》
 と思い出した作詞家里村龍一が、何と吉幾三のための詞を書いていた。新曲「港町挽歌」で、独航船で漁に出る男を、
 〽行けば三月も尻切れトンボ、港のおんなは切ないね…
 と見送る女が主人公。これが相当なツワモノで、船出の前は酒も五合じゃ眠れんし、一升飲んでもまだダメだ…なんてボヤいている。
 各コーラス歌のなかに「どんぶら、どんぶら、どんぶらこ」なんてフレーズがはさまっていて、これが吉の歌の〝語り口〟に似合うあたりが、里村の算術か?
 港の男と女、望郷の切なさ辛さ、それにからむ深酒、親への詫びなどを、男の孤独の小道具に使う詞は、里村のお得意。釧路育ちのやんちゃが漁師になり、カモメを食って先輩にボコボコにされたエピソードを持つ男は、お国なまり丸出しで、奇行蛮行が多い日々を送った。溺れるほどの酒飲みだが、近ごろは、肝臓をやられているらしい、ずいぶんやせたが大丈夫かね…などの、噂の主になっている。詞も曲も自作が常の吉が、唯一の例外として里村の詞を歌う。それも20年ぶりと聞くと、何だか胸がつまる心地がする。
 また北海道・鹿部が出てくるが、里村や岡千秋とよく飲みよく遊んだのがここ。作詞家星野哲郎の毎夏の旅のお供をしてのことだった。宵っぱりの酒、定置網漁へ未明の出船、番屋の朝めし、漁師たちとのゴルフ・コンペ…。寝る暇もないくらい野趣に富んだ2泊3日だったが、呼んでくれた道場水産の社長で〝たらこの親父〟の道場登さんは、お先に逝った星野とあちらで盛り上がっていそうで、その3回忌が済んだところだ。戒名が凄くて「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」何と尚子夫人、長男真一、次男登志男の名の一字ずつが入っている。家族仲よく令和3年を迎えたことだろう。


殻を打ち破れ228回

 何しろ歌い出しから、主人公は「土の中」なのだ。死者をしのぶ歌は数多くあり、決して歌謡曲のタブーではないが、こうまでズバッと来ると、どうしてもドキッとする。タイトルがタイトルだから、多少身構えてはいるにしろだ。

 坂本冬美の新曲『ブッダのように私は死んだ』についてなのだが、やはり冬美本人よりも桑田佳祐の詞、曲への関心が先に立つ。一体、女に何があったのだ?

 悪い男と知りながら、尽くしに尽くして、あげくに殺された女性と判る。男は何食わぬ顔でテレビに出ていたりして、それもシャクのタネだが、優しい口づけに溺れた自分が悪かったのか?彼女は自問したあとに「私、女だもん」仕方がないか…と思い返したりしている。

 桑田という人は、なかなかの曲者である。独特の感性と意表を衝く表現、軽やかな身のこなしの音楽性で、ポップスの雄。それはみんなが認めるところだが、泣かせどころを作る妙手でもある。今作も「所帯持つことを夢見た」なんて、まるで演歌の決まり文句が出てくるし、母親に「みたらし団子が食べたい」と訴えたりする。

 そんな個所が妙に沁みたり、クスクスッとなったりしながら、聞き手の僕らはあっさり彼の術中にはまってしまう。そのうえこの作品は、聞けば聞くほど、意味あいが深く感じられる。その辺を冬美も、あれこれ思いあぐねながら、かなり深彫りして歌っていることに気づく。手紙で桑田に作品をねだって夢が叶い、有頂天の時期から、歌手としての己を取り戻すまでには時間がかかったろう。稀有の作品だが、冬美の歌の仕立て方も、これまでに類を見ない。

 こっちも急に忙しくなってしまうのだ。「ブッダ」は「仏陀」で、悟りに達した人、覚者、智者だな、「お釈迦様」は「釈迦牟尼」の略で仏教の教祖、生老病死を逃れるために苦行、悟りを開いた人だな…と、広辞苑と首っぴきになる。気分は次第に抹香くさくなるが、歌は逆に、やたらに生臭い。

「骨までしゃぶってイカされて」危ない橋も渡った主人公は、魔が差したみたいに手にかけられた。しかし魂はやむを得ないと悟ってみても、体は到底悟れるはずもなく「やっぱり私は男を抱くわ」と、彼女は話を結ぶのだ。それが女の「性」なのだろう。この際「性」は「さが」と読んで「生まれつき」や「ならわし」などの意。そこで彼女は、そういうふうに居直るのか? 諦めるのか? ごく自然に自分を許すのか? 今や妙齢に達している冬美は、思い当たる節があるはずで、それを微妙に、この歌に託していまいか?

 恩師の作曲家猪俣公章が作りあげた彼女の世界を、展開させたのは『夜桜お七』であり『また君に恋してる』だったろう。この2曲で冬美は演歌にポップス系の魅力も加えて、一流のボーカリストの地位を固めた。「もうここまでで十分だよ」ともらしていた彼女が「紅白歌合戦」で桑田に出会い、触発される機会を得る。おそらくは、彼女の中に漠然とあった「飢え」が、突然吹き出し、形を求めたのだろう。

 「私はいつ歌手を辞めてもいい、本当にもう、これ以上何も望まない」

 今作を得て本人はそう言い切るのだが、「さて、どんなもんかな?」と、僕はニヤニヤする。新しい何かを欲しがるのは、彼女の歌い手としての「性(さが)」で、果てることのない「煩悩」なのだから。

 こういう作品が、大きな話題になり、大方の注視と支持を受けるくらいに、時代は変わった。流行歌はこの調子だと、どんどん面白くなりそうだと思う。しかし、カラオケ熟女には一言。この作品はなまじ「歌おう」などとはしないで、じっくり「聴く」に限ると思うのだがどうだろう?



 ここのところ二、三年、気になっている歌がある。昔、淡谷のり子が歌った「別れのブルース」だが、聞いてよし、歌ってよしで、全く古さを感じさせない。作詞は藤浦洸、作曲は服部良一、調べたらレコード発売が昭和12年4月で、何と僕よりわずか一つ年下、84年前の作品なのだ!
 まず、歌詞がすうっと胸に入って来る。「窓をあければ(中略)メリケン波止場の灯が見える」という2行で、情景のその1。次の2行で「恋風乗せて、今日の出船は何処へ行く」と情景のその2が動く。二つの景色を眺めているだろう主人公は気配だけで、説明は一切ない。
 しかし、手渡された二つの情景は、歌謡曲特有の孤独感や寂寥感で色づいて、聞く僕や歌う僕をたっぷりめの哀愁へ誘う伏線になる。その上で、
 〽むせぶ心よ、はかない恋よ、踊るブルースのせつなさよ…
 の2行でビシリと決めるのだ。突然主人公の感慨が示されるのだが、唐突感はない。あらかじめ与えられた二つの情景で揺れた気持ちが、クライマックスに導かれただけだ。
 歌詞もそうだが、メロディーもそんな感興を盛り上げていく。歌詞の最初の2行分はドラマの舞台を見せて客観的。次の2行が去る船影にドラマを予感させ、結びの2行分が歌を決定的にする。2行分1ブロックずつのメロディーが、高揚を積み上げて、最高潮の最後へ三段重ね。尻上がりに情感を色濃くし、フィニッシュあたりの音域は相当に広い。歌って得られるのは一種の陶酔感や達成感だろうか。
 藤浦洸は当時、コロムビアの外国人重役の秘書を務めていたと聞く。歌謡曲お決まりの筋立てやフレーズが前面に出ていないのはそんな経歴の人の新感覚か。作曲の服部良一は関西のミュージシャン出身。戦時中は外国人ペンネームで曲を書いて軍部の検閲をかわし、戦後は笠置シヅ子のブギウギ・シリーズの大ヒットで〝和魂洋才〟の境地を開花させた。つまるところこのコンビの「別れのブルース」は、日本のポップスの草分けの1曲で、だからこそ84年後もさりげなく、僕らの胸を打つ今日性を持っているのではないか?
 僕の令和3年の初仕事は、秋元順子の歌づくりの打ち合わせだった。そこで僕は「別れのブルース」を彼女の歌声で再び世に問う提案をした。昔は「リバイバル」昨今は「カバー」という作業だが「いい作品はいつの時代もいい」事実をまず立証したい。次にこの作業が「過去」を復元するのではなく、「現在」の歌手の表現と魅力で「将来」の宝として再生させることだと考えている。当然のことだが「たそがれ坂の二日月」「帰れない夜のバラード」に続くシングルの3作めも用意せねばなるまい。コロナ禍が拡大、2回目の「緊急事態宣言」が出たばかりだが、不要不急の外出とやらの隙間を縫って、やるべきことは全部やるつもり。ケイタイさえ持たぬ身に「テレワーク」などどこの世界の話だ!
 昨年暮れの友人たちの年度総括は、みんな暗かった。自粛々々で歌手たちは仕事場を失い、彼や彼女たちの作品も歌声も、塩漬けになったまま。歌書きたちは鳴りをひそめ、制作者たちは人との接触を断たれて、創意や工夫があっても出口がない。政治の打つ手は後手後手で医療はもはや限界。年が明けても感染の拡大は勢いを増すばかりで、生きていくことさえ不安、先行きは全く不透明と来るから、多いのは嘆きの声ばかりだ。
 「ヘボ役者、開店休業、保障ナシ…」
 なんて戯れ言でそれをかわしながら、僕は古くから伝えられる「温故知新」や「ピンチはチャンス」という奴を生かそうと考える。不安は言い募れば増大するばかりだから言わない。お先まっ暗ならその中に、我流の光明、可能性の芽を探す方が面白いじゃないか。自分の胸に問い質しながら内向きに陥らず、獲物のあれこれを発信する。氷川きよしのここのところの動向や坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」は、こういう時代に「進化」を示す陽動作戦にも見える。小椋佳と林部智史が、小椋作品をお互いに歌うアルバム「もういいかい」「まあだだよ」は、44才差の二人の音楽を「深化」させているかも知れない。
 ま、話題は明るい方がいいが、別にセンセーショナルである必要は全くない。創るにしろ歌うにしろ、これまでのそれぞれの境地を少しずつでも「進化」させ、「深化」を目指す。その結果は明らかに「コロナ以後」を示すはずで、発表する機会はいずれ、ちゃんと来るのだ。


殻を打ち破れ227回

 ≪オヤッ! そういうふうに歌に入るのかい。ちょっとしたお芝居仕立てに見えるけど…≫

 岩本公水の生のステージで気がついたことがある。曲前のトークはほぼ素顔。それが自分で曲目を紹介して、イントロが始まった瞬間に、彼女は歌の主人公になっている。以後歌はヒロインの心情をまっすぐに吐露、濃密な感触で客に提示される。作品を「演じる」と言うよりは、もう少し没入気味の「なり切り型」なのだ。

 演歌・歌謡曲の歌手たちの歌の伝え方を、おおよそ三つに分ける。「なり切り型」はいわば憑依の芸で、のり移ったように作品の主人公と本人が一体化する。「演じる系」は作品をシナリオに見立てて、主人公像を演じてみせるタイプ。もう一つは「本人本位」で、どんな作品でも、私が歌うとこうよ!とシンプルである。例をあげれば「なり切り型」の代表は都はるみ、「演じる系」は石川さゆりで、女性歌手の多くは「本人本位」だろう。

 岩本公水のステージで、僕は彼女を「なり切り型」に見て取った。しかし、都はるみの憑依ぶりとは、少しタッチが違った。都の場合、作品にはまるとあとはもう一気々々。まるで傷心の主人公そのものが、身を揉み、ステージを走り、燃えるような熱気と迫力を示した。客席で僕はしばしば、手に汗をにぎったものだ。岩本の場合は、そこまでは没頭しない。なり切りながらどこかに、そういう自分を見守ってもう一人の彼女がいる醒め方があるのだ。言うなれば「天の目」「離見の見」の陶酔と抑制のほどの良さ。

『片時雨』も『能取岬』も『しぐれ舟』もそうなのだが、高音部のサビは、きれいな声を抒情的な響きで歌ってメロディー任せ。感情移入は大づかみだが、一転それが濃いめになるのは中、低音の一部。ここで彼女は歌を「決めにかかる」押しの強さを見せる。主催者のリクエストで歌った『風雪ながれ旅』に顕著だったが「アイヤー、アイヤー…」を哀調たっぷりに歌い放っておいて「津軽、八戸、大湊」をズシリと決めた。地名三つには情感の手がかりなどないが、それを漂泊の思いで熱くするのだ。

そう言えば…と気づいたことがもう一つ。歌の情感の起伏もそうだが、それに連れる身振り手振りも、イントロからエンディングまで、4分前後のドラマを物語っている。歌い終わってのお辞儀までが、歌の主人公のそれで、歌手本人のものではない。その徹底ぶりには、マネージャーも気が抜けまい。事務所社長の吉野功氏は舞台そでで身じろぎもせず、彼女の一挙手一投足を見守る視線が厳しかった。歌手と社長、一心同体の趣きまであるではないか!

 ≪歌手生活も25年になったか…≫

 デビュー当初から親交があるから、僕にも多少の感慨はある。波乱に満ちた前半から「歌巧者」の潮が満ちて来た後半がある。ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級などの資格を取ったのは、歌手活動を中断していた時期。よこて発酵文化大使や埼玉伝統工業会館PR大使などは、陶芸に熱中、埼玉に自前の窯を持つその後の日々を示す。40代なかばの女盛り。「人」も「歌」も目下ゆったりと充実ということか。

 岩本のナマ歌に久々に接したのは、10月18日、佐賀の東与賀文化ホール。実はこの日の催しは永井裕子の歌手生活20周年記念故郷コンサートで、岩本はそのゲストだった。永井もデビューから10年間、全作品をプロデュースした浅からぬ縁がある。ゲストが主で本末転倒の原稿になったが、本チャンの永井の分は他紙にたっぷり書いた。彼女の充実ぶりもなかなかで、両親の嬉しそうな顔もよかった。

 

「冬枯れの木にぶら下がる入陽かな」
 「寒玉子割れば寄り添う黄身二つ」
 亡くなった作曲家渡久地政信と作詞家横井弘による俳句で、古いJASRAC(日本音楽著作権協会)会報に載っていた。「上海帰りのリル」や「お富さん」などのヒット曲で知られる渡久地は奄美大島の出身。南国の体験がありありの句で、闊達な人柄もしのばれる。横井は「あざみの歌」や「哀愁列車」などに、僕の好きな「山の吊橋」も書いた叙情派。歌謡曲ふう愛情表現が、いかにもいかにもで、往時の穏やかな笑顔を思い出した。
 この句が紹介されているのは、1988年のJASRAC会報。その年の1月21日に発足した「虎ノ門句会」の席で詠まれたものらしい。32年も前の古い資料を見せてくれたのは、二瓶みち子さん。その会が「ジャスラック句会」と名を変えて、今日も続いておりその世話人を務める。会の名が変わったのは、当時虎ノ門にあった協会が代々木上原に移っているせいだろう。
 その二瓶さんからあろうことか、この句会の審査を頼まれてしまった。年間の優秀作の中から1句を選び賞を出す仕事。すでに「いではく賞」と「弦哲也賞」があって、三つめだそうな。作詞家星野哲郎の没後10年の11月15日、小金井の星野邸へ出かけて例によって酒宴。噂供養でほろ酔いのところへ、二瓶さんから、
 「お手伝いして下さいましな…」
 と、品よく持ちかけられて、ついずるっと引き受けてしまった。昔々、これも亡くなった作詞家吉岡治が主宰した句会へ、二、三度参加した程度の半可通だが、やむを得ない事情もあった。
 星野の忌日「紙舟忌」がついに季語になった! と、二瓶さんから興奮気味の手紙を貰ったのは2017年だから3年前の暮れ。朝日新聞の歌壇に長谷川櫂氏の選で静岡の安藤勝志氏の
 「紙舟忌や、酔ひて歌はむ〝なみだ船〟」
 が選に入ったのを発見してのことだった。彼女は星野の事務所「紙の舟」に通い、薫陶よろしきを得ていた人だから、星野を師と仰ぐ僕にも大急ぎで知らせたかったのだろう。星野は〝鬼骨〟の号で例の虎ノ門句会に参加しており、二瓶さんも「大いにやりなさい」とすすめられた。
 「俳句を何句か並べると演歌になり、演歌の一作を分解すると、何句かの俳句になること」
 も実感したらしい。この手紙で僕は
 「表現は簡潔さが命」
 という師の教えを再認識したものだ。
 コロナ禍は国内外ともに被害を拡大、人々の生活や社会の仕組みまでに厳しい影響を与えて「国難」という表現が妥当になって来た。
 倒産する企業や、死を選ぶ人も増える苦難の中、僕は高齢ゆえにいたわられること多い身である。その鬱屈の日々の中で、たまたまJASRAC句会諸兄姉の作品に接する機会を得た。句のココロに眼や耳をこらすひとときは、巣ごもり無為の暮らしに、思いもかけぬ果報と感謝せねばなるまい。
 歌社会は氷川きよしや坂本冬美の激しい「蜉化」「変化(へんげ)」が際立つ。アルバム「Papilion」でロックやラップ、バラードに転じた氷川は、その前後からの耽美的なビジュアル展開で、もはや性別を超えた。冬美は念願の桑田佳祐作詞、作曲による「ブッダのように私は死んだ」を得て、ほとんど憑依的とも思える世界へ傾倒。歌唱、ビジュアルともに、これまでの彼女の魅力を超えている。
 ウイルス感染のとめどない拡大への不安、先行きのまるで見えない閉塞感に満ちた時代。このくらい激しい変化や、鋭い刺激が好まれ許容されるということなのか。いずれにしろ、ものみな変わる庶民生活の中で、演歌、歌謡曲だけではなく、Jポップもロックも、自分たちを見直し、新しい変化を目ざす時期、氷川と冬美はその先端を走っていることになりそうだ。
 その反面、変化の激しさに抵抗する気分も生まれて来よう。新しい生活への変化を求められても、にわかにはついて行けないのもまた人情である。では流行歌は、どんな型とどんな息づかいで、そんな人々に寄り添って行けるのだろうか?
 この稿は、のどかな俳句の話にはじまって、歌手2人の激変にいたった。僕は不要不急のものと言われたスポーツ新聞づくりに長くかかわり、育てられた。当然、流行歌も不要不急と言いだす向きには「断じてそういう産物ではない!」と訴えて、今年最後の稿としたい。


 
 最近大病を体験した作詞家喜多條忠についての噂だが、
 「毎日一万歩あるいて、ゴルフの練習場にせっせと通っているそうだ。12月4日、参加するあんたのコンペが伊豆であるんだって?」
 このご時世で大丈夫か? の顔も含めて、教えてくれたのは、亡くなった作詞家星野哲郎の事務所「紙の舟」の広瀬哲哉である。もともとは日本クラウンのやり手宣伝部長で、定年退職後は番頭格でこの事務所を取り仕切っている。
 彼もまた最近、大病をやって、その予後をせっせと歩いているらしい。浅草から隅田川沿いにとか、日本橋だの湯島あたりがどうとか、どうやらついでに東京の名所めぐりをしている気配。病後のやつれ方はなく、口調ものんびりしている。
 「それにしても、あの手紙の文面は意味深だったな」
 と、僕は彼をいたわりもせずに話を変える。11月15日の午後、場所は小金井・梶野町の星野宅。
 実はこの日、星野の没後10年のしのぶ会を、ここでやることになっていた。半年も前から、僕もスケジュールを手帳に書き込んでいたのが、コロナ禍3密を避けるために、広瀬が「中止」を知らせて来た。その文面の後半で「宴はやめるが線香をあげに来るのはやぶさかではない」ことが、ごく控えめに、その分だけあいまいな表現でつけ加えられていたのだ。
 「それなら俺は行くぞ、スポニチの記者時代から知遇を得て、師と仰ぐ人だったし、俺は哲の会の頭だものな」
 そう勝手に合点して出かけたのである。哲の会というのは、レコード各社の星野番ディレクターの集まり。みな薫陶を得て親しい仲だが、立場はライバル同士だから、年嵩で第三者的な僕が座頭(がしら)をやった。没後何年経とうが、哲の会は続くのだし、年忌は「紙舟忌」に変わりはない。
 星野家のいつもの部屋に、そこそこのメンバーが揃っていた。元クラウンの幹部牛尾氏に佐藤氏、現幹部の飯田氏、元コロムビアの大木。おしげとさっちゃんは星野のコロムビア時代からのお気に入りだし、作詞の紺野あずさは星野の弟子で近所に住む。宴は中止とは言っても、無遠慮に現れるやんちゃ用に、一応の酒肴は揃っている。それをゴチになりながら、故人の噂話をひとくさり。「噂供養」としゃれ込む部屋に流れていたのは、コロムビアとクラウンが没後10年を記念して作った星野の作品集。あれこれ聞き分けながら、表現簡潔で情が濃い星野流の作詞術に感じ入る。
 「美辞麗句を用いず、彼の生活や体験に根ざした詞は、演歌の命そのものだった」
 と評したのはゴールデンコンビを組んだ作曲家船村徹。この人も知遇に甘えて師と仰いだ縁がある。しかし、長く駄文を書き散らす不肖の弟子の僕には「推敲」の2文字がまぶしくも重い。
 星野家をほどほどに辞して、東小金井の居酒屋に席を移す。そこまで追って来たのは、星野の長男有近真澄氏で、紙の舟を引き継ぎ、しばしばライブハウスで独特の歌世界を開陳するボーカリストが、
 「統領(僕の仇名)たちが飲んでるのに、知らん顔など出来ないでしょう!」
 どうやら病後の広瀬氏を帰らせての、こころ配りとおもてなしである。
 それから1週間、21日からの3連休前後から、新型コロナは全国的に急激に増殖、案の定GoToトラベルがGoToトラブルに転じ、丸投げした首相と都知事のさや当てが取沙汰されるなど、物情騒然になった。ここで、喜多條が満を持し、練習ラウンドまでこなした意欲は空転する。12月3日~4日、伊東のサザンクロス・リゾートでの小西会コンペを延期したためだ。忘年会を兼ねた催し…と早くから告知した分だけ、プレーに10数人、酒宴のみ参加の4名などが名乗りを上げていた。しかし、小西会も今回が100回記念となるとメンバーはもはや皆老齢、そのくせ酔えばカンカンガクガクが習い性だから「3密」も「5小」も守れるはずなどありはしない。
 それを「中止」ではなく「延期」にしたのは、ゲストに東伊豆町職員を定年退職した梅原裕一氏と、年内でサザンクロスの顧問の職を辞する粕谷武雄氏を招くせい。梅ちゃんは失礼にも「木っ端役人」と呼びならわし、本人もそれを名乗る名刺を作って悪ノリ。昔、熱川の海岸に星野哲郎作詞、船村徹作曲、鳥羽一郎歌の「愛恋岬」の歌碑を一緒に作った仲。粕谷氏は長く当リゾートの星野番として親身な仕え方をした大物。それゆえに小西会は、この2人を囲み、喜多條の全快を祝って、晴れて挙行出来る「春」を一途に待つのである。


 週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ226回

 
 ≪ほほう、なかなかに...≫

 と、神野美伽を聞いたあと、頬をゆるめた。新曲『泣き上手』のタイトルにひかれて、CDを回す。松井五郎の詞、都志見隆の曲、萩田光雄の編曲という顔ぶれにも興味がわいた。もちろんポップス系の歌謡曲、それを近ごろロック乗りもやる神野用に、どの程度の匙かげんの楽曲にしたのだろう?

 甲斐性なしでのらりくらり、風に吹かれているような男に、ほだされた女が主人公。暮らし向きは思うに任せず、幸せは尻切れトンボだ。それだもの...と愚痴っぽくなったり、それでも...と耐えてみせたりすれば、おなじみの演歌になるところを、

 ♪泣くのは上手さ 泣くのは平気さ どうせ泣きながら 生まれてきたんだし...

 と、松井のサビは、さらりと躱して独特の味を作った。

 気性きっぱりの世話女房型。男の呑気そうな寝顔をぼんやり見ながら、毛布を掛けてやる夜もある。人生なんてそんなもんさとか、男女の間柄なんてそんなもんさなどと、達観している訳ではない。彼女には彼女流の"わきまえ方"がある気配。

 お話4行サビ2行の詞を、都志見のメロディーは、シンプルに3回繰り返す。心地よいテンポ、起伏おさえめだがなかなかのムード派ぶり。萩田の編曲は間奏でエレキギターが小粋にメロディーを浮き上がらせる。そんなお膳立てが揃って、神野の歌は激することなく淡々と進む。ところがこの淡々...が曲者なのだ。歌全体をファルセットに近い発声で歌うことで、主人公のあてどない心情を匂わせる。もし地声の太めの響きで歌ったら、切ないはずのサビが、啖呵になってしまったろう。

 言葉ひとつずつを丁寧にというよりは、大づかみに1フレーズに思いをこめる。よく聞けば語尾のあちこちで、ニュアンスを変え、情のこまやかさも作っている。CDを聞き直すごとに、芸事によく言う"細部に神宿る"の意味を思い返したりするのだ。

 ≪もしかすると彼女は、すうっとこの作品に入れたんじゃないかな...≫

 と僕は神野の素の部分を推しはかる。下衆の勘ぐりになりたくないが、親しい間柄の分だけ、彼女と作詞家荒木とよひさの、暮らしと別れを連想してしまうのだ。気ままな文士ふうに、京都でひとり暮らしをした荒木を、神野はひところ「亭主の放し飼い」と笑ってみせた。しかし、別れてみればそれなりの葛藤は深く、彼女は"泣かない女"を装っていたことに僕は気づく。戦後満州(現中国)から引き揚げたせいもあってか、どこかに異邦人のかげりを宿した歌書きの、はぐれ加減の言動や生き方を許してはいたのだろうが...。

 その一方では、歌書きの彼の才能を尊敬し、信じることに変わりはなかった。離婚後も神野は同志みたいに、彼の作品をいくつも歌っている。作曲したのは主に弦哲也だが、このコンビは神野の期待に応じ、あるいは挑発するように、いろいろな冒険作を提供した。昭和の演歌の再現から、思いがけないバラードまで、彼らは神野のボーカリストとしての魅力を大事にしていた。

 荒木はレトリック派の女心ソングを得手とし、実績を作った。その世界から神野は、今作で松井五郎の世界に転じた。女心ソングにも味な手口を見せる松井も新しい歌謡曲の担い手だが、荒木とは文体や文脈が違って独自である。『泣き上手』の主人公は、そうは言っても実は"泣かない女"なのではないかと思う。実生活では"泣かない女"を装った神野が、陰では"泣いた"感慨を、この作品に歌いこめたとすれば、その微妙な匙かげんにも、神野の気性の"男前"に思い当たったりする。


 山形の天童市へ出かけた。東北の歌自慢NO1を選ぶ「天童はな駒歌謡祭2020」の審査。ご多分にもれずコロナ禍で、歌うことまで自粛を強いられていた60余名が、のびのび大音声の歌を競った。11月8日、天童ホテルのホールが会場。地元の人々が手造りの、人情味たっぷりな催しだが、ウイルス予防の対策はこの上なしの厳重さ。県の感染者が累計89人とごく少ない地域だが、その分だけ郷土を守る意識と決意はきわめて強い。

 僕は、酒なら出羽桜の「雪漫々」か10年ものの「枯山水」肴は芋煮と青菜漬け、飯は「つや姫」などご当地の美味を礼讃、人物なら地元の有力者で名僧の矢吹海慶師の猛烈な中毒者である。というのも、昨年まで19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」の審査に通い詰め、天童の人情と知遇にどっぷりつかっていたせいだ。

 矢吹師は名刹妙法寺の住職で、日蓮宗の荒行を5回もやってのけた剛の者。その割に小柄で、興味津々の目の色をし、患った舌がんをカラオケで征圧した粋人。それが長く市の文化、教育関係の要職をこなし「千夜子杯」も今度の「はな駒歌謡祭」も、実行委員長として、町おこしの一端とする。長くポケットマネーを注ぎ込んで来たが、

 「近ごろは家族葬がふえた。法事も内輪でやって、お布施の方まで自粛気味でねえ」

 とボヤいて見せたりする。

 《天童行は一年に一度という間合いが、何ともいえない...》

 と、僕はずっと思っていた。ためぐちのつき合いだが、相手への敬意はちゃんと胸中にあり、出会いの新鮮さとなれなれしさが、ほどよく交錯する。物見遊山の旅もいいが、会いたい人に会いに行く旅こそ最高だろう。和尚を取り巻くスタッフも長いつき合いで、遠くの親戚みたいだ。ところがイベントが去年でなくなって、

 《これじゃ年越しが出来そうもない...》

 と、うつ向き加減でいたところへ、

 「また今年もやるよ!」

 の声がかかった。何と! 矢吹師チームは、日本アマチュア歌謡連盟の天童支部「名月会」を立ち上げ「はな駒歌謡祭」を創設、全国大会の東北地区予選会と位置づけて、僕の仕事を作ってくれてしまった! そう言えば昨年僕は、矢吹師の「米寿を祝う会」の発起人代表をやった。それを大いに多として師は、

 「5年後にはあんたの米寿の会を、私が発起人で天童でやる!」

 と確かに宣言するにはした。僕は酒の上のジョークと聞き流していたのだが、矢吹師はその約束を果たし、毎年初冬の僕の天童詣での道筋を作ってくれてしまったのだ!

 事務局長の福田信子・司会係の福田豊志郎夫妻は、スタッフと出場者の両方で大わらわだが、催しのなり立ちには「当然!」の顔つき。「そんなのありなんだ!」と〝米寿同盟〟にゲスト歌手の奥山えいじは感じ入る。今年還暦というこのお仲間は、仙台を拠点に、稲作と歌手を兼業するいわば〝職業歌手〟で、目下「只見線恋歌」がヒット中。近々仙台のホテルで恒例のディナーショーをやるそうな。

 ところで読者諸兄姉は「天童を救った男・吉田大八」をご存知だろうか? 明治維新前夜、東北平定のため進軍した鎮撫軍と、抵抗した奥羽列藩同盟の板ばさみになった天童藩を救うため、37才で自刃した藩の中老のこと。天童藩を治めていたのが織田信長の子孫というのも初めて知ったが、天童を将棋の駒の産地にしたのもこの人だと言う。藩は財政難で、貧困にあえぐ下級武士たちに駒づくりの内職を導入したが、反対意見も多かったはず。それを若くから要職にあった吉田が、

 「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」

 と押し切り、今日の繁栄の端緒を作ったとか。

 その人の切腹の現場「観月庵」が、矢吹師の妙法寺の一角で、血染めの天井も残されている。矢吹師は彼を顕彰する銅像を桜の名所舞鶴山に建立。子息で副住職の矢吹栄修氏は、最近完成したドキュメント映像「大八伝・天童を救った男」の制作実行委員会を代表、脚本・解説も務めている。僕は11月7日夕、天童へ入ってすぐ妙法寺に案内され、その試写を見学した。

 久々の天童一泊二日は、矢吹師父子の歴史観と郷土愛にも触れて、感興が山盛り。その帰路、山形新幹線が突然「落葉による車輪空転」という季節ネタ!? 事故で止まった。山形駅から在来線18駅を仙台へ出、別の新幹線で東京を目指す想定外の迂回になったが、別段苦にはならなかった。

 週刊ミュージック・リポート

 

 佐賀へ出かけた。8月に信州・蓼科でゴルフをやって以来、2度めの遠出である。往復が飛行機、これは今年初だから、いい年をして少々浮き浮きする。永井裕子の20周年記念故郷コンサート、同行したのは作曲家四方章人とキングの古川ディレクターで、この二人と組んで僕は、永井のデビューから10年間、全曲をプロデュースした縁がある。永井の両親ともずいぶん久しぶりに会う。コロナ禍の最中だが、そんな身内ムードの旅だ。

 10月18日、場所は東与賀文化ホール、午前の部と午後の部の、早め早めの2回公演。午前が佐賀県外の客、午後が県内の客に分けたのはコロナ対策で、検温、手指消毒、掛け声なしで応援はペンライトや拍手...の手はずは、今や全国共通だ。しかし僕は、感染者累計8300余の神奈川を出て、3万超の東京を経由、着いた先の佐賀はわずか250前後...という旅人である。うつる心配よりも持ち込む懸念の方が大だから、何だか後ろめたさが先に立つ。しかし公演前夜、唐人と言う町の〝むとう〟という洋風居酒屋でゴチになれば、そんな気苦労などどこかへ消し飛んだ。

 永井のステージはご当地九州ものの「玄海恋太鼓」からズバッ! と始まる。喜多條忠の詞、岡千秋の曲で威勢がいい。作曲が岡ということは、10年以後の作品。それまでは四方が全曲書いた。育ての親でも10年間独占というのは珍しいケース。その代りに作詞家は2曲ずつ全部変えた。「菜の花情歌」が出てくれば、ああ、あれは阿久悠だ「哀愁桟橋」なら坂口照幸「愛のさくら記念日」ならうえだもみじ...と歌書きの顔が次々に浮かぶ。吉岡治、たかたかし、池田充男、ちあき哲也...とみんな親交つながりで、いい詞を沢山貰ったものだ。

 四方がNHKのカラオケ指南番組でスカウト、連れて来たのは中学生時代。せめて高校くらい行かせようと提案したのは、哀しみ系声味が独特で、年に似ぬ節回しと、小柄だがパンチ十分の元気さを持ち、おまけに眼が滅法きれい...と、いいとこばかりが目についたせい。18才のデビュー曲に〝演歌のキャンディーズ〟を狙った「愛のさくら記念日」でお披露め、2作めに「みちのく雪列車」をはさみ、3作めの「哀愁桟橋」がヒットして軌道に乗ったが、いつどこで歌わせても、彼女の力量は何の心配もなかった。

 それが後半の10年で「郡上八幡おんな町」「そして...雪の中」「ねんごろ酒」「そして...女」と、年齢相応の味しみじみと、歌に奥行きが出来ている。僕は彼女のステージを、午前の部は舞台そでに椅子を持ち出し、午後の部は4列めくらいの客席でたっぷり聞いた。曲の間のおしゃべりに、まだ可憐さが売りの時期の口ぶりが少し残るくらいで、全体はもう、

 《いいぞ! いいぞ!》

 のステージである。

 ゲストは同郷の先輩西方裕之が「遠花火」「波止場」「赤とんぼ」に新曲「出世灘」を歌い、NHKのど自慢で歌詞を忘れて往生した自虐ネタで笑わせる。もう一人の先輩岩本公水は「片時雨」「能取岬」「対馬情歌」にヒット中の「しぐれ舟」を並べる。イントロからエンディングまで、1曲をドラマに見立てて、主人公を演じる歌唱と仕草の没入ぶりが、この人の歌のうまさを際立たせる。三人三様、やはり生歌はいいもんだ。

 面白かったのは、午前の部、午後の部ともに、まず地元の歌巧者が8名ほど、自慢のノドを聞かせた趣向だ。佐賀や福岡の指折りのカラオケの先生とかで「熱祷」「人生の挽歌」「恋の酒」「恋雨港」「娘・長持唄」「アイヤ子守唄」など、めったに聞けぬ難曲が揃う。村田英雄や西方の師匠の作曲家徳久広司がこの地出身で、親しいつきあいの大衆演劇、三代目大川竜之助もたしかここ。そう言えば九州で結成、全国を旅する大衆演劇の劇団は相当数にのぼる。そういうタイプの芸どころなのか、地元の先生には、しわがれ声をふりしぼり、歌をセリフ仕立ての大芝居フィーリングで聞かせる芸達者が目立った。

 「それにしてもなかなかの強者ぞろい。それが幕あけを飾るのがご当地の風習なの?」

 と聞いたら、興行主の西日本音楽企画吉岡満雄社長は、

 「ま、先生たちのお弟子さんも見に来てくれるということで、初の試みです。ハッハッハ...」

 と屈託なげ。歌巧者たちは舞台で〝どうだ!〟の1曲、お陰で多少のチケットもはけて...と、ご当地いい気分企画は相乗効果があったようだ。

 道中で立ち寄った店の〝とん骨ラーメン〟が、さっぱりしたいい味なのを褒めたら、

 「この辺のは久留米系だからギトギトしないの」

 と、打てば響いた古川ディレクターも佐賀の出身。車中の地元風物案内が、なかなかに嬉しそうだった。

 週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ226回


 「愚生、時勢に抗い新譜を出すことになりました」
 作詞家もず唱平からの手紙の書き出しである。「時勢」とは「コロナ禍」と、歌手たちがみな開店休業、キャンペーン先一つない実情を指す。その中で「無策のリリース」をしたのだが、作品は『あーちゃんの唄』で、もずの作詞、宮下健治の作曲、三門忠司の歌。
 ≪そうか、こんな時期だと作家もプロモーションに乗り出すのか!≫
 僕はニヤリとして手紙の意図をそう読み取る。ごく親しい相手だけに限ったものだろうが、彼にはやらねばならぬ思いが強く、それを伝えたいのだろう、令和2年の今年は戦後75年、歌のテーマは戦争未亡人だった三門の母親の生涯。いわば実話の個人史が戦後史に通じる素材で、折から敗戦の年と同じ夏から秋である。もずにすれば、今こそ書かねばならぬ歌であり、今こそ世に問い、一人でも多くの人に聞いてもらいたい歌なのだろう。
 ♪女手一つで このオレを 育ててくれたよ あーちゃんは…
 と、歌は始まる。オレは三門自身、あーちゃんはその母で、大阪の下町の呼び方。それが、
 ♪ガチャマン時代 泉州の 紡績工場の女工さん…
 と話が進む。泉州は大阪の紡績が盛んだった地帯で、その機械が「ガチャッ」と鳴るごとに一万円の利益が生まれた時代があったらしい。
 三門は今年ちょうど75才。その父は昭和19年に戦死して、子供が生まれたことを知らず、子供の三門も父を写真でしか知らずに育った。母子の暮らしは歌詞の二番に出て来て「十軒長屋のすまんだ」で、働き者の母の女の証しは「マダムジュジュ」と、当時のごく一般的な化粧品が1点だけ。
 「すまんだ」に「?」となったが、大阪の方言で「隅っこ」の意とか。これも「ガチャマン」も「あーちゃん」も、あえてなじみのない言葉を使い、化粧品名を出したりするのは、その時代の生活の貧しさにリアリティを持たせたいせいか? ま、歌の文句って奴、全部が全部判りきっていればいいというものでもないか!
 作曲家宮下健治が書くメロディーには、時おり春日八郎の歌を連想する。昭和30年代から40年代ごろの匂いがあるせいで、今作には歌い出し2行分に、船村徹メロディーがにじむ気がした。いずれにしろこれらは戦後第一期生が歌や曲にした“のびやかな詠嘆”の魅力。それを今作は三門忠司が、ほどのいい哀愁ただよわせ、のうのうと歌っていい味を作った。南郷達也の編曲の暖かさも手伝っていようか。
 ≪相変わらずの“未組織労働者ソング”だな≫
 ずいぶん昔のことだが、もずは自分の作品のテーマをそう語ったことがある。デビュー作の『釜ヶ崎人情』や出世作の『花街の母』に色濃いが、前者は日雇い労働者、後者は子連れの芸者が主人公。どちらも社会の底辺に生きる人々の哀歓を描いていた。もずは50年におよぶ作詞生活で、そういう庶民の生きづらさやしのぎ方たくましに思いを共有して来た。
 師匠の詩人・喜志邦三が名付けたというペンネームからしてそうなのだ。「もず」は孤高の鳥の名前。「唱平」は「常に平和の貴重さを唱え続けよ」という師の願いがこめられたと聞いた。しかし、ものは流行歌である。声高に主義主張をぶち上げる種のものではない。主人公の置かれた状況や心境を、さりげなくしっかり語ることが大勢の共感につながる。
 「もずの高鳴き」という言葉がある。梢に一羽、鋭く一声鳴くのがこの鳥の習性である。「もずの速贄(はやにえ)」というのもある。虫や蛙などの獲物を木の枝に刺して示す習性である。もず唱平の反骨は80才を過ぎても衰えることなく盛んなようだ。


月刊ソングブック

 
 《2月公演から214日ぶりの舞台だって。そりゃ拝見せねばなるまい...》

 僕がいそいそ新宿の紀伊國屋サザンシアターへ出かけたのは9月30日のこと。24日が初日の劇団民芸公演「ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク」(クリストファー・デュラング作、丹野郁弓訳・演出)で開演は午後1時30分である。

 「へえ、あんたもそういうの見に行くんだ...」

 と言われそうだが、この劇団は僕がスポーツニッポン新聞社づとめ時代のおつき合いで、それを忘れずに20年以上、毎公演お呼ばれをしている。社を卒業して以後、僕が70才で明治座初舞台と無謀な転進をしたのは、歌手川中美幸から声がかかってのこと。以後東宝現代劇75人の会に入り、あちこちの公演に出して貰っているが、それらはみんな「商業演劇」と呼ばれるジャンル。今回みたいに、片仮名だくさんの新劇との取り合わせを、奇妙に思う向きもあるのだろうが、そこはそれ、見るもの聞くものすべてが商売ネタのブンヤ気質、おまけに無手勝流老優の他流見学という殊勝な!? 心がけも手伝っている。

 物語の舞台は米ペンシルベニア州のとある邸宅。そこで初老の男(千葉茂則)と養女(白石珠江)が暮らしている。平穏無事、何の不自由も刺激もない二人の退屈な日々へ、男の妹の女優(樫山文枝)が帰って来て、にわかに空気が波立ち、騒動が始まる―。

 出演者は6人。それぞれが抱える屈託を一途に吐き出し合う。次第にあらわになるのは一見こともなげな暮らしの陰の、行き場のない不安やあせりや、達観しようとする無理。近ごろはやりの「生きづらさ」の種々相が、ユーモアをまじえて語りつがれていくのだが、自然、山盛りの長ぜりふ合戦である。半可通の僕に言わせれば、それはもう圧倒的な分量で、それを役者さんたちはよどみなく、それぞれの役の胸中のものとして滔滔また滔滔...。

 《あれはすごいもんだったな...》

 酷暑の夏がぴたっと終わり、急に赤トンボが舞う10月、葉山・森戸海岸を歩きながら、僕はそういうふうに思い返す。東宝現代劇75人の会公演では、作、演出の横澤祐一から、

 「今回も辛抱役で済まんね」

 と言われることもある。説明せりふが長く、見せ場に乏しいということらしいが、そう言えば友人の、

 「よくまあ、あんなに長いセリフが覚えられる」

 という感想に、

 「お前は俺の記憶力を見に来てるのか? 肝心なのは演技力だろう」

 と、まぜ返すこともあった。しかし今回の民芸を見れば、あんなもの長ゼリフの域になど全然入りはしない。

 ご多分にもれず僕はも、2月の明治座・川中美幸公演「フジヤマ夢の湯物語」(柏田道夫作、池田政之演出)のあと、予定されていた仕事がみんな中止や延期で、民芸の方々と同じくらいのブランクに見舞われた。もう8カ月も舞台に立っていないのである。もともと発声も演技も、基礎的な訓練など全くないままの、見よう見真似の10年余だ。近々どこかから、さあやるぞ! と声がかかっても、さて、声は出るのか? 体は動くのか? 何とも情けないことだが、全く生理的な部分から、不安がひたひた押し寄せる。

 長い巣ごもりのコロナ肥りも返上せねばなるまい。せめて足腰だけでも...と思っての、海岸歩きである。そのくせ砂浜の足許の悪さを避けて、波打ち際の平坦さを選んでしまう。こんなとこまで怠け癖が顔を出す仕儀に、右手にぶら下げた五木ひろしが重い。と言ってもそれは9月頭に彼が浅草公会堂でやったコンサートの、おみやげの買い物袋。黒地に金色で彼のシルエットや横文字の名前が入ったやつで、不要の時はごく小さめにたたみ込めて、トートバッグと言うのだそうな。それにおやつや日常品のあれこれを詰めて帰宅する。そんな買い物も7回目の年男になった今年、コロナ禍のお陰で身につけた習慣である。人間幾つになっても、新しい発見や体験があるのは、幸せなことと言わねばなるまい。

 救いの声も突然降って来る。沢竜二からの電話で、

 「今年もやるよ、11月30日、浅草公会堂だよ」

 大衆演劇界の雄から、恒例の座長大会へのお誘いである。長いこと僕はチョイ役ながらレギュラー出演者。毎回おバカ丸出しのコミカルな出番で、座長たちの二枚目競演の中では、妙に目立って大受けするもうけ役に恵まれている。

 《よおしっ!》

 沢が歌う昭和おやじの最後っ屁ソング「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」のプロデューサーでもある僕は、俄然気合いが入るのだ。

 週刊ミュージック・リポート


 地方の友人から、よく電話がかかって来る。
 「テレビ、見たよ、元気そうで何より。一度遊びに来ませんか。仲間を集めるから、一杯やろうよ」
 北海道や山形、島根だの屋久島だのからのものである。久しぶりの連絡のきっかけは、BSテレビ各局の〝昭和の歌回顧番組〟で、僕はそれに呼ばれてしばしば、
 『年寄りの知ったかぶり』
 のおしゃべりをしている。主な話題の主は、作家なら船村徹、浜口庫之助、星野哲郎、歌手なら美空ひばり、三橋美智也、春日八郎、村田英雄…が中心。みんな密着取材を許された人々だから、手持ちのエピソードが多い。
 「それにしても、よく出ているねえ」
 と、友人たちは口を揃える。80才を過ぎて隠居していないのは、彼らの周辺では極めて稀。それなのに君は…と言われれば、
 「見た目はともかく、近ごろ体の中身はガタガタでねえ」
 と、妙な言い訳をせざるを得ない。出演本数が多く見えるのは、BSのその種の番組、やたらに再放送が多いせいなのだ。
 番組制作はテレビ局から制作会社に発注されている。僕が世話になっているのはおおむね3社で、自然、プロデューサーと親しくなる。
 「今度はあの人で行こうと思うが、どう?」
 「あの歌手についてのネタは、ありますか?」
 などの打診がある。しかし当方にも得手不得手はある。僕はもともと密着型の体験派だから、取材し損なっている人が対象だと辞退する。実感のないまま、また聞きや聞きかじりをしゃべる気にはならない。
 「だからさ、誰か他の人に頼んでよ」
 と言うと、電話の相手は即座に、
 「それがねえ、皆さん亡くなってしまって、あのころの話を出来るのは、あんたしかいないのよ」
 と来る。消去法による人選か! と、当方は憮然とする。
 《しかし、戦後の昭和ってのは。凄い時代だったな》
 そんな番組の軒づたいをしながら、僕は考える。戦前、戦中に活躍した作家や歌手たちが、戦後しばらくを支える。NHKの連続ドラマ「エール」で俄然脚光を浴びた作曲家古関裕而など、その代表の一人だろう。そして、先に列挙した僕の親密な取材対象は、いわば戦後の第一期生である。そんな新旧の才能がしのぎをけずって実現したのが昭和の歌謡曲だったろう。背景には、敗戦からの復興、高度経済成長、経済大国への成功、それを象徴する東京オリンピックや万国博、やがてバブルの時代が来て、それが弾ける―そんな激動の時代を、歌謡曲は歌い継いで来た。
 紅白歌合戦やレコード大賞が派手な演出で茶の間を興奮させた。あのころ、一家団欒がまだあった。老若男女が同じ歌を一緒に支持し、似た思いを託した。生き方考え方に共通する部分があって、共有された生活感。しかし、その陰には次第に、あてどなさや不安、少しずつふくらむ不満が生まれはしなかったか? 敗戦からの驚異的な復興も、右肩上がりの経済も、庶民の犠牲の上に成り立っていた。やがて人々は、富と貧困を軸にした分断を感じ取る。そんな屈託を慰め、励ましたのも歌謡曲だったろうか?
 「平成で終わりかと思ったら、令和になってもまだ昭和の歌ばやりは続くねえ」
 「平成の枠組みじゃ、こういう番組は作れませんよ。サザンと安室とピコ太郎じゃねえ」
 BS各番組のスタッフと僕は、冗談まじりにそんな話をする。音楽的な好みが世代別に細分化の一途を辿っている。流行歌以外の娯楽も圧倒的に増えた。結果の一つとして、ヒット曲の粒はきわめて小さくなった。
 《しかし、ちょっと待てよ…》
 と僕は踏みとどまる。戦前、戦中に大きなヒット曲が生まれた背景には、庶民が戦争に動員された苦難があった。太平洋戦争に敗れ、そこから復興する道のりにも、やはり庶民の多くが犠牲を強いられていた。つまり老若男女が好みを一つにしたのは、みんなが苦しさや辛さを共有した時代だったのではないか? だとすればおとなが若者の歌に持つ感想と、若者がおとなの歌に持つ感想とが、
 「みんな同じに聞こえて、訳が判らない」
 となっている昨今は、何はともあれ極く平和な時代なのではないだろうか?
 コロナ禍で仕事も思考も停止状態の昨今、僕はそんな屁理屈を口走りながら、『知ったかぶりおじさん』の繁盛を、とても幸せなことだと思ってちょろちょろしている。


 週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ225

 季節はずれだが、雛祭りの話である。面白いことに"五人囃子"の面々はロックにドップリ。白酒に飽きた"右大臣"はハイボールを試飲、"内裏様"と"お雛様"はトップの座から、一番下の段に降りてのんびりしてみた。結果気がついたのは、決められた役割が全員にあって、それを無にすると七段飾りが崩れてしまうことだ。

『七段飾り』という歌。歌と演奏は松原徹とザ・ブルーエレファントで、教訓ちらりの童謡ふうだが、これがロック仕立てだから面白い。岡山在住のグループで、地元のRSKラジオの「朝耳らじお5.5」という番組で「今月の歌」を作ってもう10年になると言う。

その中から好評の5曲を選んでCDを作った。『七段飾り』のほかはカエルやホタル、かたつむり、へびなどがそれぞれの生きざまをブルースで語る『6月の歌』、いじめや差別を見据えたフォーク調の『2がつがきらいなオニ』、みんなの応援歌の『勇気 やる気 元気』、未来を語るバラード『この川の向こうには』など。

大阪に僕が関係する「詞屋(うたや)」というグループがある。独自の歌謡コンテンツづくりで、関西から東京一極の歌状況に一矢報いようと、試作集のアルバムをもう2枚も作った。松原はそのメンバーで、詞・曲・編曲・歌もやる。会のボス大森青児の詞の『おやじの歌』や作詞作曲した『哀しみは突然に』などを聞いて、フォークや歌謡コーラス系の人と思っていた。

ところが、届いたアルバムがこれである。『6月の歌』だけ名畑俊子の詞だが、他は詞曲歌ともに松原。童謡と受け取られそうな題材だが、子供にもよく判るメッセージがちゃんと歌い込まれている。

 ≪それにしても、よくやるわ...≫

 と感じ入るのは、松原の歌の伝え方。今年還暦の思慮も分別もある男が一心に率直に歌う。子供の目線と自分の目線が同じ気配で、子供受けを狙う技や媚びなど全くない。至極大真面目で、これが「オトナの男の初心」なのか?

 若いころ東京へ出た歌手志願である。歌社会の片隅であれこれ見聞、志得ぬまま岡山へ戻った。当初は演歌、やがてグループサウンズやフォークを体験したろう年代だ。そんな色あいが、今度のアルバムの曲想に出ている。地元へ帰って歌いはじめるのは、よくあるケース。僕にも浜松で大を成した佐伯一郎、埼玉で再びメジャー挑戦の新田晃也、東北にいる奥山えいじ、四国で踏ん張る仲町浩二、北陸の越前二郎ら、友人が多い。僕はテレビで名と顔を売る全国区型だけが歌手とは思っていない。それぞれの地元で、ファンと膝づめで歌い暮らす地方区型も、無名だが立派な歌手ではないか!

 ところが松原は、それだけに止まらなかった。平成12年、40才の時に立ち上げたのが、特定非営利活動法人「音楽の砦」で、音楽を通して青少年の健全育成、高齢者の生活環境の向上、地域文化の発展を目指す。拠点は彼の事務所トコトコオフィス。具体的には高齢者対象の音楽セッション、講演や講座、企業の職員研修のためのボイストレーニングなど山盛り。今年はコロナ禍で思うに任せないが、そんな活動があってこそあの歌たちも生まれたのか?

 そんな松原を「そんな偉い人の...」とあわてさせた事がある。売れっ子アレンジャー前田俊明の作品の編曲を頼んだ時だ。詞屋のメンバーの杉本浩平作詞の『古き町にて』で、大病で療養中だった前田に気分転換用として曲づくりをすすめた作品。一つの詞に3パターンの曲が届いたが、そのうちのBタイプを採用した。詞屋は歌は作るが歌手難である。乞われればすぐその気になる僕が歌ってアルバム第2作『大阪亜熱帯』に収められた。

 前田が亡くなったのは今年の4月17日。『古き町にて』がおそらく、彼が作曲した唯一の歌と思うと、不思議な縁と長い友交に今も胸が熱くなる。

月刊ソングブック
 「白雲の城」をガツンと決めた。9月、明治座の氷川きよしだが、気合いの入り方が半端ではない。音域も声のボリュームもめいっぱいの〝張り歌〟で、それが客席に刺さって来る。「気合い」かと思ったがそれを越えて、伝わったのは「気概」の圧力と訴求力だった。
 《うむ、なかなかに...》
 などと、客席を見回す。僕の1階正面13列5番の席から斜め前方へ、空席が規則正しい列を作る。コロナ禍の最中の苦肉の興行、観客の両脇を1席ずつ空けて「密」を避けた結果だ。平時なら満員になる氷川公演だから、やはり少々寂しいが、時期が時期でやむを得まい。
 司会西寄ひがしのトークが、景が変わるごとにかなり長めになるのは、氷川の衣装替えの時間かせぎ。大分板についているのは、氷川と一緒に働いて20年余、彼は彼なりの進化を目指した成果か? お次の景はガンガン音楽のボリュームまで上がって、氷川ポップスである。作詞もしたという「Never give up」を中心に、発声も唱法もガラリと変わるロックで攻め込んで来るさまは、まるで別人。
 しかし当方は別に驚かない。6月に出た彼のアルバム「Papillon」を聞いているせいで、呼びものの「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめ「Love Song」だの「Going my way」だの、ロックにバラード、ラップなどが14曲、演歌の「エ」の字も歌謡曲の「カ」の字もなかった。その一部が明治座の舞台に乗った訳だが、さて、熟女ファンの反応は? と見回して、これには相当に驚いた。歌謡曲・演歌の時には横揺れに穏やかだったペンライトが、一転して縦乗り。要所では高く突き上げてWAUWAU...。こちらも見事に「進化」しているではないか!
 「こちらも...」と書いたが、氷川の昨今は「進化」などより「孵化」「変化(げ)」の印象が強い。今公演の第一部、芝居の「恋之介旅日記」(作、演出池田政之)にも「限界突破の七変化」のサブタイトルがついている。動くグラビアみたいに、「美しい氷川」をあの手この手。おなじみ芸達者の曽我廼家寬太郞、二枚目の川野太郎に今回は、僕の友人真砂京之介が仇役で出ていて、おしまいには大仰に斬られた。山村紅葉の女親分も笑わせるが、そんな中の氷川は、前回のこの劇場公演のこの役よりはセリフも多め、ところどころで見得を切ってファンを喜ばせる。「役者が楽しくやらなきゃ、お客は楽しめない」いつもの池田演出だ。
 音楽性も大いに変わったが、並行するビジュアル面も激変した。昔々、丸山明宏(現美輪明宏)の化粧姿は「シスターボーイ」と呼ばれ「異形」や「異能」のただし書きがついた。ところが昨今は、女装タレントも大にぎわいで、それが「異端」などとは誰も思わぬ時代。氷川はそんな時流の中で、ためらわずに彼自身の内面も外面も自由に解放している。最高の価値とする「美しさ」をひたすら求め、信じるままに装い、それを楽しむ自分を歌でメッセージしているように見える。
 自分の心の「なりゆき」に任せ、美の世界に「なり切る」生き方を選ぶことは、人気者にとっては相当な覚悟を必要とする。ファンの期待と行き違い、違和感を生み、失望させ、最悪モトもコもなくす恐れがあるせいだ。氷川はそんなイメージの世界を、独特のイメージ展開で切り抜け、熱心な熟女ファンたちまで説得してしまった。
 「もう演歌歌手じゃないし...」
 と、氷川は舞台でひょいと言った。そう言いながら「箱根八里の半次郎」をはじめ股旅ソング5曲を歌ってみせる。デビュー当時の荒けずりさは残したまま、歌唱に軽やかな味が加わっているのは、彼がロック的現在位置から往時へ「さかのぼって」見せたせいだろう。
 「自分を表現することを恐れない。そうすることで新しい発見や出会いがあり、前とは違う人間になれた」
 こう語ったのは、人種差別に抗議しながらテニスの全米オープンを戦い、優勝してのけた大坂なおみである。僕は一瞬、彼女の顔に氷川の顔を重ね合わせた。何ごとにも臆することなく、耽美の世界を追求する氷川の勇気と重なったせいだ。
 この公演、僕の右隣り、空席を一つ置いた13列3番に吉岡あまなを招いた。亡くなった作詞家吉岡治の孫娘で、ずいぶん昔、川中美幸・松平健公演の明治座で一カ月、僕と真砂の楽屋内を手伝ってもらった縁がある。当時高校生活最後の冬だった彼女は、大学を卒業、もう立派な社会人になっている。
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 《弾き語りっていいね!》
 である。9月2日午後、浅草公会堂で五木ひろしを聴いたが、これがまず第一の実感だった。「ITSUKIモデル弾き語りライブ」「今できること、ソーシャルディスタンスコンサート」がキャッチコピーのイベント。コロナ禍まっ最中だから、観客はマスク、手指消毒、検温、氏名に席番と連絡先を提出、声援はご遠慮、応援は拍手とペンライトが条件。客席1082の会場半分の、529席で前のめりのファン相手に、ギター一本の「よこはまたそがれ」から文字通りの熱唱が圧倒的だ。
 気合いの入り方が半端ではない。生ステージを演歌畑じゃまず、俺がやらなきゃ誰がやる式の気負いがあったろう。2月の大阪新歌舞伎座以来、半年ぶりの生歌でもある。前日に1回、この日は2回のステージで、声がやや太めに聞こえたが、それも代表作のあれこれに説得力を加える。途中からバックにキーボード、ギター、バイオリンが加わったが、弾き語りの手作り感はそのままだ。伴奏音が薄いと、自然に歌声が前に出る。歌詞が一言ずつ、生き生きと伝わる。作品への共感や愛着が歌声を熱くする。息づかいも生々しく、歌巧者ならではの声の操り方、ロングトーンが高揚、随所に生まれる情感の陰影...。
 よくあることだが、歌が巧みな人の場合、聴く僕の目の前を歌が横切っていく。オーケストラと一緒だと、歌と音楽が寄り添うせいか。いい音楽といい歌のコラボは、それならではの魅力を作りはするが、作品にこめられた真情の色は薄めで流れがちになる。それに比べれば弾き語りは、歌う人の思いと作品の情念が、束になって攻めて来る。歌が聞く僕に向かって、縦に刺さって来る。「横」よりは「縦」の訴求力が、まさに流行歌の命だ。BSフジで7本ほど撮った「名歌復活」という番組で、僕は弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人の4人の弾き語りから、僕はそんな確信を持った。彼らも巧みだが、五木はプロである。比べればそれなりの経験と自負と野心までが歌に乗る。
 《演歌っていいね!》
 彼の新しいアルバムのタイトルと同じ感想を僕も持った。後輩たちの最近のヒット曲をカバーした選曲で、言わばいいとこどり作品集。その中からステージに乗せたのは、坂本冬美の「俺でいいのか」鳥羽一郎の「男の庵」川野夏美の「満ち潮」山内惠介の「唇スカーレット」の4曲。
 旬の歌手にはいい作品が集まるものだが、その鮮度と刺激性を汲み取った企画。そのうえに俺ならこう歌う! の〝お手品〟意識も秘めた歌唱だ。この企画のきっかけになったと言う「俺でいいのか」は吉田旺の作詞、以下前記の曲順に書けば、いではく、及川眠子、松井五郎とやり手の詞で、作曲は徳久、弦、弦と続いて「唇のスカーレット」は水森英夫である。作家同士のココロが動くから、いい詞にはいい曲がつくものだ。
 今回のライブのゲストは坂本冬美。2月あたままで大阪で五木と「沓掛け時次郎」を共演した仲で、こちらも半年ぶりの舞台。その間に「俺でいいのか」がヒット曲に育っていた。「夜桜お七」と「また君に恋してる」で新境地を開いた冬美だが、やはり本籍地は演歌。それをこの作品で明確にできたからご同慶のいたりだ。五木の伴奏で歌ったが、冬美の味わいがいかにもいかにも。合わせて吉田旺作品の「赤とんぼ」も歌って、こちらもちあきなおみとはまた違う〝こまたの切れ上がり方〟が面白かった。
 《演歌は、フル・コーラスがいいね!》
 が、この日考えたことの三つめ。これも「名歌復活」でこだわり続けている点だが、歌詞には全部、起承転結、あるいは序破急の心の動きや物語性が書き込まれている。ところがいつのころからか「テレビサイズ」とカットが当たり前になっていて、3コーラスものなら一番と三番。2ハーフものなら1ハーフ。番組の限られた時間の中に、なるたけ多くの歌手と作品を...という算段だろうが、紅白歌合戦を筆頭に、作品が損なわれること甚だしい。近ごろはそれを前提に二番を手抜きする作詞家がいるが、これなど論外だ! プロの歌手が縮小2コーラスで、下手くそなカラオケ族がフルで歌ういやな現象をどう考えるべきか?
 五木はこの日、作品本位を貫いて全曲フルコーラスを歌い、冬美もその通りにした。我が意を得たり! である。今回はベタぼめコラム。僕はひところ五木の歌づくりを手伝った経験があって、歌の巧さはよく判っているが、今回ほど胸に刺さるいい歌と人間味が濃かった舞台は初めてと思っている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ224

 「歌詞の最後の1行でも、じっくり味わって下さい」

 というメモ付きでCDが届いた。大泉逸郎の新曲『ありがてぇなあ』で、送り主は大泉が所属する事務所の社長木村尚武氏。コロナ禍、広範囲の水害惨状に心奪われる7月、さっそく聴いてみると――。

 ♪昇る朝日に 柏手うてば 胸の奥まで こだまする...

 と、歌い出しから明るめで、何ともおおらか。そのうえ2番のおしまいでは

 ♪歳をとるって ありがてぇ...

 なんて言っている。山形あたりで半農半唱、気ままな歌手活動に恵まれている大泉の、老いの心境までにじむ詞は槙桜子。古風だがきっちり隙間がない味わいだ。それに大泉が曲をつけて、こちらは大ヒットした『孫』系のしみじみ泣かせるメロディーを歌う。

 ≪まぁな、確かにお互い、ありがてぇ日々を送っていることになるわな...≫

 僕は「ダイジン」のニックネームで呼ぶ木村氏の笑顔を思い浮かべる。親父さんが山形の名士で、閣僚まで務めた政治家ゆえの愛称だが、昔は日本テレビの有力なプロデューサー、人気TV番組「歌まね合戦 スターに挑戦!!」で、若い才能を発掘「演歌を育てる会」も主導した。スポニチ時代に僕は、彼の番組によく呼ばれたが、ゲストが美空ひばりの場合限定。彼女と親交があり、僕が傍に居ると機嫌がいいのが狙いだったろう。

 僕は平成12年にスポニチを退社したが、まっ先に

 「俺んとこの顧問に来ない? 俺も日テレ辞めた時は苦労したし、今、大泉が当たってるから多少のゆとりがあるし...」

 と誘ってくれたのが木村氏だった。その後、二、三の大手プロダクションからも声が掛かったが、完全にフリーでいたい痩せがまんから、全部ていねいにお断りした。しかし、さほど深いつき合いでもない木村氏からの好意は、第一号だったこともあり、嬉しさが今でも忘れられない。

 彼と僕は昭和11年生まれの同い年で、今年は7巡めの年男である。この年でこんな時代に、元気でまだ歌世界の仕事をしているあたりがご同慶のいたり。「ありがてぇ」も異口同音になりそうだ。僕らは毎年秋に、山形の天童市で大いに飲みカラオケに興じた。同地出身の歌手・佐藤千夜子を顕彰する歌謡祭の審査に呼ばれていてのこと。僕の天童詣では、昨年でこのイベントが終了するまで16年連続を記録した。山形育ちの木村氏は、口は重いが歌は軽めに、この会の前夜祭などをリードしたものだ。

 天童で忘れられないのは、歌謡祭の実行委員長でこの町の有力者矢吹海慶和尚と福田信子以下のスタッフ。「ホトケはほっとけ」だの「女と酒はニゴウまで」だのとジョークを連発、しかし言外に寓意や含蓄を秘める。和尚は、人生の粋人にして達人。その仁徳に魅かれる熟女たちがボランティアで支えたイベントだから、万事やたらに情が濃いめで、酒は出羽桜の枯山水、肴は芋煮と青菜漬け、めしはつや姫に止めをさす夜が続いた。

 それやこれやで、酒どころ、歌どころ、人どころの天童にはまって、最大の催しになったのは昨年1116日夜の「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」何しろ市の名士・有力者100人余の着席の祝賀会を、はばかりながら発起人代表を仰せつかった僕が取り仕切った。天童の夜もこれが最後! の感慨も手伝ったのが記憶に新しいが、な、な、何と今年、和尚が代表でNAKの支部を作り、今秋も装いもあらたな歌謡祭をやるからおいで...の連絡。和尚との再会、酒も歌ものチャンスがまた貰えることになった。秋11月が待ち遠しいばかり、コロナそこ退け!である。


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 おや、五木ひろし、ずいぶん若造りだが、結構似合ってるじゃん。ジーンズにスニーカー、手首まくりの青シャツに薄手のセーター肩にかけ、袖を胸もとで結んで、あぐらの左膝を立ててニッコリである。アルバムのジャケットだが、タイトルが「演歌っていいね!」と来た。長いこときちんと〝よそ行き〟の見た目とコメントで通して来たベテランが、こんな〝ふだん着〟の言動に転じているのも、ご時世に添ってのことか?
 タイトルの割にいきなり自作の「VIVA・LA・VIDA!~生きてるっていいね!」だから、威勢がいい。一転して2曲目は「俺でいいのか」で坂本冬美のカバー。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、伊戸のりおの編曲でアルバムの本題に入った。お次は「男の庵」で鳥羽一郎のカバー。そうか、その手を考えたのか! と、プロデューサー兼業の五木の胸中に合点する。このところ世に出た後輩たちの作品のいいとこどりを13曲。ラストにまた自作の「春夏秋冬・夢祭り」を据えたサンドイッチ構成だ。
 3曲目以降の曲目とオリジナル歌手を並べてみる。「満ち潮」(川野夏美)「唇スカーレット」(山内惠介)「雪恋華」(市川由紀乃)「望郷山河」(三山ひろし)「水に咲く花・支笏湖へ」(水森かおり)「アイヤ子守唄」(福田こうへい)「紙の鶴」(丘みどり)「倖せの隠れ場所」(北川大介)「尾曳の渡し」(森山愛子)「純烈のハッピーバースデー」(純烈)「最上の船頭」(氷川きよし)となる。出版社のクレジットはほとんどが2019年、そうなんだ、去年1年のヒットソングと歌手の顔が、さらっと俯瞰できる妙がある。これを続けたら、年度別ヒット曲五木ひろし歌唱盤が出来あがる。こんなの誰も考えなかったなあ。
 選曲は詞本位だったろうか? なかにし礼、吉田旺、いではく、荒木とよひさ、喜多條忠、石原信一、さいとう大三、松井五郎、田久保真見なんて腕利きが並んでいる。いい歌は、いい詞といい曲が力を尽くすものだが、こちらは弦哲也が4曲、水森英夫が3曲、それに杉本眞人、徳久広司、原譲二、幸耕平あたり。いずれにしろ五木好みだろうが、それにしても「演歌っていいね!」と束ねたわりには、定型の3コーラス型は15曲中7曲とほぼ半分。残りは2ハーフタイプの破調で、ドのつく演歌はナシ。この節は演歌も姿形ではくくれなくなっているのがまざまざ。そう言えば愛の表現も多少様変わりして「満ち潮」の及川眠子は「悲しむための愛が終わる」と語り「水に咲く花」の伊藤薫は「いっそ憎んで嫌われて、ひどい別れの方がいい」なんて水森に言わせている。
 おや、頑張ってるね! の麻こよみの「尾曳の渡し」はおなじみの道行きものだが「あなたにすべてを捨てさせて、今さら詫びても遅すぎる」と、ひとひねりして女性が主人公。「最上の船頭」の松岡宏一は、お千16才箱入り娘、弥助ははたちの手代...と時代劇仕立てだが、どうやら女性上位の逃避行だ。
 それやこれやを気ままに選曲して五木の歌唱も、気分よさそうに気ままに聞こえるが、そこがこの人のしぶといところ。よく聞けば曲ごとに彼ならではの技術が動員されている。女性が主人公の作品は、歌の口調が女性のものではじまりサビあたり、メロディーに乗って歌をあおって行く部分では、芯に男気がちらりとする。望郷ものなら歌がたっぷりめになるし、嘆き唄だと地声と裏表のさかい目あたり、自在の声のあやつり方で哀切感をにじませた。リズミカルに弾む作品は、無心に弾んでみせて、五木らしさは薄めにする。恐らくは、後輩たちの各曲を聞いて「俺ならこう歌う」と歌を組み立てなおした五木流、そのうえで〝どや顔〟を見せないところが、年の功か? いずれにしろこの人に「近ごろ丸くなったものだ」の側面を見る気がする。
 おや! を、もうひとつ追加すれば、五木オリジナルの2曲を除く13曲中5曲が鳥羽一郎、川野夏美、三山ひろし、北川大介、純烈の順で日本クラウンの作品。それぞれキャラクターが立っていて「いい仕事してるねえ」と制作者の肩を叩きたくなる。新着アルバム1枚にも、いろんなことが見えて楽しいものだ。
 夕刻、友人からざらざら声で、
 「俺たちは年配者、テレビは命の危険な暑さを連呼するけど、さて、コロナで逝くのか、熱中症で逝くのか、どっちにしたもんだ?」
 と酔ってもいない電話が冗談とも本音ともつかない夏の8月、そう言やお互い7回目の年男だ...と応じながら、五木の気持ちの若さがうらやましくなる。彼は確か6回目の年男のはずだ。
週刊ミュージック・リポート
 「マザコンだからねえ」
 とほめたつもりなのに「吾亦紅」を歌った直後の歌手すぎもとまさとは、作曲家杉本眞人の顔になって肩をすくめた。この曲を彼はもう何万回歌ったことだろう。ほとんど無心で歌える境地だろうが、サビの、
 〽あなたに、あなたに謝りたくて...
 の個所だけはいつも意識すると言う。あの高音ぎりぎりの切迫感と、他の部分の無造作なくらいの語り口が、得も言われぬ味わいを作っている。
 男という奴はみんな、大なり小なりマザコンである。そう書く僕も人後に落ちぬ一人で、杉本の歌を聴く都度、鼻の奥がツンとなる。ことに歌い納めのフレーズ、
 〽来月で俺、離婚するんだよ、そう、はじめて自分を生きる...
 でカクッと来て、
 〽髪に白髪が混じり始めても、俺、死ぬまで、あなたの子供...
 で必ず涙っぽくなる。それにしても作詞家ちあき哲也は、何という詞を書き、世のマザコンの男どもにとどめを刺して逝ったものか!
 杉本のこの歌を、また生で聴いたのは7月21日、フジテレビのスタジオ。4年間で7本めという不定期番組「名歌復活!」のビデオ撮りの現場だ。弦哲也、岡千秋、徳久広司に杉本と、ヒットメーカー四天王が思い思いに弾き語りを聞かせる。岡がピアノ、他の3人はギターだが、弾き語りの良さは作品の情感があらわになるほか、歌手の人となり、心の暖かさや優しさがにじむことだろう。おまけに全曲フル・コーラスである。各曲、作詞家の思いのたけが、はしょられずに、高い完成度を示す。
 今回は今年没後10年の作詞家星野哲郎を偲んで、その作品を4人が歌った。弦が「みだれ髪」岡が「兄弟仁義」杉本が「雪椿」徳久が「男はつらいよ」という選曲。小林旭ファンの徳久はさしずめ「自動車ショー歌」か「昔の名前で出ています」あたりか...と思わせておいて意表を衝いた。
 〽わたくし、生まれも育ちも葛飾・柴又です...
 のあの名調子をやりたかったらしい。岡の「兄弟仁義」はテンション高過ぎる気合いの入り方から「いかん、いかん」と頭をかいて歌い直しをした。作品との取り組み方、見た目、キャラとは違って極めて生真面目な人なのだ。
 楽曲交歓という趣向もある。弦が杉本の「かもめの街」杉本が弦の「暗夜航路」というのが好取組。弦は歌い派だが、この曲の語りの部分と歌う部分を、いい按配の彼流に歌い分けた。「暗夜航路」はキム・ヨンジャが日本での活躍の糸口を作ったスロー・ワルツ。語り派の杉本はそれを、あのぶつ切り心情吐露型歌唱に引き着ける。
 《そこまでやるか...》
 と僕は笑っちまったが、星野コーナーの「雪椿」だって、遠藤実作曲の演歌を、何と8ビートのノリで歌って、
 「俺が歌うと、どうしてもこうなっちゃう」
 とニヤニヤするのだ。
 《しかし、いい歌が揃うものだ...》
 と感じ入ったのは、作詞家の仕事の確かさと豊かさ。岡が歌った自作曲「ふたりの夜明け」と徳久の自作曲「俺でいいのか」は、作詞家吉田旺の旧作と新作。杉本が歌った「青春のたまり場」は阿久悠だし、弦の「天城越え」と「暗夜航路」はともに吉岡治作品だ。これにちあき哲也の2曲と星野哲郎の4曲が加わる逸品オンパレード。
 長く体調不良の吉田旺は以前にも増して寡作だが、星野、吉岡、阿久、ちあきはすでに亡い。それぞれと親交のあった僕は、曲ごとに生まれた時期のあれこれを体験しているから、感慨もひとしお。歴史を背負った名人技を回想する心地だ。
 《俺はこのスタジオで、一体何をしてるんだ?》
 と、我に返ったりする。好評につきもう一作...が4年間で7本も続いた番組で、僕は勝手な時に勝手なことをしゃべっている。それにつき合ってくれる松本明子の役割は台本に「進行」とあり、僕は「聞き手」とあった。そうかそういうことか...と合点、弦の新作「演歌(エレジー)」について知ったかぶりをする。
 弦の音楽生活55周年記念曲だが、息子の田村武也が作詞している。彼は路地裏ナキムシ楽団の座長で、フォークソングと芝居をコラボする新機軸演劇の作、演出家で作曲も歌もやる。そういう一人息子が、父親の来し方行く末を見すえた詞に、父への敬意をにじませているのが好ましいと、ナキムシ一座のレギュラー役者の僕は目を細めているのだ。
週刊ミュージック・リポート
 友人の境弘邦にさっそく電話をした。
 「届いたよ、読み返してるけど面白い。各章各節ごとに頭のツカミがしっかりしてエピソード仕立てだ。これじゃ俺の商売あがったりだよ」
 と言ったら、声まで笑顔のリアクションは、
 「あっちこちから電話がかかりっぱなしで、応対にいとまなしって感じでさ...」
 その日、彼の知り合いに一斉に届いたのは、著書「昼行灯の恥っ書き」である。つまりこのコラムの反対側のページで、平成27年秋から2年間、彼が書き綴った「あの日あの頃」が本になった。この種回顧ものは、とかく自慢話の連続になりがちだが、彼は交友録的角度と裏話でそれをうまくかわしていて、好感度が大きい。
 「昼行灯」とは子供のころに父親から言われた特徴らしく「ぼんやりしている」の意か? そんな子が長じて「転がる石に苔むさず」を念じ「陰日向なく、好き嫌いなく、無欲で、身を粉にして働いた」日々の記録だ。彼は昭和12年3月、僕は11年10月の生まれで、ほぼ同い年、同じように僕もよく働いた。日本が太平洋戦争に負けた20年は小学校(当時は国民学校)3年生の夏で、その混乱にもろに巻き込まれ、生きることに必死で何でもした。国中が極度に貧しかった時代を、彼と僕は共有していることになる。
 本のサブタイトルは「美空ひばりの最後を支えたプロデューサーの手記」とある。
 《彼女についても、似た体験をしたんだな。後で考えれば表裏一体の例も多い...》
 平成元年6月24日に彼女は亡くなった。享年52、手記によれば境はその日、北陸加賀温泉郷の旅館に居た。音楽評論家対策で、急遽ひばり邸へ戻ったのは翌日の昼前である。僕はスポニチの傍系会社の旅行で箱根に居り、タクシーを飛ばしてひばり邸に入ったのは、当日の午前3時過ぎ。すでに黒山の取材陣がひしめいていた。境の顔を見るなり、コロムビアの宣伝担当大槻孝造は泣いたと言う。緊張が解けたのだろう、午前4時ごろ、ひばり邸に居た関係者は彼一人で、表の取材陣は亡くなった事実確認を急いでいた。息子の和也君を出す訳にはいかないし、僕は彼らと同業、無理を承知で大槻に対応を指示した。亡くなった時間、場所の確認、遺体は戻っているが、事後も含めた詳細は決まり次第発表する...。
 境は遺体と対面後に赤坂のコロムビア本社へ戻る。事後の相談と記者会見の準備だ。僕はスポニチの号外をひばり邸の前でも配ることを指示、NHKテレビの午前7時からのニュースでそれが大きく報じられるのを見て、深川・越中島のスポニチ本社へ戻った。徹夜仕事になったスタッフをねぎらい、その足でコロムビア本社へ入る。
 役員会議室。コロムビアの正坊地隆美会長をはじめ役員全員に順天堂大学病院の主治医ら3人の医師が揃う。境はその部屋の入り口付近に、社員ではない3人の顔を見つける。ひばりの付き人2人と僕だ。境は一瞬まずい! と思うが、ひばりと僕の親密な信頼関係を考えてそのままにした。記者会見では「医学的に正確な説明をお願いする」のが、役員の希望。それに境が異を唱えた。九州での入院時の記者会見で、ひばりの股関節のレントゲン写真を公表してしまった悔いがあった。だから彼は主治医に、
 「必要最低限の報告にとどめ、安らかな最期だったとつけ加えて下さい」
 と頼んだ。歌謡界の女王の死は美しいままにしたい。余分なリアリティは必要ない。そう思い定めた彼が、僕を見返す。手記によれば僕は何度も頷いたという。
 境は制作責任者として、コロムビアの演歌路線を確立、ひばり作品のプロデュースから衛星放送による全国葬までを立案実現「ひばり部長」と呼ばれた。昭和53年からほぼ12年、僕がひばり密着取材に恵まれたのは50年からのほぼ15年。当初彼には僕が癪のたねだった。事あるごとにひばりが、
 「小西さんに聴いて貰って、小西さんは何て言ってた」
 と聞くせいだ。しかし彼らが「おまえに惚れた」などで、ひばり作品をカラオケ対応路線に転じ難渋していたころ、本人の質問に僕が、
 「ひばりさんならではの大作も魅力的だけど、カラオケファンにあなたらしいお手本を示すことも大事ではないか」
 と答えて、結果側面援護をしていた事実を彼は知るよしもない。
 没後30年余、境と僕のひばり体験は、そういう表裏一体例を幾つも作っていた。コロナ禍がひと段落したら僕は、彼とそんなあれこれを突き合わせてみたいと考えている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ223

 超深夜型だから、朝の起床は遅め。すぐにテレビのスイッチを入れる。社会の窓を開ける心地で、チャンネルを合わせるのはニュースや情報番組。それをたれ流しに聞き流しながら、朝食はもう昼間近かだ。新聞社勤めのころから変わらぬペースだが、その後がいけない、新型コロナウイルスの蔓延を阻止するための非常事態宣言下では、外出自粛で人に会えないし芸能イベントも全部中止。これでは商売あがったりで、18才でスポーツニッポン新聞社のアルバイトのボーヤに拾われて以後65年、こんなに働かない日々など無かった。

 とは言え、秋元順子のシングルは一枚仕上げた。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲、矢野立美編曲で、『帰れない夜のバラード』と『横濱(ハマ)のもへじ』のカップリング。3月中に詞曲があがり、アレンジの打合わせもすませて、4月初旬に音録り、中旬に歌ダビというスケジュール。一流の仕事師たちとのつき合いは嬉しいもので、作業はいい方向へ淀みなく進む。

 ♪鳴かないカラスが ネオンの上で フラれたあたしを 笑っているよ...

 バラードの方の歌い出しの歌詞2行が、第1稿とガラッと変わって面白くなっているのを

 「杉本ちゃんとやり取りしてたら、ふっと出て来たんだよね...」

 と、喜多條が笑ったりする。

 曲調は秋元の希望通りである。前作の『たそがれ坂の二日月』は詞曲同じコンビで、おとなの女の別れ歌を、軽く弾み加減にした。

 ≪この人には今、こんな感じのものを歌わせたい≫

 と、僕のプロデュースはいつも、こちらの思い込みを形にする。過去に幾つかのヒット曲を持つが、みんなこのスタイル。ところが秋元の今回は打ち合わせの席で

 「バラードがお望みでしょ?それでいいよね」

 「ええ、ええ、是非それでお願いします」

 と意見が一致。うまいことその流れの作品になったから、歌の仕上がりも上々の秋元流。サビあたりが少し強めの感情表現で「遊びの限りを尽くした男(やつ)」との別れを、あの含みのあるいい声に乗せた。

 「今回も楽しいお仕事になりました」

 と言う担当の湊尚子ディレクターのメモ付きで、5月末には完成盤が届いた。バーのカウンターにすわる秋元の目線が、ひょいと男を振り向き加減のジャケット写真で、これも「いいね、いいね」になる。

 しかしまあ、45月は暇だった。たまにかかって来る電話は、僕の安否確認。年寄りで基礎疾患持ちが一番危いとされるから、

 「まさか出歩いたりしてないだろうね。7回りめの年男でしょ。酒盛りも控えることです」

 と相手の声音は優しげだ。「一歩も外へ出ない日だってあるよ」と答えると、先方は「えっ?」と聞き返す。僕はよほどの働き者か出好きと思われていたらしい。何のことはない、テレビの前でゴロゴロ、猫と添い寝をするか、本を読み、たまったCDを聴き、たまにはウォーキングも...と、ごく怠惰な日々。

 「これで先々、元のペースに戻れるのかしらねぇ」

 と案じたら、リモートとやらで珍しく家にずっと居るカミサンに

 「80過ぎてんですから、もうそのままでいいんです」

 と、軽くいなされた。てことはこれが僕の「新しい日常」とやらになるのかしら?

 それにしても、アベノマスクはまだ来ないし、一人10万円も音沙汰なし。首相の「躊躇なく断行」の言葉の意味を疑う。自粛についての指示や張り紙の「当面」と「当分」の混用もいささか気になる。「当面」は「さしあたり」で「当分」は「しばらくの間」の意だから「当面の間自粛」はないよね。

月刊ソングブック
 会場の座席番号と姓名、連絡先を渡して来た。6月28日のことで、この原稿を書いているのが7月8日だから、あれから10日経つ。まだ何の連絡もないから、とりあえず無事か。同じような感想を持つ人々も多かろうが、いやいや...とまだ警戒心を維持するのは、歌手加藤登紀子とそのスタッフ、関係者だろう。東京・渋谷のオーチャードホールで、彼女が1000人の客を入れたコンサートをやっての後日―。
 プロ野球、サッカー、大相撲などのスポーツや、歌手のコンサート、演劇公演などが、やるとすればすべて無観客、リモートのこの時期、加藤コンサートはちょっとした事件になった。マスコミが詰めかけ、会場入口には落ちつかぬ顔の長蛇の列、マスク着用、サーモグラフィーによる検温、手指の消毒、ソーシャルディスタンスの確保、スタッフはフェース・シールド...。当然と言えば当然だが、およそ娯楽とは縁が遠いものものしさ。だから加藤のステージでの第一声は、
 「今日はありがとう。いい眺めよ。相当な覚悟をして来てくれたのよね」
 になる。市松模様とはよくも言ったりだが、観客は前後左右を一席ずつ開けて1000人。僕は2階R1列15番の席、つまり舞台に向かって右側の2階バルコニーから、舞台と客席を等分に見下ろす位置についた。
 「Rising」「Revolution」と2曲歌ってコメント「知床旅情」からは話しながらの歌になる。歌手生活55周年記念のコンサート。一部はどうやらその年月の自分を振り返る趣向と気づく。「知床旅情」はある男との交友からすくい上げた曲といい、1968年、
 「ある夜、ある男と出会い、それから1年後に出来た歌」
 とタネ明かしめいて「ひとり寝の子守歌」に入る。大方のファンも先刻承知だが「ある男」とは亡くなった加藤の夫君、全学連のリーダー藤本敏夫氏で、加藤は1972年6月、獄中の彼と結婚している。「誰も知らない」「赤い風船」などを歌い、レコード大賞の新人賞も受賞した歌謡曲系のデビューだが、藤本氏との共鳴を機に、シンガーソングライターに転身した。
 中島みゆき作詞作曲の「この空を飛べたら」や河島英五の作品「生きてりゃいいさ」も出てくる。
 〽人間は昔、鳥だったのかも知れないね、こんなにもこんなにも、空が恋しい...
 という中島の歌詞に胸うたれ、河島との共演のエピソードで共感を語った。その時期の彼女の切迫した思いが、作品と重なったのだろう。「この手に抱きしめたい」から明日を見据える「未来への詩」で、彼女は一部をしめくくった。
 加藤は1965年、日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝して歌手になった。石井好子音楽事務所とスポーツニッポン新聞社が共催したイベントだから、スポニチの音楽担当記者の僕は、当然みたいに加藤番になる。以後55年、加藤の歌手活動と同じ年月を、僕は彼女に伴走したことになる。時代が時代だから、彼女と藤本氏の交友は、周囲を騒動とさせた。やがて二人は千葉に大地を守る会と有機野菜などの農場を立ちあげ、3人の娘に恵まれた。加藤は世界各国を旅行、先々から〝共感する作品〟を持ち帰り「百万本のバラ」など多彩なレパートリーを作る。いずれにしろ55年、彼女の生き方は挑戦と波乱に満ちており、精神的浮沈も激しかった。
 「ある時、ある人から君はノンフィクションの人だね...と言われて」
 と加藤はステージで笑った。彼女の歌手活動と自作自演する作品が、その時々の彼女の生き方やさまざまな出来事と表裏一体であることを指して妙だ。
 加藤は当初、無観客で考えた。ところが国が「50%1000人までOK」と指針変更したから「天の声!」と受け止めて、有観客の決行を決めたと言う。1943年12月生まれだから76才のはずだが、この人の姿勢は相変わらず〝鉄の女〟なみだ。低音を街角の老婆の呪文みたいに響かせ、中、低音はひび割れ方そのままの声を限りなくたかぶらせて、思いを祈りに昇華させる。ふっくら堂々の体型を長い布、裾ひろがり三角形のドレスに包んで、笑顔のトークは下町おばさんみたいな包容力も示した。
 二部のゲスト出演は次女のYaeで、これまた堂々の声量。千葉の農場は娘たち夫婦が守っていて、加藤家は安泰に見えた。6月28日のこの夜、僕はみんなと一緒に、舞台の加藤とエア・ハイタッチをし、誰にも会わず誰とも話さずに帰宅した。
週刊ミュージック・リポート
 テーブルの上を透明のアクリル板が横切っている。その向こう側にいる女性は、フェース・シールドにマスク、おまけに眼鏡までかけているから、誰なのか判然としない。と言っても、僕は居酒屋に居るわけではない。僕もマスクをつけたままだし、向き合う女性の右側に居る青年もマスクが大きめである。新型ウイルスの非常事態宣言は解除されたが、東京の感染者数は減る気配もない或る日の東京・神泉のUSENスタジオ。実は僕がレギュラーでしゃべっている昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ、人生は!」でのことで、完全武装!?の女性は歌手のチェウニ、隣りの青年はゲストの歌手エドアルドだ。
 ふだんは鼻にかかりる僕のモゴモゴ声が、マスク越しなのが気になって、芝居用の張り声を使った。しかし、どうしても響きが少し派手めになるから、エドアルドの身の上話にはなじまないかな...と気になりながらの録音だ。エドアルドはブラジル・サンパウロ出身。ブラジル人のジョセッファさんという女性が母親だが、生まれて2日後には日系二世のナツエさんの養子に出された。何とまあ数奇な生い立ち...と驚くが、しかし、
 「生んでも育てられない女性と、子宝に恵まれない女性の間で、事前に話し合いがすんでいて、こういうこと、あっちではよくある話なんです」
 と、本人は屈託がなく声も明るい。結局彼はナツエさんの母になついたおばあちゃん子で、祖母は日本人だった。物心ついたころにしびれたのが日本の演歌で、これはナツエさんの兄の影響だと言う。僕がエドアルドに初めて会ったのは19年前の平成13年。NAK(日本アマチュア歌謡連盟)の全国大会に、ブラジル代表としてやって来た彼が、細川たかしの「桜の花の散るごとく」を歌ってグランプリを受賞した。この大会は100人前後の予選通過者がノドを競う、相当にレベルの高いイベントだが、エドアルドはすっきり率直な歌い方と、得難い声味が際立った。審査委員長を務める僕が、総評でそれをほめたら、本人は日本でプロになりたいと言い出す。僕は「相撲部屋にでも入る気か!」と、ジョークを返したが、当時18才の彼は、150キロを超える巨体だった。
 それから8年後、26才のエドアルドは、驚くべきことに80キロ以上も減量して日本へやって来た。大の男一人分超を削っている。
 「胃と腸を手術でちぢめてつなぎ直してですね、まあ、栄養失調になってですね、やせました」
 これまたあっけらかんと話す彼に、僕のアシスタント役のチェウニは目が点になる。ダイエットなんて発想は吹っ飛ぶ捨て身の覚悟で、歌謡界にさしたる当てもないままの来日。もう一つ驚くべきことに、千葉の弁当屋で働きはじめた彼を、義母のナツエさんが追いかけて来日、息子の野望の後押しをするのだ。エドアルドはその後、テレビ埼玉のカラオケ大会でグランドチャンピオンになるなど、手がかり足がかりを捜し、作曲家あらい玉英に認められて師事、平成27年に32才でデビューした。たきのえいじ作詞、あらい玉英作曲の第1作は「母きずな」で、彼の生い立ちが作品に影を作っていた。
 エドアルドの歌手生活は今年で5年になる。最新作は「しぐれ雪」(坂口照幸作詞、宮下健治作曲)で5枚めのシングル。僕が悪ノリしているのは3作めの「竜の海」で、石原信一の詞に岡千秋の曲。越中の漁師歌だが、エドアルドの歌唱は日本人歌手のそれとはフィーリングが一味違って、独得の覇気があった。「心凍らせて」「さざんかの宿」「愛燦燦」などのカバーアルバムが1枚あるが《ほほう...》と思わされるのは「岸壁の母」や「瞼の母」で、やっぱり母もの。プロになって2度、サンパウロで凱旋コンサートをしているが、その時に生みの母ジョセッファさんと育ての母ナツエさんが、手を取り合って嬉し泣きに泣いたと言う。
 少年時代から、彼の歌手志願の背中を押したサンパウロでの歌の師匠・北川彰久氏が、今年1月に亡くなった。毎年5月にNAKのブラジル代表を連れて来日した彼とは僕も昵懇だったから、その葬儀には弔辞を届けた。ブラジルの音楽界と日系社会に功績が大きく、カラオケを通じて日本とブラジルの国際交流にも大きく貢献した人だった。
 びっくるするような話ばかりにつき合ったチェウニは、異国の日本で頑張る先輩歌手だが、エドアルドの日本語の巧みさに、
 「敬語までちゃんとしてる」
 と、しきりに感心していた。
週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ222


 五木ひろしの『おしどり』、川中美幸の『二輪草』、キム・ヨンジャの『北の雪虫』、神野美伽の『浮雲ふたり』、田川寿美の『哀愁港』、成世昌平の『はぐれコキリコ』、水森かおりの『熊野古道』、福田こうへいの『南部蝉しぐれ』、香西かおりの『氷雪の海』、丘みどりの『鳰の湖』、藤あや子の『むらさき雨情』など、ざっと思いつくままにヒット曲を並べてみる。実はこれらに共通点がひとつあるのだが、お判りになるだろうか? もしあなたが、才能に満ち溢れた一人の男の名を挙げられたら、あなたは日本一の歌謡曲通と言ってもいい。答えは「編曲家前田俊明」で、この作品群は全部彼のアレンジで世に出た。

 前田の訃報は歌社会の仲間何人かから届いた。彼の息子安章さんが生前親交のあった人々へ、FAXで知らせたものの転送である。脳腫瘍が再発して闘病が長く、亡くなったのは417日午後444分、通夜と葬儀は23日と24日、桐ヶ谷斎場で家族葬として営む。弔問、供花、香典などは一切辞退とあった。享年70、若過ぎる死である。家族だけで静かに...という思いが即座に伝わる。折から世界に蔓延した新型コロナウイルス禍で、緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出は自粛!が声高の時期だ。

 ≪不要なんてもんじゃないぞ。親友の弔いだ、何をおいても行こう!≫

 一度はそう思った。しかし待てよ!とたたらを踏む。物情騒然の時だけに「心静かに」という遺族の思いは汲まねばなるまい。「密閉・密集・密接」の「3密」を避けたいおもんぱかりもあるだろう。こちらは80才を過ぎていて、感染していない確証もない。押しかけて行くと、かえって迷惑をかけることになりかねない。以前、家族葬へ出かけた経験は何度もある。家族同然のつき合いの仲間を見送った時だ。しかしあれは「平時」で、今は「戦時」だ。と、結局弔問は諦めた。

 「そうか、あれが出世作だったんだ...」

 僕の問いに前田は好人物そのものの笑顔で答えた。

 「山川豊さんのデビュー曲で『函館本線』ですね。1981年だから、もうずいぶん昔です」

 そんな取材で知り合って、長くお遊びのグループ"仲町会"の仲間にもなる。ゴルフ場からの帰りに、彼の車に便乗した回数は数え切れない。ギターを買ったのが小学校5年、中学でマンドリンと出会い、クラブ活動で編曲もやり、歌づくりにかかわる決心をする。明大マンドリン倶楽部で教えを受けたのは古賀政男...と、そんな彼の経歴を知ったのは、車中の雑談だった。

 毎年夏ごろに、季節はずれの年賀状まがいが届いた。カラー写真の葉書きで、前年に夫人と海外旅行をした報告。毎年のことだから行く先が次第に中南米だのアフリカだの、ごく珍しい旅先になったが、その土地々々で民族楽器を買い求める楽しみもあったとか。歌謡界にも愛妻家はそこそこ居るが、まるで手放しで前田はその代表。

 「俊ちゃん、今度はどこへ行くのよ」

 と聞けば、

 「だんだん行く先がなくなっちまって...」

 と、しんから困ったような顔になった。

 カラオケを楽しみに出かけたら、画面の編曲者名に気をつけてくれませんか。例えば水森かおりのご当地ソングは全曲彼の手になるし、角川博もそう、永井裕子もそうで、あなたが歌うヒット曲の半分くらいは彼がアレンジしていると気づくはずだ。

 「シンプルで花やかで、歌いやすく明解なもの」

 を心掛けたと言う前田俊明の編曲は、多岐多彩な作品群と歌手たちの個性を、華麗に染め上げ艶づかせて見事だった。僕は平成を代表する音楽家と心優しい親友を同時に失った無念を噛みしめている。

月刊ソングブック
 作詞家星野哲郎は今年、没後10年になる。あのしわしわ笑顔に会えなくなって、もうそんな年月が経ったのか! と、ふと立ち止まる感慨がある。その星野の未発表作品が出て来た。徳久広司が曲をつけ西方裕之が歌った「出世灘」と「有明の宿」のカップリング。2作とも温存されて、何と33年になると言う。
 西方は1987年に「北海酔虎伝」でデビューした。佐賀県唐津市の出身。同郷の作曲家徳久に認められ、彼を頼ってこの世界に入った。いわば師弟の間柄だから当然、デビュー曲は徳久が書き、求められて星野が詞を書いた。この時星野がディレクターに渡した詞が数編あり、今作はその中の2編。徳久が改めて曲をつけて新装開店の運びになった。
 「出世灘」は「小浜」や「牛深港」「天草灘」などを詠み込んだ漁師唄。「海の詩人」星野お手のものの世界で、主人公が大漁の獲物を贈るのは母親、やきもきさせる港の娘とはまだ他人で、墓所はその海と思い定めていたりする。表現簡潔、すっきりと5行詞3コーラス、ここがこの人の曲者らしいところなのだが、特段新しさを追わないかわりに、今日聞いても全く古さなど感じさせない。
 「そこんところが凄いよな、33年も前のものだぜ...」
 担当プロデューサーの古川健仁に言えば、
 「そうでしょ、いいものはいつの時代もいいんですよね」
 と、我が意を得たりの声になる。この件は星野の長男・有近真澄紙の舟社長に事前にあいさつもしたと言う。メーカー各社のディレクターで、星野の薫陶よろしきを得た面々が、生前から「哲の会」を作っていて、古川もその一人。ずいぶん昔の話だが、ある日スタジオから彼と星野が出て来るのに鉢合わせをした。「何の吹き込み?」と聞いたら、
 「先生にいろいろ話して貰ったんです」
 と、古川が涼しい顔をした。間もなく世に出たのが西方のアルバム「星野哲郎を唄う」で、西方が星野の代表作を歌う合い間に、星野がボソボソしゃべっている。どうやらスタジオで問わず語りを録音したものを、ナレーションとして組み込んでいるのだ。そのころから古川は、思いついたらすぐ...の臆面のない実行派で、星野も彼のそんな〝懐き方〟を許していたのだろう。
 デビューの候補作だったから「出世灘」はやや若向きの詞だが、西方はその辺にこだわらずに、さらりとおとなの漁師唄に仕立てた。情緒的なのはカップリングの「有明の宿」の方。
 〽どうせ二人は有明の、海に映した月と影...
 と、許されぬ男女の道行きソングが、今の西方に似合いだったりする。
 「有近さんも喜んでくれましたよ」
 と言いながらもう一つ
 「うえだもみじさんも喜んでくれましてねえ」
 と、古川の声が明るいのは、永井裕子の20周年記念盤「そして...女」のカップリングに、彼女のデビュー曲「愛のさくら記念日」を新録音で加えたこと。実は永井をデビューから10年間、古川と組んで僕がプロデュースした縁があった。いい声味と力を持つ娘だから、デビュー曲はごあいさつがわりに明るく、キャンディーズの演歌版を狙った。面白がっていい詞を書いたのがうえだもみじで、大分前から僕と同じ葉山に住み、作詞はお休み、書道の先生をやっている。彼女にしてみれば、20年も前に手放した子が帰って来た心地かもしれない。
 記念曲の「そして...女」は池田充男の詞。
 〽この世が果てない海ならば、わたしは沖ゆくうたの舟...
 と、女の生き方と歌い手の思いを重ね合わせて、星野同様にきれいだ。作曲は師匠四方章人で、僕らと組んだ10年間はずっと彼が曲を書いた。最近は荒木とよひさ・浜圭介がいい歌を連作しているが、記念曲となればやはり四方の出番で、彼ならではのいいメロディーに力が入った気配。
 《知遇を得て星野は師匠、デビュー20周年の永井は孫みたいなものだ...》
 浅からぬ縁につながる詩人と歌手の仕事の両方に、これまた親交の長い古川プロデューサーがかかわっている。厄介なウイルスによる〝コロナ・ブルー〟の日々も、ほっこりした気分になる。星野の長男有近や仏の四方ちゃんとは、ここ3カ月は会っていないが、そのブランクも消えてしまうよう。
 永井裕子の20周年記念コンサートは、10月に延期して郷里の佐賀で凱旋イベントになる。西方裕之と岩本公水がゲストとやらで、
 「四方先生も行くし、一緒にどうです?」
 と古川に誘われて、僕はすっかりその気になっている。
週刊ミュージック・リポート
 「やっぱり中止か。俺はそのイベントを、コロナ明け、仕事再開のきっかけにしようと思ってたんだけどな...」
 「ええ、状況が状況ですから、慎重が第一だろうということになって...」
 作曲家弦哲也のマネジャー赤星尚也とのやりとりである。今年は弦の音楽生活が55周年の節目の年。4月に自作自演の記念アルバム「旅のあとさき」を出し、6月にはライブ・イベントを華々しく...の計画だった。国が5月25日に緊急事態宣言を解除しても、新型コロナウイルスの感染は、第2波、第3波の懸念が尾を引いていての断念だ。
 アルバムは弦のセルフプロデュース、セルフカバーの作品集である。発売しっぱなしに出来るはずもないから、弦は自粛生活の中でも結構忙しいらしい。新聞雑誌やテレビ、ラジオなどのインタビュー。よくしたものでリモート取材なる新手法が当たり前になって、窮すれば通じている今日、時間と手間暇は多少かかるにしろ、弦の情熱や熱意はうまく伝わるらしいのだ。
 当方は改めて、記念アルバムをゆっくり聴くことにする。「北の旅人」から始まって「五能線」「渡月橋」「長崎の雨」「天城越え」などの11曲に、リード曲「演歌(エレジー)」を最後に加えた。2500曲を超える作品群から、弦が選んだのは旅にまつわる作品。5年前の50周年には自伝「我、未だ旅の途中」を出版しているが、今度はLP「旅のあとさき」である。人の縁、歌の縁を辿って全国を旅する歌書きの、半生そのものもまた旅であれば、その間の感興を見つめ直し歌い直すのが、この節目の年のテーマになったのか。
 「大阪セレナーデ」は都はるみが創唱したが、えっ、作詞も彼女だっけと再認識する。石原裕次郎、五木ひろし、川中美幸、石川さゆり、水森かおり、山本譲二らの歌で知られるヒット曲も全部新しいアレンジで、弦の歌唱用に仕立て直されている。全体が薄めのオケで、ギターがメインの趣向が目立つ。弦が歌を弾き語りの雰囲気でまとめているせいだ。
 あの「天城越え」でさえ、弦が声を張ることはない。声を抑え、節を誇らず、言ってみれば情緒てんめん。あふれる思いを胸中であたため、声を殺して伝えようとするが、思いのほどが堰を切って溢れ出す聴き応えがある。ほとんどの歌詞が一人称の話し言葉。女や男が旅の途中で、離れ離れの相手に心情を訴える。背景にその土地々々の風景が歌い込まれるから、主人公の絵姿もくっきりとする按配。そんな作品を選んで今年72才の弦は、演歌、歌謡曲への見果てぬ夢を、僕らに手渡そうとするようだ。
 結局作曲家弦哲也は、泣き虫や弱虫の味方なのだと合点が行く。つらいことも切ないことも耐えて忍んで、自分たちなりの明日を探す境地。だから彼の作品と歌は、嘆きや哀しみを芯に据えたうえで、温かく優しく、細やかな情で聴く側を包み込んでいくのだろう。
 55周年を代表する新曲「演歌(エレジー)」は息子の田村武也が詞を書いた。ギターが錆びついて指が切れても、意地を貫いた日々...と前置きをして、
 〽生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
 という2行を最後に繰り返す。息子は父の音楽的半生をそう見立て、共感するのだろう。「演歌」の2文字は歌の中ではそのまま発音され「エレジー」のただし書きがつくのはタイトルだけだ。
 《ほほう...》
 作品リストのクレジットを見て、僕はニヤリとする。「大阪セレナーデ」「新宿の月」やアルバム用新曲4曲のうち「夏井川」を武也がアレンジをしている。弦のこのアルバムは、心情あふれるフォーク系シンガーソングライターである息子との、協演の側面を持つのだ。
 父親の弦との親交に恵まれる僕は、息子の武也とも親しい間柄である。「たむらかかし」をステージネームにする彼は、路地裏ナキムシ楽団の座長で、僕はその一座の役者である。ライブハウスからスタートしたこの楽団の公演は、青春ドラマチックフォークの生演奏と役者たちの芝居がコラボする新機軸。もともと〝ナキムシ〟を名乗るくらいに、人情の機微を描いて客を泣かせながら支持層を広げ、最近は中目黒のキンケロシアターを満員にしている。
 作、演出から音響も照明も...と、多岐多彩な座長の才能に敬服して、弦とはまた一味違うつき合い方をする。父は父、子は子、それぞれ繊細な感性と独自の活動を目指す2人の芸能者相手に、僕なりの忖度を加えたココロのソーシャルディスタンスだ。弦ママも赤星もと弦一族との日々はなかなかに楽しい。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ221

 「謹告 開封後はすみやかに封筒を捨てて、ていねいに手洗いをお願いします」

 と、いきなりの赤文字、それに続いて 

 「封筒は皆さんに届くまでに、いろいろな人が触れていますので、念のためです」

 と説明文が黒文字である。新型コロナウイルス禍が世界中に蔓延、日本も危機感つのらせている最中の郵便物。差出し人は青森市の工藤隆さんで旧知の人の心遣い。内容は三橋美智也の後援会報で、工藤さんは「みちや会」本部のボスだ。昭和の大歌手・三橋の偉業を顕彰、各地にある支部を束ねて、精力的な活動が驚くほど長い。

 今回で100号を数えるレポートは、A417ページの表裏に、後援会活動のあれこれが、写真入りでギッシリの労作。ページの多くを割いているのが、215日、上野で開かれた本部新年会の模様だ。この時期すでにウイルスの感染者が各地に出ており、苦渋の決断で決行したと言う。後援会活動は三橋ソングを継承、後々に伝えることを目的としていて、新年会もカラオケが中心。積年のノドと技を聞かせる熟年紳士淑女諸氏の写真が目白押しだ。

 ≪俺も参加したいくらいの雰囲気だ...≫

 何となく、うらやましい気分になる。写真の中に作詞家たなかゆきおや作曲家榊薫人、元キングの制作部長満留紀弘さんらの顔を見つけるせい。ことに榊は僕が世田谷の経堂に住んでいたころ、近所づき合いになって、せっせと通って来た。新宿の阿部徳二郎一門で流しをやり、クラブの弾き語りも体験した東北人でやたらに粘り強い。芯からの三橋マニアだったから、

 「もし三橋さんが元気だとしたら、彼に歌わせたい曲を50でも100でも書いてみようよ」

 とそそのかして、花京院しのぶの"望郷シリーズ"をスタートさせた。そのうちの一曲『お父う』など、カラオケのスタンダードになっている。

 三橋が亡くなったのは平成8年だから、もう24年になる。そんなに年月が過ぎたのか...と、月並みだが感傷的になる。歌謡少年だった僕は、彼のごく初期の作品『酒の苦さよ』や『角帽浪人』からのファン。高野公男・船村徹コンビの『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』は、そのあとのヒット曲だ。スポニチのアルバイトのボーヤのころは、千葉・松戸の流しの友人を頼って遊びに行き酒場で歌ったことがある。エア・ギターで『哀愁列車』専門だった。

三橋との親交に恵まれたのはスポニチの音楽担当記者になってから。それも彼が絶不調のまま紅白歌合戦で『星屑の町』を歌ったあとに、酒席で「引退を考えたりしないのか?」と質問して大ゲンカになった。駆け出し記者の無遠慮を恥じる一幕だが、麻布―銀座―向島と飲んで、双方相当に酔ってもいた。「表へ出ろ!」といきりたつ三橋の前から、そっと逃がしてくれたマネージャーの池ちゃんも、もう亡くなってずいぶんになる。

 一件のあと、出演中の国際劇場の楽屋で仲直りしたが、その後はお互い心許した関係。三橋が熱海にホテルを作れば「彼女と一緒においで。最高の部屋を用意する」宝石商をやれば「ダイヤはいらないか、安くするよ」の申し出がある。双方とも丁重に断った。熱海で遊べる身分ではなかったし、半値にしてもダイヤはダイヤ。スポーツ紙記者が手の届く品ではない。

 そう言えば...と思い出す。志村けんがコロナ禍で亡くなり、また脚光を浴びた『東村山音頭』は、三橋と下谷二三子のデュエット盤が元祖だった。

 それやこれやを思い返す僕は、コロナ禍のために自宅に巣ごもり中。年寄りほど重篤化、持病があればなお...と言われればやむを得ない。記者から雑文屋の60年近く、飛び歩くのが商いだった僕の気分は「コロナ・ブルー」である。

月刊ソングブック
 BSテレビで平成の流行歌がよく流れる。新型コロナウイルスの影響が激甚で、番組制作が出来ぬための再放送。当方は巣ごもりのながら視聴で、時に胸を衝かれる。川中美幸の「二輪草」成世昌平の「はぐれコキリコ」水森かおりの「東尋坊」以降ご当地シリーズの全曲、神野美伽の「浮雲ふたり」をはじめ、亡くなった編曲家前田俊明の作品がやたらに多い。彼が平成のこの世界の代表であることを再確認してズンと重いのだ。
 訃報は子息前田安章さんのFAXが、友人から転送されて知る。亡くなったのは4月17日午後4時44分で、23日に通夜、24日に葬儀を桐ヶ谷斎場で営む。家族葬につき弔問、供花などは一切謝絶とあった。脳腫瘍を手術、全快して現場復帰後しばらくして再発、また仕事を離れた長い闘病があった。享年70、早すぎる死を家族だけで静かに...の思いがあろうし、コロナ感染の〝3密〟を避けたいおもんばかりもあったろう。意を汲んで僕は後々に無念の弔意を伝えることにした。
 つき合いの始めは取材。前田の出世作は昭和56年、山川豊がレコード大賞の新人賞を受賞した「函館本線」で、僕はこれに肩入れをしたスポニチの音楽担当記者。もっともこの時期、親しくなったのは前田ではなく、当時の東芝EMIの宣伝マン市川雅一氏で、双方カラオケのレパートリーにした。
 当時の編曲界は斉藤恒夫、池多孝春、川口真、丸山雅仁、桜庭伸幸らが独特の音楽性を競っていた。そこへ参入した前田は、鈴木淳、弦哲也、岡千秋、四方章人らの作曲家勢や各メーカーのディレクターたちと親交を深め、独自の世界を切り開く。曲により飾る色あいはさまざまだが、
 「シンプルで華やかさがあり、歌いやすく、明解なもの」
 を本人が狙って華麗さが独自でひっぱりだこ。平成4年には藤あや子の「こころ酒」10年には川中美幸の「二輪草」でレコード大賞の編曲賞を受賞。17年と21年にはオリコン・トータルセールスの編曲家部門で1位を占めるブレークぶりだ。
 「これも俊ちゃんか! おめでとう!」
 「おかげさまで...」
 例えば平成10年のレコード大賞。グランプリ候補の優秀作品賞10曲のうち8曲はJポップ系、残る2曲が川中の「二輪草」と田川寿美の「哀愁港」で、双方前田編曲だった。その表彰式、トロフィーを手渡す制定委員の僕と受け取る前田に、
 「私語が多過ぎないか?」
 と笑ったのが制定委員長の船村徹だった。
 そのころはもう、弦、四方に編曲の若草恵、南郷達也、石倉重信らとともに、ゴルフとうまいもの探索の〝仲町会〟に、前田も名を連ねる飲み友だち。四方の作曲で僕がプロデュース、古川健仁がディレクターの永井裕子は、10年間ほぼ全曲、前田にアレンジを託してもいた。
 「俊ちゃん!」「統領!」
 と呼び合って、ゴルフ場からの帰路、前田の車に便乗したことなど数え切れない。
 台東区入谷の生まれ。3軒隣りが教会で、讃美歌を聞きながら育つ。小学校5年の時にお年玉でギターを買った。マンドリンを弾き編曲もしたのが中学時代、作・編曲で身を立てる気になったのが17才で、明大マンドリン倶楽部に入り古賀政男の教えを受ける。ざっとそんな音楽的生い立ちの前田は宝飾屋(かざりや)の男3人兄弟の三男坊。江戸っ子だが温和でシャイな人柄で、律儀で実直な仕事ぶりはもしかすると、父から受け継いだ〝職人の血〟が生きていたろうか?
 病気が再発した昨年、
 「当分仕事を離れて、リフレッシュした方がいい。ま、我慢も仕事のうちさ」
 と伝えたら、
 「しばし、外野から観戦させてもらうことにします」
 という返事が来た。毎年夏ごろに届いた、愛妻との海外旅行のラブラブ写真つきポストカードはそこで途絶えた。
 「退屈してないか? 遊びで曲でも書いてみちゃどうだろう...」
 僕がジョークの見舞いで渡した歌詞1編に、嬉しそうに曲を3ポーズも書いた。大阪の作詞研究グループ詞屋(うたや)の杉本浩平が作詞した「古き町にて」という作品。著名な演出家や大学の教授、小説家、エッセイストなど顔ぶれが面白いから僕も長くかかわって来たが、その私家版アルバム第2集「大阪亜熱帯」の最後に前田作品を据えた。知り合いの歌手は山ほど居るが、皆契約先があって手伝って貰えず、結局歌ったのは僕。雑文屋、舞台の役者の2足のワラジの3足めだ。
 「統領、歌手としてもなかなかです」
 昨年秋ごろ届けたアルバムに、本人から来た電話のお世辞が、最後のやりとりになった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ220

  大切な客が鉢合わせをしたら、どうする? 一人は大阪から来た映画監督の大森青児。もう一人は冬の間、沖縄で暮らしている作詞家のもず唱平だ。さて――。

 2月、僕が明治座の川中美幸公演に出演中の話。早々と先に約束したのは大森監督で

 「18日は昼の1回公演だけど、それを観た後、会えますか?」

 の電話にOK!何かうまいものでも...と返事をした。川中公演で2作ほど出して貰った演出家で、ことに「天空の夢」(明治座、大阪新歌舞伎座など)では、川中相手に大芝居という望外の役に抜擢されている。川中はこの作品で芸術祭の大賞を受賞、陰で僕は「それなら俺はさしずめ助演男優賞だ」などとうそぶいたものだ。大森監督はNHK出身で大河ほか数多くのドラマを手がけ、一昨年、映画第1作の「家族の日」を撮り、僕もちょこっと出演させて貰った。

 そんな行きがかりがあるところへ、もず唱平から葉書が来る。

 「18日に観劇、そのあと是非懇談など...」

 とある。こちらは昭和48年にブレークした『花街の母』以来だから、もう47年の並みではない親交があり、言下にOKを出さざるを得ない。それならば、どうしたか?

 「ええい、面倒!」

 とばかり、ごちゃまぜの食事会にした。昼の部終演後だから、午後4時には行きつけの月島のもんじゃ屋「むかい」に店を開けて貰って、どういう歓談になるかは出たとこ勝負である。無茶は承知、無茶!?が通れば道理はひっ込むだろう。

 その夜、大森監督から手渡されたのは、映画の次回作「もういちど、恋(仮)」のシナリオである。長年のコンビ古田求の脚本で、もう制作実行委員会まで立ち上げている。この人の凄いところは、独特の人脈を辿って、制作費全額をかき集めてしまう有言実行ぶり。前作「家族の日」は故郷岡山をベースに撮影、上映はコンサートに似た自主公開が軸で、北京映画祭にまで呼ばれた。今回はどうやら姫路が舞台になるらしく、もちろん僕の出番もある。

 もずが持ち込んで来たのは、久々に新人に肩入れをした作品と、その歌い手。3月にデビューする小川みすずに『何でやねん』と、関西弁の女心ソングだ。小川には伊藤マネージャーが同行していて、この人は以前、僕が山口のりという歌手のプロデュースをした時からの長いつき合い。気がねのない間柄だから、小川のデビューまでのいわく因縁までがあけすけに語られる。その間もずはニコニコと寡黙だがよくしたもので、大森監督は歌謡界の裏話に興味を示して好反応――。

 そして3月になる。例のウイルスのせいで"巣ごもり"をしている僕は、しみじみと小川を聞いた。もずの詞が

 ♪恋が愛には育たずに 死んでしもたんか...

 とか

 ♪美学と云う気か 何でやねん...

 なんてこれまでの彼の仕事では見かけなかった言葉使いが新鮮だ。それに浜圭介がゆったりめのブルースの曲をつけている。

 ≪二人ろも"ほほう"の仕上げ方や...≫

 と、僕はいい気分。伊戸のりおの編曲もなかなかで、淡谷のり子や二葉あき子、平野愛子なんて、昔々の歌手のヒット曲を連想するのどかさが懐かしい。

 大森監督のシナリオは、ごく限られた関係者用の準備稿だから、ここで内容を書く訳にはいくまい。まだ配役も決まっていないままのものを、僕の役は恐らく...と当て推量しながら読んで、3度ほど胸を衝かれて涙ぐんだ。

 しかし、関西人の会話は実に楽しいものだった。大森監督は雄弁の人だし、伊藤マネージャーはそれに輪をかけて多弁にして駄弁。話題もここかと思えばまたあちらで、ユーモラスで賑やか。根にある諧謔精神と軽やかさに、茨城育ちの僕など気おくれして、相づちを打つ間もなかった。

月刊ソングブック

 殻を打ち破れ219

  

  やたらに威勢のいいイントロで、第2幕の緞帳が上がる。中央に大衆演劇の松井誠、バックの男女は彼の劇団員に扮して、一斉に舞い扇の波を作る。ガツンと歌に入ると、

 ♪泣いてこの世を生きるより 笑って生きろと励ました...

 晴れ晴れと、リズムに乗る歌声の主は作曲家弦哲也で、どうやら彼の作品『男の夜明け』と見当がつく。えっ? それにしても何で? そう思うのは、舞台が明治座、川中美幸の特別公演のせいだ。弦と彼女は常々「戦友」と表現するくらいの親交を持つ。声はすれども姿は見えずで、弦は歌だけ録音の友情出演になった訳か。

 ≪それにしても、縁が濃いめだ≫

 僕が明治座そばの常宿ホテルに入ったのは2月1日の夜。翌日からの劇場でのけいこに備えてのことだが、テレビをつけたら突然弦が出て来た。石原裕次郎のために書いた1曲についての思い出話。その横でうんうん...と、したり顔なのは僕ではないか! カメラが引いて出演者のみんなが写る。徳久広司、杉本眞人、岡千秋と並んで、僕の右隣は松本明子。何のことはない、BSフジの「名歌復活」の再放送。4人の作曲家を「杉岡弦徳」の名のユニットにして、新曲を! なんて今ごろ盛り上がっている。

 その新曲は『恋猫~猫とあたいとあの人と~』で、史上初の歌謡組曲。昨年末には番組内で披露、CDもテイチクから発売されている。何しろ弦が作曲家協会、作詞した喜多條忠が作詩家協会のそれぞれ会長で、他の面々も要職につくヒットメーカー。

 「そんなのアリですか?」

 と、当初相当にビビった松本も、そこはベテラン、芸熱心。ひどく個性的な4人のメロディーを読み切り身につけて、なかなかの仕上がりにした。

 ところで明治座の2月公演だが「フジヤマ"夢の湯"物語」と題した、下町の人情コメディー。川中が銭湯の女主になっているが、借金を作った父親は行方不明。内風呂が当たり前の昨今では、客足も減って経営不振。やむなく「よろず代行業」を兼業するのだが、何しろ"よろず"が曲者で、笑いのネタには事を欠かない。

 そこへまた、滅法ノリのいい写真屋のおやじが現われて、川中の幼な友達役の井上順である。笑わせたい! 楽しませたい! のサービス精神が、けいこ場から全開、セリフと動きの両方にギャグをちりばめて、演出の池田政之を笑わせる。この演出家もやるなら徹底的にと、率先垂範するタイプで、芝居はどんどん長くなるが、本番ではいいとこ取りをしてバッサリ削ることになりそう。

 よろず代行のひとつとして、川中は勉強中の落語まで演じる。演目は「時そば」ならぬ「時うどん」で、関西風味に仕立て直したから、麺の種類が変わった。日々の苦心は本題に入る前に並べる"マクラ"で、熱心なファンは何回も観るから、それなりの趣向を凝らす必要に迫られそうだ。

 「笑売歌手」の異名をあげたいくらい、川中の笑いづくりは定評があるが、大泣きする場面があるのも毎度おなじみ。今回は15年前に失踪した父親の、苦衷の実情を知って父恋しさが再然、泣き崩れる。彼女にそのタネ明かしをするのが、ふつつかながら弁護士役の僕という段取りだ。

 ザ・スパイダースの人気者だった井上とは取材記者時代からの知り合いだが、共演は初めて。もう一人の麻丘めぐみも"左きき"当時からの知り合い。

 「70才からこの道に入れてもらってさ」

 「そうですってね。お元気で何よりです」

 と、ご両人にはいじられられ加減の日々。2月4日初日、25日までのお楽しみである。

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 「家を出たところで、コンサートも何もやってない。人には会うなというから、散歩してるよ。家からちょっと行くと海があってな...」
 しばらく会っていない松枝忠信氏に電話をしたら、相変わらず元気な声だった。もう昔話だが、彼が大阪、僕が東京のスポーツニッポン新聞社で同じ釜のめし。音楽担当記者として、絶妙のコンビぶりを発揮した。両方とも歌社会を跳梁跋扈(少し言い過ぎかな?)するネタ集めで、それを突き合わせて記事にするのが楽しくてたまらなかったものだ。
 共通点は「3密」である。今やそれは世界的にご法度だが「密閉」「密集」「密接」がネタの漁場でこちらは漁師。大きなパーティーなど、「密集」する人数分だけネタがあると踏んで、水割り片手に会場を右往左往した。料理に手を出すなど時間の無駄で愚の骨頂。会場に入る前にざる蕎麦をやるのが心得だった。ネタの当たりが来れば以後その人に「密接」し、パーティーのあと個人的に「密閉」の時間を貰ったりする。何しろ手に職がないから「人頼り」の仕事で、コツは「人たらし」だったろうか。
 コロナ禍で、人との接触を8割減らせ! の大号令がかかっている。ウイルスを拡大させないためには、巣ごもりするのが最大の闘い方と理解はしている。だから80代の老スポニチOBは珍しく従順だ。松枝はあの大震災を体験しているから、事の重大さは僕よりも深く実感しているかも知れない。しかし、現役の記者たちはこの事態をどうしのいでいるのだろう? 取材活動が不要不急のもののはずなどないとしても...。
 《「3密」なあ。俺の場合はもう一つ足して「4密」だったな...》
 と思い返す。取材相手に対するとめどない「密着」である。もっともこればかりは、それを許してくれる人に限られるからそう大勢ではない。取材をし原稿を書き、先方の才能や実績、人柄などに感じ入れば、即密着する。事あるごとにその人の側に居ると、会話が生まれネタが増え、それを原稿にする繰り返しの中で、ありがたいことに信頼関係が育つ。そのうち先方から声がかかるようになればめっけもの。こちらは滅私対応になる。
 そういう型で知遇を得た人に作曲家では吉田正、船村徹、三木たかし、作詞家では星野哲郎、阿久悠、吉岡治、もず唱平らが居り、歌手では美空ひばり、川中美幸...と続く。縁は弾んで川中は、僕を役者として彼女の一座にまで加えてくれている。相手に密着を許されたら、こちらは長期戦を覚悟する。ネタ集めを急ぐよりは、その人の過去、現在、未来に寄り添い、すべてを吸収しにかかるのだ。いずれにしろ相手は大物である。分をわきまえ、程を心得て接すれば、汲めども尽きぬ宝物に恵まれること必定となる。
 取材も芸事も同じで、万事「教わるより盗め」である。常時身辺にいることを認め、盗み放題を許してくれた船村、星野はやがて僕の「師」になった。もっとも歌づくりと取材とでは畑が違うから、先方にその気はない。ところがこちらは自分の生き方考え方にまで影響を受けているのだから、ご両所をあちこちで「師」と言いまくる。長いことそれを続けた結果、船村は
 「いつからそうなったんだい?」
 と笑いながら聞いたし、星野は、
 「それよりもな、ゴルフだけは君の師匠になりたかったんだぞ」
 と言い切った。双方ともに見事に免許皆伝ということではないか?
 70才で役者になってこの方、この道での師匠は東宝現代劇75人の会の重鎮横澤祐一である。川中一座の芝居で初めて会い、その後一、二度一緒になり、75人の会公演に誘って貰い、僕がその会員になる道筋をつけてくれた。彼が作・演出をする公演にレギュラー出演してもう10年余。けいこ場や舞台で見よう見真似、ずいぶん多くを盗み学んだ。
 「踵で芝居をしないとねえ」
 酔余ぼそりと、そんなことを言う。芝居をかかとでですか? 要領を得ないまま僕は、横澤の呪文を抱え続けることになる。その後ずっと、出を待つ舞台そでで、僕はその一言を思い返すことが習慣になっているのだ。
 僕の他流試合もよく見てくれる。出来がいいと我がことのように喜ぶが、
 「楽な芝居をしていて、どうする!」
 と、烈火の如く怒って深酒になる夜もある。どこかに「受け」を狙った邪心が見えすいたのか? 真面目に真一文字に、信じたままに行えば、客は反応するもので、余分な技は要らない。
 ああ、そういうことなんだ! と近ごろ僕は思い当たる。この国の首相が作ったアベノマスク騒ぎや星野源とネットでの共演というコメディー(!)の質についてだ。あれは自作自演なのか、相当に優秀な演出家が居ての技なのか?
週刊ミュージック・リポート
 「続いてます? ずっと」
 「うん、もう3カ月になる、そっちは?」
 「まだ1カ月、めしの後なんかが辛い...」
 作詞家喜多條忠とのそんなやり取りは、禁煙についてだ。僕が始めたのは今年の元旦。その後一緒に飲んだ時に喜多條は、
 「何でまた?」
 などと冷やかし顔だった。それが3月に入って突然「応援禁煙」をFAXで宣言して来た。この際俺も...の便乗型なのに、同じ苦労をして、僕を支援する気らしい。ま、きっかけは何にしろ、やめるならやめるに越したことはない。
 4月1日、僕らは東京・関口台のキングレコード・スタジオにいた。作曲家の杉本眞人、アレンジャーの矢野立美が一緒で、このトリオで作った「帰れない夜のバラード」の録音。歌う秋元順子は早めに入って、スタッフに〝おやつ〟を配るなど、こまめに働いている。
 「それにしても、こうなるとレコーディングも命懸けだねえ」
 集まったミュージシャンも、それがジョークになどならない真顔だ。
 3月29日、コメディアンの志村けんが亡くなっている。新型コロナウイルスが世界中に蔓延している最中である。スポニチ一面の大見出しは、
 「志村けんさん、力尽く」
 だった。体調不調で自宅静養に入ったのが3月17日、重度の肺炎で入院したのが20日、3日後にコロナウイルス陽性が判明、24日に人工心臓装置を装着したものの5日後に亡くなる。その恐るべき進行の早さへの驚きや、稀有の才能を失った無念がにじんだ見出しだったろうか。
 彼の死が〝眼に見えない敵〟の脅威を実感的にした。世界を震撼させるコロナ禍の実態をメディアが詳報し、国内の感染者数や死亡例が連日うなぎのぼりでも、どこか対岸の火事、他人事めいていた空気が一気に変わった。有名人の大病は、金の力で何とかなるものだ...とひがむ庶民の暗黙裡のうなずき方も、吹き飛んだ。「不要不急」という4文字熟語の意味が、より深く理解されはじめる。
 「力尽く」は3月31日付、翌4月1日付スポニチ一面の大見出しは
 「志村さんロス~寂しすぎるよ」
 だった。志村が生み出した笑いの数々を思い返す。徹底したムチャクチャどたばたが幼児を含めて全世代を喜ばせた。PTAが「低俗! 下品!」といきりたってもどこ吹く風でコントを量産、彼はテレビが生んだ実に今日的なコメディアンだった。それが、最期を誰にもみとられず、骨も拾われぬまま、カメラの放列に囲まれたのは、実兄知之氏に抱かれた骨壺という異様さ...。
 秋元順子の新曲に話を戻す。プロデューサーの僕が喜多條に「考えてちょうだい」と話したのは昨年の暮れ。年が変わった1月、新年会気分の宴会の合い間に雑談ふうな詰め。タイトルはその夜に決まった。禁煙話が出たのもその席。「今さら手遅れだろう」や「えらいこっちゃ」の冷淡な反応があり、試作の歌詞のFAXのやりとりの中で、喜多條が応援宣言をする。杉本が曲づくり、編曲を矢野が頑張った日々がはさまって、歌づくりは2人の男の禁煙騒ぎと並行していたことになる。その間に僕は2月のほぼ一カ月、明治座の川中美幸公演に参加していた。芝居と禁煙が両立できたのか...が冒頭の喜多條発言の真意だったか。
 「またひとつ、新しい秋元順子の世界をふやしていただけまして...」
 と、やたらに味のあるいい声で歌った秋元順子が言う。カップリング曲など「横浜(はま)のもへじ」で、「へのへのもへじ」の仇名を持つ謎めいた男のおはなし。
 「これは秋元さんも歌いたがらないネタだと思ったよ」
 と、作曲の杉本まで笑う怪作!? である。
 スタジオの内外、マスク姿ばかり目につく光景の中で作業は進む。オケ録りが終わったあたりへ、飛び込んで来たのはコーラス担当の女性2人。
 「黒人っぽいフィーリングでさ...」
 「OK!」
 なんてやり取りのあと、男性コーラスも加わって歌いはじめたから、スタジオ内に眼をこらすと、これが何と杉本と矢野が歌っている。他でもやったことがあるらしく手慣れた呼吸の合わせ方で、秋元の歌のお伴が出来上がる。こういう仕事は、みんなが楽しんでいる雰囲気の中で、その実、芯はまともに競い合うあたりが醍醐味なのだ。
 ところで6月に世に出す予定の秋元の歌づくり。この大変な時期に、これが「不要不急」のものか! と問われれば言葉もないが、仕事終わり恒例の一杯はちゃんと自粛した。社会人としての自覚はきちんとあるうえに、コロナが本当に怖いのだが、新曲は歌手の命だろうし、ねえ。
週刊ミュージック・リポート
 「どんなジャンルを歌いたいの?」
 とよく聞かれて、それが悩みのタネだったと言う。テイチクから「私の花」(紙中礼子作詞、花岡優平作曲)でデビューする「ゆあさみちる」という歌手のことだ。
 《へえ、そんな枠決めの仕方をそっち側がするんだ、このごろは...》
 と、僕はニヤニヤする。
 昔々、スポーツニッポン新聞の音楽担当だったころ、僕は歌い手たちによくなじられた。
 「俺たちの音楽を、勝手にジャンル分けして、レッテルを貼らないでくれ!」
 と言うのが彼らの言い分で、決めつけられるのを嫌った。グループサウンズ、フォーク、ロック、ニューミュージック、Jポップ...と、ポップス系のレッテルは大まかに、そんな流れで、それぞれにまた細分化するレッテルが生まれた。
 「短い原稿だからさ、頭に○○○歌手の...とつけなけりゃ、読み手のイメージを絞れない」
 と僕は言い訳をし、
 「だけどレコード店だって、配列のコーナーでジャンル分けしてるぜ。あれも買い手の便宜をはかってるんじゃないの?」
 と、言い返したりした。
 歌にしろ音楽にしろ、作る側はより自由な方がいい。それは当たり前のことだ。それなのにゆあさは、作る側の人々からジャンルを問われた。経歴書によれば、4才からピアノ、小学生でトランペット、中学でイタリア歌曲、日本のポップスも。高校でNHKのど自慢、作詞作曲を始める、高卒で上京、CMソングを歌ったり、GLAYのアルバムにコーラスで参加...とある。その間、夢はいろんな形にふくらんだろう。交友関係もそれなりに広がって、影響も受けたろう。そんな時期やりたいものを本人が絞るのはむずかしい。絞れば逆に自分をせばめる不安も生じたろう。
 あれこれ思い悩んだ末に、彼女が選んだのが作曲家花岡優平だった。秋元順子を「愛のままで」でブレークさせたシンガー・ソングライター。ゆあさは彼に曲を書いて貰おうとする。新潟・新発田から東京に出て、音楽界の裾野を歩いて何年か、彼女は自分の思いのたけを伝え、花岡の音楽に身を委ねようとした。そうすることで彼女は、自分の世界を絞り込むトライを試みる。
 メジャーデビュー曲「私の花」は、ゆあさみちるの柔らかなメッセージソングになった。
 〽咲かせるの、私の花は、信じる力で咲かせるの...
 というフレーズの繰り返しの中で〝信じる力〟は〝魂(こころ)の力〟や〝愛する力〟に入れ替わる。誰のために、何のために咲かせるのかの問いの答えは「きっと自分のために」と出て来る。
 実はこの娘の歌を、僕は昨年、六本木のライブハウスで聴いている。親交のある花岡に誘われてのことだが、その夜僕は彼女の居ずまいと歌が、すっきり率直なことに好感を持った。ライブ慣れした慣れ慣れしさがない。ファンとのやり取りにそれが微妙に表れて、親しげだが媚びがないのだ。花岡作品と彼女のオリジナルらしい作品も、何だか粋にこざっぱりした歌唱に似合った。ライブのあと、近所で一ぱいやって、そんな感想を伝えたのだが、花岡は急いでライブハウスへ戻った。バンドにギャラを支払うためと聞いて、僕はそんな形の師弟関係もあるのかと面白がった。
 ゆあさのデビュー盤カップリング曲は、彼女が作詞作曲した「花の名前」である。この春公開予定の映画「セイキマツブルー」(監督ハシテツヤ)のエンディングテーマに使われているという。吐き出せぬ思い、忘れてはならぬ思いを、心に咲く花として育てて行こうというのが歌詞の大意。若いシンガーソングライターらしい一途さが、詞、曲、歌に表れて、やはり長めだ。
 《そうかい、妙に花にこだわりながら、この娘は自分の歌を自分のジャンルにすると思い定めたのかい...》
 僕はこの新人歌手の、こだわり方をほほえましいものに受け止める。誰だってみんなそうなのだ。音楽や歌だけにとどまらず、文学も絵も書も芸能芸術にかかわる人はみんな、自分だけのジャンル、つまりは独自性、オリジナリティを追求するものだろう。自由に気ままに(ということはそれに見合う苦悩や試行錯誤とともに)物を作る幸せって奴を体験できることを、喜ばねばなるまい。これを書いている3月11日は、9年前に原発事故と東日本大震災が起こった日で、復旧復興はまだ道遠い。新型コロナウイルスの発症が生活や経済に激しく影響、世界中が不安と混乱を充満させて、翌々日にはとうとう「パンデミック」と呼ばれる事態にまで発展している。
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 「やあ、やあ...」
 と、久しぶりのあいさつの響きには、気取りも嘘もなかった。しかし、握手に差し出した手に、一瞬の迷いがある。例の新型コロナウイルス感染を、相手はどう考えているか? ところが、
 「僕、手がつめたいんですよ」
 と人なつっこい笑顔で、夏木ゆたかはこちらの手を握った。2月27日午後、ラジオ日本のスタジオ。彼の番組に作曲家ユニット杉岡弦徳、松本明子と連れ立って、出演するひとコマ。この番組自体が、前日までは東京タワーのスタジオで、一般ファン相手に公開放送する予定だった。それが急遽、スタジオに変更される。安倍首相が大規模イベントなどの自粛を要請、大騒ぎになった余波の一つだ。まさに号令一下、スポーツも音楽も、一斉にイベントが消えた。引き続き、小中高校も休校せよの指示である。突然の決定に驚きはするが、そのこと自体に異論ははさみにくい。ウイルスの勢いは中国に端を発し日本、韓国へ侵攻、世界各国各地域に広がっている。それもどういう経路でどう伝播するのかがはっきりせず、発症数ばかりが取り上げられ、処置なしと聞けば増殖するのは不安ばかりだ。
 「ま、さほどの事ではあるまい」
 という根拠のない楽観は影をひそめ、
 「なりふり構わず、やる事はやろう!」
 などという蛮勇は出番を失う。ことがことだから、誰がどう責任を取るのか、国や政治への不信が募る。国中があきれ返る責任回避状態だ。
 2月25日、僕は明治座の川中美幸特別公演の千秋楽を迎えた。観客が大いに笑い「こういう時期にぴったり」の好評を得た一カ月だが、主催者の配慮から貸し切り公演2回分が中止になっている。大勢のファンを招待して、もしもの事があっては...の気遣いがあってのことだろう。長期公演のあとはしばらく、大てい腑抜けになる僕は、27日ラジオ日本のあと、28日から淡路島へ出かけ「阿久悠杯音楽祭」に参加するはずだったが7月に延期、そのほか二、三の行事が中止になってヤレヤレだ。骨休めのつもりだった3月のハワイ旅行も取りやめにした。わざわざ出かけて、東洋人だからと胡散臭い視線にさらされるのもたまらないし、第一、あっちもコロナ騒ぎの最中、熱でも出そうものなら病院にカン詰めにされかねない。
 何しろ発症しやすいのは70代80代の老人で、疲れ果てていたり、持病があったり...と言われれば、要素どんぴしゃりと僕は適合する。だから人混みに出るなどもってのほか、家でじっとしているのが一番と言われても困る。そういう種族ってついこの間までは「粗大ゴミ」と呼ばれていたよな...と、お仲間のTORYO Officeの臼井芳美女史に言ったら、
 「巣籠りって言うらしいですよ、近ごろは、はははは...」
 とリアクションは軽かった。ゴミが鳥や虫に変わったと言うことか!
 ところで冒頭の夏木ゆたかの件だが、昔々、彼がクラウンから歌手デビューをした時、僕はスポニチに記事を書いたそうな。そんな話をしながら、毎年5月、全日本アマチュア歌謡祭という一大カラオケ大会に、彼は司会、僕は審査委員長で顔を合わせている。
 25日にラジオ日本へ出かけたのは、杉本眞人、岡千秋、弦哲也とこの日欠席の徳久広司の苗字を一字ずつ取った杉岡弦徳作品の売り込み。四人のユニットが作曲、詞を喜多條忠、歌を松本明子が担当した歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」が、何しろ10分近い長さなのを「そのまんま流しましょう」と、奇特なことを言ってくれたのが夏木とこの番組制作者たちなのだ。僕はその作品で、おでん屋のおやじとして松本とやりとり、歌をつないで行く役割も果たす。
 「ねえさん、屋台の酒だぜ、そんなに飲んじゃいけないよ」
 なんてセリフで、歌が始まる段取りを、この日は生放送だ。作家3人を前にした生歌で、松本も相当に緊張気味だったが、なかなかの味。番組のおまけみたいに松本と岡が「浪花恋しぐれ」杉本が「吾亦紅」弦が「天城越え」を弾き語りで歌って、聞く僕らは昼間からいい気分になった。
 「そう言や、2曲あがったかい?」
 と、杉本に作曲依頼した秋元順子用の催促をすると、
 「ああ、こんな感じでさ」
 と、その場で杉本が歌って聞かせる。これがかなりいい感じのバラードで、一日も早く、秋元に歌わせたくなる。役者をやった後は雑文屋とプロデューサー業で、コロナ騒ぎとは言え、幸いなことに巣籠りしている暇などない。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ218

 峠は深い。荒れる雪風吹、宿の灯りなど見えるはずもない。そんな光景の中を、一組の男女が辿る。相合傘である。厳しい冬景色の「動」と、行き暮れる女が見せる一瞬の「静」が、いい芝居のクライマックス・シーンを見せるようだ。

 作詞家池田充男は、伍代夏子のためにそんな絵姿を用意した。『雪中相合傘』だが、弦哲也の曲、南郷達也の編曲。情緒的な曲と音に包まれて、伍代の歌はひたひたと主人公の思いを語る。不しあわせから出発する道行きソング。男の情にほろほろ泣きながら

 ♪生きてみせます 死ぬ気になって...

 と、女は決意のほどを訴えたりする。

 「池田先生から、すごくいい詞を頂きました」

 友人のプロデューサー角谷哲朗が、声をひそめたのは、昨年1119日の夜。月島の行きつけの店"むかい"でやった、仲町会の早めの忘年会の席だ。僕らはその日鎌ヶ谷CCでゴルフをやっての反省会!? で、メンバーの弦哲也や四方章人、南郷達也も居て賑やかなのに、どうしても報告は小声になる。

 「そうか、じゃあとでウチにFAXしといてくれ」

 僕の返事もそっけない。仲町会は元ビクターの朝倉隆を永久幹事に、元テイチクの千賀泰洋、松下章一、同社現役の佐藤尚、キングの古川健仁、三井エージェンシーの三井健生らに、編曲の前田俊明、若草恵、石倉重信らも加えて歌謡界なかなかのやり手揃い。もう30年以上、ゴルフや酒盛りを繰り返しているが、唯一ご法度なのは「新作」の売り込み。歌づくりの談論風発の楽しみに宣伝要素を持ち込むことは、仲間うちで自制しているのだ。

 それからしばらく、暮れに角谷から池田の歌詞と伍代のCDが届く。師走のバタバタの中で、

 ≪ソツのない奴だ。ま、元気で何よりということか≫

 僕は相手の顔を思い浮かべてニヤつく。つき合いの長さが、年数では思い浮かばない。彼の仕事に感想を言い、レコード会社移籍の相談にも乗った、結婚式では主賓を務めている。

 「そばで暮らそうと思って...」

 とうやうやしく、同じマンションへ越して来たことがある。世田谷・弦巻に住んでいたころだが、僕ン家は5階、相手は10階だったので、

 「毎日、俺を見下ろして暮らす気か!」

 と、冗談めかしたものだ。そう言えば坂本冬美で『夜桜お七』を作った昔、プロデューサーが僕で、彼はディレクターだった――。

 ≪そうか、これも有りかな...≫

 と、新年、伍代のCDを聞き直してほろりとする。世の中は東京オリンピック、パラリンピックであおり立てられ、陽気なこと手放しである。そんな世相と真逆に『雪中相合傘』の男女は、灯りも見えぬ闇の中を行く。人間、一寸先は判らない。宴のあとには虚脱感がつきものだ、前回の東京オリンピックは昭和39年、スポニチの音楽担当記者だった僕は、事後のスッポ抜け現象を、世の中のあちこちで体験した。もし今回も、そんなふうに憑き物が落ちるとしたら、この歌はぴったりのやるせなさで似合うかも知れない。

≪池田充男の歌は、やっぱり嘆くのだ≫

と思い当たり、それが演歌歌謡曲の根っ子だと再確認もする。カップリングは『拝啓 男どの』と風変りなタイトル。昔なじみらしい男相手に、盛り場の様変わりを伝えながら、

♪世の中どこへどう流れても 咲いていますよ義理人情...

と女が語りかける。背景は神楽坂だ。

"勝手書き"のそんな詞に、池田の元気と若さを感じる。もう90才に手が届くだろう詩人が、伍代に2曲分、そんな熱い思いを託している。ひところ『悠々と...』や『酒暦』などで、人生を総括し加減に見えたのが気がかりだったから、なおさらである。

月刊ソングブック
 第一景は公園、その群衆の中の一人に僕は居る。占い師としての装束は、お衣装さんの女性が着せてくれた。小道具もそれなりで板着き、音楽が始まり、緞帳が上がる。緊張の一瞬である。ところが―、
 客席がまっ白なのだ。ン? と、一瞬こちらの気持ちがたたらを踏む。目を凝らせばそこに出現しているのは、マスクの大群である。2月、明治座の川中美幸公演、世の中は新型コロナウイルスの疑心暗鬼が蔓延している。中国の武漢に端を発したこの疫病は、正体は判っていても伝播の実態が多様でつかみにくく、国内で死者も出た。とりあえずマスクと手洗い...と対応の指針がシンプルなだけ、東京はマスク顔の氾濫になった。劇場も同様なのだが、面白いのは休憩時間の後の客席。マスクの数が半分以下に減っている。食事のあとはやはり鬱陶しいのだし、危機感もとりあえず棚あげというのが、庶民感情なのか?
 大劇場の長期公演に入ると、月日や曜日、時刻などがひどくあやふやになる。ま、やっているのが非日常の世界のせいだろうが、楽屋と舞台の行き来ばかりは、実に正確に規則正しい。次の出番で劇場下手の階段を上がると、途中で必ず仕事が終わった役者に会う。「お疲れさま」「行ってらっしゃい」などと、小声のあいさつを交わし、スタッフの懐中電灯に導かれ、位置につけば、必ず主演の川中美幸の後ろ姿がそこにあるといった按配。彼女主演の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の一場面だが、観客が見ている舞台上の役者の流れと相対する型で、舞台裏も人が流れているのだ。
 ふと客席に眼を移す。舞台上の暗闇で揺れるちょうちんの灯りに合わせて、ペンライトが揺れている。灯りを手にする彼我の男女をいい気分にする一体感。川中のヒット曲の一つ「ちょうちんの花」が必ずこういう現象を起こす。
 《阿久悠の詞だな、飲み屋の一隅で、〝人生ばなし〟をするという表現が、いかにも彼らしい...》
 などと、楽屋の僕は老俳優から突然、はやり歌評判屋に立ち戻る。歌手とヒット曲の関係は微妙で、発表の新旧関係はなく、歌手が舞台に乗せる作品というものが必ずある。川中で言えば「ふたり酒」と「二輪草」は欠かせない。これは彼女の今日を作ったヒットだから当然。その他に必ず歌われるのが、前出の「ちょうちんの花」や「豊後水道」「遺らずの雨」「女の一生汗の花」などだ。
 「女の一生...」は彼女と亡くなった母親久子さんの苦しかった一時期をテーマに、吉岡治が詞を書いた。川中がショーの中で、必ず触れるのが母親の話で、この曲が出て来るのは無理がない。面白いのは「豊後水道」が阿久悠「遺らずの雨」が山上路夫と、作詞家は分かれるが、ともに三木たかしの作曲。両作品に川中は特別な感興を持つようで、詞に魅かれるのか、曲に酔うのか、この2曲の川中の歌唱は、いつも情感が濃い目になる。
 三木たかしに生前、その様子を伝えたら、彼はひどく驚き、喜んだものだ。歌書きにとっては、ヒット曲を作るのも嬉しい仕事に決まっているが、年月が経過してなお、自分の作品が歌われ続けている喜びはひとしおのものだろう。ところが作家たちは新しい歌づくりに追われるあまり、歌手たちそれぞれの活動の情報はあまり得ていない。作品が一人歩きをしていると言えば言えて、それはそれで心温まる出来事だが、さて、最近歌現場にあまり姿を見せぬ山上は、「遺らずの雨」がそんなに熱く、そんなに長く歌い継がれていることを、知っているだろうか? お節介な話だが、そのうち本人に伝えたいものだと思ったりする。
 それにしても...と思うのは、阿久悠、吉岡治、三木たかしらの不在である。彼らは多くの歌手たちに、その財産となる作品を遺して逝った。川中の場合〝しあわせ演歌〟の元祖と呼ばれる、たかたかしと弦哲也が健在で、彼女のための歌づくりに力を注いでいる。それが歌手川中美幸の幸せだろうが、亡くなった歌書きたちの手腕の確かさにも、また改めて思いいたる。近ごろの演歌、歌謡曲は、ずいぶん長いこと作品が痩せ過ぎてはいまいか? 苦しさを増す商業状況があるにせよ、目先の成果を追うあまり、安易に慣れ過ぎてはいまいか?
 川中の新曲は「海峡雪しぐれ」で、たかと弦のコンビ作。スタッフから「演歌の王道を!」と言われたと話しながら、川中は哀愁切々の歌唱。共演の松井誠がさっそく「僕も踊りのレパートリーに」と、如才のない発言をしている。
週刊ミュージック・リポート
 けいこ場に笑いが絶えない。場面ごとに芝居を固める時はもちろん、休憩時間もあちこちで、同時多発的に笑いのかたまりが生まれる。1月下旬の江東区明治座森下スタジオ。2月4日初日の川中美幸特別公演のけいこは、笑い合いながらその割にてきぱきと、事は進んでいる。
 笑いの震源地!? は、演出家の池田政之と出演者の一人井上順。柏田道夫作、池田演出の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」(二幕)は下町の銭湯が舞台。近ごろは家庭に内風呂が当たり前だから、経営に行き詰まり、女主人の川中が〝よろず代行業〟を兼業することになる。当然、従業員がいろんな役割を果たすのを、ハラハラ見守るのが、川中の幼なじみの写真館の店主井上と、ビューティークリニックの社長麻丘めぐみ。銭湯を我が劇場に! と飛び込んで来るのが、大衆演劇の座長松井誠...。
 お話がお話だから、笑いのネタには事欠かない。エピソードの一つずつを、役者が台本通りにやろうとすると、
 「もっと面白く行けない?」
 「一度下手そでへ走ったら、また戻っておいで。息が上がるまで、行ったり来たり...」
 などと、演出の池田が若手役者たちをそそのかす。さっさと応じるのが由夏・芦田昌太郎姉弟だ。
 「それならば、こう...」
 と誰かが言えば、大笑いしながら即採用。
 「こういうのはどうかしらねえ...」
 と、割って入るのが井上で、自分の芝居もせりふ回しから動きまで、あの手この手の提案だらけ。
 「笑わせる」「受ける」
 を、四六時中考えている気配で、けいこ場へ入る前に秋葉原あたりの洋品店へ出かけて、色も柄もこれ以上なしという奇抜な代物を仕入れてくる。僕などセリフがまだ生覚えでへどもどするのを尻目に、衣装から小道具まで、着々とメドをつけて行く。
 池田の率先垂範ぶりは、長い演劇生活の博覧強記に当意即妙がおまけ、芸の引き出しが山盛り状態だ。
 劇中劇や舞踊はお手のものの松井も、劇団員に扮する男女が集まると即、踊りの手ほどき。
 「生来せっかちなもんでねえ」
 と笑いながら、休憩時間もあれこれ忙しい。
 毎度のことながら、
「いい座組み、いい雰囲気」の中央にいるのは川中で、けいこ場の隅々にまでさりげない目配りとふれ合いづくり、関西の人特有のジョークもちょこちょこ飛び出す。その傍らで麻丘は、おっとりと出を待つ風情がなかなか。「わたしの彼は左きき」でブレークした当時のアイドル性も残しながら、60代の女性の生き方を探る気配だ。29年ぶりの新曲「フォーエバー・スマイル」を加えた自選ベストアルバム「麻丘めぐみPremium BEST」(CD2枚組40曲)が世に出たばかりだ。
 《それにしてもお二人さん、ずいぶん久しぶりに出会ったもんだ》
 というのが、けいこ場入りした僕の感慨。ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知とはGSブーム初期から親交があり、井上や堺正章、亡くなったかまやつひろしや井上堯之らからは、〝リーダーの客〟として遇されていた。あのころ精かんな二枚目だった井上が、ギャグの虫状態でコメディを手探りしていることに頭が下がる。麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞を獲得したころ、僕はそのスタッフの相談役だった。小澤音楽事務所の小澤惇社長、アルト企画高見和成社長らだが、その二人も今は亡い―。
 そんなことに思いを巡らせていると、左手が自然にすっと、タバコの箱へ行く動作になる。
 《あ、いかん、いかん、タバコはやめたんだ...》
 と苦笑いするのだが、正月元旦から禁煙生活に入っていることを、すっかり忘れているから妙なもの。つまりそのくらい禁煙が苦痛でも何でもなく、食事のあとや酒場で乾杯! の時などに、ふっとタバコに向かう微妙な習慣だけがまだ残っている。
 「何でまた?」
 「年が年だ、今さら手遅れでしょう!」
 「ま、カミサンは喜んでいるだろうがね」
 など、ここ1カ月での周囲の反応は、どちらかと言えば冷ややかである。
 ま、7巡めの年男としては、音楽業界各位に、妙に慣れ慣れしくなり、スポニチの後輩は全部呼び捨てになっている。役者としてはまだ13年めだが、舞台裏のあれこれも含めて、ともすれば判ったような顔をしはじめるころあい。この辺でそんな自分に、居ずまいを正させないとな...なんてあたりを、断煙の表向きの理由にしている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ217

 信子さんが泣いた!

 それも、登壇してマイクを持った瞬間、あいさつにならない。会場は静まり返る。主賓のテーブルに居た僕は、たまらずに声を挙げた。

 「信子、泣いていい!泣いてもいいぞ!」

 隣りの席の矢吹海慶和尚も、息を詰めている。万感胸にせまる気配で、それは同席した人々がみな、大なり小なり抱え込んだ感情でもあった。1117日夜、山形県天童市の温泉ホテル「ほほえみの宿 滝の湯」の宴会場での出来事だ。

 泣いたのは佐藤千夜子杯歌謡祭の実行委員会福田信子事務局長、見守った和尚は物心ともにこのイベントを支え、主宰した町の有力者で、僕はこのカラオケ大会の審査委員長。この席は大会の打ち上げで、例年なら"後夜祭"と名付けた陽気な宴会である。大会終了後に何も泣くほどのこともあるまいと思われよう。実はこの夜が年に一度で19回続いた大会の、最後の最後に当たっていた。

 佐藤千夜子は、当地が生んだ日本のレコーディング歌手の第一号。大会はその実績を顕彰して彼女の名を冠していた。当初は地元本位の催しだったが、次第に全国規模にスケールアップ、最終回、今回のグランプリ受賞者は『人生の晩歌』を歌った千葉県市川市の和田健だったくらいだ。僕は16年連続で審査を務め、東北の歌好きたちの人情とおいしい物を満喫して来たから、感慨もひとしおの一幕だ。

 大会は文字通りの"手づくり"で、事務局長といっても信子さんは単なる芸事好きのおばさん。それが準備段階から当日の運営まで、全員ボランティアのおばさんたち相手に率先奮闘の指揮を取った。19年やっても一向に進歩せず、舞台裏はいつも、ドタバタあわてふためくがかわいかったくらいで、信子さんが最後に泣いたのは、そんな大会を毎年支え切った達成感ゆえだったろう。

 和尚はそんな彼女らの日々を見守り、事を任せて来た。この人がまた曲者で「酒と女は2ゴウまで」とか「仏はほっとけ」とか、冗談まじりでカラオケと酒をたしなむ。新聞記者時代から今日まで"人を観る"ことをなりわいとして来た僕には、彼が只者ではない見当くらいついてはいたが、その人柄に甘えて"ためぐち"のつき合いをさせて貰った。片言隻語に含蓄と慈味があって、僕の天童詣では、やがて和尚と会う楽しさに変わっていったものだ。

 和尚と飲む出羽桜の「枯れ山水」は美味だった。癖になったのは「青菜漬け」や「いも煮」めしは「つや姫」に止めを刺し、酒どころ、歌どころ、人どころの東北の妙に、僕はすっかりはまった。旅という奴は、神社仏閣見聞に物見遊山、近ごろはご当地グルメばかりだが、何と言っても第一は、逢いたい人に逢える醍醐味だろう。

 今大会の前夜祭は、和尚の「米寿を祝う会」になった。例年大会前夜は、和尚はじめ関係者と食事、二次会ふうにくり出すスナックで、カラオケに興じて来た。祝う会の発起人代表に指名された僕は、そのレベルのお遊びを兼ねての催しと早合点しいたが、案に相違のスケールだった。ホテル玄関の立て看板には「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」とあり、何と"上人"である。参会者百余名が着席の宴席で、夫人同伴の和尚はカラフルな法衣をまとって壇上におさまる。僕は金屏風を背負ってのあいさつで、少々たたらを踏んだ。

 改めて和尚の正体を知る。観月山妙法寺第十八世住職で、任ずること六十五年、日蓮宗大荒行寒中百日間を5回達成。市民文化会館と中央公民館の初代館長を兼務したほか、元、前、現を合わせ市の文化、教育全般で数々の役職を務める仁徳。山形いのちの電話理事、平成のかけ込み寺を営んで、舌がんの予後をカラオケでやってのけた八十八才、すこぶる元気と来る――。

 ――これではもう、今度会っても"ためぐち"をきける自信など無くなりそうだね!

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 舞台に巨大な将棋の駒が11個も並ぶ。それを背景に2人の男が対峙している。おなじみ、阪田三吉と関根金次郎の因縁の対局シーンだ。駒の間から男たちが現れる。舞台上手の数人が関根側、下手が阪田サイドで、彼らが、盤上の戦いを中継、解説、応援、言い争う。それぞれ口調が激しい。
 《そうか、そういう手があったか!》
 僕が合点したのは、勝負の内容ではなく、熱戦の様子を劇場の客に伝えるアイデアについてだ。映像なら棋士2人の表情の変化や駒を動かす手や指、取り囲む人々の動揺や感嘆などを、たたみ込んで熱気を表現できる。ところが芝居だと、そうはいかない。歌手三山ひろし扮する阪田三吉は、前かがみに盤上を見据えているだけで、客席からは遠い。
 明治座の正月公演を見に行った。三山が初座長で「阪田三吉物語」をやる。映画や芝居でよく知られている演目。どんな按配か? とのぞいたのだが、これがなかなかの新趣向。立川志の春の同名の新作落語の舞台化で、志の春本人が冒頭から出語りで一席、劇中もちょくちょく現れて味な狂言回しをやる。三吉の生い立ちから最期、その記念碑のありかまでを時系列で説明し尽くすのだ。
 無頼の賞金稼ぎ時代から関根との出会い、東西で反目する将棋界と双方を取り込んでの新聞社の暗闘、女房小春の献身とその死などのエピソードも次々に出て来るが、判りやすいことこの上ない。そのうえ三山三吉が要所で己の心境を語って客をうなずかせ、突飛なアクションで笑いを取る。破天荒な人物像を、熱演また熱演する従来の阪田ものに比べれば、淡白クールな仕上がりで、それが〝役者三山〟らしさの作り方か。
 世の中、バラエティーばやりが長く続いている。テレビは芸人たちのおしゃべりが山盛り、ニュース番組のコメントにまで笑いの要素がちりばめられる。そんな風潮が蔓延してか、若者間で人気がある仲間はオモシロイ人、ヤサシイ人...。こうなれば、歌手の大劇場公演も笑いとは無縁ではいられまい。それもめいっぱい真面目にやって、結果オモシロければ最高だろう。三山の第二部オンステージは「FirstDream2020」のサブタイトルがついて、これでもかこれでもか。
 三山が「雨に唄えば」などの映画音楽を「踊る」のだ。年配のファンはフレッド・アステアなんてあたりを思い浮かべそうなシーン。それを舞台いっぱいに展開して、そこそこ様になることで一生懸命さをアピールする。それに例の「俵星玄蕃」の長尺熱演を並べ、お次が昭和歌謡のミュージカル仕立て。「神田川」「青春時代」「結婚しようよ」「3年目の浮気」「うそ」「木綿のハンカチーフ」などの歌詞がクスグリのネタで、三山青年とその恋人の、同棲時代から破局までのドタバタ・コメディだ。
 芝居とヒットパレードの二本立てという、従来のパターンでは近ごろのファンは納得しない。いつのころからか面白おかしさを期待する風習が行き渡ってしまった。カラオケのお仲間と一緒に好きな歌を聞き、あんな顔してあんな事する...と思いがけない寸劇で大いに笑い、ああ、よかったねと三々五々家路につく。ファンにそうあって欲しいと思えば、三山も奮闘せざるを得まい。大阪・新歌舞伎座は体験したが、東京明治座は初主演。
 「デビュー11年めで、こういう大舞台に立たせていただけるのも、皆さまのご支援あってこそ...」
 のあいさつを、社交辞令どまりにしてしまうわけにもいかない。
 それやこれやの阪田ものと、ショーの品ぞろえ。おしまいには「望郷山河」「男の流儀」などのヒット曲に紅白歌合戦出場の感想などもチラッと話して、新曲「北のおんな町」は「買ってね」とタイトルを連呼、また笑いを誘う。酷使しているノドは大丈夫か? まだ若いんだから体調は維持できるだろうな。結局これは文字通り彼のワンマンショーだ。やれやれお疲れさん! そう思いながら僕が席を立とうとしたフィナーレで、いきなり三山が翔んだ。白いスーツの背中に天使みたいな羽根をつけての宙吊り。それも舞台上空を縦横無尽。スイスイとかっこ良くポーズしたり、溺れるようにバタバタしたり。客席の嘆声の中で、すうっと降下すると舞台中央、共演者と一緒に三方礼である。
 僕が観たのは1月14日夜の部。3日後の17日にはこの劇場の2月公演、川中美幸主演の「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の顔寄せがある。共演者の一人の僕は、今度は〝いい笑いづくりのお手伝い〟で、同じ舞台を行き来することになる。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ216

ヒョウタンからコマ...という奴が、実現した。作曲家たちとたくらんだ歌づくり。それが歌謡史上初の組曲に仕上がったから、やっていた連中さえ、なかば驚き、なかば呆れ、なかば興奮状態である。作品名は『歌謡組曲「恋猫」~猫とあたいとあの人と~』で、作曲が杉岡弦徳、作詞が喜多條忠、編曲が南郷達也と、みんな親しいお仲間。歌ったのはタレントの松本明子で、20分余の大作になった。

冗談の発端はBSフジで不定期に放送されている「名歌復活」という番組で、作曲家の杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司が思い思いの曲を弾き語りで歌うのが売り物だ。タイトルから判る通り、彼らの作品や彼ら好みの埋もれたいい歌を発聞掘するのが、当初のコンセプト。弾き語りの味が絶品で、必ずフルコーラス...という趣向が受けた。高視聴率に放送局や制作プロダクションが気を良くして、またやろう!もっとやろう!と、放送する機会が追加、また追加。もう本番は6回くらいになるか。BS番組の特徴で、再放送が多いから、ずい分長くかかわっている気がする。

 僕と彼らの野放図な雑談にも、進行係の松本がすっかり慣れたころ、≪松本明子を歌手にしよう≫という話が、番組内で持ち上がった。せっかく名うての作曲家が揃っているのだから、曲はみんなで書こうと意見が一致。彼らの姓から一文字ずつ取った「杉岡弦徳」という作曲ユニットが出来あがる。作詞は喜多條忠にと僕が提案、これまたいいね!いいね!とまとまった。弦が作曲家協会の会長、喜多條は作詩家協会の会長でもある。あまりの大物揃いに歌手を指名された松本明子は、眼が点になり、ほとんど悶絶状態――。

 それから約2年、ああだ、こうだ...のやりとりが交錯して、組曲「恋猫」は出来あがった。無茶ぶりだよこれは...と、悪乗りの渦に巻き込まれた喜多條は、杉岡弦徳それぞれの顔を夢に見て、うなされたとも言う。体裁は五つの歌詞をそれぞれ1コーラス分ずつ、作曲者のイメージに合わせて、全く異なる行数。失恋をぼやく女の第1コーナーを岡、男との出会いを回想する第2部を弦、飼い猫相手の愚痴の第3部を徳久、人生なんてそんなもんさと諦めかかる第4部を杉本がそれぞれ作曲、最後の第5部は4人がセッションして完成という具合い。全体を音楽監督ふうにリード、取りまとめたのは弦の役割だ。

 青ざめて、必死で頑張ったのが松本である。各パートそれぞれに、ごく個性的な歌書きたちがとても個性的なメロディーをつけている。そのデモテープ相手に日夜歌唱の予習、復習のくり返し。内心「大丈夫かな?」と危惧した僕らを尻めに、彼女は見事にやたら高いハードルをクリアした。4人の作曲家が拍手したくらいの仕上がりである。

 災難はいつふりかかるか判らない。あわせて5コーラスの歌の合い間を、女主人公と誰かの会話でつないだ方が物語性が濃くなるという話になり、お鉢がプロデューサーの僕に回って来た。舞台で役者をやっている経験を生かせ!と衆議一決、おでんの屋台の親父の役柄で、失恋女の松本と僕のぼそぼそセリフのやり取りが合計5ヵ所も。言いだしっぺは弦で、スタジオで僕にダメ出しをしたのは喜多條である。

 1024日、フジテレビの湾岸スタジオでやった「名歌復活」のビデオ撮りでも、それをそのまま再現した。引くに引けないノリの僕と、もはや余裕もにじませる松本のセリフと歌唱。背後でニヤニヤしているのが杉岡弦徳の4人と喜多條という20分余。NGなしで何とかやりとげた光景は、127日夜、3時間番組の最終部分でオンエアされる。恐るべきことにこの組曲「恋猫」は、やはり12月にテイチクからCDとして発売される。松本は上機嫌、僕は当分冷や汗をかくことになる。

月刊ソングブック
   暮れギリギリに台本が届き、正月は友人たちとの飲み会のあいまに、それと首っぴき。24日初日の川中美幸特別公演「フジヤマ"夢の湯"物語」(柏田道夫作、池田政之演出)で明治座に25日まで、詰め切りになる。

 主演の川中は、経営不振の銭湯「夢の湯」を抱え、ご町内何でもOKの代行サービス業で大わらわ。気をもむ写真館の主井上順、実業家麻丘めぐみや大衆演劇の座長松井誠らがからむ下町人情劇だ。僕の役は川中に寄り添う弁護士だが、ことらもいろんなキャラで出たり入ったり。コミカルな役づくりで楽しくお手伝い・・・を目論んでいる。

 松井は二度目、ほかに安奈ゆかり、由夏、穐吉次代、小早川真由、深谷絵美ら親しい顔ぶれとご一緒。三宅祐輔とは十手かざした親分子分で、大阪新歌舞伎座の花道を逆走した思い出がある。

 思い出と言えば、井上順がスパイダースのボーカルでGSブームの人気者、麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞をゲットしたころのつき合いだが、いずれも僕の取材記者時代の話。役者になっての初対面で、2人がどんな顔をするかが楽しみだ。顔寄せけいこ始めは117日である。

フジヤマ人・うた・心

   恒例の沢竜二「旅役者全国若手座長大会」が1212日、浅草公会堂で。沢公演参加10年めで、初の女形役をやった。演目は「次郎長外伝・血煙り荒神山」。吉良の仁吉の家で働く女中3人組の一人お杉だが、今回も頬と鼻の頭を赤くしたおてもやんふうオッチョコチョイの造り。

 訪ねて来た旅人に一目惚れ、身をくねらせて投げキッスをしてセリフも一言、二言。いつもチョイ役だが、相手は座長たちでみんなめいっぱいの二枚目ファッション。僕ひとりがオバカだから、やたらに受ける。「あんたは体中で芝居をするのがいいところ」と、座長の沢は毎回三枚目の役をくれるのだ。 

 友人の小森薫が手伝いに来たが"女装"と聞いて悶絶、近くの和服店へ飛び込んで、着せ方を教わって来た。その心配は無用で、着付けをしてくれたのが座長の一人市川富美雄の奥方。大衆演劇には床山さんやお衣装さんなど居ないが、急を知ってのボランティアだ。着付けをすませ、帯をポンと叩いた彼女と共演の岡本茉莉から、僕のオバカメーキャップに「かわいいわね」の一言があった。

 川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座を手始めに、東宝現代劇75人の会、路地裏ナキムシ楽団、門戸竜二の大阪遠征に続いて沢竜二大会と、令和元年、僕の芝居行脚は合計5公演で打止め! 観て下さった諸兄姉に深謝、令和2年は2月明治座「川中美幸」公演でスタートです。

 ちなみに門戸の「デラシネ」(田久保真見作詞、田尾将実作曲)と沢の「銀座のトンビ」(ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲)は、ともに僕のプロデュース作品。二人がそれぞれの舞台で熱唱するのを、楽屋で聞くのは気分のいいものだ。

全国若手座長大会

  

 羽田から関空へ飛んで、電車に乗り換えて阪南市へ。大阪だがかなり和歌山寄りの場所。その市立文化センターの開館30周年記念公演へかけつけた。大衆演劇のプリンスモンド竜二一座に加わって、演目は人情芝居「あにいもと」。

 大店伊勢屋の若旦那(田代大悟)が、芸者に入れ上げて50両の借金を作った。僕は金貸し山路屋で、抵当に取った"雪舟の掛け軸"を売り飛ばそうとするチョイ悪。若旦那の窮地を救おうと一計を案じた大工(門戸)と障害のある妹(吉野悦世)の美人局にひっかかって、ひどい目に合うドタバタ騒ぎだ。

 成田の門戸のけいこ場で2日ほどけいこをして、1回こっきりの本番。以前竜小太郎らとやったことがある役だから、委細承知とおおむねスイスイだ。共演は他に朝日奈ゆう子、本州里衣、蒼島えいすけ。磨呂バンドの歌謡ショーと、恒例の舞踏がついた3部構成である。

 在阪の役者細川智と松田光生が激励!?に現われたのに仰天したが、久しぶりに楽屋で懐旧談。12日でひと仕事は初体験だったが、旅公演は楽しいものと再確認した。1123日と24日の出来事である。

門戸竜二特別公演
 演歌をジャズ・アレンジで歌う。バックはピアノ、ギター、ベースのトリオ。曲目は「ちょうちんの花」「遣らずの雨」「豊後水道」で、川中美幸はまっ赤なドレスに思い切り長めのパーマネント・ヘア。遊び心たっぷりの演出に、ディナーショーの客はノリノリになる。12月8日のホテルオークラ。少し早めの忘年会、あるいはクリスマス・パーティーの気分だ。
 川中はこの日が誕生日。実年齢を肴に、老後のあれこれをジョークにする。新曲「笑売繁昌」をそのままに、この人のトークは定評通りで、爆笑、また爆笑の賑いを生む。関西出身ならではの諧謔サービスが行き届いて〝飾らない飾り方〟が身上だろうか。
 「ふたり酒」や「二輪草」「男の値打ち」など、おなじみのヒット曲は着物姿で決める。「女の一生汗の花」になれば、当然みたいに亡くなった母親久子さんの話になる。辛い時期を二人三脚で越えた相棒でもあるから、母をテーマにした16曲のアルバムも「おかあちゃんへ」がタイトルになっている。10月1日が祥月命日、その一周忌法要も済ませていて、少しは心がなごむのか、母の遺した入れ歯をカスタネットに見たてて、
「それがカタカタいってかわいいの」
 と、またジョークだ。
 ゲストは作曲家の弦哲也。「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった仲だから、お互いを「同志」と呼び「戦友」に例える。「とまり木迷い子」をデュエットしたあとは、弦が「北の旅人」「裏窓」と「天城越え」をギターの弾き語り。前2曲は石原裕次郎、美空ひばりに書いた作品で、
 「昭和の太陽のお二人に歌って貰えたことが、最高の思い出」
 とコメントすれば、会場の昭和育ちが、それぞれの青春を思い返すことになる。弦の自画像的作品「我、未だ旅の途中」に共感する男たちも多い。
 川中、弦ともに長い親交のある僕は、十分にリラックスして彼女と彼の歌、それに上物のワインに酔い、なかなかのディナーを賞味する。会場には二人の後援者たちの顔が揃う。その誰彼にあいさつをしながら、僕は知らず知らずのうちに知己が増えていることに気づく。縁につながるということは、心地よくありがたいものである。
 当然みたいにショーの打ち上げにも参加する。来年2月の明治座公演「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の話になる。川中から声をかけて貰っての舞台役者、レギュラー出演してもう13年。近ごろ何とか格好がついて来たと言われたりする僕は、この席でも川中一座の老優のたたずまいだ。それにしても...と、共演する井上順や麻丘めぐみの件を持ち出す。井上は元スパイダースのメンバーで、リーダー田邊昭知と僕は昵懇の間柄である。麻丘は昔々、森昌子らとレコード大賞の最優秀新人賞を争ったプロダクションの陰に居た。二人とも僕が役者兼業であるとは知らぬはずだから相当に驚いているだろう。
 弦哲也は歌手の田村進二時代からの知り合い。仲町会のメンバーとして公私とものつき合いがあり、彼が作曲家協会の会長になったことを契機に、レコード大賞の制定委員に呼び戻された。〝昔の名前〟のお手伝いである。最近は杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司と売れっ子たちの苗字を一字ずつ取った作曲ユニット杉岡弦徳の歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」をプロデュースしたばかり。おまけに弦の指名で、おでん屋台のおやじに扮し、歌った松本明子と曲間の小芝居までやった。この有様はCDになり12月テイチクから発売と来たからもう、アワワアワワ...である。
 打ち上げの席には弦の長男田村武也も居た。こちらはご存知路地裏ナキムシ楽団の座長たむらかかしで、今年10月、めでたく第10泣き(つまりは第10回)公演を成功させた。彼と僕は
 「統領!」「かかしさん!」
 と呼び合う数少ないレギュラー出演者。若者たちの熱気溢れる音楽と芝居に、ひたすら平均年齢を引き上げるお仲間になっている。この楽団は来年の令和2年5月に、小豆島へ遠征公演が決まっていて、その話も酒席の肴になった。これを書いている12月10日は、記念すべき10回公演の映像試写会が青山であるから、その分も浮き浮き...だ。
 それやこれやの年の瀬である。来年は84才、何回りめか数えるのも億劫なネズミ年の年男。それもこれもよくして下さるお仲間があっての幸せで、何よりもまず健康を維持! と心に決めて、この欄最終回のごあいさつ、ご愛読を深謝しております。
週刊ミュージック・リポート
『午前3時の御祓い』
 これはもう〝哲の会〟の伝説のイベントになっている。20年以上前の話だが、そんな深夜にむくつけき男たちが神前の板の間に正座して、御祓いを受けた。場所は山口県周防大島の筏神社。地名が出ただけで、もしや...と思われる向きもあろう。そう、作詞家星野哲郎の故郷で、宮司は星野夫人朱実さんの姉星野葉子さん――。
 哲の会は文字通り、星野の薫陶よろしきを得たレコード各社のディレクターやプロダクション関係者の集まりで、記者時代から僕もその一員。それが昔、星野の島へ出かけたのは、彼が主宰したイベント「えん歌蚤の市」を手伝ってのこと。キャリアが長く歌巧者だが、埋もれたままの歌手たちに脚光を! という趣旨に、いいね、いいねの作詞家や作曲家、放送局の人々や僕らが、大挙押しかけたのだ。
 蚤の市はこの島で何度かやったが、問題の御祓いはその中の出来事。哲の会の面々10数人は筏神社の大広間にざこ寝で泊めて貰うのが常。例年、深夜まで酒盛りをやったが、ある晩、僕らが小皿叩いて星野作品を大合唱するのに感じ入った葉子さんが、
 「哲郎さんが皆さんに愛されていることがよく判った。それじゃ御祓いをしましょう!」
 の一言で神前へ。酔っ払った男どもが、粛然と頭を下げた一幕になった。
 「忘れられないなあ、また行きたいよ、あの島の人情、宮司さんの祝詞...」
 そんな懐旧談が飛び出したのは11月19日の夜、仲町会コンペを千葉の鎌ヶ谷カントリー倶楽部でやった後、月島のもんじゃ「むかい」で反省会!? としゃれ込んだ最中だ。
 「葉子さんのあの笑顔に会いたいよ」
 「あの人、もう年が年だから、早めに行こう。年が明けて春先くらいでどうだ?」
 「有志だけでもいいじゃないか。あの神前の板の間の感触が、まだ膝小僧に残っているよ」
 詩人の人徳に合わせて、口々に言い合うのは元テイチクの千賀泰洋、松下章一、元ビクターの朝倉隆、元東芝EMIの角谷哲朗、三井エージェンシーの社長三井健生、キングの古川健仁なんてあたり。仲町会は弦哲也、四方章人ら作曲家に南郷達也、前田俊明、若草恵ら編曲家が主だが、前記の哲の会メンバーがダブっている。
 宮司葉子さんは、寝泊りする壮年のやんちゃ坊主たちのために近所の人達も動員、献身的な接待をしてくれた。早朝から釣りに出る奴、昼を海水浴に興じる奴、昼から酒を飲みはじめる奴など、食事時間がめちゃくちゃなのへ、炊き出しみたいな大忙し。島だから海の幸には事欠かないが、その他のお菜は食い尽くし、台所にあったらっきょうなどは「将校用だ!」と年上の僕らがびんごと抱え込む騒ぎだ。宮司の威厳と作詞家の義姉の優しさを兼ねた葉子さんは、にこやかに僕ら哲の会みんなのおふくろさんになった。
 ―――11月22日、その葉子さんの突然の訃報がファックスで届く。前日の21日午前1時、のどのがんで死去、90才。送信者は星野の長男有近真澄である。22日深夜に帰宅した僕はあわてて電話をするが不通。24日が葬儀とあるのだが、何とも間の悪いことに僕は23日に大阪の阪南市へ入り、翌24日が市立文化センターの「門戸竜二特別公演」に出演というスケジュール...。
 有近は23日早朝、周防大島へ向かったろう。僕はその少し後の便で羽田を発ち関西空港へ向かう。同じ羽田から西へ飛びながら、島へ行きたくてもいけぬいらだちが重い。阪南は大阪だが和歌山に近いあたりと聞く。途中何度か、有近のケイタイにかけるが不通。まだ機中か? もう葬儀の打ち合わせか? こちらは翌日の舞台のけいこである。着信履歴は先方に残るだろうが、当方がケイタイを持っていないから、僕の自宅へ電話しかない。それやこれやの行き違いのあと、やっと連絡がついたのは夜。島ではお清めの席が始まっていた。
 葬儀は滞りなく済んだ。哲の会一同の花は飾った。がんを病んではいたが、年が年だけに進行は遅く、穏やかに暮らしていた。それが突然容態が変わって...と、有近の声が続く。僕は24日が舞台の本番だから、身動きが出来ないと、ただただ不義理を詫びるしかなかった。
 星野哲郎ゆかりの人と言えば、昨年1月に北海道・鹿部の道場登氏が逝った。その一周忌法要は今年11月8日に営まれたが、島倉千代子の七回忌法要と重なって不義理をした。そして、周防大島のおふくろ星野葉子さんの霊前にぬかずくことも叶わない――。
 令和元年は早くも12月である。心残りばかりが胸に滓りになって沈む。今年も多くの知人を見送った。冬の風に吹かれて、心がやたらに寒い年の瀬である。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ215

 「コトバであれこれ言うよりも、吠えてもらった方がいいと思って...。ふふふ...」

 作詞家田久保真見がいたずらっぽい口調になった。106日昼、中目黒のキンケロ・シアターのロビー。僕が出演した路地裏ナキムシ楽団公演「屋上(やね)の上の奇跡」を見に来てくれてのひとコマだ。彼女の視線の先には歌手日高正人からの祝い花が居据わっている。並んでいるのは川中美幸や阿久悠の息子深田太郎、小西会からのものなど何基か。田久保が冗談めかしたのは、日高の新曲『男の遠吠え』を作詞した胸の内で、

 「聴いたよ、正解だよな、遠吠えが...」

 僕も我が意を得たり...のリアクションになる。日高は力士かレスラーかと思われる巨体が容貌魁偉の口下手、そのくせ好人物丸出しの笑顔で、大汗かきながら歌社会を駆け回る。どうにも捨て置けぬタイプだから、つき合いは40年を越えようか。それが前々日に劇場の楽屋に現われ

 「頑張ってます!戦ってます。いい歌が出来て最高です!」

 と連呼、終演後の小西会の面々20人ほどの酒盛りでも存在感をアピールしたばかりだった。

 新曲は前奏から「うおうおうお~おお...」である。それが7個所も出て来て、合い間にコトバが入る。「男なら夢を見ろ」「信じたら命を懸けろ」「泥の船と知っても崩れるまで漕げ」...と、何とも勇ましい。日高の信条そのままみたいだから、彼も乗り気十分になるはずだ。しかし――、

 作詞家田久保はやはり一流で、歌を勇ましいだけでは終わらせない。

 ♪魂が泣きじゃくる日の 想い出と酔いどれる日の 哀しみを抱き寄せる日の...

 と、遠吠えに熟年の男の苦渋をにじませ、75才を越えてなお、見果てぬ夢を追う、無骨な日高の日々に重ね合わせるのだ。

 作曲したのは真白リョウ。ロックの乗りに和の味わいも加えたポップスである。いくら気持ちが若くても、日高は音楽的には旧世代。レコーディングでは苦戦を強いられたはずだが、やりおわせれば"へのカッパ"で、てこずったことなどおくびにも出さず、楽屋での報告は次に続いた。

 「あのですね。実はですね」

 と持ち出したのがジャケットの件で、何とも赤塚不二夫の30年以上前の作品。日高の似顔に後光がさし、星がちりばめられた独特の絵で、赤塚のサインも入っている。いわば日高のお宝が世に出た形。

 「赤塚なぁ、お前さんも親交があったんだ」

 と、僕の感慨は横っ飛びする。昔、彼とは新宿あたりでよく飲んだ。それが縁で僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞の創刊50年には、題字横に指で50を示すニャロメが登場、記念に作った「ニャロメ旗」が、群馬の山岳会が冬期エベレストに挑戦した時は、山頂でひるがえった。50年祝賀パーティーでは、ほろ酔いの来賓祝辞で

 「僕と小西は新宿で女を争った仲だ」

 とぶち上げ、社の幹部が唖然とする一幕もあった。それやこれやのつき合いをフォロー、長く赤塚番を務めた同僚の山口孝記者が「赤塚不二夫伝・天才バカボンと三人の母」(内外出版社刊)を上梓、この929日に出版記念会を開いたばかりだった。

 「縁なんですね、うん、縁なんだ」

 日高はそれもこれもひっくるめて、彼の新曲に結びつける。見たばかりの僕らの芝居のことなどそっちのけである。

 「楽しかった。ところどころジーンと来て泣けた。田村かかしという人の脚本演出がいいし、音楽と演劇のコラボも新機軸よね」

 田久保の方はきちんと、ナキムシ楽団10回記念公演を笑顔で総括したものだ。

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 心に沁みる〝いい弔辞〟を二つ聴いた。11月11日、東京・青山葬儀所で営まれたJCM 茂木高一名誉会長のお別れの会。遺影の前に立ったのは作曲家の弦哲也と作詞家の喜多條忠で、それぞれ作曲家協会と作詩家協会の、会長としての立場だ。
 最初の弦は、茂木氏を「関守」に例えた。これはいかめしいタイプの役人を連想するが、茂木氏はいつも柔和で、最高の笑顔で弦らを迎えたと言う。ご存知の向きも多かろうが、JCMはセントラル・ミュージックという社名の略称。文化放送の系列で、音楽出版事業を主とする。ひらたく言えばラジオ放送を背景に、歌手の育成、プロモーションや楽曲の制作などに係わり、歌謡界に貢献するのが役割。茂木氏は昭和32年に文化放送に入社、10年後のJCM創設にかかわり、以後常務、専務、社長、会長を歴任、平成25年に名誉会長になり、今年9月14日、85才で亡くなるまで、その任を全うした。
 その間茂木氏は「ダイナミックレーダー・歌謡曲で行こう」や深夜番組の「走れ歌謡曲」などを手掛け、新人歌手の登竜門「新宿音楽祭」を創設するなど、活発な活動で数多くのスター歌手とヒット曲を世に送り出した。歌謡界切っての実力者なら〝やり手〟の老獪さも秘めていようが、JCMを訪れる関係者はまず茂木氏にあいさつをした。その様子を弦は「関守」に例えたのだろう。出会った人々には独特の笑顔と飾らぬ会話、親身の対応で接した。弦は茂木氏のそんな実績と人望を語り、簡潔で心あたたまる弔辞とした。
 二人めの喜多條は、茂木氏を陰で「ムーミン・パパ」と呼びならわしていたと、より実感的な話をする。売れない放送作家時代、文化放送に通いつめ、局内の宿泊部屋に「棲息していた」と言う彼は、酒食まで氏に依存する。顔を合わせる都度聞かれたのは「大丈夫?」「喰えてる?」「ほんと?」の三つで、それは喜多條が功なり名遂げて以後も変わらなかったそうな。
 この日、青山葬儀所は歌謡界の有力者や歌手とその関係者などで会場は満たされ、外には焼香を待つ人の列が出来た。そんな大勢が、作曲家と作詞家の弔辞にしみじみと聴き入った。二人とも不遇の時代を持ついわば苦労人で、茂木氏の人柄を語る言葉の端々に、彼ら自身の人柄もにじむ〝情の弔い〟になったものだ。
 その3日前の8日昼、僕は北品川の東海寺で営まれた島倉千代子の七回忌法要に出向いた。ごく内々...の催しで、関係者がひと座敷分。石川さゆり、小林幸子、藤あや子、山崎ハコに南こうせつ、鳥羽一郎らと親しいあいさつを交わす。驚いたのは寺と墓地を囲んだ島倉ファンの群れで、その数何と200。貸切りバスまで動員されて、全国から集まったと聞く。ところが島倉の実弟も亡くなっており、親族の姿はゼロ―。
 故人は山ほどの不幸を生きた人である。結婚と離婚、背負わされた巨額の負債が何度か。結局それで亡くなるのだが、二度のがんの発病...。時に声まで失って、その都度彼女は悲嘆に暮れ、やがて気丈に立ち直る。ヒット曲のタイトルそのままに「人生いろいろ」を笑顔で耐えた半生に見えた。
 涙が芸の道連れとは言うものの...と、親交があった僕は、しばしば暗澹とした。美空ひばりをはじめ多くの女性歌手は、女の幸せも家庭の夢も捨てて、ひたすら庶民の娯楽に献身する。演歌、歌謡曲の主人公の辛い境遇をなぞる気配すら濃い。哀愁民族と僕が思う日本人の心を捉えるのは、身を捨ててまで奉仕して、悲恋を歌う彼女らの仕事だったのか?
 法要を取り仕切ったのは、阿部三代松社長を筆頭にした日本コロムビアの人々である。この会社が身よりのない島倉の遺族代わり。彼女の遺品やもろもろの権利は、東海寺に寄進されており、陰で尽力したバーニングプロダクション周防郁雄社長も顔を見せていた。何かと厄介なことが残るこの世界のこととしても、これは極めて稀なケースだ。
 墓参するファンの群れと話しているうちに、
 「市川由紀乃の母です」
 と名乗る婦人にまで出っくわした。
 茂木名誉会長の弔いを囲んだのは家族と関係者の情、島倉千代子の霊を慰めたのは支持者たちの情だった。東海寺の参会者の中に美空ひばりの息子加藤和也氏の顔があって、僕は昔、島倉を喜ばせた語呂合わせを思いだした。
 「美空ひばりは最初からおとな、島倉千代子は最後まで少女」
週刊ミュージック・リポート
《北島三郎は元気だ!》
 そう書くっきゃないな、これは...と思った。10月27日昼、東京プリンスホテルで開かれた作曲家中村典正のお別れの会でのこと。弔辞で彼は中村との交遊を語り尽くそうとした。弔辞は大てい書いたものを読み、故人の人柄や業績をたたえて型通りになるものだ。それを北島は遺影に正面切って、淡々と、時おり語気を強めながら、素手で語りかけた。言いたいことは山ほどある。時間的な長さなど意に介さずにまっしぐら。その熱意と音吐朗々に、僕は感じ入った。
 お別れの会は日本クラウンの和田康孝社長と北島、それに中村夫人の歌手松前ひろ子が本名の中村弘子として3人が施主。北島は中村の友人であり、歌手代表であり、松前のいとこに当たるから親戚代表でもあったろうか。中村の作曲家デビューは北島の「田舎へ帰れよ」で昭和39年。その前年に創立されたクラウンは、この年の正月に第1回新譜を出している。コロムビアから移籍、クラウンの看板歌手になった北島と中村は、いわば同社同期の間柄。その後中村は北島のヒット曲「仁義」「終着駅は始発駅」のほかに「盃」「誠」「斧」など話題の一文字タイトルの歌づくりに参加している。
 「歌手志望だったことは知らなかった...」
 北島はつき合いのそもそもから語りはじめた。昔、歌手の登竜門として知られたコロムビア歌謡コンクールで入賞、山口・周南市から上京、歌手若山彰の付き人になり、作曲家原六郎に師事、作曲に転じた中村の、苦労人ぶりに気づいたのかも知れない。
 「いやなところを一度も見せたことがない、いい男だった」
 と言うのは、人前に出たがらない謙虚さと、囲碁、盆栽を趣味とする穏やかな人柄、麻雀とゴルフでの人づきあいなどを指していそうだ。
 松前は北島の父方のいとこである。彼は当初彼女のプロ入りを渋ったとも聞くが、何くれとなく面倒を見たのだろう。中村に松前との結婚をすすめたのも俺...と弔辞は続いた。晴れてプロになった松前は、交通事故で声を失い、8年間ものブランクを余儀なくされている。中村がその間を支えて、再起から今日にいたる〝夫唱婦随〟ぶりにも、心を打たれていよう。
 中村・松前夫妻は、門を叩いた三山ひろしを中堅演歌一方の旗頭に育てあげている。そのうえ娘の結婚相手として迎え入れた家庭づくりも堅実。性格的にはどうやら〝婦唱夫随〟の一端がうかがえるが、地方から捨て身で上京、名声と一定の平穏を得た彼らの生き方と身辺の固め方は、北島の若いころと軌を一にしているかも知れない。
 ボスの肝入りの会だから会場内外には北島一家の顔が揃った。クラウンゆかりの古い人々の顔もずらり。みんなに親しまれたトラちゃんに献花する顔ぶれには、昨今の歌謡界と古きよき時代の歌謡界が交錯して見えた。ニックネームの由来は、中村がまだ無名だった昭和40年代にさかのぼる。彼の航空券を手配する担当者が、姓は判るが名が判らず「ええい、面倒」とばかり「とらきち」と書き込んだそうな。当時プロゴルファーの中村寅吉が有名だったことからの連想。そう言えば...と思い出すのだが、創立からしばらく「クラウン・スターパレード」一行が地方へよく出かけた。各地の民放テレビで歌手勢揃いの番組を放送、合わせて、首脳陣がその地区のレコード販売店主と会合を開き、よしみを通じた作戦。僕も取材で何度か同行したが、作曲家「中村とらきち」の名前の部分に、どういう漢字を当てはめたかは定かではない。いずれにしろ日本の7社めのレコード会社として誕生したクラウンの、牧歌的な時期の話ではある。
 お別れの会の献花の返礼に、北島は松前と三山にはさまれ、椅子に座って対応した。彼が頸椎の手術のあと、立ち居振舞いに窮していることは周知の事実。
 「それにしても、元気ですな」
 と握手した僕の右手を、彼はしばらく放さなかった。彼や中村が過ごしたここ50年余を、よく知っている僕への懐旧の共感か。古きよき時代のあれこれを語り伝えたい思いが、彼の談話を長いものにしているのは、このところ恒例なのだ。
 息子に先立たれ、身体が思うに任せぬいらだちもあるはずだが、それは表に出さず、北島三郎の動きは活発である。原譲二の筆名の作曲活動は旺盛だし、新曲も8月に出した「前に...」が今年のCD3枚目。
 〽かわすな、ひるむな、ためらうな...
 〽おごるな、迷うな、恐れるな...
 と伊藤美和の詞に託して力説力唱する。中村典正と北島は83才。はばかりながら僕も同い年だが、元気な北島に尻を叩かれている心地がしたものだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ214

 ≪いいじゃないか、こういう歌でお前さんは、還って来たんだな...≫

 古くからの坂本冬美ファンと一緒に、僕はそう思った。しあわせ演歌冬美バージョンの『俺でいいのか』と、小気味のいい路地裏艶歌『男哭酒』のカップリング。久しぶりにモトの冬美に再び出会った気分だ。

 吉田旺の詞がいいし、徳久広司の曲もいい。前田俊明のアレンジも手慣れてなかなか...と書いて、三拍子揃っていることに気づく。

 しあわせ演歌と言っても、ひとひねり利いている。

 ♪二人ぽっちの門出の酒が 染めたうなじの細さに泣ける...

 と、相手を見返す男も、あんたのためなら死ねると見詰める女も

 ♪星も見えない旅路の夜更け...

に居るのだ。『俺でいいのか』と問いかける男に、女の咲顔(笑顔を吉田はこう書くのだ!)がまぶし過ぎたりする――。

 徳久の曲はW型である。歌い出しとサビと歌い収めに高音のヤマ場がある。ふつうおだやかめにスタートするM型の曲は、高音で張る部分がサビ一ヶ所になりがちだが、それに比べればインパクトの強さは倍以上。そのくせ破たんがなく、無駄もないメロディーで、芯が明るい。タイトルと同じ文句のサビが、以前徳久が書いた『おまえに惚れた』(美空ひばり)の♪惚れた 惚れたよ...を連想させるのもほほえましい。

 ≪冬美は"いい年増"になったもんだ≫

 とも思う。もともとこの人は、「何を歌っても冬美」の得難い声の持ち主。それが作品によって趣きを変えるから、阿久悠が「色つきのたまねぎ」と評したことがある。むいてもむいても冬美...の意だろう。その独特の声味に、年相応、キャリアなりの生活感が加わった。声の切り替えや高音の張りに、かすれ気味の感触が生まれているのだ。もしかすると本人は、そこを気にするかも知れないが、歌のこまたが切れ上がったまま、情趣が濃いめじゃないか!

 古い演歌好きの僕には、カップリングの『男哭酒』が捨て難い。自分を置き去りに逝った女をしのんで情緒てんめんの男唄。

 ♪あいつ居た春 居ない冬 心キリキリ風酒場...

 と来て、男は「泣く」のではなく「哭く」のだ。だからタイトルは『男哭酒』と書いて「おなきざけ」と読ませる。

 はばかりながら僕は昔々、彼女のために『夜桜お七』をプロデュースして、冬美の転機を作った。その後彼女は『また君に恋してる』を歌い、二つめの蜉化に成功している。歌世界の幅を広げた冬美は、ドレスでポップスを歌う今日性まで手にした。それもこれも「何を歌っても冬美」の強みで、ひところ僕は、彼女をニューヨークで歌わせてみたい夢を見たものだ。

 そのくせ僕は、彼女が演歌に立ち戻る日を心待ちにもしていた。いくつかそれらしい挑戦を試みてはいたが、時期もよし、作品もよしの今作でこそ、わが意を得たりと合点する。

 ≪やったね、山口栄光!≫

 と、友人の担当プロデューサーに拍手を送りたい。病気勝ちなのか、ほとんど人前に出なくなって久しい作詞家吉田旺にも拍手だ。1曲づつのこだわり方、ねばり強さ、独特の表現力は、変わることなく健在である。徳久広司の歌書きとしての千変万化は、油が乗り切って頼もしい。そして冬美がタイトルもじりで書けば

 「わたしでいいの!」

 と、昨今の演歌界に還って来た心意気にも共鳴する。

「やりやがったな、この野郎!」

 亡くなった彼女の師匠・猪俣公章の声まで聞こえて来る心地がしている。

月刊ソングブック
 男の客がやたらに多い。それも多くは熟年である。女性客が居ても、ほとんどは彼らの連れ。ロビーのグッツ売り場に群がるのもほとんどが男。買い求め方が荒っぽくて、迫力まで感じる。作曲家杉本眞人、歌手名すぎもとまさとが集めた群衆だ。10月10日、用事がすんだ西麻布のスタジオから、プロデューサー佐藤尚の車で王子の北とぴあへかけつける。杉本のコンサートがそこで開かれていた。
 「おっ、来てくれたんだ!」
 シャイな杉本が相好を崩す。楽屋口から案内してくれたのも男、せまい楽屋に杉本と話し込んでいたのも複数の男。開演直前なのに妙にリラックスした雰囲気だ。
 「この間は、ごちそうさん」
 と杉本がぶっきら棒に言う。一瞬「ン?」になる僕が思い出したのは、ひと月ほど前に、行きつけの門前仲町「宇多川」で一ぱいやった件だ。六本木で秋元順子のライブを見たあと、作詞家の喜多條忠と彼を誘ったら、連れがあると言う。一緒でいいじゃないか...と乱暴に言ったら、観に来ていたファンを2人連れて来た。てっきり女性だろうと思っていたが、これも男。岩手だか青森だかの紳士で、杉本を応援する仲間が全国各地に多い気配があった。
 北とぴあの客席の男たちのノリが滅法よかった。杉本の歌に合わせて、手を振り、声を合わせて大ホールがライブハウスみたい。「銀座のトンビ」では「ワッショイ、ワッショイ」がこだまする。「いまさらジロー」では「いまさらジロー、坂上二郎、二宮金次郎...」
 と冗談の合いの手の大合唱。アイドル坊やにファンの女の子が反応するさまと、ほとんど同じ反応で、だんだん彼らがかわいく思えてくる。
 「俺も年だから、だんだんきつくなって来たけど...」
 ステージ上の杉本は古稀の70才。口の割りに精力的に動き、歌い語る。熱くなってるファンからすれば、似た世代の仲間意識や、彼を兄貴分とするリスペクト気分が強そう。杉本がスラックス、シャツにベストといういでたちなら、客席の面々も思い思いにラフな身なり、中には和服の着流しもいたりした。
 「吾亦紅」は大ヒットしたからおなじみだろうが、母親の墓前で離婚を告げる息子が、白髪はふえたけど俺、死ぬまであんたの子供...と訴える真情ソング。「冬隣」は「地球の夜更けは淋しいよ...」を決め言葉に、逝ってしまった男を偲ぶ女性が主人公。男の真似して飲む焼酎にむせながら夜空を仰ぎ「この世にわたしを置いてった。あなたを怨んで呑んでます」なんて言っている。前者はちあき哲也の詞、後者は吉田旺の詞で、作曲と歌が杉本だ。
 なぜか「死」にまつわる作品が多いが、それが象徴するように、バラード系は「杉本流情歌」である。それが歌謡曲ふう飾り言葉抜きで、率直に本音っぽい。辛い心情を彼のあの、ぶっきら棒口調と哀調のメロディーで歌うから、思いがストレートに伝わる。熟年の観客には思いあたる節も多そうで、会場がしみじみと一体化する。杉本とは長いつきあいで、彼の歌をよく聞き知っている僕でも、目頭が熱くなる。男は年を取ると涙腺がゆるむものだ。
 終演後、僕は楽屋へ寄らずに次の仕事場へ行く。佐藤プロデューサーに託した伝言は、月並みだが「よかったよ」の一言である。会えば半端な感想など口にしにくい。十分に受けた感銘を言葉にしたら、話が長くなってその場にふさわしくなかろう。心に沁みたあれこれは、一人で抱えて帰るに限る。会場から近くのJR王子駅へ、聴衆の流れの中を歩く。男たちの多くは寡黙だった。彼らはきっと、杉本の歌に触発されて、人生って奴と向き合っている。自分自身の来し方行く末に思いをめぐらせてもいようか。
 「アンコールもたけなわになっちまって...」
 と客を笑わせながら、杉本は4曲もおまけをした。ラストはおなじみの「花のように鳥のように」で、これは、
 ?限りある一生を信じて、生きることが何よりも、しあわせに近い...
 と阿久悠の詞が結ぶ。「しあわせに近い」の「近い」が曲者なのだ。
 「100パーセントのしあわせなんてないもんな。60パーでも70パーでも、それを感じた時がしあわせなんだ。それを大事にしなきゃな」
 と杉本も結んだ。これが作曲家杉本眞人と歌手すぎもとまさと(文中はややこしいので杉本で書いた)の創り出した世界である。上演2時間余、作品と歌手と彼の人柄と客が一体になって、おもしろくてやがて哀しい時間を共有するコンサート。歌社会でもきわめて稀れで、異色の充実感が一貫していた。
週刊ミュージック・リポート
 また家出をした。9月の門前仲町に続いて、今度は国道246に面した大橋のオリンピック・イン渋谷というホテル。10月2日に入って6日まで、ここから中目黒のキンケロ・シアターに通う。ここ5年ほど、レギュラーで出して貰っている路地裏ナキムシ楽団公演。このグループが今回はめでたく10回記念、これを「第10泣き」と表記する。
 『涙の雨が降るぞオ』
 がキャッチフレーズだ。
 今作のタイトルは「屋上(やね)の上の奇跡」で、前作までとは打って変わったスペースファンタジー仕立て。タイムマシーンが過去と現在と未来を行き来する。とは言え不治の難病に冒された少年(中島由貴)と自称大発明家の青年(長谷川敦央)の交友が軸。例によって座長たむらかかしが中心のナキムシ楽団の音楽、歌と、役者の芝居が交錯する新機軸ドラマだ。
 舞台は空と海に囲まれた病院の屋上。妙に強気な看護師長(小沢あきこ)にお尻を叩かれながら、自殺未遂の女(中島貴月)と入院患者の一人(橋本コーヘイ)の恋。ロックミュージシャン(千年弘高)と耳が聴こえない娘(三浦エリ)の淡い恋心。生さぬ仲の母(龝吉次代)と息子(小林司)の反発と和解などの悲喜こもごもが展開する。10作連続出演の小島督弘は、発明家の珍品の被害者。常連のIrohaは小道具揃えもてきぱき、病院長の僕にケイタイを持たせたりする。
 バンド、役者も含めて若者揃い。その平均年齢を上げる僕の相棒は真砂京之介で死期が近い漁師という設定。真砂は松平健・川中美幸コンビの大劇場公演で、いつも一緒の10年来の友人。しかし別々のシーンばかりに出ていたのが、今回初めて面と向かっての芝居で、最初テレ気味がそのうち本気...と盛り上がった。二人は幼な友たちでいつもケンカ腰のやり取りだから、真砂の孫娘(鈴木茜)が気をもんだりする。友人の押田健史は発明家の弟だったり、未来からの使者だったりのお忙し。突拍子もない出番で笑いを取るもう一人の友人小森薫ともども新婚ほやほやで、二人の結婚披露宴は僕が主賓だった仲だ。
 こう書いてくれば、ドラマの面白さや、和気あいあいの雰囲気が伝わるだろう。と、まあ、僕が役者だからお仲間の列挙がどうしても先になる。それにムッとしそうなのがミュージシャンたちで、何しろこの集団は〝楽団〟で〝劇団〟ではない。彼らがドラマを〝語り〟役者がドラマを〝歌う〟魅力を「青春ドラマチックフォーク」と標榜する。作詞、作曲、歌唱に演奏を担当するのがリーダーのたむらと暮らしべ四畳半、ハマモトええじゃろの3人。サポートするミュージシャンがカト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将、久保田みるくてぃと妙なステージネームの腕利きだ。
 ミュージシャンたちは舞台中央後ろめに板つき。その前で役者が芝居をする。それぞれの仕事が混然一体、ドラマの起伏とボルテージを大きめに揺すり観客を巻き込んでいく。得も言われぬ感興が生まれるから、この楽団の公演は演る方も観る方も「クセになる」のが特色。青春の感慨が具体的でたっぷりめのオリジナル曲の情趣に、初参加の真砂はうっとりしっぱなしで、
 「俺も歌いたくなっちまうよ」
 作、演出のたむらの才腕にも脱帽する。
 よくしたもので、真砂と僕が歌う場面もちょこっとある。屋上のベンチで茶わん酒をくみ交わし、往時を思い返しながら舟唄をひと節。アカペラで歌声が揃わないのもご愛敬という趣向だ。歌となれば本職の演歌の歌い手小沢あきこは新曲が出たばかり。それも亡くなった先輩島倉千代子の「鳳仙花」をカバー。本家のキイをそのままの熱唱で、けいこの間もキャンペーンやライブなどに出かけて精を出している。
 今回の公演は10月4日から6日までの3日間6ステージ。僕は9月初旬の東宝現代劇75人の会に出演したから、こちらのけいこには遅れて参加した。清澄白河の深川江戸資料館でやった「離ればなれに深川」のお調子者やくざ川西康介から、病院院長野茂への切り替えにひと苦労。体にしみ込ませた前作のせりふがなかなか居なくならず、新しいせりふが入る隙間が生まれないのに驚いたりした。このコラムが読者諸兄姉の手許に届くころは万事後の祭り。ま、本番は何とかこぎつけたから、乞うご安心である。
週刊ミュージック・リポート

 2019年夏、ベテラン歌手秋元順子のアルバムをプロデュースした。「令和元年の猫たち~秋元順子愛をこめて~」で、隠れた猫ソングの名作揃い。もともと誰かでカバーしたいとメモに書き止めていた作品群で、ひょんなことから秋元との縁でそれが実現した。

 浅川マキが生前大事にしていた「ふしあわせという名の猫」は寺山修司の詞。昔なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」からは「猫につけた鈴の音」で、面白おかしくやがて物哀しいシャンソン風味。阿久悠作品なら「シャム猫を抱いて」と「猫のファド」、荒木とよひさと三木たかしが趣向をこらした「NE-KO」といった具合い。中島みゆきの「なつかない猫」や山崎ハコの「ワルツの猫」もいいなと思い、おなじみの曲もあった方がいいかと、ちあき哲也の「ノラ」や意表を衝くアレンジ(桑山哲也)で「黒猫のタンゴ」を加えた。

 秋元の15周年記念盤だが、キャリアはゆうに40年。独特のいい声とさすがの力量で、彼女は初対面(?)の作品たちを見事に歌いこなしている。

 ジャケット写真は、訴える視線の猫のドアップ。折からの猫ブームの核心を捉える算段だ。「面白くて味わい深い作品集」と大方の好評を得て意を強くしている。

 新作は末尾の1曲「たそがれ坂の二日月」で、喜多條忠の詞に杉本眞人の曲。喜多條とは五木ひろしの「凍て鶴」以来の力仕事。杉本は秋元のリクエストだったが、いかにも彼らしい軽妙なメロディーとリズムに仕立てた。編曲は小粋なポップス系の川村栄二に頼む。この世界一流の面々を友人に持つことはありがたいもので、詞、曲、編曲、歌唱の4拍子が、あ・うんの呼吸であっという間に揃った。狙い通りのこの作品をシングルカット。こちらも9月の発売早々から好調の出足である。

 「やったね!」とばかりに打ち上げの酒で盛り上がったが、調子に乗った僕は月島あたりの街角で、秋元と熱いハグをした。合計150才超の抱擁に、担当の湊尚子ディレクター(キング)の眼が点になったものだ。


たそがれ坂の二日月

 年がいくつになっても、面白いことに目がない。新聞社勤めが長かったことが、性分に輪をかけていようか。近ごろは、行動半径こそせばまっているが、人間関係は深く、意外な方面へ広がって心躍ることが次々。ここ12年ほど、舞台の役者に熱中しているのもそのひとつ。ズブの素人が、70才からこの道に入ったのだから、それなりの苦心や緊張も味わっているが、要は面白くてたまらないのだ。それにしても―。
 大阪の行きつけの居酒屋から、歌手のCDの売り込み!? が届くとは思ってもみなかった。差し出し人は「久六」の女将今井かほるさん。作品は田村芽実という歌手の「舞台」「花のささやき」「愛の讃歌」の3曲入りで、
 「息子が小西さんに聴いて欲しいと何回も言うので...」
 という手紙が添えられている。「久六」は川中美幸公演などで1カ月くらい大阪住まいをする時の、僕の夜の拠点。気に入った店があると通い詰めて、わがままな常連客になる癖があるが、この店も10年を越すつきあいだ。店では「おっかさん!」と呼ぶ女将と長く意気投合していて「息子」と言うのは二代めの大将克至さん、これが熟年筋金入りのアイドル・オタクで、歌手田村は愛称が「メイメイ」とあり、ジャケット写真も、いかにも...のいでたちである。
 「おっかさん」と「大将」は、僕の泣きどころもしっかり抑えていた。3曲のうち「花のささやき」が、亡くなった阿久悠が遺した詞で、作曲がその息子深田太郎とある。川中美幸一家の役者やミュージシャン、マネジャーらを中心に、お仲間と夜な夜なおだを上げるのだから、阿久父子と僕の親交も、店の2人はよく聞き知っていたのだろう。手紙の行間に「これが気に入らぬはずはない」といいたげな笑顔が並んで見える。
 《それはそうだよな》
 と、僕はニヤつきながらCDを聴く。実は少し以前にも聞いていて、そちらは阿久の息子の太郎から届いていた。それも彼が出版した書きおろしの『「歌だけが残る」と、あなたは言った―わが父、阿久悠』(河出書房新社刊)と一緒。そのあとがきで彼は『田村は「二〇一八年にソロデビューした天才歌手」』と触れている。その時期太郎は、彼女のミニ・アルバムに父子共作の「カガミよカガミ」を提供したとかで、そうすると今作は、2作めになるのだろうか?
 太郎は20代にバンドを組んでいたころ、
 「セックス・ピストルズの演奏に、ヘンリー・マンシーニのメロディーを乗せたい」
 と、思いつきを話したという。それが50代になった今日、こういう姿の音楽になったものか...。
 〽はしゃいでいるだけで本気が苦手、いつもジョークで、たがいに笑わせて...
 と、阿久の詞は年ごろの女の子の不器用な生き方と生きづらい時代にふれる。「たった一人を死ぬほど思いつめる」恋を思い描きながら、主人公は、ふと、
 〽夢中、熱中、チュウチュウチュチュチュ...
 なんてフレーズを口ずさむのだ。メロディーとリズムは、そんな若い娘の屈託を軽めに、多少の苦渋もにじませながら、太郎ロックとでも言えそうなセンスだ。
 メイメイこと田村芽実の歌声が、何とも言い難い魅力を持つ。朗々とは声を張らず、幼げな口ぶりで語ることもなく囁くともない。それがアイドル世代のもの言いに通じるさりげなさと頼りなさに聴こえ、今ふうな心のゆらめきやときめきを伝えるかと思うと、ドキッとするような妖しい声味が出て来たりする。これがハロプロ・オタクの「大将」をうっとりさせ、作曲者深田太郎をして「天才」と呼ばせるゆえんだろうが、正直なところ旧々世代の僕は、心中たたらを踏む心地もしないではない。
 ところで太郎の著書だが〝怪物〟と呼ばれ、時代を疾駆した大物作詞家と、繊細な感性を持つ一人息子の、極めて特異な父子関係を語って実に興味深い。多忙に追われ、めったに帰宅しない父を迎える時は「特別な客」に見えた子供のころから、「父以外のもの、ロック」と出会う青春時代、「阿久悠と関わらない人生」をテーマにした学生時代「株式会社阿久悠」の取締役として、父の歩みを検証、その業績を後世に伝える昨今までを、敬意をこめ注意深く、率直に伝える好著だ。
 大阪の居酒屋「久六」には、僕の留守中も在阪の役者さんが現れ、僕の東京の芝居の様子は、在京の女優さんがメールで「大将」に伝えているらしい。おっかさんの手紙には、
 「早く大阪へ戻って! 来たら必ず店へおいで」
 の意も、さりげなく書き込まれていた。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ213

 清澄通りの信号待ちで、歌手秋元順子とハグした。合計150才超の抱擁である。居合わせたキングレコードの面々の、眼が点になったのも無理はない。

 月島のもんじゃ屋「むかい」で酒盛りをした。秋元のメジャーデビュー15周年を記念したアルバム『令和元年の猫たち』の制作打ち上げで、本人を中心に、笑顔を揃えたのは7人ほど。

 「最高!いいものが出来た!」

 と、手放しで自画自賛する会だ。

 もんじゃ屋と言っても、並の店ではない。銀座5丁目にあった小料理屋「いしかわ五右衛門」が、再開発に追い立てられて移転した小店。30年近い常連の僕が

 「うどん粉なんて食えるか、戦後の食糧難時代に、フスマ入りがゴソゴソする代用食として食わされた。その幼時体験がぶり返すじゃないか!」

 と悪態をついたせいもあってか、相当な酒の肴が揃っている。第一、銀座で鳴らした大将の腕がもったいないと、月島も行きつけになったが、もんじゃは滅多に食わない。お女将の心尽くしもあって当夜のメインは"はも鍋"で、猛暑の夜でもみんなが、ふうふう舌鼓を打った。

 ところで『令和元年の猫たち』だが、折からの猫ブームをあて込んだな...と言われればそれはその通り。しかし、聞いて貰えば薄っぺらなものではないと判るはずなのだ。ミソは選曲の面白さ。歴代の名作詞家たちが猫の人生、猫に託した人間の喜怒哀楽を書いた傑作を並べた。それも人知れず埋れていた作品の再発掘が狙い。

 たとえば寺山修司が書いた『ふしあわせという名の猫』がある。親交があった浅川マキのレパートリーだが、彼女は自分の歌を他人がカバーすることを許さなかった。それが仕事先の名古屋で客死、大分日が経ったから、もういいだろうと世に出すことにした。なかにし礼が自作自演した『猫につけた鈴の音』というのもある。子供を欲しがったのに、にべもなく男が断り、失望した女が出て行くのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなる。仕方なしに鈴をつけてやって「おめでとう」と呟く男の心中はいかばかりか。

 昔、なかにし礼が出したアルバム『マッチ箱の火事』に収められていた一曲。面白くてやがて哀しいシャンソン風味は、秋元の新境地開拓にもって来いだ。阿久悠が書いた『シャム猫を抱いて』や『猫のファド』もいいし、中島みゆきの『なつかない猫』や、山崎ハコの『ワルツの猫』も捨て難い。荒木とよひさの『NE-KO』もある。

 おなじみの曲もあった方が...という意見を入れて、ちあき哲也の『ノラ』と、みおた・みずほ訳詞の『黒ネコのタンゴ』を加えた。全曲5人のミュージシャンをバックにしたライブ仕立て。『ノラ』は中村力哉、『黒ネコ』は桑山哲也のアレンジが「ほう、そう来るかい!」と言いたい味つけで、元歌とは趣きをまるで異にする――。

 こうまで力み返って書くのは、はばかりながら僕がこのアルバムをプロデュースしたせい。「風(ふう)」と「パフ」という愛猫二人!?と同棲、猫好きでは人後に落ちぬ僕が、長いことメモして来た"わが心のキャット・ソング"の勢揃いである。歌うのが秋元で、ジャズが中心だが"何でもあり"の、彼女の力量があってこそのアルバムになった。新曲は『たそがれ坂の二日月』で、喜多條忠の詞、杉本眞人の曲、川村栄二の編曲。これがシングルになるはずだ。

 この原稿にはアレが付くだろうな...と、僕がニヤニヤするのはジャケット写真の奇抜さ。ご覧の通り、何とも魅力的な猫のド・アップで、インパクトの強さといったらないじゃありませんか!

月刊ソングブック
 9月初旬の6泊7日ほど、深川・門前仲町のホテルに居た。昔、長いこと勤務したスポーツニッポン新聞社が越中島にあり、この一帯の飲み屋街はいわば僕の縄張り。ここから地下鉄大江戸線で一駅、清澄白河近くの深川江戸資料館小劇場でやった東宝現代劇75人の会公演へ通う。何で門仲泊まりかと言えば、共演者との反省会!? や、観に来てくれた友人たちとの宴会に便利なせい。5日間7公演、老優の僕を気づかってか、足を運んでくれた恩人、知人、友人は何と130人を越えた。涙が出るほどありがたい。
 演目は「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の二幕九場。僕はお調子者のやくざ川西康介役で、出演者全員とからむ。自然出づっぱりで、せりふも山ほど。何しろ作、演出の横澤は、僕のこの道の師匠だから、緊張感も半端ではない。
 《また見てるよ!》
 芝居の最中に舞台ソデに目が行くと、必ず横澤の冷徹な視線に気づく。舞台の役者12年、この劇団に入れて貰って10年、客席の友人の視線は全く意識せず、全体の反応から来る陶酔の快さと、師匠のチェックが生む覚醒が、うまい具合に攪拌されればいい。しかし、年齢のせいにしたくはないが、集中力の方は時おり薄れる。とたんにせりふが表滑り、芝居にほころびが出る。細かい言い間違いや言い直しを、それとなくやるが、どうぞ客の諸兄姉には気づかれぬように...。
 深川は掘割りの町である。それぞれを背景に、横澤の深川シリーズは今作で6本め。毎回いい役を貰っているのに...と、ふと立ち止まるのは、宿舎そばの大横川にかかる石島橋の上。人影もない深夜。その黒々とした流れを見おろし、アイコスのスムースなど一服すると、何やら感傷的な気分になる。口をつくのが昔々のはやり歌「川は流れる」だったりして、
 〽病葉(わくらば)を今日も浮かべて、街の谷、川は流れる...
 病葉役者が思い返すのは、今は亡き作詞者横井弘、作曲者桜田誠一の笑顔。歌った仲宗根美樹は元気にしていようか?
 《そう言えば...》
 と我に帰る。劇場には星野哲郎の息子有近真澄が一族郎党引き連れて6名も来てくれた。阿久悠の息子深田太郎は作家三田完と一緒に。吉岡治の息子天平や孫娘のあまなも来た。美空ひばりの息子加藤和也とその細君有香はなぜか別々の日に現れる。大きな実績を残した歌書きたちや、大歌手に密着取材をして、その子孫との〝その後〟のつき合いである。これもありがたい縁だろう。歌社会のお仲間の顔も沢山見た。親しい作家井口民樹は病いを押して夫人の介護つき。スポニチ時代の恩人牧内節男社長は僕よりはるか年上だが、
 「君の芝居をみるのも、これが最後だろう...」
 陸軍士官学校出身、毎日新聞時代にロッキード事件で辣腕をふるった社会部幹部で、僕ら記者の鑑なのに、珍しく弱気な発言をして去った。
 8日昼の部が千秋楽。台風15号接近を心配したが、公演は無事に終了。後片づけのあと午後6時から門仲の中華料理店で、打ち上げである。飲み放題食い放題2時間を大騒ぎして、早々に解散する。電車が動くうちにと気もそぞろ。東海道線はもう止まったが、横須賀線はOKで、逗子駅から葉山へ、バスも運行していた。
 うまく行ったのはそこまでで、台風の直撃を食らった。我が家はご用邸近くの柴崎地区と呼ばれる岬の突端。マンション最上階の5階に位置、眼前の海、その向こうに富士山、右手に江ノ島、左手に遠く大島...で、
 「眺望絶佳!」
 と、小西会の面々が嘆声をもらす代物だが、この夜ばかりはそれが裏目に出た。暴風雨が四方から叩きつけ、荒れた海の波しぶきが5階まで上がって、まるで滝壺の底状態。激しい音と建物の小ゆるぎに肝をつぶした愛猫の風(ふう)とパフは、あわてふためき、身を低くして隠れ場所を捜すが、三方が海、裏が山では、見つかるはずもない。
 まんじりともせぬまま台風一過、その翌日10日から僕は路地裏ナキムシ楽団公演「屋上(やね)の上の奇跡」(4日初日、中目黒キンケロ・シアター)のけいこに入った。やくざの川西康介から、病院の院長・野茂への切り替え。引き続きの難行だが、望外の老後にうきうきしている。
週刊ミュージック・リポート
 川西康介、60代、江東区深川在住のやくざ。先々代の跡目を継いで、こぶりの建築会社を経営。隅田川畔にボロ・アパートを持つ大家だが、老朽化の激しさに苦慮する。何しろ太平洋戦争末期の東京大空襲から、辛うじて焼け残った代物である―と、僕は珍しく今回与えられた役柄とその周辺を書く。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の件で、上演するのはおなじみ大江戸線と半蔵門線の清澄白河駅そば、深川江戸資料館小劇場だ。
 舞台になるのは問題のボロ・アパートに急造された喫茶店。康介の兄弥太郎(丸山博一)は管理人。三井留子(鈴木雅)と星会直子(梅原妙美)は一人暮らし、俳人の原田修(大石剛)と深川芸者鶴吉(高橋ひとみ)は夫婦、吉永貴子(高橋志麻子)と待子(下山田ひろの)は母娘で、折りに触れて弥太郎の娘八洲子(古川けい)や留子の息子章太郎(柳谷慶寿)が現れる。劇の冒頭に登場する竹原朋乃(松村朋子)と、時々ふらりと姿を見せる老人(横澤)が、この脚本家お得意の謎多い人物で、出演者はこれで全部。時代は敗戦から10数年後の昭和30年代後半、出て来る善男善女はみな、何かしらの事情を抱えている―。
 ま、こういう方々とそれぞれの役柄を相手に、酷暑の8月、せっせと池袋・要町のけいこ場へ通った。この劇団、もともと劇作家菊田一夫の肝いりで作られた由緒正しいところで、その薫陶よろしきを得た面々はみなベテランの芸達者。そこに加入を許されて10年そこそこの僕は、年齢こそひけを取らないが、いつまでたっても一番の新参者だ。
 けいこ後の反省会なる酒盛りでは、飲んべえキャリアなら相当に自信の僕も、水を得た魚になるが、けいこはやはりかなりの緊張感を強いられる。舞台装置が一つだけの二幕九場。自然おびただしいせりふが飛び交うことになるが、みなさん平然と役柄をこなす。月はじめの顔寄せ、台本の読み合わせで、もうせりふが入っている人に度肝を抜かれたり、着々と役に入っていく共演者を横目に、こちらはあたふたの連続だ。
 《ン? どうしたんだ一体?》
 と、自分にいらだつのはなかなか役が、自分のものにならないせい。師匠の横澤の教えを受けて、そこそこ型になったこれまでにくらべて、どうしたことか今回は思うに任せない。
 「加齢による症状でしょう。抜本的な対策はありませんな。ま、あまりストレスを貯めないように...」
 と、行く先々の医師が口を揃えるのを思い出す。年のせいにしたくはないが、物忘れはどんどん進行するのに、物覚えの方はまるで劣化している。
 毎回見に来てくれる友人たちが、
 「よくまあ、あれだけのせりふを覚えるよ」
 と、妙なほめ方をしてくれるのへ、
 「諸君は、俺の記憶力を見に来てるのか? 演技力についてのコメントはねえのか!」
 と言い返して来たが、今回はそう言い切れるかどうか。葉山からバス、逗子から湘南新宿ラインで池袋へ。家からけいこ場までドア・トゥー・ドアで2時間半ほど。車内で台本を広げるのは面映ゆいから、自分のせりふを書きだした紙片相手にボソボソを続ける。そのうち車内では完ぺきの境に達するのだが、けいこ場で大声を出すと、とたんに頭がまっ白...という体たらくだ。
 ホッと一息ついたのは8月の下旬、さすがの炎暑もひと段落という束の間の数日に、記憶力が少々戻って来た。九州北部は記録的大雨で大変な水害被害。知人に「大丈夫か?」の電話を入れるほどなのに、不謹慎のそしり免れぬのは承知で、気楽にけいこのラストスパートである。有楽町線要町駅から、谷端川南緑道をトボトボ10数分。日傘デビューを果たした日々を思い返す。ふと気づけば、終わったと勘違いしたさるすべりの花が一挙満開、カンナの花の赤や黄が背のびをはじめ、ずっとしおれたままだったおしろい花まで、息を吹き返しているではないか。
 とまあ、それやこれやでけいこも何とか軌道に乗りかかった。僕の川西康介はやくざだが、気のいいお調子者。吉永母娘の双方に、ちょいとその気になったりするのだが、そんなにうまく行くはずもない。言ってみれば深川の寅さんみたいで、出番は全九場のうち五場。9月1日にけいこ場を閉めて深川へ入り、4日の初日に向けて、やっとこさ雄躍邁進! である。
週刊ミュージック・リポート
 《ほう...》
 いい歌に出っくわした。昼ひなかからうなぎを食って、日本酒をやったせいばかりではない。「小島の女」というその作品が、妙にしみたのだ。桟橋で男を見送る女が主人公。北から流れて瀬戸内へ来た居酒屋ぐらしだが、それが一夜の相手と別れる。ま、お定まりの設定だが、歌詞に気になるフレーズがいくつかあった。例えば、
 〽あたしの体を男がすぎた、何人だったか数えたくない...
 〽カモメが泣いたらあたしは起きて、みそ汁なんかを作って送り出す...
 ステージで歌っていたのは西山ひとみという歌手。聞いたことのある名前だが記憶はさだかではない。年かっこう、歌いぶりからすれば、かなりのベテラン。この世界の酸いも甘いも、そこそこ体験したろう気配がある。発声が妙だ。一度口中にこもったような声が、ハスキーな味を作って改めて出て来る。歌詞のコトバが粒立って聞こえないのは、唇の緊張感に欠けるせいか。しかし、これもこの人の個性と言えば個性か―。
 西山とこの作品に出会ったのは、大分前の7月27日丑の日。上野・不忍池そばのうなぎ料理屋亀屋一睡亭4階のライブハウスだ。実はこの日、ギタリスト斉藤功の演奏会がそこであり、友人夫妻に誘われて出かけた。船村徹メロディーを中心にやるのが気になった。斉藤は船村の自主公演「演歌巡礼」をサポートした仲間たちバンドのメイン・ミュージシャン。船村の知遇を得て、外弟子を自称する僕の船村歴は54年だが、
 「僕が今日あるとすれば、船村先生の薫陶を得たおかげです」
 と、常々語る斉藤とのつき合いも長い。
 さすがの手腕である。斉藤が弾いた船村作品は「別れの一本杉」「柿の木坂の家」「海の匂いのお母さん」「みだれ髪」など。弦を押さえた左手の指が、その箇所を離れぬまま、小刻みに揺れる。生み出された音色が、船村メロディーをはかなげに揺らして、余韻を深いものにする。泣くでもなく恨むでもなく、その哀愁にはそこはかとない抑制の妙がある。一世を風靡した〝泣き〟のギタリスト木村好夫の没後、斉藤が第一人者と目されるゆえん。多くの演歌歌謡曲系の作家や歌手が、レコーディングに彼をこぞって招くはずだ。
 西山はその会のゲストとして登場、斉藤のギターで「小島の女」を歌った。もう一度聞きたいと言ったら、すぐにCDが届く。山上路夫の詞、杉本眞人の曲、斉藤がアレンジしたアコースティック・バージョン。どうやら彼女は、旧作のこの歌を、後生大事に吹き込み直しをし、編曲を変え、趣きを変えているらしい。彼女にとってはきっと、宝物の作品なのだろう。
 《あの山上が、こういう詞も書いていたんだ...》
 ずいぶん長いことご無沙汰をしっぱなしの詩人の顔を思い返した。昔、小柳ルミ子で、泣いて見送る弟をなだめながら、嫁ぐ娘の真情を書いた作詞家である。あれも舞台は瀬戸内。それがこの作品では西山に、
 〽後添いぐちでもあったら行くよ...
 と、やすらぎの寝ぐらを探す女の心情を歌わせていて面白い。行きずりの男を見送る女が、約束はいらない、またふたり縁があったら逢えるさ...と、泣きも恨みもせぬあたりが山上流か。
 《流行歌って、いいもんだな...》
 僕は〝埋もれたいい歌〟との、偶然の出会いにしみじみとする。杉本の曲もなかなかだ。毎月々々、流行歌はひっきりなしに生み出され、その多くがさしたる反響も得ぬまま、流れ去っていく。歌好きたちの支持を得るヒット曲はひと握り。制作者と作家や歌手が、精根こめた仕事をしても、消費され続けるのが流行歌ビジネスの現状なら、だれも異を唱えることはない。
 「でも...」
 と、与えられた作品を掌の珠みたいに、長く歌い継ぐ西山の例は、それだけに得難い。作品の完成度が高く、歌手に似合いならなおさらだ。
 斉藤のコンサートには昵懇のジャズ歌手森サカエも来ていた。「ダーリン!」と呼び合い、人前でもハグをするこのベテランも、船村門下の姐御肌である。この会で僕は、西山のいい歌と出会い、船村の連載ネタをいくつか拾った。船村の郷里・栃木を中心に発行されている下野新聞の「素顔の船村徹・共に歩んだ半世紀」は、2年めに入っている。月に2回の掲載だが、地元だけに船村と親交があった読者は多い。その緊張感も手伝うのか、もう3回忌も過ぎた船村が、僕の胸中から全然居なくならない。それもこれも流行歌が結ぶ縁だろうか。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ212

 ケイタイに電話をしたらその夜、新田晃也は故郷の福島に居た。コンサートが終わったばかりだと言う。

 「新曲、受けたか?」

 と聞くと、待ってましたとばかりに、

 「受けた、受けた。タイトルを言っただけで、もう爆笑!拍手が来ましたよ」

 受け答えする彼の背後には、人々の談笑がにぎやかだ。久しぶりに会った友人たちか、それとも打ち上げのスタッフか。場所は居酒屋と、おおよその見当はつく。

 ≪そりゃ受けるだろうな、客のみんなに思い当たるふしがあるんだから...≫

 こちらもニヤニヤする。新曲のタイトルが何と『もの忘れ』なのだ。

 ♪近頃めっきり もの忘れ どうしてこの場所 俺はいる...

 石原信一の詞の歌い出しである。薬は飲んだのかどうか?昨日の約束もすっかり忘れている...などと歌が続く。二番では惚れた女を待った雨の街角が出てくる。昨日今日のことはおぼつかないが、昔のことはやけにはっきりと覚えている老境がほほえましい。三番には、話の合わない息子や、わけのわからない娘のおしゃれまで。

 僕もそんな年かっこうである。隣りの部屋へ行って、さて何しに来たのかなんてことはしばしば。友人との会話は、

 「あいつだよ、ほら...」

 と話しかけながら、あいつの顔は出て来ても名前が思い出せない。よくしたもので相手は、

 「あぁ、あいつか。うん、まだ元気だろ?」

 と応じて、話が通じてしまう。年寄りならではのツーカーで、友だちはなかなかいいものだ。

 友人の新田のために、石原は時おり思い切った詞を書く。コンビの第一作は『寒がり』だったし『昭和生まれの俺らしく』なんてのもあった。2015年の新田の歌手活動50周年記念曲は『母のサクラ』で、年を重ねてしみじみ思い返す母親について二人は、大いに意気投合した。ともに70代、そんな年ならではの本音を歌にする。石原の詞にその都度じ~んと来て、新田が曲をつけて歌う作業。歌づくりを楽しんでもいようか。

 流行歌はもともと、絵空事のお話である。恋愛ざたのあれこれが、永遠のテーマ。作家も歌手もいわば青春時代の感傷を、それぞれの味つけで独自の世界を作ろうと腐心する。絵空事に、血を通わせ肉とする試行錯誤をくり返すのだ。演歌、歌謡曲の歌手たちも、ご他聞にもれぬ高齢化社会の中にいる。孫に恵まれた年になっても、孫の話はせず、孫の歌は歌わない。ファンの夢をこわすまいとするのが一般的だ。

 石原はヒットメーカーの一人である。市川由紀乃をはじめ、若手から中堅の歌手たちには、似合いの恋物語を書く。実績が認められて日本作詩家協会の幹部にもなっている。

 「でもさ...」

 と、時おり踏み止まったりするのだろう。熟年の歌手には年相応の歌があってもいいのではないか?ファンの年齢層が高いジャンルだけに、そんな歌に呼応する向きも居るはずだ。問題は"老けネタ"を承知の歌手が居るかどうかだったが、新田との出会いがそれを可能にした。

 新田は銀座の名うての弾き語り出身。自作自演の演歌系シンガーソングライターとしてマイペースを貫いて来た。一発ブレーク、天下を取る夢を捨ててはいまいが、むしろ「自分らしい世界」を作ることに熱心な男だ。

 新田が伊達、石原が会津と、同郷のよしみも深い二人の歌づくりは愉快な冒険である。二人それぞれとのつき合いが長く、引き合わせた僕としては、笑いながら極力応援せざるを得ない。

月刊ソングブック
 影を踏みながら歩いている。谷端川南緑道をトボトボ。連日35度の酷暑を午後1時半過ぎから15分ほど。地下鉄有楽町線の要町駅から行く先は廃校になった大明小学校跡の一部のけいこ場。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(横澤祐一脚本・演出)のけいこだ。2時ちょっと前には現場へ着きたい。それにしても、全身から吹き出す汗はどうしたもんだ。
 辿るのは遊歩道である。もともと川だったのを、埋め立てたのだろう。植え込みの緑が続き、ところどころに子供用のブランコ他の遊具がある。池袋界隈とも思えぬほど自然がたっぷり。さるすべりの花はもう終わった。無花果の実がふくらみ始めている。それやこれやを視線の隅に入れて移動する。5月ごろに歩いたら、すこぶる気分がよさそうな場所である。しかし今は8月初旬、カンカン照りが恨めしい。おまけに去年まであった喫煙スペースだってなくなっちまっているでないか!
 「影を踏みながら...」と書いた。自分で作る影である。遊歩道だから緑はいっぱいあるが、背の高い樹木がないから日陰はない。やむを得ず日傘をさしているのだ。家人に買い与えられた代物。テレビが連日、
 「お年寄りが熱中症で搬送され、亡くなった方も...」
 と報じるのを見てのことらしい。そう言われれば僕も、十二分に該当する年齢である。家人の懸念も無理はないか。
 「男が日傘? 冗談言うな!」
 と、当初は抵抗した。はばかりながら昭和の男である。敗戦後の食料難にもツバを飲み込みながら耐えた。高校を出て上京、新聞社のボーヤに拾われたが、安月給の空腹にも耐えた。腹の皮が背骨にくっつきそうになり、JR王子駅から飛鳥山の坂が上がれなかったのも、今は笑い話だ。振り返ればこの年まで、耐えてしのいだ山ばっかりだった。歯をくいしばって耐える。明日を信じて踏んばる暑さになんか負けるか。それが男ってもんだろう...と、やたら演歌チックになる僕を、ニヤリと見返して家人が言ったものだ。
 「男の日傘って、今やトレンドよ!」
 ま、それはそれとして、けいこ場へ入ればこっちのもんである。時代は昭和30年代後半、舞台は深川のボロアパート。そこで暮らす人々の人情劇だが、僕の役はそのアパートの大家で建築会社の主、住人からは〝親分〟と呼ばれるやくざだ。それも能テンキなお調子者で、することなすことヘマばかりである。住人の一人で、もとはお家柄のご婦人(高橋志麻子)に懸想してのあれこれ。実の兄貴でアパートの管理人(丸山博一)から、その都度、
 「馬鹿だねえ、まったく...」
 とサジを投げられている。
 セットがボロアパート一景だけの2幕9場。自然せりふ劇の色彩が濃く、そのうち5場と出番が多い僕にも、覚えるのが難儀なくらいのせりふがある。放っておけばそれを、突っ立ってしゃべってばかりになりそうなのへ、演出の横澤祐一が動きを加える。
 「あ、そこは入り口をガラッとあけて、一歩中へ。あれ? 何よ、ちょうど良かった...なんて言いながら中央へ...ね!」
 「そこね、つけ回しにしようか、貴子が嫌みな笑いを見せてカウンターの奥へ入るでしょ。それを見送りながらグルッと回り込む。立ち止まって老人を睨みつけて咳払い、管理人に眼をやると、また馬鹿だねえ...が来るでしょ。そこで正面切ってガクッとなって溶暗。そうだな、咳払いは2回やるか」
 貴子は僕が懸想するご婦人。ライバルみたいな謎の老人をやるのは横澤。二人のからみ方に僕がイラ立つシーンだが、横澤は老人から演出家に早替わりしての演技指導である。その方が手っとり早いとばかり、貴子の動きも僕の動きもさっさとやって見せる。お手並み鮮やかだから僕は吹き出し、出を待つ鈴木雅、古川けい、下山田ひろの、高橋ひとみら女優陣は大笑い。一人ひどく真面目に、台本にあれこれ書き込むのは演出助手の柳谷慶寿という具合い。
 行きは地獄、現場はよいよい...の日々。日傘の道々で僕を慰めるのは、小路の両側の民家からひょいと顔を出す猫の一、二匹である。立ち止まって愛想を言う僕を、怪訝な顔で見守るそいつらは、別に逃げるでもなく、なつくでもない。この欄で以前に触れたが、僕は秋元順子の新アルバム「令和元年の猫たち」をプロデュースしたばかり。寺山修司、阿久悠、なかにし礼、中島みゆき、山崎ハコらが書いた〝埋もれた猫ソング〟の傑作を集めたのを思い返す。それだけに道ばたの猫もお仲間気分。しばし灼熱も遠のいたりして、やれやれ...なのである。
週刊ミュージック・リポート
〽ナムカラカンノトラヤ~ヤ...
 がまた出て来た。太平洋戦争に日本が敗れた昭和20年、疎開して一時世話になった寺で、耳で覚えたお経の一部である。当時僕は小学校3年生(そのころはまだ国民学校と言った)だから、その意味など判るはずもない。歌謡少年の僕は、おまじないみたいに音だけで、これを覚えた。片仮名で書くしかないが、その表記だって正確とは全く思えない。
 それにしても、ひと夏に2回である。1回目は7月12日の臨海斎場、ひばりプロ加藤和也社長の運転手・西澤利男氏の葬儀で聞いた。そして今度は同じ月の21日、永平寺別院長谷寺で営まれた作詞家阿久悠の13回忌法要で耳にする。阿久の墓は当初、伊豆の高台にあった。家族が住居を東京に移したころに、それも東京へ移転した。場所は六本木通りを青山の骨董通りへ右折する手前の角である。〝怪物〟の名をほしいままにした阿久の、〝主戦場〟にあたる界隈。ここならみんな、思いつく都度、いつでも墓参りが出来よう。
 近ごろちょくちょく連絡を取っていた息子の深田太郎から、
 「親族だけでやるつもりだけど...」
 と聞いた僕が、
 「俺も親族みたいなもんだろ!」
 と強弁して押しかけた法要である。
 《もう13回忌か...。それにしても午前10時からってのは早いな。俺、葉山からだぜ...》
 身勝手な感想を抱えながら、控え室に通されたら、雄子夫人に太郎夫妻、阿久が見ぬままに逝った孫を中心に、集まったのはごく少人数。血縁でないのは、オフィス・トゥーワンの海老名俊則社長夫妻と僕だけだった。間もなく本堂へ。僧だけはすごく大勢である。メインの椅子に1人、それに両側で従う僧が5人ずつ。その後ろにもかなりの僧たちが控えていて、鐘と木魚の係りが1人ずつといった具合い。参列した僕らより相当に多い豪華版だ。
 《内々でやっても、することはきちんと、堂々と構えるあたりが、実にあの人の法要らしい》
 長いこと歌づくりに密着したが、阿久は僕らのスポニチに、エッセイや連載小説、作詞講座に27年におよぶ大河連載「甲子園の詩」などを精力的に寄稿した。しかしその間、慣れや手抜きのゆるみたるみが、一切なかった事に改めて感じ入る。
 粛然たる法要もいいもので、読経の声がまっすぐに胸に来る。その中に「愛語」という言葉が出て来た。たまに耳にすることのある熟語である。阿久も僕も言葉や文字を繰る仕事をして来た。
 《この際だから、この言葉が経の中でどういう意味を持つのかを考えてみるか》
 僕は帰りしなに「修証義」なる小冊子を買い求めた。曹洞宗宗務庁刊で100円である。それによれば、衆生を利益する「四枚の般若」というのがあり、一が「布施」二が「愛語」三が「利行」四が「同事」で「これすなわち、薩?の行願」だと言う。仏の教えや戒めということか。
 「愛語」にこだわる。これは赤子の思いを貯えて言語するもので、徳あるは讃(ほ)め、徳なきは憐み、怨敵を降伏し、君子を和睦させることを根本とし、聞く人を喜ばせ、心を楽しませる。聞いた人は肝に銘じ、魂に銘じる。だから「愛語」は「廻天の力」があると言うのだ。
 《なるほど、そういうことか...》
 と、僕は腑に落ちた気分になる。
 今回の法要は、お清めの食事もなしで墓に焼香して散会した。これもいい! と共感しながら、手土産に添えられた太郎と雄子夫人のあいさつ状を読む。
 「時代が昭和から平成、そして令和に突入いたしました。いつの時代も音楽が聞こえてくるような平和な世の中を祈り、これからも阿久悠が遺した歌の数々が、令和を生きる皆様の心のよりどころになるように、私どもも努力して参ります」
 とあった。
 阿久が書いた山ほどのヒット曲は、すべて彼が発した「愛語」だったと思い知る。流行歌に彼は、彼の信条や哲学を全力をあげて書き込んだ。だからこそ彼の作品は良質な娯楽として、長く人々の心を楽しませ、感興を深いものにするのか―。
 「今回は珍しく、抹香くさい内容だな」
 と思われる向きもあろう。10月で83才と馬齢を重ねた男の、老境が書かせたものとお汲み取り頂きたい。7月までとは一転、酷暑の日々が来た。間もなく「お盆」で9連休とかになる。帰省する人々、外遊する人々などで、みんなは大移動する。そんなお楽しみの中で、
 「〝愛語〟なあ...」
 なんてひととき、あれこれ思い返すのも、一興じゃありませんか!
週刊ミュージック・リポート

  こちらもレギュラー出演、若いミュージシャンや役者諸君に混じってブイブイ言っています。恒例の路地裏ナキムシ楽団公演は104日から3日間5公演、「屋根(やね)の上の奇跡」を中目黒キンケロ・シアターです。

  ステージ下手板つきのバンドは、たむらかかし(Vo, AG)を筆頭に暮らしべ四畳半(Vo, AG)、ハマモトええじゃろ(Vo, Pf)、カト・ベック(EG)、アンドレ・マサシ(Ba)、遠藤若大将(Dr)、久保田みるくてぃ(Perc)の7人。それに対抗する演技陣は長谷川敦央、中島由貴、小沢あきこ、小島督弘、千年弘高、橋本コーヘイ、小森薫、Iroha、押田健史、中島貴月、穐吉次代、小林司、鈴木茜、三浦エリ、真砂京之介と僕。生演奏と芝居がコラボするこの新機軸エンタは今回が第10泣き記念公演です。

  ライブハウスからスタート、次第に劇場へレベルアップ、第10回を「10泣き」と表記するのが特色。若者らしい感性で、人が生きていくことの機微を描いて、涙を誘います。その熱気がファンの心を撃って、毎回、けいこ始めの時期にチケット完売の勢いを持ちます。今作の舞台は病院の屋上。そこに集散する人々が、こちらも悲喜こもごもの生き方をさらします。メジャー展開定着を賭けるエネルギーにぜひ触れて下さい。


屋根の上の奇跡表
屋根の上の奇跡裏

  お待たせの東宝現代劇75人の会、今年の公演は94日から5日間、おなじみの深川江戸資料館小劇場です。横澤祐一脚本、演出の「離ればなれに深川」(2幕)で、くどいくらいに"深川"ですがシリーズ6作目、毎回大好評を受けて、今回のお話は、敗戦後10年ほどの時期、安アパートを舞台に、庶民の悲喜こもごもの人情劇が展開します。

  出演は丸山博一、鈴木雅、高橋ひとみ、高橋志麻子、古川けい、柳谷慶寿、梅原妙美、大石剛、下山田ひろの、松村朋子らベテラン勢に、所属10年めの僕。東宝演劇を支えた面面の"味とコク"の仕事ぶりに、触発されること山ほどの日々です。酷暑に入った8月、せっせとけいこ場に通った成果!?をぜひご覧下さい。問い合わせ先は080-6697-3133です。


「離ればなれに深川」(2幕)表「離ればなれに深川」(2幕)裏

殻を打ち破れ211

 「頑張ってます!」

 とエドアルドが言う。525日、東京・芝のメルパルクホール。関係者気分で楽屋裏に入って来た彼と、久しぶりに会った。この日、このホールで開かれていたのは「日本アマチュア歌謡祭」の第35回記念大会。エドアルドは18年前の2001年に、ブラジル代表として出場、グランプリを受賞してそのまま日本に居据わり、苦労してプロになった。レコードデビューして何年になるか、異郷人だからか望郷ソングを2曲ほどシングルで出し、最近作は『竜の海』(石原信一作詞、岡千秋作曲、前田俊明編曲)で、とてもいい歌だからあちこちに吹聴の原稿を書いた仲だ。

 「ガンバッテ、マ~ス」

 明るい一言にブラジル訛りを感じる。それはそうだろう。本名がフェレイラ吉川エドアルド年秋だが、生粋のブラジル人で日本は彼にとって異国である。そこで歌い、異国の楽曲で、異国の歌手たちとしのぎを削るのである。半端な頑張り方では勝ち目などない。グランプリを獲った時は、相撲部屋の新弟子みたいに太っていた。それが今では、すっきりと中肉中背、当時の半分くらいの体型になっている。ダイエットなんてなまやさしいやり方ではない。文字通り身を削る努力が、こんなにはっきりと眼に見える例など皆無だろう。

 面倒を見てくれた事務所が、最近事業を縮小、エドアルドはその禄を離れた。当面は所属するレコード会社扱いで活路を模索する。縁が薄いのか、ツキがないのか、彼はまたまたそんな境遇とも戦わなければならない。演歌、歌謡曲を取り巻く状況は、相当に厳しい。それも承知で彼は、もうひと踏ん張りするのだろう。いい奴なのだ。いい歌い手なのだ。しかし、それだけで何とかなるほど、この世界は甘いものではない。

 「うん、頑張れよ!」

 僕はそう言って、かなり年下の友人の手を握った。出来る限りの応援をするつもりだが、今は、そう言うしかないか!

 エドアルドの隣りで

 「統領!あたしは来年40周年です。またいい曲を作って下さい!」

 と、大声になったのは花京院しのぶである。僕は彼女のために、カラオケ上級者向けの"望郷シリーズ"をプロデュースして来た。亡くなった島津マネージャーとの、長いつき合いがあってのこと。今回の舞台でも『望郷新相馬』や『望郷やま唄』を歌う参加者が居た。歌の草の根活動をしている花京院の、ひたむきな努力の成果だ。

 2曲とも、榊薫人の作曲である。集団就職列車で上京、新宿の流しからこの道に入り、苦吟していた彼に昔、曲づくりを頼んだ。大の三橋美智也マニアの彼だから「三橋さん用を想定して100曲も曲先で書いてみろ」と、乱暴きわまる注文だったが、その中から『お父う』も生まれた。

 うまい具合いに民謡調に活路を見出した榊も、最近大病をして元のもくあみ状態。口下手、世渡り下手、宮城育ちの榊に、この際だから再起の発注をした。来年の花京院のための記念曲を

 「もう一度、死ぬ気で書いてみろよ!」

 深夜に電話をしたら、返答はやたらに力み返っていた。

 ≪よし、その意気だ≫

 と僕は思う。苦境をはね返す意欲がバネになれば、それはきっと作品の勢いや艶に生きるだろう。例えは悪いが「火事場のバカ力」を期待するのだ。

 日本アマチュア歌謡祭は、スポーツニッポン新聞社在職中に立ち上げたイベントである。それが35周年なら、その年月分だけ深いつきあいになった人も多いのだ。

月刊ソングブック
 「和也、水くせぇじゃねぇか!」
 僕としては珍しく、他人に悪態をついた。もっとも口角はあげて、笑顔にとりつくろったうえのことだ。7月11日夜、場所は臨海斎場。ここで営まれていたのは西澤利男という人の通夜で、嫌味を言った相手はひばりプロダクションの加藤和也社長である。美空ひばり家三代のつき合いになっている彼を、僕は昔から親しみをこめて呼び捨てにしている。
 「ま、ごくごく身内のことにしたかったんで...」
 和也の言い訳は聞くまでもなく判っていた。西澤氏は彼の車の運転手で、音楽業界とはかかわりあいがない。だから「身内」で、だから参列者10数人ということになるのだろうが、それじゃ何か、俺は身内じゃないってことか? と僕は言い募りたかった。西澤氏と会ったのは、彼が和也の父・哲也氏の運転手だったころで、彼はひばり家の男二代にわたってその身辺にいたことになる。和也の代になってから、僕はしばしばその車に乗せて貰っている。会合のあと飲み屋へとか、僕が帰宅する最寄りの駅までとか、思い返せばきりがないくらいの回数になる。
 実は西澤氏の死と、和也が「施主」として営む葬儀を、僕は花屋のマル源鈴木照義社長から聞いた。別の話をしていたそのおしまいに、ひょこっと出て来てのこと。和也も鈴木社長も、ゴルフと酒でお遊びの小西会の有力なメンバーである。早速連絡を取ったから、通夜にはテナーオフィスの徳永廣志社長や新聞販売店主で作曲もやる田崎隆夫もかけつけた。徳永は小西会の幹事長、田崎はやんちゃな少年時代の話が、和也とやたらにハモる仲間だ。
 享年72、西澤氏は口数少なめで笑顔のいいダンディだった。しかし口ぶりや挙措に時折りちらりとする翳りが、ただものではない気配も作る。その物証!? が遺影の前に並んでいた。米軍将校の制帽にベレー帽が3点、肩章に鎖つきの認識票など、映画やテレビドラマでよく見るアメリカ兵の持ち物がズラリで、愛したという葉巻まで添えられている。彼は一体何者だったのか? 和也の説明を待った。
 そもそもは、横浜のやんちゃだった。和也の父哲也氏と知り合うのもそのころ。武勇伝いろいろのあと、西澤氏は空手道場の師範代になり、米軍に乞われてベトナムに渡る。あちらでは米軍兵士に格闘技を教える軍属になり、ついには中尉に昇格したという。帰国して三島由紀夫の楯の会に参加、しばらく後に哲也氏の許にたどり着く―。
 通夜のビールを含みながら、僕はぼう然とした。何という年月を生きた人なのだろう。復興、復活を急いだ時期の、日本の戦後の転変がその背景に見える。一途に、まっしぐらに生きたろうその折々の心境を、多くは語らなかったという男の、後年、微笑に見せたあの穏やかさは何だったのだろう?
 和也の葬儀での立ち場は「施主」だった。「喪主」がいない。天涯孤独、西澤氏には一人の親族も居なかった。肺がんで倒れた彼に、大モテだった時期の女性に連絡は? と尋ねた和也に、
 「全部きれいに別れたからな」
 と、答えは苦笑まじりの一言だけ。肺がんも治療は一切受けず、痛み止めだけだった。自宅近くの病院で2週間近く、看病をし尽くした和也に、死の三日前に彼は、
 「世話になったな、ありがとう」
 と手を握ったと言う。
 近ごろは、通夜に出席すれば告別式は欠礼することが多いが、僕は12日昼も臨海斎場へ出かけた。他の予定はキャンセルした。通夜は西澤氏の「見送り」であり、告別式は〝施主〟和也の「見届け」である。波らんに満ちた男の生と死を、一人で背負ったのがこの年下の友人なら、そばに居ることだけがせめての心尽くしと思った。彼にはまだ事後のあれこれも残っている。例えば西澤氏の遺骨をどこに収めるかも問題だろう。
 棺を花で埋める最後のお別れで、和也がすっと動いた。テープレコーダーから流れたのは、西澤氏が好きだったフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」である。棺が火葬の扉の向こう側に収められた時、和也は戦い続けた男を見送るように挙手の礼をした。
 「ナムカラヤンノ・トラヤーヤ...」
 敗戦の年に、茨城に疎開して一時世話になった寺で、僕が耳で覚えたカタコトの経の一部である。西澤氏を送った読経で胸を刺されたが、同じ真言宗。少年時代の僕は、あやうくその寺の養子にされかかった。
週刊ミュージック・リポート
 店の照明が消えた。細長いカウンターの奥にある小さな庭園だけが、くっきりと浮かび上がる。草木の緑が色濃い装飾用のそれは「坪庭」と呼ばれるそうな。その手前に女性の人影が、うすらと見えて、彼女が吹き始めたのは篠笛である。哀感に満ちたその音色が、しょうしょうと店の空間を満たす。カウンターの酔客も僕も、粛然として束の間「いにしえの魅惑」へ導かれる。
 7月9日深夜、場所は北陸金沢のひがし茶屋街、美しい出格子の古い町並みの大路は、寝静まったように人影もない。その通りの奥、突き当りの右側角で、ひっそりと営むスナックが一軒。篠笛を吹いた佳人はその店のママで、元芸妓。愛用の篠笛を見せて貰ったら、うるし塗りの黒で、この方が素の竹笛よりも音色が丸く優しげになるという。1820年に町割を改めお茶屋を集めたこの地区で、伝統を守る昔気質の女性と思ったら、毎朝10キロを走り、東京五輪の聖火リレー走者に応募する気だと、明るく笑った。
 翌10日昼前から、僕は金沢テレビの「弦哲也の人生夢あり歌もあり」にゲスト出演した。作曲家弦哲也が石川県のあちこちを訪ね、ゲストとその風土や景観の妙を語り、双方の夢や歌心を披露するのが狙い。地元の名士・作家五木寛之が「恋歌サミット」というイベントをやり、弦がそれに招かれたのが縁で、彼がホスト役のこの番組が生まれたと言う。以来、金沢通いをして14年、弦はもはや優秀なこの町ガイド。車で移動する間の発言も、「ここが武家屋敷跡」「ここが近江町市場」「あれが兼六園」「あれが21世紀美術館」「こちら側が犀川、あちら側が浅野川」...と懇切ていねい。ついには加賀百万石の歴史や栄耀栄華にまでおよんだ。
 ところで番組のロケだが、午前から夕刻までで3本分。訪ねた先は林恒宏さんが活動の拠点にする「語りバコ」と、平賀正樹さんが経営するジャズ喫茶「もっきりや」の2カ所。林さんは発声と言語の指導者で研声舎を主宰する「声の達人」ナレーター、俳優として活動するほか、ビジネスマン向けのボイストレーニングにも精を出す。平賀さんは精力的なレコード・コレクターで、有名無名のミュージシャンや歌手たちと親交のあるマスターだ。
 林さんと「声談義」になるのは、僕が舞台役者をやっているせい。実は6月の新歌舞伎座公演にも金沢テレビのクルーが入っていて、主演の川中美幸と松平健にからむ僕の場面を取材していた。それもインサートする番組だから、僕は身にあまる光栄に恐縮しきり。林さんが室生犀星の詩を朗読する技には、弦ともども膝を打ったものだ。
 平賀さんの「もっきりや」では〝幻のブルースシンガー〟と呼ばれた浅川マキの話になる。彼女は近辺の美川町の出身。寺山修司がプロデュース〝アングラの女王〟として頭角を現わす1960年代から、僕もその一部始終につき合っている。昔々のこと、真夜中に突然マキから歌いたいという電話があり、平賀さんが店に客を集めなおして、明け方までアカペラコンサートを開いたなどというエピソードが出てくる。店には彼女のファーストアルバムもあった。僕は寺山の詞、山木幸三郎の曲の「ふしあわせという名の猫」を所望する。最近秋元順子のアルバムを制作、カバーしたばかりだから、感慨が生々しい。ニューハードのギター奏者で作、編曲をやった山木も、ふらりとこの店に現れたと言う。
 厄介だったのはこの番組、ゲスト出演したら必ず一曲ずつ歌う決まりごとがあったこと。ディレクターの注文で僕は、プロデュースした「舟唄」をまず歌う。声の達人の林さんが歌詞を朗読したあと、同じ部分を弦のギター伴奏でという趣向。作りはしたが歌うことなどなかった作品だが、アンコのダンチョネ節は小林旭の「アキラのダンチョネ節」の後半
 〽嫌だ、やだやだ、別れちゃ嫌だと...
 をパクってお遊びとした。
 平賀さんの店では、ステージで「夜霧のブルース」をやる。弦のイントロが思いっ切りブルースだったが、こちらはバーボンをチビチだからいつもの気分。マスターは音楽評論家の歌ってのは、そんなもんか...と思ったろう。
 さて、冒頭に書いたひがし茶屋街の件は、撮影前夜に前乗りしての見聞。その後僕は酔いに任せて片町新天地へ足をのばした。こちらは一転、巨大な迷路めいた路地を埋めて、居酒屋やバー、レストランなどが密集する庶民の歓楽街。その一軒のバーで、僕はレコードで「カスバの女」を聞いた。昭和20年代のエト邦枝のヒット曲である。そんな昔との出会いも飛び出して、金沢の1泊2日は、実に何とも感興深いものになった。
週刊ミュージック・リポート
 頭の中にあるのか、それとも心の中か。芝居の科白を入れる袋があるとする。その大小や機能には個人差があるのだろうか? 6月、大阪の新歌舞伎座の楽屋で、僕はふと、そんなことを考えた。川中美幸と松平健の合同公演。芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」と、この欄に何回か書いた。浅草近くの裏長屋を舞台に川中・松平の気のいい夫婦を中心にした時代劇の人情物語。大劇場公演には珍しいせりふ劇だが、実に数多くのコトバが飛び交う。
 「いい年して般若が人食ったように紅ぬって、風呂屋の番台に色眼つかってるんだってね、この色狂い!」
 川中演じるかかあ天下おはなの啖呵である。それに応じる鷲尾真知子の大家が、
 「十両はおろか五両一両の銭だって、拝んだことのないような暮らしをしているくせに、えらそうな口叩くんじゃないよ!」
 と来る。最近住みついた謎の姉弟の家賃についてのやりとり。支払いに窮した姉弟と、それならば...と立ち退きを迫る大家との間に、おはなが割って入っての大ゲンカだ。
 双方に理はあるのだが、カッとなってどちらも一言も二言も多くなる。下町気質の一端だろうが、その激しさがヒステリックにせり上がるのだ。どちらも山ほどある科白の連発、それも江戸前のテンポでビシビシだから、観客はあっけにとられた。
 《しかしまあ、よくもあれほど...》
 と、ぼくは出を待つ舞台そでで感じ入る。因業な大家の悪態のつき方が、立て板に水で、その嫌みたっぷりが体全体からににじみ出る。素顔は物静かで、笑顔が素敵なベテラン鷲尾が、近寄り難くさえ感じられるのは、芸の力か。そんな騒動に閉口しながら、低姿勢でかみさんをたしなめ続けるのが、気のいい律儀者の六助で芸歴45年を記念する松平が、珍しい役柄に取り組んでいる。それが―。
 「うるせいやい、すっこんでろ、このとんちきおかめ!」
 と、突然おはなを叱り飛ばすのは、大立ち回りのあと。下戸の彼がノドをいやすために、おはなに酒をのまされて酔っぱらう。罪を背負って駆け落ち同然の姉弟が、無実と知って二人を秘かに旅立たせる大詰めだ。
 「どこか遠くへ行きなさるがいい、知らねえ土地で仲良く、幸せになっておくんなさいよ!」
 と、呼びかける見せ場で、はなむけの思いもこめてか、馬子唄をひと節。それも酔っぱらったへべれけ口調で、ゆらりゆらりと客を泣かせる場面だ。
 ものがものだから、川中も松平も貧乏人のいでたちで、いつもの華やかさはない。そのうえ二人は、出ずっぱりのしゃべりっぱなしで、客を驚かせたり、笑わせたり、しみじみほろりとさせたり。その合い間を鷲尾の悪態が刺激的に緊張させるのだが、役柄が役柄だけに、きつい科白がこれでもか、これでもか...。
 三者三様、科白を入れる袋の大きさに驚嘆する。芝居によってその袋は、伸縮自在なのだろうか? それとも科白の数によって、とめどなくふくらむものなのだろうか。その袋の中身と、演技者それぞれが持つだろう別の袋の中の本音は、響き合うものなのだろうか? 時に同化するのだろうか? 振り返れば僕は、どの程度の科白の袋を身につけ得たのか? それはこの先、経験を積むたびに、少しは大きく育っていくのだろうか?
 くだらない屁理屈、年寄りの世迷言につき合わせるな! と、叱らないで頂きたい。言語は人格を示すと思っている。雑文屋稼業は、恥ずかしながら自分の言葉で自分を語る部分が多い。しかし、演技者は、自分とは全く違う人間を演じる。役柄として与えられた人間は、それなりの人格や言語を持っているはずで、演技者はそんな他人と自分自身とに、どう折り合いをつけていけるのだろう? 「科白の袋」と思っていたのは実は、演じる人間の人格や考え方生き方、特有の言語で満ちているものではないのか? 「量」はともかく、大切なのは「質」ではないのか?
 6月27日大阪。梅雨が来ないまま台風が来た。G20サミットで、町は警官だらけである。厳重な警備は物流をストップさせ、人々の生活全般に、大きく影響している。そんな中に滞在し、28日千秋楽を迎えた僕は、何だか旅する人間みたいに浮遊していた。
 26日夜には東京からの連絡で、作詞家千家和也の死を知る。「終着駅」や「そして神戸」など、いい歌を沢山書き、歌謡曲黄金の70年代に足跡を残した人だが、小説を書くと言って歌社会を離れ、以後の消息が途絶えていた。あれから彼は、どんな暮らしをしていたのだろう?
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ210

 歌謡界は、いい人なら何とか生きられるほど甘くはない。人柄よりも才能本位だから、時に厄介なタイプでも、うまく行くことがある。しかし、長もちするのは「いい人」の方だ。人間関係がものを言う世界のだから、嫌われもんが長もちした例は、ほとんど無い。

 そんなことを考えながら、429日、浅草ビューホテルへ出かけた。「北川裕二35周年記念ディナーショー」取材で、北川は作曲家弦哲也の弟子。昭和28年生まれだから、この8月で66才になるはずなのだが、申し訳ないことに歌をちゃんと聞いた記憶がない。たまに師匠の弦のイベントに出ていて、名前を知ってはいた。

 新曲『やめとくれ!!』(かず翼作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲)を皮切りに、北川はガンガン21曲を歌い切った。身長172、体重75、がっしりした体格で、歌声の圧力もなかなか。デビュー曲の『雨の停車場』から発売順に書けば『溺愛』『潮来雨情』『女のみれん』『恋雨みれん』『なみだ百年』『命まるごと』『泣いて大阪』『酔風ごころ』など。みんな弦の作品だが、残念ながらブレークした曲はない。

 だから彼は、弦作品をヒットさせ、恩返しをすることが「ライフワークだ」と胸を張る。なじみのある曲は『東京の灯よいつまでも』『別れの一本杉』『長崎の女』『霧の摩周湖』などで、昭和の匂いが強い。春日八郎や布施明のヒットを歌うことで判ろうが、セミクラシック寄りの発声で高音を決める唱法。歌い手は歌手を志した時代の、歌唱のファッションを長く道連れにするものか。

 「キャバレーで歌ってたかねぇ?」

 隣りの席に居た担当の中田信也ディレクターに聞いてみた。大勢の客相手に、声を励まし、受けを狙うタイプとも思えたためだ。答えはNO、一時流行した弾き語りもやっていない。これをやれば歌唱は、もう少しソフトなタッチになるだろう。

 昭和58年、テレビの「新スター誕生」で、グランド・チャンピオンになったのが振り出し。アイドルを量産した"スタ誕"のあとがま番組だったが、業界から声はかからず、故郷の福島・郡山に戻る。しかし矢も楯もたまらず、番組の審査員だった弦哲也に直訴、断わられたが粘って2人めの弟子になった。本名の増子ひろゆきでデビューしたのが1年後の昭和59年で、2年後に北川裕二に改名している。

 以後21枚のシングルを出し、キャンペーンや実演のステージで頑張って来た。言ってみれば草の根活動、膝づめで歌って少しずつファンをふやしたのだろう。今回のディナーショーは、主催、企画、構成が「Yuji音楽工房」とあって、彼の個人事務所。会場には北海道から九州までのファン300人が集まった。独立独歩、歌手生活35周年の長さを、彼の誠意が獲得した立派な成果だ。

 ゲストは師匠の弦哲也。二人で『北の旅人』を歌い、弦は『天城越え』を弾き語りで歌って花を添えた。

 「人を押しのけてでも前に出るタイプではない。お先にどうぞって、譲ってしまうような男でねぇ」

 控え室で弦は、愛弟子をそう語った。歌を「飽きるな 諦めるな」と励まし、北川が落ち込んだ時には「外に出ろ、所をえらばず歌え」と叱咤したそうな。

 冒頭に書いた例で言えば、北川裕二はきっと「いい人」なのだろう。それでなければ35年もの間、支えてくれる人々の"和"に出会えたはずがない。長い苦難の道を頑張ることも、師匠譲りだろうか。昭和、平成を歌い、令和に挑戦するファイトを聞いた。終演後僕も彼と激励の握手をしたが、達成感ありありの笑顔で、握り返した手は強く熱かった。

月刊ソングブック
 ホテルの部屋、電話器のメッセージ・ランプが点滅する。酔眠にその朱色がまぶしい。
 《東京の便り、それも音楽界からか...》
 案の定、キングレコードからのCDがフロントに届いていた。秋元順子の新曲のオケとテスト・ボーカルが収められたものだ。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲の「たそがれ坂の二日月」で、アレンジは川村栄二。
 《いいね、いいね...》
 と深夜、ひとりで悦に入る。編曲は杉本と相談、異口同音で川村に決めた。すっきりと今日的な味わいのポップス系で、おとなの情感が粋だ。歌い手の〝思い〟に預ける音の隙間づくりが心憎く、秋元の歌声が生き生きとするはずだ。
 詞の喜多條は僕の推薦、いきがかりがいろいろあるから虚心坦懐、大ていの無理は聞いてもらえる。作曲の杉本は秋元のリクエスト。詞の思いの伝え方が彼流の語り口とリズム感で快い。テストの秋元の歌には、杉本流の口調があちこちにあってニヤニヤする。これを彼女は、少し時間をかけて、きっちり彼女流に仕立て直すだろう。それだけの個性と年輪の味わいを楽しみにしようか!
 手数をかけているのは、キングの湊尚子ディレクターである。プロデューサーの僕が、大阪・新歌舞伎座6月公演に出ていて不在。そのくせ、作品の狙いはどうの、ジャケットはどうの...と、あれこれ伝えた面倒を、着々とココロとカタチにしてくれるはず。届いたCDはその経過報告の手紙つきだ。
 「そんな無茶なことしてて、本当にいいんですか?」
 川中美幸側近の岩佐進悟が制作者不在を心配する。新歌舞伎座は川中と松平健の2座長公演。けいこから本番まで、責任者としてずっと一緒の岩佐とは、
 「シンゴ、お前なあ...」
 と、呼び捨てのつき合いが長い兄弟分だから、何ごとによらず肚から話し合う仲だ。
 進悟が気づかうのも当然なのだ。僕は秋元のアルバム「令和元年の猫たち」も同時進行でプロデュースしている。長いことメモして貯めて来た〝猫ソング〟の集大成のつもり。昨今の猫ブームを当て込んだと言われればその通りだが、作品はそれぞれ、埋もれたいい作品揃いである。例えば、寺山修司が浅川マキのために書いた「ふしあわせという名の猫」は、寺山ならではの筆致と情感。昔、なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」の中の1曲「猫につけた鈴の音」は、面白くてやがて悲しいシャンソン風味だ。
 子供が欲しいと言った女。それが愛の形とは思わないと拒む男。失望して女は去るのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなって、のそのそと歩くけだるい夏の昼ざかり。男はその猫に鈴をつけてあげて「おめでとう、おめでとう」と頭をなぜるのだが、その胸中はいかばかりか。
 《自作自演の礼ちゃんも、ここまでは歌えなかったな》
 と、僕はひそかに憎まれ口を叩く。秋元が歌い、語る味わいの精緻さを思えば、この楽曲は初めて、手がけるべき歌手を得たということになるだろう。
 犬は餌をくれる人間を、自分にとっての神だと考える。猫は人間が餌をくれるのは、自分が神だからだと思うのだ。そんな言い伝えが、ヨーロッパのどこかの島にあると聞いた。猫は決して口外しないが、人間の営みのすべてを熟視し、何も彼も知り尽くしている。歌づくりの名手たちは、そんな猫の人生(!?)を描き、猫に人間の哀歓を託して来た。今作には阿久悠が書いた「シャム猫を抱いて」や「猫のファド」も加えた。中島みゆきや山崎ハコが生みの親の猫ソングも、得がたい味わいがある。猫で連想するおなじみの曲ならちあき哲也の「ノラ」それに「黒猫のタンゴ」か。
 別便でまた、湊ディレクターからトラックダウンしたそんな9曲分のCDが届く。これまた深夜、用意のウォークマンでしみじみと聞き直す。秋元の歌唱も秀逸だが、何よりも、作詞家たちの人生観や世界観が深い。聞けば聞くほど、さりげなく暖かく、しみじみと胸に刺さってくる。
 《うん、これはなかなかのアルバムだ!》
 酒の酔いが醒めてまた、別の酔い心地を味わいながら、自画自賛のひととき。芝居に打ち込む折々に思い当たるのだが、僕の正体はエエかっこしいのナルシストなのかも知れない。
 月末、ひと仕事終えたら僕は、1カ月ぶりに葉山の自宅に戻る。ドアを開けた瞬間、わずかに身構える愛猫の「風(ふう)」と「パフ」の2匹は、次にまた、
 「何だ、お前か!」
 という顔をするだろう。
週刊ミュージック・リポート
 「金無垢の松平健」というのは圧巻である。ご存知の巨漢が、金のスパンコール一色の衣装で「マツケンサンバ」を歌い、踊る。これまたピカピカ衣装の男女ダンサーをバックに、大阪・新歌舞伎座の舞台を縦横無尽、客席も大いに沸くのだ。
 「眼がチカチカして、痛いくらい...」
 と笑うのは、舞台そでで出を待つ川中美幸。松平に招かれて、出演者全員が勢揃いするフィナーレだが、
 「健さん、息が乱れもせずにそのまま挨拶でしょ、タフだとは知ってたけど、一体どうなってるのかなあ」
 川中がまた嘆声になる。
 6月、新歌舞伎座開場60周年記念の特別公演、松平、川中の歌もたっぷりのスペシャルショーで、特別出演の中村玉緒と松平の「浪花恋しぐれ」も大いに受ける。玉緒の飾りけのない老婆ぶりが、得も言われぬ可愛さなのだ。松平は「中村玉緒さま」と尊称を使う。師匠勝新太郎の夫人だから、そこは殊勝なもの。相手はのけぞり加減のリアクションで、客席も舞台上の面々も、ニコニコ顔のオンパレードだ。
 芝居の「いくじなし」(平岩弓枝作、石井ふく子演出)一幕四場では、松平・川中の立居振舞が逆転する。江戸時代の裏長屋を舞台に、嬶天下のお花(川中)と甲斐性なし行商人六助(松平)が役どころ。川中が江戸弁を立て板に水でやたらに威勢がよく、呼ばれる松平が「へ~い」ボソボソと、漫才の突っ込みとボケふうに、おもしろおかしい夫婦である。それに長屋人種あれこれがからむ下町しみじみ人情劇だ。見せ場山盛りの大劇場公演としては珍しいタイプのせりふ劇。貧乏人扮装の両主役に意表を衝かれたファンは、そのまま芝居の世界に引き込まれていく―。
 楽屋に突然、作詞家のもず唱平が現れた。先天的に厄介だったと言う血管が、心筋梗塞を引き起こし「あわや...」の瞬間もあった春先から復帰、びっくりするくらい元気になっている。往年の情熱的話術も復活していて、内緒にしていた病状から、川中の新曲「笑売繁盛」まで、こちらも縦横無尽のてい。彼の作詞50周年記念第2作に当たる今作の、プロモーション案や昨今の政治、国際関係、とりわけ北朝鮮対応への憤懣など、語気が熱い、熱い!
 一夜、川中ともども、この関西を取り仕切る詩人から、今が旬の「はもしゃぶ」のもてなしを受けたが、彼を師匠と仰ぐ川中はその回復ぶりに大喜び。いわく因縁があって彼を呼び捨てのつきあいが長い僕も、
 「今宵、一番の酒の肴はもずの復調だな」
 などと冗談めかした。12年ほど前に、僕が川中から声をかけて貰って舞台の役者を目指した時は、
 「そんな甘い世界やありまへんで!」
 と、忠告、反対したもずも、僕が松平、川中ご両人にからむ今回の舞台に、どうやら得心した気配なのもやれやれ...だ。
 それやこれやを楽屋同室の友人真砂京之介に報告したら、
 「大先生を呼び捨てなのかよ」
 と、あっけにとられた。長く松平側近のこの男は、今回の舞台唯一の激しい立ち回りを松平と演じている。いつもは暴れん坊将軍の松平と仇役の彼が丁々発止の殺陣でおなじみだが、長屋の住人と人買いの〝ぜげん〟という町人同士。組んずほぐれつの大乱闘を二人きりで、蓮池に沈められたり、脱出したり...の大騒ぎで、おしまいに真砂は雷に打たれて頭が変になる。
 「こんな体育会系の仕事は初めてだ」
 と、体のあちこちに打ち身のアザや小さいかすり傷を作りながらの奮闘である。芝居の続きみたいに、息も絶え絶えで楽屋に戻ってくるのへ、
 「お疲れさん、いやあ、いい出来だったよ、今回も...」
 と、毎回僕はねぎらい役。何しろこちらは町内の世話役で、松平・川中に上から目線でブイブイ言うだけの〝もうけ役〟だから、彼のココロの介抱は、時に、行きつけの居酒屋にまで続いたりする。
 終演後の食事は、松平、川中それぞれのお供をする果報や、舞台のお仲間、東京からの友人、在阪の友人...と、多彩な夜をほどほどのスケジュール。何だかこの稿、末尾は〝うかれ町報告〟めくが、昼夜ともに日々これ好日である。関西の梅雨入りは6月下旬の見通しとかで、照る日曇る日、気温までほぼ快適で居酒屋「久六」のお女将と大将の機嫌も上々なのだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ209

 弔辞に拍手が湧くなんてことは、ありえるだろうか? 葬儀における弔辞はふつう、故人の業績や人望を讃える。相手が成功者ならネタが多く、遺徳をしのんで哀調もほどほど。しかし、さほどでもない人を真面目な人がやると、形通りで社交辞令に上滑り。そのくせ長めだから参会者はうんざりする。弔辞が本音で、人物像に迫るケースはごく少ない――。

 俳優の堺正章はそれを、

 「あなたはいい事も悪いことも、沢山僕らに教えてくれた。そのうち悪いことの方が、とても魅力的だったけど...」

 と切り出した。会場はもうクスクス笑いだ。4月3日、東京の青山葬儀所で営まれた内田裕也の「Rock'n Roll葬」でのこと。故人は蛮行、奇行が多かったから、みんな思い当たる節が多い。

 「あなたはロックンロールを貫いた」

 と、内田の生涯を讃えたあと、歌手として長もちする秘訣を「ヒット曲を出さないことだ」と教えられた件を持ち出し

 「あなたは、それも貫きましたね」

 と語り継ぐ。事情を知らぬ向きには「皮肉」にも聞えようが、ロック界を主導しながらロックがビジネス化することを嫌い、ヒット戦線を度外視した内田の一念に、会場には同感の輪が広がる。

 以前、パーティーの席で、司会した堺がアントニオ猪木に

 「裕也さんに気合いを入れてやって下さい」

 と頼んだ一幕も出て来た。バシッとやられた内田が

 「30年ぶりにやられた。グラッと来たぞ」

 と言ったので

 「30年前になぐったのは、誰?」

 と聞いたら

 「樹木希林にきまってんだろ」

 と内田が答えた話になると、会場は大爆笑である。

 夫人の樹木希林が亡くなって半年後、延命治療も断わった覚悟の死を堺は

 「やっぱり希林さんに呼ばれたんです。だからと言ってついでに、僕らを呼ばないで下さい」

 と弔辞を結んだ。

 会場からは割れんばかりの拍手である。堺の弔辞は時に軽妙に、時に真摯さをうかがわせる話術の妙があった。相手が相手だから面白いネタは山ほどある。その一つ二つを披露しながら彼が語ったのは、内田裕也という先達への共感と、己れの信条を一途に"むき出しの人生"を生きた男への敬意だったろう。内田の享年79、堺は72才、堺にも真情を吐露できる年輪があった。

 この葬儀でもう一つ感動的だったのは、娘の内田也哉子さんの謝辞。結婚生活1年半で内田は家を出、40年余の別居生活を送った。也哉子さんが父と過ごした時間は数週間にも満たない。だから彼女は内田裕也という人を

 「ほとんど知らないし、理解できない」

 「亡くなったことに、涙がにじむことさえ戸惑っている」

率直である。父は自由奔放に生きて、恋愛沙汰も数多い。その時々、父の恋人たちに心から感謝を示した母と父のありようは、

「蜃気楼のようだが」

「二人の遺伝子は次の世代へと流転していく。この自然に包まれたカオスも、なかなか面白いものです」

 と、口調も終始淡々としていた。

 結びのひとことは

 「ファッキン・ユーヤ ドント・レスト・イン・ピース(クソったれ裕也、安らかになど眠るな!)ジャスト・ロックンロール!」

 エッセイストらしい冷静にして親密な表現で、ここまで心のこもった本音の謝辞を、僕は初めて聞き心打たれたが、会場からはここでもまた拍手が起ったものだ。

月刊ソングブック
 けいこ場に森光子からの差入れがドカッと届いた。
 「えっ?」「えっ?」
 「えっ?」
 と、怪訝な顔の勢揃いになる。それはそうだ。贈り主の森は亡くなってもう、ずいぶんの年月が経つが、あれ? まだお元気でしたっけ? なんて呟きももれる。去る者は日々に疎しの例えもあるか、それにしても―、
 「あの人は、こういうことが好きだったのよ...」
 演出家の石井ふく子が謎ときをする。江東区森下の明治座スタジオでけいこ中なのは、6月7日初日の新歌舞伎座公演「いくじなし」の一幕四場。平岩弓枝脚本、石井演出のこの芝居の初演で、森光子が主演したそうだ。昭和44年、歌舞伎座でのことで、
 「相手役は中村屋でね」
 と石井がさらりと言う。中村屋というと...と、僕は訳知りの林プロデューサーを頼る。答えは勘三郎で、先々代に当たるとか。
 話題の贈り物は「京橋・桃六」の折り詰め弁当である。しっかりした経木の箱に、こわめしと季節野菜の煮物、肉だんごなどが詰まった逸品。包み紙の印刷によれば「創業百年、当主は四代目」で「素朴な手づくり」が売りとある。
 「なるほどなあ...」
 と、僕らはあの世の森とその関係者の心づくしに感じ入る。休憩時間にさっそく賞味する者や、大事そうに持ち帰る者まで、反応はさまざまで、しばらくは森の人柄や仕事ぶりの話があれこれ。森との親交が長かったのだろう、石井の笑顔が優しくあたりを見回している。
 昭和44年と言えば、かれこれ50年も前のことだ。その時も演出担当の石井にとっては、愛着のある作品の一つなのだろう。今回の主演は松平健と川中美幸。中村屋と森とはキャラクターも芸風も違うが、こちらはこちらの風趣である。身振り手振りもまじえて、こと細かに演出する石井の胸中に去来するものは、ありやなしや...。江戸時代の裏長屋が舞台。そこで暮らす嬶天下の川中と、滅法気の好い旦那の松平のやりとりで話が進む。
 松平は周知の通り、威風堂々の見事な体躯の持ち主。暴れん坊将軍や大石内蔵助をやる彼を見慣れている僕と友人の真砂京之介は、
 「とても貧乏人の体格じゃないよな...」
 などと、小声のへらず口を叩いている。大変なのは川中で四場全部に出ずっぱり。大阪出身の彼女が江戸下町弁で、威勢のいい啖呵もポンポンやるが、単語ひとつひとつのイントネーションが違うのだから、苦心のほどがしのばれる。
 もっと大変...と脱帽するのは演出の石井ふく子で、6月明治座と新歌舞伎座の演出の掛け持ちである。それも同じけいこ場で、昼前後から3時間余を明治座の坂本冬美、泉ピン子主演の「恋桜」のけいこ。引き続き僕らの「いくじなし」に入る。「恋桜」は昨年、大阪でやったものの〝思い出しげいこ〟だそうだが、大劇場二つ用を一つのけいこ場に居続けで、しかも石井は僕より10才も年上と聞いた。その情熱とタフさは、驚異的と言わざるを得まい。
 その手前、恐縮の限りだが、5月25日にはけいこを抜けて、僕は早朝から芝のメルパルクホールに詰め切りになった。今年35回を迎えた「日本アマチュア歌謡祭」で、100人、2コーラス、11時間の審査の取り仕切りである。スポニチ在職中に事業の一つとして立ち上げたイベント。東日本大震災の年だけ自粛して、36年のつき合いだ。驚くべきことに岐阜の長岡治生というご仁は28回連続出場の71才。歌唱水準の高さで知られるこの大会でも群を抜く実力者で、今回はグランプリに次ぐ最優秀歌唱賞を受賞した。28年も毎年聞いていると親戚みたいな気分になるが、歌に滋味まで生まれているあたり、頼もしい限りだ。
 5月は並行して、秋元順子のアルバムと次作シングルをプロデュースしている。秋元が友人のテナーオフィス徳永廣志社長を頼った縁でのお声がかり。
 「その代わりにお前なあ...」
 と、大衆演劇の大物沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」のプロモーションを彼に頼んだ。これも僕のプロデュースだが、ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲の作品が、キャラと芸風にぴったりはまった〝昭和のおやじの最後っ屁〟ソング。沢がやたらに〝やる気〟でカッカカッカしている。
 それやこれやの後事を託して、僕は6月4日、大阪へ入る。やたら忙しいが、この節80過ぎの年寄りにすれば、ありがたいことこの上なしである。
週刊ミュージック・リポート
 ゴールデンウィーク明けから、せっせと江東区森下へ通っている。逗子から馬喰町まで横須賀線と房総快速の相互乗り入れで一本道、そこで都営新宿線に乗り換えて、浜町の次が森下である。行く先は明治座のけいこ場、6月7日初日の大阪新歌舞伎座公演のけいこだ。今年は役者の仕事が少なめで、この公演がいわば令和初。〝せっせと...〟とは書いたが、実情は〝いそいそと...〟の方が当たっている。
 芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」一幕四場。主演が川中美幸と松平健の特別公演で、新歌舞伎座開場60周年記念企画だ。ご一緒するのは特別出演の中村玉緒と鷲尾真知子、中田喜子、外山誠二ら石井演出作品でおなじみの面々。関西ジャニーズJrの室龍太が二枚目、友人の真砂京之介や瀬野和紀は松平組、川中組は穐吉次代、小早川真由と僕といった具合いで、顔なじみには荒川秀史や森川隆士がいる。
 葉山からドア・ツー・ドア2時間半弱、電車の中でブツブツせりふを繰り返しながら移動する。けいこ開始は昼の12時半だが、1時間30分以上前には主演の二人以外、もうほとんど集まっている。気合いが入るのは、演出家が大物のせいもありそうで、石井も間もなくけいこ場入りする。いつもは横着に甚平をけいこ着にする僕も、今回は浴衣に角帯をきりり。とは言っても、昨年3月の新歌舞伎座公演の時にお衣裳さんに頼んで、帯をつくりつけにしてもらってある。着脱ベリベリッ...と便利なものだ。
 素足に雪駄をつっかけて、
 「おい、六ちゃん、お前さん、さっき井戸端に居たから、話は聞いたろ...」
 なんて、僕のせりふはいきなり上から目線。それに、
 「へい...」
 と応じるのが主演の松平で、その隣りに川中がいて、こちらにもひと言という、大変な出番を貰った。舞台は江戸浅草は龍泉寺町の裏長屋。川中は鼻っ柱の強い女房お花で、松平はその尻にしかれっぱなしの行商人。季節が夏の真っ盛りなのに、井戸の水が枯れてしまって、急遽井戸替えにかかる騒ぎになる。町内の世話役甚吉の僕は、大家さん鷲尾にくっついて、人集めに歩いている筋立てだ。
 松平と川中は大変である、かかあ天下と気のいい亭主のやりとりが、江戸っ子気質でやたら威勢がいい。冷やっこい水売りは今が稼ぎ時だから、井戸替えには私が出ると言い出すお花と、因業な大家の口ゲンカが丁々発止である。この二人は隣人の家賃についても険悪なヤマ場がある。六さんは大家に謝ったり嫁を叱ったりで、またやりとりが口早にポンポン...。
 主役の二人がこんなにしゃべりまくるのを見るのは初めて。僕と友人の真砂はけいこ場の隅で、
 「大変だよなあ、お二人は...」
 などと、なかば案じながら、なかば面白がっている。おはなしを厄介にするのは、長屋へ辿りついたいわくありげな姉弟の中田と室の存在。姉が弟のために身売りを計り、それを止める六さんと女衒の真砂の立ち回りの原因になる。
 おなじみの「暴れん坊将軍」なら、松平の殿様と悪者の真砂の殺陣が見事に決まるところだが、今回は二人とも町人。せいぜい息を切らしながら、くんずほぐれつの取っ組み合いである。舞台に蓮の花が並んでいて、白いテープで四角に仕切ってあるのは、どうやら沼地。ということは、本番では水槽に本物の水が仕込まれていて、二人はずぶ濡れ、泥まみれになる安配だ。松平ファンはびっくりしそうな設定だが、本人は楽しそう。女衒役の真砂は、けいこから本当に息があがる運動量になる。
 それやこれやの時代劇裏長屋人情劇だが、僕の出番は三場でブイブイいうばかり。演出補の盛田光紀の指示で、立ち位置や歩く段取りが決められたが、演出の石井からはダメが一つも出ない。90才超の大ベテラン演出家の顔色を盗み見ながら、身勝手な芝居をやっている僕はついに、
 「ご注意を頂いていませんが、こんな感じでいいんでしょうか?」
 と、お伺いを立てることになる。演出家はにこりと、
 「いいですよ。貫禄があって...」
 の一言だけだから、当方はありがたいやら、不安になるやら。
 今回、それでも開放感十分なのは、芝居が江戸ものなこと。この劇場の川中公演はここ何年か、関西ものが続いていた。大阪で関西弁というのは、僕にとっては難行そのもの。冷汗三斗だった日々を思い返しているが、さて、行きつけの居酒屋〝久六〟の女将さんは、元気だろうか?
週刊ミュージック・リポート
 《ま、これも〝ゆうすけ〟らしい創作活動の一端か》
 そんな感想を先に持ったまま、山田ゆうすけ自作自演のアルバムを聞き始めた。「冬の鳥~高林こうこの世界を歌う」がタイトル。作詞家高林とゆうすけのつき合いは長い。二人は「シルクロード」という同人誌で知り合って、その25周年を記念した企てだと言う。
 「冬の鳥」「途中下車」「五条坂」「大阪ララバイ」「神戸メルヘン」「散り椿」「ぶるうす」「センチメンタルジャーニ」「枯葉の中の青い炎」「ラストタンゴ」と、曲目順にタイトルを並べれば、いかにもいかにも...の10曲。高林は関西の人で、友人の作詞家もず唱平に紹介されて僕も旧知の仲だが、寡黙だから詰めて話したことはない。それが―。
 歌を書くとなると、秘めた情熱がほとばしるものか、全体的に長めの詞に、彼女なりの思いがあれこれ、多角度に書き込まれている。表題曲はメロ先だそうだが、雪の駅で去って行く恋人の前途を、
 〽飛ぶなら高く、飛ぶなら遠く、飛ぶなら強く...
 と祈る男心もの。「償いは、美しく見送ること」と思い定めた恋の幕切れだ。
 「途中下車」は人生の息抜きの旅のひとときを描く。舞台は田舎町のひなびた宿。漬け物やホッケを肴に、銚子は3本。良い月と良い風を仲間に、男は往時を思い返す。優しい女がいた。悪だけど憎めない奴がいた。父親みたいに忠告してくれた人がいた...。
 《どこかで聞いたな、これは...》
 ひょいと思い出すのは、銀座のシャンソニエ。ここで歌っていたのは、歌を東北弁でやってのける変わりダネで、確か福浦光洋という人がこの作品を歌っていた。歌手歴30年余の年の功と東北弁が、人生を〝途中下車〟した男のひと夜を、味のあるいい歌にしていたものだ。
 アルバムに添えられたゆうすけの手紙には、
 「いろんな歌手に提供した作品や、書きおろしも集めてセルフカバーした」
 とある。それにしても歌っているゆうすけ本人が、
 「歌手としての力量はイマイチ、いやイマニだと思う」
 と正直なところがほほえましい。
 《ま、歌い続けりゃそのうち〝下手うま〟の境地に辿りつくケースだってあるさ》
 とこちらは、冷やかし気分になる。
 ゆうすけと会ったのは1998年に、彼が作曲家協会のソングコンテストでグランプリを取った時。選考会の座長だった僕と受賞者の間柄で、もう20年を越すつき合いになる。当時の受賞者で作曲の花岡優平、田尾将実、藤竜之介とゆうすけ、作詞の峰崎林一郎の5人組と「グウの会」を作った。「愚直」のグで、めげずに頑張れ! の意だったが、その後彼らはそれぞれに、歌社会にちゃんと居場所を作っている。
 ゆうすけはこのところ、ネット関連のビジネスやSNSを使うプロモーションで、独自の仲間やコミュニティを作る作業に熱中、それらしい手応えを感じているらしい。そんな才覚を買われて、作曲家協会事務局のIT関係の仕事を引き受けてもいる。各メーカーへの売り込みはもう諦めた様子。彼我の作品的乖離が大きいし、相手側の顔ぶれも組織も当初とは大きく変わっていよう。最近、白内障の手術をした66才だが「やりたいことをやる」にはいい年ごろだ。70才で舞台役者になった僕の前例だってあるではないか!
 話はアルバムに戻る。ゆうすけのメロディーは、フォーク系の穏やかさにポップスのヤマ場を作って、人柄なり。「大阪ララバイ」にはムード歌謡の匂いがあり「神戸メルヘン」は3連ものと、それなりの工夫をこらす。「五条坂」は老舗の陶芸店を守る女性が、去って行った窯ぐれを待つ切ない心情を歌う。高林の詞の「からだを全部耳にして」男を待つ切迫感と、曲の穏やかさのバランスが、聴く側にどういう味で届くものか? 「窯ぐれ」は「技術を磨くために、全国の窯元を渡り歩く職人」を指し「昨今はそんな職人も数少なくなっている」と、高林の曲目メモにあって、教えられた。
 ゆうすけのこういう仕事は、
 「トップダウンではなく、ボトムアップで仲間を増やしていく」
 のが狙い。今年はもう1枚、友人の作詞家堀越そのえの作品集を作るそうな。手間暇と経費もかかろうが、熟年の初志なら、こちらは双手をあげて賛意を表すことに決めた。
週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ208


  「地方区の巨匠」と呼びならわしている佐伯一郎は、すこぶる元気である。

 「聞いてみてよ」

 と届いたのが、自作の15曲ほどを収めたCD。本人や弟子が歌っているデモだが、いかにも彼らしい"昭和テイスト"横溢の作曲集で、どうやら誰かの歌で世に出したい希望のようだ。というのも――。

 脊髄の手術を繰り返して、車椅子が必要な暮らし。毎年恒例だった浅草公会堂コンサートも、大分前に閉幕した。体調はそんな風だが、演歌歌謡曲への情熱は衰えることがない。自分が無理なら楽曲だけでも一人歩きを!の一念が、各曲に添えられた歌詞の、彼流の筆文字ではねかえっている。僕とほぼ同じ年、そのエネルギーには頭が下がる。

 『飲んだくれの詩』『捨て台詞』『時化』『海峡の果てに』などというタイトルがズラリと並ぶ。いずれも未発表曲というが、昭和30年代後半から、彼が得意として来た世界とメロディーに、僕はニヤニヤする。昭和を見送り、平成も終わるこの時期だからこそ、彼は彼流の決着のひとつをつける気になったのか。

 今でこそ、地方に根を降ろして活動、インディーズの枠組にくくられる歌手は大勢いるが、佐伯はその"はしり"だ。静岡・浜松に蟠居、自作自演で人気を集め、育てた弟子には楽曲と芸名、歌う場を与えている。自前のレーベルまで持ち"東京望見"の意気で東海の雄になっていた。僕はもともと、テレビで顔と名を売るスター志望の"全国区型"だけが歌手ではないと思って来た。地元の歌好きと膝つき合わせて歌うタイプもまた、立派な歌手。だから東北に奥山えいじ、首都圏に新田晃也、名古屋に船橋浩二、高知に仲町浩二、福井に越前二郎などの友人が多い。

 ≪そう言えば佐伯は、一旗揚げに上京した若いころ、作曲家船村徹の弟子だった...≫

 と往時を思い返す。その船村は今年3回忌。僕は21日に代々木上原のけやきホールで「船村徹の軌跡」というトークショーをやった。一緒に出たのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会と、ギターの名手斎藤功。祥月命日の216日にグランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」では、司会をやった。船村と個人的な交友のあった人だけを招いたうちうちの会だったが、"うちうち"で参会者150人である。船村の人脈の広さと深さに、改めて感じ入ったものだ。

 「蒲田で芝居やっててさ、残念だけど行かれなかった」

 と言ったのは、大衆演劇のベテラン沢竜二。母親が座長で、その楽屋で生まれたというこの人は"生涯旅役者"を自称するが、九州から上京した時期に、船村の門を叩いている。声がかかって僕は"沢竜二全国座長大会"のレギュラー役者だが、彼にぴったりの楽曲『銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ』ではプロデュースを買って出た。お陰で中高年の紳士たちの支持が熱く、

 「ステージに出ると、紅白!紅白!の声がかかる。もちろん俺も出る覚悟だけど...」

 と、本人も俄然"その気"で歌い歩いている。

 昭和38年夏の初取材以来、知遇を得て僕の船村歴は54年にもなった。物書きの志と操を教わるよりは盗めで学んだいわば"外弟子"である。それが佐伯一郎とも沢竜二とも、出会いは別々だが結果同門の交友が長い。

 昨年、川中美幸公演で一緒になった女優安奈ゆかりは、何と佐伯の娘だった。ふっくら体型で、いい声の個性派。「縁」の妙の不思議な継がり方に、僕はうっとりしている。

月刊ソングブック

 今年最初の舞台は大阪・新歌舞伎座。松平健・川中美幸特別公演で6月7日初日、28日が千秋楽。

 芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」(4場)で、鼻っ柱の強い女房(川中)とお人好しの亭主(松平)が軸になる時代劇人情物語。舞台は下谷龍泉寺町の裏長屋。そこで起こる悲喜こもごもに首を突っ込む世話役、甚吉が僕の役。

 ご一緒するのは特別出演の中村玉緒に中田喜子、鷲尾真知子、外山誠二、友人の真砂京之介、瀬能和紀、関西ジャニーズJrの室龍太という面々。

 毎年、川中座長の新歌舞伎座公演は、関西もので、ご当地で関西弁の冷汗をかいたが、今回はお江戸ストーリーなので、内心ヤレヤレ・・・の気持ち。1カ月、老体に鞭打って、大方のご期待に応える覚悟でいる。


いくじなし

 久々に仲町会のゴルフコンペがあった。4月17日、名門の千葉・鎌ヶ谷カントリークラブ。西コースのスタートホールの第1打。ドライバーショットが自分でも驚くほど、よく飛んだ。
 「ナイス・ショット!」
 同じ組の作曲家弦哲也や後の組の四方章人、アレンジャーの南郷達也らから〝おほめ〟の声がかかる。その他の声には「えっ? どうしたの?」に似た怪訝の気配がにじんだが、
 《ようし! 大丈夫だ、この調子なら》
 と、僕はひそかに自分自身を励ました―。
 それなりのヒミツはある。前夜は一人、ゴルフ場近くのビジネスホテルに泊まった。葉山から早朝移動の体調ロスをまず避ける。次に「80才を越したんだから」と言い立てて、シルバー・ティーから打つ特権!? を獲得した。距離的に大分オマケがある。三つめは、亡くなった作曲家船村徹の形見分けのドライバー。まだビニールで覆われて未使用だったが、テレビの通販番組で〝驚異的飛距離〟と宣伝されている業物である。もっとも僕が、それを誇示するのはいい当たりの時だけ。チョロでは故人に顔向けが出来ない。
 「年齢なんて関係ねえよ」
 とうそぶいていたのは、70代後半まで。80才を過ぎたら〝思い込み〟と〝体調〟のギャップが、やたらに大きくなった。2月末に小西会コンペで遠征したボルネオ(マレーシア)では醜態を演じた。1ラウンド終わって、ホテルの部屋へ戻った午後、食事もそこそこに熱を出して寝込んだ。熱中症まがいで、まだ冬の日本から気温35度の現地、体の対応が追いつけなかった。病院へ連れて行かれて点滴を受ける。夜は一行の酒盛りに復帰するにはしたが...。
 「統領、タフだねえ」
 「80過ぎとは思えないよ」
 などというはやし言葉に、常々〝その気〟になったのは愚の極みと思い知った。その後だけに千葉の「ようし!」は、大事な体力の確認である。ゴールデンウィーク明けの15日から、6月の大阪新歌舞伎座公演のけいこが始まる。
 劇場開場60周年を記念した松平健・川中美幸特別公演で、平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」が第一部。浅草龍泉寺町の裏長屋を舞台に、気のいい水売り行商の六助(松平)とかかあ天下の女房はな(川中)を軸にした時代もの人情劇である。僕は町内の世話役甚吉という役を貰って、一場面だが両主役にからむ。年のせいで体にガタが来ていて...じゃ面目が立たない。
 セリフを一生懸命覚えながら、栃木・下野新聞の連載の書きだめをする。「続・素顔の船村徹~共に歩んだ半世紀」で、昨年1年間、月2本で24本書いたものの続編である。昭和38年の初対面以来、僕の船村歴は54年。知遇を得て密着取材、〝外弟子〟を称して鳥羽一郎ら〝内弟子5人の会〟には兄貴風を吹かせている。最晩年の心臓手術から文化勲章受章、亡くなっての通夜、葬儀、1周忌、3回忌の法要まで、ずっと身辺に居たから、ほとんど〝親戚のおじさん〟状態。書くべきネタは山ほどあり、しかも下野新聞は船村の地元発行紙だから、気合いが入らざるを得ない。
 5月分2本は入稿した。6月は大阪暮らしだから、あちらへ入る前に書いておこう。年寄りのぺいぺい役者が、公演の合い間に原稿書きなどもってのほか。ご一緒する向きが僕を〝二足のワラジ〟と知ってはいても、それに甘んじては芝居の世界のお行儀として最悪だろう。第一、資料のあれこれを宿舎のホテルに持ち込めば、大荷物を運搬することになる。
 昨年24本、今年24本の連載となると、合計すれば単行本一冊くらいの分量。それを船村メロディーの曲目ごとに書くのだから、こちらで数えれば48曲分。さて、どの歌にしようか、あれも書きたいし、これも捨て難い。誰もが知っているヒット曲ははずせないし、隠れた名曲もある。北島三郎を筆頭に、育てられた歌手たちにも触れておきたい。それやこれやに思いをめぐらせる日夜、亡くなった船村が、僕の脳裡からずっと居なくならない。
 「...という訳でさ」
 なんて言いながら、ドライバーショットをビシッ、時にチョロ。スコアは西コース49、東コース54の合計103になったが、ぴったりオネストで、僕としてはまずまずの成果。しっかりけいこに励み、その間に雑事もこなして、これなら元気に大阪へ入れそうと気をよくしている。
週刊ミュージック・リポート

「四万十川恋歌」

歌:仲町浩二 作詞:紺野あずさ 作曲:岡千秋 編曲:石倉重信

 

 競作の「孫が来る!」から5年、仲町の第2作シングル。もともとスポーツニッポン新聞広告局勤めのサラリーマンが、定年でプロ歌手になった変わりダネ。出身地高知へ通い詰め、キャンペーンに明け暮れていた。当然「第2作はいつ?」の声が出て、あせる仲町の「いずれ"四万十川恋歌"を作るから」と、タイトルだけ先行予告していた経緯がある

 満を持して!?の新曲で、作詞は同じ高知出身、星野哲郎門下の紺野に、作曲は「孫が来る!」を競作した岡千秋をわずらわした。60才を過ぎて念願のプロになった仲町は、親交を深めた地元の各メディア、有力者たちの応援を受けて見事に「地方区のアイドル!?」に育ちつつある。

四万十川恋歌

「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」

歌:沢竜二 作詞:ちあき哲也 作曲:杉本真人 編曲:伊戸のりお

 

沢竜二はご存知大衆演劇の雄。それが惚れ込んだ楽曲で何と、今年の紅白歌合戦出場を目指す。卒業した北島三郎より年上だから現役歌手の最年長。それがハンパない意気込みで歌い歩いている。

あいつらはみんな逝っちまったが、俺はあと何年生き残れる。あと何年、女にチヤホヤしてもらえる。あと何年、女房に大目に見てもらえる。命のローソク、最後の炎、俺は俺流に生きてやる、ワッショイ!

歌詞を沢が歌い、吼える。令和に年号が変わっても、変わらぬ性分、変わらぬ欲望をわれとわが身に突き合わせて、昭和おやじの快唱である。ワッショイ!ワッショイ!の掛け声で、呼応するのは熟年の紳士たち。みんな思い当たる節があって、「あのワッショイ!には、俺もかなわねえや」と、作曲者杉本も妙な太鼓判を押している。名残りのネオン街をとび歩くご同輩よ、時ならぬワッショイ!大合唱が聞こえたら、その騒ぎの中心に居るのは沢竜二だ!

銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ

 歌手井上由美子は近所のおじさんやおばさんから「パチプロ」だと思われている。理由はもうけの手堅さ。投資額は1000円代で、ジャラジャラ...と来ても深追いしない。台の選び方や球の打ち方などに、それなりの「手」はあるのだろうが、きちんと稼いで大損がない。
 大阪の藤井寺から上京、足立区や昨今の西小山付近などに住むが、なぜかそばにパチンコ屋がある。そこで打ったら最初からうまく行った。ビギナーズ・ラックである。
 「パチンコ台が私を見ている。少しサービスして〝その気〟にさせる気だな」
 と見た。うまく行かない時はさっさと家へ帰り、着替えをして入店する。自分を〝新顔〟に見せる細工で、これが図に当たったと言う。見ているのは台ではなく、その裏の店員の視線なのだろう。
 「沢山たまった球を、主として何に代えるの?」 と聞いたのは、明らかに愚問だった。答えが、
 「お金に決まってるじゃん」
 と来たからだ。獲得する金は全部生活の足しにした。プロ歌手になる前は、そんな暮らしが長かった。
 井上由美子は「演歌」の歌い手である。それに似合いの苦難の時期とエピソードもちゃんと持っている。しかし口調はやたら明るい。
 「中学3年の時、母と私は、藤井寺に居る必要がなくなった」
 両親の離婚が理由。そこで母子二人はすっぱりと大阪を捨てる。井上には歌手になる夢があったが、その方法について、知識もコネもない。とりあえず母もバイト、自分もバイトの日々である。ところが母が体調を崩したため、彼女は昼夜バイトのダブルで生計を支えた。文化放送の深夜番組「走れ歌謡曲」がやった新人歌手募集に応募、1年後にデビューする好機をつかむのは、一発勝負のいわば僥倖。それまでにカラオケ大会もオーディションも出たことはない。
 根拠のない自信家井上由美子は「チビ」である。この表現は人をおとしめるとして要注意だが、身長146センチ、足のサイズ21・5、童顔の彼女は「かわいい」と言われそれを売りにするのだから、使ってもいいだろう。もっとも彼女は子供のころから、コンプレックスを持ってはいた。しかし歌手になると、あちこちでかわいいと言われるために、自分の価値として再認識。昨年から年齢も非公開にした。容姿の説得力を保つ作戦である。
 恩人の名前が二人分出て来た。一人は元文化放送の玉井進一さん。応募した時に年齢制限越えを明記したら「正直でいい」とし、見た目を「かわいい」と評価して、歌手への道を開いてくれた。文化放送系の音楽出版社JCMの社長も務めた人だが、僕も親交がある人情家だ。もう一人は亡くなったアルデルジロー社長の我妻忠義さん。デビュー時井上を引き取ったプロダクションの主で、僕もこの人のお声がかりで役者の道へ入った。共通の恩人というのも縁の妙か。今は我妻氏の息子二人が事務所を引き継ぐが、何しろ井上が頼りの弱小プロ。そこで彼女は、
 「お金を下さい。事務所がつぶれちゃいます!」 と、舞台で叫ぶ会社こみの〝自虐ネタ〟をやり、爆笑を呼んだりするのだ。
 歌手井上由美子は「おもろい女」である。「パチンコ」に並ぶもう一人の趣味は「温泉」だが、長野の白骨温泉へ出かけた時など、2日間で12回もつかり、
 「お肌ツルツルを通り越して、パサパサになった」
 と笑い飛ばす。休みがあると飛んで行くのは伊香保の宿で素泊まり。コンビニでおにぎりなど買い込み、寸暇を惜しんでつかりまくると言う。
 それやこれやを僕はレギュラー出演中のUSEN「昭和チャンネル」月曜日の「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」6月放送分で、彼女と5時間近くしゃべり尽くした。相棒の歌手チェウニも笑い転げんばかりの長時間だった。
 井上が生来身につけていたのは、関西人特有の諧謔精神と、血液型Aの眼くばり心くばりのサービス。ボケよりツッコミの威勢の良さがある。目下彼女は新曲「想い出の路」キャンペーンに没頭しているが、僕はマネジャーに、
 「バラエティ番組に出せ、パチンコか温泉探訪のレポーター役を取って来い!」
 と注文した。まず顔を売る近道だが、さて我妻兄弟、どこまで頑張れるものかどうか...。
週刊ミュージック・リポート
 老練のシャンソン歌手出口美保は、粘りに粘った。以前にもこの欄で触れた大阪の作詞グループ「詞屋(うたや)」の歌づくり。メンバー各人の歌詞がほどほどに仕上がり、私家版のアルバム2作めにしようと企んでのことだ。作家・エッセイストの杉本浩平の詞「詩人の肖像」に、僕の友人の作曲家山田ゆうすけが曲をつけた。出口には前回同様サンプル歌唱を頼んだのだが、詞に注文がつき、曲に一部変更の相談が来る。
 《こうなりゃ、とことんやるか!》
 プロデューサー格の僕もハラを決めた。詞はそれまでに何度か手直し、タイトルもシャンソン風に変えていた。出口はその作品を「自分のレパートリー」にすると意気込む。それならば「試作品」を越える完成度を目指さなければなるまい。
 出口は関西のレジェンドである。シャンソニエを持ち、そこを中心に歌いながら、年に一度はフェスティバル・ホールでリサイタルをやる。いくつかの教養講座で教え、相当数の教え子たちもいる。それだけに彼女なりの世界をはっきり持っており、それにふさわしい言葉やそうではない言葉にも敏感だ。だから、
 「この部分はどうも...」
 「このメロディーはもう少しこうならない?」
 と、相談は細部にわたった。
 その都度僕は杉本と話し合ってまた詞に手を加え、山田に注文して曲の手直しをする。
 「すみませんねえ」
 と詫びる彼女。
 「いやいや、気持ちは判りますよ」
 と応じる僕。これまで僕は歌謡曲のプロデュースをいくつかやり、歌手たちの代表曲にした経験がある。相手がスター歌手でもこうと決めたら一直線。反対も押し切る我の通し方だった。それがこんなに手間暇をかけたのは初めてだ。
 出口の歌を聞いたのは、ずいぶん昔のNHKホールの「パリ祭」で、ズンと来る低中音の魅力と存在感をカラオケ雑誌の記事にまぎれ込ませた。ほんの数行なのに、それを読んだ彼女から連絡があり、東京でのコンサートも何度か見た。それを縁に詞屋の仕事につき合ってもらうことになる。
 詞屋のアルバムは文字通りの手づくりで、メンバーの研鑚の記念品であり、欲を言えば作品のプロモーションが狙い。府長と市長が入れ替わり、大阪維新の会がダブル選挙圧勝、ぶち上げる都構想...などとは全く関係ないが、
 「歌のコンテンツづくりが東京一極なのはいかがなものか、この際われわれが関西から発信したい」
 とする会の意気に感じて手伝って来た。4年前のアルバム第1作は思い思いの作品でコンセプト薄め。今回は「大阪亜熱帯」「ちゃうちゃう大阪」「ふたりの天神祭り」「ワルツのような大阪で」など、いかにも〝らしい〟作品が集まっている。歌詞に本音を書き込むのはむずかしいが、リーダーで演出家の大森青児の「おやじの歌」は、101才で亡くなった父君への思いが切々である。
 5月1日発売を目途にした作業。
 「それにしてもお二人、粘りますなあ」
 と会の面々に呆れられながら、締切りをかなり遅れ、見切り発車されそうな中で「詩人の肖像」は出来上がった、ピアノ一本をバックに、出口美保渾身の歌唱である。彼女も僕も、とうに80才を越えている〝老いの一徹〟だが、彼女はまだ、
 「いまひとつ歯がゆい」
 と、歌唱への未練を口にしている。
 詞屋のメンバーは、大森、杉本のほかに槙映二、丘辺渉、井美香、近藤英子ほかだが、正体は大学の先生、作家、進学塾のやり手など、異業種ではひとかどの面々。そこが面白そうだと、僕は時おり大阪の合評会に参加、年寄りの知ったかぶりでお尻を叩いて来た。会の弱点は作詞家ばかりで、作曲、編曲、歌もやる松原徹と曲の上原昇以外は作曲、編曲、歌手の仲間が手薄なこと。いずれ関西の有志を糾合...とその気になっているから会は第2期に入りそうな気配だ。
 「だから、歌い手がいまへんねん」
 「これはお似合いの作品と思うんやけど...」
 などと、冗談めかした視線に射すくめられて、酔狂な僕は杉本のもう一つの「古き町にて」を歌うことになった。作曲は大病の療養中だった有名アレンジャー前田俊明に依頼、女に振られたまま京都あたりで独居する熟年男の悔恨をしみじみ...という段取り。歌唱ばかりは口ほどにもないと、失笑を買うことは覚悟の上である。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ207

偶然ってあるものだと思った。なかなかに味なものだとも思った。2月にちあきなおみを2度も聞いたのである。もちろんCDとテレビの映像でのことだが、久しぶりに沁みたのは『紅とんぼ』と『紅い花』の2曲――。

 『紅とんぼ』にグッと来たのは、1日の代々木上原けやきホール。ここで僕は「巨匠船村徹の軌跡」の語り手をやった。共演したのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人組とギタリストの斎藤功。船村の歌づくりの足どりを、作詞家高野公男との時代、星野哲郎との時代を軸に辿った。

 『別れの一本杉』をはじめ、往年のヒット曲を内弟子たちが歌い、斎藤の妙技は『みだれ髪』で。美空ひばりや北島三郎のヒット曲はCDで聞きながら、船村の"ひとと仕事"のあれこれを、エピソード仕立てでしゃべる段取り。昭和38年の初対面以来、僕の船村密着歴は54年に及ぶ。話のネタも聞き直したい歌も、山ほどあった。

 高野、星野作品にしぼると、ちあきなおみがはずれてしまう。それでは残念...と、3時間余のショーの幕切れ近くに『紅とんぼ』を所望した。平成4年のNHKの歌番組を最後に、ふっつりと姿を消したままの歌手である。会場の人々も心なしか、かたずを飲む気配で聞き入った。昭和63年のシングル、まさにちあき円熟期の作品だ。

 それから4日後の25日、風邪の微熱がおさまらぬまま、テレビをつけたらたまたまBSテレ東のちあきなおみ特集に出っくわした。大流行のインフルエンザではなかった安堵もふっ飛んで、テレビの画面に正対する。"いい歌"ばかりの中で、待ったのはやはり『紅い花』だった。平成3年の新譜、めったに聞けない作品をそれもフルコーラス。彼女41才の収録とテロップに出た。こちらも現役最晩年、歌い手盛り、女盛りの彼女だ。

『紅とんぼ』は、駅裏小路の店が店仕舞するドラマ。常連だったケンさんやしんちゃんに、酒も肴も空にしていって、ツケは帳消し、5年間ほんとにありがとう...と、ママの一人語りが続く。歌うちあきの表情は、客への感謝が暖く、故郷へ去る身の寂しさで揺れる。3コーラス全部、最後の決めのフレーズが

 ♪新宿駅裏"紅とんぼ" 思い出してね...時々は~

 で、ここでちあきの顔はふっと真顔に戻った。はりつめんばかりの思いを表現、ちあきの全身がママそのものになっている。

 ≪演じるというレベルではない。これはもはや憑依の芸そのものだ≫

 1日にCDで聞いた歌を、5日に映像で見直して、僕はそう納得した。

 一転して『紅い花』は、熟年の男の悔恨がテーマ。ざわめきの中でふと、男は昔の自分を振り返る。思いをこめてささげた恋唄も、今では踏みにじられ、むなしく流れた恋唄になった。時はこんなに早く過ぎるのか、あの日あのころは今どこに...男はそんなほろ苦さをひとり、紅い花に託して凝然とする。ちあきのくぐもり加減にハスキーな歌声が、静かなまま激していく。情感は抑え込まれるからこそ生々しくなる。結果歌は、さりげなく熱い――。

 ずいぶん昔に居なくなった、一人の歌手の歌心を、こんなふうに再確認することもある。そして僕は二人の男の顔を思い出した。『紅とんぼ』も『冬隣』も、『喝采』も作詞家吉田旺の作品である。『紅い花』は、テレビの歌謡番組が花盛りだった70年代から90年代に、腕を振るった構成作家松原史明が作詞した。吉田は書斎型の物静かな歌書き、松原はこわもての言動に、あの歌のような維細さを秘めた物書きである。久しく会わない二人の近況が、しきりに気になったものだ。

月刊ソングブック
 いきなりびっくりするくらいの〝ゆうとコール〟である。赤羽会館1階の客席はほとんど女子。歌が始まれば一斉にペンライトが揺れて、そのリズム感もなかなかだ。3月23日夕、辰巳ゆうとのファーストコンサート。昨年末のレコード大賞最優秀新人賞ほか、いろんな賞を取った注目株で、2階席にはメディア関係者が相当数集まった。
 なぜか歌まで拠点が北区赤羽なのだ。
 《もしかして...》
 と思い返す。氷川きよしの初コンサートがここ。夜桜演歌まつりの発端もここ。双方見に行ったが、いずれも辰巳が所属する長良プロダクションの主催だった。ビクターの担当・菱田ディレクターに確認したら、拠点選びはやはり事務所主導である。先代の長良じゅん社長の遺志を、息子の神林義弘社長が引き継いでのことか。〝こだわり〟は時に、強い武器になる例だろう。
 「おとこの純情」「下町純情」「赤羽ものがたり」と、辰巳のレパートリーはみな明るく、テンポ快適。新人だから歌唱に荒けずりなところはあるが、それも活力に通じ、美男子ぶりが彼女らを酔わせる。歌の中身は今様青春歌謡で、
 〽叶わぬ夢を叶えるために(中略)ここぞと言う時一気に出せよ、やれば出来るさ、運も呼べ...
 と、若者を鼓舞するタイプ。
 僕の席は2階2E14。ショーの途中、辰巳の歌をごく小声でなぞる男が居た。前奏、間奏、後奏までの念の入れ方で、実に気分がよさそう、振り向けば後ろの席のハミングの主は作曲家徳久広司、隣りには作詞家久仁京介の笑顔がある。辰巳でひとやま当てたコンビが上機嫌なのだ。
 《そう言えば...》
 と、同じ月の17日、ザ・プリンスパークタワー東京で会った歌手藤野とし恵の迷いを思い出す。シングルを出すたびに、カップリング曲の方が評判になるらしい。タイトルで言えば「水無川」より「失恋に乾杯」で「路地しぐれ」より「私をどうするの」となる。メインは彼女らしい情緒艶歌、他方は前者がマンボ、後者がルンバだ。藤野は福田伴男・真子夫妻の「舞と食事と歌の会」にゲストで出ていた。福田氏は横浜の医師だが、山歩きと釣りとカラオケが大好きの粋人。夫人の真子さんは地唄舞いの本格派で、この夜は「雪」を舞った。僕は二人と長い交遊に恵まれている。
 地唄舞いの粛然、精妙のあとは、カラオケ達者連のステージ。2次会も含めて、みんなが軽快にノリのいい曲を選んでいた。よく見ると、熟年の歌い手の体が倍テンポで動いている。
 「そうなんだよな、近ごろは...」
 と、僕は藤野とうなずき合った。みんなが一心に歌を楽しんでいる。情緒だの情感だのをひたひたと訴えることは、かったるくなったのか? この節、若者にも熟年にも、娯楽の種類は信じられないくらいに増えた。庶民の生活は大いに様変わりして、生活感も変わった。その中で、演歌歌謡曲の哀愁に、自分の思いを仮託する味わい方など失われてしまったのか?
 暗めのドラマを聞かされるよりは、歌手と一緒にその場を楽しむ心地良さの方がいい。歌う側と楽しむ側が体を揺すり、手拍子を打ち、掛け声をかけ合ってひとときの〝まつり〟とする。そのためのツールとしての流行歌が近ごろは人気を集めやすいのか!
 そんなことを考えながら24日昼は六本木のREAL DIVA'Sへ、ゆあさみちるという新人のライブを見に行った。友人の作曲家花岡優平が手がけていて、
 《じゃあ、昼間から一杯やるか!》
 と誘いに乗った。これが何とも小気味のいい魅力の持ち主だった。中肉中背、短髪、黒いシャツブラウスで、キビキビと体がよく動き、歌の合い間のコメントも手短か。時おりシャウトする地声が強く、情緒的湿度よりは、活力を伝えて快活だから、
 「アイドル性があるな」
 と言ったら、花岡は一瞬けげんな顔をした。年齢が高めの層相手のアイドルだって、アリではないか。
 話は辰巳ゆうとに戻る。この青年は1曲ごとに数回「ありがとうございます」を繰り返した。客席を回るシーンなどその連発で、1ステージで150回くらいは言ったろうか。体の動きやコメントに氷川きよし似のところがあり、ファンに両手をひらひらさせるあたりは水森かおり似とも思えた。同じ事務所の先輩2人の、いいとこ取りをした賢さが、ごく自然なところが面白かった。
週刊ミュージック・リポート
 内田裕也はいつも「怒って」いたし「いらだって」いた。自分の考えにそぐわない事柄が多過ぎるし、それをアピールしても届かない無念がある。言動が粗野だから、主張ぶりは時に〝事件〟となって、世間の耳目をにぎわしてしまう。
 《そうじゃねぇんだよ、このタコ!》
 という鬱憤が、どうしても積み重なっていく。そういう一念と、蛮行、愚行に走ることの乖離を意識しながら、彼は彼流を押し通した。胸中にうずく含羞の美学など棚にあげたままだ。
 1981年、樹木希林との離婚届けの件もそうだった。夜遅く会いたいという電話を受ける。僕はその日のスポニチ編集の責任者で、手が離せないと言っても、きかない。仕方なしに、勤め先近くの東京プリンスホテルのバーで落ち合った。
 「離婚しました」
 が彼の第一声。夫人が同意したとは思えないから問いただすと、二人分の印鑑を勝手に押している。誰がどう考えても、そんな届けは無効だから、取り下げるように話したが、
 「渋谷区役所は受理した。決定だ」
 と強弁する。その足でハワイへ発つと言うので、僕は社の車で成田空港まで同行、説得を続けたが、「うん」とは言わぬままだ。彼の言う通り、事実は事実だからありのままに記事にした。
 案の定、大騒ぎになる。帰国後の彼と話して、友人の弁護士を紹介した。間違いなく敗訴になるにせよ、本人がマスコミ勢にもみくちゃにされ、またあらぬことを口走らぬように...のおもんばかりだ。
 10年後の91年、都知事選に立候補する件は、赤坂プリンスホテルの寿司屋で報告を受けた。政治への関心と、候補者選定の舞台裏への義憤が熱く語られる。こちらには止める理由もないから、翌日の立候補届け出に、仲間の記者とカメラマンを同行させ、取材した。選挙運動の期間中も破天荒な遊説に密着する。落選はしたが彼は、5万票超の支持を得た。
 長いつき合いがあった。ロカビリー・ブームからグループサウンズ・ブームまで、僕はジャズ喫茶や日劇のウエスタン・カーニバルなどを徹底取材した。異形の彼らの凄まじいエネルギーと熱狂するファンの姿を、世間は不良集団と指弾する。しかしそれは明らかに、新しい音楽や流行の波頭だったから、スポニチは支持し、僕はたくさんの記事を書いた。
 もともと僕は密着型の記者である。歌手の美空ひばり、作曲の??田正、船村徹、作詞の星野哲郎、阿久悠、吉岡治らがそうだが、相手が許してくれればとことんその懐に深入りして「ひとと仕事」の実情をきわめようとした。「密着」と「癒着」は違うのだ。内田の場合もそうなり、しばしば一緒に酒を飲む間柄になった。
 ところが相手は、ロックンロールと生き方考え方を表裏一体の魂と念じる男である。ロックがビジネス化することにも異議を唱え、憤懣やる方ないから、荒れた酒になることが多い。ゴールデン街ではいつも、彼をカウンターの一番奥に据え、僕はその手前に陣取った。居合わせた客の発言に腹を立ててケンカになると、僕は止め役である。口惜しがって彼は僕の腕を噛む。明け方、僕の右腕には彼の噛み跡が二つ三つ残ったものだ。
 あとになれば笑い話の、そんなエピソードは、いくつもある。しかし、それを笑っては済ませないほど、その時々彼はすこぶる真剣でなりふりかまわない。短絡的で衝動的に行動する彼との酒は、いつも危険物持ち込みみたいな緊張を伴った。右側二の腕に残った彼の噛み跡は、当時の僕の名誉の勲章だったかも知れない。
 駆け出し記者には、とうてい対応できる相手ではない。そのために僕は、スポニチに、〝裕也番〟の担当記者を置いた。晩年まで長く密着したのは佐藤雅昭で、文化社会部長もやったベテランである。2013年、彼の父親が亡くなった通夜に、内田が突然姿を現わした。何と葬儀式場は北海道の釧路である。こわもての内田の情愛の深さとおもんばかり、筋の通し方に僕は感じ入ったものだ。
 内田裕也は己の信ずるままに戦い「むきだしの人生」79年を貫いて逝った。胸中の核としてあったのは、樹木希林夫人の言う「ひとかけらの純」だとすれば、もって瞑すべき生涯だったろう。
 僕はこの欄の今年第1回から全部で、亡くなった人のことばかりを書いている。時代の変わりめに立ち会っている感慨がひとしおである。
週刊ミュージック・リポート
 「二度とない人生だから...」
 を冒頭に置いて、いくつかの心得が並ぶ。いわく―、
 「太陽や月、星に感謝して、宇宙の神秘を思い、心を洗い清めていこう」
 「風の中の野の花のように、命を大切にして、必死に、丁寧に生きていこう」
 「お金や出世より、貧しくとも心豊かに、優しく生きてゆこう」
 「残り少ない人生だから、沢山の〝ありがとう〟を言うようにしよう」
 箇条書きにそんな言葉が次々...。一部省略、一部割愛したが、これは亡くなった作詞家下地亜記子の信条であり、同時に遺言にもなった。
 親交のあった歌手真木柚布子は、病床の下地からこのメモを示されて胸を衝かれた。下地はこの時すでに、自分の病状の厳しさを知り、残された日々がそう長くないことを、予感している気配があったと言う。後に真木は、渡されたメモの重さに思い当たる。作詞歴40年、72才で逝った下地は、自身の生き方考え方、歌づくりの姿勢を総括、それを歌みたいな表現で、真木に伝えたのではなかったか!
 3月11日、中野サンプラザ13階のコスモルームで、真木は「下地亜記子先生との思い出ライブ」を開いた。「託された詩があり、伝えたい歌がある」をテーマに、3回忌の追悼イベント。彼女のファンや下地の知人、関係者など230人が集まった、こぶりのディナーショーである。その舞台で真木は、下地の遺言を朗読した。作曲家樋口義高のギター演奏がバックで、寄り添うように静か。
 《3回忌に、こういう催しもありなんだ...》
 2月16日に作曲家船村徹の3回忌の宴を、司会で手伝ったばかりの僕は、それとこれとを思い合わせる。船村の場合は、故人と親交のあった人だけを招いて、遺族の「アットホームな雰囲気に」という希望を満たした。一方下地の場合は、真木が下地作品を歌いまくる歌謡ショー。冒頭と幕切れに息子の下地龍魔があいさつをしたことだけが、それらしさの演出だ。
 ともかくにぎやかだった。曲目を挙げれば、お祝いソングの「宝船」から、本格演歌の「北の浜唄」「夜叉」「雨の思案橋」にコミカルな「ふられ上手」「助六さん」リズムものの「大阪ブギウギ」「夜明けのチャチャチャ」じっくり聞かせるのは歌謡芝居「九段の母」...である。劇団四季に居たこともある芸達者・真木のために書いたとは言え、下地の詞世界の幅の広さがよく判る。隣りの席に居たキングの中田信也プロデューサーが
 「売れ線ばかり作っても、おもろないもんねえ」
 と笑ったが、彼が主導したトリオならではの面白さが前面に出ている。
 下地は世渡り下手な作詞家だった。広告代理店のコピーライターから転じたと聞くが、歌謡界の表通りに出てはいない。それでは裏通りに居たかと言えばそうでもなく、コツコツと「自分の道」を歩いて来た人だ。決して器用な人だとも思えない。歴史ものにはちゃんと下調べをした痕跡があり、書いては消し、消しては書いた推敲のあとが歴然。歌の常套フレーズの中に、自分の言葉を書き込む粘り強さで、中には言葉山盛り、書き過ぎと思える作品もあった。安易に流れることを嫌った彼女の作詞術は、いってみれば力仕事で、出来栄えは〝おとこ前〟だったろうか。
 真木もまた、表通りではなく、自分の道を行く歌手である。先に書いた曲目がそれぞれシングルで発表される都度、
 《中田は一体、何を考えているんだ?》
 と、企画の蛇行、路線の見えなさに疑問を持ったものだ。それが過日、真木のコンサートを見て、眼からウロコが落ちた。趣きが多岐にわたる作品群を、巧みに並べ合わせた構成で、まるで「ひとりバラエティー」の面白さ。歌謡ひとり芝居も情が濃いめで、僕は不覚にも涙ぐんだりした。
 《彼女はそういうタイプのエンタテイナーなんだ...》
 と合点する。それは流行歌の歌い手だから、一発ブレークを念じないはずはない。しかし下地・真木・中田のトリオは、ヒット狙いにあくせくするのを避け、真木なりの世界を作ることにも制作の狙いを絞っていたということか。
 下地3回忌ショーの客席で右隣りに居たのが元JCMの岡賢一社長。森山慎也の筆名で香西かおりの「酒のやど」ほかのヒットを持つ人だが、 「この催しを決定的にいい会にしたのは、真木の誠意と歌手としての実力だな」
 と感嘆していた。下地亜記子ももって冥すべきだったろう。
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 元第一プロダクション社長岸部清さんの死は、淡路島で聞いた。2月11日、作詞家阿久悠の故郷のこの島で、阿久作品限定の大がかりなカラオケ大会「阿久悠音楽祭2019」をやったことは、この欄でも書いた。その大会が終わり、大盛会に気をよくした打ち上げで、ひょいと席をはずしたのが同行した友人の飯田久彦。戻るなり神妙な顔で囁かれたのが岸部さんの訃報だった。
 通夜・葬儀の日程はどうなったか...と、葉山の自宅へ戻ったら、スポーツニッポン新聞の後輩記者から電話が入る。岸部さんの人柄や業績についての問い合わせ。
 《そうか、彼らは岸部さんが元気だったころを知らないんだ。ま、戦後のプロダクション隆盛時代を作った、いわば一期生のせいか...》
 岸部さんの笑顔を思い出す。ぴんからトリオの「女のみち」の件になって、これは結局書かないだろうな...と言いながら、自慢話をひとつした。ある日、霞ヶ関の第一プロ社長室に呼ばれて彼らのテープを聞かされた。
 「どう思う?」
 岸部さんは「女のみち」の値踏みに窮していた。
 「三振かホームラン。限りなくホームランに近い。だけど、ひどい歌詞です。まるで素人でしょう。大当たりはするけど、作品論としてはイマイチもいいとこかな」
 僕はえらそうに太鼓判を押した。何といっても説得力が強力なのは、宮史郎の歌声。悪声の一種だが、だからこそ底辺の女の嘆き歌にビシッとはまっていた。森進一や金田たつえがそうだが、たぐいまれな悪声は、時として天下を取る魅力に通じる。
 大ヒットした。そのころ親しかった第一プロの若手、只野・島津両君が、嬉しそうな顔で、
 「社長がお礼に、台湾旅行に行こうと言ってます」
 のお使いに来た。「バカなことを言うな。はいそうですか、今回はようございましたねなんて、ノコノコ出かける訳はないだろう」と言下に断ったら、二人は虚を衝かれた顔をしたものだ。
 18日、青山葬儀所の岸部さんの通夜に出かける。葬儀委員長がホリプロの堀威夫最高顧問、副委員長が田辺エージェンシー田邊昭知社長とプロダクション尾木の尾木徹代表取締役、世話人がバーニングプロダクションの周防郁雄社長と、業界の大物が勢揃いだ。現役を退いて久しい岸部さんだが、この世界の草創期に名を成した人である。歌社会が総出の弔いになって当然だったろう。
 《ところで只野、島津はどうした?》
 立ち働く元第一プロの諸君を見回したら、
 「只野は大病をして動けず、島津は今のところ連絡がついていない」
 と、教えてくれる人がいた。親しかった分だけ、二人の不在には舌打ちしたい無念さが残った。
 帰宅したら届いていたのはザ・キングトーンズのリードボーカル内田正人の訃報である。「グッドナイト・ベイビー」のヒットで知られる日本の〝ドゥーワップ〟の草分け。小沢音楽事務所に所属、長い親交があったが、小澤椁社長も「グッドナイト...」他を作曲した異色の歌書きむつひろしも、亡くなってずい分の年月が経つ。
 内田は僕と同い年の82才。葬儀は近親者だけでやると聞くと、手を合わせる機会がない。むつひろしを弔ったのは平成17年の9月、「八月の濡れた砂」や「昭和枯れすすき」を書いた異才だが、最晩年は、がんの苦痛と戦っていた。その気をまぎらわせることと激励の意味も含めて、
 「最後に1曲、これぞって曲を書き残せよ。ちあき哲也に詞をつけてもらって、内田正人に歌わせるから」
 と、無茶振りをしたことがある。ところがそのころすでに内田は脳梗塞で倒れていて、以降長い闘病が続いた。そうこうするうちに親友のちあき哲也も旅立ってしまい、むつひろし最後の傑作曲は、宙に浮いたままになった。
 2月25日から僕は今ボルネオに居る。正確に言えばマレーシアのコタキナバルというところで、ハワイのマウイみたいな景観とリゾート施設が整う。連日30度の気温だが、昔の日本の夏みたいな過ごしやすさの中で、小西会の遠出のゴルフ・ツアー。ボルネオはもう10回近く通っているが、幹事長の德永廣志テナーオフィス社長が、
 「小西会もやばいよ。みんな年取っちまって、体調不良のいい訳ばかりだもん」
 と嘆く。結局参加者はゴルフの2組ほど。苦笑いしながら、平成最後の春、僕は遠のいていく昭和と、親しかった人々の友情を思い返している。
週刊ミュージック・リポート
 「仲間たちをなァ、大事になァ」
 これが亡くなった作曲家船村徹からのメッセージ。本人の筆跡で、遺影とともに祭壇に飾られた。透明のアクリル板仕立てで、背後の桜の花が透けて見える。その前には位牌と、生前愛飲した酒「男の友情」のボトルや愛用のグラス、周囲には春の花々が揃う。2月16日の祥月命日、グランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」でのことだ。
 業界の葬儀屋よろしく、数多くの作家や知人の葬儀や法要を手伝って来たが、
 《3回忌が一番むずかしいな》
 と常々思っていた。亡くなってまだ2年、大ていの遺族は喪失感が生々しい。それに引きかえ参会者の方は、去る者は日々にうとし...で、双方の偲ぶ心にギャップがある。ことに歌社会の面々は、仕事上の懸案事項があれこれあって、自然わいわいがやがやになりやすい。新聞記者時代の僕など、人が集まればネタ探しが最優先だったから、不逞のやからの見本みたいだった。
 「だから今回は、うちうち、アットホームな感じでやりたいの」
 船村夫人の佳子さん、施主になる長男蔦将包とその嫁さゆりさん、船村の娘三月子さん、渚子さんの意見が一致した。
 「判りました」
 と、その意を受けたのが、構成、演出など全体取り仕切りのボス境弘邦と、相談しながら飾り物や花の細工をしたマル源社長の鈴木照義と僕...と、いつものメンバーだ。
 そこで参会者名簿だが、生前の船村と個人的に親しいつき合いのあった人にしぼる。当然親戚の人々、船村の弟子たちの同門会、船村の故郷の栃木、コンビだった作詞家高野公男の茨城勢、後輩の作曲家と作詞家、薫陶よろしきを得た歌手たちということになる。レコード会社やプロダクション関係はごく一部になったから、後日、
 「何で俺が呼ばれなかったの?」
 と疑義を唱える向きには、境と僕の責任だからと謝ることにした。それにしても〝うちうち〟なのに参会者150人である。さすが巨匠船村...と、僕は感じ入る。
 もうひとつの〝それにしても〟だが、素人の僕に司会のおはちが回った。昭和38年夏の初対面以来、知遇を得て船村歴54年、物書きの志と操を習うよりは盗んだ外弟子である。ことに師の晩年は連日のように密着、船村家の番頭格になったうえ、ここ10年余は舞台で役者をやっていて、年も年だから、人前に出てもあがらないだろう...ということでご指名にあずかった。
 《ようし、それなら俺流に...》
 と境の台本を書き直して、本番前には栄養ドリンクなどを飲んだ気合の入れ方。
 来賓のあいさつは、船村の秘書係りまでを長く務めた浅石道夫ジャスラック理事長、船村の件ではこの人を絶対はずせない歌手北島三郎の二人だけ。それでも予定より15分押した。話したいことは山ほどある人たちだから仕方がないにしても、
 「あいさつが〝長い〟と言い切る司会者は初めて見た。僕なんか、口が割けても言えませんよ」
 と、本職の司会者荒木おさむに笑いながら激励された。万事この調子で、それが僕の〝うちうち流〟コンセプト。献杯の五木ひろしには
 「あいさつ、長くなてもいいよ」
 と声をかけた。伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」での船村との出会いから、師匠だった上原げんととのいきがかりまで、こちらも山ほどの思いを持つ。いつもは「仲間たちバンド!」で終わりの紹介だが、メンバー12人を一人ずつていねいに紹介、みんなに一言コメントを貰った。彼らが選んだ船村作品「みだれ髪」「柿の木坂の家」と、家族が選んだ「街路樹」「風雪ながれ旅」を演奏でしみじみと聴く。
 会場入って右側が、まるでフリーマーケット状態。背広上下が2点をはじめ、ジャケット、ジャンパー、コート、作務衣、帽子、ネクタイのセット、ぐい呑み等々。これが全部船村の遺品だったが、カラくじなしのくじ引きで、にぎやかな形見分けになった。お別れは例によって星野哲郎作詞船村徹作曲の「師匠(おやじ)」を関係者の感謝をこめて。歌ったのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会、送り出しの演奏は「宗谷岬」で、会場にも戸外にも、春の気配が濃かった。
 次の日、作詞家の喜多條忠から電話が入る。
 「司会、よかったです。船村先生より俺の方が、足が5センチ長いことが判りました」
 どうやらくじ引きで背広が当たり、帰宅してすぐに着てみたらしい。
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 淡路島に居た。2月10日から12日の2泊3日。東京からすれば南の方である。多少は暖かいか...と、のん気な旅は、羽田から徳島へ空路1時間20分、空港から大鳴門橋の高速を車で40分、島の中心部洲本へは案外あっさり着いた。しかし寒い。日本へやって来た例の史上最強の寒波とやらで、淡路島も例外ではなかった。
 その寒空の下、11日の祝日に120人ものノド自慢が集まった。洲本市文化体育館文化ホールは〝しばえもん座〟のニックネームがある。そこで開催されたのは「阿久悠杯歌謡祭2019」阿久の故郷の島で、阿久作品限定のカラオケ大会である。
 《そりゃ、手伝うしかないよな...》
 と、審査に出かけたのは阿久作品で数多くのヒットソングを作った飯田久彦、朝倉隆に阿久の子息深田太郎と僕。あの〝怪物〟とは、切っても切れない仲の男たちということになる。おまけにゲストは山崎ハコ。彼女は阿久の未発表作を集めたアルバム「横浜から」を出したばかりだ。
 天候の加減で欠席者が3人ほど出たが、ステージのボルテージは高かった。それぞれが歌う阿久作品は、傑作揃いである。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「雨の慕情」などはレコード大賞受賞曲だが、出場者たちは楽曲に寄り添い、ちゃんと〝自分の歌〟にしている。「街の灯り」を歌ったのは6人「聖橋で」が5人「転がる石」が5人...と、選曲が重なっても、歌唱は思い思いだ。参加者は中部、四国勢を中心に九州や広島、関東、東北からも。
 言い出しっぺの情熱家は実行委員長の山中敬子氏。阿久が育った五色町の出身で、小学校から高校までを同じ校舎で学んでいて、崇敬の念がやたらに熱い。服飾関係の仕事で成功、島内有力者たちと親交があるうえ大の歌好きだ。彼女の一念発起に呼応したのが島の歌好きたちと観光関係者で、全国的組織の日本アマチュア歌謡連盟の竹本雅男本部長が指揮を取った。それにしても100人規模の全国大会である。第1回を成功に導いた陰の努力は、なみ大ていではなかったはず。話の発端から陰でかかわった僕は途中相当に心配したが、打ち上げの席では十分に快い酒に酔った。
 成功の第一は、地元の人々の情熱、第二は参加者の歌唱の水準の高さ、第三は阿久悠の作品力の凄さだったろう。審査員席で僕らは歌われる1曲ごとに、阿久との親交のあれこれを思い浮かべた。120人近くの歌を聞くのはかなり難儀! と覚悟したが、それがそうではなくなった。100点満点で採点しながら、作業はけっこう楽しく、会場の人々の拍手も長丁場だが飽きる気配がなく、暖かかった。
 ホテルの部屋で、兵庫県淡路県民局が編んだ小冊子「俳句で詠む淡路島百景」に出くわした。その序文に、淡路島は古事記に伝わる「国生み神話」の中で、日本で最初に創られた「日本のはじまりの島」とされているという。
 《ほほう...》
 と新しい発見をした気分で、書中の作品を引けば、
 「この島の地球にやさし花菜畑」
 「神の島埋みつくして若葉かな」
 「胡麻干して淡路瓦の本普請」
 「島一つ黄金に染めて秋落暉」
 「流星に明かせし夜空島のもの」
 などが目につく。阿久が少年時代にかこまれた島の豊かな四季や、彼の鋭く旺盛な叙情的感性を育てた風景に接した心地がした。
 島のイベントに参加するには、当日の前後がどうしても〝乗り日〟になる。3日目の12日は洲本から阿久の通学道路などを辿って、五色町のウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)へ出かけた。ここには阿久作品を映画化した「瀬戸内少年野球団」のモニュメントや、彼の没後「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフにした「愛と希望の鐘」がある。ありがたいことに前日までとは一変したポカポカ陽気。眼下に新都志海水浴場、その向こうは青々と播磨灘である。土地の名産だった瓦を使った碑銘や、青銅色の野球少年像にからんで記念写真...と、阿久を偲びながらのおのぼりさん気分だ。
 瀬戸内海はいい。これなら周防大島で星野哲郎音楽祭、小豆島でゆかりの吉岡治音楽祭がやれる。3島の優秀者を集めて、後日「瀬戸内歌の王座決定戦」ってのはどうだ! と、僕らの夢はふくらむばかりになった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ206

 新年早々、まず聞いたCDは山田太郎の『やっと咲いたよなぁ』だった。

 ≪ふむ...≫

 いろんな感慨がいっぺんに胸に来る。まずジャケット写真の彼の笑顔だが、亡くなった父君の西川幸男氏に似て来ている。しっかりとカメラを見据え、ほほえんでみせる目許に西川氏を思い出す。戦後のプロダクション業の創草期、テレビ局寄りの渡辺プロ、ホリプロと一線を画し、演歌・歌謡曲で全国の興行を制した新栄プロの創業者だ。その生前に長く、僕はたっぷり過ぎるほどの知遇をこの人から得た。

 ≪歌がうまい、熟年の味か...≫

 山田のCDを聞き、一番だけでもそう感じる。中・低音に響く男の渋さ、高音部には晴れやかな明るさがある。二番三番と聞き進んで、歌に温かい情がにじむことに気づく。息づかいがたっぷりめで、夫婦歌の新曲に似合いだ。

 ♪生きる晴れ間に 見つめ合う それが夫婦の そろい花...

 と三番の歌詞が来て

 ♪やっと 咲いたよなぁ...

 と歌が収まる。苦労をともにした男女の年月をしのばせる詞は波たかし、聞き慣れぬ名だが原案は山田夫妻の実感か。作曲は岡千秋。この人も西川氏に認められ、無名のころからこの事務所の禄をはんだ。僕と同じ新栄育ち、二代目社長山田用に、初代へ恩返しのいいメロディーを書いている。

 ≪雀、百までって奴か...≫

 山田は西川賢の本名で、西川氏の跡目を継いだが、競馬界で名を成した。馬主会の大幹部で、このジャンルでも父君の仕事を受けて、長く働いた成果だ。その間歌手活動は減ったが、宴席などでは請われてよく歌っていたろう。「新聞少年」でデビューした少年時代からずっと親交がある僕は

 「金を取って歌っていた昔より、金を払って歌うこのごろの方が、腕が上がった。カラオケ様々だな」

 と冗談を言って笑わせたこともある。何はともあれ2月には全国馬主会の会長に就任する矢先の歌の現場復帰である。超多忙は想定内の新曲発表、それなりの覚悟はあろうと言うものだ。

 「聞いてくれた?」

 と本人から電話があったのは、昨年の暮れも押し詰まったころ。まだCDが届いてないもの...と答えたら

 「すぐ送るけど、クラウンは何をやってんだろ、全くもう...」

 とボヤいた。発売元のクラウンと新栄プロと僕と、浅からぬ因縁の仲なのにという残念さが言外にある。

 そう言われればそうなのだ。日本クラウンはコロムビアを脱退した実力者伊藤正憲氏を陣頭に、馬渕玄三、斉藤昇氏ら腕利きのプロデューサーたちが興した新会社。意気に感じた新栄プロの初代西川氏が、手持ちの歌手北島三郎、五月みどりらを移籍させて看板とした。コロムビアとの裁判沙汰を物ともせぬ男気。その間の男たちの連帯をテーマに、北島の『兄弟仁義』が生まれたほどの絆があった。クラウン設立は昭和38年、翌39年正月が第1回新譜の発売で、山田の「新聞少年」ヒットもここから。内勤記者から取材部門に異動した新米記者の僕は、当初からクラウンに日参して密着、レコード会社のいろはをここで覚えた。山田と僕はクラウン育ちでもある。

 「昔は昔、今は今。その気で頑張ろう!」

 山田の電話の最後に僕はそう言って笑った。何しろ55年も前の話、知る人ももう居ない。そう思いながらしかし、創業者や開拓者の志が受け継がれぬようで、一抹の寂しさは残る。温故知新の例えもある。新しそうなものばかりに、血道をあげていても仕方あるまい。

月刊ソングブック
 「お金が要るんです。お金をちょうだい!」
 歌手が舞台で大真面目に言うから、少々驚いた。客席からはクスクス笑いが起こる。それが大笑いにつながったのは次の一言。
 「会社があぶないんです。お金がないと、つぶれちゃうんです!」
 井上由美子の、いわば自虐ネタ。応援に来ていた歌手たちと爆笑、その後で胸がツーンとした。
 井上が所属しているのはアルデル・ジローというプロダクション。業界のやり手として知られた我妻忠義氏が興した会社で、その没後は二人の息子が引き継いだ。父親の代に川中美幸との契約を解消したから、今は井上が頼りの小さな事務所。この時期、諸般の情勢から、有名歌手を抱えた大手でも、そうそう楽な経営ではない。いわんや弱小プロにおいておや...で、歌手生活15年の井上にも、荷の重さが先に立つのか―。
 彼女のコンサートは、1月11日昼、品川・荏原のひらつかホールで開かれた。タイトルが「由美子さ~ん! 開演時間ですよ~!!」と風変わりで、幕あけ、映像の彼女は商店街でパチンコをやっている。そこへタイトル通りの声がかかって、自転車で会場へ駆けつける段取りなのだが、実物の井上は、自転車に乗ったまま舞台へ現れた。のっけからコミカルな演出である。
 「恋の糸ぐるま」「海峡桟橋」を歌い、メドレーでつなぐのは「赤い波止場」「片瀬波」「港しぐれ」「夜明けの波止場」に「夾竹桃の咲く岬」「城崎夢情 」「高梁慕情」...。残念ながらブレークした曲はないが、歌唱はそれなりにしっかりした演歌だ。サービス曲は「東京キッド」「ガード下の靴磨き」などが、ごく小柄な井上のキャラに合い、中島みゆきの「空と君のあいだに」やかぐや姫の「赤ちょうちん」杉本眞人の「冬隣」などは、歌手としての力量を問う選曲。
 井上はその間、ジョークの連発で、冒頭のギャグもそこで出て来た。僕らを仰天させたのはアンコールの「ダンシング・ヒーロー」で、歌のノリもさることながら、突然登場したキモノ美女軍団の踊りが見事にキレキレ。DA PUMPもEXILEもそこ退け! の激しさだ。聞けば彼女たちは向島の芸者衆で、井上と親しいつき合いだそうな。
 アルデル・ジローの先代我妻さんは、川中美幸ともども、僕を舞台の役者へ導いてくれた恩人。その息子たちの奮闘につき合うつもりで見に行った井上由美子だが、活路をひとつ見つけた心地がした。井上の歯切れのいい本音ジョークと、小柄でちょこちょこのキャラと、客の反応は、バラエティー向きである。ショーの演出も本人だと言うから、お笑いの素養は天性のものと見た。
 1月23日には「コロムビアが平成最後に放つ秘密兵器」がふれ込みの門松みゆきデビューコンベンションに出かけた。いきなりの注文が乾杯の音頭である。昔はこの種のイベントに乾杯がつきもので、乾杯おじさんの異名を持つ大先輩も居たが、近ごろでもそんなのアリなの...と引き受けた。門松が10年内弟子暮らしをしたのが作曲家藤竜之介の許で、デビュー曲の「みちのく望郷歌」も彼の作曲。作詞が石原信一と来れば、二人とも、いわば弟分のつき合いだから、やむを得まい。
 藤は20数年前から、花岡優平、田尾将実、山田ゆうすけ、峰崎林二郎とともに〝グウの会〟と名付けた飲み会を作り、僕が仕切っているお仲間。なかなかチャンスに恵まれなかった彼らに、
 「愚直に頑張ろう!」
 とお尻を叩いたのが会の名前のココロだ。一方の石原は、彼が大学を卒業したころからのつき合いで、当初はスポニチの常連ライターだった。
 「だからさ...」
 とステージで、僕が彼らの兄貴分なら、お前さんと俺は「おじさん」と「姪」の関係になると説明したが、門松はキョトン。委細かまわず僕の乾杯のあいさつは「親戚のおじさん」調になった。
 《そうか、内弟子10年ねえ》
 作曲家船村徹の内弟子、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が、同じくらいの年数を辛抱したのと親しいが、女性にも我慢強いタイプが居たことに、一種の感慨もある。門松は16才から藤の門下で、第一興商のカラオケ・ガイドボーカルを150曲以上こなしたという。地力の強さを感じさせる歌声で、新人だから多少荒けずりだが、のびしろはたっぷり、津軽三味線の弾き語りも披露した。
 特に演歌だからという訳でもなかろうが、近ごろ歌手たちの陰の人間関係にかかわることが多い。馬齢を重ねたせいか―と、少々ホロ苦さもある。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ205

 今年のレコード大賞の作詩賞は、松井五郎が受賞した。対象は山内惠介の『さらせ冬の嵐』と竹島宏の『恋町カウンター』の2曲。演歌ファンには聞き慣れぬ名前かも知れないが、この人はポップスの世界ではベテラン、相当な有名人だ。

 ≪よかったな。本人は今さら...とテレたかも知れないが...≫

 と、余分な感想を後半につけ加えたのは、彼が仕事を歌謡曲分野に拡大、新鮮な魅力を作っているせい。僕は山内惠介に書き続けたシリーズで、それを面白がって来た。構築する世界がドラマチックで、インパクトが強い。70年代以降、阿久悠が圧倒的に作りあげた境地に近く、山内のキャラを生かして、その青春版の躍動感があった。

 コツコツ歌っては来たが、作品に恵まれなかった竹島に悪ノリしたのも、松井の『恋町カウンター』と出会ったため。もしこの路線を続ければ、竹島は昨今勢いを持つ男性若手グループの一員に食い込む予感がある。民謡調の福田こうへい、演歌の三山ひろし、歌謡曲の山内惠介の新々ご三家に追いつき、ポップスの味わいで伍していけそうなのだ。この4人に青春ムード歌謡ふう純烈を並べれば、それぞれ個性のはっきりした集団がパワフルになる。世代交代の気運がある歌謡界で、先行する氷川きよしを兄貴分に見立てると、なかなかの陣立てではないか!

 128日夜、テレビで日本作詩大賞の生中継に出っくわした。同じ時間に別のBSで、弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人と出演、ワイワイ言ってるシリーズ「名歌復活」が放送されていたから、あっちもこっちも...の忙しさになった。作詩大賞の方に松井の顔が見えたから、レコ大と2冠になるといいななどと思ったが、結果は福田こうへいの『天竜流し』に決まった。万城たかしの詞で、作曲は四方章人である。

 万城は地道に頑張って来た人だから、おめでとうと言いたいし、これで作詞の注文が増えたりすれば、なおいいなとも思う。だからこの受賞に異議を唱える気はないが、新聞記者くずれの僕にはどうしても、新風を吹き込むエネルギーや知恵を期待し、歓迎する性癖が強い。松井の仕事を支持するのは、彼の作品には独特の着想が際立ち、それにふさわしい表現力を示すせいだ。恋物語とその成否は流行歌の永遠のテーマ。長い歴史でほとんど書き尽くされていそうだが、それでも見方を変え深彫りすれば、一色変わった作品が生まれる例もある。

 川中美幸が歌っている『半分のれん』がそのひとつ。作曲家協会と作詩家協会が共同企画するソングコンテストの2018グランプリ受賞作で、岸かいせいの作詞、左峰捨比古の作曲だ。舞台は居酒屋、登場人物は店の主らしい女と男客が一人。この設定には特段の新しさはない。それが、

 ♪のれんしまえば あなたは帰る 出したままでは 誰かくる...

 という女の思いから急展開する。きんぴらごぼうを出したり、問わず語りの身の上話をしたりして、女は客をひき止める。詞のとどめは、外の看板の灯をこっそり消し、商い札を裏返すあたり。こまかい細工を重ねて、女心のいじらしさを巧く表現した。深彫りさえすればこの手があったか...と感じ入ったものだ。

 真正面から松井流の大胆な発想が一方にあれば、ありふれた設定の中で、創意工夫を凝らす表現が他方にある。色恋沙汰は書き尽くされたかと思ったが、歌をありふれたものにしない粘り強さが、まだまだ活路を持っていて頼もしいではないか!

月刊ソングブック
 何かと屈託多めの新年、さて仕事だ、仕事...と切り替えて、CDをあれこれ聞き直す。胸の奥にツンと来る歌を選び出した。ブラザーズ5の「吹く風まかせ~Going My Way」と沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」の2曲。双方熟年の男の、成り行きで生きて来は来たが、さて...の感慨がテーマだ。80才を過ぎた当方も十分に思い当たる。前回に書いたが、星野哲郎の友人、北海道・鹿部の道場登氏を葬い、放送作家の杉紀彦や、元ニューハードのギター奏者で、浅川マキの曲を幾つも書いた山木幸三郎の訃報などが相次いだ1月、
 「う~む」
 と落ち込んだ矢先のことだ。
 〽あんな若さであいつも、あン畜生も、先に勝手に逝きやがって...
 と、沢の「銀座のトンビ」は友人を見送った男が主人公。〝あン畜生〟は少々乱暴だが、そう言えるつき合いがあったのだろう。残された主人公は、あと何年生きられるとしても、
 〽俺は俺のやり方で、お祭りやってやるけどね...
 とハラをくくる。お祭りというのは、女にチヤホヤしてもらえる、女房に大目に見てもらえる、暴れたがりな欲望を開放する...とノー天気。合いの手に「ワッショイ!」を繰り返して陽気に歌うが、居直りと言うか、自棄クソと言うか、面白くてやがて哀しい歌詞のココロが陰でうずく。
 作詞したちあき哲也は4年前に亡くなったが、僕にとっては〝あン畜生〟といいたいくらいの弟分、作曲した杉本眞人が大事なレパートリーの1曲として歌って来た。それに感動してカバーした沢は、僕より一才年上の大衆演劇の大物。作品の内容とノリに、思い当たる数々が彼の本音と重なって、
 「これはもう、俺の歌ですよ」
 と、気合いを入れてCDにした。年齢の割に声が若々しいし、役者だけに、やたら出てくる「ワッショイ!」のニュアンス分けもなかなかだ。
 ブラザーズ5はご存知だろうが、杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃が組むユニット。いずれも70年代のフォークシーンで、ブイブイ言わせた男たちが熟年に達している。資料の勢揃い写真も高山以外はズボンのポケットに両手を突っ込んで、あっぱれ不逞のおじさんムード横溢だ。
 4年ぶりのシングルは「君に会えて...会えてよかった」と「吹く風まかせ~Going My Way」で、作詞が石原信一、作曲が馬飼野康二。両A面扱いと聞くが、僕は後者に悪ノリした。こちらも歌の主人公が熟年で、
 〽恋でもひとつしてみるか、行き先なんて吹く風まかせ...
 とノー天気。沢の歌の舞台が「銀座のクラブ」なのに比べて、こちらは「洒落たカフェテラス」と少々若め。曲もカントリーふうに軽快で、5人組の音楽的出自が生きる。
 気に入ったのは、各コーラス収めの2行分で、
 〽Going My Way Taking My Time 変わりゆく時代でも、俺らしく生きるのさ...
 のコーラス部分だ。5人組が気分よさそうに歌っていて、おそらく聴衆もここで声をあわせるだろう。沢の方はきっと「ワッショイ!」に、ファンが怒号で応じるだろうと、好一対の愉快さを持っている。
 作詞した石原信一は、彼が大学を卒業した時分から、僕がスポーツニッポン新聞で作った、若者のページのレギュラー執筆者のいわば同志。そのつきあいが今日まで続いている。ひと回り年下の団塊の世代で、ばりばりの売れっ子にのし上がったが、僕にとってはやはり〝あン畜生〟の部類に入る親しさだ。その辺で、
 「そうか...」
 と気づく。沢の「銀座のトンビ」もブラザーズ5の「吹く風まかせ」も熱く共鳴し、たまらない気分にされそうなのは、団塊の世代前後から上の男たちだろう。2作とも絵空事のはやり歌に、作詞、作曲者と歌い手の、本音の部分が重なり、にじんでいるからこその説得力を持つ。
 CD商売は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のご三家が活躍した昔から、買い手の年齢層をどんどん下げながら、今日にいたった。しかし、若者の音楽嗜好も多様化、細分化した昨今、買い手の的の年齢層を高めにし、反響を下におろしていく手もありはしないか。もともとご三家以前は、はやり歌は大人専用の娯楽だった。そんなことも再認識しながら、両者をこの作品で、同じ舞台に乗せてアピールしてみたい―遅まきながら、それが僕の初夢になった。
週刊ミュージック・リポート

新年を挑戦の転機に

 「俺は今、こういうメロディーが書きたい」「私が書きたい詞はこういうものだ」――作家たちの意気込みが"こだわり"に聴こえる何曲かが揃った。歌い手の個性を生かし、あるいは進化を期待する思いが、その芯にあるだろう。
 新しい年を迎え、間もなく新しい年号に変わる。それを転機と捉え、歌社会の人々が創意工夫を凝らして挑戦するなら、頼もしい限りだ。はやり歌の拡散小形化や低迷を嘆くことなど、すっぱりと捨ててしまおう!

漁火街道

漁火街道

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
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 ジャジャジャジャ~ン...と伊戸のりお編曲の前奏が始まる。「おっ、大きく構えたな!」と、聴く側のこちらは身がまえる。
 作曲の岡千秋はこのところ「王道もの」を書くことに熱心な様子。今作も麻こよみの5行詞を、起承転結も彼流に、差す手引く手たっぷりめで「これでどうだ!」の気合いが入っている。絶唱型のメロディーだ。
 ヤマ場はサビの「ねえ ねえ あなた 今頃どこにいる...」の高音部。椎名佐千子の歌はここでめいっぱいになる。長く歌い込めば、彼女の代表作の一つになるだろう。

乱れ月

乱れ月

作詞:田久保真見
作曲:岡千秋
唄:角川博
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 「しゅら しゅしゅしゅ...」はどうやら、女がほどいた帯の音。それがまだ続いて、歌詞では「修羅 朱朱朱」と漢字表現だ。耳で聴くだけでは、そうとは判らないだろうに、作詞の田久保真見はこだわる。女の性は「修羅」そのもの、事実、三番でドキッとさせる。
 これも作曲は岡千秋。女唄では定評のある角川博を知り尽くしていて、その"極み"を狙った気配がある。この人も最近、妙に強気だ。
 角川は委細承知の歌唱、息づかいも巧み、歌の語尾に思いを託して、年期の芸を聴かせている。

初恋の詩集♡

初恋の詩集♡

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 作曲家伊藤雪彦もこだわる。弟子の三代沙也可の作品は一手引き受け、他人に渡したことがない。それが湘南を舞台の連作に一段落、今作に転じた。昔なら舟木一夫に似合うだろう青春叙情歌。三代の歌も初々しい。
 詞は志賀大介の遺作。三番に「夢よりも嘆きの歌ばかり」の一行がある。生前に彼は、自分の仕事にそんな苦渋を抱えていたのか?

散らず花

散らず花

作詞:坂口照幸
作曲:四方章人
唄:西方裕之

 作詞は名文句捜し、それを歌い出しに書ければ勝負が決まる。坂口照幸のこだわりは「やさしい男に女は惚れて、そのくせ訳あるひとに泣く」を一番の歌い出しに据えた。四方章人の曲のその部分を、西方裕之の歌は客観的に語り、サビの「いいのいいのよ」以降を主観的な嘆き歌とした。歌唱の微妙なサジ加減の妙を聴き取れば、楽しみが増す。

一番星

一番星

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:天童よしみ
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 チャカポコ賑やかな伊戸のりおのアレンジが、快適なテンポで進む人生の応援歌天童版。メロディーを軸に、しっかり声を張るタイプの曲をよく書く水森英夫が、こちらもそれが得意の天童に、この手のものを提供したのが面白い。
 世に出るのが新年の初頭に似合いそうで、天童も気分よさそうに歌って、ちゃんと彼女の歌にする。なかなかである。

望郷山河

望郷山河

作詞:喜多條忠
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
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 喜多條忠の詞は故郷の山河に「俺も男だ 負けないぜ」と、主人公の心意気が勇ましい。それを中村典正の曲はあえて〝望郷〟に軸足を置いた穏やかさ。三山ひろしの歌唱ものびのびのどかに聴こえる仕立て方だ。
 弟子であり娘婿でもある三山に賭ける中村の思いが、透けて見える。中、低音の響きを中心に、三山の〝男らしさ〟を前面に出す演出だろう。

愛は一期一会

愛は一期一会

作詞:たきのえいじ
作曲:弦哲也
唄:北原ミレイ
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 たきのえいじの詞は、彼流の〝愛の讃歌〟で、最愛の人を得れば、生きて行ける未来を「一秒先」までと真摯さを訴える。
 その序章4行分を、おおらかに語らせるのが弦哲也の曲。一転する次の4行で、女主人公の思いに切迫感を加えた。ポップス系のメロディーは弦の幅の広さを示し、大ステージで双手を広げて歌うミレイが、目に見えるようだ。

マンスリーコースの皆さんに
 一つの歌が生まれる陰には、かかわった人たちの"一生懸命"が必ずある。僕は1曲ずつにそれを捜し、応援の弁を書いて来た。これが僕の批評の骨子で、アラ捜しはしない。マンスリーニュースを担当したのは平成13年11月号からと言うから、丸17年間毎月。僕は沢山勉強をさせて貰い、多くの知己を得た。平成とともにこの号が最終版である。よいお年を!よい歌を!を、ごあいさつとしたい。(小西)

MC音楽センター
 「星野先生は、めんこいなあ...」
 と、それが口癖の男がいた。作詞家星野哲郎を見やりながら、少年みたいな眼をキラキラさせて酒を飲む。当の星野は温顔しわしわとテレ笑いしながら、杯を交わす。昭和61年から21年もの毎夏、二人はホテルの宴会場やバーで、そんな出会いを繰り返した。場所は北海道の漁師町・鹿部。相手は地元の有力者・道場水産の道場登社長だ。
 この欄にもう何回書いたか判らない。鹿部は函館空港から車で小一時間、川汲峠を越え、噴火湾の海沿いに北上したところで、人口4000。星野はそこで、定置網漁の船に乗って綱を引き、番屋でイカそうめんに舌つづみを打ち、昼は漁師たちとゴルフ、夜は酒宴の2泊3日を過ごした。海の男や港の女を主人公に、数多くのヒット曲を書いた〝海の詩人〟星野の、いわば〝海のおさらい〟の旅だ。
 実際に彼が東シナ海で漁をするトロール船・第六あけぼの丸に乗っていたのは、終戦後のわずか2年。病を得て海を断念、作詞家に転じたが、功なり名遂げてもなお、
 「海で一生を終わりたかった」
 と言うこだわりがあった。
 「僕は鹿部へ、心身に潮気を満たすために来ている。昔、船乗りだった僕から、いつか潮気が失せていたら、これ以上の恥はない」
 星野は〝鹿部ぶらり旅〟の本意をそう語ったものだ。
 一方の鹿部の人々には、知名人を招いて活性化を計る〝町おこし〟の狙いがあった。「21世紀を考える獏の会」のメンバーが、たまたま星野に声をかけたのは函館空港。ひょんな出会いが「海」と「男同志」をキイワードに、21年分もの友情で結ばれたことになる。その獏の会のメンバーで、星野の招へい元を買って出たのが道場登氏。20代で独立、たらこ専門の会社を興し「たらこの親父」の異名を道内にはせた立志伝中の人だ。それが大の酒好き、歌好き、ゴルフ好きで、あっという間に二人は肝胆相照らす仲になった。
 海の男の特徴は、寡黙であること。無造作に身軽なこと。さりげなさと完璧さを持ち合わせ、あ・うんの呼吸で心を通わせ合うこと。だから彼らは、自分の本能を信じて生き、自然、虚飾の部分はそぎ落とされている。星野の旅のお供を続けた作曲家岡千秋、作詞家里村龍一と僕は、星野と道場のとっつぁんの交友の傍に居て、そんなことを学んだ。乞われれば岡は「海峡の春」や「黒あげは」を弾き語りで歌い、里村は釧路訛りのだみ声「新・日本昔ばなし」なるブラックユーモアで、漁師とそのかみさんたちを大笑いさせた。
 星野が逝ったのは平成22年11月で享年85。僕らトリオは、驚いたことに、
 「お前らが、星野先生の名代で来い!」
 という道場社長の鶴の一声で、その後も鹿部詣でを続けた。行けば行ったで、払暁の釣りやゴルフ、昼からの酒である。ゴルフコンペにはずっと「星野哲郎杯」の横断幕が張られた。海の男のもう一つの特徴は、故人の追悼に心を砕く情の深さ。道場氏の場合はこれに、視野の広さ、心根の優しさ、無類の寂しがり屋が加わる。
 海の詩人と日本一のたらこの親父の友情に、ピリオドが打たれたのは今年1月5日午後だった。正月三が日は相変わらず飲んでいたという道場社長の訃報は、あまりにも突然だった。誤えんが原因の心不全。尚子夫人が気づいた時は、居間のソファに寄りかかる形だったそうだ。9日午後6時から通夜、10日午後1時からが葬儀。僕らは初めて冬の鹿部へ飛んだ。岡と里村と僕、それに元コロムビアの大木舜、作詩家協会の高月茂代と、僕の後輩でスポニチプライムの高田雅春が9日の便。高田は事あるごとに僕らのツアコンにされる。10日当日は、仕事で体が空かなかった星野の長男有近真澄の代理で由紀子夫人と星野の秘書だった岸佐智子がとんぼ帰りだ。
 葬儀は僕らがいつも宿舎にしたロイヤルホテルみなみ北海道鹿部のホールで、株式会社丸鮮道場水産の社葬として営まれた。ゴルフで顔なじみの男たちが、道場家長男の真一君、二男登志男君を中心に立ち働く。喪主の尚子夫人と長女真弓さんは気丈な立ち居振舞い、指揮するのは渡島信用金庫の伊藤新吉理事長で葬儀委員長である。読経は曹洞宗の僧侶が8人、ご詠歌は7人の婦人たち。焼香する人々は鹿部の人々全員かと思えるほどの列を作った。32人もの子供や孫、親戚の人々に囲まれて、道場氏の遺影は鹿部のボス然とした笑顔。戒名は「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」享年79だった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ204

 新曲の『片時雨』を聞いて「うまくなったな」と思った。もう一度聞き直して「いいじゃないか!」になった。岩本公水とはデビュー以来のつき合いだが、このところちょっとご無沙汰。そんな話をしたら編集部から「会ってみません?」ということになって――。

小西 いい歌だよな

岩本 私も初めて頂いた時、いいな、売れそうだなって思いました(笑)

小西 曲先だって? 岡千秋があれこれ考えて、これで行こうって強気になった気配だ。

岩本 岡先生は『北の絶唱』『雪の絶唱』に続いて、シングル連続3曲めです。3連演歌を2つやったから、今度は違うものをやろうと言って下さって...。打ち合わせの後がすごかったんです。

小西 どういうふうに?

岩本 事務所の近く、赤坂のカラオケ・ボックスに行って、あれ歌ってみろ、これ歌ってみろと...(笑)

小西 どんな曲を歌わされたのさ(笑)

岩本 岡先生の作品が多かった。『波止場しぐれ』とか『河内おとこ節』とか。今、これじゃないな、それじゃこれかなって。曲を入れたり、止めたりして下さって...。

小西 彼がそんなことまでしたの? マネージャーは何してたんだ?

岩本 居ません。岡先生と二人っきりです。

小西 危ねぇな(笑)。それでその後、飲みに行ったわけ?

岩本 はい。私、作家の先生にそこまで一生懸命して頂くのは初めてでした。それで...。

小西 どうなったのよ!(笑)

岩本 酒の歌をやろう。お前も40才越えて、芸歴も20年を越えたんだから、ギター演歌の王道をやろうって...。

小西 ちょっと待てよ。お前さん、もう40を越えたのかい? 20年以上になるのかい?(笑)

岩本 だって、吉岡治先生の『雪花火』がはたちの時でしたから。あれから23年になります。

小西 そうか、知らず知らずに、そんなに時が過ぎてたのか...(笑)

岩本 で、岡先生からは、飲んだ夜から2、3日で、デモテープが届きました。

小西 あのしゃがれ声のな(笑)。彼、歌も彼流にうまいもんだけど、すっと入れた?

岩本 はい。1回聞いただけでメロディー覚えました。ららら~って3番まで歌えました。

小西 そのららら~...に、詞をはめ込んだのが、いとう彩だ。

岩本 いとう先生も3作連続です。『北の絶唱』の時に、どうしたことか、私のステージをあっちこち見に来て下さってたんです。聞きましたら、興味がある、ずっと書いてみたいと思ってたって...。それならば是非ということになって、それから今度が3作めです。

小西 詞、曲ともに、いい縁があったってことか。歌づくりって、そういう情熱や思いがあらかじめあるってことが強いよな。酒場でひとり、別れた男を思う歌って、そんな体験があるのかどうか知らんけど(笑)ま、岡チンの思い通りに、年相応、キャリア相応の作品が出来上がった...。

岩本 自分自身で思うんですけど、歌い方が昔よりずっと素直になったなと...。

小西 俺たち物書きもあんたら歌い手も、率直なのが一番だね。気負いも衒いもなしに、すうっと真っ直ぐにね。それが何といっても本音に近い。『片時雨』のよさは、歌声の芯に岩本公水本人の思いがにじんでいること。歌詞で言えば3行めと4行めの頭の部分が、長めに揺れながら歌ってるあそこ。聞いてて気持ちがいい、歌ってて気持ちがいい。心地よく哀しいんだ。

岩本 気持ちがいいから、酔いがちになるんですね。レコーディングの時に、岡先生に言われました。「酔うのはお客の方で、自分が酔っててどうするのよ!」と。不思議に快いメロディーなので、ついつい...ね。それでハッ!と気づくんです。それ以来、酔い過ぎないように、酔い過ぎないように...と、毎日、頭に入れて歌っています。

小西 酔う、酔わない...の、そのギリギリのところがいいんだね。丸山雅仁のアレンジがまた、その気にさせるしな...。

岩本 ふふふふ...。

小西 俺さ、うまくなったな...と思ってたけど、こう話してみれば、やっと自分の背丈に合った作品に恵まれたんだと判ったよ。一時体調を崩して歌手活動を2年半も休んだ経験も、生きてるかも知れない。ところでお父さんは元気なの?

岩本 はい。元気で米づくりをやってます。一度歌手をやめて故郷へ帰ったころに、脳梗塞で倒れたんですけど。私を歌手にする夢が破れかけて、心が折れたのかも知れない。

小西 その看病をしながら、お前さん、ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級なんて資格を取ってる。休業中もちゃんと、やることはやってたんだ(笑)。

岩本 だって秋田での2年半、暇で仕方がなかったし...(笑)カラオケで毎日、ガンガン歌ってもいたんですよ(笑)

小西 陶芸も教室に行ってから、もう20年になる?

岩本 趣味だったんですけど、2年前に東秩父に窯を持ちました。

小西 プロフィールに「陶芸展」って欄がある。秋田や埼玉などで個展をずいぶんやって、公私ともに充実の平成時代だな(笑)

岩本 はい!()

 

 だいぶ前の話だが、銀座でばったり出会った。ちょうど蕎麦を喰いに行くところで「どうだ?」と聞いたら「うん」とついて来た。二人きりの時間も乙なものだったから、今度は「飲もうな」と誘ったら、やっぱり「うん」の返事。いずれ折を見て...の話だが、この人、人づきあいもやんわりと率直なあたりが、なかなかの熟女になっていた。

月刊ソングブック

石田光輝、元気なんだな!

 『半分のれん』というタイトルが思わせぶりで、逆にキャッチー。歌を聞いてその意味をほほえましく合点した。川中美幸が歌った作曲家協会と作詩家協会が募集したソングコンテストのグランプリ作。特段に目新しさはないが、よくある酒場風景でも、視線を変えたり、掘り下げたりすれば、「なるほど」の新味を作れる一例だろうか。そう言えば、カップリング作『ちゃんちき小町』の作曲者石田光輝は、昔、僕がかかわっていたころからの常連。米子で元気にやっていそうなのが嬉しい。

なみだ雲

なみだ雲

作詞:羽衣マリコ
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 2013年10月のマンスリーに、この人の『悲別~かなしべつ~』を〝うまい歌〟よりは〝いい歌〟と書いた。作曲家弦哲也が切り開いたドラマチック路線。以来ずっと弦の手腕と川野夏美の進化を追跡して来た。
 今作はシャンソン風味の2ハーフ。歌詞の4行ずつを序破急の〝序〟と〝破〟に仕立て、おしまいの2行を〝急〟より心持ち穏やかめに収めた曲づくりだ。面白いのは、芝居なら1番が第一幕、2番が第二幕のような歌唱の情感のせり上がり。川野の新境地には、羽衣マリコの詞、川村栄二の編曲が必要だったのだろうな。

春待ち草

春待ち草

作詞:石原信一
作曲:田尾将実
唄:走裕介
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 『流氷の駅』からもう10周年になるのか。走裕介のデビュー発表会に彼の故郷網走へ出かけたことを思い出す。気温30度のマレーシアから帰り、その足で流氷祭りへ。気温差40数度の厳冬に音を上げたものだ。
 作詞が石原信一、作曲が田尾将実の『春待ち草』は、再会した男女のほのぼのを語るスローワルツ。亡くなった師匠船村徹作品で、声と節を聞かせて来た走には、新しい挑戦になる。歌詞4行めのサビが、意表を衝くメロディーの展開を示すあたりが、走らしい聞かせどころ。船村の長男蔦将包の編曲がサポートしている。

ひとり象潟

ひとり象潟

作詞:麻こよみ
作曲:新井利昌
唄:花咲ゆき美
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 歌詞の1番で言えば「信じたくない 信じない」のサビから「ひとり象潟 あなたに逢いたい」の「逢いたい」を心の叫びにしたかったのだろう。風景を淡々と描く歌い出しから、そういう形に切迫した展開を示すのが、ベテラン新井利昌の律儀な曲づくり。花咲ゆき美の歌唱はよく心得ていて、彼女なりに女心の一途さを率直に表現した。

半分のれん

半分のれん

作詞:岸かいせい
作曲:左峰捨比古
唄:川中美幸
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 春日はるみの芸名で歌い、不発のまま大阪へ戻った川中美幸は、母親のお好み焼き屋で一時、看板娘だった。その時期の客あしらいを思わせる明るさと弾み方が、歌の前半にあって若々しい。それが後半一転して、好いた客と二人きりを願ういじらしさをしっかり伝える。なかなかの役者ぶりと言えようか。ソングコンテスト受賞作だ。

礼文水道

礼文水道

作詞:森田いづみ
作曲:岡千秋
唄:水田竜子
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 森田いづみの詞は、礼文水道あたりの景色をあれこれ見せて、連絡船に女心の未練を託す。情感を表すのはもっぱら岡千秋の曲と前田俊明のアレンジで、そのせいだろうが、水田竜子の歌の眼差しは、はるか遠めを見て明るい。「ひとり見つめる」とか「祈るおんなの」とか「揺れて彷徨う」とかの収めにあるキイワードが、表現のよすがになっていそうだ。

最終出船

最終出船

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:山口ひろみ
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 一般論だが、歌手の芸の〝しどころ〟は高音のサビの部分。それだけに、そこに到る歌い出しをどうクリアするかに苦心する。逆にその部分で魅力的な語り口を示せれば「うまいな」の第一印象が稼げる。山口ひろみのうまさはそこで点数を挙げ、サビもいなし加減に全開放しないところ。声を〝抑え〟て思いを〝突く〟唱法が、都はるみ調に聞こえた。

MC音楽センター
 「悲しい酒」から「愛燦燦」まで、ひっきりなしに美空ひばりの歌声が流れて来る。
 《文字通り歌声は永遠だな。彼女が亡くなったのは平成元年、その平成も30年の今年で終わろうというのに...》
 親交があった感慨ごと楽屋のモニターをのぞけば、踊っているのは大衆演劇の座長たちだ。12月12日午後の浅草公会堂、沢竜二が主宰する恒例の座長大会の第2部。
 「また芝居の話か?」
 と、うんざりされそうだが、これが今年、僕が出演した6本目の舞台。第1部が「大親分勢揃い」で、驚いたことに大前田英五郎、清水次郎長、国定忠治に森の石松、桶屋の鬼吉など、有名どころがゾロゾロ出て来る。演じるのが座長たちだから皆な二枚目。ただ一人馬鹿桂という三下で、道化る僕がチョイ役なのにやたらに受ける。お客が笑えるのはここだけという、沢の気くばり配役だ。
 というのも、新聞社勤めのころからの約束で、もう10年近いレギュラー出演。それにこの冬は、沢が「銀座のトンビ」を歌いたいと言うので、プロデュースを買って出てCDを作った。杉本眞人の作品で、彼が歌っておなじみ。老境のプレーボーイが「あと何年、バカをやれるか!?」とネオン街を飛び歩く内容だ。死んだちあき哲也が、杉本の年かっこうと遊び方ぴったりの詞を書いたのだが、これが沢にもモロに当てはまるうえ、何度も出る掛け声の「ワッショイ!」が悲喜こもごも、超ベテラン役者の味で何とも得難い。
 沢と杉本は最近ラジオ番組で合流、大いに盛り上がったそうな。
 「一緒に一杯やろう!」
 がこういう時の決まり言葉だが、新宿育ちの杉本が近ごろ通うのは銀座と聞くし、沢が根城にしているのは池袋である。そう言えばこの歌は、杉本が歌うと銀座っぽくポップス系で、沢が歌うと池袋ふう演歌っぽさがにじむのが面白い。いずれにしろ二人があちこちで、
 〽あと何年、女にチヤホヤしてもらえる...
 〽あと何年、女房に大目に見てもらえる...
 とぶち上げ、なかば自棄の「ワッショイ!」を繰り返す年の瀬、似たような老紳士たちが「ワッショイ!」「ワッショイ!」と声を揃えるか!
 美空ひばりの話に戻ればハワイでやったイベントから、息子の加藤和也と有香夫妻が帰って来た。和也はおなじみゴルフと酒の〝小西会〟のメンバー。葉山国際でやった年忘れコンペのあとで、酔った事後報告が愉快だった。ひばりのフィルム出演と生で競演したゲストが細川たかし。司会の女性と通訳の女性を、ステージ上で手玉に取ってのジョーク連発が大受けした。細川の歯に衣着せぬ毒舌と稀有のユーモア精神はおなじみだが、ハワイの人々は爆笑に次ぐ爆笑。すっからかんに晴れ渡ったハワイと根っから陽性な細川は、これ以上ない組み合わせだ。あげくに歌は歌で、おなじみの細川節でビシッと決めるのだから、ハワイの人々が溜息を下げる様子が目に見えるようではないか!
 美空ひばりと芝居とで、あとはどうなのよ? と聞かれれば、二足のワラジの僕はこの原稿をFAXしたあと、15日には加藤登紀子のほろ酔いコンサートに出かけ、翌16日は作詞家吉岡治の孫の吉岡あまなの大学卒業、社会人一年生のお祝いの会をやり、17日はレコード大賞の表彰式に出る。ひところ舞台裏のあれこれが不愉快で、
 「やってられねえよ!」
 と毒づいて縁切れになっていたレコ大だが、制定委員で久々の復帰。主催する作曲家協会が、弦哲也会長、徳久広司理事長以下、友人たちの新体制に変わってのお誘い。「昔の名前...」のお手伝い、夜は川中美幸ディナーショーに行く。
 時おり町で見知らぬ人から「テレビで見てます」と声をかけられる。BSテレビで盛んな昭和の歌特集に呼ばれて、年寄りの知ったかぶりをやっているせいだが、さて、平成が終わり昭和がもっと遠くなってどうするのか?
 「サザンと安室とピコ太郎じゃ、平成ものはしんどくなるねえ」
 と、きついことを口走りながら、迎える新しい年と新年号である。少々早めだがこの欄も今回が今年の最終回。来年はやせ衰えたイノシシよろしく、80才代の猛進を敢行する覚悟をお伝えして、ご愛読への深謝に代えます!
週刊ミュージック・リポート
 エレベーターを降りたら眼の前に、坂本九が立って居たので驚いた。まっ赤なジャケットを着て、おなじみの人なつっこい笑顔だ。等身大のパネルである。集まる人々が、彼をはさんで記念写真を撮りはじめる。その人数が次第に増え雑踏に近いにぎわいになるが、何だか穏やかないい雰囲気だ。12月3日夜の銀座ヤマハホール、知り合いを捜したが見当たらないから、僕はロビーの片隅のカウンターで白ワインなどをちびり、ちびり。そんな光景を見守ることになる。
 この夜、このホールで開かれたのは、「坂本九ファミリー ママエセフィーユ」という名の恒例のクリスマス・コンサート。出演者は坂本九夫人の柏木由紀子、娘の大島花子と舞坂ゆき子の3人で、2006年に始めた催しだから、もう13回めになるのか。今年は坂本の生誕77年を記念したスペシャル・バージョンという触れこみだが、どんな内容になるのか?
 《それにしても、彼女らは偉いもんだ。彼も本望だろうな...》
 坂本があの日航機事故で亡くなったのが1985年だから、もう33年になる。突然の死の悲嘆からやがて立ち直り、彼の魅力や実績を顕彰しながら、3人の女家族は、彼が生涯の仕事とした音楽で、人々を楽しませている。その追慕の思いの深さとその後の彼女らの自立した姿が、人々の心を動かすのだろう。年に一度だがそのために、毎回家族が趣向を凝らす手づくりな内容、つつましげに、決して大きくはない規模であることなどが、好感度につながるのか、チケットは毎回、発売と同時に完売するそうな。
 僕が招かれた席は1階G列10番、中央を横断する通路を前にして、足ものびのびと至極楽ちんな場所。横を見れば坂本がダニー飯田とパラダイスキングに所属した時代から、ヒット曲を制作したベテランディレクター草野浩二が居り、僕の右隣りには、その後の坂本の制作にかかわり後にファンハウスというレコード会社を興した新田和長が居る。彼は今日も坂本一家と親交がある相談相手の一人。左側の席へは柏木と親しい歌手の竹内まりやが飛び込んで来た。
 スペシャルバージョンの第1部は「ザ・グレイテストショーマン坂本九」で、さまざまな映像で彼が登場した。プレスリーを歌う彼、カントリーウエスタンを歌う彼、テレビでオリジナルヒット曲を歌う彼、舞台の「雲の上団五郎一座」に出演中の彼...。カラーにまじってモノクロ版も出てくるが、多くがテレビ番組の抜すいで、全盛期のテレビがエンターティナーとしての彼を育て、彼を必要としたことが判る。NHKの「夢で逢いましょう」に代表されようが、彼はテレビの申し子だった。ロカビリー・ブームの中から登用された才能だが、当時、若いエネルギーが炸裂したこのジャンルの人気者は、多くが異端の存在と目されていた。オトナ社会が彼らを〝悪い子〟と決めつけたとすれば、坂は穏健で陽気でみんなから愛される〝いい子〟の代表になっていはしなかったか?
 第2部は「ザ・グレイテストヒッツ~坂本九」で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」など、おなじみの作品を夫人と娘たちがこもごもに歌った。曲にあわせてファンが手をたたいたり、歌ったりと呼応して、ステージと客席が一体になる場面も。彼女たちの歌声越しに甦るのは坂本の笑顔と独特な魅力だ。
 「大きな存在を失ったんですよね」
 隣席の新田がしみじみした声音で囁いた。
 「そうだねえ」
 と、僕は同調しながら、坂本を支えた作家たちの顔も思い返す。作詞家の永六輔、作曲家の中村八大やいずみたくらで、彼らが坂本に強力な「作品力」を提供していた。歌詞の第一行がタイトルと同じで、全編が話し言葉という永の仕事は、新鮮で独特のロマンチシズムを持つ。それに応じて曲を書いた中村やいずみの仕事ともども、新しい日本のポップスの行く方を指し示していたろう。前衛と言えば言えたが、それが多くの人々に愛され、歌い継がれる平易な親しみやすさを持っていたことが得難い。
 僕がスポーツニッポン新聞の内勤記者から音楽を取材する担当に異動したのは昭和38年夏。28才の僕より5才年下の坂本は、すでにスターだった。彼の関係者もファンも、一様に親しげに彼を「九ちゃん」と呼んでいたが、幼いころ軍国少年だった僕には、人を愛称で呼ぶ習慣などない。インタビューでいつも「坂本さん」と呼ぶ僕に、彼はその都度怪訝な顔をしたことを今でも覚えている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ203回

 大衆演劇の大物・沢竜二と売れっ子編曲家の伊戸のりおが、文京区関口台のキングスタジオで待っていた。徳間ジャパンの梶田ディレクターと僕が合流する。104日夕、それぞれ旧知の仲だから「やあ、やあ」「どうも、どうも」になる。実はこれが一つの企画の顔合わせと細部の打ち合わせ、キイ合わせにアレンジの相談などを一ぺんにやる乱暴な会合。バタバタっと小1時間で万事OKになる。よォしっ!俺たちのお祭りなのだ、ワッショイ!

 『銀座のトンビ』という"いい歌"がある。ちあき哲也の詞で、杉本眞人が作曲、すぎもとまさとが歌って、一部に根強いファンを持つ。

 「あれをレコーディングしたいんだ。俺が歌うとやたらにウケる。みんなが、あんたの歌だって言うのよ。何とかならないかねぇ」

 沢から深夜の電話がある。この人は何かしら思いつくと即電話...のタイプで、大てい酔っており、年のせいか相当にせっかち。僕は東京で仕事仲間に会い、お定まりの酒になるから、湘南葉山に帰宅するのはほとんど深夜。午前さまがベテラン役者からの留守電を聞いて、折り返しのやりとりは翌日の午後になる。

 ≪『銀座のトンビ』なあ。なるほど彼には似合いかも知れない。さて、作業としてはどこから手をつけるか...≫

 そんな僕の思案は、ほろ酔いのベッドの中だ。

 ♪あと何年 俺は生き残れる あと何年 女にチヤホヤしてもらえる...

 夜の銀座をピーヒョロ飛び回る年老いたプレイボーイが、そんなことを言い出す歌だ。あと何年、俺は飲んだくれる、女房に大目に見てもらえる。友だちの多くは勝手に逝きやがったが、俺は俺のやり方でお祭りをやってやる。暴れる欲望のまま、ハッピーにド派手に、ワッショイ!

 すぎもとまさとのやんちゃなキャラと声味にぴったりはまる歌だ。いいコンビだったちあき哲也ならではの詞で、二人とも団塊の世代。人生どうにかここまで漕ぎつけて...の実感が歌い込まれるから、同世代の男たちがやたらに共鳴する。それぞれが最後のお祭りをやる気になる。ほろ苦く"来し方"を振り返り、傷つけちまった誰彼を思えば、少しもの悲しくもなりながら、ワッショイ!

 スタジオのキイ合わせで沢竜二が歌った。なるほど、いいね、いいね...の味がある。役者だから、歌も演じることになるのだろうが、歌声の芯に本音がのぞく。杉本やちあきよりも一回りは年上だが、しっかり共感の手触りがある。役者だから心身も感性もそのくらい若いのか、それもあろうが、作品自体が世代を越えて、最終コーナーに入った男たちの胸を打つのさ!

 「そういう訳だからさ、あんたの歌のポップス乗りよりは、歌謡曲寄りになるかも知れんけど...」

 と杉本に電話を入れる。

 「そうか、ありがたいことだねえ。あんたに任せるよ、うまくやって」

 相手の返答もお楽しみの口ぶりだった。

 「じゃあさ、こんな感じでエレキギターをメインに...」

 伊戸が、音楽的見地をひとくさり。そう、そう...と、ディレクターもはなから悪ノリ気味。そんな打ち合わせに沢が持ち込んだのが大きなポスターで、彼が主宰する恒例の「全国座長大会」用。今年は1212日、浅草公会堂だが、その隅に僕の写真も入っている。大衆演劇の名だたる座長たちに混じって、はばかりながら僕も長いことレギュラーだ。

 「そこで歌うよ、ウケるぞ、また...」

 「CDも間に合わせて、派手に即売だ!」

 あっと言う間にその発売時期まで決めちまった。沢も僕も80代、彼の方が一つ上だが「うまく行く時ゃこんなもんか!」と目顔でニンマリして、ワッショイ!だ

月刊ソングブック
「おお!」
 思わず僕は快哉の声をもらした。大手プロダクション、サンミュージックの創立50周年記念式典の写真を見てのこと。前列中央に相澤社長、森田健作千葉県知事と並んで名誉顧問の福田時雄さんの笑顔があるではないか! 〝業界現役最長不倒距離〟と敬意をジョークに託して、長い親交を持つ人だ。11月27日に撮影したものを、僕は翌28日付のスポーツニッポン新聞の紙面で見つけた。野村将希、牧村三枝子、太川陽介らこの事務所生え抜きの顔も見える。
 福田さんは昔から、僕ら新聞記者を大事にしてくれた。温和な人柄、歌謡界の生き字引きで、そこそこの酒好き、絶妙の話し上手...。思い返せばこの人とのひとときは〝夜の部〟の方が多い。レコード大賞や歌謡大賞が過熱していた昔、福田さんは陳情に全国を回った。審査をする民放各局のプロデューサーや新聞記者詣で。その先々へ転々と、彼のゴルフバッグが先行している話も聞いた。サンミュージックが各地にタレント養成所を持てば、その責任者としてまた全国...である。各地に福田さんファンが増え、情の濃いネットワークを作る。〝やり手〟だが敵はいない。
 〝永遠のNO2〟でもある。西郷輝彦のマネージメントを手掛かりに、先代社長の相澤秀禎氏とプロダクションを興した片腕。昔はNO2が独立、事務所を開く例が多かったが、福田さんは相澤社長の相棒に徹した。社長は松田聖子をはじめ、女性歌手を育てることに熱心だったが、福田さんは「それならば...」と、男性タレントの発掘、育成に力を注ぐ。森田健作は彼がスカウト、人気者に育て、やがて政界へ送り出している。
 もともとはドラム奏者。灰田勝彦のバンド時代、熱演!? のあまりシンバルを舞台に飛ばして、ボコボコのお仕置きを受けた話は、何度聞いても面白い。戦後の歌謡界のエピソード体験談で酒席は笑いが絶えない。西郷輝彦のバックに居たのがミュージシャンとしての最後の仕事。ある日西郷が「こんな感じで行けません?」とドラムを叩いてみせた。福田さんは4ビート、西郷の注文は8ビートだったから、福田さんは時代と世代の違いを痛感、即ドラムセットを売り、その金でスーツと鞄を買ってマネジャー業に転じた。
 人間関係もそうだが、飲み屋発掘にも鼻が利いた。業界のゴルフコンペでは前夜に現地へ先乗り、ここぞ! と決めた店で歓談、酒盛り、カラオケ...。お供は元コロムビアの境弘邦と僕だが、店の雰囲気も肴も、ハズレたことがない。最近「空振りばかりになった」と、ゴルフを卒業してしまったのが残念だが、僕の舞台は必ず見に来てくれる。終演後は小西会の面々ともどもお定まりの酒だが、こっちの方はまだ元気。
 「だいぶ腕をあげたが、さっと座ってさっと立てなくなったら、時代劇の役者は限界だよ」
 と役者の僕への助言もあたたかい。82才の僕より大分年上なのだが、友だちづきあいの眼差しが嬉しくてたまらない人だ。
 個人的な「おお!」をもうひとつ。11月18日、山形・天童で開かれた「佐藤千夜子杯歌謡祭2018」でのこと。歌どころ東北の人々がノドを競ったが「望郷新相馬」「望郷よされ節」「望郷五木くずし」と、かかわりのある〝望郷もの〟が3作も登場した。これは花京院しのぶという歌手のために僕がプロデュースしているシリーズで、カラオケ上級向けの難曲ばかり。相当に高いハードルを用意、歌う人に達成感を味わってもらう狙いがこんなところに生きていた。「...新相馬」が第1作で「...五木くずし」が最新作。長いつきあいの花京院には、
 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれだぞ」
 無名のままでも楽曲が財産とお尻を叩き続ける甲斐があったというものだ。
 この大会は日本のレコード歌手第1号の佐藤千夜子を顕彰、その故郷の天童で毎年開かれている。僕はもう14年も通って審査の仕切り役をやっているが、嬉しいことはもう一つ、この大会は地元ボランティアの人々だけで運営している手作りのイベントだが、その指揮をとるのが矢吹海慶という和尚。命がけの100日荒行を5回も完遂した日蓮宗の高僧だが、酒よし歌よしお人柄最高のくだけたご仁で、僕の天童詣ではいつからか、この人に会える楽しみの方が先になっている。
 矢吹師も福田さんも〝昭和の男〟の哲学と魅力山盛りの粋人だから、これを書きながら僕は「おお!」と3回も発する夜になった。
週刊ミュージック・リポート
 「まず、安室奈美恵をどうするかかな」
 そう口火を切ったら、関係者は「えっ?」という顔と、「そうか・・・」という顔になった。11月14日午後、代々木上原の古賀政男音楽財団の一室、開かれたのは「大衆音楽の殿堂」の運営委員会だ。この殿堂は昭和を中心に「歌謡曲、ポップスなどを作詩、作曲、歌唱、編曲、演奏した」人々を顕彰の対象にしている。これまでは各ジャンルとも相当なベテランばかりを選んで来て、若手はまだ参考リストにも入っていない。しかし、安室は〝平成の歌姫〟と呼ばれて、圧倒的な実績を残したうえ、今年引退しているのだから、リストに加えない訳にはいくまい。
  何しろ平成9年に発足したこの顕彰の第1回受賞者は西条八十、藤浦洸、サトウハチロー、古賀政男、服部良一、中山晋平、岡晴夫、東海林太郎、美空ひばり・・・と、もはや歴史上の大物ばかり23人だった。以来ずっと大衆音楽の歴史を追う人選が主。平成30年度は10名(組)で、作詞家は三浦康照、山川啓介、山上路夫、作曲家は北原じゅん、平尾昌晃、歌手はかまやつひろし、三条正人、デューク・エイセス、作・編曲家の服部克久、演奏家が宮間利之と、顔ぶれが大分今日風になって来てはいる。しかしこのうち三浦、山川、北原、平尾、かまやつ、三条は年度内に亡くなったのが追悼選出の理由だ。
  僕が参加しているのは、運営委で、植本浩財団理事長を議長に青木光一歌手協会名誉会長、民放連の青木隆典常務理事、飯田久彦エイベックス・シニアアドバイザー、中江利忠元朝日新聞社社長、永井多恵子世田谷文化財団理事長で元NHK副会長、前山寛邦コロムビアソングス社長に聖川湧が作曲家協会常務理事として参加する。そのそうそうたる顔ぶれに混じって、僕は例によって「年寄りの知ったかぶり」のお手伝いだ。
  この催しには別に選考委員会があって、主な審議はそちらが担当する。運営委は選考基準を確認。おおよその顕彰者数を決めるほかに、会としての参考意見を審査委に具申するから僕の安室案も出る幕があった。他にも何人かの候補を加えたが、いずれにしろ具体化は選考委にゆだねられる。
  《年寄の知ったかぶりなあ、最近はそんな役割が妙にふえた・・・》
  僕がほろ苦くなるのは、BSテレビ各局の〝昭和の歌回顧番組〟に呼ばれることが多いせい。歌謡界の名士たちの〝人と仕事〟について、あれこれコメントする訳だが、この種番組は再放送が多いからしょっ中出演しているみたいになる。11月10日に出かけた岡山・高梁のイベントでも
 「いつも見てるよ」「昨夜も見たぞ」
 と、熟年の紳士たちから声をかけられた。高梁に出かけた訳は、水害で被災した現地を慰問するチャリティーショーの手伝い。この地でロケをした映画「家族の日」の大森青児監督に誘われたのは、その映画にちょい役で出して貰ったのが縁だ。
 《それにしても・・・》
 と僕が少々不満になる。BSテレビも映画もありがたいが、ここ10年余は舞台の役者として精進している。その手前、
 「あれも見たよ」
   と言って欲しいのだ。今年など何と5本もの芝居に、それも相当にいい役で出して貰っているのだが、舞台となると観客数がテレビとは比べものにならないから、やむを得ないのか!
 そんな屈託をかかえながら、これを書いている翌日の15日には、レコード大賞の制定委員会に出席する。昔々、審査委員長を7年もやったが、以来ずいぶん長いご無沙汰をしていた。ところが主催する作曲家協会が弦哲也会長を筆頭に新体制になってのお声がかり。ここでも〝年寄りの知ったかぶり〟が役割か...と観念、いい年の瀬にしたいものだとその気になっている。
 話は大衆音楽の殿堂に戻るが、
 「安室を入れれば、若いファンがドッと来るよ」 と念押しもした。この顕彰、発足以来もう21年にもなり、古賀博物館に展示されている歌社会名士は283名(組)を数えるのに、認知度がいまひとつ。運営委員の一人としては、力足りずを反省しつつ、そろそろ陽動作戦に転じなければと口走ったりする。14日午後には今年の紅白歌合戦の出演者が発表され、15日にはレコ大の部門賞が決まった。さて、新しい年号になる来年の歌社会は、どういう展開を見せることになるのだろう?
週刊ミュージック・リポート

大きいことは、いいことだ!

 「どうです、最近の歌は?」と人に聞かれれば、その都度「痩せて来てるな」と答えた。カラオケ族狙いのチマチマした演歌が多い。手売りが主の歌手たちの活路など、理由はあれこれあろうが。
 それが決して悪いとは言わない。求める人がいればそれに応じるのもビジネスだろう。だが一方では、冒険作をじっくり聞きたい。スケール大きめのいい歌が聞きたい欲が残る。今回は坂本冬美の『熊野路へ』永井裕子の『ねんごろ酒』が出て来て、胸がス~ッとした。

長崎しぐれ

長崎しぐれ

作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:島津悦子
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 歌謡界に「都はるみの不在」がずいぶん長い。ふっつりと姿を消して、その後どうしているのだろう。三たび歌い始めることはもう、ないのだろうか?
 そんな思いが、歌書きたちの胸によどむのは判る。それなら彼女が残した世界を、オマージュして...という歌づくりも判る気がする。徳久広司が書いた今作がそれに当たっていそうで『大阪しぐれ』をもう一度...の気配が濃い。「あなた私で いいのでしょうか」を各コーラスのまん中に、かず翼の詞は実質4行詞ですっきりしてなかなか。島津悦子の歌もそれ"らしく"柔らかで優しい。

望郷ひとり旅

望郷ひとり旅

作詞:麻こよみ
作曲:宮下健治
唄:木原たけし
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 東京発・全国狙いで、メディアを賑わすタイプばかりが歌手ではない。地方に根をおろして東京を望見、独自の活動をする"地方区歌手"も存在感がある―と常々そう思っていて、浜松の佐伯一郎をはじめ、親交のある歌手が各地に居る。面識はないが木原たけしも、そんな歌手の一人と思っている。
 歌声の響きや語尾に顔を出す東北訛りが、いかにも岩手在住の味だ。麻こよみの詞、宮下健治の曲が、ひなびた伝統的路線で、それを生かす。故郷をしのぶ苦渋の歌なのに、妙にのびのびと明るめで、地に足つけていて頼もしい。

ふるさと太鼓

ふるさと太鼓

作詞:下地亜記子
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 歌手北島三郎も、原譲二を名乗る作曲家としての彼も、どうしてもこういう作品を歌い残したいのだろう。「日本列島四季折々に 愛と笑顔の花よ咲け」とばかりに、大衆を鼓舞する男唄。詞が下地亜記子の遺作なのもそれなりの意義を持っていただろう。82歳になったはずで、歌声は枯れているが、歌う背筋は伸びて、今年何と、4枚めのシングルにした。

熊野路へ

熊野路へ

作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
唄:坂本冬美
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 坂本冬美が故郷和歌山をテーマに、4曲を集めた作品のひとつ。吉幾三の詞、曲との顔合わせだ。テレビ番組企画で生まれたというのが『熊野路へ』で、古道を歩く女のひとり旅、別れた人への回想も行き止まる。若草恵の編曲が彼らしくドラマチックで厚めなのを背景に、冬美は小さめに歌い出し、やがてスケール大きめに収める。年輪を感じる一作だ。

ねんごろ酒

ねんごろ酒

作詞:荒木とよひさ
作曲:浜圭介
唄:永井裕子
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 詞が荒木とよひさ、曲が浜圭介だもの、タイトルから連想する類形タイプの歌ではない。詞が荒木らしく長めの8行、曲がいかにも浜らしく、粘着力と起伏に富む。それを永井裕子が、怖めず臆せず歌い切った2ハーフ。「ばか野郎が」を連発しながら、漁師町で生きる女の気風のよさを表現した。似合いの大作ふうで、裕子の力量が再確認されよう。

こころの灯り

こころの灯り

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:北野まち子
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 「今では遠い人」の面影を、「こころの道しるべ」にして生きる女唄。石原信一のそれなりの詞を、岡千秋がいかにもいかにも...の曲にした。幸せ薄い女を、泣くでもなく嘆くでもなく、北野まち子が妙にせいせいした味で歌っている。キャリアは長い人だが、歌声も節回しも、汚れず崩れずにこの人なりの世界。お人柄なのかも知れない。

MC音楽センター
 いつもまず〝最悪の事態〟を想定する。次に、そうならないための対策を幾つか。それを使って臨機応変、難儀をクリアすれば、まずほどほどに事は収まる。そんな習癖を僕は、スポーツニッポン新聞社で身につけた。整理部というセクションで1ページを任され、編集し紙面を制作する作業。集まる原稿の到着時間は、大てい希望的観測が基本だ。取材先の事情に左右されるし、記者には速筆遅筆の個人差がある。そんな実情はお構いなしに、締切り時間はケツカッチン、分単位のゆとりもない。
 ページに入れる原稿が1、2本遅れたら、即、紙面に穴があく。最悪の事態だ。そこで悪知恵が生きる。短い穴うめ用の記事をひそかに隠し持っていること。それがなければ、ありあわせの広告をぶち込む。大きいのから小さいのまで幾つか。使用済みの広告だから、金にはならないが文句も来ない。その手の物件を僕らは「アカ」と呼んだ。
 締め切り時間ごとに、そんなヒリヒリする作業を繰り返すが、最終版が終了すればあとは野となれ山となれ。ものが新聞だから文字通りの〝その日ぐらし〟で、明日は明日の風が吹くのだ。しかし、雑文屋稼業はそうは行かない。レギュラーの原稿は何を書くかで頭の中が終始チリチリする。対談をやればその整理があるし、飛び込みの仕事だと資料をあさる時間が要る。持ちかけられた相談事には、何人かの知恵を拝借しなければならないし、イベントづくりに参加すれば人脈の動員が必要になる。歌のプロデュースも3件ほど、役者兼業だから打ち合わせの間に科白を覚える。それぞれに最悪の事態を考え、いくつかの対策をひねり出すのだが、急を要する件と多少の待ち時間に恵まれるケースが交錯する。物事の順番が怪しくなり、頭がパンクしそうになる。
 《ダメだ。何日か逃げよう。そうしなければ、あれもこれも事が将棋倒しになる!》
 80才を過ぎてまだ仕事に恵まれる幸せをそっちのけで、何たる不心得! たまたま〝つれあい〟が4、5日休暇を取れることになった。短時間だからヨーロッパやハワイは無理。よォし、それならシンガポールか! あの屋上に舟が乗ってるようなホテルを取れ。遊覧船でレーザーショーを見る? ナイトサファリは月明りくらいの照明の中で、放し飼いの猛獣と対面するのか? プラナカン博物館? 何だそれは...。カニチリがうまそうだな。外国へ行ったら土地の料理を食するに限るぞ!
 そんな御託を並べながら5日ほど、シンガポールのおのぼりさんになった。つれ合いは現地でもノートパソコンで情報と首っぴき。疲れるだろうなそれも...と一切任せっ放しで、こちらは頭の中をカラッポにすることに集中する。昼間からカクテルを飲み、煙草にうるさい国と聞いたが、喫煙個所がやたらにあることに悦に入る。ただし、加熱煙草はご法度だから、久々に紙巻きである。
 ココロのセンタクが出来た気分で帰宅すると、愛猫の風(ふう)とパフは人見知り。留守電とFAXがたまっていた。さっそくそれに対応しながら、7日は大田区民ホール・アプリコの原田悠里コンサート2018を見に行く。昨年体調不良でドタキャンしたのを本人が覚えていて、
 「今年は大丈夫よね」
 と念を押されていた。「津軽の花」や「無情の波止場」がよくて新曲「恋女房」は師匠北島三郎作曲の夫婦もの。本人未体験の世界だが
 「ファンが、悠里ちゃんは俺たちの恋女房だからいいよ! なんて言ってくれるのよ」
 と、本人が悦に入る。。終演後、そのファンの群れにまじり、JR蒲田駅まで戻って急に回れ右、飲み屋横丁の〝筑前屋〟に飛び込む。生ビールに焼酎の水割りは5分5分の濃いめ。みそだれのモツ焼き1皿とびっくりするくらい大きなマグロのぶつ切り、とんぺい焼きで1時間弱。店捜しでは鼻が利く方だから、案の定うまかった。
 誘える顔は幾つかあったのに、1人で飲んだのは蒲田という土地に屈託があってのこと。その一つがスポニチ時代、人事の行き違いに怒って社を辞めさせちまった同僚の件。蒲田の彼のマンションに手紙を差し込み、慰留しようと近所の飲み屋で幾晩か張り込んだが会えぬままになった。生涯に負い目をかかえる唯一のケースだ。
 もう一つはわが家の菩提寺が、この町にある件。このところお仲間の通夜葬儀、法要などをせっせと手伝うばかりで、すっかりご無沙汰だから、そっちの方角に手を合わせてみたりした。この2件、新旧の〝最悪の事態〟で打つ手もない。
週刊ミュージック・リポート
 10月22日の月曜日は雨。翌23日火曜日は小雨。小豆島に居た。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の大きさ。映画「二十四の瞳」の舞台になったことや、有数のオリーブ産地として知られる。かつて、この島おこしのために石川さゆりの「波止場しぐれ」を吉岡治が作り、その縁で2000年までの5年間限定の、新人歌手育成イベント「演歌ルネッサンス」を主宰した。土庄港には歌碑や吉岡の顕彰碑などが建つ。
 羽田から高松へジェット機で80分、空港から高松港へ車で50分、そこから小ぶりの高速船で30分余の旅程。イメージよりは決して遠くはない距離で、資料などパラパラめくっていたらまたたく間に着いた。吉岡の演歌ルネッサンスの片棒をかついで、僕も毎年通った場所。顕彰碑には長文の〝いわれ〟を書き、その除幕式にも参加、島へ渡るのは6年ぶりという勘定になる。
 出迎えたのは、一連の吉岡ムーブメントを支えた島の幹部。20年近く前の初対面では、島の商工会議所のメンバーで、血気盛んな青年たちだったが、今では壮年から老境にかかる紳士たちの笑顔だ。メンバーの一人の寿司屋「弥助」で早速の酒になる。おやじが奮発した地元の魚を中心に、美味しいもの山盛り、亡くなった吉岡とのあれこれで席は大いに盛り上がる。
 そもそもは彼らが〝島おこし〟企画に、ご当地ソング制作を吉岡に直訴したのが事の発端。突然飛び込んで来た彼らの熱意に、吉岡がほだされて歌を書き、イベントを興した。彼には〝演歌おこし〟の期待が生まれて、二つの〝おこし〟が合流した経緯がある。それだけに詩人と島人との絆は尋常ではない強さ。??岡の没後10年が再来年になるのを機に、追悼と感謝のイベントをやりたいと、今回は〝直訴〟のおはちが僕に回って来た。
 「どうせやるなら、島外から大勢の人を呼べるものがいいよな」
 「それなら全国規模の歌謡祭、素人参加で歌うのは吉岡作品限定だ。ヒット曲は山ほどあるんだし...」
 「ゆくゆくは、吉岡先生の記念館も作りたいんだけど...」
 と、話がふくらみ具体的になる。その席にニコニコ参加していたのは、この欄でおなじみの「路地裏ナキムシ楽団」の主宰者田村武也とプロデューサーの赤星尚也。田村は作曲家協会弦哲也会長の息子だが、吉岡イベントの相談なのに、なぜ吉岡の息子天平ではなく彼が同席したのかについては、それなりの理由があった。
 島の有志を代表して、8月中旬に上京したのが小豆島ヘルシーランドという会社の柳生好彦相談役。広大なオリーブ畑を持ち、その実や葉などから開発したオリーブオイルや化粧品、健康食品など関連製品で成功した創業者だ。最近は会社を息子に委ね、もっぱら島の芸術、文化発展の諸策に奔走していて、話が吉岡イベントから「ナキムシ楽団」公演の招致に発展した。
 何とこの島には、1686年ごろに始めた農村歌舞伎用の劇場がある。舞台だけに屋根があり、客席は露天の段々。肥土山離宮八幡神社境内に位置、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。聞けば昔々は集落ごとにこの種の会場が30カ所もあり、小豆島は演劇文化の島でもあったとか。300年余の伝統の劇場と「青春ドラマチックフォーク」を標榜する新機軸の音楽劇のコラボ。来年が10回公演に当たるナキムシ楽団側も大いに血が騒いで、早速下見に! と、田村・赤星コンビが僕に同行することになった。
 肥土山劇場は茅葺きの屋根、木造で、改築、補強は続けたが姿形は昔のままで、樹々の中にうっそうとたたずんでいた。花道があり、人力で動かす回り舞台やセリもある。古色蒼然〝いにしえの芝居の神〟に守られる風情で、作、演出、作曲から歌唱まで、オールマイティの才人・田村の心が揺れぬはずはない。
 僕もこの場面では、吉岡イベントの協力者からナキムシ楽団公演のレギュラー役者に早替わり、武者ぶるいをするくらいに心を動かされていた。
 気がかりは舞台表裏の使い勝手や音響、照明などテクニカルな部分。その細部を検討する宿題は残ったが、来年秋にはナキムシ楽団初の遠征公演が「GO!」になる。招へい元の柳生相談役も「ようしッ!」の気合いの面持ちになった。
 小豆島1泊2日の旅で、二つの大仕事が決まった。それもこれも〝吉岡治の縁〟と〝絶妙の出会い〟のたまものである。僕は今月82才になったが、病気はおろかボケている暇もない。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ202

 最近はあまり使われないが、歌社会にバンド言葉があった。「サ~ケ」は「酒」「ルービー」は「ビール」「テルホ」は「ホテル」「ナオン」は「女」...と、単純なサカサ表現。テレビで芸人さんが「マイウー!」と叫んだりするのは「うまい!」の意で、たまたま生き延びている例の一つだ。

 ところがこの表現を正面から名乗る二人組が居て「ルービー・ブラザース」の湯原昌幸とすぎもとまさと。時おり気ままな歌づくりをして歌っていたが、最近4年ぶりに3枚目のシングルを出した。田久保真見作詞、杉本眞人作曲の『涙は熱いんだな』と、伊藤薫作詞、湯原昌幸作曲の『夕顔』というカップリング。ご存知だろうが、杉本は作曲者名は漢字表記、歌手名はひらがな表記で僕ら雑文屋は少々厄介な思いをする。

 『涙は熱いんだな』は、やせがまんをして生きて来た中年男が、久しぶりに素直に泣いた実感のおはなし。「男は泣いたりするな」と、昭和育ちの父母に教えられ、それを鵜飲みにして来た結果だ。田久保の詞は涙の理由に触れず「生きているから泣けるんだな」の感慨に行きつく。その分だけ、団塊の世代である二人が、幅広く"ご同輩"の共感を得ることになりそうだ。

 湯原はロカビリー・ブームの中から頭角を現わした歌手。杉本は少し遅れてフォークブームを体験、歌書きとして大成した。そういう意味では、昭和のポップス系育ちで、音楽的志向も含めて、ウマが合うのだろう。もう1曲の『夕顔』は、まるで終活ソング。ご時勢にさからって生きた奴が、宵に咲き朝に散る夕顔の花のいさぎよさに「教えてほしい、人の静かな終え方を」などと、伊藤薫の詞が言っている。

 平成も30年で最後、来年から新しい年号の時代が始まるが、昭和はますます遠くなる。折から2年後の東京オリンピックへ、取り沙汰は妙に騒々しい。そんな中でふと"来し方"を振り返り「判る、判るよ」「そうだよな」と、彼らより少し上の世代の僕も、ついつい"その気"にさせられてしまった。「涙は...」はゆったりめのワルツで、作風も二人の歌唱も、何だか気分よさそう。時流とのはぐれ方を辛がるでもなく、困惑する訳でもなく、率直なところがいい。

 秋口にはメーカー各社から、一斉にデュエットものが出る。もともとは年末年始のカラオケ宴会をあて込んだ企画。当初は男女が親しげに...のムード歌謡が多かった。最近はそれがスター歌手とお笑い芸人など、顔合わせの面白さが前面に出るサービス品になった。ルービー・ブラザースの今作も、そんな流れの中から世に出たのだが、少し異色で少ししんみりの形と中身が、なかなかに乙な味わいで目立っている。

 スポーツニッポン新聞社に在籍していた昔、遊びのグループの"小西会"に会社の仲間の一人を誘ったことがある。グアムかサイパンだったと思うが、ゴルフをやって夜は酒盛り。ところがその男が浮かぬ顔なので、翌朝「なじめないか?」と気づかったら「みんなは何語でしゃべっているんだ?」と不審がった。グループにはレコード会社やプロダクションの仲間も居て、シャレや冗談で使っていたのが、例のサカサ言葉。訳を話したら当人も面白がって話に加わったが、慣れぬ表現だから言葉をいちいち転換する様子が笑いを誘ったりしたものだ。

 社に戻った或る日、その男が僕を「ムウジョ」と呼ぶのに慌てた。「常務」のひっくり返しである。社内ではやるなよと笑ったが、以来ずっと彼は「ムウジョ」を通した。その男の名は八幡貴代一記者。一本気な"いごっそ"でいい奴だったが、あっさり先に逝ってしまった。ルービー・ブラザースは、そんな親友の顔まで思い出させたものだ。

月刊ソングブック
 月に一度がもう何年も続いているから、僕が今、一番頻繁に会っている歌手はチェウニである。USENの昭和チャンネルで、月曜日に終日放送中の「歌謡曲だよ人生は」のレギュラー同士。一回一人をゲストに、作家なら作品、歌手なら旧作から新作まで30曲前後を聞きながらの四方山話を5時間近く。一応台本はあるのだが、僕が気分本位、居酒屋ムードの対談!? をやり、チェウニはそのアシスタントだ。話の中で四文字熟語が出てくると、彼女の眼が点になるから説明、ちょっとした日本語教室になったりする。
 12月放送分を録音したのが10月15日、ゲストが松前ひろ子で、夫君の作曲家中村典正との関係が「夫唱婦髄」か「婦唱夫随」かになったから厄介。字面を見せれば判り易いだろうが、ものが有線だから説明がむずかしい。松前をおっぽり出したまま、
 「ダンナを指す〝夫〟という字があるだろ」
 「うん」
 「ご婦人なんかで使う〝婦〟という字がカミサンの意味もあってさ」
 「ワカンナイヨ」
 「判んなくてもいいよ。そのダンナの〝夫〟とカミサンの〝婦〟を入れ替えるとすればさ...」
 「ダメ、全然ワカンナイ」
 なんてやり取りになる。
 委細かまわず話をすすめて、
 「ところで、お前のところはどうだ?」
 とチェウニに聞いたら、松前がびっくりして、
 「結婚したの? 知らなかった...」
 と話の雲行きが変わってしまった。
 チェウニは実は、3年ほど前にNHK関係の紳士と結婚したのだが、別段内緒にしている訳ではなく、芸能人らしい発表をしていないだけ。情報的には〝なしくずし〟の新婚さんなのだ。
 「そうなの。実はうちもね...」
 と、松前が三山ひろしの結婚に触れたから、今度はこっちがびっくりした。歌手生活10周年、人気うなぎのぼりの彼が〝よもや〟の妻帯者と言う。奥さんが松前・中村夫妻の次女で、三山はきちんと交際のあいさつをし、3年ほどの期間を持って結婚したそうな。と言うことは歌手活動5年めくらいのおめでたで、彼がブレークした直後あたりという勘定。
 諸般の情勢をかんがみて内々のことにしたらしいのだが、
 「二人でハワイでも行って式をあげたら?」
 と松前が言ったら、
 「いえ、僕らはこのままでいいです」
 と答えたと、松前がしんみり〝義母〟の顔と口調になった。番組の録音中の発言だから、こちらも内緒にしている訳ではなく、特に公表をしていないだけらしい。この情報、知る人は知る伝わり方で、僕は単に初耳だっただけなのだろう。
 《そう言えば...》
 と、思い当たる節はある。6月に明治座で観た彼のコンサートは、トークに情が濃くなり、アイドル風を脱皮する気配があったこと。7月の新歌舞伎座公演の作、演出者池田政之から、
 「彼、芝居がうまくなったよ。ごく自然で...」
 と聞いたことなど。三山は上げ潮の中で公私ともに充実、しっかり地に足つけた境地に達しているということか。
 一方のチェウニも、彼女らしい安定ぶりを示す。9月28日にやったのが20周年コンサート。ブレークした「トーキョー・トワイライト」から、もうそんなに年月が経つのかと身内気分で観に行った。少女時代に一度来日してレコード化した「どうしたらいいの」の哀切感に、一目惚れならぬ一聴惚れして以来だから、僕のチェウニ歴は相当に長い。
 《韓国流の歌唱を油絵に例え、日本歌手の表現を水彩画とすれば、さしずめチェウニの世界はパステル系か...》
 などと一人合点した夜。終演後に元NHKのプロデューサー益弘泰男氏と一ぱいやった。僕がスポーツニッポン新聞社を卒業したら即、NHKBSの「歌謡最前線」2年分の司会の仕事をくれた恩人。USENの仕事もこの人のプロデュースで、相手役にチェウニを起用、僕らのトンチンカン問答を面白がっているのもこの人だ。スポニチ在籍中からしばしば声をかけて貰っていたから、僕は「益弘プロ所属」を自称している。
 この夜、僕の胸を撃ったのは、チェウニの
「死ぬまで日本にいるからね」
 の一言。決して結婚したためばかりではなく、彼女は歌い手として、日本に骨を埋める覚悟を決めているのだ。
週刊ミュージック・リポート

女流二人をヨイショする

 仕事柄が気になるから、ずっと追跡している作詞家が田久保真見。すっかり売れっ子で、実に幅広い歌世界を構築しているが、詞の〝醒めた視線〟は独自でしぶとい。その醒め加減が、歌の酔い心地とどうバランスを取って行くのかをあやぶんだのだが、こう多作になっているのは、制作者たちが認めているということか。最近気になるもう一人は朝比奈京仔という人。こちらは流行歌らしい酔い心地の程の良さで、独自のフレーズを捜している気配があってが楽しみだ。

海鳴りの駅

海鳴りの駅

作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:大月みやこ
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 ああ海鳴りよ、波の慟哭よ...と来た。慟哭なぁ、歌言葉としてなじむかどうか? 字で見れば判るが、耳で聞いてそれと伝わるか?と、余分なことを一瞬考えた。その後で昔、「あなたの過去など...」の「過去」に菅原洋一が疑義を訴え、なかにし礼が突っぱねたケースを思い出す。結果あれは、あの歌のヘソになった。
 作詞家田久保真見の冒険である。女性の離別を相変わらず醒めた表現で描いて、2番にそれも出てくる。さて、どう歌いこなすか...と、大月みやこはひと思案したことだろう。

残花(ざんか)

残花(ざんか)

作詞:朝比奈京仔
作曲:小田純平
唄:山本譲二
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 こちらはタイトルからして「残花」である。許されぬ恋だが、どうしても散れない思いをはかなく白い残花に託した。残花は一体何の花かは触れない。
 鳥羽一郎の『儚な宿』を聞いて、悪乗りヨイショをした朝比奈京仔の詞。泣いて泣いて涙に溺れる女心ソングだが、相手や境遇を恨んだりしないところが、ほどの良いこの人流。男にひかれて、底なしの沼にはまっている女に聞こえる。それを委細かまわぬ曲に乗せたのが小田純平。ひと思案したろう山本譲二は歌い収めの「残花」の部分でドスを利かせた。

男の火花

男の火花

作詞:秋浩二
作曲:筑紫竜平
唄:大川栄策
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 タイトルも中身も、勇ましげな大相撲ものの詞は秋浩二。3番など「天下無敵の押し相撲、大和魂のど根性」と来る。それを筑紫竜平のペンネームで、大川栄策が作曲して歌う。
 面白い対比だと思う。曲も歌も、勇ましくも男っぽくもないのだ。大川は自分の声味と節回しを優先して、のうのうと、いかにも彼らしい世界に仕上げてしまった。

京都 ふたたび

京都 ふたたび

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:多岐川舞子
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 そうか、多岐川舞子の歌手歴も30周年になるのか。そこで出身地の京都を舞台に、もうひと花咲かせようということになったのか。麻こよみの詞がソツなく、愛した男との再会を喜ぶ。「つなぐ手と手の二寧坂」に収まるハッピーエンドだ。作曲は徳久広司。歌手に余分な思い入れや技を持ち込ませぬ徳久流が舞子の歌を率直に素直にしている。

恋女房

恋女房

作詞:木下龍太郎
作曲:原譲二
唄:原田悠里
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 ここのところ2作ほど、岡千秋作品で新味のある彼女ふうを歌って来た。それが一転、師匠北島三郎の曲に、木下龍太郎の詞の夫婦ものである。ゆったりめ、温かめの歌処理だが、メロディーは北島節の典型的な男唄。語り口に垣間見えるのは、師匠譲りか浪曲修業の成果か。張り歌の曲を語り歌に仕立てて、この人の芸は幅が広くなった。

雪の花哀歌

雪の花哀歌

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
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 歌い出しを高音で出て、中盤と歌い収めにまた高音を使う。僕流に言えばW型のメロディーで、訴求力が強い。それをゆったりめにやったのが岡千秋。その起承転結の哀調に、岡ゆう子の歌表現が添った。その気にさせたくせに去った男への未練。仁井谷俊也の遺作の言葉一つ一つをていねいに歌う年季の芸で、この人らしい一途さと声味が生きた。

よりそい蛍

よりそい蛍

作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:城之内早苗
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 どんな過去があってもいいと、蛍みたいに控えめだが、しっかり熱い思いを伝える女心ソング。かず翼の詞を徳久広司が、はじめの2行と残りの4行を2ブロックの曲にした。聞いていて思うのだが、城之内早苗の歌は、目の前にいて話しかけるような親近感を持つ。聞く側はそれにうん、うんと頷く気分になるのが妙で、この人の独自の境地だろうか。

MC音楽センター
 〽口で言うより手の方が早い...
 いつか聞いた歌の一節だが、今ふうに言えばパワハラ・ソングか。今回はそれとは全く違う〝手〟を拝見した。7月の川中美幸公演、9月末から10月にかけての氷川きよし公演、いずれも劇場は明治座で、双方、池田政之という人の作、演出。この場合の〝手〟は、この人の作劇術と演出ぶりで「口で言う」より「やって見せて」面白おかしく、役者たちをノセて実に手際がいいのだ。
 10月10日に見た氷川の芝居は「母をたずねて珍道中。お役者恋之介旅日記」で、タイトルからして面白そう。それが、
 《こうまで客を笑わせるか!》
 と、呆れるくらい娯楽に徹している。大衆演劇の人気役者・嵐恋之介に扮する氷川が舞台に居る間は、何秒かに一度...と言ってもいいくらい頻繁に、客席に笑いが起こる。旅日記だから道中のエピソードがいくつか。氷川の相手が曽我廼家寛太郎だから、笑わせるのがお得意の芸達者。必要なセリフはほとんど彼が言って、それと氷川のやりとりの〝間〟だの〝ズレ〟だのが、まず訥々の妙になるからよくしたもの。犬の着ぐるみも含めた共演者のセリフや動きにも、大仰に書けば、絶え間ないくらいにギャグが仕込まれている。
 「うん、そこはこうしちゃどうだろう?」
 「面白い? じゃあこうやってみるか!」
 僕もかなりいい役を貰って参加した、川中公演のけいこ場を思い出す。池田がやってみせる都度、けいこ場に笑いが起こる。ま、才気煥発と言うか当意即妙と言うか、引き出しのネタ山盛りと言うか。笑いのオマケがどんどん加わるから、自然芝居は長めになるが、最終的にはけいこ場でウケた部分を生かし、自分が書いた台本を、バッサリ削って寸法を合わせる。氷川公演のけいこ場もきっとそうだったに違いない。
 観客大喜びの見せ場もちゃんと用意してある。というよりは、芝居の筋書きよりそちらがメイン。時代劇で人気役者の設定だから、日舞は踊るし、能や殺陣もやるが、その都度氷川は花やかな衣装をまとい、装置も豪華ケンランで、まるで動くグラビア。踊りや殺陣などが本格的にはほど遠いのも、
 「きよし君、かっこいい!」
 「きよし君、かわいい!」
 になって結果オーライなのだ。
 客席の笑いが止まり、し~んとなるのは、お話の説明部分。氷川の恋之介は、親にはぐれた旅芸人で自然に母親探しになる。それが実は笛の名門、六条流の跡目相続人で、彼が行方不明だから跡目をめぐる騒動が起きている...。と、その辺は共演者たちが幕前芝居でやる。お家騒動ものならこちらが本舞台になるだろうが、それはさておいて氷川は、本舞台で面白くかっこいい旅日記をやっている。逆転の発想でもあろうか。
 「役者が楽しまなくては、観客が楽しむものにはならない」
 と池田が言うのを耳にした。そうですか! とばかり、川中公演の出演者はみんな〝その気〟になったし、氷川公演の舞台も、みんなが楽しんでいる気配が濃い。池田という人の凄味は、スピードと繁盛ぶり。芝居一本を一晩で書き上げるが、その時はパソコンのキイを叩いて、はたから見れば半狂乱だそうな。作、演出家は松竹系と東宝系が大きな流れを作っていて、それに割り込んで今日があるのは、並大抵ではないアイディアと才能と心身ともにタフなことの証だろう。
 商業演劇は主役と相手役を軸に、ほとんどが役者の寄せ集め。そのくせけいこ日数は短く、多くが2週間前後。だから彼は「注文するよりやって見せること」をモットーとする。そのためには、洋舞は無理としても、セリフ、所作、ギャグ、殺陣、日舞と、多岐なけいこを重ねて来たという。そんな長い研鑚が、この人の演出家としての個性を作ったのか。氷川が舞台でも言っていたが、この公演のけいこ日数は何と、1週間だったそうな。
 驚くべきことのもう一つは売れ方。川中明治座公演の7月は、三山ひろしの新歌舞伎座公演とダブっていて、けいこで東京―大阪を何度も往復した。氷川公演は彼が参加する劇団NLTの新作喜劇「やっとことっちゃうんとこな」とこれもけいこがダブった。もちろん彼の作、演出で10月13日から俳優座劇場でやる。これが池田政之という人の演劇生活35年の集大成と言うから、僕は何をおいても駆けつける覚悟を強いられている気分だ。
週刊ミュージック・リポート
 JR中野駅の南口商店街を少し入った右側「さらしな本店」に立ち寄る。サンプラザ・ホールでコンサートを見たあとの〝おきまり〟だ。「そば焼酎のそば湯割り」を頼むと、小徳利に焼酎、ポットにそば湯が出る。濃いめ薄いめは客次第。つまみは「そば味噌」と、これが妙なものだが「いちじくの味噌煮」で、味噌がダブルが、好きなのだから仕方がない。いつも一人でチビチビやりながら、今見て来たコンサートのあれこれを、のんびり振り返るのだ。
 《水森かおりなあ、あの人の魅力を一言で言えば〝下町娘の愛嬌〟ってことかな...》
 「愛嬌」はふつう「愛敬」と書く。「にこやかでかわいらしいこと」「こっけいでほほえましいこと」と、これは「広辞苑」の説明だが「こっけい」は語弊があるから「コミカル」くらいがいい。漢字表記は「愛嬌」の方が、字面からも似合いに思えるのだ。そう言えば僕は、久しぶりに彼女の「ぴょんぴょん」と「ひらひら」を楽しみに出かけた。1曲歌い終わるごとに彼女は、嬉しそうに飛びはねる。客席からの拍手には、両手をバンザイの形にあげ、てのひらをひらひらさせて応じる。
 9月25日の「メモリアルコンサート~歌謡紀行~」毎年恒例だが、この日が水森の24回めのデビュー記念日で「おしろい花」が第1曲。心情表現切々で、歌詞の一言ずつを噛みくだくように、ていねいに歌う。これがデビュー曲で、あのころ彼女は歌謡曲をこう歌っていたことを思い出す。そんな調子で「よりそい花」「いのち花」「北夜行」「竜飛岬」...。
 〝ご当地ソングの女王〟と呼ばれるまでに大成したきっかけは「東尋坊」だった。恋にはぐれた女が傷心の旅をするシリーズ。その彩りとして、各地の風物が歌詞に書き込まれた。作詞家木下龍太郎の連作は、彼が亡くなるまで続き、その後は後輩たちが腕を振るっている。この日ステージで歌われたのは「安芸の宮島」「松島紀行」「熊野古道」「ひとり薩摩路」「五能線」「鳥取砂丘」の順。
 木下はよく旅をする作詞家だった。歌ごころを揺らす旅なのか、それとも本当の旅好きだったのか。本人に言わせれば、
 「ずた袋ひとつぶら下げて、ふらっとね...」
 というスタイル。いずれにしろそんな体験が、一気に生きたのが水森の歌づくりで「五能線」など彼でなくては出てこない。「どこにあるのよ」と、僕らはいぶかって、本州の北端、日本海沿い...の説明に「へえ!」になったものだ。
 このシリーズを水森が、
 「お天気お姉さんの立ち位置で歌ってるの」
 と言ったことがある。詞に書き込まれている風景を天気図みたいに大掴みに捉え、その中にたたずむ主人公の姿と心境を、聞き手に伝えるらしい。いわば「客観」と「主観」が交錯する歌表現。それが主人公の失意をほど良くさりげなく、明るめにして、先行きの希望につなげる境地を生んでいるのか。
 「東尋坊」前後から、僕は彼女と親しくなったが、素直でざっくばらんな下町娘の人柄の良さは、ずっと変わらない。ま、人柄はどうでも、作品と人間関係、それに運に恵まれさえすれば、ひとかどの歌手にはなれる。しかし、長もちするために必要なのはやっぱり人柄で、そうでなければ〝女王〟にはなれまい。水森の場合はその人柄が巧まずに、言動に出っぱなしなのが、ファンに強い親近感を持たせてもいよう。
 シリーズの陰の力持ちは作曲家の弦哲也で、長く続く路線の1曲ずつに、彼流の細やかな心遣いと工夫が生きている。この日のコンサートでは「釧路湿原」をテーマに「北国ひとり旅」というショート・ストーリーを書き、彼女の演技者としての一端を披露させている。
 目下ヒット中の「水に咲く花・支笏湖」を歌った大詰め、
 「アレをやるね、アレを...」
 と、水森が「紅白歌合戦」でやった宙吊りで歌った。やれやれ...と席を立った僕に後ろから、
 「やあ、お疲れさまでした。雨の中をどうも...」
 と声をかけてきたのが弦で、まるで水森の父親みたいな笑顔だった―。
 「さてと...」
 と僕は「そば焼酎」と「さらしな本店」を後にする。終演後の楽屋で彼女の笑顔を見るのはパスしたが、
 《こういう楽しみ方も、ま、いいとするか...》
 中央快速で東京へ出て、横須賀線で逗子へ。水森の〝下町娘の愛嬌〟を思い返しながら、1時間半くらい〝気分のいい旅〟である。
週刊ミュージック・リポート
 《そうか、山川豊は立ち姿がいい歌手なんだ》
 9月16日夕、浅草公会堂で開かれた彼のコンサートの冒頭で、僕はそう一人合点した。ステージ中央の階段の上に、彼は立っていた。その背景にあるのは、真っ赤な空で、10月に還暦を迎える山川の〝来し方〟を示す夕焼けか、それとも〝行く末〟を暗示する朝焼けか。スポットライトが当たると案の定、彼は陽光に対峙していて、客席へは後ろ姿である。長い足、年を感じさせぬ体型のスマートさ...。
 〝立ち姿〟はやがて〝たたずみ方〟に変わる。「今日という日に感謝して」のオープニングから、立て続けに歌う各曲のイントロで、彼はそんな感じでしばしばたたずんでいた。「さあ行くぞ!」の気負いを見せるでもなく、ファンサービスのポーズも作らず、これが彼流の自然体なのか。「ときめきワルツ」「愛待草より」「流氷子守唄」とおなじみの曲が続く。基本的には口下手。「流氷...」の前では、珍しく海ものの作品が来て「これは鳥羽一郎のものじゃないのかと...」と、笑いを取るトークも訥々としている。司会の西寄ひがしが出て来ると、話は彼に預ける。一人語りの時は「うん」がちょくちょく出て来て、自分の話を確認しながらの気配がある。
 「この前はテレビが入っていたけど...うん...」
 と、2年前の35周年コンサートに触れた。それが今回はないのが少し寂しいのか、それとも、だから伸び伸びとやれるのか。「船頭小唄」から「丘を越えて」「かえり船」「港町十三番地」「黒い花びら」「高校三年生」「潮来笠」「君といつまでも」などをはさんで「見上げてごらん夜の星を」まで、いい歌といい時代をたどる13曲メドレーは一気、一気だ。
 イントロで西寄のナレーションがあおる伝統的演出の「きずな」「しぐれ川」「夜桜」「友情(とも)」などでもそうだが、山川の歌いながらの動きは、舞台上手で1コーラス、下手へ移動して1コーラス、中央に戻って1コーラス、深々と一礼という具合い。ただひたすら歌うことに集中していて、ファンとのやりとりもごく少なめ、プレゼントは舞台では受け取らない。
 《テレビ中継がなくて、よかったんだ、やっぱり...》
 と、僕はまた合点する。あれが入ると絵づくりのための余分な演出が加わる。茶の間の客向けの選曲も出るだろう。歌手歴37年、それはそれでうまくこなすだろうが、彼は一途に歌い募る方が好きなんだろうし、浅草まで来た客は、それが望みでもある気配だ。
 《37年か、彼も還暦だと言うし、こっちもその分年を取ったな...》
 僕は客席で〝もう一人の山川豊〟を思い出す。昔いわゆる〝ご三家〟の筆頭・橋幸夫のマネージメント一切を取り仕切っていた人の名である。若くして亡くなったのだが、その人柄と剛腕が一時代を作った。親交を持ったお仲間が長良プロダクションの長良じゅん社長(当時)とバーニングプロダクションの周防郁雄社長。歌手山川は、この有力者二人がビラ配りまでする力の入れ方で育てた。メーカー、プロダクションを縦断して、亡くなった山川豊氏の弔い合戦の様相まで呈した大仕事。昭和56年、西暦で言えば1981年の2月、山川とデビュー曲「函館本線」はその波に乗る。僕はこの作品で、作詞家のたきのえいじやアレンジャーの前田俊明の名を知った。
 山川の魅力は独特の中、低音の響きだが、高音と節回しにもなかなかの味がある。「函館本線」のヒットは「面影本線」「海峡本線」の三部作になり、山口洋子・平尾昌章コンビの「アメリカ橋」「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」のアメリカ3部作が生まれ、最近の「螢子」「再愛」「黄昏」につながる。
 そんな歩みを歌い綴ってアンコールまで38曲。その間の衣装替えは白のスーツに着物の着流し、黒のスーツと上衣を赤のジャケットに替えた4ポーズ。舞台装置もほとんどなしで、背景が都会の影絵になるほか、照明で彩りを替えるシンプルさだ。〝歌を聴かせる〟ことに終始した演出は、スター歌手の〝どうだ顔〟や、人気歌手の〝媚び〟とは無縁なことが、いっそさわやか。
 言ってみれば〝地味派手〟の境地で、前面に出たのは彼の人柄と歌一本やりの取り組み方。
 《変わらない人だなあ》
 日曜日、ずいぶん様変わりした浅草詣での人々の波の中を、僕はそんな感慨を持って往き来したものだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ201

手許に一枚のCDがある。『MOSS WAVE 19681984』のタイトルで非売品。これは友人寺本幸司を主人公にしたパーティーで配られた。収められているのは19曲。浅川マキの『夜が明けたら』や『かもめ』下田逸郎の『踊り子』南正人の『海と男と女のブルース』桑名正博の『哀愁トゥナイト』や『月のあかり』リリイの『オレンジ村から春へ』沢チエの『夜の百合』などが並ぶ。演歌歌謡曲にフォークやロックと、ヒット戦線が何でもアリだった"あのころ"を偲ばせる歌ばかりだ。

 パーティーとは86日夜、原宿のライブハウス「クロコダイル」で開かれたテラ(僕は寺本をそう呼ぶ)の80才を祝う会。CDに収められた歌たちは、彼がプロデュースした思い出の作品である。僕は歌謡曲人間だからとても歌えはしないが、それぞれの曲に個人的な思いもからむ。大ヒットこそしなかったが、みんないい作品でテラの音楽観なり時代感覚なりが、その背景にあるのだ。

 「僕は月島の生まれでねえ...」

 彼はパーティーのステージで、そんなことから話しはじめた。誕生会の世話人たちに「生前葬にはするなよ」と念を押した人間が、何と小1時間も"生い立ちの記"を語り続けて、僕らを驚かせた。面白おかしく...と配慮はされているが、それにしても長い。やむを得ず僕は焼酎の水割りのおかわりを続け、次第にそっちの方に酔った――。

 作品集の発端の1960年代後半から、僕は三軒茶屋の"お化け屋敷"と呼ばれる古い西洋館に住んでいた。その一室、卓球がやれるくらい大きな部屋を占拠して、テラは僕んちの同居人第1号。飲みに来るのはテラの側の浅川マキ、下田逸郎らにパントマイムの青年やコピーライターの娘など種々雑多。僕の側は勤め先スポーツニッポン新聞の後輩に、売り出し前の作曲家三木たかしや中村泰士、たまに作詞家阿久悠、石坂まさをとその連れの阿部純子(のちの藤圭子)ら。面白がるレコード会社やプロダクションの有志が加わって、連夜ごちゃまぜの大騒ぎである。70年代に入ると僕がスポニチに若者ページ「キャンバスNOW」を立ち上げ、テラにプロデュースを頼んだから、その書き手も参入した。島田荘司、喰始、石原信一、生江有二、中村冬夫らで、後にそれぞれが名を成している。

 テラはそんな安手の梁山泊を仕切っていたかと思うと、ふいと姿を消出す出没ぶりで仕事をこなし、その一部始終を僕は見守った。おデコで物を言うような発言に妙な説得力があり、やがて彼は音楽工房「モス・ファミリー」を興す。パーティーの述懐で面白かったのは①に画才で、子供のころにそのご褒美で、駄菓子屋の"もんじゃ"にありついた。②が瞬発力で、運動会は初速でトップに立つが、いつもそのうち抜かれたそうな。檀はふた葉にして...の類いか、長じて彼を腕利きの仕事師にしたのは、独特の美意識と、桟を見ての瞬発力だったろう。

 クロコダイルには120人を越すテラの仲間が集まった。みんな本音のつき合いの親しみ易さがいい雰囲気を作る。"ロックテイストの宴"で、参加者はみなそれらしいいでたちだったが、よく見ると多くがそれぞれの年輪を示す風貌ではあった。

 ≪80才?何がめでたい!≫

 そう軽口を叩きながら参加した僕だが、結局はテラの作品集にしみじみ往時を思い返す仕儀になる。考えてみればアルバイトのボーヤから校閲部、整理部と内勤9年の体験は、立派にスポニチの保守本道である。それが取材記者に転じるや、すぐに長髪にパンタロン、ラジカルな記者たちの頭目になれたのは、あのころのテラとその仲間の影響が大だった。ちなみに僕はテラより2才上で、10月に82才になる。あいつも俺も、その時々をめいいっぱい事に当たりながら、成り行き任せで生きて来たということか。双方の既往症は「人間中毒」と「ネオン中毒」だものな。

月刊ソングブック

亜熱帯の演歌なのか?

 「生命が危険」と連呼される夏、酷暑と言うか炎暑と言うか、各地多難でメチャクチャ暑い。9月だって油断がならない...という時期に、世に出る作品群である。
 8つの作品に共通しているのは、表現のさりげなさ。過剰な感情移入や、演歌にままある押しつけがましさを、皆が避けている。もっとも気候だけでなく、政情も世相も閉塞感や末恐ろしさが先に立つ昨今、うんざりした気分がそうさせると思えなくもない。日本はこのまま亜熱帯になるのだろうか?

片時雨(かたしぐれ)

片時雨(かたしぐれ)

作詞:いとう彩
作曲:岡千秋
唄:岩本公水
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 《そうか、この人はこういう風に、作品の情感をまるで掌の中の珠のように、歌いころがせるようになったのだな》
と僕は合点した。長い歌手生活で、いろんな事があり、いろんなタイプの作品を歌って来たが、ひと言で言えば〝娘の歌〟だったと思う。ところが、今作は明らかに〝オンナの歌〟だ。
 ギターが中心の音づくりは、昔からある〝流しの歌〟調で、5行詞、去った男を思い返してひとり酒の主人公は、はかなげな息づかいで嘆きを語る。いとうの詞に恨みがましさはなく前を向いているのもいい。

みれん船

みれん船

作詞:久仁京介
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 こちらも5行詞のギター流し調。古い演歌好きの僕なんか、つい「いいなぁ」としみじみしてしまうタイプだ。昔なら春日八郎が 春が来たとて、行ったとて...などと、男の嘆きを歌ったものだが、岩本作品の岡千秋、鏡作品の山崎剛昭の曲づくりは、似たような落としどころ。
 こちらは作詞の久仁京介が、詞を船ものにしている。曲のサビのあとの〝ゆすりどころ〟を、各節「惚れたよ、泣いたよ、夢見たよ」で揃えて、鏡の芸に託した。去る女を見送る男の未練だが、やはり恨みがましさはない。

天の川恋歌

天の川恋歌

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中さおり
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 歌手生活も30周年になったとか。それを機に芸名の「彩央里」を「さおり」に変えた。心機一転の気構えだろうが、なるほどこの方が素直でいいか。
 亡くなった仁井谷俊也の遺作。作曲の徳久広司が、彼女の歌も素直にした。歌詞の前半4行を素朴に語らせ、次の2行を高ぶらせる算段。歌唱にさりげなさと、いい味が生まれた。

花ふたたび

花ふたたび

作詞:菅麻貴子
作曲:水森英夫
唄:キム・ヨンジャ
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 ヨンジャはなかなかに曲者である。ガンガン行ける韓国パワーを、声をしぼって語るように、仕向けたのは水森英夫の曲。この人ももともとガンガン行かせたがるタイプなのに、なぜか今作は抑えめを選んだ。
 ヨンジャが曲者なのは、抑えた歌唱だが、決して抑えていない点。声をしならせてインパクトの強さをちゃんと維持している。

弥太郎鴉

弥太郎鴉

作詞:久仁京介
作曲:宮下健治
唄:中村美律子
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 ヒット曲づくりの一策は「隙間狙い」誰もやらないなら、それで行こうという手で、近ごろ珍しい時代劇道中ものが出て来た。巻き舌で芝居っけ十分のこの種の歌なら、確かに中村美律子お手のものだろう。久仁京介の詞が「意地の筋立て、器量の錦」なんてフレーズを持ち出し、宮下健治の曲も気分よさそう。体調崩し気味の中村が元気でよかった。

霧雨川

霧雨川

作詞:麻こよみ
作曲:四方章人
唄:千葉一夫
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 こちらも"道行きソング"で、近ごろ珍しい狙い目。四方章人の穏やかめのメロディーに千葉一夫の穏やかめの歌唱で、歌詞ほどには切迫感を作らない。
 しかし...と、制作者も歌手本人も考えたのか、千葉の歌唱はいつもより感情移入が強めで、突くところは突く。声が太めに聞こえるのは、彼のキャリアがそうさせた結果か。

女のゆりかご

女のゆりかご

作詞:里村龍一
作曲:岡千秋
唄:瀬口侑希
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 瀬口侑希はこのところ、一作ごとに歌唱が変わっている。今作など、息まじりに歌をゆすって、詞のはかなげで一途な色にも添った。おおらかな叙情派からスタート、キャリアを重ねる中で「器用じゃない人の器用さ」が生まれてなかなかの演歌。このところ消息が聞こえぬ里村龍一の詞が何だかわびしげなのへ、岡千秋の曲で、二人の友情がにじむ。

哀愁北岬

哀愁北岬

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:服部浩子
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 もともとが、作品に何も足さない風情の歌が特徴だったのが服部浩子。長い年月を経て、そうも言ってられないと本人が考えたのか、昨今の歌の流れに添おうとしたのか。1コーラスの歌い始めと歌い収めの高音部に、訴求力を強めた工夫が聞こえる。声の芯をしならせて色を濃いめにしていて、作曲の影山時則が誘導したかも知れない。

MC音楽センター
 歌手小沢あきこのダンナが倒れた...との一報は、けいこ場の空気を一変させた。路地裏ナキムシ楽団の中目黒キンケロ・シアター公演が初日を8月31日に控えていて、彼女はその主要女優の一人だ。座長で作、演出者の田村武也が、一応万が一の場合を考える。とは言え出演役者は15人、配役を一役ずつ繰り上げるしか方法はない。
 「でも、本人が頑張ると言っているから、それを待とう」
 小世帯なりに結束の堅い集団だから、みんなそれなりの決意を眼の色にした。
 翌日、さりげない面持ちで、小沢はけいこ場に現れる。気づかって僕らもふだんの顔つきで彼女を迎える。病名も容体も誰も聞かない。あらかじめ「脳梗塞」と「意識がない」と知らされていて、それ以上詮索する必要はない。内心で僕は「ん?」にはなっている。意識がないというのは只事ではない。体験が多いだけに別の病名も考えたが、それも口に出せるものではない。
 それから二日ほどのけいこと本番の5公演を、小沢はものの見事にやり遂げた。演目が「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」というファンタジックな人情劇。皮肉にも「生」や「死」にまつわるセリフがひんぱんに出て来る。小沢扮するマリアとホームレスの僕は実は父子という設定。母親を焼死させたことで、娘と父は義絶状態。それが僕の死後、火事場へ飛び込み娘を救った真相が明らかになる。
 死後の僕と生身の彼女との切ない和解と、改めての別離のシーンがドラマの大詰め。その前に、
 「意識が戻らないの?」
 「年の割に働きづめの人だったからなあ」
 などというやりとりが、他の役者間であったうえ、僕が、
 「生きてくれ、マリア! 母さんの分も、な!」
 と叫ぶのが幕切れである。セリフの一つ一つが、小沢の胸に刺さったはずだ。事態が事態だから、僕のセリフも意味合いがダブる。
 「お父さん!」
 やっと言えた娘のセリフは、小沢のあふれる涙と一緒。それに頷き返しながら、僕も本気で泣いた。
 公演終了3日後の9月5日、訃報が届く。小沢の夫君はミュージシャン奥野暢也、やっぱりくも膜下出血で、4日午前死去、53才...。と言うことは彼女は病院と劇場を往復していたのか。文字通り不眠不休の日々だったのではないか。そう思うと改めて胸が痛い。劇場で相手役の小沢に僕がかけ得た言葉は「寝ろよ、お前がしっかりしてないと、な!」と「芝居は大丈夫だ。二人で何とでもやって行けるよ」の二言でしかなかった。
 9月10日は終日かなりの雨。桐ヶ谷斎場の通夜に出かけた僕は女優小沢あきこの相手役としてだ。
 「しかし、待てよ...」
 僕はその道々、夫君奥野暢也に思い当たりがあることに気づく。スタジオ・ミュージシャンでドラム奏者、だとすると僕は、プロデュースした多くの作品の録音スタジオで、ずいぶん世話になった彼ではないのか? 通夜の会場には名だたるプロデューサー、ヒットメーカーの作曲家たちなどの顔が沢山あった。遺影を見てやっぱり彼だ! と確認する。ミュージシャンとプロデューサーは「おはようス」「お疲れさま」のあいさつ程度で、お互いに名乗ることのない仕事場。そのくせ僕らの作品は全部、そんなつき合いの彼らの才能と技に支えられている。
 歌手の山内惠介が公演先の和光市から飛び込んでくる。奥野は彼のためのバンドのリーダーで、もう10年のつき合い。名古屋公演までずっと一緒のツアーで、別れた翌日に彼は倒れたのだと言う。
 「参ったよな、こんなことになるなんて...」
 山内が所属する三井エージェンシーは、三井健生社長夫妻に娘や社員たちまでが駆けつけていた。
 そのお清めの席で、僕は歌社会の友人たちと故人の話をし、その後は五反田の居酒屋で、ナキムシ楽団の面々と改めてのお清めをやる。話題はとことん頑張り抜いた小沢の意地と芯の強さ。黒の和服で、凛然と通夜の客に応対した喪主としての立ち居振る舞いの見事さ。座長の田村や夫人をはじめ、レギュラーのミュージシャン、役者が全員顔を揃えていて、実にいい奴らだと改めて感じ入る。
 小沢は今年が歌手25周年。故郷長野に材を取った記念曲「飯田線」が出たばかりだから、健気な孤軍奮闘はまだ当分続くことになる。
週刊ミュージック・リポート
 演出家で映画監督の大森青児は、有言実行型。おまけにせっかちと来ている。彼を中心に関西で旗揚げ!? した作詞家集団「詞屋」が、早くも2枚めの自主アルバムを作ると言い出した。この人には川中美幸の劇場公演「天空の夢」ほかで、とび切りいい役を貰っている手前、僕は甲斐々々しく、その手伝いをする。「詞屋」の例会に顔を出して叱咤激励し、「監修」を頼まれるが、何のことはない雑事一手引き受けの取りまとめ役。
 「それにしても...」
 と、僕が会合の都度力説するのは、集団の基本精神の確認。文化発信が東京一極に集中、ことさらに流行歌にその傾向が著しい。それに反旗をひるがえして、
 『関西からヒットソングを!」
 「関西ならではのコンテンツを!」
 と集まったのが詞屋の面々で、大森を筆頭に大学の先生、小説家、エッセイスト、シナリオライター、塾の主宰者など多種多様。そんな知的レベルが面白そう...と首を突っ込んだのだが、これが想うようには参らぬ。毎月持ち寄る作品が、従来のヒット曲をお手本にしてしまうから、独自路線の開発には手間がかかった。
 大分前に作ったアルバム第1号は、結局、東京発の歌たちの類型を脱けられなかった。そこで号令をかけたのは、
 「浪花ものに集中して!」
 で、大阪在住の作詞家もず唱平や、浪花ものが多い吉岡治、たかたかしの仕事を超えられるか? が大テーマになった。
 「こんなもんかな、ひと踏ん張りしますか」
 その上でほどほど作品を並べることにする。
 おそらくアルバム・タイトルにもなるだろう「大阪亜熱帯」をはじめ「ワルツのような大阪で」「まんまる」など何編か。コンセプトからははずれたが、父君を亡くした大森監督の「親父の歌」の実感や、関西で活躍するシャンソンのベテラン出口美保用の「恋のマジシャン」なども加える。詞をまとめても残る問題は作曲、編曲に歌。スタジオに入ればそれなりの経費がかかる。
 「何とかなりますよ、うん、何とかなる」
 と主宰者大森は破顔一笑するが、こちらはそう楽天的にはなれない。
 結局、作曲者として動員した僕の手駒(失礼!)は「大阪亜熱帯」に藤竜之介「恋のマジシャン」は山田ゆうすけ「まんまる」は近ごろライブ活動をしている奥野秀樹なんて顔ぶれ。そう言えば1枚めでは曲を田尾将実に頼んだ。田尾、藤、山田は「グウの会」というのをやり、気心の知れた仲間だが、災難はいつ降りかかるか判らない...と思ったろう。
 ベテラン出口の登場からしてヒョウタンからコマなのだ。前回、女性歌手捜しに苦慮したのが大阪勢。一計を案じて僕が出口に、
 「大勢居るお弟子さんから、見つくろってよ」
 と、乱暴な打診をしたら、演歌系の作品を面白がって、
 「わたしが歌うわ!」
 になってしまった。詞屋の面々はさすがに恐縮して、今回は彼女用の作詞に汗をかいた訳...。
 たて続けに大森監督から電話が入る。今度は歌づくりではなく、災害に遭った岡山・高梁の支援イベントである。NHK出身の彼の映画第一作監督作品は「家族の日」という現代社会視線のヒューマンドラマ。そのロケ地として全面協力を得たのが高梁だった。映画は国内を順次上映、北京映画祭に呼ばれるなど、一定の評価を得ている。イベントは11月10日だと言い、
 「そう言えば井上由美子という歌手が〝高梁慕情〟ってご当地ソングを歌っているそうです」
 と突然固有名詞が出て来た。井上は亡くなった我妻忠義社長のプロダクション、アルデル・ジローの所属。会社は息子の重範氏が引き継いでいて、早速話をしたら前日に他の仕事で現地に居る。
 そんな話をしたのは、8月30日、中目黒キンケロ・シアターの楽屋。翌31日に僕も出演する路地裏ナキムシ楽団公演「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」(作、演出田村かかし)が始まるが、彼はそのスタッフでもある。
 「何って間(ま) がいいんでしょ」
 と、二人で笑い合って、実はこの原稿、その楽屋で書いている。役者と雑文屋の二足のワラジをやって12年め。劇場周辺では物を書かぬと決めていたが、とうとうその禁を破ってしまった。とにかく忙しすぎるのだ。
週刊ミュージック・リポート
 樋口紀男氏の訃報は、8月20日夕、北区王子の北とぴあのけいこ場で聞いた。緊張気味の表情で小声で伝えてくれたのは、友人の田村武也。作曲家協会の弦哲也会長の息子だから、その事務所に寄って知ったのだろう。
 《そうか、やっぱりな...》
 ある程度、覚悟めいたものがあったにせよ、僕は胸を衝かれてしばし黙然とした。断続的にではあったが、ずいぶん長い闘病を続けていた人だった。そこへここのところの、酷暑である。健康な人間でも相当に応える気候。病いに冒されている人には、越えにくい夏だったかも知れない。
 けいこは今月末から来月にかけての路地裏ナキムシ楽団公演(中目黒キンケロ・シアター)の分。田村はその主宰者で「雨の日のともだち」の作・演出から音楽、映像の制作、劇中歌の作詞、作曲、演奏に歌...と、すべてを取り仕切る座長だ。
 「27日通夜で28日が葬儀だとか...」
 「俺、通夜の日はけいこ抜けるぞ」
 そんなやりとりを手短かにして、けいこに入る。
若者中心の一座で、樋口氏を知る者は他に居ない。さりげなく演出家の椅子に着いた田村をうかがいながら、僕のけいこは少々うわの空になる。すっかり入っているはずの科白が飛んだりして、共演者が「おや?」の表情。このところずい分多くの友人や知人を見送っている。それがいちいち身に応える。その人の元気なころの顔がちらつくのだ。
 「女の旅路」といういい歌があった。作詞家ちあき哲也のごく初期の作品で、六ツ見茂明という弾き語りの友人が曲を書いた。歌ったのは確かいとのりかずこという歌手で、40年以上も前、僕は六ツ見がやっていた外苑前のスナックで、やたらにこれを歌ったものだ。その出版権がバーニングパブリッシャーズにあった。誰かに歌って貰って、もう一度世に出したいと、樋口氏にかけ合った。
 「ああ、あの作品なら、今でも行けるかも知れないな」
 と、樋口氏は笑顔で応じて、歌手捜しまで何くれとなく話に乗ってくれた。しかし、その件はうまくまとまらず、結局は継続審議の形。そうこうするうちに、作詞、作曲家はともに亡くなっている。その悔いが、樋口氏の訃報でまた、生々しく甦る。穏やかな態度物腰で、口数も少なめ、我が強く言動ラフなお仲間に比べれば、紳士然とした樋口氏の、あの笑顔も一緒だ。
 深夜帰宅して、届いていたFAXを取り出す。その中の2枚に樋口氏のものがあった。バーニングパブリッシャーズ常務取締役、心不全、享年78、葬いの式場は桐ヶ谷斎場とある。70代はまだ若い、惜しい人を亡くした...と、そんな思いがまたよぎる。病気が小康状態になる都度、彼はよく仕事場に顔を出した。パーティーなどで顔を合わせると、
 「やあ...」「どうも...」
 のやりとりになる。決して深くはないが、心に残るつき合いの呼吸があった。
 長く音楽出版の仕事をして、人づきあいは広く多岐にわたった人徳の人だ。後日その葬送は、橋山厚志葬儀委員長をはじめ、ごく親しい人々で固める「友人葬」になると聞いた。その顔ぶれより僕は少々年嵩の部類に入る。親しく酒の仲などにならなかったのは、僕がスポーツニッポン新聞社の晩年、現場を後輩記者たちに任せたせいか、退社後は役者三昧の暮らしに入ったせいか...。
 ここ20数年、僕が見送った歌社会の人々は多い。親交から葬いの手伝いをしたケースも相当な数にのぼる。その都度僕は逝った人々の心残りや無念を受け止め、微力ながらその思いを引き継いで行こうと、ひそかに心に決めている。歌手の美空ひばり、作詞家の中山大三郎、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、ちあき哲也、作曲家の??田正、三木たかし、船村徹などの順で、教えを受けた人ばかりだから、荷としてはかなり重い。しかし折りに触れていつも
 《もし、あの人が今、元気だったら...》
 と思い返し、事に当たるよすがとすることが、先人への崇敬であり、心づくしでもあろうかと思っている。
 このコラムが読者諸兄姉の眼に触れる8月の最終週、週のはじめに樋口氏の通夜葬儀は済み、週末からはナキムシ楽団公演が始まっている。その芝居は愛すべき死神たちが、亡くなる人々の後悔や心残りを取り除いていく内容である。偶然にしろ妙な符合を感じて、胸がうずく。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ200

「えっ、そうなの、知らなかった...」

 歌手川中美幸が、それこそのけぞらんばかりに驚いた。75日夕、彼女の明治座公演の初日がめでたく終わった直後。楽屋前には共演中の女優安奈ゆかりと車椅子の紳士とつき添いのご婦人がいた。実はこの3人が親子なのだが、紳士は僕の親友で「地方区の巨匠」と呼びならわしている演歌の作曲家兼歌手、佐伯一郎だった。単なる父子なら川中も驚きはしない。劇場につめかけるファンには、そういうケースだってままある。しかし、相手が年上で先輩格の歌手となれば「嘘!本当?」となるのも無理はなかった。

 川中公演の芝居は「深川浪花物語~浪花女の江戸前奮闘記」(池田政之作・演出)でタイトル通り、大阪からやって来た川中が、深川の料亭のお手伝いに拾われ、てんやわんやの末に女将にのし上がる物語。安奈の役はその料亭の仲居頭で、奮闘記の随所に出て来て、芝居の潤滑油として大活躍なのだ。しかし、川中一座は初参加でもあり、もともとプライベートな部分は抜き、本人本位の仕事だから、特に父親のことは話もしなかったのだろう。だが、僕の場合は少々違った。

 「おやじさんを呼び捨てでつき合ってるんだから、お前さんにも君やさんはつかないよ」

 けいこ場で顔を合わせるなり、僕は冗談めかしてそう宣言した。

 「ええ、もちろんですよ。私も呼び捨てにして下さい」

 安奈はふっくらした声音でそう応じた。たっぷり豊かな体型同様、会話も快活でやわやわと温い。初対面なのだが父親から僕のことは、あれこれ聞いていた気配で、

 「初日に見に来ると言ってました。久しぶりにお会いするのがとても楽しみだと...」

 「待てよ、体調はいまいちのはずだ。無理させちゃいけない」

 「でも、そのためにリハビリに精を出しているって言ってました」

 双方笑いながら、そんなやり取りになったものだ。

 佐伯は若いころ、作曲家の船村徹に兄事、一緒のアルバムも作った仲。それが本拠の静岡・浜松へ戻って大勢の弟子を育て、その弟子たちと活躍の場を広げて、東海地方の雄になった。僕は元来、東京でテレビに出て、全国に名を売るスターだけが歌手とは思っていない。地方に根をおろして独自の活動を続ける歌手も貴重な存在として来たから、佐伯とは長く親交が続く。毎年浅草公会堂で一門の歌手たちとやるコンサートも、毎回駆けつけていたが、彼が脊椎をやられて入退院を繰り返すころから、しばらく会っていなかった。聞けば8回も手術を受けたと言う。

 ≪しかし、そうまでしてでも、来られてよかったな...≫

 つき添いの佐伯夫人の笑顔を見ながら、僕はそう思った。川中公演は例によって彼女の"笑芸"が生き生き。芝居もしばしばファンを笑わせながら、時にしみじみ涙を誘う下町人情劇である。演出家池田のスピーディーなドラマづくりを、委細承知とばかりに安奈は、独特のキャラと達者な芸で出たり入ったりの大忙し。どうやら池田お気に入りの俳優の一人らしく、その甲斐々々しい仕事ぶりを、父も母も十分に堪能した面持ちだ。

 「本当に助けられてますよ(左腕をちょんと叩いて)こっちの方もなかなかだし、よく気がつく人で、共演の皆さんにも愛されているし...」

 川中のほめ言葉も決してお世辞ではないから、佐伯も涙ぐんだりする親馬鹿ぶり。夏の明治座の舞台裏で、突然生まれた芸能親子の人情劇の一幕だが、それを包む込む柔和さで、ここでも主役はやっぱり川中美幸だった。

月刊ソングブック
 キャッチフレーズふうを先に書けば、
 『熟練の作曲ユニット杉岡弦徳が放つ野心作! 史上初の長編歌謡曲「猫とあたいとあの人と」! 作詞は喜多條忠、歌うは松本明子!』
 と言うことになる。BSフジテレビで4回ほど放送した番組「名歌復活」の収録中に持ち上がった企画。レギュラーで出ている作曲家弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人の4人が大いに乗り気になった。司会をやっている松本明子はもともと歌手志願。ジャズのライブなどをやっていて、
 「是非、彼女のための新曲を!」
 と話が盛り上がり、松本の話し相手で作曲家たちとあけすけな世間話をやっている僕がプロデュースすることになった。こう書けば「杉岡弦徳」なる作曲家名に「ははん...」と思い当たる向きもあろう。みての通り! 彼ら4人の苗字を一字ずつ採用したユニットの合作作戦なのだ。
 7月中旬、僕が出演していた明治座・川中美幸公演の楽屋へ、喜多條が勢い込んで訪ねて来た。
 「詞が出来た。近所へ飯を喰いに行こう。そこで詞を見て、ダメが出るなら出してみてよ」
 そう言われてもこちらは困る。まだ芝居の「深川浪花物語」は第一幕が終わったばかりで第二幕が残っている。「それなら待つ」と言う喜多條に「ショーも出てるんだぜ」と言ったら「じゃあ、それも終わるまで待つ」と一歩も退かない。結局彼は、貸し切りだった公演の客席を一つ工面して貰い、終演まで僕の芝居と、ショーの道化役2つを観賞!? する羽目に陥った。
 事後、出かけたのが人形町に隣接する小舟町の「たぬき鮨」という老舗。行きつけだった銀座の小料理屋「いしかわ五右衛門」の板場を仕切っていた大島青年の実家で、ここがまた店の風情といいネタの仕込みの確かさといい、なかなかの店なのだ。徹夜で書きあげた詞を、早く見せたい一心で、昼食抜きで飛んで来た喜多條が、実に何ともよく食うのを横目に、僕が引き取った詞が「猫とあたいとあの人と」という訳だ。
 名うての歌書き4人相手だから、詞も相当に気合いが入っていた。「あたい」に当たる女主人公が、出て行った男のことを猫と話すところから始まって、松山港発の真夜中のフェリーでの出会いや、小倉での再会も描かれる。それが別れることになったのは何故? あたいのどこが悪かった? と猫に問いかけ、人間って悲しい、生きて行くことって辛いと彼女は思い当たる。結局は「人ほど長くは生きないが、人ほど愚かじゃない猫」に、女のひとり語りでお話は終わる。それが8行から11行くらい4コーラスのブロックに分けて、結びは10行という長編。これを杉岡弦徳が1ブロックずつリレー式に作曲を担当、結びは4人のセッションで行く組曲の寸法だ。
 7月末、番組スタッフと4人に喜多條も加えた懇親会は、
 「さて、どの手で行くか!」
 の議論百出になった。それぞれが担当するブロックへの思いがある。全体を俯瞰した作品論もある。誰かが発言すれば「そうだそうだ」から「いや、そうではなくて...」の両論が生まれる。
マイナー部分とメジャー部分の組み合わせの具体案も出る。話をリードする取りまとめ役は、長兄格の弦哲也。しかし、キャラで言えば〝いい子〟〝悪い子〟〝ふつうの子〟に〝あぶない子〟も加えて、個性的すぎる面々のワイワイガヤガヤだから、酔えば話が振り出しに戻ったりして...。
 「生命の危険を考えるように...」と、気象庁や各メディアが連呼する多難な夏である。酷暑とも炎暑とも言われる記録破りの暑さの中で、杉岡弦徳はそれぞれ、この新企画の想を練っている。ヒットメーカーの多忙さの中で、どういうメロディーが生み出され、どうつながって大きな組曲になっていくのか?
 「とりあえず次回の番組収録では、こんな感じだよ...の進行状況の報告かな」
 「完パケの披露はその次あたりがいいな」
 僕らは番組出演者でしかないのに、その制作スケジュールにまで言及する。不定期の特集番組なのだが、プロデューサーもディレクターも「ふむふむ」と合点している気配だ。
 歌全体はおおよそ20分は越えるだろう長編歌謡曲。史上初の試みだし、書き手は詞曲ともに一流である。これを番組内だけに終わらせる気はない。歌う松本明子は目を回しそうだが、究極の目標はCD化。雄図に賛同する希望社は、早めに「この指止まれ!」だと、気の早い僕らは呼びかけ中である。
週刊ミュージック・リポート

俊ちゃんと丸さんにエールを!

 アメリカのメジャーリーグには「故障者リスト入り」という制度がある。一時戦線を離脱、選手たちは捲土重来を期すのだ。歌謡界にもそういう戦士が居て、例えばアレンジャーの前田俊明やベテランの丸山雅仁。
 彼らが編曲した歌が、流れない日などない売れっ子。大勢のスター歌手をサポートして来て、長い年月の疲れも出ていよう。前田は「俊ちゃん」丸山は「丸さん」と呼んで、僕には彼らと長いつきあいがある。一日も早い体調回復と歌社会復帰を祈っている。

みれん岬

みれん岬

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:松原のぶえ
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 歌手生活も40周年になった。記念曲を師匠の北島三郎が書く。松原のぶえは高校時代に大分から上京して北島の門を叩いている。以来いろいろなことがあったが、双方に応分の感慨があろう。
 定石通りの女心ソング。プロデュースもした北島は、力ませず奇もてらわせずに、のぶえの力量を生かす算段。原譲二の筆名で作詞もしており、2番の「愚痴も言わずに こぼさずに 捨てて来たのに それなのに...」という重ね言葉の妙に、情が濃いめになる。のぶえの歌もしっかり、その情をにじませた。
久しぶりの師弟合作"作品同様"ちょっといい話になりそうだ。

哀愁子守唄

哀愁子守唄

作詞:星つかさ
作曲:星つかさ
唄:和田青児
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 こちらも北島ファミリーの出身。長く付き人をやり、北島の薫陶を受けてプロになった。来る者はこばまず、去る者は追わず...の、往年の北島が作った、広い人脈の一人だ。
 星つかさの筆名で、和田青児の自作自演である。彼はこういう曲が歌いたいのだ...と、すぐに判るタイプの作品。特段の新しさはないが、和田は根っからの演歌人間なのだろう。歌詞の1番が望郷、2番が別れた人への未練、3番がさすらいの現況と、テーマを据えた5行詞もの。和田の歌唱の押し引きには、どこかにやはり北島似のにおいがある。

夫婦かたぎ

夫婦かたぎ

作詞:浅沼肇
作曲:黒川たけし
唄:福田こうへい
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 ヒット中の『天竜流し』のカップリング作品。福田らしさがある夫婦ソングだから、こちらも教材に...ということになったのか。
 この人の歌唱については、毎度同じことを書いて恐縮だが、元来声と節を聞かせるタイプ。感情移入の小細工なしなのが、かえってすがすがしい。「イ音」の唇の形が時おり「エ音」に変わる。東北訛りの妙か。
(※2018年4月25日発売『天竜流し』のカップリング曲です)

鬼灯(ほおずき)

鬼灯(ほおずき)

作詞:城岡れい
作曲:徳久広司
唄:上杉香緒里
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 女声のコーラスがからむメジャーのワルツ曲。会えない飲んべえの彼への思いを「鬼灯」に託す女心ソングだ。上杉香緒里は歌手生活23年め。歌の奥行きや技のあれこれも体得したろうが、ひとまずそれは置いておいて、歌を素直に穏やかに仕立てた。そう言えば僕は、彼女のデビュー時の記念品「現代実用辞典」を23年間ずっと愛用している。

おはじき

おはじき

作詞:髙畠じゅん子
作曲:杉本眞人
唄:木下結子
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 いとしい男に「おはじき」みたいにはじき飛ばされた女というオハナシは、作詞家高畠じゅん子の味な思いつき。それに杉本眞人が、いかにも彼らしいメロディーをつけた。矢田部正のアレンジが、近ごろ珍しいタイプで派手め。それに木下結子の歌が気分よさそうに乗った。女の恨みごとソングなのだが、まるでじめつかないのが面白い。

能登はやさしや

能登はやさしや

作詞:椿れい
作曲:梶原茂人
唄:川中美幸
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 歴史と風土、自然と人間、父や母...縁の糸につむがれる日々の営みを、おおらかに歌った能登讃歌。作詞、作曲者は見慣れない名前だが、熟成の無名人か。そんな叙情歌を川中美幸がスケール大きめに歌う。"しあわせ演歌"の元祖だが、こんな時代のこんな歌の流れだから、今や何でもアリの境地。だから意気込みをあらわになどしていない。

MC音楽センター
 連日、史上初の暑さが更新され熱中症で搬送された人数が放送される。お年寄りが亡くなるケースも。
 《その仲間入りだけはご免だな...》
 ぶつぶつ言いながら、僕は次の公演のけいこに出かける。酷暑とも炎暑とも言う多難な気候。この夏は僕の場合、7月23日から始まった。その前日の22日までは明治座の川中美幸公演に出ていて、劇場とごく近いホテルの往復だったから、ずっと冷房の中。それだけに強烈な陽差しには目がくらむ。延び延びになっていた歌社会のあれこれも重なっているうえ、僕は立派に〝お年寄り〟の一人だ。
 しかし、たむらかかしという青年は、なかなかの才能なのだ。本名は田村武也、作曲家協会会長でヒットメーカー弦哲也の息子だが、これが8月31日から3日間に5回、中目黒のキンケロ・シアターでやる路地裏ナキムシ楽団の公演「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」の主宰者。プロデュース、作、演出から音楽、作曲、歌、はさみ込む映像づくり...と、何から何まで一手引き受けの大変な座長なのだ。
 脚本へのこだわり方が相当で、実は半年もかけて練り上げた台本が改訂版に次ぐ改訂版。僕はその第一稿を7月5日初日の明治座公演に持って行ったが、そのうち手直しが来るだろうと楽屋に置きっ放し。案の定留守中に削っては足し、足しては削りで、その都度ドラマの彫りが深くなっている。遅れて入ったけいこの7月30日、手にした第何稿かでは、大詰めががらりと変わっており、一読して僕は不覚にも泣いた。
 「泣かせる」のが、たむらの劇づくりの狙い目。だから9回め公演の今回も「第9泣き」と表記する。〝劇団公演〟ではなく〝楽団公演〟と名乗るのは、たむら率いる路地裏ナキムシ楽団のドラマチック・フォークの新曲が、板付きで芝居を先導し、フォローするせいで、若さに似ぬ昭和テイスト。これまでは下町人情劇が続いていた。ライブハウスから上落合の小劇場、今回で2度めのキンケロと、着々とキャパを大きくし、なぜかけいこが始まる前にチケット完売という人気ぶりでもある。
 それが今公演は突然〝死神ファンタジー〟に転じた。登場人物もルシファ、バロール、ベルフェゴール、マリア、ジョーカー、キラー、ゼット...と横文字名前が並ぶ。雨の日だけ働くという死神たちがかかわるのは、刺されたやくざや放火で死を選ぶ主婦とその家族、芝居のけいこ中に事故死する役者など生死の境の人間たちだ。その連中が残す後悔や無念を、何とか晴らそうとするのが、死神たちの好意というか善意というか―。
 オムニバス形式のそれぞれの景に、たむらの筆が加わる。四六時中考えていて、ああもしたい、こうもしたい...の夢がふくらむのだろう。エピソードにリアリティを持たせるためのセリフの加筆訂正、ドラマチックに盛り上げる(つまりは泣かせる)ためのシチュエーションの変更...。たむらは一本の上演台本で、一体何回の舞台を夢想し、こんな時代と社会の、何を考えようとしているのか?
 「最初からそう書けばいいじゃないか」
 「第一稿はかなり未完成だったと言うことか」
 などとは言わないで頂きたい。確かに彼は発展途上の劇作家ではあろうが、大仰に書けばこれが、彼の舞台の神様への献身と誠心誠意、決して途中で諦めない粘り強さとエネルギー、一公演への見果てぬ夢の連鎖なのだ。けいこ中もなお、手直しは続くだろう。もしかすると初日があけた後もまだ、彼なりの欲を示すかもしれない。
 楽団はたむらを筆頭に、ハマモトええじゃろ、暮らしべ四畳半、カト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将と奇妙なステージネームの6名。役者は小島督弘、千年弘高、小森薫、上村剛史、中島由貴、橋本コーヘイ、押田健史、歌手の小沢あきこ、中島貴月、澤田樹奈、小早川真由、郡いずみ、大葉かやろう、Irohaに僕の15人。このうち上村と小早川と僕は、明治座川中美幸公演に出ていて、遅めのけいこ参加になった。
 この公演、レギュラーの僕が貰った役は「神さま」と呼ばれるホームレス。これがちょこちょこ出て来て、大詰めを「泣かせる」役で締めくくる大役である。
 《お代は見てのお帰りか》
 そううそぶきながら家を出る湘南葉山の海岸通りは、ほとんど裸の娘たちの闊歩と嬌声で大賑い。この際そのエネルギーも頂戴する気だが、正直眼のやり場には困っている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ199

 ≪えっ? 何だこれは? 俺、そんなに酔ってるか?≫

 ほろ酔いの深夜、新着のCDを聴いていて突然、覚醒した。東京で仲間うちと飲み、葉山の自宅へ戻ってのこと。新橋―逗子が横須賀線、逗子からはタクシーで2時間弱。年のせいで少なめになった焼酎は、水割りで3、4杯だから、酔いはとうに醒めている。テレビは例によって関西芸人たちの与太話。つまらないから聞き始めたCDの何枚めかで、でっくわしたのが鳥羽一郎が歌う『儚な宿』――。

 ♪雪をいじめる 湯煙りを よけて 積もればいいものを...

 鳥羽のしわがれ声が、すうっと入って来た湯の宿哀歌。「いじめる」とかその後の「飛び込んで」とか、ナマな表現がちと気になったが、メロディーともどもなかなかなのだ。

 ≪待てよ...≫

 と、注意深くなった二番に

 ♪嘘をつかなきゃ 逢えぬから 嘘を重ねる 罪もあろ...

 と来た。「罪もある」なら、近ごろ作詞家がよくやる断定型。それを「あろ」にすれば、含みと情が残る。そして「別れの覚悟が 嘘になる」と4行詞1コーラスを「嘘」でまとめて艶やかだし、三番の締め方もいい。

 連想したのは『おんなの宿』や『なみだの宿』の2曲。星野哲郎作詞、船村徹作曲の傑作とその姉妹編だ。女心のひたむきさと頽廃のにじみ方が、詞曲に似ている。

 ≪あのコンビの旧作か?≫

 と考えたが、すぐに≪違う!≫と思い返した。似てはいるが表現が若い。そう断定できたのは、星野・船村を長くこの道の師として来た僕の生理。歌詞カードのクレジットを見る。作詞が朝比奈京仔、作曲が木村竜蔵、編曲が蔦将包。

 翌日からが忙しくなった。鳥羽のマネージャー山田大二郎に作詞者を聞く。

 「知らない名前だけど、誰かのペンネームか?」

 鳥羽にはたまたま会ったから、直接心あたりを確かめる。

 「あのイケメンが、こんな曲も書くのか? お前さんなら筆名は島根良太郎だろ」

「何しろ子供のころから、星野・船村を聞いて育ったんだからさあ...」

 鳥羽の答えは明快、やっぱり木村竜蔵は彼の息子だった。

 山田からは作詞者のプロフィールがFAXで届く。筆名は「京仔」が「京子」の時と「山口あゆみ」の時と。タレント引退後、制作ディレクターを経て作曲家猪股公章に師事、平成3年、坂本冬美のアルバム曲で作詞家デビュー、16年ライブ活動再開とあるから歌手兼業か。驚いたのは本人からの手紙つきで

 「お忘れと存じますが、以前東芝から山口あゆみという名前でケイ・ウンスクさんのカバー曲『私には貴方だけ』をプロデュースしていただきました」

 とあるではないか!

 申し訳ないが、覚えていないのだ。歌のプロデュース作はそう多くないから、そんなはずはないのだが、もしかすると名和治良プロデューサーを手伝っての仕事か? 名和さんは三佳令二の筆名で韓国曲を山ほど訳詞した、僕のこの世界の伯父貴分でケイ・ウンスクの相談相手。スポーツニッポンの傍系に「ドーム音楽出版」を作り、二人で一緒に仕事をした仲だ。

 朝比奈の作品歴には中村美律子、桜井くみ子、チェウニ、すぎもとまさとらの名が並んでいて、みんな友だち。悪のりした香西かおりの『大阪テ・キエロ~あなたゆえに~』もこの人の詞だと言う。作詞歴28年、何だよ、そうとは知らぬまま、ずい分長くそばにいた勘定になるじゃないか。

 ≪縁は異なものだよな≫

 そう自分に言いきかせながら、改めて『儚な宿』を何度も聞き、素面(しらふ)でまた酔った。文中の星野哲郎、船村徹、猪股公章、名和治良の各氏がそろってすでに亡いことも、心に痛い。

月刊ソングブック
 「彼女はひとつ、抜けたな。持ち前の明るさの芯に陰りがなくなった。演技にもそれが出て、今や全開放と言うところか」
 明治座で奮闘中の川中美幸を観て、演出家の大森青児が言い切った。ここ2・3年、川中の持ち前の明るさにも、いまひとつ吹っ切れなさを感じていたらしい。演出家の眼というのは恐ろしいもので、長く一緒に仕事をする僕らには見えなかったものが、ちゃんと見えているのか。僕らから見れば彼女はここ10年ほど、いつもながらの明るさで〝人の和〟の中心に居り、細やかな気くばりもいつも通りでしかなかった。
 7月の公演中に彼女は、亡くなった母親久子さんの初盆を迎えた。言い伝えどおりの飾りつけをし、迎え火を焚いて何日か、帰って来た久子さんの霊と心静かな時を過ごしたろう。庶民の暮らしの中に、今も息づいている風習だが、彼女のそれとの取り組み方は、なまじのものではない。小さな飾り壷に遺骨の一部を容れて、そっと持ち歩くさまにも、母娘の情愛の深さがうかがえる。そして彼女は、そういうやり方をごく個人的なものとして、周囲の人々にも感じさせずに来た。
 母と娘の心の通わせ方を、僕は美空ひばり母子に長く見て来た。二人の間には時々、抜き差しならぬ闘いが生まれる、芸ごと本位の厳しさがあった。それに較べて川中の場合は、お互いが相手を包み込みながら、夢を追う暖かさと穏やかさがあった。母娘の情の表れ方がごく庶民的で、それが川中の独特の魅力に通じていたかも知れない。
 川中の明治座公演は、池田政之作・演出の「深川浪花物語」で、大森は一人の観客として劇場に現れた。以前「天空の夢」という芝居を演出、川中に芸術祭賞を受賞させたいわば同志。当然、芝居そのものを彼なりの眼で見守ったろうが、ズケリと言った一言の方に重みがあった。久子さんの長い闘病や川中の献身的な介護、そのうえに母を見送った傷心などの情報は得ていたはず。それを皮相的には捉えず、川中の心の内側やその奥をこの人は透視している。
 《「抜ける」は一つの境地を「通り抜ける」意か、ひどく簡単な表現だが、恐ろしく意味あい深い使い方だ...》
 観劇後の大森を囲んで、仲間うちの飲み会をやりながら、僕は彼の言葉に耳を傾けざるを得ない。NHKで多くの大作ドラマを演出した人だが、30代後半に仕事上の壁に突き当たったことがあると言う。それでもひるまず自分流を貫いたある日、先輩制作者に言われた一言が、
 「うん、抜けたな、もう大丈夫だ」
 だったそうな。本人は全く自覚症状などなかったが、ずいぶん後になってから、確かにそのころ、階段をひとつ上がったような応分の手応えに気づいたと言う。そんな状況をまたある知人は、
 「ぶち当たったのは大きな壁と思ったろうが、何のことはない、紙一枚ほどのものだったはずだよ」
 と言ってニヤリとしたとか。
 何の仕事でも同じだろうが、その気になって踏ん張れば踏ん張るほど、その仕事の物心ついたころに、壁を感じることがある。その時に眼の前に現れるのが目に見えぬ階段で、それを一枚ずつ自力でのぼれば必ず活路は開ける。その階段にいつ気づいてどう対応するか、気づかぬまま物事を「慣れ」でこなしていくかが、人間の岐路になる...。
 門前仲町あたりで一杯やりながらの話が、どんどん深くなっていく。それも力説論破の勢いではなく、さりげない世間話ふうに展開していくのだから、こちらはだんだん酔っていられなくなる。僕は大森演出の「天空の夢」で約8分、主演の川中に人の道を教え諭し、ついには彼女を号泣させる大役を貰ったことがある。二人だけの一景、舞台装置もその場だけの夢みたいな出番で、あれは確かに、僕の役者としての一つの頂点だった。しかしさて、7年ほど前のあの芝居で、僕は「抜ける」ことが出来たのかどうか?
 その成否はさておいて、「抜ける」ために必要なのは、人生の岐路を実感する出来事との遭遇や、与えられた大きなチャンスなど、いずれにしろ人間関係に由来することが多い。だとすると僕は、80年余を流れに任せて生きて来て、結果長い病いとして身につけたのは「人間中毒」と「ネオン中毒」の二種である。数多くの一流の仕事師や人生の達人との出会いや刺激的な出来事の見聞に恵まれはしたが、果たしてこれまでにどこかで「抜ける」ことが出来たのかどうか、この先「抜ける」ことが出来るのかどうか。酔余、深夜の物思いは、あてどなくなるばかりになった。
週刊ミュージック・リポート

みんなが昭和歌謡を再現する

 ベテラン2人が自作自演をしている。北島三郎が『男松』森進一が『北港』。
 たくましい松に例えて、男の根性を歌う北島は詞も本人。80歳を過ぎ身辺の多難さを考え合わせて聞いても、歌声に老いは隠せない。森も詞曲で『港町ブルース』の昔を追う気配。やむを得まいが、やはり声の艶は往年と違う。
 北島の船村徹、森の猪俣公章と、ともに師匠はすでにない。そんな境遇で、昭和のあのころを再現する2人。歌づくりの胸中に去来した感慨は、どんなものなのだろう?

火の河

火の河

作詞:池田充男
作曲:岡千秋
唄:真木ことみ
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 池田充男にしては珍しく、前半破調の詞に岡千秋が寄り添う曲をつけた。歌い出しの歌詞1行から、ゆったりと長めで、歌い手は情感の維持を強いられる。話し言葉の2行分で昂ぶった思いを、歌い収め2行分は演歌調で決める寸法。ここで歌い手はお得意の歌唱に戻れて気分は解放された。
 前作で真木ことみは、ファルセットも使って女唄に転進した。その名惜りは歌唱のあちこちに残り、息づかいや歌う語尾のやわらかさに生きる。特異な声味を持つ人が、一曲ずつ孵化していくようだ。

儚な宿

儚な宿

作詞:朝比奈京仔
作曲:木村竜蔵
唄:鳥羽一郎
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 朝比奈京仔という作詞者を、寡聞にして知らないが、なかなかの書き手。4行詞の湯の宿女心哀歌を、きっちりと仕立てている。短い詞だから、重ね言葉や行間の含蓄に頼ることになるが、2番の艶っぽさ、3番の歌い収めあたりで力量を示す。
 作曲した木村竜蔵は鳥羽一郎の息子。あのダンディー、イケメンが古風なくらいのこんな艶歌を書くことにも驚く。蔦将包のアレンジ、鳥羽の歌唱もすっかり〝その気〟で、この作品は明らかに、星野哲郎、船村徹コンビの世界を追っていて、愉快だ。

男松

男松

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 原譲二が奮闘している。詞では身上の根性ものに知恵をしぼり、曲では起承転結、これでどうだ!の力の入れ方。いかにも北島三郎らしい世界が出来ている。80歳を過ぎてもう2年、ほどほどの境地に収まってもよさそうなのに、なお自分を奮い立たせ、全盛期の歌世界を構築しようとする情熱に感じ入る。もはやこれは執念だろうか?

江差恋しぐれ

江差恋しぐれ

作詞:万城たかし
作曲:宮下健治
唄:水城なつみ
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 キングレコードの歌謡選手権は、この社独自のカラオケ大会。そこの常連として何年も、勝ち抜いて来た人と聞く。きっと真面目にコツコツと、1曲ずつ取り組み、クリアして彼女なりの魅力を作って来たのだろう。そういう作品との向き合い方が、この歌にも表れている。芯が明るめな声で、本人も歌唱も、気持ちが上を向いて一生懸命だ。

北港

北港

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:森進一
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 とうにベテランの域に達しているから、自作自演だが特段の気負いはない。こういう曲をあのころは、こういうふうに歌っていた...とでもいいたげに、歌を楽しんでいるようだ。そう書くと「とんでもない、いつも通りに目いっぱいだよ」と本人は反論しそうだが、昭和歌謡は歌づくりの懸命さを裡に秘めて、こういう楽しさが確かにあったな。

鈴鹿峠

鈴鹿峠

作詞:久仁京介
作曲:四方章人
唄:成世昌平
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 成世昌平の歌の"決めどころ"は、民謡調の高音のびのび感。それを承知で四方章人が、歌い出しから高音を使い、サビと歌い収めでまた高音の、W型の曲を書いた。詞は久仁京介の峠の別れ歌。「胸はなみだで濡れそぼつ」女心ものだから、成世は得意の高音もやわらかめな息使い。やわやわとした情趣のむずかしい曲で、カラオケ上級者向けか?

じょっぱり よされ

じょっぱり よされ

作詞:内藤綾子
作曲:西つよし
唄:長山洋子
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 津軽三味線を立ち弾きで、派手めに歌う長山洋子の姿が、目に見えるようだ。1コーラス9行の詞(内藤綾子)を4つのブロックに分け、訴求力を絶やさぬ工夫の曲(西つよし)が、長山の〝芸〟を生かす。よく聞くと男に添えなきゃ「死んでやる」とか「生きている意味がない」などと、恋を譲らぬ女心の表現がかなり強め。長山の歌の気合いも強めだ。

いちから二人

いちから二人

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽
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 BSテレビ各局は、昭和歌謡ばやりで、年配の歌好きが喜んでいる。そんな流れがあるなら、本気で今、昭和歌謡を作ろうかと、荒木とよひさと弦哲也が踏ん張った。2人とも昭和歌謡で育ち、仕事をして来たから確かにお手のもの。神野美伽の歌もその辺を委細承知の乗りで、こちらも「たっぷり!たっぷり!」と、掛け声をかけたい気分だ。

MC音楽センター
 ベテラン俳優・田村亮扮する新聞記者は「軽妙」にして「酒脱」ひょうひょうたる言動で存在感を示す。品がいいのはご存知の通り。松竹新喜劇の売れっ子・曽我廼家寛太郎は「爆笑」と「お涙」の両極を演じる板前役。芝居全体を俯瞰する視線が、能ある鷹...で微笑の陰にある。元フォーリーブスのおりも政夫は「活力」と「やんちゃ」な味で、料亭の気のいい若旦那をやる。その母親で料亭の女将の冨田恵子は「小粋」で、お人柄の穏やかさと優しさが、得も言われぬ「風情」をかもし出している。
 7月、明治座の川中美幸公演「深川浪花物語~浪花女の江戸前奮闘記~」を支える人々だ。その芸達者たちに囲まれて、川中は大阪から東京・深川に出て来た女性の、波乱万丈を演じて文字通りの「奮闘」ぶり。根っ子に生きるのは、関西人特有の「諧謔」と「人情味」だろうか。奮闘する役者さんは他にも居て、例えば遠藤真理子。川中の奮闘に寄り添うように、出ずっぱりで演技もこまごま的確。もう一人、ふっくら体形が得なキャラの安奈ゆかりは、要所々々で巧みに笑いを誘う。この人が僕の親友で「地方の巨匠」と呼びならわす作曲家兼歌手・佐伯一郎の娘だから縁は異なものだ。
 この芝居、川中が恩師とする作詞家もず唱平の50周年記念曲として、彼女が歌っている作品を、タイトルそのまま池田政之が作・演出したオリジナル。大阪から出て来た美幸(役名)は24才からスタート。没落しかかる実家に押しつけられた政(経?)略結婚のはずが、嫁ぎ先の深川の工場は夜逃げした後。途方に暮れた彼女を、料亭の仲居に紹介するのが記者の田村で、どうやら相思相愛の仲になる。ところが料亭はおりも若旦那が株で大穴をあけて勘当、女将は店を維持するために板長・寛太郎と結婚させるが、この板長もバクチで大損をして失踪する始末...。
 結局、女将の跡目をついだ美幸は、ナツメロを歌いながら健気に料亭を切り盛りする。曲目が「東京の花売娘」や「東京キッド」「リンゴの唄」などになるのは、背景が昭和30年代後半で東京オリンピック前夜のせい。そこでボチボチ僕の出番になるのだが、若旦那の借金で風前の灯の料亭の、土地売買にからむ有名商社の会長役。一見穏やかな紳士だが、利権を追う〝裏の顔〟も持っていて、美幸を脅迫したりする。
 第一幕の大騒ぎを第二幕で出て来て締めくくり、大団円へ導く大役を貰っただけではなく、一幕めは別の二役まで与えられたから、衣装とメイクで変装!? する必要に迫られる。池田演出は笑いと涙を山盛りに、切れ味十分でスピーディー。裏方スタッフ100名余がなかなかの手際でその転換を受け持つから、僕はその勢いにも追われる。ついでに書けば、第二部のショーでも、競馬狂と豆腐売りの二役を貰ったが、双方馬鹿丸出しのお笑い役。劇場公演には衣装の早替えがつきものだが、
 《メイクの早替えってのもあるのかよ!》
 と僕は二枚目と三枚目を行ったり来たりの初体験、楽屋の席があたたまる暇もない。それを穏やかに見守る楽屋隣室の主は旧知の山本まなぶで、こちらは事業に失敗、美幸を窮地におとしいれる実家の兄役と、債権取り立てのヤクザの兄貴分。ショーでは遠藤と「貴船の宿」を踊るが、すっきり二枚目の舞い姿が見事で、聞けば前進座の出身。自由ヶ丘あたりで社交ダンスの教師もしているとか。
 バタつく僕を「頑張れ!」と介護気味なのは、友人の上村剛史と小早川真由。僕とこの2人は、8月末から9月にかけて、中目黒キンケロシアターでやる路地裏ナキムシ楽団公演「雨の日のともだち・死神さんはロンリナイ!」にも出る。座長で作・演出の田村かかし武也が明治座に現れて
 「けいこは適当に進めているからね」
 と、ニヤリとした。
 この原稿中盤に出て来た安奈の父・佐伯一郎は、7月5日の初日に車椅子で現れた。脊椎をやられていて8回も手術をした体だが、娘と僕の共演に「何としても!」と気合いが入ったらしい。もともと作曲家船村徹に兄事、一緒にアルバムを作ったベテランだが、静岡・浜松で弟子たちを育て〝東海の雄〟になっている男。だから川中が先輩扱いをして、
 「芸もなかなか、いい娘さんねえ」
 と声を掛けたから、夫人ともども涙ぐむ親馬鹿ぶりを示したものだ。
週刊ミュージック・リポート

おなじみ路地裏ナキムシ楽団今年の公演は831日から92日まで、中目黒キンケロ・シアター。座長で作・演出家で作曲家で歌手・・・と、オールマイティーの男たむらかかしが意表を衝く作品を用意した。「雨の日のともだち~死神さんはロンリナイ!~」だ。

「第9泣き」と表記するのは、このチーム公演が9回目の意味。毎回「泣き」にこだわり「笑い」も加味するのが作風だが、今回は少々「昭和テイスト」を離れた。何しろ活躍するのがルシファ、バロール、ベルフェゴールなど片かな名前の死神たちで、なぜか「死」を執行するのは雨の日に限られている。晴れが続く間、執行猶予される人間たちの過去や現在があぶり出されて、悲喜劇が生まれるという寸法。

観客をジンジンさせるのはナキムシ楽団のハマモトええじゃろ、暮らしべ四畳半、カト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将にリーダーのたむらと、妙なステージネームの6人組の演奏と歌。「青春ドラマチックフォーク」を標榜する世界だ。

お話を主導する役者たちは常連の小島督弘、千年弘高、小森薫、上村剛史、橋本コーヘイ、押田健史、小沢あきこ、中島貴月、Iroha、と僕。それに中島由貴、澤田樹奈、小早川真由、郡いずみ、大葉かやろうが加わった大賑いだ。

例によって最高齢の僕の役は一見ホームレスだが役名は「神さま」という謎の人物。「いい脚本だぞ!」と悪乗りの極にいるが、びっくりしたのはケイコも始まらぬ6月中旬過ぎにチケット完売の超人気。831日夜91日の昼夜、2日の午後の4公演がアウト!で、急きょ211時からの追加公演が決まった。

前評判がひた走るセンチメンタル・ファンタジー、追加公演分がゴールドチケットになっている。熱い夏が続く!

雨の日の友達表

雨の日の友達裏
 江東区森下に「SUN」という軽食と喫茶の店がある。ぶらっと入ったら作詞家たかたかしの色紙が目を引く。それも落款つきだから、店へ来た時に書いたものではなさそう。
 「どういう関係なのよ」
 と聞いたら、ママの口からいろんな名前が出て来た。作曲家市川昭介だの、作詞の川内康範だの。この人マッサージの名手だったらしい。
 「へえ、みんなあんたの顧客だったんだ」
 「お客さんもそういう関係の方ですか...」
 なんて問答になって、それ以来、僕は毎日その店へ立ち寄ることになった。
 都営新宿線森下駅から大島方向へ、信号をひとつ越えたあたりの右側にその店はあって、明治座のけいこ場のちょっと手前。僕は川中美幸7月公演のけいこでそこへ通っていて、顔寄せの6月19日から7月2日にけいこが明治座へ移るまで、休日2日を除いて11日間通った。ママはたかのマネジャー小林隆彦と連絡したらしく、僕の呼び方もあっさり「頭領」になる。
 《縁は異なものだが...》
 常連気取りが大好きな僕は、鯖の塩焼き定食など、遅めの朝食を摂る日も。やたらに気のいいママは、野菜サラダだの目玉焼きだのちくわの煮物だのをオマケの大サービスだ。
 明治座の川中公演、芝居が「深川浪花物語」で、作詞家もず唱平の50周年記念曲として、彼女が歌った近作の同名のドラマ化。作・演の池田政之が、面白おかしい下町人情劇に仕立てて、時おりほろっとさせながら、随所に笑いが仕込まれている。サブタイトルの「浪花女の江戸前奮闘記」ですぐ判ろうが、大奮闘なのが川中で、共演は田村亮、曽我廼家寛太郎、おりも政夫、冨田恵子、遠藤真理子、山本まなぶという面々。
 ありがたいことに川中一座唯一のレギュラーになった僕は芸歴12年めになる。今回は昭和37年の深川を舞台に、没落した料亭の再建を目指す川中と、土地売買でからむ大手商社の会長役をやる。一見好々爺ふうがしぶとい裏の顔も持つ役柄で、川中をおだてたり脅したり。第二幕の後半に出て来て、川中の奮闘記を締めくくる大役だから、振付と所作指導のベテラン若柳禄寿が、
 「凄くいい役で、こんなの滅多にありませんよ」
 と、僕を〝その気〟にさせてくれる。この人には12年前のこの劇場での初舞台で、床几に座る姿勢や歩き方などを手ほどきして貰った恩義がある。そんな僕の奮闘記!? をニコニコ見ている瀬田よしひと、上村剛史、倉田みゆき、穐吉次代、小早川真由らはこれまで川中公演で一緒になったお仲間。安奈ゆかりは何と僕が〝地方区の巨匠〟と呼びならわす親友で浜松在住の作曲家兼歌手佐伯一郎の娘だったりする。
 ところで川中が「恩師」と呼ぶもず唱平は大阪・枚方市が自宅。6月18日の大阪北部地震6弱の震源地だ。あの日昼前に安否確認と慰問の電話を入れたら、
 「ま、みんな無事ですが、家の中はぐちゃぐちゃですわ」
 と、浮かぬ声の返答があった。近所の事務所内部もぐちゃぐちゃらしいが、秘書の保田ゆうこともずの弟子の歌手高橋樺子の話だと、前日にカラスの大群が大騒ぎ。
 「地震でも来なきゃいいけど...」
 とヒソヒソ話をした一幕があったとか。天変地異には何かしら、そんな兆しがあるものなのか。
 《公演期間中に、もずは明治座へ来るだろうが、くすぐったい思いをするかも知れないな》
 僕はけいこ場でニヤニヤする。芝居の大詰め、新聞記者役の田村が作詞に手を染め、川中にその第1作をプレゼントするのだが、それが「深川浪花物語」という設定なのだ。自作のドラマ化も乙な気分だろうが、作中の人物がもずの仕事をするかっこうになるのは初体験だろう。
 「そうですね、先生がどういう顔をするか...」 川中のマネジャーで、芝居づくりにもかかわっている岩佐進悟も、同じことを考えたようだ。
 川中の明治座公演は、松平健との共演作以来4年ぶり。7月5日初日、22日千秋楽で、休演日1日をはさんだ17日間の公演回数は28だが、何とそのうち21回が貸切りという驚異的な内訳。チケットが一般発売されるのはわずかに7公演だけで、
 「俺たちはいつ見に行きゃいいのよ」
 と、歌社会のお仲間は、その7回分と自分のスケジュールをにらめっこしている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ198

昭和の名残りの歌になるのか? おそらくこれがそういう最後の作品だろう...。そんな思いで天草二郎の新曲『天草情歌』を聴いた。作詞が中山大三郎、作曲が船村徹。亡くなった二人の歌書きが共有した青春の感慨が、平成の30年を飛び越して今、しみじみと胸をひたすではないか!

縁というものは、こわいくらいの形で姿を現わす。この歌が世に出るきっかけを作ったのは、船村夫人の福田佳子さんの小声の歌だった。昨年の815日夕、船村の初盆に内弟子たちが集まったのは、湘南・辻堂の船村家。師匠が216日に逝ってほぼ半年後になる。

 「おっかあ、みんなを今後とも頼むよな」

 弔いの酒を含みながら、口火を切ったのは内弟子5人の会の兄貴分鳥羽一郎で、夫人を彼は、親しみをこめてこう呼ぶ。

 「そう言えば"天草情歌"って譜面が書斎の机に残ってた。こういうメロディーで...」

 佳子夫人が歌うと、即座に鳥羽が、

 「これは俺の歌だな。絶対に俺用だ」

 と応じた。しかし...と僕らはさえぎる。タイトルからすれば師匠の遺志は天草だろう。故郷の地名をそのまま芸名に与えられた彼は『天草かたぎ』『天草純情』などを歌っている。

 困ったことに歌詞が一番しかない...と話が進んで、僕の出番になった。

 「三佐子、大三郎が船村先生のとこに出入りしてたころの歌でさ...」

 電話した相手は中山夫人である。彼女もそのダンナも、親しい友人だからそう呼び捨てのつき合いのうえ、3ヵ月ちょっと前の47日に、大三郎の13回忌法要で会ったばかりだった。 

「私たちが結婚する前のものだと思うけど、探してみるね」

 それから何日か、残された資料をひっくり返して、三佐子夫人はこの歌の原稿を見つけ出した。大三郎は船村の弟子筋、歌うことになった天草は船村の内弟子の三男坊。未発表作品の一つで、男たち3人の演歌の血がつながった。

 ♪雨雲が西へ流れる ふるさとは雨だろうか...

 都会に出ている主人公がしのぶのは、むしろをたたむ母親と、急いで帰る妹の姿。柿の実もふたつや三つ落ちたころのふるさとだ。大三郎の詞は二番で、バスを待つ日暮れの雨に、別れた日の光景を語り、三番ではいつの日か、望みを果たして故郷へ帰ろう。その日まで、あぜみちよ、森よ変わるな、ふるさとに雨よ降れ...と念じるのだ。

 大三郎が描いたのは、昭和の原風景そのもの。詞に託したのは、あのころの男たちの多くが抱いた望郷の思いだ。彼に九州都城の風景があったとすれば、船村には栃木・船生村(当時)の風景があったろう。この詞を書いたころ、大三郎にまだ見果てぬ夢があったとすれば、すでにヒットメーカーに大成していた船村にも同じように胸を灼いた時期があったはずだ。

 だからこそと言うべきか。船村が書いた曲は情趣嫋嫋の船村メロディーで、彼ならではの「情歌」になっている。歌っている天草は技を用いず声を誇らず、素朴なくらいの歌唱で、彼自身の望郷の念を巧まずに作品に重ね合わせた。

 「7月に天草で発表会をやります。3日連続でやります!」

 そう意気込む彼の言葉には、師の遺作を貰った喜びと、応分の達成感がにじんでいた。

 さて、平成の時代は間もなく終わり、新しい年号の時代が始まる。そんなはざまの年の夏に僕は考える。戦後の昭和には語り継ぐべきものが山ほどあった。しかし、平成は果たして何を残せるのだろう? 時代はどこへ向かっているのか? 歌書き2人の遺作は、今日を築いたあのころの活力を、思い返すよすがになる。しまわれていた時間ほど決して古くなどない――。

月刊ソングブック
 6月12日は亡くなった作曲家船村徹の86回目の誕生日。いつもなら彼が「歌供養」を催し、夭折した作詞家高野公男や戦死した実兄福田健一氏の霊を弔い、その年度に亡くなった歌社会のお仲間に合掌、あわせて陽の目を見なかった歌たちを供養した日だ。今年はその当日、鳥羽一郎が筆頭の内弟子5人の会の面々が集まると聞いて、栃木・日光へ出かけた。船村徹記念館に隣接する多目的ホールで、イベントのタイトルが「演歌巡礼・船村徹を歌い継ぐ」―。
 タクシーの運転手氏がボヤいた。話を聞いてすぐ飛んで行ったら、もうチケットは完売。
 「関係者でしょ? 何とかならないかねえ」
 と言われても、当方手の打ちようもない。
 「船村先生の歌はいいよ。ゲストに大月みやこが出るってな。あの人も鳥羽一郎も大好きでさ。やっぱり演歌はいい!」
 未練たっぷりの目つきを振り切って僕は会場へ入る。
 《そうだよな。〝演歌巡礼〟ってのは、船村先生がこういう人たちと会い、膝つめで歌うために、全国あちこちへ出かけたイベントだった》
 こちらはすっかり、内弟子5人の兄弟子になり切っている。
 村木弾が「別れの一本杉」と「夕笛」走裕介が「ご機嫌さんよ達者かね」と「なみだ船」天草二郎が「早く帰ってコ」と「宗谷岬」静太郎が「おんなの宿」と「新宿情話」鳥羽一郎が「雨の夜あなたは帰る」と「男の友情」を歌う。ゲストの大月みやこはもちろん「女の港」で、5人が合唱したのは「ダイナマイトが百五十屯」と「師匠(おやじ)」という具合。演奏は船村と常々一緒だった仲間たちバンドで、一時体調をこわしたギタリスト斉藤功も、少しやせたが元気だ。
 キャパ300のホールで昼、夕2回公演。近隣の善男善女でぎっしり満員の客席が、1曲ずつに揺れる。栃木なまりの掛け声もにぎやかで、歌い手それぞれに花束や祝儀袋が届けられた。客席中央あたりで僕は、ゆっくり船村ワールドを満喫する。昭和30年代にタイムスリップするうえ、出てくる曲目は全部、一緒に同じ時代を並走した。それぞれを創唱したスター歌手たちや、多くの作詞者とも顔なじみ。ことさらに作詞家星野哲郎の笑顔が脳裡に戻って来る。1曲ずつがその時代を象徴しており、幾時代も超えて歌い継がれる傑作も多い。作品の生命力の凄さだろうか。
 客席の同じ列に船村夫人の福田佳子さん、娘の渚子さん、息子蔦将包夫人のさゆりさんの顔が並ぶ。蔦は舞台で仲間たちバンドを指揮、ピアノを弾いていて、船村家が勢揃いだ。司会の東京太はいるには居るが、ショー全体を仕切っているのは鳥羽。側によって間(ま)が物を言う訥弁の能弁が、弟分たちの師匠ばなしをリードする。そのやりとりが面白くて客が喜ぶのだが、お陰で昼の部は30分も押した。
 船村門下はみんな、メロディーを軸に声と節を聞かせるタイプで、歌唱に小細工はない。それに村木は「率直」走は「のびのび」天草は「朴訥」静は「没入」と、歌との向き合い方と人柄がそれぞれ独特のキャラを作っている。鳥羽はあの名状し難い声と節とエネルギーで、歌まで「兄貴分」そのものの存在感が弟たちを圧した。
 《偉いもんだよな、鳥羽も...》
 と、僕が感じ入るのは、彼の二つの〝男気〟だ。その一つは、
 「声がかかれば、どこへでも行く」
 と「演歌巡礼」で師の心を継ぎ、その足跡をたどろうとする覚悟。荼毘に付した日、師の骨を噛み、後日遺骨を少し稚内の海に還した彼ならではのことだ。男気のもう一つは、この種のイベントを精力的にやって、弟分たちに歌う場を作っていることだろう。
 過日、震災や水害の九州で支援のコンサートを5人の会として開いたが、その都度寄金したのが何と500万円前後。5人は手弁当、枚方から会場費、制作費などの経費を差し引いた残り全額である。
 これにはびっくりし、大に喜んだのは、受け取った自治体の代表たちで、
 「有意義な形で役立てさせて頂きます」
 と、あいさつも自然、熱っぽくなった。
 「収益の一部をどうぞなんていうのは、かったるいでしょう」
 そう言い切る鳥羽の思いは、篤志家の師匠船村譲りなのだ。
週刊ミュージック・リポート

作詞家たちに苦言を一席!

 4月22日、箱根のホテルで開かれた作詩家協会の研修旅行会にお呼ばれした。僕は一時間ほど、歌づくりに冒険を!とぶち上げる。類似作品を書いていても、歌社会に乱入などできはしないよ...の助言だ。
 参加者70名ほど、平均年齢は60代後半か。会食から二次会まで、終始なごやかな雰囲気で、カラオケが賑わうあたり、みんな大の歌好きなのだ。喜多條忠会長以下の幹部が、心を砕いて再編した結果とよく判る。残念なのは野心ギラつくような若手が居ないことだった。

灯ともし頃

灯ともし頃

作詞:永井龍雲
作曲:永井龍雲
唄:桜井くみ子
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 デビューするずっと前に、酔った僕が〝おかめ〟と呼んだら、「ひどい」と泣いた。師匠の藤竜之介が日本古来の美女の誇称だと慰めたら雨のち晴れ、プロになってからも会うたびに「おかめです!」と笑顔を作る人になった。
あのころの、いたいけなさが、この作品に見事に表れている。恋する乙女の心情が、ひどく一途で、かぼそげで、はかなげで...。
 永井龍雲の作詞、作曲。灯ともしごろの娘のもの思いを的確に描いて、それが桜井くみ子の感性にぴったりはまった。萩田光雄のアレンジにも包まれて、この人の歌の巧みさが生きた。この人はこの曲できっと一皮むける。

夢落葉

夢落葉

作詞:里村龍一
作曲:岡千秋
唄:秋岡秀治
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 〽古い酒場の赤ちょうちんが、おいでおいでと手まねきしてる...この作品の3番にあるフレーズ。作詞した里村龍一は、今夜もそんな気分で飲んでいるのだろうか? あいつは酒の歌を書かせたら一流だと僕は思う。
 言動粗野、毀誉褒貶の毀だらけの男だが、時々「えっ?」と驚くような詞を書く。その孤独さが見逃せなくて、長いつきあいが続いている。作曲した岡千秋ともども、漁港型の不良か。
 いい詞と曲を貰って、秋岡秀治はすっかり〝その気〟だ。低音響かせ、高音を渋めにしぼって、群れにはぐれた男心を懸命に演じた。

片恋おぼろ月

片恋おぼろ月

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:竹川美子
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 作詞した原文彦は四国在住、東京を望見して詞を書き、なぜか作曲の叶弦大との仕事が多い。これもその一作で、竹川美子の15周年を記念するとか。叶が丸がかえの歌手だが、もうそんな年月が過ぎたか!
 珍しく日本調、小唄端唄の匂いがある歌い出しのメロディーが叶の工夫。竹川の歌表現は相変わらず一生懸命ひと色だ。

日豊本線

日豊本線

作詞:鈴木紀代
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎
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 男は小倉駅から列車に乗る。どうやらぶざまに別れてしまった女へ、やり直したい未練をかかえての帰郷らしい。そんな鈴木紀代の詞に作曲は水森英夫。
 泥くささで行くなら、徹底的に泥くさく...と水森は、歌づくりに肚を決めている気配。それを民謡調の節回し、高音部はこれでもか!の気合いで、池田輝郎が歌った。

ぼたん雪

ぼたん雪

作詞:一葉よう子
作曲:村田耕一
唄:西方裕之
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 しのぶ湯の里、恋のおわりを「一夜一生、女で生きる」が決めフレーズに、ま、定石通りの詞は一葉よう子という人。そんな6行詞に起承転結ほどよく、作曲したのは村田耕一という人。
 西方裕之は面白い歌表現で、女心ものを男ものふうに歌ってみせる。歌う口調にそういう響きが出て、それがほぼ定石通りの詞と曲に、メリハリをつけた。

哀しみのコンチェルト

哀しみのコンチェルト

作詞:花岡優平
作曲:花岡優平
唄:秋元順子
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 花岡優平の作詞、作曲、秋元順子の歌とくれば、おなじみのコンビ。「こんなに世の中が便利になったけれど」などと生な表現が詞にひょこっと出てくる。歌も低めの音域の歌い出しから、後半の盛上がりまで、無造作な口調で、双方にさしたる緊張感はない。
結果、秋元特有の声味が生き、のびのびおおらかな青春回想ソングになった。

MC音楽センター
 「枚方」と書いて「ひらかた」と読む。「枚」がなぜ「ひら」なのか、見当もつかぬままの丸暗記で、6月5日、そこへ向かった。偶然というのは恐ろしいもので、早朝の新幹線、車内の電光ニュースにその件が出て来た。市がアンケートを取ったが、その結果を、
 「難読を逆手に取り、前代未聞、捨て身でいく」
 と、市当局が居直ったと報じる。
 大阪のベッドタウンでもあるらしいその枚方に住み、作詞家のもず唱平は40年になる。
 「ま、終(つい)の栖(すみか)ですな」
 と本人が言う町の市民会館で、この日、彼の作詞生活50周年記念コンサートが開かれた。昨年9月の彦根を皮切りに、神戸、京都、奈良と続いたシリーズの最終回。親交が長い当方としては、何はともあれ、祝いの主の顔を見に行くのだ。
 昼夜2回公演、キャパ1500のホールがぎっしり満員になる。出演は川中美幸、鳥羽一郎、鏡五郎、松前ひろ子、長保有紀、三門忠司、成世昌平に新人の塩野華織、高橋樺子とゆかりの9人で、司会は水谷ひろし。コンサート5回皆勤は川中で、ほかに記念のディナーショーが2回あり、水谷は合計7回、もず唱平の世界の道案内をした勘定になる。
 《記念行事はよくあるが、シリーズ化は珍しい》
 と、僕は初回の彦根、大阪でのディナーショーに今回と、3回もつき合ったから、さすがのもずも恐縮の面持ちを作る。
 「どうもどうも、ご苦労さんです」
 と笑顔の歌手たちはみんな親しい顔ぶれ。彼や彼女らの歌をのんびり聞いて、お楽しみは全員と関係者の、打ち上げの酒盛りなのだから、ま、当方さして苦にもならない。
 映像参加も含めて、もず作品は「釜ヶ崎人情」「花街の母」「虫けらのうた」「浪花人情ラムネの玉やんの唄」などが並ぶ。底辺に生きる人々の哀歓を歌う作品が特色で、主人公は立ちんぼの労働者、子持ちの芸者、極道と酒びたりの夫婦の息子が、おいてけぼりを食ってグレてのお話など。もず本人が昔、
 「未組織労働者の歌ばっかりですねん」
 と、苦笑したが、僕はおよそ歌にはなりにくいそんな世界を、情の濃い視線で見守る彼を大いに支持する。その流れは長保の近作「人生(ブルース)」に続いていて、作曲した弦哲也が「あの詞には刺激を受けた」と話していた。
 中学生のころ、もずにスカウトされ、やがて春日はるみの芸名でデビューした川中の「新宿天使」の再現が拾いもの。藤田まことが創唱した「...ラムネの玉やん」は、大阪の香具師(やし)の露店の口上がユーモラスで、これも川中が立て板に水。成世がブレークしたのは「はぐれコキリコ」三門の出世曲が「雨の大阪」で、鳥羽の「泉州春木港」川中の「宵待しぐれ」も味わい深い。鏡が歌った「花火師かたぎ」は、もずと船村徹の実話もので、実は彼の芸名は船村が名づけ親。この曲は何10年ぶりかで船村の指名...と来て、鏡が大喜びしたエピソードもある。
 《歌はやっぱりフルコーラスでなきゃ...》
 客席で僕はそう再確認する。作詞家の記念イベントのせいか、ここに挙げた代表作は全曲フル。もずの作品の多くは特異なストーリー性を持つから、1曲ずつの酔い心地や感慨も、聴く側にたっぷりめになる。いつのころからかテレビの歌番組は全部2コーラス。放送時間内になるべく大勢の歌手を登場させ、視聴率アップを狙う結果だろうが、それがはやり歌全体を未完成で薄めのものにして久しい。歌手たちは放送なしのコンサートでもテレビサイズで歌うことが当たり前になり、作家も制作者も全く疑義を唱えぬ風潮はいかがなものか。
 大阪についての僕の土地カンは、梅田に難波、新歌舞伎座周辺の上六とごく限られた点のままだが、今回の枚方行きで多少は線につながった。新大阪駅から車で小1時間、近畿道や第一国道の標識を追って、高槻には東映剣会の西山清孝や歌手日高まさとの母親、守口には老優細川智が住み、門真には村田英雄の密葬に出かけたなどという具合だ。門真を「モンマ」と発音したら、もずが怪訝な顔になり「ほら、松下の工場があるとこ」と言い足したら「カドマやろ」と言い返された。
 枚方は大阪から京都へ向かう途中にある市と説明してくれたのは、もずイベントの興行主「デカナル」の人々。うん、テカクナル意の社名か、いいじゃないか! と、それも愉快だった。
週刊ミュージック・リポート

 おなじみ川中美幸特別公演で、5日初日22日千秋楽。お芝居は「深川浪花物語~浪花女の江戸前奮闘記~」(2幕)で、川中が恩師もず唱平の作詞生活50周年を記念した同名のヒット曲を池田政之の作、演出で劇化した。タイトルからの連想をはるかに越えるストーリー。川中が上京するが嫁入りするはずの紡績会社は夜逃げ、拾われた料亭は若旦那が株に手を出して潰れ、小料理屋を出すが今度は板長がバクチですって失跡する。そんな騒動にもナツメロ歌いながら明るく耐えて料亭再建にこぎつけるが、時代背景は昭和30年代後半、東京オリンピックを控えての物情騒然、建築ラッシュ。僕は料亭跡地の買い取りをたくらむ大手不動産会社社長役を貰った。ご一緒するのは田村亮、曾我廼家寛太郎、おりも政夫、富田恵子、遠藤真理子、山本まなぶらに、あちこちでお仲間の倉田みゆき、穐吉次代、小早川真由、上村剛史、瀬田よしひと、安奈ゆかりらも出る。

 第二部の「川中美幸オンステージ 人・うた・心」は福家菊雄の構成演出。僕はこちらでも競馬狂のおっちゃん、ノー天気な豆腐屋などでチョロチョロするからお楽しみに!

 

深川浪花物語~浪花女の江戸前奮闘記~
川中美幸オンステージ 人・うた・心
 「歌謡ロック」という熟語が、妙にストンと胸に収まった。亡くなった歌手西城秀樹が創り上げた世界についての呼称だ。歌謡曲は藤山一郎、岡晴夫の昔から「声を整え」「節を工夫して」「歌う」ことで、歌手たちが魅力を競って来た。いわゆる〝ご三家〟の橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の歌唱もその延長線上に居たし〝新ご三家〟のうち野口五郎もそう。郷ひろみは「歌う」ことに激しい「踊り」を加えて新鮮だったが、西城の場合は「踊り」を「アクション」に激化、歌を「叫び」「ロックする」ことで、独特の世界を構築した。
 5月25日の通夜に4千人、翌26日の葬儀に1万人を越す人々が、青山葬儀所に集まった。この空前の出来事が、西城秀樹が歌謡界の開拓者の一人であり、第一人者だったことを証明したろうか。
 《しかし、道のりはけわしかったな》
 と、僕は往時を振り返る。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で幕があいた〝流行歌黄金の70年代〟は歌謡曲とポップスが並走、フォークとグループサウンズがブームになっていたが、歌唱法はまだ「歌う」ことの精緻さが評価されていた。その後のレコード大賞の受賞曲を順に追えば、ちあきなおみの「喝采」五木ひろしの「夜空」森進一の「襟裳岬」布施明の「シクラメンのかほり」都はるみの「北の宿から」沢田研二の「勝手にしやがれ」ピンク・レディの「UFO」...である。そんな流れの中で、対照的な西城の歌唱にファンは熱狂したが歌社会では、ともすれば「荒けずり」良く言って「ラフ」で「シャウトする」ロックスピリットが認められにくかった。水原弘の「黒い花びら」を皮切りに、終始斬新さが求められた当時のレコ大においてものことだ。
 昭和54年、黄金の時代終盤の1979年を、苦く思い出す。この年のレコ大はジュディ・オングの「魅せられて」と西城の「YOUNG MAN(YMCA)」が争った。審査員の一人だった僕に、ジュディ側の新栄プロ西川幸男社長(当時)と、西城が所属する芸映プロ青木伸樹社長(当時)から声がかかる。西川氏は村田英雄、北島三郎らを介して親交が深まり、青木氏は伴淳三郎時代から知遇を得ている人である。それだけに両氏とも票集めの実態を、事こまかに本音で語るに決まっていた。胸襟を開き切る両社長の話を聞いた上での審査となっても、僕は一票しか持っていない。結果はどちらかの意に添い、一方を裏切る仕儀になる。
 やむを得ず僕は両社長に会わないと決める。
 「会うことまで断るのか! そんなつき合いだったのか!」
 間に立った新栄の西川博専務、芸映の鈴木力専務の電話の声は、困惑に怒気さえ含んでいた。
 大晦日、僕は西城に一票を投じた。大賞はジュディ・オングが取った。票の内訳はすぐ伝わる業界である。当時中目黒に住んでいた僕の家に、両陣営のスタッフが乱入する。元日未明までの酒盛りである。
 「ありがとう。あんたもしんどかったろうけど、俺たちもしんどかったよ」
 彼らは口々にそう言いながら、したたかに酔った。しかし―。
 以後僕は新栄、芸映両プロダクションとの接触を謹慎する。年明けまで会わないとした態度は、両社長から見ればそれだけで〝男の信義〟に反した。パージを受けて当然なのだ。両者の肚のうちを打ち明けられた上で、一方を裏切ることは出来ないという苦渋の選択は、結局両者の怒りを買うことになった。僕はこの年を最後にレコ大の審査を降りる。後を託した百瀬晴男記者には、
 「ここまでの親交を許してくれる人が複数になったら、お前も降りて後輩にレコ大を渡せ」
 と口添えしたものだ。
 勘気が解けたのは西川社長が先になった。歌手藤圭子が新栄プロに移籍、育ての親の作詞家石坂まさをが彼女のデビュー前後からを託した小西と話をするように伝えたためだ。青木社長には僕がスポーツニッポン新聞社を卒業した2000年に、食事会に招かれた。
 「長いこと不義理をしてしまって...」
 とあいさつしたら、
 「いいんだよ、あのころはなあ...」
 と開口一番の応じ方で、20年近い心のつかえが、一気にほどけた心地がしたものだ。
 その西川、青木両会長はすでに亡い。折りに触れ、新栄育ち、芸映育ちを自称する僕は、西城の通夜、葬儀に接してタイムスリップした。西城の弔いは、彼のすさまじい闘病と生き方に感動したファンに囲まれて、もはやイベントの規模を示した。西城秀樹はもって瞑すべきだったろうか。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ197

 "阿久悠プロジェクト"で働く西澤雅巳君からFAXが届いた。阿久の存命中から旧知の友人だから「何事か!?」と老眼鏡を取り出す。用件は阿久の未発表の詞についての問い合わせ。昨年は彼の没後10年、作詞活動50周年の節目で、遺作のCD化やトリビュートコンサートなど、追悼行事が盛んだった。その作業は今年も精力的に続いているらしい。あれだけの大作家だ。それも当然のことか。

 『いま美酒をてのひらで』が問い合わせの詞だった。「ああ、あれか...」と、僕は即座に思い出す。阿久から貰い受けた詞で、三木たかしが曲をつけ、三木と川口真、四方章人ら作曲家たちのバンドで、僕が歌ったことがある。10何年か前に一度だけのステージ。歌う前に三木が熱心にレッスンをしてくれたが、僕は気もそぞろで

 「ま、こんなもんでいいか、何しろ誰も知らねえ歌なんだからな」

 と乱暴なことを言った覚えがある。

 毎年使っているスポニチの手帳で調べたら、歌ったのは2001326日で、溜池の全日空ホテルだと判った。その夜、そこで開かれたのは「酔々独歩・小西良太郎君を声援する会」で、要は44年間、スポーツニッポン新聞社を勤めあげた僕を励ましてくれる会。それまで数え切れないくらい、歌世界の冠婚葬祭を手伝って来たから、みんなが是非!と声を挙げ、僕は生涯一度だけの条件をつけて「生前葬」としゃれのめした。発起人が船村徹、星野哲郎の両師匠をはじめ、そうそうたる顔ぶれで、参会者1000名余。会費1万円だから1千万円集まった勘定だが、大騒ぎで飲み倒して大赤字を出した。

 ♪いま 美酒をてのひらで あたためながらゆらりゆらり 過ぎた昔 とどまるこの日 そしておぼろな未来も想う...

 阿久がこの日のために書いてくれた詞である。慢性の人間中毒、ネオン中毒の不埒な雑文屋の心情を、ここまできれに書くか!と、僕はありがたさに人知れず涙ぐんだ。あれから17年経っているが忘れようはずもない。それが阿久の未発表詞集に残っていて、歌手の山崎ハコが眼をつけたという。彼女は阿久の遺作でミニアルバムを作る作業に入っているらしい。

 「しかし、待てよ...」

 と、この詞の行きがかりに気づいたのが、阿久の息子深田太郎君で、早速西澤君の向い合わせになったとか。

 ハコでレコーディングしていいか?と西澤君は聞いた。言いも悪いもない、是非!と僕は答えた。ハコは大好きな歌手の一人。『織江の唄』を聞いて胸打たれてからだから、断続的だが長いつきあいがある。昨年の夏、NHKホールのパリ祭でたまたま席が隣り合わせになった。路地裏ナキムシ楽団公演「あの夏のうた」で芝居をやるから見に来いよ...と誘ったら、おっとり刀で来てくれた仲だ。

 曲はハコ自身がつけて歌うという。

 ≪たかし、済まんけど、そういうことだ≫

 と、僕は亡くなった三木に報告した。あいつがつけた曲はそのまんまになってしまうが、あいつはニコッと笑って合点するだろう。僕にとっては気のいい弟分。長いつきあいがあったから、お互いに気心は知れている。

 ≪しかしなぁ 長生きするといい話にでっくわすもんだ...≫

 阿久と三木とハコと、不思議な縁をめぐって一つ、滅法いい詞が甦える。そう言えばあの会の発起人をしてくれた久世光彦も豊田泰光も今は亡いが、集まったお仲間の顔はまざまざと思い出せる。そんな気分で僕は近々、しみじみと山崎ハコの『いま美酒をてのひらで』を聞くことになるだろう。

月刊ソングブック

2色のふるさとソングを聴く

 流行歌に叙情的おおらかさを持ち込む材料の一つは〝ふるさともの〟だろう。四季を語れるし人生を語れるうえ、歌い手の出自と重ね合わせる手も使える。
 今月、そんなスケールを聞かせたのは、大月みやこ、真木柚布子、石原詢子ら。逆にあっけらかんと楽しげに、ふるさとを歌ってみせたのは山川豊で、作曲家徳久広司の逆目を狙ったアイデアか。 初夏の周年企画、チマチマした恋愛沙汰ソングに、作り手が一段落したい気分も判る気がする。

母なる海よ

母なる海よ

作詞:オオガタミヅオ/補作詞:星一空
作曲:オオガタミヅオ
唄:大月みやこ
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 そうか、大月みやこ55周年の〝やる気〟がこの作品になったのか...と合点した。タイトルから歴然の叙情歌、ポップス系の3コーラスで、スケールが大きい。
 それを力まず優しい口調で、語りかけるように歌うあたりが年の功。コンサートではシャンソンもポップスも歌う人だから、驚きはしないが、ちゃんと大月節にしているあたりに自信のほどがうかがえる。
 作詞作曲したオオガタミヅオは、海外活動も多いユニット〝HARU〟のボーカルとか。世界の中の日本を俯瞰する視線を感じた。

津軽おとこ節

津軽おとこ節

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:北山たけし
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 そうか、北島三郎は彼の身上の世界を、後輩に託したいのだなと合点がいった。北山用もメリハリきっちりの男唄で詞も曲も原譲二。
 北島のレパートリーには、胸を張って生きる男の覇気と凄みがあった。北海道から上京、敗戦から復活、復興する日本の、あの時代の生きざまを負っていた。北山たけしの歌は、北島節に較べると語尾に優しさがにじむ。北島は大江裕にも『大樹のように』を書いているが、こちらも一途だが優しさがあった。
 時代の流れの中で、男の気概も変わる。青春期の体験の差異かも知れない。

美唄の風

美唄の風

作詞:下地亜記子
作曲:弦哲也
唄:真木柚布子
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 おや、どこかで聞いたような...という気がした。好評により旧作の再録と判る。亡くなった下地亜記子が残していった詞、作曲は弦哲也。美唄を舞台にしたふるさと讃歌の2ハーフだ。
 昨年、この人の歌芝居を見た。演技もなかなか、幅が広い芸達者。こういうスケール大きめの曲もフィナーレには似合うし、歌いたいのだろう。

春よ来い

春よ来い

作詞:石原信一
作曲:幸耕平
唄:田川寿美
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 ジャケット写真が笑顔。歌う声にもほほえみが感じられる。メジャーの明るめの曲(幸耕平)に、惚れっぽい女がいい人との出会いを待つ詞(石原信一)と、ネタがそういう方向で揃って〝その気〟になったか?
 デビュー27年、哀愁ソングばかりが得手ではないと言いたげな歌唱だが、やはりどこかにこの人らしい哀愁は残った。

遥かな道

遥かな道

作詞:冬弓ちひろ
作曲:岡千秋
唄:石原詢子
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 石原詢子版の〝マイウェイ・ソング〟に聞こえる。ひたむきに生きて来た女性の感慨を描いた詞は冬弓ちひろ。これまでの石原にはなかったタイプを、作曲の岡千秋は彼によくあるメロディーを書いて、その取り合わせが面白い。デビュー30周年記念のシングル第2弾。前作では演技派ふう振りも見せたが、こういう作品も歌いたいのだろう。

今日という日に感謝して

今日という日に感謝して

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:山川豊
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 イントロに女声コーラス、徳久広司の曲、前田俊明の編曲ともに、ブンチャブンチャ...とひどく軽快だ。
 今どき珍しいタイプの作品、懐かしがるファンも居ようと、隙間ねらいの企画性が読みとれるが、山川豊も気分よさそうに、それに乗った。麻こよみの詞は三重・鳥羽あたりを舞台にした気配で、これもふるさとものだ。

天竜流し

天竜流し

作詞:万城たかし
作曲:四方章人
唄:福田こうへい
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 万城たかしの5行詞に、四方章人の曲が典型的なW型。頭とまん中とおしまいに高音を使って、福田こうへいの活力を生かす。
 低音部で対比を作るよりも、全体に高音を多用していて、民謡派の福田はのびのび、のどかな筏流しを表現した。余分な思い入れや感情移入のない人だから、聞いているこちらも、文句なしにスカッとした。

人生坂

人生坂

作詞:志賀大介
作曲:岡千秋
唄:三門忠司
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 詞は志賀大介の人生訓ソングだが、岡千秋の曲と三門忠司の歌が、そんな押しつけがましさを感じさせない。もともと三門は、粘っこい歌唱と独特の節回し、声の艶を聞かせるタイプ。二番にある「負けて勝つ手もあるんだよ」なんてフレーズが、いかにもいかにも...と腑に落ちる。大阪在住、ジョーク連発の浪花気質が芯にあるのかも。

MC音楽センター
 午後4時過ぎ、ふらりと新橋駅地下の店へ寄る。まず生ビールをグラスで、これはうがいみたいなもの。小皿料理を2品とり、あとは紹興酒のオンザロック。カウンターの隅に陣取って一服する。IQOSにして2年近くなるが、これでも煙草は煙草、今どき店内で吸えるところなど滅多にないから、ここがお気に入りだ。締めは冷やし担々麺と決めている。ゴマだれで、この中華飯店ではこれが絶品。5月10日のことだが、会議をひとつ、打ち合わせをひとつ、続けたあとのホッと一息だ。
 《そうか、彼らはそんな曲目を歌うってか...》
 少しほろっと来ると、いろんな歌が脳裡で鳴る。作曲家の弦哲也が「暗夜航路」岡千秋が「演歌みち」を挙げ、杉本眞人が「人間模様」徳久広司が「夜桜」をやるとか。それぞれが作曲しているから、弾き語りでの自作自演だ。弦と岡の作品は吉岡治の詞、杉本の分は阿久悠の詞で杉本のもう1曲は〝ただし書き〟つきの「カトレア」。出演交渉中の門倉有希がOKになったら、二人で歌いたいそうな。こちらはちあき哲也の詞で、吉岡、阿久にちあきと3人ともずい分前に逝って無念。徳久の「夜桜」は吉田旺の詞、この人は寡作だが、依然としてしっかりした本格派の詞を書いていて元気。何よりもそれが頼もしい。
 それやこれやは、この日ふたつめの打ち合わせで出て来た曲目。BSフジでやった「名歌復活」という番組が好評、好視聴率につき再演が続いて今度で4回めになる。6月収録、7月放送予定で、作曲家たちは気を良くしている。この番組の魅力は、作曲家たちの弾き語りで、作品に対する愛情がにじみ情が濃いめ。それを僕が世間話ふうに内輪ネタをまじえてころがすお仲間雰囲気か。流行歌は弾き語りが最高で、フルコーラスきちんとやるから、これはもうたまらない。
 まだ陽があるうちの一人酒は、なぜか人恋しくなる。少し前に「じゃあな」と別れた築波修二を呼ぼうか。この男は昔々、ミュージックラボという音楽業界誌が振り出し。そこにこのコラムの前身「歩道橋」を書いていた僕と縁が出来て弟分になった。第一プロ、巨泉事務所などを経て、今はフリーのテレビ番組プランナー。埋もれたいい歌をよく知っている大の歌好きで「名歌復活」も彼が企画立案者だ。
 手帳を忘れたので彼のケイタイが判らない。やむを得ず番組の花苑プロデューサーに店名を告げて伝言を頼む。奴は大分前に打ち合わせ場所を出たと言うから、おそらく留守電になるだろう。僕は築波の折り返しを待つ。待つ時間というのはひどく長く感じるもので、それでは...と紹興酒をもう一杯。相手は電車に乗っているはず。待っている時間の長さが、彼の帰路の長さと合致するように延びる。
 「どこまで行った?」
 やっとかかって来た電話に問いただすと、
 「明大前です」
 が返事。そうなると新橋まで戻れ! とも言いにくい。やむを得ず、二度めの「じゃあな」を告げるに止まった。
 《〝あいのこ〟なあ。まだそんな言葉が生きていたのか...》
 僕はこの日のひとつめの会議を思い起こすことになる。レコード協会の通称「レコ倫」の委員を長くやらせて貰っていてのひとこま。歌詞に出て来たこの単語はどう考えても要注意だろう。混血児に対する蔑称。この会議が特に問題視する「麻薬」と「差別」の一つにあてはまる。そんなことを話し合っているうちに、混血の当人が「ハーフ」は嫌だが「ミックス」ならばいいと言っている例が出て来た。僕は正直ドキッとする。ミックスなど、人によってどう感じるか判るまい。少なくとも僕は相当に危険な表現と思うが、さて、若い人たちの言語感覚はどうなっているのか。卑近な例には「やばい」がある。僕ら世代はこれを「いけない」の意で使って来た。ところが近ごろは「いいじゃん!」くらいの意に逆転している。日本の言葉は一体どう変化し続けるのか?
 《やばいよな、これは...》
 やがて店外では家路を急ぐ人のラッシュアワーが始まっている。それを横目に僕はこの日6時からの三つめの仕事を断念する。相手はそう急ぐ話でもないけど...と言っていた。会えばまた酒になる。それなら今夜は勘弁して貰おうか。何だか怠惰の虫が動いてどろ~ん。「さて!」と自分を立て直す気にならない。これは言うところの五月病か? ま、80才を過ぎて昼から夜へ、たて続けに仕事三つは重いということさ...と自分に弁解、ほろ酔いのまま〝まっとうな〟サラリーマンみたいに、ラッシュアワーの混雑に身を任せることにした。
週刊ミュージック・リポート
 《さてと...》
 とりあえず居間のソファから腰をあげる。ゴールデンウィークも終わり、珍しく東京へ出ないウィークデイ。眼前の葉山の海とうんざりする政治状況をテレビでぼんやり見比べていた午後だ。チャイムが鳴り、愛猫2匹のうち若い方のパフが緊張する。人嫌いなこいつが及び腰なのへ、
 「郵便局の人だよ。玄関へ出てみるか」
 とからかったが、奴はさっさと別室へ消えた。
 届いたのは加藤登紀子からの荷物。
 《いかん、いかん...》
 と、今度は僕が及び腰になる。実は彼女のコンサートだが「出席」の返事を出しながら、突然の急用で連絡もせずに欠席していた。4月21日、オーチャードホール。一瞬、その言い訳が脳裡をよぎりながら、受け取ったものの中身は彼女の自伝「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版刊)だ。表紙をあけると献辞があって「すべてのピースがなつかしいです!!」と見慣れた文字とサイン―。
 それが癖で、まず「あとがき」へ眼が行く。母親淑子さんが昨年101歳で亡くなったとある。彼女が書き残したメモから「ハルビンの詩がきこえる」の本が出来、結婚から終戦、引き揚げの10年が凝縮されていたとか。当然加藤もその中に居て、子供ながら終戦直後の混乱を体験したことになる。もう1冊、父親幸四郎氏が「風来漫歩」という自伝を残していて、その2冊が、それぞれの一生がそれだけで凄い歴史と思えたと加藤は書く。
 次いで目次をたどる。「愛の讃歌」「百万本のバラ」「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」「鳳仙花」「ANAK(息子)」「さくらんぼの実る頃」「リリー・マルレーン」「花はどこへ行った」などの曲目が並ぶ。みんな彼女が愛唱し、ヒット曲としていて、作品が持つ歴史と彼女の自分史が交錯する書物だ。例えば「百万本のバラ」はラトビアの子守唄が、ロシアでこの曲名の流行歌になり、やがて進入したソ連軍の戦車に抵抗、独立したラトビアの人々の歌になったこと。そして加藤が現地でコンサートを開き、この歌に出会った前後のあれこれ...。「さくらんぼの実る頃」は50年前のパリ・コミューンの歌だし「悲しき天使」はその50年前のロシア革命前後の歌だったとも彼女は書く。
 《それにしてもまあ、びっくりするくらいに世界のあちこちを、よく旅した人だ》
 僕は「ひとり寝の子守唄」を自作自演して以後、吹っ切れたように行動的になった彼女を、そう見守っていた。加藤の歌手生活が今年53年なら、僕の加藤歴も断続的にしろ53年になる。勤め先のスポーツニッポン新聞社と石井好子音楽事務所がやった日本アマチュアシャンソンコンクールの2回目で彼女が優勝した時から、加藤番だったから、彼女の初期とのつき合いはことさら濃いめ。
 シャンソン―歌謡曲―シンガーソングライターと、足早やな変化を遂げたあと、彼女は各国の旅から楽曲を持ち返り、自分で詞を書いて歌うようになる。
 《世界の歌のいいとこどりかねえ...》
 と、そんな感想を持ったり、
 《結果これは、加藤登紀子というジャンルか》
 と感じ入ったりする時期もあった。
 巻末の年表を見る。駒場高校2年、60年安保闘争のデモに参加、68年東大卒業式ボイコットの座り込み、全学連の藤本敏夫氏と出会い、72年中野刑務所で藤本氏と獄中婚、長女出産、76年、藤本氏「大地を守る会」設立、2002年藤本氏死去、その間に二女、三女をもうける...と、青春期以後の私的足取りと精神史がうかがえる。
 《まあ、それにしてもよく歌い、よく書く人だ》
 歌う外国曲はすべて、自分の歌詞に書き直した。著作物も多数で、多くが僕の本棚にある。音楽と一緒に世界の人々の歴史と文化を越境しつづけて、雑文屋の僕など恐れ入るくらい、多岐にわたる。今や精力的な文化人と言ってもいいか。そんなことを思いながら、テレビをつけたら、画面にまた加藤登紀子である。5月9日、NHKの「ごごナマ」で
 「近々3回目の25才の誕生日を迎えるの」
 と、細い眼がなくなるくらいの笑顔で、自分の年齢を語っていた。
 《さてと...》
 僕は年寄りの怠惰を決め込んでいた午後から、やや覚醒する。コラムを一本書いて、加藤自伝の本文を読むとするか!
 「昼めしが遅れてるよ!」
 気がつけば、猫のパフと姉さん格の風(ふう)が、餌の催促をしに来ていた。
週刊ミュージック・リポート
 快晴の箱根もいいものだった。静かな芦ノ湖の向こう側、山並みや富士山があって、どこからか小鳥の鳴き声も聞こえる。そんな眺めを見回しながら、しばし忘我の僕が与えられた部屋が凄かった。次の間の手前にまた次の間...の広さで、さてトイレは? 風呂場は? と、探検を強いられる間取り。箱根プリンスホテル別館の龍宮殿301号室「白加賀」は、時代劇の殿様用みたいだ。
 そんな好遇を得たのは、4月22日、日本作詩家協会の研修旅行会にお呼ばれしてのこと。1時間ちょっとしゃべれという注文で、聞けばゲストは僕一人。70人前後の会員相手に〝研修〟の実をあげなければならない訳だが、特段緊張もしない。喜多條忠会長、久仁京介副会長に常務理事の石原信一、高畠じゅん子、建石一といった面々が、みな旧知の間柄だし、しゃべるネタはなんぼでもある。旅行の責任者建石がそわそわするのに、
 「少し落ち着いたらどうよ」
 なんて声をかけるくらい余裕をかましていた。 まず持ち出したのが「意表を衝け、アッと言わせろ」と「応分の読み応えを」という2点。何のことはないこれは、スポーツニッポン新聞社勤務時代に、兵隊記者諸君に強いた目標。読者獲得のための刺激的要素だが、アッと言わせるだけでは奇をてらうに止まるから、それなりの完成度が肝要。作詞家にも必要なポイントだろう。
 「津軽には津軽の、錦江湾には錦江湾の風が吹くもんだよ」
 というのは作曲家船村徹に教えられた現場第一主義。歌も記事も〝足〟で書くものだ。
 「耳ざわりのいい言葉を並べて形を整えても、人の心は打たない。書き手の生き方考え方がにじんでないとな」
 と言うのは作詞家星野哲郎の教えで、双方歌づくりの要諦だが、僕は雑文書きの戒めとして拳拳服膺、つまり肝に銘じていることのおすそ分けだ。
 歌を書くという営為の意味合いを問えば、作詞家の阿久悠は、
 「狂気の伝達かな」
 と答えた。同じ問いになかにし礼は
 「世の良風美俗に一服の毒を盛るのさ」
 と応じた。阿久のすさまじいまでの情熱と、なかにしのシニカルな視線がまざまざの名言で、これもこの夜のおすそ分け。
 「歌の入り口を考える子はいるけど、出口まで考える子はいないのよね。ま、入り口も考えないのは、素人だけどさ」
 と歌唱の極意を語ったのは美空ひばりで、これも作詞に通じようが、当時
 「入り口と出口の問には手ぐちが加わるでしょ。切り口も要るか」
 と、僕はへらず口を叩いたものだ―。
 しゃべりながら僕は考える。以上はいずれも、この道の名人達人の言葉である。仮にこんな要素を過不足なく満たしたら、その作者と作品は壇上に居並ぶ幹部をひっくり返らせ、天下を手中にするだろう。しかし、だからとても無理々々...と、後ずさりしていては何も始まらない。1項目でもいいからそれを目指して奮戦してもらいたいのが、この会に持ち込んだ僕の願いだった。玉石混淆石だくさんの作詞界の現状に、うんざりしている不満が軸だが、そうでもしなければ頭ひとつ抜け出すてだてはないよという助言のつもりもあった。せめて詞の入り口だけでもアッと言わせて欲しいのだ。
 ま、こうぶち上げただけでは、研修会の実はあがるまいと思って、僕は自宅の電話番号を告げた。FAX兼用だから、これでどうだ! と思えるものが出来たら、送っておいでという呼び込み。送稿して10日後まで、こちらから返事がなかったら、
 「箸にも棒にもひっかからないから、無視!」 の言い訳も付け加えたが、果たしてどうなることやら。
 会は食事から二次会に流れた。改めて見回せば参会者の年齢層はかなり高めで平均60代後半か。女性陣が花やかで、雰囲気はとても穏やか。喜多條会長以下の幹部が、心を砕いたお仲間づくりが功を奏してのことと見てとれる。ただ物書きの野心がギラつく熟年や、向こう見ずの若者がまるでいないことが残念だが、演歌歌謡曲が中心の同好会と見立てれば、それはそれでやむを得まい。無名の作詞家を育てる熱意が、メーカーや制作プロに極めて貧しいことも反映していようか。
 葉山から箱根まで、作詞家峰崎林二郎の車で送り迎えまで受けて、僕の殿さま酒盛り道中の1泊2日はこうして終わった。
週刊ミュージック・リポート
 4月の3週め、突然海が還って来た! そう書くと大仰な表現で少々テレるが「還って来た」が実感なのだ。葉山の自宅マンションを取り囲んでいた建築用の足場と幕が撤去されて、19日は真夏を思わせる陽差しが、ベランダとリビングルームにガッと差し込む。大規模修繕とやらの、海側半分がやっと終わった。何だ、そんなことかと眉をひそめないで頂きたい。
 湘南おじさんを決め込む僕が、そんなに浮かれるのは、18日の深夜、大衆演劇の門戸竜二一座の名古屋公演から帰宅してのこと。一夜明けたら陽光と輝く海が目前だから、ワッ! という気分と、ヤレヤレ...の安堵が、ごちゃまぜになった。芝居と自然の、二つの解放感が何ともいえない―。
 今年は1月から、ずっと日ざしのないところに居た。東宝現代劇75人の会公演のけいこ。2月はその本番と3月の大阪新歌舞伎座・川中美幸公演のけいこに本番。引き続き門戸一座のけいこと地方公演が4月というスケジュール。その間に、昭和30年代の深川を舞台に、女好きの町医者をやり、次いでお気軽な演劇評論家とボケ老人をやり、ついには「忠臣蔵」の田村建顕になった。天候は不順。けいこ場も楽屋も舞台も人工照明、陽光が恋しくなるのも無理はなかったのだ。
 《それにしても、うまくはまったもんだ...》
 と、千葉と名古屋でやった門戸一座「忠臣蔵外伝」の幕切れを思い出す。
 〽かたくなまでのひとすじの道、愚か者だと笑いますか、もう少し時が、ゆるやかであったなら...
 流されたのはおなじみ堀内孝雄の「愛しき日々」だった。舞台上では乱れ髪に白装束、門戸竜二の浅野内匠頭が切腹する。裃の肩衣をはらい上げ、小袖の腹部をおしひろげて「ムッ!」と小刀を左腹に突き立てたところで、この曲のイントロが始まる。苦悶の表情の内匠頭、刀が右へジリジリと割腹するのに合わせて歌になり、その中盤、内匠頭の上体が前へ倒れ込むあたりで名残りの柝が打たれ、静かに緞帳が降りる。堀内の歌の1コーラスめの終盤が、ドラマの余韻となって、観客の胸に収まる演出だ。
 この芝居は松の廊下の刃傷から始まる。次が僕のやる田村建顕のはからいで、内匠頭と片岡源五右衛門の主従の別れ。内匠頭はすでに意を決しているから「吉良上野介の処分はどうなった?」と聞き「無念と大石内蔵助に伝えよ」と言うくらいで言葉少な。「家臣と領民に済まぬ」としぼり出すに止まる。多くは語らぬその胸中を、堀内の歌声、小椋佳の歌詞が悲痛なまでに代弁した。少女かと見まがう女装の可憐さが人気の門戸だから、彼演ずる内匠頭は清廉の気に満ちた美丈夫ぶり。それに「愛しき日々」のメロディーの甘美な哀愁もよく似合った。
 《忠臣蔵」と「白虎隊」なあ...》
 と、僕はニヤつく。「愛しき日々」は30年あまり前に、日本テレビの年末ドラマ「白虎隊」のテーマソングとして堀内が歌った。アリスが解散、ソロになった彼が試行錯誤の後に、この歌で今日までの成功の端緒をつかむ。その歌が今、門戸の「忠臣蔵」のテーマとして、生き生きと観客の胸を打つ。はやり歌の生命、作品の持つ普遍性の証しだろう。一方ではこの作品に着目し、巧みに芝居のラストソングに仕立てた門戸の知恵と才覚にも感じ入る。大衆演劇の柔軟性あなどるべからずと言えようか。
 そんなことを考えながら、4カ月におよんだ芝居暮らしから歌社会へ、およばずながら復帰する。この週末は日本作詩家協会の研修会に呼ばれている。何かしゃべれという注文で、また年寄りの知ったかぶりになるのか。そう言えば千葉でも名古屋でも「テレビ、見ました」の声がかかった。BSの昭和の歌懐古番組によく呼ばれていて、あれは再放送も多いから、かなり目につくらしい。その種企画のお呼ばれがまだ二つほど。7月には弦哲也、岡千秋、德久広司、杉本真人と一緒の「名歌復活」をまた撮る。好評続編がもう4回目だ。褌を締め直さねばなるまい。
 さて、冒頭の葉山の陽光だが、その中で愛猫の風(ふう)は惰眠をむさぼる。もう一匹のパフは、この原稿を書く僕に「遊んで! 遊んで!」とせがむ。マンション暮らしで屋外に出たことのないこいつは、何だか犬みたいになって来ている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ196回

 三沢あけみのアルバムを聴いた。『私の選んだ作品集』というタイトルに、ニヤリとしてのこと。彼女が50年を越す歌手生活を振り返り、あれにしようか、これも入れておきたい...と、作品選びをする風情が眼に見える。それにまつわる思い出も、あれこれ浮かんだことだろう。恩師の作曲家渡久地政信の笑顔も一緒に――。

 CD2枚組、27曲が収められている。いい作品が多いことに、改めて気がつく。『島のブルース』や『アリューシャン小唄』が代表作だが、デビュー曲の『ふられ上手にほれ上手』が放送禁止曲だったエピソードつき。どこがどう放送にふさわしくなかったのか、今になっては見当がつかない戯れ歌だ。審査基準も時代とともに変わったろうが、師匠の渡久地がさぞ口惜しがったろう。

 レコード大賞の歌唱賞を取った『渡り鳥』がいい。作詞の野村耕三、作曲の桜田誠一はともに故人だが、作品は今聞いても全然古くない。歌の生命のながらえ方の凄さか。たかたかしの詞、弦哲也の曲の『夜の雨』もなかなかだ。タイトルがややそっけないが、おそらく二人の初期の作品。これも今に通じる魅力を持つ。中山大三郎の詞で『たまゆらの宿』は船村徹作品ではないか!

 CDを聞きながら、三沢と似た思いに行き付くのは、彼女と僕が同期生だったせい。三沢がレコ大の新人賞を得た昭和38年に、僕はスポーツニッポン新聞の取材記者としてデビューした。さっそく正月紙面用の取材をしたが、当日はあいにくの雨。仕方なしに社のそばのレストランの座敷を開けさせて写真を撮ったが、雨の午後の薄暗い部屋へ連れ込んだから

 「こんなとこで、何をする気?」

 と、彼女がおびえた一幕があった。彼女は東映の女優から歌手に転じたばかり、僕はアルバイトのボーヤから内勤記者を長くやって、取材部署に異動したばかり。年齢は大分違ったが、双方ドギマギするくらいあのころは初心(うぶ)だった。

 独特の鼻声と節回しが、三沢歌謡曲の魅力だが、小椋佳作曲の『バーボンソーダ』や神山純一作曲のジャズ風味の歌も得難い。当時の彼女としては、大冒険のアルバムに収められていた異色作だったろうか。

 ≪あるかなぁ、入っているかなぁ...≫

 と気になったのは、彼女のCDをいくつかプロデュースした行きがかりがあってのこと。「あった!」と嬉しくなったのは『海人恋唄』という作品で、喜多條忠の詞にフォークの永井龍雲が曲をつけた。彼女の50周年記念作品だから、比較的新しい部類だろう。「海人」と書いて「うみんちゅ」と読ませることで判ろうが、彼女用に南方の詞曲を用意していた。

 『島のブルース』が彼女のキャラを決めて奄美の色が濃いが、実は長野・伊那出身の人だった。結婚と離婚も体験、女性の生き方と歌い手の生き方の双方を身につけていて、このアルバムは彼女の"これまで"の集大成だろう。しかしさて"これから"をあの人は一体どうする気なのか。日本は世界有数の長寿国になって、歌手たちの活躍年齢もグンと伸びている。ジャケットや歌詞集の相変わらずの笑顔を眺めながら「さぁ、もうひと踏ん張りだよ」と僕は、年の違う同期生にエールを送る気分になった。

月刊ソングブック

女性像がしゃっきりして来たぞ

 よく出来た大江裕の歌以外は、全部女性歌手のものの今月。その5曲だけをサンプルに感想を書くのも面映ゆいが、どうやら歌の主人公たちはみんな、泣いたり嘆いたりばかりではなくなっている。つらい境遇に居ることは、従来のものと変わらないが、主人公の目線が前向きで、顔をあげる気配がある。
 殺伐としたことばかりの世相や、妙にばたつきながらキナ臭い政情にうんざりして、流行歌の中の女性たちは、そういうふうに自分を取り戻し、歩き出すのかもしれない。

水に咲く花・支笏湖へ

水に咲く花・支笏湖へ

作詞:伊藤薫
作曲:弦哲也
唄:水森かおり
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 芝居で言えば〝間(ま)〟に当たるかも知れない。歌い出しの歌詞2行分、水森の歌は途切れ途切れだ。例えば〽水の中にも花が咲く...を「水の」で切り「中にも」で切って「花が咲く」へつなぐ。歌の間を生かすのは、楽器の追いかけという、作曲弦哲也の新しい試み。
 それが揺れる女心の序章になって、中盤以降は歌声も情感も一気に盛り上がる。伊藤薫の詞も絵はがき調名物揃えを避けていて、1コーラス6行詞が、悲痛なまでにドラマチックな作品に仕上がった。水森はこの作品で、ご当地ソングの女王の域を、またひとつ超えるだろう。

大樹のように

大樹のように

作詞:伊藤美和
作曲:原譲二
唄:大江裕
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 師匠の北島三郎は、大江裕をこういう歌手に育てたいのだと、その愛情に合点が行った。伊藤美和の人生訓調に、原譲二の筆名で曲をつけて、歌の中身は北島お得意の世界。
 それを大江が、北島節に染まりながら、いささか違う彼流の歌に歌いおわした。〽天に向かって真っ直ぐに...というフレーズが、北島の期待と、本人の心意気に聞こえる。
 大江の歌の良さは、言葉がひとつひとつ明瞭で、表現がよどみなく素直で温かいこと。あのキャラだけが売りの歌手では決してないことを、立証できた気がする。

道

作詞:久仁京介
作曲:岡千秋
唄:島津亜矢
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 「道に迷って、道を知る」と、久仁京介の詞は男の生きざまを語り、岡千秋がゆったりめの曲をつけた。島津の歌は、背筋がすっきりと伸び、厚みがあって柔らかい。そのくせ歌う目線はひたと、聞く側を捉えている。とかく気合が入り過ぎ、押しつけがましくなるタイプの作品を、そう歌い切れたのは、彼女のキャリアなりの熟し方だろう。

有明月夜

有明月夜

作詞:森田いづみ
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 各コーラスの終盤にある「ああ有明月夜」というフレーズが、この歌のヘソかも知れない。そこまでは失意の恋をしっかり語り続けた水森英夫の曲が、ここでふっと明るめに気分を変えるのだ。その効果が、女主人公の視線を上向きにし、実らぬ恋の先行きをじめつかせない。嘆きながらも、心迷わせまいとする決意をにおわせる妙があった。

冬酒場

冬酒場

作詞:石原信一
作曲:徳久広司
唄:北野まち子
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 「そりゃあね、誰だって、幸せになりたいよ」と、石原信一の詞の歌い出し2行分が話し言葉。落ち込んでいる男を女が慰めるのだが、徳久広司の曲も、その2行分でちゃんと勝負をつけた。あとは、どこかのひなびた冬酒場、似た者同士が向き合う光景が眼に浮かぶ。北野の歌も明るくたっぷりめで、泣き節演歌とは一味違う風情が作れている。

十六夜月の女恋歌

十六夜月の女恋歌

作詞:内藤綾子
作曲:西つよし
唄:竹村こずえ
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 内藤綾子の詞、西つよしの曲だが、お二人さん、やりたい気持ちはよく判るよ...と、こちらの原稿がつい話し言葉になる。死ぬまで夢を見て出ていった男と、ひとりで月見酒をかこつ女のオハナシ。1コーラス10行の詞の2ハーフに、あれこれ書き込んだ詞を、西の曲がまたあれこれ技を使った曲にした。歌う竹村が何ともよく頑張った。

MC音楽センター
 千葉から名古屋へ向かう。大衆演劇界のプリンスと呼ばれる門戸竜二一座の奮闘公演に加わっての旅だ。4月15日の日曜日、午前11時と午後3時開演の2回を、千葉・神崎町の神崎ふれあいプラザでやって名古屋へ。こちらは17日に午後4時、18日に午後1時開演の2回を、名古屋北文化小劇場というスケジュール。僕が出演する芝居は「忠臣蔵外伝」で、門戸が監修する全三場―。
 第一場はおなじみの松の廊下の刀傷沙汰。浅野内匠頭を門戸、吉良上野介を新国劇から劇団若獅子で活躍中の貴田拳がやる。
 「今年は忠臣蔵をやります」
 と本田まゆみプロデューサーから連絡を受けた時は「えっ!?」とのけぞった。昨年の「一心太助」で、当たり前みたいに大久保彦左衛門役を振られた体験があり、今度もか...と早合点したせい。けいこで貴田演じる吉良を見て、その徹底した浅野いじめの憎々しさに感じ入った。僕風情にはとてもとても...の世界だ。
 そこで僕に与えられた役は人情家の武家田村建顕。二場のAで「一国一城の主浅野を、庭先で切腹とは...」と異を唱える独白、Bで切腹の場に向かう浅野に、家臣の片岡源五右衛門をひそかに引き会わせる。主従の悲痛な名残りの問答があって、三場は浅野内匠頭自害の場。桜が舞い散る下、例の辞世の一首があり、短刀が彼の腹へグサッ! のシーンでチョ~ンと柝が鳴り、幕が降りる。片岡役は田代大悟、松の廊下で「殿中でござる!」と浅野を止める梶川与惣兵衛役は上村剛史と、この若手2人はここのところ何度か、共演した友人だ。
 男優5人だけの芝居で約40分。小品と言えば小品だが、それぞれの見せ場が交錯するから、肝要なのは熱気と緊張感の維持。旅公演とは言え油断も隙もあろうはずがない。
 「楽な芝居など、決してしなさんなよ」
 と、以前ベテランの横澤祐一に言われた一言がこびりついている。この人は僕が所属する東宝現代劇75人の会のボス格で、僕のこの道の師匠。2月には彼の作・演出の「私ん家の先は永代」でしごかれたばかりだ。
 「役者が楽しんでやらなければ、お客は楽しめないよ」
 という演出家金子良次の一言も、まだ耳に残る。3月の大阪・新歌舞伎座川中美幸公演は、バラエティ色の濃いドタバタ人情劇だったが、それを下品にせず、安易に流しもしなかったのは、金子演出の穏やかだが厳しい指導があってのこと。表裏一体のこの二つの指針を、僕はかかえ込んでいる。
 たかが10年、されど10年が僕のこの世界のキャリアである。
 《そういう眼で、試されているのだ》
 と合点しながら、僕も僕自身を試す視線になる。この秋には82才という寄る年波がある。長い雑文屋生活で丸くなった猫背、いつのころからか曲がっている両足の膝、どこからどう見ても年齢歴然の姿形も、何とかしなければ...と思う日々。
 「よくまあ、あんなに沢山のせりふを覚えるものだ」
 と、友人が口々に言うのは、僕の演技力よりも記憶力を見に来ている証拠。しかし、その記憶力もいつまでもつのか、いつ衰えるのか―。
 門戸一座公演は、大衆演劇おなじみの歌と舞踊のショーが第二部になる。そこで門戸が歌う「デラシネ~根なし草」は、田久保真見作詞、田尾将実作曲で僕のプロデュース。おまけに彼は坂本冬美の「夜桜お七」や美空ひばりの「愛燦燦」「ある女の詩」を踊る。「夜桜お七」はもう昔々のことだが、はばかりながら僕がプロデュースして、当初は賛否両論ならぬ否定論ばかりだった思い出の曲。美空ひばりは晩年の15年間を密着取材、ごく親しい間柄だったから、思い出す光景もあれこれ山盛りである。
 舞台そでから踊る門戸を眺めたり、楽屋で一息入れながら、彼女らの歌を聞いたりするのが、僕の旅先での忙中閑だ。
 《成田の桜も、もうすっかり青葉だろうな》
 僕が酔余、ふと思い出すのはJR成田駅から門戸のけいこ場へ12キロ、往復20分ずつ。けいこ4日間を車で送り迎えしてくれたのは、僕らが「カントク」と呼ぶ演出家、舞台監督の本田幸生だ。この人はまゆみプロデューサーの夫君で、事務所兼自宅もけいこ場も、何から何まで自力で建ててしまい、芝居もショーも創る剛の者。彼と車中から眺めた山林の山桜は、思いがけない場所に盛んな勢いで千葉の春を彩っていた。門戸一座の特色は、それやこれやでひどく家庭的で温いのだ。
週刊ミュージック・リポート

 3月末、大阪新歌舞伎座から戻ってすぐ、今度は大衆演劇の門戸竜二奮闘公演「忠臣蔵外伝」のけいこに入る。門戸公演は一昨年、昨年に続いて三回めの出演だから、もはやレギュラー。芝居では座長と座員の関係だが、歌手門戸となると「デラシネ~根なし草」(テイチク)を僕がプロデュース、秋ごろ用に次作を用意している仲だ。

「忠臣蔵外伝」は、おなじみ浅野内匠頭の松の廊下の刃傷沙汰から切腹まで。門戸が内匠頭、吉良上野介を劇団若獅子の貴田拳、「殿中でござる!」と浅野を止める梶川与惣兵衛を上村剛史、浅野の家臣片岡源吾衛門を田代大悟が演じ、僕はひそかに浅野と片岡の今生の別れの機会を作る田村建顕をやる。

 男ばかり5人の芝居で、それぞれ相応の見せ場があるだけに、緊張感の持続と丁々発止の熱気を維持するのが肝要、油断も隙もあるがずがない。

 大衆演劇おなじみの歌謡・舞踏ショーが二部で、僕はこちらはお休み。

 上演日程は415日午前11時開演と15時開演の2回が千葉・神崎町の神崎ふれあいプラザ、1716時開演と1813時開演の2回が名古屋北文化小劇場。こちらには内田流舞踏ショーも加わる。

 僕は5月が小休止で6月にけいこ、7月の明治座川中美幸公演に加わるが、こちらの詳細はいずれ後日・・・。

忠臣蔵外伝

2月の東宝現代劇75人の会公演「私ん家の先に永代」(深川江戸資料館小劇場)に続いて3月は大阪・新歌舞伎座の川中美幸特別公演に出演。2月の芝居が終わるとすぐ大阪公演のけいこだ。第一部の芝居が「七変化!美幸一座・母娘愛情物語」で、三宅恵介原案、高橋秀樹脚本、金子良次演出、母親が興した大衆演劇一座を引き継いだ二代目が川中で、その相棒が赤井英和という陣立て。昨年亡くなった川中の母が若いころ大衆演劇の娘役をやっていたことを織り込んだ虚実入りまじりのお話を、解散寸前の危機から立ち直る川中の奮闘記に仕立てた。僕の役は演劇(音楽ではない!)評論家で、美幸一座に突然参加、念願のコメディーをやれることになった。「白浪五人男」や「国定忠治」「月形半平太」などの名場面が出てくるが全部パロディー。僕はそのうち川中の「女ねずみ小僧」を追い回す目明しをやる。

評論家として登場する時も、目明しに扮する時も、特徴は横山エンタツぱくりのロイドめがね。女ねずみを追って花道を逆走したり、客席にとび込んで客相手のフリートークなどが笑わせるポイントだ。

共演は他に元男闘呼組の前田耕陽、ベテラン瀬川菊之丞、四天王寺紅、大原ゆう、藤吉みか、荒川秀史、四条美咲、小早川真由、西畑まどか、三宅祐輔、Dicekら。

そのうち三宅は花柳輔蔵を名乗る日舞の師範だが、日舞も洋舞も振り付け、川中の「八百屋お七」の人形振りをけいこ一週間で仕上げるなどの大奮闘。赤井、瀬川と並ぶお人柄トリオで、笑いと涙の美幸一座を盛り立てている。

 顔合わせの日「俺はショーには出番ないよな」と確認したら、構成・演出の福家菊雄、振付の小井戸秀宅と舞台監督の桜井武志から声があがって「頭領にぴったりの役があるよ」と来た。役柄は「ボケ老人」で、ここでもまた客席の笑いを取ることになる。

川中美幸特別公演
 思いもかけず大阪で、男たち3人の歌を聴いた。鳥羽一郎、鏡五郎、三門忠司の「ごんたの会ディナーショー」で、3月25日の日曜夜、場所はホテルグランヴィア大阪。もず唱平の作詞生活50周年企画だ。
 その前夜、僕はもずの接待を受けていた。この日、新歌舞伎座「川中美幸特別公演」に出演したのを見ていて、
 「ま、久しぶりに一杯やりましょか」
 と誘われてのこと。彼とは長いつき合いで、先方が上京すれば僕が接待する番。いわば交友なにわの陣だ。世間話の中で実は明晩嬉しいことに...と、そのイベントの件が出て来た。
 「そうか、そんなら俺、行くで。あしたは劇場が昼公演だけやからな」
 と、僕は舞台で難儀している怪しげな関西弁で応じた―。
 ショーは水谷ひろしの司会で、まず3人がもずのデビュー曲「釜ヶ崎人情」を歌うところから始まった。ドスの鳥羽、演技派の鏡、艶の三門と、三種の個性が芸にある男たちの共演、客席ははなからヤンヤヤンヤだ。それぞれのもず作品は、鳥羽が「メリケン波止場」三門が「河内人情」鏡が「うちの女房」の順。この会の命名者がもずで、「ごんた」は〝不逞のやから〟くらいの意か。鏡と三門が大阪、鳥羽は三重の出身で、いずれにしろ関西の3人組だ。
 開演前の控え室。もずがなぜか唇をとがらせてしゃべる。どうやらステージのトーク用の、滑舌の自主練と気づいてこちらはニヤニヤする。そのトークで水谷が「大阪在住のまま一家を成して...」と水を向けると、もずが「大阪に止まって頑張れ」と助言した向きがあって...と僕の名を出した。
 案の定、客席で飲んでいた僕が呼び出される。彼の出世作「花街の母」がヒットした昭和48年ごろのことだが、周囲から上京をすすめられたもずが相談に来た。その時僕は確かに大阪を制圧するように答えている。彼はそのころ110番舎という代理店もやり行政や日中友好関係にくい込んだりして、大阪に根を張っていたし、歌社会にはまだ作家の専属制が残っていたから、
 「東京へ出て来たって、20何番めかの作詞家にしかなれないぞ」
 と、乱暴なことを言った。
 その後もずは着々の仕事ぶりで、関西の歌社会を代表することになる。僕は当然、その件は封印した。妙な手柄話は性に合わないせいだが、後日、何かの対談で、
 「よく、大阪で頑張ったものだ」
 と言ったら、
 「あんたが残れと言ったんじゃないか!」
 と彼は色をなした。親交はそれ以来のことで、僕の方がちょっぴり年上なことも手伝って、彼を「もず!」と呼び捨てにしているが、この世界ではもう唯一の例になってしまった。ま、威張って見えるのは僕の方だが、人使いが荒いのはもずの方で、持ち込む仕事や相談で僕は彼にこき使われている。
 そんな話のサワリをちょこっとしゃべって、僕は席に戻り、また一杯...と焼酎をやる。舞台では「花街の母」を三門「虫けらの唄」を鳥羽「春という名の女」を鏡と、もずワールドを展開、それぞれのヒット曲を歌ったあと「兄弟仁義」を3人が、ワンコーラスずつ歌って締めた。これはもずではなく星野哲郎の作詞だが、星野に兄事していたもずは、晴れ晴れ笑顔で3人と並んだものだ。
 さて、新歌舞伎座だが、27日昼が13日間18公演の千秋楽。川中はそのフィナーレでこらえ切れずに泣いた。けいこ1週間本番2週間の強行スケジュールで、売り物にした「八百屋お七」の人形振りを仕上げた達成感があったろう。昨年10月1日に亡くなった母親久子さんを初代に見立て、二代目を演じた芝居「七変化! 美幸一座~母娘愛情物語」の虚実ないまぜた内容に、揺れた感慨もあったろう。僕はその身辺近くにいて、ステージでつい貰い泣きしかける幕切れになった。
 楽屋での楽しみは、主演赤井英和の謙虚なお人柄と穏やかな微笑との出会いがしら。もっとも彼の楽屋うちは「オッス」「オッス」のあいさつが絶えない体育会系で、賑やかそのものだ。その筋向かいの楽屋には、香を焚く人がいて、七代目瀬川菊之丞。僕は楽屋入りする都度、その部屋の前で深呼吸、芳熟な香りのおすそ分けを頂いた。60代のこのベテランが、芝居の他に口上も日舞も洋舞もと大忙し。黙々とこなす折目正しい仕事ぶりがこちらもお人柄で、大いに頭が下がった。
週刊ミュージック・リポート
 大阪は雨。しかし、しょぼしょぼの春雨だし、こちらも終演後、劇場からホテルへまっすぐ帰るはずもないから、別段気にはならない。それよりも、弟分扱いが長い作詞家石原信一が書いた旧作「LuiLui」のイントロで、ボケ老人役の僕がひょこひょこ舞台に出ていくことになろうとは、夢にも思わなかった。
 新歌舞伎座3月は、川中美幸特別公演。それの第二部のショー「川中美幸オンステージ~人うた心」での一景。タッパのある赤井英和、堂々のパイロット姿にからむコントで、こちらは空港に迷い込み、「どこへ行きたいのか?」と聞かれれば入浴と答える。ニューヨークと聞き間違える赤井に、行き先は「ナンバや!」とまるでトンチンカン。その後、風呂桶を持っていい気分で出てくると、出演者全員が問題の曲を踊っていて、まるで場違い。歌っている川中に追い返される段取りだが、その辺で石原の笑顔を思い出すから、こちらのボケぶりがどうしてもヒートアップする―。
 やっていて、面白いもんだなあ...と思う。東京で言えば「しゃれのめす」感じの演出が、大阪だと「くすぐる」感覚で、歌謡ショーなのに随所に〝拍子抜け〟のギャグがちりばめられている。構成・演出の福家菊雄もどうやら大阪系。
 「楽しんで! 遊んで!」
 と指示する意味は、やれるだけやってみろということか。見回せば共演者のほとんどが大阪勢。委細承知...とばかりのノリだ。例えば、ほとんど介護状態なくらいに世話になっている大原ゆう、藤吉みかに荒川秀史のトリオと一杯やるとする。この三人の会話が途絶えることなく、まぜ返しや皮肉、冷やかしなどの合の手でのべつ幕なし。ジョークの応酬が場の空気をやたら陽気に持続する。狙い定めたジョークを一発、周囲がそこそこ受けて次に進む僕らの酒の飲み方とは、まるでテンポが違う。これが大阪流諧謔のツボなのか?
 その親玉が川中美幸である。
 「こんな時代だから、お客さんにうんと笑って、楽しんで貰わないと...」
 と、公演の狙いの要旨を話すが、これも関西弁のジョークまじりで、ほとんど真顔にはならない。第一部の芝居「七変化! 美幸一座~母娘愛情物語」は大衆演劇の劇団を母親から継いだ彼女の二代目奮闘記。そのため劇中劇として「白浪五人男」「国定忠治」「月形半平太」などの名物面が出てくるが、全部パロディー仕立てだ。「座長漫才」ではほとんど無口な赤井を相方に、立て板に水...で笑いをとりまくる。
 こう書けば、よくあるドタバタ喜劇と思われそうだが、それが下品に堕ちず安易に流れないのは、金子良次演出のきめ細かさと厳しさ。出演者にアイデアを求めて自主性を持たせ、自分でも演じてみせる詰め方が、笑顔のままだが油断がならない。全体的に注意されるのはテンポの良さで、不必要な〝間(ま)〟や余分な思い入れはカット! だ。ふだんの言動が加齢により、なお間だくさんになっている僕は、日々勉強、勉強...と、実にいい機会に恵まれている。
 それにしても...と、舞台そでや楽屋に居ると、どうしても感慨の波が来る。「豊後水道」や「ちょうちんの花」では阿久悠「金沢の雨」や「越前岬」では吉岡治「飛んでイスタンブール」が出てくればちあき哲也「遺らずの雨」では三木たかしら、亡くなった作詞家、作曲家の顔がちらつくのだ。それぞれ親交のあった人々だが、個人的な回想も含めて、個性的で上質の、得難い才能を見送った残念さが、改めて胸に来る。昨今の演歌歌謡界と睨み合わせると、後進諸氏の奮起に期待が大きくなったりする。
 大阪と言えば作詞家もず唱平がボス格で、川中にはデビュー前後からの恩師に当たる。川中公演といえば、必ず足を運ぶのが作曲家弦哲也と夫人の愛称弦ママ。そんな人々と長い親交を持つ僕は、彼らが楽屋に現れると途端に、
 「やあやあ」「どうも、どうも...」
 と歌社会の人間に舞い戻る。居合わせた役者仲間が「え?」「何で?」とびっくりする面映ゆい一幕だ。
 関係者が驚嘆するのは、川中の「八百屋お七」の人形振り。振付の花柳輔蔵つきっ切りの猛げいこで、ほぼ一週間で仕上げたとは思えぬ本格派ぶりで、これが第一部のドタバタ喜劇をきっちり締める。集中的好評を受ける川中だが、
 「亡くなったお母ちゃんの夢やったしな...」
 と、その話の時ばかりはまじまじと、宙空を見詰める眼差しになる。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ195回

 バーのラウンジ、左からギターを抱えた弦哲也、徳久広司、杉本眞人、その右側にピアノがあって岡千秋が陣取る。ちょいとした豪華版、それぞれが弾き語りで作曲家を目指した思い出の曲を歌い、往時を語るのだから、これはいくらお金を積んでも見られない光景。新聞記者からフリーの雑文屋になって50年余、こんな果報は初めてのことだ。

 弦哲也がタイトルなし、歌詞が一番だけという不思議な曲を歌う。昔、田村進二の芸名で歌い低迷していたころ、旅興行の列車の中で北島三郎が歌って聞かせた一節だと言う。

 「俺も作曲を勉強してるんだ。お前さんもそうしちゃどうだ」

 歌い手一人、聴き手一人、そんな形で激励されて、弦は一念発起した。無題のその歌はレコーディングされていず、今では弦の胸の中にだけ残っている。それからしばらく、彼は二刀流を目指すが、歌書きへの決意を固めたのは、奥村チヨが歌った『終着駅』で、作曲は浜圭介。この人はこの曲で、不振の歌手生活を脱出した。弦は似た境遇の浜の背中を追ったことになる。

 徳久広司は小林旭の『さすらい』を歌った。彼が師匠の作曲家小林亜星が経営するスナックで歌っていたころから、僕はつきあいがあったが、一目でそれと判る旭信奉者。デビュー曲で歌手としても代表作になった『北へ帰ろう』は、あきらかに旭オマージュ・ソングだった。

 当初、吉田拓郎ばりの曲と歌でこの世界に入った杉本眞人は、作曲家筒美京平の世界に魅せられて歌謡曲を目指す。ところが相手は全く人前に出ないタイプだから、仕方なしにコンビの作詞家橋本淳を訪ねた。そうかそうか、まあ上がれ...と迎えられた橋本宅で、すぐ麻雀に誘われ、おまけに大勝ちしたと言う。彼が歌ったのはいしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』だったが、昭和の筒美メロディーを、平成のリズムの強調ぶりが面白かった。

 歌手志願だったころの岡千秋は、美声の持ち主だったと言うが、長く新宿のクラブで弾き語りをやって、あの声になったそうな。「酒とタバコ、それに女だな」「いずれにしろ、不摂生が、今じゃお宝の声を作ったんだ」と、僕らがはやし立てる。岡の作曲家デビューは日吉ミミの『男と女のお話』のカップリング曲『むらさきの慕情』で昨今お得意の演歌とはまるで趣きの違う歌謡曲。思い出の曲として歌ったのは矢吹健の『うしろ姿』だから、やっぱりあの悪声にぴったりだった。

 それやこれやで盛り上がったのは、126日のフジテレビ湾岸スタジオ。前にもこの欄で書いたが「名歌復活!~弾き語り 昭和のメロディー~」の録画で、好評につき今回が3回目。彼らの弾き語りには、自作曲への愛情と思いを伝えたい情熱に、それぞれの人間味や遊び心まで加わるから、個性的な情趣にあふれている。弦が『鳥取砂丘』と『二輪草』徳久が『そんな女のひとり言』と『ノラ』杉本が『惚れた女が死んだ夜は』と『冬隣』岡が『名前はリラ...』と『女のきもち』と掘り出しものまじりで、共演した歌手たちは秋元順子、北野まち子、松永ひとみに桜井くみ子、司会が松本明子で、みんなが4人の作曲家の代表曲を歌った。

 「歌はやっぱり弾き語り、それもフルコーラスに限るな」

 企画立案した築波修二プロデューサーと僕は、マニアックな歌好き。この日ばかりは聴き手冥利につきた。宣伝めくがこの番組は、310日午後7時からBSフジで放送される。

月刊ソングブック

いい歌とローテーションについて

 歌を大化けのヒットに育てるには、ある程度長めの時間が要る。メーカーはそれを睨みながら、見切って次の作品を出す。人気歌手それぞれには、年間相応の売上高を見込んでのビジネスだ。
 シングルの発売といい歌との切り替えは、有無、双方の胸中にズレも生じる。かと言って新曲が出たのに前作を歌い続けるのもむずかしい。伍代夏子の『肱川あらし』には、聞く側の僕に未練が残った。香西かおりの『酒暦』は、長く歌い続けて欲しい欲がつのっている。

宵待ち灯り

宵待ち灯り

作詞:麻こよみ
作曲:四方章人
唄:伍代夏子
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 四方章人の曲がW型だが、彼のものらしく穏やかめだ。W型というのは歌い出しを高音で出て、サビと歌い収めで高音を三度使うタイプ。もう一つはM型で、静かめの歌い出しから、中盤で高音は2度。W型の方が作品のインパクトが強くなる利点がある。
 伍代はそんな四方メロディーを、息づかい細やかに語る。麻こよみの歌詞の言葉ひとつずつに、表情をつけ、女の健気さと優しさをうまく表現した。『肱川あらし』がヒット、作詩大賞もゲットした自信か、歌唱も彼女流に女ざかりの境に達したということか。

はなびらの雪

はなびらの雪

作詞:久仁京介
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 こちらも山崎剛昭の曲がW型。このタイプは高音の3個所をつなぐために、無理が出る可能性がある。メロディーがただ単につなぎ役だったり、高音へ移行するために力みが加わって奇をてらうに止まったり。
 久仁京介の5行詞を、山崎はうまい起伏のW型に仕立てた。起承転結、特段の新味はないが、これはこれで5行詞ものの定石か。
 歌の主人公は駒子で『雪国』のヒロインと同じ名前。それがいいねと男は愛したらしい。北国の風情にじませて、鏡五郎の歌表現は実に彼らしい女心もの。手慣れた役の演じ方だ。

勝負の花道

勝負の花道

作詞:朝倉翔
作曲:四方章人
唄:氷川きよし
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 人生一筋、氷川の花道は、人生訓混じりにどこまで続くか? 何と三番で亜細亜から世界までと、大きく出た。朝倉翔の気張った詞に、四方章人の曲と石倉重信の編曲が軽快。「ア、ヨイショ」「ハッ」と来て、四方の出世曲『浪花節だよ人生は』を思い出した。
(画像はAタイプのジャケットです。)

酒暦(さけごよみ)

酒暦(さけごよみ)

作詞:池田充男
作曲:森山慎也
唄:香西かおり
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 「寂しがりやに囲まれながら、わたし揺れてる、いまが好き」という三番の詞が、池田充男と香西かおりを〝共感〟でつないだろうか。ヒット曲『酒のやど』の曲も書いた森山慎也との相性も良さそう。80代もなかばの池田が、酒に託して人生を総括している気配がある。

くちなし雨情

くちなし雨情

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:杜このみ
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 民謡で鍛えたノドの持ち主のはず。それがそのまま演歌に出ては、歌の情がいまひとつになる。だから杜は能ある民謡の爪を歌の芯に隠す。弦哲也の曲の細やかさが、そう誘導していそうだが、歌は柔らかく優しく。サビと歌い収めの高音部に爪がチラリとした。

きずな橋

きずな橋

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:天童よしみ
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 天童よしみの歌と水森英夫の曲には、昔から縁ときずながありそう。水森は天童の声と節にメロディーを託して、天童はそれを大づかみにのびのびと歌う。女心ソングのしみじみ感は、息づかいで色をつけて、感情移入もゆったりめ。二人の得手は気合いと情らしい。

孔雀の純情

孔雀の純情

作詞:喜多條忠
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 女心ソングの主人公を、喜多條忠は〝孔雀〟に見立てた。自然、女の切なさ辛さと意地っぱりは、羽とその扱い方で語られることになる。作曲の弦哲也が川野夏美で目指すのは、ドラマチックな歌世界。風変わりな詞を手がかりに、川野は抑えめの歌唱で歌を大きくした。

無情の波止場

無情の波止場

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:原田悠里
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 原田悠里もまた、このところずっと能ある爪を隠している。クラシック育ちの美声を捨て、吐息で歌を聞かせる抑制ぶり。連絡船ものか?の予感を覆して、シャンソンふうに立ち上がった岡千秋の曲が、そんな彼女を生かした。原田の年期の芸、うまいものだ。

鳰の湖

鳰の湖

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:丘みどり
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 たかたかしの詞の歌い出し2行分を、丘はもの静かにスタートする。3行めには後半2行分、高音でせり上がりっぱなしの〝動〟へ、ちゃんと仕掛けがしてあった。ラストのめいっぱい切実感が、この歌い手の力量とキャラに似合うのが、弦哲也の見立てと算段と判った。
(『伊那のふる里』との両A面です)

MC音楽センター
 大阪に居る。新歌舞伎座の3月は川中美幸特別公演。急に春めいた好天続きで15日が初日だが、お客の出足も上々なのに、僕はまた関西弁に四苦八苦している。何しろ大阪で不慣れな大阪コトバだから、地元の人々がどう受け止めるか、セリフをしゃべりながら冷汗三斗―。
 演し物は二本。芝居が「七変化!! 美幸一座~母娘愛情物語」(金子良次演出)ショーが「川中美幸オンステージ~人うた心」(福家菊雄演出)で、二人の演出家が
 「楽しみながらやりましょう。そうしないとお客が楽しめない」
 と口を揃える。芝居も劇中劇いろいろでバラエティふう。ショーもコントをはさんで、出演者の個人芸が期待されるタイプだ。
 「母娘愛情物語」のサブタイトルから連想できようが、亡くなった川中の母久子さんの話がからむ。母親の大衆演劇団を引き継ぎ、二代目になったのが川中だがこれが解散寸前。共演の赤井英和と二人っきりになっていて「白浪五人男」が「二人男」だし「国定忠治」の赤城山のくだりは、忠治が川中で子分の赤井が一人でバタバタする。劇場のオーナー社長の瀬川菊之丞も「もはやこれまで!」と諦めかけたところへ、急を知った元座員たちが駆けつけて一件落着という筋立て。座員たちはみな、実は座長の配慮で、それぞれ修行に出ていたという人情劇だ。
 劇中の楽屋には、若いころ大衆演劇の娘役をやった久子さんの写真が飾られ、娘の川中座長が
 「頑張るからね、お母ちゃん、見ていてや...」 などと訴えるシーンもあって、虚実ないまざっている。そのあたりが観客にも通じるから、客席は大笑いしたりしんみりしたり。そこへひょこっと現れる僕は、演劇評論家のわけ知りだが、結局一座に加わって、劇中劇の「女ねずみ小僧」で目明しをやり、川中ねずみを追いかける大役? を貰った。評論家転じて役者というのも身につまされること確か。しかし、花道をバタンバタン...と引っ込むあたりが、どう踏ん張ったってカッコよく収まる訳はない。
 共演は初対面の前田耕陽、西条美咲、西畑まどからに四天王寺紅、大原ゆう、藤吉みか、荒川秀史、小早川真由らおなじみの顔ぶれ。楽屋内外でいつも笑いが絶えない川中一座だから、ついつい〝その気〟になりかかるのを、自戒しながらの日々になる。恐るべき存在は振付の花柳輔蔵という人で、和洋何でも来いの振付のほかに、元座員の一人になるわ、僕の相棒の捕り方になるわと複数役をこなすうえ、役者諸氏の相談に端から乗って、けいこから本番まで獅子奮迅。低姿勢に似ぬ大声が響き渡るから、
 「まさにお人柄スーパーマン!」
 の取り沙汰がしきりだ。もう一人DiceKを名乗る青年は歌い手だが、その声が何と4オクターブと来るから驚く。ショーで1曲歌うのだが、今回が初舞台と聞いて二度びっくり。そのくらい堂々とした歌唱は声だけ聞くと何人分か...とこちらが考え込む世界で、
 「裏声が上へどこまでも出るってこと?」
 と聞いたら
 「地声から裏へ少しずつ切り替えていくんです」
 と答えた。地から裏へ「少しずつ」というのがどういう状態なのか、僕にはとうてい理解のおよばぬ領域だ。
 ショーの方でも一役貰った。旧知の舞台監督桜井武志が「頭領、地でいけるでしょう!」とニッコリ笑った通りのボケ老人で、赤井とトンチンカンなやりとりをする。ま、演出家が「楽しめ」と言うんだから...ととりかかったが、関西弁をポンポンというテンポなら、そうそう楽しめるものでもない。で、お楽しみは行きつけの酒場「久六」で...ということになる。僕が「大阪のおっかさん」と呼ぶおかみさんは、ふっくら笑顔で相変わらず元気。芝居を見に来て僕が出てくると
 「ドキドキして、もう...」
 と頬を染めるあたりがカワユイ。
 記者時代から長いこと〝人間中毒〟と〝ネオン中毒〟を患っている僕のもう一つの得意技は〝人たらし〟で、共演の大原ゆうと藤吉みかにはほとんど介護されているくらい面倒を見てもらっている。大阪の気のいいおばちゃん(失礼!)然とした二人とのやりとりを、
 「ボス! 何してんの!」
 と、笑顔で睨む川中の舞台は例によってジョーク百連発、浪花の春は陽気に「日々是好日!」で、今回のレポートはチョン! である。
週刊ミュージック・リポート
 眼下の海にも、対岸の富士山にも、紗がかかってぼんやりしている。よく晴れた日なのに、クソッとカーテンを閉める。時おり岩でも削るかと思うような激しい音がする。わが家の猫の風(ふう)とパフは、背中を低くしてリビングルームを這い歩く。奴らはことさらに音に敏感なのだ。
 実は、人間にとっては別に、特異なことではない。住んでいるマンションの大規模修繕が始まっただけで、建物全体がやぐらみたいな足場に囲まれ、半透明の幕が張りめぐらされている。それがたまたま、東京へ出ずに済む休日も工事が行われている訳で、僕は海を眺める楽しみを諦め、もう一つの楽しみに取りかかる。たまってしまったCDを、外部からの雑音の合間に聞き取る作業だ。
 《ほほう》
 と気分が良くなるCDに出っくわした。竹島宏の歌で「恋町カウンター」と「ほっといて」(Aタイプ)「嘘つきなネコ」(Bタイプ)とカップリングを交えた3曲。全部松井五郎の詞、都志見隆の作、編曲で、こじゃれたポップス系歌謡曲だ。「恋町カウンター」は、いかにも都会的な若い男女の深夜のときめきの光景を切り取ってなかなかである。
 まず、竹島の声がいい。甘く明るくよく響いて、歌謡曲勢にありがちな、かげりがない。その利点は歌唱に生かされて、軽快な曲と編曲に弾み加減のノリが快い。余分な感情移入がなくすっきりスマート。高音部の艶も高揚もほどほどで、今日的な若者の生活感がにじむ。息づかいを含めて、細心の気くばりをしているのだろうが、全体に気負いが見えず、らくらくと歌っている親近感もある。
 それもこれも、作品の力によることが大だろう。男女のぎりぎりの一瞬を捉えた松井の詞は1コーラス4ブロックの11行。それを都志見の曲が簡潔な表現で、一風変わったラブソングに仕立てた。終電車が過ぎたころ、目配せの5分前、誰かの名前は伏せて、二人とももたれたい肩を探してる...と、刹那のひとときなのに汲み取れば、ストーリー性まで秘めている。
 こう書けば、いいことづくめのベタぼめだが、作品も歌唱も、従来のポップス系歌謡曲とさえ一線を画していると思うのだ。はやり歌永遠のテーマの色恋沙汰を描きながら、着想が違い、文体が違い、タッチが違う妙がある。前作「月枕」の成功と、歌手15年を超える研鑚をベースに、メーカーの宣伝資料が「今まさにブレーク寸前!」と気合いが入るのも、判る気がする。
 仮に活躍中の若手の名前を並べてみる。左から民謡調の福田こうへい、演歌の三山ひろし、歌謡曲の山内惠介と、キャラと作品傾向を考えれば、竹島にはその右側に立ち位置を占める可能性がある。この比較は決して歌手たちの優劣や実績の多寡を指すのではなく、彼らそれぞれの独自性を考えてのこと。福田から順に、伝統的な境地から次第にポップス色に近づく差異があり、情緒的湿度も異なっている。それぞれがその特色でファンの支持を集めている三者に、竹島は一味違う角度から参戦することを、スタッフは狙っているのだろう。
 不明にして僕は、竹島のこれまでについて、あまり多くを知らなかった。そこへいきなり「恋町カウンター」だから、全く別のカウンターをくらった心地で、少々うろたえた。〝はやり歌評判屋〟として、それは何とも快い刺激ダメージで、
 《これだからこの商売やめられないな》
  と再確認したりする。
 このところ昭和回顧ものばやりで、僕はBSテレビのあちこちから、昭和のいい歌、昭和の卓越した歌手や歌書きたちの特番に呼ばれている。
 「昔のことを知っている方が少なくなっていて...」
 と、消去ふう起用があからさまなケースもあるが、だからといって得得と、年寄りの知ったかぶりをしゃべっているばかりなのはいかがなものか。数多く、昭和の歌びとたちの知遇を得、その光栄に浴して来たことが、僕の大きな財産としても...のことだ。雑文屋なら昭和を検証しながら、新しく生まれる才能とその所産に見配りしなければという、自戒の念も新たにする。
 さて、間もなく平成も終わり、新しい元号の時代がやって来る。歌は世につれはするが、世が歌につれることなどはない。ましてキナ臭いことのみ多い昨今。そんな政情や世相を横にらみしながら、平成の歌のラストスパートを追跡することにしようか。
週刊ミュージック・リポート
 2月15日夕、帝国ホテルで、作曲家船村徹の一周忌法要とその会が営まれた。参会者350人。
 「もう、そんなになるんですよね」
 と、人々は異口同音になった。命日が翌16日だから丸一年が経った勘定。大作曲家の死がまだ、ついこの間のことのように思えて、親交のあった人々ならなお、そんな共感が強かったのだろう。
 形式ばらずに粛々と...というのが、船村夫人佳子さんの考えだった。祭壇の遺影の傍らには、うす紅の花がやっと咲き揃った梅の木、その下には菜の花の黄が勢揃いして船村の故郷・栃木今市の原風景をしのばせる。献花の間の読経は、湘南・片瀬にある泉蔵寺の住職と二人の僧侶。この寺にある墓は、家族が数年前に用意したもので、高台にあり正面に富士山、左側に江の島をのぞみ、眼下には小学校。終日子供たちの歓声が届く。
 会のあいさつは高弟の北島三郎と作曲家協会の弦哲也会長、作詩家協会の喜多條忠会長の三人だけ。北島が船村との出会いや、船村と佳子夫人の恋愛中のエピソードをユーモラスに語った。
 「長過ぎるか? もう少しいいだろ」
 と、司会の宮本隆治とやりとりしながら20分余。とかく暗めになりがちな会場の空気をなごやかにする心遣いだ。
 弦は船村メロディーの魅力を語り、彼が歌手を目指して千葉から上京、志得ぬ十代の日々を船村作品の「東京は船着場」に慰められ励まされたことも添えた。喜多條は船村の仮通夜に辻堂の自宅を弔問、初めて入った書斎にあったおびただしい日本の詩歌集に胸衝かれたことを披露した。天才の努力が老いてなお盛んだった事実が、会場の人々に伝わる。いずれにしろ三人三様の立場から、本音で語るあいさつが、この種の会にありがちな社交辞令ふうを避けて、実にいい。
 大忙しだったのは佳子夫人と娘の渚子さん、長男で施主の蔦将包の夫人さゆりさんで、会の準備から当日の席決め、土産物の配置まで、運営を船村家の手づくりにしたい思いの熱さが歴然とした。僕ら船村ゆかりの歌社会の面々は、その外側であれこれ手伝いをするに止まる。
 もうひとつ船村家の人々の心づくしは、中断したままの「歌供養」の再現。船村は一昨年が5月の心臓手術の直後で断念、昨年は6月12日のその日を待たずに亡くなっている。盟友高野公男と23才で戦死した実兄福田健一氏の慰霊を軸に、陽の目を見損なった歌たちや、年度内に亡くなった歌仲間に合掌するこの催しは、昭和59年に始まり、30回を超えていた。
 「さぞ心残りだったろう」
 というのが佳子夫人らのおもんばかりで、一周忌の席でその32回目が営まれた。供養されたのは永六輔、三浦康照、北原じゅん、曽根幸明、小川寛興、平尾昌晃、山川啓介、仁井谷俊也ら作詞、作曲家に歌手のペギー葉山、かまやつひろし、三条正人らここのところの2年分。
 「歌はないの?」
 と期待する向きもあったが、中締めにそれが出て来て、鳥羽一郎を筆頭に内弟子五人会がおなじみ仲間たちバンドの演奏で「師匠(おやじ)」の1曲だけ。星野哲郎が作詞、船村への弟子たちの思いを書き込んだこの歌が、船村を葬送する曲として定着したようだ。
 僕はと言えばこの2月12日に終演した東宝現代劇75人の会公演「私ん家の先に永代」の医師の吉桐松尾役が心身にまだ残ったまま、何しろ12日が千秋楽で13日がゴールデンミュージック市村義文会長の喜寿を祝う会、14日がUSEN昭和チャンネルで八代亜紀と5時間近い対談...の売れ方だ。
 医師役が59才だから、黒く染めた髪に白髪を書き足して7公演をやった。その名残りで染めた髪はまっ黒のままそう簡単には抜けない。久々に会う歌社会の人々の目線が、どうしても額から上に上がるのへその都度釈明に追われる仕儀になった。
 今公演を作、演出した劇団の大先輩で、この道の師匠の横澤祐一に、思うにまかせぬ演技で申し訳ないと手紙を書いたら、
 「意図した吉桐医師がちゃんと出来ていた」
 旨の返書を貰った。ま、ご苦労さんでしたネのいたわりの言葉と受け取り、決して図に乗ったりはしないが、終わっちまった芝居のセリフが、また夢の中で出て来るあたりは、未熟のせいかこだわり癖か。
 いずれにしろ、歌社会と芝居の二足のわらじ。81才でそう長いことではあるまいが、歌社会を逃げ場にだけはしない決心だけはぶれることがない。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ194回

 「賀正 祈 歌謡発展 身体健全」

 と大書してある。何と、朱筆で達筆である日付はもちろん平成30年元旦。歌社会に長く身を置く僕あての、シャレの年賀状などと早合点しないで頂きたい。送り主が何と「天童大黒天、観月山妙法寺第十八世」の矢吹海慶日貞師なのだ。それに添えられたのが山形の銘酒・出羽桜の「枯山水」で「特別純米・十年熟成」の限定品、製造年月まで179月と明記されている。

 正月、葉山の自宅へ押しかけて来た友人たちに振舞ったら、

 「これはヤバイ。うま過ぎてどんどん行っちまう。銘酒中の銘酒だ」

 「すっきりしていて、飲んだあとにコクがある。やがて80才になる人生で、こんな凄いのは初めて出会った...」

 と、異口同音になった。僕はと言えば、「そうだろ、そうだろ」とはや陶然、ほとんど酔生夢死状態――。

 それにしてもどういう関係で?と、連中が訝しがるから、僕は謎解きをする。

 山形県天童市で晩秋に開かれる佐藤千夜子杯歌謡祭というのがあって、毎年僕はそれに通っている。予選通過100名ほどの歌を聞き、決選の10名から優勝と各賞を決めるカラオケ大会。そのイベントの実行委員長が矢吹師で、ボランティアの熟女たちを指揮、手づくりの歌謡祭を年々大きく育てている。「酒と女は2ゴウまで」などとうそぶきながら、よく飲みよく歌う粋人で、舌がんのリハビリをカラオケでやる歌好き。高僧で市の実力者でもあるから、表彰式には市長も駆けつける。

 冠になっている佐藤千夜子は天童出身で、日本のレコード歌手第一号。『波浮の渚』や『東京行進曲』『紅屋の娘』などのヒット曲を持つ。昭和のはじめごろの業績だが、それを顕彰し、全国の歌好きを糾合、天童の町おこしにもつなげる。昨年は17回めだったが、僕は審査委員長としてそのうち13回も通っている。審査するのは他に元テイチクの千賀泰洋、元ビクターの朝倉隆、元日本テレビのプロデューサーで山形出身の木村尚武、NAK本部の櫛田紘一...と、みんな友人。

 天童は歌どころである。予選にはご当地ノド自慢がぞろぞろ。朝から夕方まで会場舞鶴荘のホールを満員にする観客は、弁当をつかいながら聞き飽きる気配もない。天童は米どころであり、酒どころでもある。天童通いで大好きになったのは、米は「つや姫」おかずは「芋煮」つけものは「青菜漬け」で、これが僕の天童ベスト3。酒は矢吹師が集めてくる名酒・珍酒のうち、やっぱり出羽桜の「枯山水」「雪漫々」...。現地集合がイベント前夜の夕で、宴会のあとなじみのスナックで、また飲みかつ歌う。ゲスト歌手も例外ではなく、昨年は仲町浩二、奥山えいじ、内田あかり、一昨年は北原ミレイらがタダで歌った。

 天童は人情どころでもある。イベントの裏側ではリーダー福田信子の叱咜激励で熟女スタッフが右往左往するさまが、ほほえましくも家庭的。ずっと審査員控え室当番の片桐喜代、吾妻キヨ子の"両きよ"女史など、僕らとまるで親戚づきあい。昼のごちそうに、おやつも土地のものを「さぁ食べて!」「お茶をもう一杯...」。

 旅には「人に会い」「人情、風物に触れる」楽しみがある。僕の天童詣ではいつのころからか、矢吹和尚をはじめ信子リーダーたちとの歓談が主になっている。本末転倒ではあろうが...。

月刊ソングブック
 俳優内山恵司さんが逝ったのは昨年10月。その偲ぶ会は今年1月22日、日比谷のビアホールで開かれた。僕が所属する劇団東宝現代劇75人の会の大先輩である。86才、東宝の演劇を代表するその実績と人望に、びっくりするくらいの人が集まった。あの大雪の日の午後のこと。参会者の話は劇団を創設した劇作家菊田一夫を始め、一時代を作った森繁久彌、三木のり平らから有名女優陣のあれこれ、さながら商業演劇史のおもむきがあった。
 今回、2月8日初日で12日まで合計7回の75人の会「私ん家の先に永代」(作、演出横澤祐一)は、その内山さんの追悼公演みたいになった。夫人に先立たれた一人暮らしで病いを得、入退院を繰り返しながら、彼の舞台への熱意が衰えることがなかったと言う。病院の一室で横澤に、
 「俺の役を作ってくれよ」
 と真顔で言い、見舞いに行った丸山博一には、
 「吉井勇役は俺がやるんだ。何としてもやる」
 と話している。横澤も丸山も同じ劇団のお仲間だ。今回公演のポスターやチラシには、内山さんの姿が入っている。永代橋をバックに三々五々たたずむ出演者の左側一番奥に、杖をついているのが彼だが、横澤らが見舞った時は車椅子、起居に人の助けがいる衰え方。〝次の芝居〟が闘病の支えになっていたのだろうか。
 池袋から有楽町線で一駅、要町から歩いて10分たらずのけいこ場・みらい館大明211号室を引き払った2月4日夕、横澤の発案でスタッフ、キャストが全員、内山さんに黙祷した。最年長の先輩へ、各人の決意はさまざまだ。内山さんのために吉井勇を書いた横澤は、自分がその役を演じることになった。一場面だけだが、ドラマの大詰めを締める重要な役どころで、けいこから本番へ、横澤の胸中は複雑だったろう。
 2月8日初日で5日間、大江戸線清澄白河駅近くの深川江戸資料館小劇場は、寒波襲来にもかかわらず大いに賑わった。永代橋川岸の船着場待合室は、その奥がひなびた旅館と医院につながる舞台で、時代は昭和30年代。旅館の主人(丸山博一)とおかみ(鈴木雅)を中心に、出入りする人々の下町人情劇が展開する。深川八幡の本祭り前後、飛び込んだ家出娘(田嶋佳子)や謎の女(村田美佐子)永代橋に因縁を持つ老婆(新井みよ子)と娘二人(菅野園子、古川けい)材木屋の若旦那(大石剛)と愛人(高橋ひとみ)番頭(柳谷慶寿)などが繰り広げる悲喜こもごも。僕の役は医者で本妻(高橋志麻子)がありながら、あちこち目移りする女好きで、1幕2場2幕6場の計8場のうち、ちょろちょろ5場も出て来る忙しさだ。すったもんだの大詰めに、二人の女性(梅原妙美、松村朋子)が突然現れて、お話は意表を衝いて急展開、大騒ぎになる―。
 登場人物だけをこまごま書いたのは、この芝居の面白さを伝えたいせい。1幕2場のさりげないセリフが曲者で、これが全部伏線になっており、2幕でそれぞれの人間関係があらわになる。一例をあげれば謎の女(村田)は、実は医者の僕の愛人だが、本妻(志麻子)の顔を見ようと来てみたら、二人は中学、高校の同級生で親友だったりする。ところが舞台上では、医師と愛人がからむシーンが、一度もなかったりして...。
 この劇団の公演としては31回め、横澤の深川シリーズは今回が5作めで、亡くなった内山さんは前回公演「坂のない町」の老落語家役が最後の舞台になった。ご一緒した僕は深川あたりの気のいい世話役。作、演出の横澤によれば、出番は多いが見せ場のない辛抱役というのだそうだが、舞台内外で内山さんをあれこれ手伝った。そのせいか終演後しばらく、内山さんから葉書を貰った。
 「けいこ場から劇場、楽屋までオールひっくるめてお世話さまでございました」
 の言葉のあとに、
 「人には限界、ムリという言葉があるのを知りました。私にとりまして思い出多き公演になりました」
 と続いた述懐に、胸を衝かれたものだ。年は5才下だが長幼の序がある。それに芸歴60年になんなんとする方に、僕は入団10年に満たないぺいぺいである。何かと教えを頂いた大先輩の身辺で、多少の気配りは当たり前のことだった。
 時おり内山さんを思い出しながら、公演は終わった。このレポートが読者諸兄姉に届くのは後日になる。この後僕は、3月なかばから大阪新歌舞伎座の川中美幸公演、4月は大衆演劇の門戸竜二一座の地方公演に参加する。けっこう忙しいのです。えへへへ...。
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新春、なかなかの歌揃いです

 新年あけましておめでとう―の気分で、松の内に12曲を聞いた。今こそスケール大きめの歌を!と意気込む五木ひろし、老境枯淡の北島三郎、恩師の節目を寿ぐ川中美幸らに、転機をうかがう藤原浩、市川由紀乃、にっこり愛嬌の石川さゆりと、新年に似合いの歌手たちの気組みと顔つきが見てとれた。
 ベテラン作詞家久仁京介が、恋情ひたひたと男の心意気、慰めムード派と3曲3様で幅広い仕事ぶり、岡千秋はお手のものの人情ソングに、女心もの二つと望郷ソングと4曲も量産、繁盛ぶりご同慶のいたりだ。

うたかたの女

うたかたの女

作詞:たかたかし
作曲:幸耕平
唄:市川由紀乃
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 市川の泣き歌・嘆き節は、一定の評価を得た。大型新人(!)の域も確かに越えた。そうなれば...と、制作陣は次の手を考える。本人もそうかな...と思うか。
 そこで作詞がたかたかし、作曲は幸耕平に代わる。二人とも嘆き歌を書いても、芯に明るさを宿す歌書き。曲調もメジャーになった。生きて行くのは「つらいわね」と呟きながら、男へのいとしさにくさをかきまぜて、酒と涙の女主人公が生まれる。
 市川の歌声の包容力と温かさ、健気さが全面に出た。芸幅を広げる試金石になりそうだ。

恋歌酒場

恋歌酒場

作詞:阿久悠
作曲:徳久広司
唄:五木ひろし
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 昨年が没後10年だった阿久悠の未発表作に徳久が曲をつけた。この詩を選んだ時、徳久には曲のイメージが浮かび、それを越えようとしたろうか。
 阿久の原詞は2行2行5行の9行が1コーラス。それを徳久は2行2行3行の7行体裁の曲にしている。サビ2行めの前半を1行めにつなぎ、後半をその次の行の頭におき、最後の原詞2行分を1行にまとめた。
 結果「恋歌よ恋歌よ」が痛切に響き、大詰めがよりドラマチックになる。酒場歌が実は時代の挽歌であることが明白になった。

幸せ古希祝

幸せ古希祝

作詞:奥田龍司
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 長く連れ添った夫婦が同時に古希を迎えたらしい。そんな祝い歌を傘寿を越えた北島が歌う。「ありがとう」がテーマの男唄。かつての北島節なら勢いのある演歌になったろうが、息づかいやわらかく、声も淡々と、今様の小唄端唄の表現。これも年輪なのだろう。

夫婦人情

夫婦人情

作詞:喜多條忠
作曲:岡千秋
唄:石川さゆり
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 こちらは逆に、歌唱を昔に戻したようで、歌声がやわやわふわふわ、声に笑みを含めた。「あんたとわたしは竹光芝居 切っても切れぬ仲やんか」が喜多條忠の詞のキイワードになる浪花夫婦もの。さゆりが三番の歌唱で決めにかかって感想は"役者やのう"だ。

雪明かり

雪明かり

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:藤原浩
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 朗々とした美声の持ち主が、このところ詠嘆の語り歌に挑戦している。そんな藤原が進境を示す一曲。息づかいも含めて声に頼らぬ声味が作れて、世話ものの女唄だ。久仁京介の詞が恋情ひたひた、作曲の徳久広司の歌い込ませないやり方も奏功していそう。

いごっそ魂

いごっそ魂

作詞:久仁京介
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
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 このところ、きっちり男唄で聞かせる三山ひろし。ビタミンボイスが太めになったせいか、中村典正の曲がそうさせるのか。今回は坂本龍馬が主人公。威勢のいい詞は久仁京介のベテランらしい筆致。比較的なだらかな曲を辿って、歌い納めで三山は、歌で見得を切った。

金沢茶屋街

金沢茶屋街

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵かを里
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 葵の歌声は鼻にかかってか細い。歌う口調はたどたどしさを感じさせて、金沢茶屋街の女の姿をはかなげにする妙がある。そこを舞台にした麻こよみの詞も、特有の言葉は友禅流し、格子窓、三昧の音くらいでくどくない。葵はこの曲も踊りながら歌うのだろうか。

泣き虫

泣き虫

作詞:久仁京介
作曲:花岡優平
唄:増位山太志郎
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 ほう、増位山に花岡優平の曲、矢野立美のアレンジか!と、組み合わせに注目。歌手の領域を広げるのか、曲、編曲の二人がムード歌謡に手を染めるのか。結果は増位山専門のムード歌謡ぶりが変わらず、異種交配ほどの驚きはなかった。これも歌手の個性と言うべきか。

女のなみだ

女のなみだ

作詞:かず翼
作曲:岡千秋
唄:角川博
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 角川の女唄には定評がある。歌唱に独自の女口調が作れて、本人も応分の自負を持っていそう。そんな板につき方が随所に出ていて、かず翼の詞、岡千秋の曲もいかにもいかにも。アクセントは女声コーラスの溜息ふう。歌なかでも一カ所それを重ねて、奥行きを作った。

舞鶴おんな雨

舞鶴おんな雨

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
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 昔ふうに言えば「連絡船もの」の曲とテンポ。菅原都々子を思い出すタイプの作品だ。それらしい揺れ方と語り口で、椎名は歌い出しの歌詞2行分をこなした。序破急のメロディーのメリハリでは、高音で弾ける部分に欲が残る。語る方が得手の歌手なのかな。

望郷貝がら節

望郷貝がら節

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
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 都会の海で溺れかけている女の望郷歌。亡くなった仁井谷俊也の遺作詞は貝がら節の「カワイヤノ、カワイヤノ」を、そんな女への親心として捉えたのか。使われる民謡はその部分だけに止まる。岡の乾いた歌声が生活感にじませて、かえって切迫感を強めている。

深川浪花物語

深川浪花物語

作詞:もず唱平
作曲:聖川湧
唄:川中美幸
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 落ち込む浪花生まれの娘を、励ます東京男の深川人情編。各コーラス4行で状況を語り、続く2行が男心セリフになる。3節を三幕ものの芝居みたいな味で、川中が演じた。もず唱平の作詞50周年記念作品。大阪在住のまま東京望見の仕事をする年月の感慨も感じた。

MC音楽センター
 神野美伽の「千年の恋歌」が面白い。荒木とよひさにしては珍しく短い4行詞。それも前半2行が片仮名表記で後半2行が平仮名表記。「会いたくて、会いたくて、ただ会いたくて」とか「次の世は、次の世は、ただ次の世は」なんてフレーズも出て来る。神野と荒木は離婚している。それとこれとを考え合わせると、この詞は荒木のはかない〝未練の恋歌〟とも聴こえる。
 《そんな訳はねえだろ、今さらなあ...》
 などと、二人と親しい分だけ乱暴な感想を抱きながらCDを聞き進む。1コーラスめのバックがギター1本。それが聞き進むうちに、厚めのオーケストラにふくらんで、ドラマチックに神野の歌唱を支え、いざなっていく妙がある。誰のアレンジだ? 近ごろ秀逸! とクレジットを見たら、蔦将包とあった。
 《こういうところにも、船村徹流が生きているのか!》
 僕は感慨深く合点した。船村の演歌巡礼などでは、彼が斉藤功のギターだけで歌い出し、やがて仲間たちバンド総がかりの展開になって、独特の情趣を作ったものだ。その編曲も息子の蔦である。まさにこれは父子相伝の境地ではないか!
 核になるのは弦哲也の曲。これが優しさと包容力を持ちながら、姿すっきりと哀感ひと筋のワルツだ。
 《む? 平成の〝船頭小唄〟を狙ったか?》
 近ごろ僕はあちこちで「彼は平成の古賀政男になる!」とヨイショしている。演歌と歌謡曲、ポップス系まで幅広く量産しながら、ヒットのアベレージが群を抜いて高い。古賀政男は映画主題歌が多く、当時の映画をメディアとして活用した。弦の今日は、テレビの歌謡番組もわずかで、頼るメディアもないまま作品本位の独歩だ。BSテレビの昭和の歌ばやりを尻目に、昭和テイストを平成タッチで生かすあたりが頼もしいではないか!
 それやこれやを神野と話した。MC音楽センターという会社の機関紙の対談でのこと。
 「ワルツの歌が欲しかったの。シングル書いてくれますか...って、とよひさ先生に電話をしたら〝もちろん〟って。何日かあとに〝出来たッ!〟って、届いたのがあの詞なの。あっ、これはワルツだ...と思っていたら、弦先生もそのものズバリでしょ」
 別れてもかつての同志、歌のことばかりは有無相通じるものらしく、作曲家は詞を読み切ってそれに応じたということか。
 神野はこのところ、まるでロックかと思うくらいパワフルでエネルギッシュな歌唱に没頭している。4年前の30周年、渋谷公会堂でそれに出っくわして僕は驚倒した。バンドもガンガン歌もガンガンで、一瞬「暴走演歌か!」と思ったくらいだが「酔歌」も「流氷子守唄」も彼女バージョンで、全身全霊を傾け、今日ただ今の神野スピリットを全開放していると気づく。演歌と演歌歌手のアイデンティティーをニューヨークで試し、その気合いをそのまま日本に持ち帰っていた。
 演歌歌謡曲は、作品の情感やそれにこめられた作家の思いを、歌手が肉声化するのが基本。ところが神野は作品を自分の歌世界の道具として取り込んでいる。それもこれもこのジャンルの先細り、低迷を何とかしたい一心、ファンの高齢化を睨み、若い世代の共感を得るためのアピールなのだろう。誰にでも出来ることではないが、そう出来るエネルギーと性格は彼女ならではのものだ。
 「ねえ、今、とよひさ先生と言ったねえ」
 と僕は問いただした。夫婦だったころは「お父さん」とか「荒木さん」とか言っていたはずなのだ。離婚後それに彼女が迷っていたら「とよひさ先生がいいじゃない?」と助言したのは評論家で作詞家の湯川れい子だと言う。離婚が彼女を発展させたとも言った。京都で暮らす荒木を「ダンナは放し飼い」と笑っていた彼女も、実ははぐれた放し飼い状態にうつろだった。それを苦しんで、吹っ切ったところから、決然とパワフル神野の世界へ踏み切れたのかも知れない。
 歌手生活が35周年、冒頭の「千年の恋歌」はその記念曲である。昨年秋の新宿文化ホールのリサイタルでは、ただひたすらガンガンの間に「紅い花」の情感もはさんだ。神野のパワフルロック・スピリットは、そういう陰影を示しはじめていた。だとすれば彼女の演歌はいうところの二刀流になる。陽はアルバム「夢のカタチ」の数曲にあり、影はシングルカットした「千年の恋歌」ということになるのだろう。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ193回

 ≪ほほう!≫

 作家や歌手の進境に時おり出っくわす。毎月、かなりの枚数のCDを聞いてのことだが、そんな時はわが事のように、嬉しくなる。相手の顔を思い浮かべて、電話でもしようか...という気分。そんな出来事は、そうそうないせいだが、こちらは雑文稼業。電話よりは原稿にした方が...と思い直す。

 年の瀬の≪ほほう!≫は、永井裕子だった。新曲『海猫挽歌』だが、おや、別人みたい...というのが第一印象。聞き慣れた演歌の枠組を離れた歌唱が、すっきりと一途である。歌い出しの「語る」部分に、ほどの良い抑制が利き、サビの昂り方に悲痛な開放感がある。全体に「歌の口調」が変わっているのだ。

 ≪作品が歌手を変えるのだな≫

 と合点する。作詞が荒木とよひさ、作曲が浜圭介。詞の語り部分は2行だが、ほぼ4行分くらいに、荒木は相変わらず長め。そのあと2行分がサビだが、こちらは主人公の言い分を歌って短かめ。納めの2行分で主人公は「会えなきゃ死んだと同じこと」と、その恋を諦める。浜のメロディーは持ち前の粘着力で差し引き、すっきり語らせガツンと決める。訴求力の強さがなかなかなのだ。

 ≪作品の文脈が、これまでの彼女のレパートリーとは、大分違っている...≫

 永井のデビューから10年間、実は僕が歌づくりを手伝った。作曲家四方章人がNHKの番組でスカウト、相談に来たのがきっかけ。彼女はまだ中学生だったから「ともかく高校までは行かせよう」と提案した。愁いを含んだ独特の声味と歌唱力があって、急ぐことはないと思った。デビューから10年間、曲は師匠の四方が一手に担当、色彩を変える狙いで、作詞は友人の一流どころを端から動員した。池田充男、阿久悠、吉岡治、たかたかし、喜多條忠、坂口照幸からちあき哲也まで。

 『哀愁桟橋』『菜の花情歌』『石見路ひとり』『男の情歌』『さすらい海峡』...。永井の歌づくりは演歌の中核を目指し、一曲ごとの積み重ねは、彼女の豊富なレパートリーづくりに通じた。愁い声と彼女流の泣き節がメインで、歌のロケハンに作家たちと出かけたのは、石見銀山や東伊豆の温泉町など。行く先々が"作品の拠点"になり、永井の"第二の故郷"の人脈が生まれる。

 その間永井は、コンサートではポップスも歌い、今時の女の子の感性も維持していた。そこで『海猫挽歌』である。タイトルこそ演歌だが、内容は浜圭介流の歌謡曲。そんな潮時...と、長く彼女の歌づくりを担当する古川健仁ディレクターは、鉈を切ったのだろう。永井の歌の実り方に転機を与えようともしたろうか。狙いは図に当たって、永井はごく自然に作品に染まり、作品に入り込んで、自分のものにした。

 歌手歴17年、永井裕子はここでひとつ、ハードルを越えた。力を持つ歌い手として、頼もしい孵化を示した。うまく行けば彼女はここから第二期に入る予感がする。

月刊ソングブック
 冬の谷端川南緑道を歩いている、地下鉄有楽町線の要町駅から10分ほど、行く先は廃校になった大明小学校の211号室。もともとは図工用の教室だったらしい一室が、2月公演のけいこ場だ。所属する東宝現代劇75人の会が、毎回ここを使う。今回の演目は「私ん家の先に永代」で、僕のこの道の師匠・横澤祐一の作、演出、おなじみになった深川シリーズの5作め。
 毎日行き来する緑道は、もともと川だったところに作った遊歩道だから、適度にカーブがあって、両側は植え込みの木々。以前は夏の公演だったから、季節の花々が目を楽しませてくれた。それが今回は冬なので、百日紅も無花果の木々も、貧相な小枝もあらわに、緑は植込みだけ。そう言えば一昨年は昼顔や美女柳、立ち葵などの花が色とりどりだった...と、年寄りの感慨をちらっとさせながら、冬枯れの中を歩く。
 頭の中はグルグル回っているのだ。ブツブツ口をついて出るのは覚えなきゃならない芝居のセリフ。前号に書いたが、A型インフルエンザにやられて閉門蟄居。僕ひとりがけいこに出遅れているから、気が気ではない。みんなはもう立ちげいこに入っている。遅れた僕だけ台本を持っているわけにもいくまい。
 「セリフが多くて、恐怖を感じるよ」
 と、共演者の一人丸山博一が冗談めかす。僕より2才年上、「屋根の上のバイオリン弾き」も「放浪記」も...と、名だたる東宝の大作舞台を連戦したベテランでも、ふとそんなことを考えるらしい。今回の芝居は昭和30年代のお話、深川永代橋東詰めにある旅館「永代荘」の主人稲延福三郎が丸山の役。僕はその裏にある吉桐医院の開業医師。舞台は旅館と医院をつなぐ形で付随する船着場の待合室だ。
 丸山先輩と僕は、似た年かっこうの気のおけない隣人同士。旅館に乱入した娘とあれこれやり合ったあとの丸山が、今度は僕と世間話をはじめる。一見とりとめもないやりとりが、下町おやじらしい口調で続く。しかしそれがやがて意外な展開につながっていく伏線なのだから、一字一句おろそかに出来ない。
 僕は似たようなやりとりを、旅館のおかみさんの鈴木雅とやり、旅館に居付いた気のいい女の高橋ひとみともやる。いずれもほとんどサシの会話。遅れてけいこに入った僕は、三人の役者さんに何とか追いつかなければ申し訳ない立場だ。
 セットは船着場待合室の一杯だけ。そこに16人の人々がそれぞれに問題をかかえて出入りする。面白おかしく、時にホロッとする人情劇が、いくつかの死と思いがけない生を束ねて、突然、劇的な大詰めを迎えるのだが、全体はいわばセリフ劇。それぞれが立ちっ放しでは芝居にならないから、こまごまとした動きが求められる。
 「小西さん、そこ、こうしましょうかね」
 演出の横澤に言われてみれば、いかにもいかにもと腑に落ちる立ち居振舞い。それを何回か繰り返すうちに思い当たるのは、ベテラン俳優の技と言うか、芸の引き出しの多彩さと言うか。
 例年、けいこ終了後は池袋あたりの居酒屋で飲み会である。僕はそれを〝反省会〟と受け止めて、連夜、先輩たちの世間話に、耳をダンボにしてつき合った。芝居のヒントや心得が、ひょこっと出て来たりするので、油断がならない。ところが今回は病み上がりのせいか、誰からも声がかからない。僕も神妙な顔つきで自粛しているが、恐れているのは風邪のぶり返し。万が一そんな事態を引き起こしたら、何を棒に振るのか、考えただけでもゾッとする。
 したがって帰路も要町駅まで、谷端川南緑道をトボトボ歩きである。だいぶ陽が伸びて来た細道に、夜陰がしのび寄る。人間中毒とネオン中毒を長いこと患っている僕は〽日暮れになると涙が出るのよ、知らず知らずに泣けて来るのよ...と、やたらに古い歌のひと節を口ずさむことになる。
 《さて、そんなこんなで時間が出来たのだから...》
 と、池袋から乗った湘南新宿ラインで、送稿しなければならない原稿のメモなど作りはじめる。実は群馬の下野新聞に、月2回日曜付で2年の連載をはじめていて、タイトルが「素顔の船村徹・共に歩んだ半世紀」である。昭和38年に出会い、私淑して54年、船村については書きたいことが山ほどあって、昨今あわせて思い浮かべるのは、星野哲郎、美空ひばりの顔だったりする。
週刊ミュージック・リポート

大きいことは良いことだ!

 「初荷」の11曲、聴き応え十分だ
 1月発売、いわば〝初荷〟の作品群で、各曲聴き応え十分なことが、ことさらに嬉しい。どんな時代になろうが、歌の流れがどう変わろうが、大切なのは聴き応えだと確認したい。
 仁井谷俊也の詞が3作品。福田こうへい、小桜舞子、島津悦子が歌っているが、ことに島津の『海峡みなと』に彼なりの工夫と仕上がりが生きる。手当たり次第みたいに量産した彼はこれから先が円熟期だったろう。働き盛りの69歳で逝ったことが、今更ながら惜しまれてならない。

おんなの岬♡

おんなの岬♡

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 作詞志賀大介、作曲伊藤雪彦のベテランコンビはこのところ、湘南を舞台にした歌づくりにこだわっている。江ノ島だの逗子だのがかわりばんこで、葉山居住の僕は次はどこ?の気分。それが今度は真鶴―。
 海、船、茜雲などをあしらった女の哀歌。三代沙也可はそれを、歌の頭から泣き節で始める。そこが勝負どころと、伊藤の指示もあったろう、古いタッチの感情表現が、いかにもいかにも...だが、3番になるとそれも程よく今風になるのが面白い。伊藤からはまた、愛弟子の新曲をよろしく...のチラシが届くか。

千島桜

千島桜

作詞:高橋直人
作曲:斎藤覚
唄:鳥羽一郎
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 千島桜に託して、爺々岳の国後への郷愁が歌われる。作詞は高橋直人、作曲は斎藤覚で、作曲家協会が募集したソングコンテストのグランプリ受賞曲だ。
 鳥羽一郎は昔、サハリン墓参の船に乗った師匠船村徹を、稚内で待った体験がある。旧日本領がロシア領に変わった悲劇を目の当たりにしているから、それなりの思い入れもあろう。スケール大きめな作品を、部分的に押しつぶし加減の声で男っぽく歌って説得力を持たせた。北方領土について日ロ間に動きがある時期、作品に祈りの気概を聞いた。

おとこ傘

おとこ傘

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:福田こうへい
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 歌い出し高音で出て、サビと歌い納めにヤマ場が来る。四方章人の典型的なW型メロディーで、訴求力が強い。仁井谷俊也の詞も情感すっきり、福田こうへいがのびのび、いい味で歌った。三橋美智也を思わせてそれよりも若々しい。ア行の発声にハレがあるせいか。

松前半島

松前半島

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:戸川よし乃
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 2ハーフとメロディーの枠組みはポップス系だが、岡千秋の曲はちゃんと演歌になっている。戸川よし乃のために書く曲ごとに、少し高めのハードルを用意する算段。戸川は細めの声をしならせて、大きめのメロディーを乗り越えた。それなりの進境が聞こえる。

会津追分

会津追分

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:森山愛子
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 〽死ぬよりつらい...という歌い出しの歌詞と曲を、森山愛子はゆすぶって歌いはじめる。そのまま行くと泣き歌になるが、作品の情感を大づかみに、たっぷりめにこなして良い。張りつめた高音に一途さがにじみ、歌のところどころに本人の気合いも聞こえた。

よされ三味線

よされ三味線

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:小桜舞子
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 こちらも勝負は歌い出し...と、作曲岡千秋の算段に、小桜舞子がうまく応えた。いたいけなキャラや、薄めの声を委細かまわず曲があおるから、5行詞まん中あたり、めいっぱいの歌になる。結果生まれるのは歌の主人公のいじらしさ。これも仁井谷の詞だ。

千年の恋歌

千年の恋歌

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:神野美伽

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 ギター一本の歌い出しから、後半、俄然盛り上がるオーケストラの編曲は蔦将包。荒木とよひさ・弦哲也のシンプルなワルツを劇的に仕立てた。4行詞の2行を片カナ表記、残る2行を平仮名という心の変化を、神野美伽がしっかり歌い分けて、絶妙である。

海峡みなと

海峡みなと

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:島津悦子
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 3コーラスともに、歌い出しの歌詞2行で、行き暮れた男と女のたたずまいを見せる。仁井谷俊也のいい詞に、序破急きっちりと徳久広司の曲。島津悦子がちょこっと日本調の粋も交えて、彼女なりの力唱。まるでいい絵を見せるような、風情を作った。

海猫挽歌

海猫挽歌

作詞:荒木とよひさ
作曲:浜圭介
唄:永井裕子
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 長く親身につき合った永井裕子が、別人か?と思わせる歌唱を聞かせる。作品に染まり、その情趣に入って、歌の口調まで変わった。そうさせたのは荒木とよひさの詞と浜圭介の曲。歌手は作品との出会いで進化するものだが、永井はひとつ大きなハードルを越えた。

おぼえていますか

おぼえていますか

作詞:麻こよみ
作曲:大谷明裕
唄:小金沢昇司
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 歌い出しの歌詞2行分が、ムード歌謡みたいに軽い。それが3、4行めで真芯に当たる昂り方を示したのは小金沢昇司の歌唱。そのあとの「泣かせて、泣かせて」が優しげにホロッとさせて、この人の歌巧者ぶりが際立つ。大谷明裕の曲のよさが、その背を押した。

雪の絶唱

雪の絶唱

作詞:いとう彩
作曲:岡千秋
唄:岩本公水
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 歌が哀訴から始まる。「助けて下さい、助けて下さい」と、岩本公水が語りかけ、訴えるのだ。よくやるよ!と、作曲した岡千秋に言いたくなる。このところの彼の、手を変え品を変えの一曲。そのうえサビは、岩本の歌を高音で叫ばせている。彼女もよくやった。

MC音楽センター

東宝現代劇75人の会第31回公演「私ん家の先に永代」は横澤祐一作、演出の深川シリーズ5作目。上演は2813309130010130017301113001730121300の計7回。場所は半蔵門線、大江戸線清澄白河駅A3出口徒歩3分の深川江戸資料館小劇場。

 下町情緒の深川、そこに架かる橋の数々。戦禍に耐えた永代の鉄柱、寄り添うような小さな旅館、その軒端に集う人々と哀歓を共にする昭和30年代の物語、27場。

 出演は丸山博一、鈴木雅、村田美佐子、柳谷慶寿、横澤祐一、小西良太郎、新井みよ子、高橋ひとみ、菅野園子、高橋志麻子、梅原妙美、古川けい、大石剛、田嶋佳子、松村朋子。

 僕の役は開業医吉桐松尾。調子のいい下町のおっさんで、ちょこちょこひっきりなしに出てくる。詳細は別掲の「新歩道橋」にもちょくちょく出てくるので併読の面白さをどうぞ!

私ん家の先に永代01

私ん家の先に永代02

 「心の中に底なし沼があって、書いても書いても、飢えています」
 年賀状の中の、ドキッとするフレーズである。
 「う~ん」
 としばし、虚を衝かれた気分になる。そこまであからさまに胸中を言い切るか!
 毎年、年賀状を山ほど貰う。ほとんどが歌社会の方々からだが、申し訳ないことに貰いっぱなしである。スポーツニッポン新聞の記者だったころからの〝甘え〟を、そのまま引きずっている。退社後フリーの雑文屋になって、一時は「このままではいけない」と思い込んだが、雑用繁多を言い訳にして今日にいたっている。
 役者をはじめて10年。こちらの世界はそうもいかない。何しろ無名の年寄りのお邪魔虫。各方面に迷惑をかけ、よくしてもらっているのだ。演出家やプロデューサーなど、目をかけていただいている向きには、新年のごあいさつは欠かせない。お世話になった役者の大先輩、楽屋が一緒になって一カ月も〝同棲状態〟のお仲間も右へならえだ。
 結果、賀状を差し上げる向きと頬かむりしたままの向きとが、まだらになる。これもまた申し訳ない差別!? と低頭しながら、冒頭のフレーズに戻る。「新年のおよろこびを申し上げます」という書き出しに続くもの。さて年賀状だが、これは私信だろう。私信をコラムに取り上げるのはいかがなものか...と少し迷ったが、相手も物書きだから、駄文への引用など大目に見てくれるだろうと、親しい分だけずいぶんと勝手な答えを出した。差出し人は作詞家の田久保真見である。筆文字のあて名書きからして、いかにもいかにもの筆致だ。こう書いちまってから、決心する。今年もまた、彼女の底なし沼から湧出するものを、聞き続けることになるか―。
 正月はバカにいい天気だった。元日・二日は寝正月、三日は山形から届いた銘酒「出羽桜・枯山水」をチビチビやった。毎年晩秋に天童市で開かれる「佐藤千夜子杯全国歌謡祭」の実行委員長矢吹海慶師からの貰いものである。〝特別純米・十年熟成〟とあるから只者ではない。矢吹師は地元妙法寺十八世の高僧だが、
 「酒と女は2ゴウまで」
 「仏はほっとけ!」
 などの迷言を吐きながらよく飲みよく歌う粋人。80才をとうに越しているが、舌がんのリハビリをカラオケでやるという剛の者でもある。
 サカナは北海道・鹿部から届いた海の幸。亡くなった作詞家星野哲郎のお供でずい分通った。通称〝タラコの親父〟の道場水産道場登社長とその後も昵懇の間柄だから、師匠の星野の遺徳ともいえようか。三が日くらいまではそんな調子で、さて、以後は2月芝居のけいこである。2月8日から12日までの7回、おなじみ劇団東宝現代劇七十五人の会の第31回公演で、演目は横澤祐一作、演出の「私ん家の先に永代」場所は大江戸線清澄白河駅そばの深川江戸資料館小劇場。永代橋畔のひなびた旅館が舞台で、そこに出入りする人々の哀歓を描く下町人情劇。僕は旅館の裏の開業医吉桐松尾という妙な姓名の中年男で、ちょこちょこ出て来て、多くの共演者にからむ滅法いい役を貰った。
 ところが、ところが! である。好事魔多しで、6日の朝にガタが来た。熱は出る、寒気はする、体の節々は痛い...であわてて近所の医院に駆け込んだら、
 「A型インフルエンザ!」
 と宣言された。テレビでは流行の兆しがあると言っていたが、何もこんな大事な時に、流行の先取りをすることもあるまいと唇を噛んだが後の祭り。この病気のウイルスが出なくなるのに、処置後5、6日はかかると言う。けいこ場でお仲間にうつしたら、それこそ大ごとだから、当分禁足の憂きめにあってしまった。
 新年早々、威勢の悪い報告になったが、12月にゴルフを3回もやり、
 「頭領はタフだねえ」
 とおだてられていい気になった罰である。以後は81才の年なりに、慎重に生活をしなければ...と肝に銘じながら、沢山あるセリフの自己練。お仲間はもう立ちげいこに入っているから、あせることひと通りではない。
 8日ごろからは爆弾低気圧とやらの影響で、寒波来襲、全国あちこちに大雪の被害が出ている。なぜか関東だけ晴れていて、僕は大荒れに荒れる葉山の海を見下ろしている。「年ですね。年を感じますよ」という芝居の中のセリフが、妙に身に沁みてリアリティを持つ閉門蟄居の日々に、うなだれている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ192回

 BSテレビは昭和の歌ばやりである。戦後の作品が多いが、演出も手を替え品の替えだ。僕にもあちこちから、声がかかる。時おり、

 「誰か他の人に頼んでよ」

 と、断りにかかることがある。親しいつき合いがなかった歌い手さんの場合で、実感的な話が出来そうもないケース。すると電話の相手はひと呼吸おいて、

 「でも、皆さん亡くなって、あなたくらいしか居ないんですよ」

 と来る。やれやれ、消去法の人選か...と肩すくめながら、ご期待に応えて"年寄りの知ったかぶり"をする事になる。しかし当方も80才超、生き残っている幸せをかみしめるばかりだ。

 新聞記者時代から、密着取材型である。興味深々、根ほり葉ほりで、それを許してくれた方々には、とことん懐に入れてもらった。だから、歌手で言えば美空ひばり、作家で言えば船村徹、星野哲郎、阿久悠、吉岡治...といったお歴々についての番組なら、否応なしにOKする。長く縁を頂いたことへ、せめてもの心づくし、ご恩返しになろうか。

 一風変わった番組にBSフジの「名歌復活」というのがある。作曲家の弾き語りを中心に四方山話をする趣向で、1回目は弦哲也、岡千秋、杉本眞人と一緒だった。弦の『天城越え』などはギター演奏も含めて大したものだし、岡の『長良川艶歌』杉本の『吾亦紅』なども得難い味がある。それに船村作品をぜひ...となると、弦が『東京は船着場』杉本が『新宿情話』...と、思いがけない歌を聞くことも出来た。船村作品ではないが、岡の『海峡の春』『黒あげは』などは絶品と言っていい。

 1回めの視聴率がBSではびっくりするくらいの数字だったとかで、2回めは出演者に徳久広司を加え、来年1月には3回めを収録することになった(3月放送予定)。舞台設定が洋風酒場、いつもの親交をそのまま...と言うので、僕の呼び方は「弦ちゃん」「岡ちん」「杉本」「徳さん」と、やたら慣れ慣れしい。放送後の反響に、

 「あの威張っている爺さんは、一体何者だ?」

 というのがあったが、それはそうかも知れない...とやり過ごす。

 この企画、実は築波修二という男の持ち込みである。彼は昔あった音楽情報誌「ミュージックラボ」の新入だったが、コラム「歩道橋」を持っていた僕は、以来ずっと兄貴風を吹かせている。築波の仲間には音楽プロデューサーで文筆業も盛んな佐藤剛、音楽出版社協会の顧問の工藤陽一が居て"ラボ3羽がらす"の趣き。古いつき合いは嬉しいもので、時おり飲んでは、

 「作曲家の弾き語りは人間味たっぷりで、自作への愛情もにじむから最高!」

 などと盛り上がっている。

月刊ソングブック

大きいことは良いことだ!

 〝ヨーロッパ風味〟と一言でくくってもいいか、北原ミレイと内田あかりが、スケール大きめの歌謡曲を力唱している。作曲は前者がお得意の花岡優平、後者が扱いネタの幅の広さを示す弦哲也だ。
二人の歌手はキャリアや芸風から、そんなタイプの作品がぴったりで、ちまちま演歌を歌わせても、まるで似合わない。そんな二人に幸せなのは、何がヒットの鉱脈か不透明で、逆に言えば何でもアリの昨今の流行歌の流れ。ま、大きいことは良いことだとしておこう。

雪舞い岬

雪舞い岬

作詞:石原信一
作曲:鈴木淳
唄:瀬口侑希
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 ほほう、今度は鈴木淳の曲か...とニヤリとする。瀬口侑希にトライさせたのは、制作者の狙いか、鈴木の発案か。いずれにしろ瀬口侑希は、桜田誠一以後、いろんなタイプの作品を歌って来た。中堅どころの挑戦だろうが、この人の本線はまだ手探り続きでもある。
8行詞の前半は語るように歌い、後半で力唱気味になる構成。序破急の曲の呼吸が歌唱に生きて、瀬口らしくおっとりと、それなりの詠嘆の色が作れた。もともと暖かめの声味が、無理をせぬ彼女らしさで、案外この人にはこの種の歌謡曲が似合うのかも知れない。

倖せ花

倖せ花

作詞:いではく
作曲:花笠薫
唄:千葉一夫
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 似た者同士が20年連れ添って、男は夢だけじゃ生きていけないと気づいた。熟年夫婦、遅めのおめざめの詞はいではく、三番の最後には「頼むぞおまえ」なんて言っている。
地味で長持ちの千葉一夫が、それをいつもどおりに歌う。良く言えば淡々、言い方を変えればマイ・ペース。そんな千葉の歌が、ところどころ突き気味に聞こえる。花笠薫の曲がメリハリキッチリしてゆるみがないせい。前奏から歌なかまで、終始女声コーラスが千葉の歌を包み、押し出してもいる。結果生まれたのは「地味派手」という奴か。

眉山の雨

眉山の雨

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子
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 歌声を聞いただけでその人...と判るのは、歌手の得難い特性。しかし、そこまでの色を持たぬ歌手は、作品の色に頼るのが一般的だ。夏木綾子の今作を聞いて「おやっ?」と思ったのは、歌い出しから妙な倦怠感を感じ取ったせいだ。その分だけ、吉野川、眉山で男を待ちわびる主人公の年齢が上がった。このけだるさ、演出なら相当なものだ。

ふたりでよかった

ふたりでよかった

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:山本譲二
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 作詞たかたかしお手のものの夫婦ソングに、手慣れた弦哲也がいかにも、いかにもの曲をつけた。一風変わったのは山本譲二の歌唱で、やんちゃなくらいに力が入っている。夫婦ものおなじみの暖かさ、優しさは後半の「ふたりでよかった」の1フレーズくらい。包容力よりは「ぶっちゃけた話がよ!」とばかりに、山本の地金を生かしたのか。

酔月夜

酔月夜

作詞:喜多條忠
作曲:岡千秋
唄:城之内早苗
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 少し幼気な口調で、トツトツと歌うのが城之内早苗の特性。喜多條忠の詞はこのところ、それに合わせたタイプが続いたが、今度はそうは行かなかった。夜の桟橋ほろ酔い風情の主人公が、二番で酔いに任せて男を帰さず、三番ではついに、一糸まとわず月を見る。岡千秋の曲も"その気"で、サビあたり、城之内をあおり、力唱させた。

バイオレットムーン

バイオレットムーン

作詞:下地亜記子
作曲:花岡優平
唄:北原ミレイ
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 歌うのが北原ミレイだと、制作者はスケール大きめの作品で、その歌唱力を誇示したくなるのだろう。詞が亡くなった下地亜記子だから、もしかするとストック作品。作曲は花岡優平で、いかにも彼らしいポップス調の歌謡曲に仕立てている。タイトルと同じフレーズの繰り返しがヤマ場を作って、ミレイはのびのびと嘆き歌にした。

ホテル・サンセット

ホテル・サンセット

作詞:かず翼
作曲:弦哲也
唄:内田あかり
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 昔の不倫相手を、ホテルで偶然見かけた女主人公の感慨を書いたのは、かず翼の詞、9行あるそれをシャンソン風味で、語らせ、歌わせ最高潮にいたる曲は弦哲也。伊戸のりおのアレンジもそれらしい色彩を作った。歌う内田あかりは、それなりのキャリア、それなりのキャラにそれなりの歌唱力。やはりこういう作品が"はまり"だ。

MC音楽センター
 昔の話だが、瀬川瑛子が「命くれない」でブレークし、賞を総なめにした彼女が言ったものだ。
 「賞なんて、芸能人バレーボール大会で貰ったことしかないし、コメントを...と言われても、どう言っていいのか...」
 涙ぐむ彼女を見守りながら、僕は大笑いした。そこまでが長い道のりだったし、困惑している瀬川がいかにも彼女らしく好感が持てた。
 この年の瀬、似て非なる感慨を僕は抱えている。レコード大賞の功労賞が貰えることになってのこと。作曲家協会の事務局長、田尾将実から内々の電話をもらった。
 「あんたはヘソ曲がりだから、辞退するなんて言い出すと面倒なことになるし...」
 と言う。「功労賞? あれは亡くなった人に贈るもんだろ。俺はまだ元気だぞ」
 と、まぜ返したら
 「亡くなった方のは特別功労賞で、お元気な方は〝特別〟抜きです。長いことレコ大にかかわって来て、今さら何を言ってるのよ」
 と言われると、一言もなかった。それにしても、雑文屋がそんな光栄に浴するなんて、前例があったか?
 そこで瀬川の嬉し泣きが出て来た。81才になってこちらも、賞と名のつくものは初めてなのだ。高校時代はやんちゃ組の一人で教師の鼻つまみ。スポーツニッポン新聞のアルバイトのボーヤに拾われてからは、長く下働き、下支えの連続。28歳で取材記者に取り立てられたが、4年後に部次長、いわゆるデスクになり、35才で文化部の部長にされちまったから、スクープ賞などはみんな部下の仲間に回して来た。
 そう言えばレコ大だが、長く審査委員をやり、作曲家協会とTBSがもめたあたりから、審査委員長を7年やって、その後何年かは制定委員である。何だかずっと、賞は貰うよりあげる立場に居た。是非もない頼まれごとで八代亜紀をプロデュース「雨の慕情」でレコ大、その後五木ひろしの「おんなの絵本」でベストアルバム賞、坂本冬美の「夜桜お七」ほかにもかかわり、阿久悠の作詞賞のいくつかにも関係したが、結果的にみんな賞を獲得する人々の裏方だった。
 歌謡少年あがりの根っからの歌好きが、いい歌に出っくわすと大喜びで吹聴しまくり、それを生む歌書きの才能の凄さに心奪われ、名だたるプロデューサー、ディレクターに教えを乞い、美空ひばりほかに密着、ただただ好奇心を満たして右往左往した年月。振り返れば「功労」をほめてもらえるなど、何とも気恥ずかしい我まま勝手な半生である。そう言えば舟木一夫が55周年記念公演を、昼夜ぶっ通しの「忠臣蔵」で演舞場を湧かせている。彼のデビューと僕の歌社会取材スタートは昭和38年。年はかなり違うが、キャリアはいわば同期生。署名原稿を書き始めたのがデスク以降で、これは部下が持ってくる情報を週刊誌などに横流しする懸念を避けるためだった。昔あったミュージックラボで「歩道橋」という週1コラムを持って20年余、その後こちらで「新歩道橋」と改題、その連載が1000回を超え23年になる。今になってみれば、気が遠くなる作業だが、会った人、体験した出来事を思いのままに書いた体験談だから、さしたる手柄になろうはずもない。
 ま、あまり心当たりのない「功労賞」なのだが、ありがたく頂くことにしたら、お祝いの電報だの花だのに、恐縮しきりの日々になった。面白いのは友人たちの反応である。千賀泰洋にしろ古川健仁にしろ「おめでとう」を言ってすぐ眼をそらし、人見知りみたいな顔になった。そんなケースにぶつかるたびに、
 《何でテレるんだよ。テレなくちゃいけないのは俺の方だろ!》
 と文句を言いたくなったりした。
 それやこれやでバタバタの連続だが、作曲家協会の友人諸君やレコ大関係者、歌社会の皆々さまには「ありがとうございます」と、粛々と頭を下げるのが本心である。皆さまあっての今日の小生、お陰さまの山盛りゆえの今日なのだ。そのくせ新年のスケジュールを書けば、1月いっぱいけいこで2月8日から5日間、深川江戸資料館小劇場で、東宝現代劇75人の会公演「私んちの先に永代」でいい役を貰い、3月は大阪新歌舞伎座で川中美幸公演、4月は大衆演劇の門戸竜二一座と旅回り...の二刀流。
 「また芝居の話かよ。功労賞返せ!」
 などと、どうぞ叱らないで頂きたい。
週刊ミュージック・リポート
 《そうなんだ、彼女の場合は、歌手が芝居をやるんじゃなくて、役者が歌を歌っているということなんだ》
 真木柚布子の演歌ミュージカル・一人芝居「知覧のホタル」を観て、改めてそう合点した。11月21日、渋谷の伝承ホールでの体験だが、何だかまだ生々しくその感触が残っている。
 「知覧」と言えば「特攻隊」である。太平洋戦争の末期、爆弾を積んだ飛行機ごと、米軍の船艦に突っ込んで行った若者たちと、その基地として知られる。兵士たちは生還を期さない。一命を賭して祖国を守り、愛する人々を守るために出撃した。決行までの短い日々、心を固めていく青年たちを世話した娘たちがいた。彼女らは今生の別れを胸に秘め、桜の小枝を振って彼らの出撃を見送った―。
 真木はいきなり、老婆の姿で登場した。敗戦後相当の時間が経ての述懐である。それが娘姿に戻れば、危機的戦況の往時になる。語られるのは戦死した兵士の一人と、淡い恋心を抱いた娘との、出会いと束の間の心の交流と別れ、そしてその後...。
真木は初々しさと恥じらいを含めた娘時代を生き生きと演じ、老婆になった部分は、戦後の兵士の家族とのこと、彼への追想などを、達観の静けさで語った。二つの時代を往き来しながらの一人芝居。なかなかの訴求力だ。
 不覚にも...とあえて書くが、客席で僕は泣いた。周囲を気にしてそっと拭った涙が、止まらなくなった。幸い関係者の姿はない。取材陣は前日の公演に集中していたらしい。お陰で僕は観客の一人としてまぎれ込めていた。もともと冷静さを維持する取材者の立場が崩れやすく、酔いやすい体質である。ここ10年ほど舞台の役者をやっていることが、芝居を感じやすくしてもいようか。
 真木の知覧での見聞が形になったと聞くが、企画原案・脚本の中嶋年張、演出の久世龍之介の仕事ぶりがいい。声高に反戦を訴えることもなく、戦時下の恋を語るセンチメンタルで過剰な気恥ずかしさもない。力説すれば理が先立って観客の腰がひける。そんな題材を淡々とセリフにし、あとは真木の演技に任せた。演説よりは例え話の方が、しみじみと真意が伝わる手口か。
 僕は80才を過ぎた。涙腺も弱くなっている。しかしそれよりも強く反応したのは、少年期の戦争体験だった。男たちがみな戦場に出て行って、後はお前らが守れと教育された「銃後の少国民」の一人。本気で竹やりで戦う覚悟だったが、終戦が国民学校(現在の小学校)3年の夏である。昨今に較べれば、ずいぶん大人びた少年だったから、ドラマのあらましが、そうだったろう、確かにそうだったという実感を伴っていた。
 二部は歌謡ショーである。持ち歌の「雨の思案橋」「越佐海峡~恋情話」「しぐれ坂」「北の浜唄」「ホタルの恋」などの演歌に「助六さん」「夜叉」「お梅哀歌」の日本調。果ては「渚のビギン」「紫のマンボ」「夜明けのチャチャチャ」まで出て来る。その都度衣装を替え、歌い、踊り、ほどの良いトークで、客を乗せて賑やかなものだ。
 やがて30周年のキャリアだ。シングル盤を聴き続けて来たが、企画の蛇行とも思えた。あれもこれも達者にこなすことを、器用貧乏か? と疑ったこともある。どれかひとつに路線を絞ってヒット曲を作り、それが本線、他は枝葉という、従来の歌手のレパートリーづくりを前提に考えたこちらの不明を改めねばなるまい。役者が歌をやる幅の広さと、よく知るファンは彼女のステージを一緒になって十分に楽しんでいた。二部はいわば、真木の〝ひとりバラエティー〟で、珍しいがこういう領域もあったのだ。
 ショーの途中、真木は如才ない握手で会場を回った。観客の一人として僕も、それらしく彼女の手を握った。その時一瞬、残る片手を胸に当てただけで、さりげなく次へ移る彼女に「ン?」の気配が残ったように思えた。
 《そうだよな、覚えている訳はないよな》
 僕が彼女と会ったのは一回だけである。スポーツニッポン新聞社を卒業、NHKBSにあった「歌謡最前線」で司会をやった時に、彼女はその出演者だった。10年以上前のこと。ちょうど芸名を今の漢字に変えたころで、番組内でチラッとその話をしたのを覚えているだけの間柄だった。
 ステージへ戻った彼女がファンにありがとうと礼を言いながら、突然僕の名を挙げたのにはのけぞるほど驚いた。バレたか! と僕は、涙の分まで見すかされた気分でうろたえたものだ。
週刊ミュージック・リポート
 「森進一の『さらば友よ』よかったぞ。あの調子なら、まだまだあるな...」
 と言ったら、元ビクターの制作部長で、森の歌づくりに携わった朝倉隆が、
 「そうですか、聞きたかったな」
 と、嬉しそうな顔になった。11月18日の深夜、場所は山形県天童のスナック。元テイチクの千賀泰洋、元日本テレビの木村尚武も居る。僕はその日午後、東京国際フォーラムのホールAで「阿久悠リスペクトコンサート」を見、その足で山形入りした。
 いいコンサートだった。久々に阿久悠の世界にどっぷりとつかった。石川さゆりが「能登半島」「津軽海峡冬景色」を歌い、岩崎宏美が「ロマンス」と「思秋期」を歌う。Charが「逆光線」と「気絶するほど悩ましい」大橋純子が「たそがれマイラブ」と来て「ざんげの値打ちもない」で登場した北原ミレイは、引き続き珍しく「北の宿から」も歌った。それぞれが阿久への敬意をコメントしながら、その作品があってこそ今日がある思いを歌にこめるから、聞き応えなかなかだ。
 見応えも含めれば「どうにも止まらない」「狙いうち」の山本リンダが会場をどよめかせる。久々の石野真子は「失恋記念日」を往年のままのかわい子ちゃん歌唱。代打ちもにぎやかで「フィンガー5メドレー」を名古屋で活動するというBOYS AND MEN「ピンクレディーメドレー」はMAXで、増田恵子は彼女らと「UFO」という具合。「勝手にしやがれ」と「もしもピアノが弾けたなら」を松下優也が歌って、イケメンぶりもアピール...。そして最後を締めくくったのが、森の「さらば友よ」と「北の蛍」だった。
 阿久の没後10年、生誕80年、作詞家としては50年になる勘定の節目の催しである。ヒット作を福山雅治、德永英明、玉置浩二らが歌ったアルバム「地球の男にあきたところよ」をはじめ、各メーカーが一斉にトリビュートアルバムを出し、それには1曲、阿久の未発表作品が加えられている。吉田拓郎が作曲、林部智史が歌った「この街」などがその一例だ。
 コンサート唯一最大の仕掛けは、曲ごとに歌詞を写し出す巨大なプロジェクター。多くが阿久の直筆で全曲フルコーラスだ。活字人間の僕は、癖のある筆跡の阿久の詞を読み、改めてその構成力の確かさ、みずみずしい表現、含蓄の妙、時代を照射する視線と発信力の凄みを合点しながら、彼や彼女らの歌を聞いた。1970年に異端作「ざんげの値打ちもない」を吹聴しまくって始まった阿久との親交は30年余。エッセーや作詞講座、連載小説に、27年も毎夏の大河連載になった「甲子園の詩」などを〝初づくし〟でスポニチに執筆して貰ったから、彼の癖字は生涯のおなじみである。観客の一人々々も、阿久作品と出会った時期のあれこれを思い返していたろう。
 会場には阿久夫人雄子さんの晴れやかな笑顔と、一人息子深田太郎君の甲斐々々しい動きがあった。実はこの二人とは前々日の16日、昭和女子大人見記念講堂の「石川さゆり45周年記念リサイタル」でも顔を合わせている。ごぶさたのお詫びやつもる話もしたかったが、二度とも「やあやあ...」と手を振ったり握手をするにとどまった。秋は雑文屋稼業の書入れで、残念ながら意を尽くす時間がない。
 《えらいものを見たものだ...》
 山形へ向かう新幹線の車中で、僕はつくづくそう思った。あれだけの出演者を集めたとしても、それぞれが自前のヒットを並べるだけなら、大ホールの空気はおそらく、寒々としたものになったろう。それが司会もなく、出て来ては歌い、歌っては去る単純な進行でも、会場の人々の心をわしづかみに一つにつなぎ、熱い雰囲気にまとめ上げたのは、阿久悠の「作品力」そのものだった。没後10年の今も、阿久が構築した歌世界は、スケール大きく、生々しく、新鮮さまで加えて生きていた。これは他の歌書きにはない攻撃的な〝美〟の集積でもあったろう。新鮮といえば「五番街のマリー」と「ジョニィへの伝言」を歌った新妻聖子の声味と率直な歌唱にもそれを感じた。
 山形・天童へ向かったのは、「佐藤千夜子杯全国カラオケ大会」の審査のためである。矢吹海慶という坊さんと福田信子という人を頭にしたおばさんたちが懸命の、手づくりのイベントを愛してもう13年も通っている。結果僕の週末は、やたら堂々とメジャーなイベントと、何とも情の濃いマイナーな集会を掛け持ちすることになった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ191回

≪よし、この1曲であいつの世界は決まったな≫

  エドアルドの新曲『竜の海』を聞いて、即座にそう思った。海の男の生きざまを描いて、石原信一の詞がいい。1コーラス5行、カッチリと無駄のない表現。作曲の岡千秋も力が入っている。ズン!と鉈で切り込むようなメロディーは、彼お得意の骨太だ。前田俊明のアレンジも、いつもの手慣れた線を離れて勇壮の趣き。いわば三位一体、作品に恵まれたエドアルドの歌が、活力と覇気を示してなかなかの仕上がりなのだ。

 エドアルドはブラジル育ち。NAKの全国大会で優勝して、日本に住みついた。それ以来、ずいぶん長いこと苦節の日々を送った。驚くのは体型の変化。当初力士みたいだった肥満体が、いつのころからかすっきり二枚目になった。NAKの審査を長くやっているから、大会の都度顔を出す彼の変わり方はずっと見て来たが、

 ≪半分くらいになっちまった!≫

 エドアルドの体の絞り方は「ダイエット」などという生半可なものではない。文字通り体を削って彼は、プロ歌手へのスタートラインに立った。

 デビュー当初、彼の歌のテーマは「郷愁」だった。母への思いや故国への思いを語る。ブラジル出身の青年が、異国の日本で歌手になるのだから、そんな作品で日本の歌手との差別化を計ったのだろう。それはそれで成功して、歌謡界の一角に彼らしい立ち位置が作れた。さて、その次が問題だ!と、僕は考えていた。日本の歌手たちの向こうを張って、頭ひとつ抜け出すための「攻め」の歌をいつ、どういう形で作るのか?

 石原信一とは、もっと古くからのつき合いである。彼が大学を出て物書きの世界を目指したころ、僕が仕切っていたスポーツニッポンの、若者のページの常連執筆者になった。言うところのノンフィクションライター、それがフォーク畑の人々と親交を持ち、森昌子の『越冬つばめ』でスマッシュヒットを出す。今では演歌・歌謡曲ひとかどの書き手。藤田まさと賞を獲り、作詩家協会の幹部になったが、親密な間柄のせいか、彼の詞の器用さに僕の採点はずっと辛めだった。それが――。

 ≪いい詞だ。彼の代表作になる!≫

 『竜の海』を聞いて僕は膝を叩いた。北の海の夜に走る稲妻、ひびく雷。それを「鰤起こし」として、勇む能登の男が血をたぎらせ船を出し、ついには「海を獲る」と言う。海の男唄に特異な題材を持ち込んで、これはもう"海の詩人"の星野哲郎の仕事を思わせる出来栄え。雪が舞う日本海の光景が眼に見えるようで、なによりも筆致が若く勢いがある。

 エドアルドの歌がそのうえ、真一文字なのだ。声に頼らず節を誇らず、すっきりと男の気概を伝える。海の"あらくれ"を表現しながら、どこかに端麗さもある。いってみれば躍動の陰の抑制。それが日本の歌手の漁師唄とは一線を画していようか。ブラジル日系人の歌は、率直だとNAKの大会を聞く度に感じていた。お師匠さんが歌の枝葉をあれこれいじらないせいだ。エドアルドのそんな生地が生きた作品、大分ほめ過ぎとも思うが、友人たち4人の力較べである。僕は久しぶりに興奮している。

月刊ソングブック
 流行歌はやっぱり、フルコーラス歌うべきだし、聞くものだと常々思っている。それがいつのころからか、2コーラスが当たり前になった。テレビ・サイズに慣れたせいだろうが、これでは楽曲は未完のまま。それに疑問も持たずにプロ歌手が大てい2コーラスで、カラオケ族だけが聞くに耐えない蛮声でフルコーラスというのには腹が立つではないか!
 11月15日の三越劇場。「大月みやこ2017秋のコンサート」で、彼女は2曲だけフルコーラスで歌った。「矢切の渡し」と「女の港」である。前者は石本美由起の詞、後者は星野哲郎の詞。フルで聞けば「なるほど!」と、作詞者が描いたドラマの展開や奥行き、含蓄の妙などに感じ入る。2曲とも作曲は船村徹で、同じメロディーでもコーラスごとに、趣きを変え得る懐の広さがある。描かれた光景や主人公の気持ちを歌い分けるように、歌手の感性や力量に委ねる部分で、そこを歌い切ることが、歌い手の役割であり、誉れでもあろう。
 ことに大月にとって「女の港」は記念すべき曲である。この1曲で彼女は20年近い無名時代を脱出、彼女の歌世界を確立できたと本人も語っている。それだけに歌う都度、往時の昂揚や感慨が甦るはずで、この日のコンサートは船村徹追悼がコンセプトになった。歌われた船村作品はほかに「あの娘が泣いてる波止場」「おんなの宿」「霧笛の宿」「珸瑶瑁海峡」「対馬海峡」「豊予海峡」など。残念ながら多くが2コーラスで、中には1コーラスの歌唱もあった。なるべく数多くの作品を...という意図があるとすれば、やむを得ないかとこちらは妥協する。
 平成2年、大月が初めて新宿コマで長期公演をやった「婦系図・お蔦物語」の一景、湯島天神の場を20分ほどの一人芝居でやる趣向もあった。当時、
 「お芝居なんて私、とてもとても...」
 と、不安を訴えた彼女に、前年美空ひばりが死んだこと、その仕事を引き継ぐ役目がお前さんにもあることなどを挙げて、僕はお尻を叩いた。しかし何のことはない、彼女はすでに肚を決めていて、その決心の反応を僕に確かめたかっただけだったろう。コマへ見に行き上々の出来に安心して、
 「お前さんの芝居見て、俺泣いたよ。ごほうびをあげなくちゃ...」
 と、後日、ゴルフに誘った思い出もある。この公演の主題歌「命の花」も船村作品。彼女とのつきあいはもう50年を越えた。
 コンサートの追悼コンセプトはペギー葉山、平尾昌晃にもおよんだ。キングレコードの先輩だったペギーのコーナーでは「南国土佐を後にして」「ケ・セラ・セラ」「つめ」「あいつ」「学生時代」をドレスで歌う。平尾のコーナーはバンド演奏で「霧の摩周湖」「わたしの城下町」があり、リーダー格のギタリスト斉藤功が船村作品に戻って「哀愁波止場」を弾いた。彼は船村の〝演歌巡礼〟をはじめ、多くのコンサートに同行した仲間たちバンドのメンバー。その旅のエピソードをひとくさり語ったが、名演奏はおなじみでも、トークを聞くのは初めてだから、客席も「ほほう...」の雰囲気になった。
 客席の同じ列に作詞家の岡田冨美子と作曲家の弦哲也がいて、声をかけられた。二人は大月の新曲「流氷の宿」を書いたコンビ。岡田が珍しく演歌を書いたが、このジャンルおなじみのフレーズを避けて、いかにも彼女らしい作風が新鮮、それに弦がいいメロディーをつけているのに、こちらも大月の歌唱は2コーラス。
 「それはないだろ、せっかくの三幕芝居を二幕にはしょるなんて...」
 と、僕はまた不満を口にした。
 それにしても...と振り返り気分になる年である。船村、ペギー、平尾をはじめ、小川寛興、北原じゅん、曽根幸明の作曲陣が亡くなり、作詞の仁井谷俊也はまだ働き盛りの60代。親交のあったかまやつひろし、プロデューサーの山田廣作、元キングの赤間剛勝、僕を役者の道へ導いてくれたアルデル・ジロー社長の我妻忠義、熱心な観客の一人だった川中美幸の母久子さんまで見送った。「歩道橋」20余年、「新歩道橋」1000回、50年余の雑文暮らしのあれこれを思い返して、今回が1001回めである。三越劇場から帰った深夜、元東芝EMIの市川雅一氏が届けてくれた1000回祝いの酒と肴をチビチビやりながら、僕は見送った友情とあたため続けている友情とを、一緒にかかえ込んでいた。
週刊ミュージック・リポート

エドアルドの『竜の海』がいい!

 10月発売分の新作から、編集部が選んだ8曲を聞く。いわば秋冬もの、そのせいか「雪」をからめた歌が目立つ。流行歌と季節感、近ごろは年1作のケースが多いが、狙うのはスタートダッシュか。
 演歌よりは歌謡曲、歌謡曲よりはポップス系...と、歌の流れは緩慢だが確実に変わっていて、作家たちは工夫をこらす。岡千秋が作品の幅、弦哲也が手堅さ、徳久広司が野心をのぞかせ、香西かおりの才気がまぶしい。エドアルドの快唱も「ほほう!」である。

雪の華

雪の華

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:真木ことみ
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 けっこう冒険好きの徳久広司が、この作品でまたひとつやってのけた。独特の声の色と味の真木ことみの歌づくりは、これまで作家たちがそれを特色として生かして来た。仕上がりは自然、中性的な匂いになったものだが、徳久は委細かまわず、彼女の歌を「女」に仕立てた。
 麻こよみの詞の3行めで、めいっぱい高音のファルセットを使ったのがミソ。4行めで着地するとその後を、ズンと低音を生かして奥行きを作る。お陰で真木の今作は、音域広めの〝いい歌〟になり、熟女の気配まで漂わせた。

忍び川

忍び川

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:西方裕之
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 演歌のメロディーの起承転結には、一種の定石がある。岡千秋がそれの「起」の部分を、少し強めに出て「承」で一度納め、〽泣かされて 泣かされて...と繰り返す詞(石原信一)の3行めを「転」のサビとして一勝負、おしまいの「結」は、よくある手でくくった。定石を彼なりの訴求力でまとめる工夫だ。
 西方裕之の歌は、歌詞のひと言ずつをていねいに表現しながら、淀みのない情感で全体を歌いつくした。男っぽい芸の強さが芯にあり、息づかいこみの女心の揺れ方が表面に出る。彼なりの成熟だろう。

港わかれ雪

港わかれ雪

作詞:鈴木紀代
作曲:岡千秋
唄:花咲ゆき美
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 ほほう、これも岡千秋か...と僕はニヤリとする。鈴木紀代の破調の詞2ハーフ分で、花咲ゆき美の力量をアピールして、歌謡曲とポップスの折衷作に聞こえる曲だ。歌い出しを高音で「雪が」を4回も重ねる歌詞をガツンと行く。3行1ブロックで演歌っぽくしたあと、サビはポップス展開、後半でもう一度切迫感の高音と来て、韓国メロディーの匂いもした。

螢火の宿

螢火の宿

作詞:鎌田かずみ
作曲:弦哲也
唄:松原のぶえ
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 「ン? 歌は松原のぶえのはずだが...」ともう一度作品リストを見直した。彼女の歌がいつもの粘着力を離れ、すうっと率直なせい。言ってみれば「主観的に歌う」から「客観的に歌う」変化のほどの良さがある。歌詞が7行7行5行の2ハーフ。のぶえをそうさせたのは弦哲也の曲の創意、そのうえ後半には一箇所、ちゃんと演歌の詠嘆も一節加えた。

竜の海

竜の海

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:エドアルド
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 エドアルドの歌世界は、この曲でひとつ決定的になった。5行詞3節の漁師唄。このところ器用にあれこれ詞を書いて来た石原信一に「いい詞だ!」と言ってあげたい。特異なネタで独自性が濃く、岡千秋がバッサリ彼ならではの曲をつけた。エドアルドはそんな作品に恵まれ、海の男のあらくれを、緊迫感と端整さの歌に仕上げ、達成感ありありだ。

あぁ奥入瀬に雪が舞う

あぁ奥入瀬に雪が舞う

作詞:チコ早苗
作曲:村沢良介
唄:木原たけし
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 歌い出しとサビと歌い納めの3個所に高音を使ったW型のメロディーは、ベテラン村沢良介らしい手腕。後半に「サラサラ、ユラユラ」なんてゆすぶりもあり、おしまいには「雪が」を4回も重ねて、ケレン味も十分だ。インパクト強めの曲を、木原たけしが力まずに歌う。いつもの東北訛りが影をひそめて、北国抒情歌の趣を作った。

夜霧の再会橋

夜霧の再会橋

作詞:水木かおる
作曲:市川昭介
唄:大川栄策
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 やっぱり市川昭介はいいな...と、逝ってしまった腕利きの仕事を再確認する。詞は水木かおるでこちらも故人だが、2番の「蜜でくるんだ男の嘘」なんてフレーズは、平易だが彼ならでは。1984年の旧作(『わかれ港町』のカップリング)を、大川栄策が掘り起こした気持ちがよく判る。30年も前の作品が「今、おいしい」ことに作品の命を感じる。

標ない道

標ない道

作詞:香西かおり
作曲:玉置浩二
唄:香西かおり
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 30周年記念の第2作に、香西かおりがまた詞を書いた。作曲は玉置浩二で、歌謡曲的情感をにじませながら、全く違うメロディーを書く。ぜいたくなアレンジは若草恵。香西が今歌いたいタイプの作品の三位一体だ。民謡から演歌に入り、今またもう一つの歌世界を模索する香西の、ただ者ではない意欲を感じる。歌唱はいつもながら、表現細やかだ。

MC音楽センター
 「次回は1000回ですから...」
 編集部の寺澤有加里クンからの電話、心なしか声に笑いの気配がある。オメデトウの気分か。
 《そうだよな、えらいことになったもんだ...》
 と、当方はつい感慨深くなりかかるが、待て! 待て! と、自分を抑える。実りの秋だからあちこちに、イベントが山盛りだ。はやり歌評判屋としては、せっせと歩き回らねば嘘だろう。それにしても―。
 「おやじさん、あいさつお願い!」
 10月29日、東京プリンスホテルの「松川未樹感謝祭」へ出かけたら、ワークス・ディ・シィの大野佶延社長からいきなりの指名である。
 「よしのぶ、それはないだろ」
 なんて言っているうちにもう呼び出しのアナウンスだ。彼は僕をそう呼び、僕は彼をそう呼ぶつきあいが長いから、否も応もない。10周年おめでとう、あの社長独特の言語と美意識に、よく耐えて頑張った...と、松川に呼びかけながら、さて、着地をどうするか、あいさつの途中に考えているのだから、忙しい。
 松川は一、二部に分けて25曲余を歌った。記念曲「凛と立つ」ほかのオリジナルに「かもめの街」「みだれ髪」「イヨマンテの夜」まで。隣の席にいた作曲家岡千秋は彼女の師匠だから、
 「この10年で、地力はしっかりついたな」
 「ね、いいでしょ。よくなったでしょ」
 「あとは彼女の歌のハラワタを聞きたいな」
 などと、相当に乱暴なやりとりになった。
 その前日の28日には、渋谷シダックスのカルチャーホールで花園直道の「夢舞ライブ」を見る。こちらも10周年と銘打っていたが、歌も踊りも殺陣も...と、美青年・大衆演劇テイストのライブがその年数で、キャリアは15年にもなる。することなすこと華麗にめいっぱい、来客全員と握手をして回るバイタリティにも脱帽する。
 11月4日は有楽町のよみうりホールで丘みどりのファーストコンサートだ。美女演歌としてこのところめきめき...の人だが、びっくりしたのはそのタレント性。上演前のアナウンスまで陰マイクで本人なら、歌の合い間のトークも本音っぽく客をそらさない。客の方も大したもので、蛮声の応援がひっきりなしに会場を圧して、丘のもう一つの顔は演歌系のアイドルでもあった。
 10月26日の浅草公会堂は島津悦子の30周年記念コンサート。あちこちで会って旧知の人だが、生のステージに接するのは今回が初めて。こちらの手抜きのせいだが
 《昔は日劇や国際劇場が毎週歌手ショーをやっていて、旬の人を見落とすことはなかったのに...》
 と、妙な言い訳をして頭をかく。島津はおなじみのヒット曲を並べたうえに、三味線の弾き語りの端唄「柳の雨」が本格的で「お吉物語」につないだ艶っぽさとベテランの芸で客を喜ばせた。びくりしたのは、島津にからむ日舞で辻本伸太郎が登場したこと。川中美幸の劇場公演などで一緒になり、呼び捨てでつき合う飲み友だちの青年だが、若柳禄寿門下で15年も踊っているのをすっかり忘れていた。
 《松川、花園、丘もそうだけど、デビュー前の研鑚が相当に長い分だけ、芸事の芯がしっかりしている》
 と合点がいった。若手と言われてはいても、それぞれ自分の世界をちゃんと持っていて、運かツキかでひとつ弾ければ、即ブレークの予感を示すエネルギーが頼もしい。
 うらやましいのは若さだ...と思い当たるこちらは、今回がこの欄、連載1000回め。もともとは「ミュージックラボ」と言う情報誌で始めたコラム「歩道橋」が20年ほど続き、廃刊で終了したのが平成6年の2月。ところが奇特なご仁が現れて「新歩道橋」とタイトルを変えてこちらのお世話になる運に恵まれた。第1回が平成6年5月2日号と言うから、ブランクはわずか3カ月。仲を取り持ってくれたのは〝ホトケの市ちゃん〟こと元東芝EMIの市川雅一氏だから、足を向けては寝られない仕儀になっている。
 もう一人頭が下がったのが作詞家のたかたかしで、何とミュージックラボ時代の「歩道橋」を、全部コピーしていたとかで、それを届けてくれた。大型の書類ばさみ3冊分がズッシリと重い。書きっぱなしで手許に何も残っていない僕は、合計50年余分の雑文に、冷汗をかきっぱなしになった。
週刊ミュージック・リポート
 時間ぎりぎりに飛び込んだ新宿文化センター大ホール、客席の1階20列に手前から作曲家岡千秋、作詞家石原信一、編曲家前田俊明が並んでいた。10月23日、未明に大きな台風が関東を駆け抜け、まだ天候が怪しげな夜で、神野美伽のコンサート2017がその催し。
 「おっ〝竜の海〟の3人が揃っているな!」
 と声をかけながら、僕はその奥、28番の席にもぐり込む。神野のコンサートを見に来て、他社の歌手の曲名を口にするのは不謹慎だが「竜の海」はブラジル生まれの日系人エドアルドの新曲。長いつきあいがあるし、前記3人がいい仕事を見せ
 《あいつもこの曲で、かっこうがつく。歌も相当にいい仕上がりだ》
 と、異国日本で頑張る好青年の後押しをしたい気分から、久しぶりに興奮していてのこと。
 で、当の神野だが、幕あけに「王将一代小春しぐれ」をガツンと演った。演歌3コーラスが浪曲の〝あんこ〟になった形の長尺もの歌謡浪曲。語り、唸り、歌うさまは気合十分をアピールする選曲か。作曲した市川昭介が師匠で、創唱した都はるみが同門の姉弟子という間柄。引き続き「涙の連絡船」「はるみの三度笠」「好きになった人」など6曲を並べたあたり、2人へのリスペクトやトリビュートの意図が歌唱ににじむ。
 大江千里と「夢のカタチ」をレコーディングしたニューヨークのスタジオ、セントラルパークで心境を語る映像をはさんで、このところの神野の世界が、お次にあらわになる。
 あちらで知り合ったジャニス・シーゲルと歌う「リンゴ追分」やペルー出身のエリック・フクサキとデュエットする「奴さん」や「キサスキサスキサス」などは、激しい和洋折衷の趣き。着物をパンツスーツに着替えて、ノリはやたらにポップスだ。5年前にニューヨークのライブスポットで歌い「演歌のアイデンティティー」を確認したというこの人は、そこから歌世界が変わった。
 僕が驚倒したのは平成25年秋、渋谷公会堂でやった歌手生活30周年リサイタル。バンドの大音響と呼応した大音声で、ここを先途と歌った数曲は、キモノ姿のままロック・スピリット横溢で、客席を圧倒したものだ。カバー曲が多いのは吠えやすい選曲...と後で合点した「酔歌~ソーラン節バージョン」「無法松の一生ニューバージョン」...。
 そんな意気込みは今回のステージにも表われて「無法松の一生」「座頭市子守唄」があり「黒田節」はブギウギ仕立て。ふつう演歌歌手は、与えられた作品をそれらしく、どう表現するかに腐心するものだが、昨今の彼女は自分自身を表現、開陳するために、楽曲を道具とする。「思うままに歌う」「求めて生きる」生き方を、歌声に託して全身全霊を傾けるのだ。面白いことに歌いながらステージを動き回る姿は、着物でもロックふうな激しさ。ノレば自然にそうなってしまうのか。
 さはさりながら、積み重ねて来たヒット曲は演歌だから「浮草の川」「恋唄流し」「浮雲ふたり」などは、抑えめの歌唱でそれらしい風情。立ち居振舞いまで、和風の動きに切り替えている。ロック調のパートでも、攻めて歌うばかりではなく、間にはさんだ「紅い花」を、曲なりにしみじみ歌って陰影を作った。左隣りの前田俊明、右隣の作詞家麻こよみの拍手も大きめになる。
 《これも流行歌二刀流って奴かも知れない》
 僕はこの夜の神野をそう考えた。ロックバージョンが直球、演歌バージョンを変化球と見立てる。あらわになるのは、彼女の音楽に対する姿勢、ド根性と、艶やかな演歌の世界だ。この節、演歌歌手のありようも変化したもので、神野はその先頭を走っていることになる。そう言えば彼女の後援会紙「MFC」で神野は政治にも言及していた。今の政治には不安を通り越し、不満を突き抜け、怒りが諦めに変わり始めたと言い、政治家ってただの職業に過ぎないのか。農家だって建築家だって、その仕事が上手く運ばれなくなれば、その道のプロとして思い切った舵取りを身を以って行うだろうに、自己責任の伴わない職業ジャンルの一つが、政治であってはならないはずだ―と力説する。
 「歌手が話してはいけないことと教わったはずの〝政治〟なのに、35年経つと歌手もこうなる」
 という結びには《ほほう!》と感じ入ったものだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ190回

 門戸竜二という役者がいる。大衆演劇ファンにはよく知られた名で、この世界の「プリンス」と呼ばれる青年だ。おなじみさんが絶賛するのは見事な女舞い。妖艶な花魁(おいらん)や芸者姿から、少女と見まがう可憐な町娘まで、相当な美しさになる。坂東流の名取りで踊りも本格派、踊りも芝居も徹底的に突き詰めるこだわり派でもある。

 この春、歌手としてメジャーデビューした。田久保真見作詞、田尾将実作曲、矢野立美編曲の『デラシネ~根無し草~』で、ネットにあげたら大きな反響があり、その勢いに乗じて歌い歩いている。大衆演劇の人だから地方公演はお手のもの、前川清、中村美律子らの劇場公演にも出て、CDの実演販売にも精を出している。

 「門戸」は「モンド」と読む。バタ臭くも聞こえるが本名。それらしい芸名を名乗らない理由は「親捜し」の思いを秘めているせいだ。幼いころ両親が相次いで失跡した。その間の事情を本人はあまり語らないが、いずれにしろ捨て子。巷で暮らしていたのが、大阪・岸和田の施設に収容され、そこで育った。人前で芸をやるなど考えもしなかった少年が、テレビドラマ「北の国から」を見て一念発起する。自分が人前に出れば、ふた親が名乗ってくるかも知れない――。

 施設を出てしばらく、まず梅沢登美男の門を叩く。その後仲間とユニットを組んだ時期もあるが、お次に師事したのが松井誠。梅沢ともどもこの世界では名うての大物で、師匠運は強かったのかも知れない。役者からスタッフ、雑用係りまで何でもやる世界。ひと興行終われば道具も用具もすべて大型トラックに積み込んで、次の興行地を目指す。中堅どころになっても門戸は、陰日向なくよく働いた。松井劇団から独立、若い座長の一人になったのは、そんな姿勢に本田プロデュースの社長夫妻が惚れ込んでのこと。

 門戸の"人恋い"の念願は、これまで父親との再会で半分果たされた。彼の役者ぐらしに気付いて、父が訪ねて来たと言う。残るのは母親との縁である。まだ門戸の今日に気づいていないのか?それとも家を捨てた負い目を背負ったままなのか?母には母のその後の暮らし向きや生き方があろう...と、門戸はおとなのわきまえ方をしているが、男にとっては幾つになっても母は母。一目会いたい思いが途絶えることはない。

 ♪水に映る月は つかめない運命だと 知っているのに 同じあやまち 同じあやまち また繰り返す...

 門戸の『デラシネ~根無し草~』は、そんな彼の心情を、さりげなく歌い出しの詞にしている。

 ♪好きなくせに逃げる 欲しくなれば捨てる 哀しいと笑うクセ...

 と、複雑だった少年時代の"生きる術"を語るような個所もある。しかし今は「逃げない」し「捨てない」のが門戸自身の生き方なのだ。

 田久保真見の詞は、門戸の思いに寄り添いながら、こんな時代の隙間を生きる男と女のお話に組み立てた。それに田尾将実がつけた曲は甘美で愁いに満ちている。

 門戸はこの秋、竜小太郎、大川良太郎と三枚看板「大衆演劇祭り」で全国を回る。さて、彼の大願成就は、この歌の大ヒットなのか? 夢にまで見る母親との再会なのか?
月刊ソングブック
 読経の途中で僧侶が椅子から立ち上がった。
 「喝!」
 と、びっくりするくらいの大音声。どうやら臨済宗の引導らしく、だとすればここで、友人の俗名赤間剛勝は、戒名の「金剛院響天勝楽居士」に替わったのか。10月17日午前、大田区東海の臨海斎場で営まれた葬儀告別式のこと。お経は「ナムカラカンノトラヤーヤ...」で、これは疎開して身を寄せた茨城の寺で、10才のころの僕が覚えた片言の切れっぱしだ。
 「来年が歌手になって40周年。赤間さんに喜んでもらえると思っていたのに...」
 仙台から駆けつけた佐藤宗幸が、弔辞の途中で「青葉城恋唄」を歌った。アカペラで抑え気味の歌声が、会場に沁みわたる。この曲のデモ・テープを吹き込んでいたのを、別のスタジオで仕事をしていた赤間が聞きつけ〝運命の出会い〟が生まれて、佐藤はキング入りしたという。宮城出身の赤間が、仙台の風物を歌い込んだこの作品に魅せられたろうことは想像に難くない。それがそのまま大ヒットになったのだから、二人の交友は相当に深くなったろう。
 享年77。それにしても若過ぎる死...と、誰もが惜しんだ。前日の通夜にも弔辞が捧げられて、指名されたのは大月みやこと僕。大月はデビュー前後から赤間と親交があり、一時ビクターへ移籍した彼女に「戻っておいで」と声をかけたのも赤間だった。
 「古いガールフレンドにしてもらって、事あるごとにみやこちゃん、みやこちゃんと...」
 と、大月は弔辞の途中で何度か声を詰まらせた。
 キング入社が昭和38年の赤間と、同じ年にスポニチの取材セクションに異動した僕は、いわば同期生。親交は54年にもおよんだ。当初宣伝に配属された彼とは、竹腰ひろ子の「赤い皮ジャン」だのいとのりかずこの「女の旅路」だので盛り上がり、彼が制作に移ってすぐ、バーブ佐竹の「ネオン川」をヒットさせると祝杯をあげて大騒ぎした。
 「ネオン川」は佐伯としをの作曲。バーブは吉田矢健治の弟子で「女心の唄」も吉田矢の作曲。しかも、この二人はライバル同士で、犬猿の仲と言われた。キングの社屋の垂れ幕にどちらかの作品が掲げられ、他方がやって来ると社員が大急ぎで幕を引きおろすほど、ピリピリする間柄。そんな二人の関係に割って入ってヒットを作ったのが赤間である。あの温厚な彼に、そんな度胸があったのかと、僕は見直したものだ。
 春日八郎、三橋美智也を柱にしたキング黄金時代も末期の昭和40年代、歌謡界は大きく様変わりする。作家の専属制が崩れ、放送局が音楽出版社を作り、プロダクションが力を強め、歌手の新旧交替の時期が来る。キングもそれまでの社内競合システムでは間に合わず、外部勢力との協力や提携が必要になった。
 そこで持ち前の力を発揮したのが赤間だった。穏やかな笑顔とソツのない言動、我を張らぬ柔軟な人づき合いの人徳と才覚が生きて、キングの体質改善そのものに寄与する。先輩を立て後輩の面倒も見て、もろもろの相談に乗る。この世界の〝やり手〟は、とかく強引で生臭さも持つものだが、赤間が広げて行った人間関係は、ベタつかず、適度の距離感を示してユニークだった。
 キングの常務取締役という重責を担った後、フリーになっても、ともかくマメによく動いた。闘病日誌もノート1冊分。多方面への感謝が綴られていたと言う。通夜、葬儀を取り仕切ったのは坂本敏明社長が指揮したキング勢で幹部以下総勢50人余が働き、歴代社長が顔を揃え、他メーカーの人々も目立ち、バーニングの周防郁雄社長をはじめお歴々が詰めかけた。喪主で甥の赤間光幸氏や坂本社長、大月と並んで僕も立礼に加わったが、
 《敵が居ないと言うのがこの男の凄さか!》
 長く続いた弔問客の列に低頭しながら、僕はしみじみそんなことに思い当たった。
 レコード大賞の審査員をやり、音楽評論家と呼ばれながら、彼はこの世界の穏健なコンサルタントだった。僕に示された友情はもう一つある。70才で明治座初舞台を踏んで以降、僕が出る芝居を全部見て、
 「僕は役者のあんたの追っかけだよ」
 と、関西まで来てくれた。シャレでも冗談でもないよなと、最初から赤間ちゃんは、真面目な視線の得難い観客の代表だった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ189回


 「そろそろ、またやりましょうか」

 と、ビクターの菱田信ディレクターから声がかかる。

 「そうだな、もうそんなころあいか...」

 と、僕が応じる。電話のそんなやりとりで、ありがたいことに花京院しのぶの歌づくりが始まる。カラオケ熟女の一部に熱心なファンを持つ"望郷シリーズ"だが、さて何作めになるか...と、僕は指折り数えたりする。

 歌社会のパーティーで、作詞家の喜多條忠に会う。帰りのエスカレーターで、

 「花京院、またやるわ。タイトル決め打ち『望郷五木くずし』で、考えてみてよ」

 今度は階下へ移動しながらの立ち話である。相手は押しも押されもせぬ日本作詩家協会の会長、ずいぶん失礼な作詞依頼と思われる向きもあろうが、友だちづき合いが長く、ゴルフと酒で遊ぶ小西会の有力なメンバーだから、双方気安いタメグチの仲だ。

 「曲は水森英夫に頼む。前作を書いて貰ってるから、狙い目はよく判っているよ」

 「そうなの。だけどそのタイトルじゃ、五木さんからもう注文は来ないかもな...」

 詩人がジョークまじりで答える。彼と組んで僕は、五木ひろしの『凍て鶴』や『橋場の渡し』など何作かプロデュースした。ことに『凍て鶴』は、若くして死んだ作曲家三木たかしの最後の傑作と、僕らは胸を張っている。その五木を"くずす"のか?と、喜多條は内心、おもんばかったらしい。

 水森とも古いつき合いで、花京院では前作『望郷よされ節』を書いて貰った。その時に、このシリーズは徹底してカラオケ上級者向けと説明した。音域は広くていいし、曲は長くてもいい。歌えるものなら歌ってご覧よ!と、熟女たちを挑発したい。どの道花京院は、テレビに出すよりは、カラオケ草の根行脚で活路を開いている歌手。楽曲がカラオケ達人たちに歌われさえすれば、彼女の名前は後からついてくる。

 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれって奴さ」

 と強弁する傍らで、本人がニコニコ笑っているから、当初水森は「そんなのありかよ」と呆れたものだ。

 そんな狙いのシリーズを花京院は、200310月『望郷新相馬』でスタートした。出身地仙台で20年も、コツコツと地盤づくりをした後の遅咲きである。応分の力を付けた上で、歌謡界にそれなりの居場所を作らせたいと、地道な活動を支えたのは島津晃という人で、昔々、岡晴夫の前唄歌手からマネージャーに転じた昔気質だった。

それから14年、彼女は『望郷やま唄』『望郷あいや節』『望郷さんさ時雨』『望郷よされ節』『佐渡の舟唄』などを歌い、『お父う』をカラオケ定番曲に育てた。流行歌の流れの中にはいつも、民謡調演歌の椅子がひとつ用意されていて、時おり大ヒットを生む。CD不況が長い昨今だが、花京院はそんなヒットの鉱脈をひたひたと歌い、一定の成果を挙げ続けているのだ。

 『望郷五木くずし』は『五木の子守唄』がモチーフ。作詞喜多條忠、作曲水森英夫、編曲南郷達也、制作菱田信の情がこもった仕事ぶりで、手前ミソだが、相当にいい作品に仕上がった。8月発売、お陰で花京院は、亡くなった島津氏の墓前へ、お盆のいい報告が出来たことだろう。

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前田編曲作が5曲もあるか!

 相当に驚いた。大病を克服したばかりのアレンジャー前田俊明が、今月10曲のうち5曲も手がけている。たまたま発売時期が揃って...という例は、詞、曲、編の3者によくあるが、前田の場合は病後の一気!一気!だろう。それだけ制作陣の皆に待たれていたのだろうし、だからこそ本人も腕にヨリをかけたかも知れない。ムード派から勇壮もの、ドラマチック仕立てと、作品によって色あいも違う。作曲者たちとのコミュニケーションも、いつものペースに戻れて何よりだ。

波の花海岸

波の花海岸

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:服部浩子
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 女主人公は男を「譲れない」「失くせない」「離さない」と言う。それだけならよくある熱愛ものだが、麻こよみの詞はそこから一歩踏み込んだ。三番で「他の誰かをたとえ泣かせても」と来て、どうやらこの歌は略奪愛がテーマ。
怖いくらいの話の割に、徳久広司の曲は穏やかだ。歌い出しの歌詞3行分を、服部浩子に語らせておいて、お次は切迫のサビ?と思ったら、ここでまた1行分、歌を優しげにする。駆け落ちした二人を海岸に立たせて、情念の熱さよりは景色をすっきり見せることに比重をかけたということか。

アカシアの街で

アカシアの街で

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:北山たけし
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 北山たけしは、律儀で実直な好青年なのだ。どんな場面でも、分をわきまえた言動を示す。誰からも好感を持たれ、北島三郎家の婿どのとして、きっちり居場所を作っているのも、そんな人柄あってのことだろう。
 だから彼には、ムード歌謡が似合うと思っている。荒くれ男の勇ましい心意気ものは、得手ではなかろう。今作を聞いて僕は〝やっぱり...〟と合点した。一字一句、それも言葉の頭の発音をきっちり利かせて、歌の取り組み方が真剣、甘さに流れぬ節度と抑制が歌にある。結果、ムード派に青春ものの率直さを加えている。

望郷五木くずし

望郷五木くずし

作詞:喜多條忠
作曲:水森英夫
唄:花京院しのぶ
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 カラオケ熟女上級者用で、味つけは民謡調。花京院しのぶの歌づくりのコンセプトは、14年間変わらない。そんな曲を好む技巧派!?が絶えることはないせいで、実際彼女は『お父う』を定番曲に育てた。分に過ぎた高望みはせぬ苦節型。彼女流を貫くのが頼もしい。

雪散華~ゆきさんげ~

雪散華~ゆきさんげ~

作詞:冬弓ちひろ
作曲:徳久広司
唄:石原詢子
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 「一途な愛に翻弄される激しい女の情念」が売り文句、確かに冬弓ちひろの詞は、怖いようなフレーズを多用して激しい。しかし、徳久広司の曲はこれもきれいな情趣にまとめ、石原詢子の歌はこざっぱりした感触になった。メロ本位に仕立てたせいだろう。

佐原雨情

佐原雨情

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:原田悠里
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 歌い出しの「雨のしずくに...」の「雨」からもう、原田悠里の歌が艶っぽい。ふっと息づかいまで人肌の手触りで、中音のひびきが快いのだ。昔、クラシックを学んだ人が、サビまで張らずに情感本位。岡千秋の曲もほどが良いが、歌い手ってこんなに変われるんだねぇ。

流氷の宿

流氷の宿

作詞:岡田冨美子
作曲:弦哲也
唄:大月みやこ
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 岡田冨美子が演歌を書いた。歌い出しに「赤い」を3度も重ねたのは、彼女のこだわりか作曲弦哲也の都合か。いずれにしろ思いがけない趣向が生きる。大月みやこは流れに添い、5行めのいいメロディーをのうのうと歌う個所で地力を示し、最後の高音部で決めた。

知床岬

知床岬

作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳
唄:入山アキ子
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 夫唱婦随か婦唱夫随か、作詞悠木圭子・作曲鈴木淳夫妻は、このコンビ流の歌づくりを楽しんでいる気配だ。世相がどうの、歌の流れがどうのに惑わされることなし、揺れながらゆったり...のお二人ふう歌謡曲。懐かしい快さで、昭和を振り返る心地がした。

道ひとすじ

道ひとすじ

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:
福田こうへい
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 「声」と「節」と「気合い」が身上の福田こうへいが、こういう作品も歌い放ってしまう。仁井谷俊也の詞が、男の生きざまをあの手この手なのを、四方章人の曲本位に歌って気分のいい風みたい。訛り不要の歌詞を訛って歌っちまうのも、この人ならではか。

京都二寧坂

京都二寧坂

作詞:松井由利夫
作曲:叶弦大
唄:中村美律子
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 増位山太志郎がカップリング曲にしたのを中村美律子の歌で仕立て直した。いい作品を生かしたいプロデューサーのこだわりか。松井由利夫の遺作に曲は叶弦大。3コーラスで京都の風物を3枚の絵にして、美律子の小節こきざみ、歌の差す手引く手も生きた。

東京こぼれ花

東京こぼれ花

作詞:かず翼
作曲:弦哲也
唄:ハン・ジナ
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 「◯◯こぼれ花」は、昔からよくあったネオン街哀歌。いじらしい女主人公と相場が決まっていたが、かず翼の詞と弦哲也の曲が、それを引っくり返した。主人公の嘆きが、なんともパワフルでおおらか、ハン・ジナがエキゾチック風味にまでした。時代は変わるのだな。

MC音楽センター
 10月3日火曜日夜、川中美幸はNHKテレビの「歌コン」で「おんなの一生~汗の花」を歌った。1日に母親久子さんが亡くなって、わずか2日後の生放送である。
 《つらい選曲だな。彼女、大丈夫か!?》
 テレビを見ていて僕は、川中の心中をおもんばかった。作品が作品で、歌の主人公は久子さんそのもの。苦労の日々を母娘で生き抜いたさまと娘の感謝を、吉岡治が詞にし弦哲也が曲を書いた。いわば実話もので、平成15年に出来て以来、彼女はステージでよく歌い、その都度久子さんとのエピソードを話した。
 〽負けちゃ駄目だと手紙の中に、皺くちゃお札が入ってた...
 母を見送った直後には、生々し過ぎる作品である。川中が歌いたがったはずはない。しかし、歌手生活40年の矜持がある。個人的な感傷に溺れるわけにはいかないと、彼女は自分を鞭打ったのだろう。眼にたまった涙をあふれさせずに2コーラス、彼女は歌い切った。そして誰に言うともなく「すみません」と頭を下げ、共演の歌手たちの列へ戻りながらもう一度「すみません」―。
 僕が久子さんの死を知ったのは、10月1日の朝8時過ぎ。川中の側近岩佐進悟からの連絡だった。「シンゴ!」と呼び捨てでつき合う友人から、朝のこんな時間の電話である。要件は即座に判った。92才の久子さんの病状が厳しいことは知っていたせいだ。臨終が午前4時30分、胃がんからの心不全...。僕は不祝儀の相棒マル源の鈴木照義社長に連絡、渋谷の川中の事務所で、事後の対応を急ぐことにする。
 3年前、川中と松平健の合同公演のけいこ場から、川中が姿を消した、夕刻戻った彼女は何事もなげだったが、実はこの時、久子さんが心筋梗塞で倒れていたと後で知る。それ以来久子さんは骨折などで入、退院をくり返し、胃がんも発見される。ここ一年余りは自宅で療養する彼女に、添い寝をするくらいの川中の介護が続いていた。僕は川中公演で初舞台を踏み以後10年、一座のレギュラー。言わず語らずでも、おおよその見当はついた。
 《一卵性母娘なあ...》
 葉山から渋谷へ移動する道々、僕は美空ひばりと喜美枝さんを思い出す。容態急変を息子哲也からの連絡で駆けつけた僕は、ひばりに促されて喜美枝さんの死水をとった。あの母娘は古い時代の芸能界仕組と戦い抜いた。川中の場合はもう少し、芸能界が新しくなった時期に、鳴かず飛ばずの娘の苦しみを、生活ごと母が支え励ました庶民性がある。いずれにしろこの2組に共通するのは、母が娘のファン第1号だったことか。
 久子さんは若いころ、大衆演劇の娘役者をやった時期がある。川中の大劇場公演の千秋楽など、着飾って娘と一緒に舞台に立つ茶目っけを持っていた。
 〽煮豆も根性で花咲かす...
 と、吉岡が「女の一生」の2番に書いたフレーズは、久子さんの口ぐせだったそうな。お好み焼屋の看板おかんとして、苦労を苦労と思わぬ働き者の胸中に生きていたのは、浪花女の楽天的な諧謔精神だったかも知れない。
 喜美枝さんが亡くなって
 「私、もう歌えない!」
 と悲嘆に暮れたひばりは、しかし、間もなく地方公演から仕事を始めた。ファンが待っているなら、笑顔で歌うのがプロ、出演が前もって決まっているテレビなら、母を見送った直後でも、泣かずに歌うのが川中の仕事だった。親の死に目にあえぬのが芸人の世界...とすれば、ひばりも川中も母親の臨終にちゃんと立ち合い別れを共有できたことが、せめてもの幸せ、慰めと言えば言えるだろう。
 10月6日午後6時からが通夜、7日正午からが葬儀告別式で、川中久子さんは品川・荏原の霊源寺で、大勢の人々に見送られる。この原稿を書いているのは6日の午前零時過ぎ、読者読兄姉の眼に触れるころには川中家の葬いは済んでいることになる。
 「さて...」
 と僕は、その2日間を式場に詰め切る気持ちを、粛々とかかえ直した。葬儀委員長は作曲家弦哲也が引き受けてくれた。日本作曲家協会の新しい会長だが、川中のヒット「ふたり酒」で一緒にブレークして、二人は戦友同志だ。
週刊ミュージック・リポート
 数え切れないくらい沢山おじぎをした。9月25日夜、帝国ホテルで開かれた日本作曲家協会の創立60周年記念パーティー。どっちを向いても知り合いの顔ばかりで「ごぶさたしておりまして...」から「おっ、元気?」まで、あいさつもいろんなタイプになる。こういうのも久しぶりで、近ごろは浦島太郎みたいな自分に、苦笑いする現場が多かった。年はとりたくないものだ。
 会長が弦哲也、理事長が徳久広司、常務理事が岡千秋、聖川湧、水森英夫、幸耕平、四方章人、若草恵...と来ると、協会の新執行部はみんな友だちづき合い。全員がタキシードで威儀を正してズラリの〝お迎え〟で、
 「テレ臭くてかなわないのよね、もう...」
 と肩をすくめる岡に、
 「馬子にも衣裳って奴だろ」
 と、軽口で応じる気安さがある。大病快癒の前田俊明には「頭髪が生え揃ったなトシちゃん」ときわどいコメント、妙に緊張気味の田尾将実には「ごくろうさん」で、彼は事務局長のたたずまいを作っているのだ。
 作詩家協会の会長としてあいさつした喜多條忠が、
 「世代交代した感がある」
 と言ったのに同感した。前会長の叶弦大とその執行部とは、それほどの年の差はないのだが、雰囲気は確かに変わった。先代には作家の専属制が崩壊した前後の匂いが残り、新幹部はフリーが当たり前になった世代。多くが弾き語り体験者で、みんなよく歌う。歌手や歌手志願がネオン街から、一流の歌書きにのし上がったあたりが共通点か。長いこと〝若手〟だった彼らも、実は還暦をとうに過ぎ、古稀に近づいてもいる。
 昭和33年に発足した協会の会長職は、初代の古賀政男から服部良一、吉田正、船村徹、遠藤実、服部克久、叶弦大の順で引き継ぎ、弦哲也は八代め。戦後の昭和から平成の今日まで、流行歌で時代を表現して来た歴史が見える。それをふまえるから弦新会長のあいさつは「継承」と「挑戦」が骨子になる。言葉を選び、口調も真摯だったのは、背負ったものの重さや大きさを感じてのせいか、人柄がそうさせたのか。
 体調が気づかわれている北島三郎が、思いがけなく長めのあいさつをした。歌い手を代表して、言いたいことが山ほどあり、それが堰を切った気配。歌書きに「名人芸」と「職人芸」があるという指摘が面白かった。ヒットづくりを狙って成就するのが「職人芸」で、瞬発力が特色。一方の「名人芸」は目先の成果にこだわらず、長く歌い継がれる作品を生む美学らしい。明らかに彼は、師匠の船村徹のひとと仕事を指していたのだが、大物はみな「職人芸」と「名人芸」の双方を兼ね備えていたろう。北島が危惧したのは、「名人芸」を発揮できた往時の歌謡界のゆとりと、「職人芸」ばかりが要求される昨今の窮状の差異ではなかったろうか。
 昔々、古賀政男作品をレコーディングするコロムビアのスタジオは、緊張感がはりつめていた。その作品専用の伝道者になりかかった歌手大川栄策の〝親ばなれ〟を手伝ったこともある。日本アマチュア歌謡祭をスポーツニッポン新聞社で立ち上げた時は、服部良一から「まだスポニチに居た人なんだ。とうにフリーだとばかり思っていたけど」と真顔で言われて閉口した。吉田正は業界のパーティーであいさつが済むとすぐ、「さ、出かけようか」の一声で、僕を銀座のハシゴのお供にしてくれた。船村徹からは駆け出しの記者のころから身辺近くにいる自由を許され、やがて師弟の名乗りを認められる知遇を得た。
 歴代の会長それぞれと、書ききれないほどのエピソードを持つ。大体が会長たちのそばに居るだけで、この世界での交友や親交の幅がどんどん広がっていった。いい時代の歌謡界で、僕はいつも宝の山の中にいたことになる。そう言えば...と船村の通夜、葬儀を手伝った時に数えたら、僕の船村歴は54年におよんでいた。それと協会の60周年とを考え合わせると、歌謡界にお世話になった年月の長さに、気が遠くなりそうになる。
 そのうえに、協会新執行部諸氏とは、人によっては呼び捨て、あるいはチャンづけのつき合いである。これはもう足腰が衰えたとか、ボケたなどと言っている暇はない。作曲家、作詞家、アレンジャー、歌手、メーカーやプロダクションなど関係の方々に、いましばらくのお邪魔虫のお許しを乞い願うばかりだ。
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こんな時代ゆえの抒情派か?

 演歌よりは歌謡曲へ、流行歌の流れが変わって大分たつが、その歌謡曲が抒情歌へ舵を切り始めているようだ。今回、編集部から届いたのが6曲と数が少なめ、それだけで流行歌全体の変化を推し計るのは少々乱暴だろうが、6曲の共通点がなぜか抒情的に甘美で、昭和テイストの匂いも強い。
 そうなれば、腕比べになるのはアレンジャーたち。大病から復帰した前田俊明と南郷達也が2曲ずつ、宮崎慎二もそれなりの音作りで参戦している。

新庄恋しや

新庄恋しや

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 望郷ソングの舞台を、新庄あたりに限定した。麻こよみの詞は最上川や杢蔵山などを小道具に、ご当地ソングの味つけがオマケ。それにゆったりと、民謡調のメロディーをつけたのは水森英夫。歌詞4行分で一段落、ひと呼吸おいて、こちらにも民謡の一節ふうがオマケ。情趣のダメ押しだろう。
 昭和30、40年代にかけて、よく歌われたタイプの作品。あのころ一斉に都会に出た若者が、地方との分断の失意を歌ったが、平成ももはや晩年、心は少しは豊かなのか、主人公の感慨には、さほどの切実感はない。
 だから、水田竜子の声味が生きた。芯が明るめの声に哀愁少々、のびのびと素直な歌唱で、抒情性を加えている。

望郷縁歌

望郷縁歌

作詞:星つかさ
作曲:星つかさ
唄:和田青児
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 こな雪冷たい 別れの駅で...の、歌い出し歌詞1行分で「ぬ!」と、心ひかれた。中音から出る歌唱が、息まじりの声で真っすぐに切迫感を持つ。伝えたい思いのほどが、しっかりと歌の芯にあるのだ。
 和田青児の歌唱はその先4行分、語り口を維持して昂り揺れて、破綻がない。泣く訳でもなく恨む訳でもなく、適度の男の悔恨が、応分の説得力を持った。
 星つかさ名の作詞、作曲は本人とか。よく出来た、昭和テイストの望郷歌。彼はこの路線を歌いたかったのだなと、合点がいく。生まれも育ちも、そんな演歌の中の人。器用だから、いろんなタイプの作品を歌って来たが、ここで1曲己れの集大成が出来たか!とご同慶のほめ言葉を一言―。

人生夢将棋

人生夢将棋

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:細川たかし
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 もともと大音声で、声の力を誇り、節の巧みさを身上とする人。それが今回は仁井谷俊也の詞、岡千秋の曲に身をゆだねた。将棋が題材の男の生きざまソング。勇ましい文言の詞をすっきり歌って、声を張り気味なのはサビの1行分くらい。そのせいか作品の言い分!?が前面に出て、美声もちゃんと生きているから面白い。

赤い涙

赤い涙

作詞:門谷憲二
作曲:杉本眞人
唄:キム・ヨンジャ
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 死にたくて 死ねなくて 血のような涙を流す...という女性の、こがれ愛の歌。門谷憲二の詞のかなり刺激的な表現を、杉本眞人が快いノリの曲にした。キム・ヨンジャの歌唱はひたひたと、一途に情感中心。日本へ来た当初、演歌を"わさび味"に仕立てるために大いに苦労したが、それと彼女本来の"キムチ味"が、いい案配に混然一体になった。

ホタルの恋

ホタルの恋

作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:真木柚布子
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 近ごろ真木柚布子は、歌とセリフの一人芝居に熱中していると聞く。もともと演劇畑から歌に入った人だから、そんな地力を生かしたいのだろう。今作は田久保真見のやや醒め加減の詞に、弦哲也の情の細やかめの曲だからここでも"その気"になった気配。あたたかい声と息づかいを中、低音で生かす言葉のさわり方が、この人流で独特だ。

命の花よ

命の花よ

作詞:小野彩
作曲:原譲二
唄:藤あや子
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 作詞小野彩(藤あや子)と作曲原譲二(北島三郎)の初顔合わせとか。原がお得意の北島節を避け、藤の魅力と歌詞の内容に寄り添っている。藤の味が出るポイントは高音の切なさ。そう読み切った原が、随所にその音を使っている。藤の30周年と明治座公演のイメージソング。歌に芝居に似た間(ま)が生かされてもいる。

MC音楽センター
 8月末、夏の終わりを信州・蓼科で体感した。お次は9月のはじめ、確実にもう秋...とうっとりしたのが彦根~長浜の琵琶湖畔の旅。酷暑の東京を離れて、旅はいいな、季節のうつろいを感じるものな、と味な気分になった日々...。
 信州で一足早い秋に出会ったのは、8月30、31日の2日、三井の森蓼科ゴルフクラブで2プレーした時だ。誘ってくれたのは隣のページで「あの日あの頃」を連載中の境弘邦。コロムビアの制作を仕切っていたころからのつき合いで、同行者は飯田久彦、加藤和也の2人という。飯田はビクターで制作を始めた時分から今日まで、親交に切れ目がない。加藤は美空ひばりの息子になる前後から、年は離れているが友だちづき合いが続いている。ま、気のおけないことこの上なしの4人組だ。
 それにしても、2日続けてのゴルフは骨身にこたえた。よせばいいのに境とは永久スクラッチで〝マングース〟の異名を持つ彼のしぶとさに、今回もコテンパンにやられた。一転、美味を堪能したのは彼の行きつけのレストラン「歩庵」魚も肉も上等でほどの良い分量。つけ合わせの野菜が一品ずつ、本来の味と風味をしっかり伝えて、高原の自家栽培ならではだった。別荘の男4人の水いらず!? は、他愛のない昔話が深夜まで続く。境のいう「たまには骨休めを」は、骨がきしんだままだったが、魂の洗たくなら十二分の旅になった。
 彦根は前号に書いたが、作詞家もず唱平の歌書き50年記念コンサートに出かけたちょい旅。終演後、車で20分余の長浜へ移動する。いい気分の酒で気づけば、頬に夜風が冷たい。蓼科も夜は寒いくらいだった...と思い返して?今は、もう秋...なんて歌の文句を口ずさむ。一夜明けて窓外の景観に眼をみはった。海か! と思う広さで琵琶湖! である。確か長浜は、秀吉が城を築いたところ...と、新作映画の宣伝ごと合点したのは、読みさしの文庫本、司馬遼太郎著「関ケ原」のひとくさりだ。
 これが9月2日と3日の話で、その間、葉山の自宅に居たのは一日だけ。その後一週間ほど、蓼科と彦根の秋を反芻、9月11日に大阪へ出かけたら気候はまた夏に逆戻りしていた。福田こうへいの新歌舞伎座公演を見、演出家大森青児が主宰する作詞研究グループ「詞屋」の例会に顔を出す。ついでと言っては何だが、元「走れ歌謡曲」のパーソナリティー小池可奈の落語独演会ものぞく。修行5年「小池家可ん奈」の芸名も貰って、なかなか達者なものだ。和歌山あたりに集中豪雨...のニュースを横目に、日本の天気は一体どうなっちまったのだ! と文句を言いながら、こちらは大阪駈け歩きになる。
 福田公演は彼のヒット曲「母ちゃんの浜唄」をタイトルとモチーフにした芝居が面白かった。岩手の漁港で貧乏に育った少年が、集団就職列車で上京、築地魚河岸かいわいで働き、東京になじんでいく日々を、東京オリンピック前後の昭和30年代後半を背景に描く。東北なまりもそのまんま、福田に当て書きしたオリジナル脚本(作、演出堤泰之)を、福田がのびのびとやっていた。
 明治座でやって半年ほどの再演。その間に腑に落ちたもの、身についたものもあろうし、舞台慣れもしたろう。楽屋で会ったら本人が、
 「素人芝居ですから...」
 とポツリと言ったが、応分の自信が言外にある。母と子の人情話だが、共演の角替和枝、小林綾子、西山浩二、大竹修造らと、すべったりこけたりのオーバーアクションをちりばめた演出が、笑いと涙のおはなし仕立てでファンは大喜びだ。
 福田はメジャーデビュー5年め、歌謡界新旧交替の波の一角を占める勢いだが、歌の方は民謡時代から年季が入っている。新しいアルバム「魂(こころ)」のライナーノートに書かしてもらったが「一陣の風、山々に響く谺みたい」な声と節が、生の舞台だと多少ラフになり、かえって若さや精気につながっている。何曲か歌い収めを後奏の終わりまで、息つぎなしで歌い伸ばすあたりに「どうだ!」の気合いとヤマっ気が聞えた。
 お次は「詞屋」だが、私家版アルバム2枚目を作る気と、こちらも気合が入っている。前回はそれぞれの自信作(!)をレコーディングしたが、今回はコンセプトを浪花ものに絞った。歌づくりが東京に集中していることへ、大阪から一矢報いる気概を持つ集団のせいだが、作品の出来はほどほどで、意外性と鋭さとなるといまいち。もう一作ずつ頑張らにゃ...と憎まれ口で制作を延期にしたから、面々は夜、やや落ち込み気味の酒になった。
週刊ミュージック・リポート
 作詞家もず唱平は、今年歌書き50年、来年8月には80才の傘寿を迎える。
 「それはめでたい。何事かあればいつでも駆けつけるよ」
 と、川中美幸側近の岩佐進悟やプロモーター「デカナル」の小椋健史社長と約束した。今年3月、大阪・上六の居酒屋「久六」あたり。川中の新歌舞伎座公演に出ていた僕と2人は、もずと長い親交がある。
 その約束が半年後に果たせた。9月2日、滋賀・彦根のひこね市文化プラザ・グランドホールで「もず唱平50周年記念スペシャルコンサート・演歌祭り」が開かれてのこと。出演したのは川中美幸、鳥羽一郎、中村美律子、成世昌平、もずの新しい弟子高橋樺子で、司会がベテランの水谷ひろしと賑やかな顔ぶれだ。
 僕はサプライズ・ゲストで突然登場、花束を贈る役とされたが、それは無理...と変更した。歌手やそれぞれのマネジャーたちと親しいつき合いだから、会場入りと同時にバレる。案の定、もずの楽屋へ行く廊下で、
 「あら頭領、こんなところまで...」
 「もず先生、とてもお元気ですよ」
 などと、大勢の声に出迎えられてしまった。
 「花街の母」を中村美律子が歌う。金田たつえが地を這うような行商で、彼女ともずの代表作に育てた歌だ。その直後、あちこちから上京をすすめられたもずの相談を受ける。僕は反対し、大阪に止まって関西の雄となることをすすめた。牛尾となるよりは鶏頭となれのたとえもある。僕の発言は思いつきの域を出なかったが、鶏頭どころか牛の頭にまで成功、関西を制圧したのは、もずの才能と人柄、実行力である。そんな私的な出来事を、手柄話にするのは愚の骨頂だから、僕は長く口にしなかったが、後日、
 「しかし、あんたも大阪でよく頑張った」
 「何を言うとんの。そうしろと言うたのはあんたやで」
 なんてやりとりがあって、俄然、つき合いが濃くなった。あれからでももう44年か。
 「虫けらの唄」を鳥羽一郎が歌う。昔、バーブ佐竹が創唱した曲だ。
 〽死んだ親父は極道者で、逃げたお袋、酒づかり...
 と、どん底の暮らしで育ち、ぐれた男が主人公。十五の春に親にそむいてやさぐれた女と、心を添わせるさまがしみじみ描かれる。デビュー作の「釜ヶ崎人情」や「花街の母」もそうだが、もずは貧しい庶民の営みを素材に、詞の視線が暖かく優しい。本人に言わせれば「未組織労働者の哀歓」がテーマ。この日、成世昌平が藤岡琢也の歌をカバーした「悪友の唄」も、川中美幸が藤田まことの歌を引き継いだ「浪花人情~ラムネの玉やんの唄」もその路線。大阪人独特の諧謔が風味になったり隠し味で生きたり...。
 ペンネームもず唱平は、師である詩人喜志邦三の命名と聞く。もずは群れない野鳥で秋に人里近くで鋭く啼く。唱平は文字通り、平和を唱えよの教えらしい。彼の一番新しい弟子高橋樺子は「母さん生きて」を歌った。広島で原爆を被ばくしたもずの父親の見聞がモチーフ。母さん生きて! は、死んでいく娘の切なる訴えだったと言う。平和への祈りを託した高橋とマネジャーの保田ゆうこを、もずは実地で体感させるために、日米の激戦地テニアン島まで行かせている。
 ヒットソングも並んだ。川中の「宵待しぐれ」中村の「大阪情話~うちと一緒になれへんか」成世の「はぐれコキリコ」鳥羽が曲も書いた「一厘のブルース」など。文化プラザのホールはキャパが約400だが昼、夕2回公演がぎっしり満員。曲ごとに登場したもずは、歌が生まれた前後の話を、司会の水谷との味なやりとりで、ファンを喜ばせた。
 打ち上げは歌手、関係者が揃って、長浜ロイヤルホテルの宴会場。僕はもずの隣りの席で、彼ら夫妻が春に出かけたポルトガル旅行のあれこれを聞く。30人ほどのツアーにまぎれ込み、定年退職したサラリーマンを自称、気楽に過ごしたそうな。ビールを少々飲んで頬を染めた詩人はこの夜、記念行事の主として終始笑顔を絶やさなかった。
 もずの記念コンサートは、以後神戸、奈良、京都を断続的に回り、来年6月、地元の大阪・枚方公演でお開きになる。
週刊ミュージック・リポート
 「全然久しぶりって感じはないわ。いつもテレビで見てるからさ」
 東宝現代劇75人の会のお仲間、村田美佐子や古川けいからそんな声がかかる。BSテレビの昭和歌番組が、そんなに注目されているのか...と、改めて感じ入りながら、
 「いやいや、どうも...」
 などと、こちらはあいまいな対応で笑ってみせるしかない。ここのところBS各局はその種の企画ばやり。あちこちからコメントを求められているうえ再放送も多い。
 作曲家船村徹が2月に亡くなって、追悼番組が沢山あった。行く先々で出会うのは、内弟子筆頭の鳥羽一郎で、
 「また、お前か!」
 なんて冗談があいさつ代わりになる。美空ひばりは今年生誕80年で、こちらも関連ものがあちこちで放送された。そう言えば作詞家の星野哲郎も...と、別の制作プロダクションから声がかかる。山口県周防大島の記念館は、歌好きたちがひっきりなしでめでたく開館10周年、記念行事に呼ばれて行くと出迎えるのは、また鳥羽の笑顔だ。作詞家阿久悠は今年が没後10年、怪物の名をほしいままにした作詞生活が50年の勘定。ドラマになったし、遺作も出てくる。NHKのETVが特集して、いきものがかりの水野良樹といろんな話をした。北島三郎特番もあって、武田鉄矢としゃべったものもBSで近々放送予定...。
 「それにしても...」
 と、劇団のお仲間が不思議がる。マネジャーも居ないから、売り込める訳でもなかろうに...という疑問だ。
 「昭和の歌社会の裏表に通じる先輩たちが、みな亡くなっちゃって、お前しか生き残っていないからって、制作者たちがおだてるのよ」
 と僕が答える。相手はすかさず、
 「そうか、消去法で出番がくるのか!」
 とジョークの相づちを打つ。大先輩の役者で演出家でもある丸山博一が、
 「あれ面白かった。作曲家4人相手に、あんたがポンポン言ってたやつ...」
 と、2本目を放送した「名歌復活」の話を始める。弦哲也、徳久広司、岡千秋、杉本眞人が自作を弾き語りした企画で、彼らと友だちづきあいの僕が、やたらに気安いタメグチで番組を進行した。歌書きたちの生きざままでうかがえた気分で、生の感触が興味深かったらしい。
 「ところで船村徹という人は...」
 と、話に入って来るのは僕が演劇畑の師匠と仰ぐ俳優で作、演出家の横澤祐一。船村、星野、ひばり、阿久とは密着取材歴が相当に長いから、こちらは大ていの質問に十二分に答えられる。そうねえ、あと作詞のなかにし礼、吉岡治、作曲の三木たかしあたりだって...と僕が言い出すと、酔余の歌談義は際限がなくなってしまう。
 《密着と癒着は違う》
 これが50年を越す取材生活で、僕が心がけ、後輩たちにも言い続けて来た決めごとだ。歌がひとつあるとする。僕は宣伝マンから歌手、制作者、作詞家、作曲家、編曲者...と、歌が生まれた道のりを、根掘り葉掘りしてさかのぼった。相手さんが心を開いてくれさえすれば、節度を保ちながらどんどんその生き方、考え方にまで深入りする。作曲家吉田正をはじめ歌社会の一流の人々から、そういう形で知遇を得た。スポニチの音楽担当記者から雑文屋の今日まで、僕は大勢の達人たちに育てられ時代そのものも知った。数えてみたら船村歴など54年、「外弟子」を許された年月である。生まれも育ちも貧しい流行歌評判屋としては身にあまる光栄としか言いようがない。
 「つまりさ、それやこれやがBSに出てる僕の、年寄りの知ったかぶりのネタなのよ」
 役者先輩諸氏との酒盛り雑談を、そういって僕は〝チョン!〟にする。8月28日のそんな昼から夜半まで、一体何をしていたかと言えば、東宝現代劇75人の会の来春2月公演のポスター用撮影が発端である。横澤祐一が作、演出する深川シリーズの最新作で、今度は永代橋周辺を舞台にした物語を鋭意執筆中だと言う。ついでといっては不遜だが、僕は個人的ポートレートも撮ってもらった。この公演を機に僕の「アー写」がそれに変わる。「アー写」とは「アーチスト写真」の略。出演するあちこちのチラシやポスター、プログラムをはじめ、執筆した原稿のプロフィール欄など、この写真の使用は多種多様だ。二足のわらじの超80才が、アー写ねえ...と我ながらテレるが、少し若い時期のものでお茶をにごす訳にはいかなくなっているのだ。
週刊ミュージック・リポート
 「要は口べらしですよ。俺が集団就職列車に乗った理由は...」
 歌手新田晃也が他人事みたいに少年時代を語ったから、胸を衝かれた。極度の貧しさで食糧問題が深刻な家庭から、役に立たない子が放り出される。飽食の時代の今日、もはや死語かと思っていた「口べらし」は、文字通り〝食べる口〟をへらす庶民の苦肉の策だった。
 昔々から地方によくあった例だが、新田の場合は昭和、それも太平洋戦争に敗れた戦後のこと。
 「それだって、ずいぶん昔じゃないか」
 と口をとがらせる若者がいるかも知れないが、昭和30年代後半、近ごろよく耳にする東京オリンピックの少々以前と言うから、たかだか50年ちょっと前のこと。似たように〝飢え〟を体験した僕にはつい〝この間〟とも思える時期なのだ。福島県伊達市の中学を卒業と同時に、新田は集団就職列車に乗って東京へ出る。似たような境遇の子たちだけが鈴なりになった列車が、地方から都会を目指した。彼がまず中央線沿線のパン屋に就職したのは、食べ物につられてのことか。
 新田は歌手歴52年、もう70代に入っているが〝巷の実力派〟として、一部に根強いファン群を持つ。みんな新田の圧倒的な力量と得難い魅力、マイペースの生き方と〝歌いざま〟に共感し支持している人々だ。テレビによく出て名前と顔が売れ、そこそこのヒット曲を持つ人だけが歌手ではないと、僕は常々思っている。一般的には無名でも、しっかりと自分の世界を作り、熱心なファンを獲得して巷で歌う人々も得難い歌手の仲間だ。福井には越前二郎、名古屋には船橋浩二、浜松には佐伯一郎、山形には奥山えいじ...と、いわばそんな〝地方区の曲者〟たちと僕は長い親交を持つ。もう40年を越すつきあいの新田は、僕に言わせれば「三流のてっぺん」を占めるその代表格なのだ。
 彼らともそうだが、僕の交友パターンは人柄本位才能本位。学歴も資金も持たぬ男が、裸一貫から身を起こすさまが潔くも頼もしく思えるのは、僕が高卒の片親育ちでスポニチのボーヤあがりの経歴に、内心応分の自負を持つせいか。だから歌社会の友人は誰にしろ、その生まれや育ち、学歴などをチェックしたことはない。それなのに新田の「口べらし」に出っくわしたのは、長くレギュラー出演するUSENの「昭和チャンネル」で、8月23日に新田の特集を収録したせい。彼の作品20数曲を並べて5時間近い長尺だから、内容は歌手新田晃也の半生記になった。
 「何しろ俺は8人めの子だったから...」
 という新田発言にも「ン?」になる。貧乏人の子沢山のたとえはあるにしても...と思ったら、父母が3人ずつ子連れの再婚で、彼は新生活の2番目の子だった。上京して以後新田はパン屋、新聞販売店、左官屋、魚屋などを転々、貧乏ぐらしを脱出したのが、新宿のサパークラブでの弾き語りで、これが新田の歌手生活の起点になる。その後銀座に出て「ポール」の呼び名の売れっ子になり、一時はかけ持ちの店3軒、月収100万...。そのころ縁があって「阿久悠のわが心の港町」というアルバムの9曲を、上村二郎の名で全曲歌ったのが初のレコード。これを機にメジャーデビューをと、関係者にすすめられたが徹底的に固辞した。
 「あの世界には絶対に入るまいと思っていた」
 と、本人がいう〝あの世界〟は当時の歌謡界。どうやらだまされ続けた末に、人間不信におちいったらしいのだが、
 「田舎者で不器用だったけど、一番感じやすい年ごろだったから...」
 と、苦笑してその細部は語らない。時代を演出する作家や職人肌のプロデューサー、野心的なディレクターなどのプロから詐欺師ややくざまでが、百鬼夜行するのが当時の歌社会、その底辺での体験が、トラウマになったらしいのだ。
 孤立無援、独立独歩の演歌系シンガーソングライターが、独自の今日を自力で獲得したのが新田である。そんな苦闘の時期の作品に「友情」という曲があって、僕はこの1曲で彼に脱帽した。
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする...
 自作をこう切り出したあたりに、生半可な一流をしのぎ切る三流歌手の意地と芸があらわだった。最近の新田は同郷の作詞家石原信一と意気投合、いい歌を連作している。遅まきながら彼流のメジャー展開である。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ188回

 見知らぬ熟女から声をかけられた。あれは日高正人のディナーショーか何かの客席だ。

 「川神あい、頑張ってます。新曲、出ました。聞いてあげて下さい。お願いします」

 けげんな顔の僕に、彼女は一気にそう言った。円卓の一隅に座る僕の前でひざまずいた形のまま、小声だが口調は真剣そのものだ。

 「わかった。とにかくCDを自宅に送るように、本人に言って下さい」

 そう答えた僕と川神は古いつきあいだ。「あい隊」と言うファンクラブを持つとか。熟女はおそらく、彼女のとても熱心な応援者なのだろう。

 しばらく後に、CDが届いた。"エンタメ歌謡曲第一弾"の触れ込みで、タイトルが『浮気したでしょ』ときた。一体、何が始まったのか?と、CDを回して、僕は一人でニヤニヤした。浮気に気づいて問い詰める妻、接待ゴルフだと言い逃げる夫、険悪ムードの熟年夫婦のやりとりを、歌で歌ってセリフで聞かせる。そのセリフが歌よりも長いくらいで、夫婦のさや当てが一幕、懲りない夫が女子社員を口説くさまが一幕、意外なオチがちょこっと...。それを川神が、あっちになったりこっちになったりの一人芝居だ。

 作詞と台本!?は福島敏朗、作曲が杉本眞人。川神が生でこれを演じたら、客はきっとアハハオホホになるだろう。なるほどそれでエンタメ歌謡曲か。しかしこれが、彼女の30周年記念曲だそうな。ふつうなら悲恋ものの大作などが欲しい節目の年だ。そんな欲をタナに上げて、話題作で突破口を開く冒険。異色作で一発当てれば、鳴かず飛ばずの現状を脱出できる。次の企画も見えて来よう。そうか、そうなのか!

 ≪30周年なぁ、もうそんなになるのか...≫

 僕は彼女が木村優希でデビュー、次に名前を悠希に変え、今の川神になった長い日々を思い返す。茨城の島名村(今はつくば市)出身だが、僕も戦争で疎開してそこで育った。川神の父木村満男は同級生。中学時代、彼がサードで僕がセカンドをやった草野球仲間だから、ずうっと川神の成長を見守って来た。

 浮沈の年月が長い。結婚と離婚も体験した。それでも"歌への情熱"は衰えないと葉書が添えてある。それやこれやも、この歌で生かせればいいさ! そう言やこのごろ、船越・松居夫妻のとんでもない離婚泥試合が話題を賑わしている。他人の不幸は蜜の味だ。この際だからこのスキャンダルも、とぼけてネタに頂いちゃえ!と、僕は妙な応援演説をぶちたくなっている。
月刊ソングブック
 「おっかあ、そこんところ、よろしく頼むよ」
 鳥羽一郎が口にした懸念は弟分の歌手静太郎、天草二郎の今後。「おっかあ」と呼びならわしている相手は喜怒哀楽社社長の福田佳子さんで、亡くなった作曲家船村徹夫人だ。同席した静がウンウンと肯く。天草はテレたような微笑を浮かべた。万事判っている! の面持ちなのは、船村の長男で作、編曲家の蔦将包―。
 8月15日午後、神奈川・辻堂の船村宅に集まったのは、鳥羽一郎を筆頭にした内弟子5人会の面々。彼らの師匠(おやじ)船村の初盆の法要がある。玄関を入ったすぐの左側、広い応接間兼リビングルームが、今は仏間になっている。正面の仏壇には、船村のものに加えて、福田家先祖代々、戦死した長兄福田健一氏や夭折した盟友の作詞家高野公男の位牌が並ぶ。周囲には思い思いの供花が彩りを添え、ほどのよい供え物の山。長嶋茂雄のスタジャンや松井秀喜のユニホームが眼をひく。巨匠の〝お宝〟だ。ところどころにありし日の船村の笑顔の写真...。彼の催しには珍しく雨で、それが記録的に続いた一日、お盆の書き入れで大忙しの泉蔵寺住職の読経を受けて、僕らは焼香した。
 まだ明るいうちから、すぐに追悼の酒になる。仏間の左側に向き合わせのソファーが10余人分。その正面で皆と正対する席が船村の定位置だったが、今は僕が座る。外弟子歴54年、僕は鳥羽らの兄弟子を自他ともに認じていてのこと。少し酔いが回ったところで鳥羽が、冒頭の発言をした。静と天草のための新曲をぜひ...という懇請である。最後の内弟子村木弾は、船村の最後の作品「都会のカラス」を出したばかり、その上の走裕介は、ほぼ定期的にCDを出すチャンスに恵まれている。問題は二男と三男に当たる静と天草が、ここのところ新曲が途絶えていた。師匠を失った二人の心細さを鳥羽が代弁するのか。作曲は当然、跡目を継ぐ蔦の仕事になる。
 「おとうちゃまが、天草君用にって残していった曲があるのよ」
 思いがけない曲を佳子夫人が口ずさむ。能沢佳子の芸名で昔とった杵づか、小声だがメロディーの輪郭はきっちり伝わるのへ、
 「だめだこれは。お前らには無理。これは俺が歌うしかない!」
 鳥羽が突然宣言した。いかにもいかにも...の船村メロディーが絶妙のせいだが、静と天草は「そんな!」と絶句、僕が「まあまあ...」と割って入って大笑いになる。持ち出された譜面には「天草情歌」のタイトルと、昨年3月17日の記入がある。船村が心臓の手術に踏み切ったのは5月6日、あわや心不全の危機に陥ってのこと。呼吸困難を訴えながら船村は、そんな絶不調の中でも弟子のために心を砕いていたのか。
 未発表の旧作だが、問題は中山大三郎の詞が一番しかないこと。今年4月7日に彼の13回忌法要をやったばかりの三佐子夫人に、その場で電話をする。彼らは晩婚で、彼女は結婚生活10年のうち7年ほどは彼の看病の日々だった。問題の歌詞はそのずっと昔、中山が船村家へ出入りしたころのもの。資料も記憶もないが、三佐子夫人は中山の弟子たちと話してみると言う。
 「もし見つからなかったら、こちらでそれなりに対応するよ」
 やや乱暴に僕は話を引き取った。それもこれも縁である。三佐子さんとは中山の法要以後、彼の盟友だったプロデューサー山田廣作の通夜、葬儀、納骨、偲ぶ会を一緒にやった心安さ。中山と山田が東京・高輪の正満寺で、墓仲間の縁もあった。
 船村家の偲び酒は夜半まで続いた。内弟子5人はこもごもに、長く寝食を共にした師匠の思い出を語った。いずれにしても静と天草用の企画は、年内には具体化、情が深い鳥羽の弟分思いはいい形で成就するだろう。
 「ところで...」
 と一呼吸あって、彼が僕の呼び名を「ボースン」にすると宣言した。
 「甲板長だ。漁の現場を取り仕切って、船長よりも偉いんだ」
 と元船乗りの説明がつく。衆議一決、船村家界わいでは、以後そう呼ばれることになった。川中美幸一家の「ボス」歌社会から芝居の仲間まで浸透した「統領」に続き、これで僕の仇名は三つめになった。
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弦ちゃん・徳さんに期待する

 弦哲也が日本作曲家協会の会長、徳久広司が理事長になった。この「マンスリー・ニュース」でもおなじみのヒットメーカー二人。歌づくりが超多忙に重ねる重職だから、さぞ大変なことと察するが、彼らなりの運営をするだろう。岡千秋、杉本眞人をはじめお仲間も、全面協力の態勢なのが頼もしい。叶弦大前会長とは年齢的にそう開きはないから、世代交代とまでは言えまいが、歌社会での生まれや育ちには大分差異がある。現場感覚が生きる明朗闊達な協会を期待したい。

宗谷海峡

宗谷海峡

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里
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 女の悲恋ソングを身を揉むように、全身全霊かたむけて歌いたい。演歌歌いなら大ていは、そんな夢をかかえていよう。それにふさわしい大作が欲しい。そんな作品にめぐり合って、代表作に育てたい―。
 どうやら野中彩央里は、そんなチャンスを得たようだ。日本最北端の稚内あたり、仁井谷俊也が書いた主人公の恋も行き止まり。凍える胸で見つめるのはサハリン...。8行詞2ハーフ、徳久広司の曲は、泣け!とばかりに高音部が切迫する。野中の歌は〝なりきり型〟の悲痛さで、ここを先途...の昂り方だ。

江差だより

江差だより

作詞:もず唱平
作曲:四方章人
唄:成世昌平
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 江差追分を聴きながら、女が手紙を書いている。そんな歌い出しの歌詞2行分で、内容は添えぬ男への未練...と連想する。ところがそこから先でもず唱平の詞はひとひねり。娘は母親を置いてはいけないと、「困っている」のだ。
 どうやら母子世帯。幼いころの主人公を連れて、母は辿りついた北国で苦労した。歌詞の二番は、涙ながらの母ものになる。
 周囲は旅立てとせかすが、主人公は「悩んだまま」で歌が終わる。「花街の母」平成版ふうに、もずらしい人情話。曲は四方章人。成世昌平の歌も温かい。

男の夢

男の夢

作詞:大屋詩起
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 勝っているのは愛馬キタサンブラックだけではない。そうでも言いたげに北島三郎は、自作自唱の演歌を続々発表する。今回はタイトルで一目瞭然、お得意の生きざまソングだ。夢を追いかけ、夢を掴んで、夢を担いで、と、各コーラスで念を押すのは、先が見えない今の世を生きるせい。年なりに枯れた節と声が、男の「述懐」に聞こえる妙がある。

縁結び祝い唄

縁結び祝い唄

作詞:さとうしろう
作曲:増田空人
唄:細川たかし
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 今も昔も、娘を嫁に出す父母の心情は変わらぬものか。歌謡界に時おり出てくる祝い唄は、もはや定番。それを細川たかしがご時勢ふうに声を抑え、節を控えて、珍しく語り歌仕立てにした。身上の高音、声を彼らしく張るのは、歌詞のまん中3行目の頭の一カ所だけ。美声を誇示できるのは、張り歌ばかりではないのだなと納得した。

男の駅

男の駅

作詞:たきのえいじ
作曲:船村徹
唄:走裕介
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 歌い出しの歌詞1行分だけで、船村メロディーだとすぐに判る。2行めへのつなぎ方も、彼ならではの味だ。そんな作風が、3番に顕著な男の生きざまソング(詞はたきのえいじ)を、しみじみとした抒情歌にした。この春に亡くなった大物作曲家の遺作を歌うのは、内弟子の走裕介。薫陶よろしきを得た青年の、師と向き合う気概が聞こえる。

別れ上手

別れ上手

作詞:鈴木紀代
作曲:浜圭介
唄:長山洋子
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 おや、あの浜圭介がねぇ...と、軽快なムード派ソングに、ニヤリとした。長山洋子のデビュー35周年記念曲だが、だからといって肩ひじ張った曲にしなかったのが愉快だ。
 「イヤね」とか「ダメね」とかで始まるサビ2行分(詞は鈴木紀代)のメロディーがオイシイ。長山の歌声に、浜夫人の奥村チヨの顔が思い浮かんだ。

千鳥の舞

千鳥の舞

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 古風な表現の女の情歌で、詞は仁井谷俊也、曲は山崎剛昭。生身の女の嘆き歌ではなく、一さし舞って舞台にのせる物語ソング仕立てだ。和楽器を使った南郷達也の編曲も、委細承知の趣き。もともと芝居っけたっぷりの鏡五郎も、息まじりの低音の歌い出しから〝その気〟十分のこなし方。新舞踊がお好きな熟女たちが喜びそうだ。

MC音楽センター
 山崎ハコのアルバム「私のうた」を聴く。昔々、あの「織江の唄」に泣かんばかりの思いをして、以来ずっとファンになり、親交がある歌手の近作だ。1曲目の「ごめん...」は、ギターを爪弾きながら歌う彼女が、すぐ目の前にいる気配でクリア。どうやら死んでしまった男が、悲しむ女に「ごめん」と言っている情景を歌う。ひたむきな歌声があのころのままで、切ない。「一位の恋」もひなびた淋しさをたたえ、恋を失った女が眺める「街の灯・ゆらり」はアップテンポでキュート。続く「森のスクリーン」はボサノバ「セピアは光る」は、彼女なりのロックンロール...。
 いきなりドカン! と大きな音がして、臆病者の雌猫パフが一目散で逃げた。7月26日夜、気づけば葉山は花火大会。ハコを聴くことを中断してベランダに出れば、眼下の海の裕次郎灯台の向こう側、台船から空へ次々と光の花だ。いつもは友人が集まって、大酒盛りになるのだが、この夜は僕一人。芝居あがりの疲れが出ているし、締切りを過ぎた原稿が2本ほどある。海の上の狭い場所から打ち上げるから、花火も当初は単発。子供のころ田舎で見たような地味な趣きが、ハコの歌の余韻に似合わなくもない―。
 ずいぶん久し振りに彼女に会ったのは、7月8日、NHKホールの「パリ祭」会場。S席1階C1列20番の僕の隣りへ、彼女は開演ギリギリに入って来た。小柄やせぎす、顔中マスク、もしや...と思ったが終演まで知らぬ顔をした。菅原洋一が「愛の讃歌」で年に似ぬ快唱をすれば、音楽的基礎体力!? の確かさを思い、加藤登紀子の「雑踏」は、近ごろの彼女の歌の弾け方が好ましい。堀内美希、滝むつみの健在を喜び、佐々木秀実の歌が大ホールにやっと似合ったことにヤレヤレ...と、友人たちの近況のあれこれ。
 「やあ、しばらく...」
 と、ハコとごぶさたのあいさつをしたあと、僕は彼女を7月23日午前の中目黒キンケロシアターへ誘った。何回かこの欄に書いたが、路地裏ナキムシ楽団公演「あの夏のうた」をやっていて、僕がかなり泣かせる役で参加している。「ウン、行くよ」と彼女は快諾したが、災難はどこででっくわすか判らないとも思ったろう。劇場には楽団と僕あてに立派な花が届いて、見に来た彼女はまた顔中マスクのまま、
 「よかったよ、ウン...」
 と笑ったものだ。
 葉山の花火は夜7時30分ごろから1時間ちょっと。マンション5階の僕んちは、それと正対する特等席で、僕は焼酎三岳のオンザロックと、手に入れたてのIQOSをくわえ、奇妙な味の煙をプカリプカリだ。ひなびた花火も大詰め10分ほどは、それなりの豪華さを演出する。マンション前は、一方通行の細い道路に防波堤。見物客の大人が寄りかかるのにちょうど良い高さで、それより二、三歩手前で子供たちが、時おり歓声をあげた。
 18才でデビュー、20才くらいで辞めるのではないかと言われたハコは、歌手歴42年。どうやら還暦。
 《もう、そんなになるのか...》
 と、感慨少々でまた、アルバムに戻る。一人風に吹かれて涙がかわくまで、丘の土で...という女の「鳥に帰る」も、詠嘆の色が濃いハコ節。「歌ひとつ」では、歌うには勇気が要る、恋をするには覚悟が要る。あなたに届け私の歌...と、歌い続ける決意を語る。そして表題曲「私のうた」は、泣いて歌をせがんだ子へ、メチャクチャな子守唄だが、あなたへの子守唄だ...と、自作自演の歌の意味合い、位置づけを語った。
 〝暗い少女〟はイメージ戦略だろうが...と、彼女はパンフレットに書いている。戦略でも何でもいいよ...と僕は考える。「織江の唄」で受け取ったあのイメージは、そのまま僕の脳裡に沈殿しているし、その延長線上で今も、僕は僕のハコを聴く。市井で傷つきながら生きる日々への悔恨を、率直な詞とシンプルな曲で綴るハコの真実は、人間そのもののいじらしさの美学みたいに、今もこのアルバムを貫いているではないか!
 さて、「青春ドラマチックフォーク」を標榜するのが我がナキムシ楽団の面々。それが大先輩の山崎ハコを客席に迎えて、いつにない緊張と昂り方を示したのが愉快だった。
週刊ミュージック・リポート
 鳥羽一郎は幸せな男だった。歌手としての生みの親が作曲家船村徹で、育ての親が作詞家の星野哲郎と大物揃い、それに実の親木村伝蔵さんを加えて「父3人」である。〝だった〟と書くのは船村が2月に逝き、星野は今年没後7年のせい。伝蔵さんだけは92才で故郷・三重県鳥羽に健在だ。
 鳥羽はステージで、その伝蔵さんをネタにする。
 「おふくろは海女、6年前に亡くなったが、おやじと一緒にずっと海にもぐって魚貝類を獲った。男の場合は海士と言うのよ」
 「おやじは少し怪しくなったけど、元気だ。毎晩必ず日本酒を2合。虫歯なんて一本もない...」
 鳥羽のトークは途切れ途切れ。随所にある長めの間(ま)で「ン?」になる観客は、ついつい引き込まれていく。そこへ、
 「総入れ歯だもの...」
 ドッと来る客をニコニコ見回したあと、彼はダメ押しをする。
 「豆腐食ってるのに、カチカチカチカチ、うるさいのよ...」
 いわば訥弁の能弁、もともとの口下手が今や独特の話芸に進化した笑わせ上手だ。客と一緒に僕も大笑いしたのは7月16日午後、山口・周防大島の橘総合センターで開かれた「えん歌蚤の市・星野哲郎メモリアル篇」この島は星野の故郷で、彼の記念館の開館10周年を記念したショーが開かれた。共演したのは山内惠介、川野夏美と司会の植松おさみ。僕は過去8回もこの島でやった「蚤の市」の言い出しっぺの一人で、はばかりながら記念館はプロデュースの重責を背負ったから、当然、大きな顔で出かけてトークにも出演する。星野の長男有近真澄夫妻と長女桜子夫妻が一緒だ。
 実は路地裏ナキムシ楽団公演のけいこを中抜けしての大島行きである。今回の「あの夏のうた」は、7月21、22、23日の3日間、中目黒キンケロシアターで5回の舞台。このコラムが読者諸兄姉の目に触れるころは終わっているが、追加公演までやる盛況だった。
 主宰者で、プロデュース、作、演出の田村武也が率いるナキムシ楽団の演奏と歌に、僕ら役者勢が頑張る芝居のコラボ。「青春ドラマチックフォーク」を標榜する新機軸で、昭和テイストの人情劇が老若男女の客を笑わせ、大いに泣かせる。僕は3回めの参加で、年の功から泣かせ役の一端を担った。
 書きたいことは山ほどあるが、あえてエピソードを2点。言動派手めで金持ち好きの謎の美女関口美里を歌手の小沢あきこが演った。客から嫌われそうな、いやみ極まる役を、熱心に形づくって見事な出来。歌手生活25周年で記念曲「熱海あたりで」をプロモーション中の中堅が、ふだんの〝いい子ぶり〟をかなぐり捨てた肚の据え方がなかなかだった。もう一人は戦死する若者・角田弘昭役の千年弘高。もともと血の熱いロック歌手が、軍人らしさを狙って7キロも減量、髪も五分刈りの坊主頭にして熱演また熱演、このチームのペースメーカーの一人になる。ほとんど下戸なのがけいこ後の反省会!? の酒に酔い、帰路の電車で乗り越すこと再三。ボスの田村から禁酒令が出るなど笑い話も自作自演した。
 ここのところの酷暑には参ったが、星野の周防大島も例外ではなかった。僕が一夜の世話になったのは、星野夫人・朱実さんの姉葉子さんが宮司を務める筏八幡宮。島内のホテルが用意されていたのを、敢えてこちらに鞍替えした。往年の「蚤の市」は歌手も10数名の大がかりで、メーカーの星野番が作る〝哲の会〟をはじめ、マスコミ関係者などが大挙押しかけ、この神社で大喜びの雑魚寝をした。明け方まで高歌放吟の酒組と、あさまずめ狙いの釣り組が交錯して、寝る暇もなかったのは葉子神主と地元の手伝いの人々。ここは僕ら演歌勢の、懐かしの古戦場なのだ。
 葉子さんは今年米寿の88才。腰は多少曲がったが、立ち居振る舞いは矍鑠としたもの。能のお面の姥そっくりの、気品がある細面がにこやかに、昔と同じ接待をしてくれた。僕らは心ばかりのお祝いをして、すっかりその好意に甘える。虫のいい話だが、島の人々に甘えることが星野の供養だと思っている。
 10周年の記念館は開館当時そのまますこしも古びず、関係者の丹精のほどがしのばれた。人口1万7000の島が、観光客招致100万人を達成、来館者がひきもきらないと聞いた。
週刊ミュージック・リポート

歌の流れは変わっているヨ

 歌巧者大集合のカラオケ全国大会で、100人余を聞く。明らかに変わっているのは歌の流れで、歌謡曲が中心、演歌は少なめ。ポップス系からシャンソン風まで、語り歌が目立ち、杉本眞人作品の多さが際立った。
 審査員は各メーカー第一線の制作者たち。どちらがどう影響するかはニワトリとタマゴだろうが、今月の10曲にもそんな傾向がある。古風なままの詞でも曲、編曲に今日的な味つけがあって、懐古趣味と多少の野心が寄り添う。歌唱はシンプルだ。

風笛の町

風笛の町

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:北野まち子
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 北野まち子と岡千秋の縁は長い。彼の作品『包丁一代』のコンテストでプロになったのだから、ほぼ30年近く。その間断続的に岡が曲を書いている。北野のいいところを知り尽くしているはずだ。それが―。
 今回は何もさせない曲を書いた。歌唱をごくシンプルに、メロディーの哀感そのものを生かす作戦。それがご時勢流の〝はやり歌〟と捉え、北野の声味を生かす算段でもある。
 曲と南郷達也の編曲が風景を見せ、たたずむ女の心情を、作詞の麻こよみがシンプルに描く。風の音に淋しさを託した。

おまえがいたから俺がいる

おまえがいたから俺がいる

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:小金沢昇司
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 こちらも麻こよみの詞。〝しあわせ演歌〟の一種を男の側から、しきりに感謝している。苦労かけたな...と、差し向かいで女を見る眼が優しい。二番で自棄を起こした夜が出て来るのは定石通り。三番に撫子の花をあしらい女の笑顔に重ねる。一番と三番を歌えばすむおはなしの展開だ。
 徳久広司の曲と前田俊明の編曲が、歌を軽くはずませる。小金沢昇司もソフトに、さらっと歌う。言葉の一つづつにこだわらず、歌全体で男の居ずまいや、心根のあたたかさを表現する。この人男っぽく、相変わらず器用だ。

残んの月

残んの月

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:杜このみ
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 作曲した徳久広司が、杜このみの〝やる気〟を封じたようだ。デビュー5年め、がんがん行きたがる若さを、かわいい女に仕立てる。これも麻こよみの詞。「来る来ない、来る来ない、なぜ来ない」のフレーズもじれずに淡々。待つばかりの女心がすっきりした。

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哀愁流転 作詞:麻こよみ 作曲:弦哲也 唄:桜井くみ子

 もう1曲、麻こよみの詞。作曲が弦哲也、歌が桜井くみ子となると、趣向も少々変わる。幸せ薄い女の指や声が、母に似てきたりするあたりがミソ。桜井の身上は泣き歌で、ふりしぼる声の情感が濃いめに生きる。川村栄二の編曲が、そんな演歌を微妙に一味変えた。

黄昏

黄昏

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:山川豊
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 いつものムード派ぶりが、演歌寄りの色を強めた。そう手口を変えても、山川豊の魅力は低音で、作曲叶弦大は承知のうえの曲づくり。たそがれの時期を迎える夫婦愛を、男の側から語る詞は原文彦。山川の歌はやや粘りがちに、彼ならではの恋唄にした。

花のブルース

花のブルース

作詞:鈴木紀代
作曲:森進一
唄:森進一
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 そうだよ、そうだったよなと、森進一のデビュー当時を思い出させる女心もの。3連の気分のいい曲を書いたのも森本人だが、歌のゆすり方はあのころよりも薄めだ。鈴木紀代の詞は重ね言葉2行を歌い出しに置いた5行詞。猪俣公章や石坂まさをを思い出した。

心化粧

心化粧

作詞:さいとう大三
作曲:幸耕平
唄:田川寿美
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 夢色、花色、女色。幸せ探す女は心に紅を差すという詞はさいとう大三。幸耕平の曲はメジャーでやや明るめ。前奏、間奏に歌の中と、随所に女性コーラスが追いかける。25周年の田川寿美の歌を、包み込むような音づくり。演歌を少しは変えたい演出だろう。

心

作詞:久仁京介
作曲:岡千秋
唄:島津亜矢
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 各コーラスの歌い出し2行、人生訓ふうに決めるのは久仁京介の詞。それを悠々堂々の鼓舞ソングにしたのは岡千秋の曲。島津亜矢の独壇場を狙ったが、それだけでは古風過ぎると思ってか、サビあとを軽めに弾ませて緩急の味を作る。技の温故知新なのかも。

夫婦みち

夫婦みち

作詞:津城ひかる
作曲:弦哲也
唄:三門忠司

 こちらも古風な相惚れソング。詞の志賀大介と曲の宮下健治が、おめず臆せずの仕事だ。それを三門忠司が、おなじみの口調、声のあやつり方で歌う。1コーラスに一個所〝らしさ〟を作る三門の唱法。この世界のはやりすたりにわき目もふらぬ独自性本位だ。

夢のつづきを...

夢のつづきを...

作詞:花岡優平
作曲:花岡優平
唄:秋元順子
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 前奏から、トランペットとビブラフォンがいい調子の都会調。花岡優平の詞と曲は、吉田正の世界を思い出させるノリで、秋元順子の声味ともども妙に快い。ベテラン川口真の編曲が、いかにもいかにもだが、花岡の仕事は曲と気分優先で、詞はいまいちか。

MC音楽センター
殻を打ち破れ187回

1曲、歌うたびに瞼に浮かぶ顔がある。長いつきあいのその時々、直視したり、時に下から見上げたりした顔だ。その一つ一つが、喜怒哀楽をにじませて、シャイな微笑を浮かべている。何しろ38年分の師匠の笑顔だ。歌手35年の鳥羽一郎は、そんな思いで1曲ずつ、作曲家船村徹が遺していった作品を歌ってはいまいか?と、僕は思う。だから鳥羽はいつもこう言う。

 「おやじは亡くなってなんかいない。俺はこれからも、おやじと一緒に歌って行く気だ」

 612日、鳥羽を頭にした「内弟子五人の会」が「追悼コンサート・船村徹を歌い継ぐ」を開いた。場所は栃木・日光の船村徹記念館に隣接した多目的ホール。弟分の静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が一緒で、船村の「演歌巡礼」をサポートした仲間たちバンドも駆けつけた。この日は師匠の85回目の誕生日で、生前に「歌供養」を営むのが恒例だった。弟分たちもきっと、鳥羽と同じ思いでステージに立ったろう。

 「ま、日光サル軍団みたいなもんで...」

 鳥羽が満員の客を笑わせ、五人が船村の作品を片っぱしから歌った。『別れの一本杉』『男の友情』『柿の木坂の家』『王将』『おんなの宿』『矢切の渡し』『風雪ながれ旅』『兄弟船』『みだれ髪』...。会場の誰もが知っている傑作ばかりだ。

 鳥羽こそ内弟子歴3年と少々短めだが、他の4人は全部10年前後、師匠と起居をともにした。それも漁師をはじめトラックの運転手や建築業、サラリーマンなどの、社会人体験をした後の歌手志願。ぽっと出のカラオケ族出身とは訳が違う性根のすわり方のうえ、日夜船村の薫陶を受けている。思い思いの歌は、声を励まし、節をあやつり、各人がここを先途。歌にも男たちの性根があらわだ。

 思いがけない曲も出てくる。北島三郎初期の『東京は船着場』は村木。三橋美智也の『あの娘が泣いてる波止場』は走。織井茂子の『夜が笑ってる』は天草。5人の合唱は小林旭の『ダイナマイトが百五十屯』といった具合。船村の作風の幅の広さをしのばせるが、弟子たちはとにもかくにも、船村が好き、船村の作った歌が好き、師匠が酔余、話してくれたあれこれも、胸中にいっぱい詰まっている。

 鳥羽は今でも、船村を「おやじ」と呼び、船村夫人の佳子さんを「おっかあ」と呼ぶ。長男で作・編曲家の蔦将包は兄弟同然だし、娘の渚子さんは妹扱いだ。鳥羽には父親が3人居た。師の船村と作詞家の星野哲郎、実の父の伝蔵さんという幸せ者だった。しかし、星野は亡くなって今年で7年め、船村はほぼ4ヵ月前の216日に見送ったばかり。健在なのは伝蔵さんだけになったが

 「92才、少し怪しくなったけど、晩酌の2合は欠かさない」

 と言い「毎晩2合だぜ」と声を強めた。海で暮らした父への、共感が濃い目だ。

 コンサートの幕切れ近く、その鳥羽が『希望(のぞみ)』をギターの弾き語りで歌った。船村が刑務所慰問のために作詞・作曲、歌うたびに女囚が泣いた哀歌だ。斉藤功のギターが連れ添うのも、師匠のステージと同じ。鳥羽の歌唱も船村の往時をほうふつとさせるが、あの滋味横溢の境地を得るには、もう少し先へ「宿題」がありそうにも思えた。

月刊ソングブック
 近ごろは、歌うこともあまりないが、ふと思い返すだけでジンと来る歌がある。小林旭が歌った「落日」で、落魄の男の真情が率直だ。なにしろ歌詞の一番で
 〽ままよ死のうと、思ったまでよ...
 とうそぶいた主人公が、三番で思い止まり、
 〽どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて、生きてみせると自分に言った。
 と筆致も痛切で、作詞したのは川内康範―。
 7月5日午後、東京プリンスホテルで開かれた作曲家北原じゅんの「お別れの会」で、僕はこの作品にまた出っくわした。87才で逝った北原の遺影に花を手向ける会場。音量薄めに流されていた曲の中のことで、北原の代表作の一つだ。旭の再起のために川内が書いたこの詞に、北原はどんな思いで向き合ったろう? 川内の侠気がズバリと簡潔だが、侠気なら北原も人後に落ちない。樺太(現サハリン)から引き揚げて、ヒットメーカーの地位を築くまで、そこそこの辛酸は体験、肚は据わっていたはずだ。
 シャイな人が居直ったように、言動きびしい人だった。一見気むずかし屋の彼が、胸中に秘めていた熱さや優しさは、知る人ぞ知る側面。しかし作品には、それが歴然としている。北島三郎が歌った「兄弟仁義」瀬川瑛子の「命くれない」水前寺清子の「ゆさぶりどっこの唄」美樹克彦の「回転禁止の青春さ」...。作詞者が星野哲郎、吉岡治らに替わっても、どの曲もみな北原流に熱い。メロディーの核にたぎる情があり、一気に語り尽くそうとする覇気がある。
 昭和39年に発足した日本クラウンの、若い旗手になった西郷輝彦のデビュー曲「君だけを」で北原も第一線に浮上した。当然、この社の専属になる。それが後年、東芝所属の実弟城卓矢に「骨まで愛して」を書いた。その時のペンネームが文れいじ。作詞が川内康範だし、溜池の交差点をはさんでこっち側とあっち側の2社にまたがる隠れ仕事。
 「ま、頭隠して尻隠さずみたいなもんでしょ」
 僕が冷やかしても本人は、ニコリともしなかった。
 親交が続いたのは「命くれない」あたりまで。その前後僕は、
 「絵を描いてる。見てくれ」
 「小説を書いた、読んでくれるか!」
 と、畑違いの仕事でよく呼び出された。
 《この人の情熱は、止まるところを知らないな》
 と、頭が下がる思いでいたら、お次は娘をプロゴルファーにする。教えるためのライセンスも取った...という話。守備範囲が違うから、熱烈父子をスポニチ運動部の同僚に託した。その後、心ならずも長いごぶさたのあとの訃報だった。
 《がんか! この病気だけは手に負えないな...》
 そんな思いに胸ふさがれながら、実はこの日、僕はもう一人、スポーツ報知の元記者細貝武氏の「お別れの会」に出席していた。68才の若さでこの人を逝かせたのもがんである。鼻めがねにチョビひげ、ひょうひょうとユーモラスな言動が、長く歌社会の人気を集めていた。飲んべえでカラオケ好きで、やたらタッチする女好きのご仁。あいさつした小林幸子や川中美幸がそれに触れると、会場にはクスクス笑いのさざ波が立つ。しかしこれが同時に、腕ききのスクープ記者で、物書きとしてもなかなかだったから、ライバル紙同志だが、妙にウマが合った。若いころ、
 「スポニチへ呼んでくれないかな。一緒に仕事をしたいんだ...なんてね」
 と言われたことがある。もともと冗談まじり多発の人だから、こちらは真意をたださぬままにした。
 細貝氏の会は歌社会のお歴々をはじめ、レコード会社、プロダクション、物書きなどスタッフ系が大勢集まって、彼の人柄をしのばせた。一方の北原の会は、北島、西郷、水前寺、美樹、瀬川らスターたちに叶弦大、新井利昌、たかたかし、水森英夫、幸耕平ら作家たちも顔を揃えて、粛々とうわさ供養の趣きがあった。
 2会場でアルコール分も少々...の僕は、この日、続く仕事バタバタの中で、また川内康範の一言を思い出す。
 「いま、わがふるさと日本は、確たる国家経営の指針を持たず、伝聞、妄想の中に在る」
 平成5年に彼が書いたものの一部だが、昨今の政治的ゴタゴタを見事に言い当ててはいまいか!
週刊ミュージック・リポート
 おなじみ路地裏ナキムシ楽団のけいこに入っている。今回が連続3回目の参加、演目は「あの夏のうた」で7月21日から23日まで、金、土、日曜の3日間、中目黒キンケロ・シアターで4回公演なのだが、あっという間にチケットが完売、急遽、23日午前11時開演の追加公演が決まった。6月27日の夜、けいこ終わりに全員集合で
 「追加公演、決まりました。ありがとうございま~す」
 「わ~い、バンザ~イ!」
 なんて動画を撮影、直後の居酒屋反省会!? が始まるころには、全世界へネット配信終了...である。ケイタイも持たぬ「無ケイ文化財」の僕は、目を白黒するばかりだ。
 ナキムシ楽団は主宰する田村武也が作、演出、オリジナル楽曲づくりほか、何から何までで奮闘、音楽と演劇を混在させるライブパフォーマンス集団で、標榜するのは「青春ドラマチックフォーク」毎回昭和テイストの人情劇でファンを感動させ、ことに泣かせる劇的昂揚を狙っている。2010年に結成、ライブハウスから劇場へ、着実な歩みを続けているが、今回が8回めの公演を「第8泣き」と表記するあたりがその精神の発露だ。
 今回の「あの夏のうた」は、太平洋戦争末期の混乱の中で芽生えた、若者たちの友情や恋の顛末を、終戦から今日までの激動を背景に描く。そうなれば当然、若者たちの〝生〟や〝死〟と〝その後〟を証言する老人が必要になる訳で、僕はその「古物商むかし屋主人」を演じる光栄に浴することになる。自然、出番は多くなり、説明セリフも山盛り。オムニバス形式の各景を演じる小島督弘、千年弘高、小森薫、上村剛史、原田里佳子、橋本幸坪、藍沢彩羽、小沢あきこ、押田健史、中島貴月ら若い(僕よりははるかに)情熱家たちに、介護されながらの日々になる。小西会をはじめ、観に来てくれるお仲間たちからはまた「演技力よりは記憶力」を評価されることになりそうだ。
 特筆すべき共演者の熟女が一人居て、座☆ⅡEというグループ所属の掘裕子。この人が何と元スポーツニッポン新聞社の同僚なのだ。若いころから妹分ふうによく飲み歩いたのが、いつのころからか明治座の養成所で勉強していて、定年退職後に女優として第二の人生を歩きはじめた。僕も老後を役者稼業で精進しているから、いわば同志だが今回が初共演。
 「ウソ! マジ?」
 と、スポニチ同人たちには、驚きと好奇の眼で迎えられるオマケになった。
 それやこれやのけいこの最中、僕は友人の通夜・葬儀を手伝い、別の友人の納骨法要や偲ぶ会を計画、BS各局の〝昭和回顧歌番組〟にちょこちょこ呼ばれ、合い間に雑文を書きまくる日々。6月28日には三越劇場の「美川憲一、生命を読む! 語る! そして歌う...楢山節考」へ出かけた。こちらも好評につき追加公演。実は3月の本公演のプログラムに原稿を寄せながら、新歌舞伎座川中美幸公演に参加したため、見に行けなかった。その不義理の穴うめ観劇だ。
 「楢山節考」は深沢七郎の代表作で姥捨山の棄老伝説がテーマ。美川はその朗読を5年も続けていたそうだが、これがなかなかの仕上がり。棄てられる老婆おりんの潔よさと、息子辰平の心の葛藤を割舌きっぱり、昂揚場面では声をあらげ、内省シーンでは抑えた声をしならせて、実に表現がドラマチックだ。すっきりした着物姿の一人舞台はテレビで見るおねえ言葉の毒舌コメントぶりとは、まるで別人の説得力。大勢の後続〝チャラい女装芸能人まがい〟とは、一線を画したキャリアと芸と言うべきか。
 JR横須賀線の帰路、ふと気になるのはナキムシ楽団の劇中歌のこと。リーダーの田村とシンガーソングライターの暮部拓哉やハマモトヒロユキが腕によりをかけて制作中のはずだが、今回はどんな哀愁を一緒の舞台で聞かせてくれるのか? 葉山の自宅へ戻ったのは深夜。眼下の海の向こう側、富士山のあたりに、まるで見本みたいな三日月がかかっている。それと向き合って
 「混乱の時代だった。守るべきものがある。愛する人が居る。それだけで、死にに行くには十分な理由だった...」
 7月公演「あの夏のうた」の元兵士の述懐である。そんなセリフを復習しながら、僕は今いったい、どんな時代の中に居るのかが、だんだん定かではなくなっていった。
週刊ミュージック・リポート

 7月、おなじみの路地裏ナキムシ楽団公演「あの夏のうた」に参加する。21日から23日まで、中目黒キンケロ・シアターだが、上演1カ月前には4回分のチケットが完売する人気で、急きょ追加公演が23日午前11時開演分1回が決定した。

 舞台下手に6人編成のバンドが板つき、役者陣が頑張る芝居と、オリジナル楽曲で相乗効果をあげる新機軸のライブ・パフォーマンス。主宰する田村武也が、プロデュース、脚本、演出から楽曲づくりまで、一切合切を取り仕切って今回が8回目の公演、僕は連続3回目の参加になる。

 「あの夏のうた」は太平洋戦争末期に芽生えた若者たちの「友情と愛」その「生と死」を描くストーリー。戦中、戦後の混乱を背景に、面白くでやがて哀しい物語がオムニバス形式で展開する。

 音楽陣は、たむらかかし(Vo&AG)暮らしべ四畳半(Vo&AG)ハマモトええじゃろ(Vo&Key)カト・ベック(EG)アンドレ・マサシ(Bass)遠藤若大将(Drum)と、妙なステージ・ネームの6人組。

 演劇陣は小島督弘、千年弘高、小森薫、上村剛史、原田里佳子、橋本幸坪、藍沢彩羽、小沢あきこ、押田健史、中島貴月、堀裕子に僕の12人。堀は何とスポーツニッポン新聞社の同僚で、定年退職後を俳優稼業に賭けるあたりも僕と一緒の同志。初共演でスポニチ同人諸氏を驚かせることになる。

 ストーリーが戦中、戦後、今日にまたがることになれば、当然その証言者の老人が必要になる。そこでこの道まだ10年、ギャラ安価の僕にその役が来て"古物商むかし屋主人"が役名。例によってセリフ山盛り、ほぼ出ずっぱりのお楽しみだが、またしても「演技力」より「記憶力」を評価するヤカラが増えそうなのがシャクのタネになりそうだ。

 

あの夏のうた01

あの夏のうた02
 「えっ? 嘘だろ!」
 留守電を再生して、僕は耳を疑い絶句した。逗子へ買い物に出て、葉山の自宅へ戻った6月17日、土曜日の午後、留守電の声は花屋マル源の鈴木照義社長から、
 「至急相談したいことがあります」
 とごく手短か。引き続きサンミュージックの名誉顧問福田時雄氏から、
 「我妻忠義社長が今朝亡くなりました。詳細はいずれ...」
 緊張気味の声がそこまででプツンと止まる。
 《そんな、バカな...》
 僕はJR逗子駅へ引き返し、小田急線の狛江へ急ぐ。我妻社長の自宅住所は判らないが、居ても立ってもいられない。ドアからドアへ約2時間、駅へ着いたら二人のどちらかに電話を入れればいい。
 5月18日の小西会のゴルフコンペに、参加予定の我妻社長から幹事へ、
 「風邪で体調いまいち。今回は休むよ」
 と事前に連絡があったと聞いた。15日には山田廣作氏の通夜の席で、福田氏から、
 「一時入院したけど、もう退院したようだ」
 と教えられる。驚いて翌日電話をしたら、
 「風邪をこじらせて肺炎になっただけだ。心配かけてご免!」
 と、本人の声は明るかった。8月にはまた小西会のコンペがある。有力なメンバーの一人だから「それまでには治してよ」と頼んだら、
 「OK、OK、うん大丈夫だ」
 と我妻社長は気軽に請け合った。彼は今年77才の喜寿、事務所の「アルデル・ジロー」は創立20年の節目だ。
 《次回には、そのお祝いをせないかんな...》
 と、僕はのんきなことを考えていた。
 すっかりはぐらかされてしまったのだ。後で聞けば彼は4月20日に「間質性肺炎」と診断されていた。肺の可動域が刻々と狭まっていく難病、美空ひばりの最後の病名だから、その程度のことは知っていた。我妻氏の一時退院には、相当な無理があったらしく、間もなく再入院、容態急変...。そんな病状を、
 「一切、口外するな!」
 と、彼は息子たちや事務所の人々にきつく箝口令をしいていた。仲間うちにも余分な心配をかけまいという彼一流の気遣いだったのか?
 6月20日が通夜、21日が葬儀。狛江市元和泉の泉龍寺別院へ駆けつけた人々はみな、異口同音に、
 「一体何があったのだ。どういうことなのだ!」
 と、驚きをあらわにした。突然過ぎた訃報である。喪主の長男義章氏と施主の二男重範氏が、対応に大わらわになる。長男は交通会社勤め、二男は父の事務所で働いている。内田あかり、井上由美子、工藤あやのが所属、仕事は一日もおろそかに出来ない。我妻氏の遺志と「アルデル・ジロー」をどう継いでいくのか? も気になる。兄弟でよく相談をし、歌社会の有力者の助言も受けて...と「喪主」と「施主」を併列させたのは、兄弟の〝事後〟へのおもんばかりだ。
 《それにしても...》
 と、僕は我が身を振り返る。平成18年7月、当時70才の僕に、明治座の川中美幸公演「お喜久恋歌一番纏」で初舞台を踏ませてくれたのが、我妻社長だった。以後10年、僕は彼の薫陶よろしきを得て、役者としての老後の日々に精を出している。演劇プロデューサーとしての我妻社長は、情熱的で粘り強い仕事ぶりでこちらでも一流だった。川中が芸術祭賞を得た「天空の夢」は、川中の代表作であり、我妻プロデューサーと演出家大森青児氏の友情の代表作にもなっている。
 その舞台でも滅法いい役を貰った僕にとっては、我妻氏は生涯最後の恩人だった。年が年だから、スポニチ時代の恩人たちの多くや、知遇を得た美空ひばり、親友の作詞家阿久悠、吉岡治らを弔い歌謡界の師である吉田正、星野哲郎、船村徹の3氏も見送っている。そのうえに我妻氏の骨まで拾うことになろうとは...。心が折れかかって、打ち合わせや通夜の酒、葬儀のあとの精進落しの酒がひたすら身に沁みて、到底酔えたりするはずもない。
 我妻家の宗旨は浄土宗、我妻氏の戒名は「真誉忠唄信士」と、ひどく判り易かった。生一本で誠心誠意、仕事一筋に生きたことが彼の誉れで、北島三郎の前歌時代からの歌巧者。「敵を作らない」ことを信条とした生きざまを反映して、弔問客は、ゆうに1000人を超え、みなお仲間ばかりだった。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ186回

 「めぐり合わせ」には大てい「不思議さ」がついて回る。それが「人の縁」ならなおさらだが、歌手村木弾はそのうえに「最後」の2文字が二つも与えられた。亡くなった作曲家船村徹の「最後の内弟子」としてデビュー、2作めの『都会のカラス』が師匠の「最後の楽曲」である。痛恨の別れが彼にとっては大きなチャンスになったから、悲喜こもごも、本人は唸ったはずだ――。

 辛い偶然だが、村木はこの作品を船村の死の翌日にレコーディングした。船村が亡くなったのは、今年の216日。急を聞いて駆けつけた神奈川県・辻堂の自宅で、彼は「録音は予定通りにやる」と告げられる。内弟子として12年半、起居を共にしその身辺で仂いて来た身である。動転の極にいたはずだが、それも師匠の遺志と言われれば、返す言葉もない。おそらく彼は眠れもせぬその夜、惑乱の果てに「やるっきゃない!」と心を決めたはずだ。

 船村が藤沢市民病院へ搬送された一報を聞き、僕も走った。スポーツニッポン新聞の記者として初取材をしたのが昭和38年。以後私淑し、知遇を得て船村歴は54年になる。密着取材はフリーになってからも続いていたから、自他ともに許す一門の一人である。急逝を悲しむいとまもなく、通夜、葬儀の日時、場所を取り決めたほか雑事にも集中していた。「おい、大丈夫か?」「はい!」村木とのやり取りも、ごく短め。内心では「大丈夫な訳はないだろう...」と、村木の心中を推し計っていた。

 死の3日前、船村は村木相手にこの曲のレッスンをしていた。珍しく熱が入ったという。『都会のカラス』は前作『ござる~GOZARU~』同様、歌手舟木一夫の作詞。舟木は船村作品を数多く歌って来た縁で、村木を自分の事務所に引き取っていた。芸名も船村の「村」に舟木の「木」である。村木には師匠と大先輩の意気と期待に応える役目もあった。録音には船村の長男で作、編曲家の蔦将包が立ち合う。村木は立派に師の遺作を歌い切ったと言う。カップリング曲は『さいはての月』で、これも舟木の詞、船村の曲。

 村木は骨太の男である。昭和55年、秋田生まれ。地元の高校を卒業、上京して建設会社に就職、鳶職や現場監督を5年ほどやったあと、23才で船村の門を叩いた。一応、社会人としての思慮も分別も身につけた後の歌手志願。カラオケ大会で勝ち、ちやほやされて"その気"になったケースとは訳が違う。そうでなければいくら相手が名にしおう大作曲家でも、修行12年の辛抱は出来まい。その間長く僕もつき合ったが、寡黙、冷静で言動に気仂きこまごまの好青年だ。

 漁師から歌手になった鳥羽一郎を筆頭に、船村の内弟子出身の歌手は5人で、静太郎、天草二郎、走裕介に村木の順。612日にはその内弟子五人の会が主催、栃木・日光の船村徹記念館隣りのホールで、追悼コンサート「船村徹を歌い継ぐ」を開く。鳥羽の3年を除けば、みな内弟子歴10年余の辛抱軍団である。師への尊敬と心服の思いは熱く、船村作品への愛着と理解は深い。

 先輩4人に伍して、村木も全身全霊で歌うことになる。現在37才、青春を賭してこそ獲得した好機である。それならば以後の歌手生活で「最後」の2文字を身をもって、生かしていかねばなるまい

月刊ソングブック

吉幾三の芝居が見たくなった

 吉幾三を2曲聞いた。神野美伽に書いた『石狩哀歌』と自分で歌う『ららばい』だ。この人の世界の芯にあるのは、東北生まれの口の重さで、それを曲と歌で押し返すから、独特の味と説得力を持つ。詞にあるのは、雪に埋もれた暮らしの中で、チロチロ燃える情念だろうか。それが今回の2作には、やや薄めに聞こえた。それよりも...と、彼の芝居がまた見たくなった。自作の筋書きをわざと壊して笑わせたりするが、それをやらないまでも、彼は傑出したコメディアンなのだから。

石狩哀歌

石狩哀歌

作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
唄:神野美伽
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 『酔歌』や『ソーラン節』を、ロック乗りでガンガン歌うことがある。そんな神野美伽と吉幾三作品の新しい出会い。いきがかりに合点して、さぞや...の期待も生まれる。
 しかし、生のステージとCDの歌では、やはりこう変わるのだろう。例のガンガンは少し抑えめで、遠洋に出た男を待つ漁港の女のひとり酒。いつもの歌謡曲寄りの表現が中心になる。吉の詞と曲をスタスタ歌い、あんこのソーラン節ふうを歌い放って、ひとやまそれらしい開放感が出た。歌い納めにからむ「ああ、どっこい」の掛け声は、もしかすると吉か?

高山本線

高山本線

作詞:鈴木紀代
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎
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 歌い出しの歌詞1行分あたりを聞いて「ン?」になる。池田輝郎の歌声の響きが、作曲者水森英夫に似ている気がしてのこと。中、低音がことにそうで、鼻の裏あたりへの、声の〝当て方〟がそうさせるのか?
 男の未練がつのる汽車もので、高山本線を富山まで、飛騨川奥の飛水峡をめぐる詞は鈴木紀代。池田の歌は小細工をせぬ民謡調、すっきり気分よさそうにメロディーを辿った。
 総体に声がきっちり前に出るから、それなりの情感がストレートに伝わる。各節の歌い納めがめいっぱい高音なのも、快い。

早鞆ノ瀬戸

早鞆ノ瀬戸

作詞:たきのえいじ
作曲:弦哲也
唄:水森かおり
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 今度はそう来るか!と、作曲者弦哲也の工夫にニヤリとする。水森かおりに息まじり、優しげな語り口をさせて、ひと色新しさを作った。長く続くシリーズの、決めどころと手の変え方。結果、傷心のひとり旅唄連作に、叙情歌めいた味わいがプラスされている。

おんな三味線ながれ節

おんな三味線ながれ節

作詞:新條カオル
作曲:西つよし
唄:竹村こずえ
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 舞台は津軽、恋を弔う女の三味線ながれ節と来て、仕上げはリズミカル。竹村こずえの歌声は、ドスを抑えてかやや細めで、これはこれで彼女なりの味。新條カオルの詞のアクの強さを、西つよしの曲が、いい感じにスマートにしたせいかも知れない。

東京陽炎

東京陽炎

作詞:城岡れい
作曲:杉本眞人
唄:岩出和也
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 線が細めの歌声で、コツコツ頑張って来たのが岩出和也。それが杉本眞人の曲を得て、歌に〝攻める〟気配が濃くなった。作曲家との組み合わせが生んだ効果だが、インパクトが強く、ラフな手ざわりが新鮮。これなら頭ひとつ、馬群を抜け出せるかも知れない。

夫婦花

夫婦花

作詞:いではく
作曲:花笠薫
唄:秋岡秀治
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 いではくが書いたのは、かっちり無駄のない5行詞。タイトル通りの〝しあわせ演歌〟だが、これを作曲の花笠薫が、道中ものみたいな曲にした。その異種交配に刺激されてか、秋岡秀治の歌に芝居っ気が生まれる。やくざっぽい口調が、彼の器用さを示している。

別れの朝に...

別れの朝に...

作詞:円香乃
作曲:田尾将実
唄:チャン・ウンスク
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 円香乃の詞が10行1コーラス。田尾将実の曲がそれをたっぷりめにまとめた。男の留守中に、二人で住んだ部屋を片づけ、思いやりを残す女心ソング。チャン・ウンスクはいつものセクシー路線を離れて、これも冒険のひとつか。少しもって回った歌になったが。

ららばい

ららばい

作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
唄:吉幾三
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 いろいろあった男女のあれこれを、双方の身勝手と捉えて、前置きめいた歌詞2行ずつが3束。その後にお待たせしました...とばかり、詠嘆の吉節が2行分でとどめとする構成。詞、曲、編曲、歌と、吉幾三が4役もやって、この人、のうのうとマイペースだ。

しあわせのサンバ

しあわせのサンバ

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
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 ところどころでピーッと、ホイッスルが鳴る陽気なサンバ。春夏秋冬の見ものを並べて、笑顔で楽しく暮らそうヨという詞は仁井谷俊也で、曲は岡千秋。岡ゆう子も屈託なげに歌う洋風囃子ものだが、惜しむらくは、今、どうして?の奥行きが、詞にチラリと欲しかった。

MC音楽センター
 北海道・鹿部に居る。6月6日などびっくりするくらいの晴天。鹿部カントリークラブから噴火湾をはさんで、対岸の室蘭や有珠山を含む山並みがしっかりと見えた。
 「たらこの親父の喜寿の祝いだもの。天気だってその気になるさ」
 東京から出かけた作曲家岡千秋と作詞家里村龍一はまず乾杯、すっかり〝その気〟だ。
 「そういうもんですか」
 亡くなった作詞家星野哲郎そっくりの長男有近真澄も、目尻しわしわの笑顔になる。
 たらこの親父と呼ばれるのは、町の実力者、道場水産の道場登社長。かつて星野が20余年も〝ぶらり旅〟と称して通った漁師町の勧進元だ。それが星野の没後7年たっても
 「お前らが先生の名代で来い」
 と、声をかける寂しがり屋だから、お供の僕らが〝ぶらり旅〟の跡目を継いでいる。そのボスが、めでたく77才、喜寿を迎えた。何はおいてもこの際...とばかり僕らはおっとり刀で出かけた。
 遊び人集団!? だから、スケジュールはハードだ。6日午後に着いたらすぐゴルフ、温泉と盛大な酒盛りがついていて、翌7日は午前5時半集合で釣りに出かけ、戻ると一息ついて道場氏の祝賀コンペとまた温泉、酒盛りである。宴には、釣ったばかりの「あぶらっこ(あいなめ)」の刺身や煮つけが出るほか、カニもウニもと、とれとれの海の幸が山盛りだ。
 釣りは第35盛漁丸(3・5トン)通常は〝さし網漁〟に出るやつに乗り、1キロ半ほど沖へ出る。鹿部は人口5千弱の漁師町。その本職が何人も、獲物をはずすのから餌のつけ替えまで、さすがの手際で手伝ってくれる。王侯貴族気分の僕は5匹は釣った。もっともそのうち3匹は、ごく小型でいたいけないから、海に戻す。釣り好きで言い出しっぺの岡は、それなりの風情と釣果、元漁師の里村はタコまで釣って、これじゃ同志討ちだ。
 宴の主の道場社長は、ここのところ体調を崩していて車椅子。コンペのあとの祝宴に、僕らは隠し球を用意した。みんなで作詞をし、岡が作曲と歌を担当した珍曲「登ちゃん祭り」
 〽朝から酒だぞ、文句があるか...
 と、道場氏のやんちゃな日常から、
 〽義理と人情をたすきにかけて(中略)あんた昭和の男だね...
 と、一代で財を成した仕事ぶりをヨイショ、
 〽ゴメもカモメも輪になって踊れ!
 〽漁師みんなでカラオケ歌え、喜寿だ、めでたい77だ...と大騒ぎする手拍子ものだ。
 岡のピアノの弾き語りがヤンヤヤンヤの反響。
 「たらこの親父が喜んだぜ、涙ぐんでたヨ」
 と、僕らは自画自賛する。
 ニコニコ見守っているのは道場夫人の尚子さん。「ありがたい」「おやじもまだまだ元気です」と、恐縮のていなのは長男の真一氏と二男の登志男氏、この兄弟が道場水産の専務と常務で、親父をサポート、花束贈呈は孫の美女2人のお役目。
 ステージを圧したのは、業界おなじみの花屋マル源の胡蝶蘭で、10本ほどが団体でワッ! とばかりに咲き誇るのそばで、空輸した鈴木照義社長が〝どや顔〟だ。もう一人「行きたい、行きたい」とついて来た元コロムビアのディレクター大木舜は、ツアーの趣旨などそっちのけで好物のカニにむしゃぶりつく。一晩で2匹は喰ったか。
 生前に星野哲郎は、毎夏この町へ通って〝海の詩人〟のおさらいをした。
 「人間、潮気が抜けたらおしまいだからな」
 と、漁師と定置網を引き、酒とゴルフに興じだ。小柄でまるで少年みたいな眼の道場氏は、
 「先生はめんこいなァ」
 と、ぞっこんだった。星野の北海道後援会長を自称、2人は兄弟仁義同様の親交を深めた。
 「それもご縁、深い絆のほどがよく判ります」 と、神妙にあいさつをした息子の有近が一転、岡のピアノで「兄弟仁義」をシャウトしたから、盛田昌彦町長以下参加者60人余が粛然となり、すぐに騒然となった。詩人の血が歌い手につながっていたことに仰天したのだ。
 ところでゴルフだが、僕はこのコンペで、ブービーメーカーの恥をさらした。人生80年で初めての体験である。
週刊ミュージック・リポート
 午前10時過ぎ、作曲家徳久広司が「北へ帰ろう」を歌いはじめる。5月29日のお台場、フジテレビのスタジオ。
 「徳さん、こんな早くから、声出るか?」
 「ま、なんとかなるでしょ」
 なんて会話をしてのこと。ギターの弾き語りだが、別に気負う気配もなく、彼はいつもながらの居ずまいと物腰だ。
 「北へ帰ろう」は徳久の作詞作曲。昭和50年に歌手としてもブレークした作品だが、僕は彼の歌をその少し前に、スナックの弾き語りで聞いている。六本木通りと恵比寿から来る通りがぶつかった突き当たり、その店は作曲家小林亜星が経営、弟子の徳広がアルバイトで歌っていた。
 「いい歌だな」
 とニヤリとして、徳久とその歌をテレビに出したのは演出家の久世光彦。小林主演で撮っていた「寺内貫太郎一家」に急拠流しの役を作った。人気番組だったことも手伝って、この歌は一気にブレークする。沢田研二の「時の過ぎ行くままに」や小坂恭子の「想い出まくら」などと、ヒットチャートのトップを争う勢い。しかし徳広が歌手だったのはこれ1曲限り。未練げもなく作曲に専念、今日の成功をつかんだ。小林旭の大ファンだった彼が、旭に歌って貰うとすれば...の夢を託した曲が「北へ帰ろう」だった。
 この日収録したのは「名歌復活」という番組の第2弾。去年の12月10日にBSフジで一つめを放送したら2%超の視聴率。BS放送ではびっくりする数字だとかで、勇躍2作めをやることになった。前回の出演者が弦哲也、岡千秋、杉本眞人で、雑談? の相手が僕とタレントの松本明子。作曲家たちが自作の思い出の曲、おなじみの曲を弾き語りで歌い、それにまつわるあれやこれやを酒場談義ふうに話した。放送後僕は、歌社会以外の知人から
 「何であんただけ、あんなに威張ってるのよ」
 とけげんな顔をされた。確かに僕は番組内でも彼らを「弦ちゃん」「岡チン」「杉本」と呼んで「お前なあ...」を連発している。いつもの交友をそのままくだけた調子でという、制作側の注文があってのことだ、いずれにしろ極く風変わりな趣向。番組自体がひどくリラックスした雰囲気にはなった。
 第2弾はその3人に徳久が加わった。
 「四天王勢揃いです」
 と松本が言えば、
 「なにシテンノ? でしょ」
 と徳久がまぜかえす雰囲気は前作と変わらない。
 杉本眞人が「M氏への便り」を歌う。これは売り込みに行ったレコード会社が「自分で歌ってみれば」と言ってレコード化したから、彼の作曲家、歌手としてのデビュー曲になった。聞けばすぐに判る吉田拓郎調で、当時の杉本は拓郎に追いつけ追い越せだったらしい。徳久の場合の旭に杉本の拓郎と、触発された歌手が明瞭で、歌書きとしての出自が判然として面白い。
 弦哲也が「人生かくれんぼ」を歌う。五木ひろしとは一味違う仕立て方で、
 「いいもの持ってんのにな。何故売れなかったろ」
 と、弦が昔、田村進二の芸名で歌手デビューしたころの話もチラリ。岡千秋が「黒あげは」を歌うと、あのしわがれ声は、新宿の小さなクラブで弾き語りしていたころからの、酒と煙草の賜だよなと話がはずむ。この曲は作詞家星野哲郎のぶらり旅のお供で、20年以上通った北海道・鹿部で毎年、岡の歌で聞いた。作詞は吉岡治、僕に言わせれば、隠れた名曲だ。
 美空ひばり生誕80周年にちなんで、それぞれが彼女に書いた曲も含めて、この日歌われた〝名歌〟を列挙すれば、弦が「小樽運河」「裏窓」岡が「ふたりの夜明け」「さんさ恋時雨」杉本が「花のように鳥のように」「なつかしい場面」徳久が「ヘッドライト」「おまえに惚れた」お手伝い役の本職、石原詢子、山口かおる、椎名佐千子、桜井くみ子もそれぞれ、彼らの代表作を歌った。
 弾き語りの楽しさは、多少の遊び心も含めて、歌う人の心の揺れ幅や人間味がたっぷり聞けること。それに特筆すべきは全曲フルコーラスで、歌詞の起承転結に賭けた、詩人たちの思いの丈がまざまざだ。歌はやっぱり三番まで聞かねば嘘である。
 PRめくがこの番組、放送は7月15日のBSフジ、午後7時から2時間。どうぞお楽しみに!
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ185回

 初めて歩く道のりは、どうしても長く感じる。地下鉄日比谷線三ノ輪駅で聞いたサンパール荒川の位置。

 「その大通りを右へ、まっすぐ...」

 と言われたが、行けども行けども...になった。スマホなんて文明の利器は持たぬ無ケイ文化人。その代わりすぐ他人に尋ねる習性は、新聞記者くずれの気安さだ。遠すぎる...と不安になって、聞いた二人めは「この辺の者じゃないので」と不発。次の米屋のご婦人は「ちょっと先、信号の向こう」と事もなげだったが、土地の人の「ちょっと先」はなかなかに油断がならない。

 4月4日午後、辿りついたイベントは長良グループの「夜桜演歌まつり」で、駆け込んで来た徳光和夫氏と私語を交わしながら、人気歌手の歌の品定めをする。兄貴分山川豊の『螢子』がいい歌で、新曲『早鞆ノ瀬戸』の後に水森かおりが相変わらずピョンピョン。この間会ったら「40歳になります」と言っていた氷川きよしは『男の絶唱』でオトナ歌手への転進が着々だ。

 もしかするとこの曲で、ひと皮むけそうと期待するのは『ソーラン鴎唄』の椎名佐千子。岡千秋の曲にあおられるように歌がはじけて、インパクトが強い。「そうですよねえ」と意見一致の徳光氏は、一緒の仕事が続いていて「あの人、案外無器用なところがあって...」と、彼女の素顔を語るあたりに父親世代の温かさがにじむ。

 全員が合唱した『いつでも夢を』で作曲家吉田正、はやぶさの『ラブユー東京』で作曲家中川博之のありし日を思い浮かべた。藤野とし恵の『重友一代』は長良じゅんさんの企画だったし、『みれん海峡』の田川寿美については以前、長良さんから「芸名が地味なのかな。改名する手もあるけど、どう思う?」と、相談されたことがある。いい歌手やいい歌には、いろんなエピソードが隠されているものだ。

 長良さんとは、水原弘のカムバック作『君こそわが命』の作戦参謀をやった時からのつき合い。美空ひばりと「きょうだい!」と呼び合う仲に驚き共感もした。男気一筋の人で、作曲家のトラブルが僕の告げ口のせい...と嘆いた当事者に「彼は、そんな男じゃないよ」と言下に退けてくれた件などは、後になって他所から聞いた。

 昨年の夏、ハワイのワイアラエでプレーして、長良さんが客死した場所で合掌して来た。家には彼のプレゼントのゴルフバッグがある。赤と黒、布製のガッチリしたアメリカ仕様、ローマ字で僕の名前まで刺繍されている。亡くなって5年、僕は親交のあった人の形見として、大切にしている。

 この「夜桜演歌まつり」そのものが、長良さんの発案。手持ちの歌手を揃えて年に一度、東京23区を回って地元の福祉に寄金する。第1回は北区赤羽で氷川がデビューした年だった。今回の荒川は18ヵ所めで、残りはあと55ヵ所の勘定になるが、その都度僕はまだ、見知らぬ土地を歩けるのかどうか? 桜の季節恒例のこの催しで、懐かしい人を偲ぶのは、彼の生き方が花同様に潔よかったせいだ。

月刊ソングブック

力作・聴かせ歌復活を喜ぶ

 陽春四月、わが意を得たり!の作品にやっと出会った。悲痛なくらいにドラマチックな「大作狙い」の4作。歌手生活30周年の香西かおりの『わすれ花』と、今や何でもアリの坂本冬美の『百夜行』それに島津悦子の『大菩薩峠』の3曲で、弦哲也が腕を振るう。もう1曲は木下結子の『マリーゴールドの恋』で、こちらは小田純平が〝その気〟になった。 覚え易く歌い易い歌づくりが長く続いて、類似作品多めの停滞ムードを、突破する意気込みが見える作品群。「聴かせ歌」の復活である。

わすれ花

わすれ花

作詞:喜多條忠
作曲:弦哲也
唄:香西かおり
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 〽ひとりになった淋しさは、たとえば冬の桜花...と、女主人公が孤独を見据え、やがて〽人は別れた時に、自分の本当の姿が見える...という境地にいたる詞は喜多條忠、9行詞2ハーフに呼応した弦哲也の曲、萩田光雄の編曲が、香西かおりのために三位一体だ。
 歌手には我慢が強いられるメロディー。穏やかに寂しげに、前半から中盤までをしっかり語って、結びの2行分を一気の昂揚で決める。情感の持続を試されてもいようか。
 節目の記念曲だから...の冒険。それに止めずこのタイプは、年に一発くらいこの人で聴きたい。

酒みれん

酒みれん

作詞:仁井谷俊也
作曲:叶弦大
唄:増位山太志郎
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 スポーツ選手の歌は、時にプロ歌手顔負けのいい響きを伝える。鍛えた体が〝ふいご〟状態になって、体中が共鳴する利点を持つようで、増位山太志郎もその代表的な一人だ。
 なかばなげやりなくらいに歌って、中、低音がそんな感じに響く。それにプラスして、鼻にかかる高音が艶を増すから、よくしたものだ。仁井谷俊也の5行詞と、叶弦大の歌わせ曲が作るのが、男の色気や甘さ。
 ムード歌謡仕立てで、間奏には女性コーラスがお供をする。こういう魅力はいつの時代にも、それ用の椅子が一つ用意されている。

夢千里

夢千里

作詞:仁井谷俊也
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 傘寿を過ぎればどんな歌手でも、歌声が枯れるのが自然。それでも一途に、我が道を行こうとするのが北島三郎だ。原譲二の筆名の曲も含めて、お手のものの男の生きざまソング。こういう曲を書き、こういうふうに歌いつのることが、彼の現役の証なのだろう。

百夜行

百夜行

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:坂本冬美
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 殺されたいくらいの女の煩悩を、荒木とよひさの詞がかき口説く。彼の心にも鬼がいるか!と思うくらいに、これでもか!これでもか!で、それに粘着力のある曲をつけたのが弦哲也。坂本冬美は得たりや応!と歌い切った。下品にならぬのがこの人の強みか。

みぞれ酒

みぞれ酒

作詞:田久保真見
作曲:岡千秋
唄:森昌子
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 こちらも女の煩悩ソングだが、田久保真見の詞は彼女らしくクール。岡千秋の曲ともども、森昌子に「どうしていいか、わからない」と歌わせている。いろいろあって現場復帰後、いろんな曲を歌って来た彼女も、こんな歌が似合う歳とキャリアになったということか。

大菩薩峠

大菩薩峠

作詞:志賀大介
作曲:弦哲也
唄:島津悦子
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 タイトルから時代劇を連想してはいけない。〽途(みち)ならぬ途もまた途、この途を選んだわたしです...、志賀大介の詞が冒頭から、重ね言葉の妙で言い切って、二人の恋は地獄...と、これまた煩悩切々の歌。島津悦子ももうベテランの域、こういう挑戦もいいね。

あなたと生きる

あなたと生きる

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:川中美幸
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 夫婦箸の相手は、去ったのか亡くなったのか。いずれにしろ一人になった女性の〝しあわせ演歌〟のその後が語られる。歌には入口と出口があるが、その間にはさまるのが技の手口。川中美幸は時に声を張り、時に声をいなす緻密さで、明るめに歌を仕立てた。

おんなの灯り

おんなの灯り

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:角川博
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 情事におんなの灯りをともすあれこれを、石原信一が書きつのる。岡千秋の曲とキャッチボールでもしながらの詞か...と思える頑張り方だ。その一途さを角川博の律儀な唱法がたどる。彼には珍しいタイプの作品が出来たが、果たしてこれが彼に似合いかどうか。

二十歳の祝い酒

二十歳の祝い酒

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:藤原浩
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 成人式を迎えた息子と、祝い酒を酌み交わす父親の歌。仁井谷俊也の詞は、這えば立て、立てば歩けの幼時までさかのぼり、彼女がいるなら連れて来いの昨今に辿りつく。ま、ひとひねりもふたひねりもした事になるが、少々父親の感傷に埋没しすぎの感がある。

マリーゴールドの恋

マリーゴールドの恋

作詞:高畠じゅん子
作曲:小田純平
唄:木下結子
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 古いシャンソンに、こういう絶唱型のいい作品がいくつかある。その線に狙い定めたのが詞の高畠じゅん子と曲の小田純平。編曲も矢田部正が担当した。いずれにしろ大作である。木下結子はいい作品と出会った。それに似合いの歌心も技術も、相当なものである。

MC音楽センター
 「和顔院釋感謝居士」が戒名。こんなに判りやすいタイプに初めて出っくわした。その字面通りに、穏やかな笑みを浮かべた遺影がカラーで大きめ。亡くなった友人、音楽プロデューサー山田廣作の密葬の祭壇である。5月15日が通夜、16日が葬儀で、場所は東京・高輪の浄土真宗・正満寺本堂。金色を主にした寺院装飾を背景に、菊花を2段重ねの祭壇で、棺と遺影の周囲が蘭の花でおおわれて全面白一色。実にすっきり、清潔感があって豪華だ。
 虚血性心不全で彼は亡くなった。5月8日のことだが、東京・経堂のマンションの一人暮らし。驚きあわてた山田ファミリーと、生前の彼の希望通りに、ごく内輪、身内だけの弔いを組み立てた。ふつうなら家族葬だが、75才の生涯を独身で通した故人だから友人葬の趣き。準備段階からそうなりそうと見当はつけたが、フタを開けて多岐にわたる参会者に驚いた。歌社会の面々が3分の1、他業種の紳士たちが3分の1、故郷福岡・大牟田の親族、知人、同級生などが3分の1で約70名。本人と親交のあった僕も知らぬ顔が揃う。
 《そういう男だったのだ》
 と、僕は合点する。歌社会の交友は狭いが深い。その傾向は他方面でも徹底していたらしく、集まった人々に親しさの気配が濃密だ。ゴダイゴで成功「珍島物語」「無錫旅情」「人生いろいろ」などのヒット曲連発で知られる辣腕プロデューサーだが、剛腕ぶりも相当なもので、鉄拳を振るった事件も二つほど。その都度本人の真意を確かめたが、もっともな言い分があるにはあった。
 「でもさ、一寸の虫にも五分の魂だけど、暴力沙汰を起こしちゃ、盗っ人の三分の利だよ」
 と僕がいなしたら、不本意な顔をしたものだ。
 頑固一徹、こうと信じたらテコでも動かぬ九州男児でマイペース、毀誉褒貶あれこれも意に介さないところがあった。それが中国や韓国、北朝鮮に出かけて歌づくりをしていると思ったら、晩年はケネディ一家と親密になり、ダライ・ラマ14世と組んで歌づくりと、妙な国際派になるから、正直なところこちらは目が回った。人との縁を大切にしたことが、めぐりめぐって発展した結果なのだが、相手の懐にスパッと入る名手で、それを許し共鳴する相手を見分ける才能にもたけていた。
 それが、盟友と信じた日音・村上司社長、相棒の作詞家中山大三郎に先に逝かれ、長く失意を語っていたが、昨年暮れに音楽界の大物・石坂敬一氏を見送ったのが、相当に応えたらしい。自身も頸椎の手術をしたあたりから体調をこわし、次第に往年の精気や気概を失っていてのこと。正満寺には早くから自分の墓を作り、住職に〝もしも...〟の依頼もしてあった。住職が昔、渡辺プロに所属、ハワイアンを歌っていたという粋人で、ウマが合ってか冒頭に書いた戒名も、山田の意を汲んだものと聞く。
 世に〝マザコン〟の男は多いが、山田の場合は〝老婆コン〟とでも言えそうな一面で知られた。上京して作曲家浜口庫之助の門を叩いた歌手志願の昔、謡曲と茶の作法を学んだ世田谷の有田のおばあちゃんとの縁がその事始め。息子同様の好遇を受けた恩を生涯忘れず、彼女の没後も供養を尽くした。歌手市丸や女優夏川静枝の晩年を親しく見届けたのもその流れか。正満寺にはもともと、有田のおばあちゃんの墓があった。その傍で眠る気の山田は、中山大三郎の墓もここに呼び寄せている。
 5月16日、荼毘にふした桐ケ谷斎場で、僕は彼の骨を拾う。生き方同様に太く立派な骨の山だった。ゴルフをやれば、地球をぶっ叩くみたいに頑健だった彼が、最後まで骨太な男の生き方を貫いたことに感慨が深い。粛々と後に続く男たちを見回しながら、彼の面倒見のよさと愛情の深さも再確認した。ハマクラさんのマネジャーだったころに知り合い、長い親交があった。作りたい歌を作って、まるで狙撃手みたいにヒット戦線を独歩した強面のスキンヘッドだが、素顔は繊細な感性と、生真面目で一途な生き方の男だった。それにしても、寂しさに耐え切れずに彼が、親しいお仲間の後を追って逝ったのだとすれば、残された俺たちは一体何だったんだよ? と、一言いいたい愚痴や未練が、澱みたいにこちらの胸中に沈んでいる。
週刊ミュージック・リポート
 昔、かまやつひろしから、ミカンが一箱、自宅に届いたことがある。年の瀬近いころだが、彼からお歳暮がくるとは思えない。それから半月くらい後、当時溜池にあった東芝のスタジオへぶらりと訪ねたら、吉田拓郎も一緒に居た。「わが良き友よ」のレコーディングをしていて、ミカンの理由を聞いたら、
 「プロモーションですよ」
 と、かまやつが笑った。あの1曲に期するところあってのことと僕は合点した。それ以後かまやつからプレゼントが届いたことはない。その後、ここ一発! の勝負作がなかったということになるのか?
 5月2日、そのかまやつのお別れの会が開かれた。六本木のグランドハイアット東京でのこと。受付までに行列が出来、会場へ入るのにまた行列。1000人を越す音楽仲間が集まり、まるで人気絶頂のミュージシャンのコンサートみたいな賑いになった。それもそのはずで、かまやつが所属したザ・スパイダースが、11年ぶりにまた集結した。不謹慎かも知れないが、正直なところ僕も、彼らの雄姿!? との再会に、浮き浮きした気分になっていた。
 立錐の余地もない会場をかき分けて、僕は友人とかぶりつきに陣取る。最前列というやつは、取材する方もされる方も、面映さが先に立つから避けて来たが、この際そんなことは言っていられない。グループサウンズ・ブーム以前から、僕はジャズ喫茶に出かけ、ウエスタンカーニバル全盛の時期は日劇の、いずれにしろスパイダースの楽屋にいた。リーダーの田邊昭知と取材で知り合い、以後ずっと彼の客分の扱いを受けていた。ありがたいことに、かまやつも堺正章も井上順も、一目おいてくれて、休憩時間に彼らがポーカーに興じる隣りで、僕は田邊にすすめられた白土三平の漫画を読んでいたりしたものだ。だからこの日僕は、スパイダースそのものを、あのころのままの近距離で見届けたかったのだ。
 「フリフリ」「サマー・ガール」「ノー・ノー・ボーイ」「バン・バン・バン」と、懐かしい曲が並ぶ。笑顔を見せながら、そのくせ必死ではないかと思える田邊がドラムを叩く。髪は黒々としているが、額には大幅な奥行きが生まれている。キーボードの大野克夫は長髪のままだがこれがまっ白、リードギターの井上堯之は口ひげもあごひげも白い。ベースの加藤充は83才、最年長と聞けば「そうだろうな」と思える風貌になっている。井上が雰囲気変わらず、ステージ上の役割も変わらずに見え、やんちゃな言動がシックな紳士ふうに変わった堺と、ボーカルの二人はまだ十分に現役の気配。平均年齢75・6才だと言うが、6人が勢揃いすればそれだけで、ちゃんとスパイダースの存在感が濃厚ではないか!
 そんな中にかまやつを立たせてみると...と、僕はイメージごっこを始める。髪型かわらぬ彼はニタ~ッと笑って、ごく自然なたたずまいになる。ひょうひょうと融通無碍な男だった。スパイダースの解散でGSブームは終焉となったが、かまやつは拓郎と組むなどフォーク勢と合流、ニューミュージックの一角を占め、世代が変わってJポップ勢が台頭しても、ベテラン格としての座を確保していた。長年、それを可能にしたのは「彼の持つすぐれた音楽性」と、この日集まったミュージシャンたちは口を揃えた。西欧の音楽とその流れの変化を先取りし続け、体現したセンスもまた融通無碍だったということだろう。
 スパイダースのデビュー曲「フリフリ」は1965年のヒット。発売元は日本クラウンだったが、演歌歌謡曲中心のこの会社は、クレジットを「歌堺正章、井上順、演奏ザ・スパイダース」というように分けて表記した。「歌も演奏もひっくるめてスパイダースだ」とする田邊の言い分がどうしても通らないため、彼らはフィリップスに移籍したという、今になっては笑い話のエピソードが残っている。そんな時代からもう50年以上の年月が経過したが、この日のスパイダースは、あのころのカッコ良さをとどめて、少しも色あせていないのが愉快だった。そう証拠づけるみたいに会の最後は、かまやつの仲間や後輩の若手100人が「あの時君は若かった」を大合唱している。
 記者たちから出た「スパイダースはこれからも演奏するか?」という質問に、田邊の答えがふるっていた。
 「基本的にはもうないと思うけど、また誰かが死ねばやるかも知れない」
 会場の宙空から高笑いが聞えた気がした。もしかするとそれはかまやつ本人だったかもしれない。
週刊ミュージック・リポート
 「まだ、ちゃんと泣けてないのよ」
 亡くなった作曲家船村徹の夫人福田佳子さんが、ポツンと言った。彼が逝ったのは2月16日で84才。体調を崩してはいたが、突然の死だったから、衝撃の方が強かったろう。それから大掛かりな通夜、葬式。四十九日法要を営んで納骨したのが3月31日だ。佳子さんは船村の事務所喜怒哀楽社の社長でもある。それまでもそれからも、多忙を極めた。テレビやラジオは、ひっきりなしに追悼番組を組んでいる。映像では元気そのものの船村が、しみじみと自作を歌っている。だから喪失感がやって来ない。時にそれが来たとしても、ひたっている心のゆとりが、まだ無い―。
 夫人がワインを口に運ぶその右隣りで、僕はハイボールをちびりちびり。グラスを運んでくれたのは、二女の渚子さんだ。4月25日夕の明治記念館。開かれていたのは五木ひろしのレコード会社ファイブズエンタテインメントの創立15周年感謝の集いで「船村先生思い出の曲とともに」のサブタイトルがつく。五木は即、船村作品「わすれ宿」と「男の友情」をレコーディング、その翌日の26日に発売する間合いで、CDは追悼盤、催しは追悼の会にもなった。船村夫人はその主賓。会の冒頭にあいさつするのがお役目だ。五木への感謝と、多くの人々に船村作品が歌い継がれていくことが願いと、言葉は少なめで簡潔。その辺は船村そっくりだった。
 五木がステージで突然、涙で絶句した。会の中盤、彼と僕が船村との縁を話していた途中だ。五木が第一線に浮上したのは、伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」で10人抜きしたのがきっかけ。これはよく知られた話で、審査員の一人作詞家の山口洋子が乗り出し、スター歌手への道を開いた。もう一人の審査員が船村で、五木が「男の友情」を歌った5週目に、絶賛したコメントがこの夜披露された。淡谷のり子や評論家の竹中労も加わり、辛口づくめで知られた番組だが、辛口では人後に落ちぬ船村が、珍しくぞっこんの弁。
 「おめでとう、よく頑張ったね。君のような歌手は歌謡界において貴重だよ。みんなも彼を見習わなくてはいけない」
 往時の若々しい声が、要旨そんなことを言っている。それ以来、船村の存在そのものが、歌手五木ひろしの心の支えになった。
 生涯そうだったが、船村は嘆き、怒っている人だった。日本人が元来持っていた正しさ、美しさ、清さ、潔さ、厳しさ、貴さが失われ、軽佻浮薄に堕している時代そのものに我慢がならない。だから五木の背水の陣の歌唱と真摯さに心打たれたのだろう。実は亡くなった作詞家阿久悠にも、船村の怒りは共通していた。五木のファイブズエンタテインメントの旗揚げ作品「傘ん中」と「二行半の恋文」は、二人の作品。「国士」とも呼べそうな二人の「日本よ、日本人よ!」の心がスパークしたところに、意味も意義もあった。
 船村は古賀政男、西条八十らが作り上げた歌世界に挑戦した異端児。それが多くのヒット曲を生んだ実績で、ついには王道を極めた。そんな船村を仮想敵国の一人と想定してこの世界へ入ったのが阿久悠である。その後こちらも文句なしの実績で、新しい王道を築いている。いわば異端児二世代の組み合わせだったから、五木の新出発をプロデュースで手伝った僕も気骨が折れた。アルバム「翔・五木ひろし55才のダンディズム、船村徹、阿久悠とともに」14曲は、そんな作家同志の共感を戦いの中から生まれた。
 師事した作曲家上原げんとに無名のまま死別して、歌謡界の孤児になった五木は、山口洋子とマネジャーの野口修氏と出会い、徳間康快氏の知遇を得て第一線に浮上した。以後心の師とした船村と阿久のコンビ得て独立し、今日にいたる。端整で精緻な歌唱と一途な生き方があってこその成功だろうが、作曲家吉田正、作詞家星野哲郎、歌手美空ひばりも含めて、振り返れば貴重な縁に恵まれて来た69才だ。
 ステージの五木を見守って、佳子さんと渚子さんはしばしば目頭をハンカチで抑えていた。歌われた船村作品には、それぞれに尽きぬ思い出が積み重なっていてのこと。船村家の女性二人にとって、伴侶と父親を失った個人的な喪失感が腑に落ちるためには、まだ相当な時間が必要なのかも知れない。
週刊ミュージック・リポート

春だ! 歌謡界にもそれなりの風

 4月、歌謡界も春を迎える。CD不況の市況だの、内容の旧態依然に溜息をつくよりは、思いがけない発見に目を向け、喜ぶことにしよう。そこまでハラをくくったか!と感じ入ったのは椎名佐千子の歌のはじけ方と、彼女を追いつめた岡千秋の曲の力技。氷川きよしのおとな路線は、彼の味わいを残したまま着々...だし、大川栄策の曲と歌の踏ん張り方もなかなかのもの。中村美律子の歌が、聞く側に寄り添ってくるのは、関西弁特有のやわらかさが生きて独特...と腑に落ちた。

はぐれ花

はぐれ花

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:市川由紀乃
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 波に乗っている歌手で、力量にも応分の自負を持つ。ここで一発!と、決め打ちの力作を行く野心が、あらわになってもいい時期だが、市川チームはそれを避けた。たっぷりめの語り歌志向で、歌唱は抑えめ。
 人の幸せ、ふしあわせは「ままにならないことばかり」とする麻こよみの詞に、演歌王道ふう徳久広司の曲。はぐれ花の女の哀しさを、泣かないで、嘆く気配にとどめた。
 そこそこ歌巧者の評価はあるが、声に頼り節を誇示することはない。語り口に独自の色を作るのが肝要...と先行きの可能性も残した。

忍ぶの乱れ

忍ぶの乱れ

作詞:高田ひろお
作曲:筑紫竜平
唄:大川栄策
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 歌い出し1行めの詞に「さくら紙」が出て来てドキッとする。高田ひろおの詞はそれを「口紅を拭った」ときれいに納めた。しかし...と古い世代の僕は、まだ気にする。なにしろ「喘ぎ泣く 喘ぎ泣く あゝあの世まで」と三番で結ぶ歌なのだから。
 筑紫竜平の筆名で、作曲して歌う大川栄策は、委細かまわぬメロディーと歌で、これを彼流の艶歌にした。得意の高音部を多用して張り歌にし、中、低音部を彼なりの語りで生かす。このベテラン歌手は、自分の売れ線のツボを十分に心得ていて、マイペースである。

男の絶唱

男の絶唱

作詞:原文彦
作曲:宮下健治
唄:氷川きよし
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 この間会ったら「40歳になりました」とニッコリした。演歌系アイドルをやりながら、おとな路線へ、作品で幅を広げつつあるのが頼もしい。今作もその一作で、原文彦の詞、宮下健治の曲がスケールを作った。声がしっかり前へ出るのが財産、小細工は無用だ。
※写真はAタイプのジャケットです。

かぼちゃの花

かぼちゃの花

作詞:喜多條忠
作曲:叶弦大
唄:中村美律子
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 素材の選び方、タイトルのつけ方が作詞喜多條忠のアイデア。いいところに目をつけ、ところどころの語尾に関西弁がチラリ。中村美律子の語り口は、関西弁のあたたかさと説得力と合点も行く。一番を聞き終わった間奏に、セリフが欲しくなるのはそのせいか。

ソーラン鴎唄

ソーラン鴎唄

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
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 歌詞4行めのおしまいを2小節分歌い伸ばしたのが、クライマックスへの間合い。次のヤーレンソーランで始まる4小節を、椎名佐千子の歌がめいっぱいの高音ではじけた。歌全体のインパクトが強く攻撃的。この人は岡千秋のこの曲でひとかわむける気がする。

飛鳥川

飛鳥川

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:永井裕子
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 四方章人の曲が、典型的なW型。歌い出しを高音で出て、サビと歌い納めにまた高音が来る。1コーラスに3個所、聞かせどころが生まれるから作品のインパクトが強い。永井裕子は独特の声味に、キャリアなりの情も加えている。本人も達成感を持つ作品だろう。

母情歌

母情歌

作詞:志賀大介
作曲:岡千秋
唄:井上由美子
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 母への讃歌は流行歌のジャンルの一つ。大勢の作家と歌手が手がけて来た。今回はそれを志賀大介の詞と岡千秋の曲が狙った5行詞もの。それがたっぷりめに聞えるのは、きっちりした構成を井上由美子が歌い切ったせいだろう。地味だが力のある歌手だ。

女の錦秋

女の錦秋

作詞:峰崎林次郎
作曲:桧原さとし
唄:大石まどか
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 例によって峰崎林二郎の詞は硬質である。今作も東山の錦秋に女心を託して、一途に書き募る。歌謡曲に必須のゆるみたるみが乏しいのだ。眼で読むとそう感じる詞に、人肌の体温と高揚を加えたのは、桧原さとしの曲と大石まどかの歌唱。これも組合わせの妙か。

女の雪国

女の雪国

作詞:星野哲郎
作曲:桜田誠一
唄:小桜舞子
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 CD化にどういう行きがかりがあったのかは知らない。作詞の星野哲郎、作曲の桜田誠一は、とうに亡くなっている。しかしこの二人ならではの作品が、少しも古くなく小桜舞子の歌を生かす。裾をからげて帯にはさんで、叶わぬ恋を背負って歩くってか。

雪舞い桜

雪舞い桜

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子
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 歌い出しの2行分が、演歌詞の要だが、歌唱にもそれがあると再確認した。鼻にかかり気味の夏木綾子の歌が、中、低音よく響いて情をにじませている。瀬戸内かおる作詞、岸本健介の曲とトリオで、ずいぶん長く挑戦を続けて来たが、それが実った進境だろう。

星の河

星の河

作詞:賀条たかし
作曲:長浜千寿
唄:大前あつみ&サザンクロス・田才靖子
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 亡くなった作曲家中川博之を思い出す、サザンクロスの名とムード歌謡の魅力。かつてネオン街の女心を歌うヒット曲が多かったが、今作は先立った妻を慕う男心を歌っている。ムード歌謡コーラスも、歌は世につれ...の変化を示す例なのだろうか?

MC音楽センター
殻を打ち破れ184回

 作曲家船村徹の訃報が伝わった217日夜、遺体が安置された神奈川・辻堂の自宅へ、作詞家池田充男が飛び込んで来た。周囲があっけに取られるくらい、あわてふためいている。低頭の理由は1年前に、鳥羽一郎のために書いた詞。

 ♪嘆くな泣くな わが妻よ いとし子よ わかれてゆくのも また運命(さだめ) また運命...

 2番に書いたフレーズが、作曲した船村の夫人佳子さん、長男の作曲家蔦将包と小百合夫人、長女三月子さん、二女渚子さんらの心境にダイレクト過ぎたと感じたのだ。

 「へんなものを書いてしまって、私としたことが、なんともかとも...」

 好人物丸出しの池田を、佳子夫人たちは慰めに回る。庶民の哀歓の種々相を模索する作家の仕事は、時にこういう符合を生み出してしまうものだ。その作品『悠々と...』の1番には、

 ♪たとえば俺が 死んだなら いのちのすべてを 灰にして 北の空から 撒いてくれ...

 というフレーズがあった。223日、東京・護国寺の船村の告別式、同門会会長として弔辞を捧げた鳥羽は、のっけからこれを引用、

 「あれは先生の、辞世の歌だったんですか。遺言だったんですか!」

 と切り出している。この詞は一年前に夫人に先立たれた池田が、傷心の中で書いたもの。そういう意味ではこの歌は、詩人の失意と作曲家の死にざまが、奇しくも合致したことになろうか。

 告別式の出棺時には、鳥羽を筆頭に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人組が棺を担って『師匠(おやじ)』を歌った。

 ♪子でも孫でもない他人(ひと)の子を 火の粉背おって育ててくれた...

 と、師匠へ弟子たちの感謝が歌われた鳥羽の旧作である。内弟子OBで福岡から駆けつけた香田晋や、大分から飛行機に乗った美唄五郎もその列に加わった。

 ♪ちょっぴりのぞいた赤坂あたり 栃木訛りの風が吹く...

 と、生前の船村の風貌まで偲ばせるのも、作詞家星野哲郎ならではの名文句。師弟の絆の歌が、生まれた長い年月をはさんで、葬送の思いに符合している。地名の赤坂は、船村の主戦場だったコロムビアレコードを指すのか、仕事終わりに立ち寄ったネオン街を指すのか?

 香田晋は歌手をやめ、2年前から福岡・遠賀町で「Caffe真凛(まりん)」を営んでいる。酒の肴の売り物を尋ねたら「フルコース!」が答えで、船村家の仮通夜では彼が料理したカレー味のからあげが好評。修行は内弟子時代の体験で十分と笑った。美唄五郎は大分・佐伯市でスナック「ハッピーキャット」をやっている。こちらも酒と肴の珍味とそこそこの品揃えは、船村直伝だろう。

 鳥羽は3年だったが、内弟子5人組の残る4人、静、天草、走、村木はそれぞれ10年前後の内弟子生活。「歌」よりも「人」の部分を重視する船村教育を経て、歌手デビューした遅咲きだが、好青年、歌巧者ぞろいだ。昭和38年に船村を初取材、以後長く私淑、知遇を得ている僕は、北島三郎の後輩で鳥羽以下には先輩に当たる外弟子である。当然彼らとは呼び捨てのつき合いだが、星野、池田の詞のすばらしさ、歌の持つ力の強さを共に体験した、師匠の葬送1週間だった。

月刊ソングブック
 「下手ウマ」という魅力がある。表現は決して上手ではないのだが、得も言われぬ味わいがあるケース。歌でも芝居でも時おり、そういう持ち主に出会うことがある。軸になるのは本人の個性とは思うが、長めの年月の中でいい感じに発酵して、独特の風味を作る。ジャンルを問わず、にじみ出るのは人間味であることに変わりはない。
 〝無名のスーパースター〟を自認する歌手の日高正人が、最近そういう方向に変わりつつあることに驚いた。4月16日夜、東京プリンスホテルで開いたディナーショーを見てのことだが、
 「いい歌を聞いた。あの人らしい味が濃くなっている」
 と、知人の何人かが感に堪えぬ顔になったのを見ると、あながち僕の身内褒めばかりではない。
 ま、長いつき合いであることは確かだ。うっとおしいくらいに、あつかましく迫って来るのだが、どこか憎めないところがある。いつのころからか「あにさん」と呼ばれるようになっていて、
 「お願いしますよ、よろしくね」
 を連発される。留守がちなのを承知で電話をかけて来て、それが立て続けに何度でも。昼前後に葉山の自宅を出て、帰宅は深夜という当方の生活パターンを知りながらのことで、おしまいには留守電に、
 「たまには出てくださいよ。つめたいんだから」
 などとボヤいている。これにはもう、笑ってしまうしかない。
 「一生懸命が背広を着て、汗水流して走ってる奴」
 と、僕は求められる都度そうコメントをして来た。声がいい訳でもない。歌がうまい訳でもない。イケメンなどでは決してないし、第一、もういい年の容貌魁偉だ。それなのに放っておけないのは、無類の人なつっこさと一生懸命さのせい。おまけに電話魔でこれが〝人たらし〟のあいつの手口。彼が還暦を迎えたころには「もう先行きはないから、歌手をやめろよ!」と、乱暴な忠告!? をしたこともある。
 もともと〝張り歌〟を得意とした。武道館や横浜アリーナを満杯にした伝説が売りの大音声。それに加齢による衰えが来ても、その歌唱のまま行こうとするのが無残に思えた。ところが70才を過ぎたあたりから〝語り歌〟に転じた。本人にすればやむを得ずの窮余の一策だったろう。ところがそれがいい目に出た。無器用なのが歌い慣れして、訥訥の語り口に変わり、キャラに似合いの味を作りはじめる。生来の口ベタが脳梗塞をやったモゴモゴも加えて、妙に率直な説得力を得たのだ。
 70才を過ぎて発声からやり直した努力に、目をむいて驚いたのは亡くなったシャンソン歌手石井好子の例。ベルカント唱法で鍛えた歌が、人肌の人間味に変わったことに脱帽した。功なり名遂げた大物が...と感じ入ったのはその意志と意欲の強さ。日高の場合は「決意」よりも「成り行き」であることに相違を感じるが、いずれにしろ《ほほう!》に変わりはない。
 レパートリーが彼の新境地の手助けになってもいる。「やじろべえ」「少しだけ悲しんで」「人生山河」「いいから」「木守り望郷歌」とタイトルを並べれば判ろうが、多くが中年過ぎの男の苦渋に触れている。中には〽もう少し生きてもいいですか? なんてフレーズも出て来て、それが日高の年かっこうや今現在の心境に通じる気配。作詞家たきのえいじと作曲家杉本眞人が、そんな歌づくりに貢献していて、もはやヒット狙いの色恋沙汰ソングは似合わない。だとすれば...と本人の生きざまに、歌づくりの的を絞った成果だろう。それも上から目線ではなく、おずおず問いかけて来るあたりが、いい按配なのだ。
 ディナーショーの客には、日高とのくされ縁が続く熟年男性とその連れが目立った。「人たらし」は「男たらし」で、自然身内っぽい共感の輪も広がる。それを感じ取ってか日高は、
 「もう一度武道館をやる!」
 などと言い出したりする。すぐに〝その気〟になれるのがこの男の強味なのだが、当方は「やれやれ...」とため息をつく。それでも彼が獲得した「下手ウマ」の世界に、拍手を送ってしまう。もはや、どこまで続くぬかるみぞ! である。
週刊ミュージック・リポート
 作曲家船村徹の墓は、神奈川の藤沢・片瀬の高台にある。眼下の相模湾越しは正面に富士山、左手に江ノ島を望み、右手手前には小学校。ウィークデイには子供たちの声がにぎやかだろう。
 《鳳楽院酣絃徹謠大居士には、似合いの場所ということか...》
 高台と聞いて坂を上る覚悟をしたら、少し回り道をするが近くまで、車で行けた。墓参者の利便まで勘定に入っていて何よりだ。
 高野山真言宗・泉蔵寺。3月31日の午後、四十九日法要と納骨が、そこで営まれた。参加したのは福田佳子夫人と家族に山路匂子、森サカエと静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の弟子にOBの香田晋、それに境弘邦と花屋の鈴木照義と僕。ごく内輪で...と招かれた面々だ。法要のあとの会食、遺影の傍には「従三位ニ叙ス」と記された内閣総理大臣の書状が飾られる。
 40代めくらい...と言う住職は気さくな男盛り。歓談のお供は佳子夫人の故郷・金沢の銘酒「加賀鳶」で、故人が愛飲したものを僕らはグビグビやった。墓に刻まれた船村の筆跡「楽」の一字が、妙に懐かしく、席は何だかすがすがしいくらいの雰囲気。気ままに生き、立派すぎるくらいの仕事をし、功なり名遂げた84才。参会者がみんな「大往生」と捉えた船村の生涯だったせいか。
 雨がぱらついたが、春の気配はたっぷりめのその日から4日後の4月4日、サンパール荒川の「夜桜演歌祭り」に出かける。あっという間に桜が咲いて、ぴったりのこのイベントは、5年前にハワイで客死した長良グループ長良じゅん会長が発案したもの。手持ちの人気歌手を揃えて年に一度東京23区を回り、福祉に寄金する。今回は18回めで氷川きよしのキャリアと同年数だ。「40才になった」と言う彼の歌を聞きながら、「箱根八里の半次郎」は、長良会長の決断の賜だったと思い返す。山川豊、田川寿美、水森かおりの歌にも彼の面影がダブる。没後5年、ちゃんと遺志が生かされているのが嬉しいが、さて、残る5回分の5年を、僕は元気で通えるものかどうか...。
 翌4月5日は東京ドームへ。美空ひばり生誕80周年のトリビュート・コンサートで、歌謡曲系とポップス系の人気者が大勢参加した。さすが! の歌を聞かせたのは「みだれ髪」の五木ひろし、坂本冬美は「ひばりの佐渡情話」を冬美流の歌唱でなかなか、華原朋美の「一本の鉛筆」が出色の出来だった。ポップス系はひばりソングの曲の起伏と譜割りの細かさがなじみにくそうだが、華原は似合いの曲を得たかも知れない。堀内孝雄の「お前に惚れた」はシャレの気分か。
 フィナーレで「愛燦燦」を歌った大勢の歌手たちは、あの100メートルの花道を三々五々、にこやかに辿った。今や伝説のコンサートになった往時の幕切れで、美空ひばりがいつ倒れるか...の危機感の中を戻った花道である。観客にはそんな気配を、毛ほども見せなかった彼女の気丈さを思えば、感慨は深いものになる。節目ごとに大きなイベントを打ち続ける、息子加藤和也・有香夫人の〝ひばり継承〟と〝展開〟にも、なみなみならぬものを感じる。
 それから2日後の4月7日、今度は作詞家中山大三郎の13回忌法要で、高輪の正満寺である。気っ風こざっぱりの三佐子夫人がてきぱき取り仕切り、弟子のアレンジャー若草恵や歌手の半田浩二が立ち働く。住職の読経に声を合わせ、南無阿弥陀仏を6回ずつ。墓のそばでしだれ桜を眺めたが、そう言えば桜のエピソードが二つ。入院先で夫人が「桜の季節だね」と言ったら、大三郎は筆談で「元気でこその桜だろ」と答えた。それから間もなく逝った彼の棺は、大好きだった相模カンツリー倶楽部の満開の桜を眺めて斎場へ行ったものだ。
 「人生いろいろ」「珍島物語」「無錫旅情」などをプロデュースした〝心友〟山田廣作は体調不良のため墓参だけで帰った。それが少々寂しかったが会食の席は、大三郎らしい面白エピソードが山盛りの賑いになった。
 桜の季節、花見の宴のにぎわいをニュースは伝えたが、僕のこの季節は感傷的なくらいに、親交のあった人々を偲ぶ1週間になった。中山には64才で逝かれた心残りがあるが、いずれにしろ、思い出の人々の生きざまは、桜みたいに潔よかったように思えてならない。
週刊ミュージック・リポート
 肩を叩かれて振り向いたら、堀内孝雄の笑顔があった。久しぶりだから「やあやあ!」「どうもどうも...」になる。パーティーの一隅での立ち話。
 「みんな逝っちまうからさ。頑張っていてよ。ま、あんた、あんまり変わらないから、安心するけどさ」
 励まされるのは僕の方で、
 「ん、まあな...」
 と、返事が口ごもる。そう言えば歌社会では最近、かまやつひろしが先に行っちまったし、2日後の3月31日は、作曲家船村徹の納骨と四十九日法要が藤沢の寺である―。
 29日夜の帝国ホテル。僕らが出席していたのは松尾芸能賞の贈賞式と祝賀宴。堀内は「作曲家とエンターティナー両面での活躍で、独自の世界を構築し、日本の歌謡音楽文化に大きく貢献した」として、優秀賞を受賞していた。
 「だけど俺はさ、こっちのおめでたで呼ばれてんだよな」
 と、僕は僕のテーブルを振り返る。何人かの知人に囲まれているもう一つの笑顔は大衆演劇の雄・沢竜二。こちらも「大衆演劇の誇りを保持しつつ、映画やテレビ、演劇に邁進してきた功績は称賛されよう」と、優秀賞を受賞しているのだ。同じテーブルには、沢との親交が40年を越す放送作家のあかぎてるやや、演劇評論家として活躍する木村隆らがいる。木村とはスポーツニッポンで同じ釜の飯を喰った同志だ。
 「俺は自称ドサ役者の沢さんの、全国座長大会に毎年呼ばれてるドサ役者見習ってとこだからさ」
 と僕。
 「大阪・新歌舞伎座から帰って来たばかりだろ」
 とあかぎが笑う。
 そんな輪に加わるのは、松尾芸能振興財団の理事で賞の選考委員を兼ねる井出博正、つまりは作詞家のいではくで、
 「そうか、あんたは役者としてこの宴に参加してるんだったな」
 と、俄かに合点した顔になった。この賞は昭和55年に始まって、今年が第38回の歴史を持つ。その会場で突然、歌謡界と大衆演劇界が合流したのだから面白い。
 受賞記念のステージで、堀内は「愛しき日々」を歌った。人気グループのアリスが活動を停止、5年ほどの暗中模索のあと、堀内は昭和61年にこの曲がブレーク、ソロ・シンガーとしての地盤を固めた。こんな出番で1曲を選ぶとしたら、やはりこの曲になるのか。僕は盛大にヨイショをし、昨年の日本作詩大賞受賞でわが意を得た「空蝉の家」を期待したが、
 「それをやっちゃプロモーションになって、失礼でしょ」
 と、堀内のスタッフから悪ノリをたしなめられる一幕もある。
 沢の方はといえば例によっての快気炎で、
 「ラジオをやろう。言いたい放題の奴をな。今なら俺、どんな事でも言えるし、言いたいことは山ほどあるんだ」
 けしかけられる放送作家は、それもそうだ...とその気の顔つき。世情やたらに右傾化して、剣呑な空気が日に日に強い。太平洋戦争とその前後の苦難を知る世代だけに、僕らはじっとしてはいられぬいらだちが先に立つのだ。
 「あんたも手伝ってよ」
 と言われれば、何でもする気になる。
 ところでこの夜の松尾芸能賞の全容だが、大賞が和太鼓で独自の世界を作った林英哲。沢、堀内と一緒の優秀賞は舞踊の西川左近、歌舞伎の中村錦之助で、新人賞が義太夫の鶴澤津賀花と琴の遠藤千晶。特別賞が無声映画の活弁を独自の話芸に発展させた澤登翠という面々。伝統的な芸能に今日的な魅力を加え、その研鑽の成果をグローバルに、世界に問う向きが目立った。受賞ステージで圧倒的だったのは林英哲の太鼓。乱打の演奏に重ねる謡ふうな歌声は、ひなびた原初的な響きから、やがて祈りにも似た昂揚を示した。
 「いやあ、いいものを観せてもらったなあ...」
 いつもの悪ノリ癖が始まった僕は、銀座へ居酒屋探しに出かける。長く常連だった「いしかわ五右衛門」が閉店、新しいねぐらを求めて近ごろは、その界隈を転々の日々なのだ。
週刊ミュージック・リポート
 人間国宝の娘という良血がいる。父が文楽の人形遣いで二世桐竹勘十郎。子供のころから役者になり、今は本格派女優で大学教授、大阪府の教育委員ほかを歴任する。三林京子の略歴だ。そうかと思えば九州大牟田の、芝居小屋の奈落で生まれたと言う男もいる。美貌が「生きる博多人形」の異名を持つ大衆演劇一方の雄・松井誠である。大学を卒業後松竹新喜劇に入団、藤山寛美に喜劇を学んだのが曽我廼家寛太郎、その先輩格が江口直彌なら後輩が植栗芳樹。亡くなった劇作家花登筺の唯一の弟子役者坂本小吉もいる。
 スタッフ側には、少年時代にやんちゃで名を轟かせた男が今では神妙な歌謡界紳士、やたらにノリのいい酒好きの劇場プロデューサーは笑顔を絶やさない。酒といえば剛の者の女優が座長部屋を手伝い、男装の美女? と見まがう一人とバイオリン弾きを合わせた3人が、呑んべえ3女傑である。女性が強いのは近ごろ、どの社会も同じことなのか? そう書く僕は新聞記者くずれの老優で傘寿、キャリアは10年。それやこれやを仕切っているのが、歌手の川中美幸だが、ま、この人も元はと言えばお好み焼き屋の看板娘だ。
 《人間社会の縮図みたいな入り乱れ方だ》
 と、僕が感じ入っていたのは、3月、大阪新歌舞伎座の「川中美幸特別公演」を支える人々で、川中の芸能生活40周年記念のサブタイがつく。芝居の「めおと喧嘩ラプソディー」(金子良次演出)は、川中・松井と三林・寛太郎の2組の夫婦の痴話ゲンカの大騒ぎ...と、前号に書いた。僕が貰った役は、川中・松井のケンカのモトを作る料理屋のおやじともう一つ、ショーに本名の音楽評論家で出る件も既報の通り。ところが―。
 観客の知らぬ場所で僕は、相当な数の役を貰っている。手押し車を押す徘徊老人、花売り娘、短距離ランナー、何者か判然としない女装老人、花見酒でニヤつくフーテン等々。あげくの果ては、エレベーターの壁に張りつく黒装束の物の怪までやった。企画・演出!? するのは、やたらに賑やかでノリのいい女優大原ゆうと藤吉みかのコンビで、後輩の僕は言われるままに唯唯諾諾、彼女らと競演の栄に浴する。
 「一体何をしているの?」
 と思われるだろう。実は現場が劇場の頭取部屋前。第二部のショーの舞台へ出かける川中を見送る場面で、いつもなら神妙に「行ってらっしゃい」と頭を下げるところだ。それをお笑い化するのは、川中を大喜びさせて送り出したい前記2女優の魂胆と浪花人らしいサービス精神。連日、2回公演の時は2回、ちゃんと続けるものだから、周辺はいつも笑いの渦になる。たまりかねて乱入した江口直彌が北朝鮮のボスまがいになると、僕らは「マンセイ!」「マンセイ!」...。
 川中は40周年分のヒット曲を歌い綴り、独特の話術で終始客を笑わせる。浪花の諧謔、まさに水を得た魚で、こればかりは他の追随を許しっこない境地。そんな空気が楽屋うちにも満ち満ちるのは苦労人の彼女の気遣いも手伝ってのこと。
 「ボス!(川中は僕をこう呼ぶ)何をさせられてるの!」
 と、たしなめかけるのだが、そのうち「今回の趣好は?」の顔になるから、笑いのお返しの演出女優も大変で、ついには
 「ネタギレ!」
 の張り紙をプロデューサーのおでこにガムテープではりつける苦肉のシーンまで出た。
 ここ何年か、大阪公演の都度行きつけになった居酒屋(隠れ家につき店名はヒミツ)の女将も見に来て、
 「元気を貰ったわァ」
 と芯から嬉しそうになった。舞台の表裏がこうで、文字通りに笑う門には福が来ているのだ。
 しかし...と、ここで力説しておかなければならないのは、皆がおちゃらけているばかりでは決してないこと。芝居もショーも、各人の出番はひたすら真摯で、そのアンサンブルが笑いを生み、増幅するのだ。もう一つ特記すべきは大阪在住の作詞家もず唱平のマネジャーや弟子からの昼食の差入れ。2回公演のほど良い時刻に手づくりの心づくしが、あたたかさといい味で運び込まれる。ペイペイの老優が殿様気分になるひとときだ。それやこれやの〝なにわ人間縮図〟の中で一カ月、僕の「大阪の春・日々是好日」は続いた。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ183回

 「小池劇場」とやらの賑いが止まらない。東京の千代田区長選など、小池都知事が後押しをした現職がトリプル・スコアで圧勝した。7月の都議選が大変になる。自民党ボス内田茂氏は引退に追い込まれたと、スポーツ新聞までが大騒ぎだ。

 ♪漁師に生まれて よかったね~

 脈絡もなく流行歌の一節が口を衝いて出る。鳥羽一郎の『海峡の春』だが、僕はこれを作曲した岡千秋の歌で覚えた。生前の作詞家星野哲郎のお供で、岡と作詞家里村龍一と僕は、せっせと北海道の鹿部町へ通った。酔えばいつも岡がこの曲を歌い、地元の漁師たちは「俺らのテーマソングだ」とすっかりその気。海の男の心情が星野ならではの歌詞で、それが彼らを酔わせるのだ。

 実は人口5千人弱のこの漁師町で、千代田区長選と同じ25日に、町長選があった。現職が退いて新人候補2人の一騎打ち。その一方が鹿部詣で組と仲良しだったから、僕らは東京で大騒ぎになった。

 「あの、祈!必勝って看板つきの花を連名で届けよう」

 「星野哲郎の名前を大書して、贈り主が長男有近真澄って手もある」

 「陣中見舞いの酒も要るな。いつもはあまり雪が降らない鹿部も、このところずっと吹雪らしいぞ」

 候補者そっちのけで、いつもの酒盛りみたいなノリだ。

 星野はこの町で"海の詩人"のおさらいをした。払暁出船の定置網漁に加わり、帰港すればとれとれの魚の番屋飯。船の揺れ方を体に残したまま、漁師たちとゴルフに興じ、ひと風呂浴びれば夕方からもう酒宴。

 「体にな、潮の香を染み込ませるんだよ」

 温顔しわしわの微笑で、星野はご満悦だった。そんなツアーが20年以上続いたが、いつもその周辺で甲斐々々しく手伝っていたのが今回の候補者、勤勉実直、人柄穏和な好青年だった。

 星野の没後もツアーは続いている。観進元の町の有力者・道場水産の道場登社長が寂しがり屋で、

 「お前らが星野先生の名代で来い!」

 と、漁師言葉こそ乱暴だが、口調には情が濃いめだ。そんな社長を僕らは"たらこの親父""呑ん兵衛の登ちゃん"と呼びならわして、親交が続く。星野は昨年が七回忌だったが、詩人が紡いだ縁と絆は途切れることなく、例の青年は町役場でいろんな役目を体験、最近は副町長になっていた。

 「それにしてもあいつ、大丈夫かな?」

 「それなりの準備、目配りはして来てるだろ」

 「いずれにしろ、舎弟分が町長ってのも、悪くねえよな」

 遠い鹿部の票読みなど出来っこないまま、僕らは身内の期待と不安のハラハラ状態。そんな耳許でいつも聞えていたのは、鹿部の進軍歌『海峡の春』だ。

 そして、投開票の5日夜遅く。2月の芝居のけいこから戻った僕が聞いたのは「残念ながら...」の留守電だった。そうか、もともとあいつは星野に心酔するくらい純な奴だったしな。漁師町でもそれなりの権謀術数はあったはずで、あいつはそれが苦手だったか?しかし、たらこの親父は今、どんな気持ちでいるだろう?と、今度はそんな心配まで先に立った。惜敗、傷心の佐藤明治はまだ56歳、その青雲の志は、これからどういう道を手探りして行くのだろう?

月刊ソングブック
 川中美幸〝笑劇場〟は健在である。3月の大阪・新歌舞伎座公演、客席も舞台裏も笑い声が絶えない。芝居も楽しさに的を絞って、川口松太郎作、金子良次潤色・演出の「めおと喧嘩ラプソディー」の1幕3場。70分の小品だが、2組の夫婦の痴話喧嘩の実態!? が関西弁でポンポンポンポン、スピード感で観客をあおりたてる。ショーの方をたっぷりめなのは、川中の芸能生活40周年を記念、数多いヒット曲を一気に! の趣向。
 喧嘩のひと組めは、酒好き女好きで夜遊びばかりの割烹の主人(松井誠)と女将(川中)のやきもち。ダンナが持ち帰ったピンク色の名刺と、口紅つきのハンカチが問題で丁丁発止。「出て行く!」「勝手にしろ」の大騒ぎだ。しかし双方二枚目の座長と特別出演のやりとりだから、おのずと応分の抑制はある。それが一気にはじけるのはふた組めで、とんかつ店の主人(曾我廼家寛太郎)と細君(三林京子)の組み合わせ。ダンナの身辺で見つけた派手な男物パンツを、キャベツにかぶせて包丁でズサッ! とやるあたりで、細君の悋気が最高潮だ。
 川中組は浮気も疑いどまりだが、寛太郎組は店をやめた娘をマンションに囲っているのがバレて具体的。それを問い詰める三林、屁理屈の一般論で逃げる寛太郎の設定で、本格派おっとり型の三林が逆上すれば、芸達者の寛太郎が体技も含めて汗みどろの応戦になる。竜虎相撃つ組み合わせが、関西弁のオブラート効果から、やたらにユーモラスだ。
 共演はベテランの江口直彌、坂本小吉、竹内春樹と若手の植栗芳樹、千葉のぶひろ、小峰雄帆。女優陣は大原ゆう、藤吉みか、長谷川かずき、穐吉次代、宮園香菜子とこれで全部、みんながふた組の夫婦喧嘩を盛り立てる係りだから、ほとんど出番は一度きり。僕なんか銭湯帰りのおっさん。「宗右衛門町ブルース」を口ずさみながら出て来て、松井ダンナのアリバイをぶちこわしてしまう。川中相手にふた言み言、慣れぬ関西弁が彼女には、音程の悪い歌に聞こえはせぬかと、役柄同様、肩をすくめて退散するが、午前11時に開演して10分後にはもう楽屋に戻っている。
 劇場近くのホテルに宿泊、10年前の初舞台で、川中から貰った立派な暖簾をかけた楽屋は一人部屋の好遇である。ま、出番もセリフも多けりゃいいとは限らないが、それにしてもこれではギャラ泥棒...と思ったら、ちゃんとショーの方にもひと役あった。それも音楽評論家で本名の出番。「赤城の子守唄」「憧れのハワイ航路」「かえり船」「王将」などの懐メロに、年寄りの知ったかぶりを開陳する。曲に合わせて寛太郎が怪演、川中の笑い上戸が止まらないのに、水を差す物言いでヒヤヒヤものだ。
 出を待つ上手そでで見学するのは松井誠のあでやかな舞い2曲分。しなやかな身のこなし、女性そのものの身ぶり手ぶりが指先までで、時にのけぞり時に小走りの風情が名場面の連続。聞きしにまさる美しさだ。曲の合い間に舞台上で衣装を着替え、かつらまで代えるのも見もの。長い帯を背中で結ぶあたりで誇張する動きが客を沸かせてショーアップしている。その間わずか1分40秒前後。舞台そでで凝視するもう一人が寛太郎で、もしかするとその徹底的観察が、彼の芸のこやしの一部になるのだろうか?
 川中の劇場公演は、昨年正月のこの劇場以来14カ月ぶり。老齢で病床の母親久子さんに介護の添い寝が長かったのを、
 「あんたはあんたの人生を生きや」
 の一言を聞いて「晴れ舞台を踏むのも介護のうち」と一念発起したが、その間のエピソードまでトークにして客を沸かせる。身に染みついた感のある浪花育ちの諧謔が、芝居にも歌の合い間にもちりばめられて、客席の爆笑には掛け声の怒号もまじる。ファンのプレゼントを受けながら、ジョークで劇場内をひとつにするのも、もはやおなじみのこの人ならではの芸。開演前に「はいかい」と称して、仲間の楽屋に声をかけて回るのもいつものことで、こぶりな座組みだけに一層、家族的な雰囲気が濃いめだ。長い芸能生活でもいろいろあって、彼女の裏表なさは苦労人のあかし。それやこれやでこの人の節目の年の春は、新曲「津軽さくら物語」ともども〝笑い〟と〝和〟の賑いの中にある。
週刊ミュージック・リポート

劇的な奥行きへ、切り替え時だ!

 新聞記者を振り出しに、長いこと活字で表現するなりわいをして来た。歌を聞く軸足がどうしても、歌詞にはじまり歌詞におさまるのは、そのせいか。
 流行歌は昨今、歌謡曲寄りに流れが変わっている。カラオケへの依存や影響から、脱却する意思が見える。自然歌詞は長めになった。しかし、その割に、新しい発想や構成力を示す展開には踏み切れていない。ドラマが見えないのだ。劇的な要素や予感の含蓄を感じたい。作詞家諸兄姉、今が切り替え時ですぞ!

紅ひとり

紅ひとり

作詞:田久保真見
作曲:幸耕平
唄:大月みやこ
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 最近は演歌の本格派ふうにも手を染めるが、作曲家幸耕平が書くものは、やはりこのタイプが本線だろう。リズム感が快く、それに哀感そこそこのメロディーがあって、コーラスでやれば、これはムード歌謡だ。
 大月は軽く、委細承知!の歌に仕立てる。幸とのコンビでは以前『乱れ花』がヒットしていて、あ・うんの呼吸がありそう。
男を待ってひとり紅をひく女の心境のスケッチ。鏡の中の自分に「これでいいの?」と聞く詞は田久保真見。三者とも感情移入さらりと薄めで、安心して聞ける味をよしとするか。

男の流儀

男の流儀

作詞:石原信一
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
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 タイトルが決まっている。きりりとした男唄を連想させる。内容は男の日暮れ酒、寡黙に2合...とかっこつけたあと、女には本気で惚れろ!が二番、故郷の駅を思い返すのが三番で、詞は石原信一。
 三山ひろしの歌は、案に相違してソフト。くだけた口調の語り歌にした。快調の波に乗る昨今だが、力まずに行こうと心掛けた結果なのか?
中村典正の曲も、あせらず騒がず...。石原の詞長めに6行ほどなのに合わせたせいか、結局、タイトルほどの緊張感はなかったのが惜しい。

十勝厳冬

十勝厳冬

作詞:幸田りえ
作曲:徳久広司
唄:松原のぶえ
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 歌いはじめ4行分を語らせ、次の2行分で切ながり、おしまいの2行で決める。8行1コーラスの詞を、徳久広司の曲がきっぱりした構成で聞かせる。松原のぶえは、思い詰めて語り、サビで高揚、雪ばかりの十勝厳冬を眼に見せる算段。ベテランなりの歌唱だ。

女の日本海

女の日本海

作詞:たかたかし
作曲:徳久広司
唄:西方裕之
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 徳久広司が、松原のぶえに書いたのは汽車もの。西方裕之用のこちらは船もの。彼の量産ぶりの手の内が垣間見える。西方の歌はサビの高音、歌い放つあたりがハレの気配。一転して、はずみ加減のノリで歌を納めた。よくあるタイプの内容だが、苦心はそれなりに...。

みちのくランプの宿

みちのくランプの宿

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:佐々木新一
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 子育てが終わり、ふたりに戻った熟年夫婦の温泉行。仁井谷俊也の詞、宮下健治の曲、南郷達也の編曲ともにのどかで、ひなびた雰囲気を作る。歌う佐々木新一も、もう十分に熟年歌手。体調崩した噂も聞いたが、高音よりは中、低音で歌って、人肌の味だ。

津軽さくら物語

津軽さくら物語

作詞:齋藤千恵子
作曲:板橋かずゆき
唄:川中美幸
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 先に逝ってしまった人に、降りて来い、もう一度逢いたいと訴える。舞台が弘前あたり、季節は桜の春。おやっ?と思う転身のフォーク調抒情歌で、川中美幸、心機一転が曲調にあらわだ。東北で活躍するシンガーソングライターの作品に、惚れ込んでの仕事らしい。

女の花舞台

女の花舞台

作詞:さくらちさと
作曲:四方章人
唄:石原詢子
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 花舞台はどうやら、女の青春旅立ちの日。四方章人の曲が歌い出しを高音から出て雰囲気を作る。演歌にも挑戦したいさくらちさとの詞は、重ね言葉、掛け言葉で色を出す。松井由利夫以降、あまりやり手のない技術だが、さて奥行きを作れたかどうか。

人生花暦

人生花暦

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:鳥羽一郎
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 原文彦の詞が、相当に力んでいる。生きざまソングが狙いのせいだ。一方、曲の叶弦大は聞かせ歌よりは歌わせ歌を狙うタイプ。原の詞をよく使う叶だが、持ち味の硬軟がすれ違った。歌う鳥羽一郎は男唄が身上と来て、この組合わせ、吉と出るのかどうか。

終の恋歌

終の恋歌

作詞:伊藤美和
作曲:桧原さとし
唄:山口ひろみ
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 若い身空でこの縁を〝終の恋〟と思い定めた女唄。伊藤美和の詞1コーラス10行を、桧原さとしがそれなりの曲に乗せた。自然に語りの部分が多めになって、歌う山口ひろみの試練になる。この人らしい味は「乱れ舞う」と「あなた」の高音、悲痛さで生きたが...。

オホーツク海岸

オホーツク海岸

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 冬の旅で、恋を過去のものにしたい女唄。弦哲也の曲はきっと、流氷の海の厳しさを見せ、歌手川野夏美の世界を大きくしたいのだろう。それなりの構成の曲に、川野の歌が寄り添い期待に応えようとする。しかし、仁井谷俊也の詞は劇的要素に乏しく、平板に過ぎたか。

MC音楽センター
 改めて船村徹を聴く。
 「やっぱりいいね。こういうふうにまとめるとなお、実にいい」
 元NHKの益弘泰男さんがしみじみとした声になった。3月1日午後の中野サンプラザホールの楽屋。モニターには今しがた飛び込んで来た鳥羽一郎の、音合わせが写っている。NHKが3月26日に放送する「昭和の歌人たち・作曲家船村徹」の公開録画。月は変わったが、2月16日に船村が亡くなってからまだ13日めだから、関係者には追悼の空気が漂う。
 さて本番。「別れの一本杉」「王将」「柿の木坂の家」「雨の夜あなたは帰る」「兄弟船」「あの娘が泣いてる波止場」「三味線マドロス」「ご機嫌さんよ達者かね」「男の友情」「東京だョおっ母さん」「おんなの宿」「ダイナマイトが百五十屯」「哀愁波止場」「ひばりの佐渡情話」「みだれ髪」「さだめ川」「紅とんぼ」「矢切の渡し」「なみだ船」「風雪ながれ旅」「女の港」「のぞみ(希望)」「宗谷岬」と登場順に23曲。2時間番組だからたっぷりめだ。
 歌うのは天童よしみ、大月みやこ、氷川きよし、島津亜矢、大石まどかに、鳥羽を筆頭にした静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の船村の内弟子5人会。船村とゆかりのある歌手揃いで、それが交互に彼の名作と取り組むかっこうだ。
 「へえ、あんたも辻堂の船村家にいたことがあるんだ...」
 と大石に言ったら、デビュー曲も船村メロディーだったと答えが返る。いずれにしろ企画が企画だから、歌手たちは気合いの入り方があらわ。「決める!」心意気が表面に出て、歌手それぞれのファンの反応も熱い。
 僕の出番は番組の中盤以降。司会の石澤典夫アナ・由紀さおりと、船村にまつわるエピソードを話す。例によって「年寄りの知ったかぶり」だが、スポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初取材したのが昭和38年秋。以来ひとかたならぬ知遇を受けて、僕の船村歴は54年になる。話すネタは山ほどあるが、僕が彼から学んだのは「物書く人の潔さ」で、こちらも教わるより盗めの日々。後年〝弟子〟を自称、やがて船村も笑って認めた。弟子としては北島三郎の後輩、鳥羽らの先輩に当たるから、内弟子5人会は呼び捨てのつきあいだ。
 《彼が抱えていたのは、戦死した男2人への無念の歯がみだな。》
 歌手たちのノド較べを聞きながら、僕はそんなことを考える。一人めは心友の作詞家高野公男。一緒に作った「別れの一本杉」がブレークした直後、高野は26才で夭折した。船村はその時24才、交友はわずか7年だった。歌謡界を征覇する野心の突然の中断、高野の死はまさに志なかばの戦死だった。もう一人は船村の実兄福田健一氏。終戦の前年、フィリピン、ミンダナオ沖で輸送船「長城丸」が撃沈され、23才で戦死している。年の離れた兄が吹くハーモニカが、船村の音楽への物心を誘ったと聞く。高野の命日9月8日は茨城・笠間の墓参を欠かさず、奇しくも同じ命日になった2月16日は、健一氏を靖国神社に訪れるのが船村の年中行事になっていた。
 《きわめて個性的な船村の哀愁メロディーの起点は、若くして死んだ2人への追悼と、無残に失われた彼らの青春を、引き継ぐ思いの深さだろう》
 僕はそういうふうに合点もした。美空ひばり、ちあきなおみに代表される女唄にその色が濃く、北島三郎、鳥羽一郎の男唄にも、勇壮の陰にひと刷毛、哀愁の色がにじむではないか!
 こだわらなければ流される。こだわり過ぎれば世間を狭くするのが、僕ら凡人の常だが、船村はこだわり抜いてその壁を突破、独自の世界を展開、発展させている。終生変わらなかった栃木訛りも、彼の出自の証明であり、高野が口にした、
 「俺は茨城弁で詞を書く。君は栃木弁で曲をつけろ」
 を遺言めいて守り続けている証しかも知れない。
 話はテレビ収録に戻るが、船村同門会の会長・鳥羽は、この日終始沈痛な面持ちだった。「別れの一本杉」や「のぞみ(希望)」を歌ったが、歌唱は粛然と作品本位に抑えめ。2月23日の葬儀で
 「おやじの魂は俺の体に入りました!」
 と弔辞を読んだ心境が、そのまま維持されている気配で、唯一、いつもの野放図さが垣間見えたのは、「兄弟船」の歌唱だけだった。弟分の4人はそれぞれ、歌い慣れた師匠の作品に寄り添って訴えるように歌った。
週刊ミュージック・リポート
 〽子でも孫でもない他人(ひと)の子を、火の粉背おって育ててくれた...
 2月23日午後、音羽・護国寺に男たちの歌声が湧いた。急死した作曲家船村徹の出棺で、歌いながら担っていたのは鳥羽一郎を筆頭にした弟子たちと、船村のコンサートを長くサポートして来た仲間たちバンドの面々。彼らが声を揃えたのは「師匠(おやじ)」という作品で、船村の同門会の集いなどでは、最後に合唱されるのが常だった。
 「やるぞ!」と声をかけたのは鳥羽。彼ら弟子たちと船村の心の絆がそっくりそのまま、星野哲郎の詞になり、船村が曲をつけて、鳥羽がレコーディングした旧作だ。それが突然の別れの場面には、ぴったりはまり過ぎたから、男たちの歌声はどうしても涙まじりになる。
 〽ちょっぴりのぞいた赤坂あたり、栃木訛りの風が吹く...
 船村の風貌をしのばせる三番の歌詞では心がよろけがちになるが、彼らは、蛮声で何とかもちこたえた。
 鳥羽の横には、歌手を卒業した美唄五郎、香田晋が居り、現役の後輩静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が連なる。みんな内弟子として船村と起居をともにし、歌よりも男の生き方そのものを学んだ青年たちだ。実の父親よりも血が濃い〝おやじ〟への思いは、それぞれに深い。棺が霊柩車に納められると、別れの曲は船村の代表作のひとつ「別れの一本杉」である。見送る人々も涙々...だ。
 船村は2月16日午後零時35分、藤沢市民病院で亡くなった。前夜に好物のカレーうどんを食べるくらい元気だったのが急変、救急車で運ばれての最期。風邪気味で熱もあったから、肺炎を起こしてのことかと思われた。昨年5月に心臓を手術した時も、かなり危機的な状態だった。
 「三途の川を渡ったが、あちらの人たちに来るな! と追い返されてな」
 9月に茨城・水戸で開いた「高野公男没後60年祭演奏会」の楽屋で、船村は〝その時〟をそう語っている。
 高野は茨城、船村は栃木と隣り同士の出身で、ともに新しい歌づくりを模索した心友。「別れの一本杉」が二人の出世作だが、この歌がブレークした直後に、高野は26才で夭折、船村はその時24才、交友はわずか7年に過ぎなかった。しかし、船村の追悼の情は信じ難いほど長く、没後60年の演奏会は「這ってでも行く」と決行したくらい、実は体調が厳しかった。
 11月には一転して文化勲章受章のおめでた。今年1月18日には、その祝賀会の主になった。僕らは「曇のち晴れ」と冗談めかしたが、本人は皮肉な口調で「地獄から天国か」と苦笑いしたものだ。いずれにしろ84才の高齢で、体調回復ははかばかしくなかったのが実情。それにしても...の驚きが、多くの人々の訃報の受け止め方だった。
 亡くなった晩、遺体につきっきりだったのは一番弟子の北島三郎。彼は通夜の22日も、何度も棺の師匠に話しかけていた。秋田の仕事へ前乗りの予定を変更してのこと。その去り難い姿に通夜の人々は声をのむばかりだ。彼らの〝おやじ〟は、昭和と平成の二つの時代に、庶民の哀歓を綴る数多いヒット曲を生んだ大作曲家。22日の通夜と翌23日の告別式は、その大きな業績と人柄に、2000人を越える人々がぬかずいている。
 神奈川・辻堂で続いた仮通夜の20日のこと。弔問客も帰ったうちうちの顔ぶれで、船村の娘渚子さんに励まされて、内弟子たちが〝おやじ〟の枕辺で歌った。長男で喪主の作曲家蔦将包のギター伴奏で、香田晋が「新宿情話」天草二郎が「おんなの宿」走裕介が「夜行列車」村木弾が「東京は船着場」静太郎が「流れ者だよ」の順。時が時、場所が場所のうえに、船村への思いばかりが先に立って、歌声はうわずりがちになる。1曲おわるごとに棺に手を合わせて「すいません」「ごめんなさい」の声が続くのを、にこやかに見守ったのは船村の夫人佳子さんや長女の三日月子さん、蔦の嫁の小百合さんら。鳥羽はうなだれた形で黙々と、弟分たちの歌に聞き入っていた。彼には同門会会長として、告別式で弔辞を捧げる役目が、まだ残っていた。巨匠であるおやじへ、弟子たちだけの時間、惜別の情が濃い長い夜になったものだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ182回

 モンゴルと日本の友好関係は、よく判っているつもりだ。民間レベルでも大相撲で活躍する力士は多いし、『北国の春』をはじめ、こちらの流行歌があちらで愛されてもいる。

 そこへ、八代亜紀の『JAMAAS 真実はふたつ』である。何でまた今時、何やら深遠なテーマの歌を...と、いぶかしい気分でCDを聞く。あちらの楽曲に伊藤薫が詞をつけて、アレンジは若草恵――。

 ♪思えば倖せも 命さえ借りた物ね いつか訪ねて来られたら 感謝して返しましょう...

 おおらかな、いいメロディーだ。モンゴルの大草原からは、こういう曲が生まれるのだろうか。それに乗って主人公の「わたし」が、誕生と死を、エピソードで語る。その間にはさまっているのは、これまたおおらかな生死観と宇宙観だが、八代のしっとり人肌の歌声が、聞く側の心をなごませてドラマチックな55秒。

 このところジャズを歌ったりして、売れ線ソングづくりを離れて見える歌手だ。もうベテランの域に入って、マイペースの音楽活動。そんな中ではこういう歌もまたいいか、彼女らしいと言えば言えるし...と、僕はようやく合点する。それにしても今、なぜモンゴルなのか?

 添付された資料の大束亮氏(駐日モンゴル国大使館 モンゴル語通訳)の一文が、その謎を解いてくれた。2012年、二度めの駐日大使になったフレルバータル氏夫妻と八代は、20年来の知己。夫妻は八代の歌のファンだと言う。それに加えて八代とこの楽曲の出会いには、後に二人の文化人がはさまる。モンゴルの民主化運動の指導者で、この歌の作詞者のドグミド・ソソルバラム氏と日本の画家・新月紫紺大氏。二人とも大使と親交があり、この楽曲をぜひ日本で!と盛り上がったらしいのだ。

 二つの国にまたがる人間関係が、長い年月をかけて八代とこの歌に辿りつく。そこにまた、僕の個人的な縁まで重なるからびっくりする。大使夫妻と八代の交際のきっかけになった曲が『舟唄』で、今回のCD制作を実現したのは音楽プロデューサーの新田和長氏。『舟唄』は海の男の孤独を歌い、大草原で生きるモンゴルの人々の思いと、相通じるものがあるという。はばかりながらこの曲は、38年前の昭和54年に僕がプロデュースした作品。新田氏とはそれよりもっと前から親交があった。東芝時代からのヒットメーカーで、後にレコード会社・ファンハウスを興したやり手だ。

 そう言えば『舟唄』を大晦日の「年忘れにっぽんの歌」で、久しぶりに八代の生唄で聞いた。元日には、ここ何年か会っていない新田氏に「ごぶさたしてるけど、元気ですか?」の便りを書いた。双方とも全くたまたま...の行きがかりだが、八代の新曲で一ぺんに生々しく景色が変わった。「それでさァ...」と語りかけてくる八代の口調や新田氏の笑顔が、眼に見える心地がするではないか!

 『JAMAAS』の後半には、浪曲調のアンコが入っていて「諸行無常」や「輪廻転生」の言葉が並ぶ。モンゴルの曲に浪曲なァ...と取り合わせの妙にニヤリとするが、草原の民の生死観に日本的な諦観を重ねたということか。流行歌は誕生秘話が多いほど興味深い。この曲は二つの国を結ぶ縁の賜物だからなおさらだ。

月刊ソングブック

作曲家の意気と力技を買う

 新年、今月の10曲はいわば〝初荷〟だ。それに今年の流行歌の流れが見える。共通点はスケール大きめの歌謡曲。タイトルに「絶唱」の2字が2曲も並んでいる。
 目立つのは、作曲家勢の意気込み。弦哲也の3曲が三色なのをはじめ、水森英夫が天童と真っ向勝負、岡千秋が新境地を狙い、小田純平は唯我独尊、船村徹はさすがの筆致...。
 歌詞のスケール不足をメロディーで超える例もあり、作詞家勢の奮起が待たれる。作曲家を欲求不満にしちゃいけませんヨ。

夕月おけさ

夕月おけさ

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:天童よしみ
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 《相当に、気合が入っているな》 と思う。その上で、頑張り方が過剰にならず、その人〝らしさ〟攻撃的なら、かなりの訴求力と説得力が生まれる。天童よしみ45周年、作曲の水森英夫と久々の組合わせが決まり、妙な例えだが人馬一体の感がある。
 ガツンと浪曲調の歌い出し、歌詞2行分から歌唱の押し引きの妙がある。次の1行をブリッジにして、続く2行分は啖呵のニュアンス。最後に調子を変えて、佐渡おけさの雰囲気は「はあ~」だけに託した。力唱だが力みがない仕上がりに、天童の充実ぶりが見えた。

男のひとり言

男のひとり言

作詞:さわだすずこ
作曲:弦哲也
唄:山崎ていじ
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 1コーラス9行、2ハーフの詞を、弦哲也の曲が大ぶりの男心ソングに仕立てた。歌い出し4行分を2行ずつ、情感の階段を上がって、7行目が高っ調子のサビ。じっくりと淀みなく歌い切れなければ、歌のゴールに辿りつけない構成だ。
さわだすずこの詞は、長いけれど展開は少なめ。それをメロディーの手を変えて、山や谷を作ったのは弦の手腕。もともと長めの歌は「入り口」と「出口」の間に「手口」を二つ三つはさまないと姿が崩れる。お陰で山崎ていじの歌が粘着力を増し、歌い納めに達成感まで聞こえた。

凛と咲く

凛と咲く

作詞:伊藤美和
作曲:小田純平
唄:真木ことみ
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 しあわせ演歌を女性の側から訴える詞。それを小田純平は、タイトルと各コーラス歌い締めの「凛と咲く」に力点を置いた気配。その分だけ曲がポップスに似た展開で大きめになり、さびなどついに、真木ことみが演歌ばなれをした声の張り方で、面白みを作った。

北の絶唱

北の絶唱

作詞:いとう彩
作曲:岡千秋
唄:岩本公水
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 岡千秋も頑張っている。歌い出しの歌詞2行分を小さめに語らせ、次の2行で一度曲を納める。そこから先がガ然、悲痛な張り歌。岩本公水が元来持っていた力量で、激しい展開を乗り切る。ド演歌から新境地を模索する岡と、歌い甲斐を求める岩本の呼吸が合った。

肱川あらし

肱川あらし

作詞:喜多條忠
作曲:船村徹
唄:伍代夏子
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 伍代念願の船村徹作品。喜多條忠の詞が、歌い出し2行分は破調で、次の3行が定型の字脚。船村は恐らく〝そう来るか〟のニヤリで、彼独特の曲を書く。伍代の歌は一言ずつ、思いを込めた細やかさ。長くカラオケ族用平易ソングを歌って来た人が、一皮むけた。

月の帯

月の帯

作詞:松井由利夫
作曲:山口ひろし
唄:松前ひろ子
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 松井由利夫の詞は、女心を眉の月に見立てて情緒てんめん。それを山口ひろしの曲が例によって骨太で、松前ひろ子の歌が真正面から彼女流。はじらいさえも脱ぎ捨てて乱れる女のさまが、隠忍の情などどこへやら...の能動的な女に変わる。夫唱婦随の極か。

江ノ島絶唱

江ノ島絶唱

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 イントロから〽ワワワワー...のコーラスが入るムード歌謡仕立て。そんな伴奏の容れ物の中身が、三代沙也可の演歌唱法で、ミスマッチの妙が面白い。湘南シリーズの何作めか。詞が志賀大介、曲が伊藤雪彦とベテランの遊び心が見えるが、伊藤も歳の割によくやるよ!

おまえの涙

おまえの涙

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 しあわせ演歌を男の側から歌うから、鏡五郎は要所々々が巻き舌。それも優しさは声を寝かせて息まじり、決心するあたりは声を立てて男気を聞かせる。歌表現の彫りを深めたい技術、それを技術と思わせないこなれ方に、この人のキャリアと芸がある。

母ちゃんの浜唄

母ちゃんの浜唄

作詞:さわだすずこ
作曲:弦哲也
唄:福田こうへい
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 夢の中でも今も、主人公は母親の歌を聞く。子どものころ母は魚の行商もどき、成人した主人公は魚河岸の仲卸人。言わば「ヨイトマケの唄」の漁港版で、さわだすずこの詞と弦哲也の曲が、工夫を凝らした。ところが福田こうへいは、ノー天気なくらいに声と節で歌った。

佐渡の夕笛

佐渡の夕笛

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:丘みどり
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 丘みどりの歌声は、妙にはればれと響いて哀しい。そんな声味を生かす狙いか、弦哲也の曲は歌い出しからいきなり高音だ。佐渡の夕暮れが舞台、女心の未練唄の詞は仁井谷俊也。悲しげに切なげにあれこれ書いたが、丘の声が抒情歌みたいにすっきりさせた。

MC音楽センター
 バスが第一京浜を走る。僕はちょいとした冒険気分だ。ン? 金杉橋か、この左奥には昔、スポーツニッポン新聞社があった。僕が19才から53才までの、いわば青春を捧げたところだ。高速へ上がるはずだが、何? 入り口は芝公園ではないのか! バスは僕の予想を裏切って、平和島を左折、大森料金所から入った。ウン、この先はわかる。ゴルフ場への行き来で、よく眼にする風景だ。やがて川崎、そして横浜―。
 JR新橋駅前を、午前零時40分に出発したバスは深夜急行。品川駅前で何人か拾ったが、乗客は若い男女がまばら。残業で疲れたサラリーマンふうや、ネオン街で働く女性ふうなどで、粛然と話し声もない。眠りはじめたのか、物思いにふけっているのか、いずれにしろ全員が長旅の構えだ。日付はもう2月7日に変わっていて、僕は仕方なしに次の芝居のセリフを呟きはじめる。大衆演劇のプリンス、門戸竜二奮闘公演の痛快時代劇「一心太助」(脚本・演出小島和馬)だが、12日の千葉・神崎ふれあいプラザが初日で、14日が日本橋劇場。もう残された時間はわずかだ。
 その夜は、成田の居酒屋で飲み過ぎた。あの、新勝寺があり、国際空港を控えた成田だ。そこから車で20分ほどに、門戸のけいこ場があり、僕は連日、葉山から通っていた。JR逗子で乗る横須賀線と総武快速が相互乗り入れしていて、ドア・トゥ・ドアが約3時間。そりゃ大変だ! と人は言うが、車中も僕のけいこ場。セリフはそこで頭に入れるから、さして苦にはならない。ところがヤバイ! とその夜は飛び乗った帰りの列車が、人身事故のあおりで止まったり、のろのろ運転になったり。東京駅へ着いたのが午前零時過ぎで、横須賀線も東海道線ももう終わっていた。タクシーで帰ると3万円かかるぞ! そうだ、新橋からの深夜バスがあると誰かに聞いたことがある!
 そのバスは大船で高速を降りた。そこから終点の逗子まで、止まる停留所が8つもある。アナウンスがやけに明るめに次の場所を告げるが、聞き覚えがあるのは途中の鎌倉駅だけ。寝静まった町並みが一つ消えてはまた一つ...という具合いで、灯りがともっているのはコンビニと丼飯チェーン店くらい。たまに看板の灯を消し忘れた居酒屋や、さびれた洋装店のショーウインドーがあるほかは、闇に眼を凝らしても、地名を示す看板は見当たらない。酔いはもう総武快速あたりで醒めた。バスに乗った当初の冒険気分も、いつの間にかしぼんだ。
 話は芝居に戻るが、座長の門戸が一心太助をやるなら、僕の役は当然みたいに大久保彦左衛門である。門戸一座には去年2月に「めし炊き物語・泥棒と若殿」に出して貰って、めし炊きおやじと若殿の藩の重役の2役をやった。今回も同じ演出家の小島が、悪乗り気味に山ほどのセリフを書いていて、太助と彦左の漫才みたいなやりとりまである。列車内を書斎がわりにせっせとセリフを繰り返したが、場所が場所だけに声は出せない。それでもそこそこ覚えたつもりでけいこ場で大声を出すと、とたんに頭の中がまっ白になる。記憶装置と発声部位が分断状態なのか?
 そこへ行くと門戸座長は、さすがに世慣れている。1月は前川清の中日劇場公演に出ていて、台本と首っぴきの時間などなかったはずなのに、もう立て板に水である。
 「大衆演劇の先輩たちの凄いところですよね」
 と、何くれとなく面倒を見てくれる若手の田代大悟が囁くが、これは僕を慰めているのか、お尻を叩いているのか...。ご一緒する役者衆は、ベテランの西田良をはじめ芸達者の中條響子、根本亜季絵、中川歩、貴田拳、朝日奈ゆう子、子役3人で、名にしおう劇団若獅子が制作協力というかっこう。ここの座長笠原章は、川中美幸公演でお世話になったほか、彼が作演出した「歌麿」(一昨年、キンケロ劇場)で蔦屋重三郎という滅法いい役を貰ったことがある。今回の公演も見届けに来るという噂がもっぱらだ。
週刊ミュージック・リポート
 1月31日の夜、奇妙な酒盛りをやった。シャレの呼びかけに集まったのは、小西会のメンバーを軸に28名ほど。場所は銀座5丁目の「いしかわ五右衛門」で、ここ10数年、僕が通いつめた店だ。集合を午後8時30分にしたのは、なじみの客がひとわたり、名残を惜しんだあとのいわば第2部。僕らだけで店を占拠、ゆっくりやろうという算段で、実はこの店、この夜で店じまいだった。
 食材の仕込みがしっかりしていて、腕のいい大将と若い衆が板場を仕切り、気のいいお女将が明るめの言動、居心地がいいのは(これが肝心だが)音楽が一切ないこと。うまい肴に気に入りの焼酎、連れとゆっくり話をするには、下手くそなカラオケなどもってのほかだ。幸い客だねが良いから、お追従のバカ笑いも聞かれない。自然に、居酒屋というよりは、小料理屋の趣きと風情があった。
 僕はもともと、ハシゴ派ではない。気に入った店があると脇目もふらずにせっせと通うタイプで、慣れて来れば自分の家みたいに振る舞う。それにはそれなりに、客としても気を遣うのだが、居心地をよくするためなら、さして苦にならない。「そうか、そうか」と合点して、よく一緒だったのは作詞家吉岡治夫妻。「のどぐろが絶品。他店では喰わなくなった」と唸ったのは、大阪から上京するたびの作詞家もず唱平。仲町会も宴を張ったから、弦哲也、四方章人、喜多條忠、若草恵、前田俊明、南郷達也ら作曲、作詞、編曲家勢と飲んだ。個人別では岡千秋、里村龍一、役者の松平健と真砂京之介、フラメンコの長嶺ヤス子...。そういや生前、三木たかしも来たか。
 憎っくきは東京オリンピックである。小池百合子都知事と組織委員会の森喜朗会長が睨み合い、丸川珠代担当大臣にIOCまでがからんですったもんだ。それを横目にゼネコンとその一派が、ウハウハ顔で大工事に熱中している。それが都内であっちもこっちも。五右衛門が閉店するのもそのあおりで、銀行の子会社がビルを買い取って早々の追い立て。周辺の土地と糾合して、そこそこのビルを建てる気らしい。店のすぐ前の旧松坂屋あたりは、巨大なビルに変身した。それもこれも五輪のせい...と、女将と僕らはお化け建築物を見上げて溜息をつく。
 僕はここ2~30年の間に、居心地のいい店を転々とした。いずれも赤坂だが、「井上」がなくなり、そこの板前が出した「英屋(はなや)」も撤退、キンキの煮つけが名物だった「あずさ」も店を閉めた。それぞれそれなりの理由があってのことだが、背景にあるのは安価で駄物の居酒屋の繁盛。若者たちは肴の味やコクだの、板前の腕や酒の品揃えだの、店の風情だのには無頓着。騒々しさも賑いのうちで、年配の先輩が心利いた店へ連れて来ても、おごり手が定年になればそれっきり。世代的に客の後が続かない。
 あのころは、阿久悠が隣りの席に居たなあとか、あの店では内田裕也とよく飲んだなあ...とか、そもそも、紹介してくれたプロデューサーの山田廣作は元気かなあとか、酔うと昔を思い返す。酒を会話の潤滑油にして、僕の夜はおおむね仕事の話や相手の相談事などを聞き、いずれにしろどこかで、歌社会のあれこれにつながる。飲んでまで仕事の話はしないと眉をひそめる向きもあるが、僕はその類ではない。心許して本音のやりとり、お互いの生き方考え方にも触れて「仕事」の二字で連想するほど、野暮でも功利的でもないのがミソだ。
 通い続けた店には、それぞれの時期の交友の痕跡があり、ある意味では時代の匂いさえ残る。それもこれも今やセピア色になりつつあるが、それをつなぎ合わせると僕の来し方の光景が、かなり色濃く鮮明で実感的だ。年寄りの世迷い言じみるが、僕はいつも、いい友だちに囲まれ、すごく才能のある人々と旬の時期の出会いに恵まれていた。手にした金はほとんど飲んでしまったが、今ではその体験が得がたい財産として僕の胸中に残っている。
 五右衛門に似た立ち退き話は、銀座のあちこちで聞いた。この盛り場にはやがて、横町や小路が無くなってしまうのか! 五右衛門の大将と女将は3月ごろ月島に小店を出すと言う。僕は春過ぎから、彼らのもんじゃを喰いに、通うことになるのだろうか?
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ181回

 母親が男を追って家を出た。捨てて行かれた娘から見れば、相手は父とも呼べぬどうしようもない奴だった。氷雨降る日に彼女は、そんな母を思い出す。別れた町角、娘は出奔する母をそこまで追ったのだろうか?

 長保有紀が、キャラと声味に似合いのいい作品をもらった。『人生(ブルース)』だが、その歌い出しのお話。作詞はもず唱平、作曲は弦哲也、編曲は前田俊明。

 ≪ほほう...≫

 と、僕は聞き耳を立てる。長い親交のあるもずが、久しぶりに彼らしい詞を書いたことに、胸が揺れた。

 母との思い出が二番に来る。運動会で親子の二人三脚、何度も転び皆が笑った。指さされたのは母のペディキュア、その一言に母子の暮らし向きがちらりとする。二人はビリでゴールするが、そんなことはどうでもいい。娘は母と走れたことが、ただ嬉しかった――。

 もず唱平のデビュー作は釜ヶ崎人情』で関西の日雇い労働者が主人公。歌の背景には、昭和の高度経済成長期に、おちこぼれた男たちが生きる貧民街が置かれていた。出世作は『花街の母』で、子持ちの芸者が主人公。人に聞かれれば娘を、年の離れた妹と偽る毎日。それだからこそ、たとえひと間でもいい、母と娘の暮らしが欲しい...と言う親心が沁みた。

 『釜ヶ崎人情』は、話題作どまりに終わる。『花街の母』は、子持ちの芸者の歌など、誰が喜んで聞くか!歌うか!と、総スカンだったが、歌った金田たつえが地を這うような宣伝活動を3年、人気曲に育てた。昨今、演歌歌手が懸命なキャンペーンという名のCD行商を、最初にやったのが金田かも知れない。

 その後もず唱平は大阪を拠点に、成世昌平の『はぐれコキリコ』を始めたくさんのヒット曲を書き、関西出身の歌手たちの相談相手としても重きを成す。それなのに『人生(ブルース)』の詞が、何で久しぶりに、彼ならではと思えるかと言えば

 ♪他人の飯には棘がある 鬼さんこちら さァこちら...

 と、3番に出てくるヘンな文句の子守唄。それを聞いて育った娘は、物心ついてから思い出しては泣いた。母の来し方行く末にまつわる一節、娘は母の胸中を推し量る年ごろを迎えているのだ。

 「辛気くさい歌ばかり書くねぇ」

 と昔、冷やかし気味に言った僕に、

 「未組織労働者の歌ですわ」

 と、もずがニコリともせずに答えたものだ。低辺の人々の苦哀を描きながら、彼の詞の眼差しは温かく優しく、独特のシンパシーを伝える。多くの作詞者が演歌の3番に書く「明日を夢見る」式の安易さは採らない。

 どうやら似たように不幸せな気配の娘は、だから、

 ♪きっとどこかの酒場の隅で 今夜もあのひと 歌ってるだろ...

 とこの歌を締めくくる。嘆きも恨みもせずに、彼女はその子守唄をキイワードに、母をしのぶのだ。

 相手が男のお話だったが、娘心を鮮烈に描いた阿久悠の『ざんげの値打ちもない』を1970年版とすれば、もずの『人生(ブルース)』は、時代と世相が変わって、その2017年版。作曲した弦哲也が「強い刺激を受けた」と言うはずである。

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 お祝いの会と言っても、今回はものが文化勲章で、受章者が師匠の船村徹である。打ち合わせは最初から緊張したし思い惑いもした。相棒は例によってミュージック・リポートの隣りのページでコラム連載中の境弘邦。いつのころからか「表の小西、裏の境」などと戯れ言を言いながら、長く歌社会の冠婚葬祭の手伝いをして来た。
 「それにしても境ちゃん、どういう内容にするかねえ」
 「そうだよな、粛々と行かなきゃならんだろうな」
 80男が2人、つら突き合わせて唸った。
 1月18日夜、グランドプリンスホテル新高輪の飛天の本番。笛、小鼓、締太鼓の演奏で日舞「寿」で幕をあけ、引き続き野村太一郎の「狂言」が素踊り、音吐朗々で和の祝賀ムードを強調する。いつもの音楽業界のお祭りとはまるで違う演出が、500人の参加者を圧した。別の席に陣取る境が、ニンマリとしているなと思いながら、僕は時計と睨みっこになる。引き続き船村の生い立ちやひととなり、業績などを映像展開、ナレーションでつづって10数分。発起人紹介、4人の祝辞、本人謝辞、乾杯...でセレモニー部分が終わる。ここまでがほぼ45分で、あとは和気あいあい。
 境が構成、演出を含めて、NHKエンタープライズのチームを督促した長い積み重ねの成果である。僕はといえば、日時場所、発起人選び、参加者名簿のチェック、当日の席決めなどを手伝っただけで、あとは境に丸投げ。時おり
 「至急、電話をちょうだい」
 という彼の留守電を、帰宅した深夜に聞いて対応する。ケイタイも持ってねえんだもの、急ぎの連絡に困るよ...と、彼の小言を何度聞いたことか。
 当の船村は今回ばかりは俎の鯉。ここで「男の友情」を歌って下さい。斎藤功のギターと鳥羽一郎が手伝います。菅官房長官が来てくれるから、祝辞を受けて下さいなどと、ステージへの上り下りを注文しても「ふむ、ふむ」と素直だ。喜びは素振りに見せないが、大衆音楽界初の受章だから、応分の感慨は抱えているはず。体調いまひとつなことを佳子夫人が気づかい、二女の渚子さんが、父の動きをサポートする。長男の蔦将包は編曲と仲間たちバンドの指揮で大忙し。彼の夫人さゆりさんが控え室内外で甲斐々々しく、長女の三月子さん(作詞家真名杏樹)も笑顔で、船村一家総出だ。
 忙しかったのは鳥羽一郎で、船村同門会の会長として、乾杯の音頭、船村の歌の介添えから関係者への気くばり、おしまいの三本締めや客の送り出しまで、出たり入ったりひっきりなし。それを見習う形なのが静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾で、鳥羽を頭にする内弟子5人会のメンバーだが、師匠の慶事にみんなわがことのように浮き浮きしている。僕の出番は、「みだれ髪」レコーディング風景の映像のあとに、現場に立ち会った報告のひとくさり。作詞星野哲郎、作曲船村徹、歌美空ひばりと、第一人者3人が、プライドを賭け、情熱を傾けたのだから、傑作が生まれない訳はなかった。
 ちょこっと〝表の小西〟を終えたあとは、同席した細川たかし持ち込みの「響・30年もの」のハイボールで勝手な祝杯をあげる。ジョーク山盛りで賑やかな細川が「炭酸が体にいいんだ」と小声で言うあたりに、彼の年月を振り返ったりする。さてお開き、いつもはさっさと中座する船村が、この夜ばかりは来客の見送りも最後まで。あとは恒例の二次会を身内だけで...と本館のバーへ移るが、相当な人数にかこまれて終始にこやか。宴席では食事どころではなかったせいか、よく食べるのを見守って、内弟子たちと僕は「あんなに次々と...」「元気ですねえ」と囁き合ったものだ。
 翌19日夕は、日本音楽事業者協会の新春パーティーが芝のホテルで。前夜祝辞を頼んだ作曲家協会の叶弦大会長をはじめ、大勢の知人から、
 「心に残るいい会でしたね」
 と声をかけられた。ほっと一息の安堵を分かち合おうと相棒の境を探したが見当たらない。もしかすると前夜の後始末か、次なる行事に「裏の境」として取り組んでいるのか。いい加減な僕とは違って、彼はトコトン根を詰めるタチだしねえ...。
週刊ミュージック・リポート

俊ちゃん、元気で戻って来いよ!

 アレンジャーの前田俊明が、少し長めの休暇中である。その分だけひところ、演歌歌謡界は編曲者おさえに追われた。売れっ子の穴は、それくらい大きかったと言うことか。その留守中にもちゃんと、前田の編曲作は出て来て、今月でいえば『男道』『秋燕』『船折瀬戸』などがそれ。仕事に根を詰めたのも手伝ったのか、思いもかけぬ病を得て、今はリハビリ中である。僕らの仲町会のメンバーで、みんなが心配したが、もう全快も間近とか。好漢の一日も早い復帰を持っている。

津軽の春

津軽の春

作詞:里村龍一
作曲:水森英夫
唄:瀬口侑希
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 相当に驚く。あの瀬口侑希が大変身、何と民謡調歌手になった。企画する方も歌う方も、それなりの覚悟があってのことだろう。一度この道へ入ったら、そうたやすくは元には戻れまい。
前奏の津軽三味線に励まされるように、瀬口の歌はこぶしコロコロ、それらしい発声と節回しが、なかなか堂に入っている。作曲した水森英夫のレッスンの成果か。この種の作品は張り歌になるものだが、そこをソフトに温かく仕上げて、彼女の持ち味も生きた。こうなればきっと、化粧も衣装も変えるのだろうな。

津軽のブルース

津軽のブルース

作詞:志賀大介
作曲:新倉武
唄:山本謙司
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 こちらも津軽もの。民謡調ならお手のものの山本が、案に相違の歌謡曲、それもブルースと来た。もっとも、瀬口の大変身とは違い、こちらは趣向を変えての企画。あれもこれもOK...の幅を聞かせる一作だ。
 志賀大介の詞からして、訛っている。「こごさ流れて」だの「春は花っこ」だの。そうしなくてもいいくらい、山本の言葉も歌唱も訛っている。ものがブルースになっても、津軽民謡で一家を成す彼の、持ち味ばかりは変わらないし、変える気もない。歌手にはそれぞれ・歌の在所・があるものだ。

男道

男道

作詞:浅沼肇
作曲:山田倫久
唄:福田こうへい
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 「度胸千両」や「命坂」「男一生」...と、一番の歌詞だけでもこんな言葉が続く男唄。昔なら村田英雄にドンピシャリの詞と曲を、福田がのうのう、スタスタと歌う。余分な感情移入がないのは、この人が声と節で聞かせる歌手のせいだ。「あ行」の発声にハレがあって、上手なガイドボーカルみたい。カラオケ族にはいいお手本になるだろう。

秋燕(あきつばめ)

秋燕(あきつばめ)

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:青木美保
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 こちらは声をしならせて、ことば一つ一つに情感をこめる。このやり方が青木の"歌の在所"なのだろう。麻こよみは「秋燕」という言葉を見つけて、タイトルから目立ちやすく決めた。曲の岡千秋の曲は6行詞のまん中「もう旅立ちですか...」の「...」の部分で、音と声を止めて、一瞬の"間"を作る。それをどう生かすかが肝要になりそう。

豆桜

豆桜

作詞:喜多條忠
作曲:岡千秋
唄:城之内早苗
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 「豆桜」のタイトルを見て「ン?」になる。明るめにおどけた歌なのか、どうなのか? 作詞喜多條忠の、客の気の引き方だろう。歌を聞けば、女心の可憐さの意とすぐに判る。可憐ねぇ...と、僕はニヤニヤする。あの城之内に用意したネタがこれ。彼女の年に似ぬ幼なげな歌唱を狙み合わせてのことだろうが、それが城之内の持ち味なのだ。

船折瀬戸

船折瀬戸

作詞:岸かいせい
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 一瞬、歌ってるのは誰?と思う人がいるかも知れない。水田竜子も民謡調になっているのだ。改造者は作曲の水森英夫。歌をのびのび生き生きさせるには、これが一番...と思ってのことか。そんな曲を貰って、水田はそれらしさを身につけた。声の張り方、はずみ方、節のころがし方、伸ばし方...。もともと器用な人だったしと合点がいく。

雪月夜

雪月夜

作詞:竜はじめ
作曲:花笠薫
唄:千葉一夫
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 やはり「柳は緑花は紅」と言うように、ごく自然がいいのか。長いこと聞いて来た千葉一夫の世界はあわてず騒がず、穏やかでマイペース。地味だが長生きの一例だろう。その歌にひと色、激した気配を作ったのが、作曲の花笠薫。5行詞のまん中の一行を、思いがけないせり上がり方でサビを作り、歌い納めを高音でもう一つ、アクセントにした。

夜明けのチャチャチャ

夜明けのチャチャチャ

作詞:下地亜記子
作曲:樋口義高
唄:真木柚布子
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 チャチャチャ...とは懐かしいリズム、おはやしの女声コーラス。そんな気分のよさを伴奏に任せて、真木柚布子の歌は前半、ゆったりめに女心を訴える。それが後半「いやよ、いやよ、いやよ...」とたたみ込む変化を見せるのだが、ここのノリで"歌の口調"まで変わるのが、この人の味の作り方。やっぱり役者だなぁと僕はまた確認した。

MC音楽センター

 今春の芝居の第二弾は芸能生活40周年記念の「川中美幸特別公演」(大阪新歌舞伎座)で演目は「めおと喧嘩ラプソディー」(川口松太郎作「大阪善人」より、潤色・演出 金子良次)大衆演劇の松井誠が特別出演、三林京子、曾我廼家寛太郎、江口直彌、竹内春樹、長谷川かずき、藤吉みか、大原ゆうらがご一緒する面々。

 僕の初舞台は平成187月、明治座の川中美幸公演「お喜久恋歌一番纏」で座長の芸能生活30年公演だった。それが今回は40周年だから、10年間、レギュラーに加えて貰って修行、はばかりながら僕の舞台役者活動は10年になる勘定。とは言えこの世界では老齢のぺいぺいに過ぎず、初めてご一緒する先輩も多いので、緊張の日々になる。第二部の「川中美幸オンステージ 人うた心」を構成演出する宮下康仁氏からは「ショーも手伝ってよ」の声がかかり、やたら流行歌に詳しいおでん屋のおやじかなんかになりそう。新歌舞伎座の日程は35日初日、24日千秋楽。長い大阪ぐらしになるが、なじみの居酒屋の女将が、心待ちにしてくれているそうな。

 川中美幸特別公演

川中美幸特別公演

久々のお知らせは新年前半の舞台活動について。まず第一弾が「門戸竜二奮闘公演」で痛快時代劇と銘打った「一心太助」(脚本・演出小島和馬)。大衆演劇のプリンスの門戸が一心太助なら、小西の役どころは、ま、年かっこうから言っても間違いなく大久保彦左衛門となる。ご一緒するのはベテランの西田良と劇団若獅子の中條響子、根本亜季絵、貴田拳、中川歩、それに門戸公演おなじみの田代大悟、朝比奈ゆう子ら。

 若獅子は往年の「新国劇」の世界を継承する時代劇のやり手集団。笠原章が代表で、僕は氏が作、演出、主演した「歌麿・夢まぼろし」で蔦屋重三郎という滅法いい役を貰ったことがある。

 門戸竜二は美女に扮しての歌謡舞踏でも人気を集めるが、歌もなかなかで222日、テイチクからメジャーデビューする。座長と役者の関係が歌手とプロデューサーに逆転、僕が制作を担当して作品は「デラシネ~根なし草」「浮雲かぞえ唄」(作詞:田久保真見、作曲:田尾将実、編曲:矢野立美)で、はばかりながら前評判は上々だが、詳報はいずれまた。「一心太助」上演は212日千葉の神崎ふれあいプラザ(11時、15時開演の2回)14日が東京の日本橋劇場(16時開演)

門戸竜二奮闘公演01

門戸竜二奮闘公演02

 歌巧者が歌うと時折り、歌が聴き手の僕の前を横に通り過ぎる。作品に描かれたドラマが、横断帯みたいな絵になって感じるのだ。歌い手の意識が無意識のうちに「みんな」に聴かせているタイプで、それはそれで歌表現の一つ。僕が好むのはそれとは対照的に、歌の心情が縦に、聴き手の方へ突き刺さって来るタイプだ。その場合歌い手の意識は聴き手の「ひとり」に的が絞られ「個対個」になっていて、そのひとりを突き抜けて「みんな」に伝わる普遍性を持てば上出来。歌自体の訴求力が鋭角に強くなる利点があるから、スタジオで僕はしばしば歌手に、伝える相手の的をしぼって歌うように助言する。
 天童よしみの歌は、ずっと前者だと思っていた。不特定多数に向けて放たれている感じだったのが今度ばかりは違った。新曲「夕月おけさ」を聞いての印象だが、歌声が縦の形で僕に迫って来た。しかし待てよ、彼女の唱法が、急に変わったとは思えない。だとすれば何故...と考えて、これが彼女の45周年記念曲であることに気づく。気合いが入っているのだ。節目の年に会心作を届けようとすれば、歌手の意気込みが歌の発火点になる。「自分発」の強い思い入れが結果、彼女の歌を縦スタイルに変えたのかも知れない。
 曲の良さも手伝っていそうだ。久しぶりに天童と組んだのが水森英夫。彼は作曲家としての初期に「酒きずな」「旅まくら」「酔ごころ」などを天童に書き、ヒット戦線に浮上している。歌手を断念して作曲に転じたころ、水森には赤坂でバーを経営していた雌伏の時期がある。そんなネオン街脱出のチャンスが天童との出会いだったとすれば、彼女の記念曲に、気合いが入らぬはずはない。その後氷川きよしや山内惠介らを育て、有力なヒットメーカーの一人に大成した彼の、自負や意欲がこの曲には十分にこめられていよう。ゆるみたるみのないメロディーが、いい意味の緊張感と訴求力を持つのはそのせいではないのか?
 もう一人、新曲に気合いが入っている歌手に伍代夏子がいる。「肱川あらし」は彼女念願の船村徹作品だ。伍代はカラオケ全盛時代を背景に名を成した歌手。テレビの売り物が歌謡番組だった時期に重なって、キモノ美女歌手群の一角を担って来た。自然、作品は覚え易く歌い易いタイプの歌がほとんどでヒット曲も多いが、そろそろ代表曲と胸を張れる作品が欲しくなった時期。そこで船村作品に出会えたのだから、気合いが入るはずで、キャリアなりの達成感も求めたろうことは、想像に難くない。
 船村の曲がまた、手練者の手際まざまざなのだ。喜多條忠の詞が歌い出2行分、破調の口語体なのをほど良く語らせておいて、続く3行分が定型詞の字脚になるあたりで、独特の船村節に変化する。喜多條が大先輩に挑戦した詞を、「そう来るかい!」とニヤリと受けて立った船村の横綱相撲に思える。
 こうなれば伍代の歌も、それまでとは変わる。言葉の一つ一つ、メロディーの一フレーズずつをしっかり歌って、表現の彫りを深めにした。歌い甲斐のある作品に恵まれた彼女の、喜びと意気込みが、じかに聴く側に伝わって仕上がりは縦型だ。彼女がこの歌をレコーディングしたのは、昨年夏の終わりごろ。船村は5月に心臓手術をしリハビリ中で、吹き込みには立ち会っていない。それが大御所から褒めてもらえそうな出来になったのだから、CDが世に出る日が待ち遠しかったろう。その後秋に、船村は文化勲章を受章した。もしかすると伍代の「肱川あらし」は、その受章第一作になるおまけまで手に入れることになりそうだ。
 冒頭に書いた歌の「縦横論」は、僕の感覚的仮説だが、だまされたと思って2曲を聴いてみるといい。歌にはっきりと「的」が生まれて縦型になっていることに気付くはずだ。藤山一郎、東海林太郎の昔々から、春日八郎・三橋美智也の昔まで、歌は大会場で「みなさん」向けに放たれて来た。それが「個対個」の表現になったのはフォークブーム以後。歌が町にあふれた昔から、個対個で向き合う今日に変わったことを「歌が点滴される時代になった」と表現したのは阿久悠だった。それを思い返しながら、いずれにしろ新年、流行歌はやっぱり「個に伝えて全体に及ぶもの」と僕は再確認している。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ180回

 ≪ほう、それを歌うかね...≫

 山川豊が挙げた曲目『希望(のぞみ)』に強い興味を持った。作曲家船村徹が刑務所慰問用に作詞、作曲、無性に沁みる歌唱で、女囚たちを泣かせる歌だ。大勢の弟子たちもあれは師匠の持ち歌...と、敬意を表してかあまり歌わない。それを山川が取り上げたのは、113日夕、よみうりホールでやったデビュー35周年記念コンサートでのこと。

 ♪ここから出たら 母に会いたい おんなじ部屋で眠ってみたい...

 歌い出しから女囚の本音が、平易率直の語り歌。それを低音を中心にズサリと歌ういつもの山川節を返上、彼は切々の思いを込めて歌ってみせた。だから≪ほほう!≫と感じ入って2コーラスめを待つ。

 ♪ここから出たら 旅に行きたい 坊やをつれて 汽車に乗りたい...

 時として吐息まじり、メロディーをはずし加減に語ると生きるタイプの曲だ。そうすれば一番の後半で母に「おもいきりすがってみたい」ことや、二番の後半で坊やを「おもいきり抱いてやりたい」ことが、痛切に聴き手の胸を打つ。聞きながら僕は、山川が根っからの演歌好きだと知った。時々こういう作品で、彫りの深い表現をしたい人なのだとも判った。

 『函館本線』でデビュー『ときめきワルツ』や『流氷子守唄』『アメリカ橋』『夜桜』など、いい作品に恵まれて、独自の世界を作った。『再愛』『螢子』と、ここのところの歌もなかなかにいい。後輩たちは高音部で勝負する歌手が多く、低音派が少ない。彼タイプの歌手がもっとふえれば、低音ブームの頭になれるのに...と、僕は客席で勝手に残念がったりする。

 兄・鳥羽一郎の『兄弟船』も歌ってみせた。アレンジを変え、テンポもスローにして、漁師唄の威勢のよさを、エレジー風味に仕立て直したのが面白い。

 「僕はもともと無器用だから...」

 と話すトークは訥訥としている。そのためにところどころ微妙な間(ま)が出来るのが、鳥羽との共通点。海の育ちの男たちは、もともと言葉少なで、体の方がスッと動く男気を持つのかも知れない。もっとも兄の方はその間(ま)を逆手に取り、彼流の話芸を作ってはいるのだが――。

 その鳥羽の歌と話芸をたっぷり聞いたのは1025日の九州・天草市民センター。鳥羽がここで「頑張れ熊本!チャリティ公演"魂の唄"」をやった。弟分の静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾と一緒に船村徹内弟子5人の会を作っての自主公演。「この際、俺たちに出来ることを」と5人で話し合い、師匠から「行って来い!」と背中を押されたという。

 鳥羽の『晩秋歌』や『海の祈り』がお手本で、弟分たちもそれぞれ船村から貰ったオリジナルでノドを競う。『矢切の渡し』『別れの一本杉』『おんなの宿』など、船村の傑作も並んだから、お客は大喜びした。驚いたのはチャリティ金額で、460万余円。彼らは手弁当でノー・ギャラ、収入から会場費、制作費を除いた全額を寄付したから客席もどよめいた、なるほど鳥羽・山川兄弟に共通する魅力は「男気」なのだと合点がいった。

月刊ソングブック
殻を打ち破れ179回

 「10周年です。親爺さん、よろしくお願いします」

 という、筆文字の走り書きつきで、松川未樹のアルバムが届いた。送り主はワークス・ディ・シィの大野佶延社長、北島三郎の実弟で松川の所属プロのボス、プロデューサーも兼ねる。

 ≪おやじさん...なぁ≫

 僕は彼の顔を思い浮かべながら、苦笑いをする。長く彼にそう呼ばれては来たが、漢字表現の"爺"にひっかかるのは、こちらの年のせいか――。

 松川の記念アルバムはCD二枚組。『未樹の歌の旅...―人の出逢い~歌とのめぐり逢い―』のタイトルがついている。一枚目には「感謝」、二枚目には「躍動」とある念の入れ方。『おんな浜唄』がデビュー曲で『燃えて恋歌』と『命うた』が1周年記念、『木の葉舟』と『おんなの祭り』が3周年記念、『帰望』と『冬晩歌』が5周年記念、『女の砂漠』と『冬かもめ』が8周年記念...と、収録曲にはクレジットがつく。ほかの曲も「全国縦断100ヶ所公演キャンペーン」や「全国夏祭り 秋祭り展開」「東日本大震災義援曲」などと明記されている。

 凝り性の大野の面目躍如で、歌手の節目の年を重視、歌づくりやプロモーションに一曲ずつ、はっきりコンセプトがあることが判る。彼はこういうふうに、手駒の歌手のキャリアを一段ずつ、階段を辿るように上がらせて来たのだろう。その評価は、デビュー時の日本有線大賞新人賞、5周年には二つ、日本作詩大賞優秀作品賞と日本作曲家協会音楽祭奨励賞の受賞歴に表われている。

 ≪しかしまぁ、よくこの10年を踏ん張って来たものだ...≫

 と、僕は今度は、大野の"どうだ顔"を思い浮かべる。作詞家や作曲家のアイデアに頼り、歌社会の流れに任せる歌手づくりや歌づくりではない。「こういう楽曲で、こういう位置どりをさせたい」という、強い意志と実行力があっての足跡、近ごろ珍重すべき粘り腰なのだ。

 松川も、温かく柔らかな歌声で、その期待に応えて来た。歌詞は売れっ子作詞家が動員されたが、作曲の多くは師匠の岡千秋。こちらも一作ずつ、歌手松川の未来図を思い描きながらの仕事だろう。

 24曲中8曲がカバー作品で、『みだれ髪』『夫婦春秋』『岸壁の母』『なみだの桟橋』『名月赤城山』など多彩。ボイストレーナーの新井利昌が、発声練習ばかり3年の後、やっと歌わせてくれたという『岸壁の母』に、松川の思いがこもる。『みだれ髪』は美空ひばりへのオマージュ、ここにも彼女に課した大野の意図がうかがえる。

 彼女の声を鍛えた新井が10周年記念曲の第一作『もらい泣き』を作曲して、アルバムのラストを飾っている。松川の歌声が、これまでの作品とは違う激し方で新鮮だ。カラオケ族対象めいた穏やかさから、脱皮をはかるのが松川の"これから"なのだろうか。

 「ヨシノブ、そろそろ峠を一つ越えさせる気か!」

 "おやじさん"呼ばわりに応じて、長く"佶延"を呼び捨でつき合う僕は、そう言って肩を叩きたくなる。一徹きわまりない彼に、大ヒットの勲章を獲得させてあげたいのだ。

月刊ソングブック
殻を打ち破れ178回

 一年先の話は鬼が笑うなんていい方は、もう昔のこと。何しろこのごろの日本は、四年も先の東京オリンピックに浮かれているんだもの...と思っていた。そんな矢先に、来年の話をしたのが伍代夏子で、観客が大笑いした。来年といっても1月に発売する新曲『肱川あらし』のことだから、実は4ヵ月先のことだ。

 93日、水戸の茨城県民文化センター大ホールが舞台。この日この場所で開かれていたのは、「高野公男没後60年祭演奏会」で、主宰したのは作曲家船村徹。彼の代表曲『別れの一本杉』がブレークした昭和31年の9月、相棒の作詞家高野公男は26才で夭折した。2才年下の船村は以後60年このかた、一途に高野の霊を供養し続けている。

 その師匠の熱い思いに胸打たれながら、演奏会に参加したのは北島三郎、鳥羽一郎、森サカエ、松原のぶえら船村一門の歌手たち。その中に伍代も居て、

 「私だけ、船村先生の作品を一つも頂いてなくて...」

 と、門外漢の弁で登場したから、客がまず笑った。その空気がすぐに変わったのが『肱川あらし』についてで、歌手生活31年めでやっと手にしたこの曲が、念願の船村作品だと打ちあけたから、場内はしんみりする。ではその歌を...と来るかと思ったら、来年1月発売の前宣伝だけだった。客が爆笑するはずだ。

 「まっ白な霧が嵐みたいに川添いに流れて、海に注ぐの。その夢みたいにドラマチックな四国・愛媛の光景を舞台にしたお話で...」

 伍代は委細かまわず歌の内容を話し続けた。僕は一足お先にその曲を聞いていたから、彼女の熱くなり方に「そうだろ、そうだろ!」になる。弟分の角谷哲朗ディレクターから、出来たてのCDが届いたのは819日、書家の金田石城が原作、脚本、監督、主演する映画「幻斎」にチョイ役で出演中のロケ先で、現場は埼玉・大宮の料亭。CDはまだラフミックス状態だった。

 ♪非の打ちどころのない人なんて、いませんよ こころに傷のない人なんて いませんよ...

 と、喜多條忠の詞が歌い出しから破調。決まり切った定型詞沢山の歌の中ではかなり刺激的で、三番では、

 ♪涙の川ならいくつも越えてきましたよ こころが石に変わったこともありました...

 なんて言っている。それをスタスタと語らせておいて、2行めのおしまいからしっかりと演歌に昴らせるのが作曲した船村の手腕。そのあとゆったりと歌をゆするのが彼独特のメロディーで、劇的な序破急が見事だ。

 伍代にすれば、カラオケ族好みの平易な作品を歌い続けて来た。それが力量が試されるくらいの本格派に出会えたのだから、喜びがひとしおなのだろう。また、それを歌いこなした達成感が、早めの前宣伝になってもいようか。

 船村は5月に心臓の大手術をし、あわや心不全の危機を脱出、その後長く予後の闘病に専念している。84才の高齢だが、待たれるのは一日も早い完全復活。伍代が貰った滅法いい歌が来春あたり、この大ベテラン作曲家に朗報第一号をもたらすとすれば、来年の話だと笑ってなどいられる訳もないか!


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殻を打ち破れ177回

 友人に三井健生という男がいる。イケメン・スターの山内惠介を筆頭に、大勢の歌手を抱えるプロダクション、三井エージェンシーの社長で、僕らのお遊び仲間"仲町会"のメンバー。音楽事業者協会傘下の大手プロダクションが、いつのころからか歌手よりも俳優やお笑い芸人中心のビジネスに転じた中で、頑固に歌手の育成、売り出しに熱中する。その甲斐あってか最近では、中堅プロダクションにのし上がった唯一の勢力だろうか。

 「他人に出来ないことをやる」がその信条の第一。レコード会社の宣伝マンのころから、全国各地のテレビ、ラジオ、新聞などのメディア勢をコツコツと回り、独自の人的ネットワークを作った。皮切りがキャニオン時代、山本譲二の『みちのくひとり旅』で、昭和55年の成功だから、もう36年も前のこと。そのころからずっと僕と彼は「ミツイ!」「頭領!」のつき合いだが、当時からプロデューサーの視野と並ではない情熱、行動力を持っていた。

 お次のブレークが夏川りみで『涙そうそう』のヒットは、三井抜きでは考えられず、その次が山内惠介だ。二年ほど前に、門前仲町の事務所移転先を訪ねたら、エレベーターのまん前に鎮座するのが彼本人の等身大パネル。

 「所属歌手よりも、お前が最大の売り物ということか!」

 と呆れたら、「当然!」とでも言いたげな笑顔で頷いた。惠介のファンクラブ誌では毎号1ページ、惠介の大物への歩みと、その陰にある彼のビジネス戦略を自筆で展開している。人気歌手のサクセス・ストーリーを、表裏一体の読み物にするのだから、惠介ファンと三井の親しさはまるで旧知の仲。コンサート現場などで熟女ファンから、しきりに「社長!」の声がかかり、握手を求められるのが日常茶飯になっている。

 徹底して「出る釘」の三井の、陽動作戦連発の作品づくりとプロモーションが成功、惠介の「紅白歌合戦」初出場の夢が実ったのは昨年の大晦日。年が明けてしばらく、三井に会ったら、

 「反応の大きさに仰天してる。年内のスケジュールがアッという間に一杯になった。大きな出演依頼がひきもきらずなのよ」

 と満面の笑顔だった。

 その惠介が827日、日高正人&いもづるの会コンサートに出演した。日高は"無名のスーパースター"と呼ばれる知る人ぞ知るベテラン。いもづるの会は彼が主宰して、無名の歌手たちを引きずり上げようとするイベントで、今回が40回目。節目の大会だから人気者の惠介をゲスト格で...という目論みだったろうが、場所が日高の移住先に近い南足柄市の文化会館。趣旨は趣旨としても、三井の言う「大きな出演依頼」の一つとは到底思えない。

 ≪友情って奴の頼もしさなのかなぁ...≫

 と僕は振り返る。昔々、三井がスタッフとして苦労していたキャニオン時代、売れない歌手の日高は同じ会社で奮戦していた。二人にはそのころから"同期の桜"みたいな交友があり、それが今も続いていての惠介出演なのだろう。日高は『木守り望郷歌』といういい新曲に恵まれている。「来てくれるよね、あにさん」の一言で、僕には当日1階ロ列24番の席が用意されていた。日高との親交も40年近い。

 ≪三井の友情は"熱い"が、俺への日高の友情は"暑い"よな...≫

殻を打ち破れ176回

 ≪へぇ、22分もの歌謡浪曲を作曲して、そのデモを弦哲也が全部歌ったってか...≫

 中村美律子と話していて、僕はかなり驚いた。彼女の30周年記念の長編『無法松の恋~松五郎と吉岡夫人~』についてだが、このヒットメーカーの仕事ぶりは、実に何とも半端ではない。挿入歌を書いて、あとは中村が師匠春日百合子譲りの関西ふう...なのかと思っていたら、とんでもない話。浪曲の節も全部作って、曲師がやる部分もギターで巧みにやったそうな。

 歌詞も語りパートも、演出家の池田政之が脚本を書き構成した。彼女の長期公演を手がける人だから、あうんの呼吸。しかも最近の大阪・新歌舞伎座公演が一緒だったから、手っとり早かったらしい。しかし、長過ぎるのを大分手直しし、曲のつけ方次第でまたあれこれ。おおよその寸法を決めたあと、今年の正月、休暇で出かけたハワイで弦が奮闘したと言う。そう言えば千葉の中学時代の教師の紹介で、弦が最初についた師匠が浪曲の春日井梅鶯だから、"その気"になるのも無理はないか。

 名だたる浪曲師はそれぞれ、独自の節というかメロディーというかを持っていた。ごひいき筋はその魅力にどっぷりつかって、やんややんやになるジャンル。ところが今回の美律子節は、それらのどれとも違った。改めて聞き直せば、いかにも弦らしい優雅なメロディーで、奇をてらわぬメリハリも穏やかめ。はったりを避けじっくり聞かせる心根のやさしさに気づく。この人は浪曲にまで、彼ならではの世界を作ったことになる。

 中村が浪曲の修行をしたのは、高校を卒業した前後から。大阪のキャバレーで歌っていてもヒット曲を持たぬ悲しさ。一家の家計をになう身が、いつまでもつかが気がかりだった。そこで思いついたのが浪曲で、これなら年をとっても歌っていける。春日百合子に師事したのは、実は生活のためだった訳だが、功なり名とげて30周年、積み重ねて来た芸が今回、こんな形で実を結んだかっこうだ。苦労は買ってでもしておけと言う例のひとつになるではないか!

 浪曲は①声 ②節 ③啖呵という。啖呵には語りの妙も含めるだろうが、中村には中村の語り口や間(ま)がある。それに合わせる編曲は南郷達也がやったが、ものがものだから、楽譜にきっちり書き込んだやつでは、面白みがない。いきおい現場対応のアドリブ性が必要になるが、南郷はそれがお得意。ミュージシャン群と中村の間に入って、こうしようか、ああしてもいいか...になったらしい。僕も日高正人の作品でライブ感覚録音を一緒にした経験があるから、彼の笑顔が目に浮かぶようだ。

 「時間と手間はかかったけど、いい先生方との出会いに恵まれて...」

 と、中村は言葉少なだが、応分の達成感と自負が顔色に出る。何はともあれめでたい...と食事に誘ったら、

 「たしか、のどぐろがおいしいお店が...」

 と、彼女は10年も前の世間話を覚えていた。20周年記念のアルバム『野郎たちの詩』をプロデュースした時のことだから、僕は恐れ入って銀座の行きつけの店"いしかわ五右衛門"へ案内した。そこのお女将がまた、大の中村ファンだったものだから、大いに盛り上がって、中村は飲めないはずの酒を少々...の上きげんな一夜になった。

殻を打ち破れ175回

 新作のCDは、歌い手本人から届いた。差し出し人欄に、あの懐かしいサイン書体で「新川二朗」とある。今年がデビュー55周年の節目。記念曲が『泣かせ酒』(仁井谷俊也作詞・水森英夫作曲・伊戸のりお編曲)でパーティーもやると言う。

 便箋の走り書きは「御無沙汰致しております」に始まり、記念曲が「会社では大評判です」と、サインペンの字が躍る。応分の自信作なのだろう...と、ジャケット写真を眺める。かっちりしたスーツに蝶ネクタイ。目線やや遠めの笑顔の新川が、茶トラの猫を抱いている。

 ≪へえ、彼も猫好きだったのか。知らなかったなぁ...≫

 昨今、時ならぬ猫ブームだが、愛猫2匹と暮らす僕は、ここでもニヤリとする――。

 ♪いのち一途に 尽くしてみても 別れりゃ他人の 顔になる...

 新川の歌声が、ズサリと始まる。そんなふうに別れていった男への、未練を歌う女唄。しかし彼の歌唱は、委細かまわずスタスタと行く新川節。余分な感情移入で、シナを作ったりなどしない。声と節で聴かせる昔気質、鼻の奥、額のあたりで響かせる独特の高音が、聴く僕にまっすぐに届く。

 ≪たいしたもんだ!≫

 感じ入るのは、歌声に衰えを見せぬ「覇気」についてだ。芸歴55周年、もう大ベテランで、ふつうこのキャリアの歌手は、声をいなし、息づかいを工夫して、その年齢なりの唱法を見出す。ところが新川の歌には、そんな気配はまるでない。

 作曲の水森英夫も、そこは計算したのだろう。1コーラス7行の歌詞に、ざっと数えて8小節分も、高音を使っている。今ふうの新川を模索するのではなく、それが身上の高音の張りを、徹底して前面に出した、半端な新しさよりも、古風にしろ良いものは良いはず...と肚を据えた結果か。

 新川は昭和37年『君を慕いて』でデビューした。金沢のヘルスセンターで歌っているのを、地方の興行師に認められてのこと。村田英雄に見出されて...は伝説で、その縁から新栄プロに入り、キングレコードに所属、今日も変わらない。当時から新栄プロ社長西川幸男氏の薫陶に恩義を感じ、氏の晩年はしばしば料理番も務めた。僕もこの世界のいろはを西川氏に教わった新栄育ち。スポニチの取材部門に異動したのが38年だから、新川とはほぼ同じキャリアの同志だ。

 やはり金沢のヘルスセンターが振り出しの男に、作曲家の聖川湧が居る。新川とアパートが同室、同じ釜のめしの仲が、新川に刺激されて発奮、香西かおりを育て、成世昌平の『はぐれコキリコ』の大ヒットで、出身地富山・新湊の名士から富山の名士になった。

 それも縁なのだろう。新川の記念曲のカップリングには、聖川が作詞・作曲した『風だより』が収められている。新川とデュエットしている歌手名が前田俊明。僕は一瞬「ン?」となったが、あの売れっ子アレンジャーとは同姓同名の歌好き。「共栄建材工業」とクレジットされているが、どうやら社長。新川の後援者で同志だろうが、歌唱も大したものである。

殻を打ち破れ174回

 ≪『蒼空の神話』ねぇ。タイトルとしちゃ頑張り過ぎの気もするが...≫

 ニヤリとしながら、チェウニの新曲を聞く。荒木とよひさの詞、三木たかしの曲...。

 聴きおえて、なかなかのものと合点した。8行詞の前半4行分、かわいい女になりたいと訴える序章で、チェウニが地力の強さを示す。三木らしいメロディーに乗って、ひたひたと迫って来る歌いぶりがそのポイント。一転、サビの高音部が、この人らしい健気さやいじらしさを色濃くする。これは、カラオケファン用"歌わせ歌"を超えて"聴かせ歌"の大きさを持つではないか!

 例によって少々長めの曲だが、三木ならではの遺作。テレサ・テンに似合いの曲想だが、チェウニはしっかりと自分の歌にした。テレサが歌うと、やわらかに甘美になるところを、チェウニは芯の強い芸風でしのいでいる。歌い手によって、仕上がりの色が全く違う歌になる一例だろう。

 ある日、キャスターの宮本隆治から電話があった。三木の曲を歌わせて貰うと、声が弾んでいる。門倉有希とのデュエットで『恋猫』と『東京ムーンライト』の2曲。こちらは、いかにもNHK育ちらしい折目正しい発声、滑舌と歌唱に、≪生まれは隠せない...≫と、僕はまたニヤリとした。

 三木はこの五月十一日が七回めの命日。いい作品が埋れたままなのを、昨年の七回忌偲ぶ会で、是非世に出して!とアピールした。会費を貰い、献花して貰ったうえでのプロモーションは、いわば作品の"押し売り"。その会の司会をやったのが宮本だから、趣旨も飲み込んだうえで歌手に起用されたのだから"その気"になるのもよく判る。

 僕も一枚噛んだそんな珍しい企てに、歌社会はおおむね寛大で、各社がCD化に参加してくれた。チェウニの他に因幡晃の『今度生まれたら』、クミコの『純情』、伊藤咲子の『プルメリアの涙』、星星の『一番きれいな花』、レコーディングは済んだが本人の懐妊で出番待ちになっている元宝塚春野寿美礼の『黄昏は傷ついて』と『愛に守られて』等々。香西かおりや美川憲一も手を挙げて、作品を検討中と聞く。

 作家諸氏の新作が、力不足という訳では決してない。CDの売上げが低迷、シングルのリリース数が減っている中で、危機感を持つ作家たちが創意工夫に腐心している実情はよく判っている。その成果が表われる作品も、あれこれ耳にする。しかし、個性的なメロディーメーカーだった三木の遺作も、何とか陽の目を見せたい。彼の作品が世に出る隙間はあるはずだ!というのが、僕らの願いだった。

 石本美由起や市川昭介の遺作が、見直される流れもある。手練者の彼ららしい作品が流行歌に彩りを添えている。その傍らで静かに動き始めた三木たかしムーブメント。クミコはいち早く三木作品にトライしているし、伊藤咲子はもともと阿久悠・三木たかしの作品でデビューした人。『恋猫』の詞を書いた友利歩未はJCMで七回忌の打ち合わせをした僕らに、お茶を入れてくれたりした。流行歌ひとつの陰にも、生きているのは縁、制作者と三木の親交も甦る。

 深夜、それやこれやの作品を聴きながら、三木の友人であり彼の結婚の媒酌も務めた僕は、早く逝っちまったあいつの歌たちに、ひとり杯を挙げる気分でいる。

快哉! 船村徹に文化勲章!

 作曲家船村徹が文化勲章を受章する。内定は蛇の道はなんとやらで耳にしていたが、10月27日記者会見、28日に一斉発表までが待ち遠しかった。昭和31年に山田耕作が受章したと聞くが、歌謡界では初の欣快事。書きたいし、話したくても、オカミが決めたニュース解禁日では、フライングする訳にはいかない。知ったらすぐ書く新聞記者癖をグッとこらえるのも、嬉しい初体験と言えば言えた。5月に心臓大手術をした船村の身辺は、一転して輝かしい日々になった。

雪の兼六園

雪の兼六園

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵 かを里
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 歌手生活も11年めに入っていようか。日舞を踊り、かつ歌う美女と聞いてはいるが、チャンスがなくて、まだ見ていない。名古屋を中心に活動しているせいなのだろう。ま、東京だけが芸事のメッカとは限らない。しっかりと地力をつけながら、好機到来となれば一気に全国区!という戦い方も、ひとつの生き方だろう。
 麻こよみが兼六園のあれこれを書き込んだ詞で、葵かを里のイメージに沿う。作曲の影山時則は昔、時次郎の芸名で歌っていた、伝説のディレクター馬渕玄三の配下。それが本格派の哀愁メロディーを書いた。少し鼻にかかる葵の歌声は、歌い出しから初々しいくらいの情緒派ぶり。詞曲歌の三拍子が揃ってなかなかである。

霧笛の酒場

霧笛の酒場

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:北山たけし
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 北山たけしは、こういう曲も似合うのだと発見した気分で《ほほう!》だ。前田俊明の編曲が、前奏をサックスで出るムード歌謡系。歌い出しの歌詞1行分、前半はすらっと出た北山の歌声が、後半で情をにじませるあたりから、いい味が生まれている。
 曲は徳久広司。昔彼がレコード大賞の作曲賞を取った時に、賞状に「3連の徳さんと呼ばれるあなたは...」なんて文面を書いた覚えがある。この作品のメロディーと乗りの気分のよさは、面目躍如と言えようか。
 昔のコーラスグループなら、メロディー中心に気分で歌いそうな曲を、北山はていねいに歌って彼のモノにした。そんな歌処理が今日的なのかも知れないと合点がいった。

おんな炎

おんな炎

作詞:原文彦
作曲:弦哲也
唄:花咲ゆき美
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 原文彦が書いたのは8行詞、「くらくらと くらくらと」なんてフレーズをヘソにして、形はポップス系だが、中身は演歌系。それに似合いの曲を書いたのは弦哲也だ。花咲ゆき美の歌は、作品に誘導されてか、息づかい多用で、時にシナを作り、感情表現が演歌系だから妙な味わいが生まれた。これも作家たちの冒険の一つだろうか。

燃えて咲け

燃えて咲け

作詞:星つかさ
作曲:星つかさ
唄:和田青児
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 作詞・作曲の星つかさはどうやら本人のペンネームらしい。理屈っぽい詞にフォーク系の曲がついている。それをそれらしい語り口で歌い出し、あとは声の操り方、感情のこめ方などで、細工いろいろだ。もともと歌巧者で、応分の自負も持っていそうな和田が、ヒットづくりの突破口を見出そうとする気配。ちょっとした技巧派ぶりだ。

人生(ブルース)

人生(ブルース)

作詞:もず唱平
作曲:弦哲也
唄:長保有紀
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 男を追って出奔した母親を、氷雨の中で思い出す娘の歌。子どものころ聞いたヘンな文句の子守唄を、どこの酒場で歌っているやら...と、しのぶ娘もどうやら不幸せ。もず唱平が書いた物語を、弦哲也が作曲、長保有紀が歌う。歌に聞き耳を立て、暗めな内容だけど「深いなぁ」と感じ入る。もずらしいタイプの詞に、長保の声味が似合っている。

バラよ 咲きなさい

バラよ 咲きなさい

作詞:高畠じゅん子
作曲:徳久広司
唄:北原ミレイ
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 秋、冬、春、思い出残して虹が消えたと言う。愛が枯れた孤独のそんな季節に、バラよ咲けと女主人公は訴える。4行3行5行と3ブロック12行の詞は高畠じゅん子、シャンソン風味のそれに、淀みない曲をつけたのは徳久広司。北原ミレイに似合いの歌を書いて、夫君の作曲家中川博之と死別して3年め、高畠のひとり歩きの一曲だ。

MC音楽センター
 テレビを見終わって、一人で乾杯をした。人が来なければ自宅で飲むことのない僕に不審顔の愛猫が2匹。12月1日、堀内孝雄の「空蝉の家」が日本作詩大賞の大賞を受賞した夜だ。わがことみたいに喜んで、作詞した田久保真見に電話をする。内輪の祝勝会ふうにぎわいの中から、
 「おかげさまで...。はい。どうも...」
 とケイタイの彼女の声は、例のアニメ・トーンで途切れ途切れだった。
 4月にこの歌が出て以来、僕は勝手にヨイショを続けた。はやり歌評判屋の悪ノリ癖丸出しで、「これぞ時代の歌!」「社会派歌謡曲の傑作!」「田久保が凄い!」...。理屈っぽさが逆効果を生む心配などタナに上げた。実家を空き家のまま放置していた男が、処分するために故郷へ帰る。無人の家で思い返すあれこれ。一生懸命に昭和を生きた父母は、すでに亡い。その庭先に男は、蝉のぬけがらを見つける。そうか、この家は昭和のぬけがらなのか! と合点がいく。
 地方に放置された家屋は、今や社会問題である。それに歌謡曲的なアプローチをしたことに、この作品の意義があった。小道具に蝉のぬけがらを使ったアイディアが沁みる。遠くなった昭和を回想する奥行きもある。不倫ごっこに明け暮れる近ごろの歌謡界では、着想と筆致が際立ってシャープだと思った。しかし、僕は今、そんなヨイショの手柄話をしたい訳ではない。おそらくは、似たような評価をしたろう作詩大賞の審査員諸氏に、敬意を表したいのだ。作詩大賞も捨てたもんじゃないではないか!
 田久保には少し前に「菜の花」といういい作品があった。世俗のことなどみんな忘れた母と、ドライブする息子の話。その母が菜の花畑に反応するさまが、息子の優しい眼差しで描かれる。実はこの花が、父親の愛したものというダメ押しも利いていた。これも、昨今社会問題になっている痴呆がテーマ。僕はめいっぱいヨイショしたが、歌った湯原昌幸は、間もなく次の作品に移行、この歌は残念だが埋もれかけている。
 《昔はこんなじゃなかったのにな...》
 ひとりで酔った僕は、はやり歌評判屋の世迷い言を呟く。「いいものは、いい!」と口火を切りさえすれば、それに呼応してフォローした仲間がいた。菅原洋一の「知りたくないの」の小澤音楽事務所社長・小澤惇。彼とは北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」でも意気投合した。水原弘の「君こそわが命」は、東芝音工の宣伝マン田村広治が躍起になり、佐川満男の「今は幸せかい」はアルト企画社長の高見和成、藤圭子の「新宿の女」は作詞家石坂まさとが大騒ぎで話題をふくらませた。しかし、それもこれもはるか昔の話。高見以外はもうみんな故人になっている。
 結果として昨今、評判屋の僕の打率はひどく低迷したままだ。プロモーション勢のフォローなしでは、悪ノリ騒ぎも孤立して三振止まり。歌も玉石混こう石沢山の品ぞろえで、悪ノリする球が少ないのが現状。「もっといい歌を!」「もっと刺激的な歌を!」の歯ぎしりで、今春、「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を幻戯書房から出版。評判屋の物狂いに一応のケリをつけた。舞台役者の方はもう10年めになる。何故? と聞かれれば「興奮する歌が出て来ねえからだよ」と、悪態をつくこともある。
 そんな80才の鬱屈を、「お待ちよ!」と肩叩いてくれたのが、「空蝉の家」の作詩大賞である。歌社会に出入りを許されて53年、天才奇才から腕利きの仕事師まで、多勢の歌づくり名人に会い、知遇を得て来た。雑文書きの性根は、とことん歌好き、歌びと好き。もうしばらくはいい歌のお先棒かつぎを続けなきゃ申し訳ないか! と思い返した。それじゃ今年最後のこの欄で、止めの一発! と思い定めたのが長保有紀の「人生(ブルース)」である。父とも呼べない男を追って、出奔した母親を語る娘のお話。思い出は母娘で走ってビリだった運動会と、ヘンな文句の子守唄。今ごろどこかの酒場で、あれを歌っているだろう...と、母をしのぶ娘もどうやら不幸せだ。もず唱平が書いた社会の底辺ストーリー、曲をつけた弦哲也が、
 「刺激を受けた詞です」
 と吐露したが、長保の声味にもぴったりの作品になっている。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ173回

 男は家を売りに来ている。父母はすでに亡く、放置したままになっていた故郷の生家だ。蝉しぐれの夏、彼の胸中に去来するのは、懐かしさとやるせなさ...。

 堀内孝雄の歌声が、じゅんじゅんと主人公の思いを語る。穏やか過ぎるくらいの風景の中で、情感は次第に切迫する。日に焼けた畳にあぐらをかいた男は、不意に涙ぐむ。見上げた空が、とてつもなく青過ぎるのに気づくのだ。

 ≪いいねぇ なかなかに...≫

 堀内の45周年記念シングル『空蝉の家』を、もう一度聴き直す。主人公は都会で暮らしていて、そんな空家を処分しに来たのだろう。しかしそこには、幼い日々の思い出が沢山つまっている。思い返すのは両親の愛情に満ちた光景で、息子を気づかって口うるさかった母、不器用で無口だった父のさりげない視線...。

 演歌ならさしずめ、「泣いて詫びたい不幸の罪を...」になる設定。それをこの歌は、庭にころがる蝉の抜け殻に託して、家を時の抜け殻に見立てる。命の限りに生きた"あのころ"の人々の営みを見据えて、遠くなった昭和への挽歌の奥行きまで作る。

 若い世代が、心ならずも故郷の家を、無人のまま放置している実例は山ほどある。少子高齢社会が抱える大きな問題だ。そんな古民家を求めて、都会から地方へ移住する例も時おり話題になるが、それは極く稀でしかない。そんな社会問題に、堀内とそのスタッフはこの歌で、正面から取り組んだ。

 ≪いいじゃないか。田久保真見!≫

 僕は改めて歌詞カードと向き合う。彼女らしさが生きているのは、蝉の抜け殻の発見だろう。この小道具一つが、古い空き家のイメージと懐旧のあれこれを切実なものとし、時代を語るキーワードにした。タイトルの『空蝉の家』からして、企画の狙いから描かれるドラマまでを、すっきりと言い切っているではないか!

 こういうタイプの"いい詞"は「歌う」よりは「語る」べきものと、堀内は感じ取っていたはずだ。あるいは逆に、歌いあげるよりは語るスタイルを身上とする彼が、恰好の詞を得たのかも知れない。この作品を"いい歌"に仕立てたのは、彼独特の曲のつけ方と語り口、だから中、低音が主になって時に高音部が激しかける。

 田久保真見は能ある鷹が爪を隠している作詞家だ。特異な感性と言葉選びで、いい歌を多く書いているが、隠されている一面は社会派だと考える。以前、湯原昌幸に書いた『菜の花』が、痴呆問題を背景にした快作だったが、今度はこれである。社会問題を生硬なメッセージソングにせず、詩情で包み込んで手渡す手法と完成度が得難い。

 ≪ヒットするかどうかは、二の次とするか...≫

 僕はこの歌が、売れ線狙いの類型的ラブソング群に埋もれてしまわないことを祈りたい。流行歌はもともと「時代を写す鏡」の役割を持っているはずだ。その数少ない顕著な一例としてこの作品が、多くの歌好きたちの眼に触れ、耳に届く機会を作りたい。歌社会にある作詩賞が、たまにはヒット作重視を離れ、こういう快作を評価することを、大いに期待したいと思っている。

殻を打ち破れ172回

 ≪いいじゃないか!気張らず力まず、すっきりと、いい歌い振りだ...≫

 新人村木弾のデビュー盤『ござる~GOZARU~』と『北の男旅』を聴いて、僕は胸を熱くした。「船村徹最後の内弟子」がキャッチフレーズの青年である。船村作品を多く歌い恩義を感じている舟木一夫が、身許を引き受けた。そのうえプロデュースと作詞もやる気の入れ方。作曲はもちろん船村で、芸名はこの二人から一文ずつを貰った。巨匠の身辺でこまめに仂いて12年余、村木に巡って来た大きなチャンスだ。

 船村一門の内弟子は、付き人や車の運転手をはじめ、秘書やマネージャー、料理人までを兼ねる。常時一緒に生活して、実の息子以上の日々。その中で歌い手としてよりも、まず一人の若者としての人間性を磨く。古風とも言える育て方だが、それが船村精神なら弟子たちは、一途にその教えに従う。学ぶことは見よう見まね、教わるよりは盗めで、師は彼らのお手品として、全生活を彼らの眼にさらすのだ。

 船村の知遇を得ている僕は、しばしば酒席をともにする。内弟子の村木は実にさりげなく僕の面倒まで見てくれた。気配を察知して、すっと動く。その気配り、気働きは見事なくらい。彼が内弟子12年なら、彼と僕のつき合いも12年で、その間ずっと彼の言動、挙措は変わらなかった。

 ≪だから歌を、こういうふうに歌えるのだな...≫

 と、僕は合点する。『ござる』は男の生き方を、侍言葉を語尾に使って表現する風変わりな作品。コミカルなサウンドをバックにして、背筋のばした村木の歌には、軽妙さと新鮮さが同居している。今どきの若者たちにも通じそうな、率直さと闊達さが魅力。カップリング曲は、詞が喜多條忠に代わって、こちらは船村演歌の本筋。それを苦もなく歌ってしまうあたりに、彼の力量のほどが示されている。

 ≪また歌手の弟分が一人増えたことになる≫

 昭和38年、新聞記者として船村に出会って以来、僕もその身辺で盗み学ぶ親交を許されて来た。船村歴53年、長く弟子を自称しそれも認められているから、村木は弟弟子に当たる。歴代の内弟子で歌手デビューした鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介らはみんな、呼び捨てでつき合う兄貴分気取りが続く。その末弟の村木が"最後の内弟子"になった。船村も80歳を越えて、そうそう弟子を育ててばかりもいられなくなったのだろう。作曲界の大御所としては、果たさなければならない役割や仕事が、まだ多岐にわたってもいるのだ。

 ≪末っ子はかわいさが増すものだそうだし...≫

 村木について語る時の、船村のしみじみした口調と笑顔に、僕はそんなことも考える。

 昨今の歌謡界はイケメンばやりである。女性たちは老いも若きも、彼らを自分たちのアイドルとして支持する。こんな時代だからせめて、甘く優しいキャラクター相手に、それぞれの夢を見るのも悪いことではない。しかし、そんな流れの中へ、村木弾は、ごついくらいの男振りと、性根の据わった男の頼もしさで割り込んでいく。こうなると彼の存在感が、歌謡ファンにどんな化学変化を起こすのか、大いに楽しみではないか!

殻を打ち破れ171回

 やたらに気安く「カバコ!」と呼びならわす歌手がいる。作詞家もず唱平の弟子で高橋樺子。本当は「ハナコ」と読むのだが、白樺の樺だから、僕は面白がってそう呼ぶ。まだ無名だが東北へ行くとちょっとした有名人。東日本大震災以後もう5年近く、被災者の慰問、支援に通いつめて、立場が逆転した。今や現地の人々が「オラたちが育てるハナちゃん」として、めいっぱいの応援ぶりなのだ。

 きっかけは震災の直後、もずが発案、仲間の作詞家荒木とよひさ、作曲家の三山敏、岡千秋が呼応して作った『がんばれ援歌』で、楽曲の権利すべてを支援の寄金とすることが話題になった。それを歌った高橋が、もずの秘書保田ゆうこと、せっせと東北へ通った。仮設住宅に泊まって膝づめ、生活まるごとの交歓に地元の人々が胸襟を開く。その勢いから仙台で「仮設住宅住民交流会」が生まれた。市内八つの仮設の人々が、初めて横のつながりを持ち、『がんばれ援歌』を歌い踊る賑やかさだ。

 こうなると、情が濃い東北の人々が動く。高橋の新曲『母さん生きて』の発表会や、高橋主演の歌と語りの催し「女の昭和戦記」があれば、その都度バスを連ねて上京、応援の気勢を挙げる。後者は芸術祭に参加したからびっくりしたり喜んだりの大騒ぎだ。いつも赤いポロシャツに白スラックスの「震災支援型歌のお姉ちゃん」が「被災者応援型アイドル」になった。歌をはさんだ支援、応援が双方向性を持った珍しいケースだろう。

 一月、僕が大阪・新歌舞伎座の川中美幸新春公演に出ていると、高橋と保田が差し入れに現われた。昼夜2回公演の合い間の昼食に、あれこれ相談しながらの献立て。師匠のもず唱平と僕の、長い親交が背景にあるとしても、すっかり身についたボランティア精神、どうやら僕は彼女らの支援のターゲットの一つになっているらしい。

 その高橋が「音楽健康指導士」という、耳慣れない資格を取って、その証明カードを見せてくれた。介護予防、生活機能改善を行なうために「うたと音楽」を最大限に活用する知識と技術を習得したらしい。主唱しているのが一般社団法人日本音楽健康協会で、設立されたのが平成267月。名誉会長に保志忠彦、代表理事に林三郎の両氏の名がある。驚いたことにおなじみ第一興商が社会貢献に乗り出しているのだ。

 音楽健康指導士は、協会が認定した音楽健康セッションのプログラムづくりや実践指導を行なうという。高齢者と地域を元気にする活動だから、「東北のアイドル」高橋にはうってつけ。

 「明日からはまた仙台や福島へ行くので、もう来られなくなりますが...」

 僕の大阪役者ぐらしの終盤、そう宣言!?した高橋と保田は、明るいいい笑顔を作った。個人レベルだった支援行脚に、新しい具体的な目標が出来たことが心強いのだろう。

 僕の友人のカバコは、不思議なキャラクターの歌手として、大成への道を一歩ずつ歩いている。大阪生まれで東北が地盤、新しいタイプの高齢社会の星になるのだろうか? それにしてもこんな事業に乗り出した第一興商の諸氏、なかなかにやるではないか!

殻を打ち破れ170回

 ≪どういう新年を迎えたのだろう、あいつは?≫

 ふと思い返す顔がある。ブラジルのサンパウロで生まれ育った男だが、日本へ来て何年にもなるから、年越しは慣れているだろう。しかし今年は、念願叶ってやっと、プロの歌手になっての正月である。それなりの感慨はあるだろうからと、しばしその胸中を推しはかることになる。

 昨年の秋『母きずな』という曲でデビューした、エドアルドがその男だ。NAKの日本アマチュア歌謡祭でグランプリを取ったのが2001年。ブラジル支部の代表だったが日本でプロになりたいと言った。それが初対面だ。

 「そんなデブで、商売になると思っているのかい?」

 と、審査委員長だった僕は、冗談のつもりで言った。「ウッ!」という顔をしたその青年が、なぜか日本に居ついた。初志貫徹の強い思いがあったのだろう。その後何回か、NAKの大会に顔を出し、

 「元気で勉強しています!」

 と、笑顔を作った。心なしか少しずつやせている。バイト暮らしで苦労をするせいか、それともダイエットに励んだせいか。デビューの話を聞いた時、担当するテイチクの佐藤尚ディレクターから

 「頭領に叱られたと言ってますが、何かありましましたか?」

 と聞かれた。思い当たるのは体重の件だけだから、めったに冗談も言えないと自戒したものだ。

 『母きずな』を聞き直す。日本人の歌と言われても、誰も疑わない発声と発音で、新人ばなれした相当な巧みさがある。歌い出しをそっと出るが、高めの声をしならせて、情感もたっぷり。決めのサビはしっかりと決めて、僕は思わず人知れず拍手をした。グランプリ受賞の時もそれなりに巧かったが、彫りが深くなって歌に奥行きが生まれている。異国で暮らし夢を追った5年間が、彼を人間的にも鍛えた成果か。作曲家あらい玉英に師事したという。その薫陶よろしきを得たのかも知れない。

 父は行方不明、母は生後間もなく彼を他人に預けたという。生母とは日本に来る前に会ったそうだが、そんな生い立ちを作詞家たきのえいじが聞き取って詞を書いた。カップリングの『夢慕情』も、異国で暮らす彼の心情に添っていて、これではエドアルドがその気にならぬはずがない。デビュー曲が若者の一途な思いを伝えるのはそのせいで、制作陣は『母きずな』を、彼のドキュメント・ソングに位置づけている。

 昨年秋、サンパウロから友人の北川朗久がやって来た。あちらのカラオケ界のボスで、手塩にかけたとエドアルドの応援のため。エドアルドに日本語も歌も教えたのは彼だそうな。日程的に僕は会えずじまいだったが、地球の裏側で、この新人歌手への期待が大きいことを示す一例だったろう。

 しかし昨今、歌手の活動状況はますます厳しさを加えている。その中でエドアルドは、異国で、異国の歌を歌い、異国の歌手たちをしのごうとする。新しい辛苦が彼を待ち構えているだろうが、僕は友人の一人として、微力の後押しを頑張る決心をするしかない。

殻を打ち破れ169回

 70才を過ぎてなお、独自の進境を示す歌手がいる。少し驚き大いに感じ入った相手は新田晃也。1210日夜、東京・九段のホテルグランドパレスで開かれた、彼のディナーショーを見てのことだ。

 『寒がり』『振り向けばおまえ』『母のサクラ』と、このところ連発しているオリジナルの歌唱が、情を濃いめににじませて、なかなかの味である。71才、歌手生活が50年、もともとこの男は、衰えぬ高音の美声と覇気が身上だった。それが、よく響く中、低音で歌を「語る」味わいを深くしている。

 ♪こんな名もない三流歌手の 何がおまえを熱くする...

 と、新田が自分で詞も書いた『友情』が、以前から僕は好きだった。福島・伊達市から集団就職列車で上京、銀座の弾き語りで売れっ子になり、以後演歌のシンガーソングライターとして、頑固に巷で歌って来た。あえて自分を「無名」「三流」と位置づけて、その意地と芸とを世に問おうとした生き方が頼もしかった。

 その心意気と歌の巧みさを良しとして、長いつき合いをして来たが、

 「もう、いい加減にしろよ」

 と時に文句も言った。長尺ものの『俵星玄蕃』や絶唱型の『イヨマンテの夜』などに熱中することについてだ。この種の作品は、ナマのステージで聴けば派手なメリハリで大向う受けはする。だからと言って声と節に頼り、力量を誇示するのは昔々のやり口。もっと優しく聴く側の心に語りかけるのが、流行歌の昨今だし、そういう時代になって来ている。

 この夜の新田には、方向を変えた気配が顕著だった。自慢の高音はいなし気味で、中・低音を軸に唄うから、故郷や母への想い、傷心の者同士のいたわりの気持ちが説得力を増した。いつもなら仲間気分で大騒ぎする常連客が、静かに聴き入ったのも、そんな変化に誘われたせいではない。どうやら新田は時流をつかまえたのだ!

 新田の進境には、作詞家石原信一の詞が影響しているように思える。新田が伊達なら石原は会津若松の福島県同士。最近の連作で石原は団塊の世代の心情を新田に託し、同時に新田の心境に寄り添った詞を書いて、二人は意気投合している。そんな感興の中で新田が曲を書き、自分で歌う作業で、彼は何かしら新しい手応えを得た気がする。

 石原も古い友人だからあえて書けば、彼もメーカーの注文に応じる作品とは、相当に異る詞を書くチャンスに恵まれている。新田・石原の共作に息づいているのは、同郷、同世代の男たちの実感と心情だ。そんな要素が紙背にあることは、歌づくりの原点だから、僕は快哉の拍手を送りながら、この夜の酒を味わった。

 それより5日前の夜も、僕は快い酔心地を体験している。渋谷シダックスの東京メインダイニングのディナーショーで、森サカエを聴いたのが126日。お互いに孫も居るいい年をして、僕らは「ダーリン!」と呼び合いじゃらじゃらする仲だ。「遊びにおいで」と誘われて、彼女のジャズをたっぷり聴いたが、やっぱり白眉は星野哲郎作詞、船村徹作曲の『空』。これをナマで聴きたくて彼女の追っかけをやっているのだが、この夜も彼女が精魂こめた歌唱の祈りに貫かれた世界に、僕は身じろきも出来なかった。

 11月19日は、山形の天童で酔っていた。翌20日の佐藤千夜子杯カラオケ全国大会の前乗りで、晩めしのあとに出かけたのがいつものスナック。大会の実行委員長で地元の有力者・矢吹海慶和尚が一緒だ。5才年上のこの人は「酒と女は2ゴウまで」とか「仏はほっとけ」などの迷言!? を口走る粋人で、舌がんのリハビリのためにカラオケを始めた剛の者。今年の和尚のマイ・ブームは
 〽山ァよ~山ァよ~、お岩木山よ...だ。
 大会ゲストの北原ミレイも同行した。こういう夜はいつも失礼するんですが、今回は小西さんが一緒なので...と、綱木マネジャーが耳許で囁くのへ「当然!」と言い返す。彼女のデビュー曲「ざんげの値打ちもない」を大仰にヨイショした昔から、46年のつき合いがある、スナックに居合わせた歌好き熟女が、彼女の「港のリリー」を歌う。まだ自信がなくて...と口ごもるから、ミレイは笑顔で歌唱レッスンを始めた―。
 前置きが長くなったが、ここからが本題。「港のリリー」は、作詞家下地亜記子の作品で、実はこの人、その2日前の11月17日、72才で亡くなっていた。新聞にも死亡記事が出ていたが、一行のノリがノリだから、僕らはそれに触れずにいた。バカ騒ぎをしながら知らん顔というのは、感慨が複雑になる。下地のこの詞に血を通わせ肉としたミレイの胸中は、いかばかりだったろう?
 下地は地味だがコツコツと、中堅歌手たちにいい詞をコンスタントに提供した作詞家である。このところ多かったのは真木柚布子の歌で、「さくら月夜」「雨の思案橋」「北の浜唄」「越佐海峡~恋情話」「夜叉」「しぐれ坂」に鏡五郎とのデュエット「夫婦善哉」など。タイトルからも判ろうが、傷心の女心ソングから名作もの、ご当地ソングと、作品の幅が広い。
 〽四角い膳の焼き魚、小さな切り身をとり分けて...は、北島三郎用の〝しあわせ演歌〟?外は粉雪、心は吹雪...は松原のぶえの「雪挽歌」と、筆致もいろいろで、花言葉をいくつも上手に料理したのは真木ことみの「ふるさと忍冬」だ。事前の下調べが綿密で、カッチリした骨格の作品には、推敲の跡がありあり。男と女のドラマを見守る作者の視線が優しく、小道具を並べた詞には、演出家の心くばりがうかがえた。
 帰宅して何日めか、下地の長男下地龍魔氏から、ていねいなお知らせの手紙が届く。「かねて病気療養中のところ」の文面に胸を衝かれる。彼女の作品はずっと聞いて来たが、近況までは知らずに居た。「亡くなる直前まで仕事をしていた」そうで「山あり谷ありの人生を、精一杯に生き抜いた生涯」を「息子として母を誇りに思っています」ともあった。率直な文面がジンと来るのは決して、僕が人後に落ちぬマザコンのせいばかりではない。
 机のそばにいつも置いておく本がある。日本音楽著作家連合が3年前に創立40周年を記念して作った「随筆集・百華百文」で、ハードカバー、311ページ。藤田まさとを筆頭に、ゆうに100人を越す作詞、作曲家たちが、自作のヒット曲にまつわるあれこれを書いている。昭和から平成にかけての、歌書きたちの情熱が生々しい貴重な資料で、編纂委員長が下地亜記子だった。彼女があとがきに書いているが「豪快、痛快、爽快、そして繊細」な作家たちの青春譜とも言えようか。
 この仕事にも下地の、几帳面で粛々と、律儀に事にあたる姿が如実である。女手ひとつで子育てをし、詩作に熱中する年月が長かったこの人は、彼女流の力量と感性の歌づくりで、歌謡界の軸の部分を支えて来たのだと、改めて合点がいった。大きなヒット曲を連発する売れっ子が、とかく脚光を浴びがちなこの世界だが、こういう熟練の仕事師こそ貴重な存在なのだ。
 《パーティーなどで出会うたびに、いつまでも元気でいて下さいねと言われたな》
 彼女が病んでいることに気づかなかった迂闊さを悔いながら、僕は最近届いたばかりの彼女の新曲を聞く。真木柚布子の「夜明けのチャチャチャ」という曲だが、
 〽ねえ、今夜は朝まで、あなた、踊り明かしましょうね...
 と明るく弾む歌を、この人はどんな気持ちで書き遺して行ったのだろう?
週刊ミュージック・リポート
〽兄弟船は真冬の海へ、雪の簾をくぐって進む...と来た。
 《雪の簾か、星野哲郎ならではのフレーズだな》
 僕は今さらながら〝海の詩人〟の言葉選びの凄さを再確認する。11月24日、葉山一色は雪。この時期の初雪は、昭和37年以来54年ぶりだと言う。僕が星野と初めて会ったのは38年だから、その1年後の勘定。それから平成22年11月に彼が亡くなるまで37年間も、僕は事あるごとに「良太郎!」と呼ばれる知遇を得た。
 《やっぱり、昭和を代表する詩人の一人だった》
 すとんと腑に落ちたのは祥月命日の1日前、11月14日にホテル京王プラザでやった星野の紙舟忌・7回忌の会。発起人の末尾に名を入れて貰った僕は、長男有近真澄夫妻、長女桜子さんと、参会者のテーブルを全部回った。施主のあいさつのお供である。ありがたいことに親交は、詩人との父子二代にまたがっている。
 「面白かったな、この間のビデオ撮りは...」
 「ああ、あんなの滅多にねえしな」
 作曲家弦哲也、岡千秋、杉本眞人とはその席で、僕らにしか判らない冗談を言い合う。BSフジで12月10日夜に放送する「名歌復活!」という番組に出て、僕らは相当にレアな会話をした。何しろ本番も「弦ちゃん!」「岡ちん!」「杉本!」...と、いつも通りの呼び方で、彼らも僕を「統領!」なんて呼び、まるで酒場ムード。彼らはそれぞれの代表作を、弾き語りで歌って盛り上がった。
 2時間番組の冒頭は岡千秋の「長良川艶歌」。ふだんは軽口を叩く岡が、根にある真面目さをもろに出して、ここを先途...で歌ったから、残る2人の歌もそれなりの気合いが入る。弦が「天城越え」を、得意のギターの技あれこれを駆使して熱唱すれば、杉本は一見無造作な歌唱の「吾亦紅」を、尻上がりの情感で語り尽くす。バーラウンジふうセットで、司会役の松本明子と僕は、やんや! やんや! の騒ぎになった。3人の歌から垣間見えたのは、歌い手同士の負けん気と、適度のあそび心、それに作品と向き合う歌書きの性根...。
 BSテレビは昭和の歌ばやりである。自分でも信じられないほど長生き中の僕は、あちこちの番組からコメントを求められている。
 「でもさ、みんな昔のビデオ流したり、後輩歌手がカラオケで歌ったりするばかり。もっと生々しい形でやりたいと思ってるんだけど...」
 と、この話を持ち込んで来たのは、弟分の築波修二。昔あった情報誌ミュージックラボを手始めに第一プロ、巨泉事務所などで働き、昨今はテレビ番組のプランナーをやっている。実はこのコラム「新歩道橋」はミュージックラボで「歩道橋」としてスタートしていて、大学卒業したての築波は当時から「影響を受けた」と真顔でお世辞を言う。「あいつらもそうだ」と彼が名を挙げたのは、佐藤剛と工藤陽一。佐藤は音楽プロデュースやイベントづくりに手腕を示し、昭和の歌社会を追跡取材、著書も持つ。工藤はラボの編集長から音楽出版社協会に転じ、役員を務めて今は顧問か。
 「しょうがねえなあ...」
 と、お世辞を真に受けた僕は、この3人と「歩道橋」同窓会をやり、大いに飲んで「名歌復活!」の前夜祭とした。
 収録中、いい曲が書ける都度、五線紙の向う側に歌の主人公の幻を見るという岡を、
 「岡ちん、お前、病院へ行った方がいいよ」
 とまぜ返し「天城越え」を作るために、作詞の吉岡治、中村一好プロデューサーと湯ケ島の白壁荘で合宿した弦とは、
 「弦ちゃん、宿泊費は一体誰が払ったのよ...」
 「さあね、よく判らないままなんだ」
 なんて問答をし、「新宿情話」を歌った杉本が、
 「どこか間違ってない?」
 と聞くから「大体、合ってるよ」と答えるなど終始スタジオは大笑い。
 杉本がこの曲を歌い、岡が「おんなの宿」弦が「東京は船着場」を歌ったのは、文化勲章を受章した大先輩船村徹へのリスペクト選曲だった。
 さて、訂正とお詫びである。前回のこの欄「新歩道橋」966回の上から3段め、右から3行目に〝プロデューサーと作家を兼ねる「田村進二」〟とあるのは「田村武也」の誤り。田村進二は、弦哲也が歌手デビューしたころの芸名で、それと息子の名を混同した致命傷だ。ゲラ刷りまで見ていたのに、加齢による大ポカと、低頭しきりである。
週刊ミュージック・リポート
 隣りに作曲家の弦哲也が居る。11月15日夜、原宿のミュージックレストランの片隅。テーブルにはオードブルとピザの皿があり、二人には赤ワインのグラス。僕は少し関係者ふうなたたずまいで、おがさわらあいの歌を聞いている。彼女を囲むのは6人のミュージシャンで、前列でギターを弾いているのは田村武也。彼がこの歌手のプロデューサーで、作品は全部彼の作詞、作曲、編曲だ。
 《純文学ラブソングの世界か。名づけて新東京フォークなあ...》
 ワインを二杯ほど飲みながら、僕はステージにゆったりと向き合う。開演前に弦と話した歌社会のあれこれは、どこかで尻切れとんぼになったまま。おがさわらの歌が、しみ込んで来る。田村が書いた詞のフレーズが、すうっと寄り添って来る。「貨物船」「朝の相剋」「幸せのカタチ」「あなたは風わたしは散る花」「彷徨いの哀歌(エレジー)」...。タイトルがそのまま、彼と彼女の世界をくっきりさせているな。
 〽花のマネして散ったら気づいてくれますか...
 おがさわらの歌の主人公が訴えている。言葉に言い表せないほど愛しているのに、愛というもののはかなさにおびえるように、熱い思いを胸の中に押し込む風情。そして、
 〽埋もれ木に花が咲いたら思い出して下さい...
 と、歌声は悲しみの色を濃くして行く。
 〽雨の日は傘さして、お池のほとりの蝸牛...
 そんなふうに母の帰りを待っていた子供のころから、人はずっとひとりぼっちなのだろう。
 〽愛し方がわからない。誰か教えて、教えてください...
 と祈ったころもある。その前後にいくつかの恋をして、破れた傷をかかえるうちに、少し慎み深く、少し臆病にもなって、都会の風景の中で心はいつも揺れているようだ。
 〽真夜中の環八通り、擦り切れた踵が痛いよ...
 と自分を振り向き、
 〽真っ白な息を辿れば、あの日に戻れるかな...
 とも思うが、それも叶わぬ夢だと、人はみな判っているものか―。
 この夜のおがさわらあいのライブは、「心に咲く名もない花」と「ピアノ」という組合わせのシングルで、テイチクからメジャー・デビューした記念のイベント。「心に...」はTBSテレビの「噂の! 東京マガジン」のエンディングテーマになり「ピアノ」は、NHKラジオ「ユアソング」で10、11月の2カ月間取り上げられている。新人としてはなかなかの仕掛けだが、この人、初ステージが3才で、長じて「つきよみ」という女性ユニットを組み、ソロになってからは小室等、加川良、山崎ハコ、杉田二郎らと共演した長いキャリアの持ち主だ。
 プロデューサーと作家を兼ねる田村進二は、実はヒットメーカー弦哲也の息子で、フォークの流れを汲む新感覚派。都会で生きる若者の愛と孤独を描いて、一曲ずつが短編小説みたいなドラマ性を持つ。おがさわらと組んで2010年にミニアルバム「あんた...」2015年にはフルアルバム「サクラ知れず」を作っている。この夜のライブで歌われた15曲は、それらの収録曲にストックも4曲。おがさわらを自作の表現者として、切磋琢磨して来た長い年月がしのばれる作品群だが、ライブの終盤、
 「何が良くて、何が巧いかではなく、ただ意地で頑張って来た」
 と吐露したあたりが本音だろう。売れ線狙いの流行歌ではなく、一途に書きたいものを書き、歌いたい世界を世に問う作業は、相当に厳しかったはずだ。
 田村は昭和テイストのフォークと芝居をコラボ上演する路地裏ナキムシ楽団の主宰者で、作、演出、出演から舞台美術、音響、照明などのプランニングまで全部を手がける。僕は昨年と今年、その公演の出演者に加わり、舞台の表と裏から、この人の力量、感性、気くばりから独特の統率力までをつぶさに見聞、感じ入っていた。
 原宿の夜、僕は弦哲也に、
 「いいものを見せてもらったよ」
 とあいさつしたが、田村とは
 「お疲れさんでした。来年もよろしくな」
 と、演出家と役者の物言いになって別れた。
週刊ミュージック・リポート

「そこそこ」で納まるなよ!

 9月30日にやった「星野哲郎メモリアル・ゴルフコンペ」の前夜、酔った岡千秋が「バカをやらなきゃ、歌なんか書けやしねぇ」と力説、徳久広司が「当たり前でしょ」とでも言いたげにニコニコ。それはそうだと、僕はあいづちを打った。世間並みの常識に収まり切れない熱いものがあるから、人は歌を書き、歌で芸をやる。今月の歌10曲を聞いて、そんな夜を思い出した。不良がやる仕事なら不良らしく「そこそこ」の出来じゃない歌で、たまには世間を驚かしちゃどうだろう?

おんなの情歌

おんなの情歌

作詞:田久保真見
作曲:あらい玉英
唄:服部浩子
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 別れを予感する女主人公は、そんな夜に一番好きな紅を引く。抱いて欲しいと言えないから、男の肩を小さく噛んだりする。田久保真見の詞は、女性らしいこまやかな表現だ。
 あらい玉英の、ゆるみたるみのない曲を、服部浩子が切なげに歌う。ビブラート大きめな歌い伸ばし、時おり歌でシナを作って、これが近ごろのこの人流か。
 以前の彼女は、作品に何も足さず、何も引かずに、率直な歌唱が特徴だった。それがこういうふうに変わったことに、この人の歌って来た年月がしのばれる。

星の川

星の川

作詞:たきのえいじ
作曲:あらい玉英
唄:エドアルド
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 前作に続いての母恋いソング。たきのえいじの詞がそれにこだわるのは、エドアルドの生い立ちを素材にするせいだろう。ブラジル出身で、日本のカラオケ大会で認められたが、その後長くアルバイトで生活、デビューにこぎつけた経歴も、それに似合うか。
 歌声は哀愁をたたえて、歌唱もしっかりしている。歌う目線がきちんと上を向き、感情におぼれていないから、妙にのびのびとした切なさが、作品を満たす。
こういう悲しみの表現は、もしかすると日本の歌い手たちには無いものかも知れない。

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人生夢桜 作詞:下地亜記子 作曲:岡千秋 唄:原田悠里

 笑顔千両で春を待つ主人公が、その思いを人生論ふうに展開する詞は下地亜記子。岡千秋の曲と前田俊明の編曲が、それを景気よく弾ませて、浪曲テイストに仕立てた。各コーラス歌い収めの歌詞2行分にその妙があり、原田悠里の歌も、すっかり"その気"だ。

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幾多の恩 作詞:麻こよみ 作曲:原譲二 唄:北島三郎

 傘寿の80才、歌手生活55周年の北島三郎が、その感慨を重ねるように歌う。人との出会いと受けた恩義を思い返し、人生の"これまで"と"これから"がテーマ。10月5日、北島が開いた感謝の宴の閉会時にも流され、作詞した麻こよみは気分がよさそうだった。

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信濃慕情 作詞:悠木圭子 作曲:鈴木淳 唄:入山アキ子

 信濃路をひとり旅する女性の傷心ソング。悠木圭子・鈴木淳コンビの、手慣れた歌づくりと言っていいか。入山アキ子の歌声は温かく、歌唱は律気。素人っぽい歌い出しの歌詞2行分がそうなのだが、元看護師さんと聞いて「そうか、そうか」と合点がいった。

十勝の春~ふるさとに春の雪~

十勝の春~ふるさとに春の雪~

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:戸川よし乃
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 高音から出る岡千秋の曲を、戸川よし乃がのうのうと歌う。『北国の春』を思わせるタイプの曲で、ほっこりとした聞き心地が残る。円香乃の詞と組んで、岡はこの人にあれこれ、手と品をかえの歌づくり。エンディングのセリフ「ただ今」「おかえり」には笑った。

北海おとこ船

北海おとこ船

作詞:たなかゆきを
作曲:村沢良介
唄:木原たけし
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 木原たけしは声味と節回しで聞かせる歌手。東北なまりが残るあたりが独特のスパイスになる。詞のたなかゆきを、曲の村沢良介のベテラン・コンビが、そんな木原に漁師歌を作った。のびのびと木原の声が立つあたり、ツボを心得た歌づくりと言えよう。

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明日舟 作詞:石原信一 作曲:岡千秋 唄:北野まち子

 「泣いて笑って、笑って泣いて」を3コーラスのサビに使って、幸せ薄い女主人公が明日を夢みるおなじみソング。岡千秋の曲に、ここのところ量産気味の石原信一の詞だが、さて今後、人生の彫りの深さをどう描けるのか。北野まち子の歌は、高音部で艶を作った。

たそがれ本線

たそがれ本線

作詞:石原信一
作曲:聖川湧
唄:山本あき
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 山本あきの可憐声が、各コーラス歌い収めでかすれ気味に情感を増す。これも石原信一の詞に、曲は聖川湧。夕陽に染まる紅い海と、わだちの音きしませる列車が道具立てだが、その割に「動き」が感じられない。歌書きにはもう少し、詞の芯に粘り腰が欲しい。

みちづれ川

みちづれ川

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:小金沢昇司
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 小金沢昇司は、とても器用な歌手である。わがままな男が長く女を道づれにして「ごめんよ、ごめんな」と詫びる歌を、それなりの口調を作って歌う。徳久広司の曲が気分のいい展開で、愚痴ソングを快くした。彼と小金沢にある一種の不良性が少しは生きたか?

MC音楽センター
 「大阪しぐれ」の歌詞はけっこう隙間があったなと思う。それでは作詞家吉岡治は、先輩の石本美由起同様に、そんなタイプの書き手で、作曲した市川昭介や歌い手に事後を託したのか? いや、あながちそうでもない。「天城越え」はどんどん隙間を埋めて、歌づくり合宿をした作曲家の弦哲也を閉口させているし...。
 千葉・大綱のサクラホテルで、深夜にぼんやりとそんなことを考えていた。BS朝日の「昭和偉人伝・吉岡治」のビデオ撮りで、彼についてしゃべったのが10月31日の午後。そのあと千葉へ移動したのは翌11月1日、季美の森ゴルフ倶楽部で彼の7回忌メモリアルコンペに参加するためだった。丸2日、吉岡治漬けである。
 〽くもりガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか...
 は、吉岡の「さざんかの宿」の名文句。昔から演歌書きたちは、歌い出しの2行をどう決めるかに腐心している。それが歌の入り口であると同時に、作品全体を象徴して聴き手の酔い心地を決定的にするせいだ。「くもりガラスを拭いたって、何も見える訳がないじゃないか」などと、即物的な感想を持った向きもあるやに聞いたが、それは詩情とか情感とかに遠い人の受け止め方で、大衆はためらわずにこの歌を支持した。
 メモリアルコンペには25人が参加。こぶりな規模だが吉岡と親交があった面々が揃い、いかにも彼を偲ぶ催しらしい雰囲気になる。ゴルフに参加しなかった向きまで、終了後の宴に遠路はるばる参加したのも、吉岡の情の熱さを思ってのことか。みんながそれぞれの思い出話をしての〝噂供養〟で、優勝した元ビクター制作部長の朝倉隆が、自分のゴルフではなく、もっぱら遊びのグループ〝仲町会〟を語ったのもそのせい。吉岡はこの会の有力なメンバーで、朝倉は永久幹事。この日は昼すぎまであいにくの雨だったが、
 「こんな雨の日にやっていられるか!」
 と、昔、吉岡が伊豆あたりのゴルフ場で、勝手に途中リタイアしたのを思い出して、僕はクスクス笑った。
 4位になった弦哲也が、吉岡との仕事を187曲と言い切ったのには驚いた。そんなに沢山...とびっくりし、この日のために数えなおしたのか...と、彼の吉岡思いと律儀さに感じ入る。
 〽聞こえるはずない汽笛を聞いて...
 の歌い出しに、行き暮れた女の嘆きを聞く思いで、僕が好きな「越前岬」の作曲者岸本健介は、宴会のみの参加だったが、
 「あのヒットのお陰で、作曲を諦めるかどうかの迷いを吹っ切ることが出来た」
 としみじみした。そう言えば吉岡も「真っ赤な太陽」「八月の濡れた砂」「真夜中のギター」のあと、作詞を断念しかけていた。おりからのフォーク・ブーム、GSブームに対して、演歌歌謡曲の存在理由に疑問を感じてのこと。それが新宿での談論風発で「演歌の娯楽性」に思い当たり、眼からウロコが落ちたと後に話していた。行き詰まる後輩に優しかったのは、そんな体験を持っていたせいか。
 《あいつが居ればその間の事情を、くわしく聞けたのに...》
 僕は当時の吉岡の議論相手だった中村一好プロデューサーまで、ついでみたいに偲ぶことになる。
 コンペは吉岡夫人久江さんの3回忌もあわせて行われた。長男吉岡天平の発案に四方章人ら仲町会有志が賛同してのこと。宴に先立つ時間、天平を中心に吉岡家の人々が賞品を揃えるなど、一家総出で甲斐々々しかったのもほほえましい。メンバーは天平に夫人の真弓、息子の冬馬、吉岡の長女あすかと娘のあまなの5人。あまなは吉岡夫妻の孫で学習院大学生。かつて、役者の僕の付き人として明治座に一カ月通った。冬馬は夫妻が笑顔を見ぬままに逝った孫でまだ1才とちょっと。〝忘れ形見〟と言えようか。
 吉岡は自ら「後ろ向きの美学」を標榜、悲愁の中でかすかな救いを求める女心ソングを書く名手だった。その後、ブームみたいに不倫ソングを書く向きは多くなったが、みな彼の域にはほど遠い。
 《あれは結局、吉岡治という一つのジャンルだったのか!》
 僕はそう合点するが、それにしても寡黙で一見とっつきにくい男だった。天城白壁荘で彼が主宰した句会の彼の一句を思い出す。
 「霊柩車、春あわあわと雪纏い」
 やっぱり彼の美意識は暗めだったなあ...。
週刊ミュージック・リポート
 やっぱり話は〝心友〟高野公男のことで終始した。文化勲章受章が決定した作曲家船村徹の記者会見。10月27日午後、代々木上原の日本音楽著作権協会(JASRAC)の会場はおめでたムード一色。彼はこの協会の名誉会長だ。
 「大勢の先輩たちの忘れものを、私が拾って届けることになったような感じで...」
 と受章の感想を切り出し、私なんかが...と続けた船村の語尾が揺れる。もともとシャイで、いつもなら冗談まじりになるのが、事が事だけに慎重に言葉を選んでいる。大衆音楽がこういう形で認められた光栄と嬉しさは限りないが、84才、手放しで喜んだりはしにくいのだろう。
 春日八郎が歌った「別れの一本杉」でブレーク、気鋭の歌書きコンビとして登場したのが船村と作詞家の高野公男。しかしその翌年の昭和31年9月8日、高野は26才で亡くなっている。船村は24才だった往時を思い起こして、今回の受章はまず、高野の霊に報告したという。
 「なにしろ敗戦の8月15日以降、日本の国がどうなり、みんながどう生きていけるのか...」
 という混乱の中で、出会った二人が
 「焼野原で働いている人たちのために歌を作ろう」
 と誓い合い、高野が出身地の茨城弁で書く詞に、船村が出身地の栃木弁で曲をつける歌づくりが
 「きょうまで続いて来たようなもので...」
 と作曲生活を総括する。記者たちの笑いを誘ったのは
 「若い人たちの運動会みたいなものもいいけどねえ...」
 という昨今の音楽状況の捉え方。それはそれとして認めながら、
 「日本語のすばらしさを生かし、伝えることで、今まで通りのお手伝いをしたい」
 というのが、問いに答えた作曲家としての〝今後〟だと言う。
 それにしても、大変な一年になった。心臓手術であわや...の危機を脱したのが5月6日、茨城・水戸でやった「高野公男没後60年祭演奏会」の舞台裏は車椅子。加齢のせいもあり、極度に落ちた体力回復と歩行のリハビリ中に、今回の吉報である。11月3日は天皇陛下から勲章を拝受するのだから《しっかり歩いてうかがう》と覚悟を決めた。
 そんな船村を笑顔にしたのは、弟子たちの活動。鳥羽一郎を筆頭に、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会が、2日前の25日、九州の天草市民センターで「頑張れ熊本! チャリティー公演」をやった。それぞれが師匠から貰った作品を歌い、内弟子ぐらしの話もしながら「別れの一本杉」「矢切の渡し」「風雪ながれ旅」「おんなの宿」など、船村の代表曲でノドを競った。
 鳥羽がほぼ3年、あとの4人はみな10年前後、船村の身辺で暮らし、学んだから〝義〟も〝情〟も十分に心得ている。それが相談して決めた催しで「ぜひ僕の故郷で」と三男格の天草が受け「よし、行って来い!」と師匠から背中を押された。歌唱は鳥羽の「晩秋歌」「海の祈り」がお手本なら、応分の力量を持つ4人の弟分たちも、緊張と昂揚でビリビリ状態。誠意がもろに歌に出るから、昼夜2回、満員のファンも呼応して大喜びだ。
 《船村一門らしい、いいショーになった》
 と、同行した僕は感じ入ったが、チャリティー金額「450万円!」には、受け取った熊本県の小野泰輔副知事、中村五木天草市長が驚き、会場がどよめいた。聞けば歌手たちはノーギャラで旅費宿泊費も各自負担。入場料から会場費と制作費を差し引いた残り全額が寄付されている。
 熊本空港から益城町を回り、緑川沿いに天草へ入った。瓦礫の山はあちこちに残り、一階がつぶれた家もそのまま。屋根をブルーシートでおおった家には人影もなく、大小の川岸には土のうの列。車で行く道路も改修したとは言えがたがたで、復旧、復興にはまだまだ遠い。そんな惨状をまのあたりにすれば、
 「収益の一部をどうぞ...なんて言ってられませんよ」
 と道々、鳥羽がボソッと言い、ゲストで駆けつけた森サカエが大きくうなずいたりしたものだ。
週刊ミュージック・リポート

作曲家が重厚感を狙い始めた!

 作曲家たちの意欲は、歌手にねっちり歌わせる方向へ傾いているようだ。弦哲也が中村美律子や島津悦子、岡千秋が岡ゆう子に、そんな高めのハードルを用意した。長い年月、覚え易く歌い易いカラオケ族用の発注を受けて、欲求不満が昂じてもいたろう。ポップス系の杉本眞人まで、桜井くみ子に演歌を書いて切ながらせている。
 その対極のあそび心小粋ソングを、岡が神野美伽に書いたりして、彼らの流れを変えたい気持ちが、よく判る作品が並んだ。

つづれ織り

つづれ織り

作詞:久仁京介
作曲:弦哲也
唄:中村美律子
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 歌1コーラスには何個所か、息継ぎの場所がある。フレーズ一つを歌い終え、息を吸って、次のフレーズに声をつなぐから、一瞬の空白が生まれる。肝要なのはここで声は途切れるが、歌のココロはしっかりと切れずにいること。歌巧者はその空白を逆に生かし、情感を次の歌詞の頭へ、昂りながら接続する。
 中村美律子は、その間合いが上手だ。今作はテンポがゆっくりめだから、なお難しい。作曲の弦哲也は彼女の前作、歌謡浪曲『無法松の恋』を手掛け、彼女のツボを心得ていた。両者の呼吸の合い方、なかなかなものだ。

母を慕いて

母を慕いて

作詞:荒木とよひさ
作曲:堀内孝雄
唄:里見浩太朗
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 作詞家荒木とよひさは、ちょいとしたマザコンである。昔、彼の母親が亡くなった時にその実態をまざまざと目撃した。乞われて葬儀委員長を務めた僕も、人後に落ちぬマザコンだから、三木たかしともども弔問客の目もはばからず、大泣きしたものだ。
 「本当は弱虫 本当は泣き虫...」と、荒木が告白まじりに母を慕う詞を書く。作曲が堀内孝雄、編曲が川村栄二と、ヒット曲多数の仲間が、その率直な詞を生かす。気心の知れたトリオの仕事を、情に流されぬ作品にしたのは、里見浩太朗の歌唱の節度か。

霧の川

霧の川

作詞:仁井谷俊也
作曲:仁井谷俊也
唄:丘みどり
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 W型のメロディーは、冒頭と中盤と締めくくりに高音を使って、訴求力が強い。弦哲也の今作は、それにプラスαの高音部を使って、破たんの気配がない。丘みどりの声の魅力がそこにあると熟考しての生かし方。デビュー11年と聞く彼女、妙にすがすがしい声味だ。

くれない紅葉

くれない紅葉

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
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 テンポ快適に、一気の・のり・で歌ったら、それなりに快い曲は岡千秋のお得意のタイプ。それをあえて一字一句、ていねいに岡ゆう子に歌わせた。はすっぱにも聞える彼女の声味を生かして、女ごころの一途さを前面に出す作戦、歌う方もベテランの技あれもこれもだ。

嫁入り舟

嫁入り舟

作詞:みやま清流
作曲:杉本眞人
唄:桜井くみ子
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 母親が乗った嫁入り舟に、万感の思いで娘が乗る。舞台は紫あやめの水郷。花村菊江の『潮来花嫁さん』を思い出したら、相当にベテランの聴き手だろう。あれは昭和35年の作品。それを現代の・のり・で切なげに、桜井くみ子が歌った。杉本眞人は演歌も書くのか!

紅ひと夜

紅ひと夜

作詞:坂口照幸
作曲:弦哲也
唄:島津悦子
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 これもテンポゆっくりめで、作曲は弦哲也。もはやベテランの域の島津悦子に、これまたハードル高めの作品だ。歌手は力量を試されるし、カラオケ熟女には歌ってごらんよの挑発か? 島津は情感とペースの配分ほどよく、3番の歌い納めに達成感が聞える。

命の恋

命の恋

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:神野美伽
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 歌い出しやサビの頭を、思いがけなく低音からしゃくるように出る。軽くはずみ加減の神野美伽の歌は、終盤の「風よ吹かずに」なんて歌詞を、ひょいひょいとまたしゃくった。昨今のロック乗り、真一文字の歌唱から一転、歌巧者のあそび心が小粋に聞える。

白雪草

白雪草

作詞:下地亜記子
作曲:徳久広司
唄:増位山太志郎
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 やっぱりこの線が似合うよ...と考えてか、作曲徳久広司が増位山太志郎を、ムード歌謡に戻した。作詞の下地亜記子も、3番あたりそれらしく重ね言葉の2行を用意する。軽い"のり"でいいテンポで、増位山も気分よさそう。前作の小節演歌の体験が、少し加味されている。

哀愁酒場

哀愁酒場

作詞:藤原良
作曲:大谷明裕
唄:田川寿美
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 「おやっ?」と思うくらいに、田川寿美の歌い出しは、弱々しくさえ聞こえた。張り歌が身上だった人が、25周年第2弾で選んだのは、万事抑えめな近ごろふう歌の語り方。内角へシュート、スピード落とした投球みたいだが、打者の手元にくい込めるかどうか。

みそか酒

みそか酒

作詞:さいとう大三
作曲:水森英夫
唄:多岐川舞子
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 水森英夫が地声から鍛え直した多岐川舞子に、今度は軽くいなして歌う曲を用意した。ひょいと吐息まじりの女のみそか酒。さいとう大三の歌詞は、1番がしあわせ演歌風味、2番で左利きの彼を思い出させ、3番で男は去ったままと絵解きする。味な作品である。

扉

作詞:瑳川温子
作曲:徳久広司
唄:ハン・ジナ
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 変化あれこれの徳久広司の曲を、ハン・ジナがスタスタと、気分本位に歌う。ハスキーな中、低音、高音には艶...の二色の声味。韓国人歌手独特のムード歌謡は、いつもヒット歌手の椅子が一つ用意されているが、彼女がそれをゲット出来るかどうか。

MC音楽センター
 「冬美、来たぞ、やっと来たぞ!」
 おつきの女性がさえぎるのも構わず声をかける。10月20日午後の明治座の楽屋。のぞき込むのれんの向こう側、化粧台に向かう坂本冬美が振り向いて満面の笑顔になった。芝居とショーの合い間の休憩時間、ほど良いころあいに声をかけたのだが、彼女は「新版女の花道」の主人公加賀屋歌右衛門から歌手冬美に入れ替わる最中。歌手の大劇場公演はたいていそうだが、30分の休憩がけっこう心身ともに忙しい。
 「女の花道」は小国英雄の原案、もともと「男の花道」として長谷川一夫や大川橋蔵が演じて来たものを、主人公を女性に変えて、冬美は18年前に舞台に載せたが、そこからも演出(市川正)が変わり、当然のことながら共演者も変わって〝新版〟ということらしい。
 幕があがると大阪・道頓堀の中座あたり、いきなり冬美が弁天小僧のおなじみの姿でおなじみのセリフである。劇中劇なのだが、これがファン相手の、なかなかの〝ツカミ〟になる。彼女扮する座長歌右衛門が、実は眼を患っていて物が見えないはず...と見破る医師土生玄碩(勝野洋)との出会いが第一幕。その眼を治した玄碩が、若年寄水野出羽守(青山良彦)の無理難題に抵抗、あわや切腹! という危機に歌右衛門が駆けつけ、事なきを得るのが第二幕だ。
 冬美の歌右衛門が江戸へ出て、人気を博しているのが今の人形町あたりの猿若座。ここでまた劇中劇。八百屋お七に扮して火の見やぐらの前で舞う。そこへ恩人の医師の切羽詰まった手紙が届き、舞台を中断する詫びを訴えるのだが、舞台が猿若座と明治座にすっぽり重なる趣向。その後、駆けつけた柳橋の料亭で、めでたく一件落着を舞うのが三つめの見せ場だ。冬美が日舞をやるとは知らなかったが、劇中劇二カ所と大詰めで、《ほほう!》のあで姿とはねえ。
 公演の後半、やたら貸切りが多いのに無理を言って観せてもらったのがこの日の舞台。彼女の歌手生活30周年記念だが、実は9月15日、NHKホールでやった記念リサイタルは見ずじまいだった。
 「何だ、見てくれないの!」
 と口をとがらせた彼女に「ご免! ハワイだ」と謝った一件がある。それにしても...と気を変えて、あの木何の木...とテレビCFでおなじみのモンキーポットやプルメリアの花、カハラの居心地、ワイアラエの1プレイを後に、急拠デルタ航空に乗ろうとした。成田着午後2時過ぎ、それならNHKホールへ何とか行ける計算だったが、機体整備不十分とかで、ホノルル発が2時間ほど遅れて万事休した。そんなバタバタを、彼女は知らない。
 第二部の歌謡ショーは、和太鼓連中の乱れ打ちから「あばれ太鼓」「祝い酒」「火の国の女」と、師匠の猪俣公章作品で始まる。「おやっ?」と思ったのは、歌声の中、低音に響きと滋味の厚さが加わっていること。近ごろ年に1枚アルバム「ラブ・ソングス」を歌っていて身につけた息づかいの変化か。その延長みたいに、アレンジをポップス系に変えた「石狩挽歌」や「大阪しぐれ」も、歌のスタイルは演歌だが、フィーリングはポップスっぽい〝冬美流〟が生まれている。「愛燦燦」など、美空ひばりは優しさと抱擁力がしっとりと聞く側を捉えたが、冬美流だと透き通るような哀感が頭上を越えてコダマになる気配。これが「また君に恋してる」以降の彼女なら、当然「夜桜お七」も出て来る。彼女の歌手7年めにプロデュースした作品だが、手前ミソながらその後23年、少しも古くなっていないのがなかなか...といい気分。気安いつきあいも、あのころから続いているのだ。
 当方が忙しくなったのは楽屋のあいさつ回り。ベテランの青山良彦には、役者としてあれこれ教えを乞うているし、江口直彌とは以前同じ楽屋暮らしが1カ月、かつらの下地にする〝ボウシ〟を手づくりで2枚も貰った。小林功・高井清史は同じ楽屋に居て「おう、おう」「おっ、頭領、来てたの!」と、あちらの声が揃ったのは小西剛、荒川秀史、橋本隆志、白国与和、大迫英喜なんて剣友会の面々、あいさつし損なったのは薗田正美、上田祐華ほか...で、冬美に会いに行ったのに知り合いがやたら大勢だ。この道そこそこ10年の僕の、そんな姿を見たら冬美もきっと呆れたろう。
週刊ミュージック・リポート
 「おい、どうなってるのよ、これは...」
 友人の花屋マル源の鈴木照義社長に説明を求めた。10月5日夜、東京のグランドプリンスホテル新高輪・飛天でのこと。北島三郎の芸道55周年感謝の宴が開かれたのだが、その会場づくりが凄まじかった。
 いつもなら入り口から会場の地下1階へ続くだらだら坂と、その先のロビーが殺風景なのだが、この夜は飾りものがびっしり。北島の大きな写真にはさまれて坂を降りる。巨大な金色の人形や、空間を圧する竜のつくりものは、彼が大劇場公演で使ったもの。ロビー正面には祝い花を贈った人名がボードに並び、生の松や花が額縁みたい。着席700人余のテーブルへ辿る道もあれこれ隙き間なく飾られ、会場ステージは大広間を見回す趣向で背景に富士山。
 「城ですよ。北島さんの故郷、北海道知内町にあるお城をイメージしてるの」
 僕が「スーさん」と呼ぶ鈴木社長が、嬉しそうに解説する。ゴルフと酒の遊びグループ小西会のメンバーだが、彼はもともと北島と同じ新栄プロの育ち。僕も亡くなった西川幸男会長の薫陶よろしきを得たから、はばかりながら二人とは同志のつもりでいる。
 《城か、その内部なあ...》
 前日から夜を徹した構築作業は、当日昼にまでまたがったそうな。花屋はその一部で、一体どのくらいの数のスタッフが動員されたことだろう。
 主人公北島については、気がかりが一つあった。9月3日、作曲家船村徹が茨城の水戸で開いた「高野公男没後60年祭演奏会」の出来事。心臓手術の予後で船村はまだ車椅子。その会のメインゲストの北島もまた車椅子で、催しの第二部、緞帳が降りた内側では、下手から船村、上手から北島と、二台の車椅子がステージに出て二人が着席、一見何事もない顔で幕を上げたのを目撃している。
 北島はその後9月12日に「頸椎症性脊髄症」の手術をし、目下リハビリ中という。水戸のあの日から約一カ月、見てはならぬものを見てしまった心地の僕は、この日、元気に振る舞う北島の姿に、やれやれと胸をなでおろした。ひと月前、夭折した相棒高野の霊を慰めるために、船村は「這ってでもいく」と踏ん張った。下肢が不自由で、前日まで欠席予定の北島は「来るな!」とさえぎる船村を「お師匠さんのためなら」と押し切って前日深夜に水戸に入っていた。
 飛天のステージ。やはり来られなかった船村はビデオメッセージで、
 「君の魂は決して老いることはないと信じている。我々が命をかけて紡いだ歌を枯らさないことを、君に託す」
 と祝し、北島はそれを孫の青年に手を添えられながら、直立、こうべを垂れて聞いた。
 昭和37年の出世作「なみだ船」をはじめ、古賀政男音楽大賞受賞の「風雪ながれ旅」レコード大賞受賞の「北の大地」などを中心に、数多くの船村作品を歌い、彼を生涯の師とする北島の歌手生活55年。アメリカ、中国、ロシア、ブラジルなどでも歌い、その都度、国の要人たちと会うなど、国際交流にも尽力、今年春には旭日小綬章を受章するなど、業績は諤諤たるもの。あいさつには安倍晋三首相まで駆けつける賑いになった。舞台に呼び上げられた仲間の歌手たちは、同い年の里見浩太朗や小林旭、橋幸夫をはじめ歌手名鑑が出来そうな顔ぶれがステージの端から端まで。
 「どうですかねえ、こんな感じになりましたが...」
 と、北島の息子で音楽事務所を仕切る大野竜社長が胸を張った。
 「うん、史上最高、最初にして最後だなこれは...」
 料理も酒もなかなかの美味。閉口したのは与えられたのが中央二番目のテーブルで、舞台を背にした席。どちらを向いても眼をあげれば知り合いの視線にぶつかって、まるで歌謡界総出だ。作詞家の池田充男など、眼が合った途端に両手をかかげて振ってみせたりする。
 《やると決めたら、ここまでやるか!》
 晴れがましさはおそらく「これが最後!」と思い定めたろう北島の胸中を思うと、僕は粛然とした気分になった。
週刊ミュージック・リポート
 《さて、例のピョンピョンを見に行くか...》
 9月25日午後、逗子から湘南新宿ラインで新宿へ出て、中央快速で中野へ一駅。日曜日で他に仕事もないし...と、気楽な1時間ちょっとのはずだった。見に行く相手は水森かおり、その浮き浮き気分に、割り込んだ奴がいる。サンデー毎日の編集次長になったという高堀冬彦。スポニチ時代の兵隊で、連載企画をどうか...という話ならそうすげなくも出来ない。
 同じ建物で相手払いのコーヒーを一杯のあと、やれやれと辿りついたのがサンプラザ・ホール2階席の3列20。後ろの列に弦哲也、伊藤雪彦、ちょいとはなれて仁井谷俊也らの顔がある。「やあやあ」「どうもどうも」と、いつもの調子のあいさつをしたところで緞帳が上がった。
 舞台中央、高い階段の上に板付きで、ライトを浴びたのがお目当ての水森。これが豪華版のドレス、裾が落下傘状に広がっているのは桂由美のデザインとか。ご当地ソングの女王と呼ばれて歌手生活も満20年。すっかりスター歌手のいでたちだから、
 《あれじゃピョンピョンは無理か...》
 こちらは歌に聞き入る態勢になる。一曲目が「鳥取砂丘」で「ン?」となったのは、いつになく歌の感情移入が濃いめ。数多くのヒット曲を、歌のドラマと主人公を客観的、お天気お姉さんふうに歌って来たのとは、だいぶ味わいが違う。ワンマンショー、2時間余を歌う実演型唱法なのか、年に一度の大舞台で、アドレナリンどばどばなのか。
 客席はペンライトの海。それが思い思いに揺れて、やや統一性に欠けるあたりから、彼女の名を呼ぶ男たちの怒号が沸く。委細かまわず歌うのか? と見てやれば、そこはファンへの対応、サービス満点のこの人らしく、1曲終わったらお待ちかねの〝ピョン〟が出たが一回だけ。お次は「釧路湿原」で、僕は亡くなった作詞家木下龍太郎の顔を思い浮かべる。
 《ここまで大きくなった彼女を見せてやりたかったなあ》
 が、年寄りじみた感慨である。暇さえあればネタ帳を道づれに、やたら旅をした歌書き。僕が水森と親しくなったのは「尾道水道」あたりだから平成12年。あれは仁井谷の詞だったが、その次の「東尋坊」から木下作品のシングルが6枚。日本中をあちらこちらで、微妙に手をかえ品をかえる作曲の弦哲也ともども〝ご当地路線〟の土台を作り花も咲かせた。五能線なんて、木下が歌にしなけりゃ誰も知らなかったろう!
 アルバム「歌謡紀行15」は、目下ヒット中の「越後水原」をメインに、書きおろしの「最果ての海」「立山連峰」「宛先のない恋文」などを加えているが、そのお披露目のコーナーも水森はちゃんと歌う。心配性の当方の二つめの「ン?」は歌声のばらつき。情感の彫りを深める歌唱が、中低音で多少揺れるのは、人気歌手によくあるオーバーワークのひずみか。しかしそれも、哀切の高音部を軸に、歌いながら修正するあたりに、この人のキャリアを感じる。
 「わァ、すっごい」「やったあ」に「ありがとうございます」を連発、例のピョンピョンも随所にちりばめて、幕切れは「紅白歌合戦」で登場した極彩色の鳳凰に乗っての一曲。各地のコンサートでも売り物にしていて、名前は
 「おおとりのピースケ」
 と、無邪気な口調で笑いを誘った。
 《幾つになってもこの人の娘っぽさの魅力は変わらないなあ》
 と終演後、僕が一息ついたのは、サンプラへ行く都度、ひとりで寄ることにしている南口商店街の中のそば屋〝さらしな〟だ。二八のそばがなかなかだが、それにも増して豊富なのが酒の肴。さっそく「そば味噌」と「いかの沖漬け」のミニ「いちぢくの味噌焼き」なんてのをつまんで、そば焼酎のそば湯割りをチビリチビリになる。
 《そうだ、彼に声を掛ければよかったかな》
 と、お仲間の顔をいくつか思い浮かべたが後の祭り。その途端、アッと忘れ物を思い出した。楽屋に寄らなかったばっかりに、彼女との恒例のハグをし損なっていたのだ。「尾道水道」の時からずっとなのに...と、酒の酔いで揺れたのは、寄る年並もわきまえぬ未練ごころだった。
週刊ミュージック・リポート
 歌手山内惠介が、東海道新幹線の小田原駅を降りたのは午後3時1分。そこから南足柄市文化会館ホールへ車で駆けつけた。東京での仕事のメークはそのまま、衣装はさすがに着替えている。拍手と歓声に迎えられてステージに現れたのが午後4時。「スポットライト」「恋する街角」「流転の波止場」の3曲を歌って、楽屋でホッと一息。夜にいったん東京へ戻り、翌日は早朝の新幹線で大阪へ移動と、この人、やたらに忙しい。
 それにしても、あちこちに金太郎がいる箱根のふもと町へ何でまた? と思われるだろう。
 「惠介、すまん、すまん、ありがとうな!」
 と出迎えたのが、日高正人と言っても、まだピンと来ないかも知れない。実はこの無名の大歌手!?が、この日開いていたのが40回を迎えた「いもづるの会」で、彼の出身地屋久島の隣り、口永良部島の噴火災害のチャリティがサブタイトル。この会は日高がもう20年も主宰、若い無名の歌手たちの知名度を、文字通りいもづる式に引き上げようとするイベントで、山内も「つばめ返し」で悪戦苦闘していた時期に、声をかけられていた。
 もう一つの縁の主がいて、山内が所属する三井エージェンシーの社長三井健生。早くから会場入りし、小田原―南足柄の車の経路にやきもきしていた。三井はキャニオンの宣伝マン時代に山本譲二の「みちのくひとり旅」をヒットさせた実績を持ち、独立して以後は「涙そうそう」の夏川りみ、今度の山内と、二つもブレークを実現させたやり手だ。それがキャニオン時代に、日高の友人南こうせつから、
 「会社に頼むんじゃない。あんた個人に力を貸してもらいたいんだ」
 と、日高の移籍話をねんごろに頼まれ、めいっぱい奔走した内輪話があった。
 山内は昨年大晦日に念願の「紅白歌合戦」に初出場。その余波か、
 「どんどん大きな仕事が入って来て、山内の年内のスケジュールはもうびっしり...」
 と、今年に入って三井はえびす顔だった。
 「ひところは、馬車馬みたいに働きたいと、社長に訴えていたけど、最近は本当に馬車馬みたいになって...」
 と、山内も嬉しそうに話す。今回の仕事は、さほど大きめのものとも思えないが、昭和から平成へ、長く続く男たちの友情の発露となれば、これも日高の人徳と言っていいか?
 地元の人に言わせれば、南足柄は農業が中心、ごく平穏ないなか町で何ごとも地味、人見知りの土地柄とか。8月27日、そんな町のホールが「開場以来の大入り」になったのは、当地へ移住して8年になる日高の言動が刺激になったことと、40回を記念して山内をはじめ西崎緑、チェウニ、岩本公水、野村未奈に司会で人気の夏木ゆたかが歌手として参加したことが原因か。
 肝心のいもづるさんたちは、しぶとく全回出演の髙城靖雄を筆頭に葵将貴、謝鳴、木花天乃、さの美佳、The龍雲に、後輩でスポニチ勤務と二足のわらじの仲町浩二ら。力のある中堅どころにはさまって持ち歌を披露、みんな嬉しそうだった。常連の葵は今回、どうやら地元の強みで、掛け声も盛ん。新曲「偽りの女」が田久保真見の詞、大谷明裕の曲と聞いて僕は「ほほう!」だ。
 日高の新曲は「木守り望郷歌」で作詞が喜多條忠、作曲が小田純平。古い柿の木の最後の実一つは、鳥たちのために残す木守りの思いやりという、ひなびた5行詞に、民謡風味少々のメロディーがついている。昔、武道館を満杯にした伝説を持つ日高は、大音声の張り歌が得意だったが、加齢の衰えを見せ、親しいつき合いの僕は一時「歌手引退!」の勧告をしたこともある。それが70才を過ぎ、苦肉の語り歌に転じたら、このところ妙にしみじみ、味な歌が魅力的になっている。
 「ま、シンプル・イズ・ベストと言うことか」
 と交友40余年の僕は負け惜しみも兼ねて、初めて彼の歌をほめることになった。
 「そうですかねえ...」
 日高の人柄にぞっこんと言う小田純平は、この日弾き語りで「還暦ブルース」を歌った。ドスの利いた声とパワフルな歌唱で聞き手を圧倒。僕は大きな拾いものをした気分になった。
週刊ミュージック・リポート

編曲の前田、南郷が腕比べ!

 10曲聴いて気がついた。石川さゆりの『恋しゅうて』の編曲が坂本昌之なのを除けば、前田俊明が5曲、南郷達也が4曲のツバ競り合い。しかも、前田が『北海無法松』『北の出世船』南郷が『女は抱かれて鮎になる』『北海夫婦唄』と、大作や勇壮ソングで腕を振るい、独自の色を作っている。
 一般の方には、聴き比べる機会が少なかろうが、気をつけて聴いてみて欲しい。演歌歌謡曲の編曲で、人気を二分する二人の、工夫のほどが見えるはず。ちなみに彼らは、僕ら仲町会のお仲間で、ゴルフでも腕を競うのだ。

女は抱かれて鮎になる

女は抱かれて鮎になる

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:坂本冬美
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 7月8日放送開始のTBSテレビ「神の舌を持つ男」の主題歌だから、もう耳にした向きも多いだろう。演出を担当する堤幸彦から「どまん中の演歌を」と注文されたと聞けば「なるほど!」とうなずける作品だ。
 荒木とよひさの詞が2行ずつ5ブロックで1コーラス10行。それを弦哲也の曲が、5つの階段を昇り降りする。近ごろ稀有のドラマチックな大作だ。
 それを冬美が、実に彼女らしい表現で歌って、気負いもゆるみたるみもない。官能的な詞世界だが、それに堕ちぬ品位も彼女流か。

北の出世船

北の出世船

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:福田こうへい
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 『峠越え』以来、2年4カ月ぶりの福田こうへいの新作。いろいろ事情があっての足踏みの後だが、歌声の若々しさと彼なりの覇気が歌を彩っていて、なによりだ。
 もともと民謡調は、声の味と節回しの巧みさが勝負のジャンル。そこを作曲の四方章人が生かした。歌い出しの「霧がヨー 霧がほどけた...」と、歌詞を繰り返したのは、歌を高音からスタートするための細工。高音で出ればサビと歌い納めも高音になって、W型メロの典型、曲の訴求力が強くなる。福田の小節コロコロも、冒頭から出て来てなかなかだ。

一途な女

一途な女

作詞:松井由利夫
作曲:岡千秋
唄:大川栄策
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 アルバム収録の、旧作の新録音、改題...と聞けば合点がいく。松井由利夫が書く古風だがきっちり決まった5行詞、岡千秋の曲も起承転結いい型で、大川の高音の声味、小節回し、歌のゆすり方を生かしている。昔なら春日八郎に似合いそうな、昭和テイストだ。

恋しゅうて

恋しゅうて

作詞:喜多條忠
作曲:杉本眞人
唄:石川さゆり
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 前作に引き続き、さゆりが詞の喜多條忠、曲の杉本眞人とトリオを組んだ。譜割り細かめの杉本メロ、それにつられぬ喜多條の言葉少なめの詞が、弾み加減で独特の語り口を作る。未練ソングだが未練っぽくない表現で、さゆりは手慣れた歌の演じ方をした。

あかね雲

あかね雲

作詞:幸村リウ
作曲:西つよし
唄:竹村こずえ
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 ドスが利いた声味の持ち主と思っていたが、竹村は今回、そのドスの部分をひっこめた。声を張って、「決める」部分を「置きに行」く歌い方で、その分だけ醒めた情感が前面に出る。各コーラスの歌い納め「あかね雲~」で伸ばすあたり、視線が遠めを見上げるのもいい。

松江恋しぐれ

松江恋しぐれ

作詞:さとうしろう
作曲:弦哲也
唄:永井裕子
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 歌詞の言葉ひとつひとつにこだわらず、メロディーの起伏に悪ノリもせず、すうっと一筆描きの歌にする。永井裕子のこのところの進境だろう。地名や名所あれこれのさとうしろうの詞。暖かめ優しげの弦哲也の曲で、こざっぱりした絵葉書ソングが出来上がった。

北海夫婦唄

北海夫婦唄

作詞:柴田ちくどう
作曲:徳久広司
唄:鳥羽一郎
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 日高の昆布、サラブレッドの牧場などが、詞の小道具。出稼ぎ夫が旅支度、留守居の女房が冬支度...と、これは語呂合わせ。そんな世界をのうのうと歌う鳥羽に、サビあたり意表を衝く中、低音を使ったのが徳久広司の曲。聴き進むとひたひたと、妙に沁みる歌だ。

ふたりで一つの人生を

ふたりで一つの人生を

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:山本譲二
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 ゆったり、明るめに出る歌詞1行分で、この歌の気分は決まった。詞のたかたかし、曲の弦哲也の、やりたいことがすぐに判る。男っぽさが売りの山本譲二のキャラから、男っぽさを引っ込めて、逆に男心の暖かさを作る算段。譲二もそのところをよく判っている。

北海無法松

北海無法松

作詞:新條カオル
作曲:岡千秋
唄:細川たかし
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 無法松は便利なキャラ。以前、頭に「女」をつけた例があったが、新條カオルは「北海」を乗せた。元祖は九州だが、どこへ持って行ってもそれなりに生きる。男っぽく勇ましく、一途なことが共通点だが、細川たかしは今回、声に頼ることなく、すっきりと仕立てた。

雪舞いの宿

雪舞いの宿

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:藤原浩
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 思いのたけを、ためにためて突っ込んで歌う。息づかいも工夫して、狙いは情緒てんめんの世界。美声の持ち主の藤原浩が、すっかりそれを返上したみたいな唱法を試る。湯の宿ものの未練歌。女ごころはかくや...とばかりの歌唱で、藤原は転機を探るようだ。

MC音楽センター
 「同行二人」という言葉がある。「どうぎょうににん」と読み、巡礼者が「いつも弘法大師とともにある」という祈りを込めて、笠などに書きつける。作曲家船村徹の場合は、心友の作詞家高野公男が弘法大師に当たるように思える。船村が24才の時にブレークした「別れの一本杉」は昭和30年のヒットだが、コンビの高野は翌年の9月8日、26才で亡くなる。わずか7年の交友に過ぎないが、以後の船村は終生、高野と共に生きることを覚悟、今年9月3日には、水戸の茨城県民文化センターで「高野公男没後60年祭演奏会」を開く。タイトルが「高野公男・船村徹 友情無限」――。
 第一部は、高野と船村の映像にナレーションと歌。10代の音楽学校時代から病床の高野を見舞うショット、高野の没後毎年祥月命日に欠かさない墓参のスナップなどが大写しされ、船村の言葉がつないだ。
 「高野はずっと私の体の中に生きている」
 「毎年の墓参で僕は、移り行く日本の姿を彼に見せ、いろんな報告をしている」
 「人生とは思い出を作り、それを積み重ね、思い出の中に埋もれていくものなのか...」
 例の訥訥とした栃木なまりで、歌は「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「男の友情」の3曲。1500の客席満員の善男善女は、粛然と耳を傾ける。しかし、船村の声はすれども姿は見えない。
 彼が拍手で迎えられたのは、第二部で弟子たちが高野・船村作品を歌い継ぐコーナー。緞帳が上がると船村と北島三郎が、テーブルを前に椅子に座って板付き。そこで船村の回想談が始まるのだが、意表を衡いた女遊びエピソードなどで、会場の爆笑を誘う。追悼イベントをあえて明るい〝60年祭〟とした意図からか。北島と鳥羽一郎を両脇に、ギターの弾き語りで「男の友情」を歌ったシーンでは、舞台そでで森サカエが泣き、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子育ちが眼を赤くした。
 身内の人々はみなそれを、息をひそめて見守っていた。船村が心臓手術をしたのは5月6日、あわや心不全の危機を脱したのだが、心臓弁置き代えの手術は8時間を要した。84才の高齢で体力も落ちていたせいか、術後の回復も手間取る。退院が7月9日、以後辻堂の自宅で予後の闘病を続けた。例年6月に開く「歌供養」は中止、8月、言い出しっぺで制定された「山の日」の記者会見も前日に欠席を決め、高野のこの日の会だけは「這ってでも行く」一念で、船村は夏の酷暑と闘い、自分の心身を鞭打って来た。実は、今なお歩行困難で、会場入りも楽屋と舞台の往復も車椅子...。
 そんな気配を会場に洩らさぬまま、弟子たちは船村作品を歌いつのった。鳥羽が「別れの一本杉」や「兄弟船」森サカエが「北窓」松原のぶえが「おんなの出船」静太郎が「ごめんよ、おやじ」天草二郎が「一徹」走裕介が山の日記念曲の一つ「山が、笑ってら」村木弾が「ござる~GOZARU~」念願の船村作品を初めて得て「肱川あらし」を来年1月に世に出す伍代夏子は「花つむぎ」で、演奏は船村コンサート常連の仲間たちバンド。会の趣旨が趣旨のうえ、師匠の御前歌唱だから、歌手たちは皆めいっぱいの歌唱で観客を喜ばせた。
 前夜夕、宿舎のホテルで開かれた食事会で、僕は手術の日以来、久々に船村に会った。やせてはいたが血色は良く、驚いたことに髪が黒々としていて、日本酒をグイグイやる。患ったのが心臓だからさすがに煙草はやめ、母親の「毒消し効果があるから吸え」との遺言は破っていた。
 手術の最中、船村は三途の川らしきものを渡ったと言う。それは子供のころ遊んだ鬼怒川に似ていて、河原には一面にかわらなでしこが紅く咲き誇っていた。川向うには少年時代の友人の顔が揃い、その中から一人、
 「帰れ!戻れ!」
 と叫んだのは戦死した実兄健一氏。船村はズボンの裾をまくり上げながら、また彼岸を後にして戻ったそうだ。
 60年前に高野を見送った水戸で、船村はそう笑いながら取り戻した元気を示した。完全復活にはまだ少々時間を必要としそうだが、全快したらきっと彼は、高野と「同行二人」の演歌巡礼を続けることになるのだろう。
週刊ミュージック・リポート
 21年前の1995年5月8日、テレサ・テンはタイのチェンマイのホテルで亡くなった。42才の若さで、ぜん息による呼吸困難のためである。同行していたのはフランス人の自称カメラマン、ステファン・ピエール。14才年下の恋人のイケメン。テレサは常々郷ひろみや田村正和が好きだと言っていたが、ピエールは彼らに似かよった風貌と雰囲気を持っていた。
 彼女から〝日本のボス〟とも〝日本のお父さん〟とも呼ばれていた元ポリドール―トーラスの重役・舟木稔さんは、そのころの話になると苦虫を噛みつぶした顔になる。ピエールは生活力がなく、テレサに寄りかかりっきりの青年。パリに長く住んだテレサに似せた言葉で表現すれば〝ジゴロ〟日本的には〝ヒモ〟と言う単語を使うことにためらいはなく、
 「彼女は結婚する意思を全く持っていなかった」
 と断言する。
 何で今ごろ、そんな昔の話を...と思われる向きもあろう。実は8月24日、僕がレギュラー出演しているUSENの「昭和チャンネル」10月放送分で、舟木さんをゲストにテレサ・テンの特集を録音した。「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」のヒット3連発で、テレサは日本のスター歌手にのし上がった。しかし彼女は、20才で初来日したころからすでに、香港を拠点に活躍していた大物歌手。新曲を出す都度プロモーションのために来日、集中的に仕事をするが、年のうち大半はアジアで歌っていた。声はすれども本人は...状態だったから、密着癖の強い記者の僕にも、手が届かなかった人、それだけに今も、興味津々の相手なのだ。
 ピエールに対する感想は、舟木さん固有のものではなく、テレサの家族、関係者もみな同じように受け止めていた。テレサ本人もそれは感じていたらしく、毎年正月に故郷台湾へ帰る時など、当初、ホテルを別々にしてもいた。「なんでまたあんな人を」とか「全く困ったもんだ」とかの感想が、やがて許容に向かうのは「本人が心安まる相手なら仕方がないか」と鵜呑みしたせい。富も名声も手にした女性のパワーと社会的地位は、男性同等、あるいはそれをしのぐものになる。
 「そのせいか、周囲に集まるのが女性っぽい人が多くなる。私はそういうタイプには、金輪際、惚れることがないから...。寂しかったよね」
 と、美空ひばりが苦笑いしたことを思い合わせる。
 テレサの半生は波らん万丈だった。父が大陸で戦った軍人で、追われて住んだのが台湾。テレサは生い立ちからして立場が微妙だ。やがて日米が中国と国交回復、台湾は孤立する。中国では彼女の「何日君再来」が若者たちに支持されると、文化を汚染するものとして彼女の歌全曲が排斥される。「昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する」と言われたころで、二人めの鄧はテレサの中国名だ。若者たちの民主化への希求は弾圧され、やがて天安門事件にいたる。香港返還も騒然の中だ。自由を求める若者たちの動きに、テレサは敏感に反応する。その集会に参加し「血染的風采」を歌い、天安門以降パリへ逃れた若い指導者たちを物心両面で支援した。いつからかテレサは中国や香港の〝自由の象徴〟になるのだが、その根にあったものは〝二つの中国〟のきしみの実体験や、国際的な政治の流れに弄ろうされた〝根なし草〟の実感、それから生まれた自由への渇仰だったろうか? それが彼女の歌に哀愁としてにじんでいたのか?
 舟木さんは彼女が20才の時に香港で出会い、以後22年間を公私ともに後見人として過ごし、没後21年の今日も、台湾にある財団法人鄧麗君文教基金会の理事としてテレサの遺した文化の維持、発展に尽力する。テレサの遺族からも
 「長生きして下さい」
 と、すべてを託される親交が続いている。
 テレサのヒット曲を連発した作詞家荒木とよひさ、 作曲家三木たかしと僕はよく飲んだが、テレサのそんな素顔までは聞きとれていなかった。それが今日になって舟木さんインタビュー番組で、得難い追加取材が出来たかっこうだ。舟木さんは僕より年上の84才。録音中、時にテーブルを叩くほどの激し方でテレサを語り、年に似ぬ若さと情熱、彼女への果てることのない愛情を示したのが感動的だった。
週刊ミュージック・リポート
 電話の受け答えで、少々不安になった。相手は星野哲郎の特番を作ると言うのだが、星野の世界にどの角度から入るのかと聞くと、口ごもりがちになる。とにかく会おうと約束して、ついでに...と助言を一つした。僕が書いた「海鳴りの詩・星野哲郎歌書き一代」を大急ぎで読むといい。エピソードが沢山書き込んであるから、番組づくりの具体的な参考になるだろう―。
 ニ、三日あと、帝国ホテルのオールド・インペリアル・バーで会う。打ち合わせなどでよく使う場所で、昼間は客も少なめ。ソフトドリンクもいろいろあって、静かな喫茶店ふうに使えるのが利点だ。僕はいつもアイリッシュコーヒーを頼む。どういう比率か知らないがコーヒーにウイスキーが入っていて、時にウイスキーのコーヒー割りみたいな濃度。一杯でほろっとハイな気分になれるから、相手が初対面の場合などに好都合だ。
 現れた女性は案の定、相当に若かった。年齢を聞くのは失礼と思いながら、どうしてもまず聞く。星野について、リアルタイムでどの程度の予備知識があるのかを知るためで、それによってこちらの話し方を決めねばならない。彼女は31才だと答えて、かかえ込んで来た僕の本に眼を落とした。平成5年、23年も前に集英社から出したそれを、図書館で見つけたとかで、付箋だらけになっている。一生懸命さが眼に見えるようだが、失礼な質問を重ねる。貴女は資料集めをしている途中で、番組づくりにはそれなりの脚本家か演出家がつくのだろうか? 答えは否で、2時間の特番を彼女が一人で切り盛りするそうな。
 《だめだ、これは...》
 僕はそこで観念した。31才ということは、昭和60年生まれ。美空ひばりの昭和最後のヒット曲で、星野の傑作「みだれ髪」が世に出た年に、彼女はまだ4才でしかない。現在のこの人のテレビマンとしてのキャリアや才腕が気になるのでは決してないが、星野の〝ひとと仕事〟その背景にある昭和を語るには、世代的ギャップが大き過ぎる。それが一朝一夕で埋まるわけもないが、徹底的にしゃべりまくるしかない。少しでも多くの共通認識を持たなければ...。何しろ事が星野に関してである。僕は彼を師と仰ぐことを公言、口はばったいが星野専門家である。乗りかかった船、中途半端な番組には出来ない。
 飲むものが途中からカミカゼに変わる。ウォッカをベースにしたカクテルで、酔いがすぐ回るから勝負が早い。その勢いでガンガンしゃべる。彼女はせっせとメモを取る。しゃべり足りないから場所を行きつけの小料理屋いしかわ五右衛門に変える。彼女は翌日、星野の故郷山口県の周防大島へ取材に行くという。それなら記念館を見てよ、筏神社へ行って、星野夫人朱実さんの姉・葉子さんに会うといい。星野夫妻の墓碑銘も撮影すべきだ。なぜならば...と、わきめもふらぬ長広舌が合計8時間。初対面の相手なのに、いつの間にか「お前なあ...」と口調が乱暴になり、しゃべり疲れた援軍に役者の友人真砂京之介を呼んだら、「一体、何が始まってるのよ」と呆れた。
 1週間後、その番組の僕のインタビュー部分の撮影がある。聞き手も彼女だが、的はしっかり絞られていた。この人は多くの人に会い、急激に勉強をして急速に星野通になっていた。「あの晩は驚いた。めったにない出来事だった」と笑いながら、眼つきが気のせいか旧知の人みたいになっていた。番組名は「昭和偉人伝」で9月7日午後9時から2時間、BS朝日で放送される。彼女の名は牧野由佳、僕はきっと身内の一人みたいな熱心さでそれを見ることになるだろう。
 BS各局は〝昭和の歌〟ばやりである。僕はこの番組のほかに「舟唄」が生まれるいきさつを語り、別の番組では美空ひばりと作曲家米山正夫との親交ほかのあれこれを話す忙しさになった。今年はじめ「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を出版、そんな時代と歌に僕なりのケリをつけた気分でいたのに何ということか!
 「他に適当な人が居ないもんで...」
 と言われながらあちこちで打ち合わせの長広舌である。
 《そうか、俺は昭和の流行歌界わいの、数少ない生き残りになったということか》
 事態をそう鵜呑みにしながら、この夏、顔を思い浮かべる親しさで偲ぶ人の多さに、思いは複雑である。
週刊ミュージック・リポート
 暑い。猛烈に暑い日々だが、沢竜二の「サマー・ワン・デイ・ステージ」は8月8日、新宿・紀伊国屋ホールで、昼夜2回の公演を終えた―と書くのは、この欄締切りの4日午後にやっつけた予定稿。時間を争う新聞づくりではよくやった手だが、なぜかこの夏は、出演した芝居の3本ともが、このタイプ。読者諸兄姉のお目に触れるころには、いずれもめでたく千秋楽...というめぐり合わせになった。
 今回の演目は「ある旅役者の記録」である。先週のこの欄で、実は大ポカをやっていて、タイトルの「旅役者」を「旅行者」にしてしまった。僕の暑さ負けの校正ミスだが「永遠の旅役者」を自認する大ベテラン沢竜二が「旅行者」では何とも相済まぬ仕儀、ご本人をはじめ読者の皆さまに、叩頭してお詫びをしなければならない。
 で、その「...旅役者の記録」だが、内容は文字通り沢の半生を面白おかしく描いた、いわゆる「沢芝居」で、舞台と楽屋風景をナマで見せながら、彼の言う、役者と観客のコミュニケーションが第一、涙と笑いの娯楽編だ。主人公は沢扮する旅がらす人斬り吹雪の忠太郎、これが通りすがりの母娘を助けたところから、土地のやくざ、用心棒との乱闘になる。殺陣の途中でやたらに「待った!」と「質問!」がかかるのは、取材に来たていのレポーター役とカメラマン役とのやりとりになるせい。
 その問答で、沢の若い日の奮闘ぶりや、女沢正と呼ばれた母親とのエピソードなどが語られる。殺陣そのものはビシバシやるのだが、間に土地の親分との珍妙なやりとりもまじえて、その緩急の間合いが面白い。やがて助けた母娘との芝居が、ご存知「瞼の母」の名場面へずれ込んで、沢の忠太郎が、ここを先述の名調子―。
 作、演出をはじめ何から何までを、けいこで固めていくのも沢流で、合い間に、
 「この手の座長芝居はこれが最後になるかもな」
 などと言い出す。もちろん役者をやめる気などさらさらないが、チケットの手配から宣伝までやる雑用兼務。そのうえに、歌あり踊りあり浪曲ありの大殺陣「俵星玄蕃」が大詰めだから、知力と体力と気力が限界だそうな。そう言いながら、戸山ハイツの集会所33ホールでのけいこでは、大汗かきながら若手役者を叱咤する。とても僕より年上の人とも思えないタフさだ。
 委細承知...と立ち働くのは岡本茉利、木内竜喜、峰珠都、青山郁彦ら一座の面々。橘進之助、橘裕太郎、神山大和ら若き座長が参加して、原康義と僕はゲスト扱い。原はレポーター役だが、初対面で、
 「この間の〝坂のない町〟も見ました」
 と言われてドッキリ。東宝現代劇75人の会の内山恵司、丸山博一らと知り合いで、森光子版「放浪記」などで共演した仲だそうな。世間は狭い! と実感しながら、僕の役は狂言。方旅の一座らしい派手な衣装で、拍子木など打ち鳴らして開幕の口上をやるなど、二、三度チョロチョロ登場した。出ずっぱり、セリフ山盛りの役だけが、いいという仕事では決してない。チョイ役といえども一座の空気になじんだうえに、それらしい役割を果たせるかどうかが肝要で、折から競り合う形になったリオ・オリンピック同様、沢一座には参加することに大いに意義があるのだ。
 5月末からみっちりとけいこをした東宝現代劇75人の会公演「坂のない町~釣船橋スケッチ」(7月6日~10日、深川江戸資料館小劇場で7回)から一転、若者集団の路地裏ナキムシ楽団公演「オンボロ観覧車」(7月22日~24日、下落合TACCS1179で5回)をやって、今回の沢一座である。ひでりの夏をおろおろ歩いた僕の役者の季節は何はともあれ一段落。この19日に著名な書家金田石城が監督、主演する映画「狂墨」に骨董商佐藤源三役で出演するのを残すだけとなった。
 9月3日には水戸市で「高野公男没後60年祭演奏会」がある。心臓手術で危機を脱した船村徹が、この日のために酷暑を闘病に専念した、乾坤一擲のイベントだ。何はおいても同行し、船村の一念を見届けなければなるまい...と、ココロは少しずつ流行歌評判屋に戻りつつある。
週刊ミュージック・リポート

女たちは高音で奇襲する!

 女性歌手たちが高音で、ガツンと歌を決める傾向が目立つ。歌い出しから奇襲を仕掛けたり、歌い収めを歌い放ったりして、全体的に表現が率直というか、ラフと言うか。ひところの女心を切々、情緒てんめんを狙う演歌は、影をひそめている。
 徳久広司が4曲、それぞれの色で書き分けながら、訴求力を強めているのが象徴的だ。政治は数をたのんで独走、いやな事件が多発、芸能界は不倫ごっこのこんな時代、しみじみ情緒派はかったるいのかも知れない。

木曽川みれん

木曽川みれん

作詞:坂口照幸
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 ひょいと聞いての感想は、股旅ものか、民謡調か...になる。詞、曲、歌がどこかひなびて、のどかに聞こえるせいだ。ところが内容が、逢えぬ男を木曽路に追う女の、未練唄だから面白い。
 坂口照幸の詞は、彼の顔が見えるくらいにコツコツと、地名に女心をからませる。水森英夫の曲は例によって、のびのび歌わせるタイプ。その辺をうまい具合に、水田竜子が声と節で乗り切った。
 彼女はいつも、制作側の狙いに寄り添い、歌を時流に合わせて来た。これも才能だろう。

うれし涙

うれし涙

作詞:紙中礼子
作曲:南乃星太
唄:半田浩二

 男がふと立ち止まり、いろいろあった半生を振り返る。サビの歌詞にある6種類の涙が象徴的で、それを笑い飛ばして今日があると、男はうれし涙になる。
 フォーク・タッチの歌い出しが穏やかだが、後半はきちんと歌謡曲のたかぶり方。作詞は紙中礼子、作曲は耳なれぬペンネームの南乃星太、ほどの良い哀感がなかなかだ。
 作品の面白さを生かしたのは、半田浩二の歌唱。中山大三郎の弟子からスタートして、長い歌手生活のあれこれが、本音っぽく生きた。キャリアが歌わせた境地だろう。

ひとり北夜行

ひとり北夜行

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:井上由美子
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 汽車もののテンポとリズムに乗って、井上由美子の歌が弾み加減。それが心地良く聞こえるのは、歌手としての彼女の、肚が据わった歌唱に淀みがないせい。ことにア行がきっぱり晴れ晴れと響いて、歌い収めの高音が切ない。この人の進境、著しいものがある。

鴎の海峡

鴎の海峡

作詞:石原信一
作曲:桧原さとし
唄:杜このみ
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 歌い出しの歌詞2行分を、曲も歌もスタスタと行って、3行めにガツンと高音部が来る。杜このみの声が悲痛にたかぶるから、聞き手の気分はここでもって行かれる。6行詞の歌謡曲なのに形は2ハーフ。そのガツンが一番オイシイことを示す狙いだろう。

鳴り砂の女

鳴り砂の女

作詞:建石一
作曲:徳久広司
唄:永井みゆき
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 これも6行詞の2ハーフ。しかもサビあたまの勢いで、歌い出しから高音のガツンがたたみ込む。永井みゆきの歌がこれまでにない訴求力を持った。南郷達也の編曲が、サックスを前面に、おしまいまで歌をあおる。永井の転機の1曲になるかも知れない。

別れの桟橋

別れの桟橋

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里
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 そこまでやるか!と思うくらいに、6行詞の最後の1行の頭が、めいっぱいの高音である。作曲の徳久広司は、カラオケ族用の歌い易さを度外視した。あるいは歌えるなら歌ってご覧!の意か? 野中彩央里が細めの声をしならせて、そんな冒険を形にした。

浮世草

浮世草

作詞:坂口照幸
作曲:徳久広司
唄:小桜舞子
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 こちらは粛々と「王道狙い」の歌づくりらしい。小桜舞子にはそれが似合いと考えるのだろうが、しかし、歌詞にこだわりシナを作る歌い方は避けた。求めたのはやはり、のびのび感か。各節の始めの2行分、坂口照幸の詞にこれもコツコツ、工夫の跡が見える。

哀愁の酒

哀愁の酒

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:キム・ヨンジャ
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 ヨンジャはあえて高音を使わなくても、ガツンと行ける歌手だ。中、低音で歌をゆすり、流れを作って、聞く側へ迫って来る。情緒てんめんのワサビ味はやめて、コトバのつかまえ方もラフ。サビの高音「逢いに来てよ」の「ア」を、唸り加減にいって色を作った。

無法松の恋(挿入歌)

無法松の恋(挿入歌)

作詞:池田政之
作曲:弦哲也
唄:中村美律子
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 歌は一番と二番だけ、間のアンコが浪曲で長め。30周年記念に作った歌謡浪曲の挿入歌だが、そのミニ版の楽しさがある。浪曲の魅力は①声②節③啖呵...だが、中村美律子はお手のもの。巻き舌の語り口の幕切れは、大向こうにニッコリ...が目に見えるようだ。

おんなの真田丸

おんなの真田丸

作詞:鮫島琉星
作曲:花笠薫
唄:三笠優子
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 三笠優子の芸も、年の功を加えてなかなかのもの。歌詞を一言ずつ、きっぱり歌って浪曲寄りの説得力を持つ。鮫島琉星の詞、花笠薫の曲もツボを得て、大河ドラマ便乗?の域を超えた。各節の歌い収めの高音を歌い放つ三笠を、女村田英雄に見立ては失礼か?

お行きなさい

お行きなさい

作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:内田あかり
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 今月の11曲中、唯一のポップス系。これも作曲は徳久広司で、都会暮らしの女性の倦怠感をにじませる。内田あかりの歌は委細承知の趣きで、彼女の半生がたくまずに味に出る。かず翼の8行詞2ハーフのおしまいの2行分、歌い上げて決めるあたりは、洋風ガツンかな?

MC音楽センター
 美空ひばり家の嫁加藤有香によれば、
 「白い猫に出会うと、その日一日、必ずいい事がある」
 という。それじゃ僕は文字通り〝日々是好日〟だ。わが家の「パフ」は、化粧用品のそれが名前の由来で、純白の美猫。7月に芝居を2本もやれたのは、そのご利益かも知れぬ。
 有香のダンナ、つまりひばりの息子・加藤和也は小西会の有力メンバーの一人。僕の芝居を必ず観に来てくれて、24日、路地裏ナキムシ楽団の「オンボロ観覧車」(下落合・TACCS1179)の追加公演では、眼を赤くして帰った。作、演出ほか一切合切を仕切る主宰者田村武也は、昭和テイストの人情劇で、客を泣かせることに熱中する。和也はそのトリコになった訳だが、作曲家弦哲也の息子の田村とはジュニア同士の顔なじみ。「やあやあ」「どうもどうも...」と双方如才がない。
 「都はるみ女史が来てさ、すっかり演技派ですねなんて、お世辞を言われた」
 と、内心満更でもない報告をしたら、
 「そりゃそうでしょ。いい役で長ゼリフ、なかなかの味ですもん」
 と、和也は僕にも如才がない。そう言えばレギュラーで書いているひばり後援会誌の原稿が締め切りを過ぎている。有香に謝っといて! と頼んだら、
 「OKです。何しろ小西さん忙しいんですから。でも、締切りは締切りです」
 と、きちんと釘を差された。
 ナキムシ楽団は若者の音楽・演劇集団。公演打ち上げの飲み会もハンパじゃない盛り上がり方で、ヘロヘロの僕は24日、またまた横須賀線の最終で葉山へ帰る。公演中は高田馬場のホテルにいたから、机にはFAXや郵便物の山。25日昼すぎ、やっとそれを整理にかかったら「UNIONE、7月27日、SMEよりメジャーデビュー!」のカラーはがきが、まっ先に眼につく。和也・有香夫妻が手塩にかけた5人組ボーカルユニットで、グループ名は「ユニオネ」と読む。
 ひばり没後、残された業績の継承からひばりムーブメント開発までに没頭して来た二人の、新しい仕事だ。UNIONEのイケメン揃いや、全員がメインボーカルになれる歌唱力は、去年からよく聞かされて来た。ストリートやライブハウスでやった武者修行の現場は、有香の取り仕切り。「メーカーのVIPが急に来ることになったので...」と、食事の約束が延期になったこともある。
 ひばり家とは、母親喜美枝さん、ひばり本人、和也夫妻...と、三代にまたがる親交がある。ひばりの「ひとと仕事」の大きさは、身に沁みて判っているから、その文化の継承の大切さ、重さも痛感して来た。
 「でもさ、生涯、墓守りってことでもないだろ。いずれ二人の、若い世代らしい仕事にも手をつけなきゃな!」
 親しい分だけ乱暴ないい方で、折りに触れ、僕は二人を激励した。UNIONEは、その第一弾。新たにプロダクション「BiKuu Project」を興して、有香がその代表取締役。「Bikuu」は「美空」を指すのだろうが、その気合いの入り方ただごとならず...と、僕は感じ入る。頼もしい限りではないか!
 翌日の26日には沢竜二事務所から台本とチラシが届く。8月8日の昼夜、新宿紀伊国屋ホールでやる「ある旅役者の記録」で、橘進之助・裕太郎、神山大和ら若手座長、副座長など花形が揃うが、僕もゲストで出て、始まっているけいこに途中から参加する。チョイ役でセリフも少なめだから「何とかなるさ!」と例によって楽観的。8月もまた芝居でスタートになる。
 「よくやるわね、あんた、もう立派に病気だね」
 と、どこからか美空ひばりの声が聞こえそうな今日このごろだ。
 僕が一足お先で、この10月にそうなるが、ひばりは来年が生誕80年。和也・有香夫妻はまた、記念イベントを山盛りにするだろう。微力ながら何でもお手伝いを...と、僕はもう来年の心配までしている。それもこれもひばりの遺徳に合わせて、白い猫のお陰だろうか?
週刊ミュージック・リポート
 この年になって、脳ミソの使用法に思い悩むことになろうとは、夢にも思わなかった。芝居のセリフの入れ場所についてだ。東宝現代劇75人の会の「坂のない町~釣船橋スケッチ」(横澤祐一作、丸山博一演出)は、深川江戸資料館小劇場で、5日間7公演を終えた。千秋楽が7月10日で、盛大な打ち上げをやったあと、1日置いて12日から、次の路地裏ナキムシ楽団公演「オンボロ観覧車」(下落合のホールTACCS1179)のけいこに入ったのだが、さて―。
 セリフが全く入っていかないのだ。公演は7月23日からだからけいこ日数は約10日。その間にレコ倫の会議やUSEN「昭和チャンネル」の録音、友人が出演する芝居を観たりの抜けられぬ用事があっても、正味1週間はある。主宰者で作、演出の切れ者田村武也のOKは出ていて、
 《ま、何とかなるだろう...》
 と、内心では鷹揚に構えていた。沢竜二全国座長大会の口立てぶっつけ本番なども体験、物覚えの良さにも応分の自負はある。75人の会を観てくれる友人たちが、セリフの多さに呆れ、毎回、記憶力ばかり評価されるのにも慣れていた。
 どうやら脳ミソのうち、セリフ覚えに関する部位には、一定の許容量があるらしいのだ。そこに前公演のセリフ群がまだ居座っていると、次のセリフの入り場所がない気配。出来の悪いトコロテンみたいに、古いのが出ていかないと、新しいのが入る空きスペースがない状態で、これには僕も少なからずあわてた。
 「ひと月に2本も芝居をやるなんて、ベテラン俳優ならともかくあんた、そもそも常軌を逸している。二本の脚本の役どころが、ごっちゃになるに決まっているじゃないか!」
 と、当初から危惧する向きは多かった。年寄りの冷水への警鐘だが、その心配はなかった。一作めに没頭している間は、二作めの台本など読んでもまるで上の空。脳ミソもそんなに器用には立ち回れっこない。
 「坂のない町」のけいこは5月末から1カ月半以上みっちりやった。作者横澤に「辛抱役」と言われたタイプの役で、説明セリフ多めなのを何とか覚えた。お陰で公演は大過なく務められたのだが、その「みっちり」が後遺症になったのかどうか。役どころの民生委員芦野像が、追っても追っても居なくならない。
 大体、終演後1週間ぐらいは、僕本人と役のキャラが同居状態のモヤモヤになるのが常だった。今度はそこへ、次作のオンボロ遊園地の謎のお掃除おじさん村松が入り込むものだから三つ巴である。そのうえこちらもちょいとした辛抱役ふうでセリフ沢山。しかし、若者集団のナキムシ楽団では、文句なしの最年長だから、そんな弱みも見せられず、表面ニコニコ、本心ドギマギの日々が続いた。
 若者たちは元気だ。場面場面の抜きげいこをガンガンやって、深夜、打ち揃って居酒屋の交歓会。興が乗ればそのあとカラオケにも突撃するのだから、相当なエネルギー。こちらは居酒屋前半戦で脱出するが、連夜、横須賀線の最終列車で帰宅となる。若者たちは元気なうえに、全員とても気のいい連中で、当方への気の遣い方が、さりげなく細やかなのには痛み入る。
 この楽団の公演参加は昨年に続いて二度め。6人編成のバンドが舞台上にいて、役者がやるドラマと交錯するオリジナルを歌う。これが「青春ドラマチックフォーク」を標榜するだけあって、適度のセンチメンタリズムと応分の感性と覇気で、けいこ場をゆするのだ。つい聴き入って役者の分を忘れ、不覚にも鼻先にツ~ンと来ることもしばしば。身内褒めで恐縮だが、この暖かさと優しさ、若者らしい人情味と音楽性が、毎公演早々チケット完売の人気を得ているのだろう。
 7月22日の初日直前になって、僕の体内では何とか、民生委員芦野と謎のお掃除おじさんが入れ替わった。前回のトコロテンはめでたく食器に飛び出し、新しい食料が押し出し道具に装填される。こうなればしめたもので、つながりを見せ始めるセリフに、どういう情をにじませるかの計算も始まった。このコラムが読者諸兄姉のお眼にふれるころには、3日間5回の公演は恐らく、大過なく打ち上げられているだろう。以上、新米老優の脳ミソ許容力に関するお粗末の一席である。
週刊ミュージック・リポート

時に相方の変更も悪くないか!

 作家と歌手の関係には、おなじみの組合わせが長く続くケースがある。双方・あうん・の呼吸の歌づくりだが、時にその相方が変わることもある。
 今月の新曲では、成世昌平の詞がもず唱平から久仁京介、秋元順子の曲が花岡優平から杉本眞人、夏木綾子の詞が瀬戸内かおるから柳沼悦子に変わっている。制作サイドの意向や、背後の思惑は判らないが、才能の問題などでは決してなく、センスの交替だろうが、作品の色が変わるから、面白いものだ。

おんなの暦

おんなの暦

作詞:たきのえいじ
作曲:若草恵
唄:松原のぶえ
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 女心のありようを、季節や月の呼び名で追ったのは、たきのえいじのレトリック中心の詞。睦月、如月の弥生から、皐月、水無月、文月の夏を過ぎ、神無月、霜月の師走にいたる趣向で、文芸ものか?と思う凝り方だ。
 おそらく詞先、それを受けて「さて!」と曲の若草恵は考えたか。奇をてらっても仕方なさそうで、ソツなく定石どおりの演歌に仕立てて、破たんはない。
 それを松原のぶえが、けれん味なしの歌唱でじっとりと型にした。類型化を打破したいアイデアものと受け止めておこうか。

男の勝負

男の勝負

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 紅白を卒業、長期公演もやめた北島三郎は、このところ歌づくりに熱中している気配。折から芸道55年の節目で、メーカー各社の看板歌手たちと、超法規的デュエット作品を並べたりしている。
 今作は原譲二の筆名で、詞曲とも本人の男の生きざまソング。冒頭の「先も見えない今の世に、迷うばかりと人は言う」なんて歌詞に、彼の時代感覚もチラリとする。
 80歳、その年輪と感慨を重ねた歌と聴いても無理はない一曲。数多いヒット曲で訴え続けた思いが、彼の処世訓になっていそうだ。

九頭竜川

九頭竜川

作詞:下地亜記子
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし
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 起承転結のなだらかさよりは、序破急の熱さが五木ひろしの曲にある。6行の歌詞(下地亜記子)を2行ずつ高音部を多用して、緊迫感のあるフレーズで積み上げた。そのうえ彼一流の歌唱でひたひた...だから、作品自体の訴求力がなかなかのものになった。

片隅の愛

片隅の愛

作詞:森田圭悟
作曲:岡千秋
唄:立樹みか
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 昔は、こういうタイプがたくさんあったなァと、懐かしくなる都会的はやり歌。詞も曲も気分よく弾んで、聴く側も乗せられそうだ。歌詞の中盤にある「シュビシュビシュバー」なんて繰り返しに青江三奈を思い出すが、立樹みかの歌はこざっぱりしている。

宇奈月の雨

宇奈月の雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 歌詞ひと区切りごとの、語尾の歌いざまに鏡五郎の芸を聴く思いがする。歌の情感に合わせて、すっと「置く」思いを「こめる」「ゆする」あるいは「しぼる」次の詞の頭へ「つなぐ」という具合。おまけに6行詞3節の歌を、三幕ものの芝居みたいに仕立てている。

南部風鈴

南部風鈴

作詞:久仁京介
作曲:四方章人
唄:成世昌平
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 久仁京介・四方章人コンビが『南部蝉しぐれ』『峠越え』の世界を成世昌平に託した。双方、特に民謡調を意識した様子はない仕事ぶりだが、成世が歌うとちゃんと民謡調になる。歌手の語り口を生かす"ほどの良さ"が、聴き手の気分のよさにつながるから妙だ。

由布院霧の宿

由布院霧の宿

作詞:柳沼悦子
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子
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 「朝霧」「湯の香」「桜の花」「せせらぎ」「濡れ紅葉」などをキーワードふうにちりばめた湯の宿女心ソング。詞、曲、歌で長く続いたトリオの詞が、柳沼悦子に代わっている。一体どうしたの? 瀬戸内かおるは体調でも崩したの?と、ちょっと気がかりになった。

修善寺夜雨

修善寺夜雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:三門忠司
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 ギターの爪弾きイントロで始まる懐かしいタイプの演歌。昔よりは曲の手口の細やかさが訴求力を強める。それを三門忠司が例によってのったりと、歌の押し引き、粘着力で聴かせる。歌詞の切なさ辛さにはこだわらず、もっぱら歌い心地中心で行く歌手と合点する。

古希祝い

古希祝い

作詞:いではく
作曲:千昌夫
唄:千昌夫
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 門松重ねて70年...の節目を、いではくがそれらしい詞にし、千昌夫が作曲もして歌う。芸道ものや股旅ものの匂いもする曲で、さして浮かれる気配もない。歌詞にある「還暦古希はまだ若い」に千が同感したのか、祝い歌らしくない節目ソングになった。

ティ・アモ~風が吹いて~

ティ・アモ~風が吹いて~

作詞:紙中礼子
作曲:杉本眞人
唄:秋元順子
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 杉本眞人の曲には、彼独自のスピード感とドライブ感がある。それに和して、秋元順子の歌がのびのびと弾む。あの温度や湿度、手触りや味のほどの良い声がそうなるから、こっちも乗ってゆれて、いい気分の聴き心地。矢野立美の編曲も歯切れが良くて結構!

MC音楽センター
「流行歌評判屋」と「役者」の2足のわらじ暮らしも早や10年め。歌社会の仕事もちゃんと"やる気"、820日(土)は代々木上原の「けやきホール」で「歌い継ぎたい歌がある~流行歌を創った人々」シリーズの5回目「市川昭介編」のトークショーをやる。没後10年を迎える市川の「人と仕事」を、彼の作品を聞きながら話す2時間余。話し相手は元日本コロムビアのプロデューサー大木舜氏で「さざんかの宿」ほかのヒット曲を担当した。ゲスト歌手は大川栄策。この企画は古賀政男音楽文化振興財団の主催、けやきホールは小田急線、千代田線「代々木上原駅」前にある。
歌い継ぎたい歌がある~流行歌を創った人々
 「今回はすまないねえ。辛抱役で苦労をかけます」
 作者の横澤祐一からそう言われた。辛抱役? 初耳である。どういう役ですかと聞いたら、説明セリフが多いんでね...が答え。その割に見せ場が少ないと言うことらしい。7月6日昼が初日の東宝現代劇75人の会公演「坂のない町~釣船橋スケッチ」(深川江戸資料館小劇場)の話だ。
 お話の舞台は深川のとある女性専用アパート。そのロビー風空間にいろんな人が集まってくる。そこの女管理人と、まるで寄りつかない好色な旦那。アパートの住人は痴呆気味の老女に、娘に捨てられたらしい中年女で、こちらは何だかピントが合わない立ち居振る舞い。乱入して来るのが三遊亭円朝の孫を捜す突っけんどんな会社常務の女性とその部下。もうろく気味の老落語家にアパートの大家が次々に連れ込む愛人、大家の幼なじみの不動産屋と民生委員などで、はばかりながらその民生委員で紙工芸店の主が僕の役だ。
 円朝の孫捜しから話がほぐれていく。深川・釣船橋界わいには、昔、遊郭の洲崎パラダイスがあった。痴呆老女はそこにいた人で、死んだ亭主との深いいきがかりがある。母親を捨てて男と走った娘は、淡路島にいるらしい。大家の女好きにヘキエキするのは不動産屋と僕。管理人は内縁の妻だが、こちらにも謎めいた過去がある。そもそもそんな人たちの暮らしを狂わせたのが関東大震災だが、話はそれからずっと後の昭和30年代のことになる。
 《なるほど、これが辛抱役というものか...》
 5月下旬から続いたけいこで、僕は腑に落ちる気分になる。登場人物たちの過去やその後の人間関係のあれこれを、気のいい民生委員の僕が、セリフで説明するのだ。関東大震災で行く方知れずの人々についてがあり、芝居には出て来ない人物と出演者とのいきがかりもあり...である。それが下町の人間関係のアヤを解きほぐしていくのだから、あだやおろそかには出来ないセリフ群を背負った。一生懸命覚えて、それをすらすらやったところで、作者横澤や演出の丸山博一のお気に召すはずもない。
 東宝現代劇はかつて、劇作家の菊田一夫が創設した劇団、そこの有志が作ったのが75人の会という集団で、最長老の内山恵司を筆頭に、芸歴50年超がぞろぞろの強者揃いだ。僕が横澤の紹介で加えて貰ったのが、2009年の「浅草瓢箪池」で以後7年、所属役者に加わって年に一度の自主公演を、その道の修行の道場にしている。ベテランの芸達者たちと、年齢こそさして違わないが、ペイペイの新入りに変わりはない。けいこ帰りにひっきりなしの居酒屋歓談には近ごろ相当慣れて、
 《新入りの割に態度がなれなれしくなったか...》
 と、たまに反省しながら夜毎耳がダンボになる。先輩たちの昔話にも芸する人の心得や秘密が飛び出すから、油断も隙もない。ま、何事によらず教わるよりは盗め! だが...。
 初日前日の舞台げいこでは、セリフを三つほど飛ばした。話の筋が通らなくなるのに慌てて、あらぬフレーズを口走って何とかしのぐ。飛ばしたことに気づかず、受けてくれる相手の出が遅れたのに、その景が終わって気づいて冷汗三斗、相手に謝っていて二人ともフィナーレの出をトチった。
 ご一緒の先輩役者は内山に役者もやる丸山と巌弘志、村田美佐子、鈴木雅、菅野園子、柳谷慶寿、古川けい、下山田ひろの、高橋志麻子、高橋ひとみ、大石剛、仲手川由美の面々、楽屋裏で出会う都度の笑顔に励まされながら、初日は大過なく務めおわした。
 横澤の書きおろし脚本は「水の行く方」「芝翫河岸の旦那」「深川の赤い橋」に続いて深川シリーズが4本目で全部僕も出ている。登場人物がそれぞれに過去を背負って、一生懸命に生きている庶民派ばかり。悪い人間は一人も出て来ず、気のいい善男善女が織りなす下町人情劇だ。その温かさ、優しさとしっかりした手応えが、こんな剣呑な時代を生きる人々の心を動かすのか、
 「しみじみ、すがすがしい思いで帰れる」
 「劇団独特の美学でしょう。こういうお芝居は近ごろ珍しいから、とても貴重...」
 と、芝居の〝見巧者〟たちが口を揃えている。
週刊ミュージック・リポート

この夏は何と、たて続けに2つの舞台に出演する。恒例の「東宝現代劇75人の会」公演と、今度が2回目のご縁の「路地裏ナキムシ楽団」公演。双方7月中のことだから、梅雨なんぞそこ退け!のけいこに汗だくになっている。

 

★東宝現代劇75人の会第30回公演「坂のない町-深川釣船橋スケッチ-」(脚本/横澤祐一、演出/丸山博一)76日(水)~10日(日)深川江戸資料館小劇場。

舞台は深川の"女性専用"を誇称するアパート。そこに三遊亭円朝の孫を探す2人組が乱入する。居合わせるのはアパートの大家と内縁の妻の管理人、痴呆気味の老婆、娘に捨てられたらしい中年の母親ら。次々に登場するのが管理人の妹と養子夫婦、老落語家、大家の幼なじみの不動産屋に大家の愛人が2人ほど。僕は彼や彼女らのてんやわんやに、しばしば首を突っ込む民生委員だ。

「水の行く方」「芝翫河岸の旦那」「深川の赤い橋」に続く横澤の書き下ろし"深川シリーズ"の4作目。例によって一風変わった善人たちが織りなす下町ドラマで、昭和の人情と風物が交錯、けいこ場でも笑いが絶えず、時にしんみりの名場面がある。

出演は内山恵司、丸山博一、巌弘志、鈴木雅、村田美佐子、柳谷慶寿、高橋ひとみ、菅野園子、高橋志麻子、古川けい、大石剛、下山田ひろの、仲手川由美とベテラン揃い。2009年の「浅草瓢箪池」で初参加した僕はそれから7年目の新米。

幕明けに作者横澤が、円朝に扮して一席・・・というのも見ものだ。

公演日程は76日(1500~)7日(1300~)8日(1300~、1900~)9日(1300~、1800~)10日(1300~)の5日間7公演。

坂のない町-深川釣船橋スケッチ-01

坂のない町-深川釣船橋スケッチ-02

★路地裏ナキムシ楽団第七泣き「オンボロ観覧車」(作・演出/路地裏ナキムシ楽団)722日(金)~24日(日)下落合TACCS1179

こちらは6人組バンドと役者たちが、同じ舞台に共存、協演する新機軸パフォーマンス。この日で閉演する下町の遊園地を舞台に、若者たちの悲喜劇が展開する。登場するのは交通事故死した青年の幽霊と生き残った恋人、遊園地の広報担当と掃除員、メンテナンス担当の職人父娘と弟子、アイドル歌手、スリの父子とそれを追う刑事などで、僕の役は何やらいわくありげなお掃除おじさん。そんなキャラクターたちが泣き笑いのエピソードを積み上げ、それぞれにバンドのオリジナルがナマでからむ。中盤、遊園地のアトラクション仕立てで、バンドがやるライブも人気だ。

バンドは「たむらかかし」(Vo&A.G)「ハマモトええじゃろ」(Vo&P)「暮らしが四畳半」(Vo&A.G)「カト・ベック」(E.G)「アンドレ・マサシ」(Bass)「遠藤若大将」(Drum)で、妙なステージネームはシャレッ気。役者は」藍沢彩羽、天野耶依、原田里佳子、井口千穂の女性陣に橋本幸坪、千年弘高、押田健史、田村慎吾、上村剛史、小島督弘、小森薫と僕で、僕が一人で平均年齢を激しく上げている。

上演日程は722日(1900~)23日(1400~、1900~)24日(1100~、1400~)の3日間5公演。チケットはアッという間に完売、2411時開演分を追加公演にしたが、さて、間に合うかどうか・・・。

オンボロ観覧車01

オンボロ観覧車02

 芸映の青木伸樹会長が亡くなった。その一報は元RCA―テイチクの佐藤裕一氏からの電話。深夜に留守電で聞いて、ふっと体中の力が抜けた。スポニチの駆け出し記者時代からずっと目をかけて貰った恩人の一人だ。翌日、事務所からの訃報がFAXで届く。6月12日に心不全で亡くなって享年90才とある。何はおいても焼香にかけつけなければならない―。
 6月12日の通夜は遺らずの雨。世田谷の勝国寺青龍殿には、弔問の列が長く続いた。葬儀委員長が田邊エージェンシー田邊昭知社長、世話人がイザワオフィス井澤健代表とバーニングプロダクションの周防郁雄社長。歌社会最大級の顔ぶれで、青木さんの大きな実績と人望への敬意がしのばれる。
 《歌社会、最後の大物ということになるか...》
 僕は来賓席の一隅で、青木さんの逆鱗に触れた一件を回想する。あれは芸映所属の西城秀樹の「ヤングマン」と新栄プロが後押しするジュディ・オングの「魅せられて」が、レコード大賞を争った昭和54年のことだから、37年前のことだ。
 暮れ近く芸映の鈴木力専務(当時)から、電話が入った。
 「レコ大のことで社長(当時の青木氏)が相談したいと言ってる。いつがいい?」
 僕は一瞬ウッ! と詰まった。俳優の伴淳三郎にかわいがられたのが縁で、芸映の人々とは親交を深めていた。所属する松尾和子、大津美子らベテランや西城、神野美伽らとも仲良し。陰にいつも青木さんの温情があった。大体、パーティーの席などで、この人に声をかけられるだけで周囲の眼の色が変わる。記者としてはこの上ない引き立てである。温和だが率直、歯に衣きせぬ青木さんのことだ。会えば話はレコ大票集めの細部にわたり、審査員個々への対応についてまで、腹を割った内容になるだろう。
 一方で、新栄プロの西川博専務からも同じ電話が入っていた。こちらの西川幸男社長(当時)からも、並ではない知遇を受けていた。日本クラウンがスタートした昭和39年からのことで、青木さん同様、レコ大作戦については、水面下の動き等であけっぴろげになるはずだ。審査員の一人としては動きの取れない板ばさみである。
 「申し訳ないけど、年内は伺えません。年が明けたらごあいさつに行きます」
 僕は双方に同じ返事をした。二人の大物から腹蔵のない話を聞き、
 「そういうことだ、頼むよ小西ちゃん」
 と言われても、僕には1票しかない。どちらに投票しても、一方を裏切ることになる。それなら双方に会わぬ不義理をしたうえで、自分なりの票を入れさせて貰うしかあるまい...と、これが僕の苦渋の結論だった。
 「長いつきあいなのに、顔を見せることさえ断るのか!」
 案の定、青木さんと西川さんは激怒した。双方信義第一の人である。そのままほおかぶりの僕は西城に投票する。彼が芸映の子飼いであり、ジュディは新栄の頼まれものと読んでのこと。結局レコ大はジュディが獲ったが、両社長の怒りは賞の帰趨とは関係なく収まるはずもない。僕はその年で審査を降り、後輩の百瀬晴男記者に後を託した。
 「お前も先行き、このくらい大物に認めてもらって立ち往生したら、後釜につなげろよ」
 という忠告つきである。
 西川さんのパージが解けたのは、その後藤圭子が新栄に移籍して相談を受けた時。青木さんとは会合で会っても、こちらが遠慮がちになった。それから21年めの平成12年、僕がスポニチを卒業する暮れに、青木さん、鈴木さんから思いがけなく慰労の食事に呼ばれる。開口一番、
 「その節は不義理をいたしまして...」
 と僕が詫びると、
 「あああの件なら、翌年に西川さんが事務所へ来られて...」
 と、間髪を入れぬ青木さんの発言、一件から長い年月のあとの会話がこれだった。
 通夜の青木さんの遺影は笑顔が穏やかだった。
 「会長! 僕は本当にあの夜、許して貰えたんですか? そう甘えていいですね!」
 僕はそう問いかけながら合掌した。新栄の西川会長もすでに亡く、残された僕はとても寂しい。
週刊ミュージック・リポート
 7月下旬、路地裏ナキムシ楽団の公演に参加する。といっても別に、歌を歌ったりする訳ではない。バンドと役者が共演する新機軸パフォーマンスだが、今回は「オンボロ観覧車」が外題だ。この楽団の7回目の公演で、下町の遊園地が舞台。しかも閉園当日という設定で、そこに集まる人々の悲喜劇が展開する。
 触れ込みは「青春ドラマチックフォーク」で、その辺にこの集団が「劇団」ではなく「楽団」である意味あいが託されていそう。7回めの公演についても「第七泣き」と表現される。若い感覚の人情話シリーズで、
 「大いに楽しみ、しんみり泣いて貰おう」
というのが、ドラマづくりのコンセプトなのだ。
 「作・演出」にも楽団名がクレジットされているが、ボス格の田村武也が一手引き受け。それだけに止まらず、舞台装置から音楽、音響、照明、大道具、小道具、衣装にいたるまで、彼のアイデアが具体化されていく。この人、ほとんど自分から名乗ることはないが、実はヒットメーカーの作曲家弦哲也の一人息子。僕はその縁で前回から出演、今回また声がかかった。
 芝居の方から先に書く。登場するのは、交通事故で死んだ青年の幽霊と生き残った恋人、遊園地の広報担当と掃除員、スリの親娘にそれを追う刑事、遊園地のメンテナンス担当の職人とその弟子と恋人、それにそこのアイドル歌手が出て来たりして、僕の役は何だかいわくありげなお掃除おじさんだ。そんなキャラクターたちが、泣き笑いのエピソードを積み上げていく趣向。それぞれの場面にバンドのオリジナル曲がナマでからみ、中盤は遊園地のアトラクション仕立てで、バンドがライブをやるのが人気のポイント...。
 バンドのメンバーは6人。ボスの田村が「たむらかかし」を名乗ってボーカルとギター「ハマモトええじゃろ」がボーカルとピアノ「暮らしべ四畳半」がボーカルとギター「カト・ベック」がエレキギター「アンドレ・マサシ」がベース「遠藤若大将」がドラムスという内訳。全員妙なステージネームを名乗るあたりが、今様のシャレッ気らしい。役者の方は藍沢彩羽、天野耶依、原田里佳子、井口千穂の女優陣に橋本幸坪、千年弘高、押田健史、田村慎吾、上村剛史、小島督弘、小森薫に僕が男優陣で、一人で平均年齢を上げている僕からすれば、娘や息子みたいな若者揃いの合計12人だ。
 断続的に進むけいこは、どういう訳かいつも夜。どうやらそれぞれ別に参加する小劇団のけいこや本番、仕事やアルバイトもありそうだが、僕はいちいち詮索はしない。いずれにしろ皆、とても一生懸命で、ジョークを飛ばしながらのけいこは、なかなかの熱気。田村を囲んで、ああしようか、こうもしたい...などの会話もにぎやかだ。
 バンドの面々は、あまり顔を出さない。芝居組とは別行動で、オリジナルの楽曲づくりやリハーサル、録音などに集中しているのだ。田村はこちらもその中心だから大忙し。ニヤニヤしながら神出鬼没ふうだが、芝居組への注文、ダメ出しは相当にこまやかだ。脚本づくり段階から、各場面、各人物について、相当はっきりしたイメージが出来ているらしく、指摘も的確、多彩な才能と統率力をユーモアで包んだ言動が好もしい。
 そう言う僕は、7月6日から5日間の東宝現代劇75人の会公演「坂のない町~深川釣船橋スケッチ」(深川江戸資料館小劇場)のけいこ中で、こちらがまたかなりの出番とセリフだから、覚えるのに必死だ。折角もらったチャンスだもの...と、両公演とも踏ん張り抜く覚悟。
 「ご免ね、あっちが10日に終わるから、11日からはがっちり参加するよ」
 若者たちに言い訳をしながら「楽団」のけいこを後回しにする。こちらの公演は7月22日から3日間、場所が下落合TACCS1179という小劇場で、その間10日あるから何とかこぎつけられそう。
 「ひと公演、千秋楽と打ち上げをやって、その翌日から次のけいことは、乙なもんだろ」
 と、年甲斐もなく嬉しがってみせる。梅雨のじとじとや合い間の酷暑も、一途集中! としのいでいける元気だけは、これまた年甲斐もない―。
週刊ミュージック・リポート

いい歌が出揃った。こう来なくちゃ!

 6月、なかなかの作品が揃って、聴いていて気分がいい。作詞、作曲家の仕事ぶりや歌手の個性の生き方がポイントだ。
 詞は吉田旺の推敲の痕跡が好ましく、たきのえいじのこのところの変化が頼もしい。曲は相変わらず弦哲也の打率が高く、歌では長山洋子がそれなりの境地に到達、作品によって川野夏美の進境が目立つ。チェウニ、清水博正、ジェロが独自性を示し、水沢明美の声味も類を見ない。低迷傾向が長い歌世界だが、突破口はやはり"いい歌"でしかあるまい。

ふれ逢い橋

ふれ逢い橋

作詞:たかたかし
作曲:市川昭介
唄:長山洋子
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 《ほほう!》と感じ入った。歌の舞台は深川あたり。住む人は優しく、ぬくもりに満ちている。そこへ、幼な子を抱えて逃げ込んだ女が主人公。癒され、励まされて生きていくさまが描かれる。
 歌の情と節回しが細やかなのだ。歌いながら語る歌声が、言葉ひとつひとつを、粒立てている。歌詞の語尾までゆるがせにせず、思いが揺れながら、次の行の頭の情感につながる。
 民謡からアイドルポップスを経て演歌に転じた長山洋子は、彼女なりの艶歌へ到達した。市川昭介の遺作が、長山をそこへ導いたか。

焰歌(えんか)

焰歌(えんか)

作詞:吉田旺
作曲:船村徹
唄:西方裕之
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 体調が芳しくなく、人前に出ることが絶えてない作詞家吉田旺が、歌づくりでは健在であることを喜びたい。不倫の恋の女主人公の心情を描く5行詞3節。まるで艶歌のジグソーパズルみたいに、意味深な言葉を巧みにはめ込んで、古風だがゆるみたるみがない。
 吉田流のそんないい詞に、曲をつけたのは船村徹、アレンジは蔦将包で、こちらもそれぞれ、彼ららしさがなかなか。
 諦めて、それだから一途に燃える女心を歌った西方裕之は、ていねいさに心を砕いた。とても一気には歌えなかったのだろう。

小樽絶唱

小樽絶唱

作詞:たきのえいじ
作曲:弦哲也
唄:清水博正
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 歯切れがよくなったたきのえいじの詞を、押し切るように清水博正が歌う。彼一流の声の繰り方で、うねる歌唱が独特のフィーリングだ。力のあるサビのメロディーで、清水を一回り大きくしたのは弦哲也の曲。南郷達也の編曲が、ドラマチックに清水をあおった。

九官鳥

九官鳥

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 歌い出しの歌詞2行分の歌唱が、息づかいも含めてすっかりおとな。穏やかめの6行から、一気にヤマを張った後半3行分に、切迫感が濃い。作品への"入り方"が、川野夏美のこのところの進境を示す。詞よりは曲の起伏が軸の歌唱。本人も達成感を感じていよう。

しぐれ坂

しぐれ坂

作詞:下地亜記子
作曲:南郷孝
唄:真木柚布子
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 歌詞1行目の最後の言葉の"置き方"がいい。だから2行目の頭の"入り方"が生きた。歌というよりは、セリフに似た呼吸と語り口。それが切羽づまるのが、一番と二番の間にあるセリフだろうか。真木柚布子は、作品を"演じる"ことに長けた歌手と合点がいく。

うぬぼれ

うぬぼれ

作詞:鈴木紀代
作曲:影山時則
唄:ジェロ
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 一番で言えば「抱いて」が5回も出て来る歌詞の中盤は、影山時則の曲がムード歌謡ふうになる。そこを委細かまわず、ジェロの歌唱は一気に行く。"本格演歌"を全力投球...の気構えがあってのことか。デビュー8年め、地力のある彼の"どうだ顔"も見えた。

因幡なさけ唄

因幡なさけ唄

作詞:水木れいじ
作曲:中村典正
唄:水沢明美
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 もともと歌味が"ハレ"の人である。だから、艶歌的湿度は薄めで、歌があけすけな口調に聞える。それが浮草ぐらしの女の心情を、かわいく居直らせた。主人公がうじうじしない。歌はもたれない。作品に似合いのこの人の個性。中村典正はこんな曲も書くんだ。

かすみ草エレジー

かすみ草エレジー

作詞:田久保真見
作曲:山崎ハコ
唄:あさみちゆき
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 田久保真見の詞は、もともと乾き気味の感触でじめつかない。山崎ハコの曲はひなびたいじらしさの情感で濡れる。その二色に化学変化を起こさせるとどうなる?の試みが見える作品。あさみちゆきの歌で、結果、かすみ草のはかなさと強さが交錯した。

蒼空の神話

蒼空の神話

作詞:荒木とよひさ
作曲:三木たかし
唄:チェウニ
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 チェウニの力量と声味の魅力に出会える"聴かせ歌"。力量は前半から中盤の語り口にあり、声味は後半、高音部ににじむ健気さやいじらしさに生きる。荒木とよひさの詞で、各社から出る三木たかし遺作の一つ。テレサとチェウニの違いは、歌の芯の強さかな。

MC音楽センター
 横須賀線の逗子から池袋まで、僕はしばしばグリーン車に乗る。
 「そんな、ぜいたくな!」
 と、役者の先輩は口をとがらせるが、決して身のほど知らずの仕儀ではない。車中の1時間ほど、僕はここで資料をあさり、原稿の下書きメモをし、ウォークマンで歌を聞き、パーティーのあいさつがあるときは、気の利いたフレーズ探しのあれこれ、芝居のセリフのおさらいもする。料金890円プラスで、僕はここを動く書斎にするのだ。
 〽死ぬまで生きる人生ならば...
 なんてフレーズに出くわすと、僕はニヤリとする。成世昌平の新曲「南部風鈴」の二番のサビ、久仁京介の詞である。そう言えば...と
 〽どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて、生きて見せると自分に言った...
 なんて歌詞を思い出す。昔、小林旭が歌った「落日」の一節で、川内康範が書いた名文句だ。
 《「南部風鈴」ねえ...》
 成世の歌は四方章人の曲である。彼と久仁コンビは福田こうへいの「南部蝉しぐれ」で久々にブレークした。四方は「浪花節だよ人生は」以来の大ヒット、久仁の方は昔の名前が第一線復帰...と、軽口の原稿を書いたものだが、2012の秋のことだから、あれからもう4年になるのか。以後二人とも着々の仕事ぶりで、久仁は日本作詩家協会の副会長、四方は日本音楽著作家連合の会長と、人望まで手伝って要職についているから、ご同慶のいたりだ。
 成世の新曲は、福田の「峠越え」に続いて〝南部もの〟3作目に当たる。夢を追って女を捨て、都会の路地で月を仰ぐ男の望郷歌仕立て。各コーラスの3行めに
 〽チリリンリンリン、チリリンリン...
 と、風が鳴らす風鈴の音をはさんだあたりでひなびた情趣を盛る。しかし、四方の曲もそうだが、特段民謡調を狙う細工はなしで、しみじみした歌謡曲。それなのに成世が歌うと、独特の歌の押し引き、節回しの妙で、ちゃんと民謡調になるから面白い。その辺のかね合いが、ほどの良さ、気分の良さに通じているのか。
 成世の歌は「はぐれコキリコ」の大ヒットをはじめ、もず唱平と聖川湧が作り手を続けて、各地の風物をひと回り、長く詞・曲・歌のトリオを形づくっていた。それが今回、久仁・四方コンビに変わった訳だが、その台所裏事情は僕も知らない。そろそろ手を替えようという算術か、制作者の思いつき作家キャスティングか、はたまた別の思惑があってのことか...と、詮索するのはやめにした。いずれにしろ今作は、その組み合わせが成世の世界に新鮮さを加えたのだから良しとすべきだろう。
 横須賀線の車中でもう1曲似たような変化の作品に気づく。秋元順子の「ティ・アモ~風が吹いて~」で、作曲がレギュラーふうな花岡優平から杉本眞人に代わっている。作曲家は大てい、特有のメロディーラインやリズム感を持っていて、花岡の場合は、懐しいポップス系歌謡曲の匂いを感じていた。それが秋元の声味や語り口に似合って成功が続いていたろう。ところが杉本の曲は、もっと強めのスピード感やドライブ感を持ち、メロディーに彼独特の〝語り口〟がある。
 よくしたもので秋元の歌が、そんな杉本ものにすんなり乗って弾み、のびのびとしている。彼女の歌声のほどの良い温度と湿度、響き方と枯れた手ざわりが、そのまま変わらずに作品に生きているではないか! 矢野立美のアレンジも歯切れの良さなかなかで、こちらの作家の組み替えも上の吉と言っていいだろう。
 成世におけるもず、秋元における花岡は、いわば育ての親。それぞれに独自の歌世界を作って、それを歌い手の個性にまでふくらませて来た。親にとっては構築したヒット路線が、同時に彼らの権益に通じる側面もある。そんな手中の珠を同業の仲間に委ねるについては、内心、多少の抵抗はありそうにも思える。
 《ま、この2人の場合は、かわいい子には旅をさせろってところか...》
 作家も歌手もみんな親しい間柄だけに、成世、秋元の今作を、僕はそんなふうに受け止めたいと思っている。
週刊ミュージック・リポート
 昼過ぎに連日、谷端川南緑道というのを歩いている。地下鉄有楽町線の要町からのんびり10分ほど。川だったところに作った遊歩道だから、適度に曲がりくねっていて、両側の植えこみの緑が目を楽しませる。躑躅が終わって紫陽花がぼちぼち〝わが世の夏〟待ち。うす紅は昼顔、黄色は美女柳の花で、どちらも小さめ。ひゅっとまっすぐに、背の高いのが赤い花をまとっているのは、立ち葵だとか。
 行く先は11年前に廃校になったという大明小学校。その教室の一つが、東宝現代劇75人の会7月公演のけいこ場になっている。二階建ての大きな学校で、立派な運動場もある。幾つもの教室や工作室、屋内体育館などで各種けいこ事が日々賑やかだ。ご他聞にもれず少子化のあおりを受けたのだろうが。それにしても、ここで歓声をあげていた子供たちは、一体どこへ行ってしまったのか? 正門手前の細い道には「車両通行禁止、スクールゾーン」という標識が錆びついて放置されたままだ。
 僕が所属する東宝現代劇75人の会は、5月25日からここでけいこをしている。横澤祐一作、丸山博一演出の「坂のない町~深川釣船橋スケッチ」で、公演は7月6日から10日まで、5日間7回を深川江戸資料館小劇場でやる。
 「ひと月以上もかけるの? ずいぶん長いけいこだねえ...」
 その間お留守にする歌社会の友人が、電話で呆れる。
 「そのくらい本格的なんだぞ!」
 と僕はうそぶくが、5月いっぱいは台本と首っぴきの読み合わせが続き、演出家が、
 「6月2週くらいから、立ちげいこにしようか」
 とニコニコするペース。キャリア40~50年はざら...というベテラン揃いの自主公演だから、けいこそのものを楽しんでいる気配が濃い。
 だからこそこの劇団が、キャリアやっと10年めの老優の僕には、得難い芝居の道場になっている。「浅草瓢箪池」(東京芸術劇場小ホール2公演)に出してもらったのが2009年7月。以来7年、見よう見真似、教わるよりは盗め...の修行が続く。他の先輩役者へのダメ出しを片っ端から台本に書き込み、われとわが役へああかな、こうかなと置き替え、誰彼なしにさりげない質問は、新聞記者育ちの特技!? けいこ後の居酒屋放談にはきっちりつき合って、耳をダンボにする。先輩諸氏の懐旧談に芝居のヒントを捜すうちに、劇団の歴史を知るし、スター俳優のロマンスなどまで聞きかじる。台本のセリフやト書きにはない登場人物たちの心の動きは、行間にひそむものと眼からウロコ...の体験もたびたびだ。
 「踵で芝居をしないとね」
 酔余ボソリと、横澤から哲学的!? な教えを受けた夜もある。10年前の川中美幸公演の初舞台でお世話になったのが、この人との縁。75人の会のボス格の一人で「おいでよ」と声をかけてくれたのもこの人で、僕の出る芝居をみんな見てくれての苦言、助言も数々。だから僕にとってはこの人が、この道の師匠だ。俳優兼作家兼演出家の横澤の〝深川シリーズ〟は今作が四本め。ひでりの夏もコツコツと深川界わいを歩き回り、徹底取材のあげくの労作である。越中島のスポニチ勤務が長かった僕など、足許にも及ばぬ深川通。もっとも門仲のネオン街事情だけは、僕の方が少々詳しいかも知れないが...。
 この会の公演は例年秋で、谷端川南緑道を行き来したのはほとんどが9月だった。そのころまっ赤に咲いていた百日紅は今、緑の葉をつけたままだし、たわわに実った無花果の実はまだ小さい。その代わりみたいに、小さな美容院わきの枇杷が色づいている。遊歩道の両側に隣接している家々には、名前を調べきれない草花が色とりどりだ。そんな昼さがりと夜とを池袋界わいで過ごして、僕は葉山の自宅へ戻る。横須賀線を逗子駅で降りるとかすかに潮の匂いが来る。深夜、バスがなくなってのタクシーは、葉山・芝崎の岬の突端のわが家へ、濃いめ磯の香の中を割って到着する。ドア・トゥ・ドアの移動が往復で約2時間ずつ。
 「よく通うねえ」
 とみんなに言われるが、なに列車中の1時間半は、芝居の自主練で寝る暇などない。
週刊ミュージック・リポート

数よりは質なんだな、歌い手は...

 いまさらながら、歌い手最大の武器は声そのものと改めて思う。一声でその人と判るのが強み。それに加えて、あらかじめ情感をにじませる声だったら、鬼に金棒、即スターだ。しかし、そんな例はきわめて稀。仕方がないから詞や曲の特異さ、企画性でそれらしい色を作る。節回しで個性を狙う場合もある。クセ者は情感という奴で、こればかりは生まれつきの資質。身につけさせようと手を尽くしても、歌がシナを作るだけに止まってしまう。歌手って難儀な商売なのだ。

心かさねて

心かさねて

作詞:石原信一
作曲:幸耕平
唄:市川由紀乃
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 「今年こそ、紅白に」という声が、周辺にある。昨年、同じ呼び声の山内惠介と三山ひろしが大願成就していて、紅白に若手起用の気運が生まれた。新旧交代の兆しとも捉えれば、市川に期待の声が上がるのも無理はない。
 彼女をそんな波に乗せたのは、詞の石原信一と曲の幸耕平の連作。今作も二人は、すっかり"その気"で、石原が似合いの女心フレーズを、詞にちりばめる。幸も彼女の温かく優しい声味を生かした。
 歌唱の一途さに、ふくらみが生まれているのは、本人の、風を感じての自信か。

思い出の川

思い出の川

作詞:石原慎太郎
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし
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 昔、都知事だったころの石原慎太郎氏の要請で、三宅島支援の歌を作ったことがある。「あれ以来の縁で...」と、深夜、五木本人から電話をもらった。自信作が出来た気配が、その声に濃かった。
 石原氏の詞、五木本人の曲と歌。失った恋、去った友を軸に、過ぎた青春を思い返す詞に五木はゆったりめ、大きめの曲をつけ、あえてそれをソフトに、抑えめに歌う。「今どこに、今はどこに...」という歌い収めのフレーズに、万感の思いを託すいわば抒情歌。こういう時代になって見失ったものへ、熟年の男の感慨が重なった。

両家良縁晴々と

両家良縁晴々と

作詞:坂口照幸
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 嫁ぐ娘は25歳、それを見送るのは、彼女を兄夫婦から引き取って育てた養父。ひとひねりした祝い歌を、坂口照幸の詞がきっちりした筆致、水森英夫がひなびた民謡調の曲に仕立てた。池田輝郎の押しの強い声味にぴったりで、歌い収めの「晴々と」が実にいい。

秋恋歌

秋恋歌

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:香西かおり
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 原文彦の5行詞3連が、きちんと女心を書き込んでいる。サビにあたる4行めにそれぞれ工夫があり、一番にまたこおろぎが出て来た。以前、美川憲一の歌で「こおろぎみたいに女が泣いた」と書いた人だ。作曲は叶弦大、香西かおりの歌は「うまいなァ」の一言!

絆雪

絆雪

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:
岩出和也
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 歌い出しの歌詞1行分を高めにスタート、岡千秋が味のある曲にした。もともと派手に決めるタイプではない岩出和也の歌で、ひと勝負したい苦心が見える。穏やかだが地味な岩出の、息づかいと声の湿度がうまく生きた。彼は自分の"色"をつかめたかも知れない。

女の慕情

女の慕情

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:真木ことみ
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 「聴かせ歌」よりは「歌わせ歌」が身上の叶弦大が、いかにもそれらしい曲を書く。このところコンビの多い原文彦が、それに似合いの詞を書いた。独特の声味の真木ことみが、それを大づかみの感情移入で歌う。サビと歌い収めの2カ所の、高音がアクセントだ。

幸せの場所

幸せの場所

作詞:円香乃
作曲:樋口義高
唄:チャン・ウンスク
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 とかく、セクシーさが売りだったチャン・ウンスクの歌が変わった。主人公が個人的な悲嘆を離れ、人生を語る規模と客観性を持ったせい。円香乃の詞、樋口義高の曲が大きめの2ハーフ。チャンがそれを例の声と例の息づかいで辿る。これも一つの冒険だろう。

女の幸せ

女の幸せ

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:山口ひろみ
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 北島三郎は原譲二の筆名で、きっと歌いながら曲を作るのだろう。そう思えるくらい今作は、詞曲ともに女心演歌の定石どおりで、起承転結、歌好きの期待を裏切ることはない。それを山口ひろみは、デモテープを聞いて覚えるのか。北島節の痕跡がチラリとした。

空蝉の家

空蝉の家

作詞:田久保真見
作曲:堀内孝雄
唄:堀内孝雄
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 心ならずも故郷に、空き家を放置する人は多い。そんな社会現象を素材にした、いわば昭和挽歌。庭先の蝉の抜け殻から、主人公は生家を時の抜け殻と合点する。堀内孝雄の曲と歌もいいが、作詞田久保真見は、認知症を描く傑作『菜の花』に次ぐ社会派ぶりだ。

365日の紙飛行機©You, Be Cool !/KING RECORDS

 

365日の紙飛行機

作詞:秋元康
作曲:角野寿和/青葉紘季
唄:AKB48
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 一人ぼっちで俯き加減の友に「人生は紙飛行機!」と呼びかける。365日、それが希望の推進力だと。AKB48の賑やかなアイドル騒ぎに眼を奪われがちだろうが、彼女らの歌がヒットするには、それなりの理由がある。これは人生の応援歌の秋元康版だろう。

MC音楽センター
 《えらいことになっちまった...》
 頭をかく思いで僕は、5月16日、あわただしく東京を右往左往した。午後、日比谷の東宝演劇部の一室で開かれたのは、所属する東宝現代劇75人の会の総会。そこで僕は7月公演「坂のない町・深川釣船橋スケッチ」(横澤祐一作、丸山博一演出)の台本を受け取り、配役を聞いた。このところ続いている横澤の〝深川シリーズ〟の4作目。ポスター、チラシ、チケットも用意されていて、7月6日から10日まで、深川江戸資料館小劇場でやる5日間7公演の準備がスタートした。75人の会の第30回という節目の舞台だ。
 雑用二つをこなして夜、今度は文化放送7階のJCM会議室へおっとり刀になる。こちらは田村武也が取り仕切る路地裏ナキムシ楽団の第7回公演「オンボロ観覧車」の顔合わせだ。「青春ドラマチックフォーク」と銘打つ舞台は、5人のバンドのライブと12人の役者の芝居が、渾然一体でドラマを作る新機軸。一体どんな感じ? と聞かれて、
 「見てみりゃ判る。笑いと涙が熱っぽくて、相当な作品だよ」
 とうそぶきながら、昨年秋に出して貰って、今回またお声がかかった。
 日取りは上落合のTACCS1179(俳協ホール)で7月22日から24日までの3日間4公演。チケットが発売するとすぐに完売という人気のグループで、
 「様子によっちゃ、追加公演もありかなァ」
 などと、主宰の田村がニヤニヤする。この人、実は作曲家弦哲也の息子(それをアピールすることは全くない!)で、脚本から演出、音楽...と全部手がけて多才なうえに、舞台装置、照明、音響から道具や衣装のプランニングまでを一手に引き受ける。僕から見れば息子や娘、孫なんて世代の仲間とワイワイガヤガヤ相談しながら、全体をまとめて行く統率力まで、なかなかなものだ。
 「そんなに浮かれていて、大丈夫なの?」
 と友人が気がかりをあらわにする。それはそうだろう。何と僕は7月に二つの公演に参加するのだ。ということは、今月末から6月、7月にかけて、けいこと本番が並行することになる。それもベテラン勢揃いの75人の会と、血気盛んな若手のナキムシ楽団だから、作品の方向性も手法もまるで違う。しかも双方から、相当に〝いい役〟を貰ってしまった。70才で始めた舞台役者もやっと10年にはなったが、まだまだこの世界ではトウが立った新米おじゃま虫。内心では恐縮しきりなのだが、うわべは年の功も手伝って、
 《せっかく貰ったチャンスだもん、やるっきゃないだろ!》
 と、明るめに居直ることにした。
 13日夕には月島の一室で映画「家族の日」の試写を見た。川中美幸公演「天空の夢」で、どえらい役をくれた元NHKの演出家大森青児の映画第一作である。ほのぼの情の通ういい作品に、舞台のご縁でワンカット、僕も出演の光栄に浴している。17日昼は渋谷の大和田さくらホールで、新田晃也のコンサートに顔を出す。去年が歌手活動50周年だった彼とは、その年数近いつき合いだが、相変わらず〝無名の歌巧者〟ぶりは健在、新曲「昭和生まれの俺らしく」もいい出来だ。そう言えば新田は福島・伊達出身で実家が東日本大震災に遭遇している。大森の舞台「天空の夢」の時は僕も明治座でその3・11をもろに体験した。
 大忙しだった16日の夜9時半前には、文化放送のエレベーターで1階へ向かう途中に妙な上下動に出っくわした。震源地茨城、震度5弱と聞いたが、乗り合わせた若者たちのケイタイが一斉に発した警報音にはもっとびっくりした。
 九州・熊本は震度7の本震からこの日でちょうど1カ月。余震の恐怖はまだ続き、亡くなった方の家族、縁者の悲しみは癒えぬままで、家屋などの被害もほとんどそのまま。避難所や車中泊の日々を送る人々の不安はいつ解消されるのか、目処もつかず、歌社会にも被災関係者が大勢いる。
 《せめて、心して生きなければ申し訳ない...》
 葉山―東京を行き来しながら僕は、また内心だが、うしろめたい無力感といらだちを合わせて抱え込んでいる。
週刊ミュージック・リポート
 いきなり劇画家上村一夫の話から始まった。酔えば必ずギターの弾き語りで彼が歌った「港が見える丘」について。ギターの弾き方があやしげだったこと。すきっ歯から息がもれて、歌もすかすかだったこと。歌詞の「あなた」と「わたし」をなぜか必ず「あんた」「あたい」に言い替えたこと。それが昭和の若者の庶民言葉だったこと―。
 それやこれやを朗読しているのは小泉今日子で、ネタは亡くなった演出家で作家の久世光彦のエッセイ。取り上げた曲を浜田真理子がピアノの弾き語りで歌い、その後ろに久世が頬づえをつくモノクロの映像が大写しになる。僕はそんなショーの一部始終を5月9日夜、日本橋・三越劇場で見た。タイトルが「マイ・ラストソング~歌謡曲が街を照らした時代」で、久世の名は「テキスト」としてクレジットされ、特別協力に夫人の久世朋子さんの名がある。
 《そうだよな、何だか沁みる歌だった...》
 僕の気分もいきなり昭和へタイムスリップした。久世が一緒だった夜も、居なかった晩もあるが、僕も上村の「あんた」と「あたい」を聞いている。必ず一緒だったのは作詞家の阿久悠で、僕は阿久原作、上村作画の劇画のファンだったし、二人とも僕が勤めていたスポーツニッポン新聞の常連寄稿者になった。阿久とは大河連載の「甲子園の詩」をはじめ、小説やエッセイを矢継ぎ早やに企画、実現し、上村にはせがんで短冊型の美人絵を週に一度描いてもらった。彼が「港が見える丘」を歌う夜に「頼んますよ!」「ようござんす!」と酔余のやりとりで決めた話。その後飲むたびに上村の秘書嬢から「原稿料、もっと上げて下さい」と連呼されて閉口したものだ。
 久世エッセイ、小泉朗読、浜田歌のステージは「バイヤ・コン・ディオス」だの「月の砂漠」だの「東京キッド」や「さくらの唄」だの「酒は涙か溜息か」だの「プカプカ」だのへ続き、「海ゆかば」にいたった。
 「死の間際に、一曲だけ聴くことができるとしたら、あなたはどんな歌を選ぶだろうか」
 をテーマに、久世が14年間も毎月書きつづけた選曲とエッセイが「マイ・ラストソング」である。人前では歌うことのなかったシャイな歌好きによる歌論は、人生の機微に通じ、独特の美意識に貫かれて得難い。それをこんな形で構成・演出したのは友人の音楽プロデューサー佐藤剛で、この男はゴールデンウィークの5月3日から9日まで、同じ日本橋三越本店の新館7階ギャラリーで「昭和のスターとアイドル展」を手がけていた。
 古賀政男・服部良一の世界を起点に、昭和の歌の歴史が展示されて一目瞭然だった。歌謡曲、アイドル、演歌、ムード歌謡、ポップス、GS、フォークと、ブロック群が時の流れに添っており、シングルレコードのジャケットが千枚近く、ポスター、写真、パンフレット、原稿、楽譜、楽器、衣装、ビデオ映像などが、リアリティを持たせる。こだわりのブースは美空ひばり、坂本九、美輪明宏、由紀さおりら佐藤がこれまでにかかわったスターたちの個人史に「昭和のテレビドラマと歌謡曲」と銘打った久世光彦の世界は、銭湯のノレンの奥だ。
 《よくもまあここまでこまごまと集めた。実に見事なものだ》
 と、僕は感じ入る。流行歌各ジャンルの意味合い、位置づけもきっちりと、昭和の歌の全容をここまで提示、展開したイベントは史上初だろう。それも「俯瞰する」理論を「楽しませる」エンターテイメント精神で包み込んでいて、なかなかの処理。昔、岡野弁氏が主宰した音楽情報誌「ミュージックラボ」の新入り編集者の彼とコラム「歩道橋」の筆者として僕らは出会った仲。佐藤剛の強みは、広範囲で精力的な資料収集と徹底的な読み込みの凄さ、それを生かす仕事の創意工夫と行動力だろう。
 「マイ・ラストソング」ショーは、この稀有の展示の画竜点睛イベントになった。浜田の歌声は媚びぬすがすがしさを持ち、小泉の朗読は時に久世のものを離れ、その内容と語り口に彼女自身のエッセイストとしての魅力をにじませて魅力だった。
週刊ミュージック・リポート
 ふと、胸を衝かれた歌がある。降りしきる蝉しぐれの中で、住む人も居なくなった生家を売りに来た男が主人公。カチャリと鍵をあけた彼の胸に、押し寄せて来るのは懐しさとやるせなさだ。
 堀内孝雄の「空蝉の家」だが、彼のじゅんじゅんと語る語り口が、そんな夏のある日の光景を浮かびあがらせる。主人公の年代はおそらく団塊の世代。両親はすでに亡く、長く続いた都会ぐらしで、故郷の家は無人のまま放置してあったのだろう。整理しなければならないことがあれこれあって、生家を売るのもその大きなひとつ。陽に焼けた畳にあぐらをかいて、男は不意に涙ぐむ。
 こういうふうに放置されたままの家は、今や社会問題になっている。少子高齢社会が生む現象だろうが、生活を故郷へ移すUターンはきわめて稀れ。古民家を求めて都会から移住するJターン、Iターンが時おり話題になるが、これもごく少ないケースだからこそ取り上げられるのだろう。そんな時代を背景にした「空蝉の家」は、作詞が田久保真見、作曲と歌が堀内孝雄で、彼の45周年記念曲だ。
 田久保のお手柄は、重要な小道具に蝉を見つけたことだろう。命の限り鳴く蝉は主人公の今、庭にころがる蝉のぬけがらは亡くなった親の世代を象徴する。主人公は蝉しぐれを聞きながら、命の限りに生きた昭和の人々を思い返す。庭にころがるぬけがらを見詰めて「この家は時代のぬけがらか!」と合点する。社会問題をテーマに擬しながら、生硬なメッセージソングに止めず、昭和挽歌の感慨と奥行きを書き込んだあたりが、田久保の才覚と才能の得難さだろうか。
 田久保の顔を思い浮かべながら、彼女の詞で不覚にも涙ぐんだ作品を思い出した。田尾将実が作曲、湯原昌幸が歌った「菜の花」で、こちらには認知症の母をドライブに誘った息子が登場した。二人を取り巻くのは、悲しいほど澄んだ青空と一面の菜の花。そっと子供に戻っていく母と、ずっとおとなになれなかった息子がそこに居る。
 息子を忘れ、自分を忘れても、母は花の名前は覚えていた。その横で息子は少年時代を思い出す。泣き虫の彼は、学校帰りのジャリ道をいつも走った。笑いながら手を振る母が居るのは、菜の花の中だった。花ひとつをキーワードに、そんな親子の情を語った2ハーフ、結びのハーフに田久保は〝詰め〟の1フレーズを用意した。菜の花は実は「おやじの好きな花だった」と―。
 流行歌はいつも「時代を写す鏡」の役割を果たして来た。とは言えあからさまに時代を論じることはなく、それらしいエピソードをさりげなく、婉曲な表現で〝はやり歌らしさ〟を第一とした。田久保のこの2曲は社会問題と正面から向き合いながら、彼女らしい筆致でドラマを作っている。独特の感性と思いがけない言葉選びが魅力の彼女は、近ごろ稀有な社会派の素顔も持っていることになろうか。
 「売れなかった歌に、いい歌なんてありませんよ」
 と、かつて阿久悠が言い放ったことがある。流行歌がパワフルだった時代に、怪物と呼ばれて君臨した彼らしい自負にも聞こえた。昨今の流行歌はあのころの伝播力を失い、関係者がCDの売り上げ低迷を長いこと嘆き続けている。残念ながら湯原昌幸は「菜の花」の次や、その次の企画に歌い移った。堀内の「空蝉の家」も、そうそう楽観は許されまい。しかしだからこそ―、
 いいものはいいのだ! と、言い募り、書き募っていきたいと、僕は思う。個人的な感傷だが、不覚にも涙ぐみ、ふと胸を衝かれた瞬間を〝流行歌評判屋〟としては大切にしたい。実は寝たきりで子供化の果てに、忘我の境で暮らした実母を、自宅で7年間介護した体験がある。つれ合いは岐阜に、心ならずも生家を放置したままでしばしば悩んでいる。
 「だから、こういう歌が沁みるんでしょう。それにあんたは新聞屋あがりで、この種のものに飛びつく性癖が強いし...」
 そんな声が歌社会から聞こえそうな気がするが、似た体験を持つ人は、大勢居るのが現代なのだ。この2曲が歌好きの耳に届き、共感の輪が少しでも広がっていくことを、僕は祈るような気持ちでいる。
週刊ミュージック・リポート
  「変わった歌が出来てねえ...」
 作曲家船村徹がそう言って、テレ笑いの顔を少しかしげる。その左隣りに作詞をした舟木一夫、船村の右隣りから夫人の福田佳子さん、アレンジを担当した息子の蔦将包...。彼のさゆり夫人、福田夫人の秘書格の山路匂子さんも来ていて、船村一家勢ぞろいのテーブルにはコロムビア首脳も同席した。そんなお歴々の視線を集めて、不動の姿勢で立っているのは新人歌手の村木弾―。
 4月19日、東京・九段のホテル・グランドパレスで開かれたのは、その村木のデビュー披露のコンベンション。昼の12時半スタートだから、ビールと食事つきだ。
 「近ごろ、こういうのも珍しい...」
  と、新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌などのメディア勢に、有力レコード店主や関係者が周囲を見回す。会場の隅々には、接待係りのコロムビア社員ほか大勢が笑顔だ。
 「何しろ、船村先生の最後の内弟子のデビューですから...」
 村木の売り出しに、相当な力コブ...の気配がありありの光景だ。
 船村の言う「変わった歌」は、村木のデビュー曲「ござる~GOZARU~」を指す。
 〽夢はね、夢は男の命でござる。金じゃ買えない血潮でござる...
 という歌い出しの詞を書いたのは舟木で、恋は男の命、傷は男の宝...と、男の生きざまを開陳する。語尾にちょくちょく、侍コトバの「ござる」が出て来るのがアクセント。シャイな舟木らしい〝肩のすくめ方〟が垣間見える詞だ。
 それを面白がったのだろう。船村がつけた曲は、明るく、テンポも軽妙なおはやしソングふう。艶歌からポップス系まで、幅広いヒット曲を持つ巨匠の作曲歴63年の中でも、珍しいタイプの作品になった。熟年ファンには彼らしい小気味よさ、若いファンにはすっと入れるノリの面白さをあわせ持つあたりがミソだ。
 「何の色もついていないところにこそ、村木君の魅力を感じた」
 と語る船村が、村木の地力を生かし、作品で色をつけたということか。
 村木の地力は、一言でいえば「骨太の率直さ」だろう。この日もこの曲を2回歌ったが、よく響く厚めの声が、巧まずに一直線。メロディーの起伏に素直に添い、歌詞への共感をにじませて、歌が彼の胸中のものと同じ昂り方を示す。相応の力量は持つがそれをあらわにせず、念願かなった喜びも裡に秘めて、今日ただ今の自分を披瀝する。秋田出身、36才、要するに闊達な〝おとなの歌〟なのだ。
 内弟子は、師匠の身辺で生活全般に意をつくす。村木の場合は、船村の付き人で車の運転手、スケジュールを調整するマネジャー格から食事の支度までして12年、寝食行動を共にした。船村の背中から男の生き方、考え方も学んだことになる。船村の内弟子出身には鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介らが居る。僕が船村に初めて会ったのは昭和38年。以後私淑して船村歴は50年を越えるから、はばかりながら彼らの兄弟子で、全員呼び捨ての親交がある。19日の村木の会でも、僕は用意されたゲストの席から、当たり前の顔で船村一家のテーブルへちゃっかり移動している。
 船村からの連絡で、村木デビューに一肌ぬいだという舟木は、なかなかの後見人ぶり。食事の合い間に各テーブルをあいさつで回る村木に同伴、細やかな気くばりで談笑する。その言動や挙措には飾らない人柄と若々しさがうかがえるから、参会者たちの村木への好感に、もう一つオマケが増えた型になる。
 「ところで、お幾つになりました?」
 「この秋でまた一つ、大台に入ることになるよ」
 舟木とも古いつき合いである。彼がデビューした昭和38年に、僕はスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材部門に異動した。取材で行く先々のテレビ局で、つめ襟の学生服の彼と出っくわす。八才年上だが彼と僕とは歌社会の同期生なのだ。それやこれやの懐旧談のあと、僕らの意見が一致したのは村木弾のキャラクターの頼もしさ。イケメンばやりで賑うこの社会で、その対極に武骨、骨太、率直の硬派もまた、貴重ではないか!
週刊ミュージック・リポート

君はM型で行くかW型か?

 演歌のメロディーは大別して、M型とW型がある。M型は歌い出しをなだらかに出てサビの高音で決めるオーソドックス・スタイル。W型は歌い出しを高音で出るから、サビと歌い収めにまた高音部が出て来る。作品のインパクト、訴求力はこちらの方が断然強くなるが、曲の流れに無理が生じる危険がある。今回の13作のうち、W型は坂本冬美の『北の海峡』大川栄策の『みれん舟』上杉香緒里の『手鏡』島津亜矢の『阿吽の花』あたり。他と聞き較べてみるのも一興だろう。

土佐女房

土佐女房

作詞:石本美由起
作曲:叶弦大
唄:中村美律子
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 石本美由起の遺作。実にこの人の詞らしく、すっきりと漁師の女房の心のうちを描く。特段の技は用いない平易さが、実はこの人の技。一行にほぼ一つ、要所に配置された単語が、舞台の土佐、そこに生きる人々の営みから待つ女の気性までを伝え、情感を濃いめにするキィワードになっている。読み返せば、推敲の跡歴然なのだ。
 叶弦大の曲は、そんな詞の色あいに添った。南郷達也の編曲が、それを芝居がかった仕立てにした。中村美律子はのびのびと歌う。二番など、主人公の笑顔が見えた気がした。

春はもうすぐ

春はもうすぐ

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:小金沢昇司
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 一言で書けば"しあわせ演歌"のムード歌謡版。麻こよみの1コーラス7行、長めの詞が、苦労をかけた女性への男の"ありがとう"をあれこれ語る。それに気分のいい起伏のメロディーを徳久広司がつけ、前田俊明のアレンジは、前奏でトランペットを鳴らし、歌なかには口笛がところどころ。
 小金沢昇司の歌は、張らずに声をすぼめるが、芯に情感の核をきっちりと守る。感情移入が強めになるのは、歌い収めの1行分。それも最後の「来てるから」の高音で、声の表と裏ぎりぎりのところで艶を作った。器用な人だ。

北の海峡

北の海峡

作詞:たかたかし
作曲:岡千秋
唄:坂本冬美
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 どんなタイプの曲を歌っても、ちゃんと冬美の歌になるのが、この人の特色。それが久しぶりの演歌で、いかにもいかにも...の唱法を作っているのが面白い。声の揺らせ方や、言葉を粒立てる唇の使い方にそれが表れていて、歌うことを楽しんでいる気配がある。

みれん舟

みれん舟

作詞:秋浩二
作曲:筑紫竜平
唄:大川栄策
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 秋浩二の詞に筑紫竜平が曲をつけた。筑紫はご存知大川のペンネームで、この人は時おり演歌のシンガーソングライターになる。自分の魅力は高音部にあると熟知しているから、歌い出しから高音を多用、彼らしい切ながり方を聞かせて、どや顔まで見えた。

化粧なおし

化粧なおし

作詞:たきのえいじ
作曲:杉本眞人
唄:石原詢子
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 杉本眞人の曲には、いつも彼らしい"口調"がある。歌手はそれに添うのか否かの選択を迫られるが、石原詢子は自分流の歌唱に引きつけようとした。彼女らしい挑戦といっていい。長いこと墨絵ぼかしめいていたたきのえいじの詞に、色彩が生まれて、いい。

雪哭き津軽

雪哭き津軽

作詞:近藤しげる
作曲:井上慎之介
唄:清水まり子
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 その後どうしているのか?と思っていた清水まり子の歌に、久々に出会った。津軽三味線をお供に、やや力みかげんの歌で、歌詞の最後の行は、唸ったりしている。代表作に持つ『父娘坂』を追う企画の詞と曲で、夢よもう一度!の思いが透けて見える一作だ。

手鏡

手鏡

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:上杉香緒里
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 手鏡が二つに割れて、歌の女主人公は男との別れをかみしめている。一番から三番まで手鏡にこだわり続けた麻こよみの詞は、その枠組の中で何とか展開を試みる。そんなこだわりが、上杉の歌を諦め色にするが、深刻にならずに済ませたのは、温かめの声味か。

阿吽の花

阿吽の花

作詞:久仁京介
作曲:村沢良介
唄:島津亜矢
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 独特のレトリックの詞は久仁京介。それに村沢良介が彼らしい曲をつけて、ベテラン2人の年の功の作品。島津亜矢はそれをすっきりと、一筆書きの絵みたいに歌った。大器と呼ばれて久しい彼女はこのところ、強い声と語気をそぎ落として、それなりの成熟を示している。

紀ノ川旅情

紀ノ川旅情

作詞:助田ひさお
作曲:佐々木雄喜
唄:千葉一夫
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 失意の女主人公を旅先の風景の中に立たせて、詞も曲も歌もいわば定石どおり。ことに千葉一夫の歌唱は、長いこと淡々と演歌の定石を踏まえて変わらない。しかし、継続は力なのか、それが千葉の特色になっていて、おそらくファンは、安心して彼を味わうのだろう。

再愛

再愛

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:山川豊
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 テナーサックスにギターがからむ前奏から山川豊お得意のムード派歌謡曲。サビあたり曲がちょっと弾むのが、スパイスになった。それにしてもまっしぐらに一途な男心の詞は原文彦、それが最後の最後に、再会の時は独身で居て欲しいと言う男のエゴに笑った。

出船桟橋

出船桟橋

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
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 仁井谷俊也の詞は、一番の歌い出し2行分で重ね言葉の妙を作る。しかし二番と三番にはそれがない。探しあぐねたのか、こだわると内容が限定されることを避けたのか。椎名佐千子の歌は、サビの「行かないで行かないで」を突かず、結果ソフトに止まった。

紅の傘

紅の傘

作詞:池田充男
作曲:弦哲也
唄:大月みやこ
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 和風なおとなのいい女を、絵に見せる詞は池田充男、委細承知!の曲は弦哲也。しっとり気味の艶歌を、大月みやこが私流だとこうなの...という歌唱で仕立てた。言葉ひとつひとつに思いをこめ、小さな技を連発しているが、歌をこねることと情感とのバランスが微妙だ。

越後水原

越後水原

作詞:伊藤薫
作曲:弦哲也
唄:水森かおり
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 珍しく歌が泣いている。ご当地ソングの女王になった各作品では、見せなかった境地。越後水原、瓢湖の風物は織り込むが、伊藤薫の詞が一途な女の失意に踏み込み、水森かおりはそれに刺激されたのだろう、歌い終わりの笑顔とピョンピョンはしばらく封印か。

MC音楽センター
 自称〝暴走老人〟の元東京都知事・石原慎太郎氏が作詞家として登場した。4月12日、東京・品川プリンスホテルのステラボールで、五木ひろしが開いた新曲発表イベントの舞台。石原氏が作詞、五木が作曲と歌を手がけた「思い出の川」を生の歌唱で聞き、
 「いい歌だ、ジーンと来た。これで晴れて死ねるよ」
 と、ジョークまじりの発言。いつになく如才のない言動で、集まった500人の五木ファンを喜ばせた。
 5行詞3コーラスの惜春歌である。昔、弟の石原裕次郎のために書いた「狂った果実」を思い起こしながら、さぞやさぞ...と身構えて聞いたら、拍子抜けするくらいシンプルな詞で、すっきりした筆致。川の岸辺に立って「失いし恋」や「過ぎゆきし青春」を回想し「あの人」や「あの友」は今どこに...と語る。新しい歌づくりの気負いなどなし、いかにも文学者らしいケレン味もなしで、これがおん年83才の率直な感慨なのか?
 それがかえって、流行歌の定番としては生きた。
 「これが語るべき詞で、歌いあげない方がいいと思った」
 という五木の曲づくりはツボを心得た処理で、歌唱も実に細やかで穏やか。「小さく歌って大きく伝える」歌の極意のひとつを示し、聴いたあとにしみじみ、すがすがしさを残す抒情歌になった。
 実はこの歌が出来上がった夜、五木本人から電話を貰っていた。珍しいことだから何事か? と思ったら、
 「石原先生とまた会って歌が出来た。14年ぶりですよ。これも縁というものだと思って...」
 と、声がはずんでいた。そう言えば...と思い出す。三宅島が大災害にあって、島民が東京へ避難していたころ、当時の石原都知事の意を汲んで「望郷の詩」というのをプロデュースしたことがある。三宅島の長谷川村長の原案で、作詞が阿久悠、作曲と歌が五木。2003年5月、CDを出した五木と知事が大いに意気投合したものだ。
 同じ田園調布に住む二人が、ぱったり再会したのが昨年5月、行きつけのレストラン。それが今回の歌づくりの発端になったというから、確かに合縁奇縁には違いない。それにもう一つ、五木の電話の声がはずんだのは、作品への自信だろう。
 「いい歌が出来た!」
 そんな実感が伝わる声音だった。
 《へえ、それはよかった...》
 と、一件をやり過ごし気味だった僕が、五木とたまたま出会ったのが、3月30日で、元NHKの飯田忠徳氏の通夜の席。
 「発表会の知らせ、行ってる?」
 と聞くから「いや...」と答えたら、マネジャーが飛んで来て、翌日には品川プリンスの会の通知がFAXされて来た。石原氏は最近出版した「天才」が、田中角栄元首相の人間と業績を描いてベストセラーの呼び声が高い。仇敵と目されていた間柄だから意外性も強く、にわかに角栄氏再認識の時の人めくことに興味もあって、出かけた。
 そんな角栄論も一言あって、石原氏が歌好きの一面を垣間見せたのは、島倉千代子の「思い出さん今日は」の三番の歌詞を諳んじてみせたあたり。
 〽誰かの真似して小石を投げた、ポチャンと淋しい音がした...
 に始まって、
 〽つまんないのよ何も彼も、あの日は遠い夢だもの...
 まで。自作の「思い出の川」にまつわる老境の感慨を語るひき合いに出したのだが、星野哲郎のこの詞が、強く印象に残っているらしい。それにしても古い歌の歌詞を1コーラス分、淀みもなく口にするあたりは、なかなかの思い入れと言わざるを得まい。
 「しかしねえ、このごろの若い連中、シンガーソングライターの歌か? みんなつまらねえなあ」
 とバッサリやれば客席から拍手がわく。記者団の取材は二人を囲んで、舞台上で展開した。集まった五木ファンには、これもまた妙に生々しく、風変わりな趣向だったろう。
 「これでまた印税が入る。次の詞ももう五木君に渡してある」
 この日ばかりは悦に入ってか石原氏、ほとんど暴走なしの好々爺ぶりだった。
週刊ミュージック・リポート
 彼は扇子を胸の前でバタバタさせながら、よく美空ひばり家へ現れた。
 「よォ、おす...」
 居合わせた誰に言うでもないあいさつは、そんな一言。昔、ひばりの実弟哲也の不祥事から、一家が孤立していた時期も、彼の行動は変わることがなかった。ひばり母子と親交があったNHKの製作者たちが、その周辺から一斉に姿を消しても、人なつっこい笑顔で、彼だけが出没する。それは彼一流の男気だったろうか。
 3月30日が通夜、31日が葬儀で、僕らは彼、飯田忠徳氏を見送った。式場は外房線鎌取駅から車で10数分の千葉市斎場。彼の肩書きは「元NHK総務局特別職部長」葬儀委員長は元NHK会長の海老沢勝二氏で、喪主は夫人の菊江さん。
 《たしかに特別だったな。忠さんは、フリーパスで会長室へ出入りしていた...》
 通夜で焼香する弔問客に、目礼する海老沢会長の赤い眼と眼を合わせながら、僕はふとそんなことを思い返した。
 「この人も、茨城育ちで、同郷の友だちですわ」
 飯田忠さんに、会長を何回も紹介された。作曲家船村徹の歌供養の席とか、大きな行事がある都度のこと。間にかなりの時間がはさまれてはいたが、以前に紹介したかどうかなど、彼はまるで斟酌しない。だから僕は、海老沢氏の名刺を何枚も持っている。
 キーワードは「茨城」だった。会長と忠さんは茨城の同郷人。それが信じられないほどの絆の強さの素になっていて、忠さんは扇子をバタバタと局内も歌社会も、独自の言動で闊歩した。会長との関係を誇示する訳でもなく、それに図に乗る気配もなく、人当たりは愛すべき忠さんのまま。しかし、彼の忠勤ぶりは、人前でもそれとはっきり判る挙措で、会長も当たり前みたいに受け止めていた。強固な意志の疎通と信頼をうかがわせて、僕にはそれが、近ごろ稀なサムライの主従に見えた。
 通夜の席には、歌社会の重鎮が顔を揃え、五木ひろしや大月みやこの顔も見えた。スポニチの後輩の元尾や島倉、日刊スポーツの笹森記者も居る。小声で交わす会話から「紅白」の二字がもれたりして、彼らと忠さんとのつき合いの一端がしのばれる。会長との太いパイプが情報源としての思惑を生んだが、結局親しまれたのは、忠さんの人柄だったろう。お清めの席の隅で、ひばりの息子加藤和也と有香夫人の涙が止まらない。僕は少しの間、和也の肩を抱いた―。
 忠さんと僕のつき合いが深くなったのは、ひばり家周辺でのこと。社会復帰した哲也に僕はきつい注文ばかりした。ことに以後の交友関係については、以前の仲間と距離を置くこと。
 「そうしないと、またひばりの弟が...というネタになって、姉さんに迷惑をかけるぞ」
 と、言わずもがなの念まで押した。ひばり母子と長い親交があっての差し出口だ。そんな時期、哲也と忠さんは肝胆相照らす仲になった。昼も夜もの親密なつき合いが続き、忠さんは生まれた息子を「哲也」と名づけたほどだ。一匹オオカミふうなお互いの気風がハモったのだろうが、ここにも忠さんの男気が見てとれる。その親交は哲也の没後、彼の実子である和也に引き継がれていた。通夜、葬儀に和也が泣くはずである。
 通夜のあと、
 「車持って来てますけど...」
 と言う夫妻の申し出を辞退して、僕はテナーオフィスの徳永廣志社長と電車で帰った。鎌取から逗子へは総武快速と横須賀線が相互乗り入れしていて一本道である。グリーン車に乗り、ハイボールの缶を求めてお清めの雑談。
 「トク、忠さんは71才、お前と同い年だったんだな。はじめは俺と同じくらいかと思ってたけど...」
 「小澤社長も3月に亡くなったでしょ。忠さんと同じ年くらいじゃなかったですか...」
 トクは小澤音楽事務所社長の小澤惇を親とも兄とも追慕する男で、僕らは3日前の27日に、小澤の7回忌しのぶ会をやったばかりだった。
 忠さんの通夜の30日は、昼の気温が22度ですっかり春。そう言えば、作詞家の中山大三郎も春に見送った。満開の桜の季節にはなぜか、いい友人が逝くものだ...と、二人はしばらく無口になった。
週刊ミュージック・リポート
 ずいぶん久しぶりに、浅川マキを聴いた。「ちっちゃな時から」「かもめ」「愛さないの愛せないの」などの初期の歌から「ボロと古鉄」「ブルー・スピリット・ブルース」「裏窓」「ゴビンダ」など、熟成期の作品まで。3月中旬、気温17度、やっと春めいて来た葉山の海の穏やかさに眼をやりながら、それとマキの諦観めいた暗めの穏やかさが、ミスマッチの趣きを作りながら違和感がないから、ふっと溜息をついたりする。
 友人の寺本幸司から届いたアルバムは「マキ・アサカワ・UKセレクション」と銘打たれている。どうやらあの浅川マキの歌が、あちらで世に出て、ユニバーサルからその〝日本盤〟が発売されたらしいのだ。寺本の走り書きのメモには、
 「何だかイギリス人に浅川マキを寝取られたような気分ですが、聴いて読んでやって下さい」
 とある。寺本はマキの終生のプロデューサー。1960年代後半から長く僕が棲んでいた、三軒茶屋の古い西洋館、通称〝お化け屋敷〟の初代有料同居人だった。
 そんないきがかりがあったせいで、僕がマキにかかわったのは彼女の初期。天井桟敷を主宰した寺山修司が詞を書き、ジャズ・ギタリストの山木幸三郎が曲を書いたアルバム一枚分で、マキを「アングラの女王」に仕立てたころだ。1968年12月、新宿の蠍座でやった深夜コンサート「浅川マキを聴く会Ⅰ」に、僕らはレコード会社の腕利きプロデューサーを呼び込み、彼女の新しい出発を画策した。満員の客席の隅には、ダスターコートとハンチングベレーの寺山が居て、傍らには九條映子や田中未知がすそ長い黒いコートで陣取る。客席で「おせんにキャラメル...」と物売りをしたのが、僕の先妻とその友人たち...。
 「彼女はカウンター・カルチャーのアイコンであった。深夜と煙草と酒の声、常に黒い衣装を纏っていた日本版ジュリエット・グレコのような装い、個人的な面と政治的な面の両方で、敗北や失望や喪失を味わった同時代の人々を、静かに癒してくれたその歌...」
 と、マキのUK盤のライナーノーツに、アラン・カミングスという人が書いている。歌詞カードに添えられたマキの写真のバックには「本日全学ストライキ、清水谷公園→国会へ」の文字が、黒板に太い白墨の字で大書されている。
 寺本のメモに「聴いて読んでやって...」
 とある〝読んで〟の部分がこれかと合点する。アランの原稿は相当な長文で、マキが彼女らしい脚光を浴びた新宿の夜の意味を言い当てているうえに、彼女の〝それ以前〟と〝それ以後〟を実に綿密に調べあげて詳述する。その背景になったあのころの時代の変化や音楽の流れも大局的に捉え、その中での浅川マキの存在と成長の意味あい位置づけを分析、解説しているのだ。
 《イギリスの音楽評論家にも、こんな剛の者が居るのだ!》
 と、僕はアラン氏の職種もキャリアも知らぬまま、脱帽し、敬意を払う気持ちになり、そこからとめどない連想を始める。加藤登紀子が将来を手探りしていた時期「浅川マキに会いたい」と言うから、その機会を作ったら、ウォッカをグイグイいく加藤とコーラしか飲まないマキが、肚の探りあいみたいに寡黙なのに往生した夜があった。あのころ、僕のお化け屋敷には、マキや藤圭子が来ていた。鉢合わせしたことはないが、双方70年という時代の巫女である、藤はその後、迷走して自死し、マキは己れの世界を突き詰める旅の中で客死した。
 寺山が死んだ夜は、彼が遺した傑作を歌って通夜とした。日吉ミミのために書いた「人の一生かくれんぼ」と「たかが人生じゃないの」で、銀座の安クラブでアカペラだったが、昨今はカラオケにも入っている。それなのに日吉の全曲集には2曲とも入っていないとは何事か!
 浅川マキの歌の孤独と寂寥、倦怠と渇望に触れたあとしばらく、プレーヤーからCDを取り出す。虚を衝かれる気がして手を止めたが、小さな丸いCDはまだ、人肌みたいに温かかった。浅川マキはこういうふうに今も生きているのかも知れないという思いがズシッと胸に来たものだ。
週刊ミュージック・リポート
 6月に東武鉄道を「ひばりトレイン」が走るそうな。美空ひばりのあで姿をラッピングした車輌が、関東平野をひた走りなのかな...と、ぜひ乗りたい気分になる。行く先は日光、近ごろ激増している外国人観光客も視野に入れて...と、ひばりプロ加藤和也社長と有香夫人が、こまごました打ち合わせを詰めているころか。
 日光と言えば船村徹記念館である。昨年5月のオープンまで長い間あれこれ手伝ったが、客足は順調、1周年を迎える前に目標の10万人は超える見通しだ。ひばりと船村―これはまた切っても切れない縁の二人である。歌手と作曲家としての戦いで、二人ともこのコンビならではの境地を開拓し続けた。船村あってこそのひばり、ひばりあってこその船村だったから、記念館のメイン・キャラは当然ひばり...と、企画段階から僕らはワイワイ言い続け、日光市の役人さんの目を白黒させたものだ。
 「ひばりトレイン」が日光へ走るとなれば、当然、記念館で「ひばり展」という話になる。行政が作る記念館というのは、あとあとまで予算の話がついて回って厄介、山口の周防大島に星野哲郎記念館を作った時に、その辺は十分に体験した。しかし、あちらは「町」こちらは「市」だから、建て物も諸かかりも大分規模が違う。集客イベントだってそれなりに...と、昨年にきつい出費註文を連発したがうまく話が進んでいるかどうか?
 「ねえ、ここまで来て俺たちと飲みながら、まだそんなことを言ってるの」
 と、車座の仲間に冷やかされる。日光から話がいきなり飛んで恐縮だが、3月5日に成田を発って、僕らは今、ベトナムのダナンにいる。年に一度の小西会の海外ゴルフツアー。寒いうちに暑いところへ、近くて安めに...という催しが、今年は3月に延びた。1月が川中美幸公演で大阪・新歌舞伎座、2月が大衆演劇の門戸竜二一座に加わって地方巡演という僕のスケジュールのせい。
 まごまごしているうちに、東京も春めいちまったと、不満顔だったメンバーも、ダナンに着けばきっちりと夏で快晴、気温は28度。短パン半袖で浮き浮きとプレーして、夕刻からはお定まりの酒である。気のいい面々の旅は、国内外を問わずにゴルフと酒。変化するのは気候と景観と気分だけだ。
 「それにしても頭領、あちこちのカラオケ雑誌に出てたけど、あれは何なのよ」
 雑文屋と役者の二足のわらじだから、芝居の話で載るのはいいとしても、「夜霧のブルース」を歌ってるなんて、ケタのはずれ過ぎでしょうという顔つきが並ぶ。1月にザ・プリンスパークタワー東京で開かれた横浜カラオケ研修会の60回記念大会というのに呼ばれてのことを指す。
 主宰する福田伴男医学博士と真子夫人とは、40年余のつきあい。もともと福田氏がスポニチの釣り欄の常連執筆者のころに知り合った。旭区に医院を開業して長い人だが、これが相当な粋人で、ディック・ミネと親交があったから、直伝の「夜霧のブルース」を十八番とする。そのうちカラオケ健康法に着目。その理論と実践のために研修会を持って各地から大勢の紳士熟女を集めている。
 「記念大会だからさ、トリで一緒に歌ってよ」
 と言われれば、こちらもこの曲は長く歌いづめだし、役者稼業で発声には自信を増しているし...の顛末が写真つきで雑誌に載ってしまったのだ。
 ゴルフはダナンGCとザ・モンゴメリーリンクスで3連チャン。朝早くホテルのロビーに集合、僕はスコア度外視のお遊びのプレーをしてホテルへ帰還。シャワーを浴び、ビールでノドを潤して晩めしからズルズルと酒宴...。僕らのツアーはどこへ出かけても同じスケジュールの繰り返しである。今回はベトナム料理に変わって、例の生春巻きふうを中心に、クエの鍋がすこぶる美味。おなじみのメンバーはどこかが似た者同志で、だんだん性分から食の趣味まで似て来ている。
 「そう言えば和也社長が不参加。その口惜しさか、あの夜は大分飲んでいたね」
 2月27日、中目黒キンケロシアターで、僕らの門戸一座公演を見たあとの大酒盛りに話が戻る。確かに和也社長は珍しく酔ってはしゃぎ気味だった...と、ベトナムまで来ていながら、そんなあたりで雑談の幕が降りる4泊5日になった。
週刊ミュージック・リポート

たかたかし、未だ老境にあらず!?

 作詞家たかたかしが藤田まさと賞の功労賞を受賞した席(1月21日)、北島三郎の『人生に乾杯』を老境しみじみ...とほめたら「え、どれだったかな...」と目が泳いだ。そのくらい昨今は仕事が忙しいらしいのだが、今月の11曲中3曲が彼の作品で「なるほど」と合点した。80歳を大分過ぎたろうに、その繁盛ぶりはご同慶のいたり。奇をてらわず策を用いず...の彼流が重用される結果だろうが、何かと言えば「しぐれ」で片づけるのだけはいかがなものかと、苦言も一つ足したくなった。

女のあかり

女のあかり

作詞:水木れいじ
作曲:弦哲也
唄:天童よしみ
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 「おやっ?」と、大勢の人が思うはずだ。天童よしみの芸風までが変わって聴こえる一曲。それがこんなご時世や流行歌の流れの中で、とても好ましいものに思える。
この人の歌は沢山の聴き手に向かって、おおらかにのびのびと、歌い回す巧みさと活力が魅力だった。それが一転、相手が「沢山」から「あなた」になった。声を絞り情感をしならせての「個対個」心の奥底をのぞかせる手ざわりで歌う。弦哲也の泣き節メロディーを、「私なら今、こう歌う!」という天童の気概も聴こえる。"聴き歌"である。

かなしい女

かなしい女

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:角川博
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 こちらは「ほほう」である。苦境を酒に頼ってなお、呑んでも呑んでも酔えない女の嘆き歌。角川が作品にうまく入って、語り口まで女口調で歌う。楽曲を一つ「歌う」というよりは、主人公の気持ちに「なってみせる」という境地。長く声に頼って、歌い回して来た人の、それなりのキャリアと進境が示された。
 曲は徳久広司の裏町流し歌タイプ。詞は田久保真見が、救いのない女心をつきつめる。サックスが前奏で鳴る編曲は前田俊明。揺れながら歌う角川が、歌い尻の かなしい女...をリットしながら、大芝居で収めた。

千曲川哀歌

千曲川哀歌

作詞:森田いづみ
作曲:水森英夫
唄:野村未奈
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 8行詞を2行ずつ、趣きを変えながら積み上げる森田いづみの詞、水森英夫の曲は、起承転結くっきりと、ドラマチックな大作の構成。それを力まずに野村未奈が「ふつう」に歌って暖かめな声味を生かした。三代目C・ローズという"くびき"を脱皮できそうに思える。

みれん心

みれん心

作詞:志賀大介
作曲:水森英夫
唄:氷川きよし
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 恋はひと夜で愛になる...と書いて、ニンマリしていそうな志賀大介の詞は女心ソング。それを股旅もの然とした曲に水森英夫が仕立て、氷川きよしは例によって突拍子もなく歌い回す。ファンが呼応する文句も用意されていて、これはやっぱり、他の追随を許すまい。

面白山の滝

面白山の滝

作詞:秋浩二
作曲:秋浩二
唄:岩本公水
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 フォーク・タッチに民謡調、おしまいはハスっぱな投げ節と、岩本公水の歌唱が頑張った。作詞、作曲が秋浩二。アンコの3行分も尺八こみのひなびた歌。一人で書かなきゃこんな歌は作れまい。玉石混交石だくさんの歌謡界だから、異色作づくりを多としよう。

命、燃えて

命、燃えて

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:大石まどか
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 大石まどかの歌が、ゆっくりめ、情緒たっぷりめの作品を、かぼそげな色に仕上げた。歌うよりは語りが軸、歌手25周年記念の一作だ。伊豆を舞台にした湯の町もの。史上あまたある作品群に、たかたかし・弦哲也の挑戦。そのせいか、とてもオーソドックスである。

流れ雲

流れ雲

作詞:下地亜記子
作曲:原譲二
唄:北山たけし
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 長期劇場公演を卒業、時間が出来たらしい原譲二・北島三郎が婿どの北山たけしに歌のハードルを用意した。漂白の男心をきりっとそれらしい詩で呼応したのは下地亜記子。もっと大きく、空に向かって...の親心だろうが、北山の目線は平ら。この人の優しさだろう。

人生ごよみ

人生ごよみ

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:川中美幸
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 6行詞の1行ずつで、川中の歌の表情が変わる。力まずにさりげなく、しかししっかりと、この人の歌う技術が動員されている。その「技」と「情」がいいバランスで、詞はたかたかし、曲は弦哲也。"しあわせ演歌"の元祖トリオが示した、その路線の発展形だろうか。

女・・みぞれ雨

女・・みぞれ雨

作詞:奥田龍司
作曲:原譲二
唄:原田悠里
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 自信のある"歌力"を一応おいといて、原田悠里が抑えめに仕立てた女心ソング。作曲は原譲二だが、この人の歌づくりはもう北島節ののれん分けの域を超えた。作詞は奥田龍司、不明にして聞き慣れぬ人だが、欲を言えば常套句揃いに1行、決めのフレーズが欲しい。

八尾しぐれ

八尾しぐれ

作詞:たかたかし
作曲:聖川湧
唄:瀬口侑希
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 おわら風の盆の、あの舞い姿が目に見えた。たかたかしの5行詞に、聖川湧が叙情的な曲をつけ、胡弓を使った若草恵の編曲が、そんな絵の額縁を作った。そう思わせる風情と詩情めいたものが、瀬口侑希の歌にあるのが何よりの収穫。タイトルだけが月並みだなぁ。

下北みれん

下北みれん

作詞:鈴木紀代
作曲:徳久広司
唄:長保有紀
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 あの独特の声味が、吐く息も含めてしぼり出す一味が歌の前半にある。いい気分になったところへ、おしまいの歌詞2行分で、長保有紀がもう一味、違う魅力をしぼり出した。歌が突いて来る。にじり寄る。演歌が万事抑えめばやりの中で、長保の踏ん張り方が小気味良い。

MC音楽センター
 五木ひろし、細川たかし、石川さゆり、中村美律子、島津亜矢らと旅をした。出演したのは千葉・神崎ふれあいプラザ、大阪・松原市文化会館、名古屋・北文化小劇場、東京・中目黒キンケロ・シアターで全10回公演。ただし冒頭のスターたちは歌声だけ。大衆演劇の若い座長・門戸竜二が艶然の女形姿で、これを踊った。同行した僕は時おり楽屋で、彼や彼女たちの歌に耳を澄ます。
 《さすがにいい味だな。それぞれ、独自性もなかなかなものだ...》
 みんな親交のある歌手だし、僕は自然に一足めのわらじである商いの居ずまいになる。
 二足めのわらじの役者として、この一行に参加している僕の出番は第一部の人情劇「めし炊き物語」(脚本・演出小島和馬)で、めし炊きおやじと藩の重役・榁久左衛門の二役。お家騒動から蟄居謹慎中の若殿(門戸)と、たまたま忍び込んだ泥棒・伝の字(あご勇が珍演)が、珍問答で客席を喜ばせる。お人好しの伝の字との交友から、若殿は庶民の人情に触れ、どうやら名君への兆しをつかむあたりがミソ。
 そこへ、江戸へ帰還されたし...と出迎えに来るのが久左衛門の僕と、忠義の武士・鮫島平馬(安藤一人)の出番。お家騒動を逆転しての使者だが、身分を捨て市井の一人として生きたいと願う若殿に事情を説明、翻意を促す一幕。若殿と泥棒の情と笑いのドラマの大半を、この辺りできりりと締めて、若殿帰城の大団円へ収める重要な役割りだ。
 《そういう役どころと判っちゃいるんだけどなあ...》
 久左衛門の僕は、あれこれ思い惑う日々を過ごした。何しろ「帰らぬ!」と言い募る若殿と、丁々発止のやりとりをする長丁場、舌を噛みそうな武士言葉の長ゼリフを、何とか完走したい思いが先に立ってしまう。相手を諫め、説得するセリフを声を張って頑張ると、やりながら「タッチが違っちゃうなあ」と、自制を促す本音部分が脳裡でチラチラする。藩の重役という身分に、白いものが混じるかつらからである。年相応にじゅんじゅんと相手に言いきかせる滋味が、なかなか作れないのだ。
 座長の門戸は大衆演劇のスターの一人、松井誠の一座で10年修行をし、独立して5年のキャリアを持つ。今年誕生日が来れば47才だが、泥棒とのかけ合いのおっとり型から、激怒する若殿までのふた色を巧みに演じ分ける。激怒は僕とのやりとりの一部だが、顔をこわばらせ、眼をひきつらせて相当な気迫。穏やかにそれを引き取るはずの僕の方が、妙にいきり立ってしまう未熟さを、きちんと受け流す器量と手練に頭が下がった。
 めし炊きおやじの僕の相方お清は森朝子、二人の娘が朝日奈ゆう子と宮元香織、陰謀派の若侍が田代大悟と二神光で出演者は合計9人。最年長の僕はみんなからいたわられ続きで、小道具の準備から出番の目くばせ、休憩時の弁当の告知までが細やかだ。制作する本田ステージプロデュースの本田幸生はセットから道具まで手作りする腕利きで寡黙な舞台監督、プロデューサーの本田まゆみとお人柄夫婦で、こちらも気くばり、気ばたらきがすみずみまでと来る。
 地方巡業初体験と喜び勇んだ僕が、それらしい体験をしたのは一度だけ。朝8時15分に羽田に集合、関西空港へ飛び、JRとタクシーを乗り継いで大阪・松原市文化会館へ入り、午後1時から場当たり、3時半に開演して終演後に名古屋へ移動という忙しさだった。2トンのロングというトラックに、セットから照明、音響の桟材、大道具、小道具に役者たちのボテ(大量の荷物の容れ物)など一切合財を積み込む見事な手際も目撃した。それに加えて、終演後の楽屋の整理整とんから清掃まで、陣頭指揮する座長の門戸で、こまめに立ち働くのが安藤の二人。立つ鳥跡を濁さずの精神と、率先垂範ぶりに、旅興行の作法を見習う心地がする。
 「カカトで芝居をしないとね」
 という、師匠の横澤祐一(東宝現代劇75人の会のボス)の常々の教えを体現出来ず、僕は突んのめりぱなしで10公演、個人的にはついに初日が出ずじまいで終わった。同じ芝居でも客の反応が、関西と関東では大いに違うことなどを、後日、今さらながらぼう然と思い返している。
週刊ミュージック・リポート
 《集団就職列車なあ...》
 作詞家坂口照幸と話していて、ふと胸の詰まる思いをした。2月19日「USEN・昭和チャンネル」の録音でのことだ。彼は長崎・松浦市からその列車に乗って、名古屋へ出たと言う。昭和30年代、列車は全国の地方から都会を目指した。中学を卒業したばかりの男女をぎっしり詰め込んで、若い労働力の獲得、移送である。
 井沢八郎の「ああ上野駅」が、そんな若者の都会暮らしを歌って、ヒットしたのが39年。50年以上も前のことだから、昨今、カラオケで歌う人もめったに居ない。しかし、僕の身辺にはそんな青春時代を持つ男は、ざらにいる。例えば〝巷の名手〟と呼んでいる歌手新田晃也は福島・伊達から東京へ出た。民謡調の作曲で一部に認められている榊薫人は、仙台在からその列車で上京している。新田はパン屋、榊は板金工場で働いたが、歌への夢に突き動かされて、新田はネオン街の弾き語り、榊は新宿の流しから今日へのきっかけをつかんだ。
 坂口は夜学の高校から大学へ進み、やがて作詞家を目指す。小学校高学年のころ、森進一の歌と生い立ちを知って心動かされていたと言う。大学を1年で休学、独学のお手本にしたのは単行本の「阿久悠の実戦的作詞講座」の上、下巻。あれはスポニチ時代に僕が企画、毎週土曜付け紙面に2年間連載したもの。ふた月で1人、スター級の歌手のための詞を公募、レコード化を狙って、都合12人の歌を作った。越路吹雪、菅原洋一、研ナオコ、前川清、美空ひばりらがターゲットで、ヒットメーカーの阿久悠が彼の作詞法を具体的に全開陳したから、作詞家志願者のバイブルになったはずだ。
 「へえ、そうだったのかい」
 「そうだったんですよ」
 坂口との問答は、そんなふうに進んだ。「昭和チャンネル」の僕の番組は、主に作詞家や作曲家をゲストに、代表作20曲余をまじえながら、その半生に触れる企画。5時間近くの語りおろしだから、毎回レアな話の連続になる。苦労話が多い中でも、坂口の場合は極めつきで、上京して吉岡治の運転手兼内弟子になるのは30才目前。デビュー作、大杉美栄子の「雪つばき」が昭和62年だから、相当な遅咲きで、今年58才、作詞生活は28年になる。
 歌書きたちは...と言うよりは、当時の男たちはみな〝心の飢え〟を生き方、考え方のバネにした。就職列車に乗らないまでも、作曲家の三木たかし、浜圭介、弦哲也、岡千秋、作詞家の池田充男、荒木とよひさ、石坂まさをら旧知の歌書きは全員、心の漂泊を体験「なにくそ!」と歯がみした青春時代を持っている。船村徹や星野哲郎も、人後に落ちない反骨の人だ。
 〝飢え〟は心だけではなく、実際喰えない時期が続いた。スポニチのアルバイトのボーヤ時代、空腹のあまりJR王子駅から飛鳥山の坂が上れなかったのが、今となっては僕の笑い話。そんなころ、道ばたに10円玉を探したと言ったら、元コロムビアの制作のボスでミュージックグリッド社を興した境弘邦は、ひもにつけた磁石で道をさらったそうな。そのうちにお隣りの彼のコラム「あの日あの頃」にそんな話が出て来るかも知れない。
 〝涙が演歌の道づれ〟だとすれば〝飢えは男の起爆剤〟だ。なかにし礼は大連からの引き揚げの無残を抱え、歌を書く営為を
 「世の良風美俗に一服の毒を盛る」
 と言い放ったことがあるし、万事順調に見えた阿久悠も、歌を書く本意を、
 「狂気の伝達でしょう」
 と語ったものだ。〝毒〟も〝狂気〟も、心の飢えが発酵してこその産物だったろう。
 2月、一緒に芝居をしている大衆演劇の座長門戸竜二は孤児の育ち。生き別れた親が気づいてくれれば...と、本名で舞台を踏んだというのも胸を衝かれる話だ。
 見回せば若者たちは現在、衣食満ち足り、物みなすべて手にすることが出来る平穏の日々に育った。しかし、世情も政情も、昨今、あきらかに混迷、不穏の気配を強め、剣呑な空気がしのび寄っている。歌は世につれるが、世が歌につれることはありえず、それは時の権力につれるものだろう。こんな時代の潮目の変化は、若者たちの心に、一体どんな新しい〝飢え〟を育てていくことになるのだろう?
週刊ミュージック・リポート

演歌が元気ないい年に!

 私ごとだが、大阪で越年した。新歌舞伎座の川中美幸新春公演に参加してのこと。元日は西成・ジャンジャン横丁の「春」で同業の友人と飲む。どら声張り上げてカラオケ狂いが絶えぬ店だった。別の夜に、宿舎で今回の15曲を聞いた。風変わりな新人の拾いものがあり、中堅どころの挑戦があり、ベテラン作詞家の実感しみじみソングがあり・どや顔・をした作詞家の歌もありで、演歌がみんな元気だった。時代は剣呑な方向へ加速するが、いい年にせねばとしみじみ思った。

倖せさがし

倖せさがし

作詞:さいとう大三
作曲:幸耕平
唄:田川寿美
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 「ほほう」と思ったのは幸耕平の曲。音楽的な生まれや育ちから、リズム強調型の作品が多かったのが、今作は本格的演歌である。歌書きの意欲の表われか。
 「ほほう」のもう一つは田川寿美の歌唱。歌うよりは語るように、息づかいもまぜて抑えめに仕立てた。「抑える」のは「抜く」のとは違って、声の芯に情感を保つ。世の中万事こういうふうだから「重さ」よりは「軽さ」が求められている...というのが、彼女の読み。
デビュー25周年、いろいろ思い惑うタイプの人が、近ごろ到達した境地のようだ。

男のコップ酒

男のコップ酒

作詞:松井由利夫
作曲:岡千秋
唄:増位山太志郎
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 増位山も「ほほう」である。ムード歌謡の甘さや優しさを得意として来たのが、小節ころころ、ビブラートもそれらしく、演歌に挑戦の体だ。
岡千秋の曲の節割りが細かくなるあたり、声の出し方も操り方も変わる。サビなどはどうだ!とばかりに声を張った。自然、ムード歌謡の増位山が、歌の口調まで変わるところが面白い。
 亡くなった作詞家松井由利夫の遺作。幼なじみの男同志が、昔なじみの店でコップ酒...。ふっと苦渋の響きが聞こえたあたりが、新・増位山節か。

音信川

音信川

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:永井裕子
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 日暮れ、山の端、月の影...と、歌い出しの1行分を、永井の歌はこざっぱりと出た。練れた声味でさりげない表現。歌の後半は声を張るが、余分な感情移入が少ないから歌がすっきりとし、景色が見えた。音信川は山口県長門湯本温泉に流れる川だそうな。

母きずな

母きずな

作詞:たきのえいじ
作曲:あらい玉英
唄:エドアルド
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 サンパウロの生まれと育ちだが、歌は日本人そのもの。高めの声のしならせ方、曲が求める表現の緩急、決めるところはちゃんと決める情の濃さなど、なかなかだ。僕も審査をしたNAK全国大会優勝から15年めの33歳、日本でバイト暮らしをした精進の成果か。

悠々と...

悠々と...

作詞:池田充男
作曲:船村徹
唄:鳥羽一郎
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 旅で人生終われたら、悔いはない。散骨すれば原生花園の花と咲く。もう一度生まれたら、やはり歌を抱き、北海道をさすらうだろう...。これは"北の詩人"池田充男の感慨そのものの歌。「うむ」と曲をつけたのは船村徹、鳥羽一郎は歌の終わりで空を仰いでいる。

女人荒野

女人荒野

作詞:喜多條忠
作曲:杉本眞人
唄:石川さゆり
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 「どうしてる?」と聞いたら「いいの書いたから聞いて」と喜多條忠が答えた。あれは弦哲也50周年のパーティーの席か。さっそく聴いて「なるほど」と思った。演歌の枠にはめない自由な詞と、杉本眞人の曲の組み合わせが生きて、石川さゆりが一芝居している。

夢見坂

夢見坂

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:北野まち子
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 「ひとり坂」「ふたり坂」「なさけ坂」「のぞみ坂」に「夢見坂」をかけた詞は仁井谷俊也。そんな女心のまわり道を徳久広司がオーソドックスな演歌にした。北野の歌も昔ながらの節回し、感情移入。もうベテランのキャリアだろうに、声味も節も崩れていない。

帰らんちゃよか

帰らんちゃよか

作詞:関島秀樹
作曲:関島秀樹
唄:島津亜矢
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 九州の父親が都会で暮らす娘を案じる長めの歌。島津が「紅白歌合戦」で歌って、ちょいとした聞きものにした。父の言い分がこまごまと具体的だから、身につまされた向きも多かったろう。島津の芸の幅を見直し、得心した向きも少なくなかったはずだ。

四万十川

四万十川

作詞:千葉幸雄
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
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 ビタミンボイスがしわがれ気味に、少し太めに聞こえた。それが中村典正の骨太の曲に似合った。四万十川をネタに、ご当地もの望郷ソングかと思わせて、人生訓に収める千葉幸雄の詞は、前作『お岩木山』を踏襲している。これが三山の色になるのかも知れない。

竜虎伝

竜虎伝

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:和田青児
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 「男なら、男なら」と男心を鼓舞する5行詞3節、仁井谷俊也の詞、水森英夫の曲は、村田英雄に似合ったろうタイプだ。それを和田が、声を励まし、節を工夫して、太めの歌にした。歌の"ため"声の"ねばり"節の"はじけ方"は、師匠北島三郎譲りだろうか。

人生に乾杯

人生に乾杯

作詞:たかたかし
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 「桜咲くこの国に、生かされて励まされ...」と、熟年の男の感慨を詞にしたのはたかたかし。本人の実感が背後にあるタイプを、受け取った北島も似たような世代だから、共感の曲や歌にしたろう。二人とももはや、色恋ばかりが歌じゃないとでもいいたげだ。

ひとり北国

ひとり北国

作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
唄:吉幾三
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 歌い出しをさらっと歌う。「おや?」と思わせておいて、歌詞の2行目後半「北へ北へ北へ」と重ねれば、おなじみのだみ声、パワフルな吉節だ。「そう来なくっちゃ!」と、客を乗せる手口か。何でもアリの彼、3曲入りCDの3曲め『うちのかみさん』も面白い。

ちぎれ雲

ちぎれ雲

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:竹川美子
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 愛弟子竹川美子の曲を、一手引受けだから叶弦大もいろいろ手を変える。今度は地方在住の作詞家原文彦を踏ん張らせて、3連もの2ハーフが課題。弟子は例によって幼な声、一途な思い入れで期待に応えようとする。そのさまが"いじらしさ"の色に出て、よかったね。

夜汽車

夜汽車

作詞:さわだすずこ
作曲:弦哲也
唄:山崎ていじ
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 男のUターンソング、地方移住が話題のご時世向きかも知れない。そこをさわだすずこの詞が、出迎える親父の顔や見送った女の涙を小道具に、歌をいろっぽくした。作曲は弦哲也、編曲は南郷達也、前奏、歌なか、後奏で汽笛が鳴って、山崎の歌も"その気"だ。

男の海峡

男の海峡

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽
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 海で生まれて海しか知らぬ荒くれ漁師が、そばで眠る坊主を「どんな夢を見てるやら」と見守る歌。外は吹雪らしく、弦哲也の曲、伊戸のりおの編曲に野趣がある。ニューヨークへ遠征、演歌の心を問うた神野のロックスピリットが垣間見えて、ご同慶のいたりだ。

MC音楽センター
 せっせと成田へ通っていた。といっても2月に入って毎日のことだから、決してゴルフではない。大衆演劇の若い座長・門戸竜二の奮闘公演に加えて貰ってのけいこである。門戸とはいくつもの川中美幸公演や昨年の三越劇場「居酒屋お夏」(名取裕子主演)などで一緒になった旧知。成田に住みけいこ場も持っている話は、前々から聞いていた。葉山から逗子へ出て、横須賀線と房総線の相互乗り入れで一本道。念願の地方巡演参加だから、片道2時間半の乗車時間もさして苦にならない。
 この欄今回分が読者諸兄姉のお目に触れるころは、千葉・神崎町の神崎ふれあいプラザで、2月13日と14日の公演3回が終わっている。神崎は「こうざき」と読む。門戸が観光大使をつとめていて、いわば地元。そう言えば成田のひとつ手前の駅は「酒々井」と書いて「しすい」と読む。地名というのはどうにも、むずかしいものだ。
 演目は山本周五郎原作の「泥棒と若殿」から、小島和馬脚本・演出の「人情めし炊き物語」門戸が謹慎蟄居中の若殿で、その荒れ屋敷へ忍び込んだあご勇扮する泥棒との奇妙な交遊物語が展開する。若殿は七万五千石の大名の次男。庶民の暮らし向きなどまるで知らぬおっとり型。泥棒は若殿の苦境に同情しきりのお人好しで、二人のとんちんかんなやりとりとあご勇の怪演!? に、けいこ場から笑いが絶えない。
 僕の役は、若殿の世話をするめし炊き親父と、藩の重役の二役。
 「せりふは十分に訛って下さい」
 と、演出家に注文されたのが親父役。これは以前、東宝現代劇75人の会公演「非常警戒」で秋田弁をしごかれたから何とかなる。厄介なのは藩の重役の方で、これがまるで裃をつけているみたいな武士言葉。およそ耳慣れぬフレーズを丸暗記。滑舌それらしく頑張ろうとすれば、舌を噛みそうになる。
 「ご両所、その辺はよしなに...」
 なんて、演出家がニッコリするから顔を見合わせるのは共演の安藤一人。彼は若殿の身辺をひそかに警護する忠義の武士。それと僕の重役とが、お家騒動にかたをつけ、若殿帰参の出迎えに来る筋立てだ。大筋がコミカルな人情噺としても、話が話だけにこの辺だけはごくシリアス。騒動が納まったあらましや、大殿の苦衷などの説明も要るから、けいこ当初は二人とも、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
 安藤はあちこちの舞台で一緒になり、同じ楽屋だった時にはこまごまと、いろんなことを教えて貰った仲。子役時代から活躍して今50代になりたてというベテランだが、やはり難渋する役どころはあるらしい。めし炊きおやじの女房役は森朝子で、こちらは昨年、劇団若獅子公演「歌麿」でお世話になった。ほかの共演者は田代大悟、二神光に朝日奈ゆう子、宮元香織で、総勢9人という一座だ。
 芝居のけいこは午後1時から4時ごろまでで、後は第二部「華麗なる舞踊ショー」のけいこになる。安藤と僕は踊らないから、以後はお役ご免。ころあいを見はからったように、中食のおもてなしがある。日替わりで焼きそばやおでん、シチューにガーリックトースト、カレーライスが出れば山菜のてんぷらにおにぎり、とん汁、かす汁等々の心づくし。制作の本田ステージプロデュースのお二人に、近隣の熟女までが甲斐々々しいお手伝いだ。
 けいこ場は成田といっても新勝寺の賑いを離れて、駅から車で20分前後。その送り迎えまでして貰ったうえ、時にとれたてのサツマイモや玉ねぎのお土産までついた。帰路一ぱいやって夜更けに帰宅したら、つれあいが
 「芝居のけいこじゃなかったの?」
 と、不審な顔がすぐにうれしい笑顔になった。女性はいくつになっても芋好きを卒業しないらしい。
 それやこれやのほのぼの人情一座は、22日が大阪・松原市文化会館で1回、23、24、25の3日間が名古屋北区の北文化小劇場公演を3回。27、28の2日間は東京へ戻って中目黒のキンケロ・シアターで3回やって、合計10回公演の千秋楽となる。合い間の15日から1週間は、二足のわらじの一足目、歌社会にごぶさた...のごあいさつに回るつもりでいるので、どうぞよろしく―。(ってのは少々虫がよすぎるかな?)
週刊ミュージック・リポート
 ゴルフの初打ちは、1月19日に葉山国際でやった。大雪騒ぎの最中だったが、湘南は雪もなく晴天。そのかわり大風で、打球が舞い上がり、フェアウェーを横切ってOBゾーンへ消える。寒さに震え、こごえる手に息を吹きかけながら、何とか完走したのは小西会の物好き2組ほど。
 僕が暮れから大阪・新歌舞伎座に居て、恒例の忘年会も新年会もなかったから、それも兼ねて...と楽屋まで来て言い募ったのは、幹事長のテナーオフィス徳永廣志社長だ。うまい具合いに今回は、彼が優勝した。参加して三位までに入らなかったら、ハンデがその都度一つずつ増えるのが、この会の取り決め。これなら誰でもいつかは優勝出来る仕組みが奏功、トクのハンデは30後半に積もっていた―。
 そんな話をしたら、作詞家の喜多條忠が
 「よくやるよ!」
 と渋面を作った。彼は暮れに助骨を痛めて、ゴルフは当分おあずけという。会議の部屋を出ようとした時、出会い頭に他人とぶつかり、よろけたとたんに机で打ったらしい。相手は誰だ? と問いただしたら、編曲の石倉重信の名が挙がったので笑った。彼の骨太のがっしり体躯を思い出したのだが、石倉は仲町会、喜多條は小西会の親しいお仲間だ。
 「あれ、聞いたよ」
 と、喜多條との立ち話が歌のことになる。暮れに本人からそこそこの笑顔で告げられた曲目が「女人荒野」で、杉本眞人の作曲、石川さゆりの歌。
 〽だって、なにが哀しいかって言ってもさ...
 という歌い出しから、詞も曲も演歌歌謡曲の枠組みをはなれた散文型口語体。死んだちあき哲也がよく言っていた、およそ歌になりそうもない歌詞に、彼流の曲をつけるのが杉本で、喜多條はその辺を狙ったのかも知れない。破調だから歌い出しは当然語りになる。それが5行分ほどあって、6行めで一応、演歌的に盛り上げ、おしまいの3行分でそれらしく納めたのが杉本の曲。合計11行の長尺だ。
 《それにしても、いきなり〝だって〟から歌を始めるか...》
 喜多條のヤマっ気に僕はニヤリとした。杉本とのコンビだからこその発想だろうが、聞き終えて僕は、ちあきなおみの「かもめの街」を連想する。あれが杉本が書いたポップス系としたら「女人荒野」は和もの系に聞こえる。歌うのが石川さゆりだからそうなるのか、歌い出しの語りに日本調の匂いを嗅いだものだ。
 〽海の音、風の音だけ、微笑みながら、女人荒野に立ってます
 というのが、結びの歌詞。
 《よくまあ、女を立ち尽くさせる奴だ...》
 と、僕がそこまで来て思い出すのは、五木ひろしの「凍て鶴」。あれは別れた女を雪原に立ちつくす凍て鶴になぞらえた男唄で、
 〽それでも俺を許すのか
 と結んだ。今度はそれの女版。別離のヒロインを心の荒野に立たせている。彼が珍しくどこかの立ち話で
 「聞いてみてよ」
 と囁いた陰には、そんな二作への思いがあったせいかとも、合点した。
 「ねえ、さゆりの歌はどうだった?」
 と、喜多條が聞く。
 「うん、あの人らしくひと芝居してるよな」
 と僕が答える。さゆりは歌を「演じる」タイプの歌手だと思っている。ことに女の情念ものに際立つが、作品のヒロイン像を身をもって演じ切ろうとするのが特色だ。そのせいか彼女にはいつも、新しい意欲的なシナリオを欲しがる気配が強い。
 作品によって自分の色を変え、独特の存在感を作りたいせいだろう。かつては彼女のそんな欲求を吉岡治や阿久悠や三木たかしらが満たして来た。昨今は前作「ああ...あんた川」の吉幾三や今回の喜多條・杉本が呼応した形になるのか。
 三木たかしの最後の傑作になったと信じる「凍て鶴」とは少々違うが「女人荒野」が詞、曲、編曲(坂本昌之)歌ともに、足並みを揃えた意欲作であることは確かだ。何をやってもCDが売れないと嘆きながら〝売れ線もどき〟づくりに腐心するよりは、市況など度外視して、意欲作、異色作を世に問う蛮勇も、この時期重要なことと思うが、いかがなものだろう?
週刊ミュージック・リポート
 作詞家の石原信一が大きめで真っ赤な花の胸章をつけている。
 「おい、おい、どうしたんだ一体、古稀にはまだ2年くらいあるだろ」
 一回り年下の古い友人だから、そんな冗談が先に立つ。1月21日の夜、赤坂の日本海運倶楽部で開かれたのは日本音楽著作家連合の新年懇親会。受け付けで貰った資料に、石原の作品「命咲かせて」が平成27年度の藤田まさと賞受賞と記されている。
 「ほう、お前が藤田まさと賞ねえ...」
 「ええ、まあ、そんなことになりまして...」
 と、また本人と僕の問答がこんな調子。内心は
 《よかったね。おめでとう!》
 なのだが、どうしてもこうなる。何しろ初対面が昭和47年、僕がスポーツニッポンで始めた若者による若者のページ「キャンバスNOW」の常連執筆者で、彼は大学を卒業したばかり。以来物書き同士のつき合いが40年を越えている。
 めでたい受賞作「命咲かせて」は石原の詞に幸耕平の曲、丸山雅仁の編曲で歌唱は市川由紀乃。制作がキングレコードで、重村博文社長や、市川の所属プロ渡辺精一社長、担当の湊尚子ディレクターまで、花の胸章がずらりと並んだ。制定委員や連合の会員が推薦した候補100曲から選ばれたのだから、みんな新年から幸先がいい笑顔だ。
 《あの歌か...》
 僕は頭の中で受賞作を鳴らそうとする。ガンガン張る歌を行けば行ける力量の市川が、八分めくらいに歌った程のよさ。もともとリズムを強調した作品のヒットが多い幸が、本格的演歌を狙った気配が強く、石原と幸は何度か詞と曲のキャッチボールで歌づくりをする仲...と、どこかに書いた記憶がある。
 赤い花を飾っているお仲間が他に2人居て、功労賞のたかたかしと岡宏。受賞者席につきたがらないたかと一緒に、僕は会場下手最先端に陣取る。
 「ま、歌社会シルバーシートだわな」
 なんて冗談を言い合っているところへ、小林隆彦マネジャーとたかの事務所を手伝っている息子の髙橋青年が、せっせと酒や肴を運んでくれる。お陰でこの種のパーティーの席では珍しく、僕は多めのご馳走にありついた。
 「歌の商売を始めたのよ」
 と、真顔で岡宏音楽商会とやらの説明を始めるのがクリアトーンズのボス。有名無名を問わず、いい楽曲を仕入れ、楽曲を欲しがっている巷の歌手たちに供給、手数料を稼ぐのだそうな。どんな作品を選び、どんな歌い手に橋渡しをするかは、彼本人の見識とセンス。CD化するか、歌い手専用のオリジナルに止めるかは、相手の経済的可能性を含めた希望に添うという。
 「そうまでしてでも、演歌の底上げをしないとねえ」
 と、すっかり〝その気〟の岡の傍で、
 「アイデアとしては面白いけど、実際やってみるといろんな問題が出て来そうだねえ」
 と、ニヤニヤするのは作曲家の水森英夫だ。
 それやこれやの会場で、大忙しなのは連合の志賀大介会長や弦哲也副会長、四方章人理事長、聖川湧副理事長ら。藤田まさと記念新作歌謡コンクールの受賞者を次々と表彰する。城山正志、村田耕一、おおた良、藤田たかし、泊大輝、山田那津子、梁川梁、鈴木綾子、田村勝秋、宗宮成則、棚橋清志、笠間千保子らに佳作が30名近く。こういう面々が喜色あらわに会場を行き来するあたりが、この組織の温かい人間関係といい雰囲気を作っている。
 そうこうするうちに、会場の隅で流れはじめたのが連合の次期会長に四方章人が決まったらしいという噂。四方は銀座の弾き語り当時に、藤田から詞のメモを渡され、それが「浪花節だよ人生は」のヒットになり脚光を浴びた人。その縁を大切に、藤田が創設したこの組織に献身、藤田を記念する行事にも粘り強く協力して来たから、
 「それは当然の人事だろ」
 とばかり、本人にただしたら、
 「まあ、いずれそのうちに...という話で」
 と温顔をほころばせた。志賀大介から四方章人への会長職禅譲も、特に期限はないそうで、そのうちぼちぼちというのも牧歌的でいいではないか!
週刊ミュージック・リポート

歌詞に面白み、少数精鋭かい?

 田久保真見は特異な作詞家。時にドキッと胸を衝かれる詞を書く。今回もそうだが、作り出すドラマを見据えている、鋭い視線と表現が得難い。原文彦は以前、美川憲一に書いた歌の「こおろぎみたいに女は泣いた」というフレーズに魅せられた人。たきのえいじは詞がカラフルになったのが、頼もしい。とかく彼の詞は墨絵ぼかしに静かだった。僕の棲みか逗子の葉山が歌になったせいだけではないが、志賀大介のベテランの遊び心も楽しい。作詞が頑張れば、作曲する側もみんな弾むものだ。

三日月海峡

三日月海峡

作詞:田久保真見
作曲:岡千秋
唄:服部浩子
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 「女の胸には海がある」と言い「ふたりの愛には闇がある」と言い「男の胸には空がある」と言い切る。このフレーズをそれぞれ、3コーラスの歌詞の頭に置く。いかにも田久保真見らしい、レトリックの詞だ。
その上で三日月が、ナイフみたいな小道具になる。男が去るのなら、それで胸を刺されたいと思い、逢瀬の夜はそれに酒を注ぎたいと願い、男が他の女に心を移すなら、それで男の胸を刺すという。
激しい恋歌の曲は岡千秋。それにあおられるように、服部浩子の歌が珍しく激した。

みちのく遠花火

みちのく遠花火

作詞:たきのえいじ
作曲:若草恵
唄:佐藤善人
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 若草恵は華麗でドラマチックな、ポップス系のアレンジャー。それが作曲をすると演歌系になるから面白い。父親が演歌の作曲者で子供のころからその種の歌に囲まれ、後に中山大三郎の弟子になった体験が、彼の中に根をおろしていそう。音楽的に先を目指す意思と、守旧派ふう体質が共存しているのだ。
作詞はたきのえいじの望郷ソングだが、彼の詞には珍しく、各コーラスに主人公を取り巻く風景がくっきりとある。若草もたきのも心優しい歌書きのせいか、暖かくのどかな作品で、佐藤善人の歌も、のったりと仕上がった。

会津・山の神

会津・山の神

作詞:原文彦
作曲:四方章人
唄:津吹みゆ
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 作曲家四方章人が手塩にかけた新人のデビュー作。歌い出しから高音のメロディーで、四方の曲がスケール感を狙う。作詞の原文彦は確か四国在住の人。時おり面白い作品で東京へ狙い撃ちをしてくる。三番の「腹に火を抱く故郷の山に...」なんてあたりが、いかにもいかにも。津吹みゆの歌は初々しくていねい。もうちょい荒っぽくても良かったか?

湯島天神おんな坂

湯島天神おんな坂

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡 ゆう子
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 お蔦・主税の物語を、仁井谷俊也が歌にした。これまで多くの作家が手がけた素材だが、仁井谷がそれと示すのは題名と二番の歌詞に止めた女心ソングだ。岡千秋の曲はそれなりに、日本調を意識した気配がある。岡ゆう子の歌は伝法な口調、諦めのムードで、彼女らしいお蔦像を作った。ファルセットで迫るサビが、情感強めになった。

花つむぎ

花つむぎ

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:伍代夏子
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 この間、MCの対談で会ったらこの歌を「ヒット性あり」と、本人が診断した。根拠はみんなが歌えるいいメロディーと「花つむぎ...花つむぎ...」と歌の真ん中にあるフレーズの快さだとか。そのくり返しをブリッジで生かした曲は徳久広司、山里の故郷を捨てられぬ恋心の詞は仁井谷俊也。伍代夏子は歌手活動30周年。自作を分析する眼も確かだネ。

夕霧岬

夕霧岬

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:藤 あや子
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 藤あや子への北島三郎の肩入れはなかなかのもの。今回は原譲二の筆名で、作詞、作曲をしてこの歌を彼女に提供した。彼が得意とする岬ものの女心版だ。
歌い出しの「啼くな」と「海鳥よ」のそれぞれを、女声コーラスが追いかける。まず客をつかむ細工か。決めるのは5行詞最後の1行。民謡育ちの藤に、肚を据えた発声をさせている。

逗子の恋港

逗子の恋港

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 「こんなに東京は近いのに...」という三番の詞にニヤリとした。逗子から東京へ通う僕の実感に重なったせい。桜山は葉山の飛び地と言う。葉山に住む僕は「ほう!」になる。
作詞志賀大介、作曲伊藤雪彦コンビは、三代沙也可の歌づくりで、ここのところ江ノ島、鎌倉、今度の逗子と湘南を回る。今度も伝統的歌謡曲の快さを聞かせて、三代に小さな旅をさせた。

五山の送り火

五山の送り火

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵 かを里
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 葵かを里の声味は、高音部に艶があって感情移入が濃いめになる。ツボを心得ているように、影山時則の曲は、その部分を何度も使っている。最近では珍しくなった日本調の匂いも漂わせて、涙でかすむ大文字に似合いのものにした。作詞は麻こよみで、この歌を「恋は幻、夢一夜」と結ぶ。葵の個性が言葉遣いや節回しに生きた一作だろう。

MC音楽センター
 「紅白歌合戦」は宿舎でひとり、のんびりと見た。一夜あけた元日は、ホテルそばの生國魂神社に初詣をした。ここまでは何十年ぶりかの、粛々とした年越しである。それが一転、夜は新世界ジャンジャン横丁そばのスナック「春」で、騒然の新年祝いになった。
 《大阪もなかなかに、味なもんだ...》
 と、初めての関西ふう雑煮を賞味する。白ミソに丸餅、鶏肉に野菜あれこれだが、一緒に舌つづみを打ったのは、ダンサーで芝居もするお仲間、安田栄徳と綿引大介。春という店は初めて一緒の舞台に立った新島愛一朗が経営して10年、自身も時代劇の若衆ふう扮装で取り仕切っている。
 平成二十八年正月は、二日から十五日まで、新歌舞伎座で「川中美幸新春公演」に出して貰った。第一部が「初春、初唄、初笑い・浪花でござる」で、第二部が川中のオンステージ「人・うた・心」両方とも福家菊雄の作、構成、演出である。共演は赤井英和、曽我廼家寛太郎に四天王寺紅、藤川真千子と、飲み友だちの友寄由香利、小林真由、穐吉次代。後半の三人が扮する芸者を連れて登場するのが第一部の僕。またしても金持の旦那だ。
 そんな第一部は、川中の歌入りバラエティーで、僕はコントに初挑戦をしたが、厄介なのは地元での関西弁。イントネーションがズレると「気色が悪いんだよ」と、よくスポニチ大阪の友人に言われたことがトラウマになっている。そのうえ芸達者の寛太郎とのからみもある。この人は全編アドリブこみ、隙間なしにポンポン行く。それに川中がボケたり突っ込んだりで、ちょいとした名勝負。僕らは舞台そでで、袖引き合って笑うのだ。
 芸風ひょうひょう、変幻自在の寛太郎に、当意即妙、関西ふう笑いはお得意の川中と、剛直、朴とつの赤井が客席を沸かせる。川中の歌、トークを「縦横無尽」と評したメディア人も居た。新歌舞伎座の大舞台で、アドリブなんて滅相もない...と、やたら緊張気味の僕に、演出家の福家がかけてくれた一言は、
 「遊んで下さい。気楽に...」
 よおしッ、それならば...と、時に脱線するのは、川中の緋牡丹お竜を狙ってからむならず者を率る親分役。これはもう入道頭の両側が猫じゃらしみたいな髪がふっ立ったカツラとつけ眉毛、つけひげ。大仰などてらを羽織っての威風堂々!? だから、舞台に出ただけで笑いが来る。そのうえ親分が捜しているのは肝心のお竜そっちのけで、愛猫のたまちゃん。セリフもドラ声張りあげて上田吉二郎もどきだが、見に来た作曲家弦哲也が言うには、
 「テレていないところがいい」
 関西シャンソン界のベテラン出口美保には
 「どんなカッコをしても、声であんたと判る」
 と言われたのを、ほめ言葉と我田引水してやれやれ...である。
 ジャンジャン横丁に話が戻るが、スナック春はおっさん、おばはんのカラオケが休みなし。店に入ったとたんの一曲が「釜ヶ崎人情」で、作詞家もず唱平のデビュー作である。あれからもう50年になろうが、この歌の地元で、かつてはこの歌のモデルだったろうおっさんのダミ声がやたらに刺激的だ。カラオケ用画面はひっきりなしに変わるが、都はるみの「ふたりの大阪」の一場面に吉岡治がバーテン役で出ているのには笑った。その吉岡作品で、今回川中がステージに上げたのは「残菊物語」「白梅抄」「金沢の雨」「おんなの一生~汗の花」など。阿久悠や三木たかしの作品も「豊後水道」「女泣き砂日本海」「遺らずの雨」「ちょうちんの花」と並ぶあたりに感慨が深い。
 川中の最新曲は池田充男の詞、弦哲也の曲の「一路人生」である。一番の歌詞にある〽今宵も集うひとの和に、この身をそっとおきかえて、わが来し方をほめて呑む...の一節をテーマに、僕は連日、浪花の酒を大いに味わう新年になった。
 身にあまる光栄は、アルデルジロー我妻忠義社長の心遣いで、拙著「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」(幻戯書房刊)を劇場ロビーで売って貰ったこと。これがアッと言う間に売り切れて、春から何とも縁起のいい話...とお仲間から肩を叩かれたものだ。
週刊ミュージック・リポート

 2月は大衆演劇の門戸竜二一座に加わって、地方巡演に出る。芝居が山本周五郎原作「泥棒と若殿」より脚本・演出小島和馬の「人情 めし炊き物語」で、僕は若殿づきのまかない親爺与八と藩重役の二役をもらった。第一場で町人、第六場で武士になる勘定だ。主演の若殿は門戸竜二、泥棒にあご勇で、何度も一緒の舞台に立った安藤一人、昨年2月の劇団若獅子公演「歌麿」で共演した森朝子が一緒だ。

 ところで巡演先だが21314日が千葉の神崎ふれあいプラザ、22日が大阪・松原文化会館、232425日が名古屋・北文化小劇場、2728日が東京・中目黒のキンケロシアターの10回公演。隙間は東京へ戻るが、場所を変えて連日というケースもあり、初体験がどんなふうになるのかドキドキものだが、生来楽天的な僕は「ま、流れに任せて・・・」と、それなりの決心をしている。

 門戸竜二との縁は川中美幸公演ほかでよく顔を合わせ、昨年4月の三越劇場、名取裕子主演の「居酒屋お夏」で一緒の時に「年寄りの役者が必要な時は是非!」と売り込みをした。マネージャーなしの個人営業なのだが、近ごろは冗談まじりにそんなことも出来るようになった。

門戸竜二奮闘公演
殻を打ち破れ168回

 「ママがね、ドレスもくれたヨ」

 近ごろチェウニは、しきりに母親の話をする。彼女が2才のころに離婚した母は"韓国の美空ひばり"と呼ばれる大物歌手の李美子。チェウニはその後、父方で育った。ふつうの母娘なら『瞼の母』の女性版になるところだが、チェウニも8才で歌手デビュー、10代でそこそこの人気を得ていた。韓国の歌社会で別々の活動だったから、心境も関係も微妙で時に深刻だったろう。

 その娘がこの秋『チェウニ 李美子を歌う』というアルバムを作った。全10曲、母親があちらでヒットさせたものばかりで、日本でもおなじみの曲もいくつか。こちらでの歌手生活が16年、歌巧者として独自の世界を作ったチェウニが、あえて母親の魅力に挑戦する企画である。長く離ればなれだった母子が、再会したのは今年の春。その後の人生や歌についても話し合い、お互いのこだわりは氷解したという。母親は60年代に日本でも歌っている。「母子二代、日韓歌のかけ橋!」という惹句は、アルバム制作を手伝った僕が作った。

 「この人ね、私が初恋の人だったのヨ」

 チェウニは時おり、僕を人にそう紹介する。確かにそう言われればそうで、彼女が10代のころ日本で吹き込んだ『どうしたらいいの』に鳥肌が立った。生歌を聞きたいと探したが、本人は不発のまま韓国へ戻っていて会えずじまい。それが16年前の『トーキョー・トワイライト』で東京へ帰って来た。あの歌声の哀愁、高音部ににじむ艶といじらしさの情感は、往時のままだった!

 二度目の鳥肌を体験して以後、流行歌評判屋の僕は、チェウニ関連の記事を書きまくり、その魅力を吹聴しまくった。彼女のヒットを連作した杉本眞人やディレクターの松下章一も友人だから、そんな騒ぎ方に弾みもついた。親交のあるキム・ヨンジャに、

 「私たち韓国の歌手に、何か特別な思いがあるの?」

 と不審な顔をされたのも、そのせいか?

 『トーキョー・トワイライト』がヒットした当初、チェウニは母親の話に触れたがらなかった。尊敬と鬱屈が交錯するチェウニに、あちらの歌社会では母の影響がきつかったろう。そんな行きがかりに訣別、日本に新天地を求めた彼女にすれば、無理もないことではあった。しかし僕は、歌手最大の魅力と武器は声そのものと思っているから、

 「それをお前さんは、李美子から貰ったのよ。こだわるのもいい加減にしたら...」

 と、文句を言ったものだ。それが昨今では

 「ママが"つばき娘"をレコーディングした時、そのお腹に私が居たんだってヨ」

 とコロコロ笑うようになっている。

 その『つばき娘』に『黒山島娘』『ソウルよ さよなら』『女の一生』と、今回のアルバムの10曲のうち4曲は訳詞が三佳令二。歌社会の僕の叔父貴分だった名和治良プロデューサーの筆名である。彼と僕が歌づくりの拠点にしたドーム音楽出版は、彼の没後、息子の大地君が引き継いでいる。

 チェウニは永住権を取り、NHKの腕利きプロデューサーと結婚、日本に帰化する手続きも進めている。異国でつかんだ歌手生活の安定と女の幸せ。チェウニにはいい事ばかりのこの1年である。

月刊ソングブック
殻を打ち破れ167回

 三橋美智也の『哀愁列車』が大ヒットしたのは昭和31年。歌い出しから三橋の高音が♪惚れて...と突出して、同じフレーズを3回繰り返す。悲痛で甘美な魅力がズン!と、胸に沁みたものだ。

 この歌に背を押されるように、その年の8月、僕は上野を目指す常磐線に乗った。茨城の水海道第一高校の卒業期、急性脊髄炎にやられて半年の入院生活のあと、何はともあれ東京へ...と、お先まっ暗な旅立ち。この各駅停車は僕の、文字通りの哀愁列車になった。

 折からキングの全盛と、三橋・春日時代が始まっていた。歌謡少年だった僕は、作詞横井弘、作曲鎌多俊与の名もそらんじていて、ラジオの「キングアワー」で、町尻量光文芸部長という人名と職種まで知る。僕が拾われた仕事は、スポーツニッポン新聞社のアルバイトのボーヤ。それから7年、内勤部門で働いて、歌社会の取材記者に取り立てられるのは、昭和38年、28才の夏...。

 平成27918日、僕はアルカディア市ヶ谷で開かれた「横井弘さんお別れの会」に居た。右隣りの席に作曲家の弦哲也。献花したあと横井の作品リストを見ながら、「あれも横井さんか!」「これも横井さんだ!」と感嘆の声を交わす。若原一郎の『裏町のピエロ』、春日八郎の『月の嫁入り船』や『居酒屋』、三橋美智也の『赤い夕陽の故郷』や『おさらば東京』、バーブ佐竹の『ネオン川』、佐々木新一の『君が好きだよ』などを、僕らは小声で歌い合いながら「知ってるねぇ」とお互いの歌好きを確認する。

 デビュー曲と知る『あざみの歌』は、およそ流行歌ばなれした清澄の境地。春日八郎の『山の吊橋』はほほえましい野趣にあふれ、仲宗根美樹の『川は流れる』は、一字一句のゆるみもない3コーラス。推敲のあと歴然の筆致が、簡潔を目指す雑文屋の僕の、終生のお手品になっている。

 この人の仕事の凄さを、よく話してくれたのは作詞家星野哲郎。

 ♪西条、佐伯と言わないまでも、せめてなりたや横井まで...

 志得ぬころの星野らは、新宿の夜にそんなざれ歌を歌ったと言う。西条八十や佐伯孝夫は目標とするには大き過ぎて、畏敬の念を持って追おうとしたのが横井だったらしい。私淑した星野ですらそうなのだから、僕には横井は雲の上の人。キングで一、二度、新宿の「花寿司」で一度ほど、面識を得たくらいに止まる。温厚、寡黙の紳士で、近寄り難い雰囲気があった。

 純粋詩からスタートした人という。文学を目指す、活字で読む詩だ。そこから耳で聴く歌謡詞で、俗に通じる世界へ転じる。手がかりをつかむために、キングに勤めたり、日本音楽著作権協会で働いたりしたそうな。『あざみの歌』で認められ、作詞家藤浦洸に師事、双方唯一の師弟関係になったとか。

 ≪口惜しいなぁ≫

 と、我が身を振り返る。歌社会の腕利きになつき、密着する体験型取材者なのに、横井に関してはそのチャンスを永遠に失った。彼一流の独特の抒情性、どんなタイプの作品にも維持した品位、はやり歌世界に稀にある文学者としての風格...。そんな「仕事と人」を偲ぶよすがに、僕は一人でぼそぼそと、また『哀愁列車』を歌うしかないか...。

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  27年の年越しと28年の元日は大阪で過ごす。12日初日の新歌舞伎座「川中美幸新春公演」に参加のため、暮れの28日に大阪入り、けいこをやって越年の酒は他郷でという段取りだ。僕が出して貰うのは「初春初唄初笑い・浪花でござる」の第一部で、川中の歌を寸劇でつなぐバラエティー形式。金持ちの旦那ややくざの親分、明治時代の警官などで出たり入ったりする。紋付き羽織はかまで威儀を正すシーンもあるが、作、演出の福家菊雄は「ものがものだから、アドリブで・・・」と、けいこにも時間はかけない。「マジですか?」と少々うろたえるのは、共演が芸達者の曾我廼家寛太郎、赤井英和らで、セリフが大阪弁であること。浪花勢の中に入って、似て非なる大阪弁じゃ何ともかとも・・・の心境だ。

 顔見知りの四天王寺紅や友人の綿引大介、安田栄徳に友寄由香利、小林真由、穐吉次代らが一緒。多くが関西育ちだから彼や彼女らをアンチョコ代わりにする気だ。

 秋の浅草・沢竜二座長大会を見に、突然現れた川中から「お正月はよろしくね」と満面の笑顔で言われた。平成187月、明治座の川中公演が僕の初舞台だから、その一座に加えて貰ってもう10年めになる。心して努めなければ・・・と、胸中ひそかに今回は恩返し公演にしようと思っている。

川中美幸新春公演
 恒例の「沢竜の全国座長大会」は1127日の昼夜、浅草公会堂で。芝居が「日本遊侠伝・会津の小鉄」で、第2部がおなじみのショー「唄って踊って90分!」当日前後のあらましはコラム「新歩道橋」933回にくわしい。いつものことながら、優しく声をかけ、叱咤激励してくれるのは若葉しげる、野々村重美、三咲てつやら常連の座長たち。沢側近の木内竜喜、青山郁彦がこまごま世話をしてくれるのも、いつものことだから、感謝!感謝!だ。

 脚本、演出、殺陣、音楽に主演と、総大将沢竜二は寸暇を惜しんで大忙し。今年80才の傘寿を祝ったが、そのタフなことは驚くばかり。一つ年下の僕は圧倒されながら、万事見習う一日になる。

沢竜の全国座長大会
 「さてと...」
 早めだが今年最後のこのコラムを書き始めたが、何とも落ち着かない。明12月10日午後に衣装合わせとかつら合わせがある。1月、大阪新歌舞伎座の川中美幸新春公演用で、福家菊雄作、演出の「浪花でござる」とオンステージ「人うた心」の二本立て。「浪花...」は「大爆笑でつづる歌芝居」とあるが、噂では僕は金持ちの旦那ややくざの親分などをやるらしい。「バラエティーだから、けいこもほどほどで...」というのが、演出家の考えと聞くが、僕はアドリブが利く技術などないからソワソワドキドキである。ご一緒するのが初対面の曽我廼家寛太郎、赤井英和と来ればなおさらだ。
 「また、芝居の話かよ!」
 と、歌社会の友人は嫌な顔をしそうだが、今年はあちこちでいろんな体験をさせて貰った。2月が中目黒キンケロ劇場で劇団若獅子の「歌麿~夢まぼろし」(笠原章作、演出、主演)4月が三越劇場で名取裕子主演の「居酒屋お夏」(岡本さとる原作、脚本、演出)10月が下落合俳協TACCSで田村武也が主宰する路地裏ナキムシ楽団公演の「指切りげんまん」11月が浅草公会堂で沢竜二の全国座長大会...である。合い間の8月には、川中公演でお世話になった大森青児の初監督映画「家族の日~ターザン故郷に帰る」の岡山ロケにチョイ役にしろ参加する光栄に浴した。
 「去年、僕が作、演出でやった〝深川の赤い橋〟より、数段うまいってのは、どういうことよ!」
 と、師匠の横澤祐一に初めてほめられたのが「歌麿」の蔦屋重三郎役。横澤が僕も所属する東宝現代劇75人の会の同い年の大先輩。いつも辛口のこの人の指摘だから、ほめられたこちらが度を失った。「家族の日」の大森は詞屋という大阪の作詞グループのボスで、彼らが作ったアルバム「聴きたい歌が無いッ! 自分らで歌つくってん!」で、僕は歌手の仲間入りもした。杉本浩平作詞、田尾将実作曲の「だあれもいない」で、ご時勢ふう独居老人のうそぶきソング、小沢昭一をパクッたセリフ入りがミソだ。
 「やっと歌の話になるか!」
 と言われそうだが、制作を手伝ったのは「チェウニ李美子を歌う」で、幼いころ離婚してはなればなれだった李美子・チェウニ母娘が再会、娘が母のヒット曲を吹き込んだおめでたアルバムだ。血は争えないものだ...と二人の魅力を再確認した。カラオケ上級者用のむずかしい歌シリーズの花京院しのぶには高田ひろお・水森英夫をコンビに「望郷よされ節」を作った。作品にこめた思いは東日本大震災で家族や故郷を失った人への鎮魂歌だ。
 12月7日夜、明治記念館で開かれた弦哲也の50周年記念パーティーで、杉本眞人から不思議な話を聞いた。5月に亡くなった親友作詞家ちあき哲也の写真を並べて追悼ライブをやったら、杉本のギターが突然鳴らなくなり、思い直したようにまた鳴ったり、止まったりしたという。
 「きっとあいつ、会場に来てたんだよ」
 と杉本がしんみりした声音になった。
 「そうだな、あいつらしいかもな」
 と、僕は相づちを打った。
 そのパーティーの中締めのあいさつで、僕が、
 「弦ちゃんは着々と〝平成の古賀政男の世界〟になる」
 と言ったら、会場から盛大な拍手が来た。どうやらみんなが、そう思っていたらしい。実は〝平成の服部良一〟になると思っていたのは三木たかしだった。5月にやった彼の7回忌の集いで、未発表作品を披露したら、数多くの歌手サイドから吹込みの申し出が集まった。せめて、来年の命日(5月11日)あたりまでに出揃うといいなと思っている。
 それやこれやの思いのたけといい歌とのかかわり合いや僕の半生までまぜ込んだ本「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」が出来上がった。幻戯書房刊で、年末年始には書店に出るそうな。1月大阪新歌舞伎座のあと、2月は「門戸竜二奮闘公演」に参加、千葉、大阪、名古屋、東京を回る。また芝居の話に戻っちまって恐縮だが、読者諸兄姉には、どうぞ良いお年を...のごあいさつとします。
週刊ミュージック・リポート
 11月26日午後5時、浅草公会堂4階のけいこ場へ行って驚いた。
 「あんたの役? これだよ、これ!」
 と沢竜二が示した役名が「お杉」である。
 「えっ? ウソッ! 俺、今回は女形ですか?」
 一瞬僕は眼の前が真っ白になった。翌27日の昼夜、浅草公会堂で「沢竜の全国座長大会」が開かれる。もう6年ほど、毎回呼んで出て貰っているが、ほとんどが口立て芝居。前夜に、こういう場面のこういう役で、大体こんなやりとりで...と、口頭の指示を受けるだけだから、大ていのことには慣れているが、女性になったことなど一度もない。
 「違うよ、お杉を夢吉に代える。一筆一家の三ン下、女言葉はほら、こういうふうに変える...」
 動揺が隠せない僕にニコッとして、沢は事もなげた。
 「やれやれ...」
 胸を撫でおろして僕は、与えられたセリフ五つ六つを丸暗記する。主役の一人橘大五郎の仁義を受けるところから始まって、姐さん役の若葉しげるの帰りを出迎えるまで。「日本遊俠伝・会津の小鉄」のひと場面だが、脚本、演出の沢の頭の中では、とうの昔に、僕がやる夢吉像など出来上がっていたということか。
 「毎度のことながら、勉強になるし、第一、度胸がつくよなあ...」
 などとけいこの後、手伝いに来てくれた小森薫と一杯やる。9年前明治座・川中美幸公演の初舞台の時に身辺の世話になって以来、友だちづきあいが続く若手。彼をわずらわさないと僕は、手も足も出ない。座長公演は老いも若きもプロの集まりで、自分のことは自分でやる。床山さんもお衣装さんも居ないから、僕は小森青年が頼みの綱だ。
 1時間ちょっとの芝居で、僕の出番はいつも4、5分くらい。前夜おそく九州・小倉から駆けつけた橘大五郎は、いかにも働き盛りの人気座長らしく、びしびしと芝居を決める。それに精いっぱいの受け答えをした昼夜2回公演、
 「夜の部はよかったじゃないの!」
 と沢から声をかけられるが、僕としては得心がいってないから、
 「さあ、どういうもんですか...」
 と、返答が口ごもる。
 「ま、芝居ってのはそんなもんだよ」
 沢が笑うが意味合いは深そう。〝生涯旅役者〟を自認する彼のひそみにならえば〝旅役者見習い〟の僕の前途は、まだ相当にけわしい。
 姐さん役の若葉しげるには、毎公演何かと細かな心遣いをして貰っている。座長公演の第2部は「唄って踊って90分!」で、座長たちが女形で妍を競う。若葉は父の劇団で初舞台を踏んだのが6才。僕がスポニチのボーヤから取材記者に取り立てられた昭和38年の前年には、関西で人気の「若葉しげる劇団」を抱えて上京、勝負に出ている大ベテランだ。それが小柄な町娘に扮して、お尻ぷりぷり踊るさまは、まるで年齢を感じさせない可憐さ。舞台そででうっとり見守る僕は彼が踊る「どうせ拾った恋だもの」が、初代コロムビア・ローズの歌声と違うことが気になる。
 「やたら巧い歌手だけど、一体誰です?」
 と本人に聞いたら、
 「ちあきなおみよ。そう言やあなた、そっち専門だよね...」
 が答えだから頭をかいた。
 この公演夜の部の客席に川中美幸が来てくれたのには肝をつぶした。マネジャーの岩佐進悟が「頭領!」と掛け声をかけたそうだが、何分こちらはカッカと頭に血が昇っていて、気づかなかった。
 沢竜二にはもう一度、びっくりさせられている。11月19日、新宿のバトゥール東京で催された彼の傘寿と浅草公会堂前に手形が展示されたのを祝う会でのこと。早めに会場入りした僕に、
 「司会がいないんだ。やってよ!」
 の鶴の一声で、昼夜2回のパーティーの進行係りを命じられた。否も応もないから、ひどく俺流マイペースで何とかしのいだものだ。その時もきびきび立ち働いていた沢一派の岡本茉利、木内竜喜や青山郁彦から、座長大会の合い間に、
 「よかったよ。面白かった」
 とお愛想を言われたが、沢竜二の知遇を得ると、万事ぶっつけ本番になるのは修行のうちなのかねえ。
週刊ミュージック・リポート
 「何でまた?」
 「それはないだろう!」
 と、二つのフレーズが「?」つきで、脳裡を行ったり来たりしながら、東京国際フォーラムへ出かけた。11月24日午後、都はるみの全国ツアー最終公演である。「これが最後の喝采...」と耳にしてのこと。辞めちゃうのか、休むのか、長く疎遠になっていた人だから、さしたる情報は持たぬままだ。
 いきなり彼女は「アンコ椿は恋の花」と「涙の連絡船」を歌って、当時の思い出話をポツリポツリ。そう言えば僕は彼女の日劇初出演を見た。
 《ヒット曲が2つだけでワンマンショーか、大丈夫かな》
 客席の前の方にいた僕は、そんな心配をする。何だか後方がザワザワと落ち着かないのが不審で、ショーの途中で振り向いて仰天した。いつの間にか立ち見の客までぎっしりで、確かこの人はこの公演で、この劇場の観客動員の新記録を作った。歌声も人気も、いきなり破天荒だった。
 「52年間、光の当たる場所で歌わせて貰って、ありがたかった」
 と、彼女は言う。今回のステージは「ありがとう」ばかりを連発して、その後のヒット曲を歌いまくる。「大阪しぐれ」「浮草ぐらし」「道頓堀川」「浪花恋しぐれ」「北の宿から」...。市川昭介や星野哲郎の名がコメントにしきりに出る。一時引退した時に二人が書いた「夫婦坂」は、情が濃いめに聞こえた。プロデューサー時代に発掘、大和さくらに歌わせた9分の大作「王将一代小春しぐれ」は吉岡治の詞で市川の曲。都はるみの一時代を作った3人の作家はすでに亡く、大和は消息も知らない。
 彼女が第一線に復帰したのは、美空ひばりが亡くなった翌年の平成2年。「小樽運河」「千年の古都」とこの時期から歌う姿勢と歌づくりが変わった。いわば等身大、本人の心境とかけ離れない歌が主。活動はコンサート中心で、その集大成みたいだったのが日生劇場のロングコンサートだ。〝ふつうのおばさん〟になりたかったのは、ひばりも手に出来なかった女の幸せへの渇仰、カムバックはひばりが成就できなかった歌世界への挑戦...と、僕は勝手に一人合点していた。相棒の中村一好との、根気を詰めた仕事の連続、やがて出回った大きな負債の噂。それはそうだろう。二人とも完全主義を貫こうとするから、収支を合わせるのは難儀だ。損して得取るこの世界の商いは全く不向きで、スタープロダクションの多くはそこでつまづく。何に絶望したのか二人歩きの8年後、一好は自死した。
 そんな事を振り返りながら、僕は国際フォーラムの彼女を歌の中で追跡する。「あなたの隣りを歩きたい」は客席を回り、ファンと握手しながらだが、歌にそれらしいゆるみたるみはない。「愛は花、君はその種子」は包容力に富み「邪宗門」は思いのたけがめいっぱいだ。往年の憑依の芸と目をみはった迫力は、確かにうすれている。それに代わって、中、低音の響きに人間味がにじみ、光沢のある針がね細工みたいな高音部は、明らかに年輪をしのばせて、情感の彫りが深い。抑制の利いた新しい境地と言っていいだろう。そして雪のすだれの中の小走りと都ふうイナバウアーの「おんなの海峡」フィナーレは二の腕むき出しの手を振って、おなじみの「好きになった人...」
 「何と言ったらいいか...」
 と髪に手をやり、言い淀みながら
 「来年、コンサートを休ませてもらいます。一生懸命充電します」
 と、テレたような口調の公演活動中止発言が出て来た。
 《やっぱりそうなのか!》
 客席で僕は黙然とする。長い孤独の中で、この人は心の頼りを見失ったのか? 歌世界で自分を鞭打つよすがを持てなくなったのか? 心満たせるものを手に出来なくなっていたのか? 充電は一年で終わるのか? それとも当分続くのか? まだこんなに歌えるのに! 「駄目だ!」「嫌だ!」の怒声が客席に交錯しているのに!
 前夜、夢に見た母親は「しっかりやりな」と言ったそうな。年は大分違うが、彼女と僕は歌社会同期生だ。
 《67才の決意は重いな...》
 そう思いながら僕は、このコンサートが彼女の見納めになることを、身ぶるいするほど恐れた。
週刊ミュージック・リポート

それはそれで、時代の反映なのか?

 昨今の世情、そうそう明るく軽めでは決してない。だからと言って深刻に眉を寄せて、重めの表現もうっとおしいのか。例えば安保関連法に反対する若者たちのデモ。あれは60年や70年の安保闘争とは隔世の感がある手法だが、事態をしっかり捉えた危機感が芯にあるから長く続くのだろう。歌書きたちもそんな時代を、理屈ではなく皮膚感覚的に捉えていそうで、作る流行歌が軽めに歌い流すタイプが多い。みんな、強くなる時代のキナ臭さに、うんざりしているのかも知れない。

霧島の宿

霧島の宿

作詞:坂口照幸
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 坂口照幸の詞は、絵葉書みたいに景色を見せる。ちりばめてあるのは日豊本線、薩摩路、霧島連山、天降川などのご当地名。置き手紙を読んだ男が、追って来るのか来ないのか、女主人公が気をもむ歌なのだが。
結局彼は来ずに、彼女はあきらめるのだが、その間の心情に深入りはしない。深刻な重さを避けて、軽めに納める趣向は、水森英夫の曲にも共通している。歌詞を変えれば氷川きよしにも似合いそうな股旅調。それを水田竜子がのびのび、のうのうと歌う。昔は情緒てんめんだった湯の町ものも、大分様変わりした。

越前つばき

越前つばき

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:藤原浩
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 こちらも湯の町もので、仁井谷俊也の詞は芦原、越前、三国、九頭竜川などのご当地名詞が並ぶ。この種の詞はとかく即物的になりやすいから、名詞のあとさきのフレーズを、情緒的にこねて、多少の推敲のあとが見える。
 得たりや応!とばかりに、徳久広司の曲は、往年の湯の町ものの感触を、さりげなく盛り込んだ。藤原浩の歌は、ニュアンスその辺に近づけて、泣き節タッチもちらりとさせる。
 軽さの中のそんな味つけはおそらく、藤原の美声を解きほぐして、情緒的にする計算なのだろう。

おちょこ鶴

おちょこ鶴

作詞:内田りま
作曲:みちあゆむ
唄:城之内早苗

 箸袋で折った鶴を、ちょこに並べて好いた男を待つ女の酒場ソング。内田りまの思いつきが主人公のいじらしさを前面に出す。6行詞の気持ち長めなのを4行めと5行めをうまくまとめたみちあゆむの曲が、5行詞の気分のよさに仕立てた。城之内早苗は歌にそれらしい"口調"を作り、主人公のイメージを具体的にする。ちょっとしたアイデアソングだ。

十勝望郷歌

十勝望郷歌

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:戸川よし乃
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 戸川よし乃の歌はずっと、岡千秋が曲を書いている。あれこれ工夫しながら、彼流の冒険をしていることが目立つ。今回は8行詞の頭3行、静かだが味のある起伏がきれいで、戸川の歌味を聴かせる。歌声がしっくり練れて来ていて、次の3行分で心開いていくさまも、うまく生かした。2ハーフ、骨格は大作の曲だが、大きく構えない歌わせ方がいい。

愛は海

愛は海

作詞:高畠じゅん子
作曲:小田純平
唄:木下結子
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 愛にもがき、おぼれていく女心の詞は高畠じゅん子の2ハーフ。それをヨーロッパ風味の歌謡曲にしたのは、作曲の小田純平と編曲の矢田部正で、快い哀愁を生んだ。木下結子の歌は多少の倦怠感をにじませながら、おとなの味つけ。「ノラ」の創唱者、ヒットの手柄は門倉有希にさらわれたが、その後の精進を加えて、この人は独自の歌世界を作っている。

港のリリー

港のリリー

作詞:下地亜記子
作曲:樋口義高
唄:北原ミレイ
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 セピア色の波止場町の夕暮れを背景に、鴎と泣き濡れる港のリリーの立ち姿が、目に見えるようだ。下地亜記子の詞、樋口義高の曲、馬飼野俊一の編曲という顔ぶれが、ミレイに似合いの歌を作った。地味だが息の長いヒットをいくつか続けて、ミレイの歌唱にはそれなりの自信が匂う。この人の魅力は物語を語る表現力だと、改めて合点した。

家族になろうよ

家族になろうよ

作詞:福山雅治
作曲:福山雅治
唄:福山雅治
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 率直で歯切れのよい独特の語り口を、福山雅治が聴かせる。相思相愛の若い二人が、父母みたいな、あるいは祖父母みたいな家庭を作っていこうと話し合っている内容だ。テレビのビールのCFなどで見るスケール大きな彼の世界とは対照的に極私的な目線の歌。2011年に作った曲とあるが、大騒ぎになった彼の結婚に合わせての再登場なのか!?

 〝北の詩人〟池田充男とその女性の出会いは、60年以上前の二月の小樽駅、雑踏を離れてたたずむ海老茶色の角巻き姿が目についた。後年、その人と関わり合いを持つことになろうとは、その時彼は思いもよらなかったと言う。
 ある夜明けに、その人はふるさとを捨てた。というよりは池田が捨てさせた。函館本線、青函連絡船、常磐線...と続く東京への旅。その後のめちゃくちゃな同棲生活の中で、彼は「この女を帰らせる訳にはいかない」と、腹をくくったそうな。作詞家池田充男の出発点である。池田は年上の彼女をずっと「おばさん」と呼んだ。池田夫人の名は倖子。本名は幸子なのにあえて「にんべん」をつけたのは、そうすれば彼の姓名と、字画が同じになるせいだと言う。胸中には彼女を「幸せ」よりも強めに「倖せ」にしたい思いがあったろうか?
 その倖子さんが亡くなった。池田からの電話は、訃報なのにほとんど口止めだった。住み慣れた鎌倉で、ごく限られた親しい人たちだけで送りたい。
 「せいぜい30人くらいと思うのよ」
 彼はそのことばかりを言い募り、こちらの言うことなどほとんど聞いていない。少し耳が遠くなっているか...と、苦笑しながら僕は口外しない約束をした。
 11月9日が通夜、10日が葬儀。式場は湘和礼殯館・由比ガ浜。洋風な個人の家みたいに、こじんまりした貸切り邸宅型で、参列したのは身内に弟子の作詞家たちと数少ない関係者。たとえば東京ロマンチカの鶴岡雅義、元NHKの益引泰男、元JCMの岡賢一の3氏ら。
 「何だか、自分のことのような気がしない。実感がないと言うか...」
 池田は落ち着かない顔で、やたらにあいさつをして回る。倖子さんの享年は90、池田は彼女を自宅で3年、病院へ入れてからは1年、看病した。言うところの老々介護で、
 「自宅の風呂だとね、入れる時はまずまずなの。出す時が大変でね。やせていてもかなり重い。そのうちにお湯を抜いてから抱え出すとやりやすいと判った...」
 と話が生々しくなった。
 「煙草を吸っていたころは、部屋中を煙で真っ白にして、来る日も来る夜もペンを持っていた。そ~っと湯飲みを置いてゆく配偶者は咳き込んだ。病気をして煙草を取り上げられてからは、仕事に入るまでの心の持って行き所がなく、目をつぶって頭の中に、列車を走らせ、風景を流れさせた」
 池田が「歌の駅舎・池田充男歌詞ポスター集」に書いている池田家のひととき。そんな生活から数多くのヒット曲が生まれるのだが、そういうふうに倖子さんは長く彼を支え、池田は甘え加減に身と時を任せていたのだろう。机に向かう彼の脳裡の列車は、雪原を走っていたに違いない。
 ヒットメーカーの夫人の葬儀としては、つつましく地味だったが、少人数なだけに情がしみじみと通じ合う会になった。式場の人々の振る舞いもさりげなく細やかで、お清めの料理が和洋折衷、フルコースみたいな数々が多彩なうえに美味。池田は苦労をかけた倖子さんの野辺送りに、そういう形で意をつくしたかったのだろう。語弊を承知で書けば、とてもいい会になったのだ。
 出棺前のあいさつで、珍しく池田は多くを語った。結婚生活60年分の、倖子さんへの思いが、訥々とした口調にこもっていた。病床で倖子さんは「もう一度、小樽へ行ってみたい」と言ったという。池田は、
 「あのころとは北海道もずいぶん変わりました。来年3月には新幹線が走るそうです。身の回りの整理がついたころ、それに乗ってふたり旅をしようと思います」
 と遅ればせながら、彼女の希望に応じるつもりを打ち明けた。倖子さんは小樽を捨てたあの日以来もしかすると、故郷の地を踏むことはなかったのかも知れない。生まれ育った環境も風景も、それより大事な人々との縁も断ち切ってしまった悔いが、少しでも彼女に残っていたとしたら、残された詩人の胸中は、察するにあまりある。池田はその旅で、倖子さんの霊に海老茶色の角巻きをまとわせるのだろうか?
 式場に流れていたのは石原裕次郎の「二人の世界」東京ロマンチカの「小樽の人よ」と五木ひろしの「孫が来る」だった。彼が11年前にタンポポとチューリップに例えて歌詞に書いた孫2人は、立派な娘さんに育っていた。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ166回

 佐伯一郎のコンサートを見に行ったのは、8月16日、浅草公会堂。「見に行った」と言えば聞こえがいいが「飲みに行った」が実情で、楽屋を訪ねると茶碗酒が出るのがいつものこと。それが今年はステージを見ずじまいで、そのまま打ち上げの席へ直行した。午後1時の開演。佐伯の弟子たちが賑やかに歌を競い、特別ゲストで畠山みどりも出るから、彼の出番は最後だろうと、4時ちょっと前に会場へ入ったら、何たること、佐伯は開演直後に歌っていて、もう後の祭り...。

 「11曲くらいやったかな、声もちゃんと出ていて、なかなかのものだったよ」

 と、教えてくれたのは元キングレコードの赤間剛勝さんで、

 「そうそう、渋くてとてもよかった」

 と相づちを打ったのは元ソニーの酒井政利さん。みんな佐伯とは古いお仲間だ。

 僕は長いこと佐伯を「地方区の巨匠」と呼ぶ。浜松を根城に、歌を歌い曲を書き、大勢の弟子を育て、そのためのレーベルも持って、東海地方に勢力を張るせいだ。若いころは作曲家船村徹によしみを通じ、共演のアルバムも作った。そう言えば北原ミレイが最初に師事したのもこの人だった。

 インディーズというジャンルにくくられて、地方で歌い続ける歌手は昨今珍しくもないが、佐伯はその"はしり"の大ベテラン。それが楽屋を伝い歩きしているからびっくりした。聞けば4回目の脊髄手術をして、まだ回復の途中。それが舞台では、やおら椅子から立ち上がり、歌いながら歩いて弟子たちの気を揉ませたとか。スイッチが入った時の芸人の凄味か。

 「いい顔をしてるわ、相変わらず...」

 と、いきなり佐伯に言われて思い出した。この人は骨相を観て、歌謡界に信奉者が多いが、僕は彼から、

 「あんたの老後は安泰、これまで面倒を見た人がいろんなチャンスを運んで来るよ」

 というご託宣を貰ったことがある。スポーツニッポン新聞社を卒業した時、仲間がパーティーを開いてくれたが、1000人もの知り合いが集まって、本人がびっくりしたあの騒ぎ。彼はスポットライトを浴びた僕の骨相を、人ごみの中でしっかり観ていたらしい。

 ≪確かに当たっていたわ≫

 と、僕は思い返す。その後15年、80才間近かなのにまだ歌社会の人々に良くして貰い、舞台役者の仕事も川中美幸、アルデルジロー我妻忠義社長をはじめ、東宝現代劇75人の会の横澤祐一、大衆演劇の沢竜二ら多くの人から声がかかって、もう10年になる。感謝々々の日々なのだ。

 「その後、俺の骨相は変わっていないということだな!」

 僕は佐伯にそんな念押しをした。

 長く続けた浅草公会堂の彼の公演は、今回が最後だと言う。年が年だし体が体で...と、舞台で宣言もしたそうな、浜松では唄い続けると言う佐伯に、

 「何を言ってるの。年だって俺とちょぼちょぼ、体はリハビリ次第だろ」

 「それなら来年からは、佐伯一郎一座でひと芝居打とう!」

 と、僕は乱暴な激励と提案をした。酔ってのたわごとではない。浅草から「地方区の巨匠」の顔が消えるなんて、寂しいではないか!

月刊ソングブック
 パーティーではなるべく、隅っこに居る。出来れば出入り口の近く。乾杯のあとあたりで人々が動き始める。飲み物や料理へ向かう多くの顔を、ここからならほぼ見渡せる。そのうえでこちらは少し動く。親しい作詞家や作曲家、編曲者たちへのあいさつ。主賓あたりの席へまっすぐ往き来するのは、世話になっている人や、最近の出来事!?の関係者を見つけた時で、さりげないが取材でもある。新聞記者だったころからの身の振り方や立ち位置が、習性になっていて今も変わらない。
 11月4日の昼、霞ヶ関ビル35階で開かれた水森かおりのデビュー20周年パーティー。会場を一回りした僕は、例によって出入り口そばの隅に居た。談笑の相手は左側に水森英夫、右に景山邦夫プロデューサー。ともに水森の育ての親で、
 「景さん、振り出しはどこだっけ?」
 「ロイヤル・レコード、昭和39年かな...」
 なんてやりとりをする。お祝いに集まった人々にあいさつしながら、水森がやって来る。雑踏と雑音の中だから、彼女のあいさつは相当な大声だ。
 「そんなにデカイ声を出してて、大丈夫か?」
 僕がいらぬ心配の声をかける。えへへ...と笑う彼女に代わって、
 「大丈夫! うん、大丈夫だよ」
 と応じるのが作曲の方の水森で、彼女の地声をしっかり鍛えた自負がありありだ。
 ピンクのドレスの水森が右肩からすっと近づく。僕も右肩を少し回して、恒例のハグになる。業界の男たち衆人環視の中だが、彼女が当たり前の顔だから、僕もうろたえたりはしない。初めてじっくり話したのは「尾道水道」のころだから、平成12年か。もう15年のつき合いになる勘定だが、僕らのハグはそのころから続いている。その後「東尋坊」で第一線に浮上した彼女は、今やご当地ソングの女王である。ここまで功成り名とげているのだから...と、僕には内心多少の斟酌はあるのだが、変わらないのがこの人の人柄、そんなひとときに僕は、正直なところ悪い気はしない。
 歌手の作品の捉え方は、大別して二つと思って来た。作品の主人公になり切ろうとするタイプと、主人公を演じようとするタイプ。前者に都はるみ、後者に石川さゆりをひき合いに出すことが多い。ところが水森は、主人公を中心に、周囲の風景までを俯瞰して捉えるという。
 「天気予報のおねえちゃんみたいかなあ」
 その実態を彼女はあっけらかんと話した。歌ひとつのドラマが天気図で、主人公の心情はその中心で渦巻く気圧みたいなものなのか。
 《演歌に、レポーター型という、もう一つの着想が加わるか、これは明らかに平成型だな》
 と、僕は合点する。彼女のご当地ソングの内容は全部傷心の女一人旅である。その切なさ辛さを彼女は、
 「こういう人がいるのよ!」
 と伝えていることになる。ほどの良い客観性。そうでもなければどの作品も、あんなに明るい声と笑顔で歌えるはずがない。結果、彼女の人柄が歌に色濃くにじんで、それが優しさや包容力として聴く側に伝わるのだろう。
 《木下龍太郎が作り出した路線を、仁井谷俊也らが引き継いで、手をかえ品をかえだな...》
 帰りしなに僕は、久々に秋晴れの空を見上げた。からっと明朗快活で、湿度少なめな水森かおりの世界に通じるさわやかさがある。10数年にわたるこの連作は、逆に考えれば意図的なマンネリ路線である。それを飽きさせず、目先を変え続けているのは、作曲する弦哲也の細やかな創意と技、本人の進境と賢さだろうとも考える。
 会場で元平凡の髙木清先輩から、
 「きっと来るだろうと思ってさ、みんな亡くなったけど...」
 と、古い写真13枚を貰った。全部僕が写り込んでいるスナップで、それぞれに一緒にいるのは石本美由起、星野哲郎、吉岡治、名和治良、前田利明、石井昌子、松尾幸彦ら...。唯一ノー天気に明るいのは、赤いチャンチャンコの原田英弥との一枚くらい。彼の還暦祝いのものだろうが、さて、あれからもう何年になるのだろう?
週刊ミュージック・リポート
 「サブちゃん、菊花賞勝った歌った」
 10月26日付のスポニチは一面題字下に大見出しが派手々々しかった。北島三郎の顔写真つきである。前日京都競馬場で行われた菊花賞を、彼の持ち馬キタサンブラックが制覇してのこと。昭和38年から馬主になって52年めで初のGⅠ勝利だから、本人の胸中はさぞやさぞ...である。約束どおりに現場で「まつり」を歌ったという。スポニチは裏一面もつぶして大特集をした。
 《失敗したなァ、俺の方は...》
 僕は人知れず頭をかいた。その日曜日は珍しく仕事がなくて、葉山の自宅でボーッと海を眺めていた。つれあいは出かけていて、猫の風(ふう)とパフと三人!? きりの午後、菊花賞があることになど思いも及ばない。彼の馬の前々走皐月賞は取った。前走ダービーは単勝を買ったがはずした。いずれも役者としてけいこをしていた時のこと。周囲の騒ぎに浮かれての便乗である。もともとあまり競馬に関心を持たぬたちだからそうなる半可通。ところが菊花賞当日は、周囲に人がいなかった。猫は競馬に興味を持たない。
 北島は10月に79才になった。同い年だからよく判るが、80の大台が目と鼻の先である。
 「生まれてこのかた、こんな感動を味わったことはない」
 という率直なコメントは、そんな〝寄る年なみ〟も手伝っていよう。「紅白歌合戦」や劇場の長期公演を卒業して、来し方にひとつケリをつけた折りも折りである。興行関係を取り仕切っていた相棒の実弟に先立たれるなど、身辺にもいろいろあった。覚悟のうえの身の処し方としても、いくばくかの寂寥感は残っていたろう。そこへ愛馬の激走である。鬱屈がいっぺんに消し飛んだろうことは想像に難くない。
 《ま、ご同慶のいたりというところか》
 次に社会面をのぞく。ハロウィンの仮装行列が六本木を練り歩き、川崎では「スター・ウォーズ」のキャラクターに扮した若者たちが大騒ぎしたとある。いつのころからか盛んになった西洋のお祭りが、クリスマス、バレンタインデーに次ぐ盛り上がり方とか。背後には関連企業の商算が動いていようが、若者たちはそれも承知で〝今〟を楽しむのか。
 一方では、渋谷のトルコ大使館前の乱闘騒ぎがある。トルコ総選挙の在外投票に集まったトルコ人とクルド人600人のいがみ合いである。少数派のクルド系は国内での長い抑圧的な扱いに激しく反発、トルコ政府は彼らの分離独立の動きを抑え込もうとしているそうな。根の深い民族的対立が、日本で爆発したかっこうだがその夜、テレビのニュース番組では、双方が流暢な日本語で、相手の非を訴え、なじっていた。それを見ながら、トルコという国が妙に近くなって来たように感じる。そう言えば...と思い返せば、民族や宗教の争いと、介入する大国の動きがあちこちで見え見えのままで、そのニュースに接し続けているせいか
地球が大分小さくなった感がある。
 国内だって多事多難なのだ。安倍首相の言う「積極的平和」とやらは「安保関連法」とセットでやたらにキナ臭く「一億総活躍社会」の大風呂敷も、一時銃後の少国民だった僕には、当時連発された「一億火の玉」なんてフレーズを連想、ささくれだった気分にさせる。辺野古問題も含めて、国はやたらに強行、強制の動きをあらわにしているではないか!
 《さて...と...》
 釈然としないあれこれを見回しながら、葉山ボケ老人のままで居ていいものかどうか、「待たるる花の80代」を公言しながら、僕は一体何を始めるべきかの具体策を持たない。そんなもやもやを吹っ切りに、28日は、湘南シーサイドCCの「小西会」コンペに出かける。18人もの屈託のない笑顔が揃ったが、いずれも熟年を越えて、それなりの気がかりは抱えているはずだ。
 気ばかり焦るが体がついて行かず、100叩きの僕は15位の惨状。しかし、馬券の方は的中した。僕はいつも場の賑いを狙って、自分から無謀な頭流しをするのだが、今回は同枠の飯田久彦氏が優勝して、その恩恵にあずかった。僕の博才なんて、ま、そんなものなのだ。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ165回

 浜博也の新曲『越佐海峡』を聴く。喜多條忠の詞、伊藤雪彦の曲で編曲は前田俊明。越後の山を振り返り、佐渡の島影を見る船上の女主人公は、傷心の一人旅だ。伊藤の曲は気分のいいテンポと起伏で哀愁をひと刷毛、カラオケ・ファン狙いと読める作品で、格段の新しさや型破りの野心の気配はない。

 ≪しかし、待てよ...≫

 僕の興味を踏み止まらせたのは、浜の枯れた歌唱が示す得も言われぬ風情だ。言葉の一つ一つをきちんと大切に伝えながら、淀みのない心地よさが、いい。低音部をしっかりと響かせ、高音部も力まずに情感本位。3コーラスのどこにも、"決めて""聴かせる"気負いがなく"どうだ顔"をのぞかせる個所もない。それでいてちゃんと、浜ならではのドラマが作れていて、言ってみれば"地味派手"の魅力か。

 ≪ふむ...≫

 もう一つの発見は、4ページある歌詞カード2ページめの「ワンポイント・アドバイス」だ。1コーラス6行分の歌詞が大きめの字で並び、注意すべき言葉に〇印がつき、その傍らにこと細かくアドバイスが書き込まれている。演歌系のCDには、近ごろつきものの"歌唱の手引き"だが、これが何とも懇切ていねいで、これはもうプロ用とも思える。例えば、

 ♪フェリーと同じ 速さに合わせ 白いカモメが ついて来る...

 の歌い出し2行。「同じ」に丸印がつき、おォなァじ...と歌い伸ばす「ォ」と「ァ」の母音をしっかりせよと言う。「速さ」の「速」に〇がつき、「は」と「や」に、アクセントを変えよう...という注文がつく。「白いカモメが」は「モメが」に丸印で「モォ」の「ォ」の母音の動きが要注意。「メが」の二字は一拍ずつ歌うように...とある。

 ♪未練どこまで ついて来る...

 がサビに当たる歌詞だが、前半に「単調に歌わず、次のフレーズにかけて、抑揚のある歌い回し」を期待し、後半には「高音部が続くが、感情をこめつつもビブラートを加え過ぎないように」と注意している。歌い出し2行分では、メロディーとテンポの快さに歌が"流れないように"心がけ、サビの高音では"その気"になり過ぎて空回りしないように...と戒めているのだ。

 それやこれやのアドバイスを眼で追いながら、もう一度浜の歌を聴く。何とまあ、こと細かな注意点がきちんとそのまま隅々にまであてはまっているではないか。東京ロマンチカのリードボーカルからスタートして歌手歴33年、50才を越えたベテランの技と歌心がこう表われるのか! 同時に作曲者伊藤雪彦の笑顔も思い出す。息の当てどころやノドの型で変える声の操り方、節回しのあれこれを話しだしたら、微に入り細をうがって尽きることのない稀有の存在なのだ。

 僕は新聞記者あがりで、歌づくりに新桟軸や型破りの野心を求める傾向が強い。その一方で、カラオケ族に依存するあまり、類型化する演歌づくりは批判的な発言を繰り返している。しかし、そんな演歌でも、ここまでの細心の配慮と仕立て方、さりげないが捨て難い魅力を生み出す努力には、敬意を表してはばからない。歌唱は「流れない」ことが肝要だが、歌づくりもまた同じこと、求められるのは完成度だと思うのだ。

月刊ソングブック
 突然スターが生まれる瞬間というのは、心ときめくものだ。最近で言えばラグビーの五郎丸歩選手。ワールドカップの活躍で、日本のファンの心をわしづかみにした。1次リーグ4戦で合計58得点、大会個人2位の成績だ。キックを決める前の、小腰をかがめ、両手人差し指を合わせて祈るようなルーティンが、すっかりおなじみになった。
 ラグビー・ブームと言ってもいい騒ぎが生まれたのは、南アフリカ戦勝利が発端。もともと巨躯をぶつけ合う格闘技系と思われたラグビーに、日本チームは新しい技術と戦術、戦略を持ち込んで、最大の強敵を倒した。「中よく大を制する」サムライ魂に世界がアッと驚き、僕らはテレビに釘づけになった。以後3戦、日本中がサクラ・ジャパンの活躍にわき返り、クローズアップされたのが五郎丸選手だったろう。
 《新日鉄釜石を中心に、昔々もブームはあった。でもあれは世界規模には遠かったかな...》
 あのころ〝その気〟になりやすい僕らは、勤め先のスポーツニッポン新聞社社内にラグビー同好会を立ち上げた。お揃いのユニホームを作り、その発足式は明大グラウンドで当時の北島監督の立ち合いという凝り方。それなのに前夜、ユニホームを自宅で試着したら、つれ合いが
 「仮装行列でもあるの?」
 と不審な顔をし、僕はガクッと来たものだ。
 実態は、ま、そんなものだった。参加した僕ら芸能記者は、二日酔いでランニングからすでに息があがり、パスの練習だけでネンザする者が出る始末。練習終了時にはグラウンドへ、近くの酒屋からビールのサーバーが届く。チーム名は「ジャッカル」と威勢がいいが、漢字表記は「弱軽」だったから、身のほどは知っていたと言うことか。
 リーダーが筑波大学出身の経験者。これが悪乗りして、何と青山の秩父宮ラグビー場での試合を組み立てた。相手はその世界の指導者たちで、高名だが年配者揃い。こちらは体格のいいのにスクラムを組ませて、場所が場所だけに意気だけはやたら軒昂だった。僕も何分か出場させて貰ったが、必死で駆け回ったものの、結局あのダ円型のボールには、一度もさわれなかった。
 「後で聞いたらさ、うちのリーダーが相手チームに、スクラムは押すな、タックルはかけるなと注文をつけていたらしいんだ」
 二、三日あと、飲み屋で作詞家吉岡治に話したら、「フン!」と冷笑が戻って来た。彼はラグビーや野球に熱中していた時期を持つ。新聞屋の酔狂で、ラグビーのメッカを汚してもらいたくない! とでも言いたげな顔つきだった。吉岡は女心ソング当代一の書き手として「後ろ向きの美学」で一時代を作った。寡黙な詩人だが、体技への取り組み方は、人が変わったみたいに真摯だった。
 《血は争えないものだ...》
 僕の連想はあらぬ方向へ飛ぶ。吉岡の存命中から親しくしている彼の長男天平氏だが、これが相当な巨体の持ち主。ラグビーに打ってつけに見えたが、今も取り組んでいるのがボクシングだと言う。映像の制作会社をやっているごく穏やかな紳士で、笑顔がなかなかにいい。仲町会の面々と一緒に飲んだ時など「天平! 天平!」と呼び棄てで無茶を言ったが、近ごろは彼の特技を考慮して、僕はリーチの届かない場所どりをする―。
 とりとめもなく、そんな往時を思い返していたのは、芝居のけいこ場のひととき。路地裏ナキムシ楽団が作、演出、演奏の「指切りげんまん」(下落合TACCS1179)公演は16日から3日間4回の舞台。このコラムが読者読兄姉の目に触れるころは、盛況裏に終了している勘定で、その実態と成果を、生々しくレポート出来ないのがまことに残念だ。
 《いやあ、いいグループの、いい公演だったな...》
 と、事後、僕はかなりの実感を持つはずである。作曲家弦哲也の息子田村武也が主宰するグループだが、彼の脚本や演出、歌づくりから音響、照明にいたるまで、こだわり方が細部にわたり的確で頭が下がるほど。応じる若いバンドや役者たちの献身的なまでの一生懸命と熱意が、初参加の僕には、とても貴重で得難い体験になったものだ。
週刊ミュージック・リポート

歌を「聴く」「味わう」季節です!

 カラオケで我先に歌うのも楽しかろうが、時にはじっくりと、歌を「聴く」楽しみもあわせ持ちたい。ことに秋から冬、そんなしみじみした時間も、似合いではないか。
 北島三郎、細川たかし、木原たけしらは、いかにもいかにもの、彼らならではの味わいが深いし、松原のぶえのこまやかな表現力を再確認もできる。森若里子の攻め歌に一日の長を発見するのもいいし、新井利昌・花咲ゆき美師弟は、あうんの呼吸の仕事ぶりがほほえましく思えるよ。

能登みれん

能登みれん

作詞:ないとうやすお
作曲:渡辺勝彦
唄:松原のぶえ
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 面白いなと思うのは、言葉の置き方というか、念の押し方というか。歌詞の「初めて知った」の「た」のあとに「ァ」を言い直し「今日で涙と」の「と」のあとに「ォ」をつけ足している。作曲した渡辺勝彦のアイデアなのか、珍しい手口。歌い伸ばしとは一味違う効果がある。
 曲自体が演歌のメリハリ、定石を避ける気配で、ゆったり、なだらかに揺れる魅力を持つ。ないとうやすおの詞を、松原のぶえが語るようにていねいに歌い、そんな流れを淀みなくした。情感が昂るのは8行の詞の最後の1行。穏やかなスケール感がなかなかだ。

今日より明日へ...おれの道

今日より明日へ...おれの道

作詞:下地亜記子
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 こちらは演歌の起承転結をきっちりと聞かせる。北島"らしい"と言うか"ならでは"と言うかの世界。いなせな男伊達が、己れの人生を振り返り、他者に言いきかせるような口調になる。
 「この命、赤々と、歩いて行こう、俺の道」...と、北島自身の感慨に寄り添うような5行詞は下地亜記子。それに原譲二の北島が曲をつけ、彼流に仕上げた。おだやかに、しみじみとした感触は、北島の声と節の枯れた滋味が生むもので、彼の歌世界の到達点を示していようか。高齢社会の共感ソングになりそうだ。

北岳

北岳

作詞:志賀大介
作曲:望月吾郎
唄:細川たかし
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 南アルプスの絵葉書を三枚、1コーラスごとにめくっていく心地になる。細川たかしの歌声が、さえざえとそれを伝えるせいか。志賀大介の詞が、山と向き合う視線で人生を語り、望月吾郎の曲が、ツボを心得た仕事ぶりなら、編曲丸山雅仁もお得意の盛り上げ方だ。南アルプス世界自然遺産登録応援歌だそうだが、ちゃんと流行歌になっているのがいい。

鵜の岬

鵜の岬

作詞:東逸平
作曲:伊藤雪彦
唄:森若里子
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 鵜の岬は茨城の景勝地、鵜飼漁に使う海鵜はここで捕獲されるそうな。主人公の女心を、その鵜に託した詞は東逸平。こだわり過ぎの感がなくもないが、作曲の伊藤雪彦は老練の筆致でそれらしい演歌に仕立てた。ふっくらおっとり...の森若里子も、もう歌手歴34年。いきなり高音から出る曲に背を押されてか、いつになく歌に"迫る"気配が濃い。

海鳥哀歌

海鳥哀歌

作詞:かず翼
作曲:新井利昌
唄:花咲ゆき美
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 男には、女の愛が届かない、涙の価値が分からない...と絶望的になりながら、それでも「あなただけしか愛せない」と訴える詞はかず翼。曲のつけ方ではどうなることかと心配になるタイプを、新井利昌の曲がうまいこと甘美に仕立てた。8行詞の歌の決めどころは、5行目から6行目にかけての高音部。花咲ゆき美はそこを、艶のある声味で生かして、力量を示した。

北国挽歌

北国挽歌

作詞:市川武志
作曲:村沢良介
唄:木原たけし
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 重めに粘っこい口調、ネアカで活力のある声、歌い伸ばしは心地よさそうなビブラートと、木原たけしは生来、独特の魅力を持つ。岩手に住み、活動範囲を東北に限定することも、存在感を際立たせる。どんなタイプも歌いこなす巧者をデパート型とすれば、こちらは野趣たっぷりの専門店。それを生かすのは手練者・村沢良介の曲づくりか!

北陸ロマン

北陸ロマン

作詞:谷村新司
作曲:谷村新司
唄:谷村新司/仲間由紀恵
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 暗く荒れるのが通り相場だった日本海を、青鈍(あおにび)の海、薄墨の海と、きれいに書き替えたのは谷村新司の才覚。北陸新幹線開業記念ソングに垣間見る、彼らしいセンスだ。『いい日旅立ち』『三都物語』...に続くお手のもの路線、それを歯切れよく歌って、デュエットするのが仲間由紀恵の初々しい歌声と来れば、これはもう好評のはずだわ。

MC音楽センター
 「お陰さまでチケット完売です! 拍手!」
 10月1日、けいこの冒頭で主宰者の田村武也が宣言したから、僕はのけぞらんばかりに驚いた。路地裏ナキムシ楽団の公演「指切りげんまん」(作・演出同楽団)は16日が初日である。下落合のTACCS1179という小劇場にしろ、1回100余の入場券が3日間4公演分、半月前に売り切れるとは!
 役者連中は「当然!」みたいな笑顔を、拍手しながら見合わせる。けいこ終わりには、こればかりはどの公演に参加してもつきものの居酒屋の談論風発。
 「それにしても、さしたる宣伝の気配もないまま...」
 と不審な顔をしたら、役者のリーダー格の荒川大三郎が、
 「楽団そのものに、ファンがついてますから...」
 と、平然とした口調。同席した藍沢彩羽、小島督弘、千年弘高、富永あきあたりも、
 「ただの演劇じゃない。音楽がライブだもの...」
 と相づちが賑やかだ。彼や彼女らも仲間に声をかけているのだろうが、このグループは今回が6回目の公演で、もうそこまで力をつけたと言うことか。
 けいこを続けて判って来たことがある。「たむらかかし」を名乗る田村が脚本を書き演出もし、歌づくりもする。バンドの面々6人はみんなユーモラスな名を持ち、どこか僕の知らないところで音楽と歌をまとめている。一方役者連は文化放送の会議室や神田、早稲田、王子、池上などのけいこ場を転々としながら芝居に取り組む。主宰者の田村は二つの現場を行ったり来たり。その留守に芝居の方は、荒川が師範代を務めるかっこうだ。
 舞台は裏町の屋台周辺。そこに出入りする人々が、それぞれ抱えている葛藤を、みんなで解きほぐしていくオムニバス人情コメディー。けいこ場に田村と荒川が合流すると、舞台の設定やら大道具の手配や配置、小道具の有無などを打ち合わせはじめる。装置も美術も含めて、裏方の仕事もみんなやるのが当たり前。田村は上演時間と睨み合わせて、セリフをけずり、台本の手直し。気がつけば「ト書き」があまりない分の動きを、役者と話し合って決めていく。
 大劇場の公演に慣れている僕は、バカ声張り上げながら、立ち位置や動きを確認するところからけいこを続ける。台本をはなすまではセリフのニュアンスも大ざっぱで、共演の若者たちから浮き気味。それを修正しながら、失踪している元警官が娘と再会するあれこれに辿りつかなければならない。もし小劇場公演に〝らしさ〟があるとするなら、今回、それを学ばなければ...と、結構いい刺激を受けている。
 《参ったなあ、これは...》
 それやこれやの日々へ、飛び込んで来たのが作詞家もず唱平のイベント案内だ。戦後70年平和祈念と思い定めて彼が構成、演出する「歌と語りによる女の昭和戦記」という公演。それも平成27年度文化庁芸術祭参加と、やたらに力が入っていて、10月16日、西新宿の関交協ハーモニックホールで...とある。手帳のスケジュールを見なくても判るのだが、これがわがナキムシ楽団初日とモロにぶつかっているではないか!
 もずの手紙によれば「世上は安保法案が炎上し胸が塞がる思い」の昨今、彼は騒然の沖縄辺野古へ出かけ、地元大阪・枚方で平和コンサートを起案、大阪国際平和センターでは原爆忘れまじを主題にした催しをやった。ラジオ大阪で持ったのは戦争体験者の思いを伝える「母から母へのメッセージ」というレギュラー番組。戦争の責任論の文脈の延長上に出て来る言葉が「無辜の民」だが、これは母、祖母、伯母、叔母を含めた日本の、彼より年長の女性たちで、その被害者としての思いを語り継ぐ決意が、今回のイベントになったそうな。
 出演するのは弟子の歌手高橋樺子と、親しいつきあいのパーソナリティ小池可奈に女優の高沢ふうこ。「さりながら...」と、もずの手紙は続いて、関西で活動する彼にとっては「東京は他郷」何とぞよしなに...と結んでいる。彼と長い親交のある〝東京モン〟の僕としては、見に行けない無念をかかえたまま、どんな手伝いをしたらいいのか思いをめぐらす日々。そう言えばたしか、彼のペンネーム唱平の由来は「平和を唱える」だった―。
週刊ミュージック・リポート
 誇示したいのはやっぱり「パワー」なのだろう。デビュー15周年記念リサイタルを5都市でやった山内惠介の場合だが、選曲にそれがありありだった。一部の幕切れが美輪明宏の「ヨイトマケの唄」で、二部のあたまが三波春夫の歌謡浪曲「豪商一代紀伊国屋文左衛門」。歌うには相当な力仕事になるものを惠介流に朗々と仕立てて、なかなかなものである。
 ほかにチューリップの「心の旅」マイ・ペースの「東京」クールファイブの「東京砂漠」沢田研二の「TOKIO」谷村新司の「昴」なども歌う。演歌歌手に止まらない魅力の側面を見せる、今どきの若者らしさ。僕は9月25日、NHKホールの分を見たが、よくしたもので客席いっぱいのペンライトも、そこそこの乗りでリズミカルだ。後援会名簿が7000人を越えたと三井エージェンシー三井健生社長が豪語する熟女たちも、結構今どきの若さを保っているみたいだ。
 それにしてもあの、ひょろ長、やせぎすの体格の惠介の、どこにそんな活力が秘められているのか。オリジナルを中心にアンコールまで全29曲。中に水谷千重子とデュエットする「恋のハナシをしましょうね」のサービスもあるが、一曲ずつを全力投球、声や動きがいささかも衰えない。イケメン系のスターらしさで、着替える衣装も花やかで次々...。「正」の字印で僕は記録しはじめたが、途中で数えきれなくなってやめた。
 15周年のキャリアは、決して順風満帆という訳ではなかった。作曲家水森英夫門下生としては、先輩の氷川きよしが脚光を浴び、内心には焦りもあったろう。「エンカな高校生」のキャッチフレーズでデビューした当初は「霧情」など星野哲郎作品。思うにまかせない日々で空を仰いだのが「あの頃、月が僕のスポットライトだった」と、今回のリサイタルのタイトルになっている。転機になるのは6年後の「つばめ返し」で、佐々木小次郎の扮装で歌った。
 内容はラブソングなのに、時代劇の〝見せ方〟は、一見弱々しそうなルックスを脱出する思い切った作戦。
 「京都あたりの、呉服屋の息子? なんて聞かれていた」
 と、本人が苦笑いするイメージを、凛々しく変えようと三井社長や水森が踏ん張った。優し気な雰囲気は、隠し味なら生きるが、表面にモロ出しではファンの反応を限定してしまう。三井健生は、僕らの遊び仲間「仲町会」発足以来のメンバー。呼び捨ての長いつき合いで、彼の人柄も仕事ぶりも熟知しているから、多少の助言もした。
 以降は青春歌謡ふう路線でアイドル化、ころあいを見て映画主題歌ふう骨太な作品に幅を広げる。「外柔内剛」の九州男子ぶりが、言動に色濃くなって、今日のキャラクターが出来上がる。一昨年と昨年にやった初主演の舞台「曽根崎心中」の主人公は、優柔不断を絵にかいたようなやさ男。
 「イメージが逆戻りしないか?」
 という心配が僕らにあったが、
 「揺り戻しをバネにする!」
 と、三井は動じなかった。
 芝居の体験は、リサイタルのトーク部分に生きた気がする。曲の合い間に、デビュー当時の思い出や、人間関係の大切さ、果ては地球が生まれてからの年数から、人生は束の間の奇跡...なんてネタをはさむ。これが短めに簡潔で、よく整理されているうえ口調がユーモラス。めいっぱいの歌唱と好対照で、ショーに緩急の妙と、いいテンポを作っていた。
 最新作の「スポットライト」は作詞が喜多條忠。水森夫妻と並ぶ客席にいたが
 「今日はありがとうございます」
 と笑顔であいさつされた。この人も長いつき合いだが、惠介作品は初めてのはず。こちらはデビュー以来ずっと惠介を見守り芝居も共演しているから、
 「お前にそう言われる間柄じゃないぞ俺たちは!」
 と、乱暴な冗談を返した。
 驚いたのは休憩時間に出来たCD即売への列。ざっと数えると100人はゆうに越していた。山内惠介を支える側の、パワーの一端。一緒に年末の紅白歌合戦を狙っているのだ。
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「定石だらけ」はあんまりだろう!

 演歌の女主人公はおおむね孤独で、捨てられぬ未練を抱えている。そんなキャラを船に乗せるのか、坂をのぼらせるのか、酒を飲ませるのか、歌書きたちは長いことあの手この手の設定を考えて来たが、それもどうやら行き詰まり。主人公が傷心のままでは救いがないから、歌詞に必ず出て来るのが「明日」で、一縷の希みを託す。三番をこれで収めるケースが多く、今月も8曲の半分に出て来た。演歌に斬新さばかりを求める気はないが「定石だらけ」はいかがなものだろう?

長良川鵜情

長良川鵜情

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:中村美律子
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 「鵜情」ねぇ...と、僕はニヤつく。「有情」や「雨情」はよくあるが、ものが長良川の鵜飼いがらみだと、こうなるのか。作詞の久仁京介が描く「一途な女」のありようは、ほぼ定石通りだ。
 作曲の徳久広司は、歌詞の3行めに出てくるこのフレーズの「女」の「お」でアクセントを作る。思いがけない飛び方で、そこに高い音を使っている。
 中村美律子はゆるゆるゆる...と、川の流れを思わせる歌い回しで、彼女の色を出そうとした。詞、曲、歌ともに、器用さの産物と書いても、別に失礼には当たるまい。

落ち葉舟

落ち葉舟

作詞:志賀大介
作曲:水森英夫
唄:黒川真一朗
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 山に山霧、川知らず、川に川霧、山知らず...の2行が、一番の歌い出しの詞、作詞志賀大介の今では古風な重ね言葉だ。それが人の心のすれ違いや、憂き世のあてどなさを暗喩するココロか?
 さすらい男の心情を、落ち葉に託した5行詞に、曲をつけたのは水森英夫。昭和30年代の三橋・春日全盛時代を思わせるタイプで、節回しのあれこれに、そんな趣向も聴こえる。
 声を張ればそれらしくなる曲を、黒川真一朗の歌はソフトに仕上げた。デビュー12年のこの人の、持ち味でそうなったのか。

しのぶ坂

しのぶ坂

作詞:坂口照幸
作曲:徳久広司
唄:小桜舞子
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 小桜舞子の歌は、高音部の迫り方に「切なさ」や「いじらしさ」の色が濃くなるのが特徴。坂口照幸の6行詞の真ん中2行に、徳久広司がサビのメロディーを高音でつけて、これでもか!これでもか!だ。難癖をつける気はないが「人の心は見えないけれど、心遣いはよく見える」というフレーズ、結局は人の心も見えてるんじゃないかい?坂口君。

浮草ふたり

浮草ふたり

作詞:久仁京介
作曲:市川昭介
唄:菊地まどか
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 市川昭介の曲。没後の掘り出しものに久仁京介が詞をつけた作品か。いかにも市川らしいメロディーだが、さて、生前に歌手の誰をイメージしたものだろう?
 歌づくりはたいてい、相手があって曲を書く作業。サビの昂り方に僕は、都はるみを連想した。歌う菊地まどかは、そんな勘ぐり方など無縁で、彼女らしい精いっぱいの歌を聴かせた。

祖谷のかずら橋

祖谷のかずら橋

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:佐々木新一
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 南郷達也編曲のイントロから、僕は春日八郎の『山の吊り橋』を思い出した。あれは確か横井弘の作詞、吉田矢健治の作曲。そう言えば亡くなった横井を送る会が、9月18日にある。山あいの田園風景に、父親を立たせた今作は仁井谷俊也の詞、宮下健治の曲。昔、三橋美智也二世と騒がれた佐々木新一が、のびのびと難なく歌っている。

威風堂々

威風堂々

作詞:新本創子
作曲:聖川湧
唄:秋岡秀治
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 聖川湧の一風かわったメロディー、丸山雅仁の編曲がトランペットを使って威勢がいい。タイトルからみんなが"その気"になったのだろうが、秋岡秀治の歌も精いっぱいの頑張り方。各コーラス最後の歌い伸ばしなどシャープ気味になるくらいだ。それにしても新本創子の詞、主人公の日常を語るエピソードが、さほど元気でもない気がした。

越前恋おんな

越前恋おんな

作詞:久仁京介
作曲:西つよし
唄:竹村こずえ
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 竹村こずえは生来、そんな気性の持ち主なのか、歌声の芯の強さが、この人の歌を男唄に似た味わいにする。それをガッツリいこうと考えたのか、久仁京介の詞は長めで2ハーフ。西つよしの曲も、勢いを持って粘り、それなりの成果を挙げている。気になったのは二番の「恋のありよでしょ」で、歌詞カードでは「ありよう」にしたいね。

夜鳴く...かもめ

夜鳴く...かもめ

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子
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 作詞瀬戸内かおる、作曲岸本健介、歌夏木綾子のトリオが、作品で色を変える試み。前田俊明のアレンジが、いかにもそれらしい連絡船ものだ。北航路の最終便に乗るのは、傷心のひとり旅の女。夏木の中、低音を主にしたせいか、切迫感は後退した。「夜鳴く」の「な」に思いがこめられず、歌い流れているのも、残念な一因になっている。

MC音楽センター
 有近真澄はなかなかに味なボーカリストである。ロックをシャウトするかと思えばシャンソンはドラマチックに情も濃いめ。ピアノとギター、ベースに打楽器あれこれのミュージシャン4人と、合わせる呼吸もいい感じで、バンド名はエロヒム。9月16日の夜、渋谷のGee―Geというライブハウスで、僕は彼のステージを十分に堪能した。
 「あなたを知らない方がよかった」という曲が出てくる。現代ふうな味つけのムード歌謡系。その男を知る前の女主人公は、
 〽焦げつくグライダーのように、飛んでいた。真珠の粒を孕んだ夜...
 という状態だったのに、その恋で「革命の歌よりも自分を惑わせ、狂わせる恋」を体験する。作詞は真名杏樹、作曲は有近本人で、近ごろの流行歌にも、こういうタイプが出て来てもいいころだ...とふと思う。早めにタネ明かしをすれば、有近はあの星野哲郎の長男、真名はあの船村徹の娘で、名だたる大物の子たちが、親たちからはまるで連想しにくい世界を展開しているのだ。
 街のライブハウスと言っても、若者専用とは限らないらしい。有近のレパートリーは、ラテン、フラメンコふうも含めて実に多彩。共通しているのはシニカルな視線の「聴かせる」作品群で、それに呼応するように、満員の客席の年齢層も高めだ。中に有近の夫人や義弟の木下尊行の顔も見える。
 「昨晩はどうも!」
 とグラス片手に近寄って来たのは元テイチクの松下章一。前日の15日、久しぶりの仲町会コンペを鎌ヶ谷CCでやったが、その打ち上げの酒盛りだけ参加した彼とは、連夜の酒になる。連れは作詞家のさくらちさとで、二人とも桜澄舎のメンバーだから星野門下だ。
 有近の音楽活動歴は相当に長い。その間に磨き、身につけたのか、歌が真っすぐに客席の僕らに届くのが強味。練れた声と巧みな操り方に余分な自信を持つと、歌はしばしば客の前を横に流れる自己完結型になり、説得力を欠くものだ。彼の歌がその愚におちいらないのは、真面目な取り組み方と飾らない人柄も手伝ってのことか。彼の風ぼうは年々、父親の星野に似て来ている。それがロックをシャウトしたりすると、
 《う~む...》
 僕の感慨はひととき、妙に屈折しかける―。
 「え~っ、マジですか、参ったなもう...」
 眼鏡の奥の眼を見開いたもう一人の出演者がいて、名前は深田太郎である。「虹とライオン」というバンドを作って、もう8年も頑張っている彼は、作曲とギター、コーラスを担当するこのチームのボスだ。女性ボーカルを中心に、こちらは有近バンドよりはやや若め。乗りはロックだがやはり「聴かせる」姿勢が目立って、曲ごとの歌詞に工夫のあとが見える。
 「作詞もしているの?」
 と聞いたら、
 「いまのところは慎んでいます。書け書けと言われてはいるんですけど...」
 とテレ臭い顔をした。こちらもタネ明かしをしておこう。深田太郎は阿久悠の息子である。父親があれだけの詞を書き尽していると、俄かにその道へは入りにくいものか?
 深田はカラーシャツに黒いダブルのスーツと、シックないでたちで、長身を折り曲げ、床に沈みかねない忘我の気配でギターをひく。有近は白のブラウスに赤のパンツ、両方艶のある光りものを着て、スターの風格さえにじませる。深田が40代、有近が50代だが、二人とも十分に〝今どきの若者らしさと美意識〟を示している。ま、胸中にたぎる思いは父親ゆずりだろうが...。
 僕はこの日の午後、USENの昭和チャンネルのレギュラー番組で、森サカエと彼女の歌を聞きながら、長いこと四方山話をした。戦後のジャズ・ブームから今日まで、日本のポップスの歴史を行ったり来たりである。森と僕はお互いに「ダーリン!」と呼び合い、しばしばハグもする仲。どちらも孫がいるいい年で...と周囲が笑うが、親密の表現が自然にそうなるのだから仕方がない。
 そう言えば深田のライブの客席には、彼の妻君と息子も来ていた。エレキギターの轟音にもビクともしないその奈義君6才、阿久悠が見ずじまいだった孫である。
週刊ミュージック・リポート
 めっきり秋らしくなって来て、秋と言えば芝居のお知らせ。田村武也が主宰する路地裏ナキムシ楽団の第6回公演「指切りげんまん」に出演する。10月16日(金)が午後7時から、17日(土)が午後2時からと7時からの2回、18日(日)が午後2時からの計4回で、場所は西武新宿線「下落合駅」北口徒歩1分の「俳協TACCS1179」。
 この楽団は歌あり芝居ありのエンタテイメント集団。バンド5名と役者10名が同じ舞台に上がり、下町人情コメディーふう芝居を幾つかのエピソードに分けて役者が演じ、オリジナルフォークふうな歌が、ドラマを主導し、あるいは盛り上げていく新機軸。けいこが始まっているが、若者集団らしい熱気があって、僕は大いに張り切っている。
 詳細は「進歩道橋」924回に書いてあるが、主宰者の田村武也は友人の作曲家弦哲也の息子で、昔からの顔なじみ。「一度出てよ」と誘われていたが、今回、実現の運びになった。ドラマの惹句が「逃げっぱなしの人生にけりをつけろ!」とあるが、長く逃げずに生きて来た人生の終盤に、役者でけりをつける気の僕は、今回も断然"その気"で、失踪中の元警官、競馬狂いのおやじ役と取り組んでいる。ちなみにチケット料金は前売りが3500円、当日売りが4000円、取り扱いはnakimushigakudan@gmail.com  僕の知り合いと明示して下さい。 指切りげんまん01
指切りげんまん02
 「ねぇ、頼むから〝特別出演〟って肩書きははずしてよ。ただ単に、年寄りなだけじゃない。切ないよ、そんなの...」
 顔合わせの日に僕は、主宰者の田村武也にそう頼んだ。集まった役者やミュージシャンたちが、こちらが気おくれするほどみんな若いのだ。田村は作曲家弦哲也の愛息。声がかかったのは彼が取り仕切る路地裏ナキムシ楽団の第6回公演「指切りげんまん」で、10月16日から3日間、東京・下落合のTACCS1179という小劇場でやる。 「青春ドラマチックフォーク」というサブタイトルが毎公演共通で、いわばコンセプト。主催・企画と作・演出が路地裏ナキムシ楽団とクレジットされている。どうやら田村武也が仲間と話し合いながら作っている芝居で、ドラマとオリジナルのフォークソングのコラボ。彼が中心のバンド6名が音楽と歌、荒川大三郎が中心の役者10名が芝居をやって、双方が交錯し相乗効果を挙げる仕組みだ。
 「第6回公演」を「第六泣き」と表記する。
 各公演、巷の人情の機微に触れるのが狙いのせいだろうが、いつもチケットが即完売の勢い。「一度、是非出てよ」と言われてはいたが、残念ながら僕は一度も見ていない。それだけにワクワクする。エピソードの一つずつを、歌でつなぎ盛り上げていくタイプなんて初体験だ。念のために書けば、歌はバンド、芝居は役者と、一緒に舞台に出ていても担当は別々だから、僕が歌うことはない。何しろモノがフォークである。演歌歌謡曲系の僕がバンド要員になるはずなどないだろう!
 「逃げっぱなしの人生にけりをつけろ!」が惹句である。舞台の中心は裏町の屋台。元ボクサーの錠島健吾(荒川)が、殴られ屋を兼業して暮らしている。そこに集まるのは、後悔を抱えた寂しがりやが何人か。だから展開するエピソードのテーマは「親子」「友情」「真実」「別れ」や「再出発」など。登場人物それぞれが語る〝寂しさのモト〟を、居合わせた常連がワイワイ言いながら解きほぐしていく。お涙ものの人情喜劇だが、決してじめつくことはない。セリフの多くがジョークまじりに明るく、役者たちが嬉しそうにそれと取り組む。センスもエネルギーも、やたらに若いのだ。
 「小西さんが出演されると聞いて、それなら私も...ってお引き受けしました」
 と、いきなりお愛想を言ってくれたのは小沢あきこ。歌手だが今回は役者チームで、水商売風の謎の女・愛衣をやる。「制作」に赤星尚也と我妻重範の名がある。赤星は弦哲也のマネジャーで車の運転もする年下の友人。我妻はアルデル・ジロー我妻忠義社長の息子で、こちらは工藤あやのの担当マネジャーとして顔なじみだ。二人とも本職の方が忙しいはずで、スケジュール的に大丈夫なのか? と、僕は余分な心配をする。もう一人の知人は東京音研の大須賀悟で、こちらは川中美幸の劇場公演で何かと世話になっている。今公演の音響を担当、顔合わせの日からマイクの数や種類のチェックに余念がなかった。
 けいこ場はおおむね、浜松町の文化放送ビル7階の会議室。以前阿久悠のトリビュート・アルバムづくりや、三木たかしの法要の打ち合わせなどで、しばしば通った部屋だ。トイレも喫煙所のありかも熟知していて、僕はそんな流行歌評判屋の気分と、新入り老役者の緊張が入り混じって妙な居心地になる。そう言えばJCMは田村武也の元の勤務先。バンドには浜本宏之、加藤孝史がいて、二人ともここの社員。根っからの音楽好きが勤務時間外の参加で、けいこが夜なのは、会議室の空き時間にそんな事情も加わってのことか。
 ところで僕の役だが、元警察官で、失踪中の勝山徳治。娘の綾子が探し当てて尋ねて来るが、10年ぶりの再会も酔ったふりで人違いだとはぐらかす。これにはいろいろ事情があって...という複雑な表現が求められる役だ。娘役は富永あきで、他に藍沢彩羽、千年弘高、小島督弘、松永直子、上村剛史らが役者。この世界で長く僕の弟分の、小森薫も久しぶりに一緒の舞台を踏む。彼はやたらてきぱきと僕のマネジャー役まで勤めている。
週刊ミュージック・リポート

時に、編曲者の美学に耳を傾けよう

 企画の意図を理解、作曲者の思いも汲んで、作品を飾り、特色を鮮明にするのが編曲者の仕事。例えば、前田俊明は『夕陽燦燦』で情が優しげ、若草恵は『麗人草』をドラマチックに仕立て、矢野立美の『夜桜哀歌』はスリリング。『七尾しぐれ』の蔦将包はメロディアスに艶っぽく『港しぐれ』の丸山雅仁はオーソドックス。『冬の月』と『アドロ...』の伊戸のりおは何でも来いの多才、『どうせ捨て猫』の川村栄二は歌声を生かす隙間づくりの名手。それぞれが独自の美学を示して頼もしい。

夕陽燦燦

夕陽燦燦

作詞:たかたかし
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし
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 人が二人、夕焼けに向かって立っている。頭上に舞う赤とんぼの群れ。彼らは来し方の四季を思い返す。子どもたちは旅立っていった。その二人が、女は愛をゆりかごに、男は命を楯にして、長く寄り添った夫婦と、三番の歌詞で合点がいく。
 作詞のたかたかしは明らかに、ヒットを量産した時期を越えた。失礼だがいわば老境、それが熟年の夫婦の感慨を、赤とんぼに託して言葉少なな詞を書く。しあわせ演歌の元祖が、そういう境地に熟成したということか。
 五木ひろしがいい曲を書き、沁みる歌にしている。

七尾しぐれ

七尾しぐれ

作詞:かず翼
作曲:水森英夫
唄:多岐川舞子
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 雪なら払えばすむものを...という、歌い出しの歌詞一行分で、多岐川舞子はそれらしい世界を作れている。声をすぼめ、しならせる語り口が、女主人公の思いの一途さを、最初から表現しているのだ。
 かず翼の詞、水森英夫の曲だが、サビの高音部も歌い回さず、歌い放さず、ていねいに心をこめて語って破綻がない。そういうふうにこの人も熟して、苦手と思えた高音部を克服したのだろう。
 2コーラスの歌い納め、歌の目線が上がって、風景を見せるあたりも、なかなかにいい。

夜桜哀歌

夜桜哀歌

作詞:田久保真見
作曲:浜圭介
唄:山本譲二
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 山本譲二の歌は、頭から巻き舌。道理に合わぬ憂き世を、はすっかいに生きる男の侠気を歌うせいだ。田久保真見の詞8行の、6行分を語らせておいて、最後を啖呵みたいな2行で決めにかかる曲は浜圭介。聴く側の僕はふんふん...と待たされ、おしまいでそうかい!と合点する。3番の歌い納め「夢は男のかがり火よ」は、少々甘くないかねェ?田久保さん。

麗人草(れいじんそう)

麗人草(れいじんそう)

作詞:三浦康照
作曲:小野彩
唄:藤 あや子
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 主人公の女は、道端で咲く花に自分をなぞらえる。命まであげたつもりの男から、どうやらおいてけ堀だ。そんな女のたたずまいを、感情移入薄めに、藤あや子がすっきりと絵にする。本音っぽく生な歌い方になるのは、歌い納め2行という趣向だ。作曲も小野彩の筆名で本人。曲を書きながらこの人は、主人公と歌う自分とをどう見較べているのだろう?

冬の月

冬の月

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 女が男に「こころを決めてください」と詰め寄る歌。そこがミソだが、それではその表現を、哀訴にするのか、凄みにするのか?
この人に凄みは無理だろうから、作曲の弦哲也は優しさに仕立てた。前2作でドラマチックな物語性を体得した歌手。こちらはそんな期待が先に立ったが、仁井谷俊也の詞は一人称で言い募るばかり。もうひとつ仕掛けが欲しかったなぁ。

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港しぐれ

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:井上由美子
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 高めの音域を中心に、井上由美子の歌はシンプルだ。技を使わず策を弄することもなく、女心をひたひたと歌う。麻こよみの詞はおなじみの港町未練もの。岡千秋の曲に導かれて、歌に陰影が出来たのは、歌い納め前「夜が」を3回くり返すあたりか。カラオケ・ファン用の教科書ふうにきちんとした仕上がりだが、欲を言えば女心をゆさぶる味つけが欲しいな。

アドロ~熱愛~

アドロ~熱愛~

作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:内田あかり
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 ざっくりとした手触りの声、やや投げやりにも聞こえる口調と歌い回し、内田あかりの持ち味に似合うのは、ヨーロッパ風味のこんな曲だろうと徳久広司は考えたのか?
 悪い女なんて思っていなかった、蝶のように夜を華やかに舞ってた...と、かず翼の詞は内田の半生を擬したのか?
それとこれとが表裏一体に聞こえて、ベテランの彼女に似合いの作品が出来上がった。

どうせ捨て猫

どうせ捨て猫

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:ハン・ジナ
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 女心を猫にたとえるのは、よくある手口。しかし「捨てないで、愛していると騙して」と書くあたり、田久保真見の猫は相当にしぶとい。これも曲は徳久広司で"この手でいくか"と狙い定めたムード派だ。ハン・ジナの歌声は肉感的で、捨て猫のよるべなさとは遠い。僕はわが家の猫2匹を眺めながら聴いた。彼女らも出自不詳の元ノラ、海の日を誕生日にしてある。

MC音楽センター

新感覚派も守旧派も、なかなかだぜ

 田久保真見と幸耕平はそれぞれ、演歌を書くと"新感覚派"の趣きを持つ。歌書きとしての感覚や生理が、シャープさとリズム感に生きるのだ。そんな大月みやこの新曲に対して、三門忠司の新曲を書いた志賀大介や岡千秋は、いわば"守旧派"。こちらも歌書きとしての生まれや育ちが、そんな美意識で表れる。今月はそういう4人が2組になって、いかにもそれらしい歌を作った。新しい工夫もいいし、手練の技もいいと拍手しながら、俺は一体どっち派だろう?と自問した。

愛のかげろう

愛のかげろう

作詞:田久保真見
作曲:幸耕平
唄:大月みやこ
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 6月12日、船村徹の「歌供養」で、この人は前作『霧笛の宿』を歌った。二次会で「歌い過ぎだろ」と言ったら「そんなことはない」と口を尖らせる。船村は僕らのやりとりを笑って聞き流したが、あの作品は池田充男の詞、船村の曲で、表現に抑制の妙を必要とした。
 一転この新曲を、大月は解き放たれたように歌い回す。肌を重ねても心は寒いままの女の孤独を書き込む詞は田久保真見。7行3コーラスに推敲のあと歴然で、気分よく乗せ、情感うねらせる曲は幸耕平。歌唱の幅を聞かせた型だが、大月は生来歌いたがりなのだ。

望郷おとこ笠

望郷おとこ笠

作詞:志賀大介
作曲:岡千秋
唄:三門忠司
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 母という字を この手のひらに なんど書いたろ詫びたろう...という二番の歌い出し2行の詞に《ほほう》である。旅烏の母恋いは番場の忠太郎をはじめ、歌にさまざま出て来たが、これはなかなかの妙手だ。
 一番、三番にも、同じ個所にそれらしい決めフレーズが並んで、作詞志賀大介はさすがの年の功。それに岡千秋がお得意の浪曲調の曲をつけて、語らせたりゆすらせたり...。
 そんな二人の工夫が、三門忠司の声味と節回しを生かす。斜に構えて自嘲気味の渋い男唄。各節最後の歌声が、目線上向きでいい。

港やど

港やど

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:西方裕之
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 伊豆下田、これが最後とわがままを言った女の逢瀬ソング。主人公になり切って歌ったら、仕上がり重くなるのは必定だ。それをそうなりにくくしたのが水森英夫の曲と、妙に弾み加減の伊戸のりおの編曲だろう。結果西方裕之の歌は、泣かずに感情移入ほどが良く、歌い納めのフレーズなどたっぷりめで第三者目線、そういう"お話"に仕立てた。

女・なみだ酒

女・なみだ酒

作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳
唄:入山アキ子
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 前田俊明のアレンジが、前奏からもう《おぉ、昭和テイスト!》の気分横溢だ。女の未練ごころを悠木圭子がひたひたと書いて、それをブンチャブンチャの乗りの曲にしたのが鈴木淳。女唄なのになぜか、霧島昇や殿さまキングスの顔を連想する。歌っている入山アキ子は高音部、いっぱいいっぱいの個所に艶がある声で、すっきりメロディ本位にこなしている。

こころ花

こころ花

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:キム・ヨンジャ
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 キム・ヨンジャが2曲続く。それならきっとこちらは"わさび味"だろう...と思ったのは、久仁京介の詞が5行もの、徳久広司の曲が起承転結彼らしくなると見越してのこと。やっぱりそうだと合点するのは、歌詞4行分の、ヨンジャの切々の歌い方だ。不実な男にひかれながら咲くのは「袋小路のこころ花」で、歌い納め1行分で心開く歌唱が救いになっている。

情恋歌

情恋歌

作詞:門谷憲二
作曲:花岡優平
唄:キム・ヨンジャ
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 一転してこちらは、門谷憲二の詞、花岡優平の曲、川村栄二の編曲と、クレジットを見ただけで、"キムチ味"と判る。4行1ブロックの歌詞を2回、階段みたいにせり上げておいて、最後の3段めでドカンと歌い放つ。わさび味は来日して彼女が身につけた演歌表現。キムチ味は韓国風の張り歌と本人が名づけたが、「情恋歌」にはその双方が盛り込まれた。

MC音楽センター

殻を打ち破れ164回


 話し方に「訥弁の能弁」というのがある。トツトツとした口調に微妙な間(ま)があり、ちょっと見には話し下手に聞こえる。これが曲者で、独特のペースで聞く人を次第に引きつけていく。耳を澄ませば、意味あい深いフレーズが多く、内容は含畜に富んでいて、時に上滑りなおしゃべり、能弁をはるかにしのぐ。それと気づいたころにはもう、聞き手はその人の虜になっている。魅力は人間味だ――。

 関西の名うてのシャンソン歌手・出口美保のステージを見ながら、僕はそんなことを考えた。歌の多くがほとんど呟くような口調で、それなりの心の抑揚を伝えながら続く。キイは男と同じで、声は太く、リアリティを持った存在感が説得力につながる。僕とほぼ同い年のベテランだから、戦後の昭和を生きた浮き沈みまで透けて見える境地だ。

 しかも今回は、歌う現場が比叡山延暦寺の根本中堂である。625日、僕は彼女の奉納コンサートにいそいそと出かけた。新聞記者くずれの悪癖で、会場の予備知識は行きの新幹線の中という付け焼刃。標高848メートルの山全域を境内とする寺院、国宝で世界文化遺産で、宗派は天台宗、開基が最澄で道元、親鸞、日蓮もここで修業した。戦国時代、織田信長が焼き打ちした時は僧兵4000人が抵抗したらしい...。

 ≪えらいところで歌うもんだ≫

 そう感じ入りながら「根本中堂」は「こんぽんちゅうどう」と読むことは、会場に着いてから人に教わる。活字資料には読み方までは書かれていない。

 周囲ひと抱えもあろうかと思う巨杉の林立を抜けて、舞台は回廊の先の本堂。大きなローソク8本の灯が揺れるのに囲まれて、出口は歌う。全身を包む黒のたっぷりめのドレスは、法衣にも見えてくる。銀髪で小太り、歌の合い間のトークで、ふっと見せる微笑は童女のよう。伴奏はキーボード、ギター、ウッドベースの3人。曲目は『人の気も知らないで』『時は過ぎゆく』『過ぎ去りし青春の日々』『アコーディオン弾き』『君を待つ』『泣く友を見る』...。

 シャンソンに限らずこの人は、心をあずけて日本の歌も歌う。例えば『真夜中のギター』や『希望』など。場所が場所のせいか、僕が思い浮かべるのは親交のあった作詞家の吉岡治や作曲家のいずみたく、歌手の岸洋子らの顔。この作品を残して、早めに逝ったあの人たちへ、鎮魂の思いがよぎるのだ。出口の歌に色濃い悔恨や苦渋、慈愛の味わいがそれを誘うのか? 彼女に正対して聴く僕の背にしのび寄ったのは、深山の夜気か、それとも霊気か?

 知人が申し入れをしたら「それなら6月中に」と寺側が応じたという。7月からは足場を組んで、10年がかりの改修が始まるせい。だからコンサートの準備は一ヵ月の大忙し。

 「ご本尊に背を向けて歌う形になったでしょう。申し訳なくて...」

 終演後出口は、身をちぢめてそう話した。歌う間中、何か温かい気配に包まれていたとも話した。

  観光客用の施設、延暦寺会館ロビーで、作詞家いではくの色紙を見つけた。

 「荒行千日、比叡の風を、受けて歩いた、山道万里」の4行。北島三郎が歌った『比叡の風』の一節である。

 「ふむ」

 僕は何だか、この霊山が身近になった気がした。

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殻を打ち破れ163回

 いい意味の緊張感がみなぎっていた。舞台中央で歌う鏡五郎の眼は、ひたと会場の宙空を見据えている。

 ♪ドカーンと弾けた 夜空を見上げ 為になったら うれしいね...

 前奏から勇壮な花火の音が続いて、新曲『花火師かたぎ』の歌い出し。鏡の歌声は覇気に満ちている。

 ♪人生一度は 命をかけて 勝負しなけりゃ ならないことを...

 と、もず唱平の詞が、男の感慨に移る次のフレーズ。作曲船村徹特有のメロディーが揺れても、鏡の眼差しは動かない。それがふっと、聴衆の席へ戻ったのは、2コーラスめの同じ個所くらい。しかし、彼の視線はまたすぐに、強く高みへ戻った。客との情感のやりとり、芸の差し引きなど全くなしのフルコーラス、鏡の熱唱は終始一途だった。

 612日夜、船村恒例の「歌供養」が今年31回めを迎え、鏡は「懇親会」のメインゲスト格。グランドプリンスホテル新高輪の飛天の最前列中央の席で、船村がステージを見上げる。鏡はそれと正対する形だが、視線は船村の頭上遠くを射すめていた――。

 ≪そりゃあ、気合いが入るはずだわ...≫

 船村のテーブルに陪席して、僕は鏡の胸中を推し量る。夏に似合いのこの作品は、モデルも実在、船村の手許であらかじめ出来上がっていた。彼が歌い手として指名したのが鏡である。もともと古い弟子で、2年ほどの薫陶を得てプロ・デビュー、来年が歌手生活50年になる。その間に、心ならずも疎遠になりがちだった年月があり、50年めのお声がかりで、再び師弟の絆が確認された。

 「コツコツ歌って来た僕に、最高のごほうびを下さったのでしょう」

 歌い終わってのコメントは短めだったが、芸名も船村がつけたいきさつも語られた。「明鏡止水」がこの道の心得と、師匠が教え諭す意味があったろうか。男唄も女唄も演じるように歌って、地味だが芸達者に育ったのが鏡の世界。しかし、この夜のこの歌には、花火師の気概に彼自身の覚悟のほどが重なって、凄いくらいに生一本だ。

 船村は弟子たちが歌うと、照れたように視線を泳がせる。相手が北島三郎でも鳥羽一郎でもそうだが、この夜の鏡の場合も同じだった。違ったのは鏡の歌を聞き終わって、眼鏡をはずし顔を拭ったあたり。拭いたのはおそらく涙で、弟子の真摯な姿勢はしっかりと、師の胸に届いた気配があった。

 戦後70年、船村がこれまでに書いた追悼、哀惜の作品も、この夜披露された。『草枕』『南十字星の下で』『満州の子守唄』『花供養』『白い勲章』などで、歌ったのは弟子の森サカエ、静太郎、天草二郎、走裕介、大門弾ら。船村は女囚の心歌『のぞみ』を歌って座を圧倒した。『歌は語るもの』の情趣が、会場のすみずみまでをひたしたものだ。

 427日、日光市にオープンした船村徹記念館の盛況も、斎藤文夫日光市長のあいさつで報告された。5月までの入場者15千超。当初目標の年間5万を半年で達成しそうな快ペースと言う。ご同慶のいたりではないか!

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殻を打ち破れ162回

 福浦光洋という人のミニ・アルバム『途中下車』を聴く。銀座にシャンソン・バー「ボンボン」を開く人で、シャンソン、カンツォーネ歴は30年。店ではそんな外国曲の詞を、津軽弁で歌って人気があるとか。

 5曲全部を書いている高林こうこの、詞がいい。表題曲『途中下車』は、ふと列車を降りた田舎町のひなびた宿が舞台。主人公はそこで思い出を並べてひとり酒だ。肴は漬け物やホッケで、いい月を見上げ、いい風を感じる。思い返すのは優しかった女、悪だが憎めない奴、父親みたいに忠告してくれた友...。

 ≪ほほう≫の気分で聞き進めれば『ジェームス・ディーンと語ろうか』『東京日記』なんていう曲名が出てくる。前者はレトロなバーでの酒。若かったころあの映画スターを同朋(とも)と思い定めた男が、いつかその血の熱さを失い、自分を変えてしまった年月と向き合う。せめて一夜、ジェームス・ディーンと見果てぬ夢を語ろうか...。

 後者は、事情があって志なかばに、郷里に戻った友人をめぐる話。日記のページから何度も浮かぶのは、一緒に東京暮らしをしていたころの彼の顔だ。その友から彼が育てたリンゴが届く。その赤さに目を凝らしながら、彼の分まで頑張ろうと思い返す男の都会の夜に、降りかかるのは友の故郷と同じ雪――。

 このアルバムをプロデュース、3曲とも作曲しているのは山田ゆうすけ。詞の魅力を損なわぬ率直なメロディーで、ひところのフォークソングの味に、ポップな感触を加えている。その詞、曲を淡々と歌いながら、熟年の男の苦渋を伝えるのが福浦の歌。青森出身というやや重めの口調が、悔恨の歌3曲を、人肌のぬくもりにした。真情ほろり...の哀愁の程が良く、声をはげまさず、技を用いずの唱法が沁みる。情緒的湿度が高すぎず、適温の情感の歌と言えようか。

 ≪彼らなりのやり方で、みんな踏んばっているんだ...≫

 と僕は、友人三人の顔を思い浮かべる。作曲した山田と初めて会ったのは、作曲家協会のソングコンテストでグランプリを取った1998年だから、もう17年のつき合い。その後、作曲の花岡優平、田尾将実、藤竜之介、作詞の峰崎林二郎のグランプリ組と「グウの会」を作ってよく遊んだが、最近はそれぞれ一人歩きをしている。山田は「愚直のグウ」の会の名をそのままに、着々の歩みを進めていることになるか。

 作詞した高林は、もず唱平に紹介された彼の人脈の一人。もずの会などでちょくちょく顔を合わせるが、寡黙な人であまり話し込んだことはない。万事控え目な挙措の内側で、こんなにしみじみした歌心を育てていたのだ。

 山田はもう一人のお仲間、堀越そのえの詞でシングル『娘に贈るLet It Be』と『じいじの写真館』を自作自演している。そして、このシングルと福浦のアルバムをリリースしたのが、ウェブクウという小さめのメーカー。山口光昭社長とは、彼のトーラス時代からのつき合いで、この種の企画にも手を借すあたりが、いかにも彼らしい。

 僕は彼や彼女の、決して野心がギラつくことのない仕事ぶりに、置き忘れていたものをみつけ直した心地になった。福浦は彼の拠点の店で59日に発表会をやるが、残念ながら欠席する。もず唱平と仙台の仮設住宅を訪ねる先約があったせいだ。

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殻を打ち破れ161回

 「ずっと大人になれなかった僕」と、「そっと子供に戻ってゆくあなた」が、寄り添って一面の菜の花を見つめている。二人はどうやら母親と息子で、彼が親孝行を気取った「最後のドライブ」の一コマだ。

 その前置きに、母は息子を忘れ、自分をも忘れているとある。花の名前だけは覚えていて、母は少女のような横顔で菜の花畑を指さす。その向こうには、哀しいほど澄んだ青空――。

 湯原昌幸の『菜の花』を聴いて、不覚にも僕は涙ぐんだ。あきらかにこれは、痴呆の母と息子の物語である。世界に冠たる長寿国日本が抱える、痛切な問題が歌になった。この素材、歌でも時おり目にするが、演歌だと妙に粘っこい情念が先に立った。それをまた、何ときれいに、だからこそ殊更に、哀しみと慈しみの情をたたえた詞にしたことか! ここまで見事な表現力は、並み大ていのものではない!

 作詞は田久保真見。気になる才能として、僕はその仕事をずっと追跡している。どちらかと言えば、ポップス系の長めの詞に"らしさ"が生きるが、最近は5、6行の演歌も書く売れっ子。独特の感性と言葉えらびに、時折りドキッとする冴えを見せるが、今回はもう「これこそ田久保!」と僕は手ばなしで絶賛!である。

 「いい歌が出来たんです」

 と、まっ先に僕に聴かせたのは、作曲した田尾将実だった。「僕はさしたる仕事はしてませんが...」と、照れたような注釈がついた。聴き終えて僕は、即座に感想を伝える。

 「これでいいんだ。作曲が妙に踏ん張ったら、詞の清澄感が壊れる。作曲にも無策の策ってのがあるんだよな」

 田尾は得心した笑顔になったが、このごろ人気作曲家の仲間入りをした彼とは、苦しかった時代からの長いつきあいがある。僕の妙な発言も褒め言葉と受け取ってくれるのだ。

 ≪それにしても...≫

 と、僕は別のことを考える。湯原の前作は『俺でよかったのか』で、女房を亡くした男の歌だった。それに続いて今度は痴呆ソングか...とネタ選びのかね合いが気になった。そう言えば湯原は、実母の介護を夫人の荒木由美子と一緒に頑張った体験で知られる。そこからの着想か?と制作担当の佐藤尚プロデューサーに聞いたら

 「男の泣ける歌を続けて来て、その延長戦上の企画ですよ」

 と、実話ソングが狙いではないと笑った。それはそうかも知れない。湯原の体験をそのまま歌にしたら、もっと生々しくなって、湯原も歌いにくかったろう。

 ≪それにしても...≫

 と、もう一度『菜の花』を聞き直す。2コーラスめは主人公の少年時代が語られていて、学校帰りに転んで、泣きながら家路を走った彼を、迎えた母がやっぱり菜の花畑の中にいた。最後のハーフでは、この花が好きだった父親もチラリと出て来る。

 田久保は一体、どこで何を知り、どんな思いをこめてこの詞を書いたのだろう? 特異な素材をシンプルな表現で、この人はここまで書けるんだ!と、僕は感じ入る。それやこれやの感慨にひたったのは決して、僕が痴呆の母を7年介護した体験を持つせいだけではない。

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 「困ったときは弦哲也」という業界フレーズがある。この作曲家を頼るのがヒット曲を生む近道と、制作者の多くが考えるせい。弦の大きな実績が物を言っている。それが僕の場合は、
 「困った時は新田晃也」
 になる。無名だが歌手歴50年で記念曲「母のサクラ」を出している男。どんな曲でも歌いこなす歌巧者だから、とても重宝。僕がやるトークイベントで生歌が欲しい時は、大てい声をかける。「はいよ!」と彼は気楽に、ギターを抱えて飛んで来る。昔々は「ポール」と名乗って、銀座の名うての弾き語りだった。
 8月22日午後、僕は代々木上原のけやきホールで「石坂まさを、藤圭子の世界」というののホストをやった。古賀政男音楽文化振興財団の「殿堂顕彰者の歌を歌い継ぐ」という講座の20回目。この日が藤の命日で、石坂は半年前の3月9日に亡くなっていて、双方今年が三回忌というのが事のきっかけだ。二人と親交があったから「往時の話をしてほしい」と、財団の宮本青年から来た話で、ゲストは当然、石坂と藤の時代を作った音楽プロデューサーの榎本襄氏。僕が長く「ジョーさん」と呼ぶ人だ。
 藤圭子の代表作は何曲か、CDで流す。しかし、おっさん二人のおしゃべりにそれだけでは、200人あまりの客に愛想がないから、生歌用で渚ようこに声をかける。藤の影響を受けて歌手になったこの人は、彼女に似たしわがれ声が魅力で、新宿ゴールデン街に店を持ち、マイペースで歌う、いわば〝職業歌手〟だ。
 藤の曲については、これで手当てがついたが、石坂は藤以外の歌手にも、いい作品を沢山書いた作詞家。小林旭が歌った「北へ」や五木ひろしの「おしどり」も聞きたい...となって、新田の出番が来る。この講座で「三木たかし編」をやった時も彼をわずらわしたし、以前、千住のシアター1010で星野哲郎トリビュート企画をやった時も、彼に歌ってもらった。それやこれやの縁つながりで、二人の歌手は期待通りの舞台だったし、ジョーさんとの話も石坂・藤のエピソード山盛り。終演後に宮本青年が、
 「皆さん楽しんで帰られました。とてもうまく行きました」
 と手放しだったから、お世辞半分にしても、ま、そこそこの内容になったということか。
 驚いたのは客席に、阿久悠の息子深田太郎が来ていたこと。阿久が藤に「東京から博多まで」を書いてはいるが、石坂とは関係がない。それなのに「何故?」と聞いたら
 「渚さんの応援です」
 と答えた。そう言えば彼女は、晩年の阿久と仕事をしていて、この日も彼の「ふるえて眠る子守唄」を歌った。そう言えば...が実はもう一つあって、新田晃也なのだが、阿久の初期のエッセーふうアルバム「わが心の港町」の全曲を歌った上村二郎がこの男だった。弾き語り時代のことで「そのままプロに...」という阿久らの誘いを固辞、以来ずっと巷で歌って来た意地っ張り。彼の50周年の起点がこのアルバムになっている。
 会場にもう一人、石坂の長男沢ノ井良太も顔を見せていた。僕は石坂に強要されて、彼と二男の周治、三男の遊の名付け親になっている。ステージに呼び上げてその間の話を良太の前で初めてした。生まれるから名前をつけてと石坂に頼まれた当時、僕は徹底的に断った。そんなことをして他人の子の生涯に責任なんて持てない、というのがこちらの言い分。ところがその子のお七夜の深夜に「まだ名前がない」と、石坂から苦情の電話がある。何と言ってもダメはダメ...と言い続けたら、
 「それでは〝良太〟と頂きます」
 とまで言い出し、
 「勝手にしろよ!」
 と僕が言い放った結果この名になった。今ではもう笑い話の一件だが、良太青年はステージを降り際に一言、
 「小西さん、今からでも責任を取って下さい」 と僕をひと睨みしたものだ。
 その何日か後、星野哲郎の長男有近真澄にたまたま出会ったら、彼がやるライブのちらしを渡された。9月16日夜、渋谷とあるが、共演するのが何と深田太郎のバンドだと言う。歌社会親子二代の交遊はあちこちで、実に何とも、とめどがないものだ...と、僕は観念した。
週刊ミュージック・リポート
 「備中高梁」と書いて「びっちゅうたかはし」と読む。新幹線の岡山から伯備線の特急〝やくも〟に乗り替えて、ほぼ40分で着く城下町の駅名だ。雲海に浮かぶ天空の城として知られる備中松山城は町の北方、標高430メートルの臥牛山に建つ国の重要文化財。それを含めてぐるり四方を山で囲まれているのが、人口3万2000余の高梁市で、猛暑の夏、お盆の8月14日に僕はそこへ出かけた。
 《ことさらに、暑いだろうな...》
 と、僕は〝やくも〟の車内で観念する。倉敷を過ぎて20分ほど、左右の車窓には山また山が折り重なって迫って来る。目指したのはその中の盆地なのだ。
 《なるほど、確かにターザンの棲みかとしては絶好の山の深さだ...》
 と、そんなことも考える。この月、高梁で行われていたのは大森青児第一回監督作品「家族の日~ターザン故郷へ帰る」のロケ。岸部一徳扮する世捨人が、里の人々から〝ターザン〟と呼ばれ、恐れられていて、彼がこの映画のキィパーソンなのだ。
 「子供を育てるには、東京は不向き」
 と、君原信介(伊原剛志)喜美子(田中美里)夫婦が三人の子供を連れて、高梁の古民家に移住するのがドラマの発端。市の移住推進事業に乗ってのことだが、行けば行ったで、生活風習の違いから、おとなたちはトラブル続き、子供たちにも都会の子と地方の子の行き違いが生じる。そんなエピソードが積み重ねられるうちに、都会の子は豊かな自然になじみ、立ち入りを禁じられている山奥でターザンと遭遇する。疑心暗鬼のおとなを尻目に、子供たちの純真がターザンと互いに心を開いていく―。
 大森監督はNHK出身の名うての演出家。川中美幸の舞台公演「天空の夢」で彼女に芸術祭賞を受賞させている。その大森が念願の映画制作に乗り出したから、彼の仕事で縁を深めた俳優たちが賛同、大挙参加する賑いになった。前述の岸部、伊原、田中をはじめ、大竹まこと、川上麻衣子、石本興司らで、川中も平田満と地元の夫婦役で出演した。僕も川中の舞台2作で大森から滅法いい役を貰い、親交を深めているから、
 「およばずながら、どんな端役でも...」
 と申し出て参加するチャンスを得た。
 14日から3日間、お盆の最中は高梁で「備中たかはし松山踊り」がぶっ通しで開かれた。浴衣に島追い笠の踊り手が30人ほど組になり、それが20組もコンテストに参加する。駅前の目抜き通りを150メートルほど、細長い輪になって行きつ戻りつ。368年の伝統を誇る県下最大の盆踊りとあって、参加したのは市役所グループや地元企業の面々、大学生、長寿会、幼稚園のチームなど多士済々。14日はあいにくの雨になったが、ずぶ濡れもものともせずに品よく踊る。ごった返す見物の善男善女も、知らず知らず手を振り足を踏む踊り好きばかり。よく見れば、映画出演者の平田や川上も一心不乱だ。
 劇中、君原家の末っ子が行方不明になる。ターザンにさらわれたか...と、里の人々は山狩りまでする大騒ぎになるが、山で迷ったその子を助け、一緒にターザンが下山する。この騒動が都会一家と地元の人々の心をひとつに結びつけていくのか? 同時にターザンの身許も判明、口癖の「ケンチャンタ」に隠された意味もわかる。しかし疲れ切り、衰えたターザンはやがて死ぬ。その最期を看取る医師が、はばかりながら僕の役だ。と言っても白衣に聴診器で、ベッド傍に立ち、駆け込んで来た君原夫妻と子供たちに、
 「ご苦労さまです」
 と一言、看護師を促して病室を去るから、写っているのはほんの一分足らず...。
 僕はこの「家族の日~ターザン故郷へ帰る」の脚本を読んで、何度も目頭を熱くした。登場人物たちの心根の優しさ、温かさ。移住一家がターザンとの出会いを〝家族の日〟と思い定めるまでの葛藤と心の通わせ方に心を打たれるせいだ。
 大森さんの監督第一作に参加出来たことを、僕は大いに誇りにする。映画の公開の来春が待ち遠しいくらいだ。
週刊ミュージック・リポート
 逗子の行きつけのイタリアン・レストラン。女主人がこちらに向けて、そっと両手を合わせている。グループ客の若い娘の行儀の悪さを気にしているのだ。そう言えばさっきから、面白くもないジョークに「ガハハハ...」とバカ笑い。出て来る料理に「おいしい!」を連発、同席の誰かの冗談に、手を叩いて反応するあたり、バラエティー番組の見過ぎだろう。こちらがムッとするのは、そんな若者をたしなめることすら出来ない連れのおっさんの方で―。
 ふっと突然、水森かおりの顔を思い出す。この娘もよく笑い、楽しさを体ごと表現するタイプだが、ちゃんと〝分〟は心得ていて、たしなみのココロもわきまえている。根っから快活な性分だが、それが下町娘のほどの良さで包まれているのだ。妙なところで妙な引き合いに出して恐縮だが、先月、彼女が出演中の明治座で会ったばかりだから、ことさらにおバカとの差異が具体的だ。
 「出ちゃえばいいのに...」
 と、彼女は二度くりかえした。明治座の楽屋、入り口の柱に寄りかかり、のれんから顔を出すポーズでの小声。廊下で久しぶりに会った浅利悦子と立ち話をしている僕の背中へ、口調に少々甘えの響きがある。出番を前にした水森は、チェック柄のスカートに淡いピンクのブラウス。「人形町物語~兄と妹の人情奮闘記」(作・演出池田政之)の娘役で、芝居用だからふだんより化粧は濃いめだ。「出ちゃえばいいのに...」は、僕がこのところ舞台役者に熱中している事を知っていてのジョーク。ま、そのくらい彼女自身、日々楽しくやっている...という報告の意味もあるか。
 山川豊との共演だった。昭和39年、東京オリンピックを半年くらい後に控えた人形町が舞台。タイトルが示す通りの人情コメディーで、山川は和菓子屋の職人。真面目で不器用な青年を、いつもの口調でやるのが結構はまって面白い。水森はその妹で、啖呵売をやりながら諸国を放浪する女・車寅次郎ふう。それが人形町へ舞い戻って、兄の見合い話をぶちこわしにかかる大騒ぎ...。
 《東京オリンピックなあ、俺はその前年の夏に、取材記者に異動したんだっけ...》
 客席で僕は、芝居の時代へ立ち戻る気分になる。舞台上の人々はみんな、それぞれ一生懸命生きていて、その言動に情にからんでちぐはぐになるのが笑いを生んでいる。頑張ればきっといい事がある...と、庶民の一人々々が信じていたあのころ、ご他聞にもれず僕も、うしうしよく働いた...。
 水森がやる〝かおり〟という役は、そんな時代のおきゃんな娘で、明るくて情が濃いめで、率直な行動派...となると、彼女の地そのものではないか。
 〝ご当地ソングの女王〟と呼ばれるスターになっても、デビュー当時から彼女の人柄は少しも変わらず、一見無邪気なまま。
 《これだもの、ファンに愛されるはずだわ...》
 僕は会う都度、彼女のハグの光栄にも浴している。水森のご当地ソングの主人公は、どの曲も傷心の一人旅。その心情をわがこととして自分に引き付けるのか、それとも役柄として演じてみせるのか? と尋ねたことがある。
 「お天気レポーターの気分です」
 と、意外な答えが戻った。歌の主人公の心とたたずまいと、それを取り巻く風景とを曲ごとに、天気図みたいに俯瞰して歌うらしいのだ。そんなふうに自分と自分のやり方を、スパッと語れるのもこの人の賢さだろう。
 「そうなんだな。初めて一緒に仕事をしたけど、気くばりも細やかで、実にいい娘さんだ。彼女のそういう良さが、ちゃんと芝居にでているよ」
 共演した友人の役者・真砂京之介が、すっかりファンになったのも、うれしいことではないか!
 《それにしてもなあ...》
 我に返って僕は周囲を見回す。冒頭とは別の日、この時期の葉山のスタバは半裸の若い娘で山盛りである。それが大声のバカ話で盛り上がっている。
 8月6日、気温35度超の猛暑日は観測以来の新記録を続けている。政情は戦争とのかね合いを言い合って、不穏な日々である。不戦、非戦の誓いはどこへ行くのか? 少年期に太平洋戦争を体験した当方は広島原爆を記念するこの日、やるかたない憤懣を噛みしめている。
週刊ミュージック・リポート
 「流行歌評判屋とやらと舞台役者と、近ごろのあんたは、どっちが本業なの?」
 と聞かれることが多い。僕は迷うことなく「役者!」と答えて、相手を呆れさせる。そのうえ何と、最近もう一つの職種!? が増えた。
 「驚くなよ、とうとう演歌歌手になった。CDを出すんだ!」
 と打ち明けると、相手は大てい絶句する―。
 大阪にいる「詞屋(うたや)」というグループが作った私家盤アルバム「聴きたい歌が無いッ、自分らで歌つくってん!」の8曲のうちの1曲「だあれもいない」が僕のデビュー曲だ。「詞屋」は演出家大森青児さんが旗振りの作詞研究グループ。シナリオライターや小説家、エッセイストに大学の先生などが参加。妙に民度!? が高いのを面白がって、僕は何度か例会に顔を出していた。それが結成2年、自前のアルバムを作る怪挙!? に乗り出したから、さあ大変―。
 「監修をよろしく。それに制作も手伝ってよ」
 の、大森さんの一声で、僕は降りるに降りられなくなった。何しろ相手は作曲? 何とかします。歌手? 何とかします。編曲に録音ねえ、制作費もいるか、ま、何とかします...の無手勝流である。恐れをなしながら詞を二編引き取った。脚本家森脇京子が書いた「月ひとつ」とエッセイスト杉本浩平が書いた「だあれもいない」で、友人の田尾将実に
 「タダだけど、曲をつけてよ!」
 と、こちらもついつい乱暴になる。
 曲があがり、田尾のデモテープを聞く。熟女の心のつまづきを描いた「月ひとつ」は、ロマンチックないい曲がついていたから、
 「田尾、ついでにお前が歌えよ!」
 で、まず歌い手一人のメドをつける。問題は「だあれもいない」で、これが、
 ?さくら咲いた日、月かがやく日、訪ねて来るやつ、だあれもいない。俺が死んでも生きてていても、気にする奴は、だあれもいない...
 という独居老人の自嘲ソング。ご時世柄社会性もある! と乗ったが、終始暗い。それを
 「さて、パチンコにでも行くか、日々是好日、心配ご無用!...」
 のセリフで気分逆転する気で、
 「役者が歌うとちょうどいいんだがなァ」
 と目を泳がせたら、田尾があっさりと言った。
 「あんた役者じゃない!」
 その一言で、内心浮き浮き僕の出番が決まった。
 ちょうど作家三田完から届いた「あしたのこころだ~小沢昭一的風景を巡る」(文芸春秋刊)を読んでいたところだったから、〝決め〟のセリフを、
 「悠々自適のココロだァ!」
 とパクらせてもらう。編曲と打ち込みは若手のDeep寿に頼み、彼の自宅スタジオで歌ダビも完了...と、まあ、それなりの手際のよさだ。
 「ほかに男の歌手、女性の歌手一人ずつ、何とかなりませんか?」
 と、大森さんからまた来た難題は、
 「お前、行って来い!」
 と、名古屋在住の船橋浩二を派遣して「居酒屋〝せとうち〟商い中」(作詞槙映二)を仕上げ、女性歌手については、関西の名うてのシャンソン歌手で、後進の育成もしている出口美保に、
 「お弟子さんから一人、誰か見つくろって...」
 と、酒の肴みたいな依頼をしたら、
 「私が歌います!」
 の即協力に大感激。大森さんが作詞、作曲した「天空の夢」が出来上がった。ちなみにアルバムのジャケットは、大森夫人の千恵子さんのイラストが飾っている。
 大森さんは川中美幸公演の「天空の夢」を演出、彼女に芸術祭賞を受賞させたやり手。その公演で僕は、ひそかに「助演男優賞は俺だな」と思ったくらいに、川中と一景、差しの芝居で彼女を号泣させるとんでもないいい役を貰った。それやこれやのご縁で実現したのが、僕の歌手兼業の一幕だ。
 「しかしなあ、、80才間近かの物狂いは、止まることを知らないねえ」
 と友人たちは慨嘆、そのアルバムはどこで手に入るのか? と必ず聞く。何しろ私家盤でレコード会社関係なし。大阪あたりには口コミで出回っているらしいけど入手困難...と、僕はニヤニヤ彼らを煙に巻いている。
週刊ミュージック・リポート
 《重い!》
 一冊の本を手にして、失礼だがまず目方を感じた。長田暁二さんの新著「戦争が遺した歌」(全音楽譜出版社刊)で本文が781ページ、厚さ5センチもある大作である。明治維新から日清、日露戦争、第一次世界大戦、日支事変、太平洋戦争と戦後にいたる折り折りに歌われた軍歌、軍国歌謡が253曲、全曲メロ譜つきで語られている。
 「これら多くの歌がいかにして生まれたのか、歌は人々にどのような影響を与えたのか、現代社会が触れようとしない事実を明らかにする」
 これが本の帯に記された一文。長田さんの仕事のコンセプトが明解だ。
 《う~ん...》
 僕は音楽文化研究家を名乗るこの先輩の執念にも似た思いに触れて唸る。彼がまだキングのプロデューサー時代から、いろいろと教えられた。昭和30年代後半、こちらは駆け出し記者で、夜を徹しての酒にご相伴した翌日、
 「今朝ほどはどうも...」
 の葉書を貰い、そのタフさとこまめさに驚嘆したものだ。昭和5年生まれの85才、その人がここまでの労作、力作を世に送る知力、気力、胆力、体力に脱帽する。戦後70年の今年、この出版物が持つ意味と意義は多岐にわたって深く、重い―。
 長田さんは歌が出来た背景、歌詞の内容を解明し、彼自身の懺悔の気持ちをこめようとした。全曲につけられた解説は、詳細な事実関係を中心にエピソード綴り。声高に非戦、反戦を語りはしないが、それがかえって長田さんの思いの熱さを伝えている。
 例えば「君が代」だが、この歌の原型が生まれたのは明治3年、薩摩軍の軍楽隊を指導していたイギリス人フェントンが作曲したとある。これが西洋的で明るい曲だが歌いにくく不評で、明治13年に日本人の曲に変わり、文部省が「祝日大祭日歌詞ならびに楽譜」として制定したのが明治21年。長田さんに負けず劣らずの銃後の少国民だった僕は、国歌としてこの歌を脳裏に刷り込まれて育ったが、国歌に定められたのは平成21年で、同時に日の丸が国旗になっている。スポーツの国際試合の歌と思っている若者たちは、この歌がどんなに長い年月、どんな役割を果たし、どんな浮沈の歴史を歩んで来たかも知らぬままだろう。
 軍歌はその時々、戦う兵士を鼓舞し、送り出す人々の心情を代弁する意図で作られ、歌われて来た。ことに太平洋戦争では、
 「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」
 の精神で民意を一つにする役割を果たしている。長田さんはその結果、
 「幼児、子供、老人、女性の死傷者は、軍人、軍属よりも多い」
 ことを指摘し、そういう事実があったのに、
 「現代ではNHKをはじめ多くのマスコミは、昭和歌謡の特集はしても、軍歌、軍国歌謡は飛ばしてしまう。学校の歴史教育でも、神代や戦国時代の話は教えても、昭和以降の特に戦争中の話は触れようとしない」
 と、序文で怒りをあらわにする。当時、NHKをはじめ大手新聞社は、新しい軍歌づくりで、先を争うように戦争に協力していたのだ。
 それらの軍歌に比べれば、軍国歌謡とくくられる流行歌には、一部に嫌戦の匂いがにじむ。それよりも庶民の本音が色濃いのは「兵隊ソング・非公認の兵隊愛唱歌」で「可愛いスウチャン」「酋長の娘」「軍隊小唄」「特攻隊節」「南国土佐を後にして」の元唄などの曲名が並ぶ。そういえば僕は少年のころ、軍歌の「月月火水木金金」の
 〽朝だ夜明けだ、潮の息吹...
 から始まる歌詞を、
 〽朝だ4時半だ、弁当箱下げて、うちを出て行くおやじの姿...
 と覚えた。海軍の猛訓練には土、日曜の休みはないとする歌詞が、一日5銭の安月給のしょぼくれ親父の歌におき替えられて、作者不詳の替え歌に表わされたのが庶民の本音だろう。
 僕の部屋には同じように〝重い〟本がもう2冊ある。作詞家三佳令二の名和治良プロデューサーが編んだ韓国歌謡集「韓国の心」(イサオ商事刊)と作詞家阿久悠が27年間、高校球児の青春を追跡した「甲子園の詩」(幻戯書房刊)で、どちらも電話帳みたいな厚さの労作。僕は暑いこの夏、長田さんの本とこの2冊を身辺に置き、折りに触れて読み返すことになる。
週刊ミュージック・リポート
 歌謡ショーの一番の魅力は、結局主演者の「人間性」だと合点した。真情あふれる主人公が中心にいて、共演者がそれに共鳴する。それぞれが一流の芸の持ち主だったら、観客の反応も自然に情が濃くなる。そんな舞台を僕は6月27日昼、明治座の「音楽生活50周年記念・作曲家弦哲也の世界~我、未だ旅の途中」で体験した。
 泣くなと言っても、それは無理だろう。幕開けに「ふたり酒」を歌った川中美幸は、2コーラスめの頭で声を詰まらせた。傍らでギターを弾いていた弦も、曲終わりで眼鏡の奥を指で拭う。この曲で二人とも、長い低迷のトンネルを抜けた。いわば〝戦友〟同士、どうしても感慨は往時へ立ち戻らざるを得まい。そのうえ二人とも、涙もろさではこの社会指折りなのだ。
 引き続き水森かおりが「鳥取砂丘」石川さゆりが「天城越え」を歌う。前者では近所づきあいの娘を〝ご当地ソングの女王〟に育てて、弦が水森の父へ恩返しが出来たと語る曲。後者は作詞家吉岡治、中村一好ディレクターと一緒に、伊豆の白壁荘にこもって作ったエピソードがある。
 五木ひろしが「人生かくれんぼ」を歌えば、作曲家と歌手の向き合い方があらわになる。二人はお互いの力量を認め、敬意を払ってこの曲で対峙した。都はるみが登場すれば、彼女原案の「千年の古都」の出番だ。5年間の引退生活のあと、都の第一線復帰を飾った記念曲で、都が作品への夢を語り、弦がそれに応じた舞台裏があった。
 弦もギターを弾きながら2曲。美空ひばりの「裏窓」と石原裕次郎の「北の旅人」である。前者はひばりが伝説の東京ドームコンサートで〝奇跡の復活〟をとげた時の1曲。後者は裕次郎から静養中のハワイへ呼ばれて、レコーディングに立ち会った彼の最後の作品。弦に言わせれば「昭和の太陽」だった二人と親しく触れ合ったのは、双方とも吹き込みの何時間かだけ。だから彼の胸中には「光栄」と「痛恨」とが、今もないまざって揺れるのだ。
 歌書きには歴史があるが、世に送り出した2500を越える作品も、1曲ずつが歴史を作る。弦はショーの第一部でそれを粛々と語って進行した。曲ごとの挿話はきちんと整理されてゆるみたるみがなく、時に胸に迫る感傷は、かみしめる口調で抑制した。もともと良く響く声と、はっきりした口跡が率直で、新鮮に響く。彼の生き方にも通じたろうか? 司会の徳光和夫はそんな第一部は陰マイクで姿を見せず、アレンジャーの南郷達也がバラライカ、前田俊明がマンドリンを弾いて友情出演...。
 第二部は5人の歌手が思い思いに弦作品を歌う。徳光がジョークまじりにつないで、こちらはおなじみの歌謡ショー・スタイル。弦もずっとトークでつき合い、そんな中でも彼について、
 「歌手兼作曲者だから、歌いやすいメロディーなのが特色」(五木ひろし)
 「長所? 優しさ。欠点? 暗さかな、あはは...」(都はるみ)
 なんて話が飛び出す。都は弦夫人で〝弦ママ〟と呼ばれる二三子さんと親交があり、二人の意見はその辺で一致しているという。
 僕はこの日、第一部だけで弦の〝ひとと仕事〟を十分に堪能した。大仰な舞台装置はなく、曲ごとにふさわしい映像が多彩で、弦と歌手の2ショットが挿入されたのがほほえましい。それやこれやで浮かび上がったのは弦のひととなりと情熱の歴史で、福屋菊雄の構成・演出がスマートにコンセプトを形にした。
 大詰めで弦は記念曲の「犬吠埼~おれの故郷」と「我、未だ旅の途中」を歌った。前者は彼が作詞、五木が作曲、ジャケットのタイトルを川中が書いた友情作品。後者は息子の武也が作詞した親子合作。弦の歌声は一途にめいっぱいで、不発に終わった田村進二時代などはるかな昔...の説得力を示した。彼は達成感の涙でフィナーレを飾り、川中はもうハンカチを眼に当てっぱなしになった。
 僕は一階正面17列17番の席で一部始終を目撃、目頭を熱くした。後ろの席にいた弦の父親正一郎さんもまた涙、弦ママも劇場のどこかで泣いたろう。14才で故郷・銚子を離れた弦は、心技体充実の67才。立派に親孝行も果たしたことになる。
週刊ミュージック・リポート
 「東京大衆歌謡楽団」というグループ名にまず引っ掛かった。公式デビューが「昭和九〇年六月一七日」というのも曰くありげだ。同名のアルバムの副題が「街角の心」で、収められているのが「東京ラプソディ」「一杯のコーヒーから」「緑の地平線」「誰か故郷を想わざる」と来るから、
 《何を考えてんだ、一体?》
 という疑念がわく。兄弟3人が歌う懐メロとは判るが、それにしても古過ぎる。昨今、懐メロと呼ばれるのはせいぜい、春日八郎、三橋美智也、フランク永井らの昭和30年から40年代もの。それでも古~い! と眉をひそめて、若者たちが名指すのは、もう吉田拓郎や井上陽水あたりだ。そこで―。
 彼らのデビューお披露目演奏会というのを見に行く。6月15日夜、銀座のビアホール〝ライオン〟の5階ホール。詰めかけたのはメディア中心の歌社会の人々で、年配の人が多めなのは、僕と似たような気分のせいか?
 「ふむ...」
 僕は相当な昔々にタイムスリップする。何しろ彼らが歌う「東京ラプソディ」が世に出たのは昭和11年だから僕と同い年。「二人は若い」「緑の地平線」となるとその前年の作品で、知ってはいるし歌えるが、それは戦後に流行りなおしたせい。歌謡少年だった僕がリアルタイムで体験したのは「長崎のザボン売り」(22年)「白い花の咲く頃」(25年)「上海帰りのリル」(26年)あたり以降だ。
 ボーカルの長兄髙島孝太郎が、そんな古い歌にとりつかれたのは、富山のおばあちゃんがよく聞いていたレコードからだという。
 《「誰か故郷を想わざる」は、おばあちゃん譲りか》
 僕は憮然とする。この歌が生まれた昭和15年、古賀政男のメロディーがむずかし過ぎると歌手霧島昇は気乗り薄だった。それなのに太平洋戦争に従軍した兵士たちが外地で大歓迎、あわてた霧島が歌うようになったという昔話を、誰かに聞いたことがある。その兵士と富山のおばあちゃんが、ごっちゃになってしまうではないか!
 元歌は霧島に藤山一郎、楠木繁夫、小畑実、津村謙らが歌っている。今思い返せば朗々と、みな折目正しい歌唱だった。驚いたことに孝太郎の歌は、発声も歌い回しも彼らそっくりで、昔の音楽学校出身者の律気さを持つ。髪型、ファッションも含めて連想したのは岡本敦郎である。若いころバンドをやっていたと言うのに、そんな唱法をどこで身につけたかと尋ねたら「モンゴルのホーミーを研究した」が答えだから、また驚いた。
 アコーディオン担当の二男雄次郎、ウッドベース担当の三男龍三郎も口を揃えたが、彼らがそんな古い歌を覚えたのは、レコードを聞き込んでのこと。最近はCDの復刻盤が出ているが、以前は古いレコードで値が張って苦労したと笑いながら「2000曲は聞いたかな」とあっさり言った。
 とことん昭和にこだわるから、CD発売の今年が「昭和九〇年」楽団結成は「八四年」だから6年前になる。浅草や巣鴨の街頭で歌い、年寄りに支持されて地方へも出かけ、その話題がテレビやラジオで取り上げられて今回の公式デビューにこぎつけた。仕事先のリハビリセンターで出会った長嶋茂雄氏が「スポーツ以外でこんなに感動したことはない」とコメントしているのも話のタネだ。
 《さて...》
 と僕は会場で腕組みをする。僕個人は大いに面白がり、昔を思い返して感慨ひとしおだったが、今の若者たちにこれが通じるのかどうか。勧進元のコロムビアは「今歌う、忘れかけた心を照らす歌」を惹句に「昭和には、日本人の心にやすらぎがあった、希望や夢があった。それを今に伝えたい」と力んではいるのだが...。
 お披露目会で出会った同業の最長老は長田暁二さん。この人は昭和の歌の生字引きだから支持層の幅はどのくらいになるかしら? と聞いたら、
 「ま、団塊の世代以上かな」
 が御託宣だった。だとすれば少数派突破が彼らの命題になろうが、確かにこんなささくれだってキナ臭い時代だもの、僕ら年寄りにホッと一息つかせるのもまた、大事な仕事ではないか! と、僕は鵜呑みにした。
週刊ミュージック・リポート
 ラトビア、バルト3国の一つ、ソ連から独立して「百万本のバラ」を生んだ国...と、その程度のことは思い浮かぶ。それに歌手加藤登紀子の笑顔がダブるが、世界地図の中でここ! と、明確に指させる自信はない。そんな国で生まれたこの歌を、加藤は彼女の50周年記念コンサートのテーマに据えた。6月14日夕、NHKホールで歌った彼女は、ラトビアから初来日したリエパーヤ交響楽団21人と共感を共有した。
 貧しい絵かきが女優に恋をして、町中のバラを買いしめ、広場をそれで埋め尽くす。それを見た女優は、どこかの金持ちのいたずらかと思う。絵かきが小さな家もキャンバスも売り払っていることを、彼女は知らない。二人の出会いはただそれだけで終わるが、絵かきの青年には、尊い思い出が残った―。
 黒沢歩と加藤が訳詞した「百万本のバラ」の要旨だが、加藤はこれに原語の歌とナレーションを加えて「百万本のバラ物語」とし、コンサートの最後に歌った。ラトビアで子守唄として生まれた歌が、国がソ連に併合されるとロシア語の絵かきの歌に変わった。ソ連とドイツの戦場になるなど、大国間の利害に翻弄され続け、大きな犠牲を払った小国が、やがて独立をかちとるまでの「歴史」と「運命」が、この歌の背後にある。
 同時にこの歌には、抑圧と闘った人たちの平和への「祈り」と「愛」が託されており、加藤はそれを広く大きく歌い伝えていこうとする。プログラムに彼女が書くように「国境線は国を分けるのではなく、繋げるためにある」ことを訴え続けるのがその真意か。
 交響楽団との協演のせいもあろう。いつもと違って彼女の歌は〝張り歌〟に終始する。二つの原語の歌唱に三つめの日本語詞を加えて、高音の響きが劇的にたかぶる。この夜の彼女の昂揚の気配が濃い。中、低音は例によって、ひび割れ加減の声味が、この人らしい存在感をにじませる。トーク部分は淡々と穏やかで、そんな要素が絡み合うドラマを、ラトビアの人々の音楽が包み込み、下支えをし、客席へ浸透させた。
 《結局この人は50年の歌手生活で、加藤登紀子というジャンルを興したのだな》
 と客席で僕は合点する。シャンソンコンクールで優勝してプロになり、歌謡曲でスタートした。アンコールで歌った「知床旅情」をはじめ、日本のいい歌の再発掘もした。「時には昔の話を」から「難破船」「愛を耕すものたちよ」などは、その時々に歌で発言したシンガーソングライターとしての成果。「百万本のバラ」に代表されるのは、世界各国で見つけたいい作品の伝承で、この半世紀の渡航先はプログラムのA4版2ページ見開きにぎっしり。こんなに世界中を歩いた歌手は他にいるだろうか?
 そしてシャンソンに回帰すれば「愛しかない」「愛の讃歌」である。どの国の歌も全部、彼女が日本語の詞を書き、歌い直している。選曲から意訳、訳詞までに、彼女の精神が反映され続けた50年。客席の常連は長い間彼女の歌から、加藤の生き方、戦い方に、手記やエッセーでも読むような心地で接して来た。高校時代の60年安保、歌手になっての70年安保闘争中のあれこれ、全学連指導者との獄中婚、出産、夫君との農園開拓と彼の死別しての継承...と、ざっと書いただけでも、その半生は波乱に満ちている。
 そんな加藤も71才になった。柔和な笑顔でジョークをまじえながら、コンサートを進めた彼女には、それなりの円熟がある。戦う意思をあらわに口にすることはなかったが、物議をかもした「はだしのゲン」の「広島愛の川」を歌い「青いこいのぼりと白いカーネーション」では、東北大震災への彼女のかかわり方を歌った。聡明な熟年女性の芯にある、強い意思のあらわれだったろうか。
 6月5日、埼玉・越谷からスタートした記念コンサートは、この夜、7回目のNHKホールが最後になった。翌日はラトビアから来た交響楽団の面々が帰国するという。コンサートの最後、客席総立ちの喝采を受ける加藤の表情には、いくぶんかの感傷と大きめの達成感の気配が、いつになくありありなのがほほえましかった。
週刊ミュージック・リポート
 「昔々、地球の生き物が二手に分かれた。陸で生きることにした面々が人間になり、海で生きる気になったのがイルカになったんだ」
 作詞家星野哲郎が酔余、そんな話をしたことがある。温顔を笑いでしわしわさせながら、続きがあって、
 「ところがさ、海で生きるつもりだったのに、間違えて陸に上がっちまった奴がいる。その人間たちはどうしたと思う?」
 僕らの顔を見回してひと呼吸、いい間(ま)をおいて彼は結論を言う。
 「潮鳴りに呼ばれるようにさ、海に集まって漁師になったんだよ」―。
 北海道・鹿部はそんな〝勘違い族〟の棲み栖である。函館から車で小一時間、川汲(かっくみ)峠を越え噴火湾沿いに北上したところにある漁師町。星野哲郎は昭和61年から平成18年までの毎夏、21年間ここへ通った。払暁、漁師たちと定置網漁に出、豊漁で帰港すれば番屋の朝食。いかそうめんだのマンボウの肝和えだの、ばばがれいの煮つけだのと、とれとれの海の幸に舌つづみを打って、昼前からはゴルフ・コンペ、プレーが終われば車座の酒になる。
 「僕はこの町へ、潮気を満たすために来る。もともと船乗りだった僕から潮気が失せたら、これ以上の恥はないからね」
 そう言って星野は、鹿部の人々の素朴だが熱い情に触れ〝海の詩人〟のおさらいをしたものだ。
 星野の没後5年、驚くべきことに「星野哲郎ぶらり旅」は、今も引き続き行なわれている。6月8日からの2泊3日、作詞家里村龍一、作曲家岡千秋と一緒に、僕もいつも通りに参加した。去年からの飛び入りは花屋マル源の鈴木照義社長。出迎えてくれるのは、旅の招へい元として一切合財を取り仕切る地元の有力者道場水産の道場登社長夫妻、何くれとない気遣いの息子の真一専務、受け入れの指揮をする新栄建設岩井光雄会長と、信用金庫の伊藤新吉理事長らおなじみの面々。僕らが「ただ今!」の気分なら、彼らは「お帰り!」の笑顔なのだ。天候の都合で海には出なかったが、その代わりみたいなゴルフ三昧と満腹の海の幸に昼夜をわかたぬ酒。お返しは岡の弾き語り10数曲と、里村の爆笑もの「新・日本むかし話」...。
 《それにしても...》
 と、僕は感じ入る。星野が逝って来年の秋はもう7回忌である。親族はともかく、近隣の親しい人々でも忘れがちになる年月なのに、鹿部の人たちはどうだ。〝ぶらり旅〟の名称までそのままで7回忌イベントも、
 「この町でやろうか!」
 と、道場社長が真顔で言いだす。彼の75才の誕生日をみんなで祝って、コンペの名称こそその記念になったが、集まった人々は星野ツアーとほとんど同じ。先生はああだった、こうだったと、星野談義に花が咲くし、カラオケで歌うのは「兄弟船」や地元にネタを取った「すけそう大漁節」などの星野作品で「海峡の春」の
 〽漁師に生まれてよかったね...
 なんか、みんなのテーマソングみたいに声を合わせる。漁師のカラオケは〝ド〟がつくくらいの演歌一点張りだ。
 道場社長は〝たらこのおやじ〟の異名で、このコラムでもおなじみ。星野が鹿部詣でが出来なくなった晩年から、
 「おめぇら、先生の名代で来てくれや」
 と少年みたいな眼で僕らを誘い、今日まで手厚いもてなしが続いている。星野のお供で世話になって以来、僕のお呼ばれももう21年めだ。社長は最近体調不良でゴルフこそお休みだが、酒の方は相変わらず。悪童連の連日のゴルフを酒で見送り出迎えし、夜っぴての酒宴は席の真ん中に納まって、周囲の賑いを肴にグビリ、グビリ。乞われれば十八番の「さざんかの宿」と「骨まで愛して」を、たらこ流に絶唱する。そのたたずまいは、ありし日の星野との交歓そのまま。〝情の詩人〟星野は、そんな鹿部の人々の濃いめの情がたまらなく嬉しかったのだとよく判る。
 僕は今回の旅で、初体験を二つもやった。一つは与えられた部屋で何とロイヤル・スイート。以前、韓国のノテウ大統領が、引退後によくやって来て長逗留した豪華版だ。もう一つはゴルフコンペでの出来ごと。116も大叩きをし、ハンデを33・6ももらったのにブービー賞である。ちなみに参加者44名の最年長らしいが、幾つになっても〝初〟が残っていることは、捨てたものじゃない。
週刊ミュージック・リポート
 鍵の手にカウンターがある。足許は掘り炬燵ふう。そこへ暖簾の向こう側からふらりと僕。紺の浴衣で手拭いなど肩に、湯あがりのテイだ。
 「やあ、やあ」「どうも、どうも...」
 と出迎えるのは作詞家荒木とよひさと、常連の「スーさん」こと岐阜新聞と岐阜放送の会長杉山幹夫氏。聞けば90才を越したご仁だが矍鑠を絵に描いた若々しさ。それにもう一人「オカちゃん」はラジオ、テレビのパーソナリティーを兼ねた文筆家オカダミノル氏だ。
 僕の紹介はおおむね済んでいて、くつろいだ雰囲気の中で、いきなり雑談が始まる。荒木と僕の出会いから、長い交友のあれこれ。お互いの仕事への認識は、双方笑いをまじえてのヨイショごっこだ。
 「女心ソングを書かせたら当代随一。そう言い切ったら亡くなった吉岡治から、それじゃ俺はどうなるの...と苦情が来て...」
 などと言うと、スーさんが嬉しそうに笑う。
 岐阜テレビの「荒木とよひさの男の湯や番」という30分番組のビデオ撮り。荒木の庵にゲストが遊びに来て、一ぱいやりながらトークという形式で、5月25日収録分に僕が呼ばれた。徳利と杯と手料理が出ていて、ホストの荒木の分は実は水だが、僕の徳利には本物を頼んだ。台本もなしの気安さだから、僕はついつい〝その気〟になる。
 「カメリハやります」
 と、石原靖紘ディレクターが言って、いきなりそこは「座右の銘曲」というコーナー。毎回ゲストが思い出の一曲を披露するとかで、僕は「夜露のブルース」だ。荒木のギターで歌うのだが、1コーラスのはずが「いいじゃないか!」で2コーラスに増えた。テレビに出て歌うなんてことは初体験だが、そう言えば巷でこれを歌うと、死んだ三木たかしが、
 「ビブラートが強すぎる!」
 と、眉をしかめたことを思い出した。
 その後、番組そのものがいつ始まって、いつ終わったのかも定かではないやりとり。
 「荒木先生が緊張するのを初めて見ました」
 と、ディレクターが面白がったから、いつもとは一風変わった内容に仕上がったということか。軽い打ち上げは若宮町の割烹「はやさか」で、長良川の鮎など馳走になりながら、芋焼酎をグビリグビリ。映画監督でもある荒木が
 「あんたにはその顔、雰囲気のまんま、徹底したワルをやらせてみたい」
 などと言い出すから、
 「あと1年ちょっとで80才になっちまうから、早いとこ頼むよ」
 と、僕はしっかり念を押した。
 《うむ、山の風もいいもんだな...》
 一夜明けて、金華山を見上げながら、僕はそう思う。用意された岐阜グランドホテルの角部屋の一室は、何とセミスイート。斉藤道三が作ったという城を頂上にいただいた山の緑が、窓いっぱいに迫って溢れんばかりだ。日ごろは眼下の海と向き合う湘南葉山ぐらし。潮の香りと海風に慣れ親しんで、
 「これなら103才までは生き延びそうだ」
 と、冗談の寿命に3年分加算している。それに山の風の爽やかさを加えたら、一体幾つまで生きることになるやら。何しろ岐阜はつれあいの在所で、金華山のふもとにもう一つ住み家がある。
 のんびり旅気分も実はそこまでで、26日夜は岐阜から東京を通り越して埼玉の寄居へ入った。新幹線を熊谷で降りて秩父鉄道で寄居へ。一時間に2本しかない鈍行に揺られて行くと、窓外の闇がやたらに深い。辿りついたホテルは珍しく和室で、
 「ビジネスホテルにつき、寝具のあげおろしはいたしません」
 と来た。すごすごと布団を敷き、翌朝はシャクにさわるが、また布団を押入れに収めた。
 岐阜テレビ提供のセミスイートから、自腹の安宿へのあまりの格落ちに苦笑しながら、27日は真夏日、美里ゴルフ倶楽部の「演歌杯」コンペに参加する。〝虚匠〟坂口照幸がOUT45、IN41、HD16・80で優勝、相好崩しっぱなしなのを目撃、
 《ま、こっちもこれでいい旅だった》
 ということにする。僕も久々に100を切った。
週刊ミュージック・リポート
 《コンサートもこうなると、相当な力仕事だ》
 5月20日夜、渋谷公会堂で中村美律子を観て、つくづくそう思った。一部が歌謡浪曲の3本立てで「壺坂情話」が16分「浪花しぐれ」が14分「瞼の母」が19分である。浪曲はふつう演壇に立っての一人語りだが、この夜の中村は複数の登場人物になるから、セリフの部分で立ち位置が変わり、それらしく動く。舞台そでに引っ込み、また出て来たりするし、「浪花しぐれ」の春団治では、落語までやった。
 ステージは照明が変わるだけの、全くの一人舞台。演しものが終わるごとに緞帳が降りて、その間に彼女は衣装を変える。客の僕らはそんな隙き間を荒木おさむの短い漫談で笑っていればいいのだが、中村はきっと、舞台裏を走っていたろう。そのあとの二部で彼女は10曲ほど歌い、この内容で昼夜の2回公演である。終演後に会ったら、
 「もう、体がヘロヘロ...」
 と本人が笑った。それはそうだろう、年だってもうそう若くはない。
 《芸が身を助けるのだ》
 とも思った。少女のころから櫓の上で「河内音頭」を歌い、娘時代は無名のままキャバレー回り、大阪ではちょっとした顔になったが、春日百合子に師事、浪曲を勉強したのも生活のためで、これなら年をとっても舞台に立てるという胸算用があった。チャンスに恵まれて全国区の歌手になった遅咲き。来年が歌手生活30周年だが、歌手活動となると
 「もう50年になるか?」
 と聞いたら、
 「それよりは、ちょっと短い」
 とテレて、中村はまた笑った。
 歌手たちが近ごろ、よく歌謡浪曲をやる。長尺物を頑張れば力量を誇示できる妙があってのこと。二葉百合子に弟子入りして勉強する人気歌手も多い。そこへ行くと中村には、叩き上げの強味があって、ものが一味違う。客もよく知っていて「待ってました!」「日本一!」などと、それらしい掛け声で大いに楽しむ気配だ。そういえば中村の演歌は、主人公になりすまして心情を訴えるよりも、歌一曲を物語と捉える第三者ふうな視点の、語り方が魅力だろうか。
 二部に「夜もすがら踊る石松」と「下津井・お滝・まだかな橋」が出て来た。ステージで中村がいきなり僕の名前を挙げたから驚いたが、彼女の20周年記念で僕がプロデュースしたアルバム「野郎たちの詩」に収められていた2曲だ。
 「石松を書いてよ」
 と注文したら阿久悠が、
 「俺がかい?」
 と目をむいたのが「夜もすがら...」で、作曲は杉本眞人に頼んでラップふうにした。「下津井...」は競艇三昧だった喜多條忠に、
 「作詞家としちゃ、まだ賞味期限が切れてないから、また歌を書こう」
 と乱暴なことを言って、この世界に引き戻した一曲で、弦哲也が味な曲をつけた。アルバムの狙いそのものが、彼女の〝語り部〟としての魅力を強調した作品郡。発表して間もなく中村が、東芝EMIからキングに移籍したため、宙ぶらりんになったアルバムだが、
《ま、企画としちゃ的を射ていたかな》
 というのが、10年後のこの夜の再確認になった。
 中村の新曲は「潮騒」である。2月に出来たてのほやほやを聞いた時、
 《ン?》
 と胸を突かれた記憶があった。久仁京介の詞の三番のフレーズ、
 ?月の岬の灯台よ、恋の闇路を照らしておくれ...
 あたりに色濃かったが、
 《これは美空ひばり、ことに「みだれ髪」のオマージュではないか!》
 という思いつき。
 この夜、居合わせた久仁にそう尋ねたら、
 「いや、そんなことは考えなかった」
 と答えた。ところが作曲した徳久広司は、わが意を得たり! の笑顔で、
 「その通り、あれはそういうオマージュそのものですよ」
 と肯定した。アレンジの南郷達也も「そう、そう!」と言わんばかり。三人がしっかりいい仕事をしている作品なのだ。
 中村美律子のコンサートの一夜、僕は彼女の歌謡浪曲を堪能し、10年前の旧作に出っくわし、歌一つから感じ取った歌書きの胸中を確認した。何とまあ、収穫の多い数時間だったことか!
週刊ミュージック・リポート

あえて蛮勇を!こんな時代だもの

 シングルCDは、2、3万枚売れれば上出来なのが、演歌・歌謡曲の現状だそうな。「それなら、とんでもない企画で挑戦したら...」と、僕は制作陣に言う。ケタはずれな歌でも、歌手たちがそこそこの数字は稼ぐだろう。市況を逆手に何でもアリの精神。意表をつく驚きや刺激性が、世間の目を引きつけ、次の企画の幅を広げる。肝要なのは「アッと言わせる」斬新さとそれなりの完成度。問題はコケた時の責任だが、それを回避しては、風穴は開かない。あえて蛮勇を!世の中モノ次第だぜ!

哀愁...日本海

哀愁...日本海

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
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 椎名佐千子の師匠鈴木淳は、歌謡曲で一家をなした人。淀みのないきれいなメロディーで、盛り込まれる情感は、結果大づかみだ。
 近ごろ歌謡曲づくりに熱心なのが岡千秋。そのメロディーには大てい、アタックの強い個所があって、演歌の匂いを残す。この差異の源はおそらく、両者の生まれや育ちにまでさかのぼれる。美意識と生活感の違いだ。鈴木作品に慣れた椎名が岡作品を歌った。同じ歌謡曲でも、一味違う仕上がり。キモは「寒い、寒い、寒い...」の突き方といなし方。歌い伸ばす語尾の、情感を濃くできるかどうかだ。

花火師かたぎ

花火師かたぎ

作詞:もず唱平
作曲:船村徹
唄:鏡五郎
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 そりゃあ鏡五郎の歌にも気合が入るはずだ。もともと彼は古い船村徹門下生。それがずいぶん久しぶりに、師匠から声がかかった。スタジオで、武者ぶるいをしたかも知れない。
 それがありありなのは、歌い出しの歌詞1行分と、歌い納めの「花火師かたぎ...」の歌唱。ここで鏡は、熟年の自分の気概と花火師のそれとを重ね合わせた気配がある。
 もず唱平の詞5行3コーラスの随所に、船村メロディー"らしさ"が顔を出す。それを鏡の歌がていねいに辿る。演技派ふうに何でもござれの彼の歌が、今回は珍しく生一本になった。

秘恋(ひれん)

秘恋(ひれん)

作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:原田悠里
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 月光も舞う雪も川を行く船も「ひそかに、ひそかに...」でゆったりめの演歌ワルツ。石原信一の詞の1番と3番、岡千秋の曲と原田悠里の歌がいかにもいかにもだ。なつかしさの中でふと気づく。これは石本美由起・船村徹・ちあきなおみの「さだめ川」のオマージュか!

母恋い三度笠

母恋い三度笠

作詞:水木れいじ
作曲:宮下健治
唄:三笠優子
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 氷川きよしが歌ってもいい三度笠ものを、三笠優子でやる。「母恋い...」とテーマを限定した分だけ、三笠のベテランの味とそれに、少々の齟齬が生じた。昨今、CDの売り上げが低迷、なかなか突破できない市況に、どうせなら...と居直った企画の一つだろうか。

涙の花舞台

涙の花舞台

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:
北島三郎
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 歌い納めの「最後の花舞台...」あたりに曲、歌ともに万感がこもり、長期公演を卒業した北島の心境を聞く思いがする。作詞も原譲二の名で本人がして、「感傷」を「感慨」に高めようとし、歌も突き放し、また抱き込んで微妙。編曲丸山雅仁が花舞台を目に見せた。

夢の隣り

夢の隣り

坂口照幸
作曲:弦哲也
唄:前川清
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 もう寂しい心の旅には出ない。あなたの夢の隣りで生きる...という意の、歌い納め2行分の歌詞が結論。そこまでのあれこれを9行分、坂口照幸の詞と弦哲也の曲が積み重ねる。前川清の歌の野放図さと粘着力、独特の持ち前を生かす作戦だろう。

東京坂道物語

東京坂道物語

作詞:さとうしろう
作曲:弦哲也
唄:清水博正
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 清水博正が"その気"になると、歌がうねって小節ころころ、独特である。それを歌い出しの歌詞2行分で存分にさせ、後半は硬派ふうに、率直に歌い上げさせた道中もの仕立て。そのさじ加減の妙と、さとうしろうの詞の、坂づくしのアイデアが面白かった。

紫陽花しぐれ

紫陽花しぐれ

作詞:のせよしあき
作曲:花笠薫
唄:千葉一夫
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 逢瀬ひとときの思い出を、あれこれ一途に言い募る歌詞はのせよしあき。それを意に関せずとばかり、歌い回す曲に乗せたのが花笠薫。ミスマッチみたいに、寄り添い損なう二つの要素を、間に入った千葉一夫がこれまた彼流の歌で、スタスタと歌った。う~む...。

忘れ雪

忘れ雪

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里
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 雪景色の中の別れを、女の側から思いつめて語るのは仁井谷俊也の詞。ニヤニヤしながら、徳久広司がそれにムード歌謡ふうな曲をつけた。面白がってか丸山雅仁のアレンジは、サックスがリードしていかにもそれらしい。歌の野中は自分らしさづくりに大忙しだ。

ROSE

ROSE

作詞:田久保真見
作曲:花岡優平
唄:秋元順子
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 愛は光だと言い、闇だとも言う。心を照らすし、手さぐりを強いる。田久保真見のそんな所見が歌い出しの歌詞4行分。そこから各論に入るから、花岡優平の曲も説得に軸足が行ったか?詞先か曲先か、おそらくは...の世界を、秋元順子の歌が彼女なりに辿った。

MC音楽センター
 東日本大震災から4年2カ月余、仮設住宅を出て新天地を求めた家族は、まだ全体の4割前後。仙台の仮住まいに残るのは、東北各地で被災した人々だが、あの日、どこに居て、どんなことを体験し、何を失ったかなどを、このごろ少しずつ話せるようになったと言う。抱いている心の傷はなかなか口に出せず、お互いがそれをおもんばかって、聞くことも避けて来た。そんな壁をわずかにせよ越える気運が生まれたのは、あれからの年月と、新しく生まれた人間関係があってのこと―。
 5月9日、JR仙台駅近くのシルバーセンターに、大勢の人が集まった。「仮設住宅住民交流会」である。市内にある八つの住宅の人々が、初めて横のつながりを持っての第一回。そのきっかけになったのが、高橋樺子という新人歌手と「がんばれ援歌」という歌。この日も集まった人々が、高橋を中心にこの歌で踊り、大合唱した。
 「がんばれ援歌」は3・11の直後、作詞家もず唱平が発案、仲間の荒木とよひさ、作曲の三山敏、岡千秋が応じて即座に作った。
 ?負けたらあかんで、がんばろう、西日本(にし)の空から、がんばれ援歌...
 というフレーズが2番にある。阪神淡路大震災を体験した関西からの応援歌で、楽曲のすべての権利が支援の寄金にされている。
 この曲をレコーディングした高橋は、出来たてほやほやを持って被災地へ駆けつけた。同行したのはもずの秘書で高橋のマネジャー格の保田ゆうこ。今回の仙台行きで29回目だそうだが、二人はその都度仮設住宅に泊めてもらって、被災した人々と親交を深めた。人気者の慰問ではなく、いわば共生型の支援が、仮設の人々の心に届いたのだろう。彼女ら二人はいつか、応援する身が応援される立場になり、高橋の第二作「そんなに昔のことじゃない」の東京での発表会には、仮設の人々がバスを連ねて駆けつけたこともある。
 「俺も見に行くよ」
 4月中旬のこと、三越劇場へ僕が出た芝居「居酒屋お夏」(名取裕子主演)を見に来たもずと一杯やった夜に、仙台へ同行する約束をした。もずの強い社会的関心と実行力の、現場の一つを目撃する心算。
 「本当でっか?」
 喜んだもずは、その場で秘書の保田に連絡を取る。仙台イベントは5月9日である。その前夜に僕は帝国ホテルで三木たかしの七回忌の会を仕切って品川泊。仙台日帰りをやった翌10日には、三木の身内の法要で浅草の安昌寺に行き、会食を中座して友人・新田晃也の歌手活動50周年リサイタルでなかのゼロホールへ...というスケジュール。年寄りには相当ハードな三日間だが、
 《義を見てせざるは何とやらと言うしな...》
 もずとの約束は酒の勢いも手伝っていた。
 仮設住宅住民交流会は、盛り沢山のイベントだった。まず八つの仮設の代表が、この四年間と身内(!!)の高橋樺子について語るのが第一部。お次が各仮設ののど自慢が出揃うカラオケ大会。これは作曲家三山敏、もずと一緒に僕も審査を手伝った。交流の実を挙げる趣旨で、別にコンテストではないから、三人三様に出場者をほめ倒すと、これが受けた。第三部は各仮設のグループが「がんばれ援歌」の踊りや元気ダンス、「花は咲く」ほかのコーラスなどで、日ごろの鍛錬のほどを競う。大阪から参加した日本民踊協会の面々は「西馬音内盆踊り」だ。四部が高橋のオンステージで、ヒロシマに材を取った新曲「母さん生きて」を含めて7曲。おしまいが会場を移して、仮設の人々の懇談会!
 午後1時に始まって、ゆうに6時間を越える長時間イベントだったが、会場にあふれたのは満面の笑みと盛んな掛け声やヤジ、高橋を娘や妹に見立てた「ハナちゃん!」の連呼。僕は仮設の善男善女が取り戻した、ひとときの開放感とそれを楽しむ明るさに、感慨ひとしおだったが、シルバーセンターはその性格上、缶ビールさえご法度なのがシャクのタネ。祭りにはアルコールがつきものだろうに!
 歌手高橋を僕は「カバコ!」と呼んで親しい。名前の樺子がそう読めるニックネーム。赤ポロシャツ、白ズボンのこの「災害支援型歌のお姉ちゃん」は、大阪の人なのに東北が育てた不思議な縁の歌い手として、やがて脚光を浴びることになるだろう。
週刊ミュージック・リポート
 山あいに名残りのサクラの花が白く、田園風景のあちこちには、ヤシオツツジの赤やピンクが咲き始めた。野原には、だいこんの花の紫が群れ、家々の庭には草花が色とりどりで、街道には樹齢300余年の杉並木...。栃木・日光市今市は春らんまんの季節で、4月27日は気温28度、真夏日の陽差しが降り注いだ。
 「ここまでいい天気にならなくてもなあ...」
 この日、そんな故郷にオープンした「船村徹記念館」に現れた船村は、
 「生きてるうちに作るのは勘弁してほしいと言ったんだが...」
 と、眼をしばたたかせてしきりに照れた。
 「立派なものが出来ましたねえ」
 東京から駆けつけた歌謡界の首脳たちが、一様に口を揃える。鉄筋コンクリート3階建て、日光街道に面した市街地の再開発、2800平方メートルの敷地に市が作った「道の駅日光・ニコニコ本陣」のランドマークが記念館の位置づけだ。昭和、平成を代表する作曲家の「人と仕事と仲間、歌、夢、志」5000曲余のすべてが凝縮して展示されている。
 「びっくりしました。相当な迫力です」
 これも来賓が異口同音になったのは、いわば玄関展示の「夢劇場」で、巨大な3D映像仕立て。船村の歌心を育てた栃木の四季の景観から始まって、立体の北島三郎、ちあきなおみ、島倉千代子、大月みやこ、鳥羽一郎、美空ひばりらが船村の代表作を歌う。曲ごとに架空の舞台が変化、雪やサクラ吹雪、荒波などが観客に舞いかかる仕組み。「みだれ髪」を歌い終わったひばりは不死鳥と化すが、それが客席へ突入するから、客は声をあげてのけぞったりする。通底音として流れるのは「別れの一本杉」のメロディーで、船村作品が栃木から日本にひろがり、やがて外国人たちの合唱で世界各国を満たしていくさまが具体的だ。
 記念館の位置づけもあってのことだが、俗に言う資料館とは趣きを異にして、コンセプトは〝船村ワールドの体感〟と〝上質な娯楽性〟「歌の万華鏡」というブースは、船村作品のイメージ映像が、観客をぐるりと取り巻く円型劇場ふう。「風雪ながれ旅」「王将」「女の港」「おんなの宿」「海の祈り」などが、趣向を凝らした迫力画面でつづられている。〝体感型〟のもう一つの呼びものは「歌道場」と名づけたカラオケ施設3室で、その中の大きめのスペースでは、船村のコンサートに同行する仲間たちバンドの演奏をバックに歌えるうえ、DVDに焼いてお持ち帰りOK。ギターの名手斎藤功ら一流ミュージシャンを従えて歌う光景は、ファンの一人々々が北島三郎や美空ひばりと入れ替わってのスター気分だ。
 壁面には、船村作品600枚余のジャケット写真、ゆかりの歌手たち30人の手型などが並び、船村インタビューや演歌巡礼コンサート映像などで肉声が聞けるブースがあれば、年譜は生涯の友の作詞家高野公男のものと並んでいる。「別れの一本杉」でブレークしたコンビは、高野26才の死の別れだったが、その時船村は24才。今回の記念館オープンは、その高野の没後60周年に当たる。これも不思議な符合だろうか。
 オープニングに駆けつけたのは、北島、鳥羽、大月らに舟木一夫、森サカエ、由紀さおり、瀬川瑛子、松原のぶえ、増位山太志郎ら。作曲家協会の叶弦大会長、弦哲也理事長、作詩家協会喜多條忠会長、久仁京介副会長や日本音楽著作権協会の都倉俊一会長にレコード各社の社長や制作責任者、大手プロダクションの社長らも顔を揃えて、歌謡界そのものが東京から日光へ大移動したおもむきがある。そんな騒動を目撃しようと、早朝からつめかけたファンは3000人、市の関係者は、
 「こんなことは、市はじまって以来です」
 と驚嘆の声をもらした。翌28日は、記念館からニコニコ動画「JASRACちゃんねる」で2時間近くの生放送をインターネットにアップ。船村を囲んで鳥羽を筆頭に静太郎、天草二郎、走裕介と内弟子育ちの歌手が歌う名曲の数々...。
 準備から完成まで4年余、そのすべてを指揮した船村夫人の福田佳子喜怒哀楽社社長をはじめ、根気強く夢を形にしたスタッフ、当日を取り仕切ったメーカー各社のプロデューサーやOB、宣伝マンなど船村チームの面々も感慨深かげ。はばかりながら僕も4年間、その一員だった。
週刊ミュージック・リポート
〽こんな名もない三流歌手の、何がおまえを熱くする...
 そんな歌い出しの「友情」と言う歌が好きだった。歌っているのが無名の歌手だから、ことさらにグサッと来た。新田晃也という奴の自作自演。15才で故郷を離れた男の、歌だけが土産の里帰り、それを迎えた幼な友だちの、変わらぬ眼差しと温かい握手が歌われていた。演歌のシンガー・ソングライターが吐露した、本音の歌だったろう。
 新田は集団就職列車に揺られて、東京へ出た。後にした故郷は福島の伊達市。本名は聞いたことがあるだろうが、忘れた。芸名の新田晃也は、生まれ育ったあたりの地名で「晃也」は実は「荒野」だという話の方が記憶に残っている。彼の愛郷の思いに触れた気がしたせいだ。振り返ればほろ苦い青春の曲折があって、僕が知った新田は、銀座の名うての弾き語りになっていた。通称が「ポール」2、3軒のクラブをかけ持ちする歌巧者だった。
 一時、脚光を浴びかけたことがある。阿久悠が初期に全国の港町を訪ね歩き、エッセーふうなナレーションも自分でやったアルバム「我が心の港町」で、全曲を歌ったのが新田だった。説得力のある唱法と、存在感のある声味を評価して、みんながメジャーデビューをすすめた。阿久悠や音楽を担当した三木たかし、お仲間の演出家久世光彦らが口を揃えたが、新田は固辞して、巷で歌うことを選んだ。45年ほど前の話だ。
 そんな〝みちのく気質〟の意地っぱりが、今年、歌手活動50周年を迎えた。71才になったが、独特の美声は衰えず、年の分だけ歌に慈味が加わっている。記念曲「母のサクラ」を徳間ジャパンから出し、5月10日にはなかのZERO大ホールでリサイタルをやる。乞われて僕は推薦コメントを書いた。「巷の実力派」「無名の大歌手」と、大仰な表現だが、実感である。こういう場合大てい、僕は本人のごく近い将来の完成図を言葉にする。恐るべきことだが70才を越えてなお新田には、もうすぐそう言い切れる境地になるノビシロがあるのだ。
 「俺たちはいつごろ会ったんだっけ?」
 長いつきあいの相手に、僕はよくそう聞く。時折会って話し込むのは、双方の〝現在〟が主だから、過去はおぼろになるものだ。
 「45年前、浅草公会堂の春日八郎さんの楽屋」
 新田は苦笑いしながら、そう答える。7才年上の僕よりは、記憶がしっかりしている。長いこと作詞、作曲にこだわって来た彼は、今度の新曲も含めて何作か、組んでいるのが作詞家の石原信一。石原と僕とは、彼が大学を出たばかりのころからのつき合いだから、
 「お前ら、いつからそういう仲になったんだ?」
 と聞いたら、二人は、
 「あんたの紹介じゃないか!」
 と、口をとがらせた。そう言えば...で思い出すのだが、数年前にシアター1010で星野哲郎トリビュートのショーをやった時に、石原に構成を頼み、新田に何曲か歌って貰ったことがある。新田が伊達なら石原は会津若松の出身で、福島県同志、ウマが合うのかも知れない。そのせいか石原は新田に、ほぼ本音、実体験の詞を書いている。 ?こんな名もない三流歌手の...
 に戻るが、僕はしばしば新田に「三流のてっぺんを極めろ!」と言い続けている。テレビによく出て、全国的な知名度を稼ぐ歌手がもし一流だとすれば、それをおびやかす三流の、意地と芸と覇気があったっていいではないか! 何を偉そうに...と思われる向きもあろうが、僕もスポーツニッポン新聞で、三流の意地を貫いて来た。僕らの先輩の多くは、昭和30年代ころから、朝日、毎日、読売などの一般紙を一流と見たて、政治、経済、社会と無縁の媒体の現場で、肩をすくめていたものだ。
 「それなら、俺たちがやってやろうじゃないか!」
 と、僕らは逆に三流を旗印に胸を張った。政治や経済や社会が問題ならと、そんなネタに手も広げて、スポーツ紙のてっぺんを手にした。
 そういう訳で新田と僕は「三流同志」である。5月10日中野へ、僕はステージで胸を張る万年青年の新田晃也を見届けに行く。
週刊ミュージック・リポート

昭和テイストの魅力と意味

 今月の歌を聞いて、強く感じたのはメロディーの昭和テイストへの回帰。演歌の味っけも歌謡曲寄りだ。もともと流行歌は、GS、フォーク、ポップスの台頭までは、歌謡曲と呼ばれていて、新勢力の対極として「演歌」にせばめられた経緯がある。
 昭和の歌の魅力は、芯が明るくおおらかな楽しさ。昨今それが戻った背景は、演歌の類型化と、世相のあてどなさ、ただならなさで、重苦しさが嫌われてのことか。やはり歌は、世につれていくものなのだろう。

今治みれん雨

今治みれん雨

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:
北野まち子
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 こんなタイプの曲、今までにあったかな?と思い返すが、記憶の中から出て来ない。それほど特異なメロディーかと言うと、そうでもない。つまりは、ありそでなかった面白さを、徳久広司が書いた。彼なりの工夫だろう。
 麻こよみの詞に、特段の変わり方はない。瀬戸内の今治を舞台にした、女の未練歌。それをゆったりめのテンポと、とんとんとんと軽めの弾み方で聴かせる。語るでもなく歌うでもなく、情感が飛び石づたいみたいだ。歌う北野まち子は、コツコツ頑張って来たベテラン。徳久のそんな世界に、上手に対応した。

の桟橋

男の桟橋

作詞:たきのえいじ
作曲:筑紫竜平
唄:大川栄策
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 たきのえいじが彼にしては珍しく、演歌の歯切れのよさを狙った詞を書く。それに曲をつけたのは、筑紫竜平のペンネームで大川栄策本人。さぞやねっとりと、彼流の歌に仕上がったろうと思って聴いたら、そうではなかった。
 いきなりメロディーが高音から出るが、彼は歌い回さない。すたすたと語る気配の処理でスタート、おしまいのフレーズ「男の桟橋...」で決める歌の導入部にした。別れて2年、去った女をしのぶ屋台酒、ラジオからもれる流行歌などを小道具に、明るく軽快な歌にまとめている。無意識のうちに表われた大川の時代感覚だろうか?

女の岬

女の岬

作詞:さいとう大三
作曲:四方章人
唄:若山かずさ
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 作曲した四方章人は、委細かまわず自分流、書きたい歌を書く。ゆっくりずっしりの、泣き歌である。さいとう大三の詞が各コーラスまん中の2行、重ね言葉でたたみ込んでも、意に介さない。古風なタイプの女の嘆きを、若山かずさは声ふるわせて歌った。

さすらい慕情

さすらい慕情

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:氷川きよし
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 氷川の20周年に向けた第一作で、書いたのは仁井谷俊也・宮下健治のコンビ。博多、長崎、鹿児島と舞台が変わる恋人たずね歌だ。「逢いたいよ、恋しいよ」が各コーラスにあって、どうやらファンの呼応部分。何だか昔の佐々木新一や新川二朗を聴く気分になった。

不知火恋歌

不知火恋歌

作詞:仁井谷俊也
作曲:君塚昭次
唄:真咲よう子
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 「逢いたかねぇ」「好いちょるばい」と、九州言葉を書き込んだのが、作詞仁井谷俊也のミソ。愛にすがる女の恋歌のトゥーハーフだ。それを君塚昭次という作曲家が、大作ふう絶唱メロに仕立てた。歌う真咲よう子もベテラン、昔気質の唱法がひたひた...である。

恋の花

恋の花

作詞:たかたかし
作曲:幸耕平
唄:瀬口侑希
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 歌い出しの歌詞4行分、事もなげに語らせておいて、サビのメロ、いきなりガッと来るのはいかにも幸耕平らしい手口。そのサビに「わたし夜咲く酔芙蓉」なんてフレーズを書いたのはたかたかしの手際。瀬口侑希は相変わらず一生懸命に、それを歌って形にした。

あき子慕情

あき子慕情

作詞:池田充男
作曲:徳久広司
唄:増位山太志郎
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 前奏や間奏、それに歌の中まで、あちこちで女性コーラスがからんだり、追いかけたりする。ムード歌謡はこの手でしょと言わんばかりの、池田充男・徳久広司・竜崎孝路の歌づくり。それをのったりと増位山が歌って、手なれたチームの仕事ぶりとした。

女の残り火

女の残り火

作詞:麻こよみ
作曲:四方章人
唄:山口ひろみ
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 こちらは麻こよみ・四方章人・南郷達也のトリオが頑張る。いつもながらの女の嘆き歌で、主人公は雨の中で泣いてばかり。聴く側へじゅんじゅんと、哀訴するタイプのメロディーを、山口ひろみが抑え気味の歌い方で辿った。だからこちらも粛々と聴いた。

鶯~うぐいす~

鶯~うぐいす~

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:島津悦子
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 浮気な男鳥が止まった枝は、桜や梅や桃に例える女のところ。それにじれてる女心ソングは、昔なら五月みどりに似合いそうなホーホケキョだ。仁井谷俊也の都々逸まがいの詞に、宮下健治の曲はどこか股旅調。面白がった島津悦子の歌が"その気"になっている。

おさけ川

おさけ川

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:長保有紀
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 長保有紀のキャラと、彼女の声味、節回しに、うまく似合った歌が出来た。関口義明の「めったやたらに逢いたくて」という詞は、遺作だろうか?曲をつけたのは水森英夫で、各節の最後「おさけ川」の「川ぁ~あ~あ~」の歌い伸ばしに、長保の色が濃い。

黄昏ララバイ

黄昏ララバイ

作詞:冬弓ちひろ
作曲:近江たかひこ
唄:小金沢昇司
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 冬弓ちひろの詞、二番の「くわえ煙草で抱き寄せる」も今ふうではないが、懐かしげにリズム快適なムード歌謡。このタイプをレーモンド松屋専売にする手はないと考えたか、作曲は近江たかひこだ。歌いこなした小金沢昇司は器用な人で、レパートリーが多岐にわたる。

ふるさと忍冬

ふるさと忍冬

作詞:下地亜記子
作曲:岩上峰山
唄:真木ことみ
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 下地亜記子の詞の小道具は花ことば。「忍冬」は「愛の絆」なのだそうな。その愛をつなぐ相手は「ふるさと」と「母」というお膳立て。それをべたつかず、醒めた詠嘆の歌にしたのは、岩上峰山の曲と真木ことみの声味。どう感じるかは、聴き手にあずけられた。

居酒屋「みなと」

居酒屋「みなと」

作詞:原文彦
作曲:叶弦大
唄:竹川美子
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 序破急手なれた叶弦大の曲、カモメが鳴く蔦将包の編曲。居酒屋「みなと」の女主人公を描く原文彦の詞は「酔って候」と一ヵ所だけ候文になる。「初(うぶ)な恋」だと原は書くが、竹川美子はうぶとも思えぬ歌い回し。こういう作品も歌えるようになったのだ。

MC音楽センター
殻を打ち破れ160回

 たまたまだが、同じミニアルバムを二人から貰った。

 「聞いてみてよ」

 テレ加減の微笑で手渡したのは、シンガーソングライターの有近真澄。似たような文面の手紙つきで、送り届けて来たのは作詞家の真名杏樹だ。二人とも年下の友人で、つき合いは親密でかなり長い。アルバムに収められた5曲のうち、最初の曲が二人の合作。真名が詞を書き、有近が曲をつけて、歌っていた。

 タイトルは『あなたを知らないほうがよかった』とある。恋人を知る前の歌の女主人公は、

 ♪焦げつく グライダーにように飛んでた 真珠の粒を孕んで夜が また来る...

 という境遇の中に居た。それが今は、

 ♪だけど知りたい 教えて欲しい わたしの光を わたしの影を...

 ♪何もないなら 無いと知りたい 光も影も 最低も最高も...

 という心境を抱えている。どうやら彼女は、革命の歌よりも自分を惑わせ、狂わせる恋を体験したらしいのだ。

 有近がそれを、少しバタ臭い口調で我がことのように歌う。リズムはビギン、はじめは軽めの感情移入だが、メロディーの昂まり方で哀調のファルセットになり、幕切れで感極まる。おとなの恋唄、漂う色濃い孤独感――。

 「ふむ」

 僕は友人二人の顔を思い浮かべながら、もう一度聴き直す。そういう歌なのだ。聴き直せば、最初とは少し違う感触が、こちらに深まる。歌って奴はそういうふうに、肌になじんでくるタイプがあったんだよな...と、感想が少しずれる。はやり歌評判屋の僕は、長いこと演歌・歌謡曲を中心に歌を聴いて来た。覚えやすく歌いやすい作品から、そんな枠組みをぶち壊す野心作まで。新聞記者くずれだから、後者に期待、新鮮さを求めた。しかし、真名・有近コンビのこの歌は、それも超えた。何だか、短めのエッセーに出会った気分だ。

 アルバムに収められた曲は、ほかに『Screamin' Peanut Vender』『真夏のゾンビ』『宝石を見詰める女』『La Vita』で、そのうち3曲を有近が作詞もしている。アルバムタイトルは『エロヒム/NIGHT SAFARI』イラスト田村登留、デザイン秋田和徳のジャケットは、こじゃれたサファリ風景に月が出ている。

 作品にはシャンソンの匂いがあった。

 ≪そう言えば...≫

 と思い出すのだが、有近はずいぶん前に女性歌手とデュエットで、石井好子のコンサートに出たのを観たことがある。彼は流行のJポップとは違う立ち位置で、彼自身の音楽を追っていたことになるのか?

 そろそろ種明かしをしよう。有近真澄は作詞家・星野哲郎の長男で、真名杏樹は作曲家・船村徹の長女。昭和・平成を代表する大物作家コンビの二代目たちが、独特の美意識と感性で、こんな歌づくりをしているのだ。いつだったか、有近のライブを見た美空ひばりの息子・加藤和也・有香夫妻が「凄くいい!」と共感していたのも思い出した。

月刊ソングブック

殻を打ち破れ159


 「別に声がいい訳でも、節回しが上手い訳でもない。イケメンっぽかったのは昔々の話で、もう70才に手が届くはず。そろそろ退き際を考えろと言ってるのに、まだ歌うと言い募る。おつき合い頂く皆さんも、こうなるとくされ縁のはずで...」

 無名の大歌手・日高正人のショーなどで、あいさつをしろと頼まれれば、大ていそんなことを言う。古いつき合いの本音だから、日高はステージの隅ででかい体を縮めている。体格そのものが"大歌手"なのだ。それが21日、東京プリンスホテルで「歌手生活45周年ディナーショー」をやった。

 節目の催しだからそれなりに、念を入れたつくりにしたのだろう。演出もちゃんとしているし、照明も凝っている。いつもだと右往左往する曲の合い間のトークも、何となく整理されている気配。こっちは代表発起人のあいさつ、例によって別段ヨイショもしないのを終えたから、

 ≪さぁ、のんびりと焼酎でも飲んで...≫

 と、結構リラックスしていた。それが日高の歌を23曲聞いたところで、

 ≪あれ?一体どうしたんだ?≫

 と、客席で座り直した。何と、日高の歌がひと皮むけて、妙にいい味なのだ!

 よく聞けば、いつもの"張り歌"が"語り歌"になっている。歌ってものはそうそう簡単に上手くなるものではないし、何しろ年が年だ。劇的な変化など望むべくもないが、語り口に情がにじんで、日高流の滋味が生まれているではないか!

 若いころ武道館公演をやって満席にし、横浜アリーナでも歌った。自称「無名のスーパースター」の日高は、その後も"その気"で頑張って来た。声をめいっぱいに張り上げるタイプ、それをさすがにもう無理と悟ったのだろう。歌を息まじりのソフトに仕立て、高音は裏へ抜いたり、ひょいといなしたり。そんな変化が僕の常套句の

 「一生懸命が背広を着て、汗水たらして走り回っている」

 という彼のキャラに、ぴったりはまった。

 こうなれば、彼のレパートリーのモノの良さが際立つ。阿久悠の『港町三文オペラ』、星野哲郎の『親子杉』、浜圭介の『春夏秋冬二十年』、永井龍雲の『達磨』、それに来し方の男の苦渋があらわな『人生山河』...。そう言っては何だが、スター級の歌手が歌えばヒット間違いなしの作品が、実は彼の財産なのだ。

 文章もそうだが、もともと上手い記者の原稿は、いい気になるととかくすべり勝ちになる。ところが悪筆の見本みたいな記者が、鉛筆なめなめ、長いこと苦労すると、何とも言えぬ味わいのいいものを書くことがある。日高の今回のステージはそれに似ていて、言うところの「下手ウマ」の境地。武骨無器用の人柄も前面に出て、これも彼流の成熟なのか!

 日高の歌手生活が45年なら、彼と僕のつき合いも似たような年月になる。暮れや正月に僕んちで仲間の酒盛りがあると必ず現われて、行儀の悪いのをおどしたり、話に感極まると大粒の涙をこぼしたり。屋久島生まれ、鹿児島育ちの血の熱さが得がたいが、僕が歌をほめるのは今回が初めてだ。

 もう一つの大発見は『人生山河』の作詞家たきのえいじの尺八の巧みさ。日高と『屋久島哀歌』をセッションふうにやったが、首を振り振り、僕らがあっけにとられるほどの名演奏だった。

月刊ソングブック
 神田のビジネスホテルに泊まっている。4月8日から19日チェックアウトの11泊12日、ここから日本橋の三越劇場へ通う。東京メトロ銀座線で一駅、面倒を見てくれているアーティストジャパンの佐野君は、
 「歩いても10分ちょっと...」
 と、事もなげに言うが、その手には乗らない。今や元新聞記者の土地カンも相当衰えているし、前夜の酒が残っていたら、開演前に迷子になりかねない。クワバラ、クワバラ...である。
 名取裕子主演の「居酒屋お夏」(原作、脚本、演出岡本さとる)19日まで11日間15公演が、今回の演しもの。幻冬社刊の原作は読んだし、けいこもしっかりやったから、僕は俄然〝その気〟だ 。居酒屋の毒舌女将が一転、悪をこらしめる〝必殺もの〟女性版の痛快時代劇。涙と笑いをまぶした2時間余が、演じる側も大いに楽しい。共演の面々とも、けいこの間に気心が知れた気がして、楽屋での世間話も笑いが絶えない。
 「下世話」と「妖艶」が入れ替わる名取が、舞台の表裏ともに「才気煥発」なら、料理人が突然刺客に早変わりする河原崎国太郎は「実直」と「冷血」の二面を示す。居酒屋の客で大道芸人の目黒祐樹は、お人柄も含めて「滋味」あたたか。彼と相思相愛の成り行きになる夜鷹の樹里咲穂は、宝塚出身の花やかさを秘めて「一途」な生き方...。
 見ものは東西の大衆演劇の名うて、門戸竜二と津川竜の競演である。門戸は松井誠の流れをくむ二枚目だが、今回は十手を嵩にきる悪役。時おり、いかにもいかにもの見得を切って「華」を見せる。一方の津川は関西で名の通った剣戟はる駒座の総座長で長男津川鶫汀に一座を任せ、もう一つの一座も仕切るやり手。といっても息子はまだ21才だから、壮年の働き盛りだ。こちらはやくざの親分で、目明しの門戸と結託する悪漢を、津川一流のセリフ回しで凄味を利かせる「巧者」ぶりをじっくり。大衆演劇大好きの僕は、同じ舞台にいるまま二人のやりとりに
 「よッ! ご両人!」
 なんて、うっとりしてしまう。
 同世代のよしみで、気安くつき合って貰う青空球児は、口入屋の親方で、名取と毒舌の応酬をする「怪演」が笑いを誘う。共演者がうらやましがる二枚目の〝いい役〟関戸将志は、やくざの乱闘シーンで突然スイッチが入ったような「瞬発力」を見せ、けいこ中から僕はあっけにとられた。川中美幸・松平健合同公演ほかで一緒になり、すっかりお仲間気分の田井宏明、安藤一人、線引大介らからは、いろいろ教わり、、何くれとなく気を遣ってもらいながら、終演後は「お疲れさま」と本物の居酒屋へ繰り出すのが楽しみ。
 「ところでお前は、一体、何をやってる訳?」 と、そろそろお尋ねのころあいだが、これが女房に先立たれてちぢこまっているご隠居役。居酒屋の常連で孫みたいな年かっこうの森山アスカが、銀杏がえしの髪で可憐に小首かしげるのに、習字の手ほどきなどやっている。はばかりながらの見せ場は、名取お夏が天女と化したあで姿に出っくわし、俄然精気を取り戻して、大変身の高笑い。
 「あんたもこの8年ほどでいろんな役に恵まれて来たけど、こういうのは初めて。いい勉強をさせて貰っているねえ」
 などと、友人知人に冷やかされたり、激励されたりしている。
 それやこれやの舞台裏、日々是好日で過ごしていて、はっと気づけばペースメーカーは演出の岡本さとる。関西弁のジョークでみんなを乗せながら、うまいこと自分のペースに巻き込む指導ぶり。若手役者たちなど、やらせてみて、考えさせて、それならこうすれば...と、次第に彼の術中にとり込んでいく。連発する冗談に、つられて一緒に笑っていると、この先生、眼が時々笑ってなどいないから、ひやりとする。
 劇場を出ても僕は、人格の四分の一強はずっと、初老の隠居・六兵衛のまま。この二重人格ぶりというか分裂感というかが何ともいい気分なのだから、芝居は当分やめられそうにない。
週刊ミュージック・リポート
 「子宝に恵まれなかったから、残り少ない毎日を、夫婦で楽しく暮らそう。そう誓い合って店をたたんだ矢先に、連れ合いを亡くして...」
 と、世をはかなんでいる老人を演じることになった。4月9日から10日間、三越劇場の15公演、時代劇「居酒屋お夏」(原作、脚本、演出岡本さとる)で、主演は名取裕子―。
 《またかよ!》
 という顔を、歌謡界のあちこちで散見する。例えば4月27日、栃木・日光市にオープンする船村徹記念館や、5月8日に帝国ホテルでやる三木たかし七回忌の集いの打ち合わせ。そのほか人に会うたびに、どうしても芝居の話が先に立つ。
 「何ともはや、ご心配をかけるばかりで...」
 などと頭をかきながら、バッグから公演のチラシを持ち出すなど、こちらも何だか手つきが慣れて来ている。
 平成18年の7月、川中美幸の「お喜久恋歌一番纏」(明治座)に出してもらったのが初舞台だから、この仕事ももう9年めになる。声をかけてくれたアルデルジローの我妻忠義社長も、今にして思えば相当な度胸。何しろ僕の〝そのケ〟は、業界のパーティーなどのあいさつを見ただけのことだった。それにまた「ほい、ほい」と乗って、70才の手習いを始めた僕も、相当なお調子者だが、取材で見聞きした舞台の表や裏も、入ってみれば別世界。以降川中一座の光栄なレギュラー出演者だが、一から勉強々々で、いまだに肝に銘じているのが、
 「知っていることと、出来ることは違う!」
 の一言なのだ。
 今回ご一緒する名取裕子は、その翌年の19年5月、大阪松竹座の「妻への詫び状・星野哲郎物語」でお世話になった。僕の二本めの舞台で、彼女が星野夫人の朱實さん役、僕は水前寺清子の父親役だった。制作したアーティストジャパンの岡本多鶴プロデューサーと会ったのは、公演アドバイザーを頼まれてのこと。星野哲郎については自称専門家だから、裏方で手伝うつもりなのが
 「出ません?」
 の一言に、即座に飛びついて出演者になった。それがいきなり台本2ページ分もの長ゼリフだから、やった方もやらせた方も、これまた相当にいい度胸と言うしかない。
 縁というのは恐ろしいくらいで、明治座と松竹座の二本で、面倒を見てくれたのがベテラン俳優の横澤祐一。2年後にこの人から声がかかって、東宝現代劇75人の会の「浅草瓢箪池」に出たのが平成21年の7月。以後毎年の公演で滅法いい役を貰い続けて、今やこの会のメンバーの一人である。アルバイトのボーヤから44年勤めたスポーツニッポン新聞社に続いて、生涯二つめの所属先で、作、演出もやる横澤は、僕のこの道の師匠になった。
 今回の「居酒屋お夏」は、3月20日がけいこ初日で、顔合わせ、台本の読み合わせから、衣装合わせ、かつら合わせも。それに先立つ18日、千葉の大栄カントリー倶楽部で「小幡欣治杯コンペ」があった。亡くなった高名な劇作家で演出家の名を冠にする会で、紹介してくれた横澤や75人の会の先輩丸山博一、演出家の北村文典、演劇評論家の矢野誠一、横溝幸子、木村隆の各氏に宝塚劇場の小川甲子支配人など、そうそうたるメンバーが集まる。
 《ようしっ!》
 とすぐその気になる僕は、優勝して4月の舞台への吉兆に...と勢い込んだが、結果は3位に止まる。スコアは? と聞かれるとうつむくが、100が切れなくたって3位は3位だ! と自分に言い聞かせながら、帰途で思い当たったことがある。世の中万事、一心不乱に10年もやれば、大ていはその道のプロだろう。しかし、何事にも例外はあって、その最大の二つはゴルフと芝居なのは確かだ。
 「居酒屋お夏」の出演者は、名取のほかに目黒祐樹、青空球児、河原崎国太郎、樹里咲穂に東西大衆演劇の名うて門戸竜二と津川竜ら多士済々。何度も一緒の舞台に立った田井宏明、安藤一人、綿引大介らお仲間もいて、僕は緊張と浮き浮きの日々を送ることになる。このコラムがお手許に届くころは、せっせと新宿のけいこ場に通っている。
週刊ミュージック・リポート

これがご時世なりの泣き方かなァ?

 MCの編集部から届いたリストは、10曲中9曲が女性歌手の新曲。たまたまのことだろうが、いずれ菖蒲かかきつばたの賑いだ。
 多いのは失恋の女心ソングだが、共通点は嘆き方や切ながり方に、かなり抑制が利いていること。ひと昔前までなら、身をもまんばかりの訴え方、迫り方になったろうが、どこか醒めた眼の、自立の気配がある。多事多難の平成、世情は混とん、みんなうそ寒く、浮かぬ気分でいる。歌で泣き叫ばれても、うっとうしさが先に立って嫌われるかも知れない。

命咲かせて

命咲かせて

作詞:石原信一
作曲:幸耕平
唄:市川由紀乃
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 八分めの歌か?と感じる。ガンガン張る歌を、行けば行けるはずの歌い手なのだ。それが全体に、声を抑え気味に、女心の切なさ辛さを表現する。作曲幸耕平の狙いなのか、制作者の計算なのか。
 そう言えば...と、幸についても思う。もともとリズムを強調した歌謡曲の書き手で、例えば大月みやこの『乱れ花』があるが、こちらもリズムを抑えて、本格的演歌寄り。
 結果、出来上がったのが「かよわさ」とか「一途さ」とかの情感。市川の魅力の、もう一つの側面が聞こえた気がした。

蒼い糸

蒼い糸

作詞:田久保真見
作曲:五木ひろし
唄:角川博
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 作曲家はそれぞれ、独自のメロディーを持っている。それが強く前面に出る時もあるし、ふっと歌い尻に出る時もある。歌手も大成する向きは、独特の語り口を持つ。こちらは歌の端々に、かっちりとそれが出るものだ。
 角川の今作は、五木ひろしの作曲。当然みたいに、メロディーがそれらしいから、角川の歌にも、五木に似た語り口の部分が生まれる。歌詞の3行めの歌い尻や、4行めの頭の言葉の発し方にそれが匂う。
 結果、角川の歌の情が、こまやかになった。曲と歌の、組み合わせの妙だろうか。

大和路の恋

大和路の恋

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:水森かおり
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 水森は"ご当地ソングの女王"と呼ばれて久しい。連作に次ぐ連作で、ずっと曲を書く弦哲也は苦心と工夫の連続だろう。毎回趣向を変えるが、変え過ぎてもいけない。結果、平成の抒情歌群が出来上がった。水森も初々しさを長く維持して、これも偉いものだ。

港ひとり

港ひとり

作詞:下地亜記子
作曲:四方章人
唄:石原詢子
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 下地亜記子の詞が、シンプルですっきり。四方章人の曲が、メリハリきっちりゆるみたるみがない。そんな作品に恵まれて、石原の歌も気合いが入った。といっても技を使わずシナを作らずのこの人。「逢いたくて、逢いたくて」のサビの「あ」の発し方が艶っぽい。

風岬

風岬

作詞:麻こよみ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽
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 歌い出しの歌詞1行「海鳴り、黒髪、波しぶき」だけで《ほほう!》ともって行かれた。神野の歌の、情感の芯が太いのだ。全体に、こまやかな技が使われているが、それが浮き上がらないのは、作品の捉え方がしっかりしているせい。言葉が一つずつが粒立っている。

一路一生

一路一生

作詞:池田充男
作曲:弦哲也
唄:川中美幸
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 ひたひたと、一途な歌だが、芯が明るい。それが川中の独自の魅力だ。「人の和」と「酒」と「さだめ」をキイワードに、池田充男の詞はさりげなく人生を語る。そのほどの良さも川中に似合った。「母の愛」からスタートして、彼女の実感が重なった作品だろう。

雨の花

雨の花

作詞:里村龍一
作曲:徳久広司
唄:上杉香緒里
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 女主人公の彼は、いなくなったっきりだ。それでも彼女は、泣きもしないし恨みもしない。伊豆を舞台に、里村龍一が書いた「いない、いない、ばあ」ソング。上杉の歌は、そんな"女の状況"を、しっとりと歌う。気持ちの決め方がきっと、難しかったろう。

金毘羅一段

金毘羅一段

作詞:さわだすずこ
作曲:武市昌久
唄:長山洋子
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 まん中に人生訓めいた2行をはさんで、前に4行後ろに4行。さわだすずこの詞は1コーラス10行もあるが、長く感じないのがミソ。金毘羅さん周辺を絵に見せたり、曲が金毘羅船々...を匂わせたり。テンポ早めの曲が長山の声味に似合って、こざっぱりした味だ。

花かげろう

花かげろう

作詞:森坂とも
作曲:弦哲也
唄:永井みゆき
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 気持ちがすれ違う男女の仲を、女の側から歌にした。一人じゃ何も出来ない男と、その着物のほころびを繕う女...。近ごろ珍しいレトリックあれこれの森坂ともの詞に、弦哲也が曲をつけた情趣を聞かせる作品。永井の歌は彼女なりの理解で、初々しく一生懸命だ。

とまり木夢灯り

とまり木夢灯り

作詞:レーモンド松屋
作曲:レーモンド松屋
唄:香西かおり
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 レーモンド松屋の作詞、作曲で、彼お得意の昭和テイスト歌謡曲。気分本位にうねるメロディーと、気分のいいリズムに、昔なら歌い手が乗って歌い回したタイプだ。それを、そうはしないのが香西の味なところ。「歌う」曲を「語る」手口で、平成の歌に仕立てた。

MC音楽センター
 《15周年か、おとなになったな、あいつも...》
 いわば記念曲の「雪國ひとり」を聞いてから、永井裕子に会いに行った。3月2日の浅草公会堂。「コンサート」ではなく「リサイタル」と銘打っているから、本人にそれなりの覚悟もあろう。新曲はちゃんと〝おとなの女〟の恋唄になっている。万城たかしの5行詞に、師匠の四方章人の曲。起承転結きっちりと、メリハリの利いたメロディーを、高音に哀切感にじませて、永井はすっきりした歌に仕立てた。ビブラート抑え気味、小節はあまり回していない。
 浅草公会堂は、通い慣れたところである。沢竜二の全国座長大会に何度も出してもらっていてのこと。いつもみたいに、
 「おはようございます」
 のあいさつで、楽屋口の守衛さんの前を素通りだ。おおよそこの辺...と見当をつけた本人の楽屋。その手前に彼女の両親が居て「やあやあ、これはこれは」のあいさつになる。永井の故郷、九州・佐賀から、娘の晴れ姿を見に来た二人。素朴な受け応えが、デビューのころから少しも変わっていない。
 開演前、まだ普段着の永井が飛び出して来て、いきなりハグである。デビュー前からのつき合いだから、こちらは驚きはしないが、少々テレる。年が年だもの...と、わが身を振り返るのだが、相手は委細お構いなしだ。
 《何だ、ちっともおとなじゃないじゃないか!》 肩をすくめて客席へ移動する。まだ客入れをしたばかりで、劇場ロビーはごった返している。歌手仲間や作家たちの祝い花がズラリ。CD売り場では、売り手の声が盛んだ。それをかき分けて指定された席につく。会場内でも裕子グッズの売り手が、通路を回っている。一きわ声が大きい小柄な娘が、そばに来ればこれが井上由美子。永井とユニットを組んでいてのお手伝いだが、声をかけたら飛び上がらんばかりに驚いたりするから面白い。
 「菜の花情歌」から始まるオリジナル・メドレーに、多少の感慨が生まれる。あれは作詞が阿久悠で、続く「哀愁桟橋」が坂口照幸「男の情歌」がたかたかしの詞だ。デビューから10年余、作曲を四方章人一人が頑張ったから、ディレクター古川健仁と知恵を絞って作詞家を曲ごとに変えた。池田充男、木下龍太郎、ちあき哲也...。「石見路ひとり」は吉岡治の詞で、石見銀山が世界遺産に登録されたのを機に、現地へ出かけて作った。そう言えば「望郷岬」も吉岡の詞で、この時は東伊豆町へ出かけた。あっけらかんと明るい永井のキャラが愛されて、歌の地元は彼女の〝第二のふるさと〟になっている。
 《元気さが売りのころの作品ということか》
 NHKのカラオケ番組で注目された永井を、スカウトしたのが四方章人。その相談に乗ったことから、僕は永井のプロデュースを10年ほどさせて貰った。最初からいつ人前で歌わせても心配のない上手さと、独特の声味を持つうえに、歌唱がパワフルで、小節を回そうと言えばクルクル、唸れと言えばいとも簡単に唸った。
 《もしかすると、あのころとは声の当てどころを変えているのかも知れない》
 客席で僕は、かつての永井と新曲「雪國ひとり」との差異にこだわっている。声をノドに近い下の方で鳴らせば、野太いパンチが響く。それを鼻の裏あたり、高い方に当てれば、身上の愁い声の悲痛な部分が、味わいを深める。もしそんな使い分けをしているとすればこの娘は、なかなかの技巧派に思える。声の当て所を何カ所か持ち、それで何種類かの声味が出せるとなると、これは非凡、そこのところが永井裕子の、成長の証なのかも知れない―。
 浅草の宵の口、会場へ来ていたはずの四方たちとは出会えずじまいだが、そのまま電車に乗る気にもならない、うまい具合に雷門そばのホテルの裏側に、たたずまいそこそこのそば屋を見つけた。そば味噌で熱燗をチビリチビリ、家に帰ったら「雪國ひとり」をもう一度聞き直そう...と、またチビリチビリ。ごくたまにのことだが、ひとりぼっちの浅草も、なかなかに乙なものと合点がいく。フィナーレに「愛のさくら記念日」が生きた。あれは永井のデビュー曲で、作詞はうえだもみじだったな。
週刊ミュージック・リポート
殻を打ち破れ158

 大晦日、ドカドカとやって来た客が、ドカドカと帰る。葉山の海の夕陽に乾杯!の趣向が「ゆく年くる年」の途中まで続いたのだから、みな相当に酔っていた。静かになったから、餅を少し焼く。大きめの蒲鉾みたいな奴を薄く切って、面倒だからチンする。なぜか紅色の餅がぷくんとふくれて、しゅわっとしぼんだ。どうして赤いのかは、匂いと味で判明する。どうやら桜エビが搗き込まれているのだ。潮の香の餅ねぇ、土地の味で風流な越年だ...とは思ったが、誰の手土産なのかが思い出せない。ま、いずれ湘南の客の誰かだろう。

 ふと思いついて、本間由里の『石狩挽歌』を聴く。「いいのよ、これが...」と僕に耳打ちしたつれ合いは、まだ帰宅していない。歌社会で仂いていて、この夜は懐メロ大会のテレビの楽屋あたりか。終われば軽く一杯!になるのだろう。結局、僕と一緒に本間由里を聴くのは、おなじみの愛猫風(ふう)と、三ヵ月ほど前からの新入りパフ。全身まっ白なのが名前の由来だが、子猫のくせにじゃれ方が超過激。ダッシュ!体当たり!を繰り返して、風を閉口させるパワーは、外人猫の混血かも知れない。

 ≪なるほど、なかなかの味わいだわ...≫

 本間の歌についてだが、まず声味。ほどのいいかすれ方で、手触りが柔らかい。次にフィーリングだが、洋風な生活感に倦怠のスパイスが少々。高音部にやんちゃな覇気が加わるあたりに、好感を持つ。感性が不良熟女なのか?

 もともとは、北原ミレイのヒット曲。なかにし礼、浜圭介に呼ばれて聴いた。あれは赤坂の日音の一室。「どうだ!」と浜が眼をギラつかせたから、僕はなかにしに「いいね」と答えた。ミレイはこれで、阿久悠のトラウマから脱出できるだろうと思った。『ざんげの値打ちもない』『棄てるものがあるうちはいい』『何も死ぬことはないだろうに』と、三作続いた阿久作品が、ひどく胸につかえていた。とうとう歌えなくなってしまったほどで、そんな"暗さ"からミレイは『石狩挽歌』で歌手として生還した。

 しかし...と思い返す。ミレイが歌った『石狩挽歌』の向こう側、北国の空には暗い雲がたれこめていた。ところが本間のこの歌の向こう側の空には、雲に切れ間がある。心なしか薄陽が差してさえいる。そこの違いがこの歌を、今日的な色あいにしているかも知れない。昨今、右傾化の流れがやたらうさん臭く、世情はなしくずしに暗めだ。そんな中では、"どんより感"が薄めの方が泌みる。聴き終わって「さて!」と、時流へ視線を移す余力が残る。しっかり考えなくちゃな、待てよ、考えているだけで本当にいいのか?

 本間由里は30年余のキャリアを持つ。結婚、子育てで一時中断したが、ここまで歌えるのだもの、歌の虫が納まるはずがない。近作CDに『東京暮情/風浪記』があり、作詞は門谷憲二、作・編曲はいずれも川村栄二で、彼が本間のダンナだそうな。

 ところで冒頭の紅い餅だが、元日、あちこちへ問い合わせたら、大磯在住の歌手沢チエのお土産と判った。「大阪には、昔からあるらしいのね」の一言で、磯の香、湘南もの...は勝手な思い違いと知る。そのまま書いたら新年早々の誤報第一弾、危い、危い...である。

月刊ソングブック
 天国にはどうやら〝73会〟というのがあるらしい。メンバーは伝説のプロデューサー馬渕玄三氏と往年のヒットメーカー市川昭介。それにこのたび三島大輔が加わった。共通点は享年の73。三島は2月22日、がんとの長い闘病の末に亡くなった。その通夜が営まれたのが24日、横浜・瀬谷のメモワールホール瀬谷。関係者が口を揃えて三人の名を挙げた。73才で逝ったのはたまたまの偶然だろうが、歌づくりの血をつなぎ合った親交が、彼らにはあった。
 新潟・長岡の三島神社に、全国の神々が集まるという夜がある。
 「それは出雲の話じゃないの?」
 と取り合わぬ僕にムッとしたのが三島。ある秋、車で迎えに来て、現地へ連れて行かれた。巨大な神社の境内に、おびただしい人々が集まり、仮眠所が用意され、歌手たちが歌を献納するイベントつきの大規模な催し。
 林立する百匁ローソクが夜空をこがした深夜、そのはるか向こうの宙空に、火の玉が飛び交うのを、僕は確かに見た。
 「ほら! ほら!」
 と指さして、それが神々の証しだと僕に教えたのは、三島の愛弟子の歌手真唯林だった。
 三島の初期の作品に「帰れないんだよ」がある。星野哲郎の作詞だが、当時の彼の遠距離恋愛ソング。相思相愛の朱実さん(後の星野夫人)と、郷里の山口・周防大島と東京で、離ればなれで暮らした時期の胸の内が描かれている。
 〽秋田へ帰る汽車賃が、あればひと月生きられる...
 と、売り出し前の貧乏ぐらしが赤裸々、それを照れてか「周防大島」が「秋田」に置き替えられていた。
 作曲した三島はそのころ、新潟のキャバレーでピアノを弾いていた。作曲名は臼井孝次とあり、本名だとばかり思っていたが、訃報は「臼井邦彦」だったから、これもペンネームか、芸名か。この作品は、津軽ひろ子という歌手が創唱したが、ちあきなおみがカバーして脚光を浴びる。三島はその後、件の神社にちなんで三島大輔を名乗り、山本譲二の「みちのくひとり旅」で作曲家としてブレークした。先代宮司の知遇に応えたい一心だったと聞く。
 通夜の席に、馬渕夫人久江さんと娘の尚子さんも居た。
 「あのころの73才と今の73ではねえ。もう来ちゃったのかと、主人も苦笑いしてるでしょうよ」
 と久江さんがしみじみとする。かたわらで三島の千枝子夫人が、このところの闘病ぶりを話す。抗がん剤は「あらぬことを口走るそうだから」と嫌い、がんがあちこちに転移、入退院を繰り返したあとは「病院は嫌だ」と自宅療養を選んだ。最期は子供や孫たちに看取られて、静かに逝ったという。僕が通夜に飛び込んだのは、仕事の都合と土地不案内から、午後7時半ごろ。まだ去りがたい顔の作曲家叶玄大、岡千秋、作詞家の喜多條忠、編曲の丸山雅仁らが居た。みんな馬渕や市川、三島と縁が深かった面々だ。
 馬渕玄三7回忌は叶の相談を受けて、裏方と司会の両方で手伝った。あれからもう10数年の年月が経つ。〝演歌の竜〟のモデルになった彼には、駆け出しの記者当時から、歌づくりのあれこれをずいぶん教わった。神出鬼没、めったに会社に居ない人だから、レコーディングの日程を調べ、密着するのに骨が折れた。
 そんな取材のおりおりに出て来たのが星野哲郎と市川昭介の名である。この二人は畠山みどりの「恋は神代の昔から」や「出世街道」でブレークした。馬渕プロデューサーの狙い撃ちの異色作だった。市川にもいろいろ教わった。後年、プロデューサーを兼業して、五木ひろしのアルバム「おんなの絵本」を作った時、「小樽のおんな」と「憧れ」の2曲を頼んだのが最後の仕事。五木の40周年記念作品で、レコード大賞のベストアルバム賞を受賞、市川にも喜んで貰った。
 三島の通夜・葬儀のメモワールホールは一昨年の8月、彼の愛弟子で台湾出身の歌手真唯林を葬ったところだった。あの時三島は病院を抜け出して来て喪主をつとめた。薬の副作用で変色した手を手袋で隠し
 「やがて俺も行くから」
 と、途切れがちだったあいさつが、今では辛い思い出のひとつ。僕はまた一人、年下の歌書きの好漢を見送った。
週刊ミュージック・リポート
 あさみちゆきを聞いている。「月猫」という新曲で、主人公が猫見立てなのが気になった。男にはぐれた女が、自分を猫にたとえる嘆き歌は、ままある手だが、これがなかなかにいい。
 〽撫でて、撫でてくれたなら、可愛い声して泣いてあげる...
 〽腹を見せて寝ころべば、どこまで本気で、惚れてくれる...
 なんてフレーズが、猫の媚態に通じる妙があるのだ。作詞・作曲は宮田純花。勉強不足で申し訳ないが、初めて見聞きする名の人の感性に《ほほう!》となる。
 と、突然、本物の猫が登場する。わが家の新顔の「パフ」で、全身まっ白なところからその名がついた。生後6カ月くらいか、背中にケガをしているのが不憫...と、つれあいが引き取って来た奴だから、生年月日も出生地も定かではない。それが好奇心の塊で、家の中の事柄の何にでも首を突っ込む。今回は、あさみの歌声に耳を傾ける素振りをし、スピーカーの後ろに回り、周囲を嗅ぎ回っている。声の主を確認したいのだろう。
 「月猫」のヒロイン!? は飼われもしない、捨てられ猫。闇夜ばかり歩いて来て、ささくれだった生き方だが、月が丸い夜は夢もみる。置いてかないで、ほっとかないでと、想い出雨にずぶ濡れになることもあるらしい。
 「それに較べりゃ、お前はなあ...」
 と、僕はわが家の新顔相手に説教口調になる。「パフ」は従順な時に似合いの名で、これが時折り「デビ」に豹変するのだ。どういう時にスイッチが入るのか判らないが、突然家中を全力疾走、もとから居る先輩猫の「風(ふう)」に襲いかかる。嫌がって逃げるのを追い回し、馬乗りになって引き倒す。不器用な甘え方なのだが、そのパワフルさはまさにデビル―。
 つれあいは「風」のストレスを気遣う。長いこと僕ら夫婦の愛情を独占して8年、若い闖入者のやりたい放題に、対応しきれないままだ。
 「風、逆襲しろ! 頑張れ!」
 と激励しても、渋い顔でそっぽを向く。そんな日々が続いたせいか、近ごろは言動やたらに慎重になって、気のせいか老け込んだようにも見える。
 どこの国かは忘れたが、ヨーロッパのある猫島に伝わる話がある。犬は餌をくれる人を、自分にとっての神と考える。ところが猫は、
 「こんなにちゃんと餌をくれて、自分を大事にしてくれるのは、私が神だからに違いない」
 と合点すると言うのだ。
 いかにも、いかにも...と僕はそんな犬猫の生きざまの区別に賛同する。そうするとわが家には、老若二人の女神が居る勘定になる。何しろ神同志のことだ、いずれうまいこと折り合いをつけるに違いないと、ハラハラしながら見守るしかないか!
 あさみの歌声が気に入ったのか、テレビを見ていた「パフ」が、また戻って来た。妙にすっきりと鼻筋が通った顔に、眼張りを入れたみたいな丸い眼が、なかなかである。胴が長いのは背が髙いことに通じそうだし、白い体毛も長め。四肢が太いから相当デカくなりそうだ。
 《もしかすると...》
 と、僕は「パフ」の出自を考える。彼女には外国猫の血が混じっているのかも知れない。そうでもなければ「デビ」と化した時の、あのエネルギーとバイタリティーと瞬発力の説明がつかない。
 2月18日、前夜から関東も雪とテレビの天気予報が大騒ぎしたのが、うまいぐあいにほとんど雨。それが小雨に変わった夕方の5時半過ぎ。湘南葉山の海の向こう側に、細い帯を横に張ったような夕焼けが出現した。ところどころに陽が差して光の柱が出来ている。
 《あれは確か〝天使の階段〟と言うんだ》
 僕はベランダ越しに、そんな珍しい光景に眼をやった。夜の仕事が突然キャンセルになって、ずいぶん久しぶりに夕方の帰宅。あさみの歌と猫のあれこれに恵まれた裏事情である。
 「パフ」は今、僕の机に上がり、この原稿を書く万年筆の動きに、ちょっかいを出す。年増女然として来た「風」は、リビングの定位置で、不貞寝をしている。
週刊ミュージック・リポート

いい歌を、もっと、もっと...

 歌の流れが歌謡曲へ傾いている...と何度も書くが、決して演歌軽視論者ではない。演歌は演歌として、その魅力を極めたいし、それに歌謡曲系が加われば、歌の流れが大きくふくらむ豊かさに期待しているのだ。
 その演歌だが、色あいを際立たせる手の一つに民謡調が目立つ。ひなびた味、起伏きっちりの節、歌う心地よさなどが軸。歌い手に独自性が生まれる妙もあろうか。CDのリリース数が減って、作家たちの工夫が求められる側面もあろうが、歌づくりは知恵くらべ、いい歌をずっと心待ちにしている。

夕陽しぼり坂

夕陽しぼり坂

作詞:喜多條忠
作曲:西つよし
唄:大石まどか
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 この人は東芝EMI時代、歌謡曲を集中して歌った。しかし、時に利あらずで、コロムビアに移籍、演歌を軸にしぼり直した経緯を持つ。昨今、歌の流れは歌謡曲にふくらんで来て、彼女は再びそれに添おうとする。大きなうねりを生きての歌手生活24年めということになるか。
 喜多條忠の詞7行分を二つのブロックに分けて、西つよしの曲がいかにも、いかにも。石倉重信の編曲はエレキギターを前面に出した。前作『居酒屋「津軽」』が好評だったのに乗じて、"その気"のスタッフが強気だ。

かたくりの花

かたくりの花

作詞:喜多條忠
作曲:平尾昌晃
唄:北山たけし
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 こちらは喜多條忠の詞に、平尾昌晃が曲をつけた。ポップス系の作曲家との組み合わせは、明らかに歌謡曲狙いだろう。伊戸のりおのアレンジは、委細承知とばかりサックスを前面に出した。
北山たけしはこれまで、いろんなタイプの作品を手がけて来た。それぞれに、ほどほどの味を作るあたり、器用な人なのかも知れない。今回も無理のない歌唱に彼の声味が生きて、ごく自然な情感が生まれている。企画が蛇行していると皮肉に見るよりは、彼の多面性をアピールする一作と受け取ろうか?

面影橋

面影橋

作詞:海老原秀元
作曲:岡千秋
唄:松原のぶえ
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 こういう時期のせいか、演歌も悲痛さまでは踏み込まない。メジャー系の曲をゆったりと、松原が歌ってほのぼのムードだ。3コーラスの歌い納めに「春の夢」「春の空」「春の音」が並ぶ。案外こういう作品のほうが、松原の歌のうまさが際立つ気がする。

男の懺悔

男の懺悔

作詞:坂口照幸
作曲:水森英夫
唄:和田青児
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 寝込んだ女を三日三晩ほったらかしじゃ、そりゃ気がとがめようが、それを「男の懺悔」にするあたり、作詞の坂口照幸も踏んばったものだ。曲の水森英夫は、素知らぬ顔で民謡調に仕立てる。和田の歌の、節を聴かせる特性をうまく生かす目論みだろう。

港町しぐれ

港町しぐれ

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 水森英夫はこの作品で、民謡調から日本調へ、もう一歩深入りする。池田輝郎の声と歌を生かしながら、今、それをやればこうなる...とでも言いたげだ。ちらっと連想するのは美空ひばりの『車屋さん』あたり。かつて米山正夫が独壇場とした路線に聴こえた。

鎌倉恋歌

鎌倉恋歌

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 言っちゃあ何だが、伊藤雪彦の老いの一徹でしょう。愛弟子三代沙也可の今作は、前作の江の島から鎌倉へ移って、湘南シリーズふう。ゆったりめの演歌で、失意の女心ソングだ。三代のための歌づくり、その執着心が生んだ情趣と、一応敬意を表しておこう。

螢子(けいこ)

螢子(けいこ)

作詞:高田ひろお
作曲:弦哲也
唄:山川豊
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 高田ひろおの素朴な5行詞で、作曲の弦哲也が腕前のほどを聴かせる。歌い出しを高めに出ておいて、中盤以降、山川豊の低音の響かせどころが4個所ほど。彼の魅力がそこにあるところを生かす、細心の曲づくり。結果、歌のメリハリもきちんと作れている。

昭和えれじい

昭和えれじい

作詞:吉田旺
作曲:船村徹
唄:岩本公水
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 吉田旺の4行詞に船村徹の曲。ちあきなおみ用に書き、昭和63年に出たアルバムの一曲のカバー。船村・ちあきには「酒場川」があるが、それを意識してかこちらは"昭和川"が舞台。ちあきのはかなげな情趣に、岩本公水、デビュー20周年の挑戦をよしとしよう。

ひえつき望郷歌

ひえつき望郷歌

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
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 類型化しがちな演歌を離れるには、民謡調もひとつの手。歌い回し、歌い上げたがるカラオケ上級者を取り込むことも出来る。そんな路線へ、仁井谷俊也・岡千秋コンビが参入した。面白いもので、岡ゆう子のレパートリーづくりでも、色あいがはっきりした。

雨がたり

雨がたり

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子
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 伊藤雪彦の三代沙也可への執着心は別項で書いたが、こちら瀬戸内かおるの詞、岸本健介の曲、夏木綾子も、相当な根くらべトリオ。これでもか、これでもか!が、もう何作続いたろう? 今回は演歌ワルツ、さすがに夏木の歌が、作品になじんで来ている。

津軽の友

津軽の友

作詞:志賀大介
作曲:新倉武
唄:山本謙司

 色が濃い、アクが強い方が目立ちやすい...ということになれば、山本謙司に出番が来る。津軽出身で南部民謡の歌い手だから、民謡調はお手のもの...と思ったら、志賀大介の詞、新倉武の曲で、今作は演歌系。演歌が民謡調へ傾く風潮へ、一種の逆コースだ。

風うた

風うた

作詞:吉田旺
作曲:杉本眞人
唄:坂本冬美
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 坂本冬美は色つきの玉ねぎ。どんなタイプの作品で色づけをしても、みんな冬美の歌になってしまう。むいてもむいても...なのだ。今回の色は吉田旺の詞、杉本眞人の曲。杉本メロディーの"口調"が、やや控えめで思ったより静かだが、やっぱり冬美色だ。

MC音楽センター
 「日本一! 巨大円型3Dプロジェクションマッピング劇場」
 なんて、大上段に振りかぶろう...という話になった。4月27日、栃木・日光市にオープン予定の「船村徹記念館」の売りもの。入場するといきなり、そういう映像施設のお出迎えになる。船村の郷里・栃木の四季から、彼の歌づくりの道筋を見せて、テーマふうに流れるのはやっぱり「別れの一本杉」である。それが美空ひばり、島倉千代子、北島三郎、ちあきなおみ、大月みやこ、鳥羽一郎らの舞台に展開、ひばりは不死鳥になって宙へ翔ぶ。全部が圧倒的な立体で、どでかい空間を満たし、やがて船村の音楽は日本から世界へ広がっていく。
 3Dは判るが、プロジェクションマッピングとなると、いささか知識が心許ないが、
 「何しろ日本一だ。これだけは確保しよう」
 と、最先端技術を総動員する掛け声を、準備段階から言い募った。この種のコンピューター仕掛けは日進月歩である情報は持っていて、
 「負けるな! 追い越せ!」
 の号令に、大勢のスタッフが当然、不眠不休になった。
 湘南・辻堂の船村家へ、資料が山ほど持ち込まれる。乃村工藝社の藤本強プロデューサーとアクロスという映像制作会社の馬止理行社長は、かつて星野哲郎記念館を作った時の仲間。気心が知れているからここ2、3年ガンガン言い合って来た。リーダーの船村夫人・喜怒哀楽社の福田佳子社長、秘書格の山路匂子さんが、それぞれの夢を重ねる。3階建ての記念館の、各コーナーの映像と音楽のあれこれ、飾るものの取捨選択、展示の仕方の細部まで、夢にまで出てくるほど続いた作業が大詰めだ。
 船村の歌づくりの拠点・楽想館がある今市が、日光市と合併した。目抜き通りの再開発で、道の駅みたいな大きな商業施設が出来る。そのシンボルと位置づけられるのが記念館だが、
 「そういうものが、生きているうちに出来るのはいかがなものか」
 と、当初船村本人は首をかしげた。しかし、日本の大衆音楽を代表する大物作曲家であるうえに、栃木への愛郷心はなみなみならぬ人である。この際、是非...という地元の期待は熱かった。何しろ作詞家髙野公男が茨城弁で詞を書き、船村が栃木弁で曲を書くところからスタートした作曲人生ではないか!
 「先生の人柄を反映しながら、これ以上ないものにしなければ...」
 と、レコード各社の船村担当やOB諸氏も気合いが入った。ぼう大な音源の確保と許諾問題、散逸しがちなジャケット写真のかき集め、展示されるスター歌手たちの資料集めなど、作業は複雑で多岐にわたる。地元対策も含めてカラオケ・ルームを作るとなれば、
 「演歌巡礼で先生と一緒の仲間たちバンドの演奏で...」
 などの欲が出る。それならば...と代表曲の演奏録音と映像づくり。記念館へ来たカラオケ自慢は何と、斎藤功のギターをはじめとするおなじみのメンバーをバックに歌えるうえ、その様子をDVDに焼いてお持ち帰りも出来るようになった。
 「まず、俺たちが歌いたいねえ」
 と、船村チームはみんな歌好き、のど自慢だ。 どこの地域でもそうだが、建築を主導する市の関係者の考え方は、ハコモノ造りに傾きやすい。ところが福田社長以下のこちらは、中身をどうするかを中心に考える。いってみれば、ハード組とソフト組の夢の突き合わせが話し合いの軸。月に一度の割合いで、もう何年会議をやったろう...と、大詰めの顔を見合わせている。双方とも、二度と体験できない大仕事だから、いつからかお仲間の体温になった。
 2月11日の辻堂会議は、ソフト組の詰めの打ち合わせ。口角泡をとばした後は、いつものことだが夕刻から、船村家近くのこじゃれた店で、お疲れさんの一杯! になる。この期におよんでもまだ、あれこれ言い募るのは藤本・馬止の二人組。僕は焼酎〝三岳〟をお湯割りでやりながら、9日までやった芝居の役柄、江戸時代の版元蔦屋重三郎がまだ心身に淀むのから無理やり解脱する。頭の中で鳴り始めているのは、歌謡少年時代からなじんだ、船村メロディーのあれこれだ。
週刊ミュージック・リポート
 作曲家の弦哲也とじっくり話をした。彼は今年、音楽生活50周年。珍しく作詞をし、作曲を五木ひろしがした記念シングル「犬吠埼~おれの故郷」を出し、半生記の「我、未だ旅の途中」(廣済堂出版)を出版、全国で記念コンサートをやる。
 「節目の年だからと、ありがたい話をもらって...」
 と、例によって彼は穏やかな笑顔だが、話してみればエピソードの山盛り。人の縁に支えられ、その一つ一つを着々と生かして来た50年分が、面白おかしく汲めども尽きない。ずっとやっているMC音楽通信の機関紙の対談だが、タブロイド版2ページに収め切れずに往生する。
 ひょいと、三木たかしの名が出て来た。弦が故郷の千葉・銚子を離れ、14才で上京して転校した先が北区の堀船中学校。三木はそこの先輩だったそうな。もっとも年齢が違うから、三木はすでに卒業していたが、武勇伝は残っていた。僕も本人から直接聞いたが、荒川を舟で渡って、赤羽あたりのグループになぐり込みをかけたこともある。相当にやんちゃな先輩と、至極真面目な後輩という間柄になろうか。
 「後を、頼むよ」
 と、最晩年の三木から掛けられた声が、弦は忘れられないと言う。歌づくりから作曲家協会のこと、レコード大賞のことなど、推測すればいろんな意味があったろうが、弦はそんな三木の遺思を大事にしようとする。作曲家協会の理事長で音楽著作権協会の理事で...と、近ごろいくつも肩書きを背負っている。多忙なヒットメーカーの部分と、時間を繰り合わせて頑張っているのだろう。三木も最後までそうだったが、実績と人望を両手にしている分だけ、周囲から推されるのだから、否も応もあるまい。
 「あいつが逝って、今年はもう7回忌だ」
 三木は親友であり、媒酌人をやらされもした仲だから、僕もしみじみとなる。未亡人と呼んだら若過ぎる恵理子夫人から、法要の会の相談を受けて、喜んで手伝う返事をしたばかりだ。祥月命日は5月11日、日程はそれを前倒しして...と、相談相手はミュージックグリッドの境弘邦社長。歌社会の祝儀不祝儀を長くやって来たコンビだから、
 「また、表の小西、裏の境か...」
 と、冗談から始まってツーと言えばカーだ。
 ここのところ流行歌の流れは、はっきりと演歌から歌謡曲へ、移行している。決して演歌がすたれるはずもなく、いい歌だったらあれもこれも...の賑いが求められてのことだろう。
 《だとすれば、三木たかしの出番だよな》
 と僕は、死んだ友の年を数える形になる。あいつが元気だったら、ああもしたろうこうもしたろうと、三木が書くだろうメロディーを夢想するのだ。没後6年経っても、三木の歌書きとしての存在感が、薄れることはない。未発表の曲が相当数あると聞いた。それを世に出す手伝いをしようか!
 芝居のけいこの合い間を縫っての、弦との対談であり、三木への物思いである。流行歌評判屋としては、やらなければならない仕事を多く後回しにしている。1月27日には三木の7回忌の打ち合わせを欠席した。川中美幸の周辺には新年以降いろいろあったが、みな不義理をした。川中は僕に役者への道を開いてくれた恩人なのに、その顔出しを芝居のけいこで欠席とは皮肉な話だ。28日には作詞家山口洋子のお別れの会があったが、これもごめんなさい。花を手向けるべきを、夜の居酒屋で共演者相手に、回想談の長広舌でその代わりにした。申し訳ないが、文字通りの〝うわさ供養〟である。
 僕の2月公演は、5日から8日までの4日間6回、中目黒キンケロ・シアターで、劇団若獅子プロデュースの「歌麿~夢まぼろし」(笠原章作、演出、主演)だ。浮世絵師喜多川歌麿と謎の絵師東洲斎写楽を手玉に取ろうとする、版元蔦屋重三郎が僕の役。やたらに多いセリフの束が、四六時中、頭の中を堂々めぐりしている。そう言えば弦哲也も、受注した幾つもの曲の断片が、音符になってしょっ中、頭の中をはね回ると言っていた。思いがけないところで、売れっ子作曲家と二足のわらじの老優が、似た体験をしていることに気づいたものだ。
週刊ミュージック・リポート
 新年2回目から、もう芝居の話で恐縮だが、2月用のけいこが始まっている。今度は劇団若獅子プロデュースの「歌麿・夢まぼろし」(笠原章作・演出・主演)で、公演は2月5日から8日までの4日間6回。場所は中目黒のキンケロ・シアターだ。浮世絵師喜多川歌麿を主人公に、幻の役者絵師東洲斎写楽がからむ江戸は寛政のころのお話。僕の役は耕書堂主人・蔦屋重三郎―。
 「小西さん、今回はあんたに当て書きしましたからね」
 と、作者の笠原が笑う。蔦重のニックネームのこの男は、浮世絵の版元として腕を振るったことで知られる。版元はいってみればジャーナリストの感覚とプロデューサーの商いを世間に問うのが特色。そこがスポーツニッポン新聞の記者あがりで、流行歌評判屋の拙職に、相通じるということだろう。
 《そう言われれば、思い当たる節があるようで、ないようで...》
 と、僕はやたらに多いセリフと役作りに悪戦苦闘している。
 笠原は劇団若獅子を主宰する。この劇団は島田正吾、辰巳柳太郎の新国劇を継承、長谷川伸の名作などを軒並み上演しているが、今回はその番外編。笠原が長く温めていた歌麿の人と仕事、その愛にスポットを当てた。彗星のように現れて一世を風靡、忽然と姿を消した写楽の、謎の生い立ちと消息も暴かれる。と言ってもこれは自作自演する笠原流の仮設だろうが、僕の蔦重はその二人を手玉に取ろうとするのだから大変だ。
 笠原とは、川中美幸公演で知り合い、昨年は川中と松平健の合同公演でご一緒したのが縁で、ありがたい声をかけてもらった。ご一緒するのは笠原が集めた若獅子以外の方々で、たとえば森朝子はベテラン女優で競馬もお得意、テレビの競馬中継にレギュラー出演しているからご存知の向きも多かろう。けいこから驚くべきハイ・テンションの立川修也は、元新国劇で笠原の弟分ふう。一見若手!? と見える井保三兎は関西出身、上京後〝ラビット番長〟という劇団を主宰してもう8年、小劇場公演を続けているという。人形町のけいこ場へ、連日コーヒーの差入れをしてくれる三崎由記子はキャリアとお人柄がしのばれる気配りの人。何くれとない立ち居振る舞いの舞戸礼子、野田あゆみに、花魁多賀袖に扮して、背中一面の弥勒菩薩の刺青を見せる藤田舞夢のあで姿と、これで出演者9人の全員だ。面倒を見てくれるのは演出補の柴田時江、こぶりの座組みのこぶりの劇場公演だから、良しも悪しも丸見えになるだろうプレッシャーがきつい。けいこから油断も隙もない日々なのだ。
 1月21日、僕が所属する東宝現代劇75人の会の総会があった。けいこが始まって2日目だから、会合は欠席、二次会の居酒屋に合流した。横澤祐一、丸山博一、村田美佐子ら先輩たちが、
 「どうなのよ」
 と冷やかし加減なのへ、
 「せりふもうろ覚えのまんま、もう立ちげいこですよ」
 と他流試合の報告をしたら、
 「ま、胸を張ってやってらっしゃい」
 と、事もなげにみんなでプレッシャーをかけて来る。川中美幸一座は、ことしは公演がないと聞くから、僕は群れを離れた〝さすらい老優〟の気分だが、芸歴50年超の先輩たちにはそんなことは当たり前。横澤は僕の師匠格で昨年秋の75人の会公演「深川の赤い橋」では、作・演出・出演、ひとかたならぬ教えを受けた。それが
 「中日黒は2月の何日からだっけ?」
 と、煙草の煙の向こう側でニヤニヤする。どうやら見に来てくれそうな気配で、だとすれば、それなりの成果を期待されているのか?
 横澤は笠原のお仲間で、劇団若獅子の舞台にもよく出ている。そのせいだろう、けいこ場でもよく名前が出て、人間関係の機微、芸する人たちの交友の深さを知る。
 「踵で芝居をしなけりゃな」
 以前横澤に言われたことの意味が、まだしっくりとは腑に落ちぬまま、
 「よォしッ!」
 と、僕はカマキリの斧を振り上げている。
週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ157


 「賞なんてものは、生涯無縁だと思ってたんだけどね...」

 語尾でニヤッと笑ったから、シャレかと思った。"賞"と"生涯"のショウである。日本レコード大賞の作詩賞を受賞した喜多條忠。受賞作が『愛鍵』で発売当初「今度は当て字か」と、どこかに書いた記憶が僕にあった。歌ったのは秋元順子、作曲したのは花岡優平で、この二人とも親交があるから「ご同慶のいたりだろう。折にふれて名前が出ることは、いいことだよ」と、話がどうしても冗談まじりになる。素直に「おめでとう!」と言えばいいものを、これも性分なのか――。

 「この世界に戻って来て、よかったよな」

 なんて、また言わずもがなのことを言う。中村美律子のアルバムからシングルカットしたのが、『下津井・お滝・まだかな橋』、五木ひろしのアルバムからのシングルの『橋場の渡し』なんてあたりが、彼と僕の仕事のとっかかり。星野哲郎、阿久悠、吉岡治らが病んでいて、僕の歌づくりが駒不足(失礼!)になってもいた。

 「何で俺に、お鉢が回って来るのよ?」

 と首をかしげた彼に、

 「長いこと競艇三昧だったから、お前さん、まだ賞味期限が来てないのよ」

 と、乱暴に答えたものだ。昔、スポニチにいたころ「喜多條先生がよろしくと言ってました」と、よく伝言を持って来たのが、音楽担当記者ではなく、競艇担当の同僚なのが、シャクのタネだった。

 121日夜、帝国ホテルで開かれた遠藤実の七回忌のパーティーでの立ち話。

 「五木さんの『凍て鶴』からだって、もう6年になる。あれは二度も"紅白"で歌ってもらった...」

 喜多條の口調がしみじみとした。『凍て鶴』は三木たかしの最後の傑作として、僕らの記憶に新しい。詞先行で曲があがり、手直しを少々したのが2008年の9月。10月にレコーディングして11月に発売という突貫作業で、五木に翌月の"紅白"で歌ってもらうように頼んだ。

 「いくら何でも。来年の"紅白"じゃだめなの?」

 と聞き返した五木に、僕は

 「たかしは、来年の暮れまではもたないよ」

 と、辛いダメを押した。一ヵ月後、相当な決心で五木はこの曲を"紅白"で歌い、涙ながらにそれを見た三木は、翌年511日に亡くなった――。

 年の瀬、大義なき解散をした衆院選で、世の中は波立っている。政情不安が不信にふくらむキナ臭さの中で、はやり歌評判屋の僕は、ついつい昔話を始める。加齢による回顧趣味と笑わば笑え!だが、いい歌が沢山あったころへの回帰の願いがその芯にある。

 「みんな頑張ってますよ。発注が激減して、僕ら仲間の危機感も強くなってる!」

 演歌・歌謡曲の"これから"を見据えて、語気を強める喜多條は、日本作詩家協会会長の顔になった。そう言われれば常連作詞家たちの作品の水準が、少しずつ上がる気配が確かにある。新年を楽しみにしようか!

月刊ソングブック

殻を打ち破れ156


1111日、東京は時々小雨、気温が15度を切った冬日に、中川博之が納骨された。墓所は青山・梅窓院。ムード歌謡で一時代を作った彼に似合いか、盛り場の一隅にある有名な寺で、取り仕切ったのは夫人で作詞家の髙畠じゅん子。

 その中川の遺作が新譜として出た。美川憲一の『雨がつれ去った恋』である。

 ♪ガラス窓 雨粒が つなぎあい 落ちてゆく...

 というのが、髙畠が書いた歌詞の、歌い出しのフレーズ。そんな光景の中で、去った恋人をしのぶ女心ソングが、この日の空模様と参列者の心模様につながる。中川が亡くなって五ヵ月めの月命日。髙畠の胸中はどんな揺れ方をしたのだろう。

 美川の歌が珍しく、熱唱型になっている。中川のメロディーが美しく、起伏豊かなことがそうさせたのか。高音のサビあたり、思いのたけが切迫する気配を作る。

 ≪判る気がするな...≫

 と、僕は合点する。彼の代表作の一つ『さそり座の女』が、中川作品だった。美川のデビュー作は『柳ヶ瀬ブルース』で、昭和41年、僕は岐阜のあの繁華街へ同行取材に出かけた。低音がよく響く印象が残るが、当時の彼はごく"ふつう"の演歌歌手だった。それがやがて化粧濃いめの異能の歌手に変身する。昨今大流行の"おねえ族"の元祖。その転機を作ったのが『さそり座の女』ではなかったか?

 そういう意味では、中川は美川の師にあたる。その人の遺作を歌うとなれば、美川は当然、心の威儀を正したろう。毒舌コメントでテレビの芸能レポーターにもてはやされていても、芯の部分はきっちりした昔気質の歌手である。襟を正して楽曲と向き合う。中川との親交のあれこれを思い浮かべる。マイクの前に立てば、師を葬送する思いも深まったことだろう。だとすれば、けだるげに突き放ち気味の、いつもの唱法でなくなるのも無理はない――と、僕はそう思うのだ。

 昭和38年にスタートした七つめのレコード会社日本クラウンへ、駆け出し記者の僕は日参した。コロムビアに反旗をひるがえした人々の新会社は、妙に陽気な活気に満ちて、来る者一切拒まぬ気風があった。その中に米山正夫が居り、星野哲郎が居り、小杉仁三や中川博之が居た。僕はあっさりお仲間の一人にしてもらい、流行歌世界のいろはをここで学ぶ。中川はロス・プリモスの『ラブユー東京』や『たそがれの銀座』などで頭角を現し、あっという間にムード歌謡の書き手として一家を成した。平昜、簡潔、ロマンチックできれいなメロディーで、彼はクラウンの作曲勢の柱の一本になり、昭和、平成の歌謡史を下支えする人になった。

 決して世渡り上手とは言えない、控えめな言動と、好奇心に満ちた少年みたいな眼と、はにかみ笑いの中川と僕は、同い年だった。流行歌のうねりが、演歌から歌謡曲に大きく流れを変えた今日このごろである。彼だからこそ書けた中川メロディーの出番は多かったろうに...と、僕は痛恨の思いで美川の新曲を聞いている。

月刊ソングブック

殻を打ち破れ155 


 島津悦子の新曲『惚れたのさ』を聞いて、

 ≪ほほう!≫

 になった。やくざ唄みたいに骨太のメロディーを、ザックリ歌ってなかなかである。彼女にとって、これが初めての男唄と知って、また、

 ≪ほほう...≫

 になる。パーティーなどで出会うと「こぶさたしてます!」なんてあいさつが、笑顔も一緒にさっぱりめで、そんな気性が好ましかったから、男唄など何度も歌っていたろうと思っていた。

 作曲は誰?と歌詞カードを見たら、徳久広司である。これまた

 ≪ほほう≫

 で、彼が書くメロディーが、ジャンルを越えて幅広いことにまた思いいたる。以前、その秘密を尋ねたら、

 「詞を貰ったら、彼らが書くとどんな曲になるかな?と、考えるのがとっかかりかな」

 と答えたことを思い出した。プロだからコピーするはずなどない。おおづかみ誰か流...と狙い目を想定するということだろう。

 だとすれば『惚れたのさ』を書く時に、思い浮かべたライバルの顔は、誰あたりだろう?中村典正ほどの骨太さではない。では岡千秋か? ナタでバサッとやるような切り口は、案外近いかも知れない。

 徳久は作曲界のパルチザンだな...と思う。ここかと思えばまたあちら、演歌歌謡曲戦線をタイプ多彩に神出鬼没する遊撃隊。その成果はあちこちで、かなり手堅いのだ。

 ≪しかし、彼の本線はこれだろう!≫

 ハン・ジナの『ガラスの部屋』を聞いて、僕はハタ!と膝を叩いた。何しろ聞き応えが滅法快いのだ。メロディーの起伏そのものが甘美でゆるみたるみがない。テンポもまたこれ以外にない絶妙のノリだ。平易だがドキッとする個所のある田久保真見の詞が、サビあたり「やめて!やめて!」なんて連呼する。曲の徳久とキャッチボールした気配がある。川村栄二のアレンジもそれらしく、うまい隙間を作った。結果ハン・ジナのハスキーボイスも生き生きとしている。

 詞、曲、編曲、歌と、四拍子が揃っているから、聞くこちらはあっさり持っていかれる。一杯やりながら...だったらウイスキーかも知れない。カラオケだったら連れの異性と眼を合わせて歌いたい気分。かつて"3連の徳さん"と呼ばれた徳久の面目躍如で、歌好きの支持で長命の『ノラ』の路線と言えば言えるか!

 ドカンとは来ないかも知れないが、愛され続けてロングセラーになる可能性は高い。そう書きながら僕は、ニンマリする徳久の顔を思い浮かべる。韓国歌手のムード歌謡は、いつの時代もヒットの椅子がひとつ、用意されている。日本でしのぎをけずるあちら歌手群を抜け出して、ハン・ジナがこの曲で、その椅子をせしめることが出来るかどうか?桂銀淑のドスの利き方に比べれば、この人の歌は艶っぽく甘いのが特徴だが...。

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 「以前、星野哲郎先生に言われたことがある。賞というものは、くれると言われたら迷わずにもらえ。一度辞退したら、もうもらえなくなるぞと――」
 作詞家志賀大介の発言は、最初から言い訳になった。1月14日夜、JR四ツ谷駅前のスクワール麹町で開かれた日本音楽著作家連合の新年懇親会の席。発表、授賞の運びになった平成26年度藤田まさと賞で、彼が作詞した「人生一勝二敗」が表彰されたせいだ。彼はこの会の会長で、当然この賞を審査する会も取り仕切ったろう。そんな立場上、いかがなものか...と思い惑ったらしい。
 「しかし...」
 と、志賀の言い訳はまだ続く。自分だけが固辞したら、この作品を作曲した岡千秋、編曲した南郷達也、歌唱した三門忠司、制作したテイチクエンタテインメントの皆さんに、申し訳が立たない。
 「だから...」
 と、熟慮の末に苦渋の決断!? をしたという。恐縮ありありの小声が、マイク遠めだから聞き取りにくいが、一緒に受賞した面々は、満面の笑みだ。こいつは春から縁起がいいや! の気分だろうし、いつも控えめで場慣れしていない志賀の、人柄が丸出しと思えもしたろう。
 大作詞家藤田まさとの業績を顕彰、記念する賞で、制定委員と連合の役員が審査する。テレビ放送もマスコミのカメラの放列もなしの地味づくり。その分だけ公正無私なんてお題目は唱えないし、歌業界の思惑もからまない。いってみれば歌書きたち互選の賞だが、それだからこその操と志は保たれていよう。志賀発言は、暗にそこのところに触れたかったのではないか?
 歌社会多事多難の中で、人肌のほほえましさが目立つ集いであり、賞である。表彰状を読み上げるのが、副会長の弦哲也で、殊勝な顔で受け取るのが岡や南郷、それを見守るのが理事長の四方章人となる。弦、四方、南郷は僕らの仲町会のメンバーだし、岡は毎夏、一緒に北海道・鹿部へ出かけて、ゴルフと酒三昧で遊ぶ仲。
 「何だか、ゴルフコンペの表彰式みたいだなァ」
 と言ったら、隣りにいたたかたかしがクックッと笑った。彼が取り仕切るコンペ演歌杯にはみんな参加していて「人生一勝二敗」の制作者テイチクの太田輝部長など、昨年の優勝者だった。
 会場にもう一人、しきりに恐縮する顔があって、歌手の松前ひろ子。今回の藤田まさと賞の特別賞を、彼女の事務所の後輩三山ひろしの「あやめ雨情」が受賞した。しかし当の三山が仕事で欠席したから、松前は代理でお辞儀の連続になる。こちらの受賞者には作詞の仁井谷俊也、作曲の中村典正、編曲の前田俊明らの顔が並んだ。
 前田も仲町会だから、気安く、
 「俊ちゃん、この賞は今回で何回めだ?」
 と聞いたら「ウッ」と返答に窮した。演歌、歌謡曲系が主の賞だから、売れっ子アレンジャーがからむことが多い。リストで調べたら、前田が7回目で最多、南郷も6回目と、なかなかの賑いだ。志賀は「手毬花」(平成17年) 「はぐれ舟」(同22年)に続いて今回が3度め。仁井谷は「人生しみじみ...」(平成10年)「秋月の女」(同25年)の藤田賞に今度の特別賞で三度めのおめでたという勘定。岡千秋は松原のぶえの「演歌みち」(昭和60年)神野美伽の「ふたりの旅栞」(平成10年)に次いで三回めで、吉岡治、荒木とよひさの詞だったと、こちらはスラスラと答えた。見かけによらず律気なところがあるのだ。
 その岡が風邪で熱を出していたから「貰うもの貰ったら帰れよ」とすすめたが「いや!」と踏ん張った。この会呼び物の福引きは、岡と徳久広司が蛮声張り上げて進行するのが恒例で、二人はいつも通りの大役!? を見事に果たした。
 ところで志賀が先輩のひそみにならったという星野哲郎の受賞歴は「雪椿」ほかで三作。温顔の眼許しわしわさせながら、案外しぶとかったな...と、僕は亡き師をしのんだ。
週刊ミュージック・リポート

演歌勢の"やる気"が聞える!

 自分自身の来し方行く末と感慨を、思いを込めて歌った。弦哲也の記念曲は相当な完成度を持ち、流行歌としてもきちんと説得力を持つ。北島三郎は自分の気概と曲づくりの技を重ねて、彼ならではの世界を作りあげた。絵空事のはやり歌の芯に、それぞれがしっかり真実を埋め込んだ手応えがある。天童よしみ、中村美律子は、これが身上!の味と巧みさを聞かせた。その他にも制作サイドの意欲がうかがえる歌があり、窮地だからこそか、演歌、なかなかの賑いである。

 長嶺ヤス子の踊りは、野卑な官能と思索の静けさが交錯する。圧倒的な前者と、一瞬の間(ま)でかいま見せる後者だ。フラメンコをとことん追及、その後長いこと独自の長嶺流の世界に耽溺し、今またフラメンコに回帰する気配がある。11月21日から新宿のエルフラメンコ、12月9日はゆうぽうとホール、その前後がけいこと、彼女は師走を踊りまくった。
 《それにしてもまあ、よくやるよ...》
 と、僕はなかば呆れる。
 踊っても踊っても、もうかりはしない種の興行である。それでも彼女は、スペインからダンサー、歌手、ギタリストを呼ぶことにこだわる。本場の人々としっかりと意思の疎通をはかる。有無通じる間柄にならなければ踊れない。
 「ヤス子は、立っているだけでもフラメンコだなんて、彼らは言うの」
 と、コメントも笑顔も無邪気だが、こと踊りに関しては徹底して一流のプライドを守るのだ。
 僕は50才のころに彼女と出会った。「さて...」と、自分の行く末に思い当たり、浮かぬ気分でいるところへ、彼女は、
 「ニューヨークで踊る。それから何としても、サロメを踊る」
 と、口調がやたらに熱っぽかった。僕はお尻を叩かれ、眼からうろこをはぎ落とされた。それから30年近く、彼女は今、来年5月公演のチケットをもう売りにかかる。その収入で今回の経費をまかなう自転車操業。そんなギリギリの中で、この人は一体いつまで踊り続けるのだろう?
 12月6日には有楽町朝日ホールで、出口美保のシャンソンを聞いた。大阪を拠点にする人だが、毎年この時期に東京へ遠征する。
 「思いばかりが積り、はがゆさばかりが重く、思い出にふけっている間に、時は容赦なく流れ...」
 という彼女は喜寿、長嶺も僕も、ほぼ同い年だ。 「サンジャンの私の恋人」「コメディアン」「ラ・ボエーム」などと並べて「真夜中のギター」や「神田川」まで歌う。長嶺が歌舞伎座で「飢餓海峡」を踊った時、誘った作詞者の吉岡治が驚嘆したものだが、出口の「真夜中のギター」を聞かせたら、どういうふうに興奮したろう。サビまで呟くように語ってしまう思いがけない語り口。しわがれた声と独特の存在感。ある曲では町の隅にうずくまる老婆がおり、別の曲ではパリの街角をそぞろ歩く若い恋人たちがいる。曲ごとに交錯するのは陶酔と覚醒の妙だろうか。
 《レジェンドだな、この人も、長嶺も...》
 スキーヤーの葛西紀明がまた、W杯を制して〝レジェンド〟の異名を誇示したこの月、僕は日本の劇場で芸するレジェンド二人を目撃した。シャンソンから出発、彼女流の日本の歌を構築している出口の足取りも、そう言えば長嶺に似ている。
 《そう言えば...》
 で僕は、もう一人のレジェンドを思い起こす。親交のあるサザンクロスの粕谷武雄顧問。僕は11月24日、彼に会いに伊東へ出かけた。職場のサザンクロスで開かれたのは、彼の傘寿と在籍50年を祝う会があってのこと。星野哲郎が長いこと、伊豆の清遊の拠点にしたのが縁で、僕も彼とゴルフと酒のつきあいに恵まれている。
 「別に傘寿は驚かないよ。79才の次は80才、元気でさえ居れば誰でも到達するんだから...」
 と、憎まれ口を叩いたが、それより凄いと思ったのは、30才で飛び込んだ職場に50年勤務したキャリアだ。こればかりは、並のサラリーマンではとうてい成し得ない記録、そのうえに、
 「伊豆温泉活性化への協力、サザンクロスの発展に、微力ですが今しばらく働きます」
 と、現役宣言をするのだから、これも〝巷のレジェンド〟だろう。
 「天城越え、無理に歌わせ聴くわれの、右手に残る君のぬくもり」
 伊豆八首と題した自作短歌集の冒頭に、これがあるのだから恐れ入った。
 各界に若い才能の活躍ぶりが頼もしい。その一方、高齢社会のレジェンドたちも、手応え確かな実績を重ねる。この欄、今回が今年の最終回。長いご愛読に感謝を申し上げたい。新年は皆さんに、いい事ばかりが多いことを祈ろう。
週刊ミュージック・リポート
いのちの春

いのちの春

作詞:水木れいじ
作曲:四方章人
唄:
天童よしみ
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 「恋はいのちの いのちの春だから...」というフレーズが、各コーラスの歌い納めにある。高音でせり上がるメロディーがついているそこで、天童はのびのびと声を張る。舞台から大向うへ、両手を開くような姿が目に見えるようだ。
 この人はやっぱり、歌を"語る"よりは"歌い上げる"魅力の歌手だと合点がいく。歌の情感を大づかみに、何とも気分よさげな仕上げ方。それを生かしたのは、浪曲テイスト少々の四方章人のメロディーで、彼の曲としては起伏が大きめ。テンポもなかなか快適だ。

犬吠埼~おれの故郷~

犬吠埼~おれの故郷~

作詞:弦哲也
作曲:五木ひろし
唄:弦哲也
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 音楽生活50周年を記念、弦哲也が詞を書き、五木ひろしが曲をつけ、川中美幸がタイトルの文字を書いたのが話題。
犬吠埼は、弦が14歳で離れた故郷千葉を象徴する。そこを出て、そこを振り返り、そこで明日をのぞむ男唄。弦の心の原風景に、彼の半生の感慨が託されている。いってみれば彼の自叙伝ソング。五木の曲も彼らしいフレージングで、それを生かした。
 歌手田村進二として18歳でデビュー、不発に終わった青春の、その後の進化が極まる快唱。本人の苦渋と達成感が力強い。

大漁船

大漁船

作詞:大屋詩起
作曲:原譲二
唄:北島三郎
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 作曲者原譲二の技と、歌手北島三郎の気概が混然一体。それが歌い出しの歌詞1行分でくっきりとする。声を張ってスタートした歌が、語りに転じる妙。ヨイショヨイショの男声コーラスを従えて、彼の身上の海の男歌。78歳でこの覇気とヤマっ気。やっぱり相当なもんだ。

お岩木山

お岩木山

作詞:千葉幸雄
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
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 どちらかと言えば、情緒てんめん、情の細やかさが売りの三山が、岩木山と向き合って歌う男の心情ソング。ともすればラフな男くささを狙う企画を、のびのび淀みなく、すんなり仕上げるのが三山流か。師匠中村典正のツボを心得た曲で、歌の目線も山へ向かった。

いのちの人

いのちの人

作詞:水木れいじ
作曲:徳久広司
唄:天童よしみ
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 前出『いのちの春』と同時発売という二枚目のシングル。曲が徳久広司に代わって、こちらはムード歌謡仕立てだ。ガツンと歌い出して歌詞2行分、気分揺すって次の2行分、おしまいの2行分を開放的に決めて、ひところのクールファイブに似た快さがあった。

女の舟唄

女の舟唄

作詞:石原信一
作曲:幸耕平
唄:田川寿美
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 作曲家幸耕平の仕事は、メロディーがポップス寄りの歌謡曲で、強調されるリズムが快い。それが演歌系の曲を書き、田川が歌で揺すぶろうとした。リズムを先に行かせて、心情本位に歌うあたりが面白く、田川は情感の押し引きに、年季の呼吸を聞かせた。

潮騒(しおさい)

潮騒(しおさい)

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:中村美律子
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 ギターの爪弾きの前奏は南郷達也、歌い出し2行分で決める気の5行詞は久仁京介、ゆったりめの哀愁メロディーは徳久広司だ。それを声と節をあやつって、中村美律子が力量を示す。月の岬の灯台、恋の闇路...とこの歌「みだれ髪」のオマージュにも聞えた。

雪國ひとり

雪國ひとり

作詞:万城たかし
作曲:四方章人
唄:永井裕子
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 そうか15周年か!と、デビューから10年ほど、歌づくりを手伝った僕も感慨が深い。雪国の列車が舞台の女心ソング、心なしか細めの歌声が、"元気な裕子"を超えたおとなの女ぶり。前のめりの、やんちゃな勢いが影をひそめて、歌心が体の芯に据わった気配がある。

銀座小路

銀座小路

作詞:もず唱平
作曲:中村典正
唄:松前ひろ子
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 ほほう、銀座・金春小路ねえ...と、作詞もず唱平の顔を思い浮かべる。大阪在住、なにわの大将が書いた越境ソング!?だ。スローなメロ、とんとんとんのリズム、三味線の音色がからんで、松前の歌が楽しそう。これが近ごろの日本調の進化型だろうか?

氷雪挽歌

氷雪挽歌

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:戸川よし乃
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 どうやら岡千秋は、戸川のレパートリーづくりで、彼自身も新境地開拓を狙っていそうだ。起伏大きめなポップス系の曲で、伊戸のりおのアレンジもドラマチック。戸川にすれば、かなりハードル高めの作品を、一生懸命歌っていっぱいいっぱい。けなげである。

昭和縄のれん

昭和縄のれん

作詞:高田ひろお
作曲:杉本眞人
唄:走裕介
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 杉本眞人が書くメロディーには、彼特有の・口調・がある。一言で言えば語り歌。そこへ船村徹門下の走が、5年歌った声味と節回しの世界から一転した。もともとポップス系の下地がある青年の、もろ・その気・の挑戦、そこそこの健闘ぶりと書いておこうか!

MC音楽センター
 帝国ホテルの宴会場が、突然春景色になったから驚いた。祭壇の右手に桜、左手はこぶし、まん中をうねるのは緑の信濃川で、あとは一面に菜の花、チューリップ、スイートピー、フリージア...、背後に紅まで出て、中央にいい笑顔の遠藤実の遺影がある。12月1日夜開かれた彼の七回忌の集い。
 「越後の春を作れと言われて、この時期でしょ、花集めが大変でしたよ」
 友人の花屋、マル源の鈴木照義社長が小声で言う。彼には三木たかしの葬儀の祭壇で「空前絶後」を注文、星野哲郎の時は「なみだ船」や「兄弟船」の荒れる海を作ってと、無理難題を言った仲だから、有無相通じる笑顔だが、それにしても見事!
 なだ万の料理がフルコースで、ほどほどの酔いの参会者250人相手に、遠藤のヒット曲が並ぶのは、七回忌だから賑やかにの主催者の思いがあり「遠藤実 歌と共に」のタイトルにも表れてのこと。
 それならば...とばかりに千昌夫が一口噺を幾つか。そのうえで「世界の3大ワルツの」を名指す。「テネシー・ワルツ」「芸者ワルツ」それに彼の「星影のワルツ」だと言って爆笑させるのが自前の曲紹介。さっと切り替えて情感たっぷりめの歌は、さすがの年の功か。五月みどりの「おひまなら来てね」が懐しく、北島三郎は「ギター仁義」ではなく「親父」で、婿どのの北山たけしが手伝う趣向。縁のあった歌手たちもステージに勢揃いしたが、とっさのことで数え切れなかった。
 僕は一度だけ、遠藤に作曲を依頼したことがある。スポニチに連載した「阿久悠の実戦的作詞講座」の藤圭子編の当選作。こちらから何の注文もなく、あちらから特段のコメントもなく、さらさらっと「さすらい」が出来上がったが、当の藤は、
 「ご詠歌みたいね」
 と眉をひそめた。音域が狭く、起伏も地味めのメロディーが、遠藤の歌の特徴と知るには、彼女はまだ若かった。歌手として技の見せどころがないと思ったのだろう。
 しかしその感想は、その実、遠藤の世界を言い当てて妙だった。「北国の春」「すきま風」「みちづれ」など、彼の作品の多くが、ロングセラーになった理由がそこにある。シンプルなメロディーラインと奇をてらわぬ穏やかな感興が、庶民の心にじっくりとしみ通る。歌えば歌うほど、聞けば聞くほど、生きてくる歌なのだ。その歌づくりの核にあったのは「祈り」の心、信仰心の合掌ではなかったかと、僕は思った。そんな原稿がこの夜、参加者に配られた本「不滅の遠藤実」(橋本五郎、いではく、長田暁二編、藤原書店刊)に載っている。薬師寺長老安田暎胤師、不破哲三氏に船村徹、元トーラス五十嵐泰弘社長らと弟子の歌手たちが、一問一答形式でそれぞれ得難いエピソードを語っている。その中で一人だけ、屁理屈をこねている拙稿は、少し浮いていたが後の祭りだ。
 縁あって僕は船村徹から50年余の知遇を得て、弟子の一人と自認している。その船村と遠藤は強いライバル意識を伝えられて来た。同じ時期、同世代で歌づくりにしのぎを削ったせいだが、ひととなり、作風などはまるで違った。決してそのせいではなかろうが、遠藤と僕の縁は薄めに終わる。全方位外交の流行歌評判屋としては、いささかの悔いが残った。この夜の北島は「うちの師匠」と船村を呼びその歌づくりを「名人芸」とし、それに対して「遠藤先生」の仕事は「職人芸」だと話した。まだ作家の専属制が残り、作家たちの競合が厳しかったころからの体験が、にじむ心地がした。
 いではくは、遠藤実歌謡音楽振興財団の理事長職を、師匠の娘遠藤由美子に引き継いだ。あいさつにホッと一息肩の荷をおろした気配が濃い。彼と遠藤のつき合いは、秘書、作詞家として38年、遠藤の生涯のちょうど半分におよぶという献身ぶりだった。いでの紹介で幕切れは「喜びの日の歌」を歌う遠藤の映像になる。「ありがとう」を何度もくり返すその姿に、由美子新理事長は涙を拭った。
 冒頭の祭壇〝北国の春〟は6日、新潟市のホテル・イタリア軒で再現された。祥月命日に地元でも偲ぶ会が開かれてのことである。
週刊ミュージック・リポート


2015
年は早くも2つの劇場公演からお誘いがあった。そのは劇団若獅子プロデュース公演「歌麿~夢まぼろし」(笠原章・作、演出、主演)で25日から8日まで4日間6公演、場所は中目黒キンケロ・シアター。お話は寛政5年の江戸。吉原の遊女・多賀袖の背に刺青を彫るシーンから始まって、喜多川歌麿、彫り師唐草の権次らが登場、僕は版元の蔦屋重三郎役。人気浮世絵師歌麿の浮沈に、謎の絵師東洲斎写楽がからんで、ストーリーは予想外の展開を示す。若獅子は新国劇の世界を継承する劇団、笠原章座長とは川中美幸公演などでご一緒、その縁で声をかけてもらった。新年は山ほどあるセリフと格闘、祝い酒に酔うゆとりなどなかった一。

その4月、名取裕子主演の「居酒屋お夏」(岡本さとる原作、脚本、演出)で9日から19日まで11日間15公演、場所は三越劇場。時代は文政、目黒不動

近くの居酒屋が舞台で、日陰ぐらしの人々のたまり場。女将の名取裕子は気っ風のよさと毒舌が売り物だが、どうもいわく剣呑な、もう一つの顔を持っている気配。それが或る夜、付近で夜鷹が一人殺されたことから、ドラマが一気に激化する。共演は目黒祐樹、河原崎國太郎、青空球児らに関西大衆演劇界の津川竜。僕は居酒屋の客で妻に先立たれ、生きる望みをなくした男・六兵衛。もっとくわしくお夏の世界を知りたかったら、岡本さとるの同名の小説が幻冬社から出ているから、事前に読んで""になる手もある。

 名取さんは平成195月、大阪松竹座の「妻への詫び状・作詞家星野哲郎物語」でご一緒。舞台の仕事これが2作目だった老トルとして、お世話になり、ご迷惑をおかけした。その後シアター1010の「耳かきお蝶」では、彼女の膝まくらにうっとり・・・の光栄にも浴している。

 安藤一人、田井宏明、門戸竜二、綿引大介らは、何度も川中美幸公演ほかでご一緒したいわばお仲間。終演後の一献!がふえるかも知れない。

 

 

歌麿~夢まぼろし01

歌麿~夢まぼろし02
居酒屋お夏01
居酒屋お夏02

演歌は、ここまでないがしろにされて、いいのか?

 「紅白歌合戦」の、演歌の扱い方に腹を立てた。ことに香西かおりの『酒のやど』のシーン。ごちゃごちゃと応援?の芸人たちの動きが写って、香西の姿が消えた。しかもワン・ハーフ。これでは歌の情などどこへやらで、沁みようがない。演出陣が演歌に全く無知で、邪魔だとさえ思っていて、紅白も単なるバラエティ番組にしたいのなら、もう演歌歌手は呼ばないことだ。腹立つあまり作詞した池田充男に電話をしたら「孫と一緒の正月です」と屈託なげに笑った。大人物はあわてず騒がずか。

あぁ... あんた川

あぁ... あんた川

作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
唄:石川さゆり
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 歌手の歌の捉え方は、大別して2種。作品の思いを体内へ引きつけ、自分の思いとして歌うのがその1。作品の側へ出て行って、それをシナリオとし、体現してみせるのがその2。石川さゆりは後者の代表で、作品を演じるタイプと思っていたが...。
 それが違ったのか、彼女が変わったのか、さゆりは吉幾三の詞と曲を、すっぽり自分に取り込んで歌っている。少なくともそう聴こえる。艶然と率直が裏表一体になって、こざっぱりしたさゆり流。隙間多めの南郷達也のアレンジと、やりとりするあたりも色っぽい。

いくじなし

いくじなし

作詞:さわだすずこ
作曲:弦哲也
唄:山崎ていじ
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 前作『昭和男唄』で、山崎は無骨、口べた世渡りべたの男を歌った。元ボクサー、筋肉質ののっぽというキャラが、それに似合って、13年めの第一線浮上。作詞さわだすずこはそんな歌の主人公に、今度は女の側からトライする。背中が痒いと浴衣の衿に、男の手を誘っても相手は気付かない─。
 女がじれったがっている歌である。前作の無骨男はストレートで歌えたが、山崎の二試合めはフックか、アッパーか? 作曲の弦哲也ともども、そこのところに苦心が要ったろう。結果、前川清みたいな部分も生まれた。

独楽(こま)

独楽(こま)

作詞:久仁京介
作曲:岡千秋
唄:島津亜矢
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 男の生き方、心意気を、独楽を持ち出して久仁京介が詞にした。「独楽は心棒 こころも心棒 軸をしっかり 本気に据えりゃ...」という具合い。岡千秋が一部を行進曲みたいにドドンと決めれば、亜矢の歌は得たりや応である。心棒みたいに真っすぐで、ぶれがない。

ふるさと海峡

ふるさと海峡

作詞:たかたかし
作曲:徳久広司
唄:菊地まどか
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 「帰って来いよ おまえの居場所はここにある...」と、たかたかしの詞が、菊地まどかの居場所を作ろうとする。持ち前の声とノドの強さ、節の押し引きを生かそうと、徳久広司が曲を書いた。歌い納めの「帰ろかな ふるさと海峡」の昂揚が、それを物語っている。

噂の港

噂の港

作詞:池田充男
作曲:水森英夫
唄:水田竜子
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 水田の歌が、何とものびのびと心地いい。歌詞の一つ一つにこだわらず、メロディー軸足、情感大づかみに歌うせいだろう。池田充男がいろいろ書いているのに、水田は余分な感情移入を避ける。結果、声味が生きるのは、例によって水森英夫発声塾!?の成果か?

十六夜化粧

十六夜化粧

作詞:田久保真見
作曲:四方章人
唄:山本あき
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 来ない男と知りながら、待つ身の女のじれったさを、田久保真見と四方章人が書いた。詞と曲がたっぷり書いた状況を、山本がじれながら歌う。さて...とこちらは考える。情感を抱き込んでも、突き放して歌っても、成立しそうな楽曲。あなたならどちらで腕を見せる?

鏡川(かがみがわ)

鏡川(かがみがわ)

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡五郎
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 鏡川という川は「こころ」や「いのち」や「あした」を映す。どういうふうに?というと、逆らわず、なびき、あせらず急がず、かわらぬ情、人の愛を信じて─なんだとか。仁井谷俊也が書いた楽観的な男唄。鏡五郎がいかにもいかにもの気配で歌って、歌の芯が明るい。

海宿(うみやど)

海宿(うみやど)

作詞:原文彦
作曲:弦哲也
唄:桜井くみ子
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 大ざっぱに言えば、前半4行が語り、後半4行が昂揚と、くみ子の役割が決まる。その前半、声は途切れても思いはちゃんとつながっている。昂揚部分は情感はりつめて、うまく二色の味を作った。弦哲也の曲、川村栄二の編曲に背を押されて、聴かせ唄に出来た。

佐渡のわかれ唄

佐渡のわかれ唄

作詞:久仁京介
作曲:酉つよし
唄:竹村こずえ
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 「"仁"があるから...」とよく言われた。僕が舞台で芝居をする時で、これまでの体験や経歴が、ひとりでに味を作ると言う。竹村の歌にはその"ニン"を感じる。ポーンと歌えばそれだけで、気っ風のよさから気性までが聴こえて来る。伊達に年はとっていないね、この人。

盛岡ロマンス

盛岡ロマンス

作詞:高畠じゅん子
作曲:花岡優平
唄:木下結子
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 花岡優平のどこか懐かしげな曲、アコーディオンを使った竜崎孝路の編曲から、シャンソン風味のいい歌に聴こえ、木下にもそんな味がある。ところが2コーラスめ、高畠じゅん子の詞が盛岡の風物を多めに書き込むと、ご当地抒情歌になった。思いがけない変化である。

風の午後

風の午後

作詞:城岡れい
作曲:田尾将実
唄:北原ミレイ
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 最初の師匠が佐伯一郎、スカウトしたのが水原弘、プロ第一作が阿久悠の『ざんげの値打ちもない』で所属が小沢惇の音楽事務所...。ミレイの歌手生活45周年には、僕の友人がずっとかかわった。そして新曲は親友の田尾将実が書く。彼女との縁が恐いほどに濃い。

MC音楽センター
 12月になれば毎年おなじみの「沢竜の全国座長大会」今年は18日昼12時30分、夜5時30分開演で、浅草公会堂が会場。仕掛け人沢竜二、助っ人澤井信一郎が用意した演目は「名月赤城山」とショーの「眠狂四郎乱舞剣」の2本立て。出演は若葉しげる、橘菊太郎、三咲てつや、野々宮重美、宝海大空、若奈鈴之助、木内竜喜、岡本茉利、おりん他という顔ぶれ。特別ゲストに仲本工事が加わる。小西は「名月赤城山」に国定忠治一家の子分勝太郎役で出演する。ご存じ「赤城の山も今宵限り・・・」の名場面へ「浅太郎兄貴が帰って来やした!」と駆け込んで来るから、お楽しみに。
 
沢竜の全国座長大会01
沢竜の全国座長大会02

さて、あなたはどの曲に挑戦するか?

 全く思いがけなく、松尾芭蕉に出っくわした。どう考えるべきか一瞬迷ったが、これはこれ、渥美二郎の企てを素直に受け取ればいいと合点した。五木ひろしの歌では、亡くなった山口洋子と遠藤実の顔を思い浮かべる。二人とも昭和を代表する意地っぱりだった。鳥羽一郎、秋岡秀治の男の意気地ものに並んで、中島みゆきが2曲、彼女は珍しく「紅白歌合戦」にも出る。教材のうち難曲は『レット・イット・ゴー』で、全部が新年の勉強用品揃え。言ってみれば今月は、正月のおせち料理みたいに色とりどりだ。

蒼い海峡

蒼い海峡

作詞:仁井谷俊也
作曲:円広志
唄:浅田あつこ
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 演歌系の仁井谷俊也の詞に、ポップス系の円広志が曲をつけ、矢野立美がアレンジ。三者の持ち味が寄り添った形で、ほどのいい歌謡曲が出来あがる。歌詞の前半4行分を、浅田は手渡しするようにそっと歌い、後半4行分のサビ以降を声も思いも尻上がりに強める。これもほどのいい仕上げ方で、彼女なりの情感を作った。メロディーにふと、三木たかしの色を思い出し、歌処理にテレサ・テンの感興をしのんだ。デビュー20年の浅田がこの歌で生んだのは、演歌寄りのテレサの線かも知れない。

奥の細道

奥の細道

作詞:千寿二郎
作曲:千寿二郎
唄:渥美二郎
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 渥美が千寿二郎のペンネームで作詞、作曲、何と芭蕉の世界に迫った。引用しているのは「行く春や鳥啼魚の目は泪」「夏草や兵どもが夢の跡」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の3句。プロの作詞家も思いつかないような冒険である。俳人の旅、奥州路で見たものを素材に、歴史ものふうな抒情歌が出来上がった。それを、情感抑えめに本人が歌う。歌い上げるよりもその方が、スケール感が出るという計算か。語り口は彼の身上の〝流し節〟で、この歌、いろんな要素が混在しているのが面白い。

風の子守唄

風の子守唄

作詞:山口洋子
作曲:遠藤実
唄:五木ひろし
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 亡くなった山口洋子の追悼盤。彼女の才能と情熱があって世に出た五木が、37年前の作品を歌い直した。各コーラスのまん中、3行めと4行めに、山口らしいフレーズがある。作曲は暮れに七回忌法要があった遠藤実。抑えめに歌う五木に、昭和への感慨も聞く。

飛騨の龍

飛騨の龍

作詞:柴田ちくどう
作曲:原譲二
唄:中村美津
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 男の生きざまを何に託すか? 作詞柴田ちくどうはそれに飛騨の細工師を選んだ。「真の値打ちは侘びと寂」なんてフレーズは、そんな特化から生まれる。作曲は原譲二、お得意の〝やくざ唄〟ふうメリハリ、鳥羽もお手のものの歌唱で、各コーラス末尾に情がある。

花板(はないた)

花板(はないた)

作詞:仁井谷俊也
作曲:影山時則
唄:秋岡秀治
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 こちらも技と修業の男唄。作詞仁井谷俊也は浪速の板前を主人公にしてみせる。その線ならこういうふう...とばかりに、影山時則の曲と伊戸のりおのアレンジもオーソドックス。秋岡は声と口調をそれらしく作った。一言で感想を書けば「役者やのう!」だ。

波止場酒

波止場酒

作詞:水木れいじ
作曲:叶弦大
唄:北川大介
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 歌詞のフレーズごとに、頭に情感、語尾は歌い流しの鼻唄ふう。そういう歌唱が、北川のキャラクターと合わせ技一本の効果を上げるのだろう。惹句が「哀愁と男らしさ」と狙いを語るが、無いものねだりの僕は、いつの日か、この人のハラワタを歌で聞きたい。

糸

作詞:中島みゆき
作曲:中島みゆき
唄:中島みゆき
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 「縦の糸はあなた 横の糸は私」と繰り返し、出来た布が誰かを暖め、傷をかばうかも知れないと、中島が淡々と歌う。そんな出会いを人は幸せと呼ぶが《さて、あなたは?》の問いかけが残る。聴く人それぞれが、長いエンディングの中で答えを探す仕掛けか?

麦の唄

麦の唄

作詞:中島みゆき
作曲:中島みゆき
唄:中島みゆき
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 朝のテレビ小説「マッサン」の主題歌だから、もうおなじみの作品。例によって中島の歌は乾いた感触で、余分な感傷を避ける。その分だけ聴く側は、それぞれの感慨を誘発されるだろう。聞きながら僕は、この人の『ファイト!』が好きだなと、妙な再確認をした。

レット・イット・ゴー〜ありのままで〜

レット・イット・ゴー〜ありのままで〜

作詞:クリスティン・アンダーソン=ロペス 日本語詞、高橋知伽江
作曲:ロバート・ロペス
唄:松たか子・May J.
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 記録的なヒットになった「アナと雪の女王」の劇中歌。松たか子とMay J.が、のびのびおおらかに歌を語り、歌う。「さて...」とこちらは考える。演歌、歌謡曲が多めの講座にまじった教材。こういう作品に挑戦するのも、また一興。頑張れ!と声をかけたい。

MC音楽センター

 あろうことか、海江田万里氏の席で酒を飲んだ。民主党の代表である。それが11月18日夜の帝国ホテル。その前には僧侶の矢吹海慶氏としたたかに飲んだ。16日夜の山形・天童市のホテル舞鶴荘。片や全国区、片や地方区の有名人で、縁もゆかりもないはずだが、双方の酒が、流行歌でつながったから面白い。

 帝国ホテルで開かれたのは日本音楽著作権協会の創立75周年パーティーである。JASRACの通称で呼ばれるこの組織は、都倉俊一会長の言によれば、創立100年を見据えて「音楽の創作とその普及、流通、利用のための新たな環境づくりを目指す」著作権の保護、管理団体で「21世紀は成長著しいアジア芸術文化の中心となる可能性」を持つ。

 当然のことながら、欧米からアジア諸国の関係者もまじえて、一段とグローバル化が目立つ盛大な催しになった。主賓クラスのテーブルには、安倍晋三首相以下、与野党の国会議員が大勢顔を揃えるはずだった。ところが、18日のこの夜、首相が衆議院解散を表明する。議員たちは一部を除いて、大幅な欠席を余儀なくされた。

 《ま、それはそれとして、弱ったなあ、全く...》

 僕は主賓のテーブルにポツンと一人、取り残されたようにいる作曲家船村徹の姿に、気をもんだ。シャイな音楽界の重鎮が、黙然と目を伏せて端座している。都倉会長も来賓代表の髙円宮妃殿下も、あいさつの一部が英語というセレモニーで、ちょこちょこ声をかけに行ける雰囲気ではない。その間僕は旧知の歌社会の人々に低頭して回り、座がなごみ崩れるのを待って主賓席へ突撃した。

 船村の座の右隣に、海江田代表の名札があった。

 「ちょっと、失礼!」

 と、声をかけ、その欠席者の名札を裏返して、僕はそこに居座る。知遇を得てもう50年、物書きの師として接する作曲家は、ヤレヤレ...の笑顔を崩した。かと言って、衆人環視の中だから、じっくり懇談する訳にもいかない。会の終了まで船村の問わず語りに相づちを打つほどのよさ。係りの女性がせっせと料理と酒を運んで来るから、ついにおでんまで賞味した。雑文屋は人の波を泳ぐのが商売、パーティーで、こんなに飲み食いをしたのは初めての経験だ。

 山形の天童で開かれたのは日本のレコード歌手第一号と称される佐藤千代子を顕彰する全国カラオケ大会。予選で110人、選ばれた10人で決選と、のべ120人をワンコーラスで審査、流行歌漬けになる。この会にはもう12年ほど通って、芋煮、せいさい漬けで酒は出羽桜、飯はつや姫...と、地元の名物の虜になっている。

 何年続けても相変わらず、段取り下手クソの大会である。それというのも関係者全員がボランティア。玄人皆無の手作りイベントのせいで、そのかわり福田信子率る天童バル(とうの昔にギャルではなくなってバル...)があたふた、声をかけ合って誠心誠意だ。それが何ともほほえましく、土地の人情に触れる心地で、酒の味も一段と濃いめ。北国の冬の厳しさ尻目に、前夜祭、本番、後夜祭の1泊2日だ。

 このなごやかイベントを取り仕切るのが、市の実力者で実行委員長の矢吹和尚。舌がんのリハビリをカラオケで克服した80才超。

 「親しい人が2人逝った。お布施がたんまり入った。パーッと行こう!」

 「酒と女は2ゴウまでだぞ!」

 などと冗談を連発して〝和の輪〟を作る。時にはやり歌を歌い、興に乗れば踊る闊達さで、生臭ささと含蓄の妙が混在する会話が楽しい。僕が人物に魅せられて毎年の旅をするのは、たらこの親父の道場登氏に会いに行く北海道・鹿部と、矢吹和尚の山形・天童の二カ所になっている。

 天童では、ブレークした福田こうへいのヒットが目立った。民謡調で歌声張り上げる人が多いのは、時間がゆっくりと過ぎ、山も海もおおらかな北の人々の気風か。そのひなびた歌現場から、帝国ホテルのグローバル音楽イベント参加である。僻地(失礼!)から世界へ。関係なさそうな二つが、しっかり歌の道でつながっているのが、いかにもいかにも...だった。

週刊ミュージック・リポート

 昼まで寝坊をした。お陰で久しぶりにすっきりした眼覚めである。すぐに猫の風(ふう)が声をかけて来る。昼めしの催促。こいつ人間で言えば熟女の年ごろで、ふだんは寝てばかりの愛想なしだが、こういう時だけは猫なで声ですり寄る。ベランダの向こうは快晴の青空と白波大きめの海。対岸には上手から下手へ、丹沢、箱根、伊豆半島の山々が稜線を作り、ド真ん中に雪を頂いた富士山がある。

 《昨夜の酒もよかったしな...》

 背のびしながら、そんな事を考える。

 前日の11月12日は、辻堂の船村徹家にいた。日光に出来る船村徹記念館の打ち合わせを昼から。乃村工芸の藤本強、アクロスの馬止理行の両君を大阪、和歌山から呼んだ。館内の装飾全般と映像関係の責任者である。記念館は来年4月27日オープンが目標。単なる資料館では人が呼べないから、かなり刺激的でエンタテイメント性の強いものを狙っている。いわば船村アミューズメント。打ち合わせも大詰めだから、喜怒哀楽社社長で船村夫人の福田佳子さん、山路匂子さんと一緒に、僕が相応のダメを出す。10月のけいこから今月初旬の本番まで、役者としてダメを貰い続けたあとだから、なかなかにいい気分。午後5時の開店を待つように、近くのこじゃれた酒場へくり出した。藤本、馬止の二人は、周防大島の星野哲郎記念館を一緒に作ったから、肝胆相照らす仲だ。

 東宝現代劇75人の会、深川江戸資料館小劇場公演の「深川の赤い橋」は9日千秋楽で5日間7公演を終えた。びっくりするくらい大勢の知人、友人が見に来てくれて、身内ぼめの言葉も貰った。劇団の打ち上げの酒にも酔った。

 一夜明けて11日は、小金井の星野哲郎宅へ出かけた。今月15日が4回目の命日。それを前倒して紙舟忌の法要がある。とは言え仏壇に線香をあげて、あとは午後4時から酒宴である。毎年集まるのはメーカー各社の星野番で作る哲の会、宇山清太郎が筆頭の星野の弟子の会桜澄舎の面々に、昔から星野家出入りの人々。当然志賀大介、星村龍一、さくらちさとらの顔も見える。クラウン出身で紙の舟を手伝う広瀬哲哉の進行で、15分おきの献杯の連続。誰彼なく指名されれば星野の思い出話をして杯をあげる趣向が延々と続く。その都度起こる笑い声と、献杯なのに拍手が起こる無礼講。星野の長男真澄君夫妻と長女桜子さん夫妻がホストをやったり、給仕をしたりの心尽くしに、おしげやさっちゃんも甲斐々々しい。

 ひところは星野を囲んで、カンカンガクガクの大騒ぎをした哲の会の面々が、粛々と会話を交わしている。法要の席のせいかというとさにあらずで、

 「みんな、年をとったということか!」

 と、境弘邦、大木舜、古川健仁らと笑い合う。そう言えば...と見回すと、毎年中山大三郎の名を挙げながら、管を巻く松下章一の顔がない。

 「ターマス(彼の仇名)は仕事で地方へ行ってるんだよ」

 と誰かがその消息を話す。桜澄舎の幹部髙田ひろおが居ないのは、

 「あいつ、風邪で熱出して、千葉で寝込んでる」

 と、これまた誰かが伝える消息。二人とも、不参加がさぞ残念だったろう。

 湘南新宿ラインと中央線を乗り継いだ往復。気づけば僕はまだ、芝居のせりふをぶつぶつ繰っている。二カ月近く、なり切ろうとした深川の材木屋のおやじ西村次郎からは、そう簡単に抜け出せないものかと苦笑した。けいこのウォーミングアップで尻上がり、公演中はハイになりっぱなしの日々が続いて、プツンと仕事が終わる。夢かうつつかの世界に、心身ともに同化し切ろうと務めたあとだから、そこからもとの流行歌評判屋に解脱するには時間がかかる。体の芯の部分まで疲れという形でイヤイヤをするのだ。千秋楽の舞台にも、ダメが出た。「明日頑張ります!」と作・演出の横澤祐一にジョークを返したが、その明日はいつくることやら――。

 とりあえず僕は、船村徹、星野哲郎がらみで、歌社会へ復帰した。ありがたいとっかかりである。

週刊ミュージック・リポート

 11月5日午後4時、舞台の初日があいた。この日東京・深川は薄曇り、ピリッとした冬型の空気が心地よかった。東宝現代劇75人の会の深川江戸資料館小劇場公演「深川の赤い橋」(作・演出横澤祐一)は、午前11時過ぎから舞台げいこをやって夕刻の本番である。メーキャップほどほど、衣装を替えながらの最後のけいこは、僕もいっぱしの役者気分。ところどころにほころびがあったが、本番は存外スラスラと行った。客が入れば俄然〝その気〟になったりするものなのだ。

 開演前に劇場入り口で、老紳士にばったり会う。

 「もうおいでになったのですか!」

 と小腰かがめた僕を、傍で見ていた横澤が

 「あんたが敬語を使うのを初めて見た。どなたなの?」

 と笑う。頭をかきながら紹介した相手は、元スポーツニッポン新聞社の社長牧内節男氏。僕を傍系会社から呼び戻し、編集局長として存分の日々を過ごさせてくれた恩人だ。もう90才になるご老体だが、無理を承知で晴れ舞台!? を観てもらってのこと。

 もう一人、開演直前の客席へあいさつに行ったのは、田辺エージェンシー田邊昭知社長。こちらもごく多忙なのを承知で観に来てもらった。スパイダースが売り出し前からの親交があり、9月に久し振りに会ったら、

 「ねえ、近ごろは役者三昧なんだって?」

 「うん、もう8年めになったんだから、一度見に来てよ」

 の問答が、こういう形で実現した。牧内、田邊のお二人には、居合わせたスポニチの面々や歌社会の人々がギョッとしたり、恐縮したり。バーニングの周防郁雄社長からの差し入れが山ほどだから、「それにしても...」の眼を僕に向ける向きもある。

 この芝居の僕の役は、深川の材木屋の社長・西村次郎。本妻(梅原妙美)と息子(那須いたる)をほっぽり出して3年、同じ町内の愛人(下山田ひろの)の家に入り浸りという不らちな男だ。それが町医者の待合室を遊び場にして、町内の銭湯のおやじ(横澤)やお節介ばあさん(新井みよ子)らとわいわいがやがや。お話の縦糸は老医師(内山恵司)の夫人(菅野園子)の、掘割に橋を架けて、死んだ息子夫婦の供養をしたいという悲願だ。その財産をわがものにと画策する夫人の弟(丸山博一)がかき回すなど、笑いと涙としみじみの下町人情劇。

 舞台も深川、ものがものだから、セリフのやりとりは威勢のいい下町弁。乱暴な口調は常日ごろの僕だが、案外おっとり系だったと気づく。ポンポン行くべきところに微妙な間(ま)があるらしく、けいこの時から

 「もっとテンポを!」

 のダメが出ていた。テンポ! テンポ! と思い詰めると、肝心なセリフがすべるし、相手のセリフにかぶる。芝居慣れはそこそこと、ひそかな自負はあっても、初日はやはり緊張するのだろう。ポンポンがまだ体になじんでないせいか、言動がなかなかのびやかになれない自覚症状が残る。

 見てくれた友人たちは、

 「さすがだよ。もう一人前の役者だよ」

 などと身内ぼめをしてくれる。何でもいいから、おだてておいてよ! と、こちらは木に昇る猿になりたい心境だ。今に見ていろ、淀みなくやって見せるから...と心中ひそかに決意するが、芝居と客も一期一会、今日の客に明日の覚悟じゃ申し訳が立つまい。

 「今日で全部が終わり。あとはずるっとそのまんまいけるよ」

 ベテラン共演陣は事もなげに言い放つ。「ン?」とその意味をはかりかねながら、とりあえず初日終了後は門前仲町の宇多川へ繰り出す。

 「やあやあ、お疲れさま」

 の笑顔は四方章人や元ビクターの朝倉隆ら。この地域はもともと越中島のスポニチの縄張りで、この店は仲町会の主戦場でもある。

 「仲町会ももう21年めに入ったもんね」

 と四方が威気揚々なら、永久幹事の朝倉も

 「そう、そう!」

 と、冷酒の酔いでいつもみたいに、体をくねくねさせはじめた。

芝居初日と気のおけない友人。冬の深川もなかなかの風情である。

週刊ミュージック・リポート

 芝居の夢を見る。けいこ中のものの一場面だ。いつも通りの立ち位置で共演する人々がいる。いつも通りにお話が進むはずが、何と、突然みんながまるで知らない台詞をしゃべり始める。別世界に放り込まれる僕、棒立ちになる僕、頭の中が真っ白になる僕。

 《何だ? えっ? 一体何が始まったんだ?》

 逆上のてっぺんで眼がさめる。ガバッと起き上がって、やっと夢と悟る。べっとりと脇の下に冷や汗...。

 東宝現代劇75人の会公演は11月5日が初日。それを目指して、連日のけいこがあと10日余りだ。横澤祐一作・演出の「深川の赤い橋」は、言ってみれば台詞劇。会費を集めての自主公演で、舞台装置は一景分だけだから、自然にそうなる。しかし、相当多めの台詞を、単にしゃべるだけでは、芝居になるまい。それぞれの、その時々の心理やら思いのたけやらに、動きがつく。大きな動きや微妙な動きの連続で、登場人物のひととなりや、話の行きがかりや、人と人のかねあいが肉付けされていくのだ。

 ま、芝居だもの当たり前のことなのだが、これが実に何ともむずかしい。時代劇だと衣装で隠れていた猫背、膝折れの体つきや動きの癖が、今回は現代劇だから、もろにあらわになるのも難点。共演する人々には、そんな心配はない。芸歴50年前後のベテラン揃いだもの、みんな個性的にさっさと役をこなしていく。それをまじまじと見守りながら、僕は我と我が身まで見回す。未熟ってことはつまり、こういうことなのだと、心中ひそかに合点する。

 舞台は深川のとある医院の待合室。そこに出入りする人々のドラマで、時は昭和40年代後半。木場が新木場に移転、材木を運んだ油堀川が埋め立てられそうになる。20年前の洪水で息子夫婦を失った供養に、その川に橋を架けたいという老医師夫人(菅野園子)の願いは、果たして成就するのかどうか? そのために奔走する気配の民生委員の風呂屋のおやじと、医師夫人の弟で建設会社社長がいる。作・演出の横澤が亀の湯の主で、社長は丸山博一。双方長く東宝演劇を支えて来て、キャリア50年超が、丁々発止のやりとりを始める。これがうっとりするくらいの呼吸で、得も言われぬ味わい。ごく自然な会話がひょいと、役柄なりの誇張をまじえて、うねりを作っていくさまが、やたらに面白い。

 この芝居の幕あけ、僕は材木屋のおやじ西村次郎として、亀の湯の横澤とヘボ将棋を差している。医院の待合室を勝手に遊び場にしている常連。のぞき込むのは、お節介おばさん(新井みよ子)で、老練ひょうひょう内山恵司扮する老医院長の孫娘(松村朋子)が詮索するから、僕のふしだらな私生活が露見する。本妻(梅原妙美)と愛人(下山田ひろの)と同じ町内で暮らしているが、モテ男かと言うとさにあらずのドタドタぶり...。医院の家政婦(鈴木雅)や区役所の職員(髙橋志麻子)が出て来て、けいこ万端の世話になる舞台監督の那須いたるまで、僕のひ弱な息子として登場する。

 それやこれやが繰り広げる下町人情劇を、これまた下町の深川江戸資料館小劇場でやる。11月5日から5日間の7公演だが、僕のこの劇団出演は今回で6年連続6回目。そのうち5回はこの劇場だから、いい加減慣れそうなものだが、まだまだ慣れるなんてことはない。毎回、分に過ぎるいい役を貰って出づっぱりなので、嬉しい限りなのだが、四苦八苦が実情だ。

 「小西さん、もうちゃんと台詞が入ってるねえ」

などと、女優さんにおだてられても、その気にはなれない。台詞はまだ「覚えた」ところどまりで、役なりにこなせなければ「入る」ことなど程遠いだろう。

 慣れて来たのは、けいこ帰りの居酒屋談義くらいで、これも、

 「もう、しゃれや愛嬌って訳にやいかないし...」

 という横澤発言にドキッとする。舞台体験も8年めに入れば、見る側がしゃれや愛嬌で許してくれる時期はとうに過ぎたろう...の意と受け止めるせいだ。ビールのあとのホッピー2杯めのほろ酔いが、スッと醒める。これだもの、時おりへんな夢を見て、飛び起きるはずだわ...とうつ向いて人知れず、苦笑いをする日々である。

週刊ミュージック・リポート

仁井谷3曲に趣きを変える工夫

 相変わらず多作の仁井谷俊也の詞が、今回は9作品中3編。岡千秋が2曲、弦哲也が1曲と相方が変わり、編曲は南郷達也、若草恵、伊戸のりおの3色。
 『この世は女で廻るのよ』はアイデアもの。『城崎夢情』は湯の宿未練の定番もの。『雲母坂~きららざか~』はフォーク調っぽいのが内訳だ。物語と舞台の設定に新味こそないが、それなりの小道具探しと慎重な筆致で、目先と趣きを変えた。『雲母坂』はトゥーハーフの構成、歌謡曲狙いがはっきりしている。

早春慕情

早春慕情

作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳
唄:椎名佐千子
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 流行歌の流れはここ数年で、明らかに演歌から歌謡曲に移行している。そうなれば鈴木淳はきっと、我が意を得たり!の心持ちだろう。『早春慕情』は彼一流の甘美さをにじませて、淀みのないメロディー。悠木圭子の詞が10行もあるが、緩急よろしく訴求力強めの仕上がりだ。夫妻で一曲を仕上げるやりとり、呼吸の合わせ方が、目に見えるようでほほえましい。歌うのが弟子の椎名佐千子、1コーラスに2度出てくる高音部に、切なげな色が濃い。鈴木一家それぞれの、自負が匂う作品だ。

雨がつれ去った恋

雨がつれ去った恋

作詞:高畠じゅん子
作曲:中川博之
唄:美川憲一
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 中川博之は、さりげなく平易で情に満ちた楽曲で、昭和の流行歌を支えた人。歌謡コーラスのヒットが多く、ムード派と称されていたが、曲の芯がしなる強さが独自だった。
 その遺作を美川が歌う。なげやりな歌唱で独特の世界を作って来たが、この作品はがらりと変わる熱唱ぶりがいい。楽曲による変化の陰で、師への思いが揺れていそうだ。
 作詞は高畠じゅん子で、こちらも夫妻の合作。メロディーとの押し引きに、長くコンビを組んで来た、呼吸と手際が透けて見える。中川と僕は同い年だった◯。

二月堂(にがつどう)

二月堂(にがつどう)

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵かを里
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 珍しく日本調の匂いがする歌唱が、この人の声味に似合う。それが奈良を舞台にする詞と曲、編曲の素材で生きた。基本が泣き歌の人だろうが、歌い回さずに語ろうとする気配が好ましく、ことに三番の語り口に情がにじんだ。歌手10周年の進境だろう。

この世は女で廻るのよ

この世は女で廻るのよ

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:中村美津子
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 この種の楽曲を歌わせたら、この人の右に出る歌手はいない。語り口のメリハリ、啖呵ふうな詰め方、歌を揺する遊び心などは、美律子が長いキャリアで身につけたものだろう。委細承知の岡千秋が、浪曲調少々のメロディーで、彼女に〝はまり〟の作品にした。

城崎夢情

城崎夢情

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:井上由美子
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 温泉宿、許されぬ恋、尽きぬ未練...と、オーソドックスの見本みたいな演歌。仁井谷俊也の詞、岡千秋の曲、南郷達也の編曲と、三拍子も揃った。それを井上が、これまたオーソドックスに歌う。たっぷりめの曲にひたひた...の情感、この人の曲者らしさが出た。

吾亦紅~移りゆく日々~

吾亦紅~移りゆく日々~

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川中美幸
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 声をすぼめ、思いをしならせて、女心を語る。川中の新境地は、詞が水木かおる、曲が弦哲也の冒険作でもある。「いま、花ひとときのいのち」の移りゆく日々を、3コーラス三幕ものの抒情歌にした。これは間違いなく〝女優〟川中ならではの、精緻に演じる歌だ。

夜叉(やしゃ)

夜叉(やしゃ)

作詞:下地亜紀子
作曲:弦哲也
唄:真木柚布子
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 「嫉妬」という〝女偏〟の二文字の、狂おしい思いを抱えて、女は華にもなり夜叉にもなれると言う。下地亜記子の詞に弦哲也が曲をつけ、桜庭伸幸の編曲がスリリングにあおる。真木はその、おどろおどろの情感を歌い、歌い納めはめいっぱいに感情を露出した。

雲母坂~きららざか~

雲母坂~きららざか~

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
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 同棲時代を思い返し、その町をそぞろ歩いて、還らぬ恋をしのぶ女心ソング。映画の帰り、北向きのアパートなどが、貧しいけど夢があふれたころの小道具に出て来る。フォーク寄りの詞、ポップス寄りの曲を、演歌寄りに歌って、川野はいい歌い手になった。

雨港

雨港

作詞:坂口照幸
作曲:徳久広司
唄:小桜舞子
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 港の別れ歌を、坂口照幸の詞と徳久広司の曲が、それらしい仕立て。小桜の歌は相変わらず切々の嘆き節。ていねいに細やかに歌うが、サビの高音部、一番では風景にかけた歌声の開き方と、歌い納めの「私です」で、自分に戻る歌の閉じ方が、対称の妙を作った。

MC音楽センター

殻を打ち破れ150回

 「いいのが出来たよ。船村(徹)先生なの」

 パーティーの出会い頭で、作詞家の池田充男が相好を崩す。大月みやこの新曲らしい。僕はその場でキングレコードの幹部をつかまえ、

 「聞かせてよ、早く。テスト盤を自宅へ。な!」

 と、段取りをつける。日ならずして届くのが『霧笛の宿』だ。

 <<ほほう...>>

 と、僕は合点する。まず船村メロディーで

 ♪霧笛がしみます 雪の夜...

 歌い出しの歌詞1行分だけで、船村作品と判る独特の譜割り。この人のオリジナリティーは、何十年聞き続けても、ハッとさせる凄さがある。それに対して池田の詞は、一見さしたる技は感じさせない。ところがその辺がこの人の曲者らしさで、平易、簡潔な表現だが、きちんと池田流の手が加えてある。

 霧多布の小さな宿が舞台。そこでたまたま出会った男と女のお話だから、設定そのものもよくあるパターン。その女の夢も現(うつつ)もの心情が語られるのだが、

 ♪泣けて名残りの 情を契る...

 と、しっかり「な」で始まる言葉を三つ重ねてある。重ね言葉の妙、歌ってみると判るのだが、「な」は感情移入をしやすい響きで、何とも快いのだ。

 近ごろ演歌・歌謡曲は、テレビの都合で2コーラス処理が当たり前、だから二番の詞は無用の長物化して、作詞者もそこはさらりと流す。僕に言わせればとんでもない手抜きだが、昔気質の池田はそうはしない。霧多布の出会いと別れで一番と三番を書くが、二番ではちゃんと、女主人公が襟裳から来たことが明示される。拗ねた心の女に酒をついだのは、同じ翳ある男...と魅かれ合う意味まで書き込んである。

 船村の曲、池田の詞と、これはちょいとした名勝負。双方八十才を越えても、歌ごころを寄せ合って、その若々しさとみずみずしさは驚嘆に値しよう。

 「船村先生に会うんでね。緊張して髭を剃ったら、切っちゃった」

 別のところで会ったら、また出会い頭の一言で、池田は苦笑いした。今度は増位山太志郎に書いた『冬子のブルース』の発表会。

 ≪どれどれ...≫

 と、注意深く聞いたら、こちらは少々技を使った気配で、僕はニヤニヤする。

 ♪ほんとの名前は知らないが 俺が愛した二百日...

 別れた女をしのぶ男心ソングだが、実生活ではおよそあり得そうもないそんな事実!?を、さらりと増位山に歌わせてしまう。はやり歌は絵空事、かたいことを言うつもりはない。僕がこの歌のこの個所で聞いたのは、おとなのおとぎ話の艶っぽさだ。

 曲は弦哲也に変わっていて、これも減法渋いムード歌謡。彼の代表作の一つ『北の旅人』を思い出したくらいの出来で、増位山にはぴったりはまりのいい歌になった。

 ここでも池田は、二番を詰める。

 ♪ホテルみたいな船にのり 旅がしたいと 夢ものがたり...

 冬子はテレビで豪華客船でも見たのだろう。ムード歌謡の懐かしさの中に、ひょいとそんな今日性を埋め込んだ手練者の技だ。

 ≪この人からは、当分目が放せない≫

 僕は歌書き池田の仕事ぶり、ずっと緊張を強いられている。

月刊ソングブック

 「新宿でしたたかに飲んで、酔った彼女をタクシーでマンションへ送った...」

と、どうしても話はそこから始めるしかない。

  「歌を作ったんだけど、聞いてくれる?」

  と言う彼女に従って、僕は彼女の部屋へ上がる――こう言うと何やら、艶っぽい一件に受け取られそうだが、主人公は加藤登紀子で50年近く前の話。その夜彼女のギターの弾き語りで、スポーツニッポンの新米記者の僕が聞いたのは「ひざ小僧の子守唄」で、これが後に加藤の出世作「ひとり寝の子守唄」になる。

 10月14日の午後、六本木のビルボードライブ東京で開かれたのが加藤の歌手活動50周年記念パーティー。僕はその冒頭でのあいさつを頼まれた。彼女が世に出るきっかけが日本アマチュアシャンソンコンクール二回目の優勝で、このイベントをやったのが石井好子の事務所とスポニチの縁がある。当然みたいに僕は加藤番記者になり、以後50年の親交があったから、それがあいさつ起用の理由だ。

 「東大生シャンソン歌手誕生!」とマスコミ受けはなかなかだったが、レコードデビューは歌謡曲の「赤い風船」仕事といえばお定まりのキャバレー回りで、まるで受けない。静岡あたりの店で客に野次り倒され、開き直って童謡を歌ったなんて夜が続いた。おりから1960年代後半、フォークブームが起こり、シンガーソングライターの時代が来る。加藤の「ひとり寝の子守唄」はそんな時流にピタッとはまり、シャンソン―歌謡曲―フォーク...の三段飛びが成功する。僕は彼女ともどもフォーク界に参入したから、年齢は大分違うが同期生。浅川マキ、岡村信康、泉谷しげるらと知り合うことになった。

 この日のパーティー会場は東京ミッドタウンの一隅にあり、昔、防衛庁があった場所。70年安保闘争で若者たちが戦場としたことで知られるが、加藤の夫君藤本敏夫氏はその指導者だった。

 「おかげで8カ月も、拘置所のお世話になって...」

 と、加藤は笑い飛ばしたが、会場選びにはそれなりの思いがあってのことらしい。後で知ったのだが「ひとり寝の子守唄」は、獄中の彼への恋唄だし、彼と獄中結婚をし、3人の子ももうけた。刑を終えた藤本氏が千葉に鴨川自然王国を興し、農業から環境問題に取り組む事業にも献身している。加藤の歌手活動の前半は、文字通り波乱万丈で、密着した僕など、あれよあれよの連続だた。

 パーティーの客250人余は、加藤の交友関係の帽広さ歴然で多士済済。それぞれが加藤のこれまでのあちこちで親交を持つから、加藤の話も往時へ行ったり来たりする。もともと彼女のレパートリーは、彼女の生き方考え方と表裏一体。歌う曲ごとに生のエピソードがつき、それに共感の輪が広がるから、会場は笑い声が絶えない親密さで満たされていく。

 催しのタイトルが「今が人生どまん中!」と来て、古稀の人にしてはずいぶん欲ばったもの。ところが、母親が健在で99才、1才の孫がいて、

 「だから、私の人生、どまん中なのよ」

 と、本人のタネ明かしがあって、これにも大爆笑だ。その母親がエディット・ピアフと同い年で、その波乱の人生と歌の数々にも強いシンパシーを感じるとか。もともとシャンソンからスタートしたのだし...と、歌った「愛の讃歌」は、この日一番の熱唱で、歌い終わった表情には珍しく陶酔と達成感の気配があった。

 世界の国々を旅して、行く先々でその国の人々の営みを熟視、いい歌を見つけて持ち返る作業も精力的だ。新聞記者は時に「何かと言えばジャンル分けしたがる」と嫌われるが、加藤はいわばノージャンル。

  「せっせと種まきをして、気がついたら50年、その広々としたフィールドを、今やっと見渡しています」

 と、本人が会の招待状に書いていた。どうやらこの人は、加藤登紀子という特異な人生を旅して、加藤登紀子というジャンルを興したのだなと合点がいった。

 娘の一人藤本八重は結婚し、夫とともに鴨川自然王国を受け継いでいるという。2002年に亡くなった藤本敏夫氏の遺志は、加藤家にしっかりと生きているようだ。

週刊ミュージック・リポート

発想の「枠」を壊した歌づくりを!

 山内惠介の『恋の手本』と北原ミレイの『北の母子船』が、意表を衝いて新鮮だ。前者が芝居の劇中歌、後者がアルバムからのシングルカットなのがミソ。北島・北山父子の『路遥か』は私生活の延長の歌づくり。多岐川舞子は声を鍛え直した成果を『霧の城』で聞かせる。発端は何であれ、シングル企画の枠組みを突破できてこその刺激性だろう。歌づくりに肝要なのは・いつも通り・の発想を自ら、どう壊せるかの冒険心。はやり歌の賑いのもとはそこにあると思うが、どうだろう?

郡上八幡おんな町

郡上八幡おんな町

作詞:彩 ちかこ
作曲:四方章人
唄:永井裕子

 「作曲するツボは、歌い手の力量次第」と、四方章人がボソッと言ったことがある。永井はその四方が育てて、デビューから10年余、曲を書き続けた歌手。それが歌手15年めで師弟再会の仕事になった。ツボは知り過ぎるくらい知っていよう。
 永井の歌が泣き歌になった。母との暮らしが役割で、恋を諦めるのが歌の主人公。サビあたりでそんな思いを揺らし、歌が切迫感を増す。この歌手、はなから声味に哀愁の色を持っているのを生かそうとする作戦、元気なばかりが裕子じゃない!ことと、その成長ぶりを強調したいのだろう。

あばれ舟唄

あばれ舟唄

作詞:吉岡 治
作曲:市川昭介
唄:大川栄策

 作詞吉岡治、作曲市川昭介、編曲池多孝春...と、親交のあった歌書き3人の顔が順ぐりに浮かぶ。いずれも故人だから、思い出すのは懐しいエピソードばかりだ。その3人が大川の『さざんかの宿』の次の年に書いた作品。31年前のものがアルバムに3度収められて、今度のシングル化は4度めのおつとめ。 
 いかにも吉岡、いかにも市川、いかにも池多の作柄で、若い大川の歌声も、いかにもいかにもの味。メジャー調の軽めの曲を、のうのうとのどかに歌って、はやり歌のお気楽な楽しさを聞かせる。はな唄の妙がある。

路遥か

路遥か

作詞:大地土子
作曲:大地土子
唄:北島三郎/北山たけし

 北島と北山の義父子共演。クラウンとテイチクから同時発売と聞く。こんなの史上初でしょう! 1番が父、2番が婿どの中心の歌処理。ユニゾンで声を合わせ、追っかけで歌い、交互に歌う個所もある。芸事と父子の絆がテーマ、さすがに呼吸が合っている。

海峡岬

海峡岬

作詞:石原信一
作曲:幸 耕平
唄:市川由紀乃

 ミュージシャンの感覚で、幸耕平は歌手の歌声の・いいとこ探し・をする。市川の高音の魅力を発掘したのも彼で、今回はそれに中、低音の声味の双方を生かそうとした気配。ラテン好きのリズム強調派が、市川の歌唱力を重点に、本格演歌に挑戦した一作か?

うきよ川

うきよ川

作詞:麻 こよみ
作曲:原 譲二
唄:長保有紀

 長保と原譲二の初の顔合わせ。原が書いたメロディーには、北島三郎節ののれん分けみたいな味がある。そのメリハリを、長保は自分のペースに引き込んだ。もこもこ肉厚な声味で、ゆったりめにのびのび歌って、彼女の世界。あわてず騒がず...の感がある。

望郷よされ節

望郷よされ節

作詞:高田ひろお
作曲:水森英夫
唄:花京院しのぶ

 1コーラスで2度おいしい。長めの曲で相当な起伏があるが、そう感じさせないのは水森英夫の曲づくりの巧みさ。花京院の作品はずっとそうだが、カラオケ上級者が好んで挑戦する・たっぷり感・を持つ。1コーラスの歌い応えが倍近いのがミソか。

冬の海峡

冬の海峡

作詞:さいとう大三
作曲:岡 千秋
唄:都 はるみ

 声を張る。声をいなす。息をまぜて揺らす。歌の思いを抱く。逆に突く。歌の語尾をびちっと切る。はかなげに抜く...。要するに都の声の操り方が随所に出て来て、歌う技術のお手品みたいだ。「あなた」だけでも1コーラスに3回、合計9回9色に聞こえるから面白い。

霧の城

霧の城

作詞:かず 翼
作曲:水森英夫
唄:多岐川舞子

 歌い納めの歌詞2行分で、高音が生き、ファルセット部分も、訴求力が増した。サビがそうなれば歌が前に出て、スケール感まで生まれる。地声を徹底的に鍛える水森英夫魔術の成果か。多岐川の歌唱が、トンネルを抜ける手応えをつかんだように感じる。

月花香

月花香

作詞:伊藤美和
作曲:聖川 湧
唄:花咲ゆき美

 歌は語るように、セリフは歌うように表現するといいそうな。花咲の歌にはそれに似た感触があって、歌い出しの歌詞4行分は2行分ずつ中音を軸に語る。それが後半4行分は2行分ずつ、ガッと高音が来て、それぞれに情趣がある。それを仕組んだのは聖川湧の曲だ。

恋の手本

恋の手本

作詞:岡本さとる
作曲:水森英夫
唄:山内惠介

 昨年と今年の二度、山内が主演した芝居「曽根崎心中」の劇中歌。脚本・演出の岡本さとるが詞を書いて、長尺もの歌謡曲が出来上がる。山内の歌を・聴かせる・タイプの異色作。緩急よろしきを得て、彼がひと皮むける転機の作品になりそうな仕上がりだ。

北の母子船

北の母子船

作詞:としおちゃん
作曲:杉本眞人
唄:北原ミレイ

 夫を時化で亡くした女とその子が、跡を継いでいる漁師歌。そんなネタと杉本眞人の曲との組み合わせが、いつものミレイではない作品になった。しかし、そう思って聴くと、これもやっぱりミレイの世界。アルバム用の冒険が、シングルになって生きたか!

MC音楽センター


 大阪に「詞屋(うたや)」を名乗るグループがいる。作詞家志願!?の男女の集まりで、もう2年ほど毎月例会を開き、作品の合評会をやっている。誘われて3回ほど顔を出したが、勢揃いした面々が、一筋縄ではいかぬ曲者ぞろい。
 「釈迦に説法だろうけど、歌詞ってやつは目で読む詩じゃなくて、耳で聞くものだから...」
 などと、ごく基本的なことからしゃべる僕を、
 「ふむ、ふむ、それで?」
 と見返す眼光が鋭い。
 ボスは演出家の大森青児。元NHKのプロデューサーで、大河ドラマ「武田信玄」や朝の連続テレビ小説「はね駒」「京・ふたり」「ぴあの」などを手がけたキャリアを持つ。国内外の映像祭の受賞も多数で、舞台では川中美幸の「富貴楼お倉・ジャスミンの花咲く頃」(明治座)や「天空の夢・長崎お慶物語」(明治座、新歌舞伎座)を演出した。
 こう書けば「ははん!」と思い当たる向きもあろう。川中公演の二本は僕も出演していて、前者は西郷隆盛役で歌など歌い、川中のお倉を踊らせた。後者は川中のお慶に説教する金持ちの役で、何と川中と差しの芝居、立派な舞台装置を一景、そのためだけに使わせて貰う形で、友人からは
 「あんたの芝居としちゃこれがテッペンのいい役、これより上はもう、主役しかなくなる」
 と、感嘆の辞をもらったほどの好遇に恵まれた。その人からのお声がかりで、話が話だから、僕は粛々と大阪詣でをすることになる。
 メンバーがまた、多士済済なのだ。著名脚本家の森脇京子、大学准教授の槇映二、小説家の杉本浩平、NHKカルチャーセンターの講師丘辺渉、英語塾講師のいいみか、シンガー・ソングライターのmegriらが中心、他にも本業では名のある紳士が何人かいて、それぞれの道のプロだ。冒頭に「作詞家志願」と書き「!?」を付けたのは、巷によくあるこの種グループとの差異におそれをなしてのこと。
 《だが、しかし...》
 と、僕は踏み止まる。僕が芝居を始めた時もそうだが、新しい道に入れば誰だって最初は素人、それが珍しがられたのは、70才の新人だったせいで、詞屋の面々だって、こちらの世界では素人扱いで文句はないはず――と、まあ、開き直って講釈をたれるしかない。演出家も脚本家も小説家も、書くものに本業の段取り臭が強めだから、まずそれを排除する。もう一つ、流行歌ってこういうもんだろう! と、既成の歌の発想や枠組みから入ろうとしてはいけない。せっかく特異な顔ぶれが揃っているのだから、その特異性が前面に出た歌が生まれなければ面白くもおかしくもない。
 ミーティングの後はお定まりの酒宴だから、こちらの言い方も少し乱暴になる。流行にかかわるジャンルは万事、異端児が先端に立つ。それが従来の常識や権威を押しのけるのだが、大きな実績を作ると彼らが新しい常識や権威になり、やがて次世代の異端におびやかされたりする。そんな輪廻が行きつ戻りつ、ラセン状に進むから世の中、面白いんじゃないのか!
 歌づくり、コンテンツが東京に一極集中するのはいかがか? と、大阪の巷のミュージシャン発掘のコンテストを10年やったのは、もず唱平である。そうだそうだ! と面白がって、僕は10年手伝ったが、グループ詞屋に期待するものも同じこと。
 「浪花発、詞屋傑作集の名乗りを挙げなくちゃ!」
 と言ったら、得たりや応の騒ぎになった。何と彼らは集団結成2年を記念して、アルバムを作る計画を進めていた。しかも、誰が何と言おうが、自分の歌はこれ! と、自薦の作品だけを揃えて世に問うのだ! と、ノンアルコール・ビールでぶち上げるのが主唱者の大森演出家。作曲は誰が? 編曲は誰が? 歌は誰が? スタジオ代も含めて経費は? と、聞いてるこちらがだんだん世知辛く思えて来る意気のあがり方で、全部「何とかする!」が結論。こうなれば僕も一蓮托生だが、何とも度し難いエネルギーで、CD制作の常識まで、彼らは彼ら流で突破する気でいる。完成目標は来年の3月、どんな私家盤に仕上がるのか、僕はドキドキハラハラである。

週刊ミュージック・リポート
毎年参加している東宝現代劇75人の会の今年の公演は、11月5日(水)から9日(日)まで、例年の深川江戸資料館小劇場で行われる。演し物は「深川の赤い橋」で、横澤祐一の作・演出。 永代橋に近く、油堀川の河口あたりにある竹中医院の待合室を舞台に、下町の人々の交友を描く人情劇で、木場の貯木場が移転、油堀川が埋め立てられる昭和48年ごろが背景。洪水で死んだ若夫婦の供養に、その川に橋をかけたい一家をめぐるお話が展開する。僕の役は材木屋のおやじ西村次郎。本妻と愛人の関係が、ご町内でほぼ公認状態の中でバタバタして出づっぱり。 出演は内山恵司、丸山博一、新井みよ子、鈴木雅、菅野園子、高橋志麻子、梅原妙美、下山田ひろの、松村朋子に作・演出の横澤祐一、制作の那須いたるも出演する。 僕が出演する横澤の深川ものは「水の行方・深川物語」「芝翫河岸の旦那・10号館201号室始末」に次いで今回が3本目め。下町人情の機微を意味深長な会話で綴る作品は小津安二郎の世界の深川版として定評がある。 日程は11月5日(水)が16時から、6日(木)が13時からで7日(金)と8日(土)は13時からと18時からの2回、9日(日)が13時からの7公演。入場料は当日が5千円、前売りが4千5百円。問い合わせ先は080-1193-8697(13:00~17:00)の75人の会。劇場へのアクセスは地下鉄半蔵門線と大江戸線の清澄白河駅下車A3出口から徒歩3分。 深川の赤い橋01 深川の赤い橋02


 無闇に心が踊る。新しい台本を手にした時だ。どんな芝居なのか、どんな役を貰えたのか。淡いベージュ色の表紙には、作・演出横澤祐一「深川の赤い橋」二幕――と、明朝の活字でクッキリ印刷されている。劇団東宝現代劇七五人の会第二九回公演、二〇一四年十一月五日(水)より十一月九日(日)まで、深川江戸資料館小劇場にてと、表紙左隅にこれも明朝で2行。
 《おお、そうか、そうか...》
 と、嬉しさについ指でなぞってしまう僕...。
 「ざっと目を通してもらって、30分後から読み合わせをしましょうか」
 舞台監督那須いたるが、妙に明るい声で言う。9月24日午後、池袋・要町から遊歩道をしばらく行ったいつものけいこ場。顔合わせのその場で台本を貰って、即読み合わせと、何も彼も一ぺんにやるのも、きわめて刺激的だ。
 舞台は深川、永代橋に近く、大川に注ぐ油堀川の河口あたりにある竹中医院の待合室。今回はここに出入りするごく庶民的な人々の交遊を描く人情劇で、読み進むうちに役者たちがクスクス笑うのは、機微に触れるセリフが随所に書き込まれているせいだ。僕の役は西村木材の主人西村次郎で60才くらい。時は昭和48年ごろ、亀之湯の亭主亀島一太郎(これを作・演出の横澤がやる!)と将棋を指しているところからお話が始まる。
 5年前に「浅草瓢箪池」に出して貰って、今では僕もこの劇団の劇団員。すっかりおなじみの先輩たちにあいさつしながら、
 《横澤さんの深川ものに出るのは、これで三作めになるか!》
 多少の感慨は禁じ得ない。「水の行方・深川物語」が3年前で、堀川銘木店が舞台。ここで僕は元筏乗りの番頭武さんをやった。お次が昨年の「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」で、深川の集合住宅の一室が舞台。これで僕は万引き癖がバレて失踪中のサラリーマン夏目磯八という、不思議な男をやらせてもらった。今回もそうだが、下町の熟年男女がポンポン言い合う好人物ぞろいで、愛すべきキャラクターが何種類か。
 《すっかり秋だが、まだ夏のさるすべりが元気だ》
 けいこ場への道すがら、あれは漢字で書けば「百日紅」...と思い出す。ここ何日かは旅先で、何回もさるすべりを見た。義父の十七回忌法要に出かけた岐阜。斎藤道三の城を頂きに置く金華山と、そのふもとの岐阜公園にもあちこちに咲いていた。渓流の岸には郡生する曼珠沙華の赤。カラオケがまだなかった昔、ギターの弾き語り相手に何曲か歌った僕に、阿久悠がリクエストしたのが「恋の曼珠沙華」だった。40年超のつき合いだったが、彼は一度も歌ったことがない。しかし作詞する時は人知れず、歌っていたはずなのだ。彼の詞からは明らかに、メロディーが聴こえていたと僕は思っている。
 はやり歌評判屋の旅には、歌がついて回る。岐阜と言えば長良川。この川なら五木ひろしの「長良川艶歌」で、昭和59年のレコード大賞か。作曲者岡千秋のうちうちの祝宴へ、僕を誘ったのは吉岡治だった。初めて岐阜へ行ったのは、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」で、昭和41年だからそれより18年前...。ぶつぶつ一人言の僕に、つれあいが呆れた声をかける。何言ってんだい、そういうお前だって流行歌稼業のはしくれじゃないか!
 せっかくだから一晩くらいは...と、骨休めのつもりで下呂温泉に寄る。杉木立うっそうの山の中腹にある湯之島館。昭和6年によくもまあ...と驚いた数奇屋造りの3階建だ。ここにもまた赤くさるすべりが咲いていて、どこからか金木犀の香りがした。そう言えばつれあいの故郷・岐阜で、結婚のお披露めをしたのも9月23日の秋分の日だった。阿久悠、三木たかし、田辺エージェンシー田邊昭知社長、アップフロントの山崎直樹会長ら、そうそうたるメンバーを雑魚寝させる乱暴すぎる企て。平成元年のことだから丸25年前。やばい! 25年って何かの節目じゃなかったか?
 けいこ場通いのさるすべりから、ずるずる年寄りじみた回顧気分のあれこれ。かくてはならじ! と僕は気を引き締める。やたらに多いセリフ相手に10月いっぱいは、記憶力と格闘する日々になる。

週刊ミュージック・リポート

隙き間狙いは、挑戦のひとつだ

 西方裕之の『おやじのたそがれ』は、多芸の物書き高田文夫のクセ球、山本譲二の『北の孤愁』は昭和40年代ふう直球、島津悦子の男唄『惚れたのさ』は、威力そこそこのカーブ...。 いずれも流行歌の隙き間ねらいの企画である。昔、〝演歌の竜〟の馬渕玄三氏は、大晦日に温泉で「紅白」を見て、出て来なかったジャンルの歌づくりで新しい年を始めた。「これがてっとり早い勝負でね」と、隙き間ねらいの妙を教えてくれたことを、思い出した。

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惚れたのさ

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:島津悦子

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 言動がきっぱりめで、気性もすっきりに見えるのが、島津の日常。だから意外だったが、男唄はこれが初めてという。
徳久広司の曲は、やくざ唄ふうな決め方。それを生かすように島津は、ざっくりと歌って、それなりの味を作った。思い入れ濃いめになるのは、サビの「惚れたのさ 惚れたのさ」の1回めの「さ」の部分。ここに男心の本音めいた色が出る。
 多作の仁井谷俊也の詞も〝ほほう!〟である。決めのフレーズづくりに工夫があり、2番の歌詞も流さずに書いていて、頼もしい。

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おやじのたそがれ

作詞:高田文雄
作曲:佐瀬寿一
唄:西方裕之
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  「セピアの写真」「泣きぐせ踊り子」「ひろった仔猫」「夕闇」「釣り堀」「こわれたネオン」と、言葉をぶつ切れに並べて描くのは、おやじの世代のたそがれ。歌づくりに参入した高田文夫〝らしい〟アイデアだ。
 それを思いがけなく、ごく演歌的なメロディーにまとめたのが作曲の佐瀬寿一。一風かわった作品で、独自性を狙う二人の野心がありありだ。
 西方の歌はこれも意外だが、やわらかめにスタートして、歌い尻で決めにかかる。その狙いは、〝おやじ〟同志の共感に聞こえる。

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下田慕情

作詞:我妻ゆき子
作曲:河合英郎
唄:竹川美子

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 下田、黒船、唐人お吉...と、おなじみの素材を使った人恋いソング。現地で長く歌われている作品、竹川がカバーした。歌い出しの歌詞が3行続きの破調、メロディーのところどころにある日本調の味もひなびていて、竹川の持ち味に似合っている。

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北の孤独

作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也
唄:
山本譲二

 詠嘆の思いを大づかみに、朗々と山本が歌う。たかたかしの詞が「狭霧」「森かげ」「湖水」「わくら葉」などを小道具に、今では古風に思える筆致。弦哲也の曲が委細承知とそれに応じた。大昔でいえば逍遥歌、昭和40年代なら松島アキラの「湖愁」の味か。

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紀淡海峡

作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳
唄:
入山アキ子

 ゆったりめの曲を、律気に歌う。高音にちらりと艶があって、無名だがそこそこのキャリアを持つ人の歌だ。悠木圭子・鈴木淳コンビの作品は、ひところの八代亜紀を思わせる仕上がり。入山は「1カ月で2万枚も売った」とテイチクを驚かせる地力も持っている。

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佃の渡し

作詞:たきのえいじ
作曲:あらい玉英
唄:
千葉一夫

 たきのえいじの詞、あらい玉英の曲、南郷達也の編曲と、三者オーソドックスな演歌。それを千葉が、相変わらずの几帳面さで歌っている。息づかいであちこち、彼らしい工夫はしているが、どこか醒めている気配の歌唱。それがこの人の、個性なのかも知れない。

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越後雪歌

作詞:森坂とも
作曲:村沢良介
唄:
木原たけし

 やがて冬、父は出稼ぎ...の1番。夜なべに機を打つ母親が2番。もうすぐ春、父が帰る日を待つのが3番。森坂ともの郷土色たっぷりの詞に、村沢良介が曲をつけた。さすが老練、越後の冬の重さを綴り、歌のおしまいで木原の渋い歌声を、一気に解放した。

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飛騨川恋唄

作詞:高田ひろお
作曲:弦 哲也
唄:
清水博正

 清水の歌は基本的に泣き節。どんな曲想の作品を貰っても、必ずその色になる。今回は高山本線、飛騨川を舞台に会えない人をしのぶ青春演歌編。ブンチャブンチャのリズムに乗るが、明るめには仕上がらないのが清水の世界。特異にして独特というべきか。

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夢旅路

作詞:三正和実
作曲:大山高輝
唄:
三船和子

 1番で出雲、2番で京都、3番で三陸港と欲ばった旅唄。三正和実の詞、大山高輝の曲が、それを、夢で辿るしかない巷の女唄に仕立てた。歌手生活50周年の三船が、はずみながら芯は泣いている歌声で語る。ほろほろと頼りなげに、これもベテランの技か?

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冬かもめ

作詞:幸村リウ
作曲:弦 哲也
唄:
松川未樹

 冬間近か、北の港を舞台に、男にはぐれた女心ソング。よくある題材を一途に、幸村リウが言い募る詞を、弦哲也の曲が情の濃淡で演出する。松川の歌はていねいに、ひたひたとこちらも一途。含み声が吹っ切れて色づくのは、サビと歌い納めのフレーズだ。

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雪の宿

作詞:もず唱平
作曲:聖川 湧
唄:
成世昌平

 〝宿もの〟は大てい、主人公の男女がそこに居るのが相場。それを別れて3年目、駆け込んだ夜汽車で、女が思い起こしているのが、もず唱平の詞のミソ。聖川湧の曲が、それを彼流の演歌にした。成世は民謡の声と節を、女心ソングに生かそうと試みた。

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ガラスの部屋

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:
ハン・ジナ

 ともかく快い。田久保真見の詞、徳久広司の曲、川村栄二の編曲とテンポ、ハン・ジナの声味...。韓国歌手によるハスキーボイスのムード歌謡は、いつもヒットの椅子が一つ用意されて来た。彼女がそれを占めるかどうか。ライバルに比して、甘さがあるのが利点だが。

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ベテランの仕事が刺激剤になるか!?

 6月13日夜、新体制発足の日本作詩家協会懇親会で、副会長になった久仁京介と握手をした。「昔の名前やね」の冗談は、言わずもがなだったか。昭和45年、日吉ミミの『男と女のお話』が出会いだから、もう44年になる。福田こうへいで一発当てて、第一線復帰の賑いがめでたい。山田孝雄とはさくらと一郎の『昭和枯れすすき』以来40年のつき合い。ゴルフ場で会う事が多かったが、真木ことみの『恋文川』がなかなかだ。ベテランが腕によりをかけるのは、頼もしい限りである。

あなたに雨やどり

あなたに雨やどり

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦 哲也
唄:岡 ゆう子

 岡の歌声そのものは薄手である。それがうまく生きて、歌う口調がはすっぱ。高音を鼻にぬくから仇っぽい艶が加わる。声味の面白さだろうか。
 〽こころ預けて、寄り添って、私、私あなたに...雨やどり...
 仁井谷俊也の詞が、主人公のたたずまいをさり気なく見せ、弦哲也の曲は、例によって情が濃いめだ。
 そんな作品を岡は、掌の上で転がすように歌う。聞く側へ押し込んでくるのではなく、風情本位の歌の処理。長いキャリアで身につけた、ベテランの技かもしれない。

春よ来い

春よ来い

作詞:宮路オサム
作曲:宮路オサム
唄:宮路オサム

 歌い出しが一体誰?と思うくらいに、二枚目のムード派ぶりである。そんな歌詞3行分のあと、サビの2行分はガラッと変わって、おどけた乗りが三枚目ふう。そして歌い納めの1行分は、張り歌でオサム節になる。
 宮路オサムが作詞、作曲した。1コーラスで三度おいしい歌づくりは、彼の歌手としてのキャラと、やりたいことのまとめ撃ち。よくやるよ!と僕は、彼との長いつきあいを思い浮かべながら、ニヤニヤした。
 アレンジが牧野三朗と、久々に見る名前。たしか亡くなった作曲家牧野昭一の縁者だ。

能登の海鳴り

能登の海鳴り

作詞:久仁京介
作曲:西 つよし
唄:竹村こずえ

 カラオケ大会の優勝経験多数、バンドボーカル歴2年のキャリアを持つ新人だ。それならば...というように、久仁京介と西つよしが力の入る仕事をした。歌い出しを高音から出れば、サビと歌い納めにも高音部が来る。インパクト強めの作品で、歌唱力の強調だ。

昭和男唄

昭和男唄

作詞:さわだすずこ
作曲:弦 哲也
唄:山崎ていじ

 なぜかつっぱる男唄。とっぽい語り口と、めいっぱい張りたい部分を、うまく生かせる作品を貰った。以前山形で一緒にカラオケをやったつき合いがある人。身丈に合った曲とスタッフにめぐりあえて、13年目の転機とか。よかったねぇと言ってあげたい。

南部のふるさと

南部のふるさと

作詞:久仁京介
作曲:四方章人
唄:福田こうへい

 勢いというのは恐ろしいものだ。福田の民謡調のいいところが、随所に聞こえる。ことに歌詞のア行がすっきり抜けて伸びやかだ。作曲は四方章人。とかく穏やかめの彼の曲が、攻めに回っていて、いい。本人に言わせればそれは、歌手の力量次第との事だが。

女の夜雨

女の夜雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:山口ひろみ

 ギターがメインのイントロは、おなじみの露地裏演歌。人生に疲れた女が主人公と思いきや、仁井谷俊也の詞は幸せ演歌系。それと歌い尻を細かく動かす工夫の、徳久広司の曲が山口にうまくはまった。娘々した声味が生活感ぬきで、妙に初々しいのだ。

なみだ月

なみだ月

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:鏡 五郎

 名文句づくりに仁井谷俊也が腐心して、近ごろ珍しい4行詞演歌。ギター流しにうってつけの曲を宮下健治が書き、南郷達也が奇をてらわぬオーソドックス編曲だ。そうなれば鏡五郎は、得たりや応!の歌いぶり。緩急よろしきを得て、よっ!名調子! だなぁ。

思慕酒

思慕酒

作詞:高橋直人
作曲:影山時則
唄:水田かおり

 こちらは伊戸のりお編曲のギターもの。高橋直人の詞に影山時則が曲をつけた。5行詞のはじめ3行分を、水田に抑えて抑えて歌わせて、ひと芝居させたのは次のサビ1行分。歌い納めを粘らせたが、影山も彼女に、ずいぶんストイックな仕事をさせたものだ。

恋文川

恋文川

作詞:大地土子
作曲:大地土子

唄:真木ことみ

 2番に1行、聞いたようなフレーズがはさまるのが惜しいが、山田孝雄が凝った詞を書いた。作曲と編曲が蔦将包で、こちらも彼流の独特の世界を目指す。父・船村徹ふうフレーズをちらっと感じたが、繊細な仕上がり。そのせいか真木の歌はとても一生懸命だ。

MC音楽センター

殻を打ち破れ149回

猛暑、酷暑、烈暑...なんて字を並べてみる。日本の季節はどうかなっちまったみたいで、まるで亜熱帯の日々。暑いだけではなく、各地に大雨の被害が続出、死者まで出ているのだからこの年で、生き延びている分だけ有難いと思うしかないか。

 そんな深夜、新着のCDを聞く。日野美歌の『あなたと生きたい』で、作、編曲欄に若草恵の名がある。このところ体調不良が続いて、歌社会のゴルフ・コンペにも居ず、たまに会えば、

 「大丈夫です。もう大分よくなった...」

 と、優しげな笑顔を作る奴だ。その割に仕事の数は多くて、おりるにおりられないのか、それともむきになって仂いているのか...。

 『あなたと生きたい』は、歌凛のペンネームで日野が詞を書いた。いつも親身にそばにいてくれる男が、ふと気づけば最愛の人だった...と、女が一途に語る一人称ソング。よくある話の歌凛版で、女性の聞き手には思い当たる節がありそうな内容だ。それに若草が曲をつけ、編曲もやった。ピアノのソロでスタート、次第に音が厚くなって行くイントロから、

 ≪いかにも!あいつらしいや...≫

 と僕はニヤニヤする。

 温くしっとりめの日野の歌声もリラックスしていて、すうっと引き込まれ、やがてそれなりの高揚を示す穏やかなドラマ性。いかにも日野、いかにも若草の世界だと合点がいく。こういう作品もCDにして世に出すころあいに、やっと歌社会がたどりついたことになるのか、何をやっても売れないから...と、こういう作品にも出番が回って来たことになるのか、いずれにしろご同慶のいたりではある。

 「曲も書きなよ、才能があるんだから...」

 と、若草のお尻を叩いたことがある。そうしたら突然、天童よしみでヒットしたから驚いたが、もともと中山大三郎の弟子だから、演歌もOKのはずと鵜呑みにした。しかし、今作のタイプの方が彼らしいと、僕は安堵する。なだらかな歌い出しの歌詞4行分のメロディーとその繰り返しに、僕はふと三木たかしの顔を思い出した。哀愁の色さっとひと刷毛のタッチが、相通じて聞こえたせいか。

 日野は『氷雨』のヒットを持つが30年以上前のことだから、一般のファンには"あの人は今..."的存在だろう。それがこの夏は、新沼謙治と『男と女のラブゲーム』をまた歌い、松平健と『ドスコイ人生』を出すなど、にわかに出番に恵まれている。実はこれまでも、自分の事務所やレーベルを持ち、コンサート活動もコツコツ、地道な活動を続けていた。大分前になるが、天現寺あたりのライブハウスでナマ美歌を聞いた体験がある。ヨコハマおばさんふうぶっちゃけトークと、味のある歌のバランスが絶妙だった。

 『あなたと生きたい』のカップリングは、その夜にも聞いた『桜が咲いた』で、こちらは歌凛の詞に馬飼野康二の作・編曲。そう言えば"一発屋"の彼女に、マイペース"味な歌手"への道をすすめたのも、馬飼野だと聞いた。それやこれやを思い返しながら、クソ暑い夏の深夜に、

 ♪人ひらひら 煌めいてる 人ひらひら 命が咲く...

 という、桜の歌を聞くのもまた、乙な気分ではあった。

月刊ソングブック


 「小西さんはグリーンに乗るんでしょ」
 芝居のけいこ帰り、横浜まで一緒の女優さんに言われてドキッとした。何とぜいたくな! と、自分でもたまにそう思う胸中を、見すかされた気がしたのだ。実は帰り道がおおむねそうなる。年のせいか疲れが澱にたまるし、大てい誰かと飲んだ後だから酔っている。横須賀線で新橋から逗子までの小一時間、立ったままでは翌日の仕事に差しさわりが出る...と、これが自己弁護である。
 往路もそうする時がある。今日はCDウォークマンで流行歌を聴く。新譜10曲ほどの寸評を書く原稿の、締切りがもう過ぎているのだ。「あれは音楽の点滴だ」とウォークマンを評したのは阿久悠。確かに歌がいきなり脳へ入って来るから、距離をとる聞き方を工夫しなければならない。
 久しぶりに佐々木新一か。「花嫁峠」がのうのうと鄙びた味でなかなかだ。昔、三橋美智也に、当時三橋二世と呼ばれた佐々木の話をしつこくして、怒らせてしまったことがある。銀座を何軒か回って向島へ流れたお座敷。
 「何が言いたいんだ。引退でもしろって話か!」
 お膳をひっくり返してガッと立ち上がる彼、悲鳴をあげる芸者。彼は前年暮れの「紅白歌合戦」で歌った「星屑の街」の不出来が胸につかえていたのだろう。
 あのころからすれば、佐々木もいい年で、声が太めにザックリしているが、それも年輪のうち。関口義明の詞が、娘を嫁に出す父親の心情を、訥訥と書き込んでいる。村境の峠、山の向こうで待つ婿どのは親も認めたいい人。親の欲目で言うのじゃないが、娘は姿まぶしい角かくし...。
 僕は新聞記者あがりだから、基本が新しいもの好き。斬新な設定や切り口、意表を衝く表現などを推称する。しかし、新しければ何でもいいとも思ってはいない。奇を衒うばかりではお里が知れるし、古くたって肌理こまやかに、仕上げきっちりとしたいい仕事は、いいのだ。そんな関口の詞にうまく寄り添った宮下健治の曲も、佐々木の味を生かしているし、南郷達也のアレンジも彼らしく温かくて、いい。
 時折り車内の電光掲示に眼が行く。赤い点字がせわしなく右へ流れて伝えるのは「人身事故」「線路内人の侵入」「信号機故障」「踏切り安全確認」などが理由の「運転見合わせ」や「遅延」で、これがひっきりなし。相互乗入れで運行距離が延びているから、油断がならない。千葉の奥の強風で、横須賀線がノロノロ運転になったりするのだ。
 「どや顔」があるのだから「どや歌」もあるな―細川たかしの「艶歌船」が出て来てそう思う。まあ、歌を張るわ突くわ揺するわ...の大わらわ。芸道40周年記念で、彼は声の確かさと節のあれこれを、ありったけ開陳して聞かせる。千島の沖を行く荒くれ漁師の心意気を、荒々しい筆致で描くのは松井由利夫の詞。この手で行くかい! と増田空人が曲をつけ、丸山雅仁のアレンジもドドンと荒波を蹴立てる趣きだ。こうなれば細川も「よ~し、行くぞ!」になるはずだ。独自の声を支えるのは、一にも二にも背筋の鍛錬。スキーもゴルフもそのためだとうそぶき、先輩たちが寄る年波で声を失うころ、元気なのは俺だけになると、彼が笑ったのは十何年前になるか。
 そう言えば...と思い出す。関口義明は「ああ上野駅」で茨城から上京した僕を泣かせたが、残念ながら故人。松井由利夫も亡くなっているが、彼らは死してなお新譜を賑わすのか!
 9月16日夜、帰路もグリーンに乗る。「酒と女は二ゴウまで」か! 山形の坊さんのセリフを思い出しながら、珍しく飲んだ日本酒2合にほろ酔いである。電光掲示は湘南新宿ラインの「遅延」で昼すぎの震源地茨城の震度5弱の影響がまだ続く。栃木・今市の楽想館の主、船村徹は無事と、電話で確認した。3・11の時は被害が大きかったから気になってのこと。赤い点字が次の事故を知らせる。「山形新幹線つばさ158号は...」ふんふん、どうした? 「奥羽本線(山形線)での...」だからどうしたんだ? 「カモシカ衝突により遅延」何? カモシカ!? 僕はしばらく眼が点になったままになった。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ148回

「一度ナマを見ておいて下さいよ。チケット完売だけど、席は用意します」

 キングのプロデューサー古川健仁からの誘いに「そりゃ大変だ!」と出かけた。6月26日午後の浅草公会堂。福田こうへいのコンサートだが、午前の部も含めて、なるほど大変な盛況。今が旬の勢いを絵に書いたような雰囲気だ。

 アカペラの民謡『牛追い』を皮切りに、福田はガンガン行く。昭和歌謡四天王と名づけて、春日八郎の『長崎の女』村田英雄の『夫婦春秋』三波春夫の『大利根無情』に三橋美智也は『おんな船頭唄』『リンゴ村から』『達者でナ』などのメドレー。全部東北訛りの福田流歌唱だが、晴れ晴れすっきりの高音が心地いい。ことに歌詞のうちのア行部分のぬけが、のびやかで明るい。

 そうか、とことん美声と巧みな節回しを聞かせるタイプか!と合点したら、千昌夫メドレーで声の色を変えた。息をまぜる気配で『望郷酒場』から『津軽平野』までに"しっとり感"が加わる。声の当てどころが多様で、仮りにきっぱりめを「表」、しっとりめを「中」とする。それを高音と中音、低音で使い分ければ、3×2=6で、微妙な変化が6種類の勘定。恐らく本人にはそんな意識はないだろうが、長い年月、民謡を歌い込んで身につけた技と思える。

 昨年『南部蝉しぐれ』でブレークして、

 「まだ1年7ヵ月の新人...」>

 と福田は言うが、ステージ慣れとトークもなかなかのもの。父方のばあちゃん、母方のばあちゃんをネタにして、ローカル・エピソードが客席の笑いを取る。発情した牛の鳴き声をやった時は、僕もつられて爆笑した。

 ≪何と言っても、歌い手最高の武器は、やっぱり声だなぁ≫

 と、僕は改めて感じ入る。カラオケ大会でスカウトした歌手にも、時にいい声の持ち主はいるが、残念ながらそれを徹底的に訓練する時間は持てない。若さが売りと考えれば、レコーディングスタジオであの手この手で声と節を整え、まとめる作業が先に立つ。ところが福田は、父親譲りの美質を持ち、父に反抗したり見返そうとしたりの、やんちゃで長い訓練の時間も持った。その間のあれこれが、人をそらさぬサービス精神とネタになってもいる。言ってみれば生い立ちと環境が育てた芸。なるほど古川が聞かせたがるはずだ。

 すっかりいい気分になって、終演後に作曲家四方章人と一杯やった。『南部蝉しぐれ』に続き『峠越え』も好調で、会場でもファンから声がかかるくらい有卦に入っている。そう言えば日吉ミミの『男と女のお話』で出会った作詞家久仁京介とは、断続的にもう40年を越えるつき合い。それが福田ブレークの勢いもあってか、作詩家協会の新体制で副会長に就任したから、ご同慶のいたりだ。

 蛇足をつけ加える。声量を誇る歌手がおちいりやすい欠点なのだが、福田もコンサート終盤、歌詞が流れがちになった。唇に緊張感がなくなるせいで、そこをちょっと意識しさえすれば、言葉がきっぱり粒立って生きるものだから、あえて一言――。

月刊ソングブック
10月18日の土曜日、午後2時から、小田急線代々木上原駅前、けやきホールで、作詞家星野哲郎を語るトークショーをやる。古賀政男音楽財団のミュージアム講座「歌い継ぎたい歌がある」シリーズの4回目。当初先輩の音楽評論家伊藤強氏がホストで僕はゲスト出演だったが、伊藤氏が体調不良のため、僕がホストに格上げになった。僕は昭和38年の初対面以来、知遇を得て47年、星野を物書きの師として来たから、話すことは山ほどある。ゲストの水前寺清子は、星野の "人生の応援歌 "最大の表現者。この人ともデビュー前後からの親交があるから二つ返事で引き受けた。星野の代表作20曲前後を、水前寺の生歌もまじえて2時間の構成。講座タイトルの「歌い継ぎたい歌がある」を「語り継ぎたい人がいる」に読み替えて「星野のことなら、俺たちにお任せだよな!」と、水前寺ともどもやたらに気合が入っている。入場料2千円、問い合わせ先は03-3460-9051。 語り継ぎたい人がいる


 何年ぶりになるだろう。やっと田辺エージェンシーの田邊昭知社長に会った。8月25日、明治記念館で開かれた中村美律子と増位山太志郎の新曲発表会。二人のお抱え主・ゴールデンミュージック市村義文社長がやった催しだ。一見関係なさそうな田邊社長やバーニングプロの周防郁雄社長が姿を見せるのは、市村氏の縁とデモンストレーション。
 彼に言わせれば、芸能界マネージメント勢の長男が田邊氏で二男が周防氏、三男のやんちゃ坊主が市村氏という間柄。それじゃもう一人の助っ人イザワオフィスの井澤健氏は何? と聞いたら、おじ貴分に当たるそうな。そんな人々とメインのテーブルに集まって、僕は田邊さんにご無沙汰の詫びを言った。
 「俺たちは偽物かい?なんて、スポニチに訪ねて行ったのは、25か26才のころかなあ」
 田邊氏の一言がグッと来る。僕がまだ駆け出し記者のころ、エレキブームがあって外国バンドがよく来日した。その前座ふうに共演するスパイダースに、観客から、飛んだ罵声が
 「偽物ひっこめ!」
 で、それにムッとしたスパイダースのリーダー田邊氏が、メンバー全員を引き連れて、僕の勤め先へ来た。そんな昔を彼ははっきり覚えていたのだ。
 「そんなことはねえよ。客の舶来礼賛なんて、すぐに消える。実力はちゃんと認められるよ」
 と、僕はそう答えた記憶がある。
 やがて来たグループサウンズ・ブーム、田邊氏はその支柱となり、僕は日劇やジャズ喫茶のスパイダースの楽屋に入り浸りになる。新聞記者も芸人と同じで、
 「教わるよりは盗む」
 のが基本。根っからの演歌育ちだった僕は、そこで硬軟山ほどのことを学んだ。だから田邊氏に恩義も義理も強く感じているのだが、この実力者は昨今、歌世界にあまり出回らない。パーティーには顔を出さないし、ゴルフコンペにも出なくなり、さりとて事務所で貴重な時間を割いてもらうのも気がひけた。その挙句のご無沙汰だった。
 「ねえ、改めて電話するから、会社のそばで蕎麦でもおごってよ」
 と、その夜は別れたが、それからがまた大変で...。
 八月末、亡くなった作詞家吉岡治の長男天平氏から、吉岡夫人久江さんの病状が重篤との電話が入る。万一の場合の相談で、僕は早速花屋マル源の鈴木照義社長に連絡、手はずを整える。中山大三郎の葬儀を手はじめに、星野哲郎、三木たかし、小澤音楽事務所の小澤惇社長、僕のおじ貴分の名和治良プロデューサーなど、僕がかかわった沢山の不祝儀は全部彼をわずらわした。もちろん吉岡治の場合も例外ではなく、鈴木氏は今や小西会の有力メンバーの〝スーさん〟だ。
 吉岡夫人久江さんが亡くなったのは9月2日
 「これは仲町会葬だぞ」
 と、僕は弦哲也、四方章人ら大勢の歌仲間と遊ぶこの会の永久幹事・朝倉隆を動員する。吉岡がメンバーで、その没後は久江さんが顔を出し、準会員みたいになっていた。小石川の伝通院で6日が通夜、7日が葬儀。僕は4年前の吉岡に引き続き、久江さんも葬儀委員長である。それが歌社会各ジャンルへ伝わり、あちこちから心遣いを受けることにもなった。「釈尼久慈」の戒名は長男の天平氏がつけ、祭壇のデザインは孫娘のあまな君がした。彼女は2月の明治座、松平健・川中美幸公演で、僕の付き人を務めたから、あちこちに知り合いが増えた利発な学習院大一年生だ。
 気がかりだった田邊社長への改めての電話は、その最中にかけた。何と代官山の小川軒に招かれたのは、葬儀の翌日の9月8日の夜。思いがけないご馳走に興奮気味の僕は、ワインも白赤の順でずい分飲み、一人でしゃべりまくった。ここ8年ほど続く役者体験のあれこれを、近況報告のつもりである。ニコニコ聞き役をしてくれた田邊氏に、今度は会社へ訪ねて行く約束をした。
 とは言え、9月は雑甲山ほどで、10月は芝居のけいこ。11月4日から9日まで、深川の江戸資料館ホールで東宝現代劇75人の会公演をやるから、青葉台の会社へ行くのは11月中旬になるか。ま、それにしても、会わなければいけない人にやっと会えて、僕は胸のつかえがおりている今日このごろである。

週刊ミュージック・リポート

"いい作品再発掘"の陰の懸念

 五木ひろしが3月に「桜貝」を出して、今月は細川たかしが「女の十字路」である。たまたま福田こうへいのレッスン用テープ「風やまず」は三度目のお目見得。いずれも旧作の再発掘だ。
 歌手にぴったり"はまりの作品"は、そうそう出来るものではない。ご時世にはまるかとなるとなおむずかしい。だから「いい作品を再び」の試みは、それなりの意味があって悪くはない。しかしその陰に、ステレオタイプの作品への疑義がありはしないか? 歌手が飽きる前にファンが飽きる。痩せて久しいのは歌詞で、巻き返しを切望する所以だ。

涙しぐれ

涙しぐれ

作詞:田久保真見
作曲:岡 千秋
唄:原田悠里

 「俺、ここんとこ、ずいぶん書いてるヨ」恒例の北海道・鹿部の旅で、相変わらずの深酒の岡千秋が、チョビひげそよがせて言う。「判ってる、聴いてるヨ」と、僕の返事はそっけないが、ココロは理解と激励のつもり...。
 この作品もその一つ。原田の声味を生かして、曲の細部にまで気配りがある。このところ演歌も書き慣れて来た田久保真見の詞は、歌い出し2行で決めたい気配。歌い納め前の1行が「あいたくて、あいたくて」と他愛がないのが逆に気分のいい隙間になって、原田の歌のヘソを作った。

ネオン舟

ネオン舟

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 仁井谷俊也の詞は、各コーラス歌い出しの2行で一番が男の生き方、二番が長崎の景色、三番が人の情と書き分け、これがそれぞれ歌の前置きになる。中身は何?と言えば、不遇の男の未練とボヤキなのだが...
 それを水森英夫の曲も池田の歌も、屈託のかげりもなしに、のびのびと行く。声味と開放的気分を重視した歌づくりだから、余分な感情移入など邪魔とでも言いたげだ。その昔、春日八郎も三橋美智也も、こういうふうに詩と曲の持ち味を率直に歌声に乗せた。結果、情感が大づかみの、おおらかさがあった。

風やまず

風やまず

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:福田こうへい

 西方裕之のカップリング曲だったのを、福田が「南部蝉しぐれ」のカップリングにして、今度はレッスン用というおつとめ曲。久仁京介の詞が東北男の心意気を力みかげんに書いたのを、徳久広司が面白い曲に仕立てた。一部に村田英雄を思い出す浪曲調。それを福田が民謡調でこなして組み合わせの妙が生きる。西方よりは似合いの線になったろうか?

女の十字路~あなたに迷いそうな夜~

女の十字路~あなたに迷いそうな夜~

作詞:中山大三郎
作曲:浜 圭介
唄:細川たかし

 昭和51年に出した曲の新録音だという。31年も前で、作詞した中山大三郎はとうに亡い。それがさして古く感じられないのは演歌ならではの現象と、浜圭介の曲の粘着性とたたみ込む覇気。高っ調子でガンガン行く細川の魅力にぴったりだから、彼が歌いたがるのもよく判る。聴いているこちらに残るのは生理的快感で、詞の女心の切なさなど吹っ飛んだ。

女 いのち川

女 いのち川

作詞:麻 こよみ
作曲:岡 千秋
唄:北野まち子

 麻こよみの6行詞女心ソング。岡千秋の曲が歌い出し2行分からソツなく繊細で、北野の歌を気分よくリードする。歌詞5行めの字あまり5字分も、うまいこと乗り切って、歌を納まるところへ納めた。メロディーにはえてして、次へ行くためのブリッジ部分がありがちで興醒めするが、それがない。岡が頑張ってるヨと言い募るのも判るな。

おまえの子守歌

おまえの子守歌

作詞:槙 桜子
作曲:岡 千秋
唄:浜 博也

 連絡船ものみたいな前奏(編曲伊戸のりお)に気分よく乗せられる男の未練唄。惹句が「たっぷり歌えるスタンダード演歌」なのは、料理法では、どんなタイプの歌にもなるということか。これも岡のムード派っぽい曲を、浜が声を抑えめに、そのくせしっかりと彫りが深めの歌にした。元来歌謡コーラスのリードボーカルは、突出しない巧さを持つ証だ。

 
 「見に来てくれませんか!」
 と、歌手本人から電話がある。とても珍しいことだが、何だか嬉しい。そのうえにまだもごもごと、
 「で、あのォ、あいさつというか、乾杯の音頭というか...」
 と口ごもっている。
 「判った、判った、何でもやるからさ」
 と、僕は即答する。相手は天草二郎。8月23日夜、九段のホテルグランドパレスで「デビュー10周年記念ディナーショー」をやるという。
 《そうか、コツコツと歌い歩いて、あいつももう10年になるのか!》
 新曲「一徹」が出るのは知っていた。ど頭から船村メロディーとはっきり判る譜割り。それを体中をくねらせて辿り、彼らしい歌にするのが目に見えるようだ。ジャケットやチラシを飾る曲名の暴れる筆文字は鳥羽一郎、師匠船村徹の曲で、タイトルが兄弟子鳥羽の筆で、みんなが彼を盛り立てている。
 天草の歌手生活が10周年なら、彼と僕のつき合いは20周年になる。船村の内弟子として10年、僕は長いつき合いだし、何くれとなく世話にもなった。彼の内弟子暮らしは、運転手、料理人、付き人、マネジャー、秘書役等々と、船村の身辺で何でもこなした。僕が船村と会う話も、取り次ぎは全部彼。会って酒になり、話がはずむ船村との時間も、きっちり傍にいて、手ぬかり一つなかった。
 筋肉質の中肉中背、眉をきっとあげた利かん気の風貌、言動に体育会系のメリハリがある。何のことはない、芸名どおりの九州・天草育ちで、高校の生徒会長だか応援団長だか空手部主将だかが、そのまんま大人になったような、今どき珍しいタイプの好青年だ。
 気を使わせまいと早めにホテルに着いたら、天草は会場を走り回っていた。席順が混乱していて、それの手直し。
 「小西さんは、あそこ!」
 と、彼に指し図された僕は、天草の後援会長鍬田敏夫氏の隣りに座る。地元天草からやって来た会長が開会のあいさつ。その次が僕の出番で乾杯から食事になると、早口で段取りを説明するのも天草だ。
 巨匠船村の弟子だって、身の回りのことは全部一人でやる。それがきちんと出来るように育てられている。いい奴である。しかし、人柄が良ければ何とかなるほど、この世界は決して甘くない。それなら逆に、ろくでもない奴でも、運さえよければ何とかなるかと言えば、金輪際そんなことはない。歌には必ず歌っている奴の人間性が出る。ファンはそこのところを、ちゃんと聞き分けるのだ。だからいい奴は、人間味と相応の力量で、歌社会のあれこれをしのいで行く。いつか必ずいい風が吹くことを信じていけばいいのだ。
 師匠船村の慧眼が彼を支える。デビュー曲が「天草かたぎ」で次が「天草純情」間に「酔いどれ数え唄」をはさんで、今度が「一徹」である。カップリングには「出世払い」や「ふるさと自慢」などがあり、「さだめの椿」も天草の歌。みんな出身地天草と彼の朴訥なキャラ、ふるさと思いがからめてある。デビューの発表会に、僕は天草へ行った。その土地の風物をしっかり見聞きして来たが、何よりも心強いのは天草の人々の血の熱さ。それが天草二郎10周年の背を押す風になる。作品こみで地元とその人脈が生きる仕掛けだ。
 10周年記念のステージで、天草は手持ちの全曲を歌い、師匠の作品「男の友情」も歌った。二部で伴奏、彼の後押しをしたのは蔦将包、斎藤功ら仲間たちバンドのピックアップメンバー。船村のステージでおなじみの面々が楽しそうな顔をしていた。
 僕は昭和三十八年に初めて船村と会い、以後私淑して弟子を自称、やがて許されて一門の一人となる。だから先輩弟子の北島三郎はさんづけだが、鳥羽一郎以下は弟弟子に当たるので呼び捨てで付き合う。静太郎も走裕介も、船村門下はいい奴ばかりだ。ことさらに今回は天草に熱いのだが、僕のヨイショは船村一門に限りはしない。いい奴で力があって、コツコツ一生懸命に歌を生きるタイプはみんな好きなのだ。そのせいだろう、功なり名とげたスターたちよりも、歯がみして空を仰ぐ無名の彼らの側に、友人はやたらに多いのだ。

週刊ミュージック・リポート

二番の歌詞は無用の長物か?

 演歌、歌謡曲は3コーラスで一つ。それがテレビは2コーラスが当たり前になって、歌手も歌書きも疑わなくなった。あれは短時間に情報を多く詰め込むテレビの身勝手なのに。
今月作品を聞く。池田充男、志賀大介ら古手は二番もきちんと書いているが、中にはそこを手抜きというケースも見受ける。歌は入口、手口、出口で、それの展開と奥行きが欲しい。ステージでも一番三番の歌手なんて、作品に対して無礼です。素人のカラオケだけがフルコーラス、本当にこれでいいのかね。

霧笛の宿

霧笛の宿

作詞:池田充男
作曲:船村徹
唄:大月みやこ

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 歌い出しの歌詞1行分につけたメロディーだけで、作曲者は船村徹と判る。小さな譜割りの緩急、ゆすり方が独特なのだ。
 池田充男の詞は一見さりげなく、特段の技を示さない。こちらもそこが曲者で、平易な表現が婉曲。含みを持たせ、意味あいを掛けて、情のゆらめきを残す。
 八十才を越えた二人の、若々しい名勝負の一端を聞く。池田はあくまで控えめに、先輩船村を立てながらの仕事だが、胸中、期するところはあるのだろう。それを感じ取ってか、大月の歌がもう〝その気〟になっている。

花嫁峠

花嫁峠

作詞:関口義明
作曲:宮下健治
唄:佐々木新一

 昔々、佐々木は三橋美智也二世と目された歌手だ。それを面と向かって言い募り、三橋を怒らせてしまった体験を僕は持つ。
 そのころと較べたら、佐々木の歌声は太めになり、それなりの年輪を刻んでいるが、歌にある野趣は相変わらず得難い。
 作詞の関口義明は「あゝ上野駅」のヒットで知られるが故人。旧作の掘り起こしだろうが、掛け言葉、重ね言葉の妙は、やはり手練の術。ひなびたお話をのどかに仕立てた世界を、宮下健治の曲が生かしている。佐々木にはうってつけの作品で、ベテラン健在の感が強い。

人生一勝二敗

人生一勝二敗

作詞:志賀大介
作曲:岡 千秋
唄:三門忠司

 古い良さを生かすのが演歌なら、作詞志賀大介もベテランの腕の見せどころ。「人生一勝二敗」と題名から言い切って、それで丁度いいのだ...と、共感を求める。岡千秋も浪曲のツボを盛り込んで呼応、三門の歌は妙な表現で恐縮だが、ねっとりと歯切れがいい。

矢車草~やぐるまそう~

矢車草~やぐるまそう~

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:伍代夏子

 徳久広司もうまいもんだ...と感じ入る。快い乗りと起伏のメロディーで、歌い手も聞き手もその気にさせる。ことにサビの歌詞2行分あたりがそうか。ブンチャブンチャのテンポを少しゆっくりめにして、伍代の歌にシナを作らせ、思い入れの個所も残した。

雨の港町

雨の港町

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:キム・ヨンジャ

 徳さんもうまいなァの第2弾。久仁京介の長崎、函館、横浜をつないだ港町ものの詞を、なつかしのムード歌謡ふうに仕立てた。ヨンジャのソロなのに後ろから「ワワワワーッ」なんてコーラスも聞えそうな気分。ヨンジャも声を抑えた〝わさび味〟でこなした。


 夏はやっぱり甲子園だ! と、テレビで高校野球を見る。今年は逆転劇だの超スローボールだの、若者らしいエネルギーや、独自の技法が目立って、ことさらに熱い。球児たちの白い歯の笑顔が随所にちりばめられているから、それぞれの自負や達成感もまぶしい。
 《阿久悠ならこの夏を、どういうふうに描くだろう...》
 と、感慨が時代を後戻りする。何しろスポーツニッポン新聞で彼は「甲子園の詩」を毎夏、28年も連載した。稀有の大河企画で、立案した僕はずっと、彼の相棒だった。
 阿久はきっと、自分の書きたい青春譜に似合う材料を、球児の一挙手一投足に見出そうとしていた。1日4試合、一投一打をメモしながら、自分の構想を具体的にするシーンを探すのだ。一方の僕はまるで白紙のまま、僕の心を動かす光景の出現を待つ。今日、こんな面白いことがあったよとか、こんな凄い奴が出て来たぞとか、書くものは目撃した現象次第だ。そこのところが「作家」の阿久と「取材者」の僕の、決定的な違いだったろう。同じゲームを見ながら、同じように伝えようとしながら、阿久が書いたのはあくまで「彼自身」で、僕に書けたのは、どこまで行っても球児である「彼ら」だった。
 甲子園の中継映像に、しばしばニュース速報のテロップが流れる。台風や局地的豪雨で河は氾濫し、交通は寸断され、土砂崩れで大きな被害が出ている。広島の死者、行方不明者は80人を越えた。そんな現実が、阿久との交遊の過去と交錯する。いつのころからか「異常気象」という熟語は影をひそめている。とするとこういう惨状、自然の狂気はやがて、よくあることになってしまうのだろうか? 
 このところ、昭和の歌にどっぷり浸かりっ放しになっている。ひとつにはここ数年、日光市に出来る船村徹記念館の準備にかかわっていてのこと。来年4月末に開館予定だから、作業は大詰め。この大作曲家の「人と仕事」の足跡を、映像や資料で顕彰、展示するのは大仕事である。そのうえ開館は決してゴールではなく、事業のスタートに当たるのだから、来館者を驚かせ、楽しませ、末長い興味深さを維持する必要がある。狙いは船村エンターテインメント・パークなのだ。
 星野哲郎記念館を作った時もそうだったが、展示物のうち活字表現部分は、僕の担当になる。黙っていてもそうなるのを、買って出るのは船村の知遇に応えたいせい。そこで僕は昭和二十年代からの彼の歩みとおびただしい作品、双方にかかわった人間関係のあれこれを、改めて渉猟することになる。頭の中ではいつも、船村メロディーが鳴っている。
 もう一つ、僕は近ごろ「昭和の歌100、君たちがいて僕がいた」(仮題)という単行本を書きすすめている。歌謡少年時代に心おどらせた歌から、取材記者時代の体験のあれこれ、はやり歌評判屋として歌社会に出入りする昨今までに出会った歌と人々などが登場する。戦後のヒット曲にからめて、自分史も辿るというあつかましい企画。幻戯書房という出版社の編集者が乗ってくれたから、喜び勇んで原稿用紙に向き合っている。この出版社は阿久悠の「甲子園の詩」28年分の全作を、まるで電話帳みたいな一冊にまとめてくれたところ。それが縁で僕の本も...となるのだから、没後7年、阿久とのつながりは絶えることがない。
 船村メロディーも含めて、僕が愛した戦後の流行歌が100曲以上、頭の中でガンガン鳴っている夏である。世の中はただごとならぬ右傾化の中で、昭和回帰ものが盛り沢山。僕に書けるものや書くものもまた、その流れの中の一つになるのだろう。年寄りの冷や水、鼻もちならない昔話屋と言わば言えである。船村記念会館と僕の本一冊で、僕は自分の70代に少し早めのケリをつけるつもりでいる。もうすぐやって来る花の80代、僕は改めて何かに向けて出発する気だ。役者稼業はもう少しの間お邪魔虫をして、さてそれでは一体何を始めようか? ものを書く以外に出来ることは、当面思いつきそうもない。生来の貧乏性、湘南葉山の海で、魚釣り三昧という訳にもいくまい―。

週刊ミュージック・リポート
ちょいときまぐれ渡り鳥

ちょいときまぐれ渡り鳥

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:氷川きよし

 仁井谷俊也の詞に曲が宮下健治に変わった股旅もの。「おっとどっこい いけねえよ」を繰り返して、ファンとの掛け合いではやらせたい狙い。題名からも判る軽めの歌だから、氷川の歌もおどけた口調に、歌い尻は大きめのビブラート。技を聞かせる気らしい。

艶歌船(えんかぶね)

艶歌船(えんかぶね)

作詞:松井由利夫
作曲:増田空人
唄:細川たかし

 声を張るところはめいっぱい。突くところは突き、ゆするところはゆする。細川のお得意唱法のいいところを総動員した派手めの作品。半音あげたカラオケつきで、カラオケ巧者にやれるもんならやってみな!と突きつけた企画。芸道40年記念の痛快〝どやソング〟か。

冬子のブルース

冬子のブルース

作詞:池田充男
作曲:弦 哲也
唄:増位山太志郎

 また池田充男の詞をヨイショしたくなる。「ほんとの名前は知らないが俺が愛した二百日」なんて、あり得そうもない話をすうっと艶っぽく聞かせる。弦哲也は「北の旅人」まで思い出させるムード派ぶりがいい感じ。増位山にぴったり〝はまり〟の曲になった。

くちなし悲歌

くちなし悲歌

作詞:小谷 夏
作曲:三木たかし
唄:香西かおり

 作詞の小谷夏は演出家久世光彦のペンネーム。ずいぶん前に亡くなっていて、作曲の三木たかしもそうだから、17年ぶりに甦ったいい作品。女の恋心と年月の中の変化を、くちなしの花に託した含蓄の深さは、短編小説の幅と奥行きと美を持つ。観賞用歌謡曲だ。

合掌街道

合掌街道

作詞:喜多條 忠
作曲:小田純平
唄:松原のぶえ

 歌い出しから松原の歌は、張りつめている。細めに絞った声が、しっかり芯を作っていい。そんな緊張感を彼女に強いたのは、喜多條忠の詞と小田純平の曲のたたみ込み方。松原の歌は歌詞の最後の一言で、やっと演歌っぽく泣けた。いい作品に恵まれたのだ。

男の駅舎

男の駅舎

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦 哲也
唄:里見浩太朗

 4曲入りシングルということは1枚で4度おいしい勘定か。荒木とよひさと弦哲也の連作で「男の駅舎」はその冒頭曲。おとなの男の苦渋を、里見がしみじみ歌う。身上の折り目正しい歌唱が、時に激する個所もあって、僕と同い年だが、いや、若々しいねぇ。

花に降る雨

花に降る雨

作詞:渡辺なつみ
作曲:浜圭介
唄:瀬口侑希

 グラマラスな別ぴんさんだが、歌声と口調に、幼なげなニュアンスがある。その双方をうまくつなぎ合わせたのが浜圭介の大きめなメロディー。渡辺なつみの詞も相応の女心を書き込んだ。それをゆったりたっぷりめに辿って、瀬口はそれなりの進境を聞かせた。

MC音楽センター


 話がたまたま、作詞家石原信一の件になったら、
 「よろしくと言ってました」
 と、作曲家の幸耕平がニコッとした。8月6日午後、渋谷のUSENスタジオで、幸と僕は昭和チャンネル月曜日の「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」の録音をしていた。彼と石原は日本音楽著作権協会の役員になっていて、この日幸は、そこの会議を終えてのスタジオ入りだった。
 「彼とは古いつきあいで...」
 と、話は市川由紀乃の新曲「海峡岬」に続いていく。幸は彼の事務所で、石原とあれこれ話し合いながら、この作品を煮詰めたと言う。幸がギターを弾き、歌いながらメロディーを固めていく。それに合わせて石原は歌詞の細部を検討、しっくり行かない部分の手直しをする。その逆で石原の詞にそぐわない部分は、幸が曲に手を入れたそうな。言葉と音の寄り添い方、呼吸の合わせ方、そんな手作業の中で、一つの歌とそれに託された思いが、深くなり、姿形が整っていったということか。
 「物を創る」という営為の、原点を見る心地がする。古いつきあいとやらが〝お友だちごっこ〟に止まらぬ気配があるのが何より。二人のプロが、その考え方や技を突き合わせる厳しさがあるなら、これはなかなかに、近ごろ珍しい〝いい話″ではないか! 
 別に作詞家と作曲家が、面突き合わせて苦吟する作業だけが、貴いと思っている訳ではない。作詞家が書いた詞を、ディレクターが仲介する形で作曲家に渡し、それだけで凄い作品が仕上がるやり方だってある。僕はその例を阿久悠の身辺に居て沢山見て来た。原稿用紙二枚ほどの歌詞が、彼の言う、
 「狂気の伝達」
 をやってのけるケースだ。一つの作品に絞って、例えば阿久悠と三木たかしが、話し合うことはあまりなかった。森進一が歌った「北の蛍」などは、阿久の詞を読むだけで三木は震えるほど高揚し、一気に曲を書いている。
 一流の才能と才能がスパークする瞬間! と言ってしまえばそれまでだが、それは表面的な見方でしかない。実は阿久と三木は、常日ごろから歌や歌づくりのあれこれを、十分過ぎるほど話し合っていた。大の男が夢を突き合わせる談論風発を繰り返すのだから、総論で意見は一致している。一つの作品については、これは各論の一つだから、阿吽の呼吸で事が進む。やっぱり大事なのは、作家同士のコミュニケーションであることに変わりはない。
 幸耕平の歌づくりに、僕が「いいぞ! いいぞ!」になったのは、彼が頑固なまでにそんな姿勢を貫こうとしているせいだ。ディレクターから注文が来る。OKすれば歌詞が届き、それに応分の曲をつけて送り戻す。そんな「発注」と「受注」の関係が、「流れ作業」になって長く続く歌社会である。同工異曲、ステレオタイプな歌だくさんの実態はもしかすると、そんな作業が当たり前になり過ぎたせいではないか? 歌書きたちの創意や情熱が、格闘する出会いが少な過ぎはしないか? それを主導するはずの、制作者の顔が見えなくなってはいないか? 
 たまたま幸と会い、彼の歌づくりに触れただけのことで、決して彼だけが頑張って正しいと強弁するつもりはない。しかし近ごろ彼はそのうえに、作曲の注文がくるとその歌手をどう生かせるかを研究。アイディアが浮かべば受けるし、メドが立たなければ断るとも言った。その間自問自答を繰り返す時間はほぼ一カ月で、これではどうしても寡作になるはずだが、
 「だから年に5、6枚のシングルが書けたら、それでいいんです」
 と笑うあたりがしぶとかった。
 歌謡曲系の出世作は大月みやこの「乱れ花」だが、あの歌にも作詞家松本礼児との長い切磋琢磨が、生きていそうだ。キャニオンのディレクター時代に松本が彼を起用したのが縁で、松本は作詞家を目指し、幸は作曲の勉強をして、試作をくり返したという。いわば同行二人の仲だった松本のその後の自死は、幸の胸に無念の傷を刻み込んだろう。僕もかつて松本と親交があり、自死の一因については言いたいことがあったが、この日はあえて、それには触れぬままにした。

週刊ミュージック・リポート


 北島三郎は30年前に母を、15年前に父を見送っていた。だから彼は長く、大野一族の主として、周囲を取り仕切って来た素顔を持つ。それが5人の男兄弟の末弟、大野拓克氏を施主として弔う辛い夏を体験した。7月25日、東京・品川区の桐ケ谷斎場であいさつに立った北島は、最初から涙声だった。彼を「兄貴!」と呼び、「オヤジ!」とも呼んだ興行関係のパートナーを失った悲嘆は、想像に難くない。享年67、若過ぎる死である。
 訃報は21日の午前、京都南座の楽屋で聞いた。すぐに共演者の一人、安藤一人に知らせ、友人の真砂京之介に電話をする。二人とも北島の舞台公演に参加して来た役者で、拓克氏との縁が深い。拓克氏は北島音楽事務所の常務取締役で、北島公演やコンサートをプロデューサーとして担当、その手腕に定評があり、役者たちの面倒見もよかった。豪快な酒の噂は、友人たちからよく聞いていた。
 北島は9月明治座を皮切りに、大阪新歌舞伎座、九州博多座で、ファイナル公演を予定している。昨年大晦日でNHK「紅白歌合戦」を卒業、今回で劇場の長期公演を打ち止めとする。拓克氏はその最後の晴れ舞台を見届けることを楽しみにしていた矢先に逝った。北島の無念を思うと、役者たちは暗澹とならざるを得ない。桐ケ谷の葬儀を手伝う人々の中に、田井宏明の顔もあった。子供のころから俳優北島の身辺にいた気さくな芸達者だが、表情は沈痛そのものだ。
 献花の列には松平健、川中美幸、島羽一郎、島津亜矢らに小金沢昇司、原田悠里ら北島門下生、それに共演する大勢の役者たちが揃った。弔辞では明治座、新歌舞伎座、博多座のそれぞれの社長が霊前に並び、北島公演の成功を誓う。二礼二拍手一礼の拍手は忍び手、神式による葬場祭告別式に会葬者は600人超で、全国の演劇、興行関係者が目立った。
 「67か、まだ若いのにな。肝臓がんだろ、がんって病気は、どうにもならない...」
 出棺前の控室で、九州の鈴木企画鈴木晶順会長、バーニング・プロの周防郁雄社長、新栄プロの西川賢(山田太郎)社長らと雑談する。僕もそうだが、みんな北島と同じ新栄育ち、故人とも親交がある。
 《桐ケ谷斎場なあ...》
 僕は美空ひばりの顔を思い浮かべる。平成元年6月26日、僕はここで、作曲家市川昭介と一緒に彼女の骨を拾った。17年8月にはここで、自分の母親の葬儀を営んだ。取り仕切った花屋のマル源鈴木照義社長は、今では小西会の有力なメンバーの一人スーさん。拓克氏の葬儀もしっかり手伝っていて、彼ももとはと言えば新栄育ちだ。
 「今年の暮れで、もう三回忌か...」
 隣の席で山田太郎がうなずく。うんと世話になった新栄プロ西川幸男会長が亡くなって、もうそんな月日が流れている。7月17日は石井好子の命日だった。8月1日は阿久悠、3日は友人田村広治、22日は藤圭子の命日。そう言えば石坂まさをは3月だったか。長くこの世界にいると、いろんな人との別れが積み重なっている。思い出し供養の夜がふえる―。
 北島は今年10月に78才になる。僕も同い年だから思うのだが、この年になると親しい人の死はズンとこたえる。まして北島の場合、拓克氏は実弟で、病が重篤なことは伏せていた。幅広い交友関係に心配をかけまいとする気苦労も重なっていたろう。
 「何か言うたびに、涙が止まりません...」
 という施主あいさつの冒頭から、涙声になるのも無理はなかった。
 その声が胸の中で響き続けるまま、僕は真砂京之介と行きつけの店、銀座・いしかわ五右衛門へ戻った。昼食の商売もしていることを思い出しての精進おとしである。気のいいお女将も大将も、黒いスーツの二人にけげんな顔になったが、事情を知ると、それは大変でした...と神妙な表情になる。真砂は還暦の今年、「皓太」から「京之介」に芸名を変え、心機一転を目指す。9月、明治座の北島公演が新しい芸名の初舞台。
 「そのあいさつもさせて貰いたかった」
 腕ききプロデューサーとの別れに、その口調は重かった。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ147回

♪漁師に生まれて よかったね...

 『海峡の春』という曲の一番、三番の歌い締めのフレーズ。岡千秋の歌がここへ来ると必ず会場から共感のどよめきが起こる。北海道の鹿部。人口5000の漁師町の人々は、この作品を"わが歌"と受け止めているのだ。

 星野哲郎の作詞。彼はこの町を第二のふるさととし、"海の詩人"のおさらいみたいに、毎夏20年余も通った。作曲は岡千秋。もともと鳥羽一郎の歌で世に出た作品だが、鹿部では岡が弾き語りで歌う。作詞家の里村龍一と一緒に、長く星野のぶらり旅のお供をして、彼らもこの町の人間みたいになっている。

 「函館から川汲峠を越え、噴火湾添いに北上して車で小一時間...」

 僕はこの町のありかをこういうふうに、一体何十回あちこちに書いたろう。星野を「黄門さま」に見立てれば、岡と里村が「助さんと格さん」で、僕は二人の間にはさまった「と」として、やはり20年余をこの町に通う。今年は六月三日からの二泊三日でゴルフを3ラウンド、二日目はその前に午前5時半出船で釣りに出る。相当な強行軍だが夜毎のおもてなしは、とれとれの海の幸山盛りと酒と厚い人情。

 観進元は地元の有力者、道場水産の道場登社長である。自称星野哲郎北海道後援会の会長で、

 「星野先生は、めんこいなぁ」

 が口癖。少年みたいな丸い眼を細めて、星野をめぐる懐旧談をひとしきりする。この秋11月15日が星野の4回目の命日になるが、

 「お前らだけでも来い。寂しいから...」

 と、詩人の没後も僕ら三人に毎年声がかかるのだ。

 今回は六月四日が道場氏の74歳の誕生日で、記念したゴルフコンペがあった。道場社長に兄事する新栄建設岩井光雄社長の献身的な仕切り。信用金庫の伊藤理事長や山田元教育長などの名士をはじめ、道場人脈の人々が大勢集まった。壮年のゴルフ好きたちは只事ではない好スコアで続々と上がって来る。まるでサマにならない僕は事後のパーティで少々お役に立つ司会。

 里村がまず、釧路なまりで里村版日本昔話をやる。芝刈りの爺さんから洗濯の婆さん、浦島太郎まで、登場人物がみな死んでしまう怪談!?に、会場は爆笑また爆笑。

 「誕生日なのに、俺を何回も殺すな!」

 道場社長がまぜ返すからまた爆笑である。

 "有力者""社長"と書くと、道場氏は偉そうな強面紳士と思われそうだが、それがまるで違う。僕らが「たらこの親父」「登ちゃん」と呼ぶ愛すべき野人だ。会場の鹿部カントリークラブに年180回は通った剛の者で、チョンチョンパッ!のパッティングに愛敬がある。大病をしてゴルフと酒は慎んでいるが、かつては朝からビール、ラウンド中もビール、夕方からは焼酎で宴会に突入と、体を黄色い血が流れていそうな快人!?だった。

 ところで岡千秋の『海峡の春』ほか何曲かだが、おなじみのだみ声ふりしぼる熱唱が、漁師町似合いの生活感を持つ。半端じゃない暮らしをして来た男の、苦渋と哀歓が彼ならではの世界。おしまいに『孫が来る!』を歌ったら、道場社長が涙ぐんだ。星野への追憶、地元の人々の友情、尚子夫人に長男真一・次男登志男も元気な日々への、安堵などが交錯してのことだったろうか――。

月刊ソングブック


 京都の夏、コンチキチンの祇園祭気分を味わって、帰京した。7月18日からの3泊4日、3連休がはさまったから大変な人出で、四条通りなど朝から、歩くのに難渋するほどだった。
 「暑かったでしょう!」
 と、友人たちが言うが、物見遊山の旅ではない。19日初日の京都南座公演に参加していたから、日中は冷房の楽屋ぐらし。夜の先斗町探検!? はほろ酔いで、ほとんど暑さ知らず―。
 出演したのは、歌手山内惠介が主演の「曽根崎心中」(岡本さとる脚本、演出)で、前回にも書いたが、僕の役は曽根崎新地の茶屋・天満屋の主惣兵衛。そこの人気女郎お初(秋山エリサ)と醤油商・平野屋の手代徳兵衛(山内)の恋の顛末を見守る。原作がご存知、近松門左衛門の名作だが、岡本演出は古典の魅力を抑えた新解釈。音楽からしてラテンを基調にトランペットとギターが利いているポップス系だし、狂言回しに物の怪じみた〝まがい〟の集団が賑やかに、主人公二人の恋をサポートする。
 しばしば客席から笑いが起こる芝居の、惠介の見せ場はやっぱりお初・徳兵衛の道行きから心中シーン。本人が歌う劇中歌「恋の手本」が流れる中で、心の迷いから決意、実行までの、一人芝居である。この歌は演出の岡本が詞を書き、惠介の師匠水森英夫が曲を書いた。1コーラス10行の長めの詞がトゥー・ハーフ。それがいい感じの歌謡曲に仕上がっている。その2コーラス分を恵介が、端座合掌するお初を前に、仕草だけで逡巡を表現する。
 「4分もあるの!」
 と、当初絶句したという振付け藤間勘十郎の指導よろしきを得て、脇差しを抜く惠介、それをかざす惠介、よろめいて脇差しを落とす惠介、お初をひしとかき抱く惠介、やがて意を決する惠介、お初を刺し返す刀で自分の首を切る惠介、抱き合って崩れ落ちるお初と惠介...。劇場の空気は張りつめるし、ファンは固唾をのむ場面だ。
 〽ただひとすじに、ただひとすじに、恋をつらぬく二人だから...
 歌のサビのフレーズが、二人の恋が殉愛に昇華する刹那の余韻として残る―。
 《なかなかに、やるではないか!》
 子供のころから、万事感情移入多めの僕は、けいこ場から何度も、このシーンで鼻の奥がツンと来た。超勝気なお初を熱演する秋山相手に、惠介徳兵衛は見ているこちらがいらつくくらいに優柔不断なダメ男。それが本人のキャラにぴったり〝はまり〟で、初舞台、初主演で、そんな外題に遭遇したのも、この人の幸運か!と合点がいく。
 継母役は座長芝居のベテラン・自然派の山本陽子、叔父久右衛門役の瀬川菊之丞は端正な芝居で、この二人の景は別格の味わい。色敵の髙羽博樹は声味からしてそのものだし、悪役人の安藤一人とお供の東田達夫が凄みを利かす。朝廣亮二は瞬間芸めいて突出。〝まがい〟はつまみ枝豆が自然児ふう頭目で、薗田正美のひょうひょう、鹿子かのこの奇声と包容力がリード、若手男女がみな元気だ。女郎二人の森川恵古、川和郁子を含めて、記念に列挙すれば田中俊、上地慶、吉村正範、五十嵐貴裕、泉瑠衣、中川央未、間辺ナヲと、これで出演者全員。
 仰天したのは春の公演でお世話になった松平健からの連絡だった。たまたま「王様と私」公演で京都に来ていて、
 「食事でもどう!」
 の誘いを受け、安藤一人と一緒に粛々とお供をする。先斗町で一ぱいやって、祇園へ。扉をあけたら舞妓さんや芸妓さんが山ほど居て目が点になる。70代後半になっても、生まれて初めての体験ってあるのだ!と眼福に有頂天。その店「波木井」の主の下ネタ三味線芸がこれまた絶品だった。次の夜は師匠格の横澤祐一や友人真砂京之助おすすめの先斗町「山とみ」で、京都在住の役者さんと一ぱいやる。仰天したのはもう一件。その翌日、その山とみから何と楽屋見舞いのご祝儀が届いたのだ!
 それやこれやの京都をあとに、少々長めの〝中入り〟があって、月末の30、31日の2日間は、江東区文化センターで〝返り初日〟の4回公演である。それまで僕は心して、天満屋惣兵衛の立ち居振舞いを維持、湘南葉山の自宅で眼下の海に向き合っている。

週刊ミュージック・リポート

「張り歌」と「抑え歌」の面白さ

 おおざっぱに言って歌は、大声で張れば声そのものの持ち味が前面に出る。抑え気味の息まじりにすれば、情感がにじみやすくなる。歌手たちは双方を使い分ける。曲によってどちらを軸にするか、あるいは巧みに、一曲の中で双方を応用、メリハリをつけるか。
 レコーディングは抑え気味、コンサートは張り歌...という分け方もある。CDは聞く側と1対1、コンサートは大勢の客相手のせい。そんな事を考えながら歌を聞くのも、一興だろう。

浮草の川

浮草の川

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦 哲也
唄:神野美伽

 昨年の渋谷公会堂リサイタルが、圧巻だった。ほとんどの曲がめいっぱいの張り歌。作品ごとの情趣よりは、神野の・ひと・そのものを突きつける凄味があった。その後アメリカのライブハウスで歌う。同じ意図で日本人の心意気と魅力を全開放したのだろう。
 一転してこの作品は、情緒狙いの抑え歌である。荒木とよひさの詞、弦哲也の曲の2ハーフ。酒場女が、これが最後と思い定めた恋にすがる胸中を訴える。歌謡曲寄りの演歌だが、演歌は「演じる歌」とも合点した。7行詩をうまくまとめた弦のメロディがきれいだ。

夜泣き鳥

夜泣き鳥

作詞:田久保真見
作曲:岡 千秋
唄:角川 博

 張り歌はときおり、作品を嘘っぽくする。詞が描く心情を上すべりして、声味とのバランスが悪くなるせい。角川にはこれまで、それも承知でガンガン行きたがる癖があった。ところが―。
 ちょいとしたモデルチェンジである。八分目くらいの声で軽めに、今回はこの曲を処理した。鼻歌みたいな気安さがかえって、心細げな女心をうまく表現する。抑え歌でも、声にしっかりと芯が作れていなければいけない好例だろう。歌い出しの歌詞2行分に、岡千秋が意表を衝くメロディーを書いて、角川をのびのびとさせた。

一夜宿

一夜宿

作詞:吉 幾三
作曲:吉 幾三
唄:香西かおり

 粘着力も含めて、吉幾三のメロディには独特の・口調・がある。他人のための曲を書いても、それは変わらない。香西はそれをごく丁寧に歌って、彼女の口調の歌に仕立て直した。作品を小さく歌って大きく育てる。香西は抑え歌の妙を十分に心得ている。

恋の津軽十三湖

恋の津軽十三湖

作詞:宮内たけし
作曲:平川竜城
唄:長山洋子

 五所川原にある長円寺の、鐘の伝説に材を取ったそうだが、作品にはさほどの物語性はない。津軽三味線のテンポとリズムに乗せた、会えぬ男女の恋唄。長山はその哀切をはずみ加減に歌う。細めの声だが、どうしならせて情趣を盛るかという、工夫が聞こえる。

高尾山

高尾山

作詞:いではく
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 高尾山に擬して、ここまで人生訓を展開するか!と、作詞いではくにシャッポを脱ぐ。それに原譲二が曲をつけて、北島の歌はおなじみの世界だ。要所を突く唱法、息づかいと節回しが彼流の説法ソングだが、聞いてる僕と同い年、どうやら枯淡の境地か?

淡墨桜

淡墨桜

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子

 地道だが脇目もふらずに、瀬戸内かおるの詞、岸本健介の曲、夏木の歌のトリオが踏ん張っている。三者三様の・ほどのよさ・が三位一体なのはいつも通り。目先を変えず奇をてらわす、一点突破を目指す一生懸命さに、僕はう~んと唸った。

くすり指

くすり指

作詞:田久保真見
作曲:樋口義高
唄:岩出和也

 ムード歌謡っぽく淡々と...が、いつもの岩出の歌い方。思い入れや感情移入が薄めで、いわば「口先歌の軽薄さ」が、この人の個性なのか。2番の歌詞に「ふと」が出て来る。僕も永井裕子の歌づくりで体験したが、この2文字、メロに乗せるのは難しいねぇ。

居酒屋ほたる

居酒屋ほたる

作詞:里村龍一
作曲:徳久広司
唄:上杉香緒里

 里村龍一の詞、徳久広司の曲で女の酒場ひとり歌。オーソドックスなやつを、上杉がこれまたオーソドックスに歌う。3番の歌詞に「空のボトルに花を挿し 飾ってあの日へ旅をする」とある。「旅をする」の含蓄を、里村君、なかなかやるねェとほめたくなった。

泣きまね

泣きまね

作詞:田久保真見
作曲:田尾将実
唄:チャン・ウンスク

 声が途切れがちでも、息が歌っているのがこの人のハスキーさ加減。だから口調がトツトツのまま、にじり寄る情感が生まれる。それに似合いなのは、田久保真見の詞と田尾将実の曲の、繰り言みたいな言い募り方。一カ所どこかで、吹っ切れたくもなるが...。

みちづれの花

みちづれの花

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:藤原 浩

 男は結局みんな、弱虫なのかもしれない。そう思うのは、藤原の歌声があたたかく、ひどく優しげなせいだ。尽くしてくれる女性へ、感謝を語る男唄は、多少意気がるものだが、歌詞にはそれもない。前奏だけが芸道ソングみたいに、力んでみせてはいるのだが。

忍野八海かくれ里

忍野八海かくれ里

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡 千秋
唄:真咲よう子

 岡千秋の曲は歌い出しの歌詞の2行分、叙情歌的にのびのびして、次の2行分でたたみ込み、演歌にする。かくれ里の忍び恋を、泣き歌にはしたくないせいか。真咲の穏やかな声がそれを形にした。相当長いキャリアの人だが、相変わらずおっとりしている。

愛鍵

愛鍵

作詞:喜多篠 忠
作曲:花岡優平
唄:秋元順子

 「愛鍵」は「合い鍵」だと、口に出してみて判った。作詞喜多條忠の思いつきだろう。8行の詞のポップス系を、作曲の花岡優平がどこかで聞いた懐しげなメロディーでつなぐ。高音部の歌い出しから、秋元の歌声は生活感も少々、たくまぬ説得力を持っている。

MC音楽センター


 往復の電車の中で、このところずっとスピードラーニング状態である。年が年だから今さら英語に取り組むはずはなく、ネタは大阪弁。7月19、20、21日に京都南座、30、31日に江東区文化センターでやる「曽根崎心中」(脚本、演出岡本さとる)の準備だ。何しろ貰った役が曽根崎新地の茶屋の主、天満屋惣兵衛である。中途半端な大阪弁で許されるはずがない。
 演出の岡本があちら出身の人だから、お手本をCDに入れてもらって、それを毎日聞いている。大ざっぱに言えば歌を覚えるみたいな作業で、メロディーにして言葉の起伏を覚え、セリフは歌詞、台本と首っぴきのところへ立ちげいこで振りがつく。あちら立てればこちらが立たず文字通りの三重苦。こんなことならこれまでに、大阪娘とねんごろになっていればよかったと歯がみをしても後の祭りだ。
 昨年11月に東京でやったものの再演である。主役・徳兵衛の歌手山内恵介に、
 「あれから8カ月、全部覚えているもんかい?」
 と聞いたら、
 「それがねェ...」
 と、のったりした答えが返って来た。醤油商いをする平野屋の手代で、じれったくなるような優柔不断が役どころ。けいこ場の私語もそのペースと口調が出るのか。
 相手役の女郎・お初は秋山エリサがやる。大和の国の百姓の娘が、曽根崎で評判の御職になって、徳兵衛との恋を貫く超勝気な役どころ。子供のころからテレビ、舞台、ラジオにモデルと、幅広く活躍したキャリアの持ち主だが、頭が下がるのはめちゃめちゃ多いセリフの大阪弁対応。どうやって覚えたんだろ? コツがあるのかな? それより何より、努力のたまものなんだよきっと! と、僕は彼女の笑顔を盗み見る。
 再演とは言え、秋山をはじめ役者がかなり入れ替わっているから、言わば再びの初演。山本陽子、瀬川菊之丞らベテランに、安藤一人、つまみ枝豆、髙羽博樹、鹿子かの子、それに僕が新参加の主な顔ぶれだ。うらやましいのは、徳兵衛の叔父をやる瀬川や色仇で大奮闘の髙羽が関西出身であること。つまりはネイティブだから、涼しい顔で出番を待つ。何しろ大阪弁はフレージングだけ真似ても気色が悪いと嫌われる。単語一つ一つのイントネーションが独特だから、「恋」は「鯉」の発音に似ていて「お気に召す」は「沖に召す」とやるとほぼ当たる。日本語をあれこれ音で転換するのだ。そのうえでセリフに感情移入すると、頭の中のイメージは全く別物がチラチラだから厄介千万。
 原作はおなじみの近松門左衛門の心中ものである。それを演出の岡本は、
 「新しい発見のある、面白いものに仕上げたい」
   と言う。その一例が枝豆を頭にした〝まがい〟の面々の登場。曽根崎の森で暮らす男女だが、神仏、精霊、鬼神と呼ぶには妙に人間っぽく、天人に見まがうことからこの名がつく。それが、踊ったりはやし立てたりしながら狂言回しをやる。そのうえお初の野心を成就させ、徳兵衛との恋をサポートする大忙し...。
 JR田町駅近くのけいこ場には、しばしば若々しい笑いがわく。山内の徳兵衛が今どきの草食男子ふうなら秋山のお初は肉食系。「そやけどなあ」ばっかりで煮え切らぬ徳兵衛に逆上して、時おり怒鳴り上げる態度の激変も面白い。プロフィールによれば秋山という人、コミカルな演技に定評があるそうな。
 僕は川中美幸一座で鹿児島弁と京都弁をやり、所属する東宝現代劇75人の会ではごく最近、秋田弁をやった。それぞれのけいこの間は飲み屋で京都弁ふうをやったり、ゴルフ場の一日を秋田弁ふうで遊んだり。けいこと本番だけでは心許ないせいだが、付き合わされる友だちはいい面の皮で、作曲家の藤竜之介など、
 「もうやめて下さい。ショットがぐちゃぐちゃになる」
 と悲鳴をあげたことがある。
 似て非なるものにはなるまいと、心に決めてはいつも実態はかなり怪しげだった。しかしだけど今度こそ大阪弁をマスターして...とやる気満々で、僕はいそいそとけいこ場へ通う。その間は流行歌評判屋稼業をしばし棚上げの不義理である。老後の日々是好日、どうぞ笑ってご理解をたまわりたい。

週刊ミュージック・リポート

ま、少々安直な気がするが...

 「越前」「越佐海峡」「忍野八海」「木次線」「濃尾」...。失意の女主人公が今居る場所である。今回の10曲のうち5曲までが、そんな地方色探しの産物になった。女ひとり旅の心情は、相場が決まっていて、さしたる変化は作れない。耐えてしのんで振り切って、あるいは振り切れぬまま、明日に向かう。その目先を変える小道具が地名なのだ。作詞家はあれこれ資料をあさるのだろう。そんな歌を聞きながら、こまめに日本の地図を辿れば、歌好きたちはちょいとした旅上手になろうか!?


ひとり越前~明日への旅~

ひとり越前~明日への旅~

作詞:喜多篠 忠
作曲:晃正げんぺい
唄:大月みやこ

 作曲家協会のソングコンテスト、昨年のグランプリ曲と言う。作詞が喜多條忠、編曲が丸山雅仁、歌が大月みやことちょいとした顔ぶれだから、作曲した晃正げんぺいの喜びは大きかったはず。
 すっきりときれいに、破綻がない曲だ。サブタイトルの「明日への旅」のニュアンスも生きて少々明るめ。応分の説得力を持つのはあれこれ熟慮した成果だろう。
 流行歌の流れに、新風を吹き込むよりは、順風に添おうとした作品。大月の歌は歌い回さず、小さく生んで大きく育てる気配があって、気さくだ。

有明海

有明海

作詞:田久保真見
作曲:弦 哲也
唄:北山たけし

 弦哲也が一念発起、作曲に打ち込んだ陰に、北島三郎の助言があったと聞いたことがある。大成してもその後、北島の曲を書く機会には恵まれないと彼は苦笑したものだ。
 その弦が北島家の婿どの、北山に書いた曲を聞いて、その話を思い出した。この作品、北島が歌い回したら、妙に晴れ晴れざっくりと、とても似合いそう。
 北山はそれを、八分目くらいの声の出し方で、少しこぶりに彼流の歌にした。派手さよりも誠実を自分の色と心得てのことか。田久保真見は最後の行、言い切らぬ辺りがヘンかな。

長持祝い唄

長持祝い唄

作詞:横内 淳
作曲:横内 淳
唄:千 昌夫

 1番が嫁ぐ娘、2番がその父親を主人公に、3番はどうやら婿と娘への助言...といった内容。地方色たっぷりめの祝い唄を、千が淡々と歌う。横内淳という人の作詞、作曲。割と素直でケレン味がないせいか、千の歌は身上のアクが抜けて、やや薄味に聞こえる。

越佐海峡~恋情話

越佐海峡~恋情話

作詞:下地亜記子
作曲:弦 哲也
唄:真木柚布子

 "添えぬ人なら逢うのもつらい、逢えずに暮らせば尚つらい...と、下地亜記子が書いた女のこがれ唄。弦哲也がそれに、芸道もの、道中ものの匂いの曲をつけた。のびのびたっぷりめ、泣かない歌にしたのは真木で、この人の何でもアリ!の融通無碍ぶりが面白い一曲。

忍野八海 わかれ旅

忍野八海 わかれ旅

作詞:まつだあつこ
作曲:藤田たかし
唄:西方裕之

 歌い出しの歌詞、一区切りごとに音が尻上がりになるなど、2行分で「ほほう!」の答えが出た。わかれ歌だが明るめに、カラオケ熟女に好まれそうな作品。西方も得たりや応!と感情移入は薄めに、メロディー軸足の歌で技と声味を聞かせている。

雨の木次線

雨の木次線

作詞:佐藤史朗
作曲:弦 哲也
唄:永井みゆき

 水の流れに浮く枯葉が、どこか似ているひとり旅...の女唄。佐藤史朗という人の簡潔な詞を弾みかげんの曲に乗せたのは、これも弦哲也。永井の幼な声の味を生かした清純派ソング仕立てで、ブンチャブンチャの気分の良さも、どこか懐かしいタイプだ。

濃尾恋歌

濃尾恋歌

作詞:冬弓ちひろ
作曲:吉 幾三
唄:石原詢子

 詞が先か曲が先か。女ひとりの恋歌が不思議なスケールを示した。定石どおりには決して行かない吉幾三のメロディーが、彼流で独自なせいか。久しく見ないがこの人のコメディーは、作っては壊し...の連続だった。歌づくりにもそんな才覚が働いているのかしら?

砂の橋

砂の橋

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:山本あき

 膝をつき合わせて聞いているような、そんな気分にさせる歌声だ。息まじりの発声、ひたひたと寄せて来るフィーリング。それが体温こみでしっくりと、身近な感触を作るのか。徳久広司の曲に誘われて、山本は独自な世界を作りはじめている。

あいつ~男の友情~

あいつ~男の友情~

作詞:仁井谷俊也
作曲:影山時則
唄:秋岡秀治

 てんから、死んじまった友人を偲ぶ歌。歌の中の死は時おり特異な切実感を作るが、ここまで徹底したのは珍しい。仁井谷俊也の詞、影山時則の曲のギター流し歌仕立て。秋岡の思い入れの濃さと技は、3番の最後「あいつ」の「つ」の歌い伸ばしに歴然である。

宝

作詞:原 文彦
作曲:弦 哲也
唄:和田青児

 カップリングの『For My Angel』と聞き比べると面白い。両方とも子どもが生まれる親の歌がポップス系と演歌系である。で『宝』は原文彦の詞、弦哲也の曲。なぜか詠嘆の色に満ち満ちていて、和田の歌は泣かんばかりだ。この人の情の濃さがモロに出ている。

MC音楽センター


 友人の奥野秀樹からアルバム「そして君を見つけた」が届いた。自作自演の歌も含めて6曲。ジャケット写真がライブの弾き語り姿でこじゃれたトーンの色あい。
  《そうか、最近そういうふうなんだ...》
 と思いながらレコードの棚に置いた。相変わらずせわしない日々、聞くのなら少し落ち着いた時間に―。
 6月21日土曜の夜、三木たかしの夫人恵理子さんを囲む会に顔を出す。彼が逝ってもう5年、親しかった人々と〝うわさ供養″でもしようという催し。銀座の和食の店で食事と酒、そのあとにバー「楽屋」で気のおけない会話を交わす。メンバーに元ビクター~東芝の角谷哲朗がいて、奥野の件を聞いたら、
 「いいですよ。ひと皮むけていい歌になってる。聞いてやって下さいよ」
 と、返事の声に力が入った。
 ミシェル・サルドゥの「年老いた新婚夫婦」に「プロポーズ」という邦題と日本語の詞をつけたのや1971年にニルソンがカバー、ヒットした「Without You」を「Sans Toi」のタイトルで日本語の詞をつけた曲。作詞作曲した「Je Chante~僕は歌う」「七月の感傷~広場」「再会記念日~マリー・クレールで恋をして」などが並ぶ。
 《ほほう...》
 と感じ入ったのは、確かに歌声に滋味が生まれていること。全体がシャンソンふうな語り口だが「愛のために死す」のサビ、高音が張り歌になるあたりには覇気さえあって、訴求力が強い。歌には人それぞれ年相応に、来し方のあれこれが隠し味としてにじむものだと合点がいく。
 奥野は僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞社と石井好子音楽事務所が一緒にやった日本シャンソンコンクールの1972年の優勝者。翌年レコードデビューしたが、折から若者世界はフォーク・ブーム。彼もシンガー・ソングライターになりたいと言うから、
 「100曲書いたら再デビューさせる」
 と難題を吹っかけた。僕が三軒茶屋の西洋お化け屋敷ふうに住んでいたころで、当初通って来ていた奥野が住みつき、約束を果たしたからRCA(当時)からアルバム「アカシア通りの人々」として出した経緯がある。今回レコーディングした「七月の感傷」は、そのころから僕の一番お気に入りの曲だった。
 その後彼はスタッフ側に転じ音楽出版社の社長にまで取り立てられるが、若気のいたりでは済まぬ背信と不祥事を起こし、やむを得ず僕も謹慎!と出入り止めにした。その不始末に大病が重なって呻吟の日が長く、再起後は細々とプロデュース業をやり、また歌い始めたのは 2008年という。古傷に塩をすり込む過去をあえて書くのは、彼の歌声に悔恨や苦渋の匂いを嗅ぐせいで、曲によって再出発の気負いや喜びが、妙にすがすがしく響く気もする。本人が書いているが、「Sans Toi」を歌ったら「自分で言うのも変だけど、身につまされた」そうな。アルバムには、僕の知らない名前が制作協力者として並んでいる。重く辛い別れがあり、新しい出会いがあった証左か。
 プロフィールの最後に「1953年、富山県生まれ」とある。シャンソンコンクールでは、加藤登紀子に次いで二人めの東大出身と騒がれたが、そのころから僕は乱暴な弟分扱いをして来た。そんな奥野ももう還暦を過ぎた勘定。年がいつての物狂いとは思わずに、人生の痛みも背負った再スタートを、ともに喜びたい気分になる。何しろこちらは、70才からの舞台役者兼業で、
 「マジか? 何が不足でそんなことを!」
 と、友人たちがいぶかるのをしのぎ切っての老後である。奥野には、
 「音楽と歌が残っていて、よかったな」
 と言ってやりたいのだ。
 スポニチの音楽担当記者から〝はやり歌評判屋″になって、合計51年になる。年のせいか近ごろ聞くものは演歌・歌謡曲に偏っている。それも手伝ってか奥野アルバムがとても新鮮に聞こえた。
 《いずれライブでも見に行って...》
 と、久しぶりに一杯やる夜のことなどを考えている。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ146回

「あの子はねぇ」

 とちあき哲也が言うから「どの子かな?」と思ったら、相棒の杉本眞人のことだった。ひ弱な作詞家とやんちゃな作曲家。どこに共通点があってのコンビだろうと常々思っていたが、相手の呼び方でまた意表を衝かれた。僕が長いことしゃべっているUSENの昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」に、ちあきをゲストで招いた時の話――。

 秋田へ一泊二日、友人の芝居を見に行ったほかは、スケジュールからっぽが僕の今年のゴールデンウィーク。陽光さんさんの葉山の海と、自宅ベランダで向き合っている合い間に、ちょっと古いアルバムを引っ張り出して、聴いた。『すぎもとまさとMeetsちあき哲也』2013年の7月に出たやつだ。演歌歌謡曲を毎月、たくさん仕事で聞く日々の中で、この二人の作品は妙に新鮮で、心にしみ込んで来る魅力がある。

 ≪『かもめの街』なぁ。これこそ二人の傑作だが、誰が歌っても色あいが違うところがミソか≫

 難曲だからか、カラオケ上手がやたらに歌いたがる。もちろんお手本はちあきなおみだが、大ていは似て非なるところどまり。ちあきのうまさには、真似ようにも真似るとっかかり、手がかりがない。それならすぎもとまさと風に行くか? これまた語り口が独特すぎて、とてもついては行けまい。

 哲也初期の作品である。明け方、杉本が出ていたライブハウスからの帰りに、坂の上から見た渋谷の町が、海みたいに見えたそうな。その手前に、ほろ酔いの女をうずくまらせて、彼流のメルヘンを書いた。だからタイトルはかもめの「海」ではなく「街」になる。およそメロディーなど付きそうもない破調の詞。それにちょこちょこと、杉本は気ままな曲をつけた。哲也に言わせれば、瞬間芸みたいな、思いつき、ひらめきのメロディー...。

 おおむねずらずらと、一人語りの口語体の詞の書き手だ。流行歌の枠組みを度外視しているが、一番と二番、字脚を揃えたりするのは、

 「こんな仕事をしてる、性(さが)かしらねぇ」

 と哲也は笑う。歌にする気など二の次で杉本に渡した詞が、何年か後に『吾亦紅』の大ヒットになった。僕は二人とプロデューサーの松下章一を一束にして、あのころ、スポニチ文化芸術大賞の優秀賞を贈った。

 『銀座のトンビ』『くぬぎ』『曙橋~路地裏の少年』...。みんなこのトリオならではの作品だ。実情は人知れず、知恵と汗をしぼっているのだろうが、一見気ままな二人の歌づくり。ちあき哲也は異端からスタートして、ブレることなく異端の道を貫くあたりが好ましい。それがこの人の考え方、生き方であり、生理なのだろう。

 午後5時過ぎ、江の島を遠景にした海の舞台を、上手から下手へ、かもめの群れが帰る。御用邸方向に、彼らの巣があるのか。

 実は今僕には、昭和の歌を一冊にまとめるありがたい仕事がある。日々心ときめいてはいるのだが、400字原稿用紙3~400枚は気が重く、書き貯めが遅々として進んでいない。

 ≪いかんいかん、いかんなぁ...≫

月刊ソングブック
  7月に京都と東京でやる芝居のけいこに入った。近松門左衛門原作、崔洋一監修、岡本さとる脚本・演出の「曽根崎心中」で、歌手の山内恵介を中心に秋山エリサが相手役のほか、山本陽子、瀬川菊之丞、つまみ枝豆、安藤一人、薗田正美、高羽博樹、鹿子かの子らが出演、僕も加わった。お話は曽根崎新地の茶屋・天満屋を舞台に、醤油屋の手代徳兵衛と遊女お初の恋物語。いろいろあった末に二人は、心中死へ旅立つおなじみの近松ものだ。 僕の役は天満屋の主・惣兵衛。お初の大胆不敵と純真と、優柔不断だが憎めない徳兵衛の恋をサポートする。新解釈は"まがい"と呼ばれる不思議なグループの登場。「神仏、精霊、鬼神というにはあまりに人間っぽい男女で、天人に見紛う意味をこめて"まがい"という設定の男女が歌い踊りながらお初の夢の後押しをする。狂言回しもかねた彼らが、この悲恋ものを時にコミカルに、現代にも通じる楽しさへ導いていく。 チラシが赤版と青版の2種類。赤が京都南座公演用で上演が7月19日(昼)20日(午前、午後)21日(午前)の4回。青は東京・江東区文化センター公演用で、上演は7月30日(午前、午後)31日(同)の4回。場所は東京メトロ東西線「東陽町駅」下車、1番出口徒歩5分だ。 制作プロダクションがアーティスト・ジャパンで、僕の2回目の舞台、平成19年大阪松竹座の「妻への詫び状・作詞家星野哲郎物語」をはじめ「耳かきお蝶」(シアター1010)「恋文」(名古屋御園座)など多くの公演でチャンスを貰ったご縁がある。今回ご一緒の瀬川菊之丞、安藤一人は川中美幸公演でお世話になった、この道の先輩だ。 今公演の難敵!?は大阪弁。東京生まれ茨城育ちの僕には全く縁遠かった言語だから、お手本で連日スピードラーニング状態になっているが、果たしてネイティブふうまで身につくかどうか?
曽根崎心中


 名アレンジャー池多孝春が亡くなったのは6月12日。僕はその知らせを同じ日の夜、船村徹の第30回歌供養・懇親会の席で受けた。与えられた席の主賓のテーブルを離れ、隣りの作詞家や作曲家の席で油を売っていてのこと。以前、くも膜下出血で倒れた作曲家伊藤雪彦が、三途の川を渡る時に、ビンラディンをつかまえた夢を見た話の最中だった。  演歌書きとイスラム過激派の頭目の組み合わせが途方もないと、同席のもず唱平やいではくと笑っているところへ、ひそやかな耳打ちである。  「ン?」と一瞬面喰らった僕へ、  「ああ、あの人は昔、鉄仮面のところにいたんだ」  と伊藤があっさり言う。もう一度「ン?」になった僕は、次に池多が昔、トロンボーン奏者をしていたバンド、ノーチェ・クバーナのボスの顔を思い出し、有馬徹の仇名がそれかと合点がいった。伊藤もバンドマン出身だから、きっと仲間うちの呼び方がそうだったのだろう。  池多がアレンジした曲を思い浮かべる。藤圭子の「京都から博多まで」北島三郎の「与作」五木ひろしの「細雪」芦屋雁之助の「娘よ」中村美律子の「河内おとこ節」藤野とし恵の「女の流転」大月みやこの「白い海峡」...。スポニチの音楽担当記者からはやり歌評判屋になって、  「いいぞ! いいぞ! 」  と書きまくり吹聴しまくった歌ばかりだ。曲によって親交のあった阿久悠、猪俣公章、石坂まさを、吉岡治に小沢音楽事務所小沢惇社長らの顔も出てくる。亡くなって久しい面々だが、彼らがあちらで、池多を出迎えることになるのだろうか。  島津亜矢の「お梶」もそうだが、芝居仕立てみたいにメリハリの利いた演歌の編曲が、歯切れのいい心地良さで、独特の池多流。酸いも甘いも噛み分けた、ベテランならではの味と風格があった。スタジオのロビーなどでばったり会うと、  「それでね...」  と、いきなり始まる世間話が、お人柄か全然唐突ではなく、僕はそのまま話に引き込まれたものだ。  プロデューサーとして一緒に仕事が出来たのは一度だけ。五木ひろしの40周年アルバム「おんなの絵本」で、池田充男作詞、市川昭介作曲の「小樽のおんな」のアレンジをしてもらった。当時市川は病んでいて「元気なうちに五木にも...」と頼んだ曲だが、池多を指名したのは市川。僕は「そういう訳で、よろしく」とあいさつしただけで、彼の仕事に安心して寄りかかっていた。親しい作家総動員のそのアルバムは、2004年のレコード大賞ベストアルバム賞を受賞した。後日、何かのパーティーのすみで、例によって、  「それでね...」  と始まった池多話法で、アルバムの出来をほめてもらったのが嬉しかった。  翌日の6月13日夜、作詩家協会の懇親会で、新会長になった喜多條忠と握手をし、三井エージェンシーの三井健生と銀座で飲んだ。その席で作曲家中川博之の訃報を聞く。あわてて近所でスナック「晴晴」をやっている橋本国孝に電話をする。彼はかつて中川の弟子で、鹿島一朗の芸名で歌っていた。中川が肺がんで亡くなったのが11日なのにまだ知らずにいて、電話の向こうのうろたえ方が半端ではなかった。僕が昭和38年に創立したばかりのクラウンに日参していたのは、星野哲郎の知遇を受けてのこと。文芸部の隅からチョロッとこちらへ視線を泳がせていた中川は、間もなく「ラブ・ユー東京」や「さそり座の女」でヒットメーカーにのし上がった。  年のせいかここ数年、親しい人を見送ることが多い。その都度霊前で、逝った人の無念や心残りを、僕の仕事の中で引き継ぎ、生かして行こうと決心する。中川は僕と同じ77才、池多は僕より6つ年上の83才。自分の年をタナに上げて、そんなことを考える僕はお気楽なものだ...と苦笑するが、生来楽天的な人間なのだから、仕方がないか!  6月22日の日曜日、僕は池多の通夜で音羽の護国寺へ行く。そう言えばずい分前、彼が愛妻を弔ったのも確かここだった。中川は近親者だけの密葬をすでに済ませたと言う。いずれみんなで〝送る会〟を開くことになるのだろう。

週刊ミュージック・リポート


「師よ、あなたも泣かれるのですか!」
 北島三郎以下、作曲家船村徹の弟子たちが、一様にそう思ったろう光景が出現した。ステージで彼が白いハンカチで眼を拭ってる。この夜集まった400人近くも、粛然とそれを見守った。6月12日夜、グランドプリンスホテル新高輪の「飛天」で営まれた歌供養のあとの、懇親会での出来事―。
 ステージでは、五木ひろしが「男の友情」を歌い終えた。船村はギターで伴奏をして、その傍らにいる。五木の歌唱は心技ともに、めいっぱいの熱唱だった。
  〽東京恋しや、行けぬ身は、背のびしてみる、遠い空...
 高音部にさしかかると、五木の体ははね返り、折り曲がった。レコーディングの時以外は、決して見せることのない格闘技みたいな体の使い方で、声と節と真情がキープされる。そこまで彼を一途にしたのは、伝説の10人抜き番組「全日本歌謡選手権」でこの難曲を歌い、審査委員長の船村に認められた思い出があるせい。その出会いが五木の生涯の転機になった。45年前のことだ。
 船村にはまた別の意味で、生涯忘れ得ぬ痛恨の思いがある。「別れの一本杉」のヒットで、やっと歌謡界の第一線に浮上した昭和31年の9月8日、作詞した相棒の髙野公男が亡くなる。その時髙野は26才、船村は24才。「男の友情」は髙野が遺した大学ノートに書き止められていた、いわば絶筆である。
 「俺は茨城弁で詞を書く。お前は栃木弁で曲を書け」
 隣り合わせの出身地だった髙野の提案に応じ、船村はそれまでの流行歌の常識を破る異端の歌書きとして脚光を浴びた。その後50年余、実績を積み重ねて今は王道の人となり、作曲界の第一人者の座にいる。しかし、58年前の髙野との別れを別れとはせず、今日も共に歩む生き方を貫く。その契りの歌になったのが「男の友情」だ。
 彼の誕生日恒例の「歌供養」は今年30回を迎えた。この催し自体が、髙野と、南方で戦死した実兄健一氏追善を軸にする。それに陽の目をみなかった歌たちの供養、その年度に亡くなった歌仲間への弔意が加わる。6人の僧侶の読経の中で今回挙げられた名は島倉千代子、岩谷時子、神戸一郎、藤圭子らだ。第1回は音羽の護国寺で営まれた。船村の真意をはかりかねた僕らは、
 「持って行くのは赤い袋(祝儀)か、黒い袋(不祝儀)か」
 と、たたらを踏んだ思い出がある。昭和38年以来、長い知遇を得る僕は、はばかりながら歌供養皆勤である。
 今回のステージでは、弟子たちが師匠から貰った新曲でノドを競った。鳥羽一郎が「晩秋歌」、静太郎が「ごめんよ、おやじ」、天草二郎が「一徹」、走裕介が「夢航路」、それに岩本公水が「道の駅」...。船村にとっては思いの深い島倉千代子の作品は「東京だよおっ母さん」を森若里子「海鳴りの聞こえる町」を城めぐみ「哀愁のからまつ林」を岩本の順。〝御前歌唱〟だから森若など「身が細る思いをした」と、事後にたっぷりめの体をくねらせた。演奏はレコーディング・ミュージシャンの一流どころを集めた、いつもの仲間たちバンド、司会は船村イベント常連の荒木おさむだ。それに参会者を驚かせたのは船村と島倉の「矢切の渡し」のデュエット。もちろん映像だったが、若き日の船村の体躯堂々と歌唱堂々に、笑い声と盛んな拍手が贈られる。幕切れはいつも通り、船村同門会の歌手たちの「師匠(おやじ)」で
 〽仰げば尊し師匠の拳(こぶし)...
 と、星野哲郎の詞に声を合わせた。
 祝辞の一人、福田富一栃木県知事から報告されたのは、船村が名誉県民に推されたことや、平成28年から8月11日が「山の日」に施行される陰の、船村の尽力など。来年4月には、彼の郷里近くの日光市に「船村徹記念館」がオープンする。準備を僕も手伝っているが、日光と合併した今市の市街地中心部の再開発。多目的ホールや商業施設などのシンボルと位置づけるのが記念館だ。
 それやこれやが山盛りの中の、船村の涙である。胸中に去来したものは、多岐にわたり、長い年月で体験した出会いや別れのあれこれだったろう。

週刊ミュージック・リポート

春4月、それぞれの踏ん張り方

 作品とのめぐり合わせか、歌手としての潮の満ち方か、いずれにしろ気合いの入った歌というのは、快いものだ。これが運とかツキとかいう代物、つまり時代とも出会えたら、手応えのあるヒットにつながるだろう。
 小金沢昇司の歌には、作品に乗った意気込みを感じたし、五木ひろしの歌からは、彼流を極めようとする気合いが聞こえた。大ヒットの余勢が福田こうへいを生き生きとさせ、戸川よし乃のすずめシリーズ3作を書いた岡千秋は、違うもので行こうとする熱意が強い。

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昭和の花

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:小金沢昇司

 〽おれの心の ほとりに咲いた 女 いちりん 昭和の花よ...と来た。昭和ねぇ、これまた大きく出たもんだ...と思うのは、昔のひとをしのぶ歌だと思うせいだ。そんな1番の感想をニヤリと見すかすように、2番の主語が「酒」になり3番のそれが「友」になる。
 尻あがりに展開する田久保真見の詞は、昭和に青春期を過ごした男の生きざまソング。団塊の世代が「う~む」と唸るかも知れない。
 いろいろあったそんな時代に、徳久広司の曲、小金沢の歌が共感したか。サビあたり、めいっぱいの声と心が、きりっとした。

江ノ島ひとり

江ノ島ひとり

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
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 意表を衝くのが小金沢作品なら、こちらは定番の世界に徹しようとする。鎌倉に住む男へ、江ノ島の女が一途な思いを訴える、小道具は七里ケ浜、腰越、切り通し、弁天さまなど。
 そう来るだろうな...と待ち構えるところへ、その通りの詞と曲(志賀大介、伊藤雪彦)が来るが、きちんと盛り上がって破綻がない、両ベテランのいかにもいかにも...の仕事ぶり。
  三代の歌も、ブンチャブンチャのリズムに乗って、それらしい仕上げ方。泣き節だが声味があたたかで、人柄まで聞こえる気がした。

桜貝

桜貝

作詞:水木れいじ
作曲:弦 哲也
唄:五木ひろし

 1997年というから、17年前のアルバムに入れた曲を、歌い直して3度目、50周年記念曲にした。お気に入りの作品を、今ならこう歌えるという自負と、詞にある「ありがとう」の思いが、昨今の心情に重なってのこと。精緻な歌唱と詞、曲の情のこまやかさが聞きどころだが、自作までとことん聞き直し、再発掘するのが、五木のプロデューサー感覚か。

峠越え

峠越え

作詞:久仁京介
作曲:四方章人
唄:福田こうへい

 大ヒットのあとの作品、久仁京介の詞、四方章人の曲、福田の歌と、力こぶが三人三様に揃った。いきなりガツンと高音から出るメロディーに、福田の民謡の節が生きる。高音からスタートすると、曲はサビと歌い尻にまた高音が来るから、作品のインパクトも強め。若さと覇気のある福田の歌の向こうには、はるかな山並みが見える心地がした。

宿なしすずめ

宿なしすずめ

作詞:円 香乃
作曲:岩上峰山
唄:戸川よし乃

 伊戸のりお編曲のイントロのあたまが、シャンソン風味。語り歌が始まる予感がある。歌い出しの歌詞2行分あたりは、三木たかしか?と思わせるメロディーで、これが岡千秋だからニヤリとした。「かざす傘も人もない」「帰る部屋も胸もない」「眠る子守唄も膝もない」...と、ないないづくしの円香乃の詞を、歌い切った戸川が、何だかいじらしく思えた。

島根恋旅

島根恋旅

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦 哲也
唄:島根恋旅

 ご当地ソングの女王の旅は、今度は島根。相変わらず失意の女が主人公だが、「出逢いふれ逢いめぐり逢い、縁は一生、、笑顔、笑顔、笑顔が嬉しい」...と、3番を歌い納めて明るさを残す。その歌い尻にきれいなファルセットを使ったのは、作曲弦哲也の作戦、長く続くシリーズに新味を盛ろうと、作家たちはあれこれ知恵をしぼるようだ。

夫婦鶴

夫婦鶴

作詞:たかたかし
作曲:徳久広司
唄:菊地まどか

 しあわせ演歌の元祖たかたかしが、お手のものの世界に人生訓フレーズを加味して、骨太の詞に仕立てた。得たりや応!の作曲は徳久広司、編曲は池多孝春で、そのココロは歌うのが菊地のせいだろう。あえてはっきりと表面に出すのを避けてるが、この歌手には抜き難い浪曲の素地がある。独特の語り口と節が、ほどよく骨太なのが生きている。

MC音楽センター

歌の入り口・出口・手口

 歌に大事なのは「入り口」で、それがきっぱり決まれば「出口」はおおよそ納まる。欲を言えばその間にある「手口」かもねえ...と、これは昔、美空ひばりとかわした世間話。
 詞で言えば今回『居酒屋「津軽」』を書いた内藤綾子が出色。おなじみの設定の酒場歌を、入り口の2行で独自のものにした。呻唸のうえの狙い撃ちだろうか。水田竜子に『平戸雨情』を歌わせた水森英夫は「入り口」から「出口」まで一気!だし、城之内早苗の『白鷺の宿』を書いた弦哲也、歌手に「手口」まで用意した気配が面白かった。

居酒屋「津軽」

居酒屋「津軽」

作詞:内藤綾子
作曲:西 つよし
唄:大石まどか

 内藤綾子という作詞家が、各コーラスの歌い出し2行で意表を衝く。一風変わった酒場歌で、涙も愚痴も買って釣り銭は出さない。居酒屋のおかみの言い分だが、別に勘定高い訳ではなく、思いやりをそう表現するところがミソ。津軽訛りのじょっぱり女を、色恋抜き、ざっくばらんの主人公にしたのが、この人の苦心のあとだ。
 西つよしがひなびた味の曲をつけ、大石の歌も、そんな女のたたずまいを巧まずに歌った。この人も大分世慣れて、幅を広げて来てこその歌処理で、そんな年かっこうの歌手になったのだと合点した。

雪国列車

雪国列車

作詞:坂口照幸
作曲:スガアキラ
唄:川崎修二

 確か名古屋あたりの居酒屋で、この人のポスターを見た記憶がある。いろんな土地で頑張っている人が多いのだ!と、妙にしみじみとした。長いこと流行歌評判屋をやっているが、そういう人たちまでカバーし切れていない努力不足に思い当たったものだ。
 デビュー10周年と聞く。居ずまいを正して聞いたが、歌声に残る初心に「ほほう!」になった。温かみのあるせいせいとした声で歌に崩れも押しつけがましさもない。淡々とマイペースの歌表現で、強い個性を作ろうとしないところが、この人の個性なのだろう。

大利根ながれ月

大利根ながれ月

作詞:松井由利夫
作曲:水森英夫
唄:氷川きよし

 デビュー当初の股旅ものへ戻る。15周年記念曲で、初心を思い返す意図もあろう。作詞松井由利夫、作曲水森英夫コンビも以前のまま。しかし、平手造酒を歌って内容はグンとおとな。語り口に三波春夫を思わせる派手さと深みがあり、氷川の成熟ぶりが見えた。

夕子のお店

夕子のお店

作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也
唄:増位山太志郎

 増位山は大相撲を卒業、歌手活動に今後を賭ける。題材はかつてのヒット・夕子もの・の続編で、江東区の門前仲町を舞台に、いい気分そうに歌う。作曲弦哲也がツボを抑えたムード歌謡仕立て。作詞たかたかしが遠くなった昭和を書いたのは、彼の実感か。

白鷺の宿

白鷺の宿

作詞:喜多篠 忠
作曲:弦 哲也
唄:城之内早苗

 よく聞けば、妖艶の女の凄みを描く詞は喜多條忠。それ相応の曲を書いた弦哲也が、城之内なりの歌処理を考えた凄み気配。各コーラスの歌詞2行目の・言葉の置き方・やサビの声の張り方などに、そのあとが見える。結果、歌の主人公が今風にこざっぱりした。

平戸雨情

平戸雨情

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:
水田竜子

 前奏でサックスが鳴る。この歌手でそのテを狙うか...と、こちらはニヤリとする。3連のブルース歌謡、水原弘やクールファイブを連想させる昭和テイストだ。ビブラート荒めに、のしかかって来る勢いの歌唱。声をしっかり出して、水田が精一杯頑張っている。

おんなの酒

おんなの酒

作詞:さいとう大三
作曲:叶 弦大
唄:若山かずさ

 もともと薄めの声の人だが、それを芯に当てて力みも張りもせず、情緒ひと色の歌に仕立てた。すうっと一筆書きの絵みたいに破綻がなく、居酒屋の女の心情が切なげではかなげだ。聞けば聞くほど沁みて来るタイプ。地味だが、この人のキャリアが生きた歌か。

知床情話

知床情話

作詞:池田充男
作曲:中村典正
唄:松前ひろ子

 メロディーに軸足を置いて、歌い回すことで独自の色を作る歌手。夫唱婦随かその逆か、作曲中村典正との夫婦コンビらしい作品だ。歌手生活45周年の記念曲、いろいろあった年月がしのばれる歌を「死ぬ気で生きたネオン街」と作詞の池田充男が言い切った。

人世舟(ひとよぶね)

人世舟(ひとよぶね)

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡 千秋
唄:小桜舞子

 いかにも岡千秋らしい曲。何作か重ねたせいか、小桜の語り口にまで、岡ふうになってほほえましい。作曲家には惚れこんでいる気配があり、歌手にはその期待に応えようとする気配がある。それが憂き世を、背伸びしながら生きようとする主人公の姿に通じた。

おんなの夜明け~第二章~

おんなの夜明け~第二章~

作詞:水木れいじ
作曲:叶 弦大
唄:竹川美子

 "歌わせ歌"と"聞かせ歌"の二種があるとする。もともと叶弦大は、前者を狙うことの多い作曲家だろう。それが竹川には、時に後者の曲を書く。今回もツーハーフの大きめのメロディーで、愛弟子を大きく育てたい愛情のほどが伝わって来た。竹川も一生懸命だ。

はぐれ橋

はぐれ橋

作詞:久仁京介
作曲:弦 哲也
唄:竹島 宏

 アクの強い生活感や、濃いめの情念の歌は、求められていない時代なのかも知れない。竹島の歌を聞きながら、そんなことを思った。辛い恋から身を引き、それでも女の背を押そうとする男心ソング。生々しくなりがちな素材を、竹島はすっきりと歌っている。

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 「歌はやっぱり、一にも二にも、声だな」
 5月27日夜、なかのZERO大ホールで新田晃也を聞きながら、しみじみ歌手の武器を再確認した。響き過ぎるくらいのバリトン、中・低音部が男っぽくて、高音はそのまませり上がり、哀愁の色が強くなる。それが、
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする...
 と、幕開けからズンと来る。彼自身が作詞作曲した「友情」という曲で、自身の現状がスパッと言い切れていて好きな曲だ。
 「いいんだよ、それで。目指すは三流のテッペンだ。俺もスポニチで、それを成就した」
 そんなことを面と向かって言いながら、もう何十年の付き合いになるだろう。
 新田は今年70才の古稀、来年は歌手生活50年になると言う。昔々は銀座の名うての弾き語り。阿久悠が初期に、全国の港を回って作ったアルバム「わが心の港町」の全曲を、上村二郎の名で歌った。才能を評価した阿久や久世光彦らと、レコード歌手の道をすすめたが、
 「今さら、新人歌手でございますなんて、まっ平ですよ」
 と言い放った奴だ。以来ずっと、自作自演の演歌系シンガー・ソングライターとして意地を張って来た。昭和34年に集団就職列車で福島県伊達市から上京、彼なりの独立独歩である。僕が初めて会ったのは、
 「浅草公会堂。春日八郎さんの楽屋です」
 と、僕が忘れたのに彼の方が覚えている。
 コンサートの二部。「昭和メドレー」と名付けて12曲。彼が生い立ちの記を歌った。「哀愁列車」「りんご村から」「かえり船」「大利根月夜」「皆の衆」「黒い花びら」「君恋し」「別れの一本杉」...。少年期からの彼の心を揺すった歌たちだろうが、7歳年上の僕も同じ〝歌時代″の中で育った。
 「ン?」
 と気づくことがある。昭和30年代を軸に「演歌」というジャンルにくくられている懐メロだが、演歌というよりは「歌謡曲」の匂いの方が強い。
 《やっと、歌謡曲の時代が来たのかも知れない》
 4日前の5月24日を丸一日、僕は芝のメルパルクホールで「日本アマチュア歌謡祭」の参加者120人の歌を聞いた。歌われた作品は近ごろの演歌ではなく、彼や彼女ら思い思いの歌謡曲である。作曲家で言えば三木たかし、浜圭介、ご時勢柄の杉本眞人。一番多かったのは弦哲也ものだったが、彼の作品の中でも歌謡曲寄りのものが目立った。
 このイベントはもともと、僕らがスポニチ主催で起ち上げたが、今年が30回記念大会。規模内容ともに日本一のものに育っていて、参加者の歌唱力の水準は呆れるほど高い。
 《だから、歌謡曲なのかも知れない...》
 と、僕は考え直す。歌巧者たちはみな、見せ場聞かせどころを狙った選曲をする。覚え易く歌い易い演歌では、その野心が満たせない。その証拠に、演歌が出て来ても、それは民謡のあんこ入りや長いセリフ入りの、どちらかと言えば難曲が多かったではないか。
 新田晃也もその代表だろうが、歌に自信がある向きは、山あり谷ありのドラマチックな作品を得意とする。そして、ここが大事なことなのだが、そういう聴きごたえのある歌手や作品に、聴き手の関心が集まり始めている。新田コンサートの休憩時間、トイレに列を作ったのは男たちだった。口々に語る感想にも、なかなかの聴き上手と酔い上手の気配が濃い。多くが熟年だが、
 《この人たちにCDを買わせるための、攻撃的な作戦こそ必要なのだ》
 と、僕は合点した。それが売れれば苦労はない...と諦めて、歌謡界は長いこと、万事安易に流れすぎてはいないか?
 新田は50年、無名のままだが、
「歌い続けられることが、どんなに有難いか!」
 が本音らしい。しかし、新曲の「寒がり」が陽の目を見つつある。作詞は石原信一、彼は会津若松の男で、伊達の新田とは福島同志だ。〝石の上にも3年″と、二人でこの曲に賭けるあたりには、東北人の粘り強さがうかがえる。

週刊ミュージック・リポート

視界広めて、歌におおらかさを!

 「恋人」から「夫婦」まで「二人の関係」に、演歌は長くこだわり過ぎた。別れた過去にしろ、順調な現在にしろ、歌の中の人間関係がひどく限定されている。
 その結果作詞家たちは、ディテールごっこに憂き身をやつす。背景や道具立てで、相違点を生む手口。「川」や「宿」ばやりを、固有名詞でしのぐのがその例だが、もはや限界、類型化がきわまった感がある。
 もうそろそろ視線を広く展開して、おおらかな歌を作ってもいいころだろう。

一期一会

一期一会

作詞:いではく
作曲:幸 耕平
唄:田川寿美

 歌声が暖かい。それも人肌のぬくもりで、作品を手渡して来る。もともと歌巧者なのだが、声を張らず、歌い回すこともなく、だから差す手引く手の技巧も使わない。歌を聞く側の目の前へ、ごく自然に「置く」風情だ。
 作品への、田川なりの理解と共感、対応である。いではくの詞は「感謝のこころ」と「わかちあいの精神」を語る。理屈張らずにきれいな一般論仕立て。幸耕平の曲は彼流のメロディーだが、いつもみたいにリズムに乗せて歌手をあおらない。編曲竜崎孝路は、その辺りのツボをちゃんと心得ている。

路傍の花

路傍の花

作詞:坂口照幸
作曲:大泉逸郎
唄:大泉逸郎

 一転してこちらは、歌い回しの歌。大泉が作曲もしているから、「孫」以来ずっと変わらぬ大泉流だ。加齢の気配が声に少し出て来て、張り歌だが、歌い伸ばす語尾に、吐く息がまじる。ビブラートの細かさ、揺すり方も手伝って、田端義夫ふうがちらりとする。
 「何より地道が一番と...」という2番の歌詞の頭に、作詞坂口照幸の顔が見えた。「人生晩年 今わかる めおと以上の 縁はない」という3番の頭には、大泉の顔もダブった。演歌も芯の芯に息づくのは、私小説部分だと思っているから「ほほう!」と合点した。

道の駅

道の駅

作詞:さわだすずこ
作曲:船村 徹
唄:岩本公水

 「見慣れた景色」を歌い込んだ詞さわだすずこを、聞き慣れないメロディーで聴く心地がする。作曲は船村徹。この人は別に奇をてらっている訳ではなく、これが自然な彼流なのだろう。使い古されたメロディーを使わないことがきっと、この人の意地と矜持なのだ。

一声一代

一声一代

作詞:水木れいじ
作曲:岡 千秋
唄:天童よしみ

 本人の一代記めいた芸道一筋ソング。それらしい単語が山ほど並んでいるタイプを、岡千秋の曲が浪曲ふう展開でまとめた。6行の詞を2行ずつ3ブロックに分けて、序破急の組み立て方。詞のごつごつを曲がなめらかにして、天童の歌がのびやかになった。

あやめ雨情

あやめ雨情

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:三山ひろし

 あっさり、こざっぱりと歌い流す。詞の言葉一つ一つにべたつかず、メロディー中心の歌唱。前面に出るのは声味と節回しだが、それを誇示するヤマっ気はない。「みなさん、ご一緒に!」の気分の、カラオケ勢のリーダーみたいで、人徳もこの人の個性に生きた。

放浪酒

放浪酒

作詞:田久保真見
作曲:弦 哲也
唄:山本譲二

 「おや!」と少し、意表を衝かれた。歌い出しから低音で出て、後半それなりのヤマは張るが、高音で決め込む個所はない。弦哲也の曲が、山本の・その気・を抑え込むのか、山本がもう一つの彼らしさを狙うのか。詞は田久保真見。2番頭にらしさが少々。

夢航路

夢航路

作詞:たきのえいじ
作曲:船村徹
唄:走 裕介

 たきのえいじが踏ん張った5行詞3節。放浪の男心をすっきりと、小道具に頼らぬ表現にした。作曲船村徹への、彼なりの敬意、アプローチか。その分だけ雑念がまじらず、みはるかす北の海が目に浮かぶ。走と一緒に見た網走の海が、また見えた心地になった。

花影の女

花影の女

作詞:丹 まさと
作曲:佐々木雄喜
唄:千葉一夫

 流行歌の主流は、長いこと哀愁路線だった。そのせいか作品を、いつも詠嘆の色で歌う歌手が多い。千葉もその一人だが、このタイプの歌は、ともすれば暗めになる。昨今はそれにぽっちり、明るさの加味が求められる。千葉の努力は、その辺を目指している。

浅野川春秋

浅野川春秋

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:島津悦子

 「あれっ?」と気づいた。歌声に暖かさと奥行きが加わっている。歌い出しの2行分など、この人とは思えなかった。息づかいと声味の変化。新境地はいつから?と、前作を探したが手持ちの資料がない。新年早々に、えらくいい女になったこの人と出会った気分だ。

海峡吹雪

海峡吹雪

作詞:青山幸司
作曲:四方章人
唄:井上由美子

 青山幸司という人の詞に、さしたる細工はないが、作曲の四方章人が委細かまわず、本格派の船ものに仕立てた。その揺れ方と昴まり方に、井上の歌が自然に添っていく。各コーラス歌い納めの「海峡...」のあたり、この人なりの哀切感が、生き生きときれいだ。

男の酒場

男の酒場

作詞:松原のぶえ
作曲:松原のぶえ
唄:松原のぶえ

 松原が歌手生活35周年記念曲の一つとして、自作自演した。詞だけではなく、作曲も本人。いろいろあった半生を、演歌のエッセンスみたいな単語でこれでもか!とつなぎ、歌い込んだ仕上がり。この言葉、このメロディー、このココロが、この人のキャリアの蓄積なのだろう。

愛は水平線

愛は水平線

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:ハン・ジナ

 歌の途中、声が途切れた隙間でも、歌の思いはちゃんとつながっている。どういう訳か韓国出身の歌手たちは、そういう説得力を持つから不思議だ。徳久広司の曲と川村栄二の編曲が、彼女用のうねりと隙間を作る。田久保真見の詞は展開不足かな。

MC音楽センター

歌の消耗品化を止めるためにも

 ことさらに歌詞には、作詞者の苦吟の気配を見たい。推敲の跡を感じたい。それが完成度の一つの目安だ。具体的に書けば、独自の着想、展開と省略、含蓄や詰めにいたる言葉選びなんてあたりか。
 今回の十曲には、志賀大介、吉田旺、高田ひろお、いではく、もず唱平らベテランの作品が並び、その色が濃い。それぞれ独特の視線、年季ものの表現、負けん気と技を持つ手練者。制作者の手詰まりで指名の側面もあろうが、彼らの改めての登壇を喜びたい。

殻を打ち破れ145回

≪その後どうしているか?≫

 時おり思い出す"気になる奴"がいた。もう一昨年の秋になるか、山形・天童のスナックで、ばかでかい声で歌っていた男。佐藤千夜子杯のカラオケ大会のゲストに呼ばれたスポーツマンふうのっぽで、韓国の歌を何曲か。

 「うん、CDのオリジナルより、こっちの方がいいな」

 確か僕は、酔余そんなことを言った覚えがある。スケール大きめの張り歌が、彼のための曲では手足ちぢこまって聞えたせいだ。

 『昭和男唄』山崎ていじ――。そいつの新しいシングルが届いた。さわだすずこの詞、弦哲也の曲、竜崎孝路の編曲。

 ♪口は重いし 愛想も無いし 思いどおりの 言葉さえ 見つけることも できない俺さ...

 どうやら歌の主人公は、武骨な世渡り下手だがそれはそれとして...。ボソボソ言ってる歌い出しのあと、サビ以降にガツンと高音で決める快感が来た。

 ≪そうか、やっとこういう作品にめぐり会えたのか!≫

 僕は彼の嬉しそうな笑顔を思い浮かべる。カラオケ族相手の覚えやすく歌いやすい作品では、山崎のパワーは全開できなかった。それが、ボクシングの西日本新人王決定戦に出たとかいう心身まで、のびのびと生きているではないか!芸名も「悌二」から「ていじ」に変わっている。心機一転、きっと期するものがあるのだろう。

 もう一人、ずっと気になる人がいて、それは作詞家の田久保真見。女性の感覚でスパッと言い切るシャープさが得難い。こちらからは『昭和の花』が届く。徳久広司の曲で歌は小金沢昇司だ。

 ♪おれの心の ほとりに咲いた 女 いちりん 昭和の花よ...

 というのが歌い出し。おやおや、去った女をしのぶ男の定番ソングか...と、早合点しかけたが、違った。二番の主人公が「酒」になり、三番で語られたのは「友」で、末ひろがりに全体が、昭和の青春生きざまソングになっていた。

 ≪そうか、何かそれらしい細工をしなければと、知恵をしぼった結果か...≫

 僕はニヤニヤして、彼女の胸中を推しはかる。作曲した徳久も、その気にさせられたかも知れないし、そんな気配とメロディーの乗りの良さに、小金沢もその気になったのだろう。すみずみまで、気合いの入った説得力のある作品に仕上がった。団塊の世代の男たちはきっと、心動かされるに違いない。

 ≪しかし、それにしてもなぁ...≫

 と、僕は妙にしみじみとしてしまう。『昭和男唄』と『昭和の女』が、立て続けである。一つの時代を生きた人間の、感慨や苦渋が二つの歌づくりのチームによって語られている。太平洋戦争をはさんで、それは実に激動の時代だった。戦後にしぼっても世相や文化は激変に次ぐ激変で、確かに歌も世に連れてはやった。それらをリアルタイムで体験したのが、僕らの世代。それが今では回想と感慨の対象に遠ざかっちまった――。

 と、まぁ、これは年寄りのくり言ならほどほどにして、山崎ていじの健闘を祈ろう。田久保真見の"これから"にも期待しようか!

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殻を打ち破れ144回

 ♪笑顔はんなり おもてなし...

 と来た。昨年の流行語が歌詞に埋め込まれているが、連想するのはあの人気キャスターではなく、川中美幸の笑顔だ。僕は3月、大阪の新歌舞伎座に居る。2月の明治座から引き続いて「松平健・川中美幸特別公演」に出演してのこと。冒頭の歌詞は川中の新曲『祇園のおんな』の一節で、彼女はショーで毎回これを歌う。僕は楽屋でもう何十回もこれを聴いている。

 聴くともなしに聴いている歌が、いつか脳裡にしっかり刷り込まれている体験を、大勢の歌好きが持っていよう。その多くが少年時代から青春期の出来事。そういう経験が僕を歌謡少年にし、長ずるにおよんで流行歌評判屋にした。しかし、まさか70才を過ぎて、そんな若いころの習慣が戻って来ようとは思っていなかった。川中と彼女が所属するアルデルジローの我妻忠義社長から声がかかっての舞台役者暮らし。もう8年めになる好遇がそれを可能にした。彼女は公演ごとに新曲を歌う。その都度僕は楽屋でその歌を覚え込む。その間一体何曲を、何十回ずつ聴いた勘定になるのだろう?

 ≪うん、高田ひろおの詞に弦哲也の曲、前田俊明の編曲か...≫

 『祇園のおんな』で、3人の友人の顔を思い浮かべる。弦と前田は仲町会のお仲間。川中の作品の常連でもある。高田は星野哲郎門下生の桜澄舎のボス格。星野の生前から親交があるが、他人に紹介する時は、

 「あの、"およげ!たいやきくん"を作詞した...」

 が、決まり文句だった。それがこのところ演歌の世界に還って来た。ちょっと前に佐々木新一に『柳葉魚』というのを書いて、

 「タイトルが読めないという人が居てねぇ...」

と、苦笑していた。

「ししゃもって、釧路あたりじゃ、川をのぼって来たんだ...」

と、僕は彼の歌詞で新発見をした気分になったものだ。

 『祇園のおんな』は各コーラス、歌い出しの2行で京都の景色を見せる。花見小路、宵山、大文字、花灯路、花街などがキイ・ワード。その2行めのお尻で女のたたずまいを見せ、おもてなしは1番が「心ばかりの...」で、2番が「涙かくして...」で、3番が「笑顔はんなり...」と心情が変わる。京の女の心の揺れ方を、5行詞3節で描いて簡潔。いかにも星野の流れを汲む人らしい仕事ぶりだ。

 カップリング曲『お吉情話』も同じトリオの作品。おなじみのお話を

 ♪伊豆は雨ふる 下田は荒れる...

 という風景の中に据えて、すっきりとした川中版だ。これを彼女は切々とドラマチックに歌い、『祇園...』の方は、歌唱もそれこそはんなりといい雰囲気。

 「う~ん、いいねぇ...」

 と、しみじみするのは、芝居で共演する殺陣の剣友会の面々。みんな京都撮影所の育ちだから、思い返す祇園のひとがいるのかも知れない。

 ≪高田ひろおなぁ、花京院しのぶの新曲を頼んでみるか...≫

 二足のわらじの老優、楽屋での忙中閑の思いつきである。

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 かつての記者仲間で映画担当だった河原一邦から突然、歌手花京院しのぶの名が出て来たので驚いた。何でまた? と聞いたら、
 「昔、仙台へ取材に行かされたじゃない。島津さんて言ったかな、マネジャーは。古い話をいろいろ聞いたけど、まだ元気ですか、あの人...」
 と答える。ずいぶん記憶がはっきりしている奴だともう一度驚いた。彼はスポニチを定年退職してからも、もう4年くらい経っている。
 12年ほど前、花京院は、地元の仙台で草の根活動をしていた。育ての親の島津晃さんが「何とか東京へ出して一花咲かせたい」と相談に来たのは、それからまた20年もさかのぼる。
 「歌謡界にコネはなし、活動資金もなしじゃ、地盤を作るっきゃないでしょ。仙台で名前を売って、レコード出したら1万枚は売れるってくらいの地力をつけましょう。メジャー展開はそれからの話でしょ」
 僕はそんな提案をした。昨今ではインディーズというしゃれた名のもとに、地方で頑張る歌手は大勢居る。中には地域の有名人になり、東京から行くメジャー派をしのぐ人気の人もいるくらいだ。しかし30年以上前にそれをやれ! というのは、乱暴きわまりない発言だった。それを
 「よォしッ!」
 と島津さんは真に受ける。岡晴夫の前座歌手からマネジャーになり、キングレコードの芸能部に居たころは大月みやこのデビューに尽力した古強者。花京院を〝女・三橋美智也″に育てる野心を抱えて、孤軍奮闘を続けていた。河原記者に仙台に行ってもらったのは、その島津さんから、
 「仙台でもう20年頑張った。地盤は出来たから何とかしてよ。俺の寿命もそう長くはないよ」
 と談じ込まれ、何と20年! あわてた僕がビクターへ売り込む。「望郷新相馬」と「お父う」を発売したのが2003年の秋だ。
 「あの2曲がな、ことに〝お父う〟の方が、今じゃカラオケ族のスタンダードになっているよ」 河原元記者と俄かに懐旧談になったのは、5月19日のこと。手島大治というスポニチの元編集局長の通夜で、場所は碑文谷会館。手島はまだ56才の若さだったが、彼もまた僕の年下の仲間で、歌謡界からも多くの弔花を頂いた。その名札を眺めていて、河原記者は往時を思い出したのかも知れない。
 「島津さんは大震災の年の5月に亡くなったけど、花京院はその後もなー...」
 僕は彼女で08年に「望郷やま唄」11年に「望郷あいや節」をプロデュース。今年8月に出す「望郷よされ節」を目下製作中と話を続ける。11年間でシングル4枚というスローペースだが、
 「へえ、まだ終わっちゃいないんだ。花京院もそうだけど、あんたも相当にしぶといねえ」
と、今度は河原元記者が驚き、呆れる番になった。花京院の魅力は民謡調で声を張るのびのびした〝張り歌〟で、カラオケ上級者の愛唱歌になった。「お父う」と「望郷新相馬」は、里村龍一の詞に、榊薫人の曲。新曲は星野哲郎門下の高田ひろおの詞、昭和30年代の流行歌をよく知る水森英夫の曲で、編曲は南郷達也と、親しいトリオを組んだ。亡くなった島津さんの〝女・三橋美智也″にという夢をそのまま引き継いでいる。花京院の作品がみな、音域が広く、なみのカラオケ好きにはちょいとした難曲になるのは、そのせいだ。
 毎年せしめて常用するスポニチの手帳を繰る。日々のスケジュールの合間の書き込みは、5月11日が三木たかし、17日が吉岡治の命日で、スポニチ時代の僕のボスで音事協の水谷淳元専務理事は4月28日だった。7月17日にはシャンソン界のボス石井好子、8月1日には阿久悠の命日がやって来る。そんなメモを目にするたびに僕はひとりで〝思い出し供養″をする。先に逝った人々との交友が、時にひどく具体的に思い返されて、酒の味が少しずつ変わる。
 花京院の吹込みに立ち合った水森は、
 「いいねえ、いいよ」
 と手放しでほめた。しっかり鍛えられた地声が、彼の信条に合い、媚びのない巧さがあるせいか。これも島津さんが仕込んだものである。没後3年、新曲が彼への〝はやり歌供養〟になると僕は思っている。

週刊ミュージック・リポート
祇園のおんな

祇園のおんな

作詞:高田ひろお
作曲:弦 哲也
唄:川中美幸

 「柳芽をふく 石畳」「夏は宵山 大文字」「霧にかすんだ 花灯路」と。五行詞スリーコーラスの最初の一行がさりげない。そこで景色を見せておいて、京都祇園の女性のおもてなしの心を語る。流行語を取り入れながら、コミカルにはしない筆致で、作詞の高田ひろおが、情のこまやかさを示す。近ごろ見かけない、推敲の気配が頼もしい。
 作曲・弦哲也がこれまた情の歌書き。そうと来れば川中の歌唱も、息づかいをまじえて表現がこまやかになる。三者それぞれに、抑制の妙を利かせた一曲と言えようか。

人道

人道

作詞:いではく
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 こちらはいではくの詞。「義理だ恩だは古いと笑う」とか「花が咲くには助けがいるさ」とか「受けたご恩は世間に返す」とかのフレーズを、各コーラスの頭におく。バサッと切り込んで来る任侠もの路線ふう。それを「持ちつ持たれつ生かされ生きる」人生感慨ソングにするのがこの作詞家の腕か。
 作曲・原譲二、歌・北島三郎の二役は、それを小気味のいいやくざ歌調に仕立て直した。二つの要素を足して二で割ったあたりがミソで、前面に出るのは小市民の誠心誠意の生き方。そんな処理が、今日ふうなのかも知れない。

伊豆の国

伊豆の国

作詞:荒木とよひさ
作曲:南郷 孝
唄:五木ひろし

 女ごころソングなら、内股で歌う。そんな作品への入り方が、五木流だ。歌のフレージング、吐く息吸う息で情感を作ってサビあたり、声も思いも抑えたうえで突く唱法がいかにもいかにもだ。五木用の作曲コンテストを制した南郷孝の曲。彼にも本望の仕上がりだろう

からたちの小径

からたちの小径

作詞:喜多篠 忠
作曲:南 こうせつ
唄:島倉千代子

 死の三日前の吹き込みと、みんながニュースで知っている作品。息の途切れ方や歌い伸ばしの揺れ方からどうしても、そんな状態が伝わる。そのくせ歌は、彼女らしいけなげさと明るさではずむ。「玉砕」したんだ、この人は...と、僕は彼女の「覚悟」のほどを聞いた。

男の酒場

男の酒場

作詞:田久保真見
作曲:岡 千秋
唄:西方裕之

 「さむい夜更けの盃に 男は夢をうかべ呑む 女は命をしずめ呑む」という、歌い出しの三行で、この歌は決まりだ。田久保真見版の男心ソングと見紛うが、後半の三行でそんな男を見守る女心に逆転、タイトルも腑に落ちる。伍代の・その気・も歌の節々に出ている。

修善寺の宿

修善寺の宿

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 五木ひろしの歌への入り方は、彼の項で書いた。似たような伊豆湯の宿の女心ソングでも、鏡は少し距離を置き、おハナシとして伝えようとする。結果、聞こえて来るのは、主人公の心情よりも、彼の口説、芸の差し引き。そこのところが鏡流の個性なのだろう。

哀愁線リアス

哀愁線リアス

作詞:もず昌平
作曲:聖川 湧
唄:成世昌平

 春のリアス線界わい「もう聴くこともないでしょう 土地の浜唄 鴎の噂」と、これは作詞家もず唱平の3・11挽歌。それを挽歌に止めず、復興への希望に聞かすのが、この人のココロか。宮古に残る浪花言葉で歌を結んだりして、北前船の昔までを偲ばせる。

 
 〽林檎も桜も一緒に咲いて...
 と、原田悠里の「津軽の花」で書いたのは作詞家の麻こよみ。北国の遅い春の訪れがカラフルに浮き立つ気分で、
 《ほほう、なかなかに...》
 と、合点したのはだいぶ前のことだ。それに桃のピンクが加わり、菜の花や水仙の黄色、こぶしの白などが合流して、
 《う~ん》
 と唸っちまう景色に出っくわした。5月3日、場所は秋田県鹿角郡小坂町――。
 のんびりした田園風景を明治百年通りというのが横切る。一面に満開の桜、僕は湘南と東京で満喫したあとだから、今年二度めの花見気分だ。その片側には芝居ののぼりが林立する。中央に国の重要文化財の康楽館。明治43年に落成、昭和61年に修復した〝築100余年〟の芝居小屋である。
 人力で動かす回り舞台とすっぽん。花道が二本あって客席は昔ながらの桟敷、手摺りも柱も黒々と建築当時のまま...とくれば、こちらが即座に悪ノリするのも無理はない話。東北新幹線で盛岡まで2時間、そこから高速バスで1時間半ほど、高速毛馬内という停留所で降りて、迎えの車に乗ると15分ほどの道のりだ。
 やっていたのは松井誠門下の岬寛太ひきいる「劇団岬一家」の公演。彼と僕は昨年の1月と2月、名古屋・御園座の「松平健・川中美幸公演」で一緒になった。そのうえ名古屋の2ヵ月と今年の2月が明治座、3月も大阪新歌舞伎座で一緒の楽屋、合計4カ月も同棲!?状態だった友人の真砂皓太がゲスト出演する。しかも彼は今年還暦を迎えるのを期に、芸名を「皓太」から「京之介」に変えて、今回がその初舞台...。
 ま、季節も良し、好奇心が刺激され、友人への義理も果たせそうという、一石三鳥、一泊二日の旅である。作曲家の水森英夫と南郷達也で、花京院しのぶの新曲のアレンジ打合せをやり、その足で出かけたから現地に入ったのは夜。
 「やあ、やあ、やあ...」
 「これは、これは、これは...」
 なんてやりとりのあと、お決まりの酒である。
 「どうなのよ。〝京さま〟と呼ばれて...」
 「それがねえ、まだ落ち着かなくて...」
 と、僕と真砂は新しい芸名にまつわるあれこれ。
 「さすがベテランです。お陰様で芝居がきりっと締まって...」
と座長の岬は、決してヨイショではない眼の色を真砂に向ける。
 《それにしても、何でこんな野っ原に、こんな古式豊かな劇場が...》
 という疑問は、かつては金、銀、銅などを産出する大鉱山で盛えた町と聞いて氷解した。明治から昭和へ、流入した西洋の文化、先端の技術、集まったおびただしい労働力...。康楽館はその厚生施設として生まれたそうな。富国強兵、殖産興業の時代を謳歌した、つわものどもの夢の跡...。
 岬一家の芝居は「一心太助・江戸っ子の心意気」で、岬が太助と将軍家光の二役。早替わりの大騒ぎが売りで、真砂は大久保彦左衛門に扮し、長ゼリフの狂言回しに立ち回りまでやる大忙し。芸歴40年、松平健の腹心で北島三郎公演のレギュラー、川中美幸公演にも加わるなど、活躍の幅が広い。それがしっかり芝居の軸になるのは、共演する若者たちが応分の敬意を払い、何かをつかもうとするせいか。一カ月単位で休みなしに地方を回る彼らは、終演後は次の芝居のけいこだ。
 《やるだろうな...》
 と思ったら案の定、舞踊ショーは美空ひばりである。それも「みだれ髪」「川の流れのように」をはじめ「港町十三番地」「花笠道中」「車屋さん」「人生一路」「裏町酒場」...と13曲もの大特集。片っ端から岬がメインで踊って、フィナーレでは白塗りもそれらしく、真砂もからんだ。
 「いつもより、ずっといい。気合いの入り方がちがうみてえだ」
 僕を送り迎えしてくれたスナック「フレンド」のママが、感想を言った。開店30年になるのを娘に任せて、常連客の送り迎えまでやる気さくな行動派だから、なかなかの繁盛ぶり。真砂は車で30分の十和田湖や近くの温泉へちょくちょく案内してもらったという。開演が午前10時と午後2時で上演時間が90分ずつだから、うらやましいくらいに暇なのだ。

週刊ミュージック・リポート
勝負坂

勝負坂

作詞:志賀大介
作曲:徳久広司
唄:永井裕子

 ワンコーラスめの歌詞五行で、この歌の精神は言い切れている。掛け言葉重ね言葉を多用、この種の詞の書き手はまだ健在!を示したのが志賀大介。ツボを心得た徳久広司の曲、やや大仰にそれふうな南郷達也の編曲で、こんなタイプが・はまり・の永井が元気唱だ。

海峡しぐれ

海峡しぐれ

作詞:原 譲二
作曲:原 譲二
唄:藤 あや子

 五行詞の四行分は演歌、サビの一行分を民謡調で決めて、あとさきはこぶしコロコロ。作詞作曲の原譲二が、藤の歌い手としての"いいとこどり"をして見せた。決して北島節ののれん分けに止まらぬ才腕で、藤も別嬪歌手に止まらぬ人であることを示した。

晩秋歌

晩秋歌

作詞:吉田 旺
作曲:船村 徹
唄:鳥羽一郎

 演歌のヒットメイカーの顔を何人か思い浮かべる。この詞で彼らならどういう曲を書くだろう?と考えてみる。そのどれでもないタイプを書いてみせるのが、作曲・船村徹の端倪すべからざる力。吉田旺のいかにも彼らしい詞で、鳥羽が筑豊の男唄にした。

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新沼の胸中を思い、粛然とした

 大川栄策の『男一途』は、文字通りの掘り出しもの。二八年前に登場した曲だ。たとえ古くても、いいものはいいと、制作者たちが思い定めたのだろう、まして昨今は、どこを向いても昭和回顧ばやりだから、なおさらのこと。
 新沼謙治はふるさと讃歌を自作自演した。おっとりおとぼけキャラ、東北なまりの彼の胸中で、3・11以後の思いがこんなふうに昇華したものか。力まず理屈をこねず、率直な表現にすがすがしさが匂う。深夜、これを聞いて僕はしばし粛然とした。

男一途

男一途

作詞:松井由利夫
作曲:弦哲也
唄:大川栄策

 〝モロ昭和〟である。イントロのギターからもう、一気にあのころへタイムスリップする。作詞が松井由利夫、編曲が斉藤恒夫と、ともに故人だが名うての腕きき、作曲の弦哲也が二人にはさまって、負けず劣らずの仕事をした、昭和六〇年に生まれた曲と聞けば、そうだろうな!と合点する。 
 詞は男の心意気ものだが、曲は〝流し〟に似合いの哀愁型。それを大川が例によって切々の歌唱だ。三拍子揃えば、古さもまた良きもの。一番の歌い出しの詞の一言に、これこそ倍返しのはしりだわな...と、僕はニヤニヤした。

よりそい傘

よりそい傘

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:岡ゆう子

 一転して〝モロ平成〟である。弦哲也の仕事ぶりがそうで、タイトルからして〝しあわせ演歌〟の一曲。力まずあせらずに着々と、ヒットメーカーの道を歩む彼の足跡が、目に見える気がする。
 演歌は昔から、歌い出し二行が勝負と決まっているから、仁井谷俊也はそれを目指して腐心している気配。努力のほどを多としよう。
 岡はそれを、大事にこまやかな気遣いの歌にした。心もち薄手の声が緊張感途切れることなく、歌の思いを伝える。そうだよな、何事によらず率直さ、素直さが一番だヨ。

 
 
漁師一代

漁師一代

作詞:柴田ちくどう
作曲:岡千秋
唄:鳥羽一郎

 歌に出てくる漁師もいろいろだが、ついに鰻を獲りに夜船を出すか! 瀬戸の入り江でその稚魚も見守る詞は柴田ちくどう。作曲の岡千秋と歌の鳥羽は、このての世界はお手のもので、五行詞をきっちり形にして、呼吸の合い方がなかなかだ。

 
 
保津川ふたり

保津川ふたり

作詞:万城たかし
作曲:岩上峰山
唄:葵 かを里

 声の繰り方やいなし方に、昔々の日本調の匂いがちらりとする。日舞を踊りながら歌う人だそうだが、それでそんな色が出るのか。近ごろめったに聞かぬタイプで、この人の個性になりそう。麻こよみ・影山時則が連作する道行きもの。やるせなげな風情がある。

柳葉魚 (ししゃも)

柳葉魚 (ししゃも)

作詞:高田ひろお
作曲:水森英夫
唄:
佐々木新一

 タイトルからシシャモが出て来た。釧路あたりじゃあれが群れて上がるそうな。いかにもいかにも...の高田ひろおの詞に、水森英夫がのびのびとした曲をつけたのは、佐々木の歌の独自性を生かす狙い。佐々木は嬉しそうに、高音を何度も張り上げている。

出雲雨情 (いずもうじょう)

出雲雨情 (いずもうじょう)

作詞:かず翼
作曲:水森英夫
唄:多岐川舞子

 二五周年記念曲の第二弾だが、多岐川はそれでもなお挑戦の途上にいる。こぎれいに歌をまとめるよりは、攻めの姿勢で歌のインパクトを強める。高音部も声を整えるよりは、地金が出るくらいの張り方で、どうやらこれも、作曲水森英夫が用意したハードル...。

 
夢灯籠 (ゆめとうろう)

夢灯籠 (ゆめとうろう)

作詞:田久保真見
作曲:弦哲夫
唄:瀬口侑希

 あれこれ彼女流の言葉を繰り出して、田久保真見の詞は女心一直線。その一節六行分をゆったりめのメロディーで手を替え品を替えたのは弦哲也。瀬口は掘れば掘るほど...の作品を貰ったから、歌に必死の色が出た。やわやわ温めの声味に、芯を作ろうとした。

 
博多時雨

博多時雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:三門忠司

 おなじみの声味、おなじみの節回しで、おなじみの世界の女心ソング。三門の歌はのうのうのったりと、独特の体臭を持つ。だから好き...というファンもいようから、CD売上げに一定の成果を挙げるのだろう。地味だがそれが、この人の立ち位置に見える。

作詞:新沼謙治<br />作曲:新沼謙治<br />唄:新沼謙治

ふるさとは今もかわらず

作詞:新沼謙治
作曲:新沼謙治
唄:新沼謙治

 新沼本人の作詞作曲。ふるさとの山河と四季を描き、人々の共生と祈りを歌った。東北出身の彼の、3・11体験が今、こういう歌を書かせたのだろう。とぼけた東北人キャラを返上、杉並児童合唱団と一緒に、すがすがしいふるさと讃歌は挽歌でもある。

涙の翼

涙の翼

作詞:下地亜記子
作曲:樋口義高
唄:西方裕之

 ミレイはとことん歌いたがりで、彼女なりの世界を持つ。だから作曲家はみんな歌わせたがりになる。今回の樋口義高もそうらしく、あちこちで思いがけない展開を示すメロディーを書いた。だからミレイの歌は、得たりや応!のノリで、風変わりな歌謡曲にした。

 
泉州恋しぐれ

泉州恋しぐれ

作詞:鈴木紀代
作曲:中村典正
唄:長保有紀

 なげやり、自堕落すれすれの声味と口調が、歌い出しにある。そこが彼女の粋や艶に生きるから面白い。それが歌の後半「ヒヤヒヤでワクワクドキドキや」の、囃子詞みたいなサビで、陽気に盛り上がる。主人公と本人のキャラが、おきゃんに納まるから妙だ。

 
石蕗の花

石蕗の花

作詞:麻ことみ
作曲:水森英夫
唄:真木ことみ

 男似の声味を一気に全開放した。しっかり声を前に出して、歌に小細工は一切なし。居直ったのか?と思える取り組み方が、歌を明るめに率直にした。どう考えたってこれは、作曲者水森英夫のやり方。地声を鍛えぬいてこそプロ...という持論の、実践編だろう。

 
小雪のひとりごと

小雪のひとりごと

作詞:滝川夏
作曲:宮下健治
唄:山口ひろみ

 いい味だったと記憶に残る『その名はこゆき』の続編。主人公の名が「小雪」と漢字に変わった。ススキノあたりの小娘が、不実な男に恋をして、待ったり泣いたりしている。山口の歌い口がいじらしげで、聴いてるこちらはそうかい、そうかい...の気分になる。

MC音楽センター

骨太の歌謡曲が聞きたいころだ

  演歌の歌詞のネタづまりのせいか、飽きが来た作曲家の気分転換か、近ごろ歌謡曲寄りの歌が目立つ。演歌そのものにも、スケールを求める気配があり、歌い手の力量が試されたりして、それなりに楽しい。 
 〝黄金の七〇年代〟は、歌謡曲が全盛だった。あれからもう四〇年もの年月が経つが、その豊かさへ回帰する傾向なら、大いに歓迎しよう。問題は詞である。個人的心情にめり込んで類型のままで久しいが、そろそろ時代を見据える視線と気概が、生きてきてもいいころだろう。

 
 母親と死別した友人に、慰めの詞を贈るーーそんな気障なことが出来る男とは思えなかった。作曲家杉本眞人に対する作詞家ちあき哲也の対応で、その詞がやがて大ヒット曲「吾亦紅」になったことは、よく知られる話。
 「それは、そうよ!」
 ずいぶん久しぶりに会ったちあきから、その間の事情を聞いた。実は平成の初めごろ、ちあき自身が母を見送っていて、しばらく喪失感から立ち直れない時期があった。母親の葬儀でボロボロになっている杉本を見て、ちあきはそんな時の自分の体験を伝えようとした。
 「しっかりして!」
 「がんばらなくちゃ!」
 なんて話法は到底とれないから、マザコンから自立する男のオハナシに仕立ててのこと。
 〽来月で俺、離婚するんだよ、そう、はじめて自分を生きる...
 という唐突なフレーズが、この歌のヘソになっている意味を、僕はヒットから7年後に、やっと得心した。そのうえでちあきはこの詞を
 〽髪に白髪が混じり始めても、俺、死ぬまであなたの子供...
 と結ぶ優しさを示す。杉本のマザコンぶりは、あの曲を歌う彼の、息づかいや心の昂り方から十分に聞き取れたが、ちあきもまた相当にそのタイプなんだ...と言ったら、相手はニコリともせずに、
 「そうよ、男ってみんなそうじゃないの!」
 と言い切ったものだ。
 ゴールデンウィークのすき間の4月30日、久しぶりに前夜から雨が降り続いた日の午後に、僕らが会ったのは渋谷にあるUSENのスタジオ。僕が長いことしゃべっている「昭和チャンネル・小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」という番組の録音だった。親しいつき合いの作詞家や作曲家、制作者をゲストに、かかわった作品25曲前後を聞きながら、その間のあれこれを語り合う。
 選曲こそあらかじめしておくが、話はコンテと関係なしに右往左往する。僕に言わせれば〝居酒屋放談〟で、その中で物創る人の生きざま、考え方、時代との向き合い方なんぞが、面白おかしく聞き出せたらいい。有線放送ならではの、5時間近い長尺ものである。
 アシスタントがチェウニで、日本での歌手活動が15年のこの人は、判っているようでまだ判っていないことが多々あるから、時おり突拍子もないことを言い出す。その脱線ぶりもついでに面白がるのも、右往左往の一つのネタ。作詞家の池田充男を呼んだ時など、
 「ねえ、そこまでしゃべらせるの、驚いた番組だね、これは...」
 などと呆れながら、ついに彼は
 「僕、とうとう裸にされちゃったねえ」
 と情けない顔になったものだ。
 「それにしても、よく来たねえ。業界の表面には絶対出てこないお前さんが」
 とちあきに言ったら、
 「だって、良太郎さんが呼んでるって言うから」
 と、彼は目をしばたたいた。そう言えば僕をこう呼ぶのは、日本中でこの人だけである。いとのりかずこという歌手に「女の旅路」という凄い歌を彼が書いて、僕を驚倒させたのが昭和46年、当時まだ大学生だった彼とは結局40年を超えるつき合いになるが、そのころから彼は、僕の勤め先のスポーツニッポンで僕の傍らにへばりつき、
 「良太郎さん、良太郎さん!」
 だった。
 ブレークしたのはそれから7年後、昭和53年の「飛んでイスタンブール」で、筒美京平のメロ先の作品。この地名の〝タン〟にあたる音符の動きに、はまる日本語が見つからず、この地名に決めて、あとはつけ足しであの詞が出来たとか。そのころ裏方に徹して表へ出ない覚悟を、似たタイプの筒美と申し合わせたそうな。
 独特の感性と破調の表現のこの作詞家は、歌世界の異端児である。何ごとによらずその世界の流れを変える才能は、異端から出発、実績を重ねてやがて本道を形づくる。歌謡界では船村徹、阿久悠、なかにし礼などがその例。しかしちあき哲也は「かもめの街」「ノラ」ほかの大ヒットを持ちながら、依然として異端を貫く稀有の存在。その分だけ彼との放談はとめどなく尽きぬ泉のようで、時間がまるで足りなかった。

週刊ミュージック・リポート

 
 3・11以後、東北の仮設住宅で暮らす熟年男女が60人余、バスで東京へやって来た。4月11日午後、東京駅八重洲口近くのヒット・スタジオ・トーキョー。高橋樺子という無名の歌手の発表会へ、お揃いのトレーナーを着ての応援行脚である。大震災のあと、数え切れないくらいの人々が、東北へ支援に出かけたが、今回はその逆のケース。歌手と被災者の仲をつないだのは「がんばれ援歌」という歌だ。
  〽友よ辛かろ 悲しかろ 今はふるさと泣いてても 心に春はきっと来る...
 「がんばれ援歌」を高橋が歌うと、上京組はステージに上がって、一緒に手を振り足を踏み、拳を突き上げて踊った。当初のおずおず気分はすぐ消えて、まるでお仲間の雰囲気。遠慮深げな東北人気質もハラさえ決まればなかなかの乗りで、満面の笑顔が温かい。それはそうだろう。高橋たちは震災直後の2011年4月17日には現地に駆けつけ、今年2月までに10回も被災地を回っている。救援物資を届ける旅が、被災者の好意で仮設住宅泊まり。出かける都度「お帰りなさい!」と迎えられる心の通い方...。
 〝直後〟と言えばこの歌そのものが、震災から10日後には出来上がった。言い出しっぺは関西在住の作詞家もず唱平で、仲間の荒木とよひさ、作曲家の岡千秋、三山敏が呼応した。もずに言わせれば〝共作 〟ではなく4人の〝合作〟で、その印税は全額復興支援のために無償で譲渡された。作品が生み出す利益を全部寄金。それもCD発売から作者の死後50年にわたる。「4人のうち一番若い岡千秋が、死んだあと50年...」「こんな試みは世界初」と、ジョークを飛ばしたのも、もずだ。それに高橋らの活動に賛同する、関西の人々の募金が加わる。
 高橋を僕は「かばこ」と呼ぶ。「樺子」は「はなこ」と読むのが正解だが、白樺の樺だからそれでいいか...の愛称で、もずの弟子。僕は今年3月、大阪新歌舞伎座の「松平健・川中美幸特別公演」に出演していたが、楽屋の自炊のおかずを、彼女と安田ゆうこマネジャーの差し入れで暮らす光栄に浴した。
 「こんなことがあっていいの!」
 と、同室の役者真砂皓太、園田裕久、それに下山田ひろのが驚嘆し恐縮した。期間中毎日、手を替え品を替えの心尽くしである。もずと僕の長い親交があってのことだが、高橋と「がんばれ援歌」を応援しているつもりが、逆に彼女らのボランティア支援!? を受ける形になってしまった。
 「かばこ」はえくぼ美人、暖かめのアルトで、技にこだわらぬ率直な歌唱が、人柄の良さをにじませる。それがこの作品にぴったりのうえに、被災者との合唱をリードする言動まで、ちょいとした〝歌のおねえさん〟ふう。被災した人々の心をなごませ、励ますにはうってつけのキャラだ。
 「うちの娘みてえな働きもんだ」
 「よく気がつくし、嫁にとりてえくらいだ」
 「あの歌は、おらたちの歌だよな」
 東京・八重洲のステージで、ここまでの印税の贈呈式をやり、高橋は「がんばれ援歌」のほかに「ドリナの橋」「もずが枯木で」「サラエボの薔薇」に「そんなに昔のことじゃない」を歌った。「そんなに...」は青春回想ソングだが、タイトルからも判るように大震災の痛手を風化させまいという、もずの思いが書き込まれていそうだ。
 東北の仮設住宅の人々60人余は、満ち足りた笑顔で帰って行った。バスで片道5時間、往復10時間の日帰りだったが、それを苦にしないたくましさがあった。
 高橋はもともと「石狩挽歌」を得意とする悲痛なまでにドラマチックな歌を目指す歌手だった。それがもずの感化か、平和への希求を歌うことを活動テーマにする歌手に転じた。平和を脅かすのは戦争に限らず、環境破壊、飢餓、病苦もあてはまる。この娘が「がんばれ援歌」を「生涯歌う」というゆえんだろう。
 もずは彼女を沖縄、サイパン、グアム、テニアンへの旅にも出している。戦争と歴史のあれこれを体験させる育て方の一端だろうか。

週刊ミュージック・リポート

 
 宅急便でドサッと、妙に重めの荷物が届いた。差し出し人はスポニチ広告部の某部長。
 「はて?」
 といぶかりながら封を切ったら、これが仲町浩二という歌手のチラシA4サイズ総天然色豪華版が数十枚だから驚いた。
 「あれって、あの川渕君でしょ?スポニチの広告に居ながら歌謡界にちょくちょく顔を出して、大の歌好きと知ってはいたけど、とうとう歌手にしちまったんだ...」
 と、まあ、このごろよく聞かれる。実はその通りでチラシのコピーによれば
 「平成の大競作!ほのぼの演歌の決定版〝孫が来る!〟」
 「シニアの星、仲町浩二61才の歌手デビュー」
 という騒ぎ。
 「孫が来る!」という、とてもいい作品があった。2004年に出した五木ひろしのアルバム「おんなの絵本」に収められた1曲。その年のレコード大賞・ベストアルバム賞を受賞したから、ま、一仕事終わっていたのを昨年...。
 「シングルカットもしなかった。あのままじゃもったいない。みんなでやりましょうよ」
 と、仁科達男から声がかかった。ひところ僕がプロデューサー、彼がディレクターで五木の歌づくりを手伝った仲。「孫が来る!」が作詞家池田充男の孫かわいさの実話で、岡千秋が作曲、五木が歌った時は嬉し泣きしたこともよく知っていた。
 「よおしッ!」
 と気合いが入った僕が岡千秋の歌でCD化、それに中村光春、船橋浩二なんておじさんたちが呼応して、にわかに競作のにぎわいになった。
 そこで思いついたのが仲町こと川渕浩二である。少年時代からの歌手志望。あちこち首を突っ込んでチャンスを狙っていたのを、
 「やめとけ、五木ひろしは二人もいらないんだ」
 と、僕が押し止めていた経緯がある。五木に心酔しきっていて、歌はうまいがまるでそっくりさんだった。
 その川渕も60才。めでたくスポニチを定年になったが、シニアスタッフ、つまり嘱託として週に何日かは働いている。二足のわらじをはかせても問題はなさそうだから、
「70才で舞台の役者を始めた奴もいるんだから、61才でデビューってのも悪くはないぞ!」
 と、我が身を引き合いに出して声を掛けたら、一も二もなく乗ったものだ。
 送られて来たチラシを改めて見れば、仲町浩二が笑顔で夢見るような目線を左上方に投げている。ピンク系のスタンドカラーのシャツに、襟が濃淡ブルー二色のジャケットと、いっぱしプロ仕様だ。池田・岡コンビをわずらわして、2月に門前仲町でやった発表会以後、江東区春のぶんか祭りだの、平和島ポート場だのをはじめ、実演スケジュールが盛り沢山、スポニチ、毎日は言うにおよばず、活字露出もにぎやかで、YouTubeにはアップするわ、プロモーションビデオは作るわ...。
 ふるさとって奴は、ありがたいものだ。5月の大阪、7月の北海道キャンペーンも含めて、スケジュールどりは全部スポニチの友人たちによるチラシだってスポニチを印刷している東日印刷が格安で引き受け、この会社の夏の花火鑑賞会にも呼んでくれるそうな。
 「孫が来る!」を歌うもう一人船橋浩二は、元はクラウンの一期生で、将来を嘱望されていた男。事情があってその後はマイナー暮らしだが、地元の名古屋、大阪を中心に頑張っている。相当な歌巧者なのへ、
 「二人浩二でひと働きしてみろよ」
 と提案したら即準備にかかった。スナック飛び入りの草の根キャンペーンだがこのご時勢、そうそう歓迎されるはずもない。そこを強引に押し開けて...となるから。
 《仲町も巷の歌現場で、地獄を見るかもな...》
 そんな中で何を学び、何を身につけるか、彼の第二の人生というか、老後というかは次第に緊張感を増して来よう。スポニチが根城にする門前仲町を芸名に背負って、踏ん張る仲町のバネになるのが古巣スポニチの仲間の友情なのが頼もしい。

週刊ミュージック・リポート
流氷波止場

流氷波止場

作詞:北多篠 忠
作曲:幸 耕平
唄:市川由紀乃

 歌が変わった。どちらかといえば〝静〟のこれまでに〝動〟のインパクトが加わっている。喜多條忠の詞、竜崎孝路の編曲もプラスに働いているが、幸耕平の曲の快い起伏と粘着力が、寄与するところ大と思う。
 前半の語る部分は、市川らしさを維持した。一番の歌詞一行めの最後「捨て〈た〉」の置き方とか、二行めの最後「オホーツ〈ク〉」の揺れ方に、情がにじむ。息づかい、それがサビ一行分で昂揚し、歌い納めの「流氷波止場」のめいっぱいの歌い放ち方に、悲痛の余韻が濃い。ラフな魅力で歌がうねった。楽曲に恵まれて二〇周年の進境である。

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あぁ竜飛崎

作詞:八嶋龍仙
作曲:村沢良介
唄:木原たけし

 歌がのびのびと、深い山々をわたる風のように響く。木原の民謡調の声味が、巧みに生かされている結果か。ことに「アカサタナ...」の母音に、ひなびた開放感があり「イキシチニ...」にあたる部分に、思いのたけが乗る。声と節で聞かせるタイプの歌手だろうが、歌詞の言葉ひとつひとつがしっかりと地に足ついていて、歌い流れないところがいい。律儀さが説得力につながっていようか。
 作曲・村沢良介が、いい仕事をしている。ワンコーラス七行の詞の六行分でメリハリを終え、最後の一行分のオマケが小気味いい。

龍飛埼灯台

龍飛埼灯台

作詞:西篠みゆき
作曲:吉幾三
唄:西尾夕紀

 吉幾三の曲には、彼〝らしさ〟の口調がある。それが歌い出しと歌い納めに顕著なメロディーを、西尾が彼女流に乗り切る。ことにサビあたり、細めの声をめいっぱいに使って、悲痛な女心を伝えた。この味、亡くなった新栄プロの西川幸男会長に聞かせたかった。

 
悲別~かなしべつ~

悲別~かなしべつ~

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美

 汽車と線路を小道具にした仁井谷俊也の詞に、弦哲也がいい展開の曲をつけた歌謡曲。川野の中・低音の声の響きが生きて、歌に物語性が生まれた。〝うまい歌〟というよりは〝いい歌〟寄りの仕上がり。川野も十五年生、元気ばかりが売りではない歌手に育った。

 
 窓のない部屋で、2ヵ月間も暮らした。外界から隔離されたそこは、劇場の楽屋で同居人が2人。2月の明治座は友人の真砂皓太と綿引大介、3月の大阪新歌舞伎座は真砂とベテラン俳優の園田裕久だった。朝9時半から夜の8時半まで、毎日11時間余を一緒に生活する。それ相応の広さの畳の部屋、それぞれの化粧台がキャリアのほどをしのばせ、中央にちゃぶ台とお茶のセット、楽屋見舞いで届けられた胡蝶蘭がひしめき合い、差し入れのおいしいものが山ほど―。
 日常生活とはかなりかけ離れた空間と空気である。そこで僕らは、相当な〝躁〟状態の時間を過ごす。相撲なら荒れる大阪場所、プロ野球に週末ごとの競馬、センバツ高校野球だと同郷の学校への肩入れと、とにかく心が動くものには片っぱしから反応し、声をあげる。僕はしばしばそんな〝楽屋〟を〝飯場〟に置き換えて冗談を言った。ひっきりなしに人が出入りする。衣裳係りや床山さん、共演の俳優や芝居を観に来てくれた知人、友人。それらとジョークをかわしながら、終演後の一杯の打ち合わせも...。
 出番が来るごとに、お仲間がふっと部屋を出る。その背中へ、
 「行ってらっしゃい!」
 と、残る側から声がかかる。ひと芝居終えて戻ってくれば、
 「お帰りなさい!」
 である。あれはまとも??な人間社会から、芝居という架空の世界へ行き来する人へのあいさつ、激励、慰労の合図だろうか? 2ヵ月続いた「松平健・川中美幸特別公演」で毎日繰り返された儀式。僕は松平主演の「暴れん坊将軍・夢永遠江戸惠方松」で小石川養生所の医師新出玄条をやり、川中主演の「赤穂の寒桜・大石りくの半生」では、赤穂藩の家老大野九郎兵衛をやった。寛延と元禄の時代への、タイムスリップだ。
 「花道ってのは、スター級の役者の顔見せの場かな」
 ベテラン俳優青山良彦から、酔余、そんな話を聞いた。役柄の扮装と所作で登場こそするが、観客はスターそのものに拍手をし、声をかける。実際に芝居そのものが始まるのは、書き割りや装置で飾られた本舞台に、スターが入った瞬間だとか。そう言えば将軍吉宗が姿を現すと「松平!」大石りくが出ると「川中!」の声が掛かった。花道と舞台が接する部分には、虚実を区切る目に見えないベールがあるということか。
 「何と不思議な、これは奇跡と言ってもいい!」
 と、感じ入ったのはダブル座長という初の試みで見せた松平・川中の親交ぶりである。一般論で言えば、スターというのは唯我独尊、徹底した自己中心主義者。そのうえお互いがライバルだから、表面こそ友好的でも舞台裏までそうとは限らない。昨年の1、2月が名古屋御園座、それに今回の2公演と、同じ演じ物で2人は共演した。寡黙な松平、終始明るめの川中の、どこかに食い違いや行き違いがあったら、舞台裏に隙間風が吹く。それが全く無かったから、劇場内外は真冬から春風駘蕩、裏方さんたちまでほほ笑み返しの往来になった。
 今年芸能生活40周年の松平は60才のへび年、対する川中は58才のひつじ年だが、ともに射手座のB型である。それやこれやでウマの合うめぐり合わせかも知れないが、共通しているのは人間の大きさ、懐ろの深さ。苦労人らしい目配り、気配りがすみずみまで行き届いて、お茶目な仕草ややりとりまでぴったり...である。芯に芸する者同志の敬意や好意、共感があってのことだろうか?
 僕の公私にわたる異次元体験は、大小入りまじって4ヵ月におよんだ。その夢見心地から帰還したのは4月1日、湘南葉山の自宅。眼前の海は陽光に輝き、対岸に富士、近くには漁船やレジャーボート、とんびにかもめが飛び交い、愛猫の風(ふう)は久しぶりの主人にすり寄り、のどを鳴らした。2月の大雪で遭難しかけたつれあいも風邪気味だが元気だ。
 嘘みたいな環境の激変の中で、僕は歌社会に生還した。これからしばらくは、二足のわらじの一足めに没頭するが、まだ夜毎に見る夢は、あの摩訶不思議な劇的世界のあれこれだったりする。

週刊ミュージック・リポート

 
 「あまなが来るってさ。連休の21日だ!」
 「昼の部の芝居を見て、午後は楽屋にいていいかって言ってる。すべてOKだとメールしといたけど...」
 大阪・新歌舞伎座の、僕らの楽屋がいろめき立っている。少し残念だが〝おじいちゃん〟と名指しされた僕、〝おとうさん〟は真砂皓太で〝お兄ちゃん〟が綿引大介。まるで家族みたいな親しいつき合いの役者たちを、興奮させているのは吉岡あまな18才。この春学習院大の仏文科に進学する女の子だ。
 真砂、綿引、僕の3人は、2月の明治座の楽屋で彼女と一緒に〝暮らした〟仲だ。「松平健・川中美幸特別公演」で、最初は僕の付き人だったが、聡明、利発で少し活発なあまなは、大の男3人をあっさり虜にしてしまった。楽屋の掃除から始めて、3人の食事の世話、来客の接待など実にまめまめしい。部屋へやって来る床山さん、お衣装さんともすぐに親しくなり、その仕事ぶりを観察、一部を見習って手伝い、楽屋見舞いで貰った胡蝶蘭の配置までデザイン!? する。
 真砂が下世話に社交的な人だから、仲間の役者たちがよく顔を出す。殺陣の西山清孝を筆頭に、安藤一人、小林茂樹、丹羽貞仁らが常連だが、あまな人気でその回数が増えた。真砂に貰った松平の名入りジャンパーや、川中の公演名入りTシャツを着込んで、あまなは楽屋廊下を往来する。役者仲間への伝言、頭取部屋前へ来客の出迎え、出前の注文や食器の整理...雑用を何でもこなす甲斐々々しさで、あっという間に舞台裏のアイドルだ。
 松平主演の「暴れん坊将軍」の真砂の役は、尾張藩主の実弟徳川通温。それがどんな男なのか? と興味を持てば、スマホをちかちか操って答えを出す。のぞき込む真砂相手に通温をめぐる家系図まで作ってみせた。その挙句ついには、僕ら3人の衣装替えの時間や出のきっかけまで、ニコニコ合図する。いつの間にか僕らは、あまなのキューで動くようになってしまった。
 2月の東京は2度も大雪に見舞われた。都心でも歩行困難の積雪で、交通機関も乱れに乱れた。遠路の出演者が楽屋泊まりを強いられた日々。それでもあまなは赤い頬にマスクをかけて、午前9時半にはちゃんと楽屋入りした。休めと言っても休まない。
 「今どき珍しいくらい、穏やかなしっかり者で、心身ともにタフだ。俺たち世代から見れば、理想的な娘だな」
 「家での教育やしつけがきちんとしてるんだろうね」
 「いい環境で育ったことが、言葉遣いや行動にはっきり出ているなあ」
 中年から熟年の男どもが絶賛した一カ月。明治座の千秋楽には、荷物の段ボール箱詰めまでやってのけた。一カ月の楽屋ぐらしだと、びっくりするくらいの生活用品がたまる。それを区分けし、作ったリストとともに大阪へ。今回の公演は明治座から新歌舞伎座へ、引き続き移動したためだ。
 果たして大阪で、僕らは〝あまなの不在〟に大いに戸惑った。真砂と僕、それに園田裕久が綿引と入れ替わった3人の楽屋。事あるごとに、
 「あまなが居たら...」
 「あまなだったら...」
 で、綿引が遊びに来る都度、
 「あまなちゃんは...」
 が口癖だ。その穴を埋めてくれたのは、出演者の一人下山田ひろので、この人は東宝現代劇75人の会の僕の年下の大先輩。部屋をのぞいた川中美幸が、
 「今度は、この人が介護してくれてるのね」
 とジョークをとばした。
 吉岡あまな18才、実を言えばこの子は、亡くなった作詞家吉岡治の孫娘である。そうタネ明かしをすると、大ていの人は眼が点になった。吉岡夫妻はともに演劇好き、それに連れられて彼女は、あちこちの楽屋も見聞したらしい。昨今はミュージカルの台本を書いているというから、血は争えないもの。是非...という孫娘の希望が、吉岡夫人から親交のある僕に伝えられての、明治座一カ月だった。
 そのあまなが、大阪へやって来る。園田も含めて僕ら4人は今からそわそわしている。ホテルも劇場チケットも手配した。一日だけだが、新歌舞伎座の僕らの楽屋は、きっと〝あまな色〟に染まるだろう。

週刊ミュージック・リポート


 《たびたびの嵐、地震、大水と、この国の民百姓は疲弊しきっております》
 《昨年の大雨、浅間山の噴火の始末もいまだしと申すのに!》
 時代劇のセリフだが、これを3月11日の午後に聞くと、大津波、原発事故の東北の惨状、遅々として進まぬ復旧、復興などに思いがつながる。あれから3年、この日は全国の人々が、追悼と共助、共生への心をひとつにしていた。
 3月の大阪新歌舞伎座「松平健・川中美幸特別公演」のうち、松平が主演する「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」に参加していての体験。脚本の齋藤雅文、演出の水谷幹夫は、
 「徹底して痛快時代劇。武士は武士らしく、町人は町人らしく、旅芸人は旅芸人らしく!」
 と、稽古から作品の狙いを絞り込んではいた。松平が八代将軍徳川吉宗、時に旗本徳田新之助として活躍するおなじみのストーリー。テレビの長寿人気シリーズの舞台化で、今回吉宗が成敗するのは、積年の遺恨を抱える尾張藩・徳川通温(真砂皓太)を中心にしたクーデター計画だ。
 共演するもう一人の座長川中美幸は、吉宗の幼なじみで、旅芸人の一座を率いるお駒。相思相愛の仲を騒動で裂かれ、一時は敵味方の間柄になる。クーデター派に加わるのは、愛する紀伊頼識を弟の吉宗に毒殺されたと信じて疑わぬ菊の方(土田早苗)の私怨。一派を陰であやつる老中久世和泉守には青山良彦、吉宗の腹心・江戸町奉行大岡忠相に笠原章、側近田野倉孫兵衛に穂積隆信、火消しの頭・め組の辰五郎には園田裕久ら、ベテランが顔を揃える。
 呼び物は松平が長めの太刀の峰討ちで、反吉宗派の面々や忍者、地回りの悪などを薙ぎ倒す殺陣。その迫力とスピードは、熟練の斬られ役たちも圧倒する。川中が「日本一!」と嘆声をもらすそんな魅力を、演出するのは名うての殺陣師谷明憲。
 ついでに書けば僕の役は、吉宗の主唱で作られた薬草の園小石川養生所の医師新出玄条だが、残念ながら立ち回りはなし。どうやら年齢制限で除外されたらしい。
 いずれにしろこの舞台、威風堂々・松平の存在感を中心に、血湧き肉躍るタイプだが、よく聞けば意味深なセリフが多く出て来る。
 例えば三代の将軍に仕えた老中・久世和泉守の「さまざまなご改革、そのご性急さもあいまって、人心はとみに上様より離れはじめておるやに...」「幕閣も諸侯もおのれの保身しか頭にない。このような穢土を誰が望んだというのだ...」
 「どのような清水も、溜れば腐る。一度焼き払わねば、所詮何も変わらぬのだ...」
 という絶望と背信。それを叱責する吉宗の
 「なにゆえ悪あがきをせぬ。我らは死ぬまで、いや死んでも悪あがきをして、この世をよりよく変えていかねばならぬのだ。百年先、二百年先に生きる、子どもたちのことを考えたことがあるのか!」
 このあたりは、わたり合う松平健と青山良彦の熱気が、もう一つの見せ場を作っている。
 現実に戻れば安倍内閣の景気浮揚策で、大手企業の春闘が、久しぶりに大幅ベースアップになった。しかし、中小企業がそれに足並みを揃えられるはずもなく、世界も庶民もアベノミクスとやらにはまだ半信半疑。為政者たちは鐘や太鼓の大騒ぎだが、手放しで浮かれた気分にはなれない。内憂外患、右傾化と不安のタネは山盛りで、この芝居を初演した昨年一、二月に比べれば、うわべが多少変わってきた程度だ。
 出演者の一人の僕があげつらうのも恐縮だが、商業演劇、娯楽性最優先のこの種の作品からも、こういう時代へのかかわり合いは嗅ぎ取ることが出来る。物創る人の、一寸の虫の五分の魂、反骨の表れだろうか。松平健のエンタテインメント志向は理屈抜きで限りなくパワフルだが、お楽しみの奥はこれでなかなかに深いのだ。
 今公演二代目が頑張っているのも楽しいことの一つ。一人は大川橋蔵の次男丹羽貞仁、もう一人は勝新太郎・中村玉緒の長男鴈龍である。

週刊ミュージック・リポート
桜橋

桜橋

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:西方裕之

 瀬戸内かおるの詞、岸本健介の曲、夏木綾子の歌と来れば、おなじみ家内工業ふうな歌づくり。♪決めた人です この人と生きる...を決め言葉に、ゆったりほのぼの演歌が出来上がった。夏木の声味にそれなりのキャリアが生きて、生活感が増している。

 
 「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」と、花京院しのぶに作った歌は3曲である。シングルが2枚で、残る1曲は「流れて津軽」のリメイク。その3曲がいっぺんに、カラオケ大会に並ぶのだから豪勢だった。十一月十五日、山形・天童温泉の舞鶴荘で開かれた「佐藤千夜子杯歌謡祭2009」でのこと。タイトルの佐藤はこの地が生んだ往年のスターで「東京行進曲」「ゴンドラの唄」「紅屋の娘」などのヒットを持ち、デビュー曲「波浮の港」をレコーディングしたのは昭和三年――。
 花京院の歌は3曲とも、難曲の部類に入る。高音を主に音域の広い民謡調。新人用としては厄介な代物だったが、それを歌いこなす力量が、彼女にはあった。だからビクターのアサクラともども、秘かに狙ったのはカラオケ上級者御用達。成世昌平の「はぐれコキリコ」の〝次!〟だった。決して若くはない無名の歌手で、金もないし有力プロダクションの後押しもない。それならば...と、本人はともかく、楽曲が生き延びていくことを念じたのは、いわば逆転の発想だった。
 昔々、キング芸能に居て、大月みやこのデビューまでを手がけた島津晃氏の持ち駒である。仙台の花京院(という地名がある)で見つけ〝女三橋美智也〟に育てようとした。津軽三味線の立ち弾きもやるのは、その夢の実現への手がかり。地元仙台で二十年余の草の根活動のあとに、
 「そろそろ何とかしてよ、俺ももう年で、先が長くないから」
 という島津さんともども、僕を再び訪ねて来たのは十年以上前のことだった。島津さんはもともと岡晴夫の前歌を歌い、後にマネジャーに転じたキャリアを持つ。戦後歌謡史の生き字引、僕は昭和三十八年に音楽記者になって以後いろいろと教えてもらった。地元仙台での花京院の地盤づくりをすすめたのも、実は僕だった。
 そんな行きがかりと意味あいを持つのが「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」の3曲である。それを東北ののど自慢たちが、それぞれの声と節回しで歌った。3曲ともカラオケ大会で多く歌われてはいるが、勢揃いにでっくわしたのは初めてである。島津さんと花京院の、いまだ孤立無援の草の根活動が、ここまでこの楽曲を育てたのかと思うと、審査員席で感無量になる。
 それにしても天童のカラオケ大会、お前さんもよく行くねえ...と、肩をすくめる向きもあろう。僕だってそう思うのだが、地方の催しに参加するのはこれ一つくらいである。というのも実行委員長の矢吹海慶氏が僧侶、事務局長の福田信子さんが主婦なのをはじめ、企画、制作から当日の運営まで、スタッフ全員が熟年のボランティア。文字どおりの手づくりで、不器用だが誠心誠意、あちこちに頭や足をぶつけて、コブやアザだらけになりながらイベントを育てて来た。今年が9回めで、審査員を困らせるほどの歌巧者が揃う。大会が認知され、参加する人たちの地域が広がったせいで、天童活性化の願いも実りつつある。
 山形といえば、僕らのつき合いでは「大臣」である。そのニックネームを持つ木村尚武プロデューサーは、審査員としてはもちろんの参加だが、乞われてゲスト歌手も提供している。お抱えの大泉逸郎も出たし、今回は浜博也と柳ジュンが登場した。「新宿二丁目・迷い道」で熟女ファンの追っかけを持つ浜は、この日も盛んな声援を浴びて、その実力!?のほどを示す。柳は北海道・旭川の冬をテーマにした「夢去りぬ街」で年期の歌声を聞かせた。大臣のプロダクションの面白いところは、そんな歌手たちがみんな、地元の山形出身であるこだわり方だろうか。
 そして、花京院しのぶもこの日ゲストで招かれていて、問題の3曲をたて続けに歌った。そのステージのあとさきには、会場ロビーでCDの即売。
 「お陰さまで、だいぶ売れました、アハハハ...」
 と、実に何とも屈託のない明るさで、これも審査で居合わせた、アサクラをホッとさせたりしたものである。

週刊ミュージック・リポート
男の酒場

男の酒場

作詞:円香乃
作曲:新井利昌
唄:瀬川瑛子

 瀬川本人の母への思いを歌にした実話ソングとか。意を体した詞を円香乃が書き、恩師の新井利昌が曲をつけた。元気なころの母親と、似た年かっこうになってこそ...の思い当たりに、女性の心は揺れるのだろう。瀬川のもごもご歌唱が、とても暖かくて優しい。

 
 
あなたのせいよ

あなたのせいよ

作詞:麻こよみ
作曲:鈴木淳
唄:椎名佐千子

 ほほう、その手で来ますか!と作曲者鈴木淳の笑顔を思い浮かべた。一時代を作った歌謡曲作曲家が、往時を思い起こしたろう曲を、愛弟子の椎名に歌わせている。歌声の艶の作り方と、語尾の揺らせ方が、伊東ゆかり系で、このタイプ、案外穴馬券かも知れない。

風泣き岬

風泣き岬

作詞:伊藤美和
作曲:徳久広司
唄:花咲ゆき美

 ワンコーラス九行の伊藤美和の詞を、長いと感じさせないメリハリで、徳久広司が3連の曲にした。大きめになるタイプの作品だが、川村栄二の編曲がスマートで、花咲の歌も歌い回すよりは詰め寄る形に抑え気味。久々に〝3連の徳さん〟の面目躍如である。

もう一度恋をしながら

もう一度恋をしながら

作詞:荒木としひさ
作曲:杉本眞人
唄:神野美伽

 荒木とよひさの詞に杉本眞人の曲で、神野が歌謡曲を離れた。心得顔の矢野立美のアレンジも手伝って、フォークふうな語り口の歌である。熟年夫婦の夢よふたたびソングだが、神野が演歌的虚飾を排して歌った分だけ、妙に本音っぽく聞こえるのがおもしろい。

愛染桜

愛染桜

作詞:さくらちさと
作曲:鈴木キサブロー
唄:あさみちゆき

 嫁ぐ日を前にした娘が、亡くなった(らしい)兄の教えを思い返している。もの静かなさくらちさとの詞の、桜の花が舞うさまを、ひところの歌謡曲書き鈴木キサブローが曲に乗せた。そのうねり気味の曲を、あさみが彼女流に歌って、一風変わった歌が出来上がった。

MC音楽センター

殻を打ち破れ143回

 演歌の"決め手"は歌いだしの歌詞の2行分、そこですべてが決まる! この原則は大ベテランの藤田まさと、師匠の星野哲郎、親交のあった吉岡治らの仕事から、骨身にしみるほど学んだ。「歌詞」を「歌の文句」と呼んだ昔々から、大勢の詩人たちもそこに知恵をしぼった。いい文句には必ず、いいメロディーがついて来る。それを目安にここのところの新曲を聴いていたら――、

 ♪涙買いましょう 外は凍(しば)れる 人の涙が 雪になる...

 というのに出っくわした。大石まどかが歌う『居酒屋「津軽」』という作品。何?涙を売り買いするのか?と意表を衝かれて聴き進んだら、酒場の女将が客から、笑顔で受け取る酒代をそう表現していると判った。作詞者は内藤綾子、この人のこだわり方はなかなかなもので、二番の頭が、

 ♪愚痴も買いましょう 吹雪止むまで 荒れた心じゃ 明日がない...

 と、時化を嘆く女房を持つ相手を思いやり、三番では

 ♪釣銭は出しません 全部貰わにゃ あんた 涙を 持ち帰る...

 とまで言い切るのだ。どうやら「津軽」という名の居酒屋は涙の吹きだまり。心が折れた荒くれ漁師相手に「じょっぱり女」を自称する女将は、おふくろみたいな抱擁力を示す。

 寡聞にして内藤綾子という作詞家を知らなかった。しかし、この一編が、単なる思いつきではなく、あれこれ考えあぐね、書いては捨て書いては捨ての、努力の成果だろうことは想像に難くない。酒場のママと客、舞台は雪国というのは、よくある設定。大ていは過去を持つ男が、感慨を女の面影に重ねるか、その逆に女が男にすがり気味というのが相場だ。それを色恋ぬきの、もう一つの物語に仕立て直した着想と、詰めの粘着力には感じ入る。

 勝負の"歌い出し2行分"というのは、都々逸に似ているかも知れない。含みのある表現が、きれいに決まると「よッ!いいねぇ」と手を叩きたくなるあの間合いだ。意表を衝いて「ン?」の気分にさせて、おしまいをきれいに落とし込む手口もある。「涙の売り買い」のあざとさギリギリの危ない橋を、うまく渡りおわしたこの人の仕事にも、通じる気がする。

 作曲した西つよしの頭2行分のメロディーの納め方にも、似たようなことを思った。南郷達也のイントロは、エレキギターを使った北の海の荒れ方で、歌を発端からあおる。大石まどかの歌は、べたつかずこざっぱりと、女将の気っ風のよさと優しさを説得力のあるものにした。こういう作品がヒットすれば、演歌も少しは景色が変わるだろう。

 僕は2月、東京・明治座の「松平健・川中美幸特別公演」に出演している。終演後はお仲間役者との反省会!?のほろ酔いで、鼻唄など歌いながら宿舎へ帰る。

 ♪口紅が濃すぎたかしら 着物にすればよかったかしら...

 は、星野哲郎の『女の港』

 ♪くもりガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか...

 は、吉岡治の『さざんかの宿』である。

月刊ソングブック

殻を打ち破れ142回

 「いいか、平成初の大競作だぞ!」

 「ココロは"おじさんたちの反撃"だ!」

 「いい作品、みんなで歌えば怖くないってか!」

 去年の夏ごろから、ずっとそんなことを口走って来た。池田充男作詞、岡千秋作曲の『孫が来る!』という歌を、まず岡千秋が歌い、中村光春、船橋浩二、仲町浩二なんて歌い手が、さみだれ式にリリースした。熟年ファンに「いい歌だね」と好評で、カラオケで歌われる頻度がそれこそウナギのぼり!?

 十年ほど前に作った楽曲である。五木ひろしの『おんなの絵本』というアルバムの一曲。その年五木はレコード大賞のアルバム大賞を受賞したが、この曲はシングルカットしないままだった。それが「評判いいよ」「もったいないよ」「孫を持つおじおばが泣くんだから」の巷の声で、息を吹き返した。

 ♪花なら野道のタンポポか それとも真赤なチューリップ...

 そんな例えがぴったりの幼い女児二人が、四国から飛行機でやって来る。羽田に迎えに出たおじいちゃんは、もともと駆け落ちみたいに所帯を持った人。それを真似るみたいに、一人娘が四国へ走り、生まれた女児が孫である。土くれだった春を連れて、やって来る姉妹に、おじいちゃんは目を細める。正月、彼女たちを一年待っていた心が躍る...。

 これ、作詞家池田充男の実話である。五木のアルバム用の詞を頼んだ時、雑談でこの件が出て来た。あれは年の瀬。「正月はどうしてるの?」と聞いた僕に、話し始めた池田はめっぽういい笑顔だった。

 「いい話だなぁ。池田さん、それをそっくりそのまま、歌にしようよ」

 即座に事は決まった。こんなふうに生まれる歌もあるのだ。

 それから十年余、孫たちはすっかり娘らしく成長したが、池田の慈愛は変わることがない。

 「いいね、いいね」

 作曲した岡が一も二もなくレコーディング、無名のおじさんたちがそれに続いた。船橋は昔、日本クラウン発足のころに将来を嘱望された歌手だが、今は名古屋、大阪界わいで歌っている。中村は三重のカラオケ上手。仲町はスポーツニッポン新聞社の僕の後輩だが、定年を迎えて永年の夢を果たした。それぞれに、語れば長い半生があり、それが滋味として歌に出る。素材が素材だからことさらだ。

 流行歌はいつの時代も、若い人たちがリードする。カラオケは着飾った熟女たちがケンを競う。それはそれでいいとして、どっこいおじさんたちだって、日ごろ鍛えたノドで勝負してもいいではないか!『矢切の渡し』をはじめとして、昔は競作が盛んだったが、近ごろはとんとそんな噂は聞かない。それならこの辺で、ひと踏んばりしてみるか!

 ♪来てよし可愛いお宝を 帰ってよしとも言うけれど(中略)うるさいことはしあわせだ...

 と、池田の実感そのままに、"外孫"を持つおじおば全員集合である。後続の吹き込み志願もまだ一つ二つ。われと思わん希望者は大いに歓迎!である。

月刊ソングブック

 
 「さぁラスタチだ。行こうか!」
 明治座の楽屋23号室を、三人の男が後にする。尾張藩の実弟・徳川通温(みちまさ)に扮する真砂皓太と、大名、武士、捕方など一人何役もこなす綿引大介、それに小石川療養所の医師の新出玄条役の僕。親しく長い友だちつき合いで、楽屋は和気あいあいだが、打ち揃って舞台下手へ向かう通路では、それぞれが次第に役の顔になっていく。
 「ラスタチ」は「ラスト立ち回り」の略。この劇場の2月「松平健・川中美幸特別公演」のうち、松平が主演する「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」(脚本齋藤雅文、演出水谷幹夫)の大詰めの乱闘シーンを指す。幕府転覆を目論む面々が密会する清涼院へ、旗本徳田新之助、実は八代将軍徳川吉宗の松平が突入する。川中が演じる人質の旅芸人で、幼なじみのお駒を救出した挙句の大立ち回り。真砂の通温は、将軍の座を奪われた尾張藩積年の遺恨からクーデターを主導する大敵(おおがたき)で、最大の敵役を芝居ではこう呼ぶ。
 殺到する殺陣勢の中央で、松平・新之助がギラリと刀身を背に切り替える。テレビの「暴れん坊将軍」でおなじみだが、この主人公は必ず相手を峰打ち、決して人を殺さないのがこのシリーズの人気の秘密の一つだ。打ちかかる面々は、長年東映時代劇を支えて来た剣会のベテラン西山清孝と田井克幸に、名うての殺陣師谷明憲が率る剣友会の小西剛、荒川秀史、橋本隆志、白国与和、大迫英喜、林直生が中心。それに小林茂樹、安藤一人、瀬野和紀らが加わる。
 乱闘と言うのは、文章にしにくいものだ。大柄な松平が身長に合わせた専用の長めの刀で、不穏分子をなぎ倒す。そこに「御用だ、御用だ!」と笠原章扮する江戸町奉行・大岡忠相指揮の捕方たちまでが入れ乱れる。僕と同室の綿引は、着物を二枚重ね着をし、足袋も白と黒の重ね履き。クーデター派の武士として松平に倒されると、早替えで捕方に変身するせいで、似たように忙しい役者が何人もいる。
 いわば肉弾戦である。雄叫びと呻き声がこだまし、松平に殺到する刀、槍、棒の林。その一人々々をはね返し、打ち倒して、松平の剣さばきは目にも止まらぬスピードと鮮やかさ、激しさ。熟練の剣士と腕利きの斬られ役が、けいこで練り上げた手順で交錯するのだ。共演の川中が「日本一!」と絶賛するシーンだが、やっつけられる方はゼイゼイ息が上がりそうになりながら、舞台そでで武器を持ち替えてまた乱闘へ戻って行く─。
 「ラスタチ」の最後は、大敵の真砂が松平に成敗されるシーン。花道で切り結んだ真砂が舞台中央へ逃れ、絶叫とともに打ち掛かるのを、松平が大刀一閃、胴を払い、のめり込む背へ懲悪のもう一太刀、悲鳴をあげた真砂は膝から崩れ落ち、高くあげた左手をふるわせながら倒れ込む。それを尻目に舞台中央で、松平が決めのポーズを取ると、盛大な拍手の中で緞帳がゆっくり降りていく良い場面。今年、芸能生活40周年の松平と、腹心である真砂はそのうち32年をともに過ごしたいわば師弟。善悪二色に分かれたが、二人揃っての決定的な見せ場である。
 《それにしても...》
 と驚嘆するのは、乱闘を終えた松平が息も切らさぬタフさ。劇場内に響くくらいの音で、二太刀加えられた真砂は、8秒前後の断末魔のあと、俄かには立ち上げれぬくらいの消耗ぶりだ。その間の二人の戦いを、舞台そでで注視するのは殺陣のボス西山。衣装の黒装束のままで、座長の殺陣の万一の不測の事態に備える身構えに見てとれた。 その西山は72才。現役最古参の殺陣の達人だが、驚くべきことに、松平のショー「唄う絵草紙」では、あの金キラキンの衣装で「マツケンサンバ2」を踊り、9分近い長尺の「マツケンサンバ4」でもサンバ棒を振り、サンバステップを踏む。息子みたいな若者たちに混じっての奮闘で、よく見れば剣友会の面々も天晴れなダンサーぶりを示して和洋両戦。「暴れん坊将軍」は痛快時代劇として人気を高めるが、彼ら無名の剣士たちがしっかりと、その下支えをしていると合点がいった。

週刊ミュージック・リポート

 
 「あらっ?」
 楽屋入り口で振り向いた川中美幸は、満面の笑みでスター歌手の顔になっていた。ということは─、
 「どうも、どうも...」
 と、小腰かがめた僕は、老いた音楽評判屋の顔になっていたろうか?
 「統領、今日、あっちの方は?」
 居合わせた業界人が、判っているくせに、軽口を叩く。明治座2月の「松平健・川中美幸特別公演」は、13日のこの日が休演日で、僕らはテイチクエンタテインメント創立80周年記念コンサート「テイチクアワー~百歌繚乱」二日目の、中野サンプラザホールに居た。
 午後5時の開演だが、40分近く早めに客席に着くと、場内にはこの会社のお宝のヒット曲が、ひきも切らずに流れていた。例えば田端義夫の「かえり船」だが、国敗れて山河ありの昭和21年、外地から引き揚げた兵士たちがみな、これを聞いて泣いた。そんな時代色を悲壮感とともに覚えていた僕は、軽めのひょうひょうとした味に少し驚いたりする。僕を戦後の歌謡少年にタイムスリップさせるのは、ほかに「君忘れじのブルース」「星の流れに」「カスバの女」それに「ふるさとの燈台」...。
 テイチク所属の演歌、歌謡曲勢総出のイベント、それぞれのヒット曲と往年のヒット曲がずらりと並ぶ。聞く側はどうしても、各人の青春時代と流行歌のかかわり合いに、感慨を深くする形になる。「かえり船」は茨城の田舎で、そのころはやりの素人のど自慢大会によく出て来た。復員したばかりのインパール作戦の生き残りが、自棄みたいな怒号で歌っていたものだ。
 この夜のトリで菅原都々子が、とても80代とは思えぬ彼女節で歌ったのが「月がとっても青いから」で、昭和30年、僕は急性脊髄炎を発病、担ぎ込まれた国立霞ヶ浦病院で覚えた。高校3年の卒業直前、付属看護学校にいた一才年上の看護師研修生に一目惚れ、プラトニックラブ(もはや死語か!)の見本みたいな恋をしての胸キュン・ソング第1号である。
 三波春夫の「チャンチキおけさ」には、屋台のおでんの匂いがついて回る。何はともあれ東京で...と、スポーツニッポン新聞社のボーヤの職にありつき、先輩記者に愚痴と一緒におごってもらった酒のつまみだ。「東京五輪音頭」は、オリンピック前年の昭和38年、紙面充実人事の片すみで、スポニチの取材記者に取り立てられた思い出がまつわる。僕の流行歌評判屋のキャリアは、ここから始まった。「ふるさと燈台」はそんな駆け出し時代、国際劇場で田端をナマで聞き、傑作だ! とばかり興奮して、サインをねだったら、
 「お前さん、本当に記者なのか?」
 と、田端を不審顔にした記憶がある。それが後年、亡くなった彼を送る会を取り仕切るのだから縁は異なものだ。
 山本譲二とは、昔、高樹町にあった「どらねこ」というスナックですれ違った。弾き語りと酔客の縁。彼の「みちのくひとり旅」は、三井健生が必死の宣伝マンぶりで、他人事ならずと後押しをした。川中の「ふたり酒」には、悪ノリし損なった悔いがある。当時、悲痛なまでにドラマチックな歌を追い求めていて、その対極の〝しあわせ演歌〟を見落としたのだ。この夜、特別ゲストの杉良太郎とは、彼のブレーク前から〝良太郎同志〟のよしみがある。すぎもとまさとの「吾亦紅」は悪ノリ成功を自認しているが、彼の歌もツボを抑えて、泣かせた。
 テイチクは昭和9年に発足した帝国蓄音機株式会社が改称した会社。僕は南口重治社長から現在の石橋誠一社長まで、歴代の社長の知遇を得ている。
 《それにしても...》
 と残念な気がしたのは、南口社長にお尻を叩かれてプロデュースした「舟唄」や「雨の慕情」が出て来なかったこと。後者はレコード大賞受賞曲だが、その直後、八代亜紀チームが社長の勘気を被って他社へ転出した。人間関係のもつれがこの会社の実績に影を落とす怖さを実感する。
 さて一夜明ければ14日の明治座、川中は公演を代表する女優の顔に戻っていよう。僕も心して舞台を務めねばなるまい。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ141回

 渋谷界わいでの仕事帰り、時おりガード下の居酒屋へ寄る。芋煮とせいさい漬けがそこにあるせいだ。本場は山形。晩秋に天童へ通って10年、すっかりそのトリコになっている。

 食い物と土地の酒にひかれてばかりでは、関係者に失礼に当たろう。年に一度、佐藤千夜子杯歌謡祭という催しの、審査を頼まれての一泊二日である。佐藤は地元出身の歌手で、日本のレコード歌手第一号。『波浮の港』『ゴンドラの唄』『紅屋の娘』などのヒット曲を持つ。歌謡祭はその業績を顕彰するものだ。

 東北は歌どころでもある。11月17日、天童の舞鶴荘という温泉ホテルには、100名を越すのど自慢が集まった。決選に残るのは10名。今年は『悠久の男』の松本宏之と『相馬恋唄』の鍬野邦男が優勝のつば競り合い。双方とも「うまい歌」のうえに「いい歌」の味があった。

 ≪ン?≫

 当方のアンテナに引っかかったのはゲスト歌手。チャン・ウンスクのセクシーさとは対照的に『三年め』を歌った奥山えいじの"北の味"である。昭和テイストの屋台酒・望郷演歌。昔なら流しのギター弾きにうってつけのタイプを、響きのいい高音しならせて、なかなかの歌唱。昭和演歌を満喫して育った元歌謡少年の僕は、往時を思い返してしみじみと、いい気分になった。

 「誰? どんな人?」

 審査席が隣りの"ダイジン"木村尚武氏に聞く。日本テレビの人気番組「スターに挑戦」をプロデュースした人で、大泉逸郎の育ての親。大臣もやった大物政治家の息子だから、そんな愛称を持つ。親子代々山形の人で愛郷心の塊。それが、

 「いいだろ? ずっと面倒を見ているんだ」

 と、我が意を得たりの笑顔を崩した。

 奥山には「みちのく田畑(でんぱた)の星」のキャッチフレーズがつく。1986年、山形県歌謡選手権大会の優勝が、この道のスタートというから、もう30年近いキャリア。『走れ魚トラ東北道』『お酒がしみる』をリリース、『楽天イーグルスGO!GO!GO!』や、みちのくYOSAKOIまつりの応援歌『乱舞』などで、地域に貢献してもいる。

 天童の歌謡祭には例年、後夜祭というのがある。矢吹海慶和尚がボスの実行委員会のメンバーやYBC山形放送のスタッフ、僕ら審査員に出場者有志、地元カラオケ団体の面々などの酒席である。万事手づくりのイベントらしい和気あいあいの席を、気づけば奥山がお酌をして回っている。歌声もルックスも若々しい彼の如才ない振舞いに透けて見えるのは、昔々からの農村の酒盛りの風景だ。しかし、この無名の歌手には、下積みの卑屈さや媚びはない。

 聞けば歌手活動に合わせて、大がかりな農業に従事しているという。夢はもちろんメジャーで大ブレークだろうが、生活がしっかり大地に根をおろしていて、それが彼の歌心とプライドを支えているのだ!

 ≪文字通りの"職業歌手"だな。こういう生き方もご時世ふうで、いい...≫

 芋煮、せいさい漬け、天童の人々との親交に、奥山えいじの歌が、僕の天童詣での楽しみに加わった年である。

月刊ソングブック

 
 この年齢になって、自分自身が四つの人格に分裂するという、初めての体験をした。流行歌評判屋の僕、二月の明治座でやる赤穂藩の幹部大野九郎兵衛と医師の玄条、それに別公演でやるはずだったレコード・プロデューサー役という四人前。一月二十九日午後、田町のアーチストジャパンのけいこ場での話だ。
 粛々と進むのは「恋文・星野哲郎物語」(脚本岡本さとる、演出菅原道則)の通しげいこだ。二月五日から七日間十公演、三越劇場で上演される芝居で、なごやかな中にも緊張感の漂う雰囲気。平成二十三年の六月、名古屋御園座でやったものの再演で、当時僕は馬渕玄三氏と斎藤昇氏を足して一つにしたようなプロデューサー役で出演した。それが今回は、同じ二月の明治座、松平健・川中美幸公演とかち合って、残念ながら不参加の仕儀─。
 それなのに、明治座の衣装合わせ、楽屋づくりの後、のこのこと出ない芝居のけいこ場に出かけたのは、この公演の「アドバイザー」とクレジットされていてのこと。ま、ものがもので、僕は星野哲郎の専門家を自任していての起用だが、時折りスタッフからけいこの日程表が届くのは、
 「一度くらい、顔を出したら...」
 の意味と受け取った。プロデューサーの岡本多鶴氏や演出の菅原氏に、不義理を詫びる必要もあった。
 星野哲郎役は前回同様に辰巳琢郎。穏やかでしみじみとしたお人柄演技が、ありし日の星野を偲ばせて生き生きとしている。朱美夫人役は野村真美に代わったが、こちらも星野への愛情に満ち、内助を尽くした賢夫人ぶりは控えめに、すがすがしいたたずまいだ。この二人が若いころ、二年間に三百通も交わした恋文を軸に、昭和のよき時代の夫婦愛と、星野のサクセススートーリーが展開する。
 「どうしちゃったのよ。一緒だとばかり思っていたのに、寂しいじゃない」
 前回共演した髙汐巴がそう言い、モト冬樹、つまみ枝豆、上田祐華に振り付けのKAZOOらの笑顔に、お久しぶりのあいさつをする。劇中に流れるのが、北島三郎の「風雪ながれ旅」や小林旭の「向井の名前で出ています」美空ひばりの「浜っ子マドロス」「みだれ髪」ほか。それぞれがヒットした時期の歌声で出て来るから、相当に生々しい。
 《改めて、スター歌手たちの旬の歌声を聞くのも、実に得難い体験だな...》
 などと、往時をしのんだりするのは、僕の流行歌評判屋の部分。
 話が進み音楽が変わると「師匠」の呼び名の僕の出番が来る。一つの役を二つに分けて、若い役者さんがやると判ってはいても、ドキドキ、舞台そでにいる気分になる。まだうろ覚えに覚えているセリフをなぞったりして、まるで他人事とは思えない。
 《何をしてんの。それどころではないだろ!》 と、自分を叱れば、とたんに顔を出すのが、大野九郎兵衛と医師玄条。松平健主演の「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」と川中美幸主演の「赤穂の寒桜・大石りくの半生」で貰った二つの役どころのセリフが、エコーがかかって頭の中で鳴るのだ。
 《それにしても...》
 と、また目前のけいこ風景に舞い戻れば、元気だったころの星野の顔が眼に浮かぶ。作詞家生活二十五周年のパーティー、直後に心筋梗塞で倒れる場面、朱美夫人に先立たれて落ち込むシーンなどは、そのころ、リアルタイムで僕は彼の傍に居た。名古屋で出演した時も、みんなが芝居をしているのに、僕だけが再現ドラマをやっているみたいだった。
 「恋文・星野哲郎物語」には、美川憲一、島津亜矢、山内惠介、水前寺清子、大月みやこ、都はるみが日替わりで出演〝えん歌蚤の市〟のシーンで星野作品のヒット曲を歌う。彼の故郷・周防大島を中心に、何度もやったあのイベントも、全部手伝った思い出がある。
 《没後何年経っても、あの人はちっとも居なくならないな》
 そんなことを考えながらの帰路、僕は一心に、二月二日初日の明治座公演へ、スイッチを切り替えたものだ。

週刊ミュージック・リポート


 「号外! 号外! 号外!」
 大声をあげて僕が、舞台上手そでから飛び出していく。集まって来るおじさんやおばさん、青年に娘たち。舞台下手からはもう一人の号外配り・田井克幸が登場、群衆は号外を争って手にし、あれこれ庶民の屈託をぶち上げる。何とも賑やかなシーンだ。
 二月の明治座、松平健・川中美幸合同公演は、座長二人が主演する芝居に加えて、それぞれのショーも展開する。僕が出番を貰ったのは、そのうちの松平バージョン「唄う絵草紙」で、彼が新曲の「マツケンの大繁盛」を歌う導入部。これが何とも不思議な面白ソングで、
 〽大福様が通る、大福様が通る…
 と歌いながら、松平が町々を七福神と練り歩き、商売繁盛は私に任せなさい!と、群衆の万歳踊りを盛り上げる内容。
 「よくやるよねえ、座長も…」
 と、舞台から引っ込んだ僕らが、まだ笑っている一シーンだ。
 アベノミクスとやらの、強引な景気浮揚策で、やっと給料が上がりそう…というのを、単純に鵜呑みにするか、先行き本当に大丈夫かね? と懐疑的になるか、それだけでも庶民感情は複雑だ。加えて3・11災害、原発事故の復旧復活はメドさえ立たぬ遅れ方だし、超高齢化と少子化の福祉と教育問題、代替エネルギーをどうする?論の一方で、中・韓両国とは外交的行き詰まり、秘密保護法と俄かな右傾化、沖縄は激真っ二つ…其々、イライラや不安のネタは数え切れない。
 それやこれやを考え合せて聞く松平の「大繁盛」は、昔々の「ええじゃないか」から昔の「有難や節」を連想させる。万歳!を、連呼、踊り狂う庶民は、なかば自暴自棄のテイではないのか?
 《えらいもんだ…》
 流行歌の保守本道を行くスター歌手たちなら、揃って二の足を踏むこういう企画を、馬鹿馬鹿しくも堂々と、歌ってしまうあたりが松平の野放図な魅力だろうか?
 「号外屋なら統領、お手のものでしょうが…」 役者仲間に冷やかされるのは、僕の前職が新聞社勤めだったせい。
 「そうそう、号外って言えばね…」
 と、すぐその気になってしゃべる号外体験の極め付けは、スポーツニッポン平成元年六月二十四日付の話だ。
 その夜午前零時二十八分、美空ひばりが間質性肺炎による呼吸不全のため、東京・順天堂大学病院で亡くなった。時間が時間である。翌日の朝刊の印刷に間に合う部数は知れたもので、当然号外発行! という段取りになる。明け方の五時過ぎ、
 「印刷開始! どこで撒きましょう?」
 という会社からの連絡を、僕は当のひばり家で受けた。十五年ほど彼女との親交があって駆けつけたうえ、スポニチ編集の責任者だったせいで、僕は、
 「ひばり家の前へ持って来い。日本中のマスコミが集まってるんだ!」
 と即座に指示した。玄関前には急を聞いた報道関係者が黒山である。そこで撒いた号外は、NHKの朝七時のニュースをはじめ、多くのテレビ番組で、ひばり死去のニュースと一緒にデカデカと取り上げられた─。
 号外は昔から、新聞各社が先を争って出す即報版。どの社が一番先に町に出したかが勝負だから、文字通り分秒の競争だった。
 《しかし…》
 と、僕は考え直した。都心で二、三万部配ったところで、たかだかそれと同じ人数の読者が手にするに過ぎない。ところがそれが電波に乗ったら、スポニチが号外出した! という事実は、一挙に何十万人かに知れ渡る。そのPR効果を手にするために必要なのは、印刷の先を争うことではなく、どこに重点的に配るかではないのか。 
 号外は急ごしらえだから、多くがモノクロ紙面である。それを僕らは、時間をかけてもカラー版を用意した。号外用に特別大きなスポニチの題字も作った。テレビで写された時の派手さを狙い、それがロングショットでもスポニチと判るための細工だった。
 「外道かもしれないけど、これが今どきの号外論さね」
 明治座のけいこ場森下スタジオで、僕はしばし、はしたなくも懐旧談で悦に入ったものだ。

週刊ミュージック・リポート

 
 元禄十四年、西暦に直せば1701年だが、その年の三月二十五日、播州・赤穂城下は行き惑う人々の群れでごった返していた。藩主浅野内匠頭が切腹、家臣は徹底抗戦と謹慎城明け渡しの二論でいきり立つ。お家断絶、戦がはじまる...と、領民は避難民化した─。
 その中を劇場花道から、足早やに登場するのが幹部の一人大野九郎兵衛、
 「命あっての物だねじゃ」
 と、敵前逃亡!? を企てるのが、はばかりながら僕の役柄だ。二月の明治座、松平健・川中美幸合同公演のうち、川中バージョンの芝居「赤穂の寒桜~大石りくの半生」(脚本・阿部照義、演出・水谷幹夫)のけいこが始まった。一月十三日の顔寄せ、読み合わせから、これが僕の新年の役者の初仕事である。
 昨年の一、二月に名古屋御園座で上演、それが好評で再演の運びになった。松平の大石内蔵助の重厚、川中の妻りくの一途な純愛ががっぷり四つ。しかし共演者はがらりと変わって、穂積隆信、青山良彦、笠原章、丹羽貞仁、中村虎之助らが加わっている。
 「役者が変われば、芝居も相当に変わるよ」
 と、関係者に耳うちされているから、当方は至極神妙な顔で出かけた。その一方、
 「やあしばらく。今回もよろしくね」
 の声がかかるのは、土田早苗、園田裕久、真砂皓太、安藤一人、鴈龍、松岡由美と西山清孝、田中克幸、小西剛ら殺陣の腕利き。こちらは名古屋の二カ月、栄や錦などの繁華街にも出没、親交を深めた温かさがある。
 芝居の松平バージョンは「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」(脚本・斉藤雅文、演出・水谷幹夫)で、こちらはおなじみの痛快時代劇。旗本徳田新之助実は徳川吉宗の松平と、その幼なじみの旅芸人川中が、幕開き早々によろよろはらはらの老爺と老婆で再会、客席を沸かせるお楽しみがある。出演者は全員、川中版、松平版双方に出番があって、こちらの僕の役は小石川養生所の医師新出玄条だ。
 僕はご存知のとおり、役者と流行歌評判屋の二足のわらじをはいている。その評判屋の初仕事は、一月六日、USEN昭和4チャンネル月曜日用の録音で、ゲストが作詞家の池田充男。相棒のチェウニのとんちんかん話法とにぎやかに、池田が〝北の詩人〟になった顚末をたっぷり聞いた。
 何しろ20数曲、彼のヒット曲をかけながら、5時間近くのおしゃべり番組である。池田が若いころ初めて北海道を旅をし、小樽で見染めたのが今の奥さん。
 「まだしゃべるの? そんなことまで聞くの?」 と、池田がテレながらそれでも笑顔で語った〝駆け落ち結婚〟ぶりが壮絶で、池田艶歌の芯の部分に触れた心地がする。
 池田が上きげんな理由のもう一つは、旧作「孫が来る!」の競作で、作曲した岡千秋に船橋浩二、中村光春、仲町浩二と、熟年シンガーがさみだれ式にリリースした。五木ひろしのアルバムで10年ほど前に世に出した池田の実話ソング。歌の主人公の女児二人の孫たちは、今では立派に成長したが、池田はその件になると相好が崩れっぱなしになる。
 「平成初の大競作だ!」
 「カラオケおじさんたちの反撃だ!」
 取りまとめ役の僕は、ここ半年、そんなことを口走った。なぜか近ごろ競作騒ぎはパッタリだし、いつの時代も流行歌は若者主導だが、おじさんたちの反撃があってもよかろう。歌い手は無名でもみなカラオケ巧者、熟年の滋味で勝負だ...というのがその言い分だ。
 それやこれやで浮かれていたのか、地面が沈むくらいショックの大ミスをやった。芝居のけいこに穴を開けた一件で、スケジュールのメモの書き違い。
 「どうしたの? 今、あんたのとこやってるよ」 自宅で、アルデルジロー我妻忠義社長の電話を受けて、文字通り血の気を失い、足はすくみ、頭の中はまっ白の立ち往生をした。
 もちろん翌日のけいこ場では平身低頭、ひたすら謹慎の時を過ごしたが、関係者の寛大な笑顔こそ実はことさらに厳しいものと知る。昨年喜寿のいい年をしての大失態、舞台8年目の気のゆるみも猛省して、この一年の大きな戒めに抱え込んだ。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ140回

 「10月はじめに送ったのが戻って来た。住所を調べ直してまた送る。ごぶさたしていて申し訳ない」

 旧知の人から、そんな手紙つきのCDが届く。扇ひろ子の歌手生活50周年記念盤『酔いどれほたる』である。 ふっと胸に、温かい風が吹いた。扇とはデビュー当時からの知り合い。郵便物の差出し人藤田進さんとも、そのころからのつき合いで、いろいろお世話になった。懐かしさがダブルだ。

 「80才を迎えた年の、最後の仕事と思ってプロデュースした」

 と、藤田さんの文面にある。

 ≪そうか、元気な証拠、お達者CDか≫

 と、そんな思いで新曲と向き合う。小野田洋子作詞、岡千秋作曲、池多孝春の編曲で、前奏からいきなりサックスのソロ。これまた懐かしい昭和テイストである。あの年号の30年代後半から40年代に、吉田正が一時代を作った都会調歌謡曲の流れか。

 ♪酔って肩寄せ 口説かれりゃ 素直になって 抱かれたわ...

 過去の恋を思い返す未練の女心ソング。舞台は北のはずれの居酒屋で、窓の小雪や見送った列車がひきあいに出る。近ごろよくあるひなびた酒場唄を、都会調のムード演歌に仕立てたのは、藤田さんの狙いか、岡千秋のアイデアか。

 聞きながら僕も、あのころに戻る。扇と初めて会ったのは『赤い椿の三度笠』でデビューした昭和39年前後。原爆直後の広島の生まれと育ちで、16才で藤田さんと出会い、高校を卒業して藤田家に引き取られ、チャンスを待った。当時人気があったテレビドラマ「琴姫七変化」に出た話を聞いた記憶がある。それが一緒にひとやま踏む形になったのは、3年後、彼女の出世作の『新宿ブルース』のPRで相談に乗ってのこと。

 「ヒット祈願の水ごりをさせよう。白の襦袢で滝の水を浴びる。伝わるのは本人の決心、おまけはあらわになる女体。週刊誌のグラビアは、このエロチシズムにとびつくよ」

 面白い!と悪乗りしたのはコロムビアの宣伝マン市川某で、激怒したのは作曲者の和田香苗。その説得も頼まれて僕は力説した。

 「いくらいい歌が出来ても、それだけではせいぜいコラムのネタ。話題をより大きくするポイントは、レコードの"モノ"を歌手の"ヒト"に切り替えて、クローズアップすることでしょう!」

 僕は当時勤め先のスポーツニッポン新聞で、そういうネタづくりに腐心していた。歌った人、作った人、それを取り巻く人間関係...。百鬼夜行の歌謡界には、掘れば面白いエピソードが山ほどあった。扇の場合は極端な例だが、幸いなことに読者の反応が、歌のよさにつながってヒットした。

 ≪変わらないな彼女、偉いもんだ≫

 改めて聞いた扇の新曲は、表現が率直で、歌の思いがまっすぐに伝わって来た。ベテランにありがちな声や節への頼り方がなく、崩れも汚れもない。響いて来るのは50周年の初心と覇気か。

 ≪いい仕事をしましたね≫

 僕は藤田さんへの返信の思いもこめて、この原稿を書いた。手紙には「一度食事でも」の誘いがあったが、住所が都下東村山市である。都心へご老体をわずらわすことには、ためらいの方がどうしても先に立つのだ。

月刊ソングブック
新年のスタートは役者だ。1月13日の顔寄せから、2月の明治座、3月の大阪・新歌舞伎座公演のけいこ。松平健・川中美幸の2座長合同公演で、演目は松平版が「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」(斉藤雅文脚本、水谷幹夫演出)川中版が「赤穂の寒桜・大石りくの半生」(阿部照義脚本、水谷幹夫演出) もっとも松平の徳川吉宗には川中が幼なじみの芸人お駒で、川中の大石りくには松平の内蔵助ががっぷり四つでたっぷりと共演するから、顔見せ程度の相互乗り入れと勘ちがいしない方がいい。昨年の1、2月、名古屋御園座で長期公演したものの好評再演が、東京、大阪で実現となった訳だが、両座長の熱い意気投合ぶりは、舞台と酒席の双方でお供をした小西が太鼓判を押す。その小西の役は松平版が小石川養生所の医師・新出玄条、川中版は赤穂藩の大野九郎兵衛。舞台の仕事8年めのペイペイには望外のいい役に恵まれているのだから、心構えは初演の緊張と高揚で・・・と、内心力みかえっている。ご一緒するのは穂積隆信、青山良彦、笠原章、園田裕久、土田早苗・・・のベテラン諸氏に友だちづきあいをさせて貰っている真砂皓太、丹羽貞仁、安藤一人、清野和紀、綿引大介ら。東宝現代劇75人の会の下山田ひろのとも初めて外部で共演する。 その東宝現代劇75人の会は、19才から44年間勤めたスポーツニッポン新聞社に次ぐ、小西の2つめの所属先。今年の公演は11月4日から9日まで6日間の予定で、場所は例年通り深川の江戸資料館小劇場。横澤祐一さんがオリジナル脚本の想を練りながら、この春も深川界わいに出没するはずである。 松平健・川中美幸特別公演

 
 頼まれれば嫌とは言えない。生まれつきの性分だが、こと歌づくりとなればなおさらのこと。「よォしッ!」とその気になると、とことん頑張るものだから、頼んだ相手が面食らったりする。最近レコーディングした谷本耕治なんかもその例で、引き受けてから仕上がりまでに2年近くの長期戦になった。
 「遊びぐせ」と「惚れたあいつは旅役者」が彼のための2曲。前者が堂忍という男の詞を採用した。昔々スポニチで「阿久悠の実戦的作詞講座」を2年も連載したことがあるが、堂はその常連応募者だった。その後も時おり詞を届けて来るのを、何も言わずに積んで置いたのから、思いついて持ち出し、勝手に手を加えてタイトルも変えた。
 もう1曲は星野哲郎の弟子の紺野あずさの詞。タイトル決め打ちで依頼したら
 「あなたのテーマソングですか?」
 と、とんちんかんな乗り方で、こちらは手直しが数回。実は谷本という青年、大衆演劇をかじった経歴を持ち、シャンソンなど歌って来たというから、お芝居仕立てが面白いかという思いつきである。どの道インディーズと呼ばれるコツコツ手売り作戦だから、面倒な編成会議などなし。判った! と、本人さえその気になればそれでいいのだ。 作曲は田尾将実、編曲は石倉重信に頼んで、その辺はスラスラ行ったのだが、それからが大変。本人に歌わせて、田尾と僕が顔を見合わせ、
 「だめだ、こりゃあ...」
 になった。上手下手というのではなく、作品のイメージにはまって来ない。彼のために作った曲なのに、彼が歌い切れない。本末転倒もいいところだが、孤軍奮戦のネタとしては、そこそこのインパクトの強さが必要なはずだ。ニヤリとして、
 「田尾、一からレッスンだ。お前がこれでよし...と合図するまで待つ。別に急ぐ旅じゃないんだしな」
 と、乱暴至極な提案で、その日から谷本青年は、せっせと田尾家へ通うことになった。こうなると頼んで来た本人も、曲を注文された田尾も、まるで被害者同然。女性マネジャーの本田さんも目を白黒させたが、事の成り行きを鵜呑みににするしかない。
 完成するまで2年...と書いたが、そんなに長くレッスンだけをした訳ではない。CDを出すなら出すでそれらしく、売ったり広めたりするための段取りも必要不可欠。谷本・本田コンビがそのための下ごしらえに、奔走した時間も含まれている。それやこれやの騒動の挙句、谷本青年のCDはめでたく来年の2月に世に出る運びになった。キャンペーンのスケジュールも次々と組まれて、売上げ目標とりあえず1万枚。全く無名の男の徒手空拳の戦いとしては、
 「そこそこじゃないか!」
 と、僕らは盛り上がっている。
 「今どき、何とノー天気な!」
 と、失笑や苦笑いをする向きもあろう。
 「道楽の歌づくり、横道にそれ過ぎじゃないの!」
 と、僕に忠告してくれる友人がいるかも知れない。そのための言い訳はすでに用意してある。
 「昔々の辣腕ディレクターたちは、みんなこんなことやっていたものさ」
 の一言。頼みごとをして振り回された本人やマネジャーも、おしまいにはその気になって、悪ノリの足並みはちゃんと揃っている。
 「自分たちが面白がらないものを、誰が面白がるか!」
 が合言葉。世の中万事、ことを起こすにはそういう熱っぽさが原動力のはずで、残る問題は、そういうふうに生まれた子(歌)に、どういう道筋を作ってやれるか...だろう。
 一足おくれて狂喜乱舞のテイなのは作詞の堂忍。いつごろ僕に渡したどういう詞かも忘れていたのが、CDになった。死んだ子が生き返ったようなもので、早速、その気になってチャンス到来! とばかり、新作をばんばん書き始めた。再会はまだだが、どこかの食堂でコックをやっていてもう60代。阿久悠との縁がこういうふうに再生するのも悪い話ではない。
 歌社会の隅っこの我楽多チームの一幕。全員が新しい年に新しい夢を、手づかみする気になっているからめでたいではないか!

週刊ミュージック・リポート

まるで音の〝南郷達也展覧会〟だ!

 何が驚いたと言って、南郷達也。 MCの編集部から届いた音資料を、聴いても聴いても南郷の編曲。何と十曲中八曲が彼の音で飾られていた。このニュースを担当して何年になるか、もう忘れたくらいの年月が経つが、こんなのは初めてだ。
 裏町演歌から女心艶歌、勇壮な男唄があれば祭り唄もあって、その仕事ぶりは多岐にわたってなかなかの手際。器用だ...と思う向きもあろうが、これくらいの幅と感性を持たなければ、人気アレンジャーは務まらない証だ。

男の酒場

男の酒場

作詞:万城たかし
作曲:岩上峰山
唄:西方裕之

 イントロから、ギターが泣き加減の路地裏演歌。昔々、飲み屋横町の赤提灯を伝い歩いた、ギター流しが得意としたタイプだ。
 西方の歌も委細承知のノリ。馬鹿な奴だ...と自嘲気味の男心を、まっすぐ声高に吐露する。サビの歌詞一行など、この人には珍しくめいっぱいに声を張った。それだけでは能がないかと、歌い納めの二行分は、ふっと我に返った優しさの息づかいで、味を深める。
 作詞・万城たかし、作曲・岩上峰山はなじみのない名だが、昭和演歌の定石を踏む仕事ぶり。しかし、このタッチとノリは平成のものだ。

女の倖せ

女の倖せ

作詞:たかたかし
作曲:岡千秋
唄:北野まち子

 古いと言われようが、ナンセンスとそしられようが、歌書きたちは素知らぬ顔でステレオタイプの女心ソングを書く。たとえ少数派にしろ、そういう歌を欲しがるカラオケ熟女がおり、それをあて込む制作者がいるせいか。
 たかたかしの詞、岡千秋の曲のこの作品もそんな流れの中の一曲。それを北野が、感情移入少し控えめに、オトナの女の歌に仕上げた。
 よく聴けば、詞、曲ともにさりげなく、脱・定石の試みを埋め込む。主人公の酒と涙の日々に、ほっと一筆春の日射しを予感させる程度に...。

白夜の狼

白夜の狼

作詞:つじ伸一
作曲:原譲二
唄:北山たけし

 風の音にトランペット。南郷の編曲は前奏から、原譲二の曲を飾って勇壮だ。やりようでは大仰な張り歌にもなるタイプだが、北山は高音処理ほどほどに、むしろ中・低音を響かせる男唄にした。彼の身丈に合わせた仕立て方で、一〇周年記念曲〝らしさ〟を作った。

おもいでの宿

おもいでの宿

作詞:池田充男
作曲:市川昭介
唄:中村美律子

 市川昭介の遺作。
『さざんかの宿』の前後のものかと思われる。それにうまいこと池田充男が詞をはめて、湯布院、蛍観橋あたりの歌にする。女の未練心を、美律子がていねいに歌って、情を濃いめにした。艶歌の本道を行きたい意欲の現われだろうか?

こぼれ酒

こぼれ酒

作詞:いではく
作曲:叶弦大
唄:藤原 浩

 涙がポロポロ、夢でもポロポロ...が決めフレーズの女心ソング。酒場すずめの嘆きを、明るめに藤原が歌う。聞かせる歌より歌わせる歌を書きたい作曲・叶弦大に、詞・いではくが呼応した。ドラ声張り上げても歌える〝あんちゃん節〟を、藤原の美声が生かした。

男の火祭り

男の火祭り

作詞:たかたかし
作曲:杉本眞人
唄:坂本冬美

 本格演歌が五年ぶり!と惹句が力む。この種の作品につきものの太鼓は、鼓童をフィーチャーした。「あっぱれ、あっぱれ...」と男声コーラスが盛り上げて、冬美を歌の神輿に乗せる。昔からそうだがこの人、何を歌ってもちゃんと
〝冬美節〟になるのが強みだ。

男っちゅうもんは

男っちゅうもんは

作詞:吉 幾三
作曲:吉 幾三
唄:吉 幾三

 吉は己の心情を、
酒や旅や故郷に託して歌にして来た。それが今年四十年、どうやら正面からまっすぐに、歌でメッセージする気になったらしい。さだまさしか?と意表を衝かれた歌い出しだが、男の生き様を語りかける口調がやさしげで、確かに吉流だった。

港みれん

港みれん

作詞:下地亜記子
作曲:徳久広司
唄:谷本知美

 詞の下地亜記子、
曲の徳久広司、編曲の南郷達也と三人揃ってオーソドックスな仕事ぶりの港みれん歌。哀愁の味ひたひた...の企画だが、谷本の歌はその狙いにのめり込んだりしない。感情移入の波が、歌い伸ばす語尾で、ふっと醒め加減になるのがこの人の個性か。

ないものねだり

ないものねだり

作詞:田久保真見
作曲:田尾将実
唄:湯原昌幸

 古巣テイチクに戻ったのが、四二年ぶりだと言う。レコ大の新人賞騒ぎから、もうそんな年月が経ったのか。田久保真見・田尾将実コンビのこじゃれたラブソングを、気分よさそうに乗って湯原が歌う。ロカビリーからGSを通過した男のポップス、確かに円熟だわ。

雨の夜想曲

雨の夜想曲

作詞:さくらちさと
作曲:杉本眞人
唄:チェウニ

 初期のチェウニの歌の、いじらしさや切なさが戻って来た。幼な声じみた艶と、思い詰めたような響き、イントネーションがいいのだ。やっぱりこの人には、杉本眞人の曲がはまるのだと合点する。星野哲郎の弟子・さくらちさとが、詞でいい仕事をしている。

MC音楽センター

 
 「相撲では大関どまりだったけど...」
 が歌手増位山太志郎の〝決意表明〟の前置き。
 《何と大胆な。大関だって大変な辛酸をなめたあげくに獲得したはずの栄誉と地位。そんなに軽々しく言ってもいいのかい?》
 と、僕はお節介な気分になる。スポニチで、一時は運動部の部長もやったから、その世界も少々かじってはいてのこと。案の定彼は、そのあいさつを、
 「歌謡界では横綱になるつもり!」
 と結んだ。早くも芸能人ふうな軽さだ。
 12月4日午後、明治記念館で開かれた彼の、再デビューと新曲発表をかねた出陣式パーティー。主催がテイチクと市村義文社長のゴールデンミュージック・プロで、双方懇意にして貰っているから、いそいそと出掛けた。会場は百人余の客で満員。ところが知った顔を捜すのが大変...という浦島太郎状態で、隅っこに作詞家のたかたかしと編曲の前田俊明を見つけ、ヤレヤレ...になる。
 「それだけさ、俺たちも年だってことさ」
 たかがボソッと言うのは、あたりを見回して似たような感想を持ってのことか。
 増位山の新曲は「夕子のお店」でたかの詞、弦哲也の曲、前田の編曲。ヒットした「そんな夕子にほれました」「そんな女のひとりごと」の続編で、あれが1978年ごろと言うから、かれこれ35年も前になる。その後彼は相撲界の幹部になった手前、歌手活動を自粛、このたびめでたく!? 定年を迎えて、再デビューのはこび...。
 ヒロイン夕子がお店を出したのは門前仲町で「もんなか」とルビが振ってある。あの盛り場がついにネタになったか...と、個人的な感慨を持つのは、かつての勤め先が越中島にあって、僕らにはそこが縄張り。あの飲み屋街は〝門前スポニチ〟なのだ。近所に住む作曲家・四方章人らと語らい、親睦グループ仲町会を作って、もう20年になる。このコラムにもしばしば登場するお友達ごっこで、ゴルフと酒、談論風発の盛り上がりが常。弦も前田もその有力メンバーだから、
 「俊ちゃん、これは俺たちのテーマソングか?」 と冗談を言ったら、前田が眼をパチパチさせた。
 「あのころのホステス夕子は、一体幾つになったんだろ?」
 とたかに水を向けたら、
 「想定では才かな」
 と即座の答え。詞を書くにはやっぱり、そんなことも計算するんだ...と合点したが、男の方の年齢はあえて聞かなかった。
 〽ダークの背広が大人に見えました。父親早くに失くしたわたしには...
 というフレーズが、二番の歌詞にある。当時の夕子の年と考え合せれば、相当な年寄りになっちまって、それでは艶っぽさも何もなかろう!
 新曲のキャッチフレーズは「帰って来た昭和のメロディ」とある。復帰した増位山のムード派ぶりと、楽曲そのものも昭和テイストが濃いせい。いろんな歌手が挑戦しながら、ヒットに結びつけ切れない路線だ。
 「いやになるほど、モテた」
 と述懐したと言う増位山の、おとなの遊び心が生きてこそ!と、制作陣も本人も〝その気〟なのが透けて見える惹句。
 「確かにあのころは、しっとりした風情があった。近ごろは乾燥しきっていて、どうも...」
 公式の席のせいだろう。本人はその辺を、世相への言及でかわす技巧派ぶりも示した。
 新曲の三番、結びのフレーズは、
 〽昭和の時代は、遠くになったけど...
  とある。作詞家の笑顔を見やりながら、
 《これは、たかたかし本人の感慨だな...》
 と僕は推しはかる。一見何の変哲もない文句だが、置き場所によっては、歌に奥行きが生まれる。歌に歌書きの心情が織り込まれた効果だろう。たかと僕はたまに、余人をまじえぬ歌くらべで蛮声を張りあげることがある。
 「年末に、どうよ!」
 としめし合わせたから、銀座の橋本の店で、いずれ〝ふたり紅白歌合戦〟が実現しそうだ。
 増位山65才、にぎやかな第二の人生のスタートである。
 《いいね、いいね、高齢者の星だ。俺だって...》 と僕は、70才で始めた舞台役者7年めの我が身に我田引水する。学ぶこと沢山の日々と緊張感が得難くなって、シアワセなことですヨ。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ139回

 「あら...」

 と小声で驚きを表わし、会釈して隣りの席に腰をおろした。ピンク系のスーツのさくらちさと。亡くなった星野哲郎の弟子の作詞家だ。

 「よお!」

 一足先についた席から、気安いあいさつの僕。星野には新聞記者時代から長く私淑したから、彼女には兄貴分だ。10月5日午後、渋谷の伝承ホールで開かれた、チェウニの2013秋のコンサートでのこと――。

 『とまどいルージュ』『雪はバラードのように...』『港のセレナーデ』...と、チェウニは一気に歌い始める。1999年の『トーキョー・トワイライト』から14年、折に触れて聞き続ける歌手だから、こちらはゆったり気分だ。ガッと声を張って、歌い回し気味の曲がある。韓国の人の共通点で、強い声にそれなりの自負があってのことか。その声をすぼめ加減に、小振りの歌にするとチェウニ色が濃くなる。『Tokyoに雪が降る』『星空のトーキョー』とデビュー曲の東京3部作。

 ≪この人はやっぱり、この線だな≫

 と、僕は合点する。

 幼な声じみた艶の芯がしなって、独特の哀感をにじませるから、いじらしさの色が濃い。それが歌詞の、都会暮らしの女性の孤独感に通じるのだ。新曲の『雨の夜想曲』にもそれがある。だから、

 「今度のは、なかなかだな」

 前日の演歌杯ゴルフコンペ、同じ組で回った作曲者杉本眞人にそう言ったら、

 「そうかい...」

 笑顔だが、返事は相変わらずぶっきら棒だった。

 「詞もなかなかだよ。うん、いいと思う」

 翌日のこの日、隣りの席のさくらに同じことを言う。

 「はい、ありがとうございます」

 と、作詞者の返事は小声だった。チェウニがこの曲を歌った時そっと盗み見たら、彼女は左手に白いハンカチを握りしめていた。夏海裕子がずっと書いて来た歌手に、初めての起用。杉本メロディーが先に出来て、それに言葉をはめ込む作業にも、かなり緊張を強いられたろう。

 ♪窓をつたう雫 指で数えてみる 空も泣いているの 誰に焦がれて泣くの...

 歌い出し2行で、女主人公の居場所と心境が判る。愚かと言われても断ち切れない恋、ふとした時に不意に切なくなる恋、写真を破るようには、思い出を千切れない恋。泣き疲れて涙もかれて、やがて雨もやむ。ひとり取り残された主人公に、いつもの朝が来る...。

 ≪最後のフレーズが利いてるな。いつもの朝か。それにしてもこの主人公の、いつもってどんないつもなんだろ?≫

 歌を最後まで聞くと、そこのところがジンと来る"詰め方"が、この歌をいいものにしている。

 その日、渋谷は小雨。僕は終演後、ふらっと一人でガード下の飲み屋へ入る。午後4時でもやっている居酒屋。三々五々、おやじたちがしゃべってるのに混じって、去り難い思いを芋焼酎にまぜる。

 ≪あの曲には似合わない店だけど、ま、いいか!≫

 僕は何となく苦笑いをした。

月刊ソングブック

 
 歌社会の車座の酒、芝居のけいこ場、ゴルフコンペなど、最近はどこへ出かけても、年長組である。最年長のこともしばしば。本人にはさほどの自覚症状はない。ま、酒量が減り、ドライバーの飛距離が落ち、物忘れは大分前からだが、セリフ覚えはまずまずの昨今。スポーツニッポンの記者時代からずるずるずっと、歌謡界にいて、
 《いいのかなぁ、お邪魔虫のまんまで。誰も来るな! と言わないんだから、もうしばらくはいいか・・・》
 と、勝手を決め込んでいる。
 11月15日は、作詞家星野哲郎の3回目の命日。小金井市梶野町の彼の家で、盛大な酒盛りをやった。長男真澄君、長女桜子さん双方の夫妻から声がかかって、ゆかりの人々40人ほどが集まる。僕は自他ともに許す星野の弟子で、例によって年長組だから、座敷の正面、ほど良いところのソファのまん中を指示される。左側には鳥羽一郎と、遅れて来て入れ違いになった水前寺清子が居り、右側に里村龍一、入れ替わりに志賀大介と作詞家二人・・・。
 「先生からさ、龍! 道ばたにはお金が落ちてるぞ・・・と言われて、キョロキョロ見回しちゃった。その意味が判るまで25年かかった。歌のタネの話だった」
 と、里村が例のダミ声釧路訛りで言って献杯をする。
 「先生だけじゃなく、奥さんの朱実さんにも、大丈夫? といたわって貰った。毎回お金の心配をかけていた」
 と売れないころを志賀が話してまた献杯。何のことはない順ぐりに献杯リレーなのだ。
 《昔、同じことをやったな。あれは星野の作詞20周年の会だから38年前になるか》
 僕はふと往時を思い出す。星野から相談を受けて「ホテルでやる柄じゃないでしょ」と生意気を言い、当時溜池にあったクラウンレコードの横っちょの居酒屋島正を会場にした。一軒家の一、二階を貸し切り。夕方から深夜まで、都合のいい時間に来て下さいという案内で、家鳴り震動する大酒盛りである。セレモニーなし、出来たての星野のアルバム「海人の詩」を入口に積んで、勝手にお持ち帰りという趣向。目ぼしい客が来る都度指名して、一言と乾杯! を、とめどなかった。
 ペースメーカーは中山大三郎。少しカドの立つジョークで会場を笑わせ続けた。その大三郎も今は亡いから、今回は僕がその代役。星野の命日だが、賑やかな方が本人も喜ぼうと、他人の話に冗談で割り込む。集まったのが気のおけないつき合いの人ばかりだから、言葉尻がきつい客いじりも、結構笑いを生む。7年ほどの役者修行で、大音声はなれっこだし、年長組正面の席で鷹場に・・・なんてさまは、そもそも性に合わない。
 星野は80才近くまで、一日一詩を自分に課した。と言っても、それを心底楽しんでのこと。没後、残された詞を沢山読んだが、正直言っていまひとつ・・・のものが多かった。これを書いて捨て、次にこれを書いて捨て、結局、あの傑作に辿りついたのだな・・・と判る、いわば習作。詩人の仕事の道のりが一編ずつに読み取れる未完成品だ。それが残っているのは、朱実夫人の内助の証しだろうが、後々それに手を加えて、他の歌手に回さなかったあたりが、星野の詩人の誠意か。
 彼の薫陶を得た各メーカーのディレクターで作る〝哲の会〟の面々もひとかたまり。その中で深く酔ったテイチクの松下章一が、
 「哲郎と大三郎が居なかったら、俺は今日、ここにいられなかった・・・」
 と、呻き続けた。素面だと温厚寡黙な男の胸中には、二人への恩義が揺れ続けるのだろう。
 「耳触りのいい言葉を並べて形を整えてみせても、それだけの歌詞じゃ人の心には伝わらないんだ。行間に書いた人間の生き方考えた方が、にじんでいないとな」
 星野がもらした一言を、僕はずっと雑文書きの戒めとして来た。
 《それにしても、ずいぶん長い知遇を得たものだ》
 僕はやっと浮かんだ年相応の感慨をかかえて、24日から2泊3日、星野の郷里・周防大島へ出かける。墓参りをして朱実夫人の姉、筏八幡宮の宮司星野葉子さんに会うのが楽しみ。哲の会のセンガ、フルカワ、ミツイにさっちゃんとおしげが一緒である。また酔って、献杯を繰り返すことになるのかなぁ。

週刊ミュージック・リポート

 
 何ともまあ、見ている方がじれったくなるほど、優柔不断のグズが、主人公である。美男で優しげが取り柄の醤油商平野屋の手代・徳兵衛。それを歌手の山内惠介がやった。兵庫県で2日間3公演、東京・池袋のあうるすぽっとで11月8日から17日まで上演した「曽根崎心中」(近松門左衛門原作、崔洋一監修、岡本さとる脚本・演出)の舞台。ま、そんなタイプの色男は、山内には〝はまり〟の役どころではあろうが・・・。
 相手役の遊女お初は、モデル出身の女優高橋ユウ。タッパもある現代っ子ふうな美女で、こちらは滅法気が強い設定。気に染まぬ客は蹴り飛ばしたりするが、そこがまたいい!と、曽根崎新地の天満屋で、ナンバー・ワンの売れっ子と来る。
 この二人がいい仲になるのだが、男は濡れ衣の金銭トラブルでニッチもサッチもいかなくなる。女はと言えば「命をかけて恋をするのや!」と、宣伝チラシの惹句にもある心意気で、二人はお定まり白装束で死への道行き・・・。とまあ、そんな顚末を演じる二人が、何とも初々しいのだ。
 山内はこれが初舞台の初主演、高橋もまた時代劇は初めて。扮装は時代劇、セリフは関西弁だが、雰囲気は近ごろ原宿あたりで見かける若いカップルふう。クタクタなよなよの草食系男子と、妙に活発な肉食系女子に通じて見える。「でも・・・」「しかし・・・」ばっかりの男を「何言ってんのよ!」と切り従えていく組合わせを、よく見かけるがアレそのものなのだ。見た目はすっきり小粋な着物姿の山内に、きらびやかな打掛けの高橋。
 《うむ、これはストーリーつき、動くグラビアだな》
 と、僕はニコニコ合点した。
 そんな二人を軸に、しっかりした芝居に仕立てるのは、恋仇九平次をやる大衆演劇の津川竜、徳兵衛の継母・お𠮷の元宝塚スター高汐巴、天満屋の下女で笑いを取り続ける晃大洋のふとっちょ童顔美女ら。〝まがい〟と呼ばれる物の怪じみた集団のボスいいむろなおきはパントマイムの人気者と聞くが、脇を固めた面々はみんな芸達者だ。僕の友だちで新婚ホヤホヤ、女児が生まれたばかりの綿引大介が、ワルの役人をやり、瀬田よしひとは慇懃な天満屋の主人・・・。
 森の精霊〝まがい〟の踊りで幕があく。その連中が陰でお初をサポート、徳兵衛との恋をハラハラ見守る狂言回しをやる。音楽はギターがメインでスパニッシュふう。生の鳴物の鐘と太鼓が、ドラマの要所々々をいい感じに締めたりあおったり。大詰めでは、山内の主題歌が朗々と流れた。
 《確かにフレッシュでポップなノリで、こういう時代劇もあり・・・なんだ》
 僕は山内が所属する三井エージェンシー三井健生社長の肩を叩いた。人気歌手の舞台というのは、かっこいいヒーローを主演と相場が決まっている。その真逆で、意表を衝いたこういう演し物を山内の第一作としたあたり、なかなかの勇気である。後援会員4000余の勢いと話題性に自信があってのことだろうか。
 この11月は「曽根崎心中」をもう一本見た。東京・駒形のジーフォーススタジオアトリエの「近松門左衛門・一つ思いの恋」(よねやま順一脚本、後藤宏行演出)で、客席40の膝づめ公演。僕が入れて貰った東宝現代劇75人の会のお仲間菅野園子と下山田ひろのが出ていて誘われたのだが、こちらは役者たちが入り乱れ、走り回る群衆劇。
 舞台空間が六つに分かれているとかで、それぞれのスペースで一斉に人々が動き、演じ、それが激しくからみ合ってストーリーが展開していく。時代劇だがそれらしい衣装やカツラはなく、主演級の何人かは役どころが一つだが、他はいろんな役を取っかえひっかえ。まるで映画の一コマづつが各パートで演じられているようなスピード感で、観ている側に伝わるのは若い役者集団一丸の一生懸命さ。
 《こんなのもありなんだ!》
 と僕は、その熱気にしばし茫然とした。
 炎暑が去ったと思ったら、突然冬の寒さがやって来た。今年はまるで秋がなかった・・・と呆れるような季節の中で、僕は異色の「曽根崎心中」二つに、不思議な感銘を味わったものだ。

週刊ミュージック・リポート

秋へ、なかなかの品揃えです

 夏から秋へ、いい季節をめざして意欲作が並ぶのがこの時期。長山洋子の『もう一度...子守歌』に驚き、天童よしみの『孔雀貝の歌』に新鮮味を感じ、森昌子の『はぐれどり』に再起の成就を祝いたい気分になった。
 それにしても、天候異常で不穏な夏が、まだ当分は続きそう。自然の猛威に、歌ごころがはぐれなければいいが...と、余分な心配をする。そのせいで、訴求力強めの楽曲の名を挙げたが、その他も歌手の魅力にプラスアルファして、今月は、なかなかの品揃えになっている。

哀愁の奥出雲

哀愁の奥出雲

作詞:佐藤史郎
作曲:弦哲也
唄:清水博正

 曲の気分を大づかみに〝泣き歌〟と捉えて、感情移入は細部に立ち入らない。むしろ弦哲也の曲の起伏とテンポの、流れに乗り、情感に添おうとする。
 そんなふうに聞こえるのが、清水の歌。高音部の声をしぼり気味に抑えて、響かせ方や整え方の注意に工夫が見える。
 一般論だが、歌のつくり方はおおむね二種類。作品の思いに自分の心情を重ねて吐露するタイプと、技巧を用いて作品の思いを伝える様式派だ。まだ七枚めのシングルだが、清水は後者に属する方向性を持っていそうだ。

もう一度...子守歌

もう一度...子守歌

作詞:鈴木紀代
作曲:桧原さとし
唄:長山洋子

 北向きの枕、胸に組んだ両手、顔を覆う白い布...。明らかにこれは、安置された死者の姿だ。鈴木紀代の詞は思い切ったもので、そんな要素をスリーコーラスの歌詞それぞれの歌い出しに、さらっと並べた。
 聴く側がびっくり仰天せずにすむのは、状況を見詰める視線が、母を見送る娘の優しさと温かさ、感謝の気持を表しているせいだろう。
 子を持つ親になって、よく判る母親の気持がテーマ。長山のプライベートにも重なるお話だが、大胆にして細心の作品と言えようか。

あなたは雪になりました

あなたは雪になりました

作詞:松井五郎
作曲:幸耕平
唄:小金沢昇司

 一番の歌い出し、歌詞二行分の雰囲気で「ほほう!」になる。小金沢の語り口が優しくやわらかな包容力を持つせいか。ムード歌謡と抒情的フォークソングを合流させたような松井五郎の詞、幸耕平の曲。いろんな曲を歌う小金沢の魅力の、一つの側面だろう。

北の浜唄

北の浜唄

作詞:下地亜記子
作曲:弦哲也
唄:真木柚布子

 酔いしれた男と女が主人公。浜酒場を舞台に、書き込まれる冬の海の背景や、それらしい小道具のあれこれ。下地亜記子の詞は、ドラマを見守る目の暖かさと演出家の心くばりをにじませて、なかなかである。昨今の歌状況の中でねばる、彼女らしい根気強さと熱意が、貴い。

富士山

富士山

作詞:新井満
作曲:新井満
唄:森 進一

 祝・世界遺産登録、『千の風になって』の新井満の作詞・作曲、あの千住明の編曲で歌うのが森...である。う~む、来るべきものが来たか!と、CDに向かう気分は、そこそこ複雑。しかし作品は、出来のいい叙情歌として、そんな後ろ向きの懸念を払拭、堂々としていた。

父娘酒(おやこざけ)

父娘酒(おやこざけ)

作詞:多野亮
作曲:花笠薫
唄:金田たつえ

 嫁ぐ日を控えた娘と父が、酒酌み交わすひととき。歌詞はかけ合いの形で3コーラス、感謝を口にする娘と、しきりにテレる父を描く。それを金田の歌が一人デュエットに仕立てる。注意して聞けば彼女が、娘と父の年齢や語り口を、歌い分けているのに気づく。

孔雀貝の歌

孔雀貝の歌

作詞:比嘉栄昇
作曲:比嘉栄昇
唄:天童よしみ

 人が生きていくことの、悲しみや喜び、純な心を全うしたいと祈るような気持を歌う。孔雀貝に託した比嘉栄昇の詞と曲、編曲はBEGIN。様式派の天童の歌は、作品の様変わりに触発されてか、吐露タイプの訴え方に変わる。形にはまらぬ新鮮さが得難い。

海猫

海猫

作詞:荒木とよひさ
作曲: 弦哲也
唄:神野美伽

 2コーラス、歌い出しの三行に、作詞荒木とよひさが趣向をこらそうとした。九行もある詞を作曲の弦哲也が、五つのブロックを積み重ねる曲づくりで応じる。言って見れば長尺もの歌謡曲。神野はそのうねりを、自信に満ちた歌唱で乗り切った。

寿(ことぶき)

寿(ことぶき)

作詞:原文彦
作曲:弦哲也
唄:和田青児

 原文彦の詞、弦哲也の曲は、五行詞ものだが、三行めに関所がある。前の二行で父親の心情がしみじみとし、三行めの高揚を境に以後が祝い歌のにぎわいに転じるからだ。和田の歌は委細承知のそつのなさ。カラオケで歌う向きは、三行め以降を笑顔でやってみるといい。

秋月の女(真紅い薔薇)

秋月の女
(真紅い薔薇)

作詞:仁井谷俊也
作曲:伊藤雪彦
唄:原田悠里

 傷心の女ごころ旅唄。仁井谷俊也の詞、伊藤雪彦の曲は定石どおりで、前田俊明の編曲もそれらしい飾りつけ。原田は得たりや応!の、ツボを心得た歌唱ぶりだ。四人四様の手なれた仕事が、巧まずして一つにまとまる。保守派のファンが安心して愛唱しそうだ。

はぐれどり

はぐれどり

作詞:さわだすずこ
作曲:浜圭介
唄:森 昌子

『哀しみ本線日本海』から、もう何年が過ぎたのだろう。あの時期、哀愁が若かった森が、同じ路線のこの曲で、女の人生の苦渋を伝える。中・低音、太めの地声に情感が濃いめで、森のその後の人生の波乱が、いい形で身につき、歌の味ににじむようで好感を持った。

君が恋しくて

君が恋しくて

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:前川 清

 原点はこれだろ?とでも言うように、原譲二の詞、曲はクールファイブ時代のヒット曲寄り。そうかも知れん...とでも言うように、前川が大波ビブラートで歌にドライブ感を生んだ。デビュー四五年、前川へ作曲家の原、つまり北島三郎の心づくしなのだろうか?

MC音楽センター

 
 神野美伽はなかなかの賢夫人である。10月29日夜、恵比寿のライブハウスでやった「荒木とよひさ先生の古稀を祝う会」でも、ダンナをたてる態度物腰がきっちりとした接客ぶり。それを会のしょっぱなのあいさつで、いきなり客席から呼び出した。ラフな進行表に書かれた僕の役割は、ここで神野との「爆笑トーク」とある。百戦錬磨!? の彼女相手に、
 《俺にツッコミをやれってことか?》
 7年ほど、駆け出しの役者もどきをやらせて貰ってはいるが、僕にはそんな器量はない。だから同じ月の11日、渋谷公会堂で見た「神野美伽30周年コンサート」をネタに振った。あれは近来稀ないいステージだった。
 受け答えをしながら、神野の視線が泳ぐ。口調も歯切れが悪い。それはそうだろう、明らかに場違い。何でここでそんな話を・・・という戸惑いが、表情に出る。
 《ダメだ、これは・・・》
 僕は演出者の意図が、彼女に伝えられていないことに気づく。「爆笑トーク」で会場の雰囲気を柔らげ、主人公の荒木を呼び込む・・・という彼らの狙いは、はなからモロくも崩れ去った。結果、多少の笑いはとったものの、得体の知れぬ幕明けのまま、荒木を呼び出す。一応それなりのあいさつはして貰ったが、その先どう着地するかが、見えないままのやりとりをいくつか。荒木の視線も泳ぐまま、3ショットの立ち往生である。仕方がないから僕は、
 「礼!」
 と声を張り上げ、3人揃っての低頭でその場をチョンにした。
 歌謡界のいいならわしに「表の小西、裏の境」というのがある。境は元コロムビアの制作のボスで、ミュージックグリッドの境弘邦社長。彼と二人で長いこと、この世界の冠婚葬祭の宴を任されて来た。仕込みから段取りまで、舞台裏を取り仕切るのが境で、乾杯や中締めなどの音頭をとるのが僕と、役割り分担が裏と表なのだ。このところこの業界は、底冷えのせいかご他聞にもれぬ高齢化の側面か、多いのは〝葬〟がらみの会合ばかりで〝祭〟にあたる今回は久しぶり。しかも僕らには荒木と、長い友だちづきあいがあり、そのうえ二人とも古稀の荒木より7才年上である。この際この詩人を肴にして・・・と、裏表ともにはしゃぎ気味だったのは確か──。
 それやこれやの行き違いとは関係なく、会はなごやかに進行した。自称〝はなし飼い亭主〟の荒木は、同級生や主治医、後援紳士たちとも交歓して上機嫌。神野は時おり席を替えながら、ソツのないあいさつ回りで、会を楽しんでいる。最近自作自演のアルバムを作った荒木は、その中の何曲かを歌った。その代表曲が「東京タワーが泣いている」で・・・。
 六本木、飯倉片町、麻布あたりを歌い込んだ青春回想ソングである。
 「東京タワーがあのころの、俺たちのシンボルだった。スカイツリーはどうも、なじめなくてねぇ」
 などというコメントつき、会が会だし客が客だから、これが大いにうけた。思い当たる節が会場で交錯して、共感や共鳴の色が濃い。
 《そうか、荒木はこのアルバムで、彼の近ごろ徒然草をやってのけたのか》
 と僕は合点する。そう言えば・・・と思い出すのは、神野に彼が書いた新曲「もう一度恋をしながら」で、歌い出しから各コーラス、
 ?(庵)もしも10歳くらい 若くなれたら・・・
 と来る。「人は思い出残す 時の旅人ね」「人生は急がずに 人生はゆっくりと」と、やはり幸せ回想ソングだ。「NHKラジオ深夜便のうた」として作られたから、聴き手はおおむね高齢者、それなりの共感は得るだろう。
 《しかしね。こういう後ろ向き志向は、古稀前後だけにとどめて欲しいな》
 僕はあえてそんなふうに考える。流行歌はいつの時代も、作る側聞く側の区別なしに青春の産物。歌の芯を作るのは少年のときめきだろう。年老いても作詞家はプロなら、その分別や感慨をかかえながらきちんと青春時代に立ち戻り、そこから前を向いて発信するのが商いだろ。前向きにな、頼むよ、とよさん!
 僕は今ごろになって、彼の会のあいさつで言い損なった思いをぶつぶつ言っている。

週刊ミュージック・リポート

 
 優勝カップとトロフィーが一つずつ、サイドボードの上に並んでいる。双方ともかわいいくらいにこぶりだが、まぎれもなくゴルフコンペのものである。トロフィーは10月18日、千葉の大栄カントリークラブでやった「小幡欣治杯・うれしい会」の獲物。もう一つは21日に千葉国際カントリークラブでやった「スポニチOB会」の成果。20日が77才の誕生日だったから、それをはさんでの快挙!? 二つに、僕は大いに気をよくしている。
 ゴルフの話をこの欄によく書くが、スコアを省いているのはなぜか? と、連載がお隣りの稲垣博司氏に常々指摘されて来た。誠に恥ずかしい点数なので・・・と、僕はその都度頭をかいたが、しかし、今回ばかりは恥をさらすことにする。18日の分はOUT50、IN46、ハンデ9でネットが87。亡くなった劇作家小幡の名が冠だからお判りだろうが、俳優、劇場支配人、演出家、評論家が参加していて3組。後期高齢者が中心というお達者コンペだ。
 もう一つはスポニチのOBばかりの4組。当然全員60才以上で、僕が〝さん付け〟する先輩は一人だけ。あとは全員呼び捨ての仲だから気のおけないコンペである。こちらは優勝者として名を呼ばれた時、当の本人が、
 「嘘だろ!」
 と絶句。里村龍一が作詩家協会の会長になった時と同じ状況になった。何しろOUT52、IN53とほぼいつも通りの打数なのに、ペリアのハンデが33・6もついて、ネットが71・4と来た。これはもう、運とかツキとか以外の何ものでもない。
 「でもね、その年になっても元気で丸一日、ゴルフ場を駆け回れればこそのことでしょう・・・」
 と、かつての部下がしみじみとした顔になる。お定まり19番ホールの居酒屋でのこと。
 《優勝した俺が、なんで慰められなきゃならんのだ!》
 僕は内心ムッとするが、表情から笑みは隠さない。それが年寄りの分別というものだろう!
 OB会のカップには、歴代優勝者の名を書いた短冊がぶら下がっている。今回が15回目ときりがいいが、それをたぐってみたら、9回目にも僕の名があった。6年前のことで確かあの時は、ベスグロ優勝の胸を張った覚えがある。ま、レベル自体がその程度のコンペなのだが、それにしてもこの6年の、衰え方たるやはなはだしい。口惜しいのはショート以外の全ホール、スプーンを持ってまっ先に、2打目を打つのが必ず僕・・・になったこと。それも気が焦るせいか、トップやダフりが年々増えているのだ。
 中2日でV2の珍事に、音を上げたのは体である。骨々、節々、筋々が硬直したうえでバラバラになり、朝、ベットから起きるのにもつかまる物が欲しい体たらく。よろめきながらいつもの逗子整体院に助けを求めるのだが、担当の髙橋充君いわく、
 「やっぱり運動をした時の方が、疲れてはいても体はまともです。夜な夜なの酒盛り続きよりはネ」
 妙なところで僕の、やくざなプライベートにまで突っ込んで来るのがシャクだ。
 葉山に移り住んで6年。前夜は必ずゴルフ場の近くまで行って泊まる。
 「そうまでするか!」
 と家人は呆れているが、当日だと早朝の4時起きになる。子供のころ茨城で、百姓仕事にかり出されたころを思い出すから、ぞっとしない。結果、あそび心を維持したい一心の前泊だが、連れがいると遊び過ぎて当日が二日酔いになるし、単独だと寝つきが悪く、導眠剤など用いようものなら、やっぱり当日ふらつく。世の中、なかなかうまく行かないものだ。
 それやこれやの誕生日前後、わが家のリビングには過ぎたるものが、外にもまだある。バーニングプロの周防郁雄社長、アルデルジローの我妻忠義社長、MC音楽センター岡真沙子社長からの祝い花が豪華けんらん。それに亡くなった作詞家吉岡治の孫娘あまな君手造りの3D的工作物。いい型でドライバーショットを打つ僕の体に、ちゃんと写真から切り抜いた顔が乗っており、手前の芝生には真珠みたいな白い球まである。そんな好意に囲まれて、僕は最高の喜寿のひとときを過ごす。はやり歌雑文屋稼業50年だがまだまだ元気。その間に袖すり合ったおびただしい皆々さまにも、改めてあつく御礼を申し上げたい。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ138回

 棺を閉じる直前、突然、聞き慣れぬ言葉が悲鳴のようにあがった。それに重なる激しい泣き声。質素な喪服の女性が3、4人、故人の身内のようで、とめどない別れの訴えかけは、北京語と知れた。8月10日午後、横浜のメモワールホール瀬谷で営まれた、歌手真唯林(まゆりん)の葬儀だ。

 真唯林は台湾・嘉義市の出身。1988年に来日して『みちのくひとり旅』で知られる作曲家三島大輔に師事、翌年『演歌草』で日本クラウンからデビューした。代表作は『東京夜景』で、星野哲郎の詞に三島の曲。はとバスの定期観光開始50年を記念したイメージソングだった。日本での活躍を期待され、台湾の「正月紅白テレビ」に出演したこともある。亡くなったのは8月7日、享年50。

 訃報は三島からの電話で伝えられた。

 「がんだった。あっちこちに転移して、手を尽くしたが、だめだった...」

 口下手の歌書きの声が、ボソボソと続いた。家族同然のつき合いが25年。もう一息! もう一息!と、お尻を叩きながら、一緒に頑張ってきた愛弟子の死だ。炎暑と言ってもいい今年の夏、精根尽きた闘病者も多いが、彼女もその一人だったのか――。

 葬儀に駆けつけた僕に、三島が「送る言葉を!」と言う。その強い眼の色に促されて、僕はぶっつけ本番でしゃべった。新潟・長岡の神社に、全国の神々が集まる夜があるというのを、大勢で見に行ったことがある。深夜、宙空に舞ういくつもの火の玉を見上げて「ほら! ほら!」と彼女が笑ったのを覚えている。明るくて、人なつっこい娘だった。数ヶ月前、横浜で歌う会を開いたのに、日程が合わずに行けなかったことが悔まれる。体調回復...と聞いたが、あれが最後の舞台になったのか...。

 「まだ50才は若過ぎる。ああもしたい、こうもなりたいという、夢が沢山あったろう。きっと歌にも、これから味が濃くなるころだったのに...」

 霊前で、僕は暗澹としたままだった。いくら近くても、彼女にとって日本は異国のはずだ。言葉も文化も生活も、全然違う国へ来て、そこになじみ、その国の言葉で歌うプロになる。そのうえで、その国の歌手たちと競争して、勝ち抜いて行こうとする。なみ大ていの覚悟と生き方ではない。しかも真唯林は、厄介な病気と闘うことにまで、この国を選んだ。そんなに日本が良かったのか!

 式場には、5年前の新曲『泣きたい夜』のポスターが貼られていた。バーのカウンター、左手にグラスを持つ彼女の、憂い顔が若々しくきれいだ。式は読経もなく、親しい人々が合掌した。「林ちゃん!」「林ちゃん!」と、ファンらしい女性が呼びかける声が続く。来日25年、50才の生涯で、残念ながら彼女の人と芸は、全国的に知られるものにはならなかった。しかし、数は多くなくても日本のあちこちに、彼女を愛した人々は確かに居た。

 送る側を代表してあいさつした三島の声は、「俺もやがて行くから」と、途切れがちだった。彼もまた病院から抜け出しての、野辺の送りだと聞いた。真唯林が残した思いを少しでも実らせるために、僕は彼の、一日も早い全快を祈るばかりだった。

月刊ソングブック

 
 「アスリート」という言葉がまず浮かんだ。「歌うアスリート」か。違うな、これじゃ陸上競技の選手が歌を歌うみたいだ。10月11日、渋谷公会堂で、神野美伽30周年コンサートを見ての言葉捜しだ。びっくりするくらいの迫力の舞台なのだ。歌をどう歌うとか、心情と技をどう披瀝するかとかいうような情緒的なものではない。この夜彼女にとって、歌う楽曲は全部、神野美伽という人間そのものを、観衆に叩きつけ、強訴するための道具でしかなかった。
 《月並みだけど、格闘技系か。とりあえず今のところは、そうしておこう》
 僕はこの夜の彼女の、めちゃくちゃ激しい自己表出にふさわしい言葉捜しを、後回しにした。
 当初、見た目はいつもの神野だった。しゃきっとした着付の着物姿。いつもそれに、硬派の心意気を感じる。〝女〟を売る気配がない。艶だの粋だのたおやかさだのという、柔らかさや優しさ、包容力につながるゆるみたるみを排して、きっぱり、しゃっきりの神野。それが、
 《しかし、いつもと違うぞ、これは・・・》
 第1曲の「黒田ブギー」に妙な予感があった。ものはブギだが性根の据え方はロックなみ。ステージ一ぱいに動き回る〝動〟の中の一瞬の〝静〟だって、斜に構えた横向き、四肢をいっぱいに広げた後姿、体をくの字に、宙へ飛ぶ直前の屈曲。それに大音声・・・。
 ふつう歌い手は、楽曲の魅力をどう伝えるかに心を砕く。作品にこめられた心情を、己れのものに取り込んで歌うにしろ、作品をシナリオに主人公を演じるにしろ、楽曲が本位で歌手はその伝え手だ。CDに録音されたものがその基本型で、生のステージは、その人なりの解釈や腑に落ち方が加わり、作品世界がふくらむ。そんな手際をしばしば、僕はその人の芸と受け取って来た。
 4曲目「海の伝説」は韓国の楽曲に吉岡治が詞をつけたもの。それをガンガン張り歌にして、精かぎり根かぎり、ここを先途・・・に歌ったのも、彼女なりの韓流と、僕は合点した。しかしどうも様子が違う。歌のおしまいのスキャットが、悲痛なまでの昂り方で、黒人霊歌になぞらえれば韓人霊歌ふう。心の張りつめ方が納まるところを知らない。
 そのガンガン・イズム!?は、その後の曲にもずっと維持された。「オホーツクの舟唄」はメロディーが「知床旅情」だが、元歌のさすらい気分などそこどけ!の変わりよう。オリジナル「浮雲ふたり」はしみじみ夫婦ソングだったが、まるで違う趣きの歌に仕立て直された。「サントワマミー」も「ククルククパロマ」も、
 《そこまでやるか!》
 の勢いだ。
 その極め付きが終盤に3曲並んだ。「酔歌~ソーラン節バージョン」「座頭市子守唄ニューバージョン」「歌謡浪曲・無法松の一生ニューバージョン」で、全部〝バージョン〟がつくあたりが曲者だった。声の限り、気力の限界まで、語り募り、歌いまくり、それこそ全身全霊を傾けての舞台。それに突き動かされながら、観客はかたずをのみ、やがて乗せられた。僕は僕で名状しがたい衝撃に身ぶるいせんばかりだ・・・。
 《一体、何なんだこれは・・・》
 歌を聴きに来た僕がつきつけられたのは、生身の神野美伽そのものである。「アスリート」という言葉を連想したのは、これを神野の体技と感じたせいだろう。彼女は心の中にふつふつと湧き上がる情熱を、〝歌う作業〟で解き放とうとした。楽曲の一つ一つはこの場合、激走者なら空間と時間、球技ならボール、レスリングの選手なら戦う相手か。これまでの楽曲と歌手の立場が逆転していた。エンタテイメントとか、パフォーマンスなんて言葉は軟弱なくらい、突き抜け、突き放すエネルギーの変幻。それは明らかに格闘技系の歌い方だ。
 18才でデビューして30周年と言えば、48才の勘定になる。神野はその間に身につけたもの、考えたもの、喜びや悲しみ、迷いも悩みも吹っ切って生きて来たすべてを、あらいざらい舞台に乗せた。性別など関係なく、神野美伽という人間そのものの〝今〟を、全開陳して圧倒的だった。そこにはそれなりの〝覚悟〟まで見えた。
 《いろいろ見て来たが、あんなの歌謡界初か!》 あれから一週間、僕はまだそんな世界にふさわしい熟語を、見つけられずにいる。

週刊ミュージック・リポート

この夏も〝うわさ供養〟の日々だ

 七月六日、伊豆から東京・麻布の長谷寺に移した阿久悠の墓前で、七回忌法要が営まれた。スポニチで二十八年間連載、三百六十三編を書いた「甲子園の詩」は、彼のライフワークで、命日は八月一日、彼はまさに〝夏の人〟だった。法要の日〝千年猛暑〟とやらが始まり、関東は梅雨が明けた。八月中旬には、岡千秋、里村龍一と北海道・鹿部へ行く。星野哲郎が生前、二十数年も毎夏、海の詩人のおさらいに出かけた漁師町で、僕らはずっとそのお供をした。この夏も、知遇を得た詩人たちを思い返す日々が続く。

いのちの海峡

いのちの海峡

作詞:田久保真見
作曲:幸耕平
唄:大月みやこ

 田久保真見の詞は前後半四行ずつの八行がワンコーラス。言葉多めのそれに、幸耕平が曲をつけた。前半が語りで静か、後半は派手めに歌い回せるタイプ。
 それにしても大月は、歌いたがる人だ...とつくづく思う。前半の語りの最後あたり、「さあ、この後はたっぷり行ける」とでも言いたげに、歌唱にもうスイッチが入っている。
 大月・幸のコンビは、生きのいい歌づくりでいくつか、ヒット曲を作った。曲と歌にドライブ感があって、快い乗り。それをせめて野放図にしなかったのは、大月の年の功か。

男の意地

男の意地

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 歌い出しの歌詞一行分は、大てい低めに出る。ドラマの序章だから、そういう型で、歌のヤマ場へ向けた段取りをするのだ。意表を衝くケースでは、頭から高音で出ることが多い。ところがこの作品、水森英夫の曲は、その一行めの後半で突如、高めのヤマを張った。
 池田の力量、声味、覇気が、そこで誇示される。引き続き、張り歌の妙味が引き出される高音部が二個所ほど、仁井谷俊也がレトリック系の詞をうまくまとめたのも手伝って、インパクトの強い歌が出来上がった。

雨の函館

雨の函館

作詞:田久保真見
作曲:岡千秋
唄:角川 博

 岡千秋の曲が、歌い出しから高音でガツンと来た。となれば一コーラスにヤマ場は三個所の訴求力が生まれる。田久保真見の詞は函館から鹿部へ、傷心の女を旅させて器用。鹿部ねえ...と個人的な感想が生まれる。僕らの恒例の旅先を入れたのは岡の入れ知恵か。

酒とふたりづれ

酒とふたりづれ

作詞:たきのえいじ
作曲:岡 千秋
唄:秋岡秀治

 作品は大てい、作曲家が歌う見本ごと歌手に渡される。だから歌い手は、作家の歌唱に引きずられがちになる。秋岡のこの作品は、高音の声のつぶし方、低音の揺すぶり方に、岡の匂いが濃いめ。この人の場合、影響されたと言うよりは、意識的に取り入れた気配だが。

冬のすずめ

冬のすずめ

作詞:円香乃
作曲:岡千秋
唄:戸川よし乃

 冬、去った男への思いで、女は雪に埋もれたすずめみたいに、手も足も出なくなっている。そんな心境を前半四行分で淡々と、後半三行分は盛り上げて、戸川の歌が歌詞とメロディーを辿る。岡千秋のポップス寄りの曲、詞の円香乃は編曲・伊戸のりお夫人だそうな。

望郷よされ

望郷よされ

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:三笠優子

 歌い出しを高音で決めた。タイトルからの連想もあって、民謡調に展開するか?と思ったら、じっくり歌謡曲調。作曲・宮下健治は春日八郎に似合いそうな曲を多く書く人で、自然、曲調はなだらかである。それを各コーラス、曲の最後で三笠が、激して聴かせた。

春ふたつ

春ふたつ

作詞:坂口照幸
作曲:四方章人
唄:山本あき

 作家はそれぞれ特有の世界を持つ。作詞家坂口照幸は、地味だがコツコツ律儀なタイプ、作曲家四方章人は、お人柄か穏やかで温かい曲を書く。そのコンビのこの歌は、春の陽だまりみたいにおっとりとした感触。それが山本の声味と巧まない歌唱に、よく似合った。

一厘のブルース

一厘のブルース

作詞:もず唱平
作曲: 島根良太郎
唄:鳥羽一郎

 九分九厘アウトでも、残る一厘で踏ん張ろうという詞は、もず唱平のアイデア。三番には彼の思いが詰まっている。それをサックスが鳴る蔦将包の編曲で、鳥羽がいかにもいかにも...の歌にした。作曲は島根良太郎。どこかで聞いた名?!だが、鳥羽の筆名だとか。

なみだ川

なみだ川

作詞:喜多篠 忠
作曲:岡千秋
唄:小桜舞子

 吹き込みが済んだ夜、たまたま岡千秋と飲む。「いいのが上がった」と力み返っていた。小桜の幼な声と節回し、可憐なくらいに高めの声と、岡の曲の粘着力が微妙なバランスを作る。いじらしさの情がにじむあたり、小桜の歌手十三年めの進境だろうか?

アモーレ・ミオ(真紅い薔薇)

アモーレ・ミオ
(真紅い薔薇)

作詞:百音(MONE)br />
作曲:藤竜之介
唄:加門 亮

 ワンコーラスに「アモーレ」が六回、「アモーレ・ミオ」が二回出てくる連呼型ソング。小道具は赤い薔薇で、それが似合いの女との別れを歌う男唄だ。詞の気分も大づかみで、藤竜之介の曲と加門の歌が、のうのうとにぎやかにマイペース。不思議な仕上がりになった。

MC音楽センター

香西と田久保の「技」に拍手!

 この間、MC通信の対談で、久しぶりに香西かおりと話したら「技」という単語が何度も出て来た。歌手になって二五年、ずっと追求してきたテーマらしいが、歌にそれが、あからさまでないことに好感を持つ。能ある鷹は爪を隠すのだ。作詞家は着想からスタート、それなりの完成度を目指す。せっかくのアイデアも、思いつき止まりでは底が浅くなる。田久保真見が、北島三郎の『百年の蝉』で見せた手際も、いってみれば「技」で、さらっと書いたように聞こえる妙味がある。

酒の河

酒の河

作詞:たきのえいじ
作曲:あらい玉英
唄:香西かおり

 この人はいつも、レコーディングするのはその楽曲の〝基本形〟だと考える。作詞家と作曲家が作品に託した〝思い〟を探り、それに自分の〝思い〟を添わせる。過
不足のない表現を心がけ、
〝こぶり〟に歌ってしっかり伝える。その後、ステージで歌う時などは、仕上がりがかなり変わる。作品が自分の中で育ったさまを、たっぷりめに表現するからだ。
 高音のサビあたり、声を絞って張る個所に苦心が聞こえるCD。よく聴けば言葉のひとつひとつを、ココロの流れの中で際立たせているのに気づく。技の使い方が精緻なのだ。

百年の蝉

百年の蝉

作詞:田久保真見
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 タイトルからして意表を衝く。地中で七年、がんばった蝉の、一途な生き方に胸うたれるのが一番。続く二番はそのぬけがらに、やるだけやった潔さを見る。そして三番で♪人の一生百年ならば 百年叫ぶ蝉になれ...と訴えて、歌を納める。なるほど...。
 ここのところ僕が、その仕事ぶりを追跡している田久保真見の詞。これまで多くの作詞家がトライしてきた人生ソングへ、彼女らしいアプローチだ。意表の衝き方を、奇をてらうことに止めない苦心のあとがある。切り口に蝉か、なかなかにやるじゃないか!

佐渡炎歌

佐渡炎歌

作詞:喜多條忠
作曲:弦哲也
唄:城之内早苗

♪これだけ男と女がいてさ...の歌いだし、何で俺だけモテぬのか...と多勢が実感するところを♪なんであの人知り合うた...と、するりとかわしたのは喜多條忠の詞。そんなとっつき易さで始まる詞を、弦哲也が大きめの曲に仕立てた。サビ二行分の展開、さすがだ。

吹雪の宿

吹雪の宿

作詞:喜多條忠
作曲:弦哲也
唄:松原のぶえ

 ♪夢の糸ならちぎれても...の歌いだし一行、弦哲也の曲が思いがけない高音とその後のはぐらかせ方で出る。「ン?」とひっかかった聞き手を、二行めでちゃんと歌謡曲に落ち着かせる妙手。のぶえの声音の何色かと、巧みな節回しを生かす狙いが垣間見えて楽しい。

なにわ情話

なにわ情話

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋人
唄:島津悦子

 苦労承知で男に従う浪花女の心情ソング。ゆったりめの曲が盛り上がった直後に、わざと長めの間 (ま)を作る。チャチャチャンチャチャンチャンチャン...くらいの寸法で、聞き手が合いの手を入れるスキ間か。岡千秋の思いつきを、島津が〝その気〟で生かした。

名も無い道

名も無い道

作詞:小宮正人
作曲:三好和幸
唄:井上由美子

 も一度夢を見て、相棒と肩寄せ合って、希望を持って生きて行こう...と、自分にも言い聞かせる人生ソング。ドドンドンドンの太鼓に合わせて、井上がパンチをきかせる男唄だ。「あの娘が気合いを入れて、まあ...」と彼女と親しいこちらは、ついニヤニヤしてしまう。

海峡かもめ

海峡かもめ

作詞:三浦康照
作曲:岡千秋
唄:桜井くみ子

 中・低音はしっかり響かせ、たたみ込む個所もそれなりの小気味よさ。歌詞の後半三行分は、声も気持もいっぱいいっぱいまでせり上げた。岡千秋の曲に背を押された桜井の歌。一四年前のMCコンテスト優勝者だが、ずいぶん大人になったし、歌もしっかりした。

さよなら酒

さよなら酒

作詞:森坂とも
作曲: 水森英夫
唄:石原詢子

 けれん味はなくスタスタと、この人らしさの歌が、歯切れよくはずみ加減。主人公の、こまた切れ上がった姿が目に浮かぶようで、宣伝文の「聞いて、歌ってほっこり笑顔」に合点がいった。デビュー二五周年、歌の〝形〟は変わらぬまま〝味〟が濃くなっている。

窓

作詞:瑳川温子
作曲:伴 謙介
唄:ハン・ジナ

 そういえば、熟女のカラオケで聞き覚えがある。インディーズで受けた歌のメジャー展開、時おり現れる、はやり歌の主権在民ぶりが心強い。ハン・ジナの泣き歌が、ところどころシナを作って妙。花岡優平のシャンソンふうアレンジも利いていようか。

メリーゴーランド~涙の贈りもの~

メリーゴーランド
~涙の贈りもの~

作詞:花岡優平
作曲:花岡優平
唄:秋元順子

 「愛」と「恋」と「出
会い」と「別れ」を「涙」
でつないで、レトリックが目立つ詞も曲も編曲も花岡優平。メロディーまでメリーゴーランドふうにグルグル回るタイプを、花岡が書きたかったのか? 秋元に歌わせたかったのか? 秋元の声味は、相変わらず強い。

MC音楽センター
おなじみ東宝現代劇75人の会公演、今年は横澤祐一作・演出の「芝翫河岸の旦那・10号館201号室始末」で、9月26日から場所は地下鉄清澄白河駅そば、例年の深川江戸資料館小劇場。一昨年、同じ横澤作・演出でやった「水の行く方・深川物語」の姉妹編で、戦後20年ほどの深川が舞台。アパートの一室に同居する謎めいた男女5人と、それを取り巻く人々の悲喜こもごもを描く昭和の下町人情劇。出演は内山恵司、丸山博一、竹内幸子、鈴木雅、村田美佐子、柳谷慶寿、松川清、菅野園子、高橋志麻子、梅原妙美、古川けい、田嶋佳子、松村朋子に友情出演の巌弘志と子役の上村沙耶。おなじみのベテラン、芸達者の軽妙なやりとりに、けいこ場でも笑いが絶えない。不肖小西も保護観察下のアヤシゲな中年男で、またまた出ずっぱりの良い役に恵まれた。保護司役で出演もする横澤は、僕のこの道のお師匠さん。二重の監視つきで緊張の舞台となる。日程は9月26日(木)の初日が夜(18:00~)、27日(金)は昼(13:00~)と夜(18:00~)、28日(土)が昼(12:00~)と夜(17:00~)と時間が少しずれ、29日(日)の千秋楽は昼(13:00~)の1回。炎暑もぼちぼち納まって、気候もめっきり秋らしくなるころ、面白さ、乞うご期待デス。 芝翫河岸の旦那・10号館201号室始末


《なりすまし症候群ってのが、あるのかも知れん》
 成田へ向かう夜汽車の中で、ふとそんなことを考える。9月末に芝居でやったむずかしい役どころ夏目磯八から、いつもの自分に戻るのに、ひどく手間がかかっているのだ。うまく行ったか否かはともかく、納得がいっていない。一カ月余のけいこの間、自分なりに少しずつ役に入る努力はした。万引常習犯で服役1年、深川のとあるアパートへ辿りついたあやしげな男・・・。
 その芝居「芝翫河岸の旦那」が、4日間6回の公演を深川江戸資料館小劇場で終えたのが9月29日。それから月も変わった10月だが、疲れがまるで抜けない。寝汗をかいてまだ夢を見る。場面も共演者も同じなのに、僕のセリフだけが全部変わっていて立ち往生。未熟さゆえの未練か。翌10月4日は千葉の富里GCで演歌杯コンペに参加する。そのための前泊で成田へ向かうのだが、こんな体たらくではゴルフになるのかどうか。
 当日は四方章人、杉本眞人と元鹿島一郎の橋本国孝がパートナー。案の定ボールを2個紛失するドタバタで106回も叩いた。背骨が鮭の缶詰めの背骨みたいにグズグズで、足許もおぼつかない。二足のわらじの役者稼業、昭和40年代にタイムスリップ、45才の万引男になり切ろうとした非日常から、一足めの流行り歌屋への脱出は、そう簡単ではないものと思い知らされる。1カ月余留守にして、シワがよった音楽業界のスケジュールを消化しながら、日々フワフワ。溜まった原稿を書き飛ばし、慈恵医大病院の検査に二度つかまり、チェウニのコンサートを見、10日は船村徹記念会館を作る打ち合わせ、11日は神野美伽の30周年コンサートを見る。
 その間にMC音楽センターのリポート用で、11月発売の新曲を聞いた。市川由紀乃の「流水波止場」が幸耕平の曲に乗って、少しラフだがインパクトを強めていて「ほほう!」である。作詞の喜多條忠に「根性をすえろ!」とハッパをかけられて、裸足で歌ったとか。「悲別~かなしべつ」の川野夏美は、中・低音を生かした弦哲也の曲で、うまく物語性を生めたから、これも「ほほう!」西尾夕紀の「龍飛埼灯台」は悲痛なサビに味があって、亡くなった育ての親・新栄プロ西川幸男会長に聞かせたかったと、ホロリとする。
 そう言えばチェウニの新曲「雨の夜想曲」もなかなかで、演歌杯の時に作曲者の杉本に「いいね」と言ったら「そうかい」と、返事はぶっきら棒だった。前半のハーフ、パットした球が、カップをのぞいて止まる残念さが何度もあって、ムッとしていたせいか。もっとも後半は41で回って上機嫌になったから、その時に言えばよかったのだが後の祭りだ。
 詞はさくらちさとである。チェウニのコンサートで席が隣りだったから、同じことを言ったら、こちらはしきりに恐縮した。星野哲郎門下生たちの桜澄舎の〝桜〟をペンネームの苗字にしたそうで、星野の弟子としては僕の妹分にあたる。チェウニがこの曲を歌うとこの人は、左手で白いハンカチを握りしめていた。ちょいとばかり、いい風情ではないか!
 忙中閑の一日、行きつけの美容院へ飛び込んで、
 「何とかせい!」
 と命じて髪をカットした。何しろ芝居が昭和40年代で、役どころが45才。床屋で当時ふうに裾を刈り上げ、まっ黒に髪を染めた。形はともかく、実年齢より31才も若く化けた黒髪が、そのまま残っているのは気色が悪い。芝居のためとは知らない向きは、急に何を若ぶって・・・と思うだろうし、自分でも、カツラを新調したみたいと、鏡の中で呆れたものだ。
 「はい。こんなもんでどうでしょう。髪が伸びたら白髪の部分が出て来ますから、その時点でもうひと工夫しましょう」
 物事に動じない美容師に促されて鏡を見たら、短く切った分だけ黒さが目立たなくなり、髪型も何とか今ふうになった。
 「そうか、これで昭和から平成に戻って来たことになるな」
 僕はこんなことまでバネにして、業界という名の社会復帰へ、鋭意リハビリ中の一幕である。

週刊ミュージック・リポート


うまい具合に雨が上がった。9月26日の昼、台風20号は大きくスライスして、東京はその余波を逃れた。
 「ほらご覧よ。一体誰が来てると思ってるのよ!」
 ゴルフ場でよくぶち上げるセリフを、僕が口走る。深川江戸資料館小劇場の、東宝現代劇75人の会公演「芝翫河岸の旦那・10号館201号室始末」(作・演出横澤祐一)は、この日が初日なのだ。 初日はだれでも興奮するし、緊張もする。まして舞台生活7年めの僕においておやだ。初日だってすんなり本番・・・とはいかない。〝場あたり〟と言って、一場面ずつのけいこが前日から続いていて、この日は午前中からやり残しの10場、11場のAとB。照明やら舞台装置、小道具の出し入れから、演出の細ごまとした手直しまであって、それが一段落した午後からは、本番通りの〝通しげいこ〟で、初日の幕が上がるのは午後6時。
 気分的にハイ状態と緊張の持続が7時間も続くと、正直相当に疲れる。それをミジンも見せまいと気合いを入れる本番前。やたら早めにやって来るのが身内の連中で、例えば小西会の幹事長のトク(徳永廣志)テイチクOBの原田や元スポニチの手下なんか。芝居見物のはずが、終演後の一パイの打ち合わせが先に立ち、次から次とそれに応じざるを得ないのは、
 「前売り4500円で、一年分の義理が果たせるんだから、安いもんだろ!」
 と、こわもての動員をかけているせいだ。
 「芝翫河岸の旦那」は、横澤お得意の深川人情劇。昭和40年ごろ、川沿いの2DKアパートに合流したナゾの男女5人と、それにまつわる人々の悲喜劇が展開する。僕は5人組の一人夏目磯八で、これが万引き常習犯で保護観察下という厄介な役どころ。刑務所暮らし1年で身につけた軽さと、失踪前のカミサンと再会しての二枚目ふうをヨロシク!というのが、演出家の意向だ。
 「大分慣れて来ましたな。当初はこちらがドキドキしたもんだが・・・」
 「よくまあ、あれだけのセリフを覚えるよ。やっぱり好きなんだねぇ」
 「髪を黒に染めて、あの役40代なの? 30才もサバ読めるのは、舞台ならではだよ」
 等々の身内からお世辞を間に受けながら29日までの4日間6公演に、僕は全力投球だ。
 とは言え実際は、相手のセリフを一つ飛ばしてフライングしたり「ええとォ・・・」と、次のセリフが出ずにヒザを叩いたり、立ち位置がズレて訂正したり・・・と、小さな失敗は数多い。事後心優しい観客に、
 「へぇ、全然気づかなかったよ」
 などと言われれば、
 「もう7年もやってる。それくらいは何とかごまかせるよ」
 と、〝慣れ〟を強調するのは、僕の負け惜しみだ。
 「大丈夫よ。私なんかもうメチャクチャ・・・」
 と、一緒の場面が多い竹内幸子や村田美佐子、梅原妙美らが慰めてくれる。同じ楽屋は最長老・内山恵司、劇団社長・丸山博一。さりげない世間話は激励の気配だし、出番や着替えを見守り助太刀してくれるのは巌弘志や柳谷慶寿、古川けい。頭髪をシュッシュッと黒く染めてくれるのが松川清、すれ違うごとの笑顔は鈴木雅、菅野園子、高橋志麻子、それに田嶋佳子、松村朋子といった面々。僕は下町人情劇をやりながら、何くれとない役者人情まで満喫する日々だ。
 ロビーに出れば弦哲也、四方章人、加藤和也らからの花が並び、芋焼酎の「西郷庵」1ダースや栄養ドリンク、国技館の焼きとり、さまざまな菓子、せんべいなど差し入れも山ほどである。70才を過ぎての僕の役者三昧に、音楽業界からの人情の証しか。二足のわらじの軸足が、芝居に移りつつある僕のもの狂いに、何と寛大な人々であろうか。
 初舞台からのご縁の横澤は、今回は作・演出のうえに役者としても共演、優しい叱咤を惜しみない。この劇団でうんと勉強して、
 「さあ、来年は2月が明治座、3月が大阪新歌舞伎座で、松平健・川中美幸公演だ!」
 未熟をタナに上げた僕の〝やる気〟は、とどまることのない秋だ。

週刊ミュージック・リポート

岡千秋、改めての〝初心〟に感じ入る

「このごろ、妙に忙しいんだわァ」と、岡千秋が嬉しそうにチョビ髭をそよがせる。確かに今月など十一曲中四曲も書いているから、ご同慶のいたりだ。上杉には歌の後半、たたみ込まずにゆったりめの演出。多岐川は、男唄ふう骨太メロで決め、山口にはアッと驚かす気のブルース系を提供、真咲は抒情派ふうで、彼女の特色を生かしている。
 ただ単に、多い注文をこなすのに飽き足りず、彼なりの工夫でそれぞれの色を変えようとする。岡の、中年の初心を見る気がする。

~世界遺産平泉を唄う~雪の細道

~世界遺産平泉を唄う~雪の細道

作詞:喜多條忠
作曲:水森英夫
唄:水田竜子

 歌声が芯を食っている。これは歌が伝える気分のよさの、重要な一つだ。水道の蛇口をいっぱいに開くと、水が勢いよくほとばしる感じに似ている。理屈抜きのいい気分、開放感の一種だろうか。
 水田は水森英夫のメロディーを軸に歌って、そんな境地を手に入れた。歌詞の一語々々につかまらないから、歌唱でシナを作る個所もない。結果、感情移入が率直になった。
 喜多條忠の詞は、女の未練をあれこれ書き募っている。それなのに歌には、妙なのびのび感がある。水森流の勝ちだろうか?

黒髪しぐれ

黒髪しぐれ

作詞:仁井谷俊也
作曲:山中孝真
唄:鏡 五郎

 実にソツのない鏡節である。一番の詞、仁井谷俊也がいろんな名詞コトバを並べて、ゴツゴツしているにもかかわらず...だ。一コーラス、大づかみに感情を捉えて、コトバの一つ一つをていねいに、その流れに添わせている。だから表現に淀みがない。コトバの凹凸をならしてしまうのだ。
 そんな作業を鏡は、いい気分そうな仕立て方でやる。一番の歌い納め「...貴船川」の「わ」の歌い伸ばしとフェイドアウトぶりにその一例がある。二番の詞だが、最後の「裏木戸を」は「へ」の方が納まる気がした。

嫁泣き岬

嫁泣き岬

作詞:池田充男
作曲:岡 千秋
唄:上杉香緒里

 夫の出漁を岬で見送った新妻が、無事を祈っている。書き尽くされ手垢がついた題材に、池田充男が物語性を加えて巧みだ。 「三日三晩をのみ明かし」とか「小町娘」
「弁天祭」などを、さりげなくちりばめたベテランの技。上杉はそれを女っぽく歌えた。

酒ごころ

酒ごころ

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:キム・ヨンジャ

 ヨンジャ久しぶりの〝ワサビ味〟である。張り歌の
〝キムチ味〟に対して、小さく歌って大きく伝えようとするこのタイプを、彼女はそう名づける。ひところの都はるみを思わせる路線。粘着力がこの人の持ち味で、歌の「情感」が「情念」
に強まるのが面白い。

北の雪船

北の雪船

作詞:池田充男
作曲:岡 千秋
唄:多岐川舞子

 男唄仕立て、四行詞ものプラス一言の寸法で、岡千秋の曲が、お得意の起承転結を聞かせる。鉈でバサッと切った樹の、木目がしっかり見える心地。それが多岐川の歌をスカッとさせた。シンプル・イズ・ベスト、彼女はデビュー二五周年にいい作品に出会えた。

優しい女に会いたい夜は

優しい女に会いたい夜は

作詞:紙中礼子
作曲:花岡優平
唄:山川 豊

 この節、珍しいタイトルで、これだけで聞いてみたくなる。「優しい女」「一途な女」「詫びたい女」を三コーラスの主人公に見立てた詞ともども、紙中礼子のお手柄か。花岡優平の曲を矢野立美がグレンミラーふう編曲...と、趣向あれこれに、山川が嬉しそうに乗った。

年上の女やけれど

年上の女やけれど

作詞:伊藤美和
作曲:岡 千秋
唄:山口ひろみ

 歌い出し、のっけからブルース系である。「えっ、岡千秋やろ?」「あの、山口ひろみやろ?」と、意表の衝かれ方も浪花弁になる。前田俊明の編曲まで、歌をあおり立てて
〝その気〟だ。岡の大阪暮らし一年半も、無駄にはなっていないかな...と、僕はニヤニヤする。

懺悔のブルース

懺悔のブルース

作詞:田久保真見
作曲: 樋口義高
唄:チャン・ウンスク

 ひところの水原弘や青江三奈を思い出させるブルース歌謡。確かにこの人のあの声と息づかい、妖しげなゆすり方には似合いだろう。昨今、誰もやっていない路線で、スキマ狙いの妙もある。田久保真見の詞は、彼女らしさの語彙と表現が山盛りで、いやはやどうも...。

しぐれの海峡

しぐれの海峡

作詞:久仁京介
作曲:徳久広司
唄:立樹みか

 オーソドックスな〝船もの〟のリズムとメロディーの起伏。これもかつての都はるみふうを、徳久広司の曲が狙ったか。立樹の歌は、しっかりした中、低音を土台に、高音で哀切感をゆすった。歌が聞く側に詰め寄る手際は、この人のシコシコ二五周年の成果だろう。

哀愁・嵯峨野路

哀愁・嵯峨野路

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡 千秋
唄:真咲よう子

 もうベテランの域に達した〝おっとり型〟歌手。その味を浮かす抒情系なら、題材は京都ものと、制作陣は考えたのだろう。気合いが入ってか、仁井谷俊也の詞は各節にあれこれ〝らしさ〟フレーズを詰め込んだ。それを岡千秋が、おっとり系メロでいなした。

殻を打ち破れ137回

 ≪星野哲郎もびっくりするだろう。市川昭介は"やるもんですねぇ"と笑うかも知れない≫

 異様に暑い夏の一日、亡くなってずいぶんの月日が経つ巨匠2人の顔を突然思い浮かべた。MIZMOと名乗る娘たちのアルバムで『アンコ椿は恋の花』を聞いてのこと。若々しいコーラス仕立てで、キャッチフレーズが「3D ENKA」である。なにしろ、

 ♪船が行く行く 波浮港...

 なんてあたりは、上・中・下と三人の声がハモり、揺れて重なり、また離れて...の趣き。伊豆大島へ向かう船が、海原に三隻横一列の編隊を組んだみたいだ。

 「女の子たちで三声コーラスやってみました。サンセイですよ。聞いてみて下さい」

 作詩家協会のパーティーで、作曲家水森英夫から声をかけられた。そこここに知り合いがいて、目顔であいさつを続けていたところだから、その時僕はピンと来なかった。

 「サンセイ? 何の話だろう? 一体...」

 要領を得ないまま別れたが、MIZMOのファーストアルバムに出っくわして、ビビッと来た。女の子3人の声でコーラスをやる三声か。それにしても...と、曲目表を見てもう一度驚いた。『赤いランプの終列車』『下町育ち』『お月さん今晩は』...。洋風なコーラスとはほど遠いイメージの、懐かしいヒット曲ばかりではないか!

 ≪そうか、水森流の挑戦が今度は、昭和歌謡へ新しいアプローチか!≫

 また別の顔が浮かんだ。作曲家でプロデューサーのむつひろし。こちらも七年ほど前に亡くなったが、生前友だちづき合いをした人で『昭和枯れすすき』の作曲者兼制作者。泥くさい演歌のさくらと一郎に、意表を衝いたハモらせ方で歌社会をアッと言わせた。単なる思いつきではなかった。キングトーンズの『グッドナイト・ベイビー』をやっているし、町田義人が歌った『裏町マリア』では、

 ♪いつくしみ深き 友なるイエスは...

 でおなじみの讃美歌312番の演奏に、全然別の歌謡曲を作って重ね、ハモらせた冒険があった。

 水森が育てるMIZMOのメンバーは、東京都出身のNAOに福岡県出身のKAYOとMIKIで、血液型はO、A、Aである。ジャケット写真は、白いブラウスに紺のジャケット、笑顔がなかなかの三人娘だ。このトリオのお楽しみは、三声のハモり方と、このビジュアルでのパフォーマンスなのだろう。艶やかな花びらが3枚、パッと開き、ウーファーとうねり、追っかけたり重なったりしてこそ、3D ENKAではないか!

 三人組のオリジナルは『帯屋町ブルース』で、麻こよみの作詞、水森の作曲。乗りのいいムード歌謡の若者版を作ったあたり、この企画、ちゃんとヒットチャートも狙っている。前面に出ているのは水森らしい音楽的な挑戦。その陰に昭和歌謡を、新しく楽しいタッチで再生産する野心も透けて見える。

 水森、着々の仕事ぶりである。三人娘はいずれも、彼が各地でオーディションをやり、選び出し、育てた。若い才能の発掘と投資が彼流で、僕は脱帽したくなる。

月刊ソングブック


 眼下の海はまっ白に泡立ち、波しぶきの荒れ方がまるで、東映映画のタイトルバック状態。
 「だめだ、こりゃ・・・」
 と僕は観念しかかった。9月16日午前の、湘南葉山の自宅。この日の朝、愛知県豊橋市付近に上陸、関東甲信を通り東北に進んだ大型台風18号の余波だ。テレビでは渡月橋が濁流に洗われて「京都が沈んだ」(17日付スポニチの大見出し)なんて被害のあれこれが続々と報じられている。
 JR東海道線が止まり、東京では靖国神社の16メートルもある老木が倒れ、ケガ人が出たと言う。横須賀線もそのうち止まるだろう。とてもじゃないが、芝居用の衣装合わせになど、出掛ける天候ではない。それでも一応・・・と、確認の電話を入れてみたら、
 「順調に進行してますよ。一段落したんで、昼めしを喰いに行くところです」
 舞台監督那須いたるの応待が、屈託なげに明るい。風も雨もやんで、何事もない気配がありありだから、
 「やばい。葉山と調布じゃ、そんなに天気が違うのか!」
 僕はおっとり刀で家を飛び出した。僕の衣装試着の順番は現地15時からー。
 「これじゃ少し派手かしらねぇ。昭和四十年ごろの話でしょ。ワンピースに、こんな飾りはないわよね。じゃ、こっちを着てみる?」
 迷い子になった老婆に扮する鈴木雅が、まるで着せ替え人形になっている。東宝現代劇75人の会公演「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」の準備。深川江戸資料館小劇場で26日から4日間の本番と、期日が迫っているから、台風そこどけ! の気ぜわしなさだ。
 深川の古アパート2DKの一室に、突然同居することになったいわくありげな男女5人。食堂の賄婦で芝居の全編を仕切る形の竹内幸子と、その同僚で子持ちの梅原妙美は、それぞれ衣装が決まってヤレヤレ・・・。下町で暮らす人々の、悲喜こもごもを描く人情劇だから、女優さんたちの衣装は美しさよりも生活感が主。作、演出の横澤祐一が、登場人物全員のいでたちに眼を光らせている。
 現場は京王線調布駅から徒歩7、8分の東宝舞台衣裳部。入り口に「指定可燃物貯蔵取扱所」のプレートがあり、収められている布類が4300キロと表示されている。舞台衣装の山をキロで表すのも凄いが、長谷川一夫、山田五十鈴、森繁久弥、森光子らを中心に、長い歴史を誇る東宝演劇の衣装のすべてが、その中身なのだろう。時代劇から現代劇、西洋のミュージカルまで、登場する老若男女が着たものは何でも、ここには蓄積されている。万引常習者で保護観察下のアヤシイ中年男・夏目磯八の僕の5ポーズ分など、ひょいひょいと出て来て、係りの人の手際もいい。
 さて、その夏目磯八だが、盗癖が仇で職を失い、家庭も崩壊する。その元妻役の村田美佐子は10日から16日まで、別の芝居「殺しのリハーサル」(中目黒キンケロ・シアター)に出演していたから、僕との再会シーンのけいこはおあずけ。もう一人僕とメルヘンチックにからむ子役の上村沙耶も学校が忙しくてけいこを休みがち。そのおかげで僕は、それぞれの代役下山田ひろの、田嶋佳子、松村朋子なんて女優さんたちとの、やりとり浮き浮きがおまけになった。
 威勢のいい八百屋のおかみ古川けいとは、帰路の車中横浜あたりまで演劇よもやまばなし。ヒステリックな憎まれ役の菅野園子からはサプリメントふう飲み物を時々もらい、会長秘書役の髙橋志麻子とは、けいこ場のすみでゴルフ談義。75才を大分過ぎてから獲得した、少々はなやぎ気味の日々だ。
 「けっこうではないですか、ははは・・・」
 と、巌弘志のお人柄ジョーク。煙草厳禁のけいこ場から小道2筋ほど先の谷端川緑道へ出掛ける喫煙組柳谷慶寿、松川清とのひそひそ話などが加わるのが、僕の日々是好日の種々相──。
 台風一過、お定まり晴天の17日は、葉山拙宅眼下の海はベタなぎ。真向いにくっきりと、青い富士山が姿を現した。春、夏は靄に隠れ、秋とともに戻って来る景観だが、ベランダからそれに向かって、同居する猫の風(ふう)が、大あくびをした。

週刊ミュージック・リポート


 「ちょっと待ってね」
 芝居を途中で止めて、演出の横澤祐一が席を立つ。スタスタと役者の輪の中へ入って、
 「ここ、こういうふうに行けないもんかね・・・」 と、その中の一人の役をやってみせる。注文というよりは提案。ツツツーと動いて、スッと振り返ってセリフ・・・って調子で、過不足なく自然に、身ぶり手ぶりがついてスピーディーだ。
 《うまいなァ・・・》 
 と僕は、けいこ場の隅でうっとりしてしまう。 9月26日からの東宝現代劇75人の会公演「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」は、立ちげいこに入っている。池袋・要町のけいこ場みらい館大明へ、せっせと通うベテランたち。深川江戸資料館小劇場でやる4日間6回公演のために、けいこは1カ月余。炎暑に文句を言いながらみんな笑顔で、とことん芝居が好きな人たちの集団なのだ。
 最年長の内山恵司は80才過ぎ。木材業の山岸総業の会長役で、
 「そんなことはどうでもいいんだ!」
 と、びっくりするくらいの大音声。その前に平伏して号泣する丸山博一は80才一歩手前。事情があって行方をくらました(つもり)の理由を問い詰められる、山岸総業の番頭役だ。舞台は深川、気っぷのが良い江戸っ子のやりとり。それにしても、
 《号泣なんてむずかしい代物を、何度でもくり返せるなんて・・・》
 と、僕は丸山の手腕に茫然とする。やってみろと言われたら、僕は逃げ出すだろう。
 内山、丸山、横澤は、この劇団を背負って来たお仲間。役者同志の敬意からか横澤の提案は、この二人には口だけ。
 「丸さん、こういうのどうかね」
 「うん、それならこうしようか」
 とまるでかけ合いで、それに、
 「いいね、いいんじゃないか、あはははは・・・」 と、内山が応じたりする。
 1幕11場、174ページの脚本を仕上げるに当たって、横澤は劇団員それぞれの個性と役どころをにらみ合わせ、いわゆる〝あて書き〟をしたらしい。もしかすると執筆する日々、彼の脳裡では多くの役柄と役者たちが、具体的に動き回っていたのかも知れない。だとすれば彼の演出は、それぞれのイメージと動きを修正し改善し、仲間たちの生身でドラマを改めて構築する作業に似てはいまいか?
 そう考えると僕は、寒気に襲われる。万引常習犯で保護観察下におかれる、夏目磯八というアヤシゲな中年男の僕の役を、彼はどうイメージしていたのだろう?
 「小西さん、そこのところはこういうふうに行けませんか」
 と優しげな彼の提案は、実は彼の考えと僕に出来ることのギャップの大きさを、埋める作業になってはいまいか?
 やって見せてくれる相手は、名うての芸達者。緩急実によく動いて無駄がなく、芝居は体技のお手本みたいだ。その足の運び、所作のいちいちに目を凝らしながら、僕は自分の未熟さ、不甲斐なさにホゾを噛む。
 喉に悪いか・・・と8月、煙草をやめかけたら、パイプ煙草をふかす役が回って来た。これは禁煙どころではないと、パイプを仕入れてぷかぷかやったら、やたらに目が回る。それにしても慣れぬ手つきではみっともない・・・と、そちらのけいこも加わった。結果僕の台本は、動きの矢印や止まる立ち位置に、パイプを消す場所、火をつける場所と、赤いボールペンの書き込みがどんどん増えてゆく。
 セリフに感情をこめすぎると重くなる。これは歌と同じだな。妙な身ぶり手ぶりは芝居を小さくする。うん、技術に頼るなということで、歌も同じだ。ちょろちょろ余分に動くと、舞台が濁るってか。これは歌の場合にどう通じるだろ? 双方芸ごとだから、僕は、歌と芝居の二足のわらじのあちこちへ、時おり行ったり来たりする。
 本番16日前の9月10日、僕はセリフを覚えることと動きをマスターすることで頭がパンクしかけて、まだ役づくりなど手が届かぬままにいる─。

週刊ミュージック・リポート

 
 《この時期の花は、何といってもさるすべりだな》
 そんなことを考えながら、炎暑の昼を毎日歩いている。地下鉄有楽町線で池袋の隣り、要町駅そばからうねうねと続く谷端川南緑道。もともと川が流れていたところを、遊歩道にしたらしい、都内によくあるタイプだ。その一部の両側に、さるすべりが10本ほど並木を作っている。その花のぷちぷちした紅に、茨城にいた少年のころの夏を思い返したのは、途中に少年の像がいくつかあり、幼児用の木馬やブランコが点在するせいか。
 行く先は「みらい館・大明」である。廃校になった小学校だが、ヨガや絵画、詩吟などいろんなサークル活動が活発で、芝居やダンスその他のけいこ場としても活用されている。僕が通うのは2階の211号室。もともとは工作室だったという広めの部屋で、東宝現代劇75人の会のけいこが進んでいる。横澤祐一作、演出の「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」全11場。僕はこの会の公演に参加して、もう5年になる。
 「ごぶさたしてまして・・・」
 「お元気そうで、しかしまあ、暑いですねぇ」 などと、すっかりおなじみの先輩たちと、嬉しそうにあいさつをした顔寄せから、台本の読み合わせ。劇作家菊田一夫が創設したという由緒正しいこの劇団の、僕は新入り一兵卒だ。
 演し物は昭和40年代、東京深川の運河のほとりにある集合住宅が舞台。建った当初はモダンだったアパートが東京大空襲に遭遇、外部は残ったが内部は焼けただれたのを内装し直した。それからもう20年以上が過ぎた代物。そこの一室に流れついた5人と、それを取り巻く人々の、おかしくてやがて哀しい昭和の下町人情劇が展開される。一昨年、やはり横澤祐一作、演出でやった「水の行く方・深川物語」の姉妹編か。
 あの時の僕の役は、材木問屋の番頭・武さんで、 「ねこ背をのばさなくちゃいけませんね」
 と、僕が自分の体格を気にしたら、
 「武さんは筏乗りあがりだから、ねこ背でいいの!」
 と、横澤に教えられた。今回は何と、万引きの常習犯で保護観察中。勤め先も家庭もパアになって、そのアパートにたどり着いた中年男。役名も夏目磯八・・・というのを、貰ったから、目が白黒だ。
 台本の読み合わせは、当然セリフのやりとりが中心。もともとどんなキャラの男で、それがどんな気持ちで人々と合流し、場面々々でどんな心境にあるか・・・をセリフににじませなければならない。演出の横澤は、7年前の明治座での初舞台でお世話になり、その後昵懇・・・のお師匠さんだが、甘えてはいられない。
 「あのね、そこんところは・・・」
 と、ダメ出しの口調は優しいが、眼鏡の奥の眼は笑ってなどいないから、僕の台本には、書き込みメモが増えるばかりだ。
 今年は1、2月の2カ月間、名古屋・御園座の「松平健・川中美幸公演」に出して貰った。松平とは初対面だから大いに緊張したが、栄、錦、大須観音周辺・・・と、ネオン街での談論風発もしっかり堪能した。それ以来7カ月ぶりの舞台である。毎晩寝つきが悪いほど、わくわく気分が止まらない。電車の中でも、沢山あるセリフのあれこれが頭の中を堂々めぐりして〝移動中は睡眠〟の習性がふっとんでしまった。
 《何はともあれ、集中!集中!》
 と念じている後期高齢者の老優・僕を、仰天させたのは藤圭子の自殺。それが大騒ぎになった翌日に、彼女の育ての親・石坂まさをを送る会である。テレビや週刊誌からコメントを求められるのも、この二人と親交があったからやむを得ないか・・・と、二足のわらじの一足めに、突然軸足が変わった何日か。
 けいこのあと、連夜の反省会!? で一杯やるのが、池袋の「癒禅」という店。気のいいおやじが、我々用のメニューを考えてくれるのを尻目に、ゲラ刷りに校正の赤を入れた夜など、冒頭のさるすべりの花の望郷気分も霧散したものだ。
 今回公演は9月26日の初日が夜、27、28日が昼夜、29日の千秋楽が昼の計6回で、場所は例年通り深川江戸資料館小劇場。乞うご期待! である。

週刊ミュージック・リポート
夜汽車は北へ

夜汽車は北へ

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里

 歌詞を二行ずつ、三ブロックに分けて、徳久広司の曲は序破急の見本みたい。普通十一度前後の音域で歌い易さを狙う演歌だが、十三度というハードルが、サビの「急」の二行に用意された。声しならせて歌いこなすのが野中の役割。歌手二五周年のやる気を聞かせた。

MC音楽センター

殻を打ち破れ136回

≪やっぱりこの人には、六本木界わいが似合いなのかも知れない≫

 7月6日の昼、西麻布、長谷寺の阿久悠の墓前で、ふっとそんなことを思った。長い作詞家生活のほとんどを、彼は六本木の事務所や仕事部屋で過ごした。そのせいだろう、彼と僕の食事や酒、それではずみをつけての打ち合わせは、六本木が多かった。彼の行きつけの店、僕のなじみの店。今、思い浮かべるのは大通りの雑踏、角を曲がれば突然、ひっそりと静かな路地…。

 1970年、北原ミレイが歌った『ざんげの値打ちもない』の斬新さに仰天して、賛辞を書きまくった僕は、以後37年もの彼との親交を得た。その間の彼の住まいは横浜と伊豆である。睡眠時間も削るヒットメーカーの日々に「なぜ、そんな遠距離から?」といぶかりながら、午前さまになるまで引き止めた夜も多い。近ごろ僕は湘南・葉山に住み、同じ質問を受けるようになった。長い道中の往き来の中で、スイッチがパチンと鳴る。「暮らし」と「仕事」の気持ちが、はっきり入れ替わるのだ。もしかすると彼も、似たような感触を持っていたのかも知れない。

 阿久の父は横浜、母は伊豆で葬った。彼はその墓を伊豆に作った。相模湾を一眺する高台のてっぺんで、結局彼もそこに入る。それが今年、七回忌を機に長谷寺に移された。雄子夫人も長男太郎氏夫妻も東京暮らしである。僕ら親しかった人々の墓参の足も、遠のきがちになっていた。

 「それじゃ、寂しがりやの彼も心許なかろう」

 というのが、皆の気持ちになっていた。だから7月6日は、彼の新住所!?で、七回忌の法要が営まれた。長谷寺は「ちょうこくじ」と読む。福井の永平寺の別院で、徳川家康の時代に開かれたという。由緒正しさで満たされたその境内に、伊豆から移した阿久の墓がある。とび色の石に「悠久」の二文字が大きく刻まれて威風堂々。傍らに

 「君の唇に色あせぬ言葉を」

 と、阿久が遺した言葉を刻んだ碑を、雄子夫人が建てている。

 「しかし、暑い…」

 言っても仕方のない言葉を、多くの参会者が口にした。“千年猛暑”とやらの昼さがり、この日関東地方の梅雨が明けた。命日が8月1日だから、彼の法事は日照りの中に決まっている。僕はそれに、彼のライフワークになった「甲子園の詩」を重ね合わせる。毎夏高校野球大会の全試合を熟視して一日一詩、スポーツニッポンに連載したのは何と28年間、363編におよんだ。彼にも僕にも長いこと、高校野球抜きの夏はなかった。

 「う~む」

 法堂の読経には、都倉俊一、森田公一、飯田久彦、周防郁雄、市村義文の各氏ら、ゆかりの人々が唸った。金糸銀糸の袈裟の僧が、墨染めの僧衣を従えて総勢実に21名。一人こげ茶の衣の僧が経を先導、他に鐘と木魚の担当が各1だが、鐘を叩く棒は野球のバット大である。

 「どうだ!っていう阿久さんの顔が見えるようです」

 関係者の一人が言って笑った。そう言えば阿久の仕事は全部「どうだ!」とばかりのインパクトの強さに始まり、これ以上なしの完成度を加えて見事だった。

月刊ソングブック

 
 北海道・鹿部に居る。この地名、この欄でも20回以上書いているから、ハハン・・・と思い当たる向きもあろう。作詞家星野哲郎が〝海の詩人〟のおさらいで、毎夏21回も通った先、
 「先生の故郷、山口の周防大島よりも、ずっと多く来てくれた」
 と、町の人々が自慢するところだ。
 その「鹿部ぶらり旅」を記念するモニュメントが出来て、8月20日、除幕式が行われた。道場水産の社屋前、白みかげ石の柱二本の間に黒みかげ石の銘板をはさんだ縦2メートル、横90センチの堂々たる代物。銘板には、
 「道場水産道場登さんへ・感謝」
 の文字が大書され、建立者には、星野哲郎、里村龍一、岡千秋、小西良太郎の名が並ぶ。道場氏は〝たらこの親父〟の愛称で知られる愛郷の有力者で、島津亜矢の「うれし涙の登ちゃん」のモデルと書けば、読者諸兄姉は再びハハン・・・だろう。 ぶらり旅はこの登ちゃんの、物心両面の熱い支援で続いて来た。星野の北海道後援会長を自認、その大きな業績と温かい人柄にゾッコンで、しばしば、
 「星野先生は、めんこいなァ」
 と、少年のような眼を輝かせ続ける人だ。水産加工会社を一代で築いた力行の苦労人。小柄でやせぎすの愛すべきキャラで、彼を漫画チックに描いたイラストも、モニュメントの銘板を飾っている。 星野の没後も里村、岡と僕は詩人の名代の形でぶらり旅を続けている。毎年好意に甘える実情を、
 「先生と俺たちは、登ちゃんのひと財産くらい飲み尽くしてるなァ」
 と僕らは思い、酔余、モニュメントづくりを話し合った。元気ならば星野は、今年が作詩生活60周年、3年前に88才で亡くなったから88才の米寿に当たる。ころはよし、星野の感謝の思いもこめて・・・と実行に移す。星野の長男有近真澄もまき込んで、製作費は4人で割勘・・・と、演歌的なドンブリ勘定だ。
 有近に否やのあろうはずもなく、4人打ち揃って出かけた鹿部は、到着直前に例のゲリラ豪雨、それが間もなくカラリと晴れるのを、
 「登ちゃんの人徳だろ」
 と勝手にきめ込む一幕もあった。
 生まれて初めて除幕の綱を引いた4人は、現われたモニュメントにウッ! と息を詰める。地元を代表、建立に尽力した新栄建設岩井光雄社長と町役場の佐藤明治課長は涙ぐみ、道場氏の長男真一専務と二男登志男常務は正装の目が真っ赤だ。登ちゃん夫人の尚子さんは甲斐々々しく内助の功そのものの立ち居振る舞い。それを道場家の女たちが手伝い、登ちゃんの孫の女児5人があたりを駆け回る。取り巻くのは顔見知りの鹿部の人々50人余の笑顔・・・。
 当の登ちゃんは、口をへの字に結んで、天晴れの主人公ぶりだったが、式後の祝賀会の隅っこで感激丸出し。前夜はまだ見ぬ記念碑にまんじりともせず、午前二時過ぎに酒を飲んでやっと寝た・・・と告白して、うれし涙を拭った。
 「星野も喜んでいるでしょう」と長男の有近。 「年寄りを喜ばせるのもなかなかいいもんだ。これは鳥羽一郎の〝北斗船〟の歌碑と並ぶこの町街の名物になるだろう」
 と、いい気なのは里村、岡と僕。そこから先はいつものぶらり旅同様、無礼講の2泊3日である。
 鹿部は函館から川汲峠を越え、噴火湾沿いに車で北上して小1時間、人口5千の漁師町・・・と、これもずいぶん書いた。それが昨今、新川汲トンネルとバイパスが出来て、大分近くなっている。そこでの僕らの遊びは、朝6時出発の海釣りとゴルフ、合い間に絶え間のない酒宴・・・。
 今回の釣りでは僕がこの日一番の大型黒ゾイを筆頭に、ガヤ(めばる)あぶらっこ(あいなめ)など10数匹と上々の出来。海中で暴れる黒ゾイを、1メートル近い!・・・と僕が叫ぶと、岡が40センチはあるか!・・・と検証する。ガヤはガヤガヤするほど沢山居ての地元名らしく、各人ほとんど入れ食い。他にはババガレイも1尾上がって、番屋の朝食の舌づつみを盛り上げた。
 僕にとっては人生最高の釣果。そのうえ記念コンペも優勝した。人間80才に手が届く年になっても、生まれて初めてをまだ体験出来る。何たる幸せであろうか!

週刊ミュージック・リポート

 
 机の上に電話帳みたいに分厚い本が一冊ある。「完全版甲子園の詩・敗れざる君たちへ」で幻戯書房から出版された。1979年から2006年までの28年間、スポーツニッポン新聞に毎夏連載した高校球児たちへの詩、363編が収められている。甲子園の15日間、全試合の一投一打を見据えて阿久悠が書いた、極上のエッセイ詩である。それが彼の七回忌のこの夏、ついに一冊にまとめられた──。
 阿久の記念館は彼の母校・明治大学のアカデミーコモン(駿河台)にある。そこで7月20日「甲子園の詩」をテーマにしたトークショーが開かれた。来場者3万人と、この本の出版を記念した催しで、宇部商の元投手藤田修平さんと審判員の林清一さんが15年ぶりに再会した。二人は98年、対豊田大谷戦で延長15回、ボークでサヨナラ負けした投手と、それを宣告した球審である。
 その試合を阿久は「敗戦投手への手紙」という詩にした。快晴の真夏日、5万を超える観衆に見守られて15イニング、210球を一人で投げ抜いた藤田さんの、次の球の動作がボーク、豊田大谷に決勝の3点目が入った。2年生だったこの敗戦投手を讃えた詩を、阿久は「藤田修平君、来年また逢いましょう」と結んでいる。
 その藤田さんは、15年めの今もほっそり見える好青年、山口県からこの日のために上京した心境を、
 「林さんに、元気でやっていますと言いたかった」
 と話した。林さんは「感無量です」と、その後の屈託に触れ、試合後にボールを渡しに来た藤田さんに、
 「そのまま持って行きなさい」
 と押し返した秘話を語った。試合終了の球は、勝利チームに渡すのが常なのだそうな。
 決定的なシーンの映像が写し出され、阿久の書いた詩が朗読される。僕の隣りの席に居た阿久夫人の雄子さんは、
 「そうだったんだ」「そうなんだ・・・」
 と何度も呟き、感動のご対面が終わると、
 「阿久にも見せてあげたかったね」
 と僕に同意を求めた。僕は涙がこぼれそうで、その視線を受け止め損なった。
 阿久は球児たちを「甲子園という聖地を目指した巡礼者」と捉え、少年たちの闘う姿に「正しさ」「美しさ」「清らかさ」「厳しさ」「潔さ」を見、そういう美点を限りなく「貴いもの」とした。363編、28年分の労作は、少年たちの純真と詩人の真情とが出会った証だったろうか。この大河連載は、スポニチという媒体への好意と、彼と僕の親交の中から生まれた。夏の夕刻、日々FAXで送られて来る彼の詩の第一読者として、一体僕は何十回心を揺すぶられたことだろう。
 《さて・・・》
 と僕は、手許の「完全版」を改めて手にする。どのページをめくっても、夏まっ盛り。少年たちは躍動し甲子園の興奮は、阿久の独特の筆致で詩情豊かに記録されている。
 《ああ、あの年のことだ・・・》
 と、思い返す個人的な感慨や、その時々の出来事は山ほどある。御前崎の別荘に、小学生だったころの一人息子太郎君とこもり、この連載の執筆をするのが
 「父子の連帯を深める好機になっているみたい」 と、苦笑した阿久の顔が目に浮かぶ。その息子深田太郎君ももはや壮年。家庭も子供も持って、この本への協力をはじめ、阿久の遺した大きな業績を維持し、発展させる仕事に打ち込んでいる。 七回忌のこの夏、阿久の墓は伊豆から西麻布の長谷寺に移され、親しい人々で法要が営まれた。六本木通りを渋谷へ向かい、フジフィルムのビルの先を右折した突き当たりである。彼には長く仕事場とした六本木界わいが似合いだし、
 《第一、ここならちょくちょく来られる。彼も寂しくないだろう》
 と、僕らはうなずき合ったものだ。
 八月一日、間もなく六回目の彼の命日が来る。
 《それにしても・・・》
 と僕は、出揃う高校野球の代表校と、各地で大きな被害を生む豪雨とを思い合わせる。異常で不穏な今年の夏、夏男の阿久は一体どう捉えるのだろう?

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ135回

 ≪友あり、遠方より来たる!≫

の感があって、ワクワクした。岡林信康から新しいアルバム『アナザー・サイド・オブ・オカバヤシ』が届いてのこと。収められた13曲が全部吉岡治の作詞で、ちょうど5月17日が、彼の3回めの命日だった時期にも重なった。僕はフォーク全盛の1970年前後から岡林の世界に傾倒し、親交の長かった吉岡は、乞われて葬儀委員長として見送った仲――。

ゆっくり聴ける時間を作って、岡林のCDと向き合う。『銀座エクスプレス』は歯切れのいいラテン系。『バイバイブルース』や『北酒場』は気分よくスイングして『紫陽花情話』『望郷渡り鳥』『憂忌世節』などは岡林流演歌。『京の覚え唄』は古都絵巻で女の嘆きを包み込んだ風情で、

≪いいじゃないか!≫

僕は一人で乾杯したい気分になった。

二人のつき合いは40年ほど前にさかのぼる。吉岡がこれらの詞を岡林に届けたのは、当初の二年たらずだったという。『真赤な太陽』を岩谷時子の代打で大ヒットさせた後『真夜中のギター』『八月の濡れた砂』ほかを散発、吉岡が長いスランプに陥った時期に合致する。

「真剣に転職を考え、妻の実家の関係である大阪のダンボール会社に、なかば就職が決まっていたほど…」

と、後に本人が書くほど、歌書きがはまった迷路は深く暗かったようだ。

それを岡林はCDのライナーノートで、

「作詞家になり切れない詩人の迷いだったろう」

と書く。サトウハチローの門下生としての、詩人のプライドがそうさせたのか?とも。

♪闇の中こぼれ落ちた日々を 拾うようなレールの響き…(銀座エキスプレス)

♪白茶けた街はジグソーパズルのよう ばらまいた夢の迷い子たちばかり…(僕のベッドへおいで)

♪殻を背負ってるまいまいつんぶり 千夜待っても来ない人(京の覚え唄)

などのフレーズが、今回のCDにもちりばめられている。吉岡はそんな迷いや未練の時期を『大阪しぐれ』のヒットを機に振り切った。『大衆歌謡の娯楽性』がはっきり見えて来て、以後は『さざんかの宿』『命くれない』『天城越え』などミリオン・ヒットの連発。長いトンネルを抜けたのだ。

吉岡の低迷期は、フォークソングの全盛期と重なる。学園紛争や70年安保闘争が背景にあり、岡林たちシンガーソングライターは、己の信条、生きざまを歌で訴えた。吉岡はそんな生々しい本音の世界と、絵空事の歌謡曲との落差を見つめていたのかも知れない。しかし――。

「少々文学的であり過ぎ、難しいのではないか」

と岡林が振り返るこの作品群こそ、今あらまほしき流行歌を示している。昨今の歌謡曲の多くは、安直な娯楽性によりかかり過ぎ「詩のココロ」を見失って久しいのだ。そういう意味でこのアルバムは、決して吉岡のアナザー・サイドではない。同時に依然としてみずみずしさを失わないボーカリスト岡林にとっても、この作品集はやはりアナザーサイドではない気がするのだが、どんなもんだろう?

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 その昔、彼は親しい人々から〝トラちゃん〟と呼ばれていた。
 《タイガーズのファンなのかな。関西出身かも知れない》
 僕はそんなふうに聞き流していた。昭和40年代の初めごろから、よく彼を見かけたのは、溜池にあった日本クラウンでの話。
 7月17日夜、グランドプリンスホテル高輪で開かれた。中村典正の作曲生活50周年を祝う会で、そのニックネームのいわれを聞いて、僕は笑った。中村は上京当時、歌手若山彰の鞄持ち。空港で搭乗券を買う段になったが、若山は彼の姓は知っていても、名前までは判らない。面倒だから〝中村寅??〟と書き込んだそうな。そのころプロゴルファーとして高名だった人の名で、彼は親愛の情をこめて〝寅さん〟と呼ばれていた。
 僕は昭和31年に茨城から上京、スポーツニッポン新聞社のアルバイトにもぐり込んだが、同輩の少年たちと一緒くたに「ボーヤ」と呼ばれた。雑用係りには姓名など必要なし、内勤の記者たちの「ボーヤッ!」と呼ぶ声に、付近にいた誰かがすっ飛んでいく役割だった。その後38年に取材記者に取り立てられて、創立したてのクラウンに日参したが、レコード会社も新聞社も、そんな牧歌的な雰囲気の時代だったー。
 中村の50年を祝って、彼の作品で芽が出た歌手たちが、次々に登場した。門脇陸男が「祝い船」川野夏美が「あばれ海峡」森若里子が「浮草情話」長保有紀が「火縁」藤あや子が「むらさき雨情」・・・。乾杯の音頭を取った鳥羽一郎が、
 「数えてみたら、書いて貰った歌が27曲もあるよ。覚えてますか?」
 と笑わせながら「男の港」を歌い、最新の弟子三山ひろしが「人恋酒場」と「男のうそ」を歌った。
 中村はもともと歌手志願。それが紆余曲折あって作曲に転じ、中村千里、中村典正、山口ひろしと、三つのペンネームを使って頑張った。昔から口下手、世渡り下手と、一目で判る風貌と挙措のせいか、僕も会えばあいさつはしたが、同じクラウンに通いながら、ついぞ話し込んだことはない。しかし、彼が書いた曲だけは折りにふれてよく聞いて来た。いわば〝男唄の手練者〟である。太い幹を鉈で削って仕上げたような、骨太の作品に魅かれた。歌手や詞によっては、あれこれ装飾が増えるが、幹に当たる部分は同じ。枝葉を残して賑わいを加える風情で、そこが作品のなじみやすさに通じただろう。昭和から平成へ、中村典正はそんな作柄で、演歌の下支えをして来た一人だ。
 夫人は歌手の松前ひろ子で北島三郎の姪。若いころは高嶺の花で、松前の第一印象も、
 「あんなおじさんなんて、嫌!」
 だったそうだが、彼女が交通事故にあい歌えなくなった時期に、
 「とりあえず結婚しよう」
 と申し入れて、初志を貫徹したらしい。彼女が歌手として再起するまでを、作曲家として支えたのが彼・・・ということになるが、私生活はまるで逆。横のものを縦にもしない手間のかかる亭主を、もっぱら彼女が切り盛りして、家庭を作り子をなし、孫にも恵まれての今日だ。
 ひところ大病をしたらしく、ますます寡黙で無表情の中村を、この宴でも松前が甲斐々々しく引き立てた。
 「このひと、心だけは真っ白なんです」
 と涙ぐみながら、松前は「祝いしぐれ」や「愛に包まれて」を、中村とデュエットする。松前の右手と中村の左手の、指と指をからませ合う手のつなぎ方が、はじめ〝夫唱婦随〟近ごろは〝婦唱夫随〟のなごやかさで、松前は天晴れの賢夫人ぶりである。
 「人生にはチャンスが二度ある。二度めをしっかりつかまえよう」
 というのが、遅咲きの弟子三山へ、挫折を体験した師匠中村の教えだったとか。その弟子の打ち明け話、
 「マンボが駄目になった」
 と師匠に言われて目が点になったが、
 「実はお掃除ロボットのルンバでした」
 のくだりには、会場の皆が大いに笑ったものだ。

週刊ミュージック・リポート

 
 スーツ姿の初老の紳士たちが、田端義夫の霊前に花を手向ける。一般ファンの部、粛然とした列が続いて200人ほどか。もちろん熟女たちも加わってはいるが、近ごろよく見かける浮き浮き集団とは、かなり雰囲気が違った。
 《昭和が押しかけてきた。田端の歌とこの人たちの青春は、まさに表裏一体なんだ!》
 7月3日午後、帝国ホテルで開かれた「田端義夫さんのお別れ会」の会場で、僕は胸にこみ上げる思いに、人知れず狼狽した。
 《やっぱり「かえり船」かなぁ》
 終戦のあくる年昭和21年に発売されたこの歌は、文字通り日本人の心を揺すぶった。敗戦の混乱が国内外にある。焼土と化した都会で、人々の消息は途絶え、国中が飢えていた。そこへ大勢の日本人が外地から、命からがら引き揚げてくる。生まれたのはどん底の再会劇だが、人々は苦難や失意、絶望に屈することなく、明日への一縷の希望を見つけようとした。そんな世相の主旋律みたいに、田端の「かえり船」はあのころ、全国に浸透した。彼が後にこの歌を、
 「あまり感情をこめず、出来るだけ淡々と歌った」
 と語るのは、当時の人心のやる瀬なさを身をもって知ったせいだろうか。
 4月25日病没、94才、現役第一線のスターのまま・・・とは言え、正直なところ過去の人と、僕は思っていた。「お別れ会」は、遺族とテイチクエンタテインメント、日本歌手協会の合同で催された。祭壇は南国の花でカラフルに、会場には参会者の〝うわさ供養〟のよすがとして、沢山の思い出写真のパネル。愛用した衣装の背中には、肩口からギターを支えたストラップの跡。「オ~ス!」と片手を挙げた等身大の写真や、小指を立てた彼らしい大写真などもそこいら中に並ぶ。流れるのは「島の船唄」「玄海ブルース」「大利根月夜」「梅と兵隊」「ふるさとの燈台」・・・。3カ所のプロジェクターには公開中の彼のドキュメント映画の抜すい・・・。
 亡くなった直後に営まれた家族葬から2カ月余あと、これがいわば本葬なのだが、セレモニーなし、軽い食事と酒で終始ご歓談・・・という趣向は、明らかに偲ぶ会の演出。終生「バタヤン」と呼ばれた彼の庶民性と人柄が生かされていた。何しろ当の本人が歌手生活74年の大ベテラン。参会者はそのキャリアのどこかで親交のあった人ばかりである。三々五々で交わす550人余の思い出話をかき集めたら、きっとぼう大な昭和歌謡裏面史が生まれたろう。
 あちこちで、記念写真用にケイタイのシャッターが押される。集まった歌手たちは、親しげな笑顔の輪に囲まれる。「俺は九州のバタヤンだ」と名乗る紳士は、持ち込んだギターで弾き語りを始めた。耳をそばだてれば、同窓会や同郷会ふうな会話が聞える。歌社会の先輩後輩のあいさつや、同業のよしみの遠慮のない放談までが飛び込んで来る。なごやかと言えばなごやか、にぎやかと言えばにぎやかで、去り難い気分か、お別れ会だと言うのに笑顔のオンパレードが続く。そういう和気あいあいの中で聞けば、哀調の田端節もなぜか、浮き浮きとした気分を誘う妙がある。
 そんな会場の祭壇前の空気を、一瞬変えたのが冒頭に書いたシーンである。そこには一つの時代を歌い当てた作品、清水みのる作詞、倉若晴生作曲「かえり船」の、67年におよぶ歌の生命の根強さがあった。それと同時におそらくは、田端のこの歌と一緒に生きて来ただろう昭和の青春の行列である。会が始まって2時間後、入れ替わりに行われた一般ファンの献花。とうの昔に立礼の場を離れ、歓談に加わっていた尋美夫人、長女の沙穂里さんとテイチク石橋誠一社長、歌手協会田辺靖雄代表理事は、率先して立礼の位置に戻った。献花する人々の真摯な気配に心うたれてのことだったろうか?
 「過去の人だなんて、とんでもなかったな・・・」
 肩をすくめて再確認を口に出した僕に、
 「う~ん」
 傍に居た元テイチク宣伝マンの原田英弥が唸った。6月30日と7月1日、実父一弥氏98才の通夜葬儀を終えたばかり。彼は彼でことさらに、深く感じるものがあったのだろう。

週刊ミュージック・リポート

弦哲也の挑戦の胸中を思うべし

 歌謡曲・演歌の狭い道幅(なぜか皆がそう思い込んでいる)を通り抜け、ヒットにつなげるために、歌書きたちは手を替え品を替え、工夫をこらす。今回それが目立つのは弦哲也で、北山たけし用演歌、千葉一夫用演歌で、微妙な手口の変化を示し、松原健之には大きめのハードルを越えさせた。ことに松原ものは、曲先の仕事でプロデューサー感覚まであらわにしている。作詞家たちの着想の狭さに飽き足りぬ無言の抵抗か? 作詞家もこの辺で大いに奮起せねばなるまい。

路地あかり

路地あかり

作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:北山たけし

 タイトル通り、お定まりの裏町酒場で、捨てた女を回想する男の苦渋編だ。一番でふと彼女を思い出し、二番は別れの場面、三番は未練ごころと、段取りも定石通り...。
 しかし、田久保真見が詞を書くと、一味違うから面白い。主人公の男に流れ者ふう粋がり方がなく、じっと己の胸中をのぞく気配、表現にもそれらしい工夫がある。弦哲也の曲も自然、肩ひじ張らずしっとりめ。それを北山が素直に、大事にうまく歌いこなした。結果生まれたのは、内省的な男唄。難を言えば線と芯の細さだろうか。

縁(えにし)

縁(えにし)

作詞:坂口照幸
作曲:水森英夫
唄:島津亜矢

 夫婦ものだが、島津の芸風に合わせて、歯切れの良さを狙ったか、坂口照幸の詞は各コーラスの頭二行で踏ん張った。♪なんで実がなる 花より先に 浮世無情の裏表...といった具合いで、人生ソングふうな決め方。
 水森英夫の曲は、ゆったりめだが持って回ることなく、彼流にスタスタと行く。歌いようによってはパワフルにもなるそれを、抑え気味にしっかり歌ったのが、近ごろの島津。地に足をつけた穏やかさで、詠嘆の色がしみじみと濃い。彼女のキャリアの生かし方を、みんなで考えた成果かも知れない。

恋なさけ

恋なさけ

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:千葉一夫

 中音を中心にその上下、千葉の声味をそこいら辺で生かす意図の曲に聴こえる。もともと技を使わず、地味づくりになる千葉の歌の特性を逆手にとった。それにしても...と、頑張りたくなる千葉を、開放したのは五行詞の最後の一行分だけ。弦哲也が彼の手綱を絞ったようだ。

愛のせせらぎ

愛のせせらぎ

作詞:さくらちさと
作曲:田尾将実
唄:岩本公水

 田尾将実もなかなかに考える。さくらちさとの詞六行分を二行ずつ三つに分割。まずムード歌謡ふうに曲をスタート、次の二行でポップス味の明るさに展開、最後の二行を演歌チックに納めた。岩本の仕事に突破口を求める一策、本人も〝その気〟になっていそうだ。

恋路ヶ浜

恋路ヶ浜

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:永井みゆき

 歌い出しを高めの音で出れば、中盤と最後に必ずヤマ場が来る。訴求力強めの曲の作り方だが、ともすればぎくしゃくして、破たんしやすいのも確か。それを承知で四方章人が挑戦した作品だが、永井の歌に一途さが作れた。編曲は蔦将包、彼流の工夫で歌を飾った。

北の冬薔薇

北の冬薔薇

作詞:石原信一
作曲:弦哲也
唄:松原健之

 明らかにメロ先、歌詞四行分をたたみ込んでスタート、中盤二行のブリッジで悲痛感を生み、終盤三行分は別の曲かと思える展開を示した。弦哲也のドラマチック仕立て、大作狙いに、そつなく添った石原信一の詞、美声一味で歌い切った松原の挑戦ぶりが頼もしい。

日向灘き

日向灘き

作詞:山田孝雄
作曲:中村典正
唄:鳥羽一郎

 作詞の山田孝雄は宮崎出身。いわば地元の題材のせいか、あれこれものものしく、盛り沢山の詞にした。そんな力の入り方を、委細かまわず自分流の曲にしたのが中村典正で、鳥羽にはお得意の海唄。こんなもんだろ?とでも言いたげに、歌い放って愉快だ。

いとしい あんちくしょう

いとしい あんちくしょう

作詞:高畠じゅん子
作曲: 徳久広司
唄:木下結子

『ノラ』や『放されて』を創唱しながら、トンビに油揚げさらわれた形の木下の新作。『ノラ』コンビの徳久広司の曲も力が入ったろうし、高畠じゅん子の詞もその気になった。辛い気持ちも明るめに...と狙った女心ソングだが、木下の唄はやっぱり哀しげだ。

おんなの夜明け~第一章~

おんなの夜明け~第一章~

作詞:水木れいじ
作曲:叶弦大
唄:竹川美子

 一〇周年記念曲である。それなら大きめに構えたものを...と師匠の叶弦大が思うのも人情。タイトルからしてそれらしく、叶の曲もスケール大きめだ。歌謡曲的おおらかさから演歌で納める七行詞もの。竹川は期待に応えたい一心の歌唱で、歌いこなれ方に進境を示した。

博多ア・ラ・モード

博多ア・ラ・モード

作詞:レーモンド松屋
作曲:レーモンド松屋
唄:五木ひろし

 ヒットした『夜明けのブルース』に続く、レーモンド松屋とのコンビ作。♪博多の夜 キラメキ夜
(中略) 博多の夜 トキメキ夜...のサビ繰り返しが、歯切れのいいノリで面白い。歌謡曲に今日的色あいを求めた五木の、プロデューサーとしての手腕が光る二作だ。

MC音楽センター

 
 またしても星野哲郎である。亡くなってもう3年になるのに、全然「居なくならない」人だ。私淑して弟子を自称、やがて本人からそれを許されたせいか、何を読んでも何を聞いても「星野」という名は抜け出して、目に飛び込むし、耳に響く。
 「日本という国は戦争に敗れて以来、なぜか古いものをやたらにぶちこわして、前進することを徳と思い込んでいるようですが・・・」
 という彼の文章にも「ン?」と即ひっかかった。そんな時流から流行歌の世界も例外ではないが、その中で「古きよきものを守り抜くことは、決して〝怠惰な姿勢〟ではない」「ポップス化が進む演歌の世界にあって、僅かなニーズのために伝統芸を書き続けることは、守りではなく攻撃的行為であると思うのです」
 と言い切っている。
 柔和な笑顔の眼をしょぼしょぼさせて、言動決して激することのなかった人にしては、ずいぶんきっぱりした発言である。もっともそう書いて少々テレたのか、ひょいと例え話を一つ。
 「青首大根の全盛期にもかかわらず、昔ながらの辛い三浦大根を欲しがっている僅かな人のために、採算を度外視して作る百姓がいるように・・・」
 と付け加えているのがオカシイ。いずれにしろ少数派の旗頭としての哲学や、意気も意地も開陳して、明快である。驚いたのはこの一文が昭和49年1月のもだったこと。この人は平成も4分の1世紀に達した今日の流行歌状況を、40年も前にもう見抜いていたことになる。
 この示唆に富む一文が載っているのは、日本音楽著作家連合が創立40周年を記念してまとめた随筆集「百華百文」だ。作詞家藤田まさとが興して、初代会長を務めたこの団体は、作詞家、作曲家、アレンジャーと、歌づくり三位一体の人々が加わる。目下会員470人超と、大世帯に育っているが、星野と松井由利夫が二代目と三代目の会長をやり、現在は志賀大介がその責を担っている。
 この「百華百文」が滅法面白いのだ。「寄稿」、「わが青春」のブロックでは、名だたる作家たちの流行歌と向き合う姿勢が率直だし、「あの頃この一曲」のブロックは、作家たちのデビュー作、出世作などのエピソードが、実に具体的に、人との縁、運命やツキとの遭遇として綴られている。いわば「名曲はこうして生まれた」の、当事者証言集である。雑文屋の僕など、折りに触れて聞き貯めして来た部類のネタだが、これが91人分もズラリと並ぶのだからまさに宝の山。「寄稿」や「わが青春」には、昭和38年にスポニチの音楽担当記者になりながら、ついに教えを乞う機会に恵まれなかった藤田まさと、藤浦洸、古関裕而、堀内敬三、竹岡信幸、矢野亮・・・といった大物作家の素顔に触れることまで出来る。
 なかでも次男の佐藤四郎氏による「父・サトウハチローの思い出」には、読みながら声を出して笑った。※印つきの箇条書きが7項目。いわく「コンビーフはみみずの匂いがするから、きゅうりはイボイボが気味が悪いからとハシもつけない」「指先をちょっと切ったくらいで、死ぬ時はどうなるのか? 飲み過ぎて疲れただけなのに、不治の病の名を並べ立てる」「芸者遊びにオフクロを同行、お姐さんたちをさんざん遊ばせて金を払うことしょっちゅう」「瑞宝章受章の祝いにテレて、お金はついていないんだってサ」「ムリだよと言うのに算数の宿題をやってくれたが、結果は0点に近かった」
 「習字は得意というから代作してもらったら、赤ペンで先生が〝詩をお作りになっているお父様を見習いなさい〟」・・・。
 実は掲載されたエッセイ全部が、この40年間の連合の会報に寄せられたものだった。ということは毎号届けてもらっている僕は、その都度目にしていた勘定になる。ところが雑文屋の斜め読み、心に止まることが少なかったのに、今になってびっくりする。その不明は大いに恥じなければなるまい。「百華百文」は311ページの非売品の豪華本。編集委員長下地亜記子以下の努力に敬意を表しながら、1ページごとに僕は自分の昭和も重ね合わせて、尽きぬ楽しみを味わっている。

週刊ミュージック・リポート


  「銭形平次」は野村胡堂作の人気シリーズだが、その少年時代というのは、原作にはない。氷川きよしが2年前に演じた「青春編」、今年6月の「立志編」(ともに明治座)の〝少年平次〟は、脚本堀越真、演出北村文典の創作である。もちろん野村家には話を通してのことだが、この奇策!? の言い出しっぺは、亡くなった長良グループの長良じゅんさん。プログラムに「企画」として名を連ねているし、演出家の一文にもその旨が記され、哀悼の意が表されている。
 長良さんが〝少年期〟にこだわった理由は、ファン心理へのおもんばかりだろう。たいてい芝居では、主人公の恋人が登場、二人のエピソードがドラマの縦糸になる。ところが氷川平次の身辺には、恋人はおろか姉妹なども出さない。そうすることで圧倒的多数の女性ファンを安堵させ、おだやかな気分で観劇させる作戦と見える。
 一昨年の「青春編」は大空真弓、今回の「立志編」は音無美紀子が母親役で登場した。前作は平次が十手取縄を許されるまで、今作はその後の活躍ぶり・・・と、主人公が多少の成長を見せはするが、縦糸は変わらずに母一人子一人。脚本の堀越に言わせれば、狙いは「大江戸ファンタジー」で、平次は「空飛ぶピーターパン」なのだそうな。それかあらぬか、客席の女性群は、お行儀よくリラックスしている。幕開け、暗転した中の音楽にまず手拍手が揃うし、氷川の決めぜりふ、決めポーズには「待ってました・・・」とばかりの拍手がわく。共演の勝野洋、太川陽介、大信田礼子、伊東孝明らの〝出〟と〝入り〟にも拍手、曽我廼家文童の達者な芸には、ちゃんと笑いで応じるし、拍手も添える。かわら版屋の西寄ひがしは、氷川コンサートの司会でおなじみだから、クスクス笑いと拍手に親愛の情が加わる。そんな中で氷川平次は連続殺人事件を解決していくのだが、特徴の緊迫感は求められていない。要するに皆が、十分にお楽しみで、それでいいのだ。
 他方の歌づくりには、もう少し伸びちぢみがある。最近のヒット曲「しぐれの港」は、さすらい男の恋の追想ソング。石原信一の詞は踏み込み方やや控えめだが、男の苦渋をにじませる。それに水森英夫が「涙の酒」を連想させる哀切のメロディーをつけた。水森は氷川の育ての親である。当然弟子の「アイドルからスターへ」の先行きを、制作者ともども計算していよう。大きく変えないのは、氷川の歌唱。おとなびた陰影よりは、歌い放つ若さに軸足を置いている。
 公演の第二部「氷川きよしコンサート2013in明治座」にも、そんな試みは示されている。三橋美智也が歌った「古城」から彼の「白雲の城」へつなぐシーンがそのあたり。着物に袴の2ポーズで、日本の原風景とそれに託す男の意気地を歌いあげるが、この景にいるのは、明らかに〝壮年の氷川〟である。そこから一転してフィナーレは「氷川きよしのソーラン節」と「きよしのズンドコ節」 で、紫のスパンコールきらきらの燕尾服に帽子とステッキ。ロックなみの大音響の演奏に、例によって本人の大音声だから、強調されるのは今日ふうアイドルの乗りと活力だ。
 長良さんは、ごく若いころから美空ひばりと「お嬢」「きょうだい」と呼び合った親交を持つ。戦後アイドルの立ち位置と育ち方を身をもって体験していて、舞台の氷川の〝女人法度〟は、そんな体験から生まれたものと想像がつく。しかし、昨今の芸能事情とファンとのコミュニケーションは、往年とは大分様相を異にしている。歌のレパートリーのゆすぶり方もにらみ合わせながら、長良さんの禁じ手は、やがて解かれることにもなろうか。
 6月14日夜の部の明治座。僕は1階正面14列14番の席で、氷川の〝多世代対応型エンタティナー〟への目論みを見守った。左側の席は島野功緒さん91才、右側は長田暁二さん83才である。氷川とファンも結構タフだが、両先輩の長寿とタフさ加減には頭が下がった。終演後、劇場近くの行きつけの寿司克で、ちょいと一杯やる。長田さんの口癖なら、ビールで「うがいをする」一幕だが、芝居を観るにしろ演るにしろ、本当にうかうかしていられないのが実感だった。

週刊ミュージック・リポート

 
 「文化庁から正式ブランドとして認可されたんです。これで〝稲取金目鯛〟はキンメの本家本元になります。西の〝関サバ〟東の〝稲取キンメ〟と、吉岡先生が書いてくれた歌の文句がズバリです!」
 顔を見るなり満面の笑顔で、そうまくし立てたのは東伊豆町の梅原裕一観光商工課長と岩崎名臣主査。型や味も最高のうえ、有力な観光資源なって、嬉しさひとしおらしいのだ。
 話に出た吉岡治作品はタイトルもズバリと「金目の大将」で、4年前に永井裕子が歌ってCDにした。もともと雛のつるし飾りで知られる稲取温泉。それを全国に発信したい地元の求めに応じて「望郷岬」という歌を作った。取材旅行に同行したのが吉岡と作曲の四方章人。ところが現地では、
 ?キンとひと言いったが最後、地獄だよ、金目のはなしは止まらない・・・
 くらいに地元の人々が躁状態。それを面白がって、吉岡がそのまま書き込んで歌にしたカップル曲だ。
 ?西に名代の関サバありというなら、東に稲取金目鯛・・・
 と歌い切った魅力が、オカミの認定で立証されたことになるが、
?波が囃して、わかめが踊る
 ?貝は口ぱく、くらげは笑う
 ?とんび笛吹き、かもめが騒ぐ
 と、各コーラスの結びがユーモラス。南郷達也の陽気なアレンジで、こちらの方が地元の盆踊り大会などで大モテ、今では子供たちまでシナよく踊るそうな。
 この町、もともと〝自分たちの歌〟を育てる悪ノリ癖!?があるらしく、鳥羽一郎の「愛恋岬」もその一つ。事あるごとに歌い継ぎ、芸者衆が踊ることから、9年前の平成16年に海岸の丘に歌碑を建てた。この件も梅原・岩崎両君の相談に乗り、除幕式には作詞星野哲郎、作曲船村徹、編曲南郷達也、歌鳥羽一郎と勢揃いして大騒ぎした。僕と両君のつき合いはさらにさかのぼり「町民皆ゴルファー」という企てに悪ノリしてスポニチの記事に。その後、腕自慢を揃えた全国いくつかの町を征覇、めでたく「日本一ゴルフ町宣言」をしたのが、平成9年のことだ。
 当初、まだ駆け出しの二人を、親愛の情もこめて
 「おい、木っ端役人!」
 と僕が呼んだのを本人たちも面白がり、後には「梅!」「岩!」と呼び捨てたのもシャレ。今では梅原君が観光商工課長、岩崎君が主査と、そこそこ出世コースに乗っているから「梅ちゃん」と「岩ちゃん」に格上げしたが、相変わらず兄弟みたいな二人連れで僕らの前に現れる。
 東伊豆町は稲取に熱川、大川、北川、片瀬、白田の温泉郷を抱えたいわば〝極楽6湯〟の町。6月3日と4日、稲取で「どんつく祭り」があったから、小西会の悪童(悪老かな?)たち20名余と乗り込んだ。1泊2日で稲取CCとサザンクロスで連戦・・・という年に似ぬ企て。
 「いやいや、よくお出かけ下さいました。日ごろはお世話になりっぱなしで・・・」
 と、如才ない笑顔で僕らの宴会に顔を出してくれたのは太田長八町長。一行は相当に驚いたが、打ち合わせも含めてこの町訪問10数回の僕は、ここではちょいとした有名人。顔を立てて貰えた光栄に内心鼻高々だ。
 どんつく祭りは、巨大な男根を祭った神社があり、文字通り「どん」と「つく」男女の営みを礼賛する奇祭。色艶も形も見事な男根のご神体を乗せたお神輿が3基、稲取の温泉場通りから会場を練り歩く。舞台では海童太鼓、どん太鼓がにぎやかで、独特のお面をかぶった「しょうふく面踊り」や「芸者踊り」もにぎやかだ。呼び物の花火2000発は、目と鼻の先の海岸から打ち上げるから、全部頭上で炸裂、開花して相当な迫力。僕らは善男善女がひしめき合う中で、見上げる首の痛さも忘れたが、ちょうどその時間にW杯サッカー予選のヤマ場「日本対オーストラリア」の中継が重なって気もそぞろ・・・。
 葉山の自宅に戻った僕、はさっそく吉岡治の霊前に、朝から晩まで絶品のきんきを堪能した顛末を報告した。僕の仕事部屋には、僕の母、つれ合いの父母の遺影に並んで、昨年小豆島に建てた吉岡治顕彰碑のレプリカが飾ってある。5月17日、三回目の命日を迎えた吉岡は、線香の煙の向こう側で、
 「よくやるよ、あんたも・・・」
 と、苦笑いしたに違いない。

週刊ミュージック・リポート

 
 親友の木村隆から新著が届いた。「演劇人の本音」(早川書房刊)で、24人の演劇人へのインタビュー集だ。小幡欣治、別役実、山田太一らの劇作家から、仲代達矢、大滝秀治、奈良岡朋子、梅野泰靖、南風洋子、樫山文枝、日色ともゑら俳優たちの名がズラリと並ぶ。「演じるとは何か?」「演劇の本質に迫った」などと、帯の惹句からして相当な力の入れ方だ。 
 《ふむ・・・》
 深夜、この労作と向き合う。例えば仲代の小見出しは「役になり切れ? いや、絶対になり切れない」、大滝のそれは「役は浸かる。浸る、耽る、籠めるもの」とある。70才で役者(らしきもの・・・と言うべきか)兼業(これも恐れを知らぬ表現)に転じて7年目の僕は、文字通り震撼させられる。 「あんたはそのとば口にいるのだ。もっとひたむきに勉強しろ!」
 とでもいいたげな、木村の顔が目に浮かぶ。
 〝うれしい会〟というゴルフコンペが年に3回ほどある。亡くなった小幡欣治が主宰した催しで、それに参加、東京への帰路、便乗させてもらった車の主、東京宝塚劇場の小川支配人が、
 「木村さんが〝です、ます〟で相手する人に初めて会ったわ」
 と笑った。この人元宝塚の大スター甲にしきで、木村とは長いつき合いのはず。
 ことほどさように木村は、演劇評論家としての地歩を占めているのだが、もともとはスポーツニッポン新聞社の同僚で、酔余僕が、
 「あいつは、俺のヘイタイです」
 と言い放つ間柄。山形・鶴岡の産まれで、重めめの口調が時に膠もなく聞こえる損がある。
 この本が、彼の演劇論や俳優論ではなく、インタビュー形式であるところが面白い。持ち前のねちっこさで、とことん根堀り葉堀りしただろう気配がありあり。うまく相手の本音を引き出した妙がある。「演じるとは何か?」に徹底的にこだわり、ついには取材対象の人間そのものにやんわりと肉薄していて鋭い。
 相前後して、もう一人の親友・寺本幸司が、下北沢で個展を開いた。かつて浅川マキ、りりィ、桑名正博、下田逸郎、南正人らをプロデュースした切れ者。近ごろは寺本耿の筆名で小説も書いている。発表の場が勝目梓がボスの同人誌「スペッキヲ40」なのも何となくシブイが、今度は「てらもとゆきじ・絵画(?)展」と来た。
 《いつから、絵なんてものを?》
 いぶかりながら個展の最終日、5月26日夕方に出かけたのは、打ち上げの酒盛りに参加する魂胆があってのこと。驚くべきことに、展示された絵はここ2カ月半ほどで一気に書き上げたものだと言う。ぐりぐりと歪んだ楕円の中に、人物やら心象風景やらが描かれた、不思議な世界。混沌の意識の中の一瞬の覚醒を、切り取ったというか、すくい上げたというか。
 湘南・大磯へ転居して3年、元町長の絵書き夫妻と知り合って、絵心が触発されたらしい。これまでの半生に視聴きして、脳裡に蓄積されていたさまざまな〝美〟が、一気に爆発した。それを形にし、人に示すことで彼は、長い裏方人生から表舞台に跳躍したらしいのだ。
 近くでライブをやっていた下田も顔を出す。
 「そう言や俺たち、ブロードウェイのオフオフでミュージカルやったあと、大勢で小西さんちへころがり込んだよな」
 下田が東京キッドブラザーズ公演の?末に触れたから、居合わせた何人かと僕は、僕の三軒茶屋時代へタイムスリップした。1970年代、お化け屋敷めいた古い西洋館に蟠踞して、寺本は同居人第1号、木村はしばしば酔っ払いの泊り客ふうだった。
 《みんな、なかなかに年に似ぬ充実ぶりだ》
 寺本75才、木村71才、いずれもこの世界の泥水を、たっぷり吸収した挙句の物狂いというか、潮満ちての開花というか。その喜びを友人の一人として共有しながら、
 《俺もうかうかしていられないぞ》
 77才になる僕は、逗子の歯医者に通いつつ、9月末の劇団東宝現代劇75人の会公演に、じっとりと備えている。

週刊ミュージック・リポート

大石、冠の冒険をよしとする

 歌手がそれまでのイメージをがらりと変える。新境地開拓である。売れ線を離れてでも、頑張ってみたい時期が来たのか、それにふさわしい作品が出来たせいか。結果「歌っているのは誰?」という意表の衝き方が生まれる。聞く側の反応は聞き手任せだが、いい方向へ転がるように...の祈りが、その陰にあろう。今回で言えば大石まどか、冠二郎の作品にそんな試みが顕著だ。冒険は時に流行歌の流れを変える可能性を持つ。二作品の今後を見守りたい。

春一夜

春一夜

作詞:さいとう大三
作曲:四方章人
唄:大石まどか

 一番に桜、二番に蝶、三番に月をあしらった詞が、惹句に言う「密かな情念、仄かな描写」を指す。古風な情景を水彩画三枚みたいに描いたのは、久しぶりにさいとう大三。それを四方章人が穏やかな味のワルツに仕立て、蔦将包の編曲もなかなか...である。
 歌っているのは誰?と、聴き耳をたてさせる大石は、相当な変わり身と熟し方を示す。抑えた歌唱で情感を維持した二行のあと、サビの盛り上がりで思いのたけを外向けに開き、歌い納めの昂揚は、その思いを内省気味に表現した。四者四様、いい仕事ぶりだ。

湯の町月夜

湯の町月夜

作詞:仁井谷俊也
作曲:原譲二
唄:大川栄策

『湯の町エレジー』を元祖としたら、この種〝湯の町もの〟はもう何百曲作られたろう? 男の未練がテーマなのも定石通りだが、今回は仁井谷俊也がソツのない筆致の詞にして、曲は原譲二。大川の哀感ねばっこい高音をうまく生かしている。
 原はおなじみ北島三郎の筆名。自作自演だけでなく、大勢の歌手に〝北島節〟の暖簾分けをして来た。それが今回は、大川の声味とツボを心得た曲づくりで、市川昭介か?と思うくらいに、大川の味を優先した気配がある。頼んだ大川は、してやったり!だろう。

勘太郎笠

勘太郎笠

作詞:久仁京介
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 その北島は、東京、大阪、博多でやる長期公演「伊那の勘太郎・信州ひとり旅」の主題歌で、のびのびマイペースの自作自演だ。股旅ものだが、主人公の粋がり方を避け、流れ者の哀愁に軸足を置いた詞は久仁京介。北島の、年相応の苦渋が、前面に出ている。

女のかがり火

女のかがり火

作詞:喜多條忠
作曲:大沢浄二
唄:大月みやこ

 六行詞の前半三行で女主人公の内面を語り、後半三行で各節それぞれ「鞍馬山」「長良川」「厳島」のかがり火を見せる。作詞・喜多條忠のアイデアの、前後半の変わりめ、一番で言えば「あれは」の箇所で、きっちり気分を変える曲は、ベテラン大沢浄二ならではの腕前か。

伊勢めぐり

伊勢めぐり

作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:水森かおり

 作詞の田久保真見に言わせれば、哀しみも月日が経てば「愛は真珠になる」そうな。夢が木の葉のように手をすり抜けるなど、何とか自分らしいフレーズを...という苦心のあとが見える。弦哲也の曲と水森の歌は、シリーズの色あいを踏襲して〝まとも〟だ。

孤独の川

孤独の川

作詞:三浦康照
作曲:小野彩
唄:冠 二郎

 はなから狙ったのか、詞の書き出し「友と語らん 春の宵...」に触発されたのか。小野彩の曲が吉田拓郎ふうフォークタッチで意外性を作る。三浦康照も思い切ったものだが、お陰で冠の、やんちゃ節が影をひそめた。四五周年三つめの記念曲らしさと言うべきか。

炎の川

炎の川

作詞:菅麻貴子
作曲:岡千秋
唄:服部浩子

 タイトルの「炎」
を「ひ」と読ませる。いにしえの文学の「雅」と「和」を流行歌に置き替えるという企画を、詞の菅麻貴子、曲の岡千秋、歌の服部が踏ん張った。その志は大いに多とするが、さて、前置き抜きで聴いた場合、そんな思いがすべらずに届くかどうか?

恋めぐり

恋めぐり

作詞:槙桜子
作曲: 徳久広司
唄:浜 博也

 浜の〝ひとりムード歌謡〟は、いつもながらなかなかのもの。それらしいノリ、はきはきした口調、抑えながら張る高音の艶っぽさで、歌謡コーラスの魅力を晴れ晴れと聞かせる。それを生かしたのは作詞・槙桜子の女名前ごっこと、徳久広司の曲だろう。

北のとまり木

北のとまり木

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広治
唄:岩出和也

 こちらもムード歌謡で、曲も徳久広司。詞が仁井谷俊也で、舞台は港町、主人公は過去を背負った女、視線は居合わせた男のもの。そんな設定が手伝うのかどうか、岩出の発声と発音は二枚目気分が強い。その分だけ晴れ晴れとした〝抜け〟と活力が乏しかった。

嘘の花

嘘の花

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:長保有紀

 昔なら西田佐知子とか藤圭子とかに似合いそうな曲調。なげやりな女心ものだが、西田ほど捨てず、藤ほど居直らず、肩をすくめる程の良さが長保の魅力になっている。詞が終始〝女の繰り言〟なのを、長保が独特の声味と歌唱で、うまく物語にした。

そして...湯の宿

そして...湯の宿

作詞:池田充男
作曲:岡千秋
唄:永井裕子

 詞の歌いだし「遠い波音...」を「遠い 遠い波音...」と、重ねたのは岡千秋の作為。ここではずみをつけ、高音のメロディーで一気に決めたかったのだろう。永井の力量を前面に出すアイデア。あとは池田充男の詞なりで、永井の愁い声に任せたろうか?

恋文しぐれ

恋文しぐれ

作詞:麻こよみ
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可

 古い恋文の男文字をなぞり、未練を捨て切れずに居る女唄。果たせなかった駆け落ちが唯一の物語のアヤを作る。麻こよみの詞、伊藤雪彦の曲で、三代は彼の愛弟子。歌づくりもずっと一緒...の呼吸が合う。納めの一行の途中、少々間をあけたのがアクセントになった。

MC音楽センター

影山時則が頑張っているなァ

 作詞家の役割は、歌手にどういうドラマを提供できるかに尽きる。一方作曲家は、歌手の歌声のどういう魅力を生かすかを、役割の一つとする。作詞家は論理的で、作曲家は感性をその武器とすることになろうか。
 若草恵は名うての編曲家から作曲家に転進、天道よしみの曲でその双方に通じる仕事をする。弦哲也と岡千秋は、歌手時代の感性を歌づくりに生かして妙。影山時則も歌手出身、三門忠司、岡ゆう子の曲で〝歌う側の快感〟のツボを生かしているところが頼もしい。

ふるさと銀河

ふるさと銀河

作詞:水木れいじ
作曲:若草恵
唄:天童よしみ

 歌い出しの歌詞二行分が勝負!という要諦は藤田まさと、星野哲郎らが実践して見事だった。この鉄則、実はメロディーにもあてはまって、例えば天童のこの作品 ――。
 ♪泣いた分だけ 幸せやると...の歌い出し一行の、前半だけで勝負があった。天童の声が一番生きる高音でオイシサを作って、《ほほう!》である。作曲家としての若草恵は、すっかり〝その気〟になっている。
 そのうえ六行の詞に何カ所か、オイシイ旋律をはめ込み、歌手の攻め所を増やす。お陰で天童の歌は、のびのびとして快く、哀しい。

くれないの雨

くれないの雨

作詞:志賀大介
作曲:影山時則
唄:三門忠司

 「ワンコーラスに一カ所、ここが三門だと言える部分を作りたい」と、いつか本人から聞いたことがある。声の張りや艶、切迫感みたいなもので一点突破する自信だろう。
 その三門の声味と攻め所を、作曲の影山時則が、何カ所かに増やした。のったりと味を聞かせるところ、独特の小節回し、それに艶っぽい高音の張り...。
 惹句に「期待は決して裏切らない」とある。三門の歌の安定感を指すのだろう。地味だが確かに、歌と情感のしならせ方となかなかの粘着力は、彼一流のものを持っている。

しぐれの港

しぐれの港

作詞:石川信一
作曲:水森英夫
唄:氷川きよし

 アイドルから歌手の主流派へ、氷川は作品で幅を広げつつある。水森英夫がそのための曲を積み重ねて来て、今度は波止場ソング。背伸びは抑えた内容の石原信一の詞に『涙の酒』ふうな哀切のメロディーをはめ込んだ。歌手の生かし方の一例だろう。

北港

北港

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽

 キイをめいっぱいに上げれば、歌に自然、ひたむきな色が生まれる。
突然激した中盤のメロディーのあと、サビの一行、神野の歌は前半が裏声になり。後半を表に戻して決め込んだ。ベテランに、あえてそんな挑戦をさせたのは、荒木とよひさの詞、弦哲也の曲だ。

風の海峡

風の海峡

作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:市川由紀乃

 岡千秋が書いた海峡もの。メロディーの起伏、ゆすぶり方は定石どおりだが、岡流のねばりがある。市川由紀乃の力量を、どう生かし、どう聞かせるかを考えたのだろう。♪一日早く忘れたら 一日早く出直せる...という麻こよみの詞の、念じ方も生きたろうか。

北国街道・日本海

北国街道・日本海

作詞:喜多條忠
作曲:蔦将包
唄:走 裕介

 ふつう二行ずつになる演歌の歌詞の区切り方を、喜多條忠が歌い出しを三行にした。呼応するように蔦将包の曲は、意表を衝く展開で風変わりな色を作る。いわば破調、父君船村徹の作品に散見するパターンで、そのゆったりめ、スケール感を、走が歌いこなした。

夫婦三昧

夫婦三昧

作詞:吉岡治
作曲:弦哲也
唄:石川さゆり

 その日その場で折り合いをつけて、人生半ばの折り返しへ来た夫婦もの。いかにもいかにも...の吉岡治の遺作で、これがさゆりの四〇周年締めくくりの曲という。歌のタッチを
「歌」よりは「お話」の穏やかさに抑えて、さゆりの歌づくりは吉岡の詞に添っている。

人生花ごよみ

人生花ごよみ

作詞:美月宏文
作曲: 九条遥
唄:原田悠里

 歌詞が定型を離れる。当然メロディーも譜割りも変わる。それでも演歌、ひと味違うタイプが出来上がった。そんな四行分に二行、演歌的に収まるパートをつなげて、面白みを増す。原田の歌は軽くはずんで温かく、丸く、快い。声を張ると別の歌になっちまう曲か。

しぐれ酒

しぐれ酒

作詞:三浦康照
作曲:影山時則
唄:岡ゆう子

 雨の夜、短かった恋を回想する女心ソング。思い出酒場でひとり酒だ。そんなお話を突き詰めずに、軽くソフトに仕上げるのが近ごろふうか。影山時則が書いたワルツだが、やっぱりどこかで盛り上がりたいのが歌手の欲。歌い納め二行分で岡が頑張った。

海峡のおんな

海峡のおんな

作詞:池田充男
作曲:岡千秋
唄:真木ことみ

 演歌のワンフレーズごと、大ていの歌手は頭の部分に思いを込めるが、歌う語尾は流れに任せる。真木の歌がきっちりしているのは、各行の語尾をおろそかにしないことだろう。むしろ彼女はそこでそれぞれ、感情移入の色を変える。味わいが深くなる得がある。

女の空港

女の空港

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美

 歌の前半四行分は息づかい微妙に語り、急転するサビあたまから、一気に感情を開放する。三連の歌謡曲、仁井谷俊也の詞、弦哲也の2ハーフを、川野は情感うまくうねらせてみせた。初期のテレサ・テンを思わせる勢いがあり、それがこの人の進境だろう。

花は咲く

花は咲く

作詞:岩井俊二
作曲:菅野ようこ
唄:花は咲くプロジェクト

 NHKが震災支援プロジェクトのテーマとして流しているからおなじみ。東北に縁のある大勢の知名人の顔ごと、刷り込まれた状態だ。♪花は花は花は咲く...のくり返しで痛恨や哀惜や包容の思いが伝わる。これは大きな愛の歌として、長く記憶される作品になりそう。

MC音楽センター

 
 「近ごろ、こういう場所ばかりで会うな」
 「うん、辛いものがある・・・」
 そんなやりとりをまたやった。黒のスーツがほとんどの人の輪に、駆け込んだ僕は仕事の合い間の平服なのも切ない。
 「皆さんお揃いですから・・・」
 と、役者仲間の田井宏明に案内された部屋には、北島三郎、山田太郎、クラウンの北島一伸社長、鈴木企画の鈴木晶順会長、それに星野哲郎の長男有近真澄の顔もあった。
 5月14日夕の石神井台・宝亀閣斎場。しめやかに営まれていたのは、作曲家島津伸男の通夜である。会場にはずっと、彼のヒット曲「函館の女」が流れている。献花をして千枝子夫人にあいさつしたが、気持ちがうまく言葉にならない。患っているとは聞いていたが、見舞いにも行かずじまいだった後ろめたさが、どうしても先に立つ。いつもニイッと、歯を見せて笑った島津の顔が目の前でちらつく。
 「同い年だもんなあ」
 北島がぼそっと言った。
昭和11年生まれの77才、10月の誕生日が来れば北島と僕は、逝っちまった島津と同じ年齢になる。
 島津は鹿児島出身。高校時代から春日八郎に憧れた歌手志望だったと言う。村田英雄が巡業で来た時、公演後ののど自慢に出て、新栄プロの西川幸男社長(当時)から声をかけられたのが、この道へのきっかけ。ギター弾きをしながら船村徹に師事、北島と知り合う。歌手としては芽が出ず、作曲に転じて山田の「新聞少年」や「函館の女」など北島の〝女シリーズ〟ほかを書いた。活動の拠点はクラウンで、長く北島公演のオーケストラの指揮でおなじみだった。
 《俺、ずっと彼の身近にいたことになる──》
 僕が改めてそう思うのは、スポーツニッポン新聞社の音楽担当記者のホヤホヤから、通い詰めた先が昭和38年創立の日本クラウン。そこで新栄の西川社長や星野哲郎の知遇を得、船村徹と出会ったのもちょうどそのころで、北島も山田も、その時分からの親交が続いている。だからだろう、ずいぶんいろんな場面で島津に会った。突っ込んだ話こそしなかったが、いつのころからか気心の知れた仲間気分のつき合いだった。
 「あんたこのごろ、まるで業界のおくり人やね」 喪服の友人が悪い冗談を言う。そう言われりゃこのコラム、先週は田端義夫の死に触れたばかり。手帳を見れば5月には三木たかし、吉岡治、7月には石井好子、8月には阿久悠、元東芝の田村広治の命日の書き込みがある。みんな胸襟を開いて付き合った大事な人ばかりだ。小澤音楽事務所の小澤惇やおじ貴分の名和治良は春3月だったし、秋には星野哲郎の命日が来る・・・。
 僕には近ごろ、
 《彼だったらこんな場合、どうしたろう?》
 と、亡くなった人の顔を思い浮かべる習慣が出来た。歌づくりや歌手活動などの相談を受け、思い惑ったりする時だが、ケースバイケース、もし名和ちゃんだったらとか、星野や吉岡、阿久だったらとか、たかしだったら・・・という具合に、答えを探すのだ。親しい人を見送る都度、僕は相手の心残りをおもんばかる。出来ることなら以後、事あるごとにそれを生かして行こう。そうするのが残った側の務めだし、供養にもなろうか・・・と思って来たせいだ。
 島津の通夜、葬儀の中心になったのは、クラウン、新栄プロ、北島一門の人々で、これは本人も本望だったろう。通夜を辞した僕は、北島音楽事務所大野龍社長が手配してくれたタクシーで、元クラウン牛尾真造氏とJR荻窪駅へ出た。ホームへの階段を上がり、うまい具合に中央線の快速に飛び乗る。まだ宵の口のせいか、女子大生ふう若者で混み合っていた。その中の一人がすっと席を立つ。
 《ン?》
 虚を衝かれた気分の僕の目を、ひたと見据えた彼女は、
 《どうぞ!》
 の目顔でふっと笑みを浮かべた。な、何と、僕は席を譲られたのである。恐らく肩を落としていたろう僕は、島津と同じ77才の現実を甘受する。以後東京駅で横須賀線に乗り換えるまで、うずくまった僕の頭の中では、ずっと「函館の女」が鳴っていた。

週刊ミュージック・リポート

 
 『国敗れて山河あり』
 太平洋戦争が終わった昭和20年過ぎ、命からがら外国から日本へ還った人々は、きっとそう思ったろう。ロシアや中国、韓国などからの復員船は、舞鶴ほかの港で、上陸前の船泊まりをする。
 (庵点)かすむ故国よ小島の沖じゃ、夢もわびしくよみがえる・・・
 田端義夫の「かえり船」がもし聞こえたら、胸衝かれる思いは痛烈だったろう。
 出迎える側は、多くの都市が灰燼に帰して、肉親を失い、混乱の極の中に居た。それでも、
 (庵点)熱い涙も故国につけば、うれし涙と変るだろ・・・
 と、帰還者の胸中を思う心は、かろうじて残っていた。そんな双方の心を揺すったのが、昭和21年に世に出た田端のこの歌である。当時、小学校4年生だった僕も、この歌を聞き、歌うたびに涙ぐんだものだー。
 清水みのる作詞、倉若晴生作曲の「かえり船」は、こういうふうに〝痛恨の戦後〟を歌い当てた。作家や歌手の意図をはるかに超えて、作品が『時代の歌』に育った一例だろう。大流行のあとに、そう再確認される作品と出会った歌手は、おおむねその後が低迷、『一発屋』という有難くない称号!?を与えられる。ところが田端の場合は違った。戦前に出した「別れ船」に新作の「かよい船」などがヒットシリーズになり、〝船もの〟のジャンルを興して、人気歌手の座を維持する。「玄海ブルース」が続き、白鳥みずえとのデュエット「親子舟唄」も出る。
 言うところのマドロス姿でギターを抱え、
 「オ~スッ!」
 と舞台に登場した。キャラと決めポーズを持った、当時としては珍しいタイプ。それがあの、鼻にかかった発声と、大きめのビブラートで、哀調切々・・・の歌唱という特異な独自性を持つから、鬼に金棒だった。おまけに栄養失調で片眼の視力を失う赤貧の幼少時代、薬屋、菓子屋の丁稚奉公から鉄工所などへ転々とした少年時代・・・そんなサクセス・ストーリーこみの庶民性まで身につけた強味もあった。
 デビューは昭和14年「島の船唄」で、一作目からヒットに恵まれた。戦前、戦中から戦後もしばらく、流行歌の主流を占めたのは音楽学校出身者だった。クラシック発声、折目正しい歌唱の、いわば硬派である。それに比べれば田端は、異端の軟派のひとり。一部に、
 「退廃的で軽薄である」
 の評価が根強かった。大衆は支持したが、オカミのお覚えはめでたくなかったのだろう。戦中の人気歌手がこぞって軍歌を歌ったのに、田端には「梅と兵隊」がある程度。これすらも物悲しげで、とうてい士気を鼓舞するものではなかった。しかし、かえってそれが田端の利点になったかも知れない。民主主義の戦後へ、「変節」のイメージ抜きで移行できたせいだ。
 「大利根月夜」「島育ち」「ズンドコ節」など、今も歌い継がれるヒット曲を多く持つが、僕は彼の世界の頂点は「ふるさとの燈台」だと思っている。清水みのる作詞、長津義司作曲のこの歌は音域が広い難曲だが、日本の原風景、父母への思い、望郷の念が歌い込まれ、田端の歌唱も、はやり歌の楽しさから、抒情歌への昇華を伝えて清爽の気に満ちている。
 結婚4回、艶福家として知られた。古賀政男音楽財団が運営する「大衆音楽の殿堂」の運営委員会で、僕は何度か最晩年の彼と同席した。席につくなり田端は、ニコニコと艶話をはじめるのが常。
 「大事なのはおなごですな。男は幾つになっても、惚れ続けなあきまへん。私? ええ、今もってそっちの方はちゃんと現役ですわ」
 あれはもしかすると、七面倒な議論が始まるのへ、韜晦の先制攻撃だったかも知れないし、芸やる人の信念めいた本音だったかも知れない。
 4月25日、田端義夫は94才で現役最古参のスターとして逝った。功成り名とげてなお〝バタやん〟の愛称で呼ばれ続けた庶民派の大往生である。戒名も墓も作ってあって、遺志による家族葬が営まれたが、あれだけの大物である。当然「お別れの会」が準備中で、7月、田端家と歌手協会、テイチクが施主に名を連ねることになりそうだ。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ134回

 「おや?」

 と、聞き耳を立てる。すぎもとまさとのシングル『アパートの鍵』について。3月のあたま、場所は台湾のホテル華泰王子飯店の一室。小西会という仲間うちのゴルフ・ツアー!?の途中だが、やり残した仕事を持ち込んでいた。そこで、すぎもとの歌の表現が、微妙にこまやかになっているのに気づいた。

 歌詞の各行、他の歌手なら歌い伸ばす個所を、例によって無造作に切る。これがいつもだと「ブツリ」という感じなのに、今回は「プツン」である。吐息まじりに“思い”を託すから、次の行の頭も「ガツン」と来ない。自然に歌全体が情感しっとりめで、内省的に仕上がった。ポケットに残ったアパートの鍵、それが思い出させた二年の同棲時代。男も女もどこか、大人になりそこねていた…と、男の回想は苦渋を漂わせる。

 そんな内容だから、歌唱がこうなるのか? 阿久悠の遺作のひとつである。作曲家杉本眞人にはそれなりの敬意が生まれてこうなるのか? それともこれが、ボーカリストとしてのすぎもとの進化なのか?

 都会派ちょい悪おやじのキャラの持ち主である。歌もぶっきら棒で、そこに得難い味があった。新宿育ちの粋がり方か、シャイなマザコンの裏返しか、いずれにしろ見た目のキャラと、歌のそれとが重なり合った独自の世界に、僕はぞっこんだった。

 ≪そう言えば…≫

 羽田を発つ前々日にのぞいた、六本木のスタジオの光景を思い出す。

 「あのよォ、そこんとこだけどさァ…」

 注文をつける作曲家杉本の口調は、いつも通りである。マイクの前に居たのは日高正人で、作品はたきのえいじが作詞、杉本が作曲した『人生山河』という新作。杉本のダメ出しは、歌う語尾の“情”のこめ方が主だった。どうやら「無造作」と「無神経」の違いである。

 「ガキっぽくなるんだよなァ」

 「無表情に聞こえちまうよォ」

 口調はラフだが、指摘は細かかった。もともと不器用な日高は「うん」「うん」言いながら、汗をかいていた――。

 1、2月、名古屋・御園座の「松平健・川中美幸公演」に参加して、僕はその間東京を留守にした。1月28日に開かれた日本音楽著作家連合の新年懇親会も欠席したが、席上で杉本が「ベスト・オブ・ザ・イヤー賞」の表彰を受けたことを、後で知った。

「人の心の機微を山川草木、花鳥風月の抒情に融合させ、その歌謡は大衆の心に深い感銘を与えました」

という文言が表彰状にあり、

「これからも自然体で頑張ります」

と、本人がコメントしていた。僕は歌書き杉本眞人と歌手すぎもとまさとの、二つの名乗り方の意味を、またあれこれと考え始める。

 この会のメイン行事「藤田まさと賞」は『松山しぐれ』で喜多條忠が受賞した。城之内早苗が歌っているが、読み直せば確かに、なかなかの詞である。親交のある喜多條は放浪派のちょい悪おやじ。杉本と彼を並べて拍手する機会を逸したことを、僕はとても残念に思った。

月刊ソングブック

 
 いきなり「りんご追分」である。
 《やっぱりなァ・・・》
 と、僕は妙に納得する気分になる。4月23日の昼夜2回、横浜にぎわい座で開かれた「恋川純弥特別公演」の第3部「舞踏絵巻」でのことだが、大衆演劇おなじみのショー。どこでどんな一座を見ても、大ていひばりソングが出て来る。
 そう言えば、3月30日に五反田ゆうぽうとで開かれた「コロムビア大行進」29年ぶりの復活公演にも「ひばりコーナー」が設けられ、大勢の後輩歌手たちが、彼女のレパートリーを歌った。島倉千代子、舟木一夫、都はるみ、細川たかし、八代亜紀ら所属歌手総出のイベントだが、詰めかけたファンも、このコーナーで納得した。没後24年にもなるが、ひばりは依然として〝看板〟なのだ。
 にぎわい座の楽屋へ、〝年下の大先輩〟細川智を訪ねた。名前は「さとる」と読むが「ちいさん」の愛称の方が通っている人で、以前川中美幸公演で一緒になったのが縁。大病を患って舞台を離れた時期を持つせいか、それとも生来シャイなのが、居直って斜に構えるのか、自堕落、マイペースを公言、世捨人みたいな言動が、妙に魅力的な人だ。 それが血色もよく、少し太って、ひどく元気そうになっていて驚いた。当日の主役恋川純弥と二代目恋川純という兄弟との出会いから、新国劇出身、辰巳柳太郎の弟子だった血が、にわかに騒ぎ始めたらしい。この兄弟、昨年亡くなった新国劇三代目座長大山克巳の弟子で、今回上演した芝居が「月形半平太」である。新国劇を創設した沢田正二郎が、大衆演劇の活路を開いたレパートリー。細川は乞われて今回公演の手ほどきをした。
 「孫みたいな年の役者と、会話が成立するんですわ。それが辰巳先生のファンで、目指すのが新国劇の世界と言う。こんな嬉しいことはない・・・」 ことさら彼がぞっこんなのが弟の純で、「国定忠治」上演の手伝いをし、次は「一本刀土俵入り」をやろうと意気投合している。まだ20才だと聞いたが、確かに華があるうえ眼力がなかなかで、兄純弥と対峙した「殺陣田村」や、何曲か踊った舞いも、きびきびとした動きでキレが滅法いい。「ひたむきさ」が前面に出て、客の心を動かすのだ。細川はこの青年に、自分の新国劇体験を何から何まで、伝えて行こうと決心したらしい。
 終演後、打ち上げの宴の隅で、ちいさんと飲んだ。彼は大事にしていた新国劇の台本100部以上を、純に渡すとまで言う。純は兄純弥とともに、父母の劇団で育った。兄はやがて一本立ちし、弟は父の劇団を引き継ぎ、二代目恋川純を名乗る。大阪がフランチャイズだが、全国を股にかけるのは、この種の劇団の例にもれない。今回の公演には、兄弟の仲間である小泉たつみや三河家諒もゲスト出演して花を添えた。いずれも劇団を主宰する座長だと言う。
 それやこれやで、満員の客席は9割方が女性である。舞踏絵巻では、それぞれのごひいきに扇状に形づくられた1万円札の束が捧げられる。彼らはその瞬間、集金マシーン化するが、踊りの品もシナも崩さない。全国にこの種の劇団は300余あって、各地で人気を競っている。本拠地へ戻るのは年のうち1カ月あるかないかの売れ方・・・。
 ごく庶民的な彼らを、もしマイナーな存在としたら、細川の新国劇は立派なメジャーだったろう。しかし、この若者と老優には、そんな区別などまるでない。あるのは徹底的に大衆に提供する娯楽への献身。それと、大衆演劇の古典とも言える新国劇への純の傾倒と、その才能と意気に感じ細川の役者としての同志的情熱だろう。
 「いい老後だねぇ、ちいさん・・・」
 役者兼業の僕が時おり人からが言われる感想を、僕はそのままテレずに彼に伝えたものだ。
 いい気分で葉山の自宅へ戻ったら、ひばりプロ加藤和也社長から手紙が届いていた。渋谷・青葉台のひばり邸を、記念館としてファンに開放すると言う。
 「ひばりさんは、いつまで経っても、決して居なくならないな・・・」
 酔余、僕はしみじみとまた、あの人との往時を思い返した。

週刊ミュージック・リポート

 
 長良グループの夜桜演歌まつりは、今年14回目を迎えた。4月11日、すみだトリフォニーホール。例によって所属歌手が総出なのへ、JR錦糸町駅から善男善女が三々五々、ひきも切らなかった。
 《長良じゅんさんに見せたかったな・・・》
 その群れの中を歩きながら僕は少々感傷的な気分になる。都内23区を23年かけて回る。収益の一部をその都度、区の福祉関係に役だててもらうー彼が14年前に始めた企画である。残念ながら長良さんは昨年ハワイで客死した。しかし、彼が育てたスタッフによって、その意志はきちんと引き継がれている。
 山川豊がボス格、氷川きよしが少しやんちゃな兄貴分ふうなやりとり。それを母親になった田川寿美が見守り、水森かおりが賑やかに盛り上げる。森川つくしは近ごろステージでもメガネをかけ、岩佐美咲にはいかにもAKBの一員らしい掛け声が湧き、三人組のはやぶさはいつも通りに丁寧すぎるくらいのおじぎをする。久しぶりの藤野とし恵は「浅草情話」を歌った。50周年記念曲だと言う。
 《そうか、彼女のキャリアも、もうそんなになるのか!》
 出演者が紹介されるシーン。当然のことだがそれぞれに拍手や掛け声が飛ぶ。その都度一緒になって拍手するのが水森で、自分の番でも同じ。そのうえ例によってピョンピョン飛びはねたりする。
 《かわらねェな、この人は・・・》
 僕は客席でにやけてしまう。ご当地ソングの女王と呼ばれるようになって、今回の「伊勢めぐり」でもう11年、11作目である。言動、それらしく収まって来てもいいころあいだし年かっこうなのだが、まるでそんな気配はない。つとめて庶民派を演じている訳ではなく、根っからの下町娘ふうの飾り気のなさが、長く好感度を得ているのだろう。
 変わらなさは、作品にも顕著だ。歌詞の一番で旅先の主人公が登場、二番で失った恋を回想、三番で気強くまた旅を続けるワン・パターン。ヒットの鉱脈を堀り当てれば、当分はその路線を行く〝意図的マンネリズム作法〟は、時おり見かける。しかし、判で押したような内容を、こんなに長く続けるのは稀有のケース。木下龍太郎がレールに乗せたものを、彼の没後、何人かの作詞家が微妙にニュアンスを変えながら、踏襲している。作曲はずっと弦哲也。観光地絵葉書ソングをしみじみと・・・という枠組で、水森の進化も聞かせる苦心のほどは、想像にあまりある。
 水森に言わせれば、11作もの作品の主人公が、ずっと同一人物だそうで、これにはこちらが《へえ~っ!》になった。シリーズものでもヒロインは一作品一人・・・と、ばく然と考えていたのが意表を衝かれた形。一人で11カ所も旅また旅・・・の勘定になるが、そのせいか水森は、
 「もうそろそろ、職場に復帰しなくちゃね」
 と笑う。どうやら主人公はOLというのが、彼女の想定らしいのだ。
 それにしてもステージで、あんなに嬉しそうにはしゃいでいて、イントロでパッと歌に入る切り替え方は、なかなかである。
 「どういうタイミングで、どういうふうにスイッチを入れるの?」
 と聞いたら、答えが振るっていた。
 「私は、彼女の同伴者の位置に居て、こういう人がこういう思いで、こういうところに居るーと、伝える係だと思っている」
 歌の作り方は歌手によってさまざまだろうが、大別すれば二つ。一つは作品の主人公になりすまそうとするタイプで、他方は作品をドラマのシナリオと捉え、主人公を演じてみせるタイプ。水森のやり方は後者に近いが、語り部みたいな立ち位置が、主人公との距離を作っている。これなら辛いひとり旅のお話も、笑いながらでも歌える勘定だ。
 彼女の部屋には、育ての親の長良さんの写真が飾ってある。仕事に出かける時、彼女はそれにあいさつをするそうな。そのうえ彼女の鞄には、いつも長良さんの写真が入れてあるとも聞いた。春4月、墨田区のステージでピョンピョンしている彼女を眺めながら、僕はそんな彼女の心根の優しさを思い起こして、妙にしみじみとしたものだ。

週刊ミュージック・リポート


 「いやいや、なかなかに・・・」
 「はははは、どうもどうも・・・」
 他人が聞いたら何のことか、見当がつきそうもないあいさつを、エイベックス顧問の稲垣博司氏と交わした。4月8日早朝、相模カンツリー?楽部の入り口。もう35回になるという集英社のコンペに参加してのことだが、当の二人だけ判っている会話のタネは、稲垣氏の著書「じたばたしても始まらない」(光文社刊)だった。
 何とも大胆なタイトルだが「人生51勝49敗の成功理論」が副題で、彼の自伝的業界体験50年分と、その間に体得したエンターテイメント人生の哲学が開陳されている。そう書くと理屈っぽい本と思われそうで申し訳ないが、そうではなくて、これが滅法面白い。渡辺プローCBSソニーーワーナーミュージック・ジャパンーエイベックス・・・と、彼が辿った年月のあれこれのエピソードが、実名入りでこと細か・・・。
 レコード大賞を中心にした賞レースの裏面にもかなりのスペースを割くが、決して暴露本ではない。プロダクションからレコード会社と、立場は変わっても、賞とりはいわばビジネス。相当に厳しい戦いを展開しながら、レースそのものの意味を自分に問い、その中で育って行く人間関係を貴重なものとする考察が彼流なのだ。
 今でもたまに夢にみて、うなされることがあると述懐するのは、1972年に、郷ひろみが最優秀新人賞を狙った大晦日。票集めに自信満々だった彼の前で、呼び上げられた歌手の名は、郷ではなくて麻丘めぐみだった。これが彼の業界50年の、最も苦い経験の一つと言うが、同時にそれは今日の彼の成功へ、大きなバネになっていたのだろう。
 《そうか、あの時そうだったのか・・・》
 と、僕が思い返すのは、一つの出来事には幾つもの局面があるということ。あの年の最優秀新人賞の候補は麻丘、郷のほかに森昌子、青い三角定規、三善英史の名が並んでいる。「ン?」と気づかれる向きもあろうが、麻丘と三善はともにビクターの所属、百戦錬磨のビクターが、候補を一人に絞り切れないはずはなかった。それがこんな形になったのは、三善で行くと決めたビクターに、麻丘のお抱え主の小澤音楽事務所、小澤惇社長が憤慨してのこと。しかし、ビクターの実力者たちに表だって異を唱え切れず、獅子身中の虫になった小澤氏は、日夜秘かに審査員諸氏に、〝やむにやまれぬ真情〟を訴えて回った。稲垣氏をガク然とさせた結果を生んだのは、老舗メーカーに対する弱小プロダクションの謀叛で、理詰めの根回しと情がからんだ陳情の対決だったろうか。
 稲垣氏のこの本に書かれた出来事の、異った局面をあげつらうことは、裏面史的要素に深入りし過ぎる。それは決して、氏の望むところではないだろうし、失礼にも当たると思いながら読み進むのだが、連想するエピソードは沢山あった。振り向けば僕も、スポニチの取材部門へ異動したのが昭和38年だから、もう50年になる。稲垣氏の半生に、僕の雑文屋50年のあれこれが刺激される実感があった。
 稲垣氏は常々、
 ①よい音楽とよくない音楽
 ②新しい音楽と古い音楽
 ③売れる音楽と売れない音楽
 の3点を考え③をビジネスの物差しにして来たという。彼だけではなくレコード業界は長いこと、利益を追求するために過度の若者偏重に陥っていた。それを今、「音楽へのリスペクトを失わせ過ぎなかったか?」と省るあたりの記述は、率直な本音だろう。
 この本が単なる回想録でないことは、6章の後半2章が「音楽業界に向けて今思うこと」「これから次代を担う人たちに向けて」に割かれていることではっきりする。エンターテイメント系ビジネスマンとしての要諦が多岐にわたり、示唆に富んで鋭い。
《俺は氏と同じ年月を、もっぱら情念だの情感だのの流行歌狂いに過ごしたな》
 読後そんなほろ苦さが先に立ったのは、新聞社の幹部の時期さえも終始編集系だったから、金を遣うことばかり考えて来た自分に思い当たったせいである。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ133回

居酒屋「けい」で飲んだ。名古屋城近く、又穂町という住宅街にポツンとある店。逆L字型のカウンターに、テーブル席が三つほどの規模だが、地元の常連客で賑っていた。美人ママの愛想と、おいしい酒の肴のあれこれが人気なのか。僕らに乞われて歌いはじめるのは船橋浩二という歌手で、ママのだんなだ。
 曲は『雪国の女(ひと)』である。船橋の名刺には「遠藤実作品、不朽の名曲」と刷り込まれている。昔々、春日八郎がアルバムの1曲として歌った。それに惚れ込んで40年、夢を果たした彼が、クラウンでCDにしたのは3年前の10月で、旧知の僕がその縁結びをした。
 ♪幸せになりたいと ふるえるふるえる唇で 昔を語り泣いた目の 目元に春よ早く来い…
 北国の宿で出会った女を回想する男唄。それを船橋がきっちりと歌う。情感ごと抑え気味の高音とよく響く中低音、さりげない小節回しと語尾までおろそかにしない律儀さ。息づかいごと吐き出す感情には、胸いっぱいの思いのたけの、量感と奥行きがある。
 実は、船橋と僕は年こそ大分違うが同期生である。昭和38年設立の日本クラウン第一回発売盤の中に、彼の『俺だって君だって』があった。僕はこの年スポーツニッポン新聞の音楽担当記者になる。クラウンは今年50周年、船橋の歌手生活も僕の雑文屋暮らしも、はばかりながら50周年の勘定になる。
 デビュー当初から、歌がうまかった。やんちゃな性分からか、歌をはみ出す覇気もあった。西郷輝彦や水前寺清子らに続く「クラウンの星」として将来を嘱望されたが、船橋はいつのころからか第一線から消えた。
 「ちやほやされて、テングになったんです。まだ10代でしたから…」
船橋が苦笑いで往時を語る。金が入って競馬に熱中、新宿の場外馬券売り場で馬渕玄三プロデューサーに見つかり、大目玉をくらった。「ここなら大丈夫!」と、鞍替えした錦糸町で、また馬渕氏に出っくわす。馬渕氏は五木寛之の小説に「演歌の竜」として登場する伝説の人である。大物に勘当されたのが運のつき。北島三郎から声がかかり、前唄暮らしもしたが長続きせず、以後はずっと“巷の歌巧者”の日々…。
 『雪国の女』のカップリング曲は『みちくさ人生』で、船橋が鳥山浩二の名で作曲、あたためていた作品である。夢にはぐれた路地裏暮らしの歌詞(みずの稔)が、彼の半生に重なるせいか、船橋の歌は感情が濃いめで、少し生々しくなる。古巣再デビュー後、船橋は目をかけてくれた北島にあいさつ、恩師馬渕玄三と作詞作曲した遠藤実の墓を訪ね“これから”の奮闘を誓った。
 僕は1、2月、名古屋・御園座の「松平健・川中美幸合同公演」に参加していた。その楽屋をしばしば訪ねて来たのが船橋で「店へ是非!」という話になった。同行したのは年下だが先輩役者の西山清孝、真砂皓太と若手女優の小林真由で、三人とも船橋の年季の芸に陶然とした。傍らで目を細めていたのは船橋の中川マネージャー。僕はこの初老コンビの、人生の苦渋と見果てぬ夢、キャンペーンに没頭する憑かれ方に、しばし粛然とした。


<データ>

『雪国の女』

作 詞:遠藤 実

作 曲:遠藤 実

編 曲:南郷達也

発売日:11年10月26日

発売元:日本クラウン

品 番:(CD)CRCN-2445

(CT)CRSN-2445

月刊ソングブック

 
 「人情の機微を、花鳥風月の抒情に託して・・・」 昔、詩人のどなたかから聞いた歌づくりの要諦の一つである。しかし、今どきの若い人にこの風流が通じるものか・・・と思うが、時に「ふむ!」と合点が行く作品にでっくわすこともある。最近の例でいえば、大石まどかが歌う「春一夜」で、作詞がさいとう大三、作曲が四方章人、編曲が蔦将包ー。
 春の夜に花が散る。恋の終わりをかみしめる女。黒髪に散る「桜」、涙も静かに・・・というのが一番の歌詞。二番の小道具は「蝶」で、三番には「おぼろ月」が登場する。蝶には今は幻の恋のあれこれ、月には失った恋の追想が託されている。
 《やるじゃないか、なかなかに・・・》
 と、さいとうのやや暗めの眼差しを思い出す。1節5行の古風な発想と簡潔な表現に、わが意を得たり・・・の心地がしてのこと。同じ感想を伝えれば、四方はきっと、
 「そうですか・・・」
 と、少しテレて、あの実直そうな眼をしわくちゃに笑うだろう。ゆったりめのワルツが一途に、ゆるみたるみのない情感を伝えてくる。それやこれやの素材を蔦は彼流の絵に仕立てた。「いいねえ」と言えばこちらはふっと笑って肩をすくめそう。三人とも「花鳥風月の趣き」を思い起こせる年かっこうの歌書きだ。
 「じゃあ、私はどうなるの?」
 と、小首をかしげて聞く番は大石だろう。詞や曲やアレンジの良さは、歌手の歌ごころで具体的に生かされ、伝えられるものだから、僕の答えはやはり「やるじゃないか!」になる。吐息まじりに抑制の利いた唱法で、彼女はこの作品のココロを作った。うつ向き加減に、自分の胸中をのぞく主人公の姿までほの見えてくる。サビの1行分がそれを形にし、「春ひとよ・・・」の歌い納めできっぱりと、思いのたけを解放した。歌声が芯をくうのはこの個所だけ・・・。
 類形化ばかりが目立つ近ごろの演歌の中では、存在感強めの作品である。短めの詞に曲がワルツとなれば、とかく地味な仕上がりになりがちだが、このチームは巧まずして「地味派手」の魅力を作り出した。そういえば、顔が見えない制作者も花鳥風月の一人か。この作品を用意、大石の熟した女ぶりを前面に出した手腕がなかなか・・・である。カップリングの「ちいさな酒場」と、どちらで行くかの話があったと聞くが、独自性では「春一夜」で正解だと思う。片方も同じトリオが書いて悪くはないが、近ごの歌の流れの中では「並み」に聞える。
 それやこれやの感想を実は3月のはじめ、台北のホテルの深夜に感じた。小西会という遊び仲間のゴルフツアーで出かけた先。何だか昭和のあのころみたいな台湾の風物と旅ごころと酔い心地が、この歌の情趣を増幅したかも知れない。僕らの旅は早朝にホテルを出、ゴルフ場を走り回り、料理店で酒盛りをしてホテルへ戻る三角コースを繰り返すのが常。僕だけがとる大きめの部屋は二次会会場で、東京から持ち込んだ仕事をやるのはそのあとだから、どうしても深夜になる。
 僕は今年の桜を最初に台湾で見た。山桜みたいに小ぶりな淡い色の花が、郊外のあちこちに咲いていて、ゴルフ場には黄色が鮮やかな風鈴木の花。凄かったのは「老淡水」というコースのキャディ、老若一組の男性だが、グリーンでの助言は明解に一点限定、もはや「指示」に近い。有名プロを輩出した名門コースを取り仕切る風格も備えていて、後で聞いたら、全員シングルの腕前だそうな。
 台北市内から北へ23キロ、車で小一時間の国立公園、陽明山の山水園という温泉もなかなかだった。湯治場ふう硫黄泉が、朽ち果てた家屋の奥の奥にある。国立公園だから増改築が不可なのだと主人の林さんの釈明。実はこの人、僕らの現地ガイドだったが、正真正銘の温泉はここくらいと胸を張るのにつき合ってみた。その真偽のほどはともかく、旅は道づれ世は情である。そのうえ旅先でいい歌みつけた! なのだから、何とも味な4泊5日4プレーの旅ではあった。

週刊ミュージック・リポート

 
 浅草公会堂、客席最前列と舞台の間に、少しばかりの空間がある。3月17日夕、佐伯一郎はそこで歌っていた。舞台が背もたれ、左右へもあまり動かない。歌の合間に周辺の客と他愛のないおしゃべり、なんとも横着な仕事ぶりで、歌は「りんご追分」「越後獅子の歌」「みだれ髪」・・・。
 蛮声を張り上げて歌う。感情移入過多。これでもか、これでもか! の歌は、この人なりの絶唱とでも言うべきか。声を整えて・・・とか、節回しに留意して・・・とかの気配りはない。歌うことへの思い、楽曲への思い、この日この時への思いなどが、混然として声を励ましている。
 《う~む、なんだこれは・・・》
 と、僕は客席で唸る。実に何とも、一方的な歌である。委細構わず彼は、自分の歌を客席に叩きつけて来る。押し込んで来る。聴く側の間合いなど一切お構いなしで、曲は「荒城の月」だの「月の砂漠」だのに変わる。唱歌の抒情に若い日の感慨が甦るのかも知れないが、そこに昇華の感触はまるでない。やたらに荒々しく、生々しく、ここを先途・・・である。
 『断末魔』なんて言葉が浮かび、僕はあわててそれを打ち消す。そう表現しては無礼だろうし、無惨にも過ぎよう。では『物狂い』か。佐伯76才の、歌魂の行きつくところの正体。よくしたもので客席は、曲ごとの拍手で彼の後押しをしている。『一途さ』が伝わっているのだ。『気迫』と受け止めているのかも知れない。佐伯が吐き出す歌の塊りを、受け取り方はおおむね好意的だ。
 「来年でこの公演も25回目になる。そこまでは何とかやり続けたいと思って・・・」
 出番が終わった佐伯が、楽屋でポツンと言った。どうやら幕引きを考えている口調。喉頭がんの手術後、残った三分の一の声帯を鍛え直したのはずいぶん以前の話。ここ何年かで脊椎の手術を5回もした。歩くのさえ思うに任せない現状で、いわば満身創痍、それでも彼を歌に駆り立てるものは一体何なのか?
 毎年のことだが、僕への接待は茶わん酒である。互いにグビグビやりながら、しばらくは世間話。用心棒が芸名の、スキンヘッドのおやじ3人が相槌を打つ。服部弘子があいさつに来れば「今日は最高だったよ」と佐伯がねぎらう。タクシー会社の社長だった彼女は、今は会長。夫と息子に先立たれた悲嘆から、歌で立ち直ったと言う。一条健、葵恵子。南愛子、いずみ恵子・・・と、弟子たちの笑顔が続く。
 〝歌う作曲家〟佐伯は、浜松に蟠踞して大勢の弟子を持つ。作品を与え芸名をつけ、CDを作り、地域での活動もとりなす。みんな熟年、もともとなりわいとする仕事を持つ〝職業歌手〟群だ。佐伯はそんな一家を形づくって、東海地方に独特の勢力を張る。浅草公会堂公演は、いわば一家の東京攻勢なのだ。佐伯本人は東海林太郎や岡春夫を歌い、船村徹と組んでアルバムを作るなど、若いころの東京で活動した地盤を持つ。だから僕は、長く親交のある彼を〝地方区の巨匠〟と呼びならわして来た。
 そりゃあ歌手だから、テレビによく出て、全国に歌と名が売れた方がいい。CDを出すのだから、それが沢山売れて、ヒットチャートの常連になったら最高だろう。しかし、それだけが歌手の力量を計る物差しではない。無名のままでも、地域限定の仕事でも、なじみの客と膝づめの舞台で、心に沁みるいい歌を歌う奴だって歌手だ。「いつか紅白歌合戦に・・・」と、なんとかの一つ覚えのセリフを繰り返す未練を断ち〝地方区のスター〟として胸を張る歌手が頑張っていてもいいじゃないか! 第一「紅白」は、ずいぶん昔から演歌・歌謡曲の殿堂なんかじゃなくなっているんだ!  東京近郊には新田晃也が居り、名古屋には船橋浩二が居る。福井あたりの越前二郎は、この日の浅草公会堂にも出ていた。みんな知る人ぞ知る歌巧者で僕の友人。そんなグループの代表が佐伯なのだ。彼はおそらく、歌生涯の総決算として、来年浅草公会堂をやるのだろう。僕はきっとそれを、聴きに行くのではなく、見届けに行くことになるのだろう。

週刊ミュージック・リポート

新年、みんなが暖かさを求めるのか!

 昔、阿久悠は「どうせ」とか「しょせん」 の心情を排除するところから歌を書き始めた。流行歌の退嬰的な暗さを避けたかったのだろう。ところがどうだ、今月の新曲には男と女が寄り添って前を向く歌が並んでいる。落ち込まず、諦めず、信じたとおりに...と、失意ソングですら根は暗くならず、傷の深さを見せない。3・11 以後、人と人の絆が再認識され、こんな世相の中でも、それなりの活路を探そうとする人心の表れか。それが新年第一作らしさの色あいになっているから妙だ。

北のおんな物語

北のおんな物語

作詞:池田充男
作曲:中村典正
唄:松前ひろ子

 丸山雅仁編曲の前奏からして重厚、中村典正のメロディーは、明らかに男唄である。それが北国を舞台にした夫婦ものの歌に展開する。無愛想な男と、それに命がけで惚れた女の物語。何とも骨太な〝しあわせ演歌〟だ。
 こじんまり、ほのぼのムードと相場が決まっているこのタイプを、硬派に仕立てたのは池田充男の詞のいさぎよさ。男も強いが女も強い...と感じ入る。
 松前の歌も重めに、女主人公のひたと見据える目線を伝える。中村・松前の呼吸が合って、歌づくりでも夫婦善哉と言えようか。

ふたりの夜汽車

ふたりの夜汽車

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:西方裕之

 麻こよみの詞は〝道行きもの〟である。世間を捨て、過去を捨てた男女が、最終の夜汽車に乗る。そんな状況を水森英夫の曲は、じめつかず、悲しみを抱え込まないタイプに仕立てた。往時の三橋美智也の世界を連想させて、むしろ気分のいいノリだ。
 歌い出しを高音で出れば、サビに高音が来て、歌い納めにもう一度高音が来てワンコーラス。結果、訴求力強めの作品になって、西方の歌もそれなりの覇気を生んだ。
 六行詞の終盤二行が、曲も歌も少し優しげになるあたりが、今日ふうだろうか。

命かさねて

命かさねて

作詞:水木れいじ
作曲:岡千秋
唄:藤原 浩

 低音ザックリと「やけ酒の...」と歌い出したところで「ほほう!」になる。吐息まじりの歌が人肌の手触りで、応分の説得力を持つせいだ。藤原浩が変わった。もともと整った美声に自信を持っていたタイプ、それが声に頼らず歌を語り始めた。この人の進境だろう。

花一輪

花一輪

作詞:仁井谷俊也
作曲:田川寿美
唄:田川寿美

 歌の芯がしっかりと、太めになっている。家庭を持ち、母親になった田川の、充実感めいたものが伝わる。親交があるという幸耕平がそこを狙ったのかも知れない。幸が書いたメロディーは、大月みやこ用に近いが、田川はちゃんと、自分流の歌にしている。

ほろよい酒場

ほろよい酒場

作詞:森坂とも
作曲:水森英夫
唄:伍代夏子

 小料理屋の女がほろ酔いで、あれこれひとりごちている。詞も曲もそんな調子のほのぼのムード。それを歌うでもなく語るでもなく、にこやかに表現するのが伍代流みたいだ。主人公の顔に伍代の顔がダブる。キャラ似合いの歌が出来たということになる。

女のみれん

女のみれん

作詞:高畠じゅん子
作曲:叶弦大
唄:若山かずさ

 女が泣いて男が笑う恋のなりゆきを、そのまんま歌にした未練ソング。若めの声でひとすじ三〇周年、若山はおなじみの歌唱を崩さずに来た。その律義さ、けなげさが、ファンの心を離さないのだろうが、息づかいにちゃんと、キャリアなりの奥行きが生まれている。

ふたり咲き

ふたり咲き

作詞:下地亜記子
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 それが流行りなら、俺もやってみようか...とでも言いたげな、北島版
〝しあわせ演歌〟
だ。四角い膳の焼き魚、小さな切り身をえりわけてくれる女房相手に、まんざらでもない旦那の笑顔が絵になる。多作の北島は歌で、そんなスケッチを積み重ねているのかも知れない。

のこり月

のこり月

作詞:円香乃
作曲: 北原じゅん
唄:瀬川瑛子

 久々に、北原じゅん健在!である。総合プロデュースもやったという気合の入り方は、曲の工夫に見てとれる。ゆったりめに揺れる部分と、気分せり上がる強めの部分のバランスがなかなかで、瀬川の声味と語り口をうまく生かしている。いいじゃないか!

夫婦つくしんぼ

夫婦つくしんぼ

作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:瀬口侑希

 ほのぼのと、ほほえましい女心ソング。男と女のオハナシなのだが、庶民的で楽天的な、母性愛の暖かさが前面に出ている。詞の田久保真見のひとひねりと、それを面白がった曲の弦哲也の顔が見えるようだ。瀬口は新しい〝自身らしさ〟を見つけるかも知れない。

夢の花 咲かそう

夢の花 咲かそう

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:中村美律子

 中村美律子と増位山太志郎が競作した作品の中村バージョン。歌い出しの詞二行あたりで、中村の歌声が弾んだりする。タイトル通り、君の時代がきっと来る...と語りかける応援歌だが、「人生は捨てたもんじゃない」は、作詞たかたかしの、近ごろの本音だろうか。

くちぐせ

くちぐせ

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:キム・ランヒ

 歌い出し三行分でもう、おいしいメロディーだなと答えが出た。徳久広司の顔を思い浮かべながら、俺も歌いたいタイプだと思う。この「歌いたい」が僕の、いい歌捜しの物差しのひとつ。キムの歌はひところのやんちゃ臭が消えて、しっとり大人になった。

愛だとか

愛だとか

作詞:松尾潔
作曲:松尾潔
唄:由紀さおり

 Jポップ系にヒット作の多い松尾潔が作詞作曲した、いい感じの歌謡曲。アルバム『1969』でブームを作った由紀にふさわしい新作と言えようか。生活感の薄さにひところ、じれったさを感じたこともあるが、逆にそれが熟女の清潔感と、由紀の世界を納得した。

MC音楽センター


 一途と言うか、ここを先途というか、久々にまっしぐらの歌を聞いた。2月26日夜、九段のホテル・グランドパレスで開かれた「船村徹同門会ディナーショー」でのこと。何しろ師匠の船村が客席中央最前列に陣取っている。主賓の席はステージに背を向けているのだが、弟子の静太郎に言わせれば、
 「先生は背中に眼を持っている」
 という威圧感。そのせいか、門下生の歌の気合いの入り方は、尋常ではない。
 白眉は中山一郎の「母は灯台」だった。船村の作品は馬に例えれば悍馬である。ことに働き盛りの往年の作品がそうで、おたまじゃくしが五線譜上であばれ、はやって、なまじの歌手では歌いこなせない。それを中山は、人馬一体の趣きで、これでもか! とばかりに歌い切った。
 後で聞けば八十二才、肝臓がんを患って余命の宣告も受けていると言う。しかし、そんな気配は微塵も見せず、声量十分、若々しいまでの覇気で、もしかするとこのステージに「歌い納め」の覚悟をこめたか? と思うくらいの出来栄えだった。
 眼をつむり、黙然と聞いていた船村は、軽く二、三度うなずいた。「よしっ!」の感想がそういう形であらわれたのかも知れない。もう一人、同じ反応を呼んだのは北晃治の「海鳴りの詩」で、マイクを持つ手の背広の袖口からズボンの裾までが、ビリビリ震えるくらいの力唱。それでいて2コーラス、少しの破綻も見せない剛の歌に仕立てた。
 船村がナプキンでそれとなく、涙をぬぐったのは三宅広一の「逢いに来ましたお父さん」の時だ。昭和三十二年、少年歌手だった三宅の歌でヒットした靖国神社参拝ソング。「九段の母」や「東京だよお母さん」に通じる世界だが、熟年三宅の歌は率直に飾り立てることなく、歌の思いに自分の思いをしみじみと重ねた。それに誘われたろう船村の涙は、往時を思い返してのものだったか、今の国状を思ってのものだったか・・・。
 無名だがベテラン3人の芸には、年季が生きていた。激唱しながらなお、自分の野心は秘め、作品世界に没入して、それぞれが作品に血や肉を加えていた。それに比べれば中堅、若手の越前二郎、静太郎、天草二郎、走裕介らの歌には、青年の客気が目立った。師匠の楽曲で何とか〝自分らしさ〟を作り、アピールしようとする野心である。
 売り出し前の歌手には、それはあって当たり前。あれやこれやを寝ずに考えての自己顕示で、芸ごとはそんな生々しさからスタートする。そのうえで、あちこちに頭をぶつけ、試行錯誤を繰り返す。結果、生まれるのは歌をこね回す悪癖だが、そんな中ではた!と、何かに思い当たる時が来れば、彼らはそれぞれの自分〝らしさ〟を見つけ、楽曲を生きることの肝要さに気づくのだろう。それまでは何はともあれまっしぐらしかない。前述のベテラン3人は、そんな時期をとうに超えて、身を捨てこそ浮かぶ瀬もあれ・・・の境地に達しているように思えた。それでいて歌が、決して枯れてなどいないしぶとさが、船村門下生のゆえんかもしれない。
 同門会会長の鳥羽一郎は「稚内ブルース」を歌った。船村作品には、隠れたいい作品が沢山あることの一例。それをうまいこと、作品を生かしながら独持の鳥羽節で、二つの勘所を両立させてみせた。スター歌手の地力と言えようか。船村の内弟子たちはみな、尊敬する兄貴分・鳥羽の歌い方に染まり、そこから脱け出ことで歌手への道を開く。この夜ステージに立つチャンスを貰えた大門弾は、目下師匠の身近で働く最後の内弟子。
「故郷の山が見える」を歌ったが、何をどうしたのかまるで覚えていないほどの緊張ぶりか、かわいかった。
 いずれにしろ究極の演歌は、〝ある種の「過剰」さ〟をその骨とにする。戯れ歌が文学に通じる歌詞、音の詩人が奔放に解き放つメロディー、それに血肉を加える歌手。それやこれやが混然として、血沸き肉躍る狂気を垣間見る瞬間を、日々、待ちこがれている僕としては、なかなかの酔い心地の一夜だった。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ132回

 歌い手最大の武器は「声」だと思っている。一度聞いたら忘れられない声、二度目には「あいつだ!」と判る声。それが楽曲で淀みなく生かされ、ほど良い感情移入が出来たら鬼に金棒だ。しかし、そんな声の持ち主は滅多に居ない。歌手を目指す若者の、何千人に一人か何万人に一人か――。

 川上大輔という新人に、僕は正直、相当なショックを受けた。知らずに聞いたら女性と思う向きが多い声だ。得も言われぬ色彩と艶、質感のあるそれが、実に率直に伸び伸びと『べサメムーチョ』を歌う。FUMIKOの詞、杉本眞人の曲の、おなじみのあれだ。新人とも思えぬ酔い心地を伝えて来る。歌に快い哀しさが満ちている。

 「官能的なプラチナボイス」「ビジュアル歌謡の新星!」「和流スターの本命」と、制作陣が用意した惹句が、力み返るのも無理はない。それに、ここのところ踊って歌うグループが、人気を集めて来た。確かにそろそろソロシンガーの出番かも知れない。韓国勢の活躍が“韓流ブーム”を作った。それに対抗する“和流”が待たれる時期かも知れない。

 それにしても…と、デビュー・シングルを聞き直す。3月発売というアルバムも、テスト盤で聞いた。中、低音から高音まで、声味と響きが全く変わらない。それが揺れながらメロディーを辿り、歌詞の心情を巧まずに表現する。アルバム11曲、多彩な作品をひと色に染めて、独特の魅力が崩れず、難点がない。ふつう新人の歌は何曲か聞けば、こうすればよかったのに、ああすればよかったのに…と思う個所が残るものなのに。

 選曲の妙も手伝っている。『ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー』『あなたのすべてを』『星降る街角』『爪』『ウナセラディ東京』と来て、『恋心』『死ぬほど愛して』の外国曲が並ぶ、いずれも一世を風靡したというよりは、その横にいた作品。それだけにおなじみの曲だが、創唱者のイメージが薄めだから、川上が自分の歌にしやすい利点がある。

 ≪いいメロディーが沢山あったなぁ≫

 と、70年代前後の往時を思い返す。いわばあのころのポップスを、ジャズで揺らし、ラテン系の歯切れのいいアレンジで、川上の歌を乗せるのが今回の狙いだ。シングルもアルバムも、プロデューサーとして草野浩二の名が記されていた。奥村チヨを筆頭に、日本のポップスを開拓した腕ききだが、そのベテランの知恵と手練が生きていようか。そう言えば古い友人の彼から「川上大輔という新人をやったよ」という年賀状が届いていた。

 「ビジュアル歌謡」という惹句と、ガガを撮ったカメラマン、レスリー・キーのジャケットから、稚児さんふう美少年を連想した。ところが、会ってみれば川上は、身長1メートル80、体重66キロのスポーツマン・タイプ。言動も体育会系のさわやかさで、村上春樹とサッカーが好きという好青年だった。異能の歌手とも言える妖しい魅力と、そんな素顔が表裏一体になっている。2013年は川上と草野ら制作陣にとって、とてもいい年になりそうな予感が強い。

月刊ソングブック

殻を打ち破れ131回

 親愛の情をこめて「和尚!」と呼びならわす快人物がいる。山形・天童市の名刹の住職・矢吹海慶氏。地元の有力者で「佐藤千夜子杯歌謡祭」を取り仕切るが、博覧強記、酔余の雑談が滅法楽しい。時に「酒と女は2ゴウまで」などと、生ぐささもほどほどの粋人だが、それが、
「今年、生まれて初めて80才になったので、カラオケ教室に入門した」
と笑った。お得意が『酒のやど』である。
10年来の親交は、歌謡祭の審査を頼まれて始まった。毎年11月にやるカラオケ大会で、東北の歌好きが集まる。地元の熟女たちがスタッフとして奮闘する手づくりのイベントで、その一生懸命さが貴い。今年も大会前夜に現地入り、温泉と酒宴のあとがカラオケになった。ゲストの永井みゆき、山﨑悌史、秋吉真実らも、商売抜きでマイクを握る。要するにみんな好きなのだ。
♪さすらいの さすらいの 酒をのむ。こぼれ灯の こぼれ灯の 酒のやど…
和尚の歌がサビあたり気分よく盛り上がるのに、僕は「ン?」になった。舌がんを患って、そのリハビリも兼ねると聞いたが、話す時より言語明瞭。言うところの「下手うま」で、声や節に頼ることなく、歌のココロを一途に語る。人間味が歌の情を濃いめにしているが、何よりもきわ立つのは選曲の妙か。
「池田充男の詞か、すうっとすっきり、独特の愛惜感がさすがだねえ」
と、僕は同席した友人と業界話を始める。相手はテイチクの千賀泰洋と元ビクターで今はオフィストゥーワンに居る朝倉隆だから、相手に不足はない。
「ところで、作曲の森山慎也ってどんな人?」
なじみのない名前の主が、元JCM社長の為岡武氏と聞いてびっくりした。ミュージシャン出身とは知っていたが、一時コミックバンドにいて「あら、いやだ!」とシナを作るのが受けたものだと、友人二人は嬉しそうに話す。温泉町のカラオケ・スナックで聞く、知人の噂である。このところすっかりご無沙汰していたが、そうか、あの人はこんなふうに頑張っているのか!
『酒のやど』は7行詞3コーラスだが、前半の4行で歌がひとつ、後半の3行でもうひとつ、別の歌が聞けるような構成。たまたまめぐり会った男女のオハナシが前半4行できっちり描かれ、後半の3行で雪が舞い、汽笛が聞える宿の情景が絵になる。泊まって行って…とうつむく女、ゆらりと崩れる男の酔いごころと、情事の前兆も乙なもんで品が良い。 池田の仕事の中でも、近ごろ出色!だが、両両相まってなかなかなのは森山のメロディー。1曲で二度おいしい贅沢さを、巧みに書き切ってゆるみたるみがない。ゆったりしみじみ二つの情趣が、水彩画みたいに並んだ見栄えのよさと聞き応えが、なんとも言えない!
僕の天童市のお気に入りは、芋煮とせいさい漬けとつや姫という米の美味。それに今年は『酒のやど』再確認が加わった。香西かおりのデビュー25周年記念曲。年末にはレコード大賞候補の10曲にも選ばれて「さもありなん!」と、僕は大いに気をよくしている。

月刊ソングブック


 カラオケ・スナックに飛び込む。演歌歌手たちの体当たりキャンペーン。勝負曲を歌い、気に入ったらCDを買ってもらう。チリも積もれば山、切ない努力だが、必死で続けていればいつか、幸運の神様が振り向いてくれるかも知れない。そんな一縷の望みを抱いて、ネオン街を歩く歌手たちの数は多い。しかし、そんなに甘い世界ではないことも、彼や彼女たちは知っているが、ヒットへの手がかりが、当面他にはないことも判っている。
店の人の対応はおおむね冷酷だ。にべもない口調、胡散臭いものを見る視線、あられな拒絶・・・。彼らには、見ず知らずの歌手の夢に付き合う気などない。店の客は歌いに来ていて、そのために落とす金で店は成り立っている。大事な営業時間は、そんな客たちのために使われねばならない。そう考えるのが普通なのに店の主が、
「え? 本当? 嘘だろ!」
と、好奇心を示す場合もある。例外的な反応に目を細める歌手は船橋浩二。
「そうなりゃしめたものです、歌を聞いてもらえば相手は納得する。何枚かにせよ、CDがはけます」
名古屋に住み、大阪を集中的にな攻めている初老の男だ。
ヒミツは作品にある。彼が歌っているのは遠藤実作詞作曲の「雪国の女(ひと)」で、40年以上前に春日八郎がアルバムの中で歌っていた。当時から「いつかこの曲を歌いたい」と、念じ続けていたのをクラウンでレコーディングにこぎつけたのは3年前。橋渡しを僕がし、「そうまで言うなら・・・」と、当時の曷川常務が引き受けた。雪国の宿で出会った女の、はかなげな風情、いじらしさを回想する男唄。遠藤作品の特色だが、詩も曲もシンプルで全体に淀みがなく、聞けば聞くほど染みて来る魅力を持つ。
スナックの主がひっかかるのは、『遠藤実』という作家名。そんな大作家の作品を、こんなおっちゃんがCDに出来る訳がないと思うらしい。船橋は66才、五分刈りのごま塩頭にずんぐり小太りの短躯、実直者らしい愛想笑いが憎めないが、せいぜい不動産屋のおやじがいいところの風情だ。名刺には「遠藤実作品、不朽の名作」と刷込んであるが、相手が「ほんとうかね!?」と疑うのも無理はない。大体、この手のキャンペーン歌手の作品は、聞いたこともない人の作詞、作曲が多いのが相場と思い込んでいる。
「しかし、歌は心だ。見た目じゃないぞ!ってことになる訳だ」
名古屋・御園座の僕の楽屋へ、入り浸りになる船橋を、そういうふうに冷やかす。なかなかの歌巧者。よく響く中・低音、抑制の利いた高音、独自の節回しなどに〝いい味〟があり、作品の魅力を十分に伝えている。古来の演歌歌いにありがちな〝歌のどうだ顔〟がないから、前述のキャラまでが逆に生きる妙まである。
船橋と僕は、実は同期生である。昭和38年創立の日本クラウン第一回発売盤に、北島三郎、五月みどりらと並んで彼のデビュー曲「俺だって君だって」がある。10代だが筋のいい男・・・と、将来を嘱望されたのが、伝説のプロデューサー馬渕玄三の勘気に触れて、いつからか第一線から消えた。僕は同じ年にスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材班に異動、クラウンに通い詰めた新米だったのが彼との縁。
一、二月の御園座は松平健・川中美幸ダブル座長の新機軸公演。二本の芝居「暴れん坊将軍」と「赤穂の寒桜」に二人別々のショーを見に来て、川中の歌に唸ったのが船橋。
「先生(後に頭領と呼べと変えてもらったが)だって、70才から舞台の役者になったんだから、俺もまだまだやれますよ。現役です!」
と、いやなことを引き合いに持ち出したものだ。 《有名な歌手にしろ舞台歌手にしろ、第一に必要なのはやはり作品力か!》
僕はそんなふうに合点して、2月20日長逗留の名古屋を後にした。出迎えたのは葉山の海と空、愛妻に猫の風(ふう)と言う50日ぶりの家庭。しかし、この夜が、友人田崎隆夫の父の通夜、翌21日が葬儀になった。

週刊ミュージック・リポート

 
 真砂皓太という役者がいる。松平健座長の側近というか腹心というかの信頼を得る。芸歴30年を超えるから、僕より年下だが〝大〟をつけてもいい先輩だ。以前川中美幸公演で一緒になり、親交が続く。今回は名古屋・御園座の楽屋が同室で、初めて武士をやる僕は、大小両刀の差し方をはじめ、様々な指南を受けた。
 昼夜2回公演の日の昼食も、この人が作る。若いころ板前の修行もしたという本格派。朝、楽屋入りするなり仕込みに入り、第一日はすき焼きの鍋をつつく豪華版から始まった。知人からの差入れが山ほどで、ステーキ、ハンバーグ、豚のしょうが焼き、カルビ・・・と、僕は突然肉食派になった。今公演は松平、川中ダブル座長を務める新機軸だが、お供をすれば二人とも揃って肉食派。
 《これがタフなスターのエネルギー源か!》
 と合点が行く。
 僕らの楽屋めしの相方は大迫英喜で、名代の殺陣師谷明憲率いる剣友会の一人。寸暇を惜しんで毎食山盛りのサラダ用野菜購入に走る。その剣友会のボス格は西山清孝、副将ふうが田井克幸で、東映時代劇の全盛時からの腕利きだ。お仲間は他に小西剛、荒川秀史、橋本隆志、白国与和ら。これが見事な斬られ方で、松平の鮮やかな太刀さばきのスピードと迫力を支えている。
 二本の芝居の柱は剛毅・松平に艶冶・川中、滋味・江原真二郎、飄々・曽我廼家文童、酒脱・園田裕久、端整・瀬川菊之丞、変幻・西川鯉之丞、艶然・土田早苗・・・なんて面々。何度も一緒に舞台を踏んで、友達付き合いをさせて貰っている田井宏明、安藤一人、綿引大介、小坂正道らの顔も並ぶ。
 彼らは大名や赤穂浪士、幕府の間者、侍、捕り手、商人などの何役もこなす。
 役が変わる都度、衣装やかつらを自分で替える。そのために舞台裏のあちこちにそれぞれの拠点を作る。芝居の「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」「赤穂の寒桜・大石りくの半生」のほかに、松平ショー、川中ショーにも出るとなると大変。五木ひろしの手伝いもして旧知の小坂は衣装が合計13点。芝居をしたり踊ったりするよりも、着替えをし、衣装をたたみ、廊下を走る時間の方がずっと長いと言う。
 殺陣の面々も松平ショーでは「マツケンサンバ」ほかを踊る。頭が下がるのはボス格の西山も70才過ぎての手習い。けいこ場で自主練もした結果、きんきらきんの衣装で軽々とサンバステップを踏んだ。もう一人の獅子奮迅は僕と同じ楽屋の瀬野和紀で、松平の着替え、舞台への出入りなど全面フォローしながら、お庭番でカンフーふう殺陣をやり、川中りくの兄になり、2本のショーではメインダンサーの一人になる。楽屋の席が温まる暇もないが、笑顔を絶やさずに挙措はスピーディーそのものだ。
 「おはようございます。よろしくお願いします!」
 午前10時前から、明るい挨拶がこだまし、楽屋廊下を笑顔が往来する。ベテランの西川美也子、西川鯉娘、上代粧子らが先陣で、松岡由美、飲み友達の穐吉美羽、倉田みゆきらが続く。「私たち主婦なの」と笑うのは岡田里美、浅利悦子、金石与志能。大衆演劇の座長岬寛太は息子近藤海太と二人連れ、もう一人の座長門戸竜二は以前からの顔見知りだが、近々、喜多條忠作詞、鶴岡雅義作曲の「一途の花」という作品をレコーディングするそうな。巨体をゆすって歩くのは勝新太郎と中村玉緒を親を持つ青年芸名は鴈龍ー 。
 劇場近くの盛り場は「伏見」「栄」や「錦」である。そこへ毎夜に三々五々、役者たちが繰り出す。役どころ別、楽屋別、年代別など組み合わせはさまざま。松平・川中のお人柄から醸成される親密・温和な人間関係が、ネオン街にまで浸透して、僕の若手の連れは赤羽根沙苗、森本とみやす、小林真由、友寄由香利・・・。
 以上が1月11日初日、2月19日千秋楽の僕の名古屋の日々好日。御園座は3月で閉館するが、数年後、新装再出発のメドが立つと言う。「それまでもつかな?」「何が?」「寿命の話だよ」僕は東宝現代劇75人会でやった「喜劇・隣人戦争」の、子役とのやりとりを思い出して、苦笑いする。

週刊ミュージック・リポート


 8月1日が阿久悠の祥月命日である。今年が7回忌、
 《もう、そんなになるのか・・・》
 親交があった人で、少しも居なくなった実感がないまま、年寄りじみた溜め息をつく。伊東の小高い丘のてっぺんで、伊豆の海を見下ろす墓を、また訪ねなければ・・・と思う。母親が亡くなった時に彼が建てたのだが、
 「自分が入り、俺たちが墓参りに来る時の難儀さを、彼は、考えなかったのだろう!」
 坂の細道を辿り、息切れした6年前の夏を、僕は妙に生々しく覚えている│。
 その阿久の遺作の一つ「名場面」を、僕は毎日毎晩名古屋の御園座で聞いている。ダブル座長公演を展開中の松平健と川中美幸のデュエット。ショーは川中の「人うた心」と松平の「唄う絵草紙」(ともに宮下康仁演出)と全く別々だが、お互いにゲスト出演、この曲とそれぞれの新曲を歌う。デュエットと言えば大方がムード歌謡で、男と女の触れ合いを艶っぽく・・・いうのが相場だが、この「名場面」は大分趣きを異にする。恋ひとつ、その折り折りを男と女の名場面ととらえる阿久の詞が彼らしく硬質で、宇崎竜童の曲もポップス寄り。ベタつかないところが都会の熟年を絵にして、松平の率直、川中の艶冶の歌ごころとキャラに似合っている。
 《ほほう・・・》
 と思うのは二人の新曲で、川中の「めおと桜」は〝しあわせ演歌〟の決定版狙い。このタイプの元祖である彼女の歌には、女優さんの表情めいた肌理の細かさが加わって聞こえる。一方の松平は遠藤実が作詞作曲した遺作「日本人応援歌」。大上段に構えたタイトルだが、3・11以降のこんな世相にはぴったりの大衆激励ソングだ。遠藤作品としては舟木一夫に合いそうな青春歌謡、それを歌う松平の声の若々しさと覇気に、正直なところびっくりした。
 それよりも驚くべきは、松平のショーの絢爛豪華さだ。「唄う絵草紙」のタイトル通り、本人に言わせれば「レビュー」の華やかさと賑やかさ。「マツケン・マハラジャ」のオープニングから「恋曼荼羅」と続くあたりがインド風。それが「松健音頭」を挟んでおなじみ「マツケンサンバⅡ・Ⅲ」のフィナーレへ、シルクロードを遠
征く趣きがある。衣装は和風だがそれが眼もくらまんばかりの金きらきん。しかも、歌う松平は終始踊り続けて息切れすら見せない。
 「健さん、一体どうなってるの、あなた・・・」 と、一緒にサンバを踊った川中が呆れるくらいのタフさ。芝居の「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」の、激しい殺陣も涼しい顔なのを考え合せての嘆声だ。
 《タフじゃなければ、スターじゃないってことか》
 と、僕は改めて納得するが、その川中だって芝居の「赤穗の寒桜・大石りくの半生」で、客席を何度も泣かせ、自分のショーは歌いづめ、松平ショーとの双方にある二人のトーク場面では、お得意のジョークを連発、時々寡黙な松平の目を白黒させている。
 川中ショーの幕切れは彼女の「歌ひとすじ」だが、歌い終わりには松平が舞台に並んで低頭する。緞帳が降りると二人は下手(舞台向かって左側)へはけるのだが、当然左側にいる松平が先に立つ。ところが舞台そでで一瞬の間をとるのか、楽屋へ戻る時は川中が先で、にこやかに松平が従う順。ショーの主人公をたて、先を譲る松平の気配りが垣間見えて、それに気づく川中は胸じんじん・・・。気配り上手のスター二人の気の遣いっこが連帯感を生むのか。
 松平ショーの幕切れへ急ぐ僕の衣装が、しゃらしゃらと音を立てる。片肌ぬいだ襦袢がコバルトブルーで星がちりばめられ、衣装はコバルトに金と銀のラメ。スパンコールがこすれ合う音が何とも言えず、金色のサンバ棒、両端に金のヒラヒラがついたのを振って、僕もマツケンサンバを何小節か踊るのだ。僕自身は夢見心地だが、知人は「けだし見もの!」と袖ひき合って笑っている。




 真砂皓太という役者がいる。松平健座長の側近というか腹心というかの信望を持つ。芸歴30年を超えるから、僕より年下だが〝大〟をつけてもいい先輩だ。以前川中美幸公演で一緒になり、親交が続く。今回は名古屋・御園座の楽屋が同室で、初めて武士をやる僕は、大小両刀の差し方をはじめ、様々な指南を受けた。
 昼夜2回公演の日の昼食も、この人が作る。若いころ板前の修行もしたという本格派。朝、楽屋入りするなり仕込みに入り、第一日はすき焼きの鍋をつつく豪華版から始まった。知人からの差入れが山ほどで、ステーキ、ハンバーグ、豚のしょうが焼き、カルビ・・・と、僕は突然肉食派になった。今公演は松平、川中ダブル座長を務める新機軸だが、お供をすれば二人とも揃って肉食派。
 《これがタフなスターのエネルギー源か!》
 と合点が行く。
 僕らの楽屋めしの相方は大迫英喜で、名代の殺陣師谷明憲率いる剣友会の一人。寸暇を惜しんで毎食山盛りのサラダ用野菜購入に走る。その剣友会のボス格は西山清孝、副将ふうが田井克幸で、東映時代劇の全盛時からの腕利きだ。お仲間は他に小西剛、荒川秀史、橋本隆志、白国与和ら。これが見事な斬られ方で、松平の鮮やかな太刀さばきのスピードと迫力を支えている。
 二本の芝居の柱は剛毅・松平に艶冶・川中、滋味・江原真二郎、飄々・曽我廼家文童、闊達・園田裕久、端整・瀬川菊之丞、変幻・西川鯉之丞、艶然・土田早苗・・・なんて面々。何度も一緒に舞台を踏んで、友達付き合いをさせて貰っている田井宏明、安藤一人、綿引大介、小坂正道らの顔も並ぶ。
 彼らは大名や赤穂浪士、幕府の間者、侍、捕り手、商人などの何役もこなす。
 役が変わる都度、衣装やかつらを自分で替える。そのために舞台裏のあちこちにそれぞれの拠点を作る。芝居の「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」「赤穂の寒桜・大石りくの半生」のほかに、松平ショー、川中ショーにも出るとなると大変。五木ひろしの手伝いもして旧知の小坂は衣装が合計13点。芝居をしたり踊ったりするよりも、着替えをし、衣装をたたみ、廊下を走る時間の方がずっと長いと言う。
 殺陣の面々も松平ショーでは「マツケンサンバ」ほかを踊る。頭が下がるのはボス格の西山の70才過ぎての手習い。けいこ場で自主練もした結果、きんきらきんの衣装で軽々とサンバステップを踏んだ。もう一人の獅子奮迅は僕と同じ楽屋の瀬野和紀で、松平の着替え、舞台への出入りなど全面フォローしながら、お庭番でカンフーふう殺陣をやり、川中りくの兄になり、2本のショーではメインダンサーの一人になる。楽屋の席が温まる暇もないが、笑顔を絶やさずに挙措はスピーディーそのものだ。
 「おはようございます。よろしくお願いします!」
 午前10時前から、明るい挨拶がこだまし、楽屋廊下を笑顔が往来する。ベテランの西川美也子、西川鯉娘、上代粧子らが先陣で、松岡由美、飲み友達の穐吉美羽、倉田みゆきらが続く。「私たち主婦なの」と笑うのは岡田里美、浅利悦子、金石与志能。大衆演劇の座長岬寛太は息子近藤海太と二人連れ、もう一人の座長門戸竜二は以前からの顔見知りだが、近々、喜多條忠作詞、鶴岡雅義作曲の「一途の花」という作品をレコーディングするそうな。巨体をゆすって歩くのは勝新太郎と中村玉緒を親を持つ青年芸名は鴈龍ー 。
 劇場近くの盛り場は「伏見」「栄」や「錦」である。そこへ毎夜に三々五々、役者たちが繰り出す。役どころ別、楽屋別、年代別など組み合わせはさまざま。松平・川中のお人柄から醸成される親密・温和な人間関係が、ネオン街にまで浸透して、僕の若手の連れは赤羽根沙苗、森本とみやす、小林真由、友寄由香利・・・。
 以上が1月11日初日、2月19日千秋楽の僕の名古屋の日々好日。御園座は3月で閉館するが、数年後、新装再出発のメドが立つと言う。「それまでもつかな?」「何が?」「寿命の話だよ」僕は東宝現代劇75人会でやった「喜劇・隣人戦争」の、子役とのやりとりを思い出して、苦笑いする。

週刊ミュージック・リポート

麻こよみの踏ん張り方に好感!

 星野哲郎も言っていたが、流行歌の勝負は歌い出しの歌詞二行分。メロディーもそれにつれてきちっとするから、聞く側の感想が「いい歌だ!」と、早めに決まる妙味がある。
 演歌ならことさらで、今回聴いた五行詞、六行詞ものに、作詞家たちの工夫のあとが見えた。男女の色恋沙汰と、お話はほぼ決まっているから、定石のきわみを目指すか、切り口を変えるかが狙いどころ。そういう意味では麻こよみの『立待月』が、推敲を重ねて努力賞もの。滑ってない仕上がりが、きれいだった。

めおと桜

めおと桜

作詞:建石一
作曲:弦哲也
唄:川中美幸

 ♪三十路苦労をなみだで越えて 五十路を迎えて知る情け...が三番の歌い出し。『ふたり酒』『二輪草』に次ぐ〝しあわせ演歌〟の代表作へ、さりげなく等身大のニュアンスが埋め込まれた。長く一緒に歩いて来たファンも含め、共感への落としどころに思える。
 前二作に較べれば、歌の肌理(きめ)が細かくなっている。笑顔を感じさせる歌声、ゆったりめの包容力をそのままに、この人なりの熟し方のあらわれ。新年一、二月は名古屋・御園座公演だが、安定した女優としての表現力と魅力が、歌に加味されている。

男どうし

男どうし

作詞:仁井谷俊也
作曲:原譲二
唄:北島三郎/鳥羽一郎

 ともに船村徹門下の、親愛と敬意が聞こえてくる心地がするデュエット。北島には枯れた大人の男気があり、鳥羽には、やんちゃな若さをやや控えめにした居ずまいがある。
 ♪男どうしの情けの熱さいつか飾ろう花道を...という三番の歌い納めあたり、大舞台の中央に並ぶ二人が、両手を広げてポーズも決めた雰囲気だ。
 近ごろこんなふうに、大向こうを唸らせるタイプの歌謡曲は珍しい。ちまちま個人的な感慨を訴える歌ばかりの中では、スター二人の「どうだ顔」も、時に楽しいものだ。

立待月

立待月

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:北野まち子

 例によっての女心未練ソングだが、麻こよみの詞が細部まで、根を詰めた筆致できれいだ。その〝練れ方〟を生かしたのは、徳久広司のきれいなワルツで、作家の足並みが揃った。北野の歌は諦めごころと尽きぬ思慕を、各節の前、後半でほど良く歌い分けた。

蜻蛉の恋

蜻蛉の恋

作詞:荒木とよひさ
作曲:岡千秋
唄:角川 博

 こちらも女心未練ソングだが、荒木とよひさが彼らしい切り口で、独自の色を作ろうとした。レトリック勝負の人だから詞が観念的になりがちだが、一番などきれいに言い切れている。岡千秋の曲もいかにもの岡流、角川の歌は情感強め、その気で押し込んで来る。

心の道

心の道

作詞:建石一
作曲:徳久広司
唄:和田青児

 ワンコーラス一〇行詞のツーハーフ、ポップス寄りの歌謡曲を和田が歌って「ほほう!」である。一見さらりとした歌唱だが、すみずみまで〝思い〟が詰まって、この人のもう一つの魅力が生きる。それを支えたのは、モチーフのメロを積み重ねた徳久広司の手練か。

ふるさと津軽

ふるさと津軽

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:佐々木新一

 昭和四〇年代の初めごろ、第二の三橋美智也と呼ばれた佐々木の、健在ぶりがうれしい。お手のものの民謡調、各コーラス最後の詞の頭にある「ハァー」が高音で、たっぷりめの歌い回し方に独特の味がある。カラオケ上級者が愛唱する曲になる予感がする。

つゆくさの宿

つゆくさの宿

作詞:たきのえいじ
作曲:四方章人
唄:秋岡秀治

 五行詞演歌、詞も曲も起承転結きっぱり、展開や納めどころの着地もきちんとした。いわば定石通りの作柄で、こういう曲と出会うと、歌手も相応のハラを決める。秋岡の歌唱にもそんな気配が濃く、強めの感情移入が曲をはみ出しかける。彼流の血の熱さだろう。

遠きふるさと

遠きふるさと

作詞:もず唱平
作曲: 水森英夫
唄:成世昌平

 成世の歌声が、のうのうねっとりと、彼ならではの味を聞かせる。民謡調の歌のとらえ方で、委細承知のもず唱平の詞、水森英夫の曲。歌い出し高音で出れば、サビと歌い納めにまた高音が来る「W型」のメロディー、その分だけ訴求力が強い作品になった。

鴨川なみだ雨

鴨川なみだ雨

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵かを里

 すがる思いの女心ソング。麻こよみのソツのない詞に影山時則が曲をつけた。定石どおりだが、そのままもシャクの種と思ってか、影山がワンコーラス三個所ほど、音を動かしたのにニヤリとした。葵の歌は一生懸命めいっぱい。もう一息で〝自分の歌〟が作れそう。
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MC音楽センター

 
 「我らは死ぬまで、いや死んでも悪あがきをして、この世をよりよく変えていかねばならぬのだ。百年先、二百年先に生きる子供たちのことを考えたことがあるか!」
 そんなセリフが昨今の政治状況への批判にも聞える。一、二月、名古屋御園座で上演中の、松平健主演「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」の一景。松平扮する八代目将軍徳川吉宗が、反吉宗のクーデターを企てる首謀者・老中久世和泉守を指弾するシーンだ。
 《ほほう・・・》
 と面白がって台本を見直せば、似たような文言があちこちに埋め込まれている。いわく|、
 「年来の大雨、噴火による不作で、民百姓は疲弊しきっております」
 「景気が悪いでしょう? 人の心がすさんで、乱暴な連中が増えましたよ」
 「皆、政治の駆け引きに血道をあげ、己の出世と安泰だけだ。どのような清水も溜めれば腐る・・・」
 「ま、誰も今の政治(まつりごと)に、何も期待しておらぬということですかな」
 民主党が政権を取って3年余、言うこととすることの乖離に呆れた国民は、仕方なしにまた自民党を選んだ。その間に3・11の惨が起こり、放射能不安が蔓延したが、復旧復興は手つかず。選び直しはしたが自民のやり口を信じる気にはなれない。経済再建の三本の矢とやらにも、疑心暗鬼だ。「暴れん坊・・・」はおなじみ勧善懲悪の痛快劇だが、脚本の斉藤雅文はその中にも、こんなふうに、現代の民意を反映させていることになろうか。
 今回の御園座は、松平と川中美幸のダブル座長公演であることは、前回のこの欄に書いた。この思い切った新機軸の、もう一方の川中主演劇は「赤穂の寒桜・大石りくの半生」で、いわば〝女たちの忠臣蔵〟。美挙よ、義士よ、赤穂の誉れよ、と讃えられる四十七士の、陰の女たちの苦悩がテーマになる。かなりの比重で描かれるのが、浪士潮田又之丞の妻ゆう。討ち入り前に離縁されるが、後に再婚して女の幸せを獲得、
 「潮田は死んで義士の天晴れと褒め称えられましたが、離縁された妻は、たとえ死んでも野垂れ死としかみられなかったでしょう。何が何でも生きて幸せにならねばとおもいました」
と言い切り、内蔵助に添い遂げたりくに、
 「赤穂義士の妻が、夫の名を辱めるのか! 恥を知れ! とお蔑みなさいますか?」
 と反問する。そう言えば僕がやっている大野九郎兵衛も、赤穂藩家老でありながら、家財をまとめて敵前逃亡!? 到底、褒められぬ一人である。
 脚本の阿部照義はその辺の経緯を
 「命が惜しい者、家族のために脱落した心弱き者、卑怯未練な者たちにも、生きる権利はあって当然。彼らが居てこそ義士たちは光り輝いたのではないのか」
 と書き、1パーセントの強者・富者と99パーセントの弱者・貧者に分かれる現代に通じるものを狙ったと語る。そう言われれば家名と親子という絆と夫の信念に殉じ、時代に翻弄されたりくも、決して、強者ではなかったろう。忠臣蔵異聞を描いて「弱者に光を!」が彼のテーマ。
 《ほほう・・・》
 と感じ入らざるを得ないではないか。
 今公演は言うところの商業演劇。松平、川中のスター二人を中心に、華やかな共演陣を並べて、大衆の関心や興味を集める娯楽作二本立てだ。理屈っぽい時代観や人生論を展開する深刻劇とは一線を画して「客に楽しんでもらうこと」を第一とする路線である。しかし、そう書いたら叱られそうだが、一寸の虫にも五分の魂。二人の脚本家と2作品を演出した水谷幹夫は、娯楽作でも、あるいは娯楽作だからこそ、こういう形で時代を照射し、観客に語りかけているのだろう。そう思えば今公演に参加する僕も、ひそかに快哉を叫びたくなる。
 とはいえこの二ヶ月間、決して僕は屁理屈こねてしゃちほこばっている訳ではない。芝居する人たちの心優しい微笑み返しの中で、喜々として過ごす劇場内外の昼と夜を、十分に楽しんでいるのだ。

週刊ミュージック・リポート

 
 「二人座長公演」とは思い切った企画である。それも松平健と川中美幸の初顔合わせ。一体どういうことになるのか? 出演者の末席に連なる僕としては、稽古から動悸を抑え切れぬ暮れ正月を過ごした。一月、二月の名古屋・御園座公演。これが結局、芝居もショーも2本立ての、娯楽の極みを体感する日々になった。
 松平主演の「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」(斉藤雅文脚本、水谷幹夫演出)は、爆笑の幕開けである。将軍・吉宗と旅芸人・お駒の晩年70代白髪の再会。よろよろ踊る松平と杖を頼りの川中が手を取り合って、自分たちも楽しんでいそうな珍演!? を見せる。「お互いに、長生きしよう」の約束でやる指切りげんまんが、指が震えて、決まらない。そのうち川中が、松平の右手首をむんずとつかんでやっとげんまんの成就だ。
 「コメディーが始まるのか」
 意表を衝かれた観客をあっさり芝居に引きこんで、お次が壮年・吉宗の鮮やかな殺陣・・・とくる。お話は反吉宗連合のクーデター計画を旗本・新之助に身をやつした吉宗が粉砕する、おなじみの痛快劇。川中の芸人お駒は彼の幼な友達で、陰謀に巻き込まれながら、10代からの純な思いを貫くけなげさ・・・。
 一方が主演なら、他方はおつき合いの顔見せか・・・と思うのは素人の早合点である。双方がっぷり四つのからみ合いで、川中主演の「赤穂の寒桜・大石りくの半生」(阿部照義脚本、水谷幹夫演出)は、妻りくに夫大石内蔵助という組み合わせ。深謀遠慮の大石に従い、過酷な運命に耐え、忍び、戦う女の半生劇だ。こちらは稽古中から、役者達が目を赤くする涙のシーンの連続。長男・主税の義挙参加を見送り、娘・瑠璃、三男・大三郎を必死で育て、二男・吉千代の急死に悲嘆する。公儀に反逆する者の家を守る妻として、母としての苦悩と、内蔵助への思慕が彼女を強くするのだろうか。そんな〝女の忠臣蔵〟を、どっしりと支えるのが松平内蔵助だ。
 痛快と涙の二本立ては、共演者も大忙しだ。江原真二郎、土田早苗、曽我廼家文童、園田裕久、瀬川菊之丞、西川鯉之亟、真砂皓太ら腕達者を始め、全員双方に出演する二役持ち。衣装さんも床山さんも大わらわで、楽屋間を走り回っている。そういう僕は、「暴れん坊・・・」でちょこっとにしろ二人座長にからむ好運に恵まれ「赤穂・・・」では花道から登場、もう一つの花道を引っ込む〝両花道〟の好遇に浴している。
 さて、二人座長でどうなることか? の、二つめの関心事だが、こちらは、松平・川中の人間味の豊かさに脱帽することになった。川中組の方はもう、六年の常連だから、この欄でもずいぶん書いた。舞台裏でも人の和と輪の中にいる人となりで、それを慕う役者さんたちが座組に加わりたがるのはご存知のとおり。松平組は初めて参加したが、舞台の偉丈夫颯爽・・・が、舞台裏は寡黙で温厚篤実、常連の役者たちにはその〝男ぶり〟にぞっこん・・・の気配がありありだ。裏方さんたちに言わせれば、
 「いい人といい人の絶妙の組み合わせ」
 で、これまたこの世界ではごく希れなことだそうな。二人とも長い座長生活で、当たり狂言も持つ。相応の矜持があり、闘志も自信も十分に持ち合わせていようが、それをおくびにも出さぬあたりには感じ入るばかりだ。
 ところで今回は「御園座さよなら公演」のタイトルがついている。三月で一応閉館、長谷川栄胤社長によれば「再開発計画に入る」ためだ。劇場118年の歴史の最後を飾る記念すべき公演になった。それは同時に、両座長の共演、好個の演目の選び方などで記憶に残る公演にもなろうか。二人の共演を構想3年、粘り強い根回しで実現した谷本公成プロデューサーの胸中も、察するにあまりある。
 東京大雪の情報に驚き、
 「名古屋は寒いなぁ・・・」
の愚痴をひっこめた1月中旬。この欄は今年第1回の入稿である。長いご愛読を乞い願う思いがひとしおだから「どうぞよろしく」のご挨拶も申し上げる。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ131回

≪ほほう、なかなかのボーカリストぶりではないか…≫

 日野美歌のコンサート。客席の片すみで僕は、メモの手を止め、しばしその歌声に身をゆだねた。『港が見える丘』や『蘇州夜曲』なんて古い曲から、自作自演の『横浜フォール・イン・ラブ』まで、ジャズ仕立ての10数曲が味わいそれぞれの聞き応えである。こんなふうに“飽きさせない”ライブも、近ごろ稀ではないか!

 淡谷のり子の『別れのブルース』には、日野流のアンニュイが漂う。荒井由実の『海を見ていた午後』は、惜別の思いが濃い。オフコースの『秋の気配』は、別れの予感へのおののきがあり、松田優作の『横浜ホンキートンク・ブルース』では、退廃の空気が揺れた。自作はなぜか桜にこだわって『花吹雪』『桜が咲いた』『桜空』など。いずれ若めの感傷がピュアだ。

 この人らしい選曲の妙がある。それを生かすのは、自己プロデュースと演出の確かさ。曲ごとにキイを上げ下げして、それが歌のドラマの設定となる。当てどころを変えて作る何色かの声。息づかいの濃淡は情感のサジ加減。作品の主人公のイメージを立ち上がらせて、それを巧みに自分と重ね合わせていく…。合い間にぶっちゃけおばさんトークをはさんで、ステージに応分の快さと、ほどの良い哀愁がにじむのは、そんな手腕のせいか。

 歌の仕上げ方には「上手な歌」と「いい歌」の二例がある。昔は、持ち前の美声と巧みな節回しを誇示する「上手な歌」が流行した。昨今は、声も節も歌のための道具で、それよりも作品と自分の思いを味わい深く伝える「いい歌」が尊ばれている。そういう意味では日野の世界、誠に時宜を得ていると言えるだろう。

 『氷雨』をヒット曲に持つ。それで「紅白歌合戦」にも出た。1982年と翌年のことで、もう30年も前の話。それっきりの一発屋と思っている向きも多かろう。ところが9年ほど前から、彼女は作詞を始め、個人事務所と個人レーベルを興し、「歌凛」を名乗るシンガー・ソングライターになった。目指したのは「ジャンルにとらわれない、普遍的な歌」で、3年前にアルバム『横浜フォール・イン・ラブ』をリリースする。今回のコンサートは、それがこの秋、コロムビアから再発売されてのメジャー展開イベント。

 僕が彼女を見に行ったのは、10月10日だからかなり旧聞に属する。「8列11番」の席が最後方という小さなホールで、その分だけ日野の歌は膝づめで聞いたことになる。南麻布セントレホールが会場だが、見つからずにあちこち歩いた。やむを得ずレストランの店先で尋ねたら「隣りのビルの3階」と教えらてガクッと来た。

 ≪彼女らしい再スタートか…≫

 後日、アルバムを聞き直しながら、僕はこの人の「いい曲」捜しと「いい歌」づくりの魅力を再確認した。少しラフなところがあり、少し生々しいところがあるが、それがもうちょい「練れて」来たら、ちあきなおみに続く存在になれるかも知れない。そう思いそう書きながら、僕は少しテレた。褒めすぎかなァ――。

月刊ソングブック

ぼちぼち新年 踏ん張ろうよ!

 歌を聞き雑文を書く作業は、僕の場合「いいとこ捜し」である。歌手も作家も制作者やお抱え主も、あらかた顔見知り。皆が一生懸命なのだから、アラ捜しは本意ではないし、生産的じゃない。しかしこのところ、そのいいとこ捜しも、とかく細部に陥るうらみが残る。
 長いこと「アッと言わせる」新聞づくりをした。意表を衝くのだが奇をてらうことは避ける。快い刺激から応分の説得力へ、目指すのは完成度だ。新機軸捜しのそんな僕の了見は、歌社会でこのところずっと刺激飢餓状態にある。

蓬莱橋

蓬莱橋

作詞:さわだすずこ
作曲:弦哲也
唄:山本譲二

「誰? これ...」と思うくらいの歌い出しである。傷心の女性のひとりごとを、山本譲二が優しげに語る。いつもの男っぽさや不良性好感度を、すっかり棚に上げている。
 ワンコーラス九行の詞に、歌い込まれているのは「悔恨」「未練」「自省」の思いだ。その静かさが、激情を抑制してのものと、やがて判る。最後の一行にそれが顕著だが、弦哲也の曲はこの辺で、引き絞った矢を放つように、譲二の歌を解放した。
 蓬莱橋は静岡にある世界最長897・4メートルの木造歩道橋で、ギネス認定ものだそうな。

哀しみ桟橋

哀しみ桟橋

作詞:麻こよみ
作曲:鈴木淳
唄:椎名佐千子

 情感を維持し、濃いめに育てて行くのに必要な一つは〝歌う語尾〟の処理だと思っている。歌詞でいえば各行のしっぽ。ここにしっかり思いを込めれば、情感は次の行の頭につながって増幅される。歌声が終わった空白にも、思いは込められていたいのが演歌系の仕立て方で、そこが歌い流し気味になるポップスとの相違点ではなかろうか。
 鼻にかかる声でサビあたり、椎名の歌は情感いい感じにせり上がる。大人の歌手になった...とは思うが、歌の語尾にもう一つ押しがあれば、サビの山はもっと高くなったろう。

雪の宿

雪の宿

作詞:幸田りえ
作曲:幸斉たけし
唄:新沼謙治

 デビューのころ、
この人の歌を阿久悠が「気持良く哀しい」と語ったのを思い出した。その持ち前の味は今も変わらず、今回はそれにムード歌謡ふう発声の艶を加えた。感情移入重めは性に合わぬこの人の、活路の探し方。こざっぱりした肌ざわりで、少し哀しめだ。

冬の蛍

冬の蛍

作詞:伊藤美和
作曲:徳久広司
唄:花咲ゆき美

 都会をひとりさまよう女心を、冬蛍に擬して歌う。そのせいか、花咲は声をかぼそげに抑えて、すうっと歌う。一筆書きの絵みたいで、歌の流れに淀みがない。歌詞のひとつずつにつかまらずに、歌を大局的に捉えたせいか。この人なりの味、なかなかである。

人生横丁

人生横丁

作詞:仁井谷俊也
作曲:大泉逸郎
唄:大泉逸郎

 惹句に「大泉逸郎が歌う大衆のこころ」とある。裏町横丁の酒場うた、故郷を離れっぱなしの苦渋を、猪口に注いで飲むのが主人公だ。どうやらこの人の〝大衆のこころ〟は昭和三十年代ふう。本人が書いた曲にもそんな匂いが強い。歌も少々、枯れて来たかな。

風花しぐれ

風花しぐれ

作詞:石原信一
作曲:弦哲也
唄:青木美保

 石原信一の詞が、
いろんなことを書き込んで各コーラス七行。それを弦哲也がほど良くまとめた曲にした。編曲はいかにもいかにも...の桜庭伸幸。仕掛け多めの作品を、あおられながら青木が歌い、彼女流に着地した。この努力はいつか、報われるだろう。

恋しずく

恋しずく

作詞:佐野源左衛門一文
作曲:叶弦大
唄:竹川美子

 叶弦大の曲は、笹みどりに書いたころの流れか...と連想する。一途な想いをひたひたという感触で、竹川の幼な声に似合った。ふと途切れかかるように、はかなげな小節回しも板について、歌心がしなった。叶は竹川にいろんな曲を与えて来たが、この辺が本線かな。

茨の木

茨の木

作詞:さだまさし
作曲: さだまさし
唄:小林幸子

 今年一番のお騒がせをしたこの人の再出発第一弾。言い分はどちらに...はともかく、金がからんでの仲間割れは、すっきりしない。そこを押し切る思いが、タイトルにも歌詞にもあって、耐え抜く心情ソング。虚実ないまぜて、さだまさしの詞、曲はなかなかなものだ。

港のセレナーデ

港のセレナーデ

作詞:星川裕二
作曲:杉本眞人
唄:チェウニ

 一九九〇年代に、二人の歌手で出した曲のリメイク。カラオケ族に歌い継がれているのが利点と見たか。都会的なタッチ、ひたむきな女心、ほどの良い哀切感...と、たしかにチェウニには似合いだ。作曲・杉本眞人ら一統には、これの上を行く新作を期待したいが...。

マゼンダの黄昏に

マゼンダの黄昏に

作詞:城岡れい
作曲:弦哲也
唄:北原ミレイ

 弦哲也のポップス寄り展開、矢野立美のアレンジはシャンソン・テイスト。北原ミレイの歌づくりは、このところそんな路線が主で、本人も委細承知の歌唱を聞かせる。タイトルからしてそれらしい作詞は城岡れい。おどかした割に、底が浅いうらみが残った。

MC音楽センター

 
 氷川きよしが4人も居た。12月12日夕の東京国際フォーラム。恒例のクリスマス・コンサートでの話だが、ステージ両サイドにクローズアップの映像。これは歌う氷川をフォローするのだからよくあるケースだ。しかし、本人の表情、ことにひたと見据える眼差しまで、生々しく伝わるあたりが、観客にはたまらない演出だろう。彼がよく口にする「ファン一人々々との触れ合い」という精神が、とても具体的に形になっている。
 《ほほう!》
 と感じ入るのはもう一つの映像で、これがステージ中央、巨大な背景になっている。映し出されているのは、氷川のプロモーション・ビデオふう〝動くグラビア〟で、アイドルとしての彼の種々相がネタ。田園風景の中の彼、メキシコあたりの街の中の彼、サンタクロース姿で犬とたわむれる彼…と、曲ごとの変化が面白い。結局、生と大写しの彼で3人、ストーリー展開するつくりものの彼と、合計4人の氷川がいつもいることになる。
 「健康に明るく、まっすぐに歌っていきたいですな」
 などと、時にわざと年寄りじみた口調になる本人には、スター暮らし13年の成熟ぶりが顔を出す。働き盛りの壮年と言ってもいい気配だが、それと巨大スクリーンの中のアイドルぶりとが、うまい具合に相乗効果をあげる。ファンの側からすれば、相変わらずの〝かわいいきよし君〟と、大成した〝おとなのきよしさん〟の二重写し。ついこの間、日本作詩大賞を受賞したなかにし礼作品「櫻」の世界が、決して背伸びしたものではないことを、ファンは得心したろう。アイドル性を維持しながら、もう一つ上の大成を目指すスタッフの、細心の演出だろうか?
 傘を片手に「関東春雨傘」を歌うシーンに、僕は「ほう!」とあらぬ感慨を抱いた。前夜の11日、五反田のゆうぽうとで「迦具夜姫」を踊った長嶺ヤス子も、この曲を使っていたせいだ。すっきりした男振りの氷川と、例によってぬらぬらどろどろの長嶺の、両極で聞いたこの曲。昭和38年末にスタートした日本クラウンの第一号作品として世に出たが、もう50年の年月に耐えて、少しも古さを感じさせない。そういえば作詞作曲した米山正夫は、今年生誕百年で、コロムビアとクラウンから作品集が出ている。
 「何が何でも見に来てね」
 と、長嶺からは電話攻めにあった。
 「やっと来たか!」
 と、氷川の長良グループの人たちからは、冷やかしの歓迎を受けた。12月はあちこちのイベントに不義理ばかりだから、僕はヤレヤレの気分になる。というのも来年の1、2月、名古屋・御園座公演のけいこに、びっちりつかまっていてのこと。何しろ川中美幸と松平健という座長二人の顔合わせ。川中の「赤穂の寒桜・大石りくの半生」と松平の「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」が日替わりで、二人は芝居で相互乗入れ出演。ショーは別々だが、これにもお互い花を添えるという趣向だ。
 御園座が来春で閉館するさよなら公演ということで、実現した初の企画である。川中一座の末席をけがす老優としての僕は、共演の皆さん同様に、双方の芝居に出る厚遇に恵まれた。「赤穂の寒桜」は赤穂藩の浪士・大野九郎兵衛。「暴れん坊将軍」は、小石川養生所の医師という役どころで、花道から出たり入ったりの見せ場まで貰う。自然、気合いの入り方尋常ではなく、喜々として品川のOMスタジオへ通う日々なのだ。
 その道すがら思うのは「日野美歌のボーカリストぶりが秀逸」とか「美川憲一の〝金の月〟の原文彦の詞が抜群」とか「元JCMの岡社長が森山慎也の筆名で作曲した香西かおりの〝酒のやど〟にしびれた」とか。流行歌雑文屋と役者の二足のわらじの1年を振り返りながら、13日の夜などは、けいこの後にたかたかしと合流して銀座の「晴晴」でカラオケ。「瞼の母」を歌い競ったりした。師走バタバタのご報告、今回がこの欄今年の最終回である。

週刊ミュージック・リポート
何かと騒然の師走12月、僕は緊張と昂揚をかかえて芝居のけいこに入った。何しろ新年の名古屋・御園座は松平健・川中美幸合同公演で、1月11日初日、2月19日千秋楽という長丁場。松平バージョンは「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」とショーの「唄う絵草子」川中バージョンは「赤穂の寒桜・大石りくの半生」とオンステージ「人うた心」 2人の座長がそれぞれの芝居に特別出演という形で相互乗り入れ。劇場が使う惹句も「豪華初共演」「必見夢のコラボレーション」と力が入る。共演の江原真二郎、曾我廼家文童、瀬川菊之丞、西川鯉之丞、土田早苗という面々も、双方に出演する。 舞台暮らし6年めの僕も、芝居2作に役を貰う光栄に浴した。「暴れん坊将軍」では、江戸・小石川養生所の医師・新出玄条役で、松平・川中ご両人とからみもある。「赤穂の寒桜」は、赤穂藩のもう一人の家老・大野九郎兵衛役で、浅野内匠頭切腹のあと混乱をきわめる赤穂城下から逃亡を企てる風見鶏。何とも情けない人物だが、大石内蔵助(松平)の深謀遠慮を陰で支える妻りく(川中)の女の半生劇の一点景を演じることになる。 12月5日顔寄せから年内を東京、1月2日に名古屋入りしてけいこ・・・というスケジュール。「やあ、しばらく!」「お変わりなく・・・」と、お仲間の真砂皓太、安藤一人、田井宏明、綿引大介、小坂正道、田井克幸、橋本隆志、松岡由美、倉田みゆき、穐吉美羽らと再会した。50日近い名古屋暮らしが、とても楽しいものになりそうだ。   松平健・川中美幸特別記念公演

 
 11月、例年の楽しみは、温泉と芋煮とせいさい漬けとつや姫である。山形県天童へ出かけると用意されているご馳走。芋煮は里芋がメインのしょうゆ味のごった煮。せいさい漬けは高菜に似た野菜の漬け物で、太めの茎の歯応えと葉の鮮やかな緑が得も言われぬ。
 「せいさいって、どういう字?」
 いつもの雑文屋の僕の気がかりだが、
 「せいさいはせいさいだよ」
 と、毎年世話になるおばさんはそっけない。字を当てて考えたことがない気配だ。つや姫は山形産の米でこれが滅法うまい。そういうなら…と5キロの袋を送ってくれるが、食べ切ると銀座にある山形のアンテナショップへ買い出しに行く。近ごろはテレビのCFにも時々出てくる。評判が広がっているのだろう。
 11月に天童へ出かけるのは、「佐藤千夜子杯歌謡祭」というのの審査を頼まれているせい。佐藤は昭和3年にビクターから出した「波浮の港」のヒットが〝日本初の商業レコード〟とされる歌謡曲の草分け歌手。ほかに「東京行進曲」「紅屋の娘」「ゴンドラの唄」などのヒットを持つ。天童市出身で、その遺徳を顕彰する意味あいから、カラオケ大会のタイトルの冠になっている。
 僕の天童通いは、かれこれ10年になる。イベントが土地の人々の手づくりで、一生懸命さが貴くも嬉しい限りのせいだ。市の有力者で名刹の僧・矢吹海慶氏が実行委員長で各方面ににらみを利かせ、現場は福田信子さんを筆頭にした天童バルズがあたふた走り回る。〝バルズ〟は〝元ギャル〟の僕の造語である。矢吹氏は
 「今年初めて…と言っても、誰でも初めてだけど、81才になったのでカラオケ教室に入門した」
 と笑う歌好きの粋人で、舌がんのリハビリにももって来いとか。酔余、
 「酒と女は2ゴウまで…」
 とうそぶいたりする。
 イベントは年々大きくなった。今年11月18日には東京からの遠征組も含めて、東北の歌好きがホテル舞鶴荘のホールに104人も集まった。それが1コーラスずつ歌うのが予選で、決戦は勝ち進んだ10人がノドを競い、この部分は地元のYBCラジオが録音中継する。審査は山形の名士ダイジン・木村尚武氏にセンガ、アサクラ、クシダと僕が呼び捨てでつき合う仲間と、佐藤の姪に当たる滝沢美子さん。いつもの気のおけない顔ぶれだから、延べ114曲分を採点するのも、さして苦にはならない。
 「うまい歌」よりは「いい歌」を選ぶ。「いい声」と「巧みな節回し」は素人受けはするが、それだけだと情趣に乏しく、歌をみせびらかすヤマっ気が鼻につく。声も節もしょせんは歌のココロを伝える道具でしかないから、その上に「思い」がどう加味されたかに審査の軸足をおくのだ。「思い」とは何か? 作品に託されたものと、歌い手が作品にこめるものの合計とでもいうか。要は歌う人の心の揺れ幅、感受性の豊かさと率直な表現力…。
 「枇杷の実のなる頃」の鈴木佐蔦香さんが優勝!と決めたら、審査員室担当のバルが飛び上がった。娘の嫁ぎ先の小姑で、最近ふた親を亡くした人と後で聞いた。準優勝の「J」鈴木美佳さんは陸前高田市の娘で、震災で友人を亡くしていたと、これも採点後の泣きじゃくりながらの話。道理で二人とも歌に哀惜の情が濃かったわけだ。最優秀歌唱賞は来日して20年のアメリカ女性シア・スティワートさん。「赤坂レイニー・ブルース」で血の熱さのただならさを突きつけて来た。
 地方のカラオケ大会の楽しみは、それやこれやの土地柄やお人柄に触れることである。だから酒席の懐石料理のおもてなしよりも、芋煮、せいさい漬け、つや姫。当初、
 「そんなものでいいの?」
 といぶかったバルたちも、毎年それを用意してくれるようになった。そのうえ今年のお土産はニッカのびんにラフランスが一個丸ごと入った酒づけである。実がごく小さいうちにびんをかぶせて、成熟を待った結果らしい。
 「う~む」
 と唸りながら、好意をありがたく受け取ったものだ。

週刊ミュージック・リポート

弦哲也、歌づくりの腐心が見える!

 山口ひろみ、井上由美子、西尾夕紀、島津悦子の曲を書いて、弦哲也が相変わらずのお忙し氏ぶりである。
 それだけではない。四人の女性歌手それぞれの歌唱に手を加えて、率直さと鮮度を作り直した共通点がある。歌まねチャンピオンの西尾には「ドリカムの吉田みたいに歌ってみて!」の助言があったと聞いた。
 テクニックの垢を落として、歌ゴコロを再構築する。情の錬金術師・弦の、近ごろの歌への思いが、透けて見えそうだ。

望み星

望み星

作詞:麻こよみ
作曲:弦哲也
唄:山口ひろみ

 ゴルフの話で恐縮だが、ドライバーショットは八〇パーセントくらいの力で振るのがいいという。フルショットは〝意あまって力足りず〟になる可能性があるせいか。もともと元気印の山口は、この曲を七〇パーセントぐらいの力の込め方で、歌ったように聞こえる。シンプルに素直に、技よりはココロ重点の歌処理だ。それが前半の四行で庶民の生活心情を歌い、納めの二行で視線を星空に上げる歌詞(麻こよみ)の細工を、暖かく生かした。クラブの芯に当てるというよりは、優しく包み込むのが、作曲・弦哲也の手法か。

南部蝉しぐれ

南部蝉しぐれ

作詞:久仁京介
作曲:四方章人
唄:福田こうへい

〝技よりはココロ〟が軸足の歌は、聴く側へまっすぐに伝わるから、僕はこれを〝タテ歌〟と呼ぶ。それとは対照的に〝声と節〟で聞かせる歌は、さしずめ〝ヨコ歌〟で、聴く側の前を横切る形で魅了する。
 全国民謡フェスティバル2012グランプリ受賞の、福田の歌は後者で、高音晴れ晴れと野原をわたる爽快感を持つ。しっとりした中、低音の声味も含めて、いい姿の民謡調歌謡曲。あえて声と節の〝誇示〟を避けたのは、四方章人の曲の穏やかさ、優しさか。カラオケ上級者がレパートリーにしそうだ。

余市の女

余市の女

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:水田竜子

 しっかりと、前に出した声に「ほほう!」である。
高音が艶を帯び、中・低音が人肌の暖かさを持った。
技の使い方を後回しに、率直に歌ごころを聴かせようとする。そんな意図がありありで、無造作になりやすい〝張り歌〟を、張らぬあたりで進境をみせた。

惚れて道づれ

惚れて道づれ

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 鏡お得意のお芝居仕立て。しあわせ演歌スリーコーラスを、下町人情の三幕ものにして聴かせる。歌全体、声に息を多めにまぜるのは、情を濃くする算段。歌詞の二行めのおしまいなど、たっぷり吐息まじりで、うまいことソフト五郎を演出した妙がある。

男のうそ

男のうそ

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:三山ひろし

〝タテ歌〟をコトバの一つ一つ、ていねいに歌えば、仕上がりは地味だが、情がにじむ。そこのところを一工夫、わざとぞんざいな口調で、歌に独特のキャラを作った。コトバにつかまらずメロディーを歌った鼻歌タイプ。平成の兄ちゃん節だろうが、図に乗らないように...。

恋の川

恋の川

作詞:里村龍一
作曲:弦哲也
唄:井上由美子

〝泣き節〟である。昔なら、声や節でシナを作り、身を揉むポーズで歌ったタイプ。それを昨今は、歌ゴコロで泣いて聴かせないと、歌が嘘っぽく、浮くと、作曲・弦哲也は考えるのか。井上の挑戦は演歌歌手として、もう一つ上へ行きたい一心なのだろう。

恋酒~加賀の夜

恋酒~加賀の夜

作詞:土田有紀
作曲:弦哲也
唄:西尾夕紀

 歌の情感せり上げて行くために必要なのは、語尾を流さないこと。歌詞の各行のおしまい、歌い伸ばす箇所の思いがしっかりしていれば、歌のココロが次の行の歌へちゃんとつながる。西尾のデビュー二〇周年ソングだが、その辺に巧まずしてキャリアが生きていそうだ。

めおと暦

めおと暦

作詞:水木れいじ
作曲: 弦哲也
唄:島津悦子

 いうところの〝しあわせ演歌〟を、ブンチャブンチャと浮かれ節ふう。しかし、ものがものだから浮かれてばかりではなく、芯にひと刷毛、哀愁の色もにじませたい。そんな微妙なサジ加減への挑戦。弦哲也指南の息づかいで、この人も声味を少し変えたろうか?

風雪 御陣乗太鼓

風雪 御陣乗太鼓

作詞:紺野あずさ
作曲:村沢良介
唄:木原たけし

 岩手を拠点とするベテラン民謡歌手が、自慢のノドと節を聴かせて、これは〝ヨコ歌〟。
各コーラスの最後にある「叩け...響け...踊れ...」を野放図に歌って、野趣に富んでいる。作曲は村沢良介、作詞の紺野あずさは星野哲郎門下だが、こんな勇壮も書くのか!

白い冬

白い冬

作詞:仁井谷俊也
作曲:石山勝章
唄:浅田あつこ

 惹句に〝熱唱演歌〟〝ダイナミック演歌〟の字が躍る。仁井谷俊也の詞十行に、石山勝章が曲をつけた。大作ふうスケールだが、浅田の歌が〝その気〟にならないのがいいところ。細めの声をしならせてメロディーをたどり、彼女流の歌にした。歌手一八年の手堅さか。

ほっとしてください

ほっとしてください

作詞:松井五郎
作曲:大谷明裕
唄:長山洋子

 ポップス系の詞・松井五郎、こじゃれた歌謡曲を書く大谷明裕、ジャズテイストの編曲・矢野立美の三位一体。それが作った歌の海を、長山がゆったりと泳いでみせた。デビュー三〇周年の記念曲。ウイスキーのCMのしゃれっ気と思ったら、「黄桜・呑」のものだった。

MC音楽センター

  
 「森光子」が真っ赤な大見出し、それとなかばダブりながら「大往生」の3文字が、黄色で並ぶ。字の縁どりが青なのは、事態を強調したい表れか。写真は代表作「放浪記」のもので、エプロン姿が皿を持ち、陽気に踊っている。森の死を伝えた11月15日のスポーツニッポン新聞の一面。
 《大往生なあ…》
 知り合いの葬儀などで、たまに口にする言葉だが、かなり神経を使う。故人の年齢が相手の同意に重なるものかどうか? 亡くなる前後の状況はどうか? 長寿を全うした…とこちらが思ったとしても、当事者には肉親の痛みがあるはず…。
 森光子、肺炎による心不全で、亡くなったのは10日午後6時37分、女優として功なり名とげた92才の死は、14日近親者のみの密葬のあとに公表された。「うむ」と合点する。〝大往生〟は大方の感慨と重なるだろう。
 「信じられない」「言葉にならない」と、関係者の悼むコメントが並ぶ。彼女の業績の大きさ、人柄の良さをみんなが讃える。友人の演劇評論家木村隆の追悼文が芸能面に載っていた。「放浪記」の林芙美子役に抜擢されたのが40才。それまでは「あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ」と、ざれ歌を作って運命を呪った下積み生活があったそうな。インタビューしたホテルのロビーで、歌手時代の質問をしたら3番まで持ち歌を歌ってみせたともいう。茶目っ気なのか、一生懸命なのか。僕は突然「軍国舞い扇」という曲目を思い出す。戦時中、戦地慰問で彼女が歌ったものと、どこかで読んだか、誰かから聞いたか…。
 出世作で代表作の「放浪記」は2017公演の記録を作った。国民栄誉賞受賞の理由になる。それならば…と僕らは、共演した青木玲子にスポニチ文化芸術大賞の優秀賞を贈った。この人も同じ回数、同じ舞台を踏んでいて、僕らは〝裏・国民栄誉賞〟の意味合いを持たせたつもり。青木は最近那須塩原に夫君の児玉利和と隠棲している。森の死をどんな思いで受け止めているだろう?
 青木は劇団東宝現代劇の一期生で児玉は二期生。劇作家菊田一夫の肝いりで出来た劇団だから、菊田作、演出の「放浪記」には、劇団の人々の多くが参加している。その有志が作ったのが〝劇団東宝現代劇75人の会〟で、はばかりながら僕は昨年からここに所属している。有力なメンバーの一人横澤祐一から声がかかって、4年前の「浅草瓢箪池」から「喜劇・隣人戦争」「水の行く方・深川物語」に今年の「非常警戒」と、毎年出して貰っているのが縁。
 4作品のうち「浅草瓢箪池」と「非常警戒」が菊田作品である。美空ひばりが出る出ないでもめた「津軽めらしこ」騒動などで、菊田の記者会見は取材したが、個人的な面識はないままに終わった。しかし往時のエピソードには少々くわしい。
 「これがね…」
 と、75人の会の人々が、鼻の下に指2本をあてて話すのが菊田の件。彼のチョビひげを表して、それで通じるのだが、会の面々は酔余しばしば、親愛の情をこめて彼の話をする。毎年のけいこ後はほぼ全日、反省会ふうの酒になって、その席でのこと。ベテラン俳優たちの戦後この方の日々や、菊田の激情の演出ぶりなどに、僕はいつも耳をダンボにしているのだ。
 森の訃報が公になった14日は、何だかひどく賑やかな一日だった。国会の党首討論で、野田佳彦首相が自民党安倍晋三総裁に「16日衆院解散」をタテに詰め寄り、攻守逆転の〝見せ場〟を作る。そこから一気に、来月16日、都知事選とダブル選挙である。自民、公明が連日の〝嘘つき呼ばわり〟から「首相の決断を高く評価」に一変する。〝暴走老人〟石原慎太郎と大阪の橋下徹市長らの第3極とやらは虚を衝かれ、政界は緊迫の右往左往が始まった。
 夜、サッカーのW杯予選は、日本がオマーンに勝つ。引き分け濃厚の後半44分に勝ち越しゴール。
 「やっぱり諦めないことが大事なんだよな」
 僕は深夜、興奮した友人からの長電話に往生したものだ。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ130回

 ディディデン…と、前奏のド頭から爪弾きのギターである。

 ≪おっ、来た!来た!≫

 と、聴いている僕は、即座に“その気”になる。このテの歌には、歌謡少年だった昔からの血が騒ぐのだ。

 ♪惚れたおまえの 涙のような 路地の屋台の こぬか雨…

 思った通りの歌い出しの詞が2行。

 ≪ふむ≫

 と、腕を組む気分になるのは“あのころ”の感慨が、すうっと胸に入り込むせいだ。北山たけしの『雨の裏町』は、作詞が仁井谷俊也、作曲が弦哲也、編曲が前田俊明――。

 僕は昭和30年代にタイムスリップする。あのころの、歌手春日八郎・作曲吉田矢健治コンビの匂いを嗅ぐ。傑作の『雨降る街角』をはじめ『ギター流し』『街の燈台』『街の霧笛』なんてヒット曲が、次々に思い浮かぶ。中学から高校時代にかけて、脳裡に刷り込まれた世界。きっちりし過ぎるくらいに、メリハリの利いたメロディー、裏町の男心の詞が生む哀愁、そして何よりも、声高に歌い放てるノリの気分の良さ…。

 その辺を狙ってか、詞も曲も定石どおり。タイトルさえあのころふうで、何のてらいもない。

 ≪やるねぇ、弦ちゃん…≫

 感想が友人の歌書きの笑顔に移る。春日には『トチチリ流し』というヒット曲があって、作詞が藤間哲郎。間に作曲家大沢浄二をはさんで、弦はこの人の孫弟子に当たる。僕よりはひと回りほど年下だが、弦はあのころの流行歌を、肌身に感じて身につけたはずだ。

 ≪ふむ≫

 が、もう一度出てくる。往時と似たような枠組の作品だが、よく聞けばタッチが違う。細部が違う。テンポも違う。つまり作家たちは、あのころの魅力を巧みに、今日に移し替えているのだ。温故知新、そんな精神が曲のすみずみにある。

 春日八郎がこれを歌えば、高音部がスコーンと抜けて、陽性の仕上がりになったろう。そこを北山は、しっとりめの艶のある声で、彼流に仕立てた。情感の湿度が高め、5行詞の真ん中の歌詞1行分で、しっかり声を張り、しゃくるように歌を揺するあたりに、その色が濃い。それやこれやが、昭和タイプのこの歌を、平成のおいしさに組み立て直している。

 北山は前作の『流星カシオペア』で、いい味を出した。ポップス寄りの歌謡曲だから、今どきの若者の地金をあらわに出来たろう。その自信が『男の裏町』で、彼の歌を吹っ切れさせたかも知れない。デビュー以後何作かの青春の心意気ソングは、長い演歌修行で身についた老成ぶりと、そぐわないところがあった。

 それもこれも結局は、この世界での彼のキャリアを作った。そのうえで、ここまで来たからこそ、この作品をこの味で歌い切れたのかも知れない。

 ≪やるじゃないか、なかなかに…≫

 僕はこの作品に悪乗りして、北島三郎家の婿どの成果を吹聴している。北山たけしはこの作品でめでたく一本立ち、彼ならではの世界が作れたと思っている。

月刊ソングブック

  
 彼女は小声で歌う。自然に僕は聞き耳を立てる。
 《どういうことなんだ?これは…》
 いぶかる気持ちも抱えながら、僕は次第に彼女の世界に引き込まれていく。「人の気も知らないで」「待ちましょう」「恋心」…と3曲ほど聴いて、前のめりになっている自分に気づく。ひとり言みたいな歌、呟きのステージ。
 《これがこの人の芸なのだ!》
 と、突然僕は合点した。11月4日夕、有楽町朝日ホールで開かれた、大阪在住のシャンソン歌手出口美保の「リサイタル2012」――。
 だいぶ前に一度、一曲だけこの人の歌を聞いた。石井好子が主宰したパリ祭でのこと。それをカラオケ雑誌に書いた。見聞した歌社会の出来事の長いレポートの中に、わずか3行か4行。「読んだ。嬉しかった」と本人から手紙が来た。それ以来何回か、年に一度の東京公演に誘われたが、スケジュールが合わずに欠席。今回やっと、首をすくめながら不義理の穴埋めをすることになる。
 その時書いたのは、低音の魅力について。ザックリした手触りの歌声から聞こえたのは、この人なりのキャリア、ひととなり。若いシャンソン歌手たち(といってもこの世界、40か50がらみだろうが)は、晴れ晴れと無傷な歌声張り上げて、マニュアルどおりの歌唱が常。それにうんざりした僕に、出口の歌声は独特の説得力と存在感で際立って聞こえた。
 出口の今回のリサイタルには「菅美沙織先生没後13年忌念」のタイトルがついていた。大阪に初めてシャンソン教室を開いた彼女と、当時北浜のOLだった出口の出会いは50年前という。井戸を掘った人を忘れないエピソードを語りながら、一部で9曲。おしゃべりがそのまま歌になっていく語り口で、ほどよくにじむのは人生の苦渋と詠嘆だが、決して暗くはならない。ずっとひとり言調かと思ったら「サンジャンの私の恋人」など、張り歌はしっかりと、芯のある歌声を放った。
 見回せば、知った顔がまるでいない客席を、僕は二部で前から4列めに移る。何しろNHKホールで一度だけ見た相手である。どんな表情とたたずまいで歌うのか、見届けたさが募った。照明で金髪にも銀髪にも見える髪。すっぽり全身を覆うガウンみたいな黒のドレス。おだやかな白い顔が、しばしば目線を足許に落とし、時おり遠くへ投げて「街角」「枯葉」「旅芸人のバラッド」…。
 《ひとり芝居に似たところもあるな…》
 淡々と、彼女流のマイペース。客席へ、おためごかしのアプローチはない。歌うことそれ自体を、ファンとの接点にする潔さ。一曲歌い終わると、没我の境地からふと我に還ったような、はにかむ笑顔になる。童女みたいなそれは、女優の顔ではないか!
 信奉した菅の歌声をステージに再現したのは「さくらんぼの実るころ」と「花嫁御寮」の和洋2曲。「シャンソンも日本語で歌うのよ」というのが、師の教えだったという。石井好子は常々「原語で歌うべきだ」と主張した。石井にはフランスの文化を日本に伝える使命感があり、菅はシャンソンも日本の歌と捉える視点の持ち主だったのだろう。出口にはその教えを金科玉条とする気配があり、だからこそ編み出し、熟成させた自分流を持つのかも知れない。
 アンコールで出口は「希望」を歌った。岸洋子がヒットさせた流行歌である。いずみたくのこの作品をレコーディングした時、岸が心細さに泣いたのにつき合った記憶がある。「銀座のグレコ」の異名を取った彼女は、流行歌の世界へ出ていくことで、それまでのファンを裏切りはせぬかと案じたのだ。そんなことも今は昔で、大阪西天満にシャンソニエを持つ出口には、特段のこだわりなどなさそうだ。
 派手な仕掛けで声を励まし、ファンを圧倒する歌手がいてもいい。時にひどく個人的に、歌を手渡す芸も人間味勝負で、好ましいものだと、僕はこの夜痛感した。
 出口は一部で「ラノビア」を歌ったが、これは先輩記者岡野弁氏のおはこだった。その訃報に接したばかりの僕は、ホールからの帰路、少し感傷的になった。

週刊ミュージック・リポート

  
 「あなたの艶冶な歌声と日本語の美しい響きが、世界の人々を魅了しました」
 と、表彰状の冒頭に書いた。9月24日、東京ドームホテルでやったスポニチ文化芸術大賞の贈賞式で、グランプリの由紀さおりに渡したもの。例のピンク・マルティーニとのコラボアルバム「1969」の成果と、その後のムーブメントが対象だった。
 《艶冶な歌声なあ…》
 僕は10月30日夜、渋谷のオーチャードホールで、その実際を再確認することになる。アルバムでもそうだが、歌う由紀のキイが、びっくりするくらい下げられているのだ。「いいじゃないの幸せならば」や「Puff,The Magic Dragon」などが極端な例だが、いつもの彼女よりも一体何度下げていたろう?
 当初本人も、欲求不満におちいる選択だったそうだが、
 「ふむ…」
 と、僕は合点がいった。いつもの由紀の歌声は、陶磁器みたいな光沢を帯びていた。それが類稀れな特色で、結果この人の音楽性を支え、独自の世界を作る源になっていた。だから僕は、デビュー曲「夜明けのスキャット」に驚倒して、お先棒をかついだものだ。しかし、その美点も慣れ切ると、次第にじれったさが募った。3年前に彼女の40周年コンサートを手伝った時に、
 「また卵に目鼻みたいな、ツルンとした世界を作るのかい?」
 などと、憎まれ口を叩いたのもそのせいだ。それが――。
 キイを下げることによって、歌声に人肌の温かさと優しさが生まれた。以前の光沢がしっとり奥行きのある艶に変わった。彼女のひととなりや来し方行く末への夢が、いい感じの手触りで伝わる気配が強まる。昔、歌手たちは大向こうの客へ、歌声を放った。朗々と「個」から「全体」への手渡し方が主流で、時に聴衆を圧倒するパワーを示した。ところが昨今は、「個」から「個」へ、マントゥーマンの唱法が、突き抜けて「全体」におよぶ歌い方に変わっている。美声やテクニックを誇示する声楽性をはなれ、作品と歌い手の思いを重ねて細やかに、個人の感性や情感を伝えるやり方である。由紀の歌唱の変化は巧まずして、そんな時宜にかなった。そのうえ彼女の新しい艶声に、日本語の響きがきれいに乗る。生み出された「たおやかさ」はもしかすると、世界の人々が見失っていたものかも知れない。
 キイを下げる言い出しっぺは、ピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールだと聞いた。独特の感性の持ち主のこのピアニストは、黒のスーツになぜか児童用の真っ赤なランドセルを背負って、開演前や休憩時間に客席をちょろちょろし、そのままステージに上がった。鍵盤上で両指両手がはね上がり、走り回る演奏で、片言の日本語まじりのMCもやり、琴奏者の女性を俄か通訳に使うなど、なかなかのパフォーマーぶりである。
 バンドを結成して18年という。ヨーロッパ各地へ遠征、必ずその国の作品をまじえて演奏し、あちこちで人気を得ている。初めて見るのになぜか、おなじみの世界みたいに思えるのは、軽快で歯切れのいいラテン系の演奏が、理屈抜きに客を楽しませるせいか。「ブルーライト・ヨコハマ」「真夜中のギター」「真夜中のボサノバ」「夕月」「ウナセラディ東京」「USKUDAR」「Mas gue nada」…と、よく知っている曲が並ぶせいか? 由紀はこのムーブメントで、いずみたく、筒美京平、宮川泰、三木たかしらが書いた「歌謡曲黄金の70年代」の作品が、時代と国境を越えることも立証した。それがスポニチ文化芸術大賞グランプリの、二つめの贈賞理由になっている。
 お祭り騒ぎ好きのピアニストは、幕切れでも観客をあおり、総立ちで踊らせ、舞台いっぱいに上げた。由紀はこのコラボで〝華麗なる脱皮〟に成功したが、ピンク・マルティーニもうまいこと、日本市場進出に成功したようだ。

週刊ミュージック・リポート

歌謡曲にもっと創意、工夫を!

 今月もいくつか出て来たが、このところ、歌詞にして八行前後、ツーハーフ仕立ての歌謡曲が目立つ。演歌は行きつくところまで行ったかと、制作陣の歌づくりが転換したせいか。
 実は作品一つ一つにも、この転換が大切になる。詞には鮮やかな切り替えが欲しく、抽象的フレーズの繰り返しには飽きがくる。メロディーも、さして意味のない〝つなぎ〟の部分がはさまりがちで、ヤレヤレ...。「おいしい歌謡曲」づくりには、慣れを排して、常識を破る創意と工夫が不可欠と思うが、いかがなものだろう?

雨の裏町

雨の裏町

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:北山たけし

 情緒てんめんのギターの前奏に、路地の屋台、白い襟足、かぼそい体...の詞、ひたひたと押して来るメロディーと、仁井谷俊也・弦哲也・前田俊明トリオの仕事は、あのころふうにたっぷりめだ。例えば作曲・吉田矢健治、歌・春日八郎を連想する世界...。
 定石通りだがよく出来た作品を、北山が歌う。しっかりと大人の味で、ゆるみたるみなく、情が詰まっている。この人は『流星カシオペア』で、いま時の若者らしい〝地〟を聞かせて良かったが、案外それが、その後の自信に生きているかも知れない。

よりそい草

よりそい草

作詞:森坂とも
作曲:水森英夫
唄:石原詢子

 声を張った方が似合う水森英夫の曲を、あえて張らぬ歌で味を作った。ブンチャブンチャの乗りで軽く、石原の例の鼻声が艶っぽく生きる。「ふしぎね ふしぎね 水が合う...」と、中盤たたみ込むあたりも気分なかなかで、歌づくりの細工はりゅうりゅうといいたげだ。
 歌詞に比重をかけるメロディーは、とかくねっとり気味になりがちなもの。ところがこの作品みたいにスタスタ行く曲でも、詞はちゃんと生きている。男に寄り添う女の顔つきが、何だか晴れ晴れとしているように聞こえた。

雨の思案橋

雨の思案橋

作詞:下地亜記子
作曲:弦哲也
唄:真木柚布子

 一言で言えばこの人は、歌のつかまえ方がとても上手い。歌の主人公がどんなタイプで、どんな状況にいるのか、その恋のありようは、どんな形や程度なのか。これは俳優の役づくりにも似ていそうで、だからこの人は、実にいろんなタイプの作品を歌えるのだろう。

伊万里の母

伊万里の母

作詞:喜多條忠
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 母ものに〝かつぎ屋〟を持ち出したか...と、喜多條忠の詞にニヤリとした。腹を据えた民謡調発声に、語り歌を書いた水森英夫・池田輝郎コンビのヤマっ気にもニヤリ。歌の堂々の歌い回しと、妙に素人っぽく淡々としたセリフの組み合わせには、三つめのニヤリをした。

金沢わすれ雨

金沢わすれ雨

作詞:田久保真見
作曲:田尾将実
唄:山本あき

 演歌の定番である情景と主人公の屈託を、八行詞の歌謡曲に仕立てた。もともとポップス系が得意の、田久保真見と田尾将実コンビの仕事。山本の突破口を見つけるための折衷案か。田尾のこのごろのメロディーは、独特の粘りを抑えて、すっきりして来た。

天川しぐれ

天川しぐれ

作詞:坂口照幸
作曲:市川昭介
唄:多岐川舞子

 もともと歌には「ヨコ歌」と「タテ歌」があると思っている。前者は歌が聞く側の前を横切る感じで、詞、曲、声、節などの〝技〟が見える。後者は聞く側へまっすぐ突いて来て〝ココロ〟が伝わりやすい。多岐川のこれは「タテ歌」寄りで、彼女の進境を示すようだ。

最後と決めた女だから

最後と決めた女だから

作詞:水木れいじ
作曲:鶴岡雅義
唄:氷川きよし

 言うなれば〝あんちゃん節〟の一つだろう。いい気分そうに弾んで、鼻歌の軽さが特色。女声コーラスがからむのも、そんな色あいを強調する仕掛けだ。「こんな感じかねえ」と言いたげな鶴岡雅義の作曲。これはこれで氷川には、思い切った挑戦だったろう。

男橋(おとこばし)

男橋(おとこばし)

作詞:倉内康平
作曲: 陣内常代
唄:北島三郎

 今年四枚めのシングル。三劇場の長期公演を含めて、この人は実に精力的だ。モノはと言えば、北島ファンお待ちかねの骨太男唄。男の生きざまを、例によってこれでもか!の節回しで聞かせる。歌にやや枯れた感触があるのは、彼の現況か、それとも演出か?

旅枕(たびまくら)

旅枕(たびまくら)

作詞:水木れいじ
作曲:叶弦大
唄:鳥羽一郎

 独特の声と節が、叶弦大の曲に乗ってうねり、せり上がる。どんなタイプの曲が来ても、鳥羽は声と見てくれのキャラで、押し切ってしまう。前面に出ているのは、歌の主人公ではなく彼本人、詞はところどころに決めフレーズさえあれば、それで十分なのかな?

月夜華(つきよばな)

月夜華(つきよばな)

作詞:麻こよみ
作曲:幸耕平
唄:立樹みか

 面白いもので、長く演歌を歌って来た人は、演歌的な声の出し方と節回しとが、身について離れない。立樹の場合、歌謡曲のなだらかさのこの作品にも、それがところどころに顔を出す。一味違う仕上がりになるのはそのためで、これがつまり立樹流なのかも知れない。

願・一条戻り橋

願・一条戻り橋

作詞:志磨ゆり子
作曲:大谷明裕
唄:小金沢昇司

 前半二行ずつ四行のメロディーは静かで、聞く側の気分を待たせる。それがサビで一気に盛り上がり、おしまいの二行は一転、攻めの強さを生む。大谷明裕が書いたそんな仕掛けをちゃんと歌って、小金沢は器用な人だ。だから彼の作品は、多岐にわたるのだろう。

MC音楽センター

  
 「どうでした?」
 と、石川さゆりが小首をかしげる。
 「うん、面白かったし、楽しかったよ。アルバムも含めてな」
 と、僕が応じる。
 「歌芝居は? 樋口一葉…」
 とさゆり。
 「どこまで行っても、さゆりが居るよな」
 と僕。その瞬間、彼女の表情がふっと動いて、
 「そっかあ…」
 の声が低めになった。10月20日夜の青山劇場の楽屋。
 《これだから嫌なんだ、終演後に顔を出すのは…》
 と、僕は少々後悔する。ひと仕事終えたばかりの昂揚が隠せない主人公に、きつい感想を言うのは無礼だし、かといって本音をしまい込んでおべんちゃらも性に合わない。だから大ていの催しはスッと帰るのだが、今回はプロデューサーの佐藤尚に有無を言わせず連れ込まれた。それにしても言葉が短か過ぎた。どこまでもお前さんが居る…を、彼女はどう受け取ったのだろう? そっかあ…は、どう合点してのリアクションだったのか?
 昔から、芯の強い人だとは判っていた。何につけてもまっしぐらなのだ。それが40周年記念の音楽会である。タイトルまで「感じるままに」で、おなじみの曲にも新曲にも、〝やる気〟があらわだった。時に歌詞の語尾がぞんざいになるくらいの強めのノリ。歌が〝どうだ顔〟をしていた。
 それがコンサートの面白さ、現時点での本人の姿…と客は楽しむ。老若男女がほどよく混ざって、いい客ダネが前のめりで聴く。拍手が熱い。掛け声も盛んだ。
 《判る気もするな》
 阿久悠や吉岡治、三木たかし…と、頼りにしていたパートナーが次々に、渋谷森久まで逝ってしまった。ひとりぼっちで「とにかくやらにゃね」の日々。「一葉の恋」を作、構成したG2も音楽の山崎ハコも、直接自分で電話をして頼んだ。アンコールでデビュー曲「かくれんぼ」を歌うについて、新しい詞を山上路夫に頼む。佐藤が断られたのに、直談判でOKを取り付けた。山上が「泣く子と女にゃ勝てない」とコメントするはずだ。
 記念アルバム「X―Cross―石川さゆり」
は、奥田民生、宮沢和史、くるりの岸田繁、谷山浩子にハコらが曲を提供した。それぞれにきっと、それらしいエピソードが残っていそうな顔合わせ。「山査子」「さがり花」「あふれる涙」「花火」「少女」なんてタイトルが並んで、おおむねテーマは「花」や「涙」「夢」に「惜別」…。総体にシンプルな作品群を、「上」に当てた声をすぼめ、哀愁ひと刷毛の歌の仕上げ方に好感を持つ。
 聴き進んで「やっぱりな!」とニヤリとした。シングルカットした「生まれ変わるよりも」は宮沢の詞曲。
 ♪転がることに疲れたけれど、夢みた場所はここじゃないはず…
 を前置きふうに歌って、
 ♪過去を悔やむよりも明日を信じたい、虹が出たらこの人生も七色に染まる…
 と、明るめに、歌の視線が上を向いて声高になる。これはそのまま、彼女からのメッセージだ。
 《やっぱりな…》
 と、僕は自宅から眼下の葉山の海に視線を転じて、ひとり肩をすくめたものだ。
 この人は歌を〝演じる〟タイプ。だから作品がこの人の世界を多彩にする妙がある。歌芝居はその延長線上にあり、その都度すっと役に入って〝その気〟を観せる。「一葉の恋」は本人が〝落語状態〟と言ったように、登場人物を声の使い方や、顔の向き、居ずまいなどで演じ分けようとした。今回はそんな手法の〝その気〟に、節目、独歩の〝やる気〟が上乗せである。人物それぞれの押しが強く、均等均質になりがちで、結果どの役にもさゆり本人の思いが透けて見えた。
 それが冒頭の一言の意味なのだが、ま、それはそれでいいか。今の自分を素直に、感じるままに…が昨今の心境なら、芝居の差す手引く手だの陰影だのの屁理屈は棚にあげるっきゃない。「生まれ変わるよりも、生まれなおしたい」と正面切って歌って、今年この人は一体、いくつになったのだろう?

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ129回

 ♪あんた死ぬまで 一緒がいいと こおろぎみたいに おんなは泣いた…

と来た。僕はガツンとショックを受ける。こおろぎ? その鳴き声って一体? などと、理屈をこねる必要はない。胸を衝かれた表現と酔い心地なら、素直にそのまま受け止めればいい。

美川憲一の新曲『金の月』で、作詞は原文彦とある。なじみのない名前だな…と思いながら、改めて聞き直す。畳に転がる徳利、風呂の湯があふれるままの男女のからみ合い。相当に濃密な情景の中に、冒頭の女がいる。燃やし燃やされてそのまんまのツーハーフ、歌い収めは、

♪だめよ駄目駄目 あんたでなけりゃ こおろぎみたいに おんなは泣いた…

である。僕は正直トドメを刺された気分になった。

痴態を歌って下卑にならないのは、書き込まれたディテールのせい。金の月が「貼り絵」みたいだったり「居待ち」だったり、小道具が「徳利」「風呂の湯」のほかにも「鹿おどし」「夢二の絵」など。難を言えば言葉が多過ぎて、ゆるみたるみがないことか。

そんな8行詞に弦哲也のメロディーが、うまい具合いに“すき間”も作る。アレンジは小じゃれた川村栄二で、美川の歌はのったりと、演歌っぽくない演歌仕立て。長くシャンソンも歌って来た“歌のつかまえ方”が生きていそうだが、不思議な三位一体である。

急に思い出す。原文彦の名は、北島三郎の近作『職人』でも見た。聞けば四国・香川在住の人で、社会科の教師をやり、近ごろは小学生相手に空手の指南。60歳前後の実直タイプという。レコーディングしたのが一年ほど前。歌の文句じゃないがどうやら「出待ちの曲」で、美川の独立騒動で出番が来たのかも知れない。危うく、宝の持ち腐れになるところだったじゃないか!

このところ僕は、決まりきったフレーズごっこの、類型演歌だくさんにうんざりしている。もともと新聞屋の新しいもの好き。意表を衝く発想、斬新な切り口や構成、表現などに、敏感に反応する。なかにし礼や阿久悠の登場に、驚倒した昔を懐かしがって、近ごろはやや慢性の刺激飢餓状態に陥っていた。

≪しかし『金の月』一作で、あの天才二人を引き合いに出すのは、いかがなものか≫

とは思う。そうは思いながらやっぱり、この一作に逆上する。出来るだけ大勢の人の耳に届ければ、必ずその心を動かすだろう。野に賢人ありだ!と、僕の悪ノリは止まるところを知らない。

『アッと言わせろ!』を金科玉条に、僕は40年以上新聞づくりをして来た。そのつもりでも奇をてらうばかりでは、読者に見透かされて逆効果を生む。アッと言わせる刺激作戦は、記事の完成度の高さが不可欠で、これなしでは説得力を持てはしない。

原文彦の健筆に期待する。四国か、ら停滞の東京を望見して、紙つぶてを打ち込んだらいい。堅持すべきは高い志と衰えぬ情熱。空手の師範なら、闘いぬくことは得意のはずだ。

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 《ウソだろ!》
 と、どうしてもそう思う。モンゴルのホーミーというのを、初めてナマで聞いての第一印象だ。一人の声帯が同時に、二種類の音楽をやるという程度の予備知識で、それと対面した。10月8日夜、両国の江戸東京博物館ホールで開かれた「モンゴル音楽祭2012」でのこと――。
 ビィーンという感触で、金属性の音が超低音で続く。僧侶のつぶした声が、少しメロディアスな読経を続けるのを連想する。これがベースになって、高音部はあちらの民謡ふう。歌うだけかと思ったら、急に篠笛みたいな音に変わり、風の中を野鳥の翼がひるがえり、さえずる情景まで生み出した。演者は中年の男性、聞けばユネスコの世界無形文化財に指定されているベテランとか。
 若者が登場すると、こちらは今ふうにヒップホップである。リズム・セクションをいいノリで再現して、それにメロディーを加える。口琴も使い、合い間に掛け声までまじえて、一人何役分に当たるか。突然、声帯模写のえんま堂を連想した。ボイスイリュージョンと称する彼の芸も相当なものだが、あれの二人分を一ぺんにやっているみたい。舞台を見回すが、中央に立つのは青年一人、
 《そんなことって、あるのか!》
 とこちらは、驚くばかりだ。
 モンゴルと日本は、今年が国交40周年だという。大相撲は二人の横綱を筆頭に、まるで乗っ取られでもしたみたいにモンゴル力士だらけ。その第一号の旭天鵬からのコメントが、音楽祭のプログラムに載っていた。先々場所に優勝しているが、入門20年目で関取最年長。
 「私もまだまだ頑張るけど、この音楽祭も長く続くように…」
 一緒に頑張ろうと、粘り強さ、しぶとさもお国柄か。
 馬頭琴が出て来た。胴の部分を両膝ではさんで、弓で弾く。これがまたズンと体に響く低音から、力強い高音で、二胡の哀調と競り合う。横長の琴は右端を膝に乗せて、傾めの位置どり。右指が低音部をゆったりめに弾き、左指が細かい譜割りを小走りに艶やかだ。つむぎ出された音楽は、山から山を渡り、谷を走り抜け、大草原を馬でゆく野趣。点在するゲルと呼ばれるテントまでが目に見えるようで、これが遊牧の民の民族色なのだろう。
 こんなイベントを企画制作したのは、創樹社の山川泉氏。ひょんなことから知り合ったが、かつていずみたくの許でミュージカルも作っていた。シルクロードの音楽調査に出かけて、モンゴルの音楽に触れたのが37年前。一念発起、この音楽祭を始めてから、今年が11回目という。大きなホールに観客が100人前後。お世辞にも盛況とは言い難いが、彼なりの使命感があってかコツコツと、こちらも地味だが相当な粘着力の持ち主だ。
 日本人歌手の伊藤麻衣子も加えて、歌も何曲か。声帯を押しつぶして出すような発声が、これも金属性の〝つくり声〟で、楽器群に似合う。「母を想う歌」は加藤登紀子の詞もまじえて2カ国語で歌われた。世界中の〝いい歌探し〟に没頭した加藤の足跡が、こんなところにも残るかと、感慨が少々、モンゴル歌謡の「渡り鳥」は、日本語の詞でゆったりめのシンプルなワルツ。
 《なるほどな…》
 と、遠藤実作曲の「北国の春」が、あちらでもてはやされていることを思い出す。遠藤がモンゴルの音楽にひかれて、長い交流を持ったことにも、合点がいった。
 休憩時間、ロビーや客席で交わされる会話には、モンゴルの旅の楽しさがあちこちで。空と草原と風以外には、何もない自然の貴重さと率直な驚きが、口々に語られている。モノだらけでそのくせ満たされないこちらの世界を、ひととき振り返ってのことか。
 《70も半ばを過ぎても、初めてのものってまだずいぶんあるよな》
 雑文屋冥利を噛みしめて、ガード下の飲み屋に寄る。去り難さのひとり酒、胸の中を風が渡ったが、これはこれで悪くはなかった。

週刊ミュージック・リポート

  
 都はるみはきっと、作品ひとつひとつを自分の中へ引き込む。詞と曲、それが描く世界を、自分の血や肉に仕立て直して、改めて発信する。作品が訴えるものを、自分のイメージと思いに重ねて、その実感を聴く側に伝えようとする。当然のことながら、彼女のココロになじむ作品と、なじみにくい作品が生まれるだろう。
 石川さゆりは逆に、作品の側へ自分が近づいていく。イメージづくりや思いの重ね方は似ていようが、歌のつくり方には「演じる」気配が強くなる。作品は彼女に与えられたシナリオで、だから彼女の世界は、作品によって色あいを変えていく。都の歌がとことん彼女流であることとの、相異点がそこにありはしないか?
 この違いは決して、優劣ではない。それぞれがそれぞれの歌づくりを全うする結果の「個」濃淡、いわば芸風の違いだろう――と、僕は芝居をやりながら、そんなことを考える。9月27日から4日間の昼夜8公演、深川江戸資料館小劇場でやった東宝現代劇75人の会公演「非常警戒」(菊田一夫作、丸山博一演出)でのこと。役者稼業6年めのホヤホヤとしては、あれこれ、思いめぐらせることが多いのだ。
 秋田の田舎町、駅裏旅館喜久屋の主人・彦治が僕の役。女房と女中をわがものに、妻妾同居をきめ込む好き者で、芝居の狂言回しふうに出ずっぱり。戦後間もなくの話で、闇屋2人と元女給の女のいきがかり、泊まり合わせた謎の年増や、後に凶悪犯と知れる2人組などの人間模様が描かれ、やがて話は地元警察のぐず刑事とその子を軸に、サスペンスものに展開する。
 1カ月余のたっぷりめのけいこの中で、さて!と、僕はたたらを踏む。実生活でそんなにモテたことはないが、僕はその彦治役を、自分の中に取り込んでいくべきか。それとも台本に添って、それらしい人間像をでっち上げるべきかが問題だ。そこで大きな壁にぶつかる。自分にはない彦治なる人物を、創り出すほどの経験や技倆など、あるはずがないじゃないか!
 《そう言えば…》
 と、突然五木ひろしの顔を思い浮かべる。彼の作品をいくつかプロデュースした時の楽屋話で、歌づくりのヒミツを聞いたことがある。作品の主人公とは別に、股旅ものなら長谷川一夫、やくざ唄なら高倉健という具合いに、歌う側のイメージも作って、それになりきろうとするらしいのだ。もちろん最終的には五木本人の姿形になるのだが、いわば歌づくりの糸ぐち。なるほどな…とその時は、合点が行ったものだ。
 「役に似合いの先輩俳優を思い浮かべ、もしこの役をその人がやったら…と、突き詰めて行くやり方もある」
 と、役者さんの一人から聞いたこともある。なるほどな、モチはモチ屋か…と感じ入った例だ。いずれにしろ、赤の他人を生き生きとしてみせる術の、とばっくちのアイデアではあろうか。
 で、僕はどうしたかと言うと、所詮は新米の半可通、なまじ策を弄したところで、お里が知れると判りきっている。だから自分を丸出しでそれらしく、役をなぞって見せるしかテはない。役そのものを肚に入れる。そのうえでセリフは、自分のものとしてしゃべりたいのだが、頭で判ってはいても、なかなかにそうは行くものでもない。
 ひと芝居やるごとに、ああすればよかった。こうもすべきだったろう…と、悔いが残る。それやこれやでカッカと、頭に血がのぼりながら、だんだんそんな熱い浮遊状態が、何とも心地よくなって来るから不思議で、この商売三日やったら止められないとは、よく言ったものである。
 さて、次回は来年の一月と二月、名古屋・御園座の川中美幸・松平健合同公演だ!と、早くも切り替えて〝その気〟になる。ひと仕事終えた10月3日、また台風が近づくとかで、葉山の海岸通りに風が強い。元町あたりの浜寿司で一杯やって、ふらりふらりと風の中。歌世界への復帰は5日、埼玉の太平洋クラブ&アソシエイツ江南コースの船村徹杯コンペから…と、76才の誕生日直前の僕、何ともいい気なものである。

週刊ミュージック・リポート

ただ者ではないぞ! 原 文彦

 情痴の果てに「こおろぎみたいに おんなは泣いた」と言う。美川憲一に『金の月』を書いた原文彦の一行である。生々しい筆致で男女の痴態を描きながら、決して下卑に落ちない詩心に唸ったあとで、とどめを刺された。絶えて久しく出会わなかった出来事。この人、ただ者ではない!と、次作を待つこと切だ。
 相変わらず本心を秘めた詞が〝いいねえ〟は『うたびと』の池田充男。レーモンド松屋と大川栄策の仕事では〝昭和〟が戻って来た。

雪のれん

雪のれん

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子

 作曲家・岸本健介と夏木は、実に長いコンビを組んだままだ。岸本が他の歌手に曲を提供する例はたまに聞くが、夏木が他の作曲家の作品を歌ったケースは、記憶にない。一蓮托生、お互いの才能に賭けている。
 試行錯誤の歩みである。岸本にはきっと「これでもか、これでもか!」の思いが強かったろう。それがこの作品で、一つの成果をあげた。六行詞の〝港もの〟だが、曲にゆるみたるみがなく、夏木の歌を落ち着かせた。そのおだやかな起伏を、中・低音の語り口で、夏木は彼女〝らしさ〟を作った。師弟の思いが深い。

人生はふたりの舞台

人生はふたりの舞台

作詞:三浦康照
作曲:叶弦大
唄:冠 二郎

 作詞家・三浦康照と冠のコンビも、もう四五周年。
三浦はこの愛弟子に、さまざまな角度のドラマを書いて、倦むことを知らぬ仕事を続けている。
 今度は〝しあわせ演歌〟である。各コーラスの歌い締めの「お前と俺の、ふたりの舞台」で、冠は大きく両手を広げるような気配を聞かせる。声に笑顔の色があり、
〝その気〟が素直に前に出る。冠のそんな芸風とキャラを、三浦は知り尽くしていての夫婦ものだ。冠をのびのびとさせるもう一つの要素は、叶弦大の曲。道中ものみたいなのどかさがあった。

白川郷

白川郷

作詞:木下龍太郎
作曲:弦哲也
唄:水森かおり

 九月の「ぎふ清流国体」を記念、新装再発売した『ひとり長良川』のカップリング作。木下龍太郎の詞、弦哲也の曲を新録音した。歌い出しの一行を、水森は息づかいで泣き節にした。シリーズの〝ご当地もの〟の明るさより、涙の比率を増やして新鮮である。

京都白川 おんな川

京都白川 おんな川

作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:葵 かを里

 声の芯をはずしたような、細々とした歌唱にこの人の色がある。定石どおりの演歌を、それが頼りなげ、切なげにした。葵の持ち味なのだろうが、これが歌の主人公のたたずまいに通じたあたりが面白い。影山時則の曲が、そこをうまく生かした成果か?

おんなの波止場

おんなの波止場

作詞:荒木とよひさ
作曲:市川昭介
唄:神野美伽

 市川昭介の遺作に、荒木とよひさが詞を書いた。去った男を何年も、港で待つ女が主人公。曲折多めのメロディーを、神野は思いひとつで乗り切った。さて、いかにも市川らしい歌い締めの昂り方。神野の目線は海へ開いたろうか、それとも胸に抱いたのだろうか。

おんな川

おんな川

作詞:白鳥園枝
作曲:市川昭介
唄:大川栄策

 白鳥園枝のいかにもいかにも...の四行詞に、市川昭介がたっぷり、聞かせどころのある曲を書いた。昭和五七年に出した旧作の改題、新録音。ギターのイントロから始まって、大川の歌は小節コロコロ、一途にうねる。これぞ「昭和の詠嘆」。他に言うことはない。

来島海峡

来島海峡

作詞:レーモンド松屋
作曲:レーモンド松屋
唄:レーモンド松屋

 ラテンふう歯切れのいいノリ、大きめのビブラート、高音部の艶の作り方、歌全体のメリハリに、演歌的ハッタリも歌い納めで聞かせて、ムード歌謡の系譜。それをご当地ソングでアクを強めに仕立てた。昭和の味の再来、レーモンドは、かなりの〝やり手〟だ。

金の月

金の月

作詞:原文彦
作曲:弦哲也
唄:美川憲一

 湯の宿、個室の情艶を、貼り絵みたいな金の月に託して、原文彦の詞、弦哲也の曲は相当に濃密である。まともに行けば、石川さゆりになってしまうところを、美川の醒め加減の歌唱が、独特の味に仕立てた。演歌色強めの作品が、美川色になった。

うたかたの風

うたかたの風

作詞:久仁京介
作曲:弦哲也
唄:竹島 宏

 白い萩がこぼれるさまに、深まる秋と主人公の孤独を重ね合わせた詞は久仁京介。その大きめな構え方に、委細承知と弦哲也の曲が応えた。地力の強い歌手なら、ガンガン歌い込みかねない作品を、竹島は彼の身丈に引きつけた歌で、水彩画のドラマの味を作った。

うたびと

うたびと

作詞:池田充男
作曲:都志見隆
唄:川中美幸

 詞の池田充男、曲の都志見隆、編曲の若草恵が、異なるそれぞれの持ち味を生かして合流した。「うまいなあ」と思うのは池田の筆致。「笑顔」と「ありがとう」の川中の魅力を、池田流の人生観と重ね合わせて、すっきりとよどみがない。当方は、さすが!と手放しだ。

MC音楽センター

  
 初日が開いた。また芝居の話で恐縮だが、初日だからと言って、特段の緊張はないし、上がりもしない。自然体(のつもり)で、ズイと出て、秋田弁でしゃべる。幕開き冒頭のシーンだから、僕の長ゼリフまじりが、芝居そのものの空気を決めかねない。ここでトチったりしたら、以後に影響大だから、責任は重大だ。9月27日午後3時、深川江戸資料館小劇場での東宝現代劇75人の会公演は「非常警戒」(作菊田一夫、演出丸山博一)すっかり秋めいて爽やかな木曜日。知り合いが昼夜で20人以上観に来ているが、それすらもさして気にはかけない――。
 ほぼ出ずっぱりである。秋田のとある田舎町の駅裏旅館が舞台。豪雪で鉄道が止まって4日間。泊まり合わせた客の人間模様からお話が始まる。僕の役はその旅館〝喜久屋〟の主・彦治。カミサンのおかね(ダブルキャストで鈴木雅、村田美佐子)と女中おあき(同、松村朋子、田嶋佳子)との、いわば妻妾同居という好き者だ。それが人間関係のあれこれ、狂言回しふうに話を進める役どころで、宿泊客に強盗殺人の犯人がまぎれ込んでいたことから、お芝居は突然サスペンスものに展開する。初日の昼夜2回、一見難なく仕事をこなしたように、観客からは見えたはずだ。ところが、
 「野崎さんは、子ぼんのうだというから…」
 というセリフの〝野崎〟が出てこない。一瞬つまって、
 「あんたは、子ぼんのうだと言うから…」」  と窮余の一策。〝野崎〟を〝あんた〟にすり替えて、ホッと一息つくから、その後のセリフがバタバタになる。
 そんな〝ほころび〟が何個所か、それでも演出家に大目に見てもらっての初日である。
 《俺だってこの仕事、もう6年もやってるんだから…》
 と、内心は意気がりながら、正直なところやっぱり、冷や汗の量は相当なものだ。
 「菊田先生がね、ある日、たかが芝居じゃないかって言うのよ。あのうるさ型がさ」
 けいこも大詰めの夜、飲み屋で演出の丸山が言う。
 「されど芝居!なんでしょ。そのココロは!」
 僕が口返答をするのは、緊張をほぐしてくれる相手の気持ちを、痛いほど感じてのことだ。東宝現代劇はその菊田一夫のお声がかりで出来た由緒ある劇団。そのメンバーの有志75人が集まったのが75人の会で、当然のことながら名うての芸達者、ベテラン揃いだ。僕はこの会の公演に3年連続、客演という形で呼んでもらった。「浅草瓢箪池」「喜劇・隣人戦争」「水の行く方・深川物語」の順で、年1回、滅法いい役の連続である。毎回1カ月以上、じっくりけいこをやるから、僕にとっては有難い役者道場で、僥倖みたいに昨年末から正式会員に認められた。従って老新入りとしては気合いの入り方ひとかたではない。
 縁結びはこの劇団の重鎮の一人・横澤祐一である。6年前、川中美幸明治座公演の僕の初舞台が初対面。翌年、大阪松竹座で星野哲郎もの「妻への詫び状」で1カ月、すっかりお世話になり、彼が演出した「浅草瓢箪池」に呼んでもらった。同い年だが僕にとってはお師匠さんだから、今回のけいこのあとの酒でも、話は多少辛口になる。
 「あんたね、カカドで芝居をしなけりゃ…」
 とポツン。セリフ沢山の大役に、僕の芝居が爪先立ちでつんのめっているということか、役がまだ肚に入っていないぞ!のココロか。
 「されど芝居」と「カカドの芝居」が、頭の中でぐるぐる回った初日の昼夜2公演。
 「まああんなに沢山のセリフを、よく覚えたなあ」
 と、演技力より記憶力を評価して帰ったのは山田廣作プロデューサー。
 「昭和22年の話でしょ。思いがけないものを観せてもらった。面白かったな」
 が、飯田久彦氏の総評。その他口々の感想は、かなりヨイショの気配が濃いが、僕はオミコシ承知でそれに悪乗り。30日の日曜まであと3日、6回公演を踏ん張る気でいる。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ128回

 ♪笑顔があれば しあわせになれる 信じながら 迷いながら 虹のふもと尋ねるような それが人生…

 と、これは聞く人全部に訴える人生観フレーズ。それが大勢の胸にスーッと入って来るのは、詞の目線が率直に平らで、説法臭を持たないせいだろう。

 ≪うまいなぁ…≫

 と僕が思うのは、そのスケールを次の一行で

 ♪おわりのない夢をゆく あゝわたしうたびと

 と、歌い手自身の感慨へ引き込み、すっきりと歌い納めてよどみのないあたり。

 「いいですね、この歌。僕、好きだな」

7月、大阪・新歌舞伎座の楽屋で、友人の役者小森薫が独り言みたいに言った。モニターに映っている歌声の主は川中美幸。彼女の暖かく優しい歌声が、この歌詞を人肌にふくらませ、その心情が若者の胸に届いた気配がある。

 小森は30代後半。体質的には非演歌・歌謡曲世代のはずだが、都志見隆の作曲、若草恵のアレンジがポップス系である。ジャンルの枠組みを越えたノリが、彼の気分を刺激していたろうか。

≪うまいなぁ…≫

モニターの川中に重ねて、僕が思い浮かべたのは詞を書いた池田充男の笑顔だった。

地球という美しい星 こゝにわたしは住む…

という歌い出しの一行が、いつになく肩に力…である。いつもとは違うものを…という意気込みがにじんでのことか。しかし、主人公の心象風景は、故郷、父や母、野に吹く風、ふりつもる雪、それに耐える心…と、ひろがる。池田は自分の人生観を語りながらさりげなく、歌ひとつで川中の人生観まで通底しおわしているではないか!

 僕は一ヵ月、新歌舞伎座で川中と「天空の夢~長崎お慶物語~」で共演、彼女のショーを毎回見届けながら、池田の手練の仕事の確かさを思い返していた。

 8月、葉山の自宅に戻ると、池田からの暑中見舞いの葉書が届いていた。

 「夕立のあと、母ちゃん虹の根っこはどこなんだ…。おまえはバカか、虹はどこまで行っても虹だっぺ…。あれから何十年。今回川中美幸さんで『うたびと』を書きましたが、昔々の母親との会話が原点です」

 体が弱かったから、母親の腰の回りにくっついてばかりいたころの幼時体験が、そのまま生き続けて歌になった。一ヵ所だけある母親の訛りは、僕が育った茨城のものである。僕は葉書を前にしばらく、しみじみとした気分になった。

  
 ♪風邪引くなんて、久しぶり、おふくろ死んだ朝以来…
 石原信一が作詞した「寒がり」という歌の歌い出し2行だ。
 《へえ、なかなかやるじゃないか…》
 と、僕はあいつの顔を思い浮かべる。
 ♪大事な人をなくすたび、寒さがつのるこの頃さ…
 と続いて、歌のオハナシは別れた女性への思いにいたる。主人公はそこそこの年になった頑固者で「やりなおせるかどうだろか」と心は揺れるが、北国育ちの寒がり同士、戻っておいでと声をかけたくなる。考えてみりゃ「ボタンひとつの掛け違い」の別れだった…。
 《そう言えば…》
 と、振りかえる出来事が二つある。ひとつは石原の母の死で、僕は彼の郷里・福島の会津若松へ駆けつけた。もう何十年も前のことだが、一面の雪景色、めちゃくちゃ寒い時期だった。彼はあの通夜の翌日、風邪を引いたのだろうか? もうひとつは、友人のシナリオライター高田純の死である。数年前に僕は石原たちと、この仲間の若過ぎる死を見送った。「大事な人をなくすたび…」に、ふとうそ寒さを感じる歌詞は、石原のその後の実感だろうか?
 1960年代の後半、学園闘争が反戦、反安保闘争に拡大して、日本が騒然となった時期がある。いわゆる「70年安保」騒擾だが、それが終息したころ、僕は当時の若者たちを集めた。仕切っていたスポーツニッポン新聞に、若者たちのページ「キャンバスナウ」を作るのが狙いだ。年が行った記者が、若い世代のあれこれを書いても、結局は若者たちをさらしものにするに止まる。それならば、当の若者たちに彼らの生きざま(当時はやった言葉だ)や感性をぶちまけさせて、紙面に解放区を作った方が、実態の芯に当たると考えてのこと。
 その執筆メンバーに、石原も高田も居た。後に推理作家として名を成す島田荘司や、ワハハ本舗を主宰する喰始、ノンフィクションの生江有二、詩人の崎南海子、カメラマンの冬夫ら、今考えればなかなかの面子。多くがデモの先頭で火炎びんを投げたりしたあとだから、理屈っぽくて参った。企画会議はもめる。型破りの紙面に新聞社内の反発はひとかたならず…。それを突破した僕らは同志ふうに盛り上がり、親交は今日に続いている。
 話は「寒がり」という作品に戻るが、歌っているのは新田晃也。歌手歴40年超の無名の歌巧者で、この男とのつき合いも長い。石原の詞を浅草の飲み屋で手にした時、新田は胸を衝かれて泣いたと言う。彼は福島の伊達市出身。地名をそのまま芸名にしている愛郷者で、石原とは同郷の血がハモったかも知れない。
 中学を卒業、すぐに集団就職列車に乗る。井沢八郎の「ああ上野駅」の世界だ。昭和20年代後半から高度経済成長期へ、若い労働力が都市に集められた時期だが、子連れ同士で再婚した親は子沢山。新田の場合、口べらしの事情もあったろう。パン屋、新聞販売店などを転々としたあと、歌の世界に入る。ひところは〝ポール〟と呼ばれて、銀座の名うての弾き語り。阿久悠が初期にナレーションもやったアルバム「阿久悠のわが心の港町」の9曲を、上村次郎の名で歌ったこともある。
 石原は一見柔和だが、根が会津の頑固者。一方の新田も、昔、業界で何があったか知らないが、他人の助力を拒んで演歌の自作自演を貫いて来た頑固者である。そんな二人が還暦をかなり過ぎた年で意気投合した。それぞれの過去も響き合った「寒がり」同士。歌社会のすみっこの話だが、歌の陰にはやっぱり、それなりの歴史がある。
 「それやこれやの行きがかりは抜きにしても、これはいい歌だよ」
 と言えば、面と向かってほめたことのない僕に、二人は恐縮のポーズを作る。それにしても双方、僕とは長いつき合いだが、どういうきっかけで知り合ったのか? そんな疑問を口にしたら二人とも、
 「何を言ってんですか」
 と口をとがらせた。彼らを引き合わせたのは僕らしいのだが、とうの昔に忘れていた。

週刊ミュージック・リポート

  
 いきなり「帰れないんだよ」である。それも渋い声味と節回しで、感情移入もなかなかだ。虚を衝かれた思いで僕は、マイクを握る紳士を見詰める。ちあきなおみが歌った知る人ぞ知る名曲。玄人好みのやつだから、
 《何でまたあなたが、これを!》
 と思いながら、二番、三番…。気がつけば僕も、その歌の世界にどっぷりとつかっている。
 久しぶりのカラオケである。東宝現代劇75人の会公演「非常警戒」(9月27日~30日の昼夜、深川江戸資料館小劇場)のけいこ帰り。
 「たまにはいいじゃないか、気分転換だよ」
 と、誘われて飛び込んだのが池袋駅西口そばの店。歌う紳士は今公演を演出する丸山博一で、超50年の芸歴の持ち主。東宝現代劇の1期生で、芝居のココロも技も山盛りの上に、温和だ。
 《また、星野哲郎かよ》
 僕の感想は妙な方向へずれ込む。そりゃあ彼の紙舟忌・3回忌の集い(10月19日夜、大手町パレスホテル)の集いの案内状に、
 「巷には日々、星野先生の作品が流れ、止まることを知りません」
 と書くことは書いた。しかし、こんな状況で突然、こんな曲に出っくわすとは夢にも思わなかった。
 もう10年以上前のことだが、神野美伽が渋谷公会堂で、この曲を歌ったことがある。隣りの席にいた星野に、
 「どうです?」
 と尋ねたら、
 「死んだ子が、生き返ったみたいだよ」
 と、笑顔の眼をしばたたかせたものだ。
 この作品は津軽ひろ子という歌手が創唱したが埋もれたまま。それをちあきがテンポも寸法もがらりと変えて新しい生命を吹き込んだ。最近は役者の沢竜二も吹き込むなど、いろんな歌手がカバー、巷の好事家が歌いついでいる。
 ♪秋田へ帰る汽車賃が、あればひと月生きられる…
 星野の若き日の遠距離恋愛実感ソングである。相思相愛の朱實夫人を、彼はそのころ故郷の山口・周防大島においてけぼりにしていた。さすがにテレたのか、場所が秋田に置きかえられている。作曲は三島大輔で、当時新潟のキャバレーのピアノ弾きだったのが、本名の臼井孝次で書いている。
 ♪今日も屋台の焼きそばを、俺におごってくれた奴…
 という個所が三番にある。
 モデルは作詞家仲間の八反ふじをで、赤貧の星野に彼がごちそう出来た訳は、サンドイッチマンのバイトをしていたからだそうな。
 「何とも切ない歌だよねえ…」
 我に返れば池袋のカラオケ店。マイクを置いた丸山の髭づらがしみじみする。芝居の「非常警戒」は、亡くなった菊田一夫の旧作で、秋田の駅前旅館を舞台にした人間模様のあれこれ。旅館の主の僕は秋田弁のセリフに四苦八苦しているが、その方言指導は丸山が担当、彼は生粋の秋田っこである。彼の故郷が秋田なら、歌の故郷も秋田。僕より少し年上だから、戦後上京した修業時代には、同じような貧しさを体験してもいよう。
 歌ひとつで、星野哲郎の往時と丸山博一の往時が重なった。
 《これが流行歌の妙って奴かも知れない》
 と、便乗するみたいに僕も、食えなかったスポニチのボーヤ時代の往時をダブらせてしまう。芝居けいこの気分転換が、思わぬ昭和回想の一幕になって、その後の僕は往時の歌の数珠つなぎだ。歌いはじめると止まらなくなるのが、良くない癖だ。
 「それではこの辺で僕も、演歌を」
 と、如才なくマイクをとったのは、制作担当で演出補でもある那須いたる。さてどんな曲か…と正対する気分になるのは、長いはやり歌雑文屋の僕の習性。飛び出したのがこれまた、知る人ぞ知る香田晋の「雨じゃんじゃん」である。昔、船村徹と阿久悠が初顔合わせをしたが、ひどく難産だった裏話がある。
 《だめだ、これは…》
 それをしゃべり始めたら、僕が乗るべき湘南新宿ラインがなくなってしまう! それやこれやの一部始終を、マドンナの微笑で見守ったのは、制作の仲手川由美で、那須もこの人も、もともとは75人の会の俳優さんである。

週刊ミュージック・リポート

  
 いきなり出て来たのが〝がや〟という魚の煮つけ。別名が〝えぞめばる〟で、東京で喰らうめばるよりかなり大きいから兄貴分か。脂が乗ってめっぽううまいから、やっぱり焼酎の水割りをいく。聞けばその朝、作詞家里村龍一が釣ったものだそうで、入れ食いで100匹以上の釣果だったと言う。8月25日、北海道・鹿部カントリークラブの食堂。午後1時過ぎで、僕は東京から飛び込んだばかりだ。
 鹿部といえば、亡くなった作詞家星野哲郎が毎夏、20何年か通った漁師町。里村と岡千秋が助さん格さんよろしくお供をし、僕も「助さんと格さん」の「と」としてずっと同行した。その「と」の僕が、とるものもとりあえず駆けつけた理由は、この日に町の有力者・道場水産の道場登社長の快気祝いがあったせい。この人は自称星野哲郎北海道後援会会長で、骨の髄まで彼の信奉者。星野の鹿部ぶらり旅を、物心両面で見事に支えた資力と心意気の持ち主だ。
 そう書けば、でっぷり大柄な金満経営者タイプと連想されそうだ。確かに一代で功も名もとげたサクセスおじさんだが、これが少年みたいに輝く眼をした、小柄な老青年。
 「星野先生は、めんこいなあ」
 と、感に耐えぬ感想を連発しながら、朝から酒、ゴルフの間も酒、夜も酒…の日々が長かった。人を愛し、地域を愛し、流行歌を愛する好人物で、里村、岡と僕は〝たらこの親父〟と呼びならわして来た。還暦と長男の結婚を祝って、星野が「嬉し涙の登ちゃん」という歌を書き、島津亜矢の歌でCD化したこともある。古稀の祝いには「鹿部コキコキ節」を作って、岡千秋が歌ったものだ。
 そんな大酒飲みのゴルフ好きが、大病を患っていたことを、僕らは知らなかった。やたらにシャイで、心くばりの名人だから「東京へは知らせるな」の一点張り。自分の病気を棚に上げて、心配をかけまいとこちらへの気遣いが先に立っていたらしい。それが腹心の青年の口からちょろっともれたのは、僕ら3人の鹿部通い「今年はいつ来るの?」の問い合わせがあってのこと。たまたま郷里の釧路に居た里村が即反応、岡はスケジュールが動かせず9月中に絶対行くから…になり、僕がトンボ返りをすることになった。
 もっとも里村は到着するなり、翌早朝は釣りに出て、当日のコンペでは優勝してしまう。ゴルフは断念、晩餐会のみ参加の僕に、
 「一体、何しに来てんだよ、龍ちゃん!」
 とからかわれる一幕になったが、それもこれも、元気を取り戻した〝たらこの親父〟に、ホッと一安心してのこと。夜は夜とてお定まりのカラオケ大会。里村と僕も一曲ずつ、お祝いに一節うなったが、当の親父は会場を駆け回る幼い孫娘たちに
 「孫は、めんこいなあ」
 と目を細め、つきっきりの奥さんは飲み過ぎへ看視の眼くばり。事業を引き継ぐ長男と二男は参会者のテーブルへのあいさつ回りと、一家をあげての宴の隅で、長女は嬉し泣きに泣いてばかりの夜更けになった。
 当然、里村が日本作詩家協会の会長になったことも話題になる。歌社会の反応は「嘘!」「なんで?」「まさか!」ばかりだったと本人が報告!?
 「漁業組合ならともかくなあ…」
 と僕がまぜ返して大笑い。おしまいには、
 「命までは賭けないけど、俺なりにしっかりやる。任期の2年を見ててよ!」
 と里村が宣言、
 「俺たちは、鹿部の誇りだと思っているよ」
 と道場氏が激励する本音大会になった。
 星野哲郎没後2年の夏も、僕らはこんなふうに彼の遺徳のおすそ分けにあずかった。その3回忌の偲ぶ会は10月19日夜、大手町のパレスホテルで開かれる。友人代表はこの人をおいて他になしの船村徹、それに北島三郎、水前寺清子が並び、お次は〝鹿部ぶらり旅の勧進元〟として道場登氏が名を連ねた。里村は〝協会会長〟ではなく〝ぶらり旅お供その1〟岡が〝その2〟でそれに従う。道場氏の完全快癒を願うこと切である。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ127回

 献立表の裏に、作詞家喜多條忠がちょこまかと、何か書きつけている。隣りの席からのぞくと、どうやら歌の文句らしい。

 ≪鉄は熱いうちに打てということか。それにしても…≫

 と、僕は周囲を見回す。島根県大田市から小高い山へ登った三瓶荘、その広間で開かれていたのは竹腰創一市長主催の歓迎の宴である。喜多條と作曲の水森英夫、編曲の前田俊明と僕らは、そこへご当地ソングを作りに出かけていた。市の売り物は石見銀山、これが世界遺産に登録されて、今年は5周年にあたる。

 少し離れた席で、水森が地元の紳士との会話に、如才なく相づちを打っている。前田は時おり会話からはぐれる。羽田からの機内でやっていたアレンジの続きにでも、気をとられるのか?

 ≪それにしても…≫

 と、僕はまた喜多條を見返す。前夜、インフルエンザの高熱が収まらないと連絡があり、無理するな、いずれまた行く機会を作るから…と止めたのに、それが当日、羽田へひょっこり現われた。かかりつけの医者から強力な薬をもらって、風邪を押し込んだそうで、

 「詞が行かなくちゃ、話にならんでしょう」

 と笑ったものだ。

 石見銀山で採れた銀は、昔、世界で流通する銀の三分の一を占めたと言う。豊臣秀吉ら時の権力者の栄耀栄華を支える財源となり、付近の海には海賊船が出没、もしかすると鉄砲は、種子ヶ島より先にこの辺に出回ったかも…などの俗説もある。話は面白いのだが、当時20万人も居たという銀山の町の気配はまるでない。数多くの坑道が深い木立の中にひっそりとうずくまるばかりで、飯場バクチの荒くれや、遊女宿のにぎわいなどは、想像するしかない“つわものどもの夢の跡”だ。

 もっとも、坑道周辺が手つかずに残され、後世、観光資源にするあざとさも加えられていないところが、自然遺産に認められる根拠になった。ま、環境と学術的、歴史的価値を力説されれば「勉強になるなぁ」と、こちらは合点するばかり。そんな、流行歌向きの艶っぽさなど皆無のところに、傷心のヒロインをたたずませ、そぞろ歩かせるのが、歌書きたちの腕の見せどころということになるか!

 喜多條は結局、その夜は徹夜、朝食の席に一編書き上げた詞を持ち込んだ。

 「もうひとつかな」

 と僕は応じたが、それを“いまいち”と受け取ったのかどうか、喜多條は帰京早々にもう一編を書く。それに水森が“船もの”ふう本格的メロディーをつけて、永井裕子がしっかりと歌った。2曲甲乙つけ難い仕上がりになったが、メインには“後日編”を選ぶ。そつなく地名や土地の花などを書き込んだうえに、ヒロインの生き方に触れるフレーズが奥行きを作っていた。7月に発売、オリコンの演歌チャートで初登場2位になり、

 「1位は関ジャニ∞だから、実質1位です」

 担当の古川健仁プロデューサーから、浮き浮き気分のFAXが届いた。永井は8月に現地でコンサートをやる。尺八が趣味の竹腰市長は、レパートリーをまた1曲、ふやすことになるだろう。

月刊ソングブック

  
 「ふう、お前(め)なにをごしゃてるなだ!」
 鼻濁音多めの秋田弁に、愛猫の風(ふう)は、きょとんとした目つきになる。つれあいが出かけたあとの、葉山の僕んちの午前。僕がよく芝居のせりふの練習をやる時間帯で、ふうは独特の相づちを打つのが常。主人が何やら一生懸命だから、多少のおつき合いはしないと…という、心づもりか鳴き声でからむ。ところが今回の秋田弁は理解の域を超えるらしく、ニャアとも言わない。
 「ごしゃてる」は「怒っている」の意。9月末の27、28、29、30日の4日間昼夜2回ずつ8回、深川江戸資料館小劇場(江東区白河)でやる東宝現代劇75人の会公演の「非常警戒」(作菊田一夫、演出丸山博一)のせりふの一部だ。僕がやる旅館のおやじのひと言に、おあきというお手伝いさんがプンプンするところで出てくる。このおやじ、なかなかの好き者で、女房に感づかれながらも居直って、そのお手伝いさんともねんごろになっている。
 「何しろ、女房が2人で、手をつけた若い女が2人、夢みでえな話になってるだす。モテでモテで、すがだねえくれえで…」
 飲み屋でオダをあげる都度、僕の口調はどうしても東北調になる。女房が2人…はおだやかでないが、実はおかねさん役がダブルキャストで、鈴木雅、村田美佐子のベテラン2人。お手伝いさん(昭和20年代の話だから、劇中では女中だが…)も、田嶋佳子、松村朋子と、若手女優のダブルキャストで、合計4人の勘定だ。ある日ゴルフ場でも終止秋田弁を通したら、一緒にプレーした作曲家の藤竜之介が、
 「後生だからモトへ戻って下さい。調子が狂っちまって、どうにもならない」
 と、音をあげたものだ。
 手がける女性の人数にうきうきするのは、この年になるまで僕は、公私ともにこんな僥倖に恵まれたことがないせい。しかし、そのために今回の公演が好色ばなしなどと早合点されては大いに困る。昭和22年、秋田のとある停車場近くの旅館が舞台。豪雪で4日間も列車が止まり、とじこめられていた人々の人間模様が展開される。そですり合う人情、からむ男女の仇情け…。ところが、宿泊客の中に、逃走中の凶悪犯がまぎれ込んでいるという騒ぎから、突然おはなしがサスペンス劇に緊迫する…。
 当然のことながら、前出の女優4人に僕、それに地元署の刑事(大石剛)とその子、駅員(富田正範)が秋田弁。宿泊客役の今藤乃里夫、柳谷慶寿、松川清、秋田宏と、竹内幸子・菅野園子、高橋志麻子・古川けいのダブルキャスト2組は標準語である。読み合わせは8月18日から豊島区要町のけいこ場で始まったが、当初そこには2カ国語が飛び交うみたいな混雑!?が出現した。
 「大変だねえ、せりふの数も多いし…」
 などと、慰めてくれていた今藤の語尾が、突然訛ったりするからオカシイ。
 秋田弁のお手本は、演出の丸山博一が秋田出身であるから、由緒!?正しい訛り方を、CDに吹き込んでくれた。僕はそれをCDウォークマンで聞く。逗子―池袋間の車中で、スピードラーニング状態になる訳だが、正調秋田弁はテンポやや遅め、鼻濁音が何だか穏やかで響きがいいせいか、途中、いつの間にか熟睡してしまう。一幕四場の芝居で、僕は一場から大忙しだが、肝心のサスペンス劇盛り上がりあたりは、ゆらりゆらりと夢の中だ。
 「真夏と真冬は、芝居三昧に限る」
 といういい方が演劇の世界にあると聞いた。
 《なるほどなあ》
 と合点が行ったのは、7月を新歌舞伎座・川中美幸公演で暮らしたせい。朝、楽屋入りして夜まで冷房完備、そのあとは飲み屋だから、全くの暑さ知らずだった。ところが葉山へ戻った8月、僕の今年の夏が突然始まった。汗みずくのひと月、そして9月も、ひでりの道をとぼとぼと、けいこ場通いである。
 「言ってもすがだねえけど、毎日、暑いなァ…」
 愛猫風(ふう)相手に、猛暑の愚痴も秋田弁の日々だが、敵さんは異国語でも聞くみたいに海を見ている。猫のくせに馬耳東風である。

週刊ミュージック・リポート

これも金田たつえの勇気か?

 昔、金田たつえが『花街の母』を出した時、業界の反発は強かった。子連れの芸者の歌など「誰が好んで聞くか、歌うか!」がその理由。金田は地を這うキャンペーンでこの歌をヒットさせ、歌謡界のタブーを破った。その金田が昨今は、介護をテーマにした曲を連作する。表立った反対は聞かないが、「誰が喜ぶのか?」という感想はあちこちにありそうだ。社会的共感と娯楽としての酔い心地のギャップ。金田、二度めのタブーへの挑戦は、どういう結果を生むのだろう?

松山しぐれ

松山しぐれ

作詞:喜多條忠
作曲:弦哲也
唄:城之内早苗

 演歌ではない演歌――と書くと妙だが、そんなタッチの歌に仕上がった。歌の姿そのものがほっそりときれいで、演歌特有のアクや泥くささがまるでない。
 謎は発声にある気がする。腹式呼吸で声の芯を強くし、体に反響させて太めに、歌に説得力を作る演歌の作法がない。ごく自然に素直な声の出し方は、どちらかといえばポップス系。そのうえメリハリに頼らず、メロディーの起伏をやや控えめに辿る。
 そのくせ小節はコロコロで、不思議な可憐さが生まれた。城之内の新しい個性ということになろうか。

みちのく風酒場

みちのく風酒場

作詞:たかたかし
作曲:宮下健治
唄:千葉一夫

 酒場を舞台に、一番で旅の男が登場する。ラジオからは『哀愁列車』が流れ、男の飲み方に昔の彼を思い出すのは、二番に出てくる女。そうなれば三番は、そんな男女が熱くなるのがお定まりだが、二人は地魚の肴などつつきながら、ポツリポツリの四方山話...。
 たかたかしが書いた三幕もの、妙にしみじみとした詞に、宮下健治が曲をつけた。こちらは昭和三〇年代ふう演歌で、春日八郎にあったかなあ...の味わいだ。
 千葉は相変わらず、感情移入薄めの歌処理。それがかえって作品の色を生かした。

北国フェリー

北国フェリー

作詞:喜多條忠
作曲:蔦将包
唄:走 裕介

 惹句に「この胸に顔を埋めて泣いた人、今はどの町、誰といる...」とある。そんな思いを抱いた男が、北国フェリーに乗っている。ドラマはそれだけのシンプルな詞を、各コーラスの大詰め、一気に盛り上げるのは蔦将包の曲。走の熱い高音の魅力を前面に出した。

花はこべ

花はこべ

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美

 花はこべに女を擬して、幸せにしてやれなかった男の悔恨が語られる。『くちなしの花』以来、よくある男唄の定番だが、それを川野が歌うところに面白みがある。こざっぱりとべたつかないフィーリング。狙いは男の歌好きだろう、一音半上げのカラオケつきだ。

止り木暮らし

止り木暮らし

作詞:南こすず
作曲:山口ひろし
唄:長保有紀

 酒場の二階に仔猫と暮らし、七つも歳をごまかして、客に酌をする女が主人公。あっけらかんと淋しい生き方を、山口ひろしが男唄仕立ての曲にした。長保の気っぷやキャラに似合いのこだわらなさ、スタスタと歌い進むあたりが、いっそ小気味いい。

ひとり大阪

ひとり大阪

作詞:坂口照幸
作曲:岡千秋
唄:永井みゆき

 歌い出しから高音、すっと出た細めの歌声に、そこはかとない哀愁、いじらしさがにじむ。永井は歌手二〇年、デビュー曲『大阪すずめ』以後の進境を示そうとする大阪ものだ。なぜか一人ぼっちが似合いの声味、ヘンに歌い慣れたりしていないのは、この人の性格か。

おんなの坂道

おんなの坂道

作詞:森田圭悟
作曲:中村典正
唄:水沢明美

 ひところ、人生まだ半ば...の団塊ソングがいくつか出た。いわばその女性版がこの作品で、育った娘に〝あのひと〟を重ねる熟女の心境が歌われる。中村典正の曲は、芸道ものにも通じて骨太。それを水沢がズサリと一気に歌った。女性が強い時代の歌かなあ。

ウヰスキー

ウヰスキー

作詞:高畠じゅん子
作曲:浜圭介
唄:木下結子

 例えば桂銀淑のハスキーボイスに似合いそうな浜圭介らしい曲。それを木下が彼女なりの声味で歌い切って、この人らしいドラマにした。久しぶりのメジャー展開。思いのたけがサビあたり、せっぱつまる色を強めたみたい。創唱した『ノラ』のオマケつきCDである。

よりみち酒

よりみち酒

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:松村和子

 やたら元気な『帰ってこいよ』から三〇余年、松村がその後の熟し方を聞かせる。麻こよみ・水森英夫コンビの盛り場流し歌タイプ。ギターを道連れに、全体を抑えめに歌って、歌詞の一言ずつをしっかり手渡してくる。粗い手触りと肌理の細かさが両立した。

この愛に生きて

この愛に生きて

作詞:池田謙一
補作詞:高橋直人
作曲:稲沢祐介
唄:金田たつえ

 ♪押せば泣けます車椅子...が歌い出しに出て来るフレーズ。乗せた〝あなた〟が軽過ぎたためだ。金田がこだわる介護をテーマにした曲の三曲め。それをあの声とあの節回しで歌うから、詠嘆の色が濃くなる。社会によくあるケースの歌謡化、これも時代の歌なのだろう。

MC音楽センター
今年の東宝現代劇75人の会公演は9月27日(木)28日(金)29日(土)30日(日)の4日間の昼夜8回。深川江戸資料館小劇場で行われる。菊田一夫作で昭和22年に初演された「非常警戒」(一幕四場)で、演出は丸山博一。今藤乃里夫、柳谷慶寿、松川清、大石剛、秋田宏ら男優陣に、鈴木雅・村田美佐子、竹内幸子・菅野園子、高橋志麻子・古川けい、田嶋佳子・松村朋子ら女優陣が、ダブルキャストで勢揃いする。豪雪のため列車が止まった東北の小さな町の旅館を舞台に、泊まり合わせた人々の人間模様が描かれ、サスペンス劇へ展開する。小西はその旅館喜久屋の主人・彦冶役。「浅草瓢箪池」「喜劇・隣人戦争」「水の行方・深川物語」に次いで4年連続4回目の大役に恵まれた。昨年10月、歴史と伝統のあるこの劇団の正式メンバーとして迎えられ、45年在籍したスポーツニッポン新聞社以来、75才にして2つめの所属先を得て、相当に気合が入っている。 7月、大阪・新歌舞伎座公演は川中美幸主演の「天空の夢・長崎お慶物語」の小曽根六左衛門を長崎弁でやったが、今度は秋田弁に挑戦する。舞台俳優になって6年め、次々と高いハードルを与えられていることになろうか。   非常警戒

  
 神前の参拝は「2礼2拍手1礼」と相場が決まっている。神社へ出かけた時以外にも、地鎮祭などいろいろな御祓いで、しょっ中これをやった。バリエーションがあるとすれば、神式の葬儀で、2拍手の音を立てない。これを「しのび手」と言うのだと、ずいぶん以前、星野哲郎に教わった。あれは彼の夫人・朱實さんを送った時だったか。
 ところが神社の大手!?である島根の出雲大社は、ちょっと様子が違った。2礼のあとの2拍手が倍の4拍手なのだ。なにしろ「古事記」以来1300年の〝神々の国しまね〟のならわしである。これこそが由緒正しい形なのか?
 8月6日、お隣りの大田市にある石見一宮物部神社へ〝はしご〟をした。隣りの席についた永井裕子に、
 「あっちは4回だったけど、こっちは2回でよさそうだぜ」
 と、知ったかぶりをする。彼女の新曲「石見のおんな」のヒット祈願で、僕はそのプロデューサー。この歌は地元石見銀山が世界遺産に登録、5周年を迎えたのを記念して作った。登録決定前後に「石見路ひとり」を作り、その後ついでみたいに、近くの漁港を舞台に「和江の舟唄」を出したから、永井には当地が〝第二の故郷〟になるほど、力強い応援を受けている。
 「それにしても…」
 と神官に2拍手と4拍手の理由を尋ねてみた。
 「ああ、あちらは縁結びの神様ですからね。〝しあわせ〟を型にしたんでしょう」
 あっさり答えた神官、それをまじまじと見る僕。
 《しあわせ、4あわせ…神事にそんなダジャレまがいが入ってるのかよ!》
 5年前の祈願の時、僕は物部神社から純銀製のお守りを貰った。「鎮魂」の2字が刻まれた格調高い細工で、僕は後生大事にずっとキイホルダーにつけている。今回もうやうやしく、それらしい小箱を貰った。これで二つめ、俺の老後の守り神だな…と思ってあけてみたら筆文字で黒々と「勝運」の二字が大書され、ひっくり返したら裏は、見事にU字型の馬蹄である。
 《染まらずに来た競馬に、これから狂ってみろという御託宣かよ!》
 僕は老後の波乱を予感した。しかし、その日暮らしの役者兼業の雑文屋に、そこまでの実入りや蓄財が、あるはずはない!
 石見銀山ソング、前作は吉岡治・四方章人・前田俊明の作詞・作曲・編曲トリオをわずらわせた。今回は喜多條忠・水森英夫・前田俊明に腕をふるってもらった。その都度、取材旅行とお披露目ショー、ヒット祈願で現地へ入る。石見銀山は昔々、世界で流通する銀の3分の1を生産、豊臣秀吉をはじめ時の権力者たちの栄耀栄華を支えたと言う。20万人もの人々が掘削に従事したそうだから、遊女の里や鉄火場もあったはずだが、今は数多くの坑道が、深い山々の間に点在するばかりで、およそ流行歌になりそうな艶っぽさは皆無。
 「島根はさ、歴史のお勉強をする場所で、歌はまたしても妄想の変物になる」
 かつて吉岡治がもらした感想を、今回は喜多條・水森が実感したことだろう。それにしても一流の歌書きたちの仕事はなかなかの仕上がりで、竹腰創一大田市長をはじめ、地元の人々との親交も、ありがたくも嬉しいものになった。
 そういうふうに地方へ出かけた時は、親睦ゴルフをやる…という、この世界の風潮は、いつごろから始まったのだろう。
 「この猛暑でも、やるのか? 言い出しっぺは誰だよ」
 などと口をとがらせながら、翌日僕らはいづも大社CCへ出かける。山陰の〝陰〟の字に、少しは涼しいかも…と思ったのが大間違い。フェーン現象とやらが猛威をふるうのにおじけづくが、キングの古川プロデューサーも含めて、全員ゴルフバックはちゃんと送り届けていて、
 「ま、午前中のハーフくらいでやめる手もある」
 とお互いの顔を見合わせる。そのくせ熱中症寸前になりながら、やっとこさプレーを完了、
 「風があるんで助かったな」
 と、みんな口だけは元気そのものだった。

週刊ミュージック・リポート

もっと、とんがれ! それが活路だ!

 いま、なぜこの歌手にこの作品なのか、歌づくりの〝動機〟がほの見える作品が揃った。演歌・歌謡曲の支持層や数が限定される中での活路さがし。
〝売れ線〟がせばまる実感が先に立ち、類型ソングが過多になる流れと考え合わせれば、ご同慶のいたりである。
 しかし...と、僕はなお、ないものねだりをどうしても書く〝ほの見える〟程度ではまだまだじゃないか? 思い切ってもう一歩、挑戦の意思をとんがらせてみてはどうだろうか?

石見のおんな

石見のおんな

作詞:喜多條忠
作曲:水森英夫
唄:永井裕子

 島根県にある石見銀山が、世界遺産に登録されて五周年。地元の強い希望で作られた第二作である。第一作『石見路ひとり』は吉岡治・四方章人の作品だったが、今度は喜多條忠・水森英夫コンビに代わった。
 琴ヶ浜、鳴り砂、三瓶山、沖泊、温泉津など、名所がちりばめられたご当地ソングだが、〝船もの〟狙いのメロディーが快い乗りの、本格派ふうに仕上がった。〝愁い顔〟というのがあるが、
永井の歌声はさしずめ〝愁い声〟で、はなから哀愁の色がにじむ。それが力まずにすっきり歌って、歌の姿をきれいにした。

火消し一代

火消し一代

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 北島三郎、三劇場の長期公演、今年の演し物は「め組の辰五郎」で、その主題歌を本人が作詞・作曲した。勇み肌の男の気概を歌い込んだ、いわば説法節で、独特の語り口に少々、枯れた味わいが加わっている。
 この道五十年、七六歳になるがこの人の仕事ぶりは相変わらず精力的。原譲二の筆名の歌づくりもおなじみだが、本人の話では四六時中歌のことばかり考えている生き方考え方が、作家活動にも現われるらしい。彼流の突き詰め方にゴールはなく、達成感も遠いというのは、芸する人の業だろうか。

涙くれないか

涙くれないか

作詞:松井五郎
作曲:水森英夫
唄:山内惠介

 作詞の松井五郎は山内惠介の歌に、意識して「物語」を与えたと言う。それが
〝銀幕歌謡〟のコピーを生んでいるが、
〝物語〟は決して〝ストーリー〟ではない。劇的な情況の中の男の独白という形で、なるほど山内の歌は、野太く男っぽいものになった。

越後母慕情

越後母慕情

作詞:池田充男し
作曲:岡千秋
唄:上杉香緒里

 会合で出会って「大きめの歌を貰ったな」と言ったら、
本人はうふふ...とうれしそうに笑った。池田充男の詞、岡千秋の曲で、越後に住む母と東京にいる主人公の娘、それが生んだ女児と、女の感慨が三代にまたがる。上杉が淡々と歌って、彼女なりの味を作った。

灯り

灯り

作詞:杉紀彦
作曲:四方章人
唄:谷本知美

 埋もれたいい歌を再発掘するシリーズの三作めがこの作品、北原ミレイが出したCDのカップリング曲だそうな。都会で暮らす女主人公が、故郷の母をしのぶ秋、冬、春の思いのたけが並ぶ。もの静かな曲が一転、サビで激するあたりで、谷本の色が作れた。

昭和・男道

昭和・男道

作詞:宇山清太郎
作曲:四方章人
唄:小林 旭

 長く星野哲郎周辺にいたベテラン宇山清太郎が詞を書いた。昭和の男の心情なら、本人が自分の胸中をそのまま歌に託せる年代で、語り口にもそれが生きている。やくざ唄系の作品が、旭を〝その気〟にさせたろう。身上の高音がくぐもり加減になっているのが渋い。

箱根 おんな宿

箱根 おんな宿

作詞:たかたかし
作曲:中村典正
唄:真咲よう子

 昔、クラウンの看板娘だった人が、ベテランの域に達した。あのころのままの古風な唱法に、たかたかしが書いたのもまた、古風なたたずまいの女主人公。真咲の歌はそれなりの年月で、少しずつ彫りを深くして来た感があり、中村典正の曲がそれを盛り上げた。

別れの港

別れの港

作詞:三浦康照
作曲:岡千秋
唄:桜井くみ子

 思い出の港に立ちすくむ女心を書いたのは三浦康照の詞、それを岡千秋の曲と南郷達也の編曲がおなじみの船ものに仕立てた。昔から女性歌手が一度は歌いたがるタイプの作品で、切々と身を揉むように...という世界。歌手六年めの桜井にはうれしい挑戦になったろう。

こまくさ帰行

こまくさ帰行

作詞:さくらちさと
作曲:田尾将実
唄:岩本公水

 彼への思いを振り切って、女はふるさと行きの列車に乗る。さようなら、ありがとうと、演歌によくある設定だが、さくらちさとの詞の字脚は長めで口語体、田尾将実の曲はポップス寄りの歌謡曲。岩本の歌は作品の後半、たたみ込むあたりで〝今ふう〟タッチになった。

24時の孤独

24時の孤独

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:秋元順子

 午前零時の部屋、ひとりぼっちの女の物思いを、田久保真見が彼女らしい詞にする。それをリズミカルで乗りのいい作品にしたのは、徳久広司の曲と矢野立美のアレンジ。三人が秋元の魅力を生かす手段を考えた気配で、結果、のびのびとした哀愁が生まれた。

MC音楽センター

  
 「えっ、嘘だろ! これがそうなの? へえ、そんなのありかねえ」
 大阪・新歌舞伎座の楽屋通路で、突然、そんな会話が交わされた。若手役者たちが手にして、しげしげと見入っていたのは、かなり大きな餡パンで、ケータリングの机に沢山並ぶ。
 「平野文部科学大臣からです」
 添えられた但し書きに、みんなが「ン?」になった一幕――。
 早速試食!?する。ほどの良い甘さの餡、ふっくらとした食感のパンがなかなかで、一個食べれば相当に腹もちしそうなところが、腹っぺらしの若手向きに思える。
 《そうか、あれが縁になっての差し入れか!》
 僕は楽屋で合点する。7月、上演中だったのは川中美幸の「天空の夢・長崎お慶物語」、昨年11月の明治座公演で、文化庁芸術祭の大衆芸能部門大賞を受賞した演目だ。文化庁は文部科学省の関連組織だし、平野博文大臣と川中は同じ大阪出身で以前、ゴルフをやったことがあるとも聞いた。
 「何にしろ、オカミが商業演劇に関心を持つのは、いいことですわな」
 僕が冗談めかすのへ、
 「こんな時期だから、ことさらにね」
 相部屋の江口直彌が真顔で相づちを打つ。東西で大劇場の撤退が相次ぎ、俳優たちの仕事がどんどん減っている。新歌舞伎座も天王寺・上本町へ引っ越して2年、ミナミに威容を誇ったもとの新歌舞伎座は、ブライダル業者が買い取って、外観はあのまま使いそうだと噂されている。江口は松竹新喜劇所属のベテラン。僕は今回が初対面だが、着物の着付けやあしらい方、所作のあれこれなどいろいろと教えてもらった。
 商業演劇は、ジャニーズ系など一部を除いて、ずっと右肩下がり。劇場も作、演出家も、主演スター以下の俳優陣も、誰も儲かっていない構造的不況の中にいると言う。バイプレーヤー陣は老いも若きも、芝居の仕事がない時はアルバイトで生活を支え、それが当たり前になっている。文化もいろいろあるが大衆的演劇も含めて、国がそこそこの支援をして、振興を図るのが先進国のありよう。ところが日本は、どこぞの市長がその典型だが、財政建て直しをお題目に、なけなしの助成金を削りまくるばかりだ。
 それでもみんなが頑張るのは、見果てぬ夢を追いながら、困窮生活が常態化、諦め気分が先に立つせい。そこへ突然「大臣の餡パン」である。権力におもねる気など毛頭ないが、決して悪い気はしない。オカミの目がこちらへ向いたか…と、ワラをもつかむ気持ちが刺激されているのだ。
 《そう言えば…》
 と、思い出したことがある。平野大臣が以前出版した「日本再生への緊急提言・平成ニューディール」という本の「はじめに」の書き出しだが、
 「くもりガラスを手で拭いて、あなた明日が見えますか。つくしてもつくしても、春はいつ来るのか…。人々は今、そんな気持ちの日々を送っている」
 とあった。ご存知「さざんかの宿」の歌い出しのフレーズである。作詞した吉岡治もびっくりしたろうが、政治家が政策論をぶち上げるマクラに流行歌である。読者を引き込むためのテクニックか、もともと演歌・歌謡曲にも関心を持って来た蓄積が、ひょいと顔を出してのことか?
 最近、ジャスラックの都倉俊一会長らと話し合いを持ったとも聞く。文化振興、グローバル時代の音楽の傾向や対策、著作権関連の諸問題、とりわけ〝戦時加算〟についてなど、国政のテーブルに乗せるべきテーマは山ほどある時期である。政情も世情も混とんとして、みんなの不安ばかりが揺れる近ごろだが、それやこれやに流されずに、やるべきことはきちんとやって積み重ねていくことも大事だろう。
 猛暑の中の「餡パンからさざんかの宿」までの小噺の一席。誤解を生じないために書けば僕も現政権の右往左往にうんざりしていて、応援している訳では決してない。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ126回

 作曲家の岡千秋が、石川さゆりの歌を聞いて泣いた。6月9日夜、場所は瀬戸内海の小豆島である。この日、島の土庄港の船着き場に、作詞家吉岡治の顕彰碑が建立され、除幕式が行われた。その祝賀の宴で、さゆりが歌ったのは『波止場しぐれ』で、詞が吉岡、曲が岡の作品だった。

 この曲がヒットしたのは昭和60年、その後吉岡はここで平成5年から5年間、新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を主宰した。いずれも島の青年たちの懇請に応えたもので、小豆島の名を全国にアピールした。顕彰碑にはかつての若者たちが、感謝の思いを後世に伝えたい一心で作った背景がある。

 島の人々の熱意と情の詩人の絆が、長い年月の後に型になった。「情」も「絆」も近ごろは、手垢がつくほど使い古された言葉だが、この島にはそれが、字義どおりのぬくもりで維持されていた。だからさゆりの歌には、切ないくらいの思いがこめられて、それが岡の心を大きくゆすぶった。

 岡は小豆島からも見える鴻島で生まれ育った。幼時期の彼は、農作業に出る母親に背負われ、畑仕事の間はこぶりの木にくくられて遊んだと言う。そのころに見た夕陽の赤と、帰路に母の背から仰いだ夕月の青が、記憶にしみついている。彼はさゆりのレッスンのために、ピアノを弾いた時期も持つ。往時のそれやこれやも、彼の胸を熱くしたのだろう。

 演歌ルネッサンス出身の歌手を代表して、岩本公水は『花筏』を歌った。事情があって2年半歌を休んだあと、復帰第1作に吉岡から貰った作品である。島へ来るのがもう17回めと言う彼女には、第二の故郷で歌う思い出の曲になった。何百回となく歌い慣れた作品でも、その場その時の状況で、歌手たちの思いは深まり、情感に濃淡が生まれるものだ。

 「歌も歌手も、不思議な生き物だよな」

 同席した作詞家もず唱平と僕は、うなずき合う。吉岡と長い親交があり、もちろん演歌ルネッサンスも一緒に手伝った。そろそろ円熟…の75才で逝った吉岡を見送り、その3回忌の初夏である。僕が書いた詩人の仕事とひととなり、島人との交友についての800字は、顕彰碑の左隣りの石に刻まれた。

 除幕式と祝宴には、吉岡家の人々が勢揃いした。久江夫人に長女あすかさん、その娘で吉岡が愛してやまなかった孫のあまなさん、長男の天平氏とその妻真弓さんの5人である。天平氏は映像関係の会社をやっていて、顕彰碑のデザインも彼がした。島のゆったり流れる時間と、せわしない東京の間にはさまって、作業は難渋した。

 顕彰碑のそばには、27年前『波止場しぐれ』の時に吉岡や岡が植えたオリーブの樹が、びっくりするくらい大きく育っていた。それを見上げながら、あまなさんが小さなオリーブの木を記念に植樹した。

 「27年後には、あまなさんもこの木も、あんなふうに大きくなっているんだね」

 上きげんの岡田好平土庄町長に言われて、本人は眼をくるくるさせた。彼女は高校2年生の16才。この日は土曜で、学校は休みだった。

月刊ソングブック

  
 川中美幸が「ありがとう」を繰り返す。佐賀・嬉野の茶畑が舞台。相手は茶を栽培する農民の世話役や組頭、それに女優陣総出の茶摘み娘たちだ。その一人々々に頭を下げ、手を合わせ、川中扮する大浦屋お慶は「ありがとう」を連呼する。日によって15回から18回、劇場が熱い思いで満たされる。7月新歌舞伎座公演「天空の夢・長崎お慶物語」(古田求脚本、華家三九郎演出)の第一幕の大詰めだ。
 安政3年、油商の老舗大浦屋の一人娘お慶は幕末の長崎で、日本茶を新商品に、出島の外国人相手の輸出業に転じようとする。激動の時代に、男尊女卑の旧弊、同業者の執拗な妨害などと戦いながら、新しい時代の新しい生き方を模索する彼女。しかし、農民たちはその商法を無謀ととらえ懐疑的になる。押し問答の末に彼らの心を動かすのは、茶の仲買人徳蔵(田村亮)との信頼関係で、それがお慶の大勝負の成功への糸口となる。川中が「ありがとう」を叫ぶには、そんないきがかりがあった。
 大浦屋お慶は初の女性実業家として名を成し、幕末の志士たちを支援したと言われる実在の人物。それを主人公にしたこの芝居は、一途な夢追い、そのための挑戦、情熱と勇気と信頼、女性の自立、人の和と感謝の大切さなどを訴える。明るくひたむきな主人公が川中にぴったりの当たり狂言。昨年11月明治座公演で文化庁芸術祭大衆芸能部門の大賞を受賞して、故郷大阪でやるいわば凱旋公演だ。
 「統領!あんたの芝居狂いも、これがピークだね」
 昨年3月の初演から、僕は歌社会のお仲間にそう言われ続けるいい役といい場面を貰っている。豪商小曽根六左衛門役に扮し、金策に来た旧知のお慶の商売の甘さを叱り、諭す長ゼリフがある。それも川中と二人きり、差しの芝居で、そのためだけの舞台装置まで用意されている一幕第4場。非を悟り号泣するお慶が、翻然立ち直って冒頭に書いた景につながる。僕は楽屋へ戻りながら、まだ小曽根のおじさんから降りきれずに、川中の「ありがとう」の回数に指を折ったりすることになる。
 《ありがたいことだ…》
 僕は日々、浮き浮きの大阪暮らしである。楽屋廊下のすれ違いで投げかけられる田村の微笑、何くれとなくいたわり励まされる土田早苗、紫とも、奈良富士子、石本興司、西川忠司、瀬田吉史らのひと言、ふた言。今公演で初めて一緒になった芦屋小雁、楽屋が相部屋の江口直彌の人あたりの良さ。東京からずっと一緒の大森うたえもん、綿引大介、小坂正道、倉田英二、中嶋秀敏らとの〝ちょっと一杯〟には、6年のつき合いでもはや弟分の小森薫もいて、それに顔なじみの深谷絵美、青山りえ、倉田みゆき、穐吉美羽…と、座長川中が作り出した人の和の中にすっぽりだ。
 「ありがとう」の思いは川中の場合、心からのものと受け取れる。「遣らずの雨」をシャンソンふうアレンジにしたり、「白梅抄」を踊り演じ、新曲の「花ぼうろ~霧氷の宿」と「うたびと」を強調する第二部のショーにも、そんな気配が濃い。軽妙なトークは大阪弁のていねい語が一転下世話にくだけたりして、客席は笑いが絶えない。
 「子供のころから人を楽しませて、楽しんでいる人たちを見るのがとても楽しかった」
 という素地が、川中を名乗って36年のキャリアで磨かれ、ふくらんで、彼女のキャラとなり、芸にもなっている。その根底にあるのは人と時とのめぐり合わせへの感謝の念なのだろう。一座に加わって6年めになるが、公私ともに彼女が不機嫌になる場面を、僕はまだ一度も見ていない。苦労人の極とも言えるだろうか。
 政情も世情も混迷と不安が長く続き、天候まできわめて不順な日々で、人心はささくれがちだが、それに溺れたり、流されたりする愚に、人々は気づきはじめている。東日本大震災が残したものと放射能の恐怖をかかえて、復旧復興は各人の共助、共生からはじめるしかない思いが深まっている。そんな時流の中でやっと見直されているのが「ありがとうの精神」だとしたら、今回の公演は実に、時宜にかなったものなのかも知れない。

週刊ミュージック・リポート

意表の衝き方も船村流か

 船村徹・北島三郎師弟の、久々の顔合わせ。それも北島のこの道五〇年作品...と来れば、出来上がりを待つこちらも、知らず知らずに相当に力が入っていた。そこへひょこっと、四行詞もの『職人』である。師弟名勝負ふうな大作を期待した当方は、あっさりはぐらかされた気分になる。しかし...。
 四行詞作品は、流行歌の原点であり、原型である。「そこのところをな。もう一度な...」とニヤリとする船村の顔が見えるような気もした。四行の詞にこれだけ彼流のメロディー、一見地味だが〝匠の技〟であることにも気がついた。

人生ふたり咲き

人生ふたり咲き

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡 ゆう子

 歌手にぴったりと「はまる」作品が生まれることがある。訴求力なかなかに、まっすぐ聞く側に届く仕上がり。「ほほう!」と目を細めて、さて、作品のどこがはまりの要素なのか考える。
 この作品の詞は仁井谷俊也、目新しさこそないが、歌い出し二行で決めにかかるなど、歯切れがいい。それに岡千秋がアクが強めのメロをつけ、ズンズンズン...と、以後の展開もいかにも岡らしい。そんなせり上がり方に、歌う岡の感情移入が、ごく自然に重なった。ベテランの歌にある生活感まで生きて、二人の岡のメリハリの波長が合った。

迷い月

迷い月

作詞:麻こよみ
作曲:田久保真見
唄:四方章人

 美声を持つ歌手は、どうしても声に頼りがちになる。それはそうだろう。自他ともに許す魅力ならば、それを売りにしたくなるのも無理はない。
 そんな〝二枚目ボイス〟に、田久保真見が男の自問自答の詞を書いた。逢おうか、やめようか、別れることが優しさなのか、離さないのはわがままなのか...。情感、内向きになるのに、四方章人の曲は彼らしく穏やか。歌うよりは語るべき作品になって、藤原の声の誇示は八分目に止まった。美声も結局は、歌を伝える道具の一つと気がついてのことか?

瀬戸内しぐれ

瀬戸内しぐれ

作詞:たきのえいじ
作曲:水森英夫
唄:西方裕之

 西方の「歌のタッチ」が変わった。歌い出しから手触りがソフトだ。この部分、声を響かせて歌い回したら、おそらく歌は重いものになる。それを避けておいてサビあたり、決めるところは決める一点集中作戦。西方のキャリアを生かして、歌の奥行きの作り方だろうか?

霧雨情話

霧雨情話

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:松原のぶえ

 海峡シリーズの三作め。松原は全体を、線が細めの歌に仕上げた。ファルセットで聞かせ、そのあとさきの中、低音も太めに響かせぬバランスの取り方。歌のヒロインの姿形をそういうふうに聞かせたかったのか。竜崎孝路の編曲は、音でドラマの額縁を作った。

たんぽぽの花

たんぽぽの花

作詞:たかたかし
作曲:市川昭介
唄:都はるみ

 今年七回忌の市川昭介の遺作に、たかたかしが詞をつけた。市井の二人のささやかな幸せを、たんぽぽに託した相惚れソング。はるみ唱法に合わせてのたんぽぽか、花が花だけに唱法がそうなるのか、思いをすぼめ、声をしぼり、息づかいで聞かせる歌になった。

俺の夕焼け

俺の夕焼け

作詞:石森ひろゆき
作曲:大谷明裕
唄:小金沢昇司

 団塊世代の鬱屈や悔恨の、背中を叩き励ます歌。小金沢が胸中に残る夕焼けの色を歌う。石森ひろゆきの長めの詞に、大谷明裕が緊張途切れぬ曲をつけた。吉田拓郎やアリスのころを連想させるタイプの作品。そう言やあれは、団塊世代の青春ソングだった...。

江差情歌

江差情歌

作詞:つつみりゅうじ
作曲:弦哲也
唄:音羽しのぶ

 冬の漁師町の舟唄である。音羽のくぐもりがちな声が、時化る海や凍れる人々の思いを語る。それがそのままでは暗過ぎるのを、「ハア~」から一転、サビが春を待つ気分へ展開した。音羽の声味を二通りに使ってみせたのは、作曲・弦哲也の知恵だろうか。

赤坂レイニーブルー

赤坂レイニーブルー

作詞:田久保真見
作曲:樋口義高
唄:チャン・ウンスク

 初めての3コーラスソングだと言う。日本で一七年、ずっとトゥーハーフの作品を歌って来たということか。身上のハスキーボイスを三連のブルースで決める作品。田久保真見の詞、樋口義高の曲は、たたみ込む勢いよりは、肉感的にゆする感触を狙ったようだ。

女の階段

女の階段

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:小桜舞子

 岡千秋のメロディーは、幹が太い樹のようだ。ゴツゴツした手触りで、独特の訴求力を持つ。容姿もそうだが小桜の歌は、こじんまりと情の細やかさが身上。そんな二人の組み合わせは、岡の曲を小桜がよじのぼるように聞こえる。ミスマッチの面白さだろうか。

うちわ

うちわ

作詞:辻哲二
作曲:桧原さとし
唄:大石まどか

 死別した彼への思いを、夏の風景の中で語る女心ソング。小道具はうちわや打ち上げ花火だ。話し言葉の詞にたんたんとしたメロディーは、ひところのフォークソングふう。シンプルな水彩画みたいに仕立てるのが、大石の役割となった。彼女二一年めの挑戦である。

職人

職人

作詞:原文彦
作曲:船村徹
唄:北島三郎

 六月五日、デビューの日時に合わせた五〇周年記念ソング。師匠の船村徹が四行詞相手に、彼ならではの曲を書いた。起伏の幅大きめでたっぷりめの展開、さりげなく聞こえるが、これがなかなかのものを、北島は委細承知...の歌にした。軽めにこなして味で勝負だ。

楽園

楽園

作詞:田久保真見
作曲:若草恵
唄:瀬口侑希

 歌書きとしての若草恵は、いろんな夢を持ち、それを形にしようと、やや性急なところがある。歌謡曲を彼なりの音楽性で満たそうとする気配で、これもその一曲。歌う瀬口は、おとなの女の媚態まで垣間見せなければ...と、相当な踏んばり方を示した。

MC音楽センター

  
 「あんた、鼻が利くねえ、ええ勘しとるわ」
 居合わせた浪花のおばはんに褒められた。大阪・上本町6丁目界わい、飛び込んだ居酒屋〝久六〟のカウンターでのこと。見回せば地元の常連客ふうがズラリ。ビルの地下のこの店を、一見さんで選んだ当方の、年の功に感じ入ったらしいのだ。小芋やふき、たこの煮物、焼きなすにアジの南蛮漬、ポテトサラダなどの大皿が並び、親父が刺身や煮物、焼きもの、揚げものなどに腕を振るう。女将さんはおだやかに客をさばき、手伝いは二人の娘とおぼしき妙齢の美人。双方に少しずつ似ている。
 《うまくて安いのが当たり前ってか!》
 浪花おばはんの言い分に頷きながら、
 《7月はここに、ちょくちょく通いそうだ》
 が強めの予感。これもまた縁というものだろう。
 10日が初日で、僕は今年初めての舞台ぐらしに入る。新歌舞伎座の川中美幸公演「天空の夢・長崎お慶物語」(古田求作、華家三九郎演出)で、昨年3月と11月に明治座でやった芝居の再々演だ。3月は東日本大震災のあおりで休演続き。せっかく面白いものが出来たのだからと、11月に再演、これで川中が文化庁の芸術祭大衆演劇部門の大賞を受賞した。おめでたの勢いも加わっての今回…だ。
 「思い出しげいこ」ってのは、言葉の響きからして何となく小粋だ。すでに体験済みの演し物だから、往時を思い返しながらの立ちげいこ。けいこ場に入ると「やあやあ」「その節はどうも」と、役者衆の笑顔がてんから仲間うちふうになる。川中の相手役が前回の勝野洋から田村亮に戻った。3月に一緒だったのが、急拠再演の11月はスケジュールが合わず、少し残念だった分の「お帰りなさい!」は胸の裡だ。主だった二、三の役どころと若手が大分代わっているのは、関西勢に交代してのこと。それでもお互いが打ちとけるのに、さして日にちはかからない。
 これが川中一座の特色なのだが、けいこ場は笑いが絶えない親密な空気で、やるときはびしっとやる切り替えがなかなか。笑いの中心は大てい川中本人で、彼女の人柄と気遣いの細やかさが人の和を作る。そんな中で実はかなり、僕は意識過剰になっている。
 思い出しげいこの、思い出し方が曲者なのだ。11月分をなぞらずに、ああもしよう、こうもしたいの願望が千々に乱れる。空白の8カ月、折りにふれて考えていたことがグルグル回る。それなりの変化は? それなりの進歩は? と、ないものねだりが自分の中で空回りする。この道に入れてもらって6年目だが、それとても〝たかが…〟と〝されど…〟の狭間でフワフワするばかり。出来ることと出来ないことが画然としないままの日々は、じれったいったらありゃしない。
 葉山の留守宅との定時通信は午後11時30分前後。いつもながら迷惑かけっぱなしの、皆様からの留守電伝達は、時間的ズレが長めになり、急ぎのFAXは転送のため、文字が少々ぼやけて来る。そんな中に永井裕子の新曲「石見のおんな」の発表会が、8月現地で…などというのが混じっている。島根・石見銀山が世界遺産に登録されて5周年。地元の懇請で前作「石見路ひとり」に続いて二作目にトライした。喜多條忠、水森英夫、前田俊明の作詞、作曲、編曲トリオと取材に出かけて出来上がったものが7月発売になる。地元から「早く来い!」と言われたのに「7月は大阪だ!」などと胸を張って延ばした分だけ、僕は首をちぢめたりする。
 「○日に○人で行くぞ!」
 というのは、大阪まで見に来てくれる貴重な連絡。友だちというのは有難いものだとは思うが、それなりの店で盛大に一杯やろう!という注文の方が先に立つのがいつもの例だ。「よォしっ!」と当方も、妙なところに気合いが入る。「この仕事、3日やったらやめられない」という先人の言葉を、我田引水して実感する今日このごろだ。
 「知っていることと、出来ることは違う!」
 6年前にどこかで見つけた惹句を、改めて自分への戒めとしようか!

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ125回

 作詞家の田久保真見とは、一度だけ飲んだことがある。確かキム・ヨンジャの新曲発表会のあとで、田久保の詞に曲をつけた田尾将実が一緒だった。僕は彼女のあどけないくらいハイトーンの話し声と、グイグイいく飲みっぷりの良さに「いいぞ、いいぞ…」になって、少々深酒をした。

 場面が変わる。次の相手はあさみちゆきで、

 「相当な飲んべえだぜ、敵さんは。あんな顔して、あんな声して、な!」

 無遠慮に田久保の噂をしたら

 「そうです。そうです」

 といいノリで、顔をくしゃくしゃにして笑った。飾り気がないと書くと月なみだが、普段着の笑顔、すっぴんの気安さ…。

 ≪ふむ。この好感度がこの人の宝か≫

 と、合点がいった。

 定年おじさんのアイドルである。コンサート会場には、ベースボールキャップやハンチングなど、帽子をかぶった紳士がやたらに多い。あさみが井の頭公園で歌いはじめ、やがてそこの歌姫と呼ばれるまでの道のりで、“お仲間”として集めたファン。もっともおじさんたちは、自分が見つけ、その後を見守って来た娘か、孫みたいに思っているかも知れない。

 「手紙を届けるような気持ちで歌って欲しい」

 阿久悠が生前、彼女にそう言ったそうな。ヒット曲『青春のたまり場』をはじめ、アルバム一枚分の詞を渡した時のこと。この作品群がもしかすると、彼女の歌手としての立ち位置を決定的にしたかも知れない。歌に具体的な“場面”を設定、失った青春への回想、回帰をテーマにした。おそらくは団塊世代であろう“定年おじさん”たちの胸に、それがストレートに伝わる。

 ≪手紙ねぇ、阿久さんもうまいことを言ったものだ…≫

 僕は二つめの合点をする。そういう歌唱法には、余分な感情移入や、演歌的な技術は要らない。素直に率直に、思いを伝えようとする誠意が歌の芯になる。あさみはそれに似合いの声味を持っていた。彼女を見出し育てた松下章一プロデューサーの言う「温もり、哀愁、表情、いくつもの色…がにじむ声。」地味だが得難い魅力だ。

 高校時代に「NHKのど自慢」の山口県大和町大会で鐘を鳴らし、チャンピオン大会に出た。NAKの「日本アマチュア歌謡祭」にも出たが、どこからも声はかからなかった。高校を卒業、歌手になろうと上京する。盛り場のストリート・ミュージシャンたちを見て、彼女なりの“場”を探し、井の頭公園に決める。ラジカセのカラオケをバックに、歌ったのは『圭子の夢は夜ひらく』や『アカシアの雨が止む時』など。第一日の第一曲、ラジカセのスイッチを押す指が、ふるえて止まらなかった。しかしこの人は今日、そんな大胆な挑戦や負けん気の気配を、おくびにも出さない。

 新曲は『新橋二丁目七番地』で、デビュー曲以来の戦友と言う田久保が作詞、手塩にかけて来た杉本眞人が作曲した。靴磨きの主人公の平らな視線で歌うあさみ流応援歌。これもまたいいのよ!と悪ノリする僕は結局、ハンチングをかぶったおじさん群の一人に、取り込まれているのかも知れない。

月刊ソングブック

  
 そうか、浅草もいいな。仕事が済んだあと誰かと一緒なら、飯田屋のどじょう。群れをはぐれて一人なら、神谷バーって手もある。うまく行けば常連の深見さんと会えるかも知れない。スポニチ時代の先輩の懐旧談につきあうのも悪くはない…。
 ――と、まあ、そんな気分でふらりと葉山を出たのである。梅雨の合い間のうす曇り、湘南から浅草…の距離や時間もさして気にならない。6月21日、目指した先は昭和歌謡・コシダカシアター。これにもちょっとひっかかった。誰かに聞いた気がする会場名。浅草で「昭和歌謡」という組み合わせが、いかにもいかにもだ。不勉強で誠に申し訳ないが、イベントの主〝サエラ〟に関しては、完全に白紙だった。テイチクから来た案内状にある「50歳を越えてからのメジャーデビュー」「出身地津軽の方言」に「ん?」となった程度。
 少し遅れて会場入りしたら、サエラは「十三の砂山」を歌っていた。席に案内されながら、その歌声に
 「いい声だなあ。温かくて、響きに親しみやすさがある」
 などと反応する。
 「へえ、おばさん二人のユニットなんだ。ボーカルとピアノ。歌っているのが菊地由利子か。面長、色白、眼が少しはなれていて、大きめの口にアゴが長め。ショートヘアでトークは気さくな53才…」
 なんて、視線が品定めっぽくなるのは老年のいやらしさか。相棒の高橋朋子は57才で作、編曲と演奏を担当する。丸顔、髪はセミロングのふっくらタイプで、笑う眼尻が二人ともよく似ている。青森・五所川原のママさんコーラス出身…と、この辺はステージと宣材とを見較べながらの、情報インプットって奴だ。
 「ほほう!」
 になったのは、6月発売のシングル「セバマダノ~風の恋文~」を聞いてのこと。
 ♪ねえ、青い空ははてしない、そう風の森よ…
 と、歌い出しから歌声が確かに、風みたいに空へ突き抜けていく気配を作った。しっかりと腰を据え、芯を太めにした民謡寄りの発声が、まるで民謡っぽくなどないメロディーを辿っていく。菊地の声味に、クラシック系の高橋の作曲を組み合わせて、清潔さと成熟のほど良い混合、言ってみればこれは〝津軽産直歌曲〟って趣き。
 《うん、ここでも田久保真見か。彼女らしいいい仕事をしてるな…》
 という感想は胸の裡になる。
 ♪ひらひらと手を振った、微笑みはとめどない涙のかわり…
 というフレーズに、
 ♪さよならは哀しみを、おもいでにかえる、やさしい言の葉…
 なんてフレーズを重ね合わせて、女性の失意に透明感を与えた筆致がみずみずしい。
 タイトルの「セバマダノ」は津軽弁で「じゃあまたね」の意だそうな。「セバ」が「それじゃ」で「マダノ」が「またね」だという津軽弁講座もあった。8曲ほど歌ったライブショー形式、菊地のMCが6カ所はさまったが、これもなかなかのもの。自分たちの生い立ちから、今回のメジャー展開までや、作品の狙いと成り立ち、出演中のテレビやラジオでの反響、今後の演奏活動のコンセプトやスケジュールなど、1カ所のダフリもなく整然と、その割に普段着口調、ユーモアもまじえた親しみやすさでやってのけたものだ。
 デュオを結成して19年、歌謡曲、童謡、民謡など、日本の〝いい歌〟をはじから歌って来た。ジャンルにこだわらないのがこだわりという姿勢を、
 「二人とも、そういういい歌が沢山あった時代に育ったせいだと思う」
 と、あっさり言うから、こちらは
 「ふむ」
 になる。ジャンルが細分化して歌のそれぞれが、やせて来ている今日だからこそ、彼女たちの出番が来たと言うべきなのか。
 よくあるこの種コンベンションは、主人公が新人で、以後ああもしたい、こうもしては…の欲が残るが、サエラの場合はすでに完成品の強味があった。
 《何事にもよらず、予断予測は禁物だよな》
 雑文屋の心得を改めて突きつけられた心地で、帰途神谷バーへ寄った。あいにく深見先輩の姿はなかった。

週刊ミュージック・リポート
昨年3月と11月に東京明治座で上演されたお芝居、川中美幸公演「天空の夢~長崎お慶物語~」の再演です。本作品は昨年、第66回文化庁芸術祭・大衆芸能部門大賞を受賞しました。 はまり役と好評の「小曽根六左衛門」役に気分も新たに取り組みたいとはりきっています。   川中美幸公演「天空の夢~長崎お慶物語~」  

  
 船村徹の涙を見た。眼鏡をずらして、彼はナプキンでそれを拭った。6月12日夕、新高輪プリンスホテルの飛天で開かれた「歌供養」のあとの懇親パーティーの席で、映像と歌で偲んだ髙野公男と星野哲郎のシーン。主賓の席で二度、船村は周囲の視線をはばかる様子もなかった。僕はその隣りの席で、出会うチャンスもなかった髙野と、長い知遇を得た星野を思い返し、80才、傘寿の船村の孤独を思った。
 「俺は茨城弁の詞を書く。君は栃木弁の曲を書け。やがて地方の時代が来るし、それが俺たちの、この世界の突破口になる」
 無名の歌書き同志だった時代、茨城出身の髙野が栃木の船村をそう励ましたそうな。この夜、パーティー会場に流れた船村の歌声が、その結果をまざまざと見せつけた。「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「男の友情」…。コンビがブレークした「別れの一本杉」は、船村の弟子の静太郎、天草二郎、走裕介が生で斉唱した。船村23才、髙野26才、この歌がヒットして間もない昭和31年に髙野は逝く。船村は今もその心のつながりを「髙野と一緒に生きている」と明言する。
 昭和20年代、古賀政男、万城目正、服部良一らをはじめとする作曲勢、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらの作詞家が権勢を誇っていた。そこへ切り込む二人は異端の発想から出発した。流行歌おなじみの世界へ、独特の切り口と表現で作るオリジナリティ、当時「別れの一本杉」は
 「座敷へ土足であがるようなもの」
 と酷評されたが、大衆はその斬新さを支持した。
 映像で船村と星野が並ぶ。星野の作詞家50周年を祝って、彼の故郷・山口県周防大島で開いた「えん歌蚤の市」の一シーンだ。船村が弾き語りで「おんなの宿」の一、二番を歌い、肯されて星野が三番を歌う。頬をひくつかせ、歌詞カードを手にしながら、星野が歌詞を間違え、船村に指摘される。島でもそうだったが、この夜の客も大いに笑った。 昭和32年、髙野と入れ替わるみたいに、船村が星野を発掘した。美空ひばりが歌う横浜開港100年記念の歌詞募集で、星野は応募者、船村は選考者だった。その出会い以後、二人が数えきれぬほどのヒット曲を書いたのはご存知のとおり。この夜は北島三郎と美空ひばりが映像で「風雪ながれ旅」「みだれ髪」鳥羽一郎が生で「兄弟船」を歌った。
 「耳ざわりのいい言葉を並べて形を整えても、そんな詞は聴き手の胸に届かないよ。行間に書いた人間の生きざまがにじんでいなくちゃねェ」
 星野はよくそんな話をした。僕は雑文書きだが、その教えを長く胸に刻んでいる。
 髙野と一緒に、異端児として歌社会に突入した船村は、星野との友情を支えの一つに、やがて歌謡界の王道をきわめた。その髙野は没後56年、友情の証の歌供養は28回を数え、星野もすでに亡く、歌書きの好敵手とした美空ひばりはもう、昨年23回忌の法要をすませたところだ。しかし船村は今も、精力的に歌を書き、歌を歌っている。北島は彼を
 「お師匠さんは、永遠の旅人なんだよな」
 と言うが、この老大家の胸深くには、希代の詩人と歌手を失った孤独の穴が埋まらぬままなのだろう。この夜、会場で流した彼の涙と、そんな歌書きの真情を、居合わせた作詞、作曲家たちはどう見たことだろう?
 前々日までの6月9、10日、僕は小豆島に居た。島の人々が建てた吉岡治の顕彰碑の除幕式に参加しての旅である。吉岡は島の人々の懇請に応じて、石川さゆりの「波止場しぐれ」を書き、新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を5年間主宰した。その後12年、少し年老いた当時の青年たちが、感謝の思いを後世に伝える顕彰碑にした。情の詩人と島人の絆が、いい雰囲気で型になっていた。
 そう言えば…と思い出す。「えん歌蚤の市」が星野の周防大島で「演歌ルネッサンス」が小豆島なら、阿久悠の故郷淡路島でも何かやろう。演歌瀬戸内海サミットだと企んだことがある。ついにそんな夢は実現しないまま、阿久は来年7回忌、吉岡と星野は今年3回忌の夏と秋を迎える。

週刊ミュージック・リポート

その人〝ならでは〟を聞きたい!

 歌、詞、曲、編曲それぞれに〝その人らしさ〟を聞く。一歩進んでその人〝ならでは〟の特色があれば「ふむふむ」と合点する。たまに意表を衝かれる作品がある。手応えたしかなら「いいぞ、いいぞ!」と拍手をし、時代の匂いを感じたりすればもう「最高!」と大喜びだ。題材はみな男と女のお話で、大筋は決まっているから、切り口や表現での腕比べ。「神は細部に宿る」ことになろうか。僕はいつもそんな共感を求めて、流行歌を聞いている。

女のうなじ

女のうなじ

作詞:田久保真見
作曲:岡千秋
唄:角川 博

 ♪逢えない夜はじぶんを抱いて...というフレーズで始まる二番の歌詞に、主人公のたたずまいが見える。女の孤独感がきれいな絵になっていて「ふむふむ」だ。それが三番で、♪哀しみさえも幸せだから...と言い切る。女性だからこそ思い至る表現だろうか。
 作詞・田久保真見。独特の感性をずっと追跡している相手だ。ポップス系の長めの詞に、その特色が生きていたが、五行詞の演歌もそこそこいけると判った。うなじに託した女心の妙に、岡千秋があけっぴろげな曲をつけた。角川の歌がのめり込まずにすんだ。

倖せの花

倖せの花

作詞:麻こよみ
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可

 「泣いた過去」を「いろいろあります ありました」と女主人公が独白する。それでも夢だけは失くさずに来て今日がある。タイトルにもなった「倖せの花」は、この手で、信じて、明日に咲かせる...と、各コーラスの末尾で決意表明だ。
 麻こよみが書いた主人公は、自力本願。がんばっていればきっと、いいことがある...と近ごろあちこちで言い交わされる考え方が軸。だからだろうか、伊藤雪彦は明るく、気分よさそうな曲をつけて応じた。三代はそれを、まるで自分のことのように、つつましげに歌った。

雨の熱海

雨の熱海

作詞:建石一
作曲:弦哲也
唄:島津悦子

 来るか、まだか...と、宿と駅を行き来する女の待ちぼうけソング。今時、高校生のデートじゃあるまいし...などと、憎まれ口を叩きたくなるが、建石一はそんな女心の純真さを書きたかったのだろう。島津の歌は少々控えめに、かわいいタイプの女を作ろうとしている。

五十鈴川

五十鈴川

作詞:麻こよみ
作曲:叶弦大
唄:竹川美子

 この川は伊勢神宮内を流れ、伊勢湾に注ぐそうな。そんな姿に幸せ薄い女の祈りを重ねようとしたのが麻こよみの詞。すがるタイプの女性像を歌う竹川の歌には、どこかに〝あやうさ〟がついて回る。声の張り方、節の回し方のおずおず...だが、それが作品に似合った。

裏町酒

裏町酒

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:秋岡秀治

 作曲家がデモテープを歌う。歌巧者だったり個性派だったりすると、歌い手にそれが影響する。秋岡はそこのところを意識したのかどうか。歌の押し方、攻め方に何個所か、岡千秋流のアクの強さを残した。それが彼の歌にポイントを作り、全体に訴求力を強めた。

陽だまりの花

陽だまりの花

作詞:石原信一
作曲:弦哲也
唄:岩出和也

 別に北国・会津若松の出身だからではあるまいが、このところ石原信一が書く歌は〝ぬくもり〟をテーマにしたものが多い。この作品もそうで、「おまえがそばにいればいい」と、人肌の幸せを訴える。その歌にこのタイトルをつけた手際が「ふむふむ」である。

くれない酒場

くれない酒場

作詞:みやび恵
作曲:水森英夫
唄:黒川真一朗

 歌手の真骨頂は声そのもの...というのが、水森英夫の持論で、どうやらこれもそんな試みの一作。朗々と張った高音で、黒川の色をはっきりさせようとした気配がある。明るめ、のびのびの美声は、陰影が薄めになりがちだが、女性コーラスがアクセントをつけた。

おとこ星

おとこ星

作詞:麻こよみ
作曲:水森英夫
唄:和田青児

 高音をちゃんと張る。中、低音の部分は情感をゆすぶる。これも水森作品で、和田はしっかり歌うことに専念したが、それが女房子供を守り抜く市井の男の気概を歌う作品だけに、うまく生きた。惹句に〝ダイナミック〟が強調されているのは、そのせいだろう。

一本釣り

一本釣り

作詞:阿久悠
作曲:浜圭介
唄:島津亜矢

 切り口と、筆致や文体が独特だから、漁師の恋歌もガラッと変わる。阿久悠〝ならでは
の仕事だろう。四行三ブロックがワンコーラス。最初の二ブロックが抑えめの浜圭介の曲は、三ブロックめで一気に盛り上がる。亜矢の歌にムチが入る感触があって、愉快だ。

酒のやど

酒のやど

作詞:池田充男
作曲:森山慎也
唄:香西かおり

 平易な表現、独特の詩情、雪が舞う北国もの...と、池田充男〝ならでは〟の詞に、森山慎也の曲が寄り添っている。だから惹句は「歌いやすいメロディー、身近な歌詞...」と訴えるが、歌うには難しい作品。さらっと歌い切る香西には、二五周年の年の功がある。

夜明けのブルース

夜明けのブルース

作詞:レーモンド松屋
作曲:レーモンド松屋
唄:五木ひろし

 愛媛・松山在住のレーモンド松屋が作詞作曲したラテン調ムード歌謡。ステップ踏んで体をゆらして、気分よく歌えば最高!というタイプのはやり歌だ。ここのところのレパートリーづくり、作家の起用には、プロデューサーとしての五木の目配りが濃いめだ。

笑うは薬

笑うは薬

作詞:相田毅
作曲:堀内孝雄
唄:堀内孝雄

 短い余命の宣告、それを三年のばした奇跡、そして臨終...。そんな恋人に寄り添った青年は、その間何をし、事態をどう受け止めたのか? およそ流行歌向きではない物語を歌にして、堀内が語る。タイトルからは想像できない内容だが、身につまされて泣く人は多かろう。

MC音楽センター

  
 《変わらねえなあ、ちっとも…》
 と、正直そう思った。6月5日、50周年のパーティーをホテルオークラで開いた舟木一夫についてだ。ステージ上のたたずまいがそうで、はにかむ様子がその代表。50年の相当な曲折を越え、今では長期劇場公演でおなじみのひとかどの存在になっているのに、そんな気配も見せない。大物振りというのは、知らず知らずのうちに身についてしまうはずだし、この世界で50年、変わらないはずなどないのが、それを素振りにも見せない。
 「高校三年生」や「学園広場」を歌う時も、テレやてらいがない。両手をひらりひらりと動かすのは、舞台での仕草なのだろうが、歌はすうっと素直なものだ。50年も前のヒット曲なら、アレンジを変えて…とか、歌い回しを今日ふうに…などと細工したがるものだが、そうしないのがこの人の生き方なのだろう。昔々、芸能界で何事かあれば必ず使われたこのホテルの平安の間も久しぶりで、僕は一瞬、タイムスリップした。
 年齢は10才近く違うが、彼と僕は同期生である。アルバイトのボーヤから、内勤記者ぐらしを7年ほどして、僕がスポニチの取材部門に異動したのが昭和38年。詰め襟の学生服姿の彼と、あちこちのテレビ局で出っくわした。間もなく上野あたりを行く修学旅行のバスが「高校三年生」を大合唱するようになる。大人の娯楽専用だった流行歌が、十代の若者たちに解放された瞬間で、その流れは今日にいたっている。
 あのころ、舟木周辺に居た二代目コロムビア・ローズは、宗紀子の本名でロスで音楽活動をしている。ディレクターの栗山章はニューヨークで小説を書いているが、内容が相変わらず理屈っぽくて、読むのに一苦労する。そんな断片的な近況は知っているが、舟木とは心ならずも疎遠のままに過ぎた。いつ会ったのが最後かも思い出せない。こんな間合いのパーティーの客というのは気恥ずかしいものだ。「やあ、ご無沙汰!」となれなれしくはなれないし、もしそうして「え~と…」という顔をされたら、けっこう寂しい思いをする。
 300人前後というファンの席を、花道を行くようにすうっと、一定の歩調で舟木は歩いた。会場へごあいさつ…の段取りなのだが、おそらく50年ものの熟女たちに、媚びるでもなく見下ろすでもない視線が、淡々と自然。なるほどこういうふうに接して長いのだ…と合点した彼から、いきなり近づいて握手を求められた。ニコッとして
 「お忙しいところをどうも…」
 なんて言っている。アイドルになって間もなくのころ、
 「ビール、飲めるようになりました。コップに半分くらいですけど…」
 と、嬉しそうに報告された時と、同じ手のぬくもりに相当に驚いたものだ。
 翌6日、今度はホテルオータニで、似たように長いご無沙汰の相手に、
 「覚えてるか?」
 と、乱暴に聞く一幕が生まれた。亡くなった作曲家桜田誠一を送る会で、相手は二宮ゆき子。
 「覚えてるわよォ。全然変わらないじゃない!」
 四谷荒木町に店を出してずいぶん長いとは聞いていたが、その口調がベテラン・ママらしいから面白かった。この人もいわば同期、大月みやこと藤本三重子とキング三人娘でデビューした当時、どっちの楽屋に先に顔を出したかと、大月がうるさいのに閉口した覚えがある。「松の木小唄」が当たった二宮は新栄プロ所属で、僕が西川幸男社長(当時)の知遇を得ているのを知っての上のあてこすりである。大月はそのころキング芸能の所属で、担当マネジャーだった島津晃氏と僕は、最近花京院しのぶの歌づくりを一緒にやり、昨年彼の死を見送った。
 「いろいろあるねえ、長いことのうちには…」
 二宮、大月とうなづき合う傍で、ニコニコしていたのはバーニングの周防郁雄社長。彼は二宮のマネジャーだった時期があり、そう言えば近ごろ、あちこちの不祝儀で一緒になる花屋マル源の鈴木照義社長も、あのころの新栄育ちだ。
 この日は仲宗根美樹にも会って、彼女の母親の話もした。年寄りの繰り言じみて恐縮だが、久闊を叙するというのもこれで、なかなかにいいものではあるのだ。

週刊ミュージック・リポート

  
 何とも言いようのないほど、いい笑顔だった。5月22日午後、青山葬儀所で仰ぎ見た長良じゅんさんの遺影だが、その後何日経ってもあの『天衣無縫』ぶりが脳裏を離れない。74才で逝った芸能界の大物には、語弊のある四文字だろうが、半世紀を超えるこの世界での修羅場の、屈託のすべてを超越したものに見えた。
 《50才を過ぎたら男の顔は、それまでの生きざまが作るものだ》
 というが、僕はその典型を見た思いがした。心の開き方が半端じゃないのだ。
 初めて会ったのは45年前の昭和42年、水原弘が「君こそわが命」でカムバックした時で、兄事した名和治良プロデューサーの仕事だった。僕は水戸のキャバレーで水原の心底を見定め、惹句の「三千万円作戦」を作ってお先棒をかついだ。そこから長い親交を得た歌手水原、作曲者猪俣公章、作詞の川内康範、制作の名和ちゃん、宣伝の田村広治…と関係者を一人ずつ見送ったが、まさか長良氏と、ハワイで客死というこういう形で別れることになろうとは…。
 最後に会ったのは4月9日、相模カンツリー倶楽部の集英社コンペ。表彰式パーティーで、亡くなった音楽評論家神山亨也氏を、どう送ろうか相談した。話し中に彼にかかった電話は、安岡力也を送る会の件。きわめて情の濃い人らしい話の鉢合わせだ。業界の冠婚葬祭の手伝いが多い僕に、
 「あんたもタフだねえ。でも体に気をつけてな」
 その都度、ねぎらいやいたわりの声がかかった。目配り、気配り、助言、助力の人なのだ。その人望が、本葬5000人を超える会葬者を動かしたのだろう。
 『落葉は風を恨まない』
 勝新太郎が病院で、最後に長良氏に渡した色紙の文言だと聞いた。美空ひばりとの「ねえさん」「きょうだい」のやり取りは、何度も見聞きした。息子加藤和也・有香夫妻のよき相談相手で、昨年11月の東京ドーム・ひばり23回忌メモリアルコンサートは、長良氏とバーニングプロの周防郁雄氏、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏の助力なしには成立しなかったろう。
 さる有名作曲家が、僕に誹謗中傷されたと、長良氏に訴えたことがある。長良氏は言下に、
 「彼はそういう男じゃないよ」
 と答えたと、当の作曲家から聞いた。伊豆の宿で長良氏と別の作曲家が睨み合いになった夜は、分もわきまえずに僕が間に入った。岐阜で僕と建築会社の社長が言い合いになった時は、何とあの長良氏が「まあ、まあ」と止め役になった。
 山川豊の芸名は、同志であった同名のマネジャーのものがそのまま用いられた。御三家全盛時代に橋幸夫のマネージメントを献身的に展開した山川氏への思いがこめられており、山川のデビューにはバーニング周防氏とタッグを組む異例中の異例が実現した。氷川きよしのデビューは、Jポップ全盛に反撃する強い意思で敢行された。ロカビリー時代にあえて股旅もので挑戦、成功を収めた橋幸夫のケースが、意識にあったかも知れない。氷川の育て方には「男・美空ひばり」を狙う構想が垣間見えたようにも思う。
 「長良です。記事読みました。いつもありがとうね」
 3月上旬の深夜、僕は自宅留守電で長良氏の声を聞いた。2月25日、横浜アリーナで開かれた「長良グループ新春演歌まつり2012」を取り上げたこのコラム800回めについてだ。山川豊、氷川きよし、田川寿美、水森かおりに森川つくし、岩佐美咲、はやぶさと司会の西寄ひがしを加えた顔見世興行。客は団体バスで詰めかけ、1階正面にはおびただしい祝い花、CDやグッズの売り手の快活な声が響き、2階ロビーにはホットドッグ、いなりずし、ぶたまん、ラーメンに生ビールの売店までが並んで、老舗プロのイベントらしいお祭り気分があふれていた。
 戦後、混乱を極めた歌謡界を、体を張って生き抜いた長良氏ならではの恒例行事…と、僕は懐かしい気分も体験したものだ。そういう意味では長良氏の死は「最後の実力派興行師」のそれであったかも知れない。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ124回

 林あさ美が涙ぐんだ。渋谷・松涛の有線放送スタジオの午後。彼女と僕はその日、ゲストでやって来る日野美歌の『桜空』と『花吹雪』を聴いていた。

♪舞い上がれ花びらよ あなたに届く様に 悲しみはいつの日か 生きる勇気になるよ…

弦楽器が裾野を作り、時おりピアノが鮮やかにひるがえるオケをバックに、日野の歌声はひたひたと一途だ。

僕らは有線放送の「昭和チャンネル」で、懐かしい歌のあれこれを取り上げながら、おしゃべりをしている。僕が年齢もキャリアも長い分だけ、知ったかぶりを披瀝するのに、あさ美が面白がって相槌をうつ趣向。毎週月曜日に5時間近くぶっつづけという代物を、もう5年もやっているが、彼女が歌を聞いて泣いたのは初めてのことだ。

「お前も、純なところがあるなぁ…」

などと冷やかしているところへ日野が登場した。『桜空』は今年春前に発売したシングルで『花吹雪』は2年ほど前に出したものの好評カップリング。歌凛というペンネームで作詞・作曲をするシンガーソングライターだ。『氷雨』が大ヒット「紅白歌合戦」にも出たのが29年前で、今年はデビュー30周年に当たると言う。

≪演歌で当たったけど、もともとやりたかったのはJポップ系のこの路線で、そこへ戻っていたのか?≫

と思ったが、違った。

「だんだん仕事が減って、CDも出してもらえなくなった。あたふたしてたら9年くらい前に、作曲家の馬飼野康二先生に、詞を書いてみなよとすすめられて…。嫌だぁ、そんなの恥ずかしくて…って言ってたんだけど…」

どうやら“初志貫徹”ではなく“一念発起”の活路探しがきっかけだったらしい。

「美歌」は、親がつけてくれた本名。それが「花凛」を名乗り、個人事務所「桜カフェ」を起こし、インディーズ「Sakura Cafe Music」を拠点に活動。このたびめでたくコロムビアからメジャー再デビューの運びとなった。はたから見れば一度ドカンと売れた歌手が、忘れられた存在になっての試行錯誤である。ところが顔つきにも口ぶりにも、悪戦苦闘のかげりはない。

「なぜそんなに、桜にこだわるの?」

の問いに、答えは、

「生き方と重ね合わせるのかなぁ…」

「失った人への呼びかけは、東日本大震災も考え合わせてのもの?」

の問いに、

「だって、あのことがどうしても、心から離れなくなっていて…」

と、作為も便乗する気もなかった答えが戻った。

「美」「歌」「凛」「桜」…。本名に託された両親の夢を引き継いで、この人は世の中のきれいなもの、信じられるもの、貴いもの、潔よいものを語っていこうとするのかも知れない。

 「お邪魔しましたァ!」

歌よりは少し下世話な熟女ぶりで、日野はスタジオを一足先に出た。屈託のない明るさの、親密な空気が後に残った。

月刊ソングブック

 
 長嶺ヤス子に会った。とっさの思いつきで、
 「2曲くらい踊ってよ、5月19日、けやきホール…」
 と頼んだ。相手は名だたるフラメンコダンサーだが、このところ演歌を踊ることに熱中している。スペインで磨いた舞踊が、次第に日本的な精神と表現に回帰、得も言われぬ〝長嶺流〟に昇華していて、行きついたところが演歌の情念…。
 「いいわよ」
 と彼女が、あっさりOKしたのは、その催しが「吉岡治の世界」というトークショーだったせいだ。古賀ミュージアム講座「殿堂顕彰者の歌を歌い継ぐ」というシリーズの17回目。その講師とやらを頼まれた僕が「さて…」と、思案に暮れている時に会ったのが長嶺だった。
 幕開けにまず「飢餓海峡」を踊り、吉岡作品との出会いをひとくさり。あとは長いつき合いの新田晃也の歌で「さざんかの宿」「命くれない」「細雪」ほか、おしゃべりの相手は元コロムビアの境弘邦氏。「真っ赤な太陽」「大阪しぐれ」「波止場しぐれ」などはCDでかけて、大詰めはもう1曲、長嶺が「天城越え」を踊る…。
 吉岡の〝人と仕事〟を語ることについて、そこそこのネタは持っている。境氏との四方山話ふうに、面白おかしくは出来るだろう。それをどういう形に構成するか…で、ずっともやもやしていた。折にふれてあれこれ断続的に考えながら、答えが出ないケースは、気が重いものだ。それが長嶺との出会いで一気に晴れた。渡りに舟というか、時の氏神というか、人には会っておくものだし、つき合っておくものだと、改めて合点する。
 「演歌を踊る。これがなかなかに面白いのよ。あなたの曲もいくつか出て来るよ」
 と、ずいぶん以前に吉岡に話した。
 「へえ、見てみたいね」
 と軽い相づちが返って来たのが、長嶺が歌舞伎座で踊る会に、夫人同伴で現われた時は少々驚いた。終演後、行きつけの飲み屋で一杯やったが、吉岡は興奮の色を隠さなかった。「飢餓海峡」と「天城越え」が演目に入っていたように思うが、
 「自分の作品が歌手の声に乗るのは慣れっこだが、踊りで形になるのは初めての体験。とても刺激的だった」
 と、口調に力が入る。詩人の情念と踊り手の情念がスパークした瞬間だったろうか。
 あれからもう何年になるのだろう? 吉岡夫妻と長嶺は急速に親交を深め、いつのころからか、僕の知らない長嶺情報を吉岡夫人から聞くようになり、吉岡の没後もその関係は変わることがない。最近の石川さゆり明治座公演のロビーでも、長嶺の大きな帽子姿と夫人の歓談にでっくわしたりしたくらいだ。
 19日のけやきホールでは、新田に「大利根月夜」を1コーラス、リクエストしてある。吉岡が夜毎の酒で盛り上がると、大てい歌った替え歌である。
 ♪生まれ在所は長州江差、腕は自慢の演歌書き、何が不足で盛り場ぐらし、うちにゃ、女房子供が待つものを…
 テイチクの千賀泰洋に電話をして、そういう文句だったと確認もした。ステージでは、そんな歌をとっかかりに、新宿の夜の詩人の素顔を話すことになろうが、きっと吉岡夫人も現われるはず、悪乗りしての脱線は慎まなければなるまいと思ったりする。
 この原稿を書いている5月17日は吉岡の2回目の祥月命日である。もう3回忌の年だが、6月9日には小豆島で、吉岡の顕彰碑の除幕式があり、吉岡一家とまた一緒になる。町おこしのために…と、島の青年たちに飛び込みで頼まれて「波止場しぐれ」を書き、5年間、演歌系新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を主宰したのが、吉岡と小豆島の縁である。除幕式には岡千秋、もず唱平、石川さゆり、岩本公水らが参加する。人に会い、夢に添った吉岡の生き方が、今も島の人たちの胸を熱くしていると思うと、感慨もひとしおである。

週刊ミュージック・リポート

  
 「これで、最初で最後の親孝行が出来たような気がします」
 作曲家の蔦将包が例によって、あまり感情を現わさない表情であいさつをした。その割に声に、緊張と安堵の色がにじむ。居合わせた僕ら90人ほどは、大いに共感の拍手をした。4月27日金曜日の夜、八重洲口のヒットスタジオトウキョウで開かれた「船村徹・佳子結婚50年を祝う会」でのこと──。
 蔦とさゆり夫人、それに渚子さんと、3人の子たちが催した会である。案内状は3月についた。しかし、ただし書きが厄介で「両親には内緒で企画した会」とあり、その文言の前半が、ごていねいに赤い字で印刷されていた。当日までに口外禁止の〝しばり〟である。
 《気持ちは判るけど、さあてね…》
 僕は月に一度、日光市に作る船村徹記念館の地元との打ち合わせで、佳子夫人に会っているし、船村と会う機会も多い。第一、噂話大好きの歌社会の面々が、夫妻に気取られずにいられるものかどうか…。
 しかし当日は、みんなが浮き浮きとした顔つきで集まった。そっと聞いたら夫妻には、
 「家族と弟子たちで食事でも…」
 が口実だった。開宴の5時30分から夫妻の到着が30分近く遅れた。仲間たちバンドの演奏も、譜面が足りなくなる気配。
 「きっと誰かがしゃべったに違いない…」
 「怒って途中から帰っちゃったんじゃないの」
 僕らが野次馬になりかかったころ、めでたく主賓の登場である。派手な歓迎の音楽、参会者のスタンディング・オベーション! シャイな大作曲家が、得も言われぬ表情で、ステージ中央に立つ。
 「何なのこれは?」
 と夫人は面くらっている。司会の荒木おさむが、恐縮ぎみに趣旨説明をすると、船村の顔がテレ笑いに崩れて、どうやら息子たちのプレゼント金婚式のお祝いは大成功の波に乗った。
 弟子筆頭の北島三郎があいさつをする。ケーキカットなどがあって弟子若手の静太郎や天草二郎が歌い、今年還暦の鳥羽に〝おめでとう〟が飛び出し、彼の長男と次男が「兄弟船」を歌う。陽気でくつろいだ宴になったが当の船村の発言は、
 「もういいよ!」
 の一言だった。
 「いい会でしたね。こんなの初めてだけど、先生もお喜びでしょう」
 感に耐えぬ感想をもらしたエイベックスの飯田久彦顧問と僕は、翌々日の日曜日、茨城・日立行きの特急に乗った。吉田正音楽記念館が8周年を迎え、名誉館長が亡くなった喜代子夫人から橋幸夫にバトンタッチされた。それを記念したコンサートが開かれて、集まったのは橋に三田明、古都清乃、久保浩、鶴田さやか…。吉田夫妻の墓参をすませて、僕らは久しぶりに懐かしの吉田メロディーを堪能した。
 船村にしろ吉田にしろ、昭和を代表する作家たちには、大勢の家の子郎党がいる。その末席に加わる光栄に浴した飯田氏と僕は、
 「教えられた大切なものを、仲間たちに伝えていかなければなあ」
 「それにはまず作品だね。若い人たちと話し合って、後世に残る歌づくりの手伝いをぜひ…」
 と、帰路の車中でしばし、しみじみとしたものである。
 「70才で一応、踏ん切りをつけるつもり」
 と、よく口にしていた飯田氏は、有言実行でエイベックスの役員から退いた。とは言え歌社会を離れるはずもなく、日夜、いい歌を残し、いい歌を作るための伝承者ふうな役柄に没頭しているように見える。
 《ようし、それならば…》
 と僕は、5月9日に、彼と一杯やる会をでっち上げた。彼が歌手から制作者に転じたころからの、長いつき合いがある。長いことご苦労さん…と、遅めの古稀のお祝いのつもり。絶対に固辞することは判り切っていたので、僕が勝手に共通の友人を呼んだ20人ほどの催し。それとは知らずに現われた彼の閉口ぶりったらなかった。みんなで拍手をした。それにしても、主人公に内緒の「サプライズ」ってやつは、ずいぶんと気骨の折れるものである。

週刊ミュージック・リポート

  
 「元気をもらった」とか「勇気をもらった」とかの発言をしょっ中聞く。最初は《そんな表現もあるか》と耳新しさを感じたが、それが常套句になり、手垢がついて来た昨今では、気分が少々すべる。「元気」や「勇気」や「やる気」というものは、他人とやりとりする代物ではないせいだ。
 3・11以後、それに加えて「元気を与えたい」とか「感動を与えたい」とかが、常套句になった。こちらには大いにひっかかる。「与える」には見下ろし視線のニュアンスがあるせいで、これは「届けたい」が正解だろう。そんな謙虚さは不要と思われているのではなかろうが、不用意、無神経の結果だと寂しい。そんな僕が年寄りの繰り言を反芻したのは、4月23日夜の渋谷公会堂、あさみちゆきのコンサートを見ながらのこと。
 ステージ上のあさみと、客席の紳士たちとの心の通わせ方が、実に独特で緊密なのだ。それは彼女が井の頭公園で歌いはじめた時、それを取り囲んだ人々との交流が、長い年月、ふくらみながら、きちんと維持されているせいではないか。きっと「元気」や「勇気」や「やる気」のやり取りがあったはずなのだが、双方それを口にしない。元来、相手から刺激を受け「ようし!」とその気になった思いは胸の裡、言わず語らずというのが、おとなの対応だろう。
 ふだん着のつき合いの程のよさがある。もともとあさみは、絶世の…がつくほどの美女ではないし、ふるいつきたくなるグラマーでもない。他を圧する美声の持ち主でもないし、びっくりするような歌唱技術を持つ人でもない。それでも井の頭紳士たちが熱くなるのは、そんな〝ふつうの娘〟(に見える)が、一生懸命、誠意に満ちて歌う〝いじらしさ〟や〝いとおしさ〟がたまらないのだろう。
 この人の美点は、温かく、時に愁いをにじませて、歌の心を率直に伝えることが出来ること。彼女のために「青春のたまり場」や「聖橋で」など、アルバム一枚分を書いた阿久悠が生前、
 「手紙を届けるように歌って欲しい」
 と言ったそうな。うまいことを言ったものだと、今更ながら感じ入るが、それが出来ることが彼女の資質と独自性であることを、彼は見抜いていたのだろう。
 刺激的なものごとがもてはやされる昨今では、彼女のそういう魅力は目立ちにくい。そこで制作陣が彼女のもう一つの武器にしたのが言葉、作品力だろう。デビュー当初の「紙ふうせん」や「井の頭線」新曲の「新橋二丁目七番地」などを書いた田久保真見、前出の阿久悠、「砂漠の子守唄」や「港のカラス」の高田ひろお「鮨屋で」の井上千穂らの詞が、ユニークな設定や表現で、あさみの声が伝えるかっこうの〝文面〟を作っている。
 歌手生活10年を記念、デビューと同じ月と日に開いた彼女のコンサートは、詞を軸にした構成で、そんな彼女の特異性や育ち方をはっきりさせた。会場からはしばしば濁声が飛んだが、内容は思い思いの賛辞や感想などで、演歌歌手相手の掛け声とは趣きを異にした。ジーンズにシャツブラウスの、いつものいでたちから、二部の頭で裾長のドレスに変わった彼女に、紳士たちは一瞬息をのみ、その中の一人が、
 「裾を踏むなよ」
 と声をかける。本人が
 「気をつけます」
 と応じるといったあんばいだ。
 ファンの大多数が〝定年おじさん〟に見える。多くがベースボールキャップをかぶり、あさみに促されれば歌声に合わせて、うれしそうに手を振るのが、まるで林が揺れるよう。歌の内容の多くが、失ったものへの回想や悔恨、哀愁、失いつつあるものの予感を漂わせるのも、紳士たちの琴線に触れるのかも知れない。
 改めて思うのだが「元気」「勇気」「やる気」などは個人的な自助努力のキイワードで、それぞれが心のバネにするもの。それが言葉のキャッチボールのネタになると、軽くなり安直すぎて嘘っぽさに閉口するのだ。

週刊ミュージック・リポート

今月は弦哲也大会の感あり

 先月の南郷達也に続いてまた、本人に「たまたまですよ」と言われそうだが、今月は弦哲也作品が五曲登場した。十三曲中五曲だからめでたい繁昌ぶりと言わねばなるまい。
 石本美由起、なかにし礼、小椋佳、鈴木紀代、伊藤薫...と、相手役の作詞家が多彩である。個性的なベテランまじりだから、弦の曲も色とりどりで、そのうえみな、彼流だ。風が吹く、縁が広がる...の結果だろうが、それを呼び込むのは、彼の仕事の長年の成果と人柄だろう。

情け川

情け川

作詞:石本美由起
作曲:弦哲也
唄:中村美律子

 さすがに老練...と改めて感じ入る。石本美由起の遺作だが、あまたある〝幸せ演歌〟の歌詞の、これぞお手本!の筆致。「春は桜、秋は紅葉」を決め言葉に、それを写す川、そこを舟で行く二人、イメージくっきりときれいなものだ。
 奇をてらわない。新機軸も狙わない。さりげなく、はやり歌のいつもの世界を、描き切ろうとする。そのうえで目立つのは細心の言葉選び、ゆるみたるみのない均質のスリーコーラス。垣間見えるのは厳しい推敲の跡だ。だから、弦哲也の曲も中村の歌も、暖かく情の濃いものになった。

流星カシオペア

流星カシオペア

作詞:田久保真見
作曲:杉本眞人
唄:北山たけし

 「ほほう!」である。北山が歌う〝今どき〟の歌謡曲。とかく力みかげんの演歌を離れて、作品の世界に、すっと入った歌唱が素直だ。彼はそういうふうに、今どきの若者の感性の持ち主と合点がいった。
 田久保真見の詞、杉本眞人の曲、矢野立美の編曲。親しいつき合いの三人にも「いいねえ」と声をかけたくなる。三者三様にシンプル、ヤマっ気がないところが、北山用か。そのかわりに「北へ」という言葉を五回もくり返す個所で、感興とスケールを作る。走る列車と主人公の思いが、すっきり目に見えた。

明日花~あしたばな~

明日花~あしたばな~

作詞:たきのえいじ
作曲:桧原さとし
唄:服部浩子

 迷わずに、いつの日も、くじけずに生きていく男女を「ふたり一輪 明日花」に見立てた幸せソング。それをきちんと服部が歌った。もともとこの人の歌は、作品に何も足さず、何も引かず...の地味づくり。それが、薄味の料理一品になったろうか。

ひとり長良川

ひとり長良川

作詞:伊藤薫
作曲:弦哲也
唄:水森かおり

 郡上八幡、柳ヶ瀬、飛騨の高山などの地名をちりばめた詞は伊藤薫。えっ、あの伊藤が演歌も書くのか!なんて感想がチラリとした。長良川の流れに浮かべる未練の女心。弦哲也の曲が高めの音を多用、彼女の声の艶を生かして、また一葉、きれいな絵葉書を作った。

我慢船

我慢船

作詞:中谷純平
作曲:原譲二
唄:鳥羽一郎

 うん、鳥羽にはやっぱり、この種の曲が似合うなと得心する。波を枕に子守歌...で育った海の男が、山背の風に向かって船を出す。歌の気合いの入り方、間合いの詰め方が、いかにもいかにも...の心地よさ。作曲・原譲二も一味違う鳥羽用を書いたように聴こえる。

倉敷川

倉敷川

作詞:仁井谷俊也
作曲:伊藤雪彦
唄:原田悠里

 「日暮れ、掘割、蛇の目のおんな」を倉敷川のほとりに立たせた失意の女心ソング。重ね言葉の語呂のよさを捜した仁井谷俊也の詞に、伊藤雪彦が「このテでどうよ!」の曲をつけた。原田の歌は息づかいそれなりに、泣きたい思いを泣かない歌にした。

浜唄

浜唄

作詞:なかにし礼
作曲:弦哲也
唄:石川さゆり

 出漁する男と見送る女の、風景と心情を描く。いつもながらの眺めだが、それがもう「二千年、二万年」も続いて来た!と言い放つのがなかにし礼の詞。彼一流のとてつもなさを、得たりや応の歌にして、さゆりは四〇周年記念シングルとした。アンコに浜甚句が入っている。

夫婦恋唄

夫婦恋唄

作詞:岡田富美子
作曲:市川昭介
唄:若山かずさ

 今年七回忌の、市川昭介の遺作がいくつか出て来るが、これもその一曲。岡田冨美子が詞をはめた。二番と三番の歌い出しに、彼女なりのフレーズが生きる。若山は夫婦歌を妻の側から、声味生かして小さめに、楚楚とかわいげのある歌に仕上げた。

なでしこの花のように

なでしこの花のように

作詞:水木れいじ
作曲:叶弦大
唄:真木ことみ

 独特の声味で、この人は歌手生活二〇周年。当初、男か?と勘違いしかかった低めの声を、逆手に生かしての成果だろう。二五作目というこのシングルも、マイナーの曲をスローテンポで大きめに歌って...と、挑戦の方程式は変わっていない。

夕月海峡

夕月海峡

作詞:下地亜記子
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里

 来年が二五周年、この歌手のキモは何か?と再検討「ファルセットの魅力」と、制作陣が答えを出したらしい。「よし、判った」と徳久広司がそれ用の曲を書く。六行詞の後半三行で一気に決める気のメロディーを、野中が注文通りの泣き節にした。

カサブランカ

カサブランカ

作詞:百音(MONE)
作曲:藤竜之介
唄:加門 亮

 別れた女を白い花影に見立てて、追想する男の人恋いソング。舞台は夕映えの東京...というムード歌謡だ。サビあたま、ラテン風味を加門がいい気分そうに歌う。作曲は藤竜之介。近ごろ歌手業も兼業する友人だが、作曲も手抜きせぬあたり、ご同慶のいたりである。

木曽の翌檜

木曽の翌檜

作詞:鈴木紀代
作曲:弦哲也
唄:長山洋子

 少女時代に鍛えた民謡のノドも聴かせる。そのせいか、長山の歌は背筋のばして気合を入れて...の気配。木曽節くずしの歌い出しから、すっかり〝その気〟だ。心なしか歌の向こうに、木や森やあかね空が見える。歌う長山の視線が、上を向いているせいかも知れぬ。

結果生き上手

結果生き上手

作詞:小椋佳
作曲:弦哲也
唄:ペギー葉山

 振り向けばそれなりに、豊かだった人生。今でも時に、恋心に似た心のざわめきも感じたりする熟女の歌。小椋佳の詞にペギー葉山は、ふと思い当たる心地になったかも知れない。ベテランらしい手応えと手触りの歌にして、この人も結果生き上手なのだろう。

MC音楽センター

  
 例年になく、この春は二度も桜を観た。といっても酔客で賑わうことのない場所で、ごく自然に咲き誇っている奴だから、何だかしみじみと心洗われるような気分。
 《俺にも、こんな素直さがまだ、残っていたのか》
 と、少々くすぐったい思いもした。
 まず4月4日の世田谷・九品仏、浄真寺がその現場。前夜、留守電に、
 「菊田一夫先生の墓参をします。来ませんか?」
 の連絡を受けて、そそくさと出かけた。門前に集まっていたのは、東宝現代劇75人の会の面々。僕は昨年の暮れ、この会の総会で正式劇団員と認められた。ホヤホヤの新入りだから、取りものも取りあえず…のかっこうになる。
 《おそらくは、相当な名刹!》
 などと合点する。松並木の参道からしてもうそれらしい雰囲気、ひとりでに粛然となる妙があった。仁王門をくぐり、いくつかの仏像の微笑と対面しながら小道を辿る。本堂左手奥に菊田の墓はあった。「瀟洒な」というのが、墓所の表現にふさわしいかどうか迷うが、それが第一印象だったことは確かだ。
 面識はなかった人である。強いて言えば昔々、美空ひばりが出る出ないでもめたミュージカル「津軽めらしこ」騒動の時に、取材記者として追いかけたことがある程度。それが3年前に、75人の会の菊田作品「浅草瓢箪池」公演に参加、そこから縁が出来た。演出した横澤祐一は、6年前の僕の初舞台、川中美幸明治座公演で一緒になり、以後いろいろと教えを乞う親交が続く。
 この人が東宝現代劇75人の会のベテラン俳優で、そもそもその劇団を作ったのが菊田。僕はと言えば「喜劇・隣人戦争」「水の行く方・深川物語」と毎年その公演に出してもらい、ついに劇団員採用、この秋にやる菊田作品「非常警戒」にも参加出来そう…。
 《縁の糸って、不思議なつながり方をする…》
 そんな感慨こみで見上げたのが浄真寺、菊田墓前の青空。それを彩るように咲き競っていたのが八分咲きの桜だった。
 お次が4月9日、相模カンツリー倶楽部の桜。昨年は東日本大震災があって自粛した集英社のコンペに招かれてのことだ。長い不況でここ何年か、あちこちのゴルフコンペが中止になっている中で、踏ん張っているのが集英社。僕は昭和30年代の後半から、明星の付録の歌本に、新曲についてのコメントを書かせて貰った。そのころから親しかった編集者たちは、あらかた卒業してしまったが、顔見知りが何人か、変わらずに呼んでくれている。
 一緒にプレーしたエイベックス顧問の稲垣博司氏は長いことこのコラムを読んでいてくれる一人。
 「よくゴルフの話が出て来るけど、スコアについての記述がないのは、どうした訳でしょうね」
 と、痛いところを衝いて来る。
 名門コースで右往左往する僕を見ながらだから、見当はつくだろうに。ゴルフという奴、70才あたりからじりじりと下降線を辿っているのだ。第2打を先に打つのは必ず僕…というくらいに、ドライバーが飛距離減、アイアンは芯をはずすことが増えたから、ウッドの3、5、7、9を揃えるなど、道具に頼り、パターは眼しょぼで、グリーンののぼり下りが逆に見えたりする。
 集英社コンペの、僕のハンディは昔から「18」で、20年ほど前には毎回、今度こそベスト10入り…の励みになった。ところが昨今は、
 「ま、一応の目安だからこだわらないで…」
 と、僕を突き放す数字に見えてくる。そこでひるむ僕は、ゴルフはとことん、自分自身との闘いだ…と、改めて覚悟のホゾを決めるのだが…。
 「元気で、参加できることが何よりですよ、ははは…」
 サンミュージック顧問の福田時雄さんに励まされれば、胸がグッとつまったりする。ラウンド中、コースのあちこちで見かけた桜は、
 「平常心、平常心!」
 と、僕を諭しているように穏やかだった。

週刊ミュージック・リポート

 
 「昭和」が売りものである。ことに戦後。時代を検証するものから青春回顧録、今だから話せる裏面史、ゴシップなど。政治、外交、文化、世相にまつわる出版物は山盛りだし、イベント、講演のたぐいまで、毎日どこかしら…の賑わいだ。敗戦からの復旧、復興へ、エネルギッシュでずっと右肩上がりだった日本の〝あのころ〟に、いろんな人がいろんな感慨を抱き、改めて教訓やヒントを求めようとする。低迷、混迷の昨今だからこそ、そんな希求が幅広いのか。
 そのおこぼれにあずかっている。有線放送の「昭和ちゃんねる」は、もう5年近くのレギュラーだし、NHKラジオにもしばしば呼んでもらえる。何しろ〝歌は世につれ、世は歌につれ〟である。この惹句は語呂合わせで、決して〝世が歌につれ〟ることはないが、歌はその時期々々の世相を写す鏡の役割を確かに果たして来た。なつかしいヒット曲を挙げ、それにまつわるおしゃべりをする。ま、年齢が年齢で、歌社会の暮らしが長い分の、ネタは〝知ったかぶり〟である。
 昭和38年、テレビ局のあちこちで、学生服の少年歌手にでっくわした。デビューしたての新人のあいさつ回りで、それを目撃する僕も内勤記者から取材部門に異動したてのホヤホヤ。緊張をひそかに共有したその歌手舟木一夫と僕は、一回りほど年が違うがいわば同期生になった。橋幸夫はすでに人気者になっており、この年スタートした日本クラウンからは、間もなく西郷輝彦がデビュー、御三家の時代が出来上がる。
 流行歌はそのころまで、おとな専用の娯楽だった。小学校5年生の学芸会で、アカペラだから突然曲目を変更「異国の丘」を歌って大目玉をくらった体験がある。校長室前の廊下に、一日中おしおきの起立を続けた。それなのに修学旅行のバスが舟木の「高校三年生」の大合唱を乗せて走る時代が来た。レコード商売が少年少女をターゲットに、大きく舵を切ってのことで、その流れは今日に続いている。
 日本が列強に肩を並べるアピールをした東京オリンピックが翌39年。文化、風俗の欧米化に拍車がかかって、フォークブーム、GSブームが生まれる。直後に和製ポップスがもてはやされるがすぐに〝和製〟の看板がはずれた。流行歌の〝黄金の70年代〟の到来である。表記に〝昭和〟が減り、〝西暦〟が多用されるようになるのは「70年安保闘争」の影響だったろうか。昭和39年が1964年だから、40年代の初めが60年代の後半に当たる。学園闘争、反戦、反米、安保反対のうねりが若者たちを動かし、フォークもGSも、反体制の匂いがした。それが歌謡化して流行歌の主流を形づくり、今日にJポップにつながる。
 「いい時代だったよなァ」
 と、近ごろみんなが口を揃える。娯楽の王者だった映画界が斜陽、「音楽産業」を誇称するようになった歌社会は、老若男女それぞれ用の歌づくりで有卦に入った。テレビの歌番組に背中を押されて、ジャンルいろいろ何でもありの活況。業界でよく口の端にのぼった言葉は「感性」で、それが若い世代のお墨付きになった。
 吉田正、船村徹、星野哲郎の知遇を得た僕は、なかにし礼、阿久悠を筆頭にフリーの時代の作詞、作曲家たちとの親交に恵まれた。スポニチ在籍のままタレント化し、はやり歌のプロデュースに手を染め、好き放題の仕事を続けて今は、雑文屋兼業の役者である。しばしば音楽評論家と呼ばれるが、そんな大層なものではなく、楽屋ぐらし大好きの〝はやり歌評判屋〟が実態。いい歌が出来たぞ! いい歌手がいるぞ! のお先棒かつぎは、終生変わることがない。
 突然、昔話を書いたのは、このミュージック・リポートの発行元、レコード特信出版社がそんな幾時代かを奮闘、今年、創業50周年を迎えたことに敬意を表してのこと。創業者の斎藤幸雄会長は、船村徹と同郷の人で、船村門下の僕はそのご縁にもつながっている。昨今、歌社会はこんなふうに多事多難だけれども斎藤会長、日本の歌のためにもうひと踏んばりでしょう! 創業50周年おめでとうございます!

週刊ミュージック・リポート

  
 少し早めに会場へ行ってみたら、原田英弥がちょこまか落ちつかなかった。座席の数やら並べ方、クロークのあんばい、アルコール類への目くばりなど。それが僕の顔を見るなり低頭して、
 「お疲れさんです。でもダメだよ、このためにスケジュール変更したりしちゃ…」
 と渋面を作って見せたりする。3月27日夜、六本木のノビルデューカ。ここで開かれたのは原田本人のテイチク卒業を祝う会なのだ。営業7年、宣伝36年、合わせて43年の仕事で習い性になった仕切り癖が、丸出しという風情。
 「何の取り柄もない僕が、こんなに長い間働けたのは、皆さんのお陰です」
 と、本番であいさつする彼を見ながら、僕は、 《その取り柄のなさを逆手にとって、彼は彼の特色を作ったんだなあ》
 と合点した。鬼面人を驚かす企画を立案する訳でもなく、売り込みに気の利いたコメントを添えるでもなく、ただ誠心誠意で媒体に通いつめ、実にこまめにきちんと人間関係の輪と信用を築いて来た。
 『人の良さで商売が出来るほど、この世界は甘いもんじゃない』
 と言われる歌社会で、人柄の良さを売りにしおわした珍しいケースと言えようか。
 上手に企画書などを書き、会議では発言にそこそこの切り口と論法を持ち、社内遊泳術なかなかというタイプが、重用されがちな時代である。彼らは一見都会的でスマートなやり手ふうだが、社外へ出すとさしたる戦力にならぬことが多い。僕は乞われて話すことの多かったテイチクの歴代社長に、
 「愚直なくらいに、地べたを這いずり回って働くタイプを、大事にすべきだと思います」
 と具申し続けてきた。
 情報の伝達はマン・ツー・マンの手渡しが唯一、最高の方法。相手の手応えが判るし、こちらの情熱が伝わるし、相互理解の糸口が生まれる。そんな機会を積み重ねれば、友情さえ感じ合える情のネットワークが出来上がる。不眠不休、誰とでも会い、どこへでも出かけるそんなやり方は古い!もっと効率のいい方法を選ばねば…と、模索する近ごろ流、IT関連のツールを利用してのあれこれでは、合理的に見えても一番大事な体温が通じない恨みが残る。それやこれやを考え合わせれば、この夜の催しは、古典的な最後の宣伝マンを送る会になったかも知れない。
 しばらく骨休めをして、いずれまた何かを…という顔つきの原田に、
 「6月、ひと仕事たのむよ」
 と、こちらは会の途中にもかかわらず、いつも通りの持ちかけ方をする。実は瀬戸内海の小豆島に、作詞家吉岡治の顕彰碑が建つことになっていて、そのころが除幕式。この島と吉岡は、石川さゆりの「波止場しぐれ」をご当地ソングとしてヒットさせ、新人歌手の登竜門「演歌ルネッサンス」を5年間やった縁がある。いずれも島の青年たちの懇請に吉岡が応じてのことだが、地元にとっては「島おこし」吉岡には「演歌おこし」の夢があった。
 それにしても「波止場しぐれ」が1985年「演歌ルネッサンス」が1995年から2000年までで、12年から27年前のことである。当時の青年会議所の面々も、そこそこのおっちゃんになっているが、
 「あのころの感動と思い出を、次の世代へ…」
 と、思い立ったのが顕彰碑建立。吉岡の人徳が生きているから、東京側は当時の空気をのみ込んだ形の対応をしなければなるまい。
 「だからさ、こういうのはお前さんに限る。連れて行きたいのは〝波止場しぐれ〟の作曲の岡千秋、歌の石川さゆり、それにルネッサンス出身の岩本公水あたり。地元とのやり取りから、当日の乗り込みまで、一切任すから仕切ってよ」
 サラリーマンの退社慰労パーティーの席で、主人公と次の仕事の打ち合わせ…というのも乱暴な話だが、本人が急に、眼つきと口調が生き生きとして来たから愉快だった。終生裏方の覚悟の原田には、親交のあった70人余が集まったこの会が、望外の喜びではあったのだが、面映さに困惑する一面もあったせいだろうか。 

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ123回

 ひょこひょこひょこと、はずむ足どりで島倉千代子が登場する。もう何十年も、見なれた彼女らしさだ。しかしこの日は、ステージが風がわりだった。東京・北品川「大富鮨」の広間。宴会の客よろしく、僕らはすでに用意された酒をチビリチビリとやる。1月27日夕、少し遅めの新年会みたいだ。

 新曲『愛するあなたへの手紙』の発表懇親会である。この町は島倉が生まれ育ったところで、この店は子供のころからのおなじみだという。そんな懐かしい場所に、ごく親しいマスコミや関係者を招いて…というのが島倉の心づくし。だから彼女は最初から浮き浮きと『人生いろいろ』を歌い、新曲を披露した。

 「だって、CD出すのは2年ぶりなんですもの」

 おしゃべりも前のめりだ。司会金子ひとみの段取りを、ちょくちょく飛び越す。そのうえに「あら?」と反省もする仕草がつく。嬉しいことはもう一つ、新曲を作詞、作曲した都若丸の登場だ。大衆演劇の若い座長でシンガーソングライター。彼が2才の時に共演して以後長いつき合いが続き、この作品は彼女の70才の誕生日のプレゼントだった。だから…、

♪身体を壊していませんか 自然に笑顔でいられますか(中略)友達はたくさんできますか 本音で話をしていますか…

 と問いかける歌詞は、いたわりと思いやりに満ちている。これはそのまま、都の島倉に対する思いだろう。それから3年後の今、彼女の歌でそれは、島倉から大勢の“みんな”への思いにふくらんだ。こんな時代だからなおさら、すうっと僕の胸へもまっすぐに届く。

 1月に10日ほど、僕は海外に出ていた。その間に何度か、友人大木舜からの留守電やファックス。彼はこの作品の制作者で、島倉の相談相手である。用件は懇親会で一言しゃべり、乾杯の音頭をとること。駆けつけた僕に彼女は、

 「ああ、やっとつかまった…」

 と、ヤレヤレ…の表情をした。

 「いい歌が出来てよかった。あなたはひばりさん亡きあとの、老舗コロムビアの大看板です。一日々々、ひと月々々を大事に、歌い続けて下さい」

 と、要旨そんなあいさつをしたのは、僕の本音だった。メロディーも穏やかで暖かく、歌うように語るように…の彼女の歌が、73才の彼女を自然体に生かしている。

 加齢による変化は、人間誰にでもあることだが、歌い手にとっては時に残酷である。大ヒットを多く持てば、ファンはそれを往時の若さや艶や弾み方で聞こうとする。歌手も心得ているから、そのころの魅力を何とか維持しようと懸命になる。そんな一途な努力に、影を落とすのが年月という奴だ。

 あるがままの生き方が、幸せに近い…のだ。ベテランの歌にはベテランらしい味やコク、それなりの年輪が生きてこそいいはずだ。島倉はそんな境地を、この作品で得たのではないか?

 僕はほろ酔いで、ずっと前から書き続けるフレーズを、ふっと思い出した。

 「美空ひばりは最初からおとな、島倉千代子は最後まで少女」――。

月刊ソングブック

  
 《かえって、余分な気を遣わせてしまったか…》
 ウェッジウッドのマグカップを前に、そんなふうに思った。送り主は久世光彦氏の夫人朋子さん。3月2日に、六本木のスイートベイジル139で開いた久世さんを偲ぶ会で、世話人をつとめたことへのお礼だと言う。あれは久世さんの祥月命日、月日は足早に過ぎてもう七回忌だ。
 「久世が逝ってしまってからの私は、この日のために歩いて来たような、そんな思いがして来ます」
 と、後に夫人が述懐した会は、小泉今日子が朗読とトークをやり、島根県在住のまま活動する浜田真理子がピアノの弾き語りをやった。久世さんが文芸春秋から上梓したエッセイ「マイ・ラスト・ソング」をもとに、彼が愛した歌のいくつかと、それに対する思いが語られる。参会者はほぼ300。出版界や音楽界の、親交のあった人々が粛然と耳を傾けた。
 ウェッジウッドのマグカップは、生前に久世さんが愛用したそうで、ほうじ茶でもコーヒーでも、これを用いたそうな。ややシニカルな微笑で口の端を崩しながら、書斎のテーブルに向かう彼のたたずまいが見えそうな品だ。
 《それでは…》
 と僕も、この間佐伯一郎に貰ったうす茶あられなどを飲んでみたが、了見も甘めのせいか、久世さんの文人ふうには収まれるはずもない。
 偲ぶ会の当日「港が見える丘」では、酔うとしばしばこれを歌った上村一夫の話が出て来た。歌詞の、
 ♪ちらりほらりと花びら、あなたとあたしに降りかかる…
 の「あなた」を「あんた」「あたし」を「あたい」に置き換えたのが上村流。僕も何度かそんな場面に居合わせたので、回想はあらぬ方向へひろがったものだ。
 久世さんは「人が最期に一曲だけ、聴きたい歌を選ぶとしたら、どんなものになるだろう?」ということにこだわった。あれか?これか?と、彼が手探りした作品のうち、偲ぶ会でとりあげられたのは「みんな夢の中」や「プカプカ」や「海ゆかば」など。「へえ!」と聞き直せば、浜口庫之助作詞作曲の「みんな夢の中」の歌の文句は、相当に意味深なことに改めて気づく。「プカプカ」では西岡恭蔵を思い出し「海ゆかば」は、太平洋戦争末期にラジオから流れたものとは、まるで違う手触りの歌になっていて、時代の変化に驚かされた。昔は〝歌詞〟などというしゃれた言い方ではなく、泣けるくらいにいいのに出っくわすと、その〝歌の文句〟に酔ったものだというのも、久世さんの持論だった。
 楽屋でずいぶん久しぶりの小泉今日子に、葉山に住む者同士のあいさつをした。海のそばでいい空気を吸って…と引っ越ししたのに、急に忙しくなってせっせと東京へ通っている…と、現況がよく似ているので笑った。もっとも彼女は特異なキャラクターと熟した魅力でひっぱりだこの人。僕の忙しさなどとは比べるべくもないが…。もう一人、ずいぶん久しぶりだったのが内田裕也で、
 「その辺で一杯やろうよ」
 と、会の終了と同時に向かい側の飲み屋へくり出した。それからあとは昔どおりに午前さまたちの飲み会で、世話人として果たすべき役割は放棄したままである。
 「申し訳なかったよな…」
 などと、猫の風(ふう)ちゃん相手にひとりごちながら、うす茶あられをもう一杯。ベランダの向こうには、対岸の空にまっ白な富士山が浮かんでいる。その裾野あたりには箱根や伊豆の山々が並んでいるはずなのだが、春の霞にぼやけたまま。その手前、眼前の海200メートルほど先には、黄色の釣り船が一隻、釣り人2人が、忙しそうに竿を上げ下げしている。ものが何かまでは判らないが、どうやら入れ食いの賑やかさだ。
 3月22日、突然気温が17度に上がった昼過ぎ、久しぶりに生まれた役者兼雑文屋の忙中閑である。いつも通りに留守を承知で電話をかけて来た友人の何人かは、僕のナマの対応に、一様にギョッとした気配だった。

週刊ミュージック・リポート

  
 昔、レコード大賞の審査委員長を7年もやった。その間に渡した僕の名入りの表彰状が、
 「うちの2階にいっぱいある。一度見に来てよ」
 と川中美幸に呼ばれて、飲みに行ったことがある。一時盛んだったいろんな音楽祭の表彰状や、ヒット賞のトロフィー、記念品などが詰まっていて、その部屋は彼女の宝の山にみえた。
 《あそこに、今回のこれも飾られて、ひときわ光彩を放つことになるのか》
 3月5日夕、九段の如水会館で、僕はふっとそんなことを思った。彼女の明治座11月公演「天空の夢・長崎お慶物語」が芸術祭大衆芸能部門の大賞を受賞したお祝いの会。ステージ上手にその表彰状と、金ピカのトロフィーが鎮座していた。僕はこの芝居の共演者だから、わがことのように喜びながら、
 《しかし、これまでずい分多くのイベントに、賞を渡す側でかかわって来たが、貰う側に立ったのはこれが初めて…》
 そんなことも考える。人間いくら年をとっても、初めての体験ってものはある…と、改めて役者ぐらしに声をかけてくれた川中に感謝したものだ。
 出演者の一人としてはおこがましい言い方かも知れないが、いい芝居だったのだ。古田求の脚本、華家三九郎の演出がいい。エピソードつなぎで展開するストーリーのテンポ、スピード感が、映像畑の二人の特徴で小気味がいいくらい。それが大きなうねりを生み出す中に、いいセリフが随所にあって、2時間余の上演時間がアっという間だ。それに何よりも、川中扮する幕末・長崎の商人大浦屋お慶がぴったりのはまり役で、のびのび生き生き…である。
 「もしかすると〝当たり狂言〟って奴が生まれる、その瞬間に立ち合っているのかも知れない」
 と、僕は昨年11月、この欄の790回めに書いている。お慶の苦労人ぶりと川中のそれが巧まずして重なっていた。あの時代の女性の自立から大成までの、意志の強さと行動力、勝ち気と人情もろさ、人柄の優しさ、温かさが、ごく自然に表現されて、観客の共感を呼んだ。もともと3月に上演したものが、東日本大震災で日程短縮となり、11月は同じ劇場で再演という異例の措置。
 『頑張っていれば、必ずいいことがある…』
 被災地で多くの人々が口にした考え方が、そっくりそのまま当てはまるケースだった。
 会場には3月の田村亮、11月の勝野洋の両相手役をはじめ、土田早苗、仲本工事、石本興司、紫とも、奈良富士子らの共演陣が顔を揃えた。お仲間づきあいをさせて貰った伊吹謙太朗、丹羽貞仁、大森うたえもん、綿引大介、倉田英二、ダンサーの安田栄徳に石原身知子や茶摘み娘たち、女性ダンサー群、バンドの面々などがみな嬉しそうな笑顔を並べていた。受賞理由に川中の歌のうまさや絶妙のトークも含まれていた報告に歓声や嘆息がわく。ステージでは川中と母親久子さんが、いかにもいかにも…のやりとりで手を取り合って涙するシーンまでとび出す。会場はめいっぱい情が濃いめ、川中の会らしい雰囲気になった。
 主人公が川中だから、参会者は演劇畑と歌社会の人々がほぼ半々。僕は、
 「深くお辞儀をする方は芝居関係、軽めに会釈は長いつき合いの流行歌関係…」
 などと、お気軽なジョークを口走る。二つの世界を往復する日々は、しっかりスイッチを切り換えて…と心して暮らして6年めだが、双方が一堂に会するこういう集いは、相当にやりにくいものだった。
 受賞作品「天空の夢」は大阪・新歌舞伎座の再々演でこの夏、7月10日に初日を迎える。もちろん前回や前々回よりは、それなりのプラスを!と僕も心に期しているが、それまではしばらく歌社会ぐらし。手帳のスケジュールを睨み合わせて動くのだが、気づけば3月11日が名和治良プロデューサー、13日は小沢音楽事務所の小沢惇社長の命日。
 《俺の雄姿、見せたかったなあ》
 と僕は合掌した。彼らの分だけ、残された日々をしっかり生きる…と、約束した相手なのだ。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ122回

 「歌も文章も同じでさ、うまい奴は最初っからうまい。持って生れた才能でね、こればっかりはどうしようもない…」

 酔った勢いでそんなことを言い出したら、居合わせた面々が「ン?」という顔になった。反応は似ているが、表情に個人差がある。正月早々、むずかしい話はご免…と押し戻したいタイプ、何を今さら当たり前のことを…と渋面を作るタイプ、いつも、しゃべりだしたら止まらないんだから…と観念するタイプ…。

 「うまい奴とそうじゃない奴との比率は、うんと甘めに見つもって3対7くらいかな。新聞記者や歌い手に向いてるのは、熱心な志願者10人のうち、せいぜい3人。いや、もっと少ないかもしれない」

 ニヤニヤする僕。自分のことはタナに上げての発言なのだが、相手はそろってうそ寒い顔になった。スポニチ時代の仲間や歌社会の友人たち。それぞれが3対7の比率をわが身に引きつけたから事だ。3の部類に入ってるとは自惚れ切れない。だとすれば7のグループの一人、この年になってそんな区分けをされたって、後の祭りじゃないか!

 「問題はその自惚れでさ、どちらかと言えば3のグループの奴に顕著だ。いい書き手だなんて自他ともに許されたあたりでおかしくなる。文章がすべるんだよ」

 「世の中よくしたもんで、7のグループからたまに、いい書き手が出てくる。ちびた鉛筆なめながら長いこと、コツコツ書いてるうちに文章に味が出て来るケース。悪文の説得力って奴だな。この味だけは、うまれつきうまい奴にはとうてい作れない…」

 ま、そう言われりゃ救われるな、俺たちも…と合点するのは新聞屋族たち。それを歌にあてはめるとどうなるのよ…と、先を促すのは歌社会族。

 「生まれつきうまい3の組の連中は、自慢の声や節回しで勝負に出る。得手に帆あげてだから気合いも入る。そこに落とし穴がひとつある。声と節にこだわって頼るから、歌が空回りするのさ」

 「そこへ行くと7のグループは、声も節もいまいち。頼るものがないからばたつくんだけど、中に賢いのがいて、突破口に思い当たる。歌はどう聞かすかじゃなくて、何を伝えるかが大事じゃないのか。そうだとすれば、抜きんでたいい声も節回しも実は、何かをしっかり伝えるための道具でしかないんじゃないかって」

 ――ま、理屈は確かにそうだよな…と、大分酔いが回った面々は、そこから先を引き取ってこもごも話しはじめる。生まれつき才能に恵まれていて、肝心なのは何を伝えるかだと判ってる奴は鬼に金棒だ。その辺を全部、てんからわきまえていて、ひとりでにそう出来ちゃうのが天才なんだな。でもさ、そういうのって何百万人かに一人だろ。いずれにしろ10人中の3人だけが歌手じゃない。ちびた鉛筆なめながら…の7人は、そんな自覚と目標を持たなきゃいけないということか。うん、悪文が説得力を持つ奇跡に賭けて、踏ん張るっきゃない。ここから先もコツコツか、道のりは長いなぁ…。

 正月、気のおけない平々凡々族が大集合するわが家の飲み会は、やがてぐちゃぐちゃの歌手論になっていった。そんな中に目をしばたたせて、日高正人や新田晃也もいた。

月刊ソングブック

 
 「この大会初めてのシャッフル企画で~す」
 司会の西寄ひがしが大声をあげたので、こちらはニヤニヤした。2月25日午後、横浜アリーナで開かれた「長良グループ新春演歌まつり2012」でのことだが、歌手たちがお互いのレパートリーを交換する。例えば山川豊の「アメリカ橋」を田川寿美、水森かおりの「鳥取砂丘」を氷川きよしが歌うという趣向。
 《シャッフルなあ…》
 僕がニヤついたのは先月、石原慎太郎都知事が「政界をシャッフルする」とぶち上げたのを思い出したせい。その新党立ち上げの方は、4月がめど、いや6月だろう…と、まことしやかな噂ばかりが先に立って、混迷の政情をさらにシャッフルするばかり。このネタを早速いただいたのが長良グループの知恵だが、これが案外面白かった。山川、田川、氷川、水森がステージに並び、イントロが始まるたびに「俺が…」「私が…」と全員がバタバタする。歌い出すのは意外な歌手で、それと曲との組み合わせの妙、歌唱法で変わる曲想などがファンを喜ばせた。
 このイベントは大阪、名古屋に続いて、横浜が3カ所めだと言う。会場周辺には何台もの観光バスが並び、到着した団体が旗をかかげたガイドの先導で列を作る。1階正面入り口には、作詞家や作曲家、関係会社の花が盛大に並び、歌手たちのCDやグッズの売り手が大声をあげる。2階の回廊ふうロビーへ行けば、ホットドッグに稲荷ずし、ラーメン、ブタまんに生ビール…の売店がズラリ。老舗プロダクションの顔見世興行らしく、お祭り気分が賑やかだ。
 アリーナ席を埋め、整然とペンライトを振る熟女たちのお目当ては、やっぱり氷川である。ヒット曲の一つずつにここを先途…の反応を示すが、歓声も含めてかなりお行儀がいい。それが列を崩しかけたのは、歌手たちがメインステージから会場中央の円形サブステージへ移動した時。制止するスタッフや柵ごしに手を伸ばして、氷川をもみくちゃにした。
 「あ~あ、上衣まで脱がされちゃった。大丈夫か?」
 山川が声をかけた時、氷川はシャツ姿。えらいことだと思ったら、
 「衣装のスパンコールで、皆さんがケガをするといけないので、脱ぎました!」
 という氷川の返事に、会場が大笑いした。
 氷川の新曲はなかにし礼作詞、平尾昌晃作曲の「櫻」で、月光に妖しく光る桜に、失った女性の幻を見る青年の胸の内がテーマ。幻想的ななかにしの美学に、平尾が熱唱型のメロディーで応じている。脱アイドル・ソングの歌づくりで、氷川の魅力におとなの奥行きを作る意図がうかがえる作品。ところが熟女たちは軽々と、いつも通りに反応する。氷川のものなら何でもOK…と、こういう企画にもフットワークよくついていくのだ。
 一座!?を取り仕切る山川は、どうやら訥弁までおなじみになって、一人でボケたり突っ込んだりの気の使い方だが、新曲「ナイアガラ・フォールズ」はきっぱりと歌う。結婚と20周年超のおめでたの田川は、大作ふうな骨格の「霧笛」に気合いが十分。次女役みたいに気楽な水森は、キャッキャッとはしゃぐキャラが素直で、5月発売という「ひとり長良川」を本邦初公開。これに新人の森川つくしとデビューしたての岩佐美咲、はやぶさが加わった。
 はやぶさは若者3人組だがステージの出と入りに、ていねい過ぎるくらいのお辞儀をする。
 「ああいう姿勢は大事だねえ」
 と言う山川に、氷川が、
 「若いころを思い出します」
 と真顔で応じたので、僕はまたニヤニヤした。この日の公演は午前と午後の2回。僕は午後二時半過ぎに出かけたが、新横浜と横浜アリーナの間で、見終わった人々と見に行く人々の浮き浮きが交錯する。堪能の笑顔のご婦人の何人かは、プリンス・ペペの角の売り場で宝くじを買った。今回は1等5億円である。いい夢を長持ちさせる気か、それとも夢を上乗せする算段だったろうか?

週刊ミュージック・リポート

  
 こぶりな庭に面して、大きなガラス窓が広がる。応接間の床から鴨居まで、いわゆる〝掃き出し〟という形式。それに緑がいっぱいだ。中央、垣根の向こうにそびえる落葉樹は欅かと思ったら?(ぶな)だと言う。手前にほど良い高さの桜、
 《春はもっと、いいだろうな》
 と眺めていたら、庭の小低木に一羽、野鳥が来た。体をさかさまに赤い実をついばむ。あれは南天か千両か。後で調べたら南天に実がなるのは秋、千両なら冬とあるから、やっぱり千両だ――。
 《何とも閑静な…。新宿間近の初台に、こんな眺めがあるとは…》
 そんなのどかな気分になったのは、作曲家水森英夫邸。2月21日の午後、やっていたのは永井裕子の新曲のアレンジ打ち合わせだ。前田俊明とギターを連れ弾きしながら、前奏や間奏、エンディングまで、準備されていた気配の旋律が水森のハミングで出て来る。
 「それでね、歌は話をしている自然のまま、バンと声を前に出す。余分な細工はしないこと」
 キイ合わせの間が、永井へのレッスンになる。歌手11年超、いつか身についた声や節の操り方、演歌的な科(しな)の作り方を取り除こうとするのだ。物事万事、率直に表現するのがいい…と、常々考えて来たが、歌も例外ではないか…と僕は合点する。水森からはこれまで何度も「発声力」という言葉を聞いた。もともと歌い手が持っている声の力と味を鍛えて、まっすぐに直球勝負をする。それが聴く側の胸に一番届きやすい。氷川きよしが最大の成功例だろうし、そういえば彼が最近手がけた水田竜子の「野付水道」も、歌がストレートに変わって、すっきりした。
 1月、水森や前田、作詞の喜多條忠らと島根県の大田市へ出かけた。石見銀山が世界遺産に選ばれて今年が5周年。
 「また歌を作って下さいよ」
 と、竹腰創一市長から声がかかっての現地取材である。5年前に吉岡治、四方章人と出かけ、永井が歌った「石見路ひとり」を作った縁があった。
 ところが出発前日、喜多條が発熱、インフルエンザだと言う。やむを得ず作詞家は後日改めて…ということにしたのに、当日、羽田へ本人が現われた。
 「詞が行かにゃ、話にならんでしょ」
 かかりつけの医師に強力な薬を処方して貰い、風邪を抑え込んだという。そのまま一行は石見銀山や温泉津(ゆのつ)を見て回り、市長主催の夕食会に出る。驚くべきはそのあと、喜多條は徹夜で詞を一編書き上げ、翌日の朝食の席へひらひらと持ち込んで来た。ありあわせの紙片の裏側へ3コーラス。その詞はそのまま使わせて貰う完成度を示していて、
 「風邪? うん、何とかおさまった」
 と笑ったものだ。
 ――再び水森邸。喜多條は風雅なその庭で一服する。アレンジ打ち合わせに作詞家が参加するのも珍しいが、それだけ気合いが入っているということか。
 「それにしてもタフだよなあ、その後何ともなかったの?」
 と、古川健仁ディレクターが石見銀山の一件に触れる。この冬は豪雪の被害があちこちで、僕らが泊まった三瓶荘もきっとすごい雪の中だろう。
 「それにしても…」
 のお鉢が僕に回って来る。1月、石見銀山から帰京した翌日、僕は小西会の面々とハワイへ行き、何と6日で7ラウンドのゴルフに挑戦した。「バカじゃないの!」と友人たちに笑われたが、この年齢でどこまでやれるかを試してのこと。島根での気合いの入り方が、あらぬ方向へ飛び火したのだが、その辺はえへへへ…の陰においた。
 この原稿を書いている2月23日は、前夜から全国的に雨。この時期の雨は春の到来間近を告げる「木の芽起こし」と呼ばれる。そう言えば葉山のわが家の眼下の海では、干潮になると岩場に海藻の緑が目立ちはじめている。
 島根・石見界わいの永井の歌は「石見路ひとり」「和江の舟唄」に続き、今度の「石見のおんな」が3作め。きっと気分のいい仕上がりになるだろう。

週刊ミュージック・リポート

「技巧」と「伝わりやすさ」と

 

 芸ごとの重要な要素のひとつに「技」がある。歌の場合、小節がその一例だが、歌手たちは思い思いのやり方で、表現に工夫をこらす。
 五木ひろしがその筆頭。今回の『冬の唄』にも彼流の差す手引く手が随所にちりばめられている。
 この「技」が実は曲者で、やり過ぎたり消化不良だったりすると、歌が嘘っぽくなる。伝えるべきココロより、技巧の方が浮き上がるせいだ。技はさりげなく、気づけば「さすが!」のサジ加減で使いたいが、むずかしいものだ。

霧笛

霧笛

作詞:愁木圭子
作曲:鈴木淳
唄:田川寿美

 歌謡曲、演歌のメロディーは大別してM型とW型の二つに分かれる。M型は中、低音からなだらかに始まるタイプで、高音のヤマ場がおおむね二カ所、W型は字の通りに、高音部から歌に入り、真ん中と最後にヤマ場の高音が来る。
 鈴木淳のこの作品は、明らかにW型で、ヤマ場が三つあるからその分インパクトが強い。歌詞は七行、うまく組立てられたメロディーだから、寿美の歌も気合いが入った。
 歌手生活二一年め、プライベートではおめでたもあって、転機を飾る作品になったろう。

こころの絆

こころの絆

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:山本譲二

 どんな曲を歌っても、譲二は巻き舌になる。作品の色合いによって強弱があるから、本人も意識しているのか? ラ行が全部そうなるが、そうか、しゃべっている時も同じか!
 だからこの人の場合、しあわせ演歌も少し男っぽく聞こえる。♪ごめんよ ごめんよ 泣かせてばかり...なんてあたりも、女々しくならずにすむ。むしろ、主人公の男の生活臭に通じる。適度の不良性キャラの強みも生きる。
 歌い出しの一行分、声に息をからませて、優しげにする演出には、年の功を感じた。

玄海あばれ太鼓

玄海あばれ太鼓

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 ものがものだから、歌声でドスを利かせる必要がある。委細承知の鏡は、声をひらたくつぶし加減、口跡もそれらしく作った。こういう細工をすると、声が少し暗めになることがままあるが、この人の魅力はそこが、晴れ晴れと明るく、三波春夫流になる点か。

おんなの山河

おんなの山河

作詞:水木れいじ
作曲:若草恵
唄:天童よしみ

 「しあわせは...」という歌い出しのフレーズが、きっぱりと高めの音で出る。明らかにW型メロディーの立ち上がり。歌詞二行ずつを三つのパーツに分けて、情感の階段づくりも手堅い。天童との前作でレコ大作曲賞をとって、若草恵の歌づくりも乗って来た。

黒髪

黒髪

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽

 前田俊明のアレンジが、全体にやや薄め。その分だけ、神野の歌がしゃっきりと立ち、前面に出た。オーケストラを従えて、歌手はセンターマイク前という、昔ながらの音の位置どり。ダンナ荒木とよひさの詞の「もう大丈夫...」なんてあたりが意味深に聞こえた。

冬の唄

冬の唄

作詞:阿久悠
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし

 火鉢、時計のチクタク、階段のギシギシなどを小道具に、貧しいが情が濃かった〝あのころ〟を振り返る人恋い歌。昭和回想ものに聞こえるが、阿久悠が三〇年も前にこんな詞を書いていたのかと、改めて驚く。作曲もした五木が、持ち前の技巧で、歌の彫りを深くした。

春暦(はるごよみ)

春暦(はるごよみ)

作詞:麻こよみ
作曲:中村典正
唄:松前ひろ子

 ふと、昔親しくして貰った神楽坂はん子の顔を思い出す。メロディーに日本調がチラリ、三味線がからむお座敷ソング仕立てだ。『ゲイシャ・ワルツ』が口をついて、懐かしい気分になった。昨今は誰もやらないタイプ、制作陣は、よくそこを再発掘する気になった。

昭和放浪記

昭和放浪記

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:大川栄策

 こんな時代だからことさらに...の〝あのころ〟回想ソング。いろいろあった昭和と、命つないだ今を重ね合わせる。志賀大介の詞は重ねことば、かけことばを多用、伊藤雪彦の曲の裏側からは、ジンタの響きが聞こえる。大川のひなびた声味がそれに似合った。

大阪流転

大阪流転

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健治
唄:三門忠司

 声の芯が明るい。そのくせ歌唱にえも言われぬ粘着力がある。それが歌詞の細部にこだわらず、のうのうと歌い放つのが魅力で、♪どこで人生間違えたのか...と男の流転を歌う。いい歌い手なのだから、歌社会の方も間違えずに行こうよ...と言ってあげたい。

恋し浜

恋し浜

作詞:なかむら椿
作曲:幸耕平
唄:大沢桃子

 師事した寺内タケシふう踏ん張り方がある。浅香光代ふうな時代色も持つ。それに、演歌のシンガーソングライターを目指す感性もどこかに。今回は自分で詞を書き、曲を幸耕平に委ねた故郷大船渡もの。いろんな要素ごちゃまぜの人の「がんばっぺ!」か。

MC音楽センター

 
 いつになく早めの帰宅。と言っても午後10時は回っている。電話機に点滅する留守電とファックスの赤灯。胸騒ぎがしてファックスのボタンを先に押す。最初に流れ出したのは訃報、シャンソン歌手の芦野宏が亡くなっていた――。
 87才、2月4日、入院中の聖路加国際病院で死去。間質性肺炎によるもので、通夜、葬儀は近親者のみで済ませ、後日、お別れ会を開くとある。
 《あれが僕の見た最後のステージか…》
 昨年の7月3日、NHKホールで開かれた「パリ祭」の大詰めを思い出す。芦野はピアノに手をおいた形で歌った。加齢の影響は確かにあったが、往年をしのばせる朗々とした声、それが身上の端整な唱法、地味めのスーツも含めて、品位を重んじる姿勢が、ありありとしていた。彼は彼の裡なる「芦野宏像」を維持することを、自身に厳しく課しているように見えた。
 《それにしても、間質性肺炎とは…》
 一般に時おり耳にする病名だが、僕には美空ひばりの最期としての記憶がまだ生々しい。肺の機能が次第に損なわれ、歌うことの生命である呼吸が、じりじりと失われていく。歌い手にとっては無残すぎる病状ではなかったか。その病名を芦野や身辺の人々は、少し前から口にしていたと聞く。彼はどんな思いで、残された日々を過ごしたのだろう。
 1月15日、芦野はステージに立ち、17日に入院、14日後に息を引き取っている。1953年、NHKラジオ「虹のしらべ」でデビューというから、歌手生活が60周年。往時をしのぶあれこれ、後に残る気がかりのあれこれに思いをめぐらし、伝えるべきことは伝えて、もしかすると覚悟の上の旅立ちだったのかも知れない。
 一般社団法人日本シャンソン協会の会長だった。石井好子が立ち上げた組織の経済的部分に手当てをし、会長の座を引き継いだ。運営に私財を投じた会だけに、相応の使命感ももってのことだったろう。
 「あなたも引き続き、手助けをして下さいね」
 芦野から僕が声をかけられたのは、石井を通じての知遇を受けていたせい。
 「演歌のお前さんが、どうして?」
 と、友人によく聞かれたが、石井とは長いつき合いがあった。加藤登紀子らの登竜門となった日本シャンソンコンクールは、石井音楽事務所と僕の勤務先スポーツニッポン新聞社の共催事業で、それをきっかけに僕は、シャンソン界に交友を広げていた。
 それやこれやの縁で、今年も6月2日、シャンソンコンクール東京大会の審査を手伝うことになっている。このイベントも7月のパリ祭も、大看板を失いはしたが粛々と開催されていくのだろうが…。
 《問題は協会の会長選びと、事後をどうするかだ》
 新聞屋育ちの性急さで、そんなことまで気になるが、事後のことはきっと、時間をかけて慎重に検討され、実現していくことになろう。髙英男は歌えなくなってもなお、パリ祭のフィナーレには並んだ。石井は自分が立ち上げ育てたパリ祭で、シャンソンの王道を守ることを終生考えつづけた。優しげな笑顔でその傍に居た深緑夏代もなく、今度は芦野が去った。
 仄聞するところ3案…がささやかれている。その1はベテランの起用、その2が思い切った若返り、その3が外部有識者の起用らしく、それぞれに名前も挙がっている。しかし、無用の混乱は心して避けねばならないから、ここでは触れずにおこう。気になるのは
 「50代でまだ若手ですから…」
 と自嘲気味に話す歌手もいるシャンソン界の高齢化だ。反面、地方も含めた都市に必ずシャンソニエがあり、カラオケ大会には、カルチャースクール系のシャンソン愛好者の参加が目立つ。ことのほか裾野は広がっているように思える。それを大きなうねりにまとめ、シャンソン界を活性化するためには、一体どんな手だてが必要なのか? それを芦野はどう考えていたのだろう?

週刊ミュージック・リポート

 
 「美しいものを美しいと感じ、まぶしいものをまぶしいと感じ、やさしいものをやさしいと感じ、豊という意味を問う時、地球は青さをとり戻す」
 阿久悠が1979年に書いた詩の一部だ。33年前に彼は当時を、人間性が失われていく時代と捉えていたのだろう。国際児童年だったこの年、この詩は「30年後の子どもたちへ贈る言葉」として書かれ、愛知県の地球博公園に埋められた。毎日新聞社と愛知県教育委員会が作ったそのタイムカプセルが、掘り起こされたのがそれからちょうど30年後の2009年――。
 「久しぶりにスタジオに入った。あの詩を合唱曲にしてレコーディングしたんです」
 オフィス・トゥーワンで働く友人アサクラが興奮を隠さずに伝えて来た。ビクターで制作部長までやった朝倉隆氏だが、雀百まで、現場に出ればやはり血が騒ぐのだろう。それにモノがモノである。日本の一つの時代を語る詩に、千住明が曲をつけ、NHK児童合唱団で合唱曲に仕立てた。
 「子どもたちの歌声がもう、純真無垢で…」
 と、これもまた感激のネタの一つになっている。
 《あれから33年、1979年って、どんな年だったっけ?》
 資料の年表を広げたら、まっ先に飛び込んで来た項目が米スリーマイル島の原発事故だ。東日本大震災、福島原発事故を被災したばかりだから、反応がひどく実感的になる。他に第二次石油ショック、インベーダー・ゲームのブーム、ウォークマン発売などがあり、この年の1月31日、江川卓が阪神に入団、即日巨人小林繁とトレードで、世論は沸騰した。
 レコード大賞は西城秀樹の「YOUNG MAN」にジュディ・オングの「魅せられて」が競り勝った。流行語が「エガワる」「天中殺」である。それやこれやを思い返すと、かなり騒然とした時代。そんな世相の中で、30年後の将来へ、阿久は彼の願いを伝えようとしたのか?
 阿久の作品年表にはこの年、八代亜紀の「舟唄」が登場する。事情があって次の「雨の慕情」も僕がプロデュースしたのだが、それで僕のタイムカプセルもふたが開く。「また逢う日まで」で一気に怪物ヒットメーカーに浮上した阿久に、あのころ僕は一時休筆をすすめた。70年代の10年間、彼は睡眠さえ4時間前後に削って働きづめ。当然、いろんな面に無理が来ている。
 しかし、僕の一年休筆案は、本人から半年に値切られた。
 「80年代の初めに、仕事をしていない僕は考えられない!」
 というのが彼の主張で「それもそうか」と僕は、スポニチに〝半年休筆〟を記事にした。「舟唄」は実は、僕の手許にあった彼の旧作だから、休筆中のレコーディングで「雨の慕情」は、新規発注したから、休筆明けの作品ということになる。
 阿久との親交を振り返りながら、彼が見ずじまいに逝ってしまったこの国の昨今を見回す。大震災は天災、原発事故は人災だろうが、この二つの洗礼を受けて再確認されたのが「絆」の一文字。僕らは一人々々が自助努力をし、お互いに助け合い、みんなで共生することを学んだ。そういう連帯の仕方を、取り戻したといっていい。政治や行政の無力に突き当たって、自分たちで出来ることを出来る範囲でやるしかない…と、思い直したことになろうか。
 「やさしい日差しが剣よりも鋭い時代」「詩が銃よりも強く、絵が火薬よりも激しく、言葉が弾よりも人を射る時代」が、すぐそこまで来ている…と、阿久はこの詩で語ってもいる。そう書きながら、何度も繰り返されているフレーズは「いつか、やがて」だ。この詩にこめられた思いは、阿久の詩人としての〝祈り〟だったろうと、僕は合点する。レコーディングに立ち合った阿久の息子、深田太郎氏は、涙ぐんでいたとこれもアサクラの話だ。
 出来上がったCDは、この2月、毎日新聞社が創刊140年を迎えるのを記念して、全国の小学校に配られる。「希望」を届けるというのがコンセプトだそうな。

週刊ミュージック・リポート

新年は女性艶歌が先頭に立つ

 ほほう!と感じ入ったのは、川中美幸の『花ぼうろ~霧氷の宿~』や山口ひろみの『その名はこゆき』永井裕子の『そして...雪の中』キム・ヨンジャの『月下美人』など。
 今回は全曲が1月発売分。新しい年は女性艶歌で明けそうな雲行きで、その後押しをしているのは池田充男、たかたかし、田久保真見ら作詞勢に作曲の原譲二だ。
 まだいろいろと苦難の続く世相、CDの売り上げがパッタリ...と、問題はいろいろあるが、活路は〝いい歌〟が拓くと信じていこうか!

花ぼうろ~霧氷の宿~

花ぼうろ~霧氷の宿~

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:川中美幸

 平成23年の春と秋、明治座公演『天空の夢』で、僕はこの人と〝差し〟の芝居をした。向き合って二人きり、身近かに感じたのは、幕末の長崎、懸命に生きる大浦屋お慶を演じるこの人の、熱い思いと表現の呼吸...。
 この歌を聞いて同じ気配に気づいた。すぼめた声の芯をしならせて、まっすぐに思いのたけを伝える。別れを前にした女心ソング、一番で雪の風景の中に主人公を立たせ、二番でその心情を吐露、三番で尽きぬ未練を訴える。歌いながら語っていて微妙。この人は明らかに、歌の中で女優をやっている。

こころ坂

こころ坂

作詞:仁井谷俊也
作曲:花笠薫
唄:千葉一夫

 ♪ここまで来るには、いろいろあった...という歌い出しの歌詞、しあわせ演歌の夫の側の心境だが、もしかするとこれは千葉の、歌手としての道のりにも通じるか? だとすれば歌がどう変わるか?
 しかし本人はどうやら、それとこれとは別...と考える。だから3行めの♪無理などしないで、これから先は...というフレーズにも、別段、自分の思い入れを重ねる様子はない。
 そういう淡々とした歌唱、自分の顔よりも作品を前面に出す姿勢が、案外この人の、庶民性を根強いものにしているのかも知れない。

月下美人

月下美人

作詞:田久保真見
作曲:田尾将実
唄:キム・ヨンジャ

 ふむ、カラオケ上級者用で、ポップス寄りのオトナ歌が狙いか! そんな感想を持たせる仕事ぶりは、作詞・田久保真見、作曲・田尾将実のコンビ。全身で歌い上げるヨンジャ流〝張り歌〟のトンガラシ味が抑えめ。しかし、これをサラッと歌うのは、案外むずかしいぞ!

遠い空だよ故郷は

遠い空だよ故郷は

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:佐々木新一

 昔、第二の三橋美智也と騒がれた声と節の持ち主。それが久々の新曲で、春日八郎ふうな歌い回しを聞かせる。ギター流し的イントロも含めて、いずれにしろ懐かしいキング・カラーがありありだ。声の張り、差す手引く手の呼吸にベテランの味を賞味しようか。

そして...雪の中

そして...雪の中

作詞:池田充男
作曲:岡千秋
唄:永井裕子

 ほほう!である。元気印の永井が、初めての湯の町道行きソング。しみじみ艶っぽく...と身をしならせるように歌っている。刹那の恋に立ち尽くす女に「いいのこのままあなたに抱かれ、たとえば赤い雪の花...」なんて言わせるのは、作詞・池田充男の老練の一手。

ひとすじの恋

ひとすじの恋

作詞:麻こよみ
作曲:四方章人
唄:立樹みか

 着物演歌がおなじみで20年超の立樹が、宣材をジーンズとシャツブラウスに衣替え、ムード派の新境地を歌う。ポップス系歌謡曲だがこんな時代、何でもアリだから冒険もいい。面白いのはサビあたり、声を張ると演歌色が強まる。これも新・立樹流とするか。

津軽へ

津軽へ

作詞:なかにし礼
作曲:浜圭介
唄:細川たかし

 あえて細川流は避けた歌づくり。なかにし礼と浜圭介が、彼ら流の望郷ソングを書く。それに細川が添って歌ってみせた。だから彼の声と節で圧倒する手口は、今回はナシ。歌詞に1コーラス1カ所ずつ、句点の「 。 」があるのは、作詞者から作曲者と歌手への注文か?

ふるさと恋しや

ふるさと恋しや

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:清水博正

 作品の世界をたっぷりめに、ごく自然な哀調で歌う。清水があらかじめ貯えておいた情念、流行歌のエッセンスが流れ出るようだ。眼の不自由な人相手で、語弊があるのを承知で書けば、歌詞の「青空、そよかぜ、白樺林」などの風景が、彼にはちゃんと見えているみたいだ。

コキリコの里

コキリコの里

作詞:もず唱平
作曲:聖川湧
唄:成世昌平

 もず唱平・聖川湧コンビの『はぐれコキリコ』の続編。ただし今回は、成世の音域の広さ、独特の節回しは抑えた。ファンに〝歌える〟妙味を残す作戦。タイトルと同じ言葉が各節末尾にあり、ふつう朗々と歌い放つところを、そうは行かぬ聖川の工夫がオモシロイ。

その名はこゆき

その名はこゆき

作詞:数丘夕彦
作曲:原譲二
唄:山口ひろみ

 ♪北の女をくどくなら、秋の終わりにするがいい...なんて、一番の歌詞がなかなかの酒場唄。歌い募るサビあたり、山口の歌声に一途さがにじむが、それが語尾でふっと崩れ、揺れるところに風情がある。作曲・原譲二の旧作、こちらもあえて北島節を避けてなかなかだ。

MC音楽センター

殻を打ち破れ121回

 「結局は、ヒット曲があってこその歌い手だと思うの。楽屋の席順だって、それで決まるんだし…」

 久しぶり会った北原ミレイがポツンとそんな事を言った。屈託のない世間話にはさまった、妙に生々しい本音…。 ≪えっ? 楽屋の席順?≫

僕はその一言にひっかかる。歌手生活も40年を越え“歌巧者”の評価も定まり、とうに一家を成したこの人が、まだそんなこだわりを、あえて口にするのか?

デビュー曲『ざんげの値打ちもない』がヒットしたのは、1970年。この1曲で僕は作詞家阿久悠と歌手北原ミレイを同時に発見、ものの見事に舞い上がった。この作品が流行歌の流れを変える! 変革の70年代、阿久は新時代の旗手になる! それを象徴するのがミレイだ!

当時新聞記者だった僕は、そう書きまくり吹聴しまくった。14才で愛に飢え、15才で男に抱かれ、19才で男を刺そうと待つ女…。ナイフの青白い光が眼を射る映像的感覚、ドス黒いストーリー性、早熟の時代を言い当てた視点、流行歌のタブーへの挑戦などが、衝撃的で新鮮で、文学的ですらあった。はばかりながら後に阿久は、

「そう言うふうに評価してくれる人がいるなら、本気で作詞をしてみようと思った」

と自著に書き、

「小西さんが居なかったら、あの歌はきっと世に出なかった」

と、ミレイは今でも述懐する。しかし――。

彼女はそれから4年後に歌うことをやめている。『ざんげ…』が作った“暗いイメージ”に耐えられなかった。彼女の歌手としての夢と、あの世界の現実には、ギャップが大き過ぎた。ミレイはあの主人公を演じ続けることに疲れ果てた。止めを刺したのは阿久が書いた2作めと3作めで、タイトルは『棄てるものがあるうちはいい』『何も死ぬことはないだろうに』――。

ミレイが歌いたかったのは、例えばペドロ&カプリシャスの『別れの朝』など、ロマンチックでおとなの気分のポップスだった。ところが彼女は『石狩挽歌』(75年)『漁歌』(83年)とまた“暗め”の回り道をして、やっと辿り着いたのがここ10年ほどの『女友達』『雨の思い出』『ショパンの雨音』…。それまでの試行錯誤の中で、ミレイは一体、どのくらいの辛い、口惜しい思いを背負い込んで来たのだろう?

転機を作ったのはカラオケである。歌う現場で直面したのは「歌ってもらってナンボ」の実態。売れないままのいい歌なんてない。売れて歌って貰ってはじめて、いい作品になるという現実。それと長年の夢を突き合わせたのが、和製シャンソンとも言うべき作品群だった。今、その集大成みたいに彼女は、新曲『ためらい』を歌う。ちあき哲也の詞、ひうら一帆の曲が、確かになかなかの仕上がり。

さて新年…と、僕は考える。この路線とこの作品でミレイは今楽屋でどんな席順を得ているのだろう? この先ずっと彼女は、どんな席順を確保して行くのだろう?

月刊ソングブック

 
 由紀さおりに電話で「祝意」を伝えた。アルバム「由紀さおり&ピンク・マルティーニ1969」の成功について。日本でも大きな反応を呼んでいるが、日本語で日本の流行歌を世界へ!のコンセプトが、EMIから全世界へ発信中。その陰にある彼女の、自分の歌世界を一途に守って来たこだわり方と、やると決めたらとことんやる行動力に敬意を表した。
 「なんだかねえ。こんなことになっちゃったでしょ、本人が一番びっくりしてるのよ」
 あははは…と由紀は、屈託なげに笑った。彼女の曲「タ・ヤ・タン」を歌っていたピンク・マルティーニと接触したのが一昨年の夏から秋、それがジョイントする話に進むのが昨年の春。そこへ3・11東日本大震災である。オレゴン州の日本人会と彼らが支援コンサートを開き、由紀が飛んでいって参加した。やがてアルバムづくりが進み、強行軍の吹き込み、発売が10月…である。舞台裏では相当な曲折もあったが、由紀の達成感も、あれよあれよ…だったかも知れない。
 彼女は長く、姉の安田祥子と童謡を歌い継いで来た。それとは別にソロで〝21世紀の歌謡曲〟の手探りを始める。それが前面に出たのが一昨年の40周年コンサートだったが、僕は語弊があるのを承知で、
 「卵に目鼻みたいなツルっとした境地から脱却しようよ」
 と、乱暴にそそのかした。歌声も唱法も彼女なりに整っているのを壊し、より実感的により本音っぽく、自分をさらしてみてはという提案。昨今の日本の歌の流れに突入するにはそれが肝要と考えたせいで、彼女が岡林信康の「チューリップのアップリケ」を選曲すれば、わが意を得たり…と悪乗りした。
 ところが、ピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・M・ローダーデールは
 「彼女は日本のバーブラ・ストライサンドだ」
 と、彼女の歌世界の完成度を評価した。国内の流行歌向けえげつなさを求めた僕は、不明を恥じなければならなくなった。アルバムは、透明感が輝く彼女の高音よりは、しっとり人肌の艶を持つ中、低音を多用して聴こえる。歌手の存在感を濃いめにするための、和洋の相違だろうか。
 別件でEMIを訪ねた1月14日夜、ばったり会った佐藤剛、山口栄光の二人と一杯やって大いに盛り上がった。佐藤はフリーのプロデューサーでこのアルバムの端緒を作った。山口は由紀の制作担当で、アルバム実現まで身を粉にして粘りぬいた。双方相当に親しいため、姓名が呼び捨て表記でごめん!
 佐藤はミュージックラボからのつき合い。最近では岡林信康の美空ひばりトリビュートアルバムや由紀の仕事をやり、昨年はしっかり調査した好著「上を向いて歩こう」を上梓、今年3月には久世光彦さんの7回忌イベントの世話人をやる。彼の発想と行動範囲の特異さを僕は「桂馬跳び」と称している。
 山口は昨年、やたらに渡米した。アルバムにおける由紀とピンク・マルティーニの、音楽家としての位置関係の調整、選曲からアレンジまでの双方の美意識のすり合わせ、それにレコーディング現場でのあれこれと、心身ともにギリギリまで頑張った気配。坂本冬美の「また君に恋してる」でひと風吹かせて、今度は由紀の成功である。
 「運がいいんですよ、僕は…」
 と、口ぶり謙虚なのへ、
 「めいっぱい仕掛けてなけりゃ運もつかめない。運も実力のうちっていうのは、そういう意味じゃないの」
 と、僕は年寄りじみたことを言う。山口は船村徹の知遇を得る一人で、心情はこてこての演歌派。しかし、詞も曲も旧態依然のままでは、ファンの支持を集めにくいと思いつめる。
 「だから魂は演歌でも、表現の容れものを変えて、40代、50代、60代を狙いたいんですよ」
 《そうか、和魂洋才は近ごろ、この世代なりにこういう型をみせるのか!》
 僕は働き盛りの男二人が、正直なところ少々眩しかった。

週刊ミュージック・リポート

  
 何よりもまず、集中力の凄さに脱帽した。名取裕子の「新春朗読特別公演」で、題材は川口松太郎作「人情馬鹿物語」から「遊女夕霧」と「七つの顔の銀次」の二編。大正末期の深川・森下を舞台に、江戸っ子の人情物語を、面白おかしくしみじみと、ちょいと小粋に…という世界だ。登場人物のやりとりは芝居、話を運ぶ文章部分は朗読で、一作ほぼ50分、名取は悠揚せまらぬ流れを作り、時に情感のうねりほど良く、言い淀む気配など一カ所もありはしなかった。
 1月5日、日本橋蛎殻町の日本橋劇場で開かれた会の二日目を見に行く。
 《詰めれば〝日劇〟で、何とも懐かしげな響きの劇場名じゃないか》
 僕は昔々、毎週のように取材に出かけた日劇を思い出した。都はるみや五木ひろしの初舞台を見た。ウエスタンカーニバルでは、ザ・スパイダースの楽屋で、田辺昭知から白土三平のマンガの面白さを教わった。今日の日劇はキャパ400余のこじんまりしたホールで、ちゃんと花道まであっていい雰囲気。
 「人情馬鹿物語」は、川口が講釈師悟道軒円玉の家に居候をしていたころの見聞記だという。吉原の花魁・夕霧が、自分に入れ上げ身を持ち崩した呉服屋の手代を救おうと奔走するお話が「遊女夕霧」足を洗った名うてのスリの銀次が、恋心を寄せる娘のために、一度だけ元の稼業に戻るお話が「七つの顔の銀次」――。
 1階8列13番は、横断する通路に面した席の中央。足をのばしてゆったりと、名取の魅力にひたるには十分のところで、左隣りには演出の岡本さとるがいる。緋毛氈を敷いた床几に、名取はやや斜めに腰をおろす。作曲もした新内剛士の演奏が道づれで朗読が始まる。台本を両手に開いたまま、名取は時折すっと立ったり少し歩いたりする。登場人物の激し方によるものだが、あわせて彼女の艶やかな着物姿が、目を楽しませる趣向だろうか。
 「彼女の、作品の読み込み方は相当なものです。小説一編ずつが、彼女の胸中にすっぽり収まっているんじゃないですかね」
 演出の岡本がそんなふうに言う。50分間一度も途切れぬ緊張感の維持と、それすらも感じさせぬ仕上がりの理由を探す僕への答えだ。
 《ふ~む…》
 と僕は唸るしかない。芝居なら舞台に出ていない場面がある。出ていても主役が芝居をしている時は、それなりのたたずまいで、居るだけの個所もある。緊張の度合いに多少のゆるみたるみは生まれるものだ。ところが朗読という舞台は、一人っきりの出ずっぱり。呼吸まで物語のそれと重なるのか!?と思うくらいの濃密さが続く。
 僕の初舞台は6年前の明治座川中美幸公演。その次が大阪松竹座「妻への詫び状・星野哲郎物語」で、名取と一緒だった。その後、千住のシアター1010で名取主演の「耳かきお蝶」に出て、何と彼女のひざ枕で耳をかいてもらうご隠居をやる光栄にも浴した。それやこれやのご縁のアーティスト・ジャパン岡本多鶴プロデューサーが、今回の名取公演も制作した。
 《そう言やあ…》
 と、耳まで赤面したのは、暮れに日比谷公会堂でやった「星野哲郎メモリアル・水前寺清子コンサート」の件。僕は生ナレーションふうに舞台で台本を読んだが、滑舌はいい加減、言葉は噛むしいい直しはやるしの体たらくを、岡本プロデューサーに見られていた。
 1月5日のこの日は、僕の個人的仕事始め。いいものを見せて貰い、大いに勉強になった…と、殊勝な心がけで、レコード協会の新年会に顔を出し、飲み屋にも寄らずに葉山の自宅へ戻った。
 それと言うのも本年、大いに期するところがあるせいだ。「浅草瓢箪池」「喜劇隣人戦争」「水の行方・深川物語」と、3年連続でいい役を貰った東宝現代劇75人の会に、正式劇団員として参加を許されたのが一つ。明治座川中美幸公演でこれまたこの上なしの役を貰った「天空の夢・長崎お慶物語」が、7月、大阪新歌舞伎座で再演されることがもう一つ。何もかも勉強、また勉強のいい年になりそうだ。

週刊ミュージック・リポート

社会的視野と年季の技量と

 『一本杉』以来、久々に『いっぽんの松』か...なんて、下手な冗談を言うのはよそう。作曲生活50年超の船村徹の、社会を見守る眼と感受性と即応性。それが時事ソングの『いっぽんの松』を、心に響く歌にした。
 年季の芸や技、侮るべからずである。それを志賀大介・作詞、村沢良介・作曲の『宗谷海峡』にも感じた。時代色と流行歌を突き合わせて、僕は長く新しさを試聴のメドにして来たが、決してそれだけではない。それにしても、期待の新勢力がなかなか出て来ないねえ。

いっぽんの松

いっぽんの松

作詞:喜多條忠
作曲:船村徹
唄:千 昌夫

 3月、陸前高田で1本だけ防潮林の松が残った。350年前に植えられたものが、あの東日本大震災に耐えた。そのニュースに胸うたれた船村徹が「書いてみないか」と、喜多條忠に作詞を促す。出来上がった作品に「是非!」と名乗りを上げたのが千 ...という順番。
 松は復旧復興のシンボルになり、この歌は東北の人々の再起を、後押しする祈りに通じるのだろう。ゆったりめの抒情的な曲を、千は上を向いて、明るめに歌っている。彼の歌声に色濃い東北の匂いが、北国の人々の粘り強い生き方を示すようにも聴こえる。

命果てるまで

命果てるまで

作詞:麻こよみ
作曲:宮下健治
唄:岡ゆう子/宮下健治

 いつのころからか、この時期にはデュエットものがあちこちから登場する。忘年会シーズンをあて込んで...が常だったが、国難のこんな年でもそれは変わらないと見える。
 もう一つ近ごろの流行は、作曲家たちの歌手兼業。この作品では宮下健治がそれに加わった。くぐもりがちの枯れた声味で、けっこう演歌臭の強い歌い回し。それが岡ゆう子に聞かせどころ、決めどころを譲った形で、彼女の歌をサポートしているのが面白い。ネタは裏町に仮所帯を持った貧しい男女の物語。だが、タイトルほどに深刻ではない。

夫婦絆

夫婦絆

作詞:祝部禧丸
作曲:中村典正
唄:鳥羽一郎

 家族の絆、妻への感謝の歌の、海の男版。2年前に出した作品が、巷で歌い継がれてもう一度!の出番が来た。前回とは1番と3番の歌詞が入れ替わっているという。息子2人と妻と孫の話からいきなり入って、確かにこの方がリアリティも説得力もあるか!

ふたつ星

ふたつ星

作詞:松井五郎
作曲:弦哲也
唄:都 はるみ/五木ひろし

 たまたまの再会、もうちょっと歩こうか...となった男女。過去に何があったのか、今互いがどうしているのかなどには、全く触れない。松井五郎と弦哲也が書いた、おとなのデュエット曲。都と五木だからこそ成立する世界で、それだからこそ、味わいも独特だ。

男酔い

男酔い

作詞:喜多條忠
作曲:杉本眞人
唄:吉 幾三

 歌の吉、詞の喜多條忠、曲の杉本眞人の足並みが揃った。「男はいつも大きくて 男はいつも馬鹿だから...」の歌詞2行がそれを示す。前半は願望、後半は現実を言い当てていて、当方は共感のハハハハ...だ。各節の歌い納めの「男酔い」を吉がガツンと歌い切った。

宗谷海峡

宗谷海峡

作詞:志賀大介
作曲:村沢良介
唄:木原たけし

 ベテランの手練のほどが鮮やか。志賀大介の詞、村沢良介の曲は双方、すっきりと言い切れて余分なゆるみたるみがない。それをまた、木原の美声が気概をこめて歌い切った。とりたてて新味はないが、三位一体、古風でもいいものはいいのだ...と感じ入った。

うわさ雨

うわさ雨

作詞:鈴木紀代
作曲:中村典正
唄:長保有紀

 「ノリの良い2ビート演歌です」と惹句にある。ブンチャブンチャの気分のよさを、近ごろはそう表現するらしい。長保の歌もすっかり 〝その気〟の気配。おきゃんな口振りこみで、聴く側へ攻め寄ってくる。揺れながらしなる着物姿が、 眼に見えるようだ。

夫婦善哉

夫婦善哉

作詞:下地亜記子
作曲:久保進一
唄:鏡 五郎/真木柚布子

 歌もかわりばんこ、2箇所にあるセリフもかわりばんこ。男女が顔見合わせながら、嬉しそうに歌うにはもって来いの作品。本家はこれも芝居っ気ではひけを取らない鏡と真木の顔合わせと来た。一部の人にむずかしいのは大阪弁だが、ま、ほどほどでもいいか!

名瀬の恋風

名瀬の恋風

作詞:せとさだし
作曲:井上たけし
唄:野中彩央里

 藤田まさと賞を記念した新作コンクールのグランプリ作品。コツコツと地道に歌を書いて来た人のものらしい、律儀さが垣間見える。こういう歌がこういうふうに、脚光を浴びるのはとてもいいことだろう。その意義を感じてか、野中の歌の仕上がりも、慎重で律儀だ。

東京の枯葉~ニューバージョン

東京の枯葉~ニューバージョン

作詞:夏海裕子
作曲:杉本眞人
唄:チェウニ

 歌を語りながら、次第に激していく。息づかいが切迫し、歌声がいじらしいくらいの艶を帯びる。そこがチェウニの得難い魅力で、やっぱり夏海裕子の詞、杉本眞人の曲がはまる。大きくも歌える曲を小ぶりに歌う妙。いいものは何遍でも出せばいいじゃないか!

最愛の恋人

最愛の恋人

作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:内田あかり

 歌詞の語尾、歌いのばすあたりをふっと抜いて気分を作るのがこの人の歌いぐせ。それが徳久広司の長め、大きめの曲に、情の句読点を作った。スケールよりはこまやかさが欲しい仕上げ方。カップリングが『ノラ』であるあたりにも、狙い目がすけて見える。

MC音楽センター

殻を打ち破れ120回

 「美空ひばりは今も、現役です!」

 ひばりプロ社長の加藤和也氏は、しばしばそう言い切る。今年23回忌を迎えた母親の“ひとと歌”が、往時と変わらぬパワーを発揮することについての、偽らざる実感だろう。6月20日、帝国ホテルで開かれた法要では、映像のひばりと生のオーケストラが協演、300人の参会者の拍手を浴びた。11月11日、東京ドームで開かれたメモリアル・コンサートでは、新旧世代の人気者が勢揃いして、ひばりを語りひばりを歌った。

 ≪確かにこれはエライことだ。22年も前に亡くなった人が、全く新しいエネルギーを生んでいるじゃないか…≫

 僕は和也氏と有香夫人と顔を見合わせ、うなずき合ったものだ。

 ドームコンサートは「だいじょうぶ、日本! 空から見守る愛の歌」と名づけられ、東日本大震災のその後を支援する催しになった。五木ひろし、小林幸子、氷川きよしら演歌歌謡曲勢に、EXILE、倖田來未、平井堅、平原綾香らJポップ勢とAKB48が加わる。会場内外でみんなが口にした言葉は「リスペクト」で、舞台と客席の間で、ひばりへの「敬意」が交錯した。それがこのコンサートに、単なるスターパレードに止まらない意義を加えた。

 よく耳にする感想がある。「演歌って、みんな同じように聞える」と言うのが若い世代。「このごろの若い子たちの歌は、どれもこれも同じで、さっぱり判らない」というのが、熟年世代の言い分だ。そういうふうに音楽や歌の好みや支持は、世代別に長いこと完全に分断されていた。ところが――。

 Jポップのスターたちが、敬意をこめてひばりソングを歌うと、そのファンの間に、古い、いいものへの再確認の気配が生れた。歌謡曲のスターをお目当てに集まった熟年ファンは、若者たちがひばりを歌う姿に感じ入り、若者たちのレパートリーにも耳を傾けた。しょせん通じ合うことのない娯楽と、双方の流行歌を顧みることがなかった新旧世代が、お互いに好感を持ち、理解しようとした。

 加藤和也氏の言う「ひばり現役説」は、ひばりの世界が昭和をしのぶ“よすが”になるだけではなく、こういうムーブメントの軸として生きていることを指すのだろう。それは同時に、彼と有香夫人の仕事が、ひばりを継承し、維持するだけではないことを示している。2人はひばりの魅力を拡大再生産して、次の世代へ、生前のひばりを知らない若者たちにまで、伝えて行こうとしているのだ。

 ≪ひばりが空から、見守っているみんなの、中心にいるのは、間違いなくこの2人だ≫

 ひばりの母親喜美枝さん、ひばり本人、それに和也・有香夫妻と続いて、僕は加藤家三代にまたがる親交に恵まれている。それだけに夫妻の情熱と夢、それを実現するための奔走ぶりに、胸を熱くすることが多い。戦後70年の節目でもある今年、戦後が生んだスター美空ひばりが、新旧世代の歌とファンを融合へ導いた。このイベントは後々そんな意味で、歴史的意義を持つ予感が、しきりにしたものだ。

月刊ソングブック

  
 星野哲郎があろうことか、自分の詞に曲までつけ、そのうえ歌ってるCDがあることをご存知だろうか? まさかそんなものが…といぶかる向きが多かろうが、確かに存在する。平成元年にCBSソニー(当時)から発売された「十人十艶」というアルバムの中の一曲、タイトルは「ゴンドラ哀歌」だ。
 ♪命短かし恋せよ乙女…
 の「ゴンドラの唄」が愛唱歌だったと言う星野が、彼流にそれをコピーした歌だと、歌詞集の中に書いている。命短かし…の名フレーズに対抗したつもり…という2行が、
 ♪ふたり一つの恋のせて、舟は嵐の海を行く…
 で、歌詞の三番のおしまいにある。死なばともに…と誓い合った男女の道行きソングだ。
 僕は12月13日の昼夜、日比谷公会堂で「星野哲郎メモリアル・水前寺清子コンサート~千里の道も一歩から」を手伝った。おこがましくも「監修」なんて肩書きまで貰い、星野の足跡やひととなりについての生ナレーション、けっこうきっちり書き込まれた台本を、観客の前で読んだ。最近いろんなことに手を出してはいるが、これは僕にとって初めての体験。
 「滑舌がどうの、イントネーションがどうのと、むずかしいことはいいっこなしよ!」
 なんて、勝手な煙幕を張ったら、心やさしい演出家の山本秀実がコックリをした。
 「統領! いつもの調子でやりゃいいんですよ」
 と、妙な後押しをするのは、プロデューサーで水前寺のダンナの小松明と音楽監督の山﨑一稔あたり。旧知の間柄でお互い遠慮がないが、それだけにこちらはヘマはやりにくい。
 星野には密着取材45年余を許された。作詞はしないが、物書きの操と志を学ばせてもらって、師弟の関係の認可!?も得ていた。水前寺が星野の愛弟子であることは周知のとおり。だとすれば僕と彼女は姉弟弟子ということになる。彼女がコロムビアのコンクールで星野に認められたのが昭和35年で15才の時。僕が星野と初めて会ったのは38年、28才だったから、10才ほど年上だが、星野歴では水前寺の方が姉貴分だ。
 その水前寺が、思い出のコンクールと同じ日比谷公会堂で、星野の追悼コンサートをやる。僕は、何はおいても手伝わない訳にはいかない縁があり、それならば…と、共演者に名を挙げたのが辰巳琢郎とモト冬樹。こちらは今年6月に名古屋御園座で「恋文・作詞家星野哲郎物語」で共演していて、その時星野に扮した辰巳が今回も星野役。劇中「みだれ髪」を歌って好評だったモトには、おしゃべりの他に星野作品を何曲か。つまりは星野をめぐる「縁(えにし)」のあれこれが、勢揃いしてステージに上がった催し。32年ぶりに指揮棒を振った作曲家安藤実親は、いわば星野の同志だった。
 このコンサートは水前寺にとって、思い出の場所で恩師に捧げた彼女流儀の一周忌法要。終演後、
 「少し心の整理がついた」
 と涙ぐんだ。生前星野が
 「人生の応援歌は、みんなが辛い時こそ、聞かれたり歌われたりするんだ」
 と、しみじみしていたことも思い出した。「365歩のマーチ」を歌いながら、水前寺の胸中は大いに揺れたろう。未曾有の災害に重なった人災、復旧、復興は掛け声ばかりで、行き場のない不安が社会を覆うこの年の瀬、彼女は改めて自分が「歌うことの意味」を問い直したかも知れない。
 ところで冒頭のアルバム「十人十艶」だが、星野と一緒に石本美由起や山上路夫までが作詞、作曲、歌を披露している。遠藤実、岡千秋、杉本眞人、聖川湧、たきのえいじらが自作自演していても別に驚かないが、全員新曲、一体誰がこんなことを? の疑問は、エグゼクティブ・プロデューサーに、馬渕玄三の名がクレジットされていて氷解した。
 このコラム、2011年最終回の今回は、世相と同じに後ろ向き。掘り出しものの報告をしながら、星野に阿久悠、吉岡治、三木たかしらの顔を思い浮かべた。近ごろ流行歌が、内容、スケールともに、やせてきているのがとても気にかかる。

週刊ミュージック・リポート

  
 舞台中央に粋なやくざ姿の沢竜二、仇役の十手持ちと立ち回りがあって照明が変わる。その背後にセリで上がって来る捕り方数名、ズラリと並ぶ御用提灯、背景は青々と伊豆の海…。そこでジャーンとイントロが始まる。沢が吹き込んだ演歌「知らぬが花」で、
 ♪わかれ夜風に舞う蛍 添えぬふたりの 写し絵か…
 12月7日昼夜、浅草公会堂で開かれた「沢竜の旅役者全国座長大会」第一部「恋ざんげ雪の夜話」の大詰め。ここから今回売りものの大殺陣が始まった。
 《へえ、この曲をこんなふうに使うんだ。ぴったりはまってるじゃないか!》
 僕はニンマリとそれを眺めている。「知らぬが花」は一昨年秋に作ったアルバム「男の激情/沢竜二」からのシングルカット。岡千秋の曲に水木れいじが詞をはめたやくざな男の別れ唄だ。そう言や「宿」だの「坂」だの「ネオン」だの「止まり木」だのの、演歌おなじみの小道具はなしで、もっぱら男の心情をあれこれ…と注文した。そういう歌詞だからかえって、大衆演劇には使い勝手がいいのか。
 子供のころから旅芝居が好きで、後年、沢の全国大会はよく見に行った。遊びとも取材ともつかぬ浮かれ気分。それが縁で「出ないか?」と誘われ、今回が4年目の参加である。相変わらず胸中は、新米役者の緊張と、浮き浮きそわそわの二本立てだ。二部の舞踊ショーにはいろんな歌が出て来た。「赤と黒のブルース」「河内遊侠伝」「赤い椿と三度笠」「新地ワルツ」「燃える男」「アジアの海賊」「白雲の城」「悲しい酒」のアンコに「ひとり寝の子守唄」をはさんだ新趣向に、新しいところでは「男酔い」…。
 いつものことながら、若葉劇団総帥・若葉しげるの女舞いがなかなかである。小柄なおっさん(失礼!)が一変、何とも艶っぽい女形で、身のこなし差す手引く手、おちょぼ口の表情までが、可憐な風情を生む。曲は五木ひろしの「千日草」そう言えば旅役者の面々は、独特の嗅覚と美意識で、埋もれ加減の沁みる歌を掘り出して来る。だから聞いたような歌声で、全く知らないいい歌に出っくわす楽しみが、彼や彼女の舞台にはある。流行歌に関しては、野に賢人ありと言うべきか。
 沢が主宰する竜劇隊の花形ひかる光一に、彼が踊った耳慣れぬ歌のタイトルを尋ねたら、香西かおりの「宇治川哀歌」と答えた。誰かが踊るのを見ていいな…と思い、あちこち調べて自分のレパートリーにしたと言う。この世界ではひそかに、歌の伝承までが行われているということか。年々歳々、出ては消えるあわただしさで、消費されていくはやり歌だがその中で、生き延びていく作品の生命力と、それを育てる土壌のひとつ、異形で踊る人々の歌心を垣間見る心地がした。
 ところで…(と、また芝居の話に戻って恐縮だが)今回の僕の役は、鼻の頭まで赤くした酔っぱらいの漁師。宿場女郎とじゃらじゃらしているのをカミサンに見つかり、首に縄つけて連れ戻される。11月明治座川中美幸公演「天空の夢」でやった豪商役の威風堂々!?とはうって変わっての道化役。近ごろ僕の役者狂いに理解を示す友人たちも「あんたも好きねえ」「よくやるよ!」と呆れ顔をした。
 フィナーレ、沢竜二が「本職は?」と聞くから「旅役者見習い!」と答えたらウケた。それに沢は「この人も奇特な人で…」と、ごていねいに僕の前歴、スポニチの役職名まで紹介する。列の隣りにいた座長さんが「へえ、そうなんですか!」と囁くから、僕は真顔で「へえ」と答えた。
 終演後はお定まりのお客さんのお見送り。花形たちのしっぽで低頭を続けたら、
 「あんた、上手だったよ」
 「頑張ってね」
 「風邪に気をつけてね、年なんだから…」
 と、僕より年下ふうのおばさんたちに激励され、10数人から握手を求められた。
 《これだから役者はやめられないよ。目指せ、後期高齢者の星!ってところか…》
 肩をすくめながら僕はまた、浮き浮きするのだからいい気なものである。

週刊ミュージック・リポート

やくざ唄まで姿を消すの?

 暴力団を締め出す条例が、各都道府県に出揃った。企業や個人の接触までチェック、からめ手から締め出そうとする。市民生活をテコにするあたり、窮余の策とも思われる。
 暴力団徹底追放に、もとより異論などない。協力するのが市民の務めでもあろう。しかし、自粛するあまりに、流行歌の題材まで考え直すとなると、タタラを踏む。流れ者、はぐれ者を主人公にして、男の生きざまや孤独、美学を歌っても、それが暴力団を礼賛するとは思わない。過剰な反応はいかがなものだろう?

ふたりの朝

ふたりの朝

作詞:たかたかし
作曲:叶弦大
唄:中村美律子

 聴いていて、ひどく気分がいい。メロディーの起伏、リズムの弾み方、中村の歌のほどよい明るさが、その要素。それだけか?と、もっと耳を澄ませてみる。
 1コーラス6行詞の歌。それぞれの行のおしまいの歌い伸ばすところが、たっぷり同じ長さであることに気づく。1行ずつ、お尻を気分よく歌い伸ばして、それが開放感を作る。
 大昔なら岡晴夫、昔なら新川二郎のヒットに、こういう奴があったな...と思う。鼻歌で歌い伸ばす兄ちゃん節。中村は心得顔の笑顔で歌った気配で、余分な技は使っていない。

白川郷

白川郷

作詞:たかたかし
作曲:四方章人
唄:香田 晋

 四方章人の曲は、相変わらず穏やかめ。それがお人柄だし、彼の作品の特徴でもある。ゆったりと、起伏もなだらかに、白川郷を舞台にした女心ソングだ。
 ギターをメインにした南郷達也の編曲がそれを揺すぶる。狙いは情緒てんめん...の世界。この人の作る音は、暖かめで包容力があるのが特徴だ。
 そんな容れ物に、哀愁ひといろの心情を盛るのが香田の役割。思いのたけのボルテージを維持、緊張の糸を張って、フレーズからフレーズへ辿っていく。これはこれでちょいとした力仕事だ。

さだめ道

さだめ道

作詞:いではく
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 昔ならやくざ唄、それに今日では夫婦ものの歌詞が付く。それでも、歌い出し2行でズサッと、歌の気概を決める手法は同じで、「同じ幹から分かれた枝も、表と裏では実もちがう」と、今回はいではくの詞が踏ん張った。北島の芸道50周年、記念曲のひとつだ。

みなと夢酒場

みなと夢酒場

作詞:里村龍一
作曲:弦哲也
唄:井上由美子

 港の酒場は、とまり木が7つ。ひとつ隣を空ける癖の女がいる。通じなくなった携帯番号を、指が覚えていたりして...。飲んべえならではのネタを生かす詞は里村龍一。武骨な男だが神経は細かいのか。そんな様子を井上が歌う。本人の顔がちらっと見えた気がした。

女に生まれて

女に生まれて

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:三山ひろし

 この青年の歌は、こざっぱりと人肌で好感度が高い。声味にクセがなくて芯が明るめ、そのうえ中低音から高音まで、音色が変わらない安定感がある。カラオケ淑女の支持が熱いのは、そんな特色と、歌手としてのキャラや人柄に、ギャップがないせいだろう。

篠突く雨

篠突く雨

作詞:田久保真見
作曲:船村徹
唄:走 裕介

 いつものことだが、船村徹のメロディーが意表を衝く。昨今の流行歌の流れなど度外視した彼流のこだわりだ。ここのところコンビの多い田久保真見の詞は、女が男を捨ててゆくことでこちらも意外性狙い。走は師匠の曲を粛々と歌って、4枚めのシングルにした。

大石内蔵助

大石内蔵助

作詞:木下龍太郎
作曲:宮下健治
唄:鏡 五郎

 品のいい表現ではないが〝どや顔
を、鼻ふくらませて...と言うことがある。この歌の鏡からは、そんな連想をした。お得意の芝居仕立て。2カ所にあるセリフが殊に自信のほどをうかがわせる。木下龍太郎の遺作に曲は宮下健治、3人で討入りの気分だ。

花は黙って咲いている

花は黙って咲いている

作詞:中村要子
作曲:原譲二
唄:小金沢昇司

 「やっぱり、そ
うなりますか!」
と、小金沢に声をかけたくなる。艶歌もムード歌謡も...と、幅広く歌って来た彼の唱法がガラッと変わった。作曲が原譲二、つまり北島三郎が書くメロディーは、彼独特の節回し。その色濃さを踏襲しないとやっぱり歌にならないか。

夜霧の運河

夜霧の運河

作詞:田久保真見
作曲:船村徹
唄:鳥羽一郎
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 「夢は男のいい訳か、それとも女の淡い願いか」なんて、このごろ作詞の田久保真見はしばしば、重ね言葉の表現を使う。歌い出し1行めから、はっきりそれと判る船村メロディーは、洋風な風景を感じさせる歌謡曲。鳥羽の30周年記念曲だが、歌に気負いはない。

いたわり坂

いたわり坂

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:瀬川瑛子

 徳久広司の曲が、哀調を帯びてメリハリきっちりしている。やくざ唄から宿ものまで、大ていの詞がはまりそうなタイプだが、それに夫婦ものの詞がついた。自然、瀬川の歌はひたひたと押して来て、心情的湿度は高め。こういう曲が似合う人だと再確認した。

寒ぼたん

寒ぼたん

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦哲也
唄:川野夏美

 男唄の似合い方に当方は「ほほう!」になった。
一番の歌い出しには、いさぎよい気合の入り方があるし、二番のそこはひょいと涙っぽく、三番のそこは歌の目線がグッと上がった。元気な演歌でデビューした人だが、本人の気性そのものが、歌に生きているみたい。

人生みなと

人生みなと

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 詞の関口義明は
『ああ上野駅』が代表作のベテラン。
かけ言葉や重ね言葉で〝いい文句〟を作るのなど、お手のものだ。曲の水森英夫は、昭和30年代から40年代の、歌謡曲の匂いを大事にする。このコンビはどうやら、古いよいものを今日に生かそうと試みているようだ。

MC音楽センター

 
 「新宿2丁目店にいます。あの辺を通ったら、気をつけて下さい。きっと僕の声が聞こえます」
 屈託のない笑顔で、青年がそう言う。ドラッグストアのアルバイトで、店頭でセールストークをぶち上げているらしい。役者だから大声は慣れていよう。人前に出るのも平気だろう。
 「おい、丁稚!」
 と、僕は彼を芝居の役柄で呼ぶ。明治座の川中美幸公演「天空の夢」で、春3月と秋11月に一緒になった親しさがある。
 「めしでも行くか!」
 と声をかけて、返事にびっくりした。けいこ中のアルバイト…には驚かないが、何と彼は、本番中にも店に出ている。夜の部午後8時すぎ、川中のショーが終わって「お疲れさまでした!」のあいさつをしたあと、都営新宿線で浜町から新宿へ出る。9時から3時間、毎晩で、
 「そうしないと家賃が払えない」
 のだそうな。
 「おい、俥引き!」
 と声をかける青年もいる。川中演じるお慶が仕切る老舗大浦屋の手代で「天空の夢」の幕開けに、川中のお供で荷車を引いて登場する。それを店頭で、女中と一緒に迎えるのが丁稚。そんな若手が大事なドラマの冒頭にいい役を貰っている。
 「おい、そこも日本か?」
 俥引き相手に僕はバカな冗談を言う。JR中央線でずいぶん奥へ入って、乗り換えてまた幾駅か。あきるの市から通う彼は、朝5時起きで9時すぎに楽屋入りする。最近増えた事故を想定して早めの移動、女中はそれよりも早く狭山から出て来る。川中づきのあれこれを頑張るためだが、この2人は親許に住む。丁稚のアルバイト分を親がかりでパスするが、そのかわりに交通に相当な時間がとられる。丁稚が長本批呂士、俥引きが菊池豪、女中が石原身知子…。
 若手役者は大てい、生活費稼ぎに追われている。商業演劇に参加する彼らがまず戦うのは、貧困生活だ。食えない日々が長く続き、そこから抜け出すチャンスがいつ来るのか、見通しは極めてたちにくい。それでもみんな劇場で生き生きとしている。出番ちょこっとの端役でも、これが一番好きな仕事だし、見果てぬ夢がある。ことに今公演は少しずつにしろ、みんながちゃんと役どころとせりふに恵まれていた。
 彼らに接していて僕は、時々目頭が熱くなる。芝居に入れ込んで感情がたかぶっているせいもあるが、彼らのけなげさに胸うたれるのだ。こんな時代でも〝念じれば通じる〟ことを信じる奴らがいる。それが嬉しいし、ぶっちゃけた話、彼らがうらやましくもあるのだ。20才前後、僕は彼らと似た思いを押し隠しながら、スポーツニッポン新聞社のボーヤとして働いていた。食えなくて〝流し〟になろうと決心した時もある。昭和31年ごろには、アルバイトで働ける先なんてまるでなかったせいだが、流しには盃ごとが要ると言われた。当時、上野から松戸あたりまでの流しを仕切っていたのは、てきやのI連合O興行部。新聞社のボーヤとやくざの盃が、両立できるはずはなかった。
 どこへ行き、何をやっても、一生懸命働いたろうな…と自分を振り返る。生まれが生まれ育ちが育ちだから、自慢じゃないがよく気がつくし、どんなことも苦にはならない。負けず嫌いの意地っぱり、やせ我慢は慣れっこだった。
 《それにしても、あのまんま流しになったら、今ごろはどこかでカラオケの先生かなんかやってるか…》
 体がもち堪えていればの話だが…と、自分に冗談を言いながら、公演中にやっと一度、丁稚と俥引きとめしを食った。丁稚に
 「アルバイトの休みの日が決まったら、早めに申告しろよ」
 と言ってあったのが実現してのこと。奮発して行きつけの寿司屋へ連れて行ったら2人は歓声をあげた。出てくる珍味あれこれに「生まれて初めて!」を連発、料理を全部ケイタイで撮影した。
 《この若さとバイタリティーにはかなわねえな》
 親子ほども年の違う仲間がまぶしくて、僕はなかなかに楽しい夜を過ごしたものだ。

週刊ミュージック・リポート

 
 ♪そうよ、みんなつらいの、うわべは何もなさそうに、生きるふりをしてても…
 と川中美幸が歌う。「夢」という作品で、11月明治座の彼女の公演のショーの冒頭。歌詞は、
 ♪夜にひとりで泣くの…
 と続き、だから人は夢を探すのだと訴える。作詞が阿久悠、作曲が三木たかし。東日本大震災以後、国難に心晴れぬ人々の胸中を、言い当てていそうに聞こえる。
 平成9年に出した「麗人麗歌」のカップリング曲、
 《えらい歌を書き遺していたものだ…》
 親交のあった阿久の顔を思い浮かべながら、僕はそう思う。三木の曲がこれまた、いかにもいかにもの三木らしさで、感じ入るのは二人が、ビジネスの歌づくりにもきちんと、本音の一部を書き込んでいた手応えだ。
 阿久はあの顔で、あの態度物腰で、常に毅然として生きた。〝怪物〟と呼ばれる質と量の仕事をやってのけたが、ついに芸能界ずれせぬ身の処し方を通した。しかし彼も人の子、うわべはそうであっても、深夜ひとりきりの時間には、生身の懊悩や煩悶に向き合う時がなかったはずはない。
 1977年のことだが、彼のシングル年間売上げが、1000万枚を超え、それを祝うパーティーを僕らが組み立てた。劇画の上村一夫、プロデューサーの渋谷森久と一緒に「阿久さんは口出し無用!!」と決めつけ、ストリッパーを出すの、ニューハーフを勢揃いさせるのと、およそ彼に似合わない案を出し合った。それらが一発でオジャンになったのは、阿久からの一言、
 「光栄な会だからかみさんも息子も出席させる。お願いは一つだけ、父親としての威厳を損いたくない」――。
 今僕は、彼の没後発見された原稿が岩波書店から出版された「無冠の父」を読んでいる。阿久とのつき合いは40年近かったが、その間彼が、父について語ることはほとんどなかった。宮崎県出身で、淡路島に駐在した警官で、阿久はそこで生まれ、父の転勤で島内を何カ所か移り住んだ…という程度しか知らない。
 少年期に彼は太平洋戦争の敗戦を体験する。それ以前、警官は国家権力の先端に居た。それ以後はただの一市井人に戻る。その時期、その周辺に起こった価値観と環境との激変が、阿久少年にどう影響したか、僕はそれを聞いたことがなかった。1才違いの僕に、おもんばかりがあったせいかも知れない。しかし「無冠の父」の主人公・深沢武吉は、「剣道が強く柔道もやり、気合術にもたけた」武骨な人で、そんな時代の変化にも超然と、おのが生き方を貫いた人として描かれていた。阿久はどうやらこの父の「何の冠も持たなかった巡査の諦観と威厳」を〝男の生き方の規範〟として、受け継いだのだと、合点がいった。
 話は川中に戻る。僕はこの人に誘われて明治座で初舞台を踏み、今年で丸5年になる。1年に2回の一カ月公演に参加、それぞれに半月のけいこ期間を加えると、もう15カ月も日々密着した暮らしをした勘定になる。その間僕は舞台の表裏、かなりプライベートな時間も含めて、彼女が不機嫌になったり怒ったりしたのを一度も見たことがない。公私ともに川中はいつも、人の和と笑顔の輪の中心にいるのだ。一度僕が、
 「一人になった深夜、辛さ悲しさ口惜しさをもてあまして、バスタオルを食いちぎったりするんじゃないの?」
 と聞いたことがある。即座に返った答えは、
 「ボス、いつ見たの?それを…」
 だった。その当意即妙に、僕は二の句がつげなかった。
 人はいつも、奥歯を噛みしめて生きるものだと、僕は思っている。そしてそれをうわべに出すのは恥ずべきことだと考えている。しかし、決心をしてもそれを貫くことはむずかしい。阿久の剛と陰、川中の柔と陽と対照的ではあるが、二人には共通する〝ある覚悟〟を僕は感じる。ストイックという言葉は、阿久には似合い、川中にはそぐわない気もするのだが…。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ119回

 「現! 元気か、しばらくだな!」
乱暴に呼びかけながら、深夜ふらりと店へ入った。門前仲町のカラオケ・スナック「GEN」
「や! どうも、どうも…」
びっくり顔で、客席から腰を浮かしたのは、この店のオーナー井上現である。銀座で弾き語りをやっていたころからの友人で、作詞家荒木とよひさの周辺に居る作曲家。弟子に歌手のすずき円香がいる。
「10年ぶりですよ、どうしたんです一体?」
まだ中腰のままの井上へ、
「近所で芝居をやっててな、観に来てくれた連中と一ぱいやって、その流れだ…」
事もなげに言う僕に、相手は腰を抜かしそうになった。
「芝居って、えっ? 役者やってんですかこのごろ? えぇ~っ!」

 10月7日から10日までの4日間6回公演。僕は東宝現代劇75人の会の「水の行方・深川物語」(作・演出:横澤祐一)に出して貰った。地下鉄大江戸線清澄白河駅近くの、深川江戸資料館小ホールで、門仲(門前仲町)とは1駅の近か間。そのために6日から4泊5日、僕は門仲のホテルに泊まっていた。かつての勤め先スポーツニッポン新聞社は越中島にある。芝居はその越中島も含めて、材木どころの木場が埋め立てられ、新木場へ移転した昭和30年代が舞台。伊勢屋や魚三、吉野屋なんておなじみの店名がひょこひょこ出て来る。公私ともに深川づくしで、僕は感慨深い日々。

「そうだ。お前昼間は暇だろ、俺の芝居を見に来い。お店の常連さん連れてな」
僕は少々強面(こわもて)の客引き!?に早替わりした。東宝現代劇はかつて劇作家で東宝の重役だった菊田一夫が作った劇団。作・演出の横澤もそうだが、芸歴50年超の猛者がいる腕きき集団だ。そこに寄せて貰って3年連続、「浅草瓢箪池」「喜劇隣人戦争」に今回と、望外のいい役に恵まれている。多少の集客くらいさせて貰わねば、義理が悪いから、おなじみ仲町会の面々にも声をかけた。深川界わいにゆかりを持つ音楽プロデューサーや作家集団。スポニチの仲間にも会社周辺の歴史!?を見に来いと力説、星野哲郎関係のご婦人連はもう常連で、小西会の連中になど来るのが当然…という態度――。

井上の弟子すすぎ円香は、ご他聞にもれずキャンペーンに精を出す毎日。荒木とよひさの詞、弦哲也の曲『春ふたつ』を唄い歩いていて「行けなくてご免なさい」の笑顔を作った。井上は律儀な男だから、早速カラオケ熟女4人を伴って劇場に現われる。それやこれやで観に来てくれたお仲間とは、連夜の“お疲れさん会”になる。
「やぁ、びっくりした!」から「大分腕をあげたなぁ」まで、酔余の感想はおおむね好意的だった。材木屋堀川商店の筏乗りあがりの番頭役。小腰かがめて出ずっぱりなのが、最後には土下座求婚の大騒ぎまでやる。俺も多少かっこがついて来たのかな…と、ひそかな自負で、連中のヨイショを僕は、鷹揚な笑顔で見回したりしたものである。

月刊ソングブック

 
 《もしかすると〝当たり狂言〟って奴が生まれる、その瞬間に立ち合っているのかも知れない…》
 決して大仰ではない実感が、日々募るのである。11月明治座の川中美幸公演「天空の夢・長崎お慶物語」に参加していてのこと。客がよく笑い、時に泣いて、反応が相当にビビッド。
 「いやあ面白かった」
 「各シーンにヤマ場があって、2時間ほどがあっという間だ」
 「脇役の若い子たちまで一生懸命で、雰囲気がホット。気分がいいよ」
 僕の楽屋へ現われる歌社会のうるさ型の感想が、一様に作品論から入る。以前は、
 「あれだけのセリフを、よく覚えた。大したもんだ」
 などと、僕の記憶力だけにコメントした向きまでがそうなる。
 幕末の長崎を舞台に、お茶の貿易商として名を成した大浦屋お慶が主人公。老舗の油屋を見切って起業、男尊女卑の偏見や既存業者の組織的圧力などと戦う生き方が描かれる。からむのが茶の仲買人で意気投合、後に大浦屋の番頭になる男や、お慶の義母、離縁される若旦那、勝海舟と勤皇の志士たち、きれいどころと長崎の風物…。
 お慶の川中がのびのび活き活きしている。女としての自立から大成までの、意志の強さ、行動力と、人情もろさや優しさ温かさを、ごく自然に演じていく。お慶の苦労人ぶりと、川中の人柄や半生が巧まずして重なるのがこの作品の特色。共演の勝野洋、土田早苗、仲本工事、石本興司、紫とも、奈良富士子らも、お人柄やキャラで、役柄を際立たせる。
 脚本の古田求と演出の華家三九郎(元NHKの大森青児氏)は長年のお仲間と聞いた。平易な表現と要所々々にちりばめられたいいセリフ、エピソードつなぎで作るドラマチックな起伏、出演者が求められるのは、役柄への率直なアプローチ、形式や技巧を排した表現、集団としてのエネルギー、それが生み出す快いテンポ。僕は役を「こんな時、どういうふうに考えるかなあ?」「だとすると、こんなふうに言うのかなあ?」をつないでいくしかないが…。
 この芝居は3月に同じ劇場でやったものの再演。3・11の東日本大震災のために、公演回数が短縮された経緯がある、今回は決してその穴埋めでも追加でもない。同年内に同劇場で再演というのは極めて稀なケースだそうで、作品のよさとヒット性が評価、確認されての措置。劇場公演を毎回、新作で頑張って来た川中にとっても珍しいケースだが、作品そのものがこの人のレパートリーになる可能性が生まれた。冒頭に書いた実感は、そんなあたりに根ざしている。
 ところでお前は何をやってるの?と聞かれそうだが、これが望外の大役。豪商小曽根六左衛門という奴で、川中のお慶とは昔なじみのおじさん。それが資金の調達に訪ねて来たお慶の、商人としての甘さを叱り諭して一場面を作る。川中と差しの芝居がほぼ6分、翻意させ泣き崩れさせる滅法いいシーンとセリフを貰った。静まり返った客席の凝視の中で体験するのは、50%の緊張、30%の必死、10%の戦慄、恥ずかしながら10%の陶然…の日々である。
 「おじさん!」
 と、ひたと僕を見上げる川中の眼には、いつも涙があふれている。それを振り切って去る僕も目頭が熱い。その舞台裏、脱ぎ捨てて出た自前の雪駄が、きちんと揃えられて僕を待つ。3月公演からずっと毎回続く、共演の女優さんの心尽くしだ。
 楽屋内外に笑顔が行き交ういいチームなのだ。僕はベテランの植松鉄夫、伊吹謙太朗と世間話をし、丹羽貞仁、綿引大介、大森うたえもん、小坂正道、倉田英二やショーの振り付けもやったダンサーの安田栄徳らと時おり盛り上がる。石原身知子はアメリカへ勉強に行って来て、どこかが少しいい方へ変わった。
 「いいじゃないか。芝居に深化の気配がある」
 演出家からある日、過分な言葉を貰ったが、3月の初演の時と、どこがどう変わったのか、本人には判らない。めったに体験出来ないが、ドライバーショットが芯を食った感じの、あの手応えなのか…などと手をこすってみたりする。閉口するのは一点、目張りで入れた黒が、瞼のシワにしみ込んで日々取れにくいこと。やっぱり年か――。

週刊ミュージック・リポート

 
 「リスペクトなあ…」
 ふだんから横文字を使い慣れない僕は、内心ちょこっとたたらを踏む。「敬意」でもいいんじゃないか…と言いたくるのだ。美空ひばりの息子加藤和也氏と、11月11日東京ドームのひばり23回忌イベントについて話していてのこと。同席した男たちもみな、口々にこの単語を口にした。日常語みたいにすっかりなじんだ口ぶりである。
 「だいじょうぶ、日本!~空から見守る愛の歌~」がメインタイトルで、東日本大震災支援と銘打った催し。出演する顔ぶれが多彩で、EXILE、AKB48、倖田來未、平井堅、平原綾香、ゆず…なんて、Jポップの面々が加わる。彼や彼女らが、ひばりが遺したヒット曲も歌うあたりが女王への〝リスペクト〟。それが彼らのファンの胸に届き、一緒に出る五木ひろし、小林幸子、氷川きよしら演歌、歌謡曲勢とそのファンにも伝わって、一つの流れが出来る。単なる新旧勢力のスターパレードではなく、いくつもの世代の美空ひばりへの敬意が、会場を熱くする…。
 ベテランだって参加するのだ。雪村いづみ、岡林信康がその双璧で、ともにひばりとは親交があった。
 《しかし…》
 と、僕がそれこそ、本気でリスペクトしたくなるのは、船村徹の出演である。それも、ひばりが書き遺した詞に、彼が曲をつけた「花ひばり」を自作自演する。出演決定までの経緯はともかく、船村が「よし!」と引き受けた心の芯にあったものは、まぎれもなくひばりへの敬意だったろう。船村にとって彼女は、かけがえのない表現者であり、曲と歌とで対峙した好敵手であり、戦後の歌謡曲を切り拓いた同志でもあったはずだから。
 ?花は美しく散りゆくもの、人ははかなく終わるもの…
 という歌い出しの「花ひばり」は、ひばり自身が人として生まれ、花として生きた半生をさりげなく語る。
 ?花は咲けど散ることを知らず、いとおしや…
 と結んで、聞きようによっては彼女の、辞世の詞とも受け取れそうな内容だ。
 ひばりは折りにふれて、その時々の思いを散文詩ふうに書き止めていた。おびただしいそんな言葉から、この一編を選び出し「花ひばり」の題名もつけたのは船村である。当初はNHKが作った特番用で、僕も多少の手伝いと助言をした。6月、名古屋・御園座に出演していたところへ、番組のプロデューサーが訪ねて見えてのこと。CDのための船村の吹き込みも立ち会ったが、それもこれも船村やひばりとの、長い縁に恵まれたお陰だ。
 「曲をつけていて、いつの間にか彼女が歌うためのものを考えている。いかんいかん、これは俺が歌うんだ。あまりむずかしくしちゃいかん…と思い返したりしてな」
 船村は苦笑いしながら、そんなふうに話した。集中して、一つの世界を研ぎ澄まして行く時の、歌書きの心の動きを垣間見る一言だろうか。抒情的にゆったりとした船村メロディーを、彼は歌うように、語りかけるように、得も言われぬ唱法で形にした。しみじみとした滋味が幾分枯れた趣き、船村はそんな1曲を、あえて子や孫みたいな人気者たちの中で歌う──。
 「行けるよ。出して貰ってる明治座川中美幸公演が、この日は昼の部だけなんだ」
 「じゃあ、小西グループ用に一部屋取りましょう」
 「何言ってんだ。俺はお前さんたち二人と一緒に見るよ」
 加藤和也夫人、有香さんと僕の最近のやりとりである。このビッグイベントは、歌社会実力者たちの激励、叱咤、助言、協力があって実現する。その間和也夫妻は必死で頑張り、その熱意や誠意が生きてこその側面もあった。
 ひばり、船村、尽力した縁の下の紳士たち、それに和也夫妻…と、当日僕は、かかわった大勢の人たちに敬意を捧げながら、このイベントを見守ることになる。この際だから「リスペクト」って奴にも、なじんでみようか…なんて思ったりする。

週刊ミュージック・リポート
12月は7日の昼夜「沢竜の旅役者全国座長大会」(浅草公会堂)に参加する。4年連続4回目で、演目は沢竜二脚本、演出、音楽、殺陣、主演の「恋ざんげ雪の夜話」とおなじみの舞踊ショー。出演座長は若葉しげる、中村鷹丸、三咲てつや、橘進之介、野々宮重美、木内竜喜ら。岡本茉利、丹下セツ子らが共演する。沢は大殺陣を構想中で「過去はもうない、未来はまだない。せめて今日一日は楽しく」とぶち上げている。   沢竜の旅役者全国座長大会   12月13日は「星野哲郎メモリアル水前寺清子コンサート"千里の道も一歩から"」(日比谷公会堂13:00、17:00)に参加する。一周忌法要を済ませた恩師星野の"人と仕事"を語りつくし、歌いつくそうという企画。6月御園座公演「恋文・作詞家星野哲郎物語」で星野を演じた辰巳琢郎やモト冬樹が共演する。僕は"音楽評論家小西良太郎"と素のままのナビゲーターふう。親交のあった星野のあれこれを語ることになる。   星野哲郎メモリアル水前寺清子コンサート

殻を打ち破れ118回

 「ねぇ、びっくりしないでね!」
秘密でも打ち明けるような小声で、三沢あけみにそう言われたのは5月ごろだったろうか。
「ン?」
となった僕に、彼女が告げた曲目が『三味線ブギ』と『高原の駅よさようなら』の2曲。その吹き込みが終わって、夏すぎに発売の運びだと言う。
古い歌好きなら、誰だって驚くはずだ。『三味線ブギ』が昭和24年、『高原の駅よさようなら』が26年に出た歌である。唄ったのは市丸と小畑実。2人とも一世を風びしたスターだが、それは遥かな昔の話。近ごろの流行歌ファンが「誰? それ…」になっても無理はない“歴史上の人物”だ。そんな昔々のヒット曲を、何でまた平成の今ごろカバーするのよ?
「しかし…」と、僕はたたらを踏んだ。「温故知新」という言葉もある。古いものの手応えを新しく作るもののバネにする手か。「古いものは決して、それ以上古くなることはない」と言ったのは確か星野哲郎。流行歌の名曲、快作が示す生命力の強さに通じる発言か! 流行って奴はいつでも、ラセン状に進んで来た。ちょいと見はめちゃ古くても、その古さが昔のそれとは大分違う例を、僕は沢山見て来た…。
そして9月、
「聞いてね!」と言うから、三沢のその2曲をターンテーブルに乗せた。
♪踊るあほに 踊らぬあほだよ 同じあほなら 踊らにゃそんだよ…
♪踊りゃよくなる ますます良くなる 茄子もカボチャも 景気もよくなる…
何だかすうっと、歌の気分が抵抗なく胸に届く。佐伯孝夫の詞は決して古くないし、ブギウギ名手服部良一の曲は、ひょいと幾時代かを飛び越すようだ。ふむ、これなら若い世代には、全く新しい作品と言っても通るか!
ここのところ長く、世相は万事後ろ向きである。文化の各方面に、戦後検証、昭和回帰の波が押し寄せている。そこへ東日本大震災の国難。庶民は「放射能、円高、後手後手政治」に追い立てられている。まるで先が見えない不安の中で、呪文みたいに唱えるのは「諦めない!」「がんばろう!」「念じれば通じる!」だ――。
「ほほう…」
とりあえず僕は目を細めた。三沢の歌声の明るさ、屈託のなさが楽しい。とうの昔にベテランの域に達しているのに、この人の歌はごく自然。技を誇示するでもなく、自己主張にこだわるでもなく、一心に聞き手を楽しませようとする。そこで僕はもう一度、
「ほほう…」
になる。そんな三沢の歌手としての特色は、彼女の人柄そのものなのだ。はばかりながら僕は、少々年上だが彼女と同期生。彼女が女優から歌手に転じた昭和38年に、僕はスポニチの取材記者に異動した。そのころから長いつき合いが続くが、人柄も仕事上のキャラも全然変わることがない。つまるところ「変わらない」という事も、大きな価値を持つのかも知れない。
 

月刊ソングブック


 次の芝居のけいこに入った。10月17日から、都営新宿線森下駅近くの明治座スタジオ。座長の川中美幸以下懐かしい顔ぶれが揃う。明治座11月公演は「天空の夢・長崎お慶物語」(古田求脚本、華家三九郎演出)だが、これは3月にやったものの再演。というのも3・11の東日本大震災の影響で、日程が短縮されたが「せっかくのいいお芝居だもの…」という好評に背を押されて早々と決まった。1年以内に同じ劇場でのアンコール公演というのは、きわめて珍しいケースだとか。
 「お久しぶりでした」
 「その後お変わりもなく…」
 などと、口々のあいさつが何だか同窓会ふう。けいこ、本番と1カ月近くは一緒に暮らしたのだし、あの激震に劇場ででっくわした体験が、不思議な仲間意識につながる気配もある。僕にとってはそんな中での初めての再演。一度体になじんだセリフや動きが、7カ月のブランクのあと、もう一度僕の体に戻って来るのか、それとも新しく生まれるのか、まるで見当がつかない。
 「全くの新作と考えてやってもらいたい」
 とあいさつしたのは脚本家の古田求。
 「慣れは禁物。新鮮な感興をどう盛り込めるかが勝負です」
 笑顔で核心を突く発言は演出の華家三九郎。
 《それはそうだろうけど、具体的には一体、どういうことになるのか?》
 僕は共演の人々の顔を見回す。土田早苗、仲本工事、石本興司、紫とも、奈良富士子なんて面々が、にこやかにうなずいている。前回川中の相手役をやった田村亮がスケジュールが合わず勝野洋に代わり、ダブルキャストの子役2人は、この間に4㌢背丈が伸びた。大森うたえもんは相変わらず快活。友だちづき合いの綿引大介や丹羽貞仁は「また飲みましょう!」とでも言いたげ…。
 《こういうふうに、また非日常の日々に入っていくのか…》
 僕にそんな感慨があるのは、同じ10月の7日から10日までの4日間で6回、東宝現代劇75人の会の「水の行方・深川物語」(深川江戸資料館小ホール)公演に参加していたせい。この会のベテランで親交のある横澤祐一の作・演出だが、僕はまたびっくりするくらいのいい役を貰った。
 「こんな厚遇を受けていて、本当にいいの?」
 見に来てくれた友人が、心配するくらいに、一昨年の「浅草瓢箪池」昨年の「喜劇・隣人戦争」そして今回とたて続けに、望外のもうけ役に恵まれている。けいこもたっぷり1カ月以上やって、帰り道連夜のちょいと一杯では、ベテランたちの談論風発に触れた。老ビギナーの僕にとっては、目からウロコの見聞だらけの宝の山で、相当に濃密な日々だった。
 一公演終わると、正直なところ腑抜け状態になる。心身ともに消耗する非日常から日常へ戻る落差のせいだろうが、戻った歌社会だって尋常ではない。そのうえ僕は二つの公演の本番・けいこのすき間の6日間に、星野哲郎の一周忌法要、NHK坂本冬美特番のコメント撮り、ゆうせん昭和ちゃんねるの録音、帝劇「細雪」公演を見ての懇談会出席、おなじみ仲町会のゴルフコンペにまで参加した。これではもう、日常も非日常もごちゃごちゃ…。
 折から、歌社会は実りの秋である。歌手たちは思い思いの趣向で、この1年を総括するリサイタルやコンサートを開く。その多くのお招きに、申し訳ない不義理を重ねている。出欠を問うFAX用紙に、
 「欠席、長めの仕事につかまっております」
 などと書き込み、深夜に送信するたびに胸が痛んだ。
 《一体お前は、何者になり始めているのだ? こんなことでいいのか?》
 自問自答に溺れかかる中で僕がつかまる〝ワラ〟は、
 「最近は、安心して観ていられるぞ」
 「芝居が楽しくて仕方がないという熱さが、芝居の向こう側に感じられる。それが新鮮さのみなもとなのかも…」
 などの好意的な感想。ついに後期高齢者の仲間入りを果たしての二足のわらじは、奇妙な切なさが伴うものなのだ。

週刊ミュージック・リポート

微妙な変化、それなりの進境

 結局のところ、歌の魅力の源泉は"声"に尽きる。これに独自の色と艶、それなりの味があれば、作品はひとりでに生きる。
 「秋だしなあ...」なんて一人言を言いながら、11人の歌に耳を澄ました。注意するポイントは声...。
 微妙だがそれぞれに、変化が聞こえた。市川由紀乃や椎名佐千子の声味、大石まどかや石原詢子、多岐川舞子の歌唱と、自分の生かし方...。それなりの年季と努力を尊しとしよう。

京都の雨

京都の雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:大石まどか

 声もいいし、節回しも「なるほど!」と思える歌でも、時おり物足りなさが残る。こういうケースは大てい、歌が僕の前を横切っていくイメージ。情感がまっすぐ縦に、こちらへ向かってこないもどかしさがあるのだ。
 今回の大石の歌には、歌の芯をうまく縦に組立てた手応えがある。岡千秋の、ごく歌謡曲ふうなメロディーを、声も節も抑えめに、素直に歌ったせいか。声に息を少し乗せて、言葉の一つずつを、すうっと伝える。本人にそんな意識があったかどうかは判らないが、歌唱もやっぱり、シンプル・イズ・ベストだ。

父子の誓い

父子の誓い

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:北山たけし

 もともと絵空事の歌に、時としてなかなかのリアリティが宿ることがある。「芸道50周年記念、北島三郎プロデュース作品」と銘打った曲を、娘婿の北山が歌う。タイトルまでもろ...の言い切り方がその一例。
 父と子に通う血、母の慈愛、親が示す人生の道しるべ...と、よくあるネタが並ぶが、この歌からは北島の心情が聞こえる。たかが流行歌としても、筆名・原譲二の詞曲には、彼のいろんな思いがこめられている気配。
 いきなり高音から出る曲を、北山はガツンと歌う。気合の入り方、「ほほう」である。

津軽の灯

津軽の灯

作詞:志賀大介
作曲:新倉武
唄:山本謙司

 歌い回しにひなびた味があって独特。歌詞の語尾、歌い伸ばすあたりで声を抜くのが、彼なりの色か。民謡のベテランが歌う歌謡曲。どこで〝決める〟のか?と、待ちながら聴いたら、5行詞の最後の1行にそれが出て来た。歌づくりの〝手つき〟も枯れた味だ。

しぐれ橋

しぐれ橋

作詞:峰崎林二郎
作曲:岡千秋
唄:角川 博

 「連子窓から見送る背中 名残り切ないしぐれ橋...」なんて、峰崎林二郎が詞を結ぶ。狙いは情緒てんめんで、岡千秋はそれを、定石どおりの〝宿もの〟に仕立てた。歌う角川は得たりや応...といい気分そう。技よりは声の響きの良さに、歌の軸足を置いた。

桟橋時雨

桟橋時雨

作詞:木下龍太郎
作曲:岡千秋
唄:市川由紀乃

 例えて言えばこの人の声は「中太で、細からず太からずのほどの良さそれがしっとりめの艶を持ち、おまけに気持の乗せ方が巧みだったりする。詞は木下龍太郎の遺作で、名文句ふうな凝り方が2番と3番にある。それを市川は淀みなく、一筆描きに歌いおわした。

寒椿

寒椿

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子

 作曲家岸本健介と夏木は、ずいぶん長いコンビ。あれかな、これかな...と、演歌の枠組みの中で、自分たちの居場所を探して来た。そんなキャリアか、歌い慣れのたまものか、夏木の歌に少しなげやりな気配が生まれて、それが生きた。芸事の神様の贈り物かも知れない。

浮草の町

浮草の町

作詞:石原新一
作曲:徳久広司
唄:多岐川舞子

 恐らく「あまりいろいろ考えずに軽く行こうよ」と
徳久広司が声をかけたのだろう。各コーラスにある決めのフレーズなど、コーラスを背負って弾み加減。多岐川の歌は7~8分めの力で、軽妙に仕上がった。味なコントロール・ショットと言うべきか。

霧降り岬

霧降り岬

作詞:麻こよみ
作曲:鈴木淳
唄:椎名佐千子

 歌声に、ほどよく練れた粘着力が加わった。声と息との混ぜ方で、感情移入の濃淡を作る。その色のままサビの高音、艶が増すあたりを、師匠の鈴木淳の曲がうまく生かした。コツコツと地道に歌って来た年月で、椎名がつかんだ進境だろうか。

しあわせの花

しあわせの花

作詞:水木れいじ
作曲:市川昭介
唄:石原詢子

 作品に、何も足さない、何も引かない。生かすのは声味、歌唱は率直...というのが石原の特色。ヘンに技を用いて、歌でシナを作る向きより、ずっと好感度が高い。その石原の歌がそのまんま、全体に訴求力アップ、スケール大きめになった。地力がついたのだろう。

北へ...ひとり旅

北へ...ひとり旅

作詞:三浦康照
作曲:小野彩
唄:藤 あや子

 三浦康照・小野彩コンビの歌づくりは、これで何作めになるのだろう? 目指す路線に呼吸も合って、小野のメロディーはあれこれ意表を衝く手を使う。自作自演のそんな細工に、乗ってみせるのが藤の歌。この人、それやこれやを面白がってはいまいか?

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ためらい

ためらい

作詞:ちあき哲也
作曲:ひうら一帆
唄:北原ミレイ

 自分の胸の中の恋ごころを「いい子いい子よ...」なんて、あやしている女の歌。倦怠と退廃をさらっと詞にするのはお手のもののちあき哲也。それをシャンソン風に仕立てた曲はひうら一帆。ミレイの歌はもう、何でも自在のミレイ流。「なるほど!」である。

MC音楽センター
11月は明治座の川中美幸35周年公演「天空の夢~長崎お慶物語~」(古田求脚本、華家三九郎演出)に参加する。1日初日25日千秋楽で30回の舞台。動乱の幕末、長崎で成功した女貿易商大浦慶を川中が演じる。共演は勝野洋、土田早苗、仲本工事、奈良富士子、紫とも、石本興司、丹羽貞仁ら。 僕がやるのは豪商小曽根六左衛門で、苦境に立つお慶さんを諌め、諭す大役。もともと明治座の3月の演し物。東日本大震災の影響が日程を短縮したのが、好評の追風を受けて異例の再演となった。川中座長と“差し”の見せ場を貰い「頭領の芝居も、この辺がピークか!」などと、仲間うちにヨイショされた出番だけに、本人は妙に気負い込むが、演出家の注意は「慣れは禁物。新作同然の新鮮な気持ちで取り組むこと」 天空の夢01 天空の夢02

 
 谷建芬という人と食事をした。中国の音楽著作権協会副主席で、全国人民代表大会常務委員会委員の肩書きを持つ。ひらたく言えば〝中国の古賀政男〟だそうだが、女性である。大阪の有名お好み焼き店で一夜を楽しんだ彼女は、日本生まれの大阪育ちで、昭和16年に中国へ渡った。幼いころの味をもう一度…の希望を満たそうとしたのだが、
 「もっとキャベツが多かったけど…」
 と首をかしげる。当時とは比較にならない豊かさの日本。お好み焼きの味も、今日ふう美味に様変わりしたということか。
 接待したのは作詞家のもず唱平である。僕は金田たつえの「花街の母」(昭和48年)あたりからのつき合いだが、彼はちょいとした活動家。日中友好に熱心で、アジアの著作権問題にも取り組む。谷氏をゲストに9月30日、そのシンポジウムを開いた。3・11の東日本支援では、作詞の荒木とよひさ、作曲の岡千秋、三山敏と語らい「がんばれ援歌」を作る。印税を全額寄付する企てで、まず高橋樺子でCD化、他の歌手たちにも是非…と呼びかけている。
 その夜僕が同席したのは、シンポジウムの流れではなく、翌10月1日、同じ会場の大阪国際交流センター大ホールで開かれた「ミュージシャングランプリOSAKA2011」の審査を取り仕切ったせい。これも主唱者がもずといういきがかりである。もずとの関係は一応僕が兄貴分ふうだが、逆に僕をこき使うのはもずの方で、このイベントは今年でもう10回目、演歌世代なのに年甲斐もなく、Jポップ系の審査を、
 「音楽はつまるところココロだろ」
 なんてノリで、踏ん張らされて来た。
 ところで大阪だが、昨今とみに剣呑な空気が漂う。橋下徹知事が来月行われる大阪市長選に出馬するのが発端。首長政党の大阪維新の会がバックで、後任知事には意中の人を推すという。つまり府と市の長と政策を一本化、大阪市と堺市を合併、大阪〝都〟を実現するのが狙いらしい。一部に「まるでロシアの権力独占コンビみたい」と冷やかす声も動きだが、再選を目指す現職の平松邦夫市長は当然猛反発、
 「橋下独裁を許してはならない!」
 と、ヒートアップしている。
 《ひところはキャスターの辛坊治郎が知事選出馬と噂されたが、立ち消えになったらしい…》
 などと、僕が情報通になるには訳がある。1日にやったミュージシャングランプリOSAKA2011は、その大阪府や大阪市が主催。関係者のヒソヒソ話のあれこれがどうしても小耳に入るのだ。
 《これがもず唱平の腕力かねえ…》
 とも考える。このイベントは府と市の他に商工会議所、経済同友会、商店会総連盟、国際交流センター、観光コンベンション協会など、大阪の行政や関係団体、経済界などが主催グループに名を連ねている。
 38年も昔「花街の母」がヒットした直後、もずは業界実力者から上京をうながされた。相談に来た彼に僕は、東京の作詞家群に混ざるよりは、大阪に蟠踞、それなりの位置を占めて〝地の利〟を得るべきだとすすめた。今や彼は大阪のボスで大変な世話焼きだが、行政まで動かせるようになるとは想像もできなかった。この種イベントにこの種主催者群は稀有のケースで、もずの長きにわたる地元への貢献がしのばれようか。
 10年開催の成果は、第1回グランプリの植村花菜がスターになり、ちめいどや久ぼたなお子らがコツコツと第一線で働いている。
 「芸能・文化の東京一極化に反旗を! 浪花の才能とコンテンツを全国へ!」
 のコンセプト実現のために、僕は微力を尽くして来たのだが、さて、風雲急な大阪政界〝秋の陣〟である。このあとこのイベントと行政の関係は一体どうなるのか? 僕は東京でドキドキしていることになる。

週刊ミュージック・リポート

 
 戸越武吉、通称武さん60才。深川古石場あたりにある堀川銘木店の番頭…というのが、僕の今度の芝居の役だ。昭和30年代の中ごろ、木場の材木商群がそっくり新木場へ移転する前夜のお話。横澤祐一作・演出の「水の行方・深川物語」は、昨今話題になっている築地市場の移転をにらみ合わせてもいようか。
 「そうねえ、あなたはしばしば、猫になっていて下さい」
 と、演出家が恐ろしいことを言う。堀川商店の人々の右往左往や、激しい時代の変化の種々相を、さりげなく見守りながら立ち働くのが番頭武さんの役割。
 「ほら、家の中のことを全部見聞きして、知っているくせに何も言わないのが、猫って奴でしょう」
 と絵解きをされればなるほど…と思う。葉山の我が家の猫の風(ふう)ちゃんは、たしかに僕と家人の暮らし向きや、しばしば現われる僕のお仲間の安手の談論風発ふう酔態を、素知らぬ顔で観察しているではないか!
 芝居の主人公たちは大騒ぎなのだ。堀川商店の先代店主の未亡人(鈴木雅)は古きよき木場を守りたいといきり立つ。長女(新井みよ子)と養子の店主(丸山博一)は、それをいたわりながら、新時代に対応しなければならない。次女(村田美佐子)は生き方マイペースを貫いて、どうやら武さんの心のマドンナふう。三女(菅野園子)は、別れた亭主(松川清)に復縁を迫られて舞い上がり、洲崎で働いた過去を持つお手伝いさん(古川けい)は、かつての客と焼けぼっ杭に火がつきそう。元建設会社会長の大物(内山恵司)がひいきにしていた辰巳芸者(田島佳子)は堀川家の孫の青年(秋田宏)とそで引き合ったりして…。
 番頭の武さんは、もと川並である。川に浮かべた丸太を組んで筏にし、材木の選別、管理、運搬を担当した。俗に言う〝筏乗り〟で、粋でいなせなタイプが、後に店のあれこれを取り仕切る番頭に取り立てられた。
 《それでは…》
 と、すぐ〝その気〟になる僕は、まず理髪店へ出かけて訳を話し、それらしい角刈りになる。9月27日など、けいこ終了後に星野哲郎の一周忌法要の打ち合わせへ駆けつけたら、おなじみ〝哲の会〟の面々からヤンヤ、ヤンヤで迎えられた。
 「今回のこれはな、武さんカットって言うんだ」
 と、本人悦に入ったりするからいい気なものだ。 芝居は2幕8場だが、何と僕の武さんは、1幕1場を除いて全部出ている。各場面、ひょこっと一芝居したあとに舞台の一隅で猫になり、話が進むとまた大声でセリフをまくし立てる。その繰り返しだが、観客の目にさらされ続けるのだから、全く気が抜けない。
 「猫といってもですよ、置き物とは違うんだから…」
 けいこが進むと演出家のダメ出しが微妙に変わる。眼前で繰り広げられる出来事に、それなりの反応が求められるのだ。しかし、ベテラン俳優たちの丁々発止に引きずられて、テニス見物みたいになったら下の下。せっかくの熱演をぶちこわしてしまう。
 この公演は劇団東宝現代劇75人の会の催しで、僕はそこのおじゃま虫。一昨年が「浅草瓢箪池」昨年が「喜劇隣人戦争」と、望外のいい役に恵まれて、今回が3年連続3回目の参加になった。一カ月以上もじっくりけいこをするから、日々目からウロコ…の勉強また勉強。先輩たちにうまくなついて、ついついお仲間気分になったら、ある日けいこ場に、
 「2人合わせて100年を越すキャリアなんだから、もっとそれらしい芝居をしてくれよ!」
 なんて、演出家の怒声が響いた。つまりこの道50年なんて剛の者が何人もいる勘定。僕の舞台経験はその10分の1の5年に過ぎないから、肩をすくめ首をちぢめて唸るしかない。
 この秋、ついに後期高齢者用の健康保険証が手許に届いた。この年になって日々反省!のチャンスに恵まれるのはゴルフと芝居だけ。感謝しながらの晴れ舞台は10月7日から10日までの6回で、場所は深川資料館小ホールだから、念のため――。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ117回

 「ン?」
 と、タイトルでひっかかった。天童よしみの新曲『パンの耳』だが、およそ流行歌、それも演歌のものとは程遠い。相当に“奇”をてらったか?それだけだとあざといが、近ごろは『トイレの神様』の例もあるし、さてと…。
 一度聞いて「ほほう」になった。もう一度聞いて「なるほど…」と思う。意表を衝いた山本茉莉の詞、それをほど良く揺すぶりながら、おハナシに仕立てた大谷明裕の曲が、なかなかなのだ。年の瀬、郊外のスナックをキャンペーンで回る歌手が主人公。実際に歌手たちの多くが、身につまされそうな状況が展開する。
 控え室は吹きっさらしの店の裏。鞄には売れないカセットが山ほど。気前のいい人に会えるのは夢の夢、三軒回って千円札がまだ片手…。そこへ“パンの耳”が登場する。サンドイッチの切れはしを、油で揚げたやつ。それを店のマスターが放り投げるようにくれた。「お疲れさん」の声に、いたわりの色などなかったろう。
 売れない歌手のキャンペーンは、しばしば胸に傷を作る。心ない客の言葉や仕草が突き刺さるのだ。そんな日々の中で、その傷が膿む。それでも歌手たちは頑張る。頑張らざるを得ない。たった一人の客相手に、カウンターの中から歌った歌手を、僕は知っている。農家の広間へ呼び上げられ、余興がわりに歌わされた歌手もいた。「テープも買わないで、胸やお尻にさわろうなんて、冗談じゃないよ」とタンカを切って、締め出された歌手も知っている。
 しかし、天童が歌うこの歌の主人公は、そんな事例を書き連ねる僕ほどは、感傷的にならない。めげず、落ち込まず、マスターの仕打ちをバネにする。くやしさもみじめさも、明日への糧にする。力まずに自然体、公園のベンチでかじった問題のパンの耳に、母親が作ってくれたおやつを思い出しながら…。
 1行が20語以上あり、それが9行続く長い詞の話し言葉を、だから天童は“泣かずに”歌う。1番と2番で、気持ちの入り方をはっきり変えながら、主人公の思いを伝えてくる。歌声の芯に、彼女の本音がしなっているように聞える。下積み時代の彼女は、日々地方のキャバレーを回った。「みんなそうだった。彼も彼女も…」と、僕がスター歌手の名を挙げたら、「お店がピンからキリまで。あの人たちはピンで歌って、私はずっとキリを回ってました!」天童の返事は、口調がきびしかったものだ。
 『パンの耳』は、フォークっぽい歌謡曲である。イントロで出て来たドブロのほろほろした音色が、終始天童の歌にからむ。ひなびてしみじみと、少し感傷的だが、決して湿っていない軽やかさがる。編曲の若草恵と作曲の大谷明裕が、肯き合う顔が見えるようだ。同時に吉川忠英の顔も思い出した。仰向きに寝かせて弾くギターのドブロを、昔、彼の演奏で初めて見たせいか。
 人々を「アッ!」と言わせる。ただそれだけでは奇をてらったに過ぎない。アッと言わせた上で、相手をどう納得させられるか、それだけの説得力が持てるか。僕は長いことかかわったスポーツ新聞の作り方を、天童のこの歌に重ねて、聞き直したりしている。

月刊ソングブック

亡くなって4年、阿久悠色あせず...

 島津亜矢の『恋慕海峡』は阿久悠の遺作の一つ。アルバム1枚分歌ったものからのシングルカットだ。8月1日は彼の祥月命日。今年でもう4回目になったが、残された詞は色あせることなく、インパクトも強い。
 今月は、池田充男、関口義明が、ベテランらしい手慣れたワザを示し、高田ひろおが彼らしい、情のこもった詞を書いた。少女アイドル群大当たりの秋元康は一転、ちゃんとおとなの憂愁も書いている。みんな、秋へ向けての腕比べだ。

花しのぶ

花しのぶ

作詞:麻こよみ
作曲:叶弦大
唄:竹川美子

 「花しのぶ」は九州・阿蘇の山地に自生、薄紫のかれんな花をつけるという。それを竹川にダブらせようとした詞は麻こよみ。もっとも内容は失恋の娘ごころを描いて、花そのものはイメージに止まる。
 竹川の歌はもともと、詞と曲を大事にていねいに表現、律儀でやや幼なめ。決して歌い回す派手さを目指さず、今回も主人公の姿や素振りを、おずおずと優しげにした。
 そんな特性をよく知っているのが師匠の叶弦大。ゆったりめのメジャー曲を書いて、娘ごころの機微を刻み込ませようとした。

百年坂

百年坂

作詞:坂口照幸
作曲:宮下健治
唄:三門忠司

 部厚で粘着力を持つ声だ。それが宮下健治のメロディーを、のうのうと歌い回す。ざっくりとした手触りの夫婦うた。坂口照幸の詞が、生き方不器用な男を主人公にして、結婚25年の感慨を歌わせた。
 式も挙げないままの負い目からオハナシが始まるから、歌手や歌い方によってはめめしくなる内容。それをサビあたり、高音で作る声の張りと艶で、三門が男っぽくする。仁侠路線寄りのニュアンスもあるメロディーが、手がかりになったろうか。各節の歌い納めに、歌い放つ心地よさも生まれた。

裏町ぐらし

裏町ぐらし

作詞:田村隆
作曲:岡千秋
唄:上杉香緒里

 まねき猫がほこりまみれ、やぶれ障子にすきま風、神棚は少しゆがみ、百合の花は枯れている。よくもまあそこまで...と呆れるくらいの裏町酒屋のさびれ方。書いたのは田村隆の詞、それを岡千秋がほどほどの情の曲にし、上杉が女将の風情を人肌に生かした。

秋桜の宿

秋桜の宿

作詞:池田充男
作曲:伊藤雪彦
唄:真咲よう子

 ひたひたと地道に歌い続けて30周年。かつてのクラウン純情派代表も、いまや熟女...とこちらが感慨を新たにする。それが池田充男・伊藤雪彦コンビから、大きめに心揺れる曲を貰った。サビの感情移入と表現のたかぶり方に、真咲はキャリアを示そうとした。

女の色気はないけれど

女の色気はないけれど

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:水田竜子

 水森英夫の曲はあんちゃん節。昔なら深夜、酔った若者が声高に歌って歩いたタイプだ。それに水木れいじが男に言い寄る女心の詞を書く。
詞、曲の共通点は主人公の、あっけらかんと前向き、上向きで罪がない無邪気さ。水田は「こういう風かな?」と歌ったようだ。

途中下車

途中下車

作詞:市川森一
作曲:桧原さとし
唄:桜井くみ子

 話の前置きみたいに、歌詞4行分を歌う。次の3行がサビのクライマックス。桜井の歌は激しくたかぶって、おしまいの2行は、そんな感情の納めどころ。詞が市川森一、曲が桧原さとし。大きなハードルを与えられた桜井の歌は、背伸びして、主人公の背伸びを思わせた

恋慕海峡

恋慕海峡

作詞:阿久悠
作曲:弦哲也
唄:島津亜矢

 歌い出しの語りの部分は、誰でも声と気持を抑える。次の高揚を生かす準備だ。ところが、抑えても抑えきれないのが島津の歌。そのうえサビの盛り上がりが上乗せになるから、歌はより劇的にふくらむ。節や声のしっぽまで、気持がつまっているのも快い。

羽越本線

羽越本線

作詞:関口義明
作曲:影山時則
唄:岡ゆう子

 「闇に船の灯、日本海」と歯切れがいいかと思えば、雨がやんだ汽車の窓から「ぼんやり酒田の街が見えてくる」と来て、関口義明の詞はベテランらしい緩急。「ぼんやり」は書けそうで書けないフレーズだ。岡の歌はそんな詞を、独特の声味で実感的にした。

流星~いにしえの夜空へ~

流星~いにしえの夜空へ~

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:里見浩太朗

 幕末、滅びる徳川に殉じた男たちの心情をテーマにした。あて字たくさんの荒木よとひさの詞は、それなりに理が勝つが、弦哲也の曲、川村栄二の編曲が、ほど良くドラマに仕立てた。里見の歌は音吐朗々
年に似ぬ若さで覇気も少々、節度あるたかぶり方を示した。

心機一転

心機一転

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:秋岡秀治

 「意地の二文字を切り札に...」と作詞・仁井谷俊也が踏んばった男唄
村田かひばりか...の境地だが、秋岡の歌には、旅の一座の景色がほの見える。泥絵具の背景、お定まりの茶店やのぼり...。ひなびた声にあるキャラや歌の乗り方弾み方が、芝居がかるせいか。

紫のマンボ

紫のマンボ

作詞:田久保真見
作曲:花岡優平
唄:真木柚布子

 女の涙は赤、男の涙は青、交われば紫ね...なんて、田久保真見の詞に花岡優平の曲。なつかしい気分のマンボを、真木がスタスタと歌う。
この種のリズム歌謡は、ひところ大勢の歌手が歌ったが、最近はこの人くらい。こだわりが独壇場になれるのかどうか?

秋櫻の頃

秋櫻の頃

作詞:高田ひろお
作曲:杉本眞人
唄:あさみちゆき

 秋の陽だまり、縁側、湯呑みの茶
目元の笑い皺などが小道具。寡黙に生きた亡父を思い出すのがコスモスの季節らしい。高田ひろおのしみじみした詞に、杉本眞人が曲をつけた。あさみは彼女なりの思いで、それを歌に乗せる。曲に濃い〝杉本の口調〟が相変わらず。

枯れない花

枯れない花

作詞:秋元康
作曲:鈴木キサブロー
唄:秋元順子

 詞が変われば曲も変わる。当然アレンジも変わる作品が、歌手の世界そのものを変える事がある。この歌手でそんな一色を作ったのは、秋元康、鈴木キサブロー、服部隆之トリオ。歌い出し4行分でそう感じたが、サビでは彼女が歌をもとの色に戻した。しぶとい人だ。

 
 「おひさしぶりです。鳥山浩二です」
 と名乗られて、当方はウッと詰まった。声音、口調に聞き覚えはない。芸名にも心当たりがない。
 《待てよ!?》
 受話器を左手に持ち替えながら、大急ぎで記憶をかき回す。過去のどこかで世話になったか、世話をしたかだろうが、やっぱり思い出せない。歌謡界でメシを食って48年、出会った人の数は見当もつかないし、第一僕も年が年だ…。
 「10年くらい前に、歌を聞いて貰ったんですが、お前、これは暗過ぎるよって言われて…」
 おお!と、どうやらピントが合った。確かあれは「蛾」というタイトルで、「おいおい、夜の蝶の、その下の蛾かよ…」なんて冗談を言った気もする。
 「何だ、船橋浩二じゃないか! 最初からそう言ってくれよ」
 彼と僕との間の40何年かが吹っ飛ぶ。昭和39年10月「俺だって君だって」でデビューした少年で作詞が星野哲郎、作曲が叶弦大のデビュー作。水前寺清子とほぼ同期…と、この辺のデータは後々の、話の中で出て来た。
 しぶとく頑張っていたのだ。10年前に聞いた「蛾」を、詞を変えて「みちくさ人生」とし、レコーディングして草の根キャンペーンを続けた。伝説のプロデューサー馬渕玄三氏に、
 「うん、いい曲だな」
 と一言もらった自作のメロディーに、男の後半生を賭けたそうな。
 「おいでよ」
 と声をかけたのは6月の御園座。相手が名古屋在住の都合だが、僕の楽屋で〝夢をもう一度〟を熱っぽくとつとつと語り、芝居は見ずに帰った。その後、彼の夢はあらぬ方へふくらんだらしく、自作を棚に上げて吹き込みしたがったのが「雪国の女(ひと)」遠藤実作詞作曲で、昭和39年に春日八郎が歌った旧作。
 「判った、判った、いい曲だよ確かに…」
 と僕は、この話をクラウンの曷川正光プロデューサーに持ち込む。はばかりながら僕の記者生活は、昭和38年創立以来ずっと、通い詰めてのクラウン育ちである。西郷輝彦、水前寺清子らの、まるで修学旅行みたいな賑いのスターパレードに同行して、遊んでいたよな仕事をしていたような。その若者たちの群れに、船橋もちゃんと居たのだから、その縁をつなぎ直すのが最善の策…。
 8月、スタジオに入って聞いた船橋の歌は、見事に技巧派に変わっていた。その後長かった彼の、歌い手ぐらしの反映だろう。声を矯め、差す手引く手の息まじり、節を凝らして想いを伝える。酒場めぐりのキャンペーンで、膝つき合わせて歌えば、確かに客はうっとりしたろう。
 「だけどお前、さあ…」
 と、曷川プロデューサーともども、乱暴に言い渡し、あれこれ提案しながら、僕らは往年の船橋節を復元した。この種技巧派は時おり、ひとりよがりに埋没するのを避ける。それにあのころの船橋の歌は、よく響く温かい声がのびのびと、おおらかだった――。
 「結局さあ、歌は声味とその陰にある人間味が勝負どころだよな」
 僕らと彼はそういうふうに納得する。船橋の歌を復元すると言っても、簡単に昔に戻るはずはない。率直に声をひびかせるスケール感と、彼のその後の人生の実りや翳りが色に出れば、それでいいのだ。
 それにしても、あんなに将来を嘱望された若手が、なぜ急に第一線から消えたのか? 鳥山浩二から昔の名前の船橋浩二に戻すことにした本人に聞いて、大笑いをした。18才でポッと売れてその気になった船橋が、師匠の馬渕玄三氏に大目玉をくらったのは、新宿の馬券売り場でバッタリ出会ってのこと。しまった!とホゾを噛んだ船橋が、売り場を代えた錦糸町でまた会った。「未成年の分際で何たること。もう俺のところへは来るな!」と、クビになったのだという。
 「歌は人間味だ」と前に書いた。彼の人生の〝その後〟がどんな味わいを作ったか?は、聞いてのお楽しみ。CD発売は10月26日である。

週刊ミュージック・リポート


 「ガキのころから川並で修業して来たんでね。いつまでも筏乗りのつもりでいちゃあいけねえとは思うんだけど、三つ子の魂百までってから…」
 こんないいセリフがある。劇団東宝現代劇75人の会の第26回公演「水の行方―深川物語」で、僕が貰ったのは銘木店の番頭役。時代は昭和30年代から40年代、深川の木場が新木場へ移転を強いられた時期で、古いいいものと新しい変化の葛藤が濃い日々…。
 僕は嬉しさにはずむ足どりで、連日けいこに通っている。8月27日から有楽町・帝劇地下のけいこ場で読み合わせ、9月6日からは大森のバーディ企画のスタジオで立ちげいこ。葉山の海の夏の名残り、季節のうつろいなどには目もくれず、午前中に出かけ深夜に戻る。猫の風(ふう)とカミサンは、またしばらく他所の人になる気だ…と、呆れている。
 作、演出は横澤祐一。この欄ではおなじみになった名前だろう。東宝現代劇を代表するベテラン俳優の一人。僕は5年前の明治座川中美幸公演で一緒になり、初舞台のガタガタを支えてもらった。引き続き大阪松竹座の「妻への詫び状・作詞家星野哲郎物語」でも一緒、ひとかたならぬ世話になる。言わばこの道の師匠格、それが酷暑の夏に深川近辺を調べ歩き、うんうん唸りながら書き上げた労作である。
 《何としても出して貰いたい…》
 去年からそう思っていた。一昨年から「浅草瓢箪池」「喜劇隣人戦争」と、2年連続でいい思いをさせてもらった。しかし、公演そのものは劇団の自主公演で、僕は外部からの参加。「今回も…」なんておねだりは立ち場上、口に出来る訳はない。へどもどしているところへ同じ時期、さる大劇場への話を貰った。申し訳ないけどと低頭して断り、横澤氏あての年賀状を作ってさりげなく一行、体を明けたと伝えた。それが今年の正月、作戦成功の出演依頼に接したのは7月…。
 セリフ劇である。微妙な意味合いを秘めた言葉が、舞台上で交錯する。そのフレーズや言い分が、のちのち進行するストーリーや、登場人物の心の動きの綾になる。油断も隙もならない縦糸横糸だが、考え過ぎればセリフが重くなる。
 「小西さん、そこのところは軽くねえ」
 「こう動いて、こう見上げて、ああそうか…と、こう収まるといいかな」
 横澤氏が出すダメは、口調優しげだが、眼鏡の奥の眼の光が強い。台本を読めば話の展開を知ってしまい、それがセリフの色に出る。ところが話がまだ進展途中だと、そんなニュアンスは不要に決まっている。頭でそう判ってはいても、新米の悲しさでついつい引きずられる情けなさ。横澤氏のお手本の動きや仕草がまた、うっとりするくらい巧みで…。
 公演は大江戸線清澄白河駅近くの深川江戸資料館小劇場で、10月7日から10日までの4日間6回。「ずいぶん前からけいこなんだね」と、驚く友人がいるが、僕にはそれもたまらない魅力。けいこ場のあれこれ、けいこ後のちょいと一杯で出て来る芝居談義が、みんな血となり肉となる気分だ。何しろ、70才からの一念発起、人もうらやむ老後にしても、芝居の基礎も素養もまるでないまま。それが玄人さんたちの間へ割り込むのだから、どんな手掛かりでも片っ端から欲しい。そんなわけで東宝現代劇75人の会は、僕にとっては絶好の修業の場、宝の山なのだ。
 冒頭のセリフに戻れば、僕はガキのころからスポーツニッポンで修業して来た。いつまでもブンヤのつもりでいちゃいけねえとは思うんだけど、三つ子の魂百までってから…と、置き換えることも出来る。これは横澤氏のいましめなのか、僕の我田引水なのか…。
 今公演、お話の舞台が深川、上演劇場が深川であるうえに、僕の旧職場スポニチも越中島にある。伊勢屋、吉野屋、魚三など、なじみの店名が出て来たりするが、社屋のあるあたりは、当時は埋立地。台本のエピソードのあれこれに「なるほど」「なかなかに…」と余分な感慨まで去来する日々である。

週刊ミュージック・リポート


東宝現代劇75人の会 今回は深川のお話です。

東宝現代劇75人の会、第26回公演
「水の行方(みずのゆくえ) 深川物語」(作・演出 横澤祐一)10月7日(金)~10日(日)まで深川江戸資料館小劇場にて。
今年で3回目の出演をさせていただくことになりました。今回は、もと筏(いかだ)乗りだった堀川材木商店の番頭役。張り切って稽古中につき乞うご期待。

 

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殻を打ち破れ116回


 8月1日、阿久悠の4回目の命日が来る。
≪あの夏も暑かった…≫
僕は2007年のあの日を思い出す。遺体が安置された伊豆の自宅、山々に緑が色濃く、蝉しぐれの中に時折、うぐいすの鳴き声が混じっていた。
≪今年もあちこちで、高校野球の地方大会が始まっている…≫
そんなことも思い浮かべる。二人が意気投合、スポーツニッポン新聞に連載した「阿久悠の甲子園の詩」は、27年間にわたる超大河企画になった。彼は毎年、甲子園の48試合の一投一打を熟視して、一日一編の青春讃歌を書いた。僕がプロデュースした八代亜紀の『雨の慕情』は“冷夏”が味方したがあれは例外で、僕らの夏はずっと、まばゆい陽光に満ち溢れていた――。
♪想い出よありがとう 時が過ぎ 懐しさだけが 胸の扉を叩きに 今日もまた訪れて来る…
阿久が亡くなって4年後のこの夏、胸を衝かれる歌に出会った。彼の詞に都志見隆が曲をつけ、島津亜矢が歌った新作『想い出よありがとう』。達観したような別離がしみじみと語られていて、聴きようによってこれは、彼のラストソングではないか!
尿管がんにやられて、享年70才。最後の3週間など点滴と酸素吸入が頼りの闘病だった。それでも彼は、スポニチにエッセー「阿久悠の昭和ジュークボックス」を連載、前月22日付が絶筆になる。第一部終了、秋には第二部スタートにしようよ…という、こちらの提案を受け“休筆”に同意してのこと。そんなにまで戦い抜いた男が、こんなに穏やかな歌を書いている。一体いつ、どんな思いで彼は筆をとったのか?
この作品は島津のアルバム『悠悠~阿久悠さんに褒められたくて』に収められている。『恋慕海峡』『運命』『わたしの乙女坂』『旅愁』『麗人抄』など、10曲すべてが阿久の遺作である。没後に残された作品が世に出るのは、ままあるケースだが、それだけでアルバムが出来るあたりが、いかにも阿久らしい。未発表作品が100編を超えると聞けば、この旺盛さもまさに“怪物”
 ≪凄いもんだ…≫
 と、改めて感じ入る。作曲は浜圭介、弦哲也、杉本眞人、鈴木キサブロー、永井龍雲、金田一郎と都志見が腕によりをかけ、弦の息子田村武也が若者らしいセンスで参加している。彼らには一様に、阿久の詞に触発された気配が濃いうえに、このアルバムで島津は、めざましい進境を示している。死してなお強烈な、阿久の作品力と言えようか。
 島津が師と慕い、父と仰いだ作詞家は星野哲郎で、ヒット曲の多くは彼の作品。彼と阿久は互いに敬意を払った歌書きの同志だったが、島津と阿久の顔合わせは今回が初めてである。それだけに島津にとっては懸命の仕事になり、その真情がそのまま、アルバムタイトルになった。
 「いいじゃないか!」「なかなかに!」
 昨年11月15日に亡くなった星野は、どこかで阿久に会い、ひとかわむけた島津に、見合わせた目を細めているかも知れない。
 

月刊ソングブック

徳久広司がいい仕事をしている

 近ごろの徳久広司は、ちょいとしたパルチザンである。めっきり多作でしかも作風が多様、ここかと思えばまたあちらの歌づくりで、実に遊撃隊ふうな仕事ぶりだ。そのうえなかなかに、完成度のアベレージが高い。
 今回も、西方裕之に演歌、チャン・ウンスクにムード歌謡を書き、瀬口侑希には妖しの世界を作っている。6月20日、美空ひばりの23回忌法要でばったり会い「いいねえ、ここんとこ」と声を掛けたら「いやあ、とてもとても...」と、手をひらひらさせて消えて行った。

雨の奥飛騨路

雨の奥飛騨路

作詞:たかたかし
作曲:徳久広司
唄:西方裕之

 歌い出しの歌詞2行分、ゆったりめのメロディーが、歌の主人公の感傷と周囲の風景を見せる。オーソドックスな演歌の「序」の部分だ。次の2行の頭で、曲は意表を衝く激しさの「破」に展開、最後の2行は「いかないで、いかないで」とゆすっておいて、タイトルと同じフレーズで高揚する。いわば「急」にあたるパートか。
 徳久広司は「序破急」の感情的起伏をよどみなく書いて西方をのせ、西方も息づかいたっぷりめの歌で、情を濃くした。
 師弟の二人、お互いをよく知っていて、徳久がそれを生かした。

泣きむし橋

泣きむし橋

作詞:喜多條忠
作曲:四方章人
唄:岩本公水

 許されぬ恋でも一途な、女心ソング。詞の喜多條忠、曲の四方章人ともに、手なれた仕事をしている。タイトル通りに、喜多條の詞は主人公の苦悩にまでは踏み込まず、四方の曲は例によって、お人柄ふうに穏やか...。
 それを、どう彼女〝らしい〟歌に仕立てるかが、岩本に課せられたテーマになった。泣き節だが泣かずに歌って、歌の芯を明るめに、心を開いていこうとする気配を作る。各コーラスの歌詞4行めの、話し言葉がそのポイントになったろうか。
 岩本はそういうふうに、自分を取り戻したようだ。

望郷あいや節

望郷あいや節

作詞:喜多條忠
作曲:榊薫人
唄:花京院しのぶ

 津軽三味線ひき語りの、望郷シリーズ3作め。音域が広く、難易度やや高めの歌づくりが続く。この人のレパートリーは、カラオケ上級者の支持で、歌手名よりも曲名が先行する特異なポジショニング。ひなびたおおらかさと、明るく素直な歌唱が魅力だろう。

お前を離さない

お前を離さない

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 主人公の男が、女と向き合った形で、心情を語るみたいに聴こえる。息づかいの細やかさに、いとおしさが匂うのだ。そんな男女の絵を歌で見せて、歌い始めと歌い納めでは、目線をちゃんと聴衆に戻している。鏡五郎演じるところの、人情劇の一幕である。

西馬音内 盆唄

西馬音内 盆唄

作詞:喜多條忠
作曲:田尾将実
唄:城之内早苗

 6月に名古屋で会った喜多條は、秋田から来たと言った。この歌がらみの旅だったのかと、今になって合点がいった。思いがけない地名を持ち出した盆唄。5行詞に田尾将実が面白い展開の曲をつけて、それなりの興趣を盛る。城之内の歌が内心とてもうれしそうだ。

涙の河を渡れない

涙の河を渡れない

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:チャン・ウンスク

 「激しく抱かれた心には、夜明けの色したあざがつく...」なんて2行が、2番の頭にある。田久保真見の詞、フレーズ探しの苦心が垣間見えた。曲はムード派気分たっぷりめに徳久広司。チャンのハスキーボイスはとぎれかかる個所までありで、相変わらず濃厚。

箱根峠

箱根峠

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:音羽しのぶ

 「いい曲貰って、いい夏です」と、音羽から便りが届く。「どれどれ」と聞いてみたら女心ソングの道中もの仕立て。「ひらき直って女がひとり、箱根峠で仰ぐ富士...」と、なるほどいい気分そうだ。関口義明のベテランらしい詞に曲は水森英夫。おとなの遊び心の産物か。

街

作詞:松井五郎
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし

 子供のころからずっと暮らした町を歌う。四季の移り変わり、風や星や花...。五木が松井五郎の詞を、ごく抑えめな歌唱で、シンプルな作品にした。震災の被災地へも届けたいと言う。声をすぼませて、心しならせて率直に。なるほど、こういう支援もあるか。

春よ来い

春よ来い

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:真木ことみ

 辛いことばかりの暮らしの中で、それでも女主人公は上を向く。「春よ来い、早く来い。幸せつれて、春よ来い」とくり返すのが、この歌の結び。仁井谷俊也の詞、水森英夫の曲はどこかで、被災者への思いをこめていそう。真木の歌唱を開放的に明るめに変えた。

千年の恋歌

千年の恋歌

作詞:田久保真見
作曲:徳久広司
唄:瀬口侑希

 「何も望まぬおんなほど、ほんとは欲が深いのでしょう」なんて、ドキッとする文句も書き込まれた恋歌。歌づくりは、歌手の魅力に合わせる時があれば、作品で歌手を新しい世界へ誘導することもある。この歌はどうやら後者、瀬口が妙に、艶めいて妖しげだ。

仕事の宿

仕事の宿

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:和田青児

 原譲二作品の骨子は北島節。曲の緩急、歌のゆすり方や決め方に歯切れの良さまでが、随所に顔を出す。和田はその北島に私淑、北島ゆずりの味で育った。それが師匠の作品を貰う。どうしたって似やすくなるが、似たら負けと判っていて、青児は彼の色を探した。

北陸本線冬の旅

北陸本線冬の旅

作詞:たかたかし
作曲:四方章人
唄:永井裕子

 やっぱり、なかなかな歌い手だと改めて感じる。強い声味を持ち、歌のすみまで思いをこめる力を持つ。それが「明日から、平凡なくらしを探します」なんて、たかたかしのフレーズを、さっさと歌った。こちらは「平凡...と来るか!」などと、ニヤニヤした。

MC音楽センター

 
 お盆は北海道・鹿部に居た。星野哲郎が毎夏、20数年通ったおなじみの漁師町。「函館から川汲峠を越えて、噴火湾沿いに北上する。車で小一時間、駒ケ岳を仰ぐ人口5千の港町…」と、もう何10回も書いたから、僕はソラでスラスラ…だ。同行したのは作曲家岡千秋、作詞家里村龍一にオオキ(元コロムビア)、サッチャン(星野の事務勤務)、オシゲ(作詩家協会勤務)…と、いつもの星野ゆかりのメンバー。地元では星野を偲ぶ会と追悼コンペにカラオケ大会が用意されていた。没後1年、これも星野の人徳だろう。
僕らは8月13日午後、渡島リハビリテーションセンターの庭で、白みかげ石で作ったモニュメント「仲間」とご対面をした。高さ1メートル80の樹の枝に11羽のふくろうがとまっている。ユーモラスでほのぼのとした雰囲気で、ふくろうは幸せを呼ぶ鳥なのだそうな。
「あたりを見回しているでかい奴が、星野先生か」
「上の方で羽根をひろげて悦に入っているのは、さしずめたらこの親父だ」
「そうすると、色ちがいの3羽は、酔っぱらってる俺たちってことかい?」
関係者に囲まれて、口々ののん気な冗談は、岡、里村と僕。何を隠そうこのモニュメントは、僕ら3人が割勘で寄贈したものなのだ。
1987年から2006年まで、星野は鹿部を訪ねるたびにこの施設に立ち寄った。入居しているお年寄りや障害を持つ人々を慰問、寄付金を届けるのが常。そんな町の人々との親交と、星野の思いを引き継ごうとしたのが僕らである。07年以降も、加齢による健康不安で出かけられなくなった星野の名代として、毎年招かれていた。施設の庭には星野が寄贈した石の灯篭もある。
「よし、それなら俺たちも一役!」
と、悪童3人の一念発起がふくろう11羽になった。設置されたのは昨年11月15日に星野が亡くなる直前の11月10日。
元気だったころ星野は、夜明け前に出船して定置網を引き、番屋の朝食で大漁の魚をくらい、昼前からはゴルフコンペ、夜は漁師たちとの酒…と、この町で海づくしの日々を過ごした。船乗りから作詞家に転じた彼の〝海の詩人〟第一人者としての、いわば海のおさらい。その中から幾つものヒット曲が生まれ、鳥羽一郎が歌った「北斗船」の歌碑もこの町に建っている。
しかし、名代の僕らの鹿部の旅は、もう少し軟弱な趣き。とれとれの海の幸のご馳走は同じだが、気分浮々のグルメツアーふう。毛がににかぶりつき、むらさきウニとばふんウニを食い比べ、マンボウの肝あえがうまいの、なまこがうまいの…と口走って、合い間に焼酎をグビリ、グビリ。飾られた星野の遺影や思い出の写真、記事などを一巡したあとは、翌日のゴルフの相談である。何しろ2泊3日で3ラウンドはやる貪欲さ。
「それでいいんだ。めいっぱい楽しんで貰えりゃ…」
僕らがたらこの親父の異名を捧げる道場水産道場登社長は、自称星野哲郎の北海道後援会の会長。一行のツアーの勧進元だが、そのおおらかさと酔いっぷりは、星野に対しても不肖の弟子の僕らにも、何ら変わるところがない。
「そうそう、ここで得たものはいずれ、こやしになって俺たちの歌に出てくるからさ、なあとっつぁん…」
甘え放題の歌書き2人と僕らは、今年は星野の遺徳のおこぼれを満喫したことになる。
「それにしても…」
と、話は11羽のふくろうのモニュメントに戻って、僕ら3人は酔余、肩をすくめた。何しろ、
「福祉に役立てて頂きたい」
などと、殊勝な言動に及んだのは生まれて初めての経験。やんちゃに暮らした若いころから更生した3人組みたいで、面映ゆいことこの上ない。
「ま、こういうこともあるという話さ」
「うん、それはそれ、これはこれか…」
顔を見合わせての感想も、何だか要領を得ない。
帰京して翌々日の16日、僕は札幌へ初音ミクというバーチャルアイドルのコンサートを見に出かけた。18、19日の両日は栃木で開いた小西会で2ラウンドのゴルフをやった。 

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週刊ミュージック・リポート

「みんな集まります。行きませんか」
観劇の呼びかけFAXが入った。つまみ枝豆、渚あき、今井あずさ、谷絵利香なんて名が並んでいる。6月、名古屋御園座の「恋文・星野哲郎物語」を一緒にやった人たちだ。面白いものでけいこから本番まで、長い期間をともに過ごした面々とは、妙な肌合いの親近感が残る。
「よおしッ!」
と、万障繰り合わせて出かけたのが、8月8日の世田谷パブリックシアター。「恋文」で星野夫人の朱實さんをやった、かとうかず子が出ているためだが、ものは朗読劇「この子たちの夏~1945・ヒロシマ ナガサキ」である。到底お仲間気分で浮かれて…という訳にはいくまいが、ま、いいか!
かとうに島田歌穂、高橋礼恵、西山水木、根岸季衣、原日出子と、6人の女優さんが横一列に並ぶ。みんな質素なワンピースふうで、むぎわら帽子をかぶっている。それが捧げ持つ台本をかわるがわるに読む。広島や長崎で原爆を被爆した子供たちの〝その前後〟と〝その瞬間〟が生々しい。3000人を越える人々の手記や遺稿、詩を読み込んで、その言葉を生の型で生かしたという構成・演出は木村光一。
1985年から23年間、夏限定で767回も上演されてきた作品。それが4年の中断のあと、今回再スタートした。いわば阿鼻叫喚の地獄からの証言。兄弟姉妹や友だちの〝その時〟を語る子供たちの言葉は、幼い表現だが現実を直視してきびしい。数多い叫び声は「お母さ~ん!」で、それに応じる母親の言葉が続く。生き残った人々の手記には、絶望的な悲しみと、事の理不尽さへの怒りがこもる。詩人たちの言葉には、この事実を風化させまいとする祈りが熱い。
朗読する女優さんたちは、ほとんど観客に顔を向けない。表現も感情移入を極力避けて一字一句、被爆者たちの思いをそのまま、ストレートに伝えるように見える。観客もまた、余分な感情移入や、出演者への個人的なシンパシーは棚上げする。劇場で、この子たちの夏を一緒に過ごし、あの夏を追体験し、劇場を出てからそれぞれが、その意味や〝今〟や〝これから〟を考えるのが僕らの役割か――。
8月5日は世田谷・若林のスタジオARに居た。劇団レクラム舎創立35周年記念公演「プロローグは汽車の中」の客席。小松幹生作、高橋征男演出で11人の俳優が出演するが、申し訳ないが知り合いは一人もいない。たまたま創樹社の山川泉が思いもかけず制作を担当していて、
「来ません?」
と誘われたのがきっかけだが、ここでも突きつけられたのは原発問題だった。
北の町が原子力発電所の誘致について、住民投票前夜で大揺れしている。賛成派と反対派がにらみ合うが、実態は公私混同に私利私欲がからまって奇々怪々。おまけに、以前原発が隣町に出来た時の陰謀めいた話まで出て来た。町長、町会議長、町会議員に電力会社所長がもともと同級生だったりするから、個々の思惑はもつれにもつれて混沌…。
この作品も再演。1986年にチェルノブイリ、95年に阪神淡路大震災と高速増殖炉もんじゅの事故が起こって96年に初演された。15年後の今、フクシマ、あれから5カ月…。そんなタイミングでの上演だが、仕上げはユーモラスで、シニカルに悲しい。それが作、演出の小松・高橋のねらいらしいのだが、観た僕らが持ち帰るものは相当に重い。原発問答は今や、居酒屋や銭湯でも声高…と劇団主宰者鈴木一功がパンフレットに書く昨今。
知人や友人に誘われての、近ごろの僕の観劇は、そのせいで全く脈絡がない。ここかと思えばまたあちら、何でもアリの節操のなさだが、こういう2作品にぶつかるのも、この夏ならではのことか…。それやこれやを考えながら深夜帰宅したら、エイベックス・グループの稲垣博司氏から残暑見舞いの一葉。30年ぶりに富士山に登ったとかで「凄いパワーだ」と唸った文面の中ごろに「国の鎮魂と安寧を祈った」とあった。みんなが一様に、そういう思いでいる年なのだと、合点がいった。

週刊ミュージック・リポート
週刊ミュージック・リポート


 「うむ、年に似ぬ声の艶… 」
 なんぞと、僕はしたり顔になる。8月3日午後のサウンドシティ、Bスタジオ。歌っているのは船村徹で、美空ひばりの詞に曲をつけた「花ひばり」という作品だ。演奏を指揮するのは、編曲を担当した船村の息子蔦将包、見守るのは、船村夫人の福田佳子さん、娘の渚子さんらに、ひばりの息子加藤和也氏と有香夫人。
 「歌い手さんなら、歌い込むほど声が出るんだが、こっちの場合は、だんだん(声が)なくなるからな…」
 誰に聞かせるでもない口調のジョークを残して、船村はマイクに向かう。歌手が歌手のうえに演奏と歌の同時録音だから、ミュージシャンたちは相当に緊張する。その音との間合いをはかりながら、二度ほどリハーサルがわりに歌い、本番はテイク1、テイク2の2回で、
 「ま、こんなもんかな」
 船村が笑顔で戻って来た。
 ?花は美しく散りゆくもの、人は儚く終わるもの…
 という歌い出しのひばりの詞は、だからこそ花も人もいとおしい…と訴える。おりにふれて書き止めた多数の詞やその断片から、船村が選び出した一編。無題の詞を、ずばり「花ひばり」と名づけたのも彼である。ひばりの23回忌法要は、6月20日、帝国ホテルで営まれた。それに先立ってNHKBSが放送した、ひばり特集番組で披露された作品だ。
 船村の歌声は、高音部に哀切感がにじむ。額の裏に当てて、響きを強めた声の張りと艶は、とても喜寿を越えた人のものとは思えない。中、低音部はノド許で声が揺れて、歌に滋味を生む。曲も歌唱もこの人特有の抒情性で、描き出されるのは諦観にも似た愛情の深さ、決して詠嘆に止まらない眼差しの高さ、去った人への追慕の情か。
 「ひばりさんを思い浮かべていたら、メロディーがどんどんむずかしくなってな。いかんいかん、これは俺が歌うんだと、自分にブレーキをかけて…」
 そんな思いで書いた曲を、
 「ふっと、彼女ならどう歌うかな…なんて、どうしても考えてしまう。あの人の真似なんか、できっこないのにな。雑念だね、これは…」
 などと思いながら歌った。
 ふつう歌手は、声と節で歌う。船村はそこのところを〝人〟や〝仁〟で歌う。
 《かなわねえよな、これには…》
 僕は歌手たちの側からそんなことを考える。歌うのか語るのかの域を越えた伝え方。達観から生まれそうな、表現者としての無欲の欲、枯れた風情の中に、脈々とする情熱、それやこれやの、発想がまるで違う作品との向き合い方、そのうえで、なお自分を研ぎすまそうとする船村流…。
 手際いいスタジオワークを、淡々とこなすのは宅間正純プロデューサー。
 「このごろ、よく働くなあ…」
 なんて、冷やかしかげんの声をかけたが、この人はひばりの「みだれ髪」レコーディングの時も、ディレクターの椅子に座っていた。あの時は星野哲郎もいたが今は、ひばりと一緒にあちらの世界。そう言えば…と、演奏と歌の同時録音に立ち合うのは、あの時以来のことに気がつく――。
 この日の午前、僕は青山葬儀所へ行き、田正夫人喜代子さんの霊前で焼香した。昨年6月に田の13回忌法要、12月には自身の90回めの誕生祝いパーティーを開いて、その生き方にけじめをつけた人の最期である。田学校の弟子を代表した橋幸夫は弔辞で「お見事な生涯」と語り、夫人が去った後に残る問題に突き当たって、三田明は無念の歯を噛みしめた。
 同じ日に、月刊カラオケONGAKUを主宰した颯爽社朝比奈暁美社長の葬儀が、戸塚の戸塚奉斎殿で行われた。62才、早過ぎたがこれも覚悟の死とも思えた。だんなの朝比奈健が亡くなって、僕の担当編集者が彼女に代わった不思議なつき合いが、長く続いた相手である。僕は1日の田夫人の仮通夜、2日の朝比奈の通夜に出席、3日は田夫人の棺を見送った。

週刊ミュージック・リポート


 この夏は富士山がよく見える。眼下の葉山の海の対岸、シルエットで浮かぶ富士は濃紺で、それが海と空の青と天然のグラデーションを作る。あしらわれているのは白い雲のかけらが幾つか…。
 《この景色を、もう一度見せたかった…》
 ふと、石井好子の笑顔を思い出す。僕が葉山へ転居して4年。岬みたいな地区の突端で、海と向き合って暮らす日々を話すと、彼女はとても喜んだ。少女時代をここで過ごしたと言う。戦後もしばらく暮らして、思い出話があれこれ。昨年も入院中の彼女を見舞って、そんなひとときを過ごした。涼しくなって退院したら葉山を案内する。日影茶屋の昔ふうな倉がバーになってるので一杯やろう。米寿のお祝いの相談もそこでしよう…。そんな約束に肯いた彼女は、それから5日後に亡くなった。7月17日、その最初の祥月命日が過ぎた。
 眼の前の海から花火が上がる。大きな連続音と閃光に、小西風は後ずさり、血相を変えて遁走した。「風」は「ふう」と読む5才になる猫、彼女の種族は音にひどく敏感なのだ。
 「何だよ、今まで遊んでくれと大騒ぎしてたのに…」
 ベランダに出て一杯…の友人が笑う。7月27日午後7時30分、一夜順延された葉山海岸花火大会が始まった。前日も曇りだが、花火をやめるような天候ではなかった。
 《風が強いせいか?》
 と思ったら、問題は波。目の先400㍍ほど、名島付近の台船が打ち上げ場所なのだが、それを浮かべるには波が荒すぎたらしいのだ。
 「祝雷」に始まって「宇宙への旅」「彩色の牡丹」「柳に万花」「潮騒の光」「百花繚乱」「夜空の天使」「葉山の花園」なんて奴が、次々に夜空を彩る。「水中孔雀」と名づけた何発かは、海中から斜めに吹き上げる仕掛け。花火の構図が縦長で立体的に変わるから、防波堤に群がる見物衆がどよめいた。
 「そうですか、石井好子さんねえ…」
 友人二人が相づちをうつ。かつてスポーツニッポン新聞の同僚だった男たち。一人は藤沢に住む格闘技担当記者、一人は平塚から来たカメラマンだが、双方石井を身近に感じている。シャンソンコンクールを石井音楽事務所とスポニチが共催、加藤登紀子や堀内美希ら何人かのプロを育てた。その都度社内が大騒ぎだから、担当外でも決して他人事ではなかった。
 花火のはるか上空を、あかりを点滅させながら旅客機がゆっくりと太平洋を目指す。
 「ヨーロッパへでも行くんかねえ」
 ブラジル産の焼酎?ピンガを水割りにして、かなり飲んだから冗談もポンポン。いい年のおっちゃん3人が空を見上げながら、話はまた石井に戻る。彼女の形見分けで、僕は四角い絵皿を貰った。アルフレッド・ハウゼが来日公演をした時に、土産に持って来たもので、ハンブルグの港の風景が描かれている。貰って間もなくから、出版社にしばらく預けた。石井の身近にあった由緒やいわれのある品を集めて、写真集を作るのだそうな。
 「そりゃあ、なんでも鑑定団ものだ…」
 また笑う友人に、石井とハウゼの親交、ハウゼ楽団の楽器が全部なくなった時の大騒ぎ、ハウゼと共演「汐風の中で」という曲を貰い、菅原洋一のレコード大賞歌唱賞受賞のテコにした話などをたて続けにする。そんな酔漢三人を遠目に、好奇心旺盛な割に臆病な「風(ふう)」は、リビングの隅にうずくまったままだ。
 一夜あけて28日、僕はこの原稿をレコード特信出版社にFAX送信して、中野で開かれる藤間哲郎を送る会に出かける。30日には元東芝音工の宣伝マンで、プランニング・インターナショナルを興した田村廣治の一周忌法要。8月1日は阿久悠の4回目の祥月命日だ。夏は僕にとって、見送った大切な人や友人を、心しずめて偲ぶ季節になった。そう言えば自分の母親の七回忌も近い。さて、お清めの一杯はどこでやるか! 

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〝おもんばかり〟路線に一言

  『明日を信じて』『灯』『ねぶた』『春遠からじ』などのタイトルが並ぶ。東日本大震災を体験して、歌づくりがそれなりの流れを作ってのことか。あの日以後、NHKをはじめとする放送メディアは、新・旧作を問わず、極端なまでに歌詞チェックをした。結果、歌えない作品が増え、それが具体的な分だけ、歌の制作現場をより慎重にさせている。余波は新作の歌詞の、ドラマの書き込み不足に現われる。作品の底が浅くなるのが、新しい気がかりになった。

明日を信じて

明日を信じて

作詞:原譲二
作曲:原譲二
唄:原田悠里

 原譲二が書くメロディーは、メリハリがきっちりしている。北島三郎として歌う世界の、歯切れのよさが生きるせいか。面白いもので、歌い手と歌書きの特色が表裏一体、こんなところにも彼の美学が貫かれている。
 弟子筋に当たる原田は、その辺をよく心得ている。さらに昨今の世相、歌の流れまで感じ取れている気配。気負わずに軽めの歌に仕立て、サビはゆったりとメロに乗るなど、明るめの歌にした。
 それにしても北島は、楽しみながら歌三昧の日々、好きなんだなあ、本当に...と思う。

灯

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:藤原 浩

 藤原の〝変化〟に「ほほう!」である。ブンチャブンチャのリズムに乗って、歌に〝攻め〟の強さが生まれた。顕著なのは歌い出しの歌詞2行分と、各節の歌い納め。ひょいと本人の〝地〟がのぞけた。
 美声の持ち主で、それを生かす歌づくりが続いた。声に頼るとそれを整える意識が加わる。結果歌は〝よそ行き〟で情感を離れやすい。それはそれで一つの境地だが、藤原はもう一つ先へ行きたくなったのか?
 ひと皮むけた手伝いをしたのは、作曲の水森英夫。彼らしい力仕事がなかなかである。

永遠の花

永遠の花

作詞:城岡れい
作曲:弦哲也
唄:島津悦子

 コクやアクの演歌臭を、意図的に薄めた歌づくりに聞こえる。素直にスタスタと歌って、感情移入はサビの歌詞2行ほど。それも弦哲也の曲が、彼女の高音の艶を生かした4個所ほどに止めた。理が勝った詞も、こういうふうにやわらげる手があるのだと、納得した。

山百合の駅

山百合の駅

作詞:三浦康照
作曲:叶 弦大
唄:若山かずさ

 おなじみの汽車もの。「改札口」「線路」「汽笛」「待合室」などが、歌詞にちりばめられている。蔦将包の編曲もおなじみのタイプだが、列車のきしみの刻み方が、若山の歌をあおり、追い立てるように効果的。若山の声味に切迫感を加えてお手柄である。

ねぶた

ねぶた

作詞:なかにし礼
作曲:浜圭介
唄:細川たかし

 細川の歌声が、晴れ晴れと活力に満ちている。「人生はなぜこうもつらいのか」「人生はなぜこうも美しい」と、なかにし礼が詞を書き、浜圭介と若草恵が作、編曲で盛り上げた。「ラッセラー、ラッセラー」と掛け声張り上げて〝がんばろう東北〟の細川版か。

おんなの夜汽車

おんなの夜汽車

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:小桜舞子

 北へ行く女の傷心ソングを、仁井谷俊也と岡千秋が汽車ものに仕立てた。双方手なれた仕事ぶりで、岡のメロディーが、サビと歌い納めにヤマ場を作る。小桜は彼女なりの情感せり上がらせながら、一途に歌いつのる。この人の魅力は、この〝一途さ〟だと合点した。

白山千鳥

白山千鳥

作詞:山田孝雄
作曲:朝月廣臣
唄:谷本知美

 タイトルの『白山千鳥』は、高山の草地に生える多年草。千鳥が飛ぶ姿に似ているとか。その花が好きだった彼は亡くなり、残された彼女が追憶と追慕を歌う。近ごろでは珍しい純愛もののワルツ、谷本はセリフも含めて、なんともすがすがしいくらいの歌にした。

春遠からじ

春遠からじ

作詞:仁井谷俊也
作曲:立笠薫
唄:三笠優子

 「負けないで、負けないわ」「頑張って、頑張るわ」「生きるのよ、生きてゆく」と、三笠が女のゆく道を歌う。歌声が上を向いて、心開いている手ざわり。人生いろいろあったことを、越えた上での明るさに、この人のキャリアが生きる。生活感が得難い。

雪挽歌

雪挽歌

作詞:下地亜記子
作曲:弦哲也
唄:松原のぶえ

 「外は粉雪、心は吹雪」という決めの歌詞がある。その前半で厳しい風景を見せ、後半で女の傷心色濃くした。6行詞1コーラスを、ひと筆書きみたいに、情感よどみがない歌唱。泣き節だが適度の抑制も利いて、松原なりの巧さが聴き応えを作った。

情熱のバラ

情熱のバラ

作詞:湯川れい子
作曲:水森英夫
唄:キム・ヨンジャ

 歯切れと乗りのいい、ラテン系歌謡曲。湯川れい子の洋風な歌詞に、作曲は思いがけない水森英夫。カスタネットが効果的な編曲は桜庭伸幸だ。委細承知の勢いでヨンジャが歌う。いい気分そうに開放されて、サビあたりには身上のキムチ味インパクトの強さも盛った。

MC音楽センター

殻を打ち破れ115回


 「2曲も、世の中に知られた作品を持つ。大きな財産だよな」
 と話しかけたら、一瞬、嬉しそうに笑った木下結子が、
 「でも…」
 と口ごもった。『ノラ』と『放されて』の創唱者なのだが、作品がファンから愛されているわりに、彼女の知名度は上がっていない。そのギャップが彼女には、重い荷物になっているらしい。
 「だから、これを歌う時は、今でもすごく緊張するんです。お客さんに“なあんだ…”って思われたくないから」
 2曲とも、門倉有希がカバーしてヒットした。ファンの多くは、もともと門倉の持ち唄だと思っている。しわがれ声と独特のフィーリングの個性派。ここで木下は、思いがけないライバルを持つことになった。ごく少数派だが中には木下が元祖と知る“通”もいる。木下は二種類の聴き手を、自分の色で納得させなければならない。
 27年前の昭和58年、彼女は『放されて』でデビューした。作詞吉田旺、作曲徳久広司で、ディレクターは中村一好。地道にキャンペーンに励んだが、反応はいまひとつだった。3年後に『純兵恋唄』を出す。腕きき制作者の中村は、東大安田講堂占拠組の闘士。戦闘的な歌づくりが身上で『純兵…』の原題は「テロルの決算」―沢木耕太郎のノンフィクションがモチーフだった。これも不発で『ノラ』が世に出るのは、デビューから5年後になる。作詞はちあき哲也、作曲はこれも徳久。
 昭和58年は「ロッキード裁判」「東京ディズニーランド開園」の年。以後「ロス疑惑」「阪神、21年ぶりセ制覇」「地価高騰、バブルへ」と世相がわき返る。松田聖子、中森明菜、おニャン子クラブ、安全地帯、近藤真彦らの人気の陰で、木下の孤独な嘆き歌は埋没した。やがて制作者中村は、公私ともにパートナーだった都はるみを追って、コロムビアを去る。木下は歌づくりの指導者にも、はぐれた―。
 皮肉なめぐりあわせが、もう一度来る。バブルがはじけて日本は、長い下り坂の時期に入った。「あれは異常だった」「右肩上がりの暮らしは、もう戻らない」「もともと、これが当たり前だったんだ」…などとボヤキながら、庶民は低迷、先行き不透明な日々をやり過ごそうとする。そんな中で『ノラ』や『放されて』を見直したのはカラオケ・ファンである。巷の歌好きたちが2曲を“隠れた名曲”に育てた。それを掘り起こしたのが門倉とそのスタッフだった。
 6月、木下と僕は名古屋御園座の「恋文・星野哲郎物語」で一緒になった。星野(辰巳琢郎)と朱實さん(かとうかず子)の夫婦愛物語。木下はクラブの歌手、僕は星野のお尻を叩くプロデューサー役で、劇中木下は『アンコ椿は恋の花』と『叱らないで』を歌った。
 ≪財産の2曲を大切にな、めげずに唄って行こうよ。巷には、あんたの魅力を愛するファンが、必ず居るんだからさ…≫
 クラブの隅で彼女の年輪の歌を聴きながら、僕はドラマと現実が、ごっちゃになる気分の日々を過ごした。

月刊ソングブック

 
 「ちょうどいい歌がある。これに合わせて、さあ、歩行訓練!」
 介護士が永六輔氏を叱咤激励する。彼はパーキンソン氏病のリハビリ中なのだが、病院に居合わせた人々は、そんな二人から目をそらすそうな。
 「きっと、見てはならないものを見た気がしたんでしょうね」
 そう話しながら氏は、ヒッヒッヒ…と笑った。介護士が小声で歌うのは「上を向いて歩こう」で、それを作詞したのが、担当している患者とは気付かぬらしい。
 7月21日夕、原宿のレストランで開かれた、佐藤剛君の出版記念パーティ。その本が「上を向いて歩こう」で、永氏は発起人を代表して、そんな風変わりなあいさつをした。佐藤君は昔々岡野弁氏が創った「ミュージックラボ」という情報誌の編集にいた。僕は週1のコラムを持っていたから、そのころからのつき合い。それがやり手の音楽プロデューサーになっていて、近ごろあちこちで頻繁にでっくわす。例えば由紀さおりのアルバムづくり、岡林信康の美空ひばりトリビュート企画。記念会の前日は岩谷時子賞授賞式の会場で、坂本冬美の周辺…。
 ひところはザ・ブーム、宮沢和史、喜納昌吉&チャンプルーズなんかをプロデュースしていた。
 《ほほう、業界的なジャンル分けなど、あっさり飛び越す発想と行動力の持ち主になった。えらいもんだ…》
 こちらは長いこと演歌ドップリの日々だから、少し眩しく見えた友人だ。それが今度は物書きになって、しっかり精査した手応えの中村八大、永六輔、坂本九の〝ひとと仕事〟探検と文化論。それも「上を向いて歩こう」発売50年、SUKIYAKI50プロジェクトのスタートと、タイミング合わせも絶妙というあたりがニクイ。
 《しかし今日は、50年ものが続くなあ…》
 パーティを中座してNHKホールに移動すれば、こちらは畠山みどりの歌手生活50周年記念リサイタルである。昭和37年、この人は「恋は神代の昔から」でデビュー、高度経済成長期へ、芸能の天の岩戸を開いた巫女さんだった。
 ♪恋をしましょう、恋をして、浮いた浮いたで暮らしましょ…
 という星野哲郎の詞、市川昭介の曲は、とてもじゃないがそれどころではない働き蜂たちの心をゆすった。その上に、
 ♪やるぞみておれ、口には出さず、腹におさめた一途な夢を…
 の「出世街道」が、モーレツ社員の背中を押すサラリーマン軍歌になる。勇壮な個所よりも一抹の悲哀をにじませる部分が、大衆を酔わすのが軍歌の常。スポーツニッポン新聞の下っ端記者の僕は、
 ♪他人に好かれていい子になって、落ちて行くときゃ独りじゃないか…
 の三番の歌詞の方が、実感じんじんとココロに沁みた。
 《72才、あきれるくらいのパワーだ…》
 この人の売り物の衣装の引きぬき・早替えは、極彩色の和洋11ポーズ。2曲歌って次!…のペースで、二部構成の25曲プラス・アンコールと来る。その間、
 「南相馬から…。大変な時なのに来てもらって…」
 と、客と手を取り合わんばかりに東日本大震災に触れ、
 「飛行機とんだ? 台風がそれてよかったねえ」
 などと、鹿児島からのファンとのやり取りで台風6号をネタにする。早口でジョークを連発、祝儀袋をたもとにどっさり…の集金ぶりも受けた。
 ボイストレーナーの大本恭敬が感服するのは、高輪の自宅から彼の恵比寿のスタジオへ、もう17年間も歩いて通いつめる彼女の努力と粘り強さ。その効果はてきめんで、終演後帰路につく観客からは「よく声が出てる」の声がしきりだった。
 「上を向いて歩こう」の50年は、日本の音楽を世界規模の視点に広げ、畠山の50年は国内の世相との表裏一体を示した。いずれも昭和が生み育てた大きな成果だが、平成はそれをどう受け継ぎ、展開させているのか? 考えさせられる一日になった。

週刊ミュージック・リポート


 「もしかして、あれはあいつじゃなかったか? 妙に似ていた…」
 地下鉄の中でふと思いついた。駅についてその男に電話を入れる。
 「お前さん、美空ひばりのブラジル公演で、司会をやったか?」
 相手はけげんそうな声で答えた。
 「ええ、やりましたよ。でも何でまた、そんな古い話を…」
 僕はすぐに、もう一本の電話をする。今度はひばりプロの加藤有香専務、ひばりの息子加藤和也氏の夫人だ。
 「ねえ、もし体があいてたら、今夜6時過ぎに銀座のあの店へ来ない? 40年前のお化けが出た。ぜひ会わせたいんだ」――。
 ひばりのブラジル公演は1970年8月8日から3日間、サンパウロのイビラプエラ体育館で開かれ、3万6千人の観客を熱狂させた。「美空ひばり公式完全データブック」によれば、6日空港には軍総司令官や国、州の高官、連邦議員、州議会議員らが出迎えて国賓扱いの歓迎をしている。昭和45年、日本では大阪万博が開かれ、作家三島由紀夫が自死したあの年で、ひばりは33才だった。
 それから41年後の6月28日夜、有香さんに引き合わせたのは、友人北川彰久。毎年NAK(日本アマチュア歌謡連盟)の全国大会に、ブラジル代表を引率して来るから、かれこれ15年ほどのつき合いになる。ブラジルの音楽界で多岐にわたって活躍、あちらの日系社会ではちょいとした知名人。今年はNAKの大会が自粛中止となったため、単身来日、東日本大震災で被災した仲間の会員を慰問、激励に回った。滞日期間中に一夜、一杯やるのが僕らの恒例で、
 《そう言えば…》
 となったのが、今年の約束のその日の午後。
 ひばりの23回忌法要が営まれたのは、6月20日夕、帝国ホテル。そこで彼女のブラジル公演の映像が流された。発起人の一人として出席した僕は、ステージでひばりを声高に紹介する男に、
 「ン?」
 となる。そのシーンはほんの一瞬だけのものだったが、長身やせぎす、細面の額の広さに、見覚えがある気がした。法要はひばり一家と親交のあった人々600人が着席した大掛かりなもの。僕には閉式のあいさつという大役があったから、そんな気がかりは、すぐに脳裡から消えた。
 話は銀座の夜へ戻る。
 「ああ、やっぱりそうなんだ!」
 入って来るなり有香さんは嘆声をもらした。苦労して入手した映像だから、彼女は全編を何度も見直している。その幕切れで北川は、何事か大声でひばりに訴えかけ、客席に向き直ってまた何事かを叫んでいた。それが司会者からの「アンコール!」だったことが、二人の会話の中ではっきりする。資料が少ない海外公演の実態が、この夜相当にレアに沢山語られることになる。
 法要のあいさつで息子の和也氏は、ひばりについて「現役」という言葉を何度が使った。没後22年の今も、強烈な存在感を示す母親の〝人と芸〟についての実感。それに加えて、〝ひばりの世界〟をより大きくより広く、若い世代にまで伝え、継承していく視点と決意をこめてのことだったろう。そういう大仕事のよきパートナーが有香さんである。事業のグランドデザインを和也氏が考え要所を締めて、実務を有香さんが一手に引き受けるのが、二人の役割分担だ。
 ひばりの業績を細部まで掘り下げ、ひばりの魅力を再構築する資料を求めるのも彼女の仕事である。北川の帰国後、こうして結ばれたパイプは、興味深い多くのことを生み出していくだろう。
 「こんなことってあるんですね。それも、よく連れてきてもらうこのお店で…」
 感嘆しきりの有香さんと北川を見比べながら、 《加藤家三代とのつきあい、ひばりさんとの縁は途切れずに続くなあ…》
 ひょんな思いつきで生まれた一幕に、僕もひととき感慨ひとしおのものがあった。

週刊ミュージック・リポート


 客電が落ちる。音楽がスタートする。これから始まる芝居の、いわば前奏曲。それが軽やかなのは、ドラマの雰囲気を伝えて、決して深刻劇!?が始まる訳ではないと知らせる。音楽が盛り上がるのはクライマックスへの予感、
 《あれっ!?》
 と気づくのは、最初から客席に手拍子が盛んなこと。まだ緞帳が上がらぬうちから…というのは初めて見た。6月の明治座公演。主演は氷川きよし、演しものは「銭形平次・きよしの平次青春編」で、原作が野村胡堂、脚本が堀越真、演出が北村文典。どうやらファンは、芝居が始まる前から、気分大いに前のめりなのだ。
 平次は18才、神田明神下の長屋で母親(大空真弓)と母一人子一人の暮らし。定職も持たぬいわばニートで、子供たちと遊んでばかりだから周囲が気をもんでいる。それがふとしたはずみで三千両の盗難事件にでっくわし、捜査の手伝いをはじめた…。そんな設定が〝青春編〟のいわれで、例の投げ銭だけはもう、しっかり身についている。
 《なるほど…》
 と、僕は客席でニヤニヤした。おなじみ平次の女房お静が、今回は母親の名前になり、それでは平次と恋仲の女性が登場するかと言えば、それもない。つまり、あえて平次の青春編にした訳は、色恋沙汰、愛情問題一切抜き…が狙いと読み取れる。企画・監修が長良じゅんと神林義弘。氷川の育ての親である長良グループ首脳が、独特で強烈な氷川ファンの心情をおもんばかった結果だろうか――。
 氷川はほとんど地のままで平次をやったように見える。芝居だからああもしよう、こうもしようというテダテは用いない。巧く演じようなどという野心は持たぬ風情だから、平次が率直な好青年になった。共演の大空や横内正、山田スミ子、瀬川菊之丞、中田博久らはそのペースに合わせ、西山浩司、脇知弘、太川陽介らが氷川の周囲をかためた。
 演出の北村を僕は、親愛の情と敬意をこめて〝ブンテンさん〟と呼ぶ。何度も芝居の手ほどきを受けているが、こと細かで的確、目からウロコが落ちる思いがしばしばの人だ。氷川の場合もおそらく、舞台上の動き、立ち位置などをあれこれ指示したろうが、必要不可欠の部分に止めて、決めるところは決める作戦。氷川も〝決め方〟の呼吸は、歌手として十分身につけていたろう。
 捕物帖が明るめの青春ドラマになり、お話がスタスタ進んだ楽しさが、氷川の4年ぶり2度目の長期公演。彼ふうな娯楽の作り方になって、二部はいつものコンサートである。本人も「明るく元気で、少しファンタスティックに」と話すにぎやかさで、奇抜な衣装も色とりどり。「雪の渡り鳥」「妻恋道中」「旅姿三人男」「東京五輪音頭」など、やたらに古い曲も出て来た。
 おばあちゃんに主婦、その娘…と、三代にわたるファン層としても、懐メロふう感慨がもてるのかどうか…とあやぶみながら、
 《別に、その辺にこだわることもないのか…》
 と、僕は思い直す。ファンはみんな、氷川の一挙手一投足にうっとりしているので、ネタが古かろうが新しかろうが、お構いなしの楽しみ方。客席は一面にペンライトの海で、芝居の開幕前の手拍子同様、申し合わせたように規則正しく、きちんと揺れる。氷川ファンは、彼のデビュー以後11年のつき合いで、自分たちをそういうふうに訓練してしまった。
 多くの歌手たちは、ヒット曲を積み重ねて独特の世界を作り、それに成功した者だけが、スターの座につく。それに較べればアイドルは、作品をとっかかりに独自のキャラクターを構築、何でもありの境地を作る。もちろんヒット曲も必要だが、それは彼〝らしさ〟彼女〝らしさ〟でキャラを強化し、増幅させるためのパーツとして作用する。そういう意味で言えば氷川は、幾つもの世代の強力な支持を得、健全さを特色とした類希れなアイドルの地位を確保しているのかも知れない。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ114回

「ほっほっほっほ…」
 と、一人で笑ってしまった。坂本冬美の『桜の如く』を聞いてのこと。自宅の居間、家人の留守、いい年のおっさん!?がプレーヤーの前でニヤニヤする。不審げに見上げるのは猫のふうちゃん…と、他人が見たら気味悪がりそうな光景だが、当の本人の僕は上機嫌だ。何しろこの「ほっほっほ…」は「へえ!」とか「ほほう!」とかを通り越した感想のあらわれ。共鳴とか共感とかの親しみがこめられている。
 ♪どんな試練が待ちうけようと 夢はつらぬく最後まで…
 と、たかたかしの詞はあくまで重厚である。
 ♪不惜身命ひとすじに 行くが人生人の道…
 なんてフレーズまで出て来て、これはもう村田英雄にぴったり…という世界。ところがテスト盤から流れ出した冬美の歌声は、明るく軽やかに弾んで、やたらに快活なのだ。
 「やるなぁ、諸君!」
 歌詞カードのクレジットを見れば、作曲が徳久広司、編曲が馬飼野俊一とある。この歌詞にこのメロディー!のミスマッチは、相当にすっ飛んだ発想、調べてみたら徳久がAタイプ、Bタイプの2曲を書いて「いいね、いいね」になったのがBだったそうな。ポップス寄りのこっちの方が、歌詞からの飛び幅が大きかったと言うことか。リズムを細かく刻んで、スカパラホーンズ参加のアレンジをした馬飼野の仕事ぶりは、もろポップス。2人が冬美をすっかり“その気”にさせたものと、合点が行った。
 「その手で来たか、ヤマグチ!」
 僕はこれを作った山口栄光ディレクターの顔を思い浮かべて、この年下の友人に拍手を送った。冬美の25周年作品の1発め、3年ぶりの演歌となると、気合いが入ったろうし、知恵も絞ったことだろう。何しろあの『また君に恋してる』大ブレークの後の作品である。冬美本来の演歌路線へ戻す時期ではあろうが、かと言って昔ながらの演歌では、せっかく集めた若者ファンの支持を失いかねない。企画の着地点探しは、かなりむずかしい作業なのだ。
 昔、意表を衝いた大ヒット『夜桜お七』の後を思い出す。セリフ入りの『蛍の堤灯』をはさんで、演歌の『大志』で着地した。その前例も考え合わせて、もっと若者寄り、近ごろふうを狙ったのが、今回のトライではなかったろうか?
 ケイタイで、つかまえた山口ディレクターは成田空港に居た。由紀さおりのアルバムづくりのアメリカから帰国、バスを待っていたところだと言う。
 「ひばりさんの『人生一路』の線を狙ったんです。若いファンにも、エンカってかっこいいじゃん!って思って貰いたくて…」
 明快な返事の声が元気だった。僕はここでもう一度「ほっほっほ…」になった。美空ひばりがあの歌を出したのは1970年だから41年前のこと。今年はひばりが23回忌、冬美が25周年である。「温故知新」を絵にかいたみたいな話ではなかろうか!

月刊ソングブック

歌は本当に、世に連れていけるのか?

 東日本大震災の惨状は、まだまだ改善も収束もしそうにない。ことに放射能の恐怖は先がまるで見えぬまま、国中に憂色が濃い。
 そんな中で再認識されたのは、支援に動く大勢の人々の熱意、自立を目指す被災者の気概だろう。「復旧ではなく復興!」の掛け声を形にするのは、間違いなくこの大衆力だ。
 ここから先、時代は変わる。新しい人心と新しい社会が生まれる。その兆しを、歌書きたちはどう受け止めていけるのだろう?

桜みち

桜みち

作詞:荒木とよひさ
作曲:弦哲也
唄:神野美伽

 「涙は心の貯金箱」とか「隣りに呼びましょ、想い出を」とか、荒木とよひさらしいフレーズが顔を出す。美辞麗句というか、殺し文句というか、ぴたっと来る独自の文言を捜し続けるのが彼の仕事の特色。CMソングを量産する体験を積んで作詞に入った彼は、レトリック派の筆頭だろうか。
 歌の納めどころが「桜みち」「桜酒」と来る。そこを大事にしながら、弦哲也はお手のものの幸せ演歌に仕立てた。
 神野はゆったりめに歌って、歌の向こう側に、彼女の笑顔が見えそうな雰囲気を作った。

おまえにやすらぎを

おまえにやすらぎを

作詞:石原信一
作曲:弦哲也
唄:岩出和也

 誰にも干渉されない、自由気ままな生き方がいいと思う。モノには不自由がないし、こぶりだが自分本位の暮らしがなにより。そんな「個」の中で「孤」に突き当たると、若者は臆病になる。失恋も古傷のままだ。
 そういう女の子に、やすらぎをあげたい...と石原信一の詞が語りかける。「おまえの道草、なぜだかわかる」と、主人公の男の子もどうやら「個」から「孤」を味わう時代の体験者だ。
 なしくずしの孤独感の中でひかれ合う男女の歌。岩出が歌ったこの物淋しさは、東日本大震災のあと、少しは変わるだろうか?

桜の如く

桜の如く

作詞:たかたかし
作曲:徳久広司
唄:坂本冬美

 たかたかしの詞は、村田英雄にだって似合いそうな人生ソング、それに徳久広司が速め、明るめのポップスふうな曲をつけた。それをまた馬飼野俊一が、細かくリズムを刻んで、弾むような編曲をした。結果、冬美の歌は軽く弾んで明るく、快活になった。

おんなの酒場

おんなの酒場

作詞:たきのえいじく
作曲:徳久広司
唄:小林幸子

 惹句が「待望の本格演歌」だと言う。そう言えば...と思い出すのは『おもいで酒』や『止まり木』だから、確かにずいぶん久しぶり。本人も乗ったのだろう、イントロからコーラス参加。5行詞の納め2行の高音部で、声の表裏、押したり抜いたりの艶っぽさだ。

おとこの潮路

おとこの潮路

作詞:星野哲郎
作曲:原譲二
唄:北島三郎

 亡くなって早や半年が過ぎたが、星野哲郎作品は次々...である。今度の詞は男の海への渇仰と、それに理解を示した女性への、ありがとうが歌い込まれる。いかにも星野らしい内容で、それがいかにも、北島似合いなところが、何とも言えない。縁なのだろう。

東京25時

東京25時

作詞:百音(MONE)
作曲:藤竜之介
唄:加門 亮

 加門はずっと、ムード歌謡に活路を求める。容姿や歌声の甘さから、狙いを絞り込んでいるのだろう。それがすっかり歌い慣れて、あのころふうの都会調歌謡曲。午前1時を「東京25時」とする懐かしさに、作曲の藤竜之介も一生懸命の仕事ぶりだ。

夢蕾

夢蕾

作詞:麻こよみ
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可

 「女ごころの真ん中あたり、今も消せない人がいる」は、麻こよみの詞。「いいじゃないか!」のすっきり、きれい...が、なぜか二番の頭にある。一番いいフレーズ、めっけものの文句は、一番の歌い出しに使うのが鉄則と考えるが、いかがなものだろう?

夜風

夜風

作詞:さいとう大三
作曲:叶弦大
唄:鳥羽一郎

 〝さすらいソング〟の一編。さいとう大三の詞、叶弦大の曲ともに、特段の絞り込み方はしていない。いろんな歌い手に似合うのが利点、カラオケ族もそれぞれの感情移入が可能だろう。それを独特の声の押し方、つぶし方の艶で、鳥羽が自分の色に染めて見せた。

火縁

火縁

作詞:峰崎林二郎
作曲:中村典正
唄:長保有紀

 灰になるまでの愛、ほたるみたいに身を焦がす愛、燃えてやせていくさくらの炭みたいな愛...と、峰崎林二郎の詞はひたすら言いまくる。その一途さと粘着力がなかなかな代物に、中村典正はかまわず典正流の曲をつけ、長保はしんみりと、彼女流に歌いこなした。

あんたの里

あんたの里

作詞:もづ唱平
作曲:叶弦大
唄:成世昌平

 相思相愛二年と三月...と女が歌うが、作詞はもず唱平。幸せ演歌で終わるはずがない。案の定二番では鴎が相手、男の故郷若狭の地酒とへしこの話になり、三番で手向けの花と供養がわりの恋歌が出て来た。そんな細工をのうのうと成世が歌い放つ。声と節の強さだ。

歌の旅びと

歌の旅びと

作詞:五木寛之
作曲:松坂文宏
唄:松原健之

 昔なら、誰が歌ったタイプの曲だろう?と考えたら、菅原洋一の顔が浮かんだ。それを今、松原が歌うと、フォーク系に聞こえる。歌声にある若さと、清潔感のいいところか。詞が五木寛之で、NHK「ラジオ深夜便」のテーマのひとつ。いかにもいかにも...である。

MC音楽センター


 NHKへ呼ばれた。ラジオの「昭和歌謡ショー」の録音。7月放送の4回分(木曜夜9時30分から)をしゃべった。5、6月に放送した5本くらいの続編、テーマは勝手に「船村徹の時代」「吉田正の時代」「星野哲郎の時代」「吉岡治の時代」とした。戦後・都会と地方に分断された青春、復興・都会調歌謡曲の誕生、高度経済成長期・弱者目線の応援歌、バブルとその崩壊・後ろ向きの美学…と、4人の世界が時系列ではまる。
 「よく知ってますね、いろいろ…」
 などと持ち上げられる。
 「いやあ、それだけ年をとってるってだけのことで…」
 などと、こちらは満更でもない。別に何をどう勉強したという話ではない。歌謡少年がそのまんま大きくなって、青年から壮年、老年…と、歌好きで来ちまった半生。気をつけるのは口調に〝知ったかぶり〟の嫌味が出ないようにすること。
 疎開して茨城で育った。終戦直後はあちこちの村で素人演芸会が開かれた。復員したての若い衆が、無念の酒でどら声張り上げる。それが戦前、戦中のヒット曲を、僕の脳裡に刷り込んだ。中学までの歌謡曲の仕込みはNHK「今週の明星」や「昼のいこい」KRラジオの「歌のない歌謡曲」あたり。そのうち作詞家髙野公男は同郷で、作曲家船村徹は隣りの栃木…と知り、高校時代はこのコンビを追跡して、いっぱしの〝通〟になった。
 有線放送の「昭和ちゃんねる」でも月1回、もう4年もしゃべっている。NHKは5曲入り正味25分だが、こちらは45曲前後フルで流して、その間にしゃべるからほぼ4時間。それが月曜にエンドレスで流れる。知ってることだけでは間に合わないから、多少は調べものもするが、それは時代背景、社会のできごとなど。それとこれとを突き合わせて、ちぎっては投げちぎっては投げ…の与太話大会だ。
 昭和31年に、アルバイトのボーヤで拾われたスポーツニッポンで、7年後の38年に取材記者に取り立てられた。こっそりのど自慢番組に出ているのがバレ、社長命令でビクター音楽学院の1期生になったのがバイト時代前後。スポニチも相当に牧歌的だった時期だが、その経歴!?を生かせと配置されたのが音楽担当記者。さっそく船村徹に会い、星野哲郎のしっぽにつかまる。以後この2人が歌やもの書きの師となるが「先生」と呼ぶのはスポニチを63才で卒業して以後のこと。
 「この曲もそうか」「あれもこの人の作曲か」
 驚嘆したのは、古賀政男の催しや吉田正のリサイタルを取材してのこと。即座に客席で、雑多に刷り込まれたおびただしいヒット曲が整列し直す。コンピュータのキイを1個叩いて、ガチャガチャガチャのポン!みたいなものだ。後に石坂まさをと暗誦大会をやって、その成果を再確認した。石坂もまた呆れるくらいの〝生きた歌本〟だった。
 吉田正、船村徹、星野哲郎の知遇を受け、昭和40年に「知りたくないの」でなかにし礼、45年に「ざんげの値打ちもない」で阿久悠に会う。2人ともブレイク直前からの親交となったが、双方にある暗黙裡のライバル意識にも驚いた。それを逆手にとって、阿久作詞、なかにし作曲、菅原洋一の歌で「ロング・ロング・ア・ゴー」をプロデュースしたのは昭和63年のこと。吉岡治に会ったのは「大阪しぐれ」で彼が吹っ切れる前夜。フォーク全盛の中で歌謡曲に懐疑的になった彼のこだわりは、何をどうメッセージ出来るのか?だったろうか。
 NHK「昭和歌謡ショー」の企画・制作は島田政男アナ。僕より20才も年下だが、こと流行歌に関しては年齢差を全く感じさせない歌好きである。一時立川談志に弟子入りしたとかで、西村小楽天や北条竜美ら往年の司会者の名調子にドップリ。自分のこの番組でも最後の1曲は、工夫を凝らしたナレーションをイントロに乗せる。その顔をしみじみと見ながら、マイクの陰で僕は、
 「ビョーキだね、あんたも…」
 と冷やかすことにしている。
 有線の「昭和ちゃんねる」のお相手は歌手の林あさ美。これはもう孫くらいの年だから、戦後の歌などチンプンカンプン。やむなく僕は、したり顔のおじいちゃんに甘んじている。

週刊ミュージック・リポート

 
 「なみだ船」「函館の女」「風雪ながれ旅」…と、北島三郎は極め付けの星野哲郎作品を歌った。6月9日、名古屋御園座で上演した「恋文・星野哲郎物語」の千秋楽。大物が日替わりゲストのトリを取ったのだから、主演の辰巳琢郎、かとうかず子をはじめ、スタッフ、キャストのみんながピリピリ、そわそわした。そこへ、
 「いやいやいや…」
 なんて、北島は、片手ひらひらさせながらの劇場入りである。
 芝居は星野と朱實夫人の夫婦愛物語。一足先に東京へ出た夫人と、山口県周防大島に残った売り出し前の星野がやりとりした、遠距離恋愛時代の手紙が縦糸になる。北島を筆頭に日替わりゲストが歌うのは、第一部の幕切れ、大島で開かれた〝えん歌蚤の市〟のステージという設定。
 北島は代表曲3つを歌いながら、星野との触れ合いを語った。それも作品が仕上がるまでのエピソードが山盛りで、さながら講演「名曲はこうして生まれた」ふう。思いがけない内輪話に客席は大喜びだし、その旺盛なサービス精神に、舞台そでに集まった役者たちは嘆声をもらす。
 「うむ…」
 と、仔細ありげな表情なのはモト冬樹、
 「かっこいいなあ」
 を連発するのは相棒のつまみ枝豆。
 「さすがですねえ」
 と顔を見合わせるのは榛名由梨、高汐巴ら元宝塚の大スターたち…。
 2日初日で8日間13回公演の日替わりゲストは、水前寺清子、大月みやこ、鳥羽一郎、長山洋子、島津亜矢、堀内孝雄、小林幸子に北島という順。相当に濃いめの世界とキャラの持ち主たちで、それを反映するように、日によって客席の色あいも変わった。星野についての思い出話も、それぞれの中味と語り口。水前寺、鳥羽、島津あたりは〝星野党〟だけにネタもレアだ。
 銘打ってこそいないがこれは、昨年11月15日に亡くなった星野の、事実上の追悼公演、彼の「妻への詫び状」を原作に、岡本さとるが脚本、菅原道則が演出した。この原作の劇化は過去2回、東京三越劇場と大阪松竹座で上演されているが、3本とも別物で、出演者も違った。制作協力に名を連ねるアーティストジャパンの岡本多鶴プロデューサーが、手をかえ品をかえでこだわり続ける結果だ。
 《それにしても、うまいことやるもんだ…》
 出演者の一人の僕はニヤニヤする。スター歌手日替わりの集客策に加えて、商業演劇の固定観念を打ち破った演出もその一手。御園座は重厚な舞台装置を作ることで定評がある。「今度もきっと…」と考えた常連観客は、いい意味で期待を裏切られた。舞台を終始飾ったのは巨大な海と空と船の絵。その前で大型パネルが2枚、左右から出入りして、芝居の景を変えた。
 第1幕だけでも14もの場面が展開するスピード感。客は自然にその流れに乗せられるのだが、転換にスタッフは大わらわ、役者は衣装の着替えに走り回る。星野の師匠格のプロデューサー(モデルは馬渕玄三さんや斉藤昇さん)役の僕だって、洋服を5着も着替えて9つもの場面に登場したくらいだ。そんなユニークな新機軸に参加した俳優は19人である。ふつうはこの倍から3倍もの人数でやるのが大劇場公演だが、ほとんどの観客は、今公演がそんな少人数であることに気づかない。
 「それにしても頭領、いつものまんま舞台に出て来て、別に何もしてないじゃない!」
 友人たちは口々に僕の仕事をそう批評!?した。音楽プロデューサー役だから口調も態度物腰も確かに地に近く、別ものになり切る工夫も苦心もない。
 「しかしだよ、舞台の上でいつも通りってのが、これで一番難しいんだぞ!」
 抗弁する僕の口調がまた、舞台と同じものになったりするから大笑いだ。
 厳しくも心優しいスタッフと共演者に恵まれ、かわりばんこに来る歌手たちと談笑して、僕の6月上旬は何とも気分のいい日々になった。

週刊ミュージック・リポート

  
 「会えるか会えぬかは御仏の思し召し次第、会わねばならぬ者同士なら、御仏が会わせて下さる…」
 人と人の縁について、大本山南禅寺の住持、渓流禅師のせりふである。演じたのは長門裕之、今年1月、名古屋御園座でやった川中美幸公演「たか女爛漫・井伊直弼を愛した女」の幕切れ。これが長門の最後の舞台になった。
 公演中に、共演者をグループ分け、食事に招くことを彼は恒例の行事とした。若手男優陣には焼肉、女優陣には天ぷら、僕らは〝老人会〟と呼ばれてしゃぶしゃぶ…。名古屋では近藤洋介、曾我廼家文童、磯部勉、富田恵子、土田早苗、真砂皓太らがご相伴にあずかったメンバーだ。
 「心臓を体から取り出してね、水でじゃぶじゃぶ洗って、また戻すようなことでね…」
 と、長門は直前に受けた大手術を話す。肉食系の健啖家として知られたが、この夜はさすがに小食に見えた。
 「ギャラを幾ら貰ってもまるで足りないよ、きっと…」
 若手がひそひそ話をするくらいに、連夜の飲み会主宰である。日本映画の良き時代からの〝スターの振舞い〟に、生来の淋しがりやが上乗せになった宴だったろうか?
 「ご免ねえ、あんたの役をとっちまった…」
 舞台裏の立ち話で、そう言われたことが耳に残る。大病のあと、是非また舞台に…と、川中側に申し入れての渓流禅師役だったと聞く。芝居のすべてを総括する重い出番に、独特の風格、登場と同時に相手が湧く存在感…。僕なんかに金輪際、回って来ない役なのに、彼は何を聞き違いしたのか、勘違いしたのか…。
 「いえいえ、滅相もない…」
 旅籠の亭主役の僕は、不得要領の返事しかできなかった。
 長門享年77才の葬儀が、麻布・善福寺で営まれた5月24日、作詞家藤間哲郎の訃報を受け取る。三橋美智也の「おんな船頭唄」「噂のこして」や春日八郎の「別れの波止場」「トチチリ流し」などのヒットで、昭和30年代に圧倒的だった「三橋・春日時代」の端緒を作った人。今年1月28日に米寿の会が開かれて、久しぶりに懐かしい顔が揃った。親分肌に人が集まって群雄割拠!? 一時は市川昭介が寄宿したし、弟子の大沢浄二は弦哲也を育てたから、弦が藤間の孫弟子にあたるエピソードも出て来た。
 慢性閉塞性肺疾患で19日に亡くなり、葬儀は近親者で済ませたと言う。生涯酒とタバコを手放さなかった人。僕は米寿の会の乾杯の音頭で、
 「ここまで来たら両方とも、とことんやりましょう」
 と乱暴なことを言い、彼の「噂のこして」を一番から三番までを諳んじてみせた。時おり本人にも話したが、藤間作品で一番好きな歌詞なのだ。
 《あのころの、キングの灯りがまたひとつ消えたか…》
 ふっとそんな感慨が来たところへ、今度は島津晃さんの訃報である。昔、キング芸能に居て、大月みやこのデビューを手がけた。そのまた昔は、岡晴夫の前座歌手で後にマネジャーに転じた。僕にとっては戦後のこの世界の生き字引き、硬軟ないまぜて、実にいろんなことを教えて貰った。
 ここ20数年は、花京院しのぶに〝女三橋美智也〟の夢を見、マネジャーをやっていた。僕は恩返しのつもりで「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」をプロデュース、カラオケ上級者用スタンダード曲にした。島津さんは体調を崩してここ1年ほどは病床にあった。
 「よし、とっつぁんを元気づけよう!」
 と、詞喜多條忠、曲榊薫人で「望郷あいや節」「望郷さんさ時雨」を吹き込んだばかり。5月25日午前二時三十分心不全で死去、84才だったが、その花京院の新曲を何とか間に合わせたのが、せめての心尽くしになったか?
 人と人を引き合わせるのが御仏…という冒頭の長門のせりふ、その御仏を〝芸能の神様〟と僕は置き換える。そんな思いで5月、御園座の「恋文・星野哲郎物語」のけいこを続けながら、ご縁のあった人々を見送った。その都度、
 《さて、こちらはもうひと仕事か!》
 僕はマジで、自分のお尻を叩くのである。

週刊ミュージック・リポート

あえて暴論を一発!

 CDの売り上げ低迷が長く続く。演歌・歌謡曲の目標枚数は年々下がった。構造的な問題...と、改善のメドが立たぬいらだちをよく聞く。それならば...と、あえて暴論を書く。
 それならいっそのこと、冒険作、挑戦作、異色作に集中してはどうか。無難な安全企画でジリ貧になるより、意欲が伝わり、刺激が強まり、歌手の個性が明確になって、先行きの展望が開けはしないか?
 こんな時代と世相だからこそ、強い気持でいく! もしかするとこれ、暴論なんかじゃないかも知れないな。

女...さすらい

女...さすらい

作詞:池田充男
作曲:伊藤雪彦
唄:大月みやこ

 「すうっと歌う」ことの素敵さを考える。肩ひじ張らず、力まずに自然体...と、言葉では書けるが、実現するのはむずかしい。歌で〝思い〟を伝えるには、胸中の熱があらわになるし、声を整え、節を操る技術が必要だが、それが過ぎると、わざとらしさが浮く。
 「軽く」とか「抜いて」とかの注文が出るが、結果として声や思いの芯が失せがち。こういう歌はスカスカに「流れ」てしまう。
 大月はこの作品で、そんなハードルを越えた。もしかすると無意識の意識の成果かもしれないが、それこそが〝年季の芸〟だろう。

雪の川

雪の川

作詞:幸田りえ
作曲:幸斉たけし
唄:新沼謙治

 「歌うように語る」セリフと「語るように歌う」歌とがある。どちらも飾りけのない、率直で快い表現を指すように思える。必要以上の技は使わない。押しつけがましい感情移入は避ける。誇張のない表現とも言えそう。
 これが成就した時に聴き手に伝わるのは、歌手の人間味みたいなものだ。むき出しにならない〝やる気〟や功名心、淡々とマイペースで行こうとする立ち位置...
 新沼はこの年になっても、生来の素朴さは失っていないな...と、この歌を聞いて合点した。ほどの良い人柄の歌に好感を持った。

瀬戸内最終行き

瀬戸内最終行き

作詞:森田圭悟
作曲:岡ちあき
唄:立樹みか

 「へえ...」と思う。
立樹の歌唱と岡千秋の曲についてだ。二人とも結構コテコテの演歌うたいと演歌書きの印象が強い。それが語りの部分で始まるポップス系の曲で、手を組んだ。業界に固定しがちな先入観と闘うみたいで、時に意表を衝くことが大事だと思う。

ゆめ暖簾

ゆめ暖簾

作詞:麻 こよみく
作曲:弦 哲也
唄:山口ひろみ

 この人デビュー10周年。元気だけが売りものではないアピールをした。女の意地と真心を歌い上げる...と、惹句が力むが、本人の歌には丸みが出ている。声の晴れ方やくぐもり方に、息づかいの妙が加わり、ひと皮むけた〝声の当てどころ〟が聞こえる心地がした。

冬の旅人

冬の旅人

作詞:田久保真見
作曲:弦 哲也
唄:小金沢昇司

 ムード歌謡でいく。小金沢は委細承知の発声法と歌唱法をとる。弦哲也の曲が方向付けをすれば、南郷達也の編曲も心得たものだ。演歌はメリハリ重視で、サビで決める。小金沢はこの歌を、全体の色合いと艶で決めようとした。この種の定番狙いのハラが据わったか?

月の宿

月の宿

作詞:麻 こよみ
作曲:徳久広司
唄:北野まち子

 歌詞とメロディーは、歌手が伝えたい思いの容れ物。しかし時には、容れ物の方が先行して、歌手がそれを満たそうとする作業もある。北野のこの作品の場合には、徳久広司の曲が彼女を誘導した気配がある。曲に寄り添っていく一途さが、歌から聞こえた。

TOKIO千一夜

TOKIO千一夜

作詞:ちあき哲也
作曲:鈴木キサブロー
唄:香西かおり

 「ほほう、その手で来ますか!」が感想になった。ちあき哲也の詞、鈴木キサブローの曲、矢野立美の編曲の足並みが揃い、香西をその気に乗せて、歌わせた。何だか懐かしい気分のワルツ、都会の孤独をさらっと写し出して、おとなの遊び心が生きた。

逢いたい、今すぐあなたに...。

逢いたい、今すぐあなたに...。

作詞:いとう富士子
作曲:国安修二
唄:石原詢子

 詞の最初の4行で、景色と別離の哀愁をそっと置くように歌う。お次の2行がいわばブリッジ、決める4行で石原の鼻声がせり上がった。本人が作詞、昨年デュエットした国安修二が曲を書いたバラード。若草恵の編曲に包み込まれて、洋装の石原が楽しそうだ。

情熱

情熱

作詞:浜崎奈津子
作曲:浜崎奈津子
唄:門倉有希

 タイトルそのままに「情熱」という熟語が12回も出て来る。成就しない愛を生きる主人公の思いが、一途に積み上げるように描かれた。ものがものだから、門倉の歌は自然にパワフルに盛り上がり続ける。オヤ!と気づくのだが、この人の根の暗さがどこかへ消えていた。

面影橋

面影橋

作詞:たきのえいじ
作曲:堀内孝雄
唄:堀内孝雄

 12年前の作品のリメイク。アレンジを変え、今の気分で歌い直したら「年を重ねる良さ」に気がついたと本人コメント。文章で言えば「行間の意味」が育ち、変化して、膨らんだということか。この人の歌、近頃は歌うよりオハナシする色が濃く、まるで「人に歴史あり」みたいだ。

MC音楽センター


 「星野哲郎さんのイメージは、圧倒的に海。だから今回のステージは、海と船を強調した造りにします」
 演出する菅原道則がニコニコと話す。名古屋御園座公演「恋文・星野哲郎物語」(6月2日~9日、13公演)について。商業演劇によくある舞台装置のつくり込みは、あえて避ける。背景は巨大な周防大島の海、舞台転換の目玉はこれも海を写した大きなパネルが2枚。その1枚が上手から出ている時は、芝居が下手側で進み、パネルの裏で次の景の準備が進む。もう1枚はその逆に作用、時に2枚とも消え、回り舞台が回る…。
 「面白いなあ、映像的な感覚のものになりそうです」
 「だからね、スピード感が大事になる。転換早め早め、夢のようなストーリーを明るく楽しく…」
 星野役の辰巳琢郎と菅原の会話。けいこ場での立ち話も、何だかスピーディーだ。辰巳は長身スマートな知性派、その優しげな口調、思慮深げな物腰が、次第に星野ふうな色になる。
 「ふだん着はどんな感じの人でした?」
 「眼鏡をかけるのはいつごろから? 資料の写真は両方あるけど…」
 「銀座じゃなくて、主に新宿ですか、どんな遊び方をしたのかなあ?」
 けいこの中で、具体的な星野のあれこれが欲しくなる。対応するのは星野家の長女・桜子さんのダンナの木下尊行君。小劇団を主宰していた時期もあるから打てば響いて、ネオン街の星野については僕がちょこちょこ。何しろ僕は役者兼アドバイザー(!)だ。
 星野の事務所〝紙の舟〟の岸佐智子がけいこ場に現れて、
 「すごい! かとうさんって、朱實さんそっくり」
 と感嘆の声をもらす。星野夫人の朱實さんは、人肌の良妻賢母型。星野を尊敬してしっかりと支え、居候沢山の家を切り盛りし、息子と娘に愛情を注ぎ、きっぱりとした人柄のどこかに、愛くるしさもあった。その温かさ、優しさとてきぱきとが、かとうかず子の演技で浮かび上がってくる。その物腰にほどほどの生活感をにじませるから、
 「ほう!」
 立ち合った日、星野家の長男・真澄氏は相好を崩した。その様子をさりげなく見ているのは、芝居で彼に扮する加納明…。
 けいこ場の一隅がにぎやかになる。ホステス役の渚あき、長井槙子らの笑い声に囲まれているのはモト冬樹とつまみ枝豆。面白おかしい世間話のやりとりが、みんなの気をそらさない。建設会社社員役の2人は、日本の戦後の復興を支えた庶民の代表。モトはヘボな投稿魔で、星野をライバル視し、つまみはそれを冷やかし続ける相棒だ。その2人の出番が来る。楽屋うちの面白さが、台本に書き込まれた面白おかしさに、すうっと移行していくあたりが妙だ。
 ほどのいい緊張感と親密さがないまぜになって、けいこ場の雰囲気には独特の味がある。それにうっとりしながら、出番待ちの僕はあれこれと思いをめぐらす。新聞社勤めは44年もやった。気のいい仲間に恵まれて、大ていのことは大声を挙げれば解決した。誰かが動き、形を作り、結果を出すのだ。音楽業界には今日まで、47年も長居をしている。いつの間にか相当な年長組!?で友人も多く、気がねのない暮らしが続く。
 《芝居をさせてもらっての最大の収穫は、もう一度、反省するココロを取り戻したことか…》
 秋には75才になるが、けいこ場から舞台へ、毎公演、己れの未熟、いたらなさに奥歯を噛みしめる日々がある。ああすればよかった、こうするべきか…の連続で、これがやがてマゾっぽい快感に変わる。何と幸せな老後か!
 19日の夜明け前、けいこ場の夢で目が覚めて、ベランダをのぞいた。眼下の湘南・葉山の海を照らしていたのは、十六夜の月である。その大きな光の帯が穏やかな波をちりばめて、僕の目の前から水平線へ一本の輝く道になっている。
 《海なあ、星野哲郎の世界なあ…》
 柄にもなく僕はしんみりする。前夜の酒が濃いめに、まだ残っているせいか――。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ113回

久しぶりに星野哲郎の肉声を聞いた。録音物なのにぼそぼそと、世間話みたいな一人語りで、例えば
 「僕の場合、夜遊びは仕事なんですね。歌で一番大事なのは色気ですから。女房といつももめるのはこれですね。これは浮気だよ、これは仕事だから認めてくれよ。こういうことは絶対だめですね、女房って奴は…。これはネックですね」
 なんて言い出す。「弁解するわけじゃないけど」の前置きがあっての愚痴。
 「本気があってこそ、浮気がある」
 という結論!?へ行きつくのだが、
 「こんなことしゃべってると判ったら、大変ですからね。これはいい加減にやめなきゃいけない…」
 と、うそ寒い顔になったろうあたりまでが、ちゃんと録音されていた。
 「星野哲郎ナレーション入り」と、大きめのサブタイトルがついたアルバム『西方裕之 星野哲郎を唄う』のひとこま。『北海酔虎伝』『海の祈り』『風雪ながれ旅』『なみだ船』など、西方が歌う星野の名作13曲に、彼の一人語りがはさまっている趣向だ。
 ≪ああ、あれだな…≫
 と僕はニヤリとした。CDを届けて来たのはキングの古川健仁プロデューサーだが、ものは彼と西方がBMGビクターにいたころに作った。まだ晩年というには少々早い星野をつかまえて、スタジオでごそごそやっていたのに僕は出っくわしている。それを星野の一周忌を前に、改めて世に問うあたりがこの人のしぶといところ。彼は三木たかしの葬儀に演奏された、三木作品の弦楽四重奏をアルバムにした。各社のスター歌手が歌った『別れの一本杉』だけを集めて、作詞家髙野公男の没後50周年アルバムにしたこともある。“機”を見るに敏は“忌”を見るに敏に通じるのか。
 ところで、微笑をたたえた温顔とお人柄で、多くの信奉者を持った星野だが、歌書く人の多情多恨、多少の艶聞はあった。根城にした新宿界わいのホステスさんたちは「テツローッ!」と呼び捨てを許され、彼の周囲に群がった。
 ≪あれは夜遊びの陽動作戦だったのかも…≫
 と勘ぐったことがある。昭和54年の夏だが、作詞25周年のパーティーをやった数日後、星野は心筋梗塞で倒れた。幸い大事にはいたらずに済んだが、以後しばらく僕は星野の傍に居て、節酒をすすめ、車を呼んで自宅へ送り返すことを役目とした。半年後くらい後か、
 「小西さん、たまには帰して下さいませよ」
 たまたまの電話だったが、朱実夫人からの小言は思いがけなくきつかった。僕の名を言い訳に使って、彼はいつもあれから、どこへ行っていたのか?
 4月5日夜、原宿の南国酒家で星野の愛弟子だった中山大三郎の7回忌の偲ぶ会が開かれた。彼の会らしい賑やかさの中で、僕は星野の長男真澄氏と、1周忌をどうやるかの相談をした。謹厳実直の大詩人星野らしく…と提案しながら、僕は師と仰いだ人の多情多恨が、やがて多情仏心に昇華されていった日々を思い返した。

月刊ソングブック

 
 「またつかまりにくくなったぞ。もしかして、芝居のけいこか?」
 友人が電話の向こうでうんざりした声を出す。図星なのだ。今度は6月に名古屋の御園座でやる「恋文・星野哲郎物語」(2日~9日、13公演)に出る。星野の「妻への詫び状」を原作に、岡本さとるが脚本を書き、菅原道則が演出…と伝えると、
 「星野先生ものか、それじゃしようがねえよな」
 相手は妙な合点の仕方をした。何がしようがねえのかは、判ったような判らないような気分で、
 「毎日けいこ場にいるんだぜ、こんなにつかまりやすい日々はないだろう!」
 などと、僕は問答を押し返す。制作協力という形でプロデュースするアーティストジャパンという会社のスタジオに居るのだが、そう言ったところで相手に通じようはずもない。
 「ケイタイ持たねえんだものな。それが諸悪の根源だよ」
 相手は矛先を変えた。もう10年も皆からそう言われ続けている僕は、確信犯的な無ケイ文化財だから、馬耳東風だ。
 星野役を辰巳琢郎、朱實夫人役をかとうかず子がやる。東京に出た朱實さんと周防大島の星野との、遠距離恋愛時代の手紙が2年間に300余通。そんな二人の心の通わせ方とその後の夫婦愛が、芝居の縦糸になる。時代は戦後の昭和、復興から繁栄への道のりが、星野の歌づくりの足跡と重なる。当然おなじみのヒット曲がいろんな趣向で出てくる。「浜っ子マドロス」「思い出さん今日は」「黄色いさくらんぼ」「涙を抱いた渡り鳥」「アンコ椿は恋の花」「自動車ショー歌」「叱らないで」「昔の名前で出ています」「風雪ながれ旅」「みだれ髪」…。
 「小節ってむずかしいわよね。なかなかうまく行かない」
 口調はボヤキだが、表情は楽しげな榛名由梨は、劇中で「恋は神代の昔から」を歌う。星野とは同郷の不動産屋夫人・春子役で、少しおせっかいな朱實応援団だ。
 「押してもだめなら引いてみな」の一部を歌うことになった高汐巴は、クラブのママ役。
 「どういう歌なんですか? 知ってるんでしょ、ちょっと歌ってみて下さいな」
 などと、僕に詰め寄ったりする。榛名も高汐も往年の宝塚のスターだが、気さくな人柄でけいこ場の雰囲気を明るくしている。実は4年前の平成19年5月に、大阪松竹座でやった「妻への詫び状・作詞家星野哲郎物語」で、僕はお二人さんとご一緒した。前年の明治座・川中美幸公演に続いて2度めの大舞台、緊張で手足ガクガクだった僕を、さりげなくいたわり、励ましてくれたありがたさは、まだ昨日のことのように覚えている。
 「ところで今度はお前さん、一体何をやるんだ?」
 と聞かれるころだろう。ものがものだから、レコーディングスタジオの景はあるし、夜な夜なの星野のネオン街暮らしも出てくる。その辺に出没するプロデューサーが僕の役どころで、原田礼輔さん、馬渕玄三さん、斉藤昇さんをごっちゃにモデルにしたみたい。名曲仕立て夫婦愛物語の、レコード業界代表と言ったらいいか。原田さんは興が乗るとスタジオで踊った伝説の人、馬渕さんはハンチングベレーで尻ポケットに競馬の予想紙だし、クラウン創立期の斉藤さんと星野の〝兄弟仁義〟話は、もう何度も原稿にした…。
 けいこ場で僕は、妙な体験をしていることに気づく。役者さんたちはそれぞれ、台本に書き込まれた役と気持ちも新たに取り組んでいる。そんな中で僕一人だけが、記者時代に見聞したあれこれを、芝居という形でなぞっているではないか。皆さんは白紙から芝居を組み立てて行くのに、僕だけが何だか〝再現ドラマ〟をやっている形。昭和38年に星野に初めて会い、以後望外の知遇を得て47年、もの書きの師と仰ぎ「良太郎!」と、呼び捨てでつき合ってもらえた年月が、こんなふうに僕の第二の人生にまで生きるとは!
 冒頭に書いた友人の、
 「星野先生ものか、それじゃしようがねえよな」 が、それやこれやで腑に落ちる。今回の公演で僕は何と「アドバイザー」なんて肩書きまで貰っているのだ。

週刊ミュージック・リポート

師匠の星野哲郎を追悼!

 5月11日、次の芝居のけいこに入った。6月、名古屋御園座の「恋文・星野哲郎物語」(岡本さとる脚本、菅原道則演出)で、2日から9日まで13公演。昨年11月に亡くなった星野(辰巳琢郎)と朱實夫人(かとうかずこ)の愛情物語で、僕の役はレコードプロデューサー。星野からは50年近い知遇を受け、役のモデルは旧知の馬渕玄三、斉藤昇両氏だから、僕は何だか“再現ドラマ”に出る気分。北島三郎、水前寺清子、鳥羽一郎らゆかりの歌手たち8人が日替わりゲスト。楽屋も星野追悼でしみじみ盛り上がりそうだ。

 恋文・星野哲郎物語01

恋文・星野哲郎物語02

荒木と三木たかしを語る!

 5月21日、代々木上原・けやきホールの「コガミュージアム講座三木たかしの世界」(14:00開演)に出る。今年3回忌の作曲家三木たかしの魅力を、作詞家荒木とよひさとの対談。荒木と三木はヒット作多数のコンビでケンカ友だち。愚行蛮行やまほどの親交があった。僕は三木の取材者で飲み友だち、相談相手にされ媒酌人もやった仲だから、話の内容は相当にレアになりそう。三木のおなじみのヒット曲を歌うのは“テレサ・テンの後継者”として期待される中国人歌手エンレイと、歌手生活45周年の“巷の達人”新田晃也。ともに無名だが侮ってはならぬ“通好み”の魅力を持つから、乞うご期待!  

コガミュージアム講座三木たかしの世界

 
 「レコーディングの翌日に、胡蝶蘭が届いた。それが去年も咲いて、今年も咲いた。花を見る度にじんじん来るのよね」
 喜多條忠が感慨深げな顔になる。花の送り主は三木たかし、レコーディングした曲は彼の最晩年の傑作「凍て鶴」で、歌ったのは五木ひろし。3年前の2008年のことだ。三木もいい仕事が出来たと、心底嬉しかったのだろう。その思いが作詞した喜多條への花に託されたのか。
 4月26日午後3時から帝国ホテルで「三回忌・三木たかしを偲ぶ会」が開かれた。500人を超す人たちが集まって盛会だった。僕は会の司会をやった。新進作曲家と取材記者で始まった交友が、やがてあけっぴろげの飲み友だちになり、公私ごちゃまぜの相談を受け、ついには三木と恵理子夫人の媒酌を務めるところまで深入りしたいきがかりがある。そんなあれこれをネタに振りながら、三木追悼を実感的な雰囲気にするのが僕の役割だった。
 呼びかけ人代表は船村徹。何しろ歌手志願で弟子入りした三木に、
 「君は作曲の方が向いているかも知れない」
 と、引導を渡したのが13才の時。以後64才で亡くなるまで、船村は三木の終生の師だった。
 「見た目も歌手にはどうかと思ってねえ」
 と、苦笑まじりの船村のあいさつで、会の空気は一気にほぐれる。
 作曲家仲間の都倉俊一や川口真が、ゴルフ場での三木を語る。プレー中に片足がつってもやめない。そのうち残る片方がつりはじめても、プレーを続行したがる。三木はそのくらい頑固で、思い込んだらまっしぐらの血の熱いやつで、他者には心優しい男だった…と述懐が続いた。
 純真無垢、直情径行、多情多恨などが矛盾なく同居した天才肌の歌書きだった。その辺のエピソードを!と注文したら、荒木とよひさがやたらに口ごもった。無二の親友でケンカ友だちだったから、艶っぽさも含めて一緒にやった愚行蛮行ネタには事欠かないのだが、時と場所とを考えたのだろう。コンビのヒット曲の多くが曲先、それに詞をはめ込む作業は、
 「誰かに捧げる思いが五線紙に書き込まれていた。それを僕は、恋文の代書屋みたいに形にした」
 と言うあたりに微にして妙な含みがあり、その後荒木は「たかしちゃん、逢いたいなあ」と遺影に呼びかけて泣いた。
 冒頭に書いた「凍て鶴」は、08年の9月に詞・曲が上がり、10月にレコーディング、11月CD発売で、12月の紅白歌合戦で五木が歌うという、異例づくめの仕事になった。五木はあいさつでその辺に触れて、
 「平成の古賀メロディーか!と思った。凄い曲だから紅白で歌うのを見て貰おうと思った」
 と話した。レコーディングのスタジオで彼がそう言いだした時に、僕は一も二もなく賛成している。その時僕の胸中には「おそらく翌年の紅白までは、三木はもつまい」という予感が、振り払えない重さでしこっていたせいで、つらいことだがそれは当たった。
 三木が亡くなった一昨年5月、名古屋御園座に出演中だった川中美幸は「遣らずの雨」「女泣き砂日本海」「豊後水道」と、三木作品を並べたショーで、何日も泣いた。今年3月11日、明治座公演中の彼女は「遣らずの雨」の2コーラスめで、あの激震に遭遇した。もともとことさらに深い思いがあって歌い続けてきた曲である。
 「レコーディングの時よりは私、少しは上達したところを先生に聞いてほしかった」
 と、遺影の前のあいさつが、また涙声になった。 「去るものは日々にうとし」と言われる。世間なみの情の姿だろうが、だから「忘れないから、思い出すこともない」という情の深さは、とても得難いものに思える。歌書きっていいな…とつくづく思うのは、彼が遺していったヒット曲が歌われ続け、それにいつも触れている僕らは、彼を忘れることなどなくなるせいだ。三木の会のあと、荒木や喜多條と一杯やりながら、僕は全然「居なくならない三木たかし」をずっと感じ続けていた。

週刊ミュージック・リポート

 

 近ごろはどこで誰に会っても、大震災の話になる。原発事故の放射能の恐怖は、際限もなく続き、国中に憂色が濃い。歌手の花京院しのぶは父方のおじ一家5人を失った。福島原発へ車で15分ほどの鹿島鳥崎浜、避難指示が出ている地域で、遺体も収容できないままだと言う。作曲家榊薫人の兄姉妹5人は、宮城の登米市で被災、途絶えていた連絡がやっとつき、胸をなでおろしたところ――。
 この2人が〝望郷シリーズ〟CD3枚めの「望郷あいや節」と「望郷さんさ時雨」のレコーディングに入った。ともに宮城県出身、それぞれ胸中は複雑だが、恵まれた仕事は仕事、それも故郷を舞台にした歌づくりとなれば、一途に集中せざるを得ない。作詞は喜多條忠、曲は榊自身だが、花京院と組むのは3度め。少し大仰に言えばこの仕事に、2人の命運がかかっている。
 歌社会の大先輩に島津晃さんと言う人が居る。昔々、岡晴夫の前唄からマネジャーになり、キング芸能(当時)に籍を置いたころは、大月みやこのデビューを手がけた。この人が〝女三橋美智也〟を目標に、手塩にかけて来たのが花京院。資金も看板もない2人組に、「まず地盤だけでも作ろう」と僕が提案したのがまだ昭和の頃。以後仙台を中心に草の根活動をやった島津のとっつぁんに、
 「俺も年だよ、そろそろ形にしてくれないか」
 とせかされて、03年10月に「望郷新相馬」と「お父(ど)う」を作った。
 8年前のそのころヒットしていたのが、成世昌平の「はぐれコキリコ」。もず唱平の詞、聖川湧の曲で、民謡調の難曲である。これにカラオケ上級者が飛びついたのを見て、花京院の狙いを〝コキリコの次〟に絞る。彼らには相変わらず看板も資金もないうえに、本人はもう若くもなかった。作曲は榊の挑戦になる。宮城から集団就職列車で上京、工員になったが夢を捨て切れず、新宿の阿部徳二郎門下の流しになり、その後弾き語りから作曲に転じた。長いこと作品を聞かされたがピンと来ない。もはやこれまで…と思っていたのが、三橋美智也の信奉者だったのを思い出して、
 「メロ先で3、40曲も書いてみろよ」
 と乱暴な指示をした。「望郷新相馬」と「お父う」はその中の2曲で、詞は里村龍一がはめ込む。録音が済んだ夜、島津のとっつぁんと花京院、榊は泣いた。
 それから5年後の08年8月「望郷やま唄」を作ったのは、カラオケ上級者ご用達の狙いに、一応当たりが来てのこと。榊のストック曲を手直しして、紺野あずさが詞を書いた。星野哲郎門下のふっくら女史、これも無名の挑戦で、花京院の津軽三味線の立ち弾きもかっこうがついた。幸いこの作品もカラオケ大会の常連曲になり、花京院の持ち歌3曲は、地味ながらカラオケ・スタンダードの一角を占めるにいたった。
 「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ…だよな」
 歌手本人より楽曲を優先する作戦を、僕は彼女らにそう強弁する。
 「貧乏人は、体を張って頑張るっきゃないしさ」
 かなり孤独な草の根行脚をする花京院の尻を、僕はそう言って叩いた。そして今回が、花京院、榊の3度めの挑戦――。
 「とっつぁんをもう一度、喜ばせてやりたいよな」
 ビクターの鈴木孝明部長、菱田信プロデューサーと僕は肯き合う。島津晃氏は80才を超えてこのところ病床にある。新曲の仕上がりを聞かせ、花京院の踏ん張り方をテレビで見せるのが一番の良薬だろう。喜多條はオケ録りのスタジオへ来て、彼女の仮り歌を聞きながら、歌詞の手直しをした。東北地方のあいや節、宮城の祝い歌さんさ時雨をモチーフにした2曲、震災の被災者の心境をおもんばかれば、不用意な表現は心して避けなければならない。
 冒頭に書いたように、榊も花京院も実は、精神的な被災者である。そんな二人が夏には世に出る「望郷あいや節」と「望郷さんさ時雨」に「頑張れ東北!頑張れ宮城!」と復興、再生への祈りをこめる。それに和しながら喜多條、鈴木、菱田、僕の4人組は「頑張れ二人、頑張れ島津晃さん!」の願いで胸を熱くしている。

週刊ミュージック・リポート

楽しいぞ、大沢・弦の腕くらべ

 大沢浄二が久々に、大川栄策の曲を書いた。弦哲也はずっと書いている水森かおりの新曲を出す。3月発売だから春から夏へ、この2人の作品がチャートを賑わせたら、とても珍しい師弟の争いになる。そんな前例があったかどうか、とっさには思い浮かばない。
 松井五郎と五木ひろしのコラボはなかなかだが、ほかにも上田紅葉、市場馨、旦野いづみら、作詞に新勢力が登場している。こちらの成果も大いに楽しみだ。

おんな風の盆

おんな風の盆

作詞:池田充男
作曲:叶 弦大
唄:中村美律子

 ていねいに歌うということはつまり、歌詞のフレーズの語尾に、どういう思いを託すかに通じる。中村のこの曲を聞いての感想だ。
 ♪髪をほぐして、うす紅ひけば...の歌い出しの1行、まず語尾の「て」をひょいと〝置き〟次の「る」はしっかり気持を〝乗せ〟た。2行めの頭へ、情感を重ねてつなぐ手口だろう。
 サビの、♪あれは鼓弓の、しのび音か...は、「の」で気持を〝揺らし〟て、最後の「か」は何と、声を〝引き〟ながら、思いの芯は〝強め〟た。
 池田充男の詞をきれいに〝見せ〟ながら、この人一流の語り口と言えようか。

旅路の果ての...

旅路の果ての...

作詞:千葉 馨
作曲:三島大輔
唄:山本譲二

 1コーラスの詞が9行。はじめの6行分でお話をすすめ、残る3行分できっちりと、男の胸中を吐露する。その激し方がいかにも山本らしく、男っぽく響く。
 『みちのくひとり旅』から30年...と、惹句にある。あれもこれも三島大輔の曲で、そうか、あの路線で夢をもう一度...の企画かと合点が行く。
 30年の年月は、山本の歌唱にも垣間見える。後半3行のサビにはさまる「なぜ」が二つ。一つめに未練をにじませ、二つめは内省気味に声を張った。主人公があのころよりもおとなになっている。

清水の暴れん坊

清水の暴れん坊

作詞:原 譲二
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 自分の歌の聞かせどころと、それがファンに受けるツボを、十分に知っている。そのうえで、自作の曲にそれを盛り込むあたりが、この人の凄いところ。しかも、歌は売れてなんぼのものと割切り、わきまえている。歌手生活50年、現役、長寿のヒミツだろうか。

月物語

月物語

作詞:松井五郎く
作曲:五木ひろし
唄:五木ひろし

 こちらは、流行歌の極みへの挑戦である。松井五郎の詞は、さまざまな呼び名の月に託して、詩歌による恋愛論ふう。それが一転、女主人公の独白めいて仇っぽくなる、落差が面白い。作曲もやった五木の仕事ぶりは精緻で、こちらも彼の恋愛論ふうに聞こえる。

庄内平野 風の中

庄内平野 風の中

作詞:旦野いづみ
作曲:弦 哲也
唄:水森かおり

 水森の歌い出しは、いつになく切々...。それが歌い納めの2行で一気に昂って、きれいなファルセットになる。鳥海山、出羽三山、庄内平野が一つずつ各節に歌い込まれているが、〝ご当地ソングの女王〟は一歩前進、主人公の思いへ、歌唱の踏み込み方を深めた。

歌路遥かに

歌路遥かに

作詞:小椋 佳
作曲:小椋 佳
唄:島津亜矢

 小椋佳の詞・曲の語り口と、亜矢の歌唱の語り口との、寄り添い方が面白い。少しシナを作ったり、小節を転がしたりしながら、サビの高音で、歌が小椋ふうに一途になった。おなじみの亜矢の歌世界を一度、新しい刺激へ展開する試み。彼女流の詠嘆調『マイウェイ』か。

絆酒

絆酒

作詞:仁井谷俊也
作曲:三浦丈明
唄:千葉一夫

 あえて、語弊があるのを承知で書けば、愚直なくらいコツコツと、長く歌っている人である。そんな身の処し方はいつも、歌に反映されていて、表現が律儀で地道だった。千葉は今回、そういうハードルを越えようとしたのか、まき舌の開き直り方が少し前面に出た。

高山の女

高山の女

作詞:仁井谷俊也
作曲:大沢浄二
唄:大川栄策

 作曲が大ベテラン大沢浄二。井沢八郎ほかのヒットで知られ、弦哲也の師匠だ。それが手練の歌づくりをした。5行詞に起承転結きっちり、ゆるみもたるみもない曲をつけて、狙いは『さざんかの宿』の線。それを大川が一語々々愛でるように歌った。こちらも年の功だろう。

面影草

面影草

作詞:池田充男
作曲:永井利昌
唄:花咲ゆき美

 いい声味と歌唱力の愛弟子に、新井利昌が曲を書く。師匠は自然に力が入って、ポップス調歌謡曲のメロが起伏大きめになる。お尻を叩かれた花咲は、懸命にメロを辿り、うねりを作ろうとした。そんな師弟を手伝った池田充男の詞は、やっぱり演歌調だった。

花手紙

花手紙

作詞:上田紅葉
作曲:都志見隆
唄:高山 厳

 ♪桜の花びらはこころの花吹雪 恋しい人に出す愛の花手紙...なんて上田紅葉の詞が、色づいてきれいだ。それをヤマ場に高山が、例によってトツトツと歌う。失った恋への挽歌に通じるふくらみを持つが、芯は亡母への思い。流行のマザコン・ソングの一つだろうか。

MC音楽センター

殻を打ち破れ112回

 ♪こんな俺を 信じてくれたお前 命ぐらい 安いもんだろ…
 鳥羽一郎がバサッと歌い切るから、聴いたこちらはドキッとした。
 ≪おい待てよ 命がなんだって? 安いもんなんて、何て言い草だよ…≫
『マルセイユの雨』という新曲である。それにしても、滅多に書けるフレーズではない。作詞家は誰? 尋ねた僕に「田久保真見です」という答えが返る。
 ≪へぇ、彼女か…。なかなかにやるじゃないか!≫
 僕は田久保のおっとりした笑顔と、アニメの声優みたいな声音を思い浮かべた。
 洋風な道行きソングである。船は港を8時に出る。遠くの町へ逃げて、二人でやり直そうと約束した男女がいる。信じた女は待つだろうが、男にはもう一つ、修羅場の仕事があった。その辺の心境を、
♪踊るお前 まぶたに浮かべながら 最期ぐらい 派手に終ろう…
 と語る。歌詞カードで確認して判るのだが「最後」ではなくて「最期」――男はそんな覚悟でどこかへ行くのだ。
♪マルセイユに今夜 赤い雨が降る…
 フランスの港町に降るのは、どうやら血の雨である。何がもつれて、どんな行きがかりがあったかは判らないが、いざこざに女がからんでるのは確かだろう。そうじゃないと男が言う「命ぐらい安いもんだろ」のセリフが生きて来ない――。
 作曲は船村徹である。詞を読んで、さらにもう一度すっと読み返して
 「いいじゃないか、うん…」
 そんな一言でもあったろう光景が、目に浮かぶ。このところ歌謡界は、判で押したか少しずれたか…の不倫歌ばかり。それに較べればアイデアがある。言い切れてはいないがドラマの奥行きがある。その言い切れなさはメロディーと歌で埋めよう。そんな遊びごころが、船村を“その気”にさせたかも知れない。
 僕がこの歌を初めて聞いたのは、2月17日に赤坂のホテルで開かれた、船村同門会のディナーショーでのこと。北島三郎をはじめとする船村の弟子たちが揃って、自慢のノドを披露した。鳥羽はこの会の会長で、率先垂範のステージだった。
 「エクアドルに小さな島があってさ、そこで作ってるのがパナマ帽なんだよ。あれはパナマで出来たもんじゃないんだ」
 司会の荒木おさむ相手に、元船乗りの鳥羽の話が突然飛躍した。師匠の船村の前で歌うことに少々テレてのことか。そう言えば以前は、鳥羽が眼をそらしたまま歌い、船村が渋面を作るシーンがしばしばあった。双方、やたらにテレたのだ。それが今回は、たっぷりめの船村メロディーを鳥羽がゆったりと、詠嘆の揺れ方も加えて歌った。そのまん前の主賓の席で、船村もうんうんと肯きながら聴いた。
 余談だがこの曲のカップリングは『喧嘩祭りの日に』で、やはり船村作品。喧嘩祭りの日に喧嘩をして、飛び出したっきりの不肖の息子が、母が届けた熟(なれ)鮨にしんみりし、雪の日に船を出す漁師の親父を思ったりする。こちらはもず唱平のなかなかの詞で、2曲とも昨今の流行歌の“ありきたり”を超えようとする意欲が嬉しい。

月刊ソングブック


 「あなたじゃ、あなたじゃ、あなたじゃわいなあ」と、芸者小染の吉野悦世が取りすがる。すがられる葛西屋儀兵衛が僕。こう書くとちょっとした二枚目ふうだが、老新米役者にそんな役が恵まれるわけがない。場所は茶店、床几にかけて茶をすすっていた僕は「あなたじゃ」の2回目あたりでギョッとして立ち上がり、相当あわてふためいて、最後の「あなたじゃわいなあ」で、口中の茶をブワーッと噴き出す。照明の中でそのしぶきが盛大に広がって、客は大笑い――。
 また芝居の話か!?と冷やかされそうだが、その通り。僕の4月は14日昼と18日昼夜の3回、浅草公会堂の「大衆演劇祭・竜小太郎VS大川良太郎」への参加だ。竜はご存知〝流し目のスナイパー〟で東の代表、大川は劇団九州男の座長で西の代表、二人揃えば「東西人気花形役者・夢の競演」と、ポスターの惹句も浮き浮きするくらい、それ風の催し。第1部が人情時代劇「まごころ草紙」第2部が「豪華絢爛!舞踊・歌謡ショー」と来た。
 冒頭に書いたシーンは、その「まごころ草紙」の一場面。お察しの通りのコメディーで、それも大衆演劇の舞台で…と、僕の少年時代の夢が一気に満たされたあんばいになる。芸者に入れ挙げた大店の若旦那(高橋浩二郎)が50両の借金を背負った。金貸し葛西屋の僕が、その抵当にとったのが雪舟の掛け軸。
 苦境の若旦那と芸者を救おうと、大工の良二(大川)と妹のお半(竜)が考えついたのが美人局。もう一組、芸者とその兄(藤田信宏)も美人局を思いつく。葛西屋はその両方の「あなたじゃ、あなたじゃ…」にひっかかり「間男みつけた、金を出せ!」に仰天、舞台を逃げて這い回ったり、お茶を噴き出したりすることになる。
 竜が演じるお半は、小柄で可憐な娘だが、幼いころに事故に遭って知的障害を背負った。それをいたわり、かわいがる兄の良二を大川がやるが、こちらは粋でいなせな江戸っ子大工という設定。この二人が美人局の練習をし、本番を幾つか決行!?するのだが、やりとりの呼吸と間合いが絶妙で、お得意のアドリブの応酬もちょこちょこ。そんな芝居のけいこが何と実質5日間、しかも大川は他の仕事で遅れて入って来て、3日間できちっと仕上げてしまった。
 《えっ、まさか、嘘!…》
 僕なんか、ただただ恐れ入るばかりだ。
 3月の明治座川中美幸公演「天空の夢」では、豪商小曽根六左衛門をやった。この一座でもらった役は、火消しの元締、俄か成金、西郷隆盛、道場の主、船宿や旅館の主人など、年かっこうが地に近く、鷹揚なキャラがほとんど。今回も金貸し…と、なぜか妙に金に縁があるのがオカシイが、ものがコメディーである。僕は脚本・演出の小国正皓から、動きや身振り、しぐさなど、体を使う芝居のけいこでしっかり指導を受けた。さりげないのからドタバタまで、その的確なこと、まさに目からウロコ…で
 《この人は、芝居の引き出しの宝庫みたいだ…》
 と感じ入る。
 秋田県での高校演劇で〝その気〟になり、石井均一座に入り、曽我廼家家庭劇に転じて…と、商業演劇界の縦断ぶりを世間話ふうに語るこの人は、喜寿を越えた大ベテラン。それが細いズボンにジャンパー、ハンチングと、今ふうな若作りが似合うから、これにも脱帽!だ。
 しかし、笑いを取るためのけいこというのは、体がきしむもので、両ひざにサポーターをしてもアザが出来、かすり傷に風呂の湯がしみ、思いがけない部位の筋肉がしこる。そんなに激しいけいこか?というと決してそうではなくて、そのくらいなまってしまった老体を、急に動かすとこうなるという話。
 しかし、まだウロ覚えのセリフと、それを形にふくらませる仕草と、二つのことを一遍にやるのはなかなかの難事業。ぶっつけ本番みたいな14日は、大いにとっちらかったが、この欄が世に出る18日にはどう収まっているか? 体の節々への手応えが、だんだん快感に変わりつつはあるのだが…。

週刊ミュージック・リポート


 千里を走る虎よりも、一里を登る牛になれ…
 島津亜矢の歌声は、「出世坂」の幕あけから圧倒的だった。3月30日昼の明治座。「挑戦」と名付けた今年のコンサートは、歌手生活25周年の節目のイベントでもある。彼女が喪章をつけているのは、東日本大震災で亡くなった人々に哀悼の意を表してのこと。
 《声千両、それが宝だよな…》
 客席の20列29番で、僕は何度もそう思った。北島三郎の「なみだ船」を仁王立ちで歌ったが、今日この曲をこんなボリュームと迫力で歌える歌手は、他には居まい。ピンクのロングドレスでの「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」はホイットニー・ヒューストンのヒット。音域の広いこの曲で、亜矢は四つ以上の声の当てどころを感じさせた。よく響く中音と低音、張りつめた高音はファルセットに抜くものと、そのまま押すもの…などだ。フィーリングも別人か?と思わせる多彩なボーカリストぶりで、演歌1曲ではここまでの声は使っていない。
 《宝のその2は星野哲郎か…》
 とも思う。最近の「大器晩成」「温故知新」にいたるまで、亜矢のレパートリーの軸は星野作品。「海鳴りの詩」や「海で一生終わりたかった」には、星野本人の述懐の色が濃いが「海で…」は船村徹が書いた相当な難曲。それを亜矢は自家薬篭中のものとして、ゆとりさえ聞かせた。歌手生活25周年の成果だろうが、亜矢の世界には独特の活力の向こう側に、人間味の奥行きが生まれている。心の揺れ幅が息づかいに伝わり、情のこまやかさが歌に陰影を作っている。
 《お客を納得させるのはこの人の熱演型一人芝居か…》
 僕をニヤリとさせる演し物は3本。「忠治侠客旅」5分27秒と「元禄花の兄弟赤垣源蔵」9分10秒が浪曲仕立て、大詰め「明治一代女」からの「お梅」は17分の一人歌芝居だ。髪振り乱したお梅が、炎の照明、せり上がるスモークの中で自害して果てるのが熱演の幕切れ。
 「お疲れさん!」
 を言いに楽屋へ回ったら、上手そでから戻った亜矢は息も絶え絶えで、僕にもたれかかる消耗ぶりだった。
 「これですから、ファンの幅が広いんです。社会的に成功された有力者までですね…」
 隣りの席で感に耐えぬ声になったのは、亜矢が所属するテイチクレコードの西山千秋社長。セールスセクション出身のこの人は、自社の歌手のイベントには皆勤のこまめさで、CD即売コーナーでは声張り上げて客を呼ぶ気さくさを持つ。この日は亜矢が歌った「ゴールドフィンガー」の「アッチッチ」に合わせて、てのひらの表、裏、両手を合わせて払って、払って…の振りを僕と一緒にやった。
 その西山社長が注目したのは、阿久悠の遺作で作る亜矢のアルバムからの2曲。「運命~やっと天使がこっちを向いた」が浜圭介、「恋慕海峡」が弦哲也の曲だが、
 「ええね。うん、ええですわ、これは…」
 社長はその気になると、しばしばコテコテの大阪弁になる関西人なのだ。
 中央の階段をはさみ、舞台全体に向かって右側、つまり上手には管楽器群、下手にはリズムセクションのミュージシャンが並んでいた。そのトランペットからギターまでの間隔は、舞台の4分の3ほどに広がる。
 「俺、あそこからあそこまで、あんなに長いとこを、セリフを言いながら歩いたんだ…」
 僕はバンド演奏の間にふと、そんなことに気づいてドキッとした。明治座は3日前の27日まで、川中美幸公演「天空の夢・長崎お慶物語」を上演していた。その一幕四場で、僕の豪商小曽根六左衛門が、川中のお慶さんを諭しながら庭を横切る。19回もやりながら、その距離に全く気づかなかったのは、座長と差しの芝居の長ゼリフに緊張しきっていたせいだろうか。
 ちなみにこの芝居、好評再演が11月、この劇場で決まった。川中一座の僕は、嬉しさのあまりに飛び上がったままだ。

週刊ミュージック・リポート


 「遣らずの雨」の2コーラスめ、楽屋の床がグラッと揺れた。「地震か!」と立ち上がったところへ、ガツンと縦揺れが来たが、舞台の川中美幸の歌声はまだ続く。ザ・ロータスの演奏もそれに和している。3月11日午後2時46分、マグニチュード9・0の東日本大震災が突発した瞬間だ。場所は明治座。川中の35周年記念公演の昼の部は、芝居の「天空の夢・長崎お慶物語」が順調に終わり、ショーの部の大詰めだった。「遣らずの雨」のあとは、短いトークをはさんで「二輪草」でフィナーレ。そんな間合いでの衝撃である。
 マネジャーのシンゴが、頭取部屋の前から舞台下手そでへ走る。ダンサーと俳優を兼ねるダイスケは上手そでへ突進した。舞台では
 「大丈夫です。みなさん落ちついて!」
 と、川中が客席に呼びかけるが、マイクの電源はもう飛んでいた。天井から照明の器具などがぶら下がり、音を立ててぶつかり合う。セットの背景や、家屋敷の壁、ふすまなどが倒れかかる。ほこりが幕みたいに降りかかる中で、川中は関係者に囲まれた。ドッと声を挙げ総立ちになった客が、出入り口を目指す。一部はぼう然と座り込んだままなのを目回しながら、
 「みんな大丈夫? ケガはしていない?」
 脱出する川中が口にしたのは、共演者やスタッフへの気遣いだった――。
 あれから13日がたった24日。僕らは東北から関東までの惨状を、こと細かにおびただしい情報で知る。大地震の物凄さ、想像を絶する大津波の実態、いくつもの町が消え、死者と行方不明の人々の数は日に日に増すばかり。そのうえに原発の事故と、放射能汚染の恐怖が広がる。「壊滅的な打撃」という6文字ではとうてい言い表わせない事態に直面して、表現するという作業の、もどかしさや虚しさに突き当たるのは僕のなりわいのせいか。
 「日本人は、悲観しない運命論者だ」
 と言い捨てて、外国人たちは先を争うように日本を離れた。未曾有の出来事に遭遇しても、絶望せず自棄にもならず、力を合わせて苦境に立ち向かう姿が、理解できないのか。この不屈の忍耐力、この支え合う精神、どん底でなお失わない善意、協力と共闘と団結が日本人の凄いところだ…と胸を熱くしながら、同時になす術もない無力感も抱え込む日々…。
 《参ったなあ》と《よおしっ!》をひっくるめた気持ちで、僕らは20日、明治座公演の再開に参加した。8日間の休演のあと、考えることは山ほどある。やりたいことも10指にあまる。しかし、それぞれが自分の出来ること、しなければならないことに集中しなければいけない時だ。座長の川中を軸に、集まった出演者やスタッフが、共有した思いはこれではなかったろうか? 川中の演技や歌は、熱を帯びボルテージを高める。それを中心にみんなが、まるで一心同体みたいに一途になる…。
 歌や芝居などの娯楽は、不要不急のものと思われがちだ。国中が憂色に包まれ、平穏を取り戻せるのは何カ月先か、何年先かという危機的状況下で、浮いた気分になどなれるか!と眉をしかめる向きもあろう。しかし、僕らは
 《だからこそ今、歌を!》
 と思い定める。庶民の絶望や不安の〝心の隙間〟を歌が埋めた歴史がある。歌が苦境にある人々の心を癒し、慰め、励まし、奮い立たせた例を沢山知っている。目の前でも家族や故郷、地域社会や親類縁者、友人知人などの安否を気づかい、少ない情報に一喜一憂しながら、自分の役割に熱中しようとする人々が大勢居る。そんな仲間と一緒に、
 《だからこそ今! じゃないのか…》
 と「川中一座」の思いは吹っ切れていた。
 「がんばろう日本! がんばろう日本!」
 ステージで叫ぶ川中に和して、僕らは心の中の拳を突き上げる。川中の35周年はこういうふうに、かかわったみんなが、深く心に刻み込む日々になった。まるでそれに呼応するように、公演の終盤、劇場には立ち見の客までが詰めかけていた。

週刊ミュージック・リポート

作曲家、若草恵と黛ジュンに拍手!

 珍しい作曲家が2人登場した。アレンジャーの若草恵と歌手の黛ジュンだ。若草には以前から作曲をすすめ、五木ひろしのアルバムや佐々木秀実の『愛は旅人』などを書いて貰った。それが天童でいきなり歌謡曲だから、驚きもし拍手もする。
 黛は三木たかしの無念の肩がわりみたい。書き尽くせなかった分が妹に託されて...とオカルトっぽいが、血の熱い兄妹だからそんなこともあるか...と鵜呑みにしていた。それが長山でめでたくデビューである。

ふたりの船唄

ふたりの船唄

作詞:水木れいじ
作曲:若草 恵
唄:天童よしみ

 のびのびとした舟唄。オーソドックスなタイプで、テンポを上げれば〝道中もの〟にも聞こえそうな心地よさ。それを天童がしみじみと歌った。もともと曲を大づかみに捉えて、独特の哀愁をにじませる人。歌詞のコトバ一つずつにつかまって感情移入がせせこましくなるのを避けている。
 その、歌謡曲の〝のびのび感〟を書いたのが、あの若草恵なので「ほほう!」になる。才能に幅のある人だから、作曲を大いにすすめ、習作ふうに何曲か書いて貰った仲だが、この種のメロも書くのか!の驚きがあった。

春の雪

春の雪

作詞:里村龍一
作曲:岡 千秋
唄:角川 博

 舞台はどうやら山里、ゆらゆらホロホロはらはらと、舞う雪の中で女は、自分の傷心と向き合っている。そんな思いを里村龍一が詞にし、岡千秋が曲にした。この飲ん兵衛義兄弟ふうコンビは、双方血が熱いのが特色だが、今回はもの静かに、情念の世界へのトライ。
 歌う角川もまた、大仰に歌い回したりはしないタイプで、もの静かな中に主人公の思いと彼の思いを重ね合わせようとした。歌い納め「春の雪」の「る」のあたりで、裏声を使ったのがポイント。里村の詞、後半に表現がやや乱れるのは詰めの甘さか。

雨のたずね人

雨のたずね人

作詞:石原信一
作曲:徳久広治
唄:多岐川舞子

 〝たずね人シリーズ〟の完結編だと言う。舞子の歌を気張らせずに、いわば〝軟唱〟に仕立てた方法論は、そのまま継続させたい欲が残る。高音、声の張り方を八分目くらいにすると、味と風情が出る人で、歌のココロがこちらへ、ひたひたと伝わる気配が生まれる。

ダンチョネ港町

ダンチョネ港町

作詞:仁井谷俊也く
作曲:中村典正
唄:三山ひろし

 歌のスタイルは昭和30~40年代ふう。歌謡曲黄金時代の名残りがある。歌う中身はちゃんと今日ふう。中、低音を快く響かせて、草食時代の男っぽさを作った。1コーラスで2カ所、歌の口調を崩すが、さてこれが、トッポサに生きるか、慣れ慣れしさに止まるか。

桜雨~さくらあめ~

桜雨~さくらあめ~

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広治
唄:瀬川瑛子

 「1、2行目は柔らかい弾み方、3、4行目はガラッと変えて、ゴツゴツした弾みで」と、この歌の指南書がついて来た。なるほど徳久広司の曲は、そういう弾ませ方を秘めていて、瀬川の歌もそう表現している。作曲家の特色を言い当て、歌い当てていて妙だ。

博多山笠女節

博多山笠女節

作詞:鈴木紀代
作曲:ジュン薫
唄:長山洋子

 三木たかしが死んでしばらく、突然妹の黛ジュンにいろんなメロディーが降りかかって来た。本人も驚いて電話をかけて来たりしたが、その中の1曲がこれで「ほほう!」の世界が生まれた。当然ながら詞は鈴木紀代のはめこみ、長山に似合いのものになった。

八甲田

八甲田

作詞:坂口照幸
作曲:大谷明裕
唄:森 進一

 森の歌手生活45周年記念シングル。節目の年だから本人も周囲も、重厚な作品をドラマチックに...と、狙ったのだろう。歌い出しの「恥じないだけの...」の一言から、森の〝その気〟と〝独自性〟が聞こえて来る。作詞・坂口照幸、作曲・大谷明裕、気合いが入ったねえ。

あかね空

あかね空

作詞:たきのえいじ
作曲:叶 弦大
唄:真木柚布子

 A、A、B...と、ポップス系のスタイルに、演歌系のフレーズをはめ込んだ曲は叶弦大。その分だけ、たきのえいじの詞が8行と、長めになる。ただし、モチーフのメロディーが繰り返され、そのひなびた色あいが、後味に生きた。真木は相変わらず器用だ。

北海子守唄

北海子守唄

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦 哲也
唄:川野夏美

 いきなりトランペットが鳴って、
竜崎孝路の編曲は大掛かり。流氷に閉ざされた海、漁は2カ月休み、彼は町へ出稼ぎ...という、風景や暮らしの歌になる。詞・仁井谷俊也、曲・弦哲也が描いた絵が、竜崎の額縁に入った。川野の太めの歌声が、それを満たそうとした。

修善寺しぐれ

修善寺しぐれ

作詞:仁井谷俊也
作曲:四方章人
唄:香田 晋

 修善寺あたり、身も心もさすらう女。未練の回想シーンを、四方章人の曲がたどる。相変わらずというか、お人柄というか、四方のメロディーの起伏は穏やかめで、それを香田の歌が、強め強めに押し込んで来る。きっとインパクトの強さを作りたかったのだろう。

男女川~みなのがわ~

男女川~みなのがわ~

作詞:友秋
作曲:小田純平
唄:山本あき

 男女川は筑波山にまつわるもの。
その川と山を道具立てに、添えない男と女の歌が出来た。小田純平の曲はどちらかと言えばフォーク系、山本の歌表現は、どちらかと言えば演歌寄り。その二つの要素がせめぎ合って、不思議な感触を生み出している。

その花は...~変わらぬ愛~

その花は...~変わらぬ愛~

作詞:瀬戸内寂聴・花岡美奈子
作曲:花岡優平
唄:秋元順子

 流行歌には、歌い唄と聞き唄がある。近ごろ出て来るのはもっぱら歌い唄。ファンに歌って貰ってなんぼ!のなじみやすさが狙いだ。そんな流れをよそに、花岡優平と秋元は、聴いて貰いたい唄を作る。寂聴まで引っぱり出して、その意気やよし!としておこうか。

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殻を打ち破れ110回

 タイのホアヒンで遊びほうけている。ごく親しい友人たちが作る“小西会”のツアーだが、今回が何と60回という節目。この国の王様の別荘がある高級!?リゾート地へ行ったのに、例によって能のない僕らはゴルフ三昧である。どこへ行っても最大の買い物は季節。今回も連日気温30度の“夏”を手に入れたが、第1戦のブラックマウンテンGCは先日、石川遼がやったばかりという話題がオマケについた。
 2月5日から6日間。夜は現地のうまいもので酒宴…という暮らしに
 ≪しかしなぁ…≫
 と、貧乏性が首をもたげる。夕方、部屋の眼前の海を眺めながら取り出したのが、聞きもらしていた新曲のCD数枚。よくしたもので若草恵が天童よしみに書いた『ふたりの船唄』にでくわした。アレンジャーとしての名声と地位は確保しているが、作曲ではこれが出世作になりそうな出来上がりだ。
 華麗でドラマチックな音楽性で売る男が、一転して演歌寄りの歌謡曲を書いた。のびのびとオーソドックスな作品で、それを天童がしみじみ歌っている。水木れいじのひとひねりした“しあわせ演歌”の詞に、若草が気分よく寄り添った結果なのか。逆に言えばポップス系の編曲者“らしさ”は影をひそめているが、ま、あれはあれこれはこれ、出来高本位に考えればいいか…。
 ≪もっともなぁ…≫
 と、カクテルなどグビリとやりながら、思い出す。若草がこの稼業の師として仕えたのは中山大三郎だった。歌や音楽のジャンルを超えた触れ合いに見えたが、もともと優秀な奴は、そのくらいの多面性は持つものなのか。
 ≪二人ともゴルフが巧いし…≫
 思考が妙に尻取りふうになる中で、日が暮れる。沖合いで不動の軍艦3隻は王様警護用と聞いたが、これが突然、電飾で満艦飾になる。まるでディズニーランドみたいだ…。
 手柄の先取りをする気はないが、若草に作曲をすすめた行きがかりがある。せっかくの才能だから生かそうよ…と、五木ひろしのアルバム用が手はじめ。3年前の『江戸の夕映え』の中、石原信一の詞で『ヘへイ弥次さん ホイ喜多さん』、吉岡治の詞で『深川がたくり橋』をやったが、風変わりなポップス系で面白かった。一昨年暮れごろのNHK「ラジオ深夜便」用は喜多條忠の詞の『愛は旅人』で、シャンソンの佐々木秀実が歌った。
 さて、4月5日には、中山大三郎の7回忌。26日には三木たかしの3回忌の法要をやる。それぞれ彼ららしく…という打ち合わせを近々始めるが、若草と僕は双方にかかわる。
 「彼らがやり残した仕事とそのための年月を、見送った俺たちが引き継ぐ。双方の10年分くらいを“彼ならどうしたろう?”と考えながら生きるんだから、俺たちゃ長生きするし、彼らを忘れることもないよな」
 ちょいと前に若草と、そんな話をして肯き合ったことがある。それと『ふたりの船唄』の成果とはまた、別のことではあろうが…。

月刊ソングブック


 「おじさん!」
 ひたと僕を見上げた川中美幸の眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。
 《うッ!》
 と胸を衝かれた僕は、そこで我れを失いかける。懸命に芝居をやっているつもりが、一瞬、素の自分に戻ってしまうのだ。
 《泣くのか! そこまであんたは、大浦屋のお慶になり切っているのか。う~ん、それにしても…》
 川中の明治座3月公演「天空の夢・長崎お慶物語」の一幕四場。場所は豪商小曽根六左衛門の屋敷の奥座敷である。川中のお慶は老舗の油商を女手一つで切り盛りしていたが、外国人相手に大量の茶葉を売ることに活路を見出そうとする。大きな商談がまとまりかけて、融資を頼みに来たのがこのシーン。しかし、旧知の小曽根に扮する僕に商売の甘さを指摘され、断られる。
 大浦屋慶は幕末から明治へ、貿易商として大成した実在の人物。長崎を舞台に坂本竜馬ら志士たちを支援したエピソードも残るらしいが、今ふううに言えば凄腕の起業家で、知識も教養もある聡明なキャリア・ウーマンの〝はしり〟だろうか。それが、自分の不明を恥じ、精神的な転機とするのが、冒頭に書いたシーンの意味合いと位置づけ。
 恐ろしいくらいに重要な場面なのだ。それを僕は川中との差しの芝居でやってのけねばならない。
 「あんたは女で商売をする気か、それがあんたの目指す商売か!」
 八百両の無心の担保を聞かれ、
 「担保はこの私です。うちを好きにして下さい」
 と答えた慶への、小曽根の怒りである。
 そこから小曽根の僕は、じゅんじゅんと彼女を諭していくのだが、お説教に聞こえたら負け。お慶への愛情を秘めて、いわば〝商人の哲学〟を伝える温かさと厳しさが要求される。
 「いやあしかし、よくもまああれだけのセリフを、座長相手に頑張れるもんだよ」
 「いい役を貰ったってことだね。これを一カ月やり通せたら、あんた、もって瞑すべしだろ」
 「やっと、それらしくなって来たよ。70代の手習いなんて言ってたけど、ま、あんたらしい取り組み方が認めてもらえたのかも知れんな」
 楽屋をのぞく友人たちの感想は、おおむね好意的である。ベテラン作家古田求氏が、うっとりするくらいいいセリフを沢山書いてくれて、華家三九郎を名乗るテレビの演出家大森青児氏が、
 「問題は〝志〟です。それに維持すべきは強い〝気〟です」
 と、けいこからずっと、お尻を叩いてくれていてのこと。
 そして何よりも有難いのは、まだまだ揺れ加減の僕の芝居を、きっちり受け止めてくれる川中の懐の深さだ。商人の心のありようをぶち上げる僕の言葉の端々に反応しながら、言葉少なめの対応で、より高い感興へ導いてくれるのは、実は彼女の方なのだ。
 「ちゃんと大金持ちのダンナに見えるよ。大したもんだよ」
 と笑った友人もいたが、実はこれが貰った衣装のお陰。金色を織り込んだ茶系の着物と羽織が、一幕四場と大詰め用に、2着用意されていた。材質も織りも格別のもので、テレビや映画でよく見る殿様用みたい。それなりにズッシリとした手応えと着心持ちで、その分、着るとやたらに暑い。床山さんとお衣装さんの好意で、早めに身支度をすます。衣装を自分になじませたいためだが、出を待つ間は扇風機をつけっぱなしだ。
 そんな衣装で、立ち居振る舞いをそれらしく…と、大金持ちになどなったこともない僕が思い描くあれこれ。座ぶとんからスッと立つはずがよろけたら、せっかくの芝居が台なしになる。そのあとに、お慶に背を向けて庭へ出るシーンが続くが、濡れ縁から降りて庭下駄をはくのがまたひと苦労。白足袋が滑るせいだが、
 「足袋の裏を濡らしておくといいですよ」
 中年の小道具さんが耳打ちをしてくれた。そんな細かいことにまで知恵があるんだと感じ入るが、教えてくれた親切もまた、大いに身に沁みるのである。

週刊ミュージック・リポート

 
 右手で右へ襖をあけてズイと入る。豪商小曽根六左衛門の邸の離れ。
 「やあお慶さん、よう来たな…」
 後ろ手で襖をしめながら、ヒロイン川中美幸に声をかける。明治座3月公演「天空の夢・長崎お慶物語」の一幕四場の僕の仕事はそこが始まり。
 「ごぶさたをしまして…」
 と、艶然の川中、
 「相変わらず別嬢さんたい」
 と、長崎弁がまずまずかな?の僕…。
 二人っきりの場面10分ほどのけいこが終って、
 《ま、こんな調子で…》
 と合点しかかった僕に、
 「頭領!襖のあけ方が変ですよ」
 と、友人の綿引大介が小声で言う。舞台下手からの出だから右側は客席、襖を右へあけてはその収まり場所、つまり戸袋部分がないという指摘だ。
 「そうか、襖は左へあけなきゃいけないんだ!」
 けいこ場は全部、そこに座敷があるつもり、手前に襖があるつもり…でやっているから、そこまでは気がつかなかった。
 《キャリアの浅さがこんなところに出るか!》
 肩をすくめてけいこ場の隅、今度は左手で左へ襖をあける仕草をしていたら、
 「右手で左へ…の方が、きれいですよ」
 と、もう一人の友人・丹羽貞仁から声がかかった。右手で襖を左へあけ、川中に声かけながら、上半身を右にひねって後ろ手の右手でしめる。
 「その方が絵になる。日舞ではそうします」
 と、丹羽はニッコリした。なるほどな、客席は右側にあるんだから、左手でしめようとすると、上半身のターンが逆になって、確かに客に背を向けることになる…。
 《基礎というか素養というのがない。俄か役者のやばいところか…》
 息子みたいな年齢の友人たちのアドバイスに、僕は素直に頭を下げるっきゃない。
 その目の前で、もっと若い岡田賢太郞が長い棒を振り回して、捕り手の一人げいこをしている。5年前の7月、同じ明治座川中公演の「お喜久恋歌一番纏」が僕の初舞台だったが、その二幕一場に彼も居た。火消しの若者の一人で、人を呼びに走り去るだけの役。もっと長く舞台に居たいだろうに…と気になったものだが、今回はセリフもあるし川中にもからむしで、とても生き生きとしている。同じシーンで兄貴分をやり、岡田に火消しの走り方を教えていた伊吹謙太朗も久しぶりにご一緒。
 「馬渕玄三さんのところに居たって言ってたよね」
 「ええ、それで三島大輔先生を紹介されて…」
 けいこ場でそんな思い出話の続きになる。たまたま出た「家族そろって歌合戦」で歌唱賞を貰い、人にすすめられての歌手修業。
 「でも、その前からやってた役者の方が、俺には向いてるのかななんて思ってですね…」
 ベテラン俳優が今になっても、昔話にテレたりするところがいい。
 それやこれやの人の輪で、芝居の世界もなかなかの居心地。そして相変わらず、目を見はるのが川中の集中力だ。出ずっぱりセリフ山盛りのヒロイン役を、短期間で心身になじませていく。けいこの途中もNHKののど自慢に出たり、ドラマ「てっぱん」に顔を出したりしながらのことだ。
 幕末の女貿易商お慶の川中と、番頭役・田村亮の心の通わせ合いが縦糸のドラマ。笑わせたり泣かせたりのヤマ場があちこちにあって、テンポは快適、展開はスピーディー。僕なんか、中身を全部よく知っていても二、三度、目頭が熱くなる。
 《演出家って、どんな反応をするもんだろう?》
 と、華家三九郎氏(もともとはNHKでドラマを作って著名な大森青児氏)を盗み見たら、これが表情豊か。見せ場の一つ一つにうなずきながら、お客みたいに一喜一憂する気配で「なかなか面白いよ」なんて言っている。その後ろで長崎弁指南の先生が、めがねをはずして目をこすった。
 このコラムが読者諸兄姉の眼に触れるころは、この芝居、3月6日初日だから、もう幕があいている。僕の襖のあけ方や、右ターンしてのしめ方も、ま、何とか板についていることだろう。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第110回

北海道・鹿部町は人口5000人ほどの漁師町。函館空港から川汲峠を越え、噴火湾沿いに北上、車で小一時間のところにある。元気なころの星野哲郎は、毎夏ここに通って“海の詩人”のおさらいをした。払暁、沖に出て定置網をひき、朝食は番屋で獲れたての海の幸がおかず。昼前から漁師たちとゴルフに興じ、夜は夜とて談論風発の酒…。
 ここ20年近くのお供は、作曲家岡千秋と作詞家里村龍一が助さん格さん。それに僕が加わって、夢みたいな日々を過ごした。受け入れ側のボスは地元の有力者、道場水産の道場登社長とその一統。“たらこのおやじ”の異名を持つ道場氏は、自称星野哲郎北海道後援会の会長。歌好きゴルフ好き酒好きで、いつも少年みたいな眼を輝かせる。
 鹿部にバクの会というのがある。青年商工会議所漁港版ふう。星野は函館空港でそのメンバーから声をかけられた。「暇な時に遊びに来てよ」―著名人にはよくあるケース。生返事ですり抜けたら後日、「いつ来るのよ。あれは場当たりのお愛想なの?」と、追い討ちがかかった。北の町の人の率直。胸を打たれた詩人の即応。以後30年近い親交が生まれた。
 新宿の、なじみのホステスさんたちは酔えば彼を「テツローッ!」と呼び捨て。道ばたで餅を焼くおにいさんは「横井弘先生たちはあの店に…」と、歌書き仲間の動静を耳うちする。共同トイレの扉の不具合を訴える彼に、屋台のおかみが「押してもだめなら引いてみなよ!」と怒鳴って、ヒット曲のヒントを提供した。星野はいつも巷を彼の書斎にした。
 人づきあいの視線が、わけへだてなく平らなのだ。終戦直後、東シナ海を漁場とする船に乗る。外国航路への夢を大病で断念、作詞家に転じた経緯はよく知られている。星野は青年期に、はるかな水平線に注いでいた視線を、そのまま市井の人々の営みに移したのだろう。挫折感の深さが、弱者への励ましやいたわりを生む。彼が書いた歌は全部、人生の応援歌になった。
 故郷・山口県周防大島を軸に、「全日本えん歌蚤の市」を主宰した。応分の力量を持ちながら、陽の目を見ない歌手たちに脚光を!がコンセプト。その熱い思いに賛同して、作詞家の石本美由起、作曲家の船村徹ら、大勢の歌書きたちが参加した。あれは彼が、生涯の仕事場とした“演歌界への返礼”であり、ふるさとの“町おこし”の企てでもあったろう。
 僕は昭和38年に星野と初めて会った。スポニチの内勤あがりの記者28才と、働き盛りの詩人39才だった。以後正確には47年、望外の知遇を得た。記者の仕事も芸事と同じで、「教わるよりも盗め」が基本。盗み放題を許されて触れて彼の詩業とひととなりは、僕の宝の山になり、ついに彼が心の師になった。
 2010年11月15日、僕らは“情の詩人”星野哲郎を見送った。今年2月には周防大島、夏に北海道・鹿部で、星野の会が開かれる。みんなはきっと、大いに飲み、大いに語り、大いに星野作品を歌うことになるだろう。それがよくある偲ぶ会にならないのは、僕らにとって星野は、決して「居なくなることなどない存在」だからだろう。

月刊ソングブック

 
 2月23日、劇作家小幡欣治氏の通夜に出かけた。東京はこの夜、急に気温が上がって妙に暖かかったが、桐ヶ谷斎場に集まった人々は、みな引き締まった表情を並べた。ことにスタッフとして立ち働く東宝現代劇七十五人の会の面々は、言葉少なに弔問者を誘導するなど、僕が知っている彼や彼女たちとは、まるで別人みたいだった。17日、肺がんで逝った小幡氏82才への、畏敬の念が式場に満ちている。
 「あのうるさ型の大作家が、最後に褒めたのがあんたですよ」
 俳優の横澤祐一が恐ろしいことを言う。七十五人の会は昨年秋池袋の東京芸術劇場で、小幡氏の「喜劇・隣人戦争」を上演、それに僕は隅田家の舅大造役で出た。もと建具屋の職人71才だが、なぜか向学心に燃えて、小学校に通う4年生。黄色い帽子をかぶって、
 「ただいま!」
 なんて帰って来れば、客席はかならずどよめく、不思議なもうけ役だった。
 「君、なかなかいいね。うん、余分なことを全然しないところがいい!」
 9月8日夜の初日を見たあと、劇場近くのビアホールで会の幹部と一杯やった小幡氏は、末席にいた僕に確かにそう言った。初演の時はあの宮口精二がやった役、びびりながら何とか…の僕は経験が浅く技術もないから、根っきり葉っきりこれっきり、余分なことなどやりようもない。
 「うむ…」
 演出の丸山博一が合点し、女優さんたちは「まあ」とか「そうですね」とか…。
 小幡氏の代表作は「三婆」「恍惚の人」「熊楠の家」などと聞いた。昨年民芸が上演、僕も見た「どろんどろん―裏版〝四谷怪談〟」が最後の作品。
 それ以前に一度、僕はこの人と有楽町のガード下のビアホール「バーデンバーデン」で会っている。役者さんたちが行きつけのこの店で役者さんたちに囲まれて、小幡氏は上機嫌。少年みたいに端整な面立ちの、眼鏡の奥の眼がまた、少年みたいにきらきらして、よく通る声で話しをした。
 葬いの祭壇は菊もバラも蘭も白一色。その中央に飾られた遺影は、そんな談笑の時間から切り取ったショットみたいで、相変わらず片手に煙草だ。
 「明治座のけいこ中でしょ。今度はどういうふうなの?」
 横澤の声で我に返る。3月は川中美幸の歌手生活35周年記念公演である。芝居は古田求脚本、華家三九郎演出の「天空の夢・長崎お慶物語」で、時代は幕末。らつ腕の女貿易商大浦慶を川中が演じて、共演は田村亮、土田早苗、仲本工事、奈良富士子、紫ともらだ。
 「ちょっと前にはあんた、西郷隆盛をやってあの大舞台で歌なんか歌って、あろうことか川中さんを踊らせた。よもや今度はそんなことはないだろうね」
 「それが今度はもっと大変。座長と差しの芝居でお説教なんかして、おしまいには泣かしちゃうの」
 通夜の席での、横澤とのひそひそ話である。初舞台だった5年前の明治座川中公演で会い、以後親交が続く同い年だが、
 「ふ~ん」
 横澤のリアクションはそっけなかった。
 《大丈夫かい? そんな大層な役を貰って…》
 が真意だろうか。
 けいこは江東区森下に新築された明治座のけいこ場でやっている。こういうのもこけら落としと言うのかどうか知らないが、今回の川中公演がそこを使う第1号、まだ建築資材の匂いが少しするけど、スタジオは実に広々として気分がいい。森下の交差点からけいこ場へ向かって新大橋通りをちょいと行けば、創業130年の馬刺・馬鍋の「みの家」がある。清澄通りをちょいと戻れば、カレーパンの元祖「カトレア」があり、もう少し行けば髙橋で、名代のどじょう屋伊勢喜がある…といったあんばい。
 2000年まで長く通ったスポーツニッポン新聞社は越中島にあるから、深川一帯は僕の旧なわばりである。そう言えば七十五人の会の今秋公演は深川ものになるそうな。僕は3年連続で今回も、お仲間に加えて貰えそうな気配だ。

週刊ミュージック・リポート
厳寒と春一番が交錯した2月下旬、熱気に満ちていたのは江東区森下の明治座スタジオ。3月6日初日の明治座川中美幸公演「天空の夢~長崎お慶物語~」のけいこが佳境に入ってのこと。幕末の女性貿易商お慶さんの川中から“小曽根のおじさん”と慕われる豪商が僕の役。一幕四場では座長川中と差しの芝居で、何とお説教をし、ついには泣かせてしまう大役を貰った。「舞台生活5年、勝負どころ!」と力み返るから、田村亮、土田早苗らは苦笑しきりだ。  

天空の夢~長崎お慶物語~01

 

天空の夢~長崎お慶物語~02

 

 
2月18日、NHKラジオ第一「昭和歌謡ショー」5回分を収録。戦後の復興か高度経済成長期へ、庶民の心を揺すったあの歌この歌を一夜5曲ずつ。美空ひばり、岡晴夫から三橋美智也、春日八郎を経て新川二郎、小林旭までが登場する。放送は3月31日から毎週木曜の夜9時30分から。ただしプロ野球中継が延長戦になると、放送時間の繰り下げや順延がある。お相手はNHK屈指の歌謡曲通島田政男アナ。
 

新年、それなりに粒揃いが集まった

 新しい年の第1弾だから、みんな力が入っている。制作者、作詞作曲家、歌手...と、それを取り巻く人々の気合いが感じられる。だから「ほほう!」と好感を持つ作品が目立った。転機を感じさせる歌手、地力をはっきりさせる歌手、ベテランの力を示す歌手...と、色あいさまざまなところが楽しい。
 しかし、小粒ではある。演歌・歌謡曲の行く道は狭く、それをくぐり抜けようとするのだから、やむを得まい。みんなでコツコツ当てて、ジャンルの底あげをすることが、肝要な時期が続くことになる。

港のほたる草

港のほたる草

作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也
唄:井上由美子

 定番の連絡船ものを切々と歌う。女性演歌歌手なら必ず、越えなければならないハードルだろう。井上本人もその辺の意味や意義は承知のはず。そのせいか作品への取り組み方が一途になった。
 歌詞の単語の一つずつ、頭にアクセントをおいて、それが彼女流のていねいさ。だから歌詞がはっきり伝わり、若さも生まれた。情感を揺らすのは語尾の歌い伸ばし。各コーラスの最後に、おあつらえ向きの言葉が来た。
 タイトルと同じその部分に、たかたかしの詞、弦哲也の曲の、工夫を感じた。

男ごころ

男ごころ

作詞:仁井谷俊也
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 この人流の〝しあわせ演歌〟である。甘え上手ないい女に、惚れた女はおまえだけ...と、仁井谷俊也の詞は、まるで手放し。
 だとすると、そんな男をどう演じるかで、歌の主人公のタイプが決まる。歌手の個性、語り口、力量が聞かせどころになる。鏡はところどころに巻き舌を使って、彼なりのキャラクターづくりをしてみせた。やくざというほどの凄みは出さずに、板前くらいに聞こえるあたり、山崎剛昭の曲も加勢している。
 南郷達也の編曲、弦の爪弾きが歌声に寄り添って、相手役の女みたいなのが面白い。

冬の日本海

冬の日本海

作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳
唄:田川寿美

 鈴木淳の歌謡曲が、田川にはやはり似合うのか。歌手歴20年の要所のヒットは、このコンビに悠木圭子の詞で決まっている。今回は歌詞4行めのヤマ場にポップス系のメロディーまではさまった。そんな展開の曲を、太めの声で語って、田川はおとなの歌にした。

男の人生

男の人生

作詞:いではく
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 ♪振り向けば五十年、男の人生さ...の、1番の歌い納め、最後の「さ」を歌い切って決めずに、吐息まじりに歌い棄てた。結果、熟年男の喜怒哀楽、来し方への思いがないまざってにじむ。北島の歌手生活50年の、感慨の吐露、いではくの詞がなかなか...である。

霧笛橋

霧笛橋

作詞:喜多條忠
作曲:水森英夫
唄:伍代夏子

 ♪たとえ世間に土下座をしても...には、少々驚いた
男についていく女心の表明だが、作詞・喜多條忠も思い切ったものだ。前田俊明編曲の間奏にあおられながら、伍代は耐える女の風情をしっかり表現した水森英夫の曲が珍しく、語り歌に仕立てたのもいい。

あの娘と野菊と渡し舟

あの娘と野菊と渡し舟

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:氷川きよし

 タイトルと同じフレーズが、各コーラスの最後にあって、それがそのままこの歌のキイワード。氷川のほのぼの〝初恋編〟をキャラにも重ねて、作詞・水木れいじのお手柄だろう。水森英夫の曲は往年の三橋美智也調。氷川の歌をのびのびとさせるのはお手のものか。

大阪ふたり雨

大阪ふたり雨

作詞:喜多條忠
作曲:弦 哲也
唄:都はるみ

 ♪あなたとふたり、おまえとふたり...という歌詞が各節にあって、デュエットにも向きそう。若い二人のラブソング、とりたてて何の仕掛けもない歌が、尋常ではなく聞こえるのは、都の技と独特の唱法のせい。気分浮き浮き、はるみラプソディー、粋な平成小唄だ。

男のなみだ雨

男のなみだ雨

作詞:仁井谷俊也
作曲:宮下健二
唄:北山たけし

 中低音がよく響いて、男っぽい。高音部には艶があり声味が濃いめになる。心ならずも捨てて来た女をしのぶ男唄。艶歌の定番の一曲だが、北山にはまって、これがこの人の本線か...と合点する。若さと覇気が売りもののこれまでよりは、ずっといい。

旅路の果て

旅路の果て

作詞:三浦康照
作曲:小野 彩
唄:冠 二郎

 歌詞の2行ずつ2ブロック、中低音のメロディーが続く。冠の歌唱は抑えて我慢して、思いのたけを押し殺す。それが一気に解放され、冠らしくなるのは高音のサビ1行分だけ。作曲の小野彩は藤あや子の筆名だが、この人の美学、とてもストイックである。

夢酒場

夢酒場

作詞:美貴裕子
作曲:徳久広治
唄:岡ゆう子

 前奏や間奏に、シャララランとかテンツクテンツクなどの、おはやし風コーラスが入る
それを背に、岡の歌は明るめにはずんで、これは酒場小唄の平成版。岡の声味がうまく生きているし、軽い歌だからこそ、彼女の歌の年季のほどが前面に出た。

玄海 恋太鼓

玄海 恋太鼓

作詞:喜多條忠
作曲:岡千秋
唄:永井裕子

 太めの声のパワーと味が、一気呵成の歌にした。いわば〝娘無法松〟の気っぷのよさに、
哀愁もひとさじ。
この種の作品は、この人の地力をはっきりさせる。デビュー以来10年余、作曲を一手引き受けだった四方章人から岡千秋への、バトンタッチが生きたか。

未練のなみだ

未練のなみだ

作詞:池田充男
作曲:徳久広司
唄:服部浩子

 本格派狙いのワルツを、池田充男・徳久広司コンビが書いた。服部は好機到来とばかり、正面から切り込んで来る唱法をとる。息づかいも聞こえる歌い出しから、中盤をじっくり構えて、語尾の歌い伸ばしに情感をこめた。作品に背を押されての進境だろうか。

MC音楽センター


 祭壇の前に立った老人は、ぴんと背筋を伸ばして手ぶらだった。星野哲郎への弔辞を述べるのだが、奉書もメモも持っていない。
 《大丈夫かなあ…》
 と、僕はあらぬ心配をする。彼に先立っての弔辞は二井関成山口県知事と柳居俊学山口県議会副議長。二人とも用意した書状を読み上げていた。2月13日の日曜日正午過ぎから、星野の故郷・山口県周防大島の東和総合センターで開かれた「星野哲郎先生お別れ会」でのこと。
 僕の杞憂を吹き飛ばしたのは木元清人氏。老人と書くのが申し訳ない元気さで、とうとうと星野との縁を語った。旧制安下庄(あげのしょう)中学、現在の周防大島高校の同級生というから、星野と同じ85才。それが三度も「さて!」の一言を使って、話の文脈を展開させるのも見事なものだ。切磋琢磨した少年期、お互いの進路を見守った青年期、詩人と地元の教育者としての交流、他の同級生を含めての交歓、頑張っているのはついに彼一人になっての感慨…。
 《えらいもんだなあ…》
 感じ入った僕は、夕刻からの関係者慰労の会でも、木元氏と膝づめになった。戦後の彼の紆余曲折から、大島の三大珍味まで。もがり(オオヘビガイ)せい(カメノテ)ひざらがいという貝3種がそれで、
 「星野は喜んでよく食べた。しかし、このごろの連中はもう、そんな貝がいることすら知らんよ」
 と図解までしながら木元氏は言う。ちなみに…と、この島育ちの柳居副議長に聞いてみたら「もがり」以外は初耳の答え。
 「ほらね…」
 と得意げに笑う木元氏の少年みたいな眼に、僕は元気だったころの星野と同じ色を見たものだ。
 東京での星野の葬儀は、昨年11月19日、青山葬儀場で営まれた。その時参列した椎木巧周防大島町長が、
 「いずれ島でもきちんと…」
 と、約束して帰って、それが実現したのが今回の会。町と町議会と教育委員会の主催で、椅子席が450、立ったままの人が100人近くも参加、人口1万9000余の島をあげての催しになった。
 星野の知遇を得て47年、僕の周防大島通いは10数回に及ぶ。彼が主宰したイベント「全日本えん歌蚤の市」だけでも8回やっているし、星野哲郎記念館づくりのプロデュースもした。星野と島の人々の相思相愛ぶりは、その都度見聞している。星野は海に憧れて育ち、やがて船に乗るが大病を得て挫折、4年の闘病から再起、作詞家への模索を、全部この島で体験した。島と島の人々への感謝の念が深い。だから事あるごとに、物心両面で島へ献身して来た。島の人々は、歌謡史を飾る詩人の存在を誇りとし、その心尽くしへの感謝を忘れない…。
 そんな交流があってこその送る会は、いわば二度目の葬儀で、稀有の出来事と言えるだろう。星野はこの島の小中学校8校分の校歌を書いていた。その一つ城山小学校のものは、昭和31年、星野がまだ無名のころに、一般公募で採用されたと言う。それがその学校の子供たちの斉唱で披露された。平易で簡潔で、情にあふれた詞が、今でも新鮮でピカピカしていた。
 《彼が目指した境地が、もうこの作品からはっきり現われている。彼が遺した歌はこういうふうに、古い日本人の良さを描きながら、いつも新しい気持ちで歌いつがれて行くのだろう》
 そう思うと僕は目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。記念館が出来て3年め、星野の長男有近真澄氏の好意で生まれた制度「星野哲郎スカラシップ」は、もう15人の子供たちに奨学金を贈っている。
 送る会当日、晴れ男の星野の催しらしく島は好天に恵まれたが、前日は雪、翌日は雨で寒かった。連日30度の常夏、タイ・ホアヒンでのゴルフ三昧、小西会6日間のツアーから戻ったばかりの僕は、温度差に閉口したが、気分は最高だった。その昂揚をそのまま21日から、3月明治座川中美幸公演のけいこに入る。今度はまた、びっくりするくらい〝いい役〟を貰っているのだ!

週刊ミュージック・リポート

新年も、手を変え品を変えて...

 今月の9曲分、タイトル一覧表を見れば気づくことがある。チェウニの都会調を除く8曲が、伝統的な演歌だ。目立つのはご当地ソングで、歌づくりの手を変え品を変え...の"品"で目先を変える作戦。だとすれば変えるべき"手"はどういう手段と知恵の絞り方を指すのだろう?
 幅の狭いジャンルである。歌手にも作品にも、きびしいつば競り合いが続き、おまけに逆風まで吹いている。この状況を突破し、凌駕するために、必要なものは何か? 新年もみんなで、それを探す年になるのだろう。

長崎の雨

長崎の雨

作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也
唄:川中美幸

 1コーラスに3つ4つ、長崎の名所や名物が書き込まれている。ご当地ソングのきわみみたいな詞は、たかたかし。それに一筋、忘れられぬ恋を辿る女心の芯を通すのも、いわば常套手段...。
 委細承知の弦哲也は、その一本の筋を揺すぶって、抒情的なメロディーを書いた。詞の風景に、濡れ濡れとした色を施すのが、彼の役割だったろうか。
 川中は二人が書いた絵を、自分の世界に引きつけて、ドラマにした。きちんとヒロインの血肉の感触で語りおわすあたりが、この人の35周年の年季の芸だろうか。

湯の町哀歌

湯の町哀歌

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:池田輝郎

 古いファンなら「ふむ!」とうなずいたりするはずだ。片仮名表記と漢字の違いがあるが、昔々の近江敏郎のヒット曲と同名の歌。内容も、湯の町への愛しい人追っかけソングでほぼ同じ。2番の「寝ものがたりのつれづれ...」の生々しさ!?は、昔は避けて通った。
 歌を聴いて連想したもうひとりの歌手は、三橋美智也。湯の町ものの意表を衝いた民謡調で、これは作曲の水森英夫が、池田の特性を生かそうとしてのこと。
 未練心のうつむき加減と、のびのび牧歌調のコラボ。これも温故知新の一例だろうか?

霧の土讃線

霧の土讃線

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:水田竜子

 こちらは水木れいじのご当地ソング。土讃線を持ち出して女の未練旅に名所を詠み込む。紅葉や夕陽の紅がいろどり、無人駅の景色もイメージさせた。こうなれば歌手は余分な事をする必要がない。水田は水森英夫のメロディー本位にすっきり歌って、役を果たした。

おんなの雪

おんなの雪

作詞:池田充男
作曲:船村徹
唄:走 裕介

 まざまざと、隅から隅まで船村メロディーである。詞を池田充男が書いた湯の町情艶ソング。詞曲両面の独特のゆれ幅と揺れ心地に、走が挑戦した。デビュー作が青年の覇気、次作が網走の再会劇、3作めがこれで、師匠の船村が走に示すハードルは、次々と高めだ。

萩みれん

萩みれん

作詞:麻こよみ
作曲:中村典正
唄:松前ひろ子

 こちらは麻こよみ作詞のご当地ソング。タイトル通りに萩をゆく女の未練旅で、名所詠み込みは1コーラスほぼ1個所とこざっぱりしている。それが浪曲調に聞こえたりするのは、中村典正の曲の骨太、松前の声味と揺すり方のせい。お二人さん、呼吸が合ってる。

北へ流れて

北へ流れて

作詞:池田充男
作曲:水森英夫
唄:五条哲也

 近ごろでは珍しく前奏でいい気分のトランペットが鳴る。ゆったりめのワルツの北の抒情歌。五条はこれが3枚めのシングルだが、若さと男らしさで、カラオケ熟女を狙う作戦と見える。高音の突き方や語り口が「尊敬する」小林旭似。こちらはニヤニヤした。

雪花挽歌

雪花挽歌

作詞:瀬戸内かおる
作曲:岸本健介
唄:夏木綾子

 おめず臆せずというか、粛々と一途にと言うか、岸本健介は彼流の演歌を書き続ける。今回の工夫は、歌詞の5行めのしっぽから次の行の頭へのつなぎ方。破調の妙がある。夏木は岸本演歌を歌い慣れ、高音の聞かせどころで勝負するが、逆に、低音部に素の味が出た。

浪花恋人情

浪花恋人情

作詞:水木れいじ、今村楓渓
作曲:岡千秋、大村能章
唄:竹川美子

 作詞と作曲のクレジットが2名ずつ。それも水木れいじに今中楓渓、岡千秋に大村能章...と、歴史上の大物が出て来た。その謎は大昔の東海林太郎のヒット『野崎小唄』がアンコに入っていてのこと。題材を浪花ものに変えて、竹川の歌づくり苦心の一幕か!

雪は、バラードのように...

雪は、バラードのように...

作詞:夏海裕子
作曲:杉本眞人
唄:チェウニ

 夏海裕子・杉本眞人・チェウニというトリオの、いわば安定企画。デビュー曲『トーキョー・トワイライト』以来、ファンもおなじみの哀切甘美路線だ。チェウニは来日12年めだが、中堅歌手として定着、2010年に日本の永住権も得た。ご同慶のいたりと書いておこう。

MC音楽センター


 流行歌の黄金時代を演出し、支えた顔ぶれがズラリと揃った。2月1日夜の霞ヶ関ビル35階で開かれた、サンミュージックの福田時雄さんの卒業を祝う会。何しろ主人公の福田さんが80才、傘寿のおめでただから、参会者の年齢層もかなり高い。それが歓談するさまはウォーッとパワフルで、時ならぬ同窓会ふう…。
 演歌、歌謡曲からフォークにロック、ニューミュージックなど、流行歌のジャンルの端から端までが、一斉に花咲いたのが1970年代。巷に歌があふれ、老若男女それぞれが、大いに楽しんだそのころを、僕らは流行歌の黄金時代と呼ぶ。会場を見回せば往年のエネルギッシュさそのままに、口角泡を飛ばす猛者ばかりだ。レコード、プロダクション、メディアなどの世界の現役幹部からOBに作詞家、作曲家たち。それが愛称「フクちゃん」の人徳を軸に、一夜の歓を尽くす――。
 少年時代、戸板にアメを並べて売ったという。母親と一緒に銀座で靴磨きをやったともいう。引き揚げ家族が体験した戦後、みんな似たように貧しく苦しい生活に追われた時代の一人として、福田さんはやがてキャバレーのバンドのボーヤになり、ドラマーに育った。お定まりの進駐軍キャンプ回りをやり、灰田勝彦のバンドで叩き、西郷輝彦のバックが最後。音楽が4ビートから8ビートに変わった時期に、福田さんは進化より変化を求めてマネジャー業に転進した。
 そんな経歴を福田氏は、あの柔和な笑顔のまま、淡々と他人事みたいに話した。それ以降は会場のみんなが知っての通りの仕事ぶり。誰にも変わらぬ態度で接し、去る者は追わず来る者はこばまず、芸能プロダクションの創成期を闘って今日にいたる。俗に生き馬の眼を抜くこの世界で大きな実績を残しながら、人格者として終始した。苦労が身について生きたのか。
 どこの世界でも同じだが、最も育てにくく、居そうで居ないのが実力派の「ナンバー2」だ。有為の人材の場合は野心がその席を温めさせず、「二番手でいいさ」と達観するタイプは、軟弱なままでその役割を果たせない。そういう意味ではそこいら中、名ばかり形ばかりのナンバー2揃いである。そんな中で福田さんは唯一無二、稀有のナンバー2になった。
 サンミュージックの相沢秀禎会長は、福田さんを終生、名誉顧問として遇すると話した。プロダクションを立ち上げた当初からの、二人の友情と絆の固さが見てとれた。長い年月、相沢さんあっての福田さん、福田さんあっての相沢さんの二人三脚だったのだろう。最高のナンバー2が生まれるために必要不可欠なのは、ナンバー1の信頼と度量なのかも知れない。
 「相さんは、僕が家を建てる時も、ずいぶん世話をしてくれた。大病をした時も、病院へ運んでくれさえした」
 と福田さんが話した。その時僕は、
 《福田さんを理想的なナンバー2に育てた第一の要素は、彼自身が持つ感謝の念の深さと熱さだ》
 と悟った。「感謝」はそれを感じる人次第のものである。例えどんなに些細なことでも「有難い」と長く思えるか「当たり前」として「すぐ忘れるか」では、天地の差が出来、人間の器の大小が決まる。感謝される側はしばしば、好意的に動いた一件を忘れる。ためにしたことではないせいだが、それを覚えていて「面倒見たよ」「借しがあるぞ」は下の下だろう。「善根をほどこす」なんて表現は第三者の評価。大仰に言えば、神は感謝の思いに宿り、情のこまやかさは、感謝を忘れない側に生まれるものだろう。
 僕らが福田さんの会で見たものは、相沢さんと福田さんの、感謝の応酬だった。そしてみんなが、
 「いい会だったねえ」
 と口々に言ったのは、そんな福田さんの80年のどこかに、少しでもかかわることが出来た実感が嬉しかったせいだろう。
 この混迷してせちがらいご時世の中で、珍しく僕らはひととき〝性善説の宴〟に参加出来たことになろうか?

週刊ミュージック・リポート


 いきなり「噂のこして」の歌詞をそらんじて見せた。作詞家藤間哲郎の米寿を祝う会で、乾杯の音頭を命じられてのこと。型破り過ぎてあざといか…とも思ったが、あいさつの冒頭の用意、これしか思いつかないのだから仕方がない。
 「噂のこしてとも網といて、雨に帆あげた主の船…」
 昭和30年、三橋美智也の歌で、作曲は山口俊郎。同じトリオの「おんな船頭唄」が大ヒットした年に出たからその陰に隠れたが、あまたある藤間作品の中で、僕はこの歌詞が一番好きなのだ。
 「泣いて止めても男はなぜに、旅を気強く行くのやら…」
 1月28日午後、グランドアーク半蔵門の富士の間で開かれた会。グラス片手に起立した人々は「ン?」という顔になる。それが、話のマクラに詞を使うのも、ままある手口か…と、鵜呑みにしかかったところへ、僕は二番と三番の歌詞をたて続けに暗誦した。
 「そこまでやるか!」
 と会場はざわめいたが、こちらはお茶の子さいさい。高校時代に脳裏に刷り込んだ歌詞は、60年近く後でもすらすら出て来る。これは僕の記憶力ではなくて、いい歌の歌詞の生命力が凄いのだ。
 そりゃあ「おんな船頭唄」もいいし「別れの波止場」「トチチリ流し」「男のブルース」「東京アンナ」「お別れ公衆電話」…と、みんないいけどさ…と席に戻って言ったら、
 「全部知ってるの?」
 と、隣りの席の弦哲也が聞く。
 「みんな歌えるさ」
 と答えたら「へえ!」と呆れた声を出した。彼は作曲家大沢浄二の弟子で、その大沢が藤間一門だから、藤間哲郎の孫弟子に当たる。
 「〝刃傷松の廊下〟だけは歌えないけど…」
 と言ったのを「何で?」と聞きとがめたのは作曲者の桜田誠一。
 「俺の芸風にゃ合わなかったのよ」
 と笑った僕の眼の前で、これを鏡五郎が歌う。血が熱く芝居っ気たっぷりの人が、作詞者のお祝いの席で歌うのだから、めいっぱいの大熱演…。
 旧友の新川二郎は「東京の灯よいつまでも」を歌った。今年歌手生活50周年、と言えば70才を超えていようが、若々しい声の張りの作り方も芸のうち。
 「この作品がなかったら、新川二郎はいません」
 のコメントもなかなかだ。森若里子は「女の酒」を歌う。ふっくら熟女が依然として、風情楚楚としているのもまた芸のうちか。
 「噂のこして」の話に戻るが、僕は折にふれて藤間に、
 「あの歌が最高!一番好きです」
 と言い続けて来た。それが単なるお追従ではないことを示したかったのが、この日の暗誦の本意。三番まで一行一句のゆるみもなく、簡潔な表現がぴ~んと緊張の糸を張っている。かけ言葉の生かし方もさりげなく的確。一番、二番、三番…と、女主人公の心の動きが巧みな展開を示して、切なさが甘美だ。歌ってよし、読んでよし、そらんじてよしの一編、嘘だと思うならネットで引っ張れば出てくるので一読をおすすめする。
 湯川れい子があいさつで「おんな船頭唄」に触れた。嬉しがらせて泣かせて消えたのが「旅の人」ではなく「旅の風」としたから、後半で鳴るざんざら真菰と、相乗効果を上げた例である。誠にその通りで、そんな言い替えと意味の重ね方が、この歌の含蓄を深くしている。そしてそれが日本語のよさ、奥の深さに通じるのだが、昨今の歌詞はほとんど「旅の人」どまり。流行歌が痩せて、小ぶりになった一因だろう。
 「だから、詞を書いて、お手本を示してほしい」
 と僕は、あいさつの中で藤間のお尻を叩いた。88才、それはないものねだりだろうという反応も生まれたが、そんなことはない。本人のあいさつ状の末尾に、
 「春光の あるじ吾かや 長寿宴」
 「まさかです 米寿の祝い 南無三宝」
 と二句あり、「哲老」の署名があるではないか!老獪さも含めて、藤間哲郎まだ現役の証しだろう。

週刊ミュージック・リポート

 
 「セリフを繰(く)る」という言葉がある。人によっては「食う」と言ったりする。「順に引き出す」という意味では「繰る」が正解だろうが「クル」と「クウ」では、口伝てにすると混じりやすい。役者が出番前に、舞台そででボソボソ独り言めいているのがそれ。セリフが間違いなく言えるかどうか、不安を消し去りたい一心の、いわば復習である。
 「あれはやらない方がいいよ。小声でやって本番にいきなり声を張る。イメージがまるで違うから、かえって慌てる」
 きっぱり言うのは田井宏明である。
 「そうは言ってもお前なあ。むずかしい文句の長ゼリフとなると、やっぱりなあ…」
 少しテレた顔になるのは真砂皓太。1月の川中美幸名古屋御園座公演「たか女爛漫」で、真砂が水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門、田井が息子幸吉をやる。そのうえ、同じ楽屋で暮らしているから遠慮がない。
 「大丈夫だって。肚を決めてやれば、セリフはひとりでに必ず出てくる。そのためのケイコをやったんだもの」
 田井発言の二つめは、眼が僕の方へ向いている。
 「つまりさ、あとは度胸ってこと?」
 受けて立つ僕は、舞台そでの自分を見抜かれたようにタジタジとなる。確かに「セリフを繰る」こと毎度なのだ。それも短めのやつが2ブロック分だから、何度でも繰り返せる。しかし、何回もやったあとで舞台へ出ると、正直、気合いがイマイチになる気もする。過ぎたるは及ばざること、ゴルフの素振りに似ていようか?
 「先輩に聞いたんだけど、時代劇は〝結びめの芸術〟だって話があってさ」
 こちらは楽屋仲間の安藤一人の問わず語りである。てきぱきと衣装を着替えながら、その間に体に巻きつける紐や帯の結び方についての話。
 「ほほう…」
 と生返事をしながら、彼が捕り手になる経過を目算する。じゅぱんにひもが1、着物にひも1、帯1、上帯1、手っ甲の結びひもが左右で2、脚絆が左右2カ所ずつの4、わらじが2、たすきが1、はちまきが1で何と14個の結びめが出来た。
 「これが、鎧を着たりすると、40カ所以上になるかなあ」
 敵の発言は事もなげ。「ご用だ!ご用だ!」用の扮装など軽い軽いと言いたげに、手っ甲のひもを口と右手で器用に結んだりしている。
 どうやら紐は、その機能を超えて、どうきれいな結びめを作るかを問われるまでのものになっているらしい。手っ甲、脚絆、わらじなどの結びめは露出しているから眼につくが、着物の紐の多くは隠れた場所になる。それでもそこをおろそかにしない。眼に見えないところにも心を配り、姿形を整えておくのが、役者のたしなみであり、心意気、心栄えというものなのだろう。
 《深いよなあ、なかなかに…》
 役者兼業5年めのかけ出しの僕は、近ごろいろんなことに心を動かされる。その結果今回、具体的に覚えたのは、細紐のまん中に一つ、結びめを作っておくこと。そのたんこぶを臍下丹田にあてがえば、紐は左右長短がなくきっちりと結べる理屈だ。これは暗がりでの早替りに便利だそうだが、舞台裏のコロンブスの卵に、僕は、
 「へえ~!」
 である。
 一カ月の名古屋暮らしだった。突然の大雪も、思いもかけぬ美味、美酒も、大いに体験した。その間座長の川中美幸は、ほとんど出ずっぱりの芝居「たか女爛漫」とワンマンショーで奮闘、ヒロインの一途な生き方と、彼女自身の一所懸命を重ね合わせて見事だった。共演の松村雄基は知的な誠実さ、磯部勉は壮年の覇気、曽我廼家文童は飄然の人間味、近藤洋介はお人柄の慈味、長門裕之は存在感そのものの豊かさを示す。女性陣は土田早苗が達者な芸、冨田恵子が穏和で艶然、松山愛佳が愛らしい突進ぶりで華を競った。
 1月26日深夜、僕は久々に湘南葉山に戻った。猫の〝ふう〟が一瞬、見なれぬおっちゃんに尻ごみをした。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第109回

 「作詞家勢揃いじゃない。ずいぶんぜいたくな歌づくりをやったもんですね」
 永井裕子の『ベストセレクション2010』を聞いての、喜多條忠の感想である。
 「だからさ、その次をあんたに頼むの。ひとつ気合いを入れて書いてみてよ」
 と、僕が彼をそそのかす。銀座の行きつけの飲み屋で、二人ともリラックスしているが、これでも新作の依頼だ。
 「声の芯が太くて、なかなかの歌手だよね。ズサッと、聞き手に迫れるタイプだ」
 「うーん、憂い声ってやつかな。声があらかじめ哀調を帯びてるから、派手めな曲でもどこかにいじらしさが残る」
 これは岡千秋との会話である。今度は麻布の行きつけの飲み屋。他の連中とワイワイ言っているところへ、彼が追いついて来た。近ごろ大阪住まいで、上京すると幾つもの仕事をまとめてこなす日々だ。
 「体調に気をつけないと。行ったり来たりは結構大変だろ?」
 「うん、やっぱり少しは疲れるよ…」
 気さくな口調だが、これも永井のための新曲依頼である。
 真剣味に欠ける!などとは思わないで頂きたい。喜多條も岡も、彼らのデビュー前後からのつき合いである。飯も食い、酒も飲み、歌づくりもやって、幾つものヤマを一緒に踏んだいわば仲間うち。お互いの真意は十分に通じる。本音のやりとりなのだ。
 永井の『玄海恋太鼓』は、こんな話し合いをきっかけに出来上がった。喜多條と歌詞についてのすり合わせが何度か。岡がつけたA・B、2タイプの曲の選択と手直しが何箇所か。歌ひとつ生まれるための過程は、打ち合わせよりは相当にシビアだ。
 「継投策ねぇ、俺が二番手で光栄だ」
 岡が言うのは、永井の作曲者の交代について。この10年余、永井の曲は四方章人が一手に引き受けて来た。この娘の才能を見出し、何年もかけて育て、佐賀から呼び出してデビューに持ち込んだのが彼。僕らはその愛情と努力に敬意を表し、四方の力量に期待した。デビュー曲『愛のさくら記念日』から最新作『はぐれ雲』まで、四方は実に多彩なメロディーを書いた、いわば同志だ。
 その代わり、作詞家は一作ごとに替えた。冒頭の喜多條の発言がそれを指すが、阿久悠、吉岡治、木下龍太郎と、すでに鬼籍に入った人も含めて、池田充男、たかたかし、ちあき哲也、水木れいじ、坂口照幸、上田紅葉と多士済々。それぞれが全力投球したから、永井の大きな財産になっている。
 その四方がバトンタッチを快諾したのは
 「10年一区切りで、裕子に新展開を…」
 という当初の約束があってのこと。
 「歌う前からドキドキワクワクです」
 と、眼をくりくりさせる永井は、1月発売のこの作品で、いい新年を迎えることになりそうだ。
 

月刊ソングブック


 ノレンが揺れた気配がする。「ン?」と目を凝らすと、そのすき間から拳銃の銃口がこちらを狙っている。「何者だ!」と問う僕、狙撃手がニヤリと顔を出した。俳優真砂皓太、彼はこれから大老井伊直弼を暗殺に出かける水戸浪士のリーダーだ。1月名古屋御園座の川中美幸公演「たか女爛漫」2幕3場への出番。楽屋ノレンの内側から「行ってらっしゃい!」と僕が声を掛ける。「行って来ます!」と応じながら、真砂はもうスタスタと廊下を早足で、舞台へ…。
 松平健の側近で芸達者の50代後半、真砂は陽気で、面倒見のいいベテランである。僕は彼を〝料亭真砂〟の大将と呼ぶ。若いころ料理人の修業もした腕で、僕らの昼食を取り仕切るためだ。何しろカレーを作ると、3日前から煮込むこだわり派。それが出番前に野菜を刻んでサラダは作るわ、京風おでんはじめいろんな煮物を作るわ、魚は煮るわ、肉は焼くわの大奮闘。本格的な出番は2幕1場、水戸藩京留守居役・鵜飼吉左右衛門の長ゼリフだが、浪士を兼ねて殺陣にも2度参加する。
 「あの出番がなければ、メニューがもっと豊富になるのに…」
 などと、僕らはへらず口をたたく。連日、プロの美味を堪能するだけで、僕に出来るのはせいぜい、食器運びくらいなものなのだが…。
 楽屋の同室者は安藤一人で、名は「かずひと」と読む。ネットで検索すれば判るが、売れっ子の子役からずっとこの世界で頑張っている40代後半。井伊家の家士から彦根藩の藩士、捕方、水戸浪士などの何役もこなす。1、2幕を通じて出番は八カ所。その都度衣裳を替え、出たり入ったりで楽屋に落ち着く暇がない。その手際の良さは見事で、そのすき間で僕は、小道具のあれこれ、化粧、着付けの手順などを教えて貰う。
 僕の出番は1幕4場Bの一カ所だけで、舞台上の滞在時間は5分前後。大垣宿の旅籠・美濃屋の主をやり、直弼の側室・松山愛佳が乱入するのに手を焼いたり、ヒロインたかの川中美幸と相手役・長野主膳の松村雄基とからんだり…。それでも頭がい骨の裏がジンジンするくらいの高揚感は体験する。昼夜2回公演の日は午前9時30分すぎに楽屋入り、退出するのは午後8時15分すぎ。楽屋滞在時間の方が圧倒的に長いが、見聞するものは山ほど。舞台の上だけが仕事ではないことに、合点がいったりする。
 「板について来たねえ。こっちがドキドキしなくなった」
 と、感想が優しいのはサンミュージック関連を卒業することになった福田時雄氏。
 「すっかり役者ですな。旅籠のおやじの雰囲気は十分に出てますわ」
 と、おだてるのはもず唱平。
 「何はともあれ、最高の老後でしょう」
 と笑うのはたかたかしと、一緒に来た境弘邦氏。
 「川中さんって見事に女優さんなのね」
 と、彼女の舞台を初めて見た感想だけを語ったのは、船村徹夫人の佳子さん。
 「それにしても、踊りまでやるとは思いませんでしたよ」
 と、呆れたのはスポニチの後輩元尾哲也だ。ショーのフィナーレに参加、大勢の出演者の最前列で「艶冶な気分」に大乗りするせい。そのいでたちが浴衣の尻っぱしょりで、下着の〝きまた〟をちらつかせ、ねじり鉢巻で両手の鳴る子をカチャカチャ…である。下町のお祭りで見かけるオッチャンふうだが、由緒正しい尻っぱしょりの仕方は、安藤一人直伝。
 僕の楽屋は4階の402号室。右隣りには〝大将〟の真砂に田井宏明、綿引大介が居り、左側の奥に陣取っているのは女優さんや女性ダンサーたち。出番を終えて三々五々、戻って来る彼女たちの会話が弾み、廊下ですれ違うたびの小声のあいさつや笑顔が艶っぽい。舞台裏全体が明るくなごやかなのは、川中一座の特徴だろう。
 レコード界の苦況をよそに、ぬけぬけと浮かれて…と、読者諸兄姉には叱られそうだが「一度やったら役者はやめられない」という言い伝えは、真実その通り…という報告である。

週刊ミュージック・リポート


 黒紋付に高島田、和の正装をした川中美幸が楽屋を出る。部屋の前にはその日ごとの来客や安田栄徳らダンサーたち、三味線奏者らの列がある。1月、名古屋御園座公演の第二部「人・うた・心」の開幕直前のこと。それぞれに笑顔をふりまいた後、川中は舞台を一巡する。しかたたかし率いるバンド、ザ・ロータスや琴奏者の女性二人にあいさつ、ゆったりと定位置に。取り囲むのは衣装担当、床山、メイク係り、演出や音響担当も含めた裏方さんたちが10名ほど。ほど良い間合いで、
 「お願いします!」
 の川中の声。空気が引き締まって幕が上がると、川中の新年と歌手生活35周年の〝口上〟が始まる――。
 気配り目配りが、温かく身についている人なのだ。日々刻々を明るく楽しく…という精神が、舞台の表裏できっちり維持されている。それに誘われるように、人の〝輪〟が〝和〟になる。ショーでからむのは他に津軽三味線の藤秋会7人、和太鼓の志多ら4人、箏の3人、それに地元の「どまつり」(にっぽんど真ん中祭り)の幼若!?男女が1カ月のべ2千人余。それがみんななごやかに踏んばる。
 芝居は堀越真脚本、水谷幹夫演出の「たか女爛漫~井伊直弼を愛した女~」で、川中が演じるのは激動の幕末、直弼を愛しその密偵として働く村山たか。直弼を磯部勉、その参謀長野主膳を松村雄基、彦根藩老職を近藤洋介、直弼の側室を土田早苗と松山愛佳、たかに惚れ込む寺侍を曽我廼家文童、祇園の女将を冨田恵子、南禅寺住職の渓流禅師が大病を克服した長門裕之…という共演陣だ。
 《凄い顔ぶれだよなァ》
 と、けいこの時から気おくれと戦う僕は、大垣宿の旅篭美濃屋の主人役で、旅の途中の川中、松村らにからむ。何しろ長門は芸能界70年だと言うし、近藤は昔々のあのテレビドラマ「事件記者」の人気者だった。子役出身の人も多くベテラン、芸達者たちの芸歴を合計したら一体、どのくらいの年数になるのだろう?
 川中のたかは、時代の奔流に揉まれながら、直弼との絆に殉じ、主膳との結ばれぬ愛に身をこがす。そのひたむきな生き方を演じるさまは、日ごとに哀歓の濃淡を強くし、陰影を深くしていく。演出の水谷が言う。
 「役を自分の色に近づけるのではなく、無色のところから取り組んで、自分がその役に染まっていく。その上に川中美幸という女優の持つ〝華〟が加わる」
 という川中評が、腑に落ちる境地だ。
 正月公演だから、けいこは12月12日から24日まで東京でやり、26日から28日までが名古屋。川中が紅白歌合戦出演のため帰京するのに合わせて29日から31日までがOFF、元日に名古屋に集まって「思い出しげいこ」というのをやり、2日が初日という変則スケジュールだ。何だか暮れも正月もないが、東京でも酒、名古屋でも酒で、気分は妙にフワフワし続けた。音楽業界の日常性から芝居の世界の非日常的雰囲気へ、行ったり来たりする日々。その上、あまり大きな声では言えないが、けいこ中の12月19日に、浅草公会堂の沢竜二全国座長大会に出演、生まれて初めて大それた〝かけ持ち〟をやった。そのドキドキ感もまた、得も言われぬものだった。
 僕の大劇場初舞台は、川中の30周年公演の明治座。今回は彼女の35周年公演で、だから僕の舞台歴は5周年ととてもわかりやすい。その間に知り合いが大勢出来て、田井宏明、安藤一人、綿引大介、山本まなぶ、橋本隆志、森川隆士、かんだ正樹、阪田辰俊、市川良典、小澤真利奈、深谷絵美、石原身知子、穐吉美羽なんて顔ぶれが今度も一緒。それに加えて今回親交を得た真砂皓太は松平健の側近のベテラン。板前の修業もした腕前で、楽屋の昼食も取り仕切る。昼夜2回公演の日限定だが、根を詰め時間をかけた料理の美味に恵まれているのは、田井、安藤、綿引、かんだに僕の5人組だ。
 この冬、名古屋はめちゃくちゃに寒いが、震えがくるのは宿舎から劇場への往路だけ。あとは楽屋裏人情にすっぽり包まれて、僕の新年は実にぬくぬくとしている。
 

週刊ミュージック・リポート

さて、次回は新年。月日は早足だネ

 羽田が国際空港に機能を広げて、話題になっている。僕と仲間の恒例のボルネオ通いも、来年は羽田発になりそう。銀座で一杯やって深夜に羽田を発って...などと、幹事がもう浮かれている。そこへ山本譲二・川中美幸の『仁川エアポート』である。ハブ空港として名高く、羽田はそれに追いつけ追い越せだから、よく名前が出て来る。妙なタイミングの合わせ方だ。
 今回が今年最後の12月発売分。こんな時代のこんな状況下のはやり歌をどうするか。作家・制作者諸氏がさらに知恵をしぼる新年が来る。その挑戦に期待しようよ、皆さん!

もどり橋

もどり橋

作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広治
唄:大石まどか

 ♪愛するだけでは...の、歌い出し一声で「ほほう!」になる。しっとりとした息づかい、抑えめで切々の歌唱について。この味で1コーラス、破綻なしに行くのは難儀な作業。歌を体のどこで支えるかも含めての話。
 もう一つの「ほほう!」は徳久広司の曲。昔〝三連の徳さん〟の異名の彼が、近ごろは幅広い仕事ぶり。この作品もゆったりめの哀調で、大石を〝本格派〟へ誘導する。
 大石はひたひたと、そんな挑戦を歌い切った。感情移入の凹凸がないから、主人公が慎み深げな、いい女になった。

里ごよみ

里ごよみ

作詞:関口義明
作曲:水森英夫
唄:佐々木新一

 懐かしい人が戻って来た。代表作『あの娘たずねて』は昭和40年の作品。以前、山口県周防大島でやった、星野哲郎主宰の「えん歌蚤の市」で会ったきりか。
 三橋美智也二世と呼ばれた。その突き抜ける高音の輝きは、さすがに後退している。歌い続け年齢を重ねれば当然のこと。その代わりに、語り口にそれなりの渋さが加わっている。思いっ切り歌い回した野心ではなく、歌を慈しむような気配も生まれた。
 作曲・水森英夫が、佐々木の仕事を後押しした。本当は三橋に1曲書きたかったろうな。

仁川エアポート

仁川エアポート

作詞:たかたかし
作曲:弦哲也
唄:山本譲二/川中美幸

 声味も似合いのムード歌謡。昔ならマヒナの色か?いやロマンチカかも知れない。だとすれば女性ボーカルは誰に似てる?なんて、訳知り顔の楽しさも味わえる。弾き語り出身の譲二は心得た歌の位置どり、川中のしみじみ調も、浮き浮き気分をにじませている。

酒慕情

酒慕情

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡 千秋
唄:秋岡秀治

 別れた女をしのぶ酒の歌は、どうしたって愚痴っぽくなる。女のあれこれを思い、男が不甲斐なさを嘆くからだ。それを愚痴っぽくしない工夫はあるか?秋岡はやくざ唄ふうフィーリングでその答を出した。歌を押し、心を開いて、メリハリ強めの男唄にした。

雪見酒

雪見酒

作詞:石本美由起
作曲:岡 千秋
唄:五木ひろし

 各コーラスの歌詞1行目から、五木節全開...である。声の差し引き、ゆすり方、歌の思いの募り方からはかなさまで。この人の〝なり切り方〟は、女唄なら内股で歌うか?と思うほどだ。ここ何作か彼は、自分の歌の原点を探すように、旧作を掘り起こしている。

四季の酒

四季の酒

作詞:仁井谷俊也
作曲:幸斉たけし
唄:金田たつえ

 毎度おなじみ悪声ながら、近ごろはやりの幸せ演歌を...なんて気分なのだろう。金田が声も浮き浮きと、夫婦の四季を歌う。桜酒、祭り酒、しぐれ酒、雪見酒と、仁井谷俊也の詞は酒づくし。金田は小節も総動員して、ほのぼのムードの技巧品に仕立てた。

越前 雪の宿

越前 雪の宿

作詞:池田充男
作曲:伊藤雪彦
唄:真咲よう子

 ♪なにもなかった朝のよに、罪をうずめてつもる雪...と、池田充男が不倫を名調子で描く。伊藤雪彦のじっくり型の曲といいコンビだ。それをまた真咲が、これでどうかしら!の熱唱である。この人マイペースで長く頑張って、地味だが今ではクラウンの顔だ。

三春の桜

三春の桜

作詞:田久保真見
作曲:徳久広治
唄:瀬口侑希

 タイトルの桜は、福島県の三春町にある紅しだれ桜で、1000年以上の古木と資料にある。また一つ勉強になった...と思いながら、瀬口の勉強ぶりにも気づく。この人、どんな曲にも純に真面目に取り組んで、お嬢さんぽさが匂う。得難いキャラではあろうか?

逢いたいね

逢いたいね

作詞:もず唱平
作曲:南郷考
唄:キム・ランヒ

 ランヒの温かい、いい声が、情感濃いめに前に出る。それを揺らすのは南郷孝の曲で、70年代のポップスみたいなおおらかさがある。もず唱平の詞はそっけないくらいにスタスタと要件のみだが、これがランヒの味を生かした。親しい間柄の皮肉では、決してない。

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殻を打ち破れ 第108回

 そのころ僕は、三軒茶屋に住んでいた。国道246を走っていた玉川電車がなくなり、高速道路が出来て10年ほど。つまり東京オリンピックの1964年からしばらくの間だ。古い西洋館の2階5部屋を占拠して、いろんな若者たちが出入りしていた。スポーツニッポン新聞の僕の仲間をはじめ、放送作家やルポライター、コピーライターにカメラマン、デザイナー、メイクアーチスト、パントマイムの芸人から近くの寺の坊さんなど。売り出し前の作曲家三木たかしや中村泰士に、作詞家志望も何人かいた。
 そんな中へ時おり、浅川マキが現われた。夜な夜な安酒に酔い、口角泡を飛ばす男たちを見回しながら、マキはコーラ一点ばり。ボソボソッと口をはさむ中身が、なかなかに重め、深めで、キャッチフレーズの“アングラの女王”そのままだった。彼女のプロデューサー寺本幸司が、僕の家の同居人第1号で、一番大きな洋間に居る。だから僕は、マキがキャバレー回りの歌手から、伝説のブルースシンガーに変貌する一部終始を見聞きした。居ながらにしての密着取材だ。
 浅川マキの世界を当初、演出したのは寺山修司である。劇団天井桟敷を主宰した彼が、歌の社会でもひとつ、彼らしい世界を作ろうとした。『かもめ』『ふしあわせという名の猫』『ロング・グッバイ』など多くを作詞、ニューハードのギタリスト山木幸三郎が作曲をした。『夜があけたら』『淋しさには名前がない』などはマキの自作自演。彼女はシンガーソングライターのはしりでもあった。新宿蠍座でのファーストライブが開かれたのは1968年12月13、14、15日の3日間の深夜。
 学園闘争から70年安保闘争へ拡大したエネルギーは、70年を境に失速、若者たちは鬱屈の時代に入る。そんな時流を背景にマキは、いきり立つ若者たちに囲まれていた。相前後して僕の家に、作詞家石坂まさおが若い娘を連れて現われる。「この子をスターに!」と、舌なめずりして力説する石坂。酒盛りをしていた僕らの無遠慮な視線を浴びて、娘はひどく居心地が悪そうだった。細い肩、薄い胸が「演歌の星を背負った宿命の少女」という惹句ぴったりで、その阿部純子が日ならずして藤圭子になった。出発点はこれも新宿…。
 「彼女の歌は怨歌だ」と、作家五木寛之が喝破した。♪十五、十六、十七と、私の人生暗かった…という『圭子の夢は夜ひらく』を支持する、若者たちの心情を読み解いてのこと。藤はあっという間に“時代”の子になった。60年安保闘争のあと、西田佐知子の『アカシヤの雨が止む時』が取り沙汰されたのと似たケースだ。結局藤圭子と浅川マキは、音楽性こそ和洋二色に分れ、精神性も異にするが、“70年のシンボル”としては表裏一体の位置を占めた。
≪何ということだ…≫
 あれから幾つかの時代が過ぎて、僕は改めてマキと藤との出会いを振り返る。たまたまの全くの偶然が、後々こんなふうに意味を持ってつながることもあるのだ。マキは今年1月、公演先の名古屋で逝った。藤は歌わぬままスキャンダルにまみれている。僕は複雑な思いで出来たてのマキの追悼盤『MAKI Long Good-bye』を聴いている。

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 また「舟唄」や「雨の慕情」について、ひとくさりしゃべって来た。TBSが年末に放送する〝レコ大関連番組〟で使うそうな。「雨の慕情」は八代亜紀のレコード大賞受賞曲である。先行した「舟唄」と追っかけて出した「港町絶唱」の3作品を僕がプロデュースした。30年も前の話だ。
 「で、どのくらい儲かったんですか?」
 インタビュー役のディレクターが無遠慮に聞く。
 「一銭も…」
 と答えたら、相手は虚を衝かれた顔つきになった。
 「だって俺、スポーツニッポン新聞社の文化部長だからね、そのころ…」
 「でも、それとこれとは別、当然の報酬じゃないですか?」
 「しかしねえ、ギャランティされてないから、その後この世界にずっと居られたのよ。記者と制作者の二足のわらじで、儲けガッポリ…では、音楽界の友人たちが許すはずはないもの…」
 「そういうもんですか。でも、何かいいことあったでしょ?」
 「うん、テイチクの南口社長に、銀座の高級クラブへ連れていってもらったな、何回か…」
 南口重治さん、彼が八代のゼネラル・プロデューサーだった。八代作品のマンネリ化を憂い、それを変化させるために、阿久悠を紹介することを頼まれた。絵にかいたみたいなトップダウン企画。それに現場が反発したために、お鉢が僕に回って来たいきさつがあった。それにしても、アルコールはやらない社長が端然と座して、
 「どうぞ、ゆっくりやりましょう…」
 には、僕も参ったが、ホステスさんたちも策に窮した感があった。
 南口重治社長は今年7月23日に亡くなった。身内で密葬のみという話に、大阪スポニチの松枝忠信が反応、坂本スミ子やアイ・ジョージらと連名で花を届けるというので、それに乗せてもらった。
 ボーチェアンジェリカが歌っていた「忘れな草をあなたに」を、菅原洋一のレパートリーに推したことがある。実はこの曲と越路吹雪の「芽生えてそして」がそのころの僕の愛唱歌。うっとりするくらいきれいな詞とメロディーを、やくざに崩して女性の耳許で歌うと、それなりの効果があった。小沢音楽事務所の社長小沢惇が面白がって、2曲とも菅原でレコーディングする。
 「忘れな草…」の作曲者江口浩司の通夜に出かけたのは2月1日。小沢惇は入院加療中で顔を見せず、3月13日に亡くなった。
 《きれいな曲だからこそ、やくざに崩すと味が出る》
 という僕の主張は、菅原の芸風に合わず不発、僕は江口の霊前で謝らずにすんだ。小沢が愛した歌手浅川マキが1月、仕事仲間でケンカ仲間だった元東芝音工の田村広治が8月に亡くなっている。5日の田村の通夜で僕らは
 「小沢もこれで、淋しくないだろう…」
 と囁き合った。
 5月に吉岡治、6月に北海道・中標津で牧野昭一、7月には石井好子を見送った。それぞれ親交の中のエピソードが山ほどある人たちである。10月に前田利明の葬儀にかけつけ、11月にはついに、星野哲郎を見送ることになる。体調不良のため内々で入退院を繰り返していたから、僕は深夜のファックスや早朝の電話に飛び起きる日々を送っていた。
 吉岡は親友、星野は師である。断じて弔問客の一人になる訳にはいかない。だとすれば葬送の儀式のすべてを手伝う。こういう別れの場面に、ほどほどなんてことがあるはずがない。一報を聞いた時「ズンッ!」と、地面が沈んだように感じた動揺をそのまま、僕は走り回った――。
 「新歩道橋」も、今年は今回でおしまいである。手帳を繰って年間のスケジュールを見返すと、辛い別ればかりが妙に目立つ。長い知遇の中で教えを受けた人、歌づくりなどで組んだ同志ばかりだ。この原稿を校正している時にスポニチの先輩宇佐美周祐記者の訃報が届いた。11月26日に悪性リンパ腫で亡くなり、葬儀は親族だけで済ませたと言う。いろんな人たちを見送った僕は今、時代そのものがグルリと回転して、大きく変わっていく強すぎる実感に少しげんなりしている。 

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殻を打ち破れ 第107回

 「いい味出してるねぇ」
 ひと昔前の焼きソバのコマーシャルみたいな言い方で、僕がほめた。
 「いやあ、幾つになっても緊張しますね」
と、山田太郎が笑顔で応じる。
 「昔は金を取って歌ってた。近ごろはカラオケなんかで、金を払って歌う。上達するはずだわな」
 僕は重ねて、そんな冗談を言う。
 「それがね、このごろはタダで歌わされることが多いの。馬主会の集まりなんかで…」
 山田も冗談で返しながら、近況をちらりとのぞかせた。そう言われれば浅草のホテルで開かれた彼の発表会。会場入り口には競馬関係の祝い花が、目白押しだった。
 山田と僕は、年こそ違うが歌社会の同期生。彼が15才で歌手デビューした昭和38年、僕はスポーツニッポン新聞の取材部門に異動、28才でホヤホヤの音楽担当記者になった。当初僕は彼を本名の西川賢から“賢ちゃん”と呼び、『新聞少年』がヒットした40年以降は“太郎君”、長じて彼が父・西川幸男氏から新栄プロを引き継いでからは“社長”と呼ぶ。三回も呼び方を変えた親友は、他には居ない。
 その山田が、先輩村田英雄のヒット曲『花と竜』『男の土俵』をカバーした。9月13日夜の会はそのお披露め。山田は歌手であるほかに新栄プロの社長、中山馬主協会の会長だから、パーティーの来賓も多士済々だ。僕と山田のつき合いは、彼の父で新栄プロ会長の西川幸男氏の知遇が核になる。僕は長くこの人に密着、見よう見真似でプロダクション業務の実態とその哲学を学んだ。会長と村田の親交にも詳しい“新栄育ち”だ。
 九州の若い浪曲師酒井雲坊と東京の興行社の青年社長の二人が、握手したのは昭和24年の暮れ。それが『王将』でブレークするのは36年だから、12年もの苦闘の時代があった。いわば“一蓮托生”の男二人が“乾坤一擲”の勝負に勝ち、生涯を“刎頸の友”として過ごした歴史には、心うたれるエピソードが山盛り。村田が作詞、作曲した『花と竜』『男の土俵』には、そんな西川・村田コンビの万感の思いがこめられている。
 「だからこれは、単なるリメイクやカバーの類いではない。山田太郎本人は事の重大さを肝に銘じているはずです」
 と、発表会のあいさつで僕はぶち上げた。二人きりの場面だったら
 「えらいこと始めたね、あんた…」
 なんて肩の一つも叩くところだが、彼の晴れ舞台なら僕も、それ相応に気合が入るのだ。たかが流行歌だが、されど流行歌である。この2曲には、昭和の歌謡史に1ページを作った男二人の、不屈の闘志と汗と涙がしみついている。
 山田太郎は歌で、父と先輩のそんな「侠気」も継承することになった。そのせいか舞台上の彼は実に男っぽく、いい表情でこの2曲を歌い切った。そこで飛び出したのが冒頭の、
 「いい味出してるねぇ」
 「いや、いや…」
 のやりとりである。西川会長は会場の一隅で山田の歌声に聞き入っていた。山田はまたひとつ大きな親孝行のチャンスも得たことになる。

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 あけみちゃんてば、あけみちゃん、再婚しようよ天国で…
 星野哲郎もすごい詞を残していったものである。タイトルが「かすみ草の歌」で、あけみちゃんはもちろん16年前に亡くなった愛妻朱実さんを指す。詞の中で彼女は天国に居り、天国を追われた星野は地獄にいる。そのあけみちゃんが差し出す白い手が、歌の一番ではわずか5センチ、二番では3ミリ、三番では1ミリと近づいても、
 アワワワ届かない、届かない…
 と、星野の切ない思いがにじり寄るばかり…。
 11月19日昼、青山葬儀所で営まれた星野の葬儀で、水前寺清子がこれを読み上げた。弟子を代表する弔辞の中でのことだが、
 「歌えって言ってくれた詞だけど、先生、歌えっこないじゃないですか、こんな詞…」
 「そう言ったら先生、それじゃ僕に何事かあった時に、読めって言ったじゃないですか、だから私、約束だから…」
 水前寺の声は涙で途切れがちで、僕も涙を止めようがなくなった。
 《そりゃあ、弔辞をやってくれとは言ったよ。15才からのつき合いをうんと実感的にってな。だけどチータ、お前がこんな涙の爆弾を持ち込むとは思わなかったよ…》
 僕は小きざみに肩がふるえる水前寺の後ろ姿に、星野家親族の席の一隅からそう心の中で語りかけたものだ。
 「胸に大きな穴があいてしまった…」
 葬儀委員長の船村徹は、霊前に語りかけて弔辞にした。昭和32年、横浜港開港100年記念の歌詞募集が二人の出会いで、船村25才、星野32才。それから半世紀、ゴールデンコンビとして数多くのヒット曲を生み、作曲と作詞の世界を代表する双璧となっての別れである。
 「ものには書かずに、少ししゃべって、それでいいな」
 事前にそうポツンと念を押した彼は、星野が荼毘に付された桐ヶ谷斎場で、どんな思いで盟友の骨を拾ったろう?
 3本の弔辞の最後は、星野の故郷山口県周防大島を代表した柳居俊学氏。県議会の副議長という要職にあるが、古くからの星野信奉者。下積みの歌手に脚光を!と、星野が自前のイベント「えん歌蚤の市」を始めた時は、島の東和町の町長として陣頭指揮をとった。島にある星野哲郎記念館も、彼の主導で作られた経緯がある。星野の訃報が届いてすぐ、その記念館には祭壇が設けられ、島の人々が大勢弔問に訪れていることが、彼から霊前に報告された。
 通夜に1100人、葬儀に800人が焼香して、星野の葬儀は彼の大きな実績と厚い人望とを証明した。現場で働いたスタッフは、メーカー各社の若手から作詩家協会、ジャスラック、著作家連合や星野門下生の桜澄舎、星野の薫陶を得た哲の会などのメンバーが約100人。
 『粛々とした中にも、星野の人柄にふさわしく、情のこもった野辺送りにする』
 が、僕らの総意だった。
 2日おいて21日「よこはま・たそがれ」から40年を記念、磯子CCでゴルフコンペを開いた五木ひろしは、顔を見るなり、
 「囲み取材で求められてね。やってよかったのかどうか…」
 と、懸念を口にした。星野の通夜で焼香したあと、星野作品の「心」をアカペラで歌ったのが、ことのほか大きく報じられてのことだ。
 「よかったと思うよ」
 と、僕は即答した。平成2年、星野は五木にこの歌を書いたことを「長年の夢が実った」と大喜びし、後に、
 「人間の所有物のうちで心ほど純粋な部品はない。あらゆる歌謡も、その純な心と動物的な肉体との葛藤を書いたものではないか、さすればこの作品は、根本のテーマに挑戦したことになる」
 と書き残している。星野は五木に直球を投げた。その心に報いてのアカペラなら、五木が気にやむことは何もないと僕は思っている。

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 頬がふっくらと、血色も肌艶もいい。そんな顔が眠っているように穏やかで、二日目には微笑するように表情が変わった。自宅居間に仰臥する星野哲郎、とても亡くなったとは思えぬ面持ちで、
 「だけどなあ、良太郎…」
 と、いつもみたいに語りかけて来そうだった。15日午前11時47分、入院先の病院で心不全、85才。加齢による体調不良が長く続き、入退院を繰り返した。やがて人工的に栄養をとる状態になり、言葉少なに病床で思いをめぐらせた日々。彼はごく自然に仏の世界に近づいていったのか?
 形あるものはみな、滅ぶ日のためにある、色即是空、空即是色、ひとり、旅をゆく…
 15年前に彼が森サカエのために書いた「空(くう)」の、歌い納めの4行が、ドカンと胸に来る。あの諦観に似た静けさを、星野はいつから胸中の澱にしていたのか? 長く身辺に居た僕は、心の中の星野の年表を辿る。相思相愛で知られた朱実夫人が亡くなったのが16年前。今年その17回忌の法要を営んだばかりと聞いた。星野はあのころの喪失感を抱いたまま、こんなに穏やかな顔で朱実夫人の許へ旅立ったのか!
 星野と僕の初対面は昭和38年夏。以後47年もの知遇を得た。僕は「教わるよりは盗め」の新聞記者の常套手段で密着した。それを承知で胸襟を開き、盗ませ放題にしてくれたのが星野である。温厚な人柄、情と義に熱い生き方、絶えずみずみずしい詩心、一日一詞を実践した厳しさ、ついに捨てることのなかった海への渇仰…。その種々相を僕は、仕事先のスタジオ、交友の会合やネオン街の回遊などで目撃した。巷を書斎にした詩人の、人情の機微、歌が生まれる瞬間、ヒット曲が育つゆるやかな時間などを見守った。
 現実に戻る。残念だが葬送の手はずを整えなければならない。小金井の星野宅に続々と人が集まる。境弘邦をはじめ各社のプロデューサーたちの〝哲の会〟高田ひろお以下星野の門下生の〝桜澄舎〟の面々と、真澄氏を囲む打ち合わせ。葬儀社東都典範の醍醐武明と花のマル源の鈴木照義は中山大三郎、三木たかし、吉岡治らを一緒に見送った裏方の仲間だ。18日午後6時から通夜、19日正午から葬儀で場所は青山葬儀所、星野の有近家と日本作詩家協会、日本音楽著作権協会の合同葬で、葬儀委員長は星野の盟友船村徹。
 16日、その船村は九段会館に居た。午前10時から星野死去について記者会見。
 「彼が昭和の歌謡史を作り、星野哲郎の世界を作った。ここまでの詩人はもう出て来ないだろう」
 と唇を噛む船村。同席した鳥羽一郎は、
 「星野先生と船村おやじのコンビの作品は、僕が一番多くもらった」
 とこうべを下げた。
 この日のこの会場で船村は、靖国チャリティーの演歌巡礼コンサートを昼夜二回。彼が「おんなの宿」鳥羽が「兄弟船」森サカエがあの「空(くう)」と、星野作品を歌った。
 《星野から学んだことの骨子は三つ。①平易②簡潔③人間味か…》
 僕は九段会館から青山葬儀所で打ち合わせ、その足で星野邸へ戻りながら、そんなことを噛みしめる。「詩は話し言葉で、誰にでも判るように」「1行で済むことに2行も使うな」「不器用な者ほど努力するから、人間味が出る。僕もその一人だ」――おりにふれての星野の言葉が甦る。歌づくりの極意は耳が痛いくらいに新聞づくりに通じた。
 17日は新栄プロの元常務西川良次氏の通夜で桐ヶ谷斎場へ出かけ、西川幸男会長にあいさつをする。星野が物書きとしての師なら、西川会長はプロの気骨を見よう見真似で学ぶ機会をくれた人。そんな〝新栄育ち〟も、星野に連なっていてこその縁だった。
 星野葬送の打ち合わせは、大きな流れと形をつくり、細部を具体的にすることの組み合わせ。それに温顔星野と人の輪のフラッシュバックが重なるから、朦朧としてまだ、師を失った悲しみは地に足をつけていない。しかし、
 《あすの通夜、明後日の葬儀は、身をひ

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「歌に卑しくなるな」と言ってたナ。

 表現は「率直」がいいし「自然」がいいに決まっている。歌も同じことだが、むずかしいのは、商品としての訴求力やインパクトの強さが作れるかどうかだ。「率直」を小気味よい強さにレベルアップ出来るか。「自然」を確かな情感で裏打ち出来るか。
 その辺が心許ないと、作家も歌手も「技」に頼り、それをつけ加える。しかしそんな「売れたい一心」は「作為」として、客に見すかされることが多い。「歌に卑しくなるなよ」が三木たかしの口癖だった。自戒の意味もあったろうが、心すべき言葉ではなかろうか。

女の潮路

女の潮路

作詞:麻こよみ
作曲:岡 千秋
唄:市川由紀乃

 曲想で言えば『他人船』他、歌手で言えば菅原都々子あたりを思い出す。岡千秋が書いた曲は典型的な〝連絡船もの〟で、昔から流行歌の定番の一つ。波の瀬で揺れる船、憂い顔の女、飛ぶかもめがおなじみ。
 麻こよみの詞は逆に、女主人公を波止場に残した。あの人とあの船に乗ればよかった...という、悔いや未練がテーマになる。それを市川が、言葉の端々までていねいに歌う。声の出し方は少し抑えて八分めくらい。感情移入は少し濃いめで、これが彼女の〝連絡船もの〟今日ふう味つけなのだろう。

北岬

北岬

作詞:平塚和也
作曲:浜 圭介
唄:細川たかし

 千家和也、浜圭介という作家名に「ン?」になる。懐かしい組合わせだ。この二人の個性がうまくからむ、細川のセルフカバー作品。
 歌い出しの歌詞4行分が、相当に抑えた歌唱で出る。続くサビ以降の4行で、ビシッと〝決める〟作戦、緩急の妙が狙いだろう。
 作品の古さ新しさにこだわることはない。いいものはいつの時代でもいい。それよりはむしろ、そんな容れ物にどんな中味を盛るかが肝要。歌全体をソフトに仕上げたあたりに、細川の時流への沿い方がのぞけた。

酒の舟

酒の舟

作詞:たきのえいじ
作曲:岡 千秋
唄:真木ことみ

 真木は大きな容れ物として、この作品を貰った。たっぷりめの演歌ワルツで、『悲しい酒』を代表とする本格路線、歌手たちがトライし続ける高い山だ。それを真木のあの声とあの歌が満たそうとする。これで十分とはまだ言いがたいが、意欲は十分伝わる。

おんな傘

おんな傘

作詞:城岡れい
作曲:影山時則
唄:上杉香緒里

 "露地裏演歌〟である。もともと男唄のジャンルだが、それを城岡れい、影山時則コンビが女物に仕立てた。傘の大きさと男の夢を較べたり、傘をひとときの安らぎの空間に見立てたり、去った男の帰る場所に思い定めたり...。上杉の歌は歌い納めの感情移入が一途だ。

アカシア雨情

アカシア雨情

作詞:森坂とも
作曲:水森英夫
唄:美川憲一

 水森英夫のメロディーの流れと、美川の歌の粘着力が、面白いバランスを作った。水森の曲はスタスタと歌い回すと良さが生きる。それを美川が、あの口跡と声味で、語り歌にした。双方の、のうのうとした芸風が合流して、美川の活路を開きそうだ。

みちゆき舟

みちゆき舟

作詞:仁井谷俊也
作曲:弦 哲也
唄:岩本公水

 曲は弦哲也で、すっきり穏やかめ。その起伏にほど良いテンポで乗って、岩本の歌はごく自然だ。演歌〝らしい〟表現に寄せるよりは、息づかいまで生かして、人肌の感触を狙う。へえ、いい声の持ち主だったんだ...と再認識するのは、声の芯の明るさのせい。

女の華祭り

女の華祭り

作詞:仁井谷俊也
作曲:鈴木 淳
唄:椎名佐千子

 これが鈴木淳の歌謡曲なのだと合点がいく。仁井谷俊也の詞10行分を4つくらいのパートに分けて、おいしいおかずのフレーズがはめ込まれている。早口コトバふうから、追っかけ歌唱まで。お陰で椎名が歌う女心が、少しお転婆で生き生きとした。

私にだって

私にだって

作詞:藤本卓也
作曲:藤本卓也
唄:香田 晋

 作詞・作曲・編曲に藤本卓也の名がある。ずいぶん昔につき合いのあった人で、ねばっこい人柄と歌の書き手。これも相当前の作品だ。あのころならロッカバラードなんて呼んだ、3連の乗りの良さに気分よく乗って、香田は相変わらず器用で巧い。

オイトコ鴉

オイトコ鴉

作詞:たなかゆきを
作曲:村沢良介
唄:木原たけし

 木原は東北地方で名うての民謡うたいのベテラン。
作詞のたなかゆきを、作曲の村沢良介は〝超〟がつくベテラン。そんな3人がそれぞれの腕を持ち寄った股旅ソングだ。3番の歌詞ではないが、〝後生楽〟な枯れた味わいがあって、惹句の〝新しい懐メロ〟が愉快だ。

のぞみ坂

のぞみ坂

作詞:仁井谷俊也
作曲:岡 千秋
唄:三笠優子

 三笠はどんな曲でも、自分流の歌に仕上げる。巷で歌い込んだ地力と苦労人の理解力がその陰にある。作曲が岡千秋となれば、ズサッと切り込んで来る彼流演歌!と思ったら違った。歌謡曲寄りに穏やかめの曲で、歌い納めの1行分で、二人の呼吸が合った。

哀愁のシンデレラ

哀愁のシンデレラ

作詞:ありそのみ
作曲:樋口義高
唄:北原ミレイ

 舞台はヨーロッパの観光スポット。お話は一人旅する女主人公の傷心...。ミレイはここ何作か、そんな作品を続け、熟女たちの根強い支持を受けた。そして今度はシンデレラものである。これまでの色を編曲で濃いめにして、シリーズもこの辺できわまる気配がある。

MC音楽センター
晩秋、対岸にくっきり富士山が姿を現わす。自宅マンション前の相模湾は波静か。防波堤そばはダイビング族の集合場所になり、朝から会話も快活。海には大小のヨット、釣り船、シーカヤックなどが行き来する。たまの休日、5階ベランダから眼下にそれを眺めながら、僕は愛猫ふうちゃんと日光浴。もう一匹のああちゃんは出不精で、リビングの陽だまりでひねもす午睡だ。僕は12月からの俳優の暮らしへ、鋭気!?を養っている。 葉山通信11/25   12月19日(日)浅草公会堂の「沢竜二全国座長大会」出演が一発め。昼の部が12時30分、夜の部が17時30分開演で、僕は2部の「坂田三吉・王将」に出る。出演は沢に淡路恵子、岡崎二朗、岡本茉利、若葉しげるら。「木曽鴉」は三笠優子が歌って沢が踊り「冬の舞い」は各座長が総出。僕の座長公演出演はこれが3回目。申し訳ないが勝手にレギュラー気分。 沢竜二全国座長大会   新年1月は名古屋御園座の川中美幸公演「たか女爛漫」に出る。波乱の幕末、大老井伊直弼の密偵として働いた村山たかの波乱の半生のお芝居。堀越真脚本、水谷幹夫演出で、長門裕之、松村雄基、土田早苗、曾我廼家文童、富田恵子らが出演、2日初日、26日が千秋楽、けいこは12月12日にスタート。「ン?」と思われる向きもあろうが、19日の沢竜二公演は、そんなけいこを中抜け。舞台5年の駆け出しの僕は、特別に許されたチャンスと平身低頭。 たか女爛漫   新年が歌手生活35周年の川中美幸は、引き続き3月が明治座公演でお芝居は「天空の夢」(イケタニマサオ脚本、華家三九郎演出)。田村亮、仲本工事、土田早苗らの末席へ、僕にも声がかかった。2月中旬にはそのけいこに入るから、僕の暮れから春は芝居漬け。初舞台は2006年、川中美幸の明治座「お喜久恋歌一番纏」で彼女の30周年公演だった。まる5年、川中一座の座員に加えて貰っている勘定で、感無量。   天空の夢   川中座長と一緒のテレビ番組もある。12月19日午後7時30分から75分間、NHKBS2の「昭和の歌人たち。作曲家三木たかし」で、石川さゆり、坂本冬美、岩崎宏美、黛ジュン、藤原浩らが一緒。司会が宮本隆治、由紀さおりとみんな友だちづきあいの人ばかり。こちらは音楽評論家としての出番だから、芝居の時の僕よりは気分のびのび、緊張の度合いが少なめ。  


 巨大なビルほどもある波が、大音響で崩れ落ちて来る。それに打ちのめされながら、クルーザーは眼の前の巨大な海の穴、つまりビルみたいに波がそそり立つために出来たすり鉢状の空間へ突っ込んでいく。天を見上げた形の船首が、次には奈落の底めざして落ちるのだ。その繰り返しがどのくらい続いたろう。暴風雨の中の航海である。僕は甲板の大きな箱の陰で、それにかけられた太いロープにしがみついている。しかし、頼みの綱も、滝の雨の中を箱ごと、ずりずりとずれはじめた。
 《ここで死ぬのか。こんなはずじゃなかったのに…》
 僕は歯をくいしばって耐えた。荒れる海に翻弄される恐怖に耐え、少しオーバーに言えばそんな運命に耐えた。
 昭和61年か62年の夏だと思う。「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展に誘われて出かけたクルーズ。伊豆七島あたりでのんびりして、海の幸をたらふく食べよう、給仕する女の子たちも乗せておくからさ…と言うのに、あっさり乗った。仕事の都合で油壺からの出船は見送り、調布から新島へ、セスナ機で飛んで彼らに合流する。
 「海ってのも、いいねえ、ずいぶん久しぶりだよ」
 と、相好を崩して出迎えたのは阿久悠と息子の太郎君、それに宮川泰。「ヤマト」の主題歌を書いたいわばお仲間だ。
 翌日、新島から三宅島へ向かう途中で、出っくわしたのが冒頭の惨状である。
 「少し荒れるかも知れないけど、大丈夫、大丈夫…」
 屈強のクルーが口々にそう言う。足裏に吸盤でもついていそうな身軽さで立ち働く彼らも、そのうち無口になり、やがて必死の形相になった。九死に一生を乗り切って、船は三宅島に着く。岸壁に叩きつけられそうな船を、その寸前に身をひるがえらせた運転は、西崎の手腕だった。命からがらの僕らを、島の男たちの怒声が迎えた。
 「命が惜しくねえのか。俺たちの仲間の船だってみんな、下田に避難した。暴風雨の警報だって出てるのに、一体何を考えてるんだ!」
 ことほどさように、西崎義展は剣呑な言動多めの男だった。昨今物情騒動の尖閣諸島を視察に、石原慎太郎都知事が出かけた時も、陰に彼が居た。知事一行が乗ったのが西崎の船。ふだんはフィリピンに係留してある軍艦みたいな奴で、海賊対策のために武装していると本人が話していた。その後彼は銃刀法違反、大量の薬物所持の現行犯逮捕などで服役、「ヤマト」の著作権問題で松本零士氏と係争するなどの問題を起こす。
 美意識も生活感覚も、人並みはずれていて、長いつきあいの彼を、僕はしばしば違う星の人のように感じた。しかし「ヤマト」のプロデューサーとしての情熱は、見事なほどに一途で熱かった。作品の構想を話す時、いつも彼は涙ながらになった。獄中からの手紙も、ヤマト制作で再起すると、熱に浮かされるようだった。刑期を終えた西崎は、17年越しの夢を実現、劇場版「宇宙戦艦ヤマト 復活編」を作った。
 その西崎が11月7日午後、小笠原諸島の父島で海に転落死した。船は彼の会社が持つ「YAMATO」(485㌧、9人乗り組)で、6日夜父島の二見港に入り、7日は港内で試験航海を続けていたと言う。小笠原諸島海上保安署は誤って転落した事故と見ている。
 昭和9年生まれの75才、1年と少し年上の彼を悼もうとしても、話し相手の阿久悠や宮川泰はとうに鬼籍に入っている。
 《「ヤマト」に殉じて、大好きな海で逝ったのだ。それがせめてもの慰めか》
 僕はぼんやりと今、自宅眼下の葉山の海を眺めている。対岸に富士、右手に江の島、左手に伊豆大島があり、大小の釣り船やヨットが行き来して、それを冬の陽差しが照らす。絵に書いたように平穏な海が、昔のあの暴風雨の海や、3日前に西崎をのみ込んだ海と同じなことが、当たり前なのに何だかとても妙に不思議な心地がする。

週刊ミュージック・リポート


 チェウニが「永住権」を得た。韓国から日本へ来て11年めの歌手生活。その間の活動と実績、生活ぶりが認められてのことだろう。4月に品川の入国管理局でその手続きを終えた。11月1日、日本橋劇場で開いた「秋のコンサート2010~えにし~」でそれを報告して、彼女の弾む口調がファンの拍手を浴びた。
 これまでは毎年、就労ビザの更新を続けた。納税証明書や活動計画書など、段ボールで運ぶほどの書類を必要とした。芸能関係の審査は厳しい。それを口実に入国〝その後〟が新聞の社会面をにぎわすモグリが後を断たないせいだ。役所の窓口が、それとこれとを見分けるのは難しい。仕方がないか…とは思いながら彼女とそのスタッフは、時に屈辱的な気分を味わうこともあったろう。
 「最愛のひと」を歌ったあとでチェウニは、
 「チェウニの最愛のひとは、みなさん一人々々です」
 と、日本で歌い続ける決心をていねい語で話し、すかさず、
 「こういう時はァ、拍手をするのよォ」
 と、ためぐちに転じた。「トーキョー・トワイライト」でデビューして丸10年、まだこぶりだが独特の世界を作った彼女のキャラは、このチェウニ語が作った。「それとォ」「だからァ」と語尾をはね上げる韓国ふう抑揚、てにをはが怪しげな片コト言葉えらび、多用するためぐちの親近感…。
 新曲「雪は、バラードのように」まで、チェウニのレパートリーの多くは夏海裕子が作詞、杉本眞人が作曲している。ワイン色に染まる黄昏の街で、ひとりルージュの色を選ぶ娘の孤独感を主にした、平成版都会調歌謡曲。快いリズムに乗る粘着力と艶のある声、それが高音部で切迫すると、漂泊する女心に、すがるような情感が濃いめでいじらしい。この夜の彼女は黒、赤、白、青のドレスを着替えた。ボディラインがあらわな衣装の裾をハイヒールでさばきながら、ステップを踏み、くねるように踊って「聴かせ」て「見せる」18曲。
 木材が温かい造作の小劇場、観客は約500、僕は2階最前列からチェウニを、斜め下に見おろした。真上からのライトの輪の中で、くっきりと黒い髪、時おり挑むように光る眼差し、揺れる胸と腰の曲線、むき出しのとがった肩、くるっとターンをすれば、形のいい肩甲骨、まっすぐな背筋のくぼみ、琥珀色の肌…。
 《やせて、大分いい女になった。フォーマルなドレスにやや野性的な中身ってところか…》
 少女時代に一度来日、チェウニは「どうしたらいいの」を歌った。それに身震いするほど感動したのが起点の僕のチェウニ体験、めっきりオトナになった彼女には、それ相応の感慨が生まれる。
 衣装替えの時のバンド演奏が、思いがけなくグッと演歌調になった。それをチェウニは、
 「私がおなかに居る時に、お母さんが吹き込みをした〝椿むすめ〟という曲…」
 と説明する。母はイ・ミジャ(李美子)という韓国の国民的歌手。チェウニは母を尊敬し誇りにも思っていると言葉を次ぎ、代表曲の一つ「女の一生」を歌った。僕は一瞬ウッと胸が詰まった。
 韓国の美空ひばりと呼ばれる母は、チェウニが幼いころに離婚、あちらの放送界の大物と再婚した。チェウニは母に会えぬままで育ち、歌手になっても双方の間には、眼に見えないバリアが張られていた。やがて父は日本での暮らしを選び、チェウニもこちらで活路を見出そうとする。愛憎入り混じって、胸中にしこるものがあったのだろう。チェウニは当初、母の話に触れることを極端に嫌った。
 しかし、歌手としての得難い才能、声そのものまでが母親ゆずりのはずである。チェウニはいつか、そんな自分の血を認める心境になった。氷解のきっかけは「日本の歌手として10年」の実績と自負かも知れない。チェウニはこういうふうに成長し、脱皮した。来年からの彼女の仕事はきっと〝第二期〟に入ることになるのだろうと、僕は客席でそんなことを考えた。

週刊ミュージック・リポート


 FAXで訃報が届いた。上原利克氏80才。知らない名前である。「しかし…」と僕はたたらを踏む。以前に世話になった人ではないのか? 年齢からすれば相当なベテランである。スポニチの記者のころ、知り合いながら失念しているケースか? 僕の歌社会ぐらしは昭和38年からで、かれこれ50年近い。その記憶の中の名簿をあれこれ引っくりかえす――。
 亡くなったのは作、編曲家の前田利明だった。
 《本名で知らされたんじゃ、判らないはずだ・・・》
 僕はずいぶん昔の彼の、晴れやかな笑顔を思い出す。一緒に出て来たのは、水前寺清子、山田太郎、一節太郎たちの顔で、みんなかなり若い。そんなセピア色の光景は、地方へ出かけた「クラウン・スターパレード」の楽屋。あれは日本クラウンが設立されて、所属歌手が全国を回った昭和40年前後のことだ。司会の青空星夫・月夫もいた。前田はバンドの指揮者。僕はクラウンに密着、イベントがあればどこへでもついて行った駆け出し記者…。
 前田は作曲家上原げんとの義弟。上原は戦後を代表するヒットメーカーだが、昭和40年、50才で亡くなった。僕はかろうじて間に合ったが、面識を得るに止まった。だから〝げんとさん情報〟は前田を頼る。流し仲間の岡晴夫と曲の売り込みに行って二人とも採用されたこと。「憧れのハワイ航路」ほかで、二人のコンビ作品は大当たりの連続。そのキングからコロムビアへ移籍したのは、美空ひばりの懇望による引き抜きで、石本美由起が同行したこと。最後の弟子の松山まさるは恩師の急死で後ろ盾を失う。のちに五木ひろしとして第一線に浮上するまでの7年間は、歌謡界の孤児だったこと…。
 旅先の公会堂などで、僕は前田になつき続けた。今になっては昔々の歴史上のエピソードだが、40年以上前に聞けば、みな感触が生々しかった。そういう出来事や人間関係の延長線上で、僕が取材するその時期の歌社会は動いていた。いつの時代、どんな社会でもそうだろうが、先人の昔話は、手応え確かな予備知識になる。よく聞き噛みくだくことができれば、それが後輩の知恵になり、必ず仕事のヒントとして生きる。
 本名上原利克が親しかった前田だと判ったのは、訃報の発信者がビッグワールドの堀社長だったせい。以前立ち話で彼から、げんと一家の近況を聞いたことを思い出した。
 「もしや…」
 と電話を入れて、確認がとれる。死因は心筋梗塞、加齢のために近ごろは、あまり外出もしなかったとか。そういえば一緒にやっていたMC音楽センターの全国大会の審査にも、顔を見せなくなって何年か…。
 葬儀は10月22日、落合の最勝寺会館で営まれた。上原げんと歌謡スタヂオと上原家の名が並ぶ。あれからずっとトシちゃんが、げんとさんの教室を維持していたのか…と、そんな感慨が胸に来た。「トシちゃん」は慣れ慣れしかった…という反省もある。僕より6才も年上とは思わせぬ若さの持ち主で、気さくで優しい人だった。
 「みんな、先に行ってしまって…」
 僕の顔を見るなり、また涙がこみ上げたのは、げんと夫人の愛子さん。もう90才を過ぎている人の細い肩を抱いて、
 「だから、先に行ったみんなの分だけ、あなたが元気で居なくっちゃ…」
 と、僕は慰め、励ました。
 平成13年の4月に、上原げんと37回忌偲ぶ会を開いた。前田から相談を受け、言い出しっぺが愛子さんと聞いて「やろう!」と決めた経緯がある。彼女に悔いを残させない配慮があった。
 最勝寺での前田とのお別れ。棺の傍には神戸一郎の顔があった。「銀座九丁目水の上」がげんと作品で、確か昭和33年のヒット。その神戸が愛子夫人をいたわる姿を眺めながら、会場に流れるひばりの「港町十三番地」を聞いた。彼女や岡晴夫、コンビの石本美由起にげんと本人も、みんなあちらに居る。前田利明はそんな大勢の中に、還って行ったことになるのだろうか?
 

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第106回

 

 堀江の新地は女町、あだな島田に赤い着物(べべ)着た女が一人、横ずわりして細い首筋を客席に見せている。背後には泥絵具で書いた露地裏の書き割り――そんな大衆演劇の一コマみたいな情景が、くっきりと目に浮かんだ。河内のベテラン音頭取り・鳴門家寿美若が歌う『舟唄やんれ』を聞いてのことだ。
 この作品、もず唱平の詞、三山敏の曲で、成世昌平のアルバムに入っていた。泣いて苦界に身を沈めた娘と、その噂に耳をふさいで泣く若い衆のおはなし。
 ♪千鳥 よしきり 揚げひばり 啼け啼け 春が逝かぬうち…
 なんて歌い出しの、もずお得意の世界が展開する。
 初めて聞く名前だが、寿美若は63才で、今年が河内音頭生活40周年とか。ご当地では名の通った“櫓の上の達人”なのだろう。それが記念CDを作ろうと、もずに相談を持ちかける。ものが成世の持ち歌だから、恐る恐るだったがもずは快諾した。もともとこの歌は、寿美若が歌い続ける『ヤンレー節』をモチーフに作った縁があった。
 成世の『舟唄やんれ』に感じるのは「覇気」である。古風な恋の顚末でも、彼の声の若さや張りが、どこかに晴れ間を作る。一方、寿美若のこの歌は「慈味」が濃いめになる。よく練れた地声が人肌のくぐもりで、歌う語尾の揺れ方に、はかなげな情感が漂う。わびさびにも通じる匂いがあって、なるほどこの人、この曲を歌いたがるはずだ!と合点がいく。
 「それはそれとして…」
 と、もずが提案した。寿美若の『ヤンレー節』は八尾市植松地区に伝わる郷土民謡。もともと歌詞も楽譜もなく、寿美若の歌声だけで伝えられて来た。少年時代からののど自慢あらし、演歌歌手志願だった彼が、この歌にとり憑かれての櫓ぐらしを40周年まで頑張った。この際この歌は記録に残すべきだというのが、もずの考えだった。
 哀愁の『ヤンレー節』の新装再開店である。三山が採譜をし、もずが改めて歌詞をつけて『寿美若のヤンレー節』が生まれた。音頭ものとしては珍しくマイナーの曲がゆったりめで、哀調を帯びる。歌い込むもずの詞には楠正成や八尾の朝吉、十人斬りの弥五郎、熊太郎など、ご当地おなじみの人物が登場する。
 「伝承民謡は時代によって形が変わる。ヤンレー節はこういう形で後世に残ることになった」
 と、その固定化と普及に胸を張るのは、大阪芸術大の教授でもあるもずの、もう一つの彼らしさ。
 「望外の幸せ、この歌を日本中に広めます」
 と、寿美若は、何がなんでも…の力こぶを作る。
 そのせいかCDのメイン扱いはこちらになったが、僕はとめどなくカップリングの『舟唄やんれ』に魅了される。それと同時に、成世昌平、鳴門家寿美若という名うての男たち2人に愛される、この楽曲の生命力の強さにも感じ入る。近ごろの歌社会には年に1人くらい、熟年の芸達者が脚光を浴びる傾向がある。寿美若がその何人めかになる! と力み返ったら、僕の悪ノリは度が過ぎようか?

月刊ソングブック

 
 年上の僕がそう書くのも何だが、メタボおじさんが大集合、嬉しくてたまらない風情で舞台を務めるのが愉快だった。「歌って踊って芝居もあって」「高齢化時代にオヤジの新エンターテイメント!」が惹句のバラエティーライブである。10月17日の日曜日に、のこのこ出かけた先は駒込・六義園そばのオフィスストライプで、観客60人前後の容れもの。出演はイブニング・ダンディーズを名乗る面々だが、昼食、フリードリンクつき4000円、堂々のランチ・ショーだ。
 いきなり懐メロで、それも「君恋し」「国境の町」「青春ラプソディー」「別れのブルース」「旅の夜風」と、相当に古いところから戦後まで。それを入れ替わり立ち替わりで歌う。さっきまであった食事のテーブルを撤去した空間がステージ。赤、青、黄色にピンク、紫、緑…と、ド派手なスーツで登場するのが、イブニング・ダンディーズである。屈強のひげ面、かなり広くなった額、名残りの髪を思い思いにカットして、風変わりな芸名を名乗るあたりに、それぞれの自己主張が垣間見える。
 歌はカラオケ上手級である。それが曲によって扮装をかえる。「旅の夜風」は医師と看護師「東京のバスガール」は女装に旗「蘇州夜曲」はチャイナドレス…。お客はそれを笑いながら見て、曲によっては一緒に口ずさみ、思いのほかの歌巧者には拍手を送る。コスプレつきカラオケ大会の趣きだが、休憩をはさんだ二部は、バラエティー色が俄然強くなった。
 祭り装束のラインダンス、脚立の上の曲技ふうがあり、プッチーニの「トスカーナ」を3分に縮めて男女2色の声で歌い分ける芸達者がいるかと思えば、自称イケメン3が「仮面舞踏会」を歌い踊る。「燃えるのか、燃えないのか」と主婦2人が自問自答する「ナマゴミの女」や「外に7人の敵なんて嘘、敵はウチに居る…」とさとす「息子よ」なんて怪作が歌われる。つぎはぎだらけのフロックコートに山高帽で、都はるみの「ムカシ」…なんてあたりは、まともな方だ。
 リーダーは大石誠。日劇ダンシングチーム出身だと言う。あの劇場がサヨナラ公演で48年の歴史を閉じたのは1981年2月15日、もう29年も前のことだから相当な熟年だ。この日の会場は、彼が自宅に作ったけいこ場で、客に出す食事は夫人が陣頭指揮した手づくり。メンバーは大石が、カラオケスナック他でスカウトした。目下17人で平均年齢は52・5才、AKB48を超えて50名が目標だと言う。何しろ全員仕事を持っているから、スケジュールのやりくりが大変。結成2年だが口こみが効いて、月1回のこのショーは来年3月分まで完売。追加公演としてナイト・ショーも考えているとか。
 《それにしても…》
 と再確認したのは、全員がよく動くこと。懐メロもバラエティーも、曲ごとに全部振りつけがされていて、けいこもちゃんとしている気配。そこで登場するのが著名な演出家日高仁氏だ。僕が記者時代、日劇でお世話になった人だが、彼が今年から週1のけいこを見ているという。
 《道理であちこちに、日劇の匂いがした…》
 と合点が行ったが、日高氏80才、メンバーを上回る意欲を示す元気さには脱帽!である。
 「みんな素人ですからねえ」
 と言われたが、何ごとによらず最初は誰だって素人。それが50才を過ぎて〝最初〟というのが稀なだけだ。そう言う僕も川中美幸一座、沢竜二公演、東宝現代劇75人の会などに出して貰って5年。たまに聞く褒め言葉は決まって「自然でいい」で、つまりは素養も技術もないが「一生懸命」だけは伝わるという意味だろう。
 いわば〝同病の志士〟イブニング・ダンディーズの面々に僕から贈る言葉は、
 「面白くもおかしくもない玄人よりは、ヘンな素人で上等だよな!」
 なんて居直り方だろうか?

週刊ミュージック・リポート

"細部に神宿る"だよね、ホント!

 「あなたがいたから、ふたり逢えたから、今のわたしになれたの」なんて、ポツンと言われたら男はしびれるだろう。久しぶりの再会劇の女主人公を、そんないい女にしたのは田久保真見だ。そうかと思えばもず唱平は、去った男に質問を6つもする女を描いた。喜多條忠は名文句づくりに腐心し、松井五郎は独自のレトリックが鮮やか。今月は作詞家たちの小さな工夫が楽しくて"重箱の隅"をほめたくなった。「細部に神宿るというからねえ」というのが、9月の芝居で役者の僕がお世話になった、演出家の言葉だったし...。

飛騨の月

飛騨の月

作詞:つじ伸一
作曲:岸本健介
唄:原田悠里

 未練の一人旅の旅先・飛騨で、自分の胸の中をのぞき込んでいる女の歌である。つじ伸一の詞は、中橋、三之町、江名子川、白川郷と名所こそちりばめているが、女の心情はただひたすら、待っていることを訴え続けるだけ。
 ほほう、こんな内向きの歌も、この人は手の内に入れたのだと、原田の変化に感じ入る。クラシック発声をやって、それ相応の自負を持ってのデビューから、声に頼り、やがてその声を抑える術を身につけた、原田の来し方を振り返る。この人なりの進境が見えて来る。

帰りたいなァ

帰りたいなァ

作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也
唄:清水博正

 この青年はきっと、楽曲の意味合い位置づけをピピッと感得し、それに対応する唱法を選び出す計器を、体内に持っているのだろう。
 今回の作品はひなびた望郷ソングで、味つけは民謡調。それを感知した清水は、それにふさわしい声の差し引き、節の作り方やころがし方、おまけにわずかだが、地方訛りまで動員してみせた。それが可能になるのは、幼いころから流行歌を聞き込んで、貯め込んだぼう大な〝歌のサンプル〟があってのことだろう。
 作曲の弦哲也は、そこを楽しんではいまいか?

虎落の里

虎落の里

作詞:もず唱平
作曲:叶 弦大
唄:成世昌平

 置いてけぼりをくった女が主人公。ふつうこの種の歌には「...だったのね」とか「...なのに」とかの原因探しや愚痴がつきものだ。それをやめたもず唱平は「訳は何?」「恋は何?」「夢は何?」「絆は何?」と、男への反問を並べ立てた。なかなかの手口と言えようか。

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阿修羅海峡

阿修羅海峡

作詞:喜多條忠
作曲:弦 哲也
唄:松原のぶえ

 ♪灯ともし頃の海峡を、哀しみ積んだ船がゆく...なんて名文句ふうが、各節の歌い出しに並ぶ。喜多條忠の細工は情緒的だ。弦哲也はむしろ、タイトルの大きさやインパクトを軸に曲をつけたみたい。詞と曲の技や力くらべに、松原は素直に添おうとした。

北国の赤い花

北国の赤い花

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:藤原 浩

 藤原はなかなかの美声の持ち主である
持って生まれた財産だが、その整い方が時として情を離れる不利も持つ。だとすれば余分な感情移入にこだわらず、徹底して声を生かし、聞かせる方が得策となる。作曲の水森英夫は、よくそのツボを心得ている気がする。

龍飛崎

龍飛崎

作詞:鈴木紀代
作曲:中村典正
唄:長保有紀

 長保チームはしばしば面白い試みをやる。今度は失恋、傷心の女の旅心の詞に
道中ものみたいな曲がついた。歌詞によっては三度笠でも出て来そうな明るさだ。「山あり海あり夕日あり、ないのはあなたの背中だけ...」このネアカさが、長保に似合うから妙だ。

泣き砂 海風

泣き砂 海風

作詞:喜多條忠
作曲:田尾将実
唄:城之内早苗

 詞が喜多條、曲が田尾、編曲が若草で、蛇足を加えれば制作が佐藤尚。ごく親しい仲間うちの4人が作った〝大作〟ふうで
10行の詞を2行ずつ5ブロックの段々重ね。力唱型向きの作品を城之内に「語らせて」意表を衝いた。それぞれの野心の、足並みが揃った結果か!

ずっとあなたが好きでした

ずっとあなたが好きでした

作詞:松井五郎
作曲:森 正明
唄:坂本冬美

 そうか、その手で来るのか...と合点する。大ヒットした『また君に...』の次の作品。あのイメージを壊さぬように...の狙いがはっきりしている。松井五郎の詞、森正明の曲、若草恵の編曲の足並みも揃って、さりげない情感の向こうに、冬美の絵姿がくっきりした。

約束

約束

作詞:田久保真見
作曲:田尾将実
唄:キム・ヨンジャ

 田尾将実の曲も手慣れて来た。3ブロックに分けて、うまく情感を積み上げる
恋人たちの久しぶりの再会、ヨンジャは抑制のきいた歌唱を選んだ。田久保真見の詞がそうさせたのだろうが、さりげなくてきれい。歌のおしまいの3行がいいから、聞き逃さないように。

横浜が泣いている

横浜が泣いている

作詞:健石 一
作曲:徳久広司
唄:チャン・ウンスク

 昔からいつも、韓国産ハスキーボイスが、スターの椅子の一つを占めて来た。
粘っこい手触りが歌にリアリティを持たせて、日本の歌手には出せぬ味を持つ。チャン・ウンスクもその何人めかの一人。建石一、徳久広司コンビが狙ったのも、淡いエキゾチシズムだ。

MC音楽センター


 島津亜矢の楽屋は、いつも笑顔の母親と愛犬が2匹、彼女の家の茶の間が、そのまま引っ越して来たような雰囲気がある。10月7日夕のNHKホール。会場入り口の外側には、テイチクの幹部社員のダークスーツが並び、中へ入れば西山千秋社長が小腰をかがめた。看板歌手のリサイタルを、社をあげて応援する空気が熱っぽい。
 関係者の、そんなものものしさと、楽屋のリラックスムードが好対照で、そんな二重構造が、島津をのびのびとさせ、開演5分前のベルが、彼女の〝その気〟にスイッチを入れる。緞帳が上がり、島津にスポットライトが当たれば、会場から沸き上がるのはおなじみの、
 「亜矢ちゃ~ん!」
 の怒号である。「関の弥太っぺ」を第一声に、いつもながらの熱演舞台が始まる。これが彼女が25年の年月をかけて作りあげた「島津亜矢らしさ」だ。
 ファンは安心して、彼女の世界へ導かれていく。「王将」「おさらば故郷さん」「与作」など先輩たちの曲も、亜矢流に噛みくだかれ、色づけがされている。「ロックンロール・ウィドウ」「ハナミズキ」「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」なんて曲が並んでも、さして驚きはしない。ミニのドレスで彼女が歌う姿は、近ごろではもう想定内のもの。そして歌謡浪曲「元禄花の兄弟・赤垣源蔵」が出て来れば、また男たちのだみ声が、
 「亜矢ちゃ~ん!」
 なのだ。
 「袴をはいた渡り鳥」を皮切りにオリジナルがズラリ。スクリーンに師匠の星野哲郎が登場して、愛情に満ちたコメントをする。彼の真情をそのまま歌にした「海で一生終わりたかった」や「海鳴りの詩」「波」は星野の詞に船村徹の曲。譜割りが細かい船村独特の難曲も、亜矢は危なげなくクリアした。
 元来、声そのものや歌い回す力が、大きなボリュームを持つ人だ。その艶や張りを彼女流の意欲が突き動かすから、聞く側の胸にかなり強い圧力が加わる。言ってみれば加圧式歌唱みたいなもので、そこから〝未完の大器〟という惹句が生まれていた。そんな流行歌手ぶりに加えて「名作歌謡劇場」シリーズがあり、懐メロ大盤振舞いの「BS日本のうた」シリーズがある。面白そうなものを片っ端からやって、全部が熱演型だ。僕は長いこと、しばしばボディブローをくらった心地になり、時にうんざりしながら彼女の魅力を堪能して来た。担当プロデューサーの千賀泰洋と顔を見合わせ、ただ笑っちゃうしかない体験を何回もしている。
 《ところが最近、少しは粋っぽくなって来た。歌の差し引きに緩急の気配が生まれていて、その分歌が丸みを帯びている》
 僕はNHKホールの客席の暗がりで、紙片にそんな感想をメモした。歌をめいっぱいに差し出すのではなく、ふっと〝のりしろ〟部分がまだ残っていそうに思わせる陰影や、奥行きを示し始めている。いつのころからか彼女は〝歌う突貫娘〟を抜け出した上に〝未完の大器〟の〝未完の〟の3文字を、返上しかけていはしないか? それこそ彼女が、歌手生活25年であらわにしはじめた進境ではないかしらん?
 会場に珍しい顔が居て、阿久悠の息子の深田太郎君。島津が阿久の遺作を集めてオリジナル・アルバム作りに入っているのが縁だが、
 「凄い人ですねえ」
 と感に耐えない表情を作った。人気役者藤十郎との恋に乱れるお梶を一人芝居と歌で展開した「名作歌謡劇場・お梶」のおどろおどろの舞台は、他に類を見ない演し物だから、驚くのも無理はなかった。
 阿久悠の記念館は明治大学が作ることで阿久夫人と基本合意、その準備に入っている。立ち話で
 「とりあえず宇佐美の家にあったゆかりの品は全部、明大の方へ運びました」
 とも聞いた。彼の大仕事が一つ、端緒についたと言うことになる。オフィストゥーワンに入り、阿久関連の仕事を始めた朝倉隆がそのそばで、仔細ありげな顔でコックリしていた。

週刊ミュージック・リポート

 
 久しぶりに廊下とんびをやった。10月1日のグリーンホール相模大野の楽屋。1階に由紀さおり、黛ジュン、石川さゆりが居り、2階に川中美幸、坂本冬美、岩崎宏美、藤原浩、中川晃教が居る。NHKBS2で12月19日に放送する「昭和の歌人たち」三木たかし特集のビデオ撮りだが、なかなかに見応え聞き応えのある顔ぶれ。僕は三木についてのコメント係りとして呼ばれたが、まず楽屋のドア一つずつを叩いては、
 「やあやあ、どうもどうも…」
 になった。
 川中は僕の役者稼業5年を通じての〝座長〟で、三木が亡くなった昨年5月11日、一座は名古屋御園座に居た。僕の宿舎に訃報が届いたのが午前7時すぎ。川中の胸中をおもんばかってその死を丸一日伏せた。ショーの最後にたまたま並んでいた曲が「女泣き砂日本海」「豊後水道」「遣らずの雨」と三木作品。それが歌えなくなる事態を避けたかった。
 「辛かったよね。あれからもう1年半近くにもなるんだ…」
 川中の眼は昨日のことを話すような色になる。
 石川はなぜか、阿久悠、三木、吉岡治と、大事な人が亡くなるごとにその枕辺で、僕と一緒になった。彼女にとっては宝物の作品を沢山書き相談にも乗ってくれた人々だ。
 「これからは誰を頼りに歌っていけばいいの? そんな思いがまだ、ずっと続いている…」
 心を託せる作詞家、作曲家が欲しいのだろう。
 2階の奥の方から「夜桜お七」を素で歌う坂本冬美の声が聞こえる。「ン?」の顔の僕に、鈴木マネジャーが「声ならし。このごろ必ずやるんです」とナゾ解きをした。めいっぱいの大声がしばらく続き、上気した顔で戻って来たのと、
 「お前さ、いつからそんなひたむきな歌手になったの?」
 「これやらないと安心できないのよ。声がガサガサな気がして。年かしらねえ」
 なんてやりとりになる。「夜桜お七」をプロデュース、彼女と一緒にひと山踏んだ仲間意識がある。当初、冒険作過ぎると反対の声ばかりだったのへ、
 「ヒットしなかったら坊主頭になる!」
 と、三木が大見得を切ったものだ。
 岩崎は10代最後の年に「思秋期」をもらった。詞と曲のみずみずしい感傷に、多感な年ごろの涙が止まらなかった思い出を持つ。三木はこの作品と「津軽海峡・冬景色」で、レコ大の作曲賞を受賞した。ピンク・レディーの連作を書いた都倉俊一と1票差の審査結果。三木の内輪の祝宴に現われた都倉が、悪びれずに握手を求めたシーンが、僕の眼には焼きついている。
 僕は三木の追跡取材者として長く、ファンや友人になり、プロデューサーで相談相手、ついには媒酌人まで務めた。彼の父母や兄の葬儀はずっと身辺に居て、最後は本人。その妹の黛だもの、
 「今日はありがとうございます」
 と、法要の親戚あいさつみたいになるのも無理はない。その楽屋には黛の年下の義姉にあたる三木夫人恵理子さんの笑顔もあった。
 司会の由紀は、彼女のデビュー作「夜明けのスキャット」第一報をでかでかと書き、親交が続いて昨年は、彼女の40周年記念コンサートの制作を手伝った。その相棒の宮本隆治は、フリーになる時にその決意と心境を後輩の記者に書かせてスポニチが「NHKから独立!」を第一報とした。最近は三木や吉岡の葬儀など不祝儀の司会を頼むことが多かったせいで、
 「そう言えば、本来業務で一緒になるのは初めてです!」
 と、僕の出番を冷やかされた。
 JASRACが主催するこのイベントの担当が若草恵で三木の弟分。演出の勝田昭はウイニング・ラン勝田社長の息子で、僕がNHKBSの「歌謡最前線」の司会を2年やった時の若い友人である。それやこれやの縁が山盛りだから、三木特集がしみじみといい番組にならぬはずはなかった。

週刊ミュージック・リポート

 
 キム・ヨンジャは21年ぶりに、韓国で新曲を出した。「10分以内に」というタイトルで、快適なリズムに乗って、歌い、踊る派手めの曲。これが今韓国で彼女が求められ、本人も納得ずくで自分をアピール出来る路線なのだろう。日本の歌手として踏ん張って22年、ヨンジャは二つの国にまたがって歌うことに、相応の自信と自負を持つ。9月26日の「キム・ヨンジャリサイタルin中野サンプラザ」に、それははっきりと現われていた。
 緞帳が上がると背景は南大門。女たちが七面太鼓を打ち鳴らす。左右に2個ずつ、客席に背を向けた前面に3個、合計7個の太鼓へ曲打ちみたいなバチ捌きだ。李東信の大笛がからんで「イ・サンのテーマ」から「アリラン・アラカルト」「イムジン江」と、歌うヨンジャもチョゴリ姿。随所に金順子韓舞楽芸術団の踊りが、カラフルに弾むようだ。ヨンジャがこうまで韓国色を前面に出すのを見るのは初めてだが、彼女は実にのびのびと、艶っぽくパワフルだ。
 ショーの二部の冒頭は、一転して日本。澤田勝秋の津軽三味線一本とせり合う「りんご追分」から「花笠音頭」「荒城の月」「ひばりの佐渡情話」「津軽のふるさと」などが続く。
 「また言われたよ、ヨンジャ、抜いてな…って」
 本人がもう耳にタコ…の周囲の注文に苦笑した。出世作「暗夜航路」で都はるみに言われた昔から、演歌は抑えめの歌唱を求められ続ける。彼女はそんな歌処理を「わさび味」と呼び、ガンガン歌い上げる彼女本来の唱法を「キムチ・パワー」と言って区別する。
 「疲れるのよ、抜いて、抑えて…はね。こうなっちゃう」
 と、体を〝くの字〟に曲げて客を笑わせた。
 しんみりしたのは、大切な人3人を失ったと話す景。「抑えて…」の吉岡治が忘れられないと「暗夜航路」を歌い「ひばりさんは歯の裏で言葉を操る」と言った三木たかしの言葉が、いまだに理解出来ないまま…と「天国の門」を歌い、石井好子には「あなたの歌はそのままシャンソンね」と認められたと「愛の讃歌」を歌った。僕にとっても特別の3人だったから、1曲ごとに胸を衝かれた。吉岡には「俺の骨を拾うのは彼…」と生前に名指しされていた。三木は媒酌人まで務めた仲で、石井はいつものハグの代わりに、病床で頬ずりをして別れた。亡くなる10日前のことだった――。
 韓国と日本の歌謡には「異根同花」の趣きがある。異なった歴史と文化を持つ二つの国だが、大衆歌謡にはなぜかひどく似通ったところがある。どちらが源流?の議論はさておき、人と作品のひんぱんな往来と交流で、お互いに強く影響し合ったのは確かだろう。ヨンジャの魅力には「同根異花」の趣きを感じる。キム・ヨンジャというしたたかな才能を母体に「わさび味」と「キムチ・パワー」の二つの花が咲いているのだ。
 《それもこの先、変わっていきそうだな…》
 僕は客席でそう思った。美空ひばりのヒット曲を歌う時、日本人の歌手はひばりの魅力を追いながら、独自の色を作ろうと苦心する。しかしヨンジャの場合はとことん彼女流、全力歌唱で、ひばりをどう超えるかが狙いだ。同じひばり作品を歌いながら、アプローチの仕方と仕上がりがまるで違うのは、体と心に流れている血の違いのせいかも知れない。
 そう思いながらヨンジャの歌に改めて耳を澄ますと、「わさび味」よりは「キムチ・パワー」寄りに「チーズ味」くらいの粘着力が目立った。日本的な「わさび味」を、ヨンジャの血が揺すり、熱くし、ふくらませはじめているのか?
 「Kポップはいっぱい来るけど、演歌は来ないネ」
 などと、昨今の日韓の音楽交流を眺めながら、ここでもまたヨンジャは負けん気をあらわにする。彼女は自分の歌を、日本に同化させることから始めたが、最近は韓国のよさを日本で再確認する気配を、強く感じる。僕はこの夜、「キムチ・パワー」全開放の彼女に、快いカタルシスを感じた。

週刊ミュージック・リポート


 「君はこれで、意を尽くしたことになるのか?」
 昔々、新聞記者の先輩から、よくこう聞かれた。記事一つ、書いた記者の思いがあれば、書かれた人の願いもあり、紙面に取り上げる意味合いもある。それやこれやを読む人にきちんと伝えられる扱いをしたか? という意味だ。昭和30年代、どこの社も同じような呼び名だったが、スポーツニッポン新聞社にも整理部というセクションがあった。集まった記事の取捨選択をし、扱いの大小を決め、担当するページにレイアウトして並べる。
 先輩の名は松尾利家さん。スポニチ芸能面の編集責任者だった。その部下に配属された僕は当時25才。アルバイトのボーヤから取り立てられ、校閲を2年やったあとの新天地だ。汗水たらしてやっとこさ、1ページ分をでっち上げ一息つくと、その大刷りを眺めながら、
 「意を尽くしたか?」
 である。1ページに大小とりまぜて20本前後の記事が載る。その一つ一つ、紙面の隅々にまで、そう聞かれても返答に困る。余白が足りなくなって、尻切れトンボにした記事もある。記事それぞれにつけた見出しだって、全部が全部言い切れていはしない――。
 ほろ苦く、そんなことを思い出したのは、9月22日昼、スポニチで開かれた物故社員追悼式でのこと。恒例のこの行事は、会社創立以来に亡くなった幹部や社員の霊に、その年度に亡くなった人々を加えて献花をする。この会社が今日あるのは、先人たちの努力と献身の賜…と、元気な0Bや現役が心を一つにする催しである。その物故者に今年、先輩の松尾さんも加わった。僕より一回り年上だから享年は86。酒仙と呼んでもいいくらいの呑ん兵衛で、あのころのブンヤのご多分にもれず、相当に無茶な暮らしをした半生ではあった。
 《しかし、参ったなあ、あれには…》
 「意を尽くしたか?」は含蓄がありすぎる。そんな問いに「はい!」と胸を張って答えられることなど滅多にあるものではない。だから何事も、中途半端なままで「投げるな!」「諦めるな!」「とことん誠意を!」と、四六時中お尻を叩かれる状態になる。「くそっ!」「これでもか!」「これでどうだ!」と全力投球しても、忸怩たるところは残る。「ああすればよかった」「こうすればよかった」の、悔いの行列が出来あがる。
 僕は昭和38年、28才で文化部へ異動、音楽担当記者になった。だから松尾さんの薫陶よろしきを得たのは5年間だったが、
 「意を尽くしたか?」
 は今日まで、僕の心の中の物差しになった。取材をする。記事を書く。人間関係が広がる。社の内外で、責任もだんだん重くなった。新聞づくりや歌づくり、芝居をやっても「意を尽くしたか?」の自問がついて回る。思うに任せない結果と、己れの未熟に突き当たる。
 「要するに愛だろ!愛!」
 なんて、コマーシャルのフレーズを口走りながら、僕は松尾さんをその後もずっと、時に背後霊、時に守護神みたいに感じ続けている。
 22日の追悼式には、松尾さんの甥と姪が出席した。僕は二人に、先輩の葬儀を欠席したことを詫びた。7月21日のその日、僕は里村龍一や岡千秋と一緒に、北海道・鹿部へ出かけるスケジュールが入っていた。星野哲郎の名代の旅で、星野と親交のある道場登氏の古稀の祝いをやるなど、北の漁師町の行事が幾つか。僕は一夜熟考して、松尾さんの葬儀に花を供え、函館行きの飛行機に乗った。これが松尾さんへ、僕の〝最後の意の尽くし方〟になったのだが、苦笑しながら師は、不肖の弟子を許してくれたかどうか?
 「お時間がある時で結構です。読んで頂いてお話でも伺えたら…」
 追悼式の日、初対面の松尾さんの姪が、おずおずとA4のコピー紙数枚を差し出した。何と彼女は春崎歩というペンネームの作詞家志願だった。
 「拝見しましょう」
 と数編の詞を預かりながら、僕はまた松尾さんのあの声をどこかから聞く心地がした。

週刊ミュージック・リポート

"なぞる昭和"が、遠くなる...。

 昭和テイストばやりである。世の中こんなふうで先が見えないせいか、文化各方面に回顧色が強い。 流行歌もご他聞にもれず、今月も氷川きよし、三門忠司ら、そんな色合いの作品が並んだ。
 カラオケ族を中心に、メーカーが購買層に見込んでいるのは高齢者である。彼や彼女たちは昭和の青春を生きて、個々の思い出にみんな昭和メロディーがからまっている。作詞・作曲する側も、昭和のよきころの体験者だ。
 歌う側と聞く側が、安心しきって浸ることのできる情感世界を共有する。そのもたれ合いの中で昭和がだんだん遠くなっていく――。

人生一度

人生一度

作詞:たかたかし
作曲:岡 千秋
唄:中村美律子

 歌手生活25周年の記念曲。といっても彼女が中村美律子を名乗って以後の年数。子供のころから盆踊りのやぐらにのぼり『河内音頭』を歌い、キャバレー回りの時期を持つから、芸歴はもう45周年――。
 その芸風にきっちり合わせた企画。浪曲調の聞かせどころをヤマ場に、大向こう受けの魅力を盛り込んだ。作曲は中村と滅法相性のいい岡千秋で「落葉みたいなアンアアアン...」あたりには、岡の語り口まで重なって聞こえる。中村の歌の差す手引く手とケレン味は、芸人さんの〝技〟であろうか!

雨降る波止場

雨降る波止場

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:三門忠司

 歌い出しの歌詞1行分を聞けば、作品の狙いや三門の魅力のツボ、聞く側の気分までがちゃんと決まる。判りやすさは流行歌の、一つの利点だ。
 仁井谷の詞に中村の曲の組み合わせからして、昭和のあのころの懐かしさを加味する歌づくり。二人は余分なことなどは考えず、ソツなく期待に応えた。あのころ風味は歌唱にもある。とかく歌を抱え込み、感情移入過多なのが近ごろの傾向。三門はそれを離れ、声の艶、独特の節で、メロ本位に歌い回した。結果生まれたのは、宮史郎を上品にしたような上方流か!

涙の河

涙の河

作詞:吉岡 治
作曲:弦 哲也
唄:島津悦子

 吉岡治の遺作のひとつ。それかあらぬか曲も歌も、粛然と吉岡の語り口に合わせた歌い出し。おきゃんな島津の生真面目な顔が浮かぶ。5行詞で、それが激するのはサビの一個所だけ。その後に「夜泣きしてます、思い出が」と結ぶ1行が、いかにも吉岡らしい。

はぐれ舟

はぐれ舟

作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:大川栄策

 とりたてて新鮮味はない。しかし、新しくなければ良くないという世界でもない。志賀大介がきっちりと、抑制の利いた詞を書いた。それに伊藤雪彦がベテランらしい曲のつけ方をし、大川がマイペースで歌った。3人の手練者の技が揃った、伝統的なタイプの佳作だ。

虹色のバイヨン

虹色のバイヨン

作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:氷川きよし

 「バイヨンねェ」
とニヤリとする。
いきなり戦後に戻った気分、生田恵子なんて歌手名を思い出す。それを今、氷川でやるのが制作陣の野心や快感なのか? ファン層は昭和の屈託を生きた熟女たち。それと氷川の屈託のなさが、うまくハモるのがミソだろう。

海の兄弟

海の兄弟

作詞:原 譲二
作曲:原 譲二
唄:北島三郎/鳥羽一郎

 やたら濃いめのデュエットである。北島があの節で歌い、鳥羽があの節で従う。声や息づかい、思い入れが1+1=3くらいの色を作る。2人が独自の節を持つから、ユニゾンの個所には微妙なズレが生じる。それもこれもこの作品の〝売り〟なのだろう。

女のしぐれ酒

女のしぐれ酒

作詞:たかたかし
作曲:新井利昌
唄:花咲ゆき美

 声を張るサビあたり、花咲の歌が聞くこちらへ、突っ込んで来る。声そのものに勢いがあるということだ。その分抑え気味の歌い出しとのバランスが、ラフに感じられる。それも本人の若さと、好意的に受けとめよう。新人だもの、妙にまとまるよりはずっといい。

倖せ夢さぐり

倖せ夢さぐり

作詞:たかたかし
作曲:水森英夫
唄:三代目コロムビア・ローズ

 男のふるさとへ誘われてついて行き「わたしの桜も咲きました」と、歌の主人公は何とも屈託がない。そんなたかたかしの詞に、水森英夫がおおらかに、メジャーの曲をつけた。惹句によれば〝ほのぼの倖せ演歌〟で、ローズの歌は詞、曲に、馬なりで行くしかないか。

三陸風みなと

三陸風みなと

作詞:坂口照幸
作曲:徳久広司
唄:山口ひろみ

 坂口照幸の詞が各コーラス歌い出しの2行に思いを込める。愚直に、坂口流の努力だ。それに徳久広司が浪曲っぽいメロをつけた。近ごろこの人も、いろいろとトライする。山口の歌は声にキャラがあって、小柄すっきり勝気ふう。それが一心に情の色を探した。

母

作詞:仁井谷俊也
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 流行歌の永遠のテーマのひとつ。男たちの永遠の思いもかかっていよう。そんな「母」を北島流にやるとこうなる。仁井谷俊也の詞の内容はごく一般的だが、北島の声と節がそれを独自のものにした。一文字タイトルのレパートリー、これで何曲めになるだろう?

小雪の酒場

小雪の酒場

作詞:三浦康照
作曲:叶 弦大
唄:冠 二郎

 1番の歌詞、歌い出し2行分でドキッとした。高野公男の『男の友情』を思い出したせいだ。叶弦大の曲も当然、そこを語りで処理したからなおさら。もっとも歌う冠には、それやこれやは関係なし。彼流の男の心情ものに仕立てたが、少しベタついたかな?

我が娘へ

我が娘へ

作詞:吉 幾三
作曲:吉 幾三
唄:山川 豊

 思いがけない色あいの作品だ。吉幾三の詞・曲が何だか彼のものらしくなく、山川の歌も少々、彼らしくない。山川の歌の軽みで吉の粘着力が薄れたか、そんな山川を吉が当て込んだからこういう曲になったのか。とにかく淡々と軽めで、妙に沁みる歌である。

MC音楽センター

 
 「なかなかいい。芝居が自然で、何もしないところが、いい」
 ベテラン劇作家小幡欣治の一言である。9月8日、初日をあけた東宝現代劇75人の会公演「喜劇・隣人戦争」に出た僕への指摘。こちらはただただ低頭するしかない。池袋の東京芸術劇場小ホールで、大汗も冷や汗も一ぺんにかいたあとの、ビアホール〝ライオン〟でのこと。
 小幡は菊田一夫ともども、東宝の演劇を支えて来た大物。相当なうるさ型であることは、丸山博一、横澤祐一ら75人の会幹部の接し方でもはっきりする。「隣人戦争」はその小幡が30年ほど前に書き、今回は丸山が演出した。けいこの時からしばしば、その名前と叱咤激励ぶりが語られていた。その人からの好意的発言である。
 《しかしなあ、何もしないからいいと言われても、何も出来ないのがこちらの現状だしなあ…》
 と、僕は内心たたらを踏む。隅田大造71才、若いころは建具屋をやり、今は東京近郊の建て売り住宅ずまい。婿は船乗りで不在がち、その嫁と孫と暮らして、なぜか小学校へ通う、向学心の持ち主だ。そんな役を初演の時は宮口精二がやった。独特の芸風で知られた性格俳優だから僕は、役を貰った時からプレッシャーのかたまりを抱え込む。
 台本は書き込みだらけになって、ひとりでに演出家丸山語録が出来あがる。
 「言葉じゃなくて、活字のセリフが聞こえて来るヨ」
 「セリフの中のキイワードを捜して! これだけはきちんと伝えなければいけない言葉が、必ずあるんだ」
 「テンポは早めでいく。客はテレビで慣れてるから」
 「神は細部に宿る。掘り下げ方が浅いか深いかは、芝居を一目見れば判るヨ」
 「やり過ぎはやらな過ぎより悪い。アンサンブルを壊すからね」
 「いろいろ考え尽くし、やり尽くして、結局台本通りに戻る。書いてある通りにやればいいのさ」
 8月いっぱい、錦糸町の隅田パークスタジオのけいこ場で、僕の耳はダンボになりっ放し、することなすこと試行錯誤になる。僕へのダメはあまり出ない。馬なりで行けと言うことか、出来ないことは言っても仕方がないということか。心中は千々に乱れながら、共演する人々への演出家の注文を、自分への戒めに置きかえて噛みくだくしかない。しかし、そんなヒリヒリした時間が、とても嬉しくてとても楽しい。
 75人の会から声がかかったのは今回が2回目。昨年は菊田一夫作、横澤祐一潤色・演出の「浅草瓢箪池」で、踊り子のパトロン大原という、とてつもないもうけ役を貰った。今年は制作に回ったその横澤に見守られながら、またしても風変わりなもうけ役である。出て来るだけ、ちょこっとしゃべるだけで、ちゃんと受けるように書かれている台本。だから「自然に…」なのだが、どうやれば自然になるのか?は永遠のテーマだ。
 頭がい骨の裏側がジンジン熱を帯びて、外側へあふれそうになる。これが芝居をやり終えた時の、得も言われぬ快感である。アドレナリンが湧きまくるのか、喜んだ血が駆け回るのか、見当がつかないが、これが必ずやって来る。丸山語録の「悪魔は二日目にやって来る」を実感するくらい二日目には、セリフを噛み、流れが淀み、相手役に迷惑をかけても、苦渋と裏表でちゃんとその快感は来る。これだから芝居はやめられない。
 けいこ1カ月、本番が5日間7公演、夢のような日々の中で相当に疲れた。あれはきっと隅田大造と小西良太郎の虚実の世界を往復して、二人分を呼吸してみようなどと、不逞な了見を抱え込んだせいだろう。そう思いながら今年も温かく優しく、仲間に入れてくれた劇団の人々の顔を思い返す。12日に芝居が終わっても、それやこれやを引きずりながら翌13日は、浅草へ出かけた。村田英雄生誕80年を期して、山田太郎が「花と竜」を歌う会だが、ここから僕は、歌社会に舞い戻った。
 

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第105回


 言ってみればプライベート・ソング、一点もののマイソングだろうが、その人のためだけの歌というのが、稀にある。持ち主にはこんな嬉しいものはなかろうが、北海道・鹿部の道場登氏もその一人。この夏古稀を迎えたお祝いに『鹿部コキコキ節』をプレゼントされた。作詞星野哲郎、作曲と歌が岡千秋で伊戸のりおが編曲、私家版CDに収められた豪華版だ。
♪ゴリラ寝ている駒ヶ岳 鴎すいすい噴火湾…
 というのが鹿部のロケーション。北海道にゴリラが住むはずもなく、その横顔みたいな稜線の山を背負う漁師町で、前面に広がる噴火湾は、昆布や帆立の養殖も盛んだ。函館から川汲峠を越え、湾岸沿いに小一時間北上したあたりにあって、人口約5千人…。
♪ねじり鉢巻たらこの親父 グルメ泣かせてこりゃまた70年…
 と歌われている道場氏は、この町の道場水産の社長。たらこ、明太子、いくらに帆立…の鮮度と味が滅法よくて、“たらこの親父”はその異名だ。もう一つ本人が名乗るのが、星野哲郎北海道後援会会長。星野の仕事と人柄にべた惚れで「めんこい人だなァ」が口癖である。
 毎年夏に星野はこの町を訪ね、定置網を引き、漁師たちとゴルフや酒に興じて、もうとうに20年を過ぎた。そんな交歓の中で彼は“海の詩人”のおさらいをする。瀬戸内海の周防大島で生まれ、若いころ船乗りだった星野が“第二のふるさと”と呼ぶのがここ。陽灼け潮灼けの笑顔に深いシワを刻み、少年みたいな眼を輝やかす道場氏に、星野もまたぞっこんなのだ。
 しかし星野は加齢による体調不良で、ここ2、3年は鹿部にご無沙汰。代わりに以前から助さん格さんふうにお供をして来た岡千秋、里村龍一と僕が、名代を勤めている。今年も7月21日から23日までの2泊3日、釣りをやりゴルフ・コンペに出場、ご町内ふうカラオケ大会の審査でしゃれのめし、日ごと夜ごとにとれとれの海の幸とうまい酒、土地の人情を堪能した。
 『鹿部コキコキ節』は、そんな宴の終盤にサプライズで登場した。カラオケ大会の閉会の辞にかかる司会者からマイクを強奪「古稀祝い」を宣言する東京勢。里村がお得意の日本むかしばなし・残酷編で受けたあとに乾杯の音頭をとる。一体何が始まるのか、完全に意表を衝かれた善男善女の前で、岡のあの声が『鹿部コキコキ節』を張りあげた。
♪ボスはあんただ たらこの親父 シワに年輪 こりゃまた70年…
 音頭ものの乗りの良さに大喜びした道場氏は、尚子夫人と踊り出し、シャイな長男は大いにテレ、純な次男は感激のあまり泣き出す一夜になった。
 それもこれも、海の詩人星野と北の漁師たちの長く深い交情があってこその出来事。集まった人々みんなが、人の縁の嬉しい不思議に胸を熱くした。『鹿部コキコキ節』は道場氏の人徳をにじませながら、きっと長くこの町だけで歌われ続けることになるだろう。

月刊ソングブック
お芝居明けの僕は“音楽評判家”に逆もどり。13日浅草の山田太郎の会を皮切りに、堀内孝雄と対談、ゆうせん昭和チャンネルの録音、大月みやこ、キム・ヨンジャ、山川豊らのコンサートを駆け回り、もず唱平主宰の“ミュージシャングランプリOSAKA”の審査もやる。74才の誕生日を目前に、仕事に恵まれる日々。喜々としています。 ミュージシャングランプリOSAKA
お芝居漬けが一夜明けたら「嘘だろ!」という涼しさで葉山は秋。眼下の海に赤トンボの群れが舞い、対岸に富士山が姿を現わす。朝から午後までは、海の青に染まったように濃紺、夕焼けの茜を背負うと墨色に、おなじみの山容が趣きを変える。それがパノラマ展開するリビングには「ああちゃん」「ふうちゃん」の兄妹猫が寝そべって、窓外間近に飛ぶトンビを眺めている。早くも陽だまり大好きの姿勢だ。 葉山通信9/20_01 葉山通信9/20_02 葉山通信9/20_03
8月のけいこは錦糸町、9月8日から12日の上演は池袋の安ホテル。東宝現代劇75人の会「喜劇・隣人戦争」は、スーパー酷暑の中で頑張った。5日間7公演、僕の役・隅田大造71才、なぜか小学校4年に通学中・・・は、演出の丸山博一氏からは“まずまず”の笑顔、作者で大ベテランの劇作家小幡欣治氏からは「よかったよ」の一言をゲット。 喜劇・隣人戦争01 喜劇・隣人戦争02 喜劇・隣人戦争03 喜劇・隣人戦争04  

 
 熟女たちのカラオケ定番の曲に「北窓」がある。歌っている森サカエは近ごろ、ベテランのジャズシンガーよりも、とても上手な歌謡曲歌いと認知されている。別にその辺にこだわることもあるまい。歌手生活50周年、間違いなくとうに還暦は超えているキャリアが、チャートに名を連ねるのは、ご同慶のいたりではないか!
 ?ラ・モナムール、あなただけを、恋したい、もういちど…
 という決まりのフレーズが、彼女たちの心をゆすぶるシャンソン・テイスト。詞は水木れいじで、曲は船村徹である。この作品、世に出たのは2000年のことで10年も前。それが熟女たちの掘り出しものソングになった。いい歌はいつか必ず陽の目を見る典型的なケースか。
 《ことのついでに、アレも掘り出して欲しいものだ…》
 と、僕は森の持ち歌のもう一つを思い起こす。もう何度もあちこちに書いたから「またか!」と思われる向きもあろうが「空(くう)」というその作品は、文句なしの傑作だ。
 ?形あるものはみな、滅ぶ日のためにある、色即是空 空即是色 ひとり旅をゆく…
 と歌い納める詞は星野哲郎、曲はこれも船村で、諦観の厳しさと穏やかさが、宗教や哲学にも通じそう。
 「売れる、売れない」を超越出来た両ベテランだからこそ到達した世界だろうが、抑制の利いた森の歌唱もきちんと役割を果たしている。発表されたのは1995年だから15年前。もうお気づきだろうが森は、歌手生活40周年に「空」45周年に「北窓」を貰って、節目の5年ごとに船村メロディーを自分の財産にした勘定になる。
 9月4日夜、僕はなかのZEROホールでこの2曲を立て続けにナマで聞いた。森の50周年記念コンサートでのことで「空」を知って以来、森のナマ歌の追っかけになった僕は、心身ともに打ちふるえる感興にひたったものだ。50周年の一発勝負のイベント。彼女と親交のある僕が立ち会わぬわけにはいかない。この日も実は東宝現代劇75人の会の9月公演「喜劇・隣人戦争」のけいこが大詰めだったのだが、断固として中退、錦糸町のスタジオから中野へひた走った。
 もっともそんな恩着せがましさはおくびにも出さないが、無理を通せば大きな収穫もあるものだ。森は三たびの5年めで、また船村作品を記念曲にしていた。詞が荒木とよひさに代わって「落花の海」で、
 ?ナックヮヌン、ウルジ、アヌンダ、落ちる花は泣かない…
 と、韓国語まじりの決めのフレーズがある。
 玄界灘に身を投げた二人の男女を花にたとえて、黒い海、白い月、幾千里漂う運命を歌う。恋人たちのひととなりや死を選ぶ経緯などは一切なしの詞を、船村メロディーが心ゆする旋律に乗せた。その濃いめの抒情性を、森は余分な感情移入を避け、叙事詩的に歌った。結果生まれたのは、ものものしいくらいに深い悲痛さで、これも人間の諦観に行きつく。
 「ポップスを歌う時のこの人とは、全く違う歌い方になりますねえ」
 隣の席の田辺靖雄が感じ入った口調になる。そう言えばこの夜の森の選曲は、映画音楽を軸に、ジャズやポップスと、お得意路線が主。おおアメリカ! おおハリウッド、おお、パワフルだった昭和!の明るさにあふれていた。それが一転、オリジナルではとても東洋的な〝静〟の世界に行きつくのは、森のもう一つの内面なのか、船村メロディーの含蓄なのか?
 森の船村3作品にしびれたところへ、当の船村が特別ゲストとして登場、しかも知る人ぞ知る名曲「希望(のぞみ)」を歌ったから、会場は水を打った静まり方になった。
 ?ここから出たら旅に行きたい、坊やを連れて汽車に乗りたい…
 女囚の心情を歌って、いつどこで聞いても、その詞と曲の哀切に必ず大勢が泣くステージである。僕の「聴く果報」はこの夜、尽きることがなかった。

週刊ミュージック・リポート


 「〝細部に神宿る〟って言うじゃないか。あれ、本当だと思うな」
 演出の丸山博一がひょいとそんなことを言う。
 《ン?》
 と僕はたたらを踏む。東宝現代劇75人の会の「喜劇・隣人戦争」のけいこ場でのこと。
 《これだから、油断も隙もならねえ。こんな含蓄のあるフレーズが、冗談めかして出て来るなんて!》
 そう思いながら僕は、台本の隅にそれを書き込む。
 役づくりについてだが、役者が与えられた役を、どこまで掘り下げるかが肝要だと言う話。脚本に書かれていること以外を、詳細に考え出して組み立てる。演じる役の生まれや育ち、来し方行く末、生き方考え方などを、履歴書こみ。僕が貰ったのは隅田大造71才、近郊の建て売り住宅6棟の一つに住み、向学心に燃えて小学校の4年生に加わる。若いころ建て具屋をやった名残りで、頭髪は角刈り…。
 脚本から読み取れるそんな要素は単なる入り口。そこから入って、人柄やら健康状態やら人間関係の中での位置づけやら…と、思いつくこと全部に思いをめぐらす。嫁と孫娘は登場するが婿は船員で姿は見せない。大体その男は大造の、息子なのか?婿なのか? けいこの合い間に嫁役の下山田ひろのと情報交換をした。驚いたことに彼女は、建て売り6棟の配置と隣接する寺の境内まで書き込んだ地図を作っていた。その右奥に踏切りがあって私鉄が走るらしい。
 「ごく些細なことまで、ありったけ考えて、背負い込むといい。舞台に立った時に、それが存在感を作るんだ」
 と、丸山は言葉をついだ。他人が見たら馬鹿々々しいことまで、ディテールを積み重ねた役者と手を抜いた役者とは、一目で見分けられるとか。
 《おお、怖わッ!》
 新聞づくりや歌づくりの経験と睨み合わせれば、思い当たる節もあるから、怠け者の僕は大いに怯えた。
 「神様がね、突然降りて来る瞬間があるのよ」
 けいこ帰りの横須賀線車中でふっと、歌うような口調になった女優は古川けい。
 《また神様だ!》
 僕は秘かに居ずまいを正した。
 彼女に言わせれば、役づくりには万全を期した。けいこも身を入れてしっかりやった。セリフ一つ一つのニュアンスも、さまざまな要件を勘案してしぼり込んだ。それなのにまだどこかにもやもやと、得体の知れない迷いが残る。しかし、ここでたじろぐ訳にはいかない。迷いや不安をかかえたまま、仕事に邁進する。そんなある日ある時、そのもやもやが突然雲散霧消する。あっ、そうなんだ、それってこういうことなんだ!
 「その時はね、全身から鱗がざあ~っと、そげ落ちるみたいな快感があるのよ。私は、あれを感じたい一心で、お芝居をしているのかも知れないわ。じゃ、また明日ね!」
 艶然の笑みを残して、彼女は横浜で下車した。
 《神様なァ…》
 僕はその後、逗子までの約30分、阿久悠や三木たかしを思い出した。阿久は1996年秋に、実働20日で100編の歌謡詞を書いた。いうところの〝書き下ろし歌謡曲〟である。11月14日の深夜から翌朝までに一気に6編を作り「この神がかり的勢いは暗示的ですらある」と日記に書く。
 「ペン先に神様が降りて来たようなもんでさ…」
 後に阿久は、そう言ってテレ笑いをしたものだ。
 三木たかしは最後の傑作になった「凍て鶴」を書いたあと、
 「空から音が降って来る。今なら、どんな曲でも書けそうです」
 と伝えて来た。その時彼は、神の歌声を聞いたのかも知れない。
 さて、僕が出演する東宝現代劇75人の会の「喜劇・隣人戦争」だが、池袋の東京芸術劇場小ホール2で、9月8日から12日まで、5日間7回の公演。その間に果たして僕は、噂の神様に出会えるのだろうか? そんなに甘いものではないことは、ちゃんと判っているつもりではいるのだが…。

週刊ミュージック・リポート

 
 中村美律子が折にふれて寄進している盲導犬は、この秋で33頭になる。選ばれた犬の育成費を負担しているらしいのだが、「壺坂情話」を出した平成5年に思い立ったそうだから、もう17年続いている勘定。歌手生活25周年を迎えた今年で、実は31頭めだったのだが、急に2頭分増えた。彼女の記念曲「人生一度」を書いた作詞のたかたかしと作曲の岡千秋が趣旨に賛同したせいで、9月中旬には三人揃い踏みで、大阪の橋下知事に届けるそうな。
 「災難って奴はいつどこで降りかかるか、判らないもんだねえ」
 と冷やかしたら、
 「いやいや、俺たちも何とかお役に立ちたいと思ってね」
 と、たかも岡も殊勝な笑顔とコメントだった。8月25日夜の明治記念館。中村の所属事務所ゴールデンミュージック・プロモーション恒例の納涼祭パーティーの席だ。中村の「人生一度」がこの日発売なのに合わせて「25周年おめでとう」がメインテーマになったから、たかと岡はいわば主賓である。
 「いい歌でしょ。これは絶対に当たる。その勢いで年末勝負ですよ!」
 社長の市村義文氏が力みかえる。この人、こうと決めたらまっしぐらに突進するタイプ。昔々、森昌子のマネジャーだった当時から変わらない。やんちゃな言動と血液型Aの気配りが面白く、頼もしくもあって親交が続いているが、この夜のこのコメントも、「中村を今年も紅白歌合戦へ是非!」の公言だったりして憎めない。
 中村はこの事務所へ移籍して4年めである。20年間大阪の事務所で頑張り、一念発起して鞍替えした。大阪ローカルの人気者が、メジャーデビューを果たした昭和61年が、彼女の最初の箱根越え。今度はそれに次ぐ2度目の乾坤一擲だったが、万事うまく行った。念願の紅白キップも手に入れたし、同時に移籍したキングレコードでも、そこそこの居場所を確保している。
 「恵まれているね」
 と声をかけたら、
 「しあわせ過ぎて、恐いくらい…」
 と、打って返す答えが来る。その恵まれ方はもうひとつあって、同じ事務所の仲間たちの協力ぶり。香田晋が会場入り口にあいさつに立てば、松居直美、島崎和歌子は司会の手伝いをする。年齢やキャリアはともかく、三人ともこの事務所では先輩である。それがこだわらない笑顔で挙党態勢!を組むあたり見上げたものだ。
 市村社長は、
 「この世界の長男は田邊昭知(田邊エージェンシー社長)次男は周防郁雄(バーニングプロダクション社長)で三男が俺…」
 が口癖だが、その兄貴!?たちをはじめ、音楽事業者協会のお歴々が来賓の席にズラリと並んだ。それに呼応するように、パーティーの客も音楽業界の紳士録が出来そうな顔ぶれ。ここのところ低迷続きで、お祭り行事など途絶えっぱなしなのがこの業界で、
 「これはもう、事件ですね」
 と、若い後輩記者が眼を丸くしていた。
 《そういえば…》
 と思い返すのは〝流行歌黄金時代〟の1970年代。歌謡曲、演歌にフォークもGSもポップスも…と何でもありの賑いを反映して、業界はパーティーごっこでパワーを競ったものだ。この夜の主催者市村社長も参加した紳士たちも、ひととき往時を再現した気分だったかも知れない。
 「そのためにウチの社長は…」
 と、松居がきつめのジョークを一発。市村氏の昼食は毎日めざしとメロンパンと牛乳だけ。ツメに火をともす倹約で、毎年のこの会に備えるのだそうな。
 《そういえば…》
 と僕はもう一度しつこい。そっと調べたところ盲導犬1頭の育成費は150万円ちょっと。だからたかと岡に〝災難〟だろうともちかけたのだが、それへの中村の答えも罪がなかった。
 「私が頑張ってこの曲をヒットさせるでしょ。先生たちの印税がその分グンと増えるでしょ。ねえ、協力して下さいよ!」

週刊ミュージック・リポート

 
 日々、東京スカイツリーという奴を見上げて暮らしている。逗子から錦糸町までJRで一直線。駅の北口から業平橋方向へ15分ほど歩く。隅田パークスタジオは春日通りの横川1丁目信号そばにあって、例のタワーが眼の前だ。ああいうものは遠くから見ると姿形もすっきりとし、東京タワーをしのぐという高さにも納得がいきそう。それを間近で見上げると、周辺のビルの間にヌッと、巨大な銀色ずん胴が、何やら特撮の1シーンみたいなまがまがしさである。
 「そう言えば、魚のうろこなんか連想しそうね」
 「敷地が狭いせいで、裾広がりのシルエットには出来なかったみたいだよ」
 口々の感想は先輩の役者衆である。東宝現代劇75人の会のメンバーで、9月8日から池袋の東京芸術劇場小ホールでやる「喜劇隣人戦争」(作小幡欣治、演出丸山博一)のけいこ中。僕は昨年の「浅草瓢箪池」に出して貰って、今回が二度めのお声掛かりだ。
 午後1時けいこ開始へ向けて、炎天下を歩く。急ぎ足だとサウナ入浴状態になるから、日陰から日陰へ歩調はゆっくりめ。途中、太田道灌が創設したという法恩寺には「9月1日、思い出のすいとん会」の看板があって「関東大震災記念」のただし書きつき。
 《この辺もきっと大変だったんだろうな》
 と、あたりを見回せば、○○熱器、○○ハンダ、○○シャフト、○○製作所など、小ぶりの工場の看板が飛び飛びで、三味線の製造販売店や江戸切子や組み紐の店などが混じる。
 隅田パークスタジオは、そんな下町の、かつての工場地帯の中にある。巨大な倉庫群を大小いくつものスタジオに棟分けした施設だが、門柱の表示は「鈴木興産株式会社」と、いかにもいかにも…の書体だったりする。帝劇地下のローズルームで読み合わせを10日間やって、僕らは12日からそこの第3スタジオで立ちげいこに入った。8月15日は終戦記念日。
 「この辺は焼け野原になったんだろうね」
 などと、似た年かっこうの役者さんたちとしみじみしたあとの17日、突然、時ならぬ同窓会ムードが出現した。
 「やあ居た居た! 統領元気だった?」
 どかどか現われたのは、綿引大介、小森薫、小坂正道、眞乃ゆりあ、紫ともなんて面々。この日から第2スタジオでけいこに入った名古屋御園座9月公演、松平健主演の「忠臣蔵」の出演者で、みんな川中美幸公演で一緒になったお仲間だ。
 「それではまず、暑気払いを!」
 となるのは、いつもの乗り。錦糸町駅近くの「一濱」なんて飲み屋に飛び込み、オダをあげていたら、
 「いやあ、久しぶりだねえ」
 と合流したのが何と、著名な殺陣師の菅原俊夫氏。もうひとつ別の第1スタジオでけいこ中の大阪松竹座9月公演「花の武将 前田慶次」の立ち回りを指揮しているという。その後ろでニコニコするのは、松平組の真砂皓太に西山清孝、田井克幸。菅原氏は美空ひばりと長く親交のあった人で、僕も最近手ほどきを受けて木刀を振った。田井は去年の5月御園座で1カ月、彼の炊き出しの昼飯にありついたから、一宿一飯の恩義!?がある。
 ところで肝心の「喜劇隣人戦争」だが、昭和50年過ぎ、東京郊外に出来た6軒の建て売り住宅が舞台。下山田ひろの、梅原妙美、田嶋佳子、高橋志麻子、松村朋子、菅野園子が扮する6人の主婦たちの葛藤と、地元主婦である竹内幸子、新井みよ子との攻防が、丁々発止の〝おんなの戦い〟を展開する。
 僕の役は下山田の舅・隅田大造71才、もと建具屋の職人で、なぜか小学校に通い、子役の4年生と一緒に勉学の日々を謳歌する。扮装も言動もやたらにうけそうな〝もうけ役〟を貰って、それをきちんと至極真面目にやりおわせるかどうかが課題だ。
 ゴシップを一個だけ書けば、僕は髪を職人らしい角刈りにカットすることになった。芝居が終わった夏から秋へ、歌社会の皆様には意表を衝いた〝棟梁カット〟でお目もじとなる。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第104回

 司会・荒木おさむの曲紹介は、相変わらずの名調子。それに背中を押されて颯爽と…とばかり、登場するはずの彼女だったが、違った。案に相違の森サカエは、舞台中央へ足を引きずりながら、ソロリソロリである。6月12日夜、グランドプリンスホテル赤坂のクリスタルパレス。作曲家船村徹の恒例の誕生パーティーでのことだ。
 ≪ほらご覧よ、あんたを久しぶりに見る人は、もうそんな年になったかと、勘違いするじゃないか…≫
 主賓船村の隣りの席で、僕は身内ふうに気をもむ。本当のところは彼女、足の小指を骨折していた。家の近所を履き慣れた駒下駄でチャカチャカ歩いていて、ひょいと足を踏み違えたらしい。大事な仕事を前にして、何たる不心得か!
 しかしさすがに、歌はしっかりと彼女流、独特の魅力で会場を圧した。新曲の『落花の海』だが、森の歌手生活50周年を記念して荒木とよひさが作詞、船村徹が作曲した。
♪幾千里漂う花よ 玄海灘の海の果てよ(中略)死ぬだけの ああ…運命なら 落ちる花は泣かない…
 と、悲劇の男女の姿を、とても簡潔に荒木が書いた。余分な説明はスパッと削ぎ落として、あとは作曲者と歌手にお任せ!という姿勢は、ベテラン船村への敬意だろうか?
 委細承知…の船村は、それをゆったり大きめな曲でゆすった。婉曲な船村メロディーが哀歓を濃いめにする。
 いわば叙情的な作品である。それを森は叙事的に歌った。折目正しく、直線的な感情表現、思いのたけをグッと抑えめに、心持ち醒めた手ざわりの歌唱だ。サビのフレーズが韓国語で、
♪ナックワンヌン ウルジ アヌンダ…
 これが主人公の嘆きを呪文みたいに響かせて、不思議な効果をあげた。
 森には星野哲郎作詞、船村作曲の『空(くう)』という知る人ぞ知る名曲がある。もはや哲学や宗教に通じそうな諦観を歌い切っていて、僕はこれを聞く度に粛然とする。『北窓』は水木れいじ作詞、船村作曲で、シャンソンテイストのいい作品。カラオケ上級者の愛唱歌に育ち、日本アマチュア歌謡祭でも二人が歌った。
 今や伝説のジャズシンガーである。戦後この方の、その世界の開拓者の一人だ。そんなスターと僕は、いつのころからか「ダーリン!」と呼び合う友だちになっている。キイパーソンは船村徹。彼女は古くから船村ファミリーの一員で、僕は彼を師匠と仰ぐことご存知のとおり。僕が船村を突撃取材し、知遇を得るきっかけになったのは、記者になりたての昭和38年夏だから、僕の雑文屋ぐらしは今48周年。森の2年後輩という勘定になる。
 何とも気っぷのいい、昔気質の歌巧者である。素顔はと言えば冒頭のオハナシの通り、少し粗忽で気のいい下町のおばさんふう。その森が9月4日、なかのZEROホールで50周年記念コンサートを開く。ジャズもアメリカンポップスも、映画音楽もオリジナルも、ここを先途!と昭和を歌い尽くすことになるだろう。かなりの酒豪だが、大仕事の前には必ず、断酒して心身をしぼり込む人、もう転んだりすることはあるまい。

月刊ソングブック

"金太郎アメ"を再考したい

 「歌がみんな金太郎アメになってしまう」と、吉岡治は生前、ずいぶん口惜しがった。カラオケ族用の"覚えやすく、歌いやすい"類似企画の蔓延、それが20余年も続いた。だから、業界20年選手にはもはや、それが当たり前のことになっている気配さえある。
 需要があれば応じるのが、流行もの商売である。しかし、おなじみのオハナシを常套句つなぎ合わせてまとめあげ、結果、誰が書いても同じ...というのは少々情けない。せめて、書いた人の色なり匂いくらいは、感じさせてほしいと思うのだが...。

新宿たずね人

新宿たずね人

作詞:石原信一
作曲:徳久広司
唄:多岐川舞子

 歌の舞台を仮に、新宿ゴールデン街とすると、時計が止まったままの歳月は40年近いかも知れない。若者世界が騒然としていた1970年前後を指すが、往時を思い返す感傷が、詞のところどころに匂う。作詞者・石原信一は、そんな団塊の世代の一人だ。
 ふと、そういう裏読みがしたくなるギター流し歌仕立て。昔からよくあるネオン街女心ソングだが、徳久広司の曲は多岐川の歌を、声も思いのたけも細めにすぼめさせた。結果生まれたのは人肌のぬくもりで、多岐川はあのころ風の、ちょいといい女になった。

片恋しぐれ

片恋しぐれ

作詞:久仁京介
作曲:山崎剛昭
唄:鏡 五郎

 

 殿さまキングス時代の宮路オサムや、ぴんからトリオの宮史郎なんかを連想した。両手を広げて大向こう受けを決めるド演歌の一節。感情移入オーバーめで、歌う語尾がかなりクサイ。昔はあっけらかんと、こういう泥臭さが喝采を浴びたものだ。
 鏡が「こんなもんでどうかな?」と、演じてみせた一曲。ビブラートも、まき舌もそれ風に、彼なりの口跡を作った。器用なものだ...と感じ入りながら、これも昨今の歌状況を突破したい一心の、手だての一つかと合点する。しかし、よくやるねェあんたも。

哀愁運河

哀愁運河

作詞:かず 翼
作曲:弦 哲也
唄:山本譲二

 昔々、山本の弾き語りを、高樹町のスナックで聞いたことがある。無名だった当時みたいに、淡々とこの人らしいタッチのムード歌謡。妙にねばるよりはさらっと男らしく...の演出もあろうが、小樽、ガス灯、哀愁運河...、弦哲也の曲との相性のよさが生まれた。

やすらぎの酒場

やすらぎの酒場

作詞:麻 こよみ
作曲:叶 弦大
唄:岩出和也

 ところどころでクラリネットが鳴ってこれもネオン街ムード歌謡。麻こよみの詞が「今夜はなぜか帰りたくない。冷たい部屋に」と主人公の男を女々しくしたが、叶弦大の曲は委細かまわず大きめのツーハーフ。岩出の歌を〝その気〟にさせた。

ふたり宿

ふたり宿

作詞:仁井谷俊也
作曲:水森英夫
唄:水沢明美

 老妻からだんなへ、しみじみとした語りかけが仁井谷俊也の詞。娘を嫁に出してホッとひと息の温泉宿ものだ。それを水森が、山あいへ「オ~イ!」みたいな曲にした。感情移入切々の水沢の歌が、語尾で妙にのびのびするのは、それとの兼ね合いのせいだ。

こころ川

こころ川

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:小桜舞子

 声の響きを大切に、歌唱は生真面目に譜面通り。歌表現も実に素直に定石通りだが、この「素直に」が案外くせ者である。中村典正の曲の歌い納め「あなたと生きていいですか...」で声を張れば、前面にいじらしさが強めに出る。これにファンはグッと来るのだろう。

みちのく鯉次郎

みちのく鯉次郎

作詞:仁井谷俊也
作曲:叶 弦大
唄:香田 晋

 磐梯山、猪苗代湖、喜多方、新相馬、月山、鳴子、最上川と、よくもまあのディテールごっこである。それを歌い込んだ股旅ものを、香田が男くさく歌う。船村徹門下で何でも来い!の広角歌手。キイが低めに思えるが、これはカラオケファン対策だろうか?

おんなの浮世絵

おんなの浮世絵

作詞:水木れいじ
作曲:徳久広司
唄:野中彩央里

 浮世絵の魅惑を言葉にすると、水木れいじの場合はこうなるのだろう。艶やかイメージの言葉を並べて満艦飾。いわば言葉のパッチワークだ。それに徳久広司が曲をつけ、野中が歌った。惹句がどうしたって〝情熱的〟とか〝円熟味〟とかになるはずである。

波止場雨情

波止場雨情

作詞:たきのえいじ
作曲:なかむら洋平
唄:西村亜希子

 風の中を行く船、桟橋で身をもむ女、波止場はしぐれて、待合室には人影も絶えた。定石通りの船ものだが、このテの作品はこれまでに一体、何百曲出ているだろう? それでもおめず臆せず作り続けるのがこの世界。西村の歌は情感いっぱいいっぱい...を聞かせる。

ひぐらしの坂

ひぐらしの坂

作詞:松井五郎
作曲:都志見 隆
唄:オルリコ

 2行ずつ5ブロック10行分、母への思いを語る松井五郎の詞が、続く4行のサビで母子の絆を訴える。作・編曲は都志見隆、ポップス側からの歌謡曲へのトライ。ドラマチックさを珍重しよう。オルリコの歌声はテレサテン似だが、それよりもきれいでピュアだ。

MC音楽センター

 
 深夜帰宅する。受信したFAX数枚の中に、また訃報が混じっていた。亡くなったのはプランニング・インターナショナルの田村廣治会長で、8月3日、入院中の病院で心不全ため死去、69才。留守電の数は電光数字で12、きっと彼の死に驚いた友人たちからのものが多いだろう。
 《くそっ! ここ2、3日、妙にあいつのことが気になっていた矢先のことだ!》
 僕はFAX用紙を手放せず、留守電を再生する気にもなれない。
 昭和42年だからもう43年も前の話だが、僕は彼と一緒に茨城の水戸へ、巡業中の水原弘を訪ねて行った。当時からずっと〝タム〟の略称で呼んだ田村氏は、水原が所属する東芝音工の宣伝マン。川内康範の肝入りで「君こそわが命」といういい作品が出来た。不祥事で干されてにっちもさっちもいかない水原を、これでカムバックさせようという目論み。「面白そうだ」と悪乗りはしたが、気になるのは当の水原の了見で、僕はそれを見届けた上で記事にするスポニチの記者である。
 宿舎でパンツ一枚の水原と世間話、客席がらがらのキャバレーで歌う姿を見たあと、
 「帰るよ」
 と楽屋に声をかけたら、
 「うん、東京へ戻ったら一杯やろう。悪いけど俺んちでいいだろ?」
 返事の声が本音っぽかった。
 《銀座の帝王が、自分んちへ呼ぶか、今度ばかりは相当に応えてるんだな》
 初対面の好印象を持ち帰る列車の中で、タムと編み出したのが「復帰へ、3千万円作戦」のキャッチフレーズだった。ポスター、チラシ、パンフレットの類いを作る。ラジオスポットを打つ。有線放送とタイアップ、全国をPR行脚する…。それやこれや考えられることを全部やって、諸経費総額が約3千万円。それを算出したタムと僕は、
 「借金まみれのスターの再起には、銭で後押しの話題づくりが似合いだね」
 と笑ったものだ。
 僕がまずスポニチのトップ記事にする。タムが週刊誌や月刊誌でフォロー、ラジオに飛び火させ、ころあいを見てテレビに集中出演…。そんな段取りを着々と進めていたころ、東芝音工の浅輪真太郎文芸部長から雷が落ちた。
 「3千万もかけるなら、こっちへその金を返せ」
 と、債権者が詰めかけたと言うから大笑いである。
 この成功に気をよくして、僕とタムは、佐川満男を「今は倖せかい」でカムバックさせる作戦もやった。それが縁でタムは、佐川が所属していた小沢音楽事務所へ移る。僕とのネタづくりを面白がり過ぎて、東芝音工に居にくくなったか…と、僕は大いに反省もした。当時小沢音楽事務所の小沢惇社長は、菅原洋一やロス・インディオスを軸に、ホテルでのエンタテインメント・ビジネスに進出、タムはその受け皿になるホテル側ビジネスを、一手に引き受けた。亡くなるまでタムが会長を務めたプランニング・インターナショナルは、その事業で大成した会社で、六本木に自社ビルまで持っている。
 タムとはそれやこれやで50年近いつき合いの、兄弟分みたいな関係。公私ともにあけっぴろげで、双方のプライベート問題にも首を突っ込み、男の貸し借りが積み重なる。飲めないタムと夜ごと大いに飲み、赤坂の花街育ちの彼の、小粋な生き方を賞でたりもした。茨城の田舎育ちの僕には、タムの都会っ子ぶりがまぶしかったが、秘かに取材活動の参考にもさせてもらった。そのタムは、C型肝炎による障害と闘い抜いて最近は、ごく慎重な身の処し方に専念していたのだが…。
 「君こそわが命」にまつわる人々だが、作詞川内康範、作曲猪俣公章、歌手水原弘はすでに亡く、プロデューサー名和治良が昨年逝き、生涯の友だった小沢音楽事務所の小沢惇を今年3月、タムこと田村廣治をこの夏相次いで見送ることになった。そのうえ僕は、親交のあった吉岡治を5月に、シャンソン歌手石井好子を7月に葬送している。テイチク南口重治元社長の訃報にも接した。8月6日、駒込・泰宗寺でタムの密葬、平成22年は天候まで異常の極みで、何という年であろうか!

週刊ミュージック・リポート


 「もう死んじゃったと言ってちょうだい!」
 石井好子は病床で、秘書にそう言ったという。また入院中と聞いてびっくりした僕が、翌日見舞いに行くと連絡したことへの返事である。
 《相変わらず、ポンポン物を言う。それだけ元気だってことか―》
 僕は首をすくめながら出かけた。半年近くご無沙汰していて、叱られるのも無理はない傷がスネにある。
 子供のころ、夏は湘南の葉山で暮らした。結婚した昭和二十年ごろには、ここで所帯を持った。日影茶屋は物資窮乏のそのころも、何とか店をやっていて、いろいろと思い出がある町なのよ――僕が葉山へ引っ越ししたころ、彼女は目を細めてそんな昔話をしたものだ。
 「だからさ、退院したら葉山で遊びましょ。僕が迎えに来るから。秋には全快祝いと米寿のお祝いをしましょう」
 港区三田の病院で、僕は石井と約束をした。
 「そうね、場所はいつもの帝国ホテルかな。大勢集めて、パーッとやるか…」
 彼女の口調が心持ち弾んだ。呼びたい人たちの顔を思い浮かべる気配もあった。それが7月1日のことだ。
 《そろそろ、名簿の相談でも…》
 と気になりはじめた20日夜、訃報が届いた。17日に亡くなり、近親者でもう葬儀もすませたという――。
 「ああた、見てくれるわよね」
 平成2年の11月下旬、笑顔の石井がズンと胸に応えるようなことを言った。「ああた」は「あなた」で、見ろと言うのは12月10日、パリのオランピア劇場でやるコンサートである。昭和38年の初対面以来、長くその身辺に居た僕に否やはない。スポニチの編集局長になって2年めの雑事は全部放り出した。久々の現場取材、1ページ丸ごと俺の記事で埋めてみせようか!
 ピエール・カルダン、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソワ、リーヌ・ルノー、イブ・シモン…。客席の顔ぶれには驚いたが、石井のステージも凄かった。真一文字の気迫と艶冶な立居振舞い、ほとばしる情感と適度の抑制、歌手としての成熟とシャンソンへの初心が交錯する。パリでデビューして40周年、石井はそういうふうにメッカのオランピアで、自分のキャリアに「一流」の決着をつけた。
 晩年には〝第2の石井好子の世界〟を構築する。東京芸大で身につけたベルカント唱法を棚上げ、呼吸法と発声法を一からやり直した。昭和62年に65才で平山美智子氏の教えを受け、以後の研鑽で70代80代の彼女の歌は別人になる。鍛えられた地声が、中低音で人間味を濃くし、高音部で劇的昂揚を熱くした。年を取って全盛期の声を失うのは、歌手たちの誰一人もが避けられない現象。ところが石井は自らの老いを直視、それを越える手法を探し出し、変身、進化する道を選んだ。彼女は稀有の実行力で、ここでもまた、自分流の生き方に決着をつけたことになる。
 石井はシャンパンとおいしいもの好きの、気のおけない熟女だった。家に呼ばれて手料理でもてなされ、僕はいつもすっかりリラックスして上等な時間を味わった。そんな石井は同時に、毎日、足首に砂袋を巻き、ルームランナーの上を走り、シャンソンの歌詞を確認する作業を怠らない人だった。コンサートの前にはまるでボクサーみたいに心身をしぼり込む日々を過ごした。
 すらりとした長身、いつもすっきりと伸びた背筋の石井は、童女みたいな笑顔と、姐御肌の包容力と、豊かな識見を持つ堂々たる日本女性の代表だった。その硬軟両面に接して、僕は甘え、学び、シャンソンと人生についての多くのことを知り、大勢のシャンソン歌手たちと知り合った。石井は僕の雑文屋生活に、大きく太い一本の樹として存在した。
 お別れの会は8月26日、帝国ホテルで開かれるが、僕は今日7月29日の午後、港区高輪の石井の家へ焼香に行くことにした。50年近くも恵まれた知遇への感謝を、その霊前に捧げようと思っている。

週刊ミュージック・リポート

上手いのはゴルフだけじゃないヨ。

 

 「なかなかねえ。ご期待に添えるようなのを書くと、ボツになっちゃうのよ」と作詞家・麻こよみの言い訳。僕が意欲作、冒険作へ、そそのかし続けるせいだ。
 そう言いながら今月は、彼女の作品が3曲。小金沢昇司と北野まち子と桜井くみ子に、それぞれ似合いの線を書き分けている。曲は徳久広司が2曲、叶弦大が1曲。よく聞けば、彼女なりの工夫の気配もちらちらとある。
 麻とそんなことをしゃべるのは、コンペの日のゴルフ場が多い。この人、近ごろゴルフも上手で、僕はグロスで負けたりする。
 

 
 北海道の鹿部に居る。例によって星野哲郎の名代のぶらり旅。星野が加齢による体調不良で欠席、そのお供の助さん格さんふう岡千秋と里村龍一をメインにした一行である。7月21日からの2泊3日、土地の人々との交歓、とれたての海の幸とうまい酒、性懲りもなく連日のゴルフ…と、命の洗濯の限りを尽くす。毎年夏のこの行事は、もう20年余も続いている。
 おさらいをしておこう。函館から車で小1時間、川汲峠を越え噴火湾沿いに北上したところに鹿部町はある。人口5千人ほどの漁師町で、仰臥したゴリラの横顔に似た形の駒ケ岳を背負う。昔々町の青年たちに声を掛けられ、意気に感じた星野が毎夏訪ねるようになった。漁師と一緒に定置網を引き、番屋でいかそうめんを喰らい、土地の風物と人情に触れる。星野はここで〝海の詩人〟のネタ調べをし、山口県周防大島に次いでここを〝第二のふるさと〟とした。
 今回の東京勢には、地元のボス道場登氏の古稀のお祝いをする狙いがあった。彼は道場水産の社長で〝たらこの親父〟の異名を持つ。たらこ、明太子などの海産物を抜群の美味に仕立てる地元有力者だが、自称星野哲郎北海道後援会会長。シワを刻んだ笑顔に少年みたいな眼差しを持ち、「めんこいなあ」と、星野を敬愛すること他に類を見ない。星野の鹿部ぶらり旅は、この人との友情が軸になっている。
 そこで僕らは、彼のために「鹿部コキコキ節」という歌を作った。大賛成の星野の意を体した歌詞に、岡千秋が曲をつけ、陽気な歌声も引き受けた祝い歌。〝たらこの親父〟の実績と人望、朝から飲んでる酒と自慢のゴルフ、恋女房としっかり者の息子二人の様子など歌い込んだ。もちろん背景は金波銀波の噴火湾と、人々の営みを見守る駒ケ岳…と、すこぶる調子がいい。それをCDに焼き、非売品だがごていねいなジャケットもつけた。
 ついでのことに、そんな作戦だから地元へは秘中の秘。当日も地元有志のカラオケ大会のあとに、突然その発表と贈呈式を始めた。「祝古稀…」の横断幕、美女2名の花束贈呈、ちょっといい話つきで里村の乾杯の音頭のあとに、岡の歌唱になるサプライズである。どうせ喜ばせるなら相当なショックとともに…という、お祭り好きの僕らの悪だくらみ、これが見事にはまって、道場社長は尚子夫人と踊り、感激した息子が涙を浮かべる大騒ぎになった。
 その22日のスケジュールは、まず早朝6時すぎ出船の釣り大会。岡が大型のばばがれいをあげたのをはじめ、あぶらっこ(東京ではあいなめと呼ぶ)や中型ほっけをそれぞれが釣り上げて上機嫌。噴火湾は珍しく波が高く、地元紳士の一人が船酔いでへたり込んで一昼夜、酒のサカナにされる一幕も生まれた。番屋のメシと酒のあとは午前11時集合のゴルフ・コンペ、それが終わると表彰式でまた酒盛り。午後6時すぎからがカラオケ大会で、とどめがそのサドンデス古稀祝宴である。
 何ともまあ、ハードなスケジュールと、星野が聞いたら怒りそう。それを着々とこなしたのも、テーブルに登場し続けたとれとれ海の幸のせい。ばばがれいやあぶらっこは刺身、それにあめ色のいかそうめんのぶっかけ飯。ほっけの煮付けは初体験だし、うには生で喰い、焼いて喰い、塩辛で喰い、毛がにはざるに山ほど。そのうちまぐろの刺身が登場。かじか汁を振舞われ、じゃがいも、とうもろこしまで、もともとこんなにうまいものだったか!と驚く味なのだ。
 読者諸兄姉には、生ツバを飲み込ませる記述で恐縮だが、参加者全員が口々に言うのは、
 「星野先生に喰わしたいなあ」
 という感想。言ってみれば僕らは北の漁師町で、星野の仁徳にあやかり続けていることになる。
 天気予報の「大雨注意」もぶっ飛んで薄曇りの一日。熱暑の東京を離れてこの時期、汗もかかないゴルフ日和が続いた。僕らが帰京した後この町では「鹿部コキコキ節」がすみずみに浸透、ニコニコと歌われることになるだろう。

週刊ミュージック・リポート

殻を打ち破れ 第103回

 荒木とよひさの仕事を「当代切っての女心ソングの書き手」と評したことがある。
 「それじゃ、俺はどうなるのよ!」
 酔余、吉岡治が口をとがらせたのには閉口した。『さざんかの宿』『細雪』『天城越え』と、女心を描破した実績に応分の自負があるのだろう。
 「誰が一番とは言ってない。あんたが確立したのは“艶歌”で、ごく日本的な情念の世界さ。荒木が書くのはその後というかその次というか。女のすみかがマンションに変わったよな」
 酔いに任せて、僕も言いつのった。「ふ~ん」と吉岡は、不承不承の顔をした。
 それをさかのぼる10何年か前、吉岡と僕は赤坂で偶然出会った。宇崎竜童がやっていたブギウギハウスという店で、この夜も二人は酔っていた。
 1970年代、シンガーソングライターの台頭が目ざましかった。フォークソングを中心に、彼らは率直に時代と自分を歌い、僕らの問答はその意味やパワーについて、往きつ戻りつした。
 ラジオの時代、吉岡は放送劇の作家だった。のちに三木鶏郎に誘われて彼の冗談工房に入る。風刺ソングを量産したグループである。そんな中で身につけた時代感覚と、大衆歌謡の中身がかけ離れて思えてか、彼は歌謡界に自分の居場所を見つけきれずにいた。
 「転職も考えてる。大阪のダンボール会社でどうかと言ってくれる人もいて…」
 弱気の彼に驚いて、僕はやむを得ず語気を強めた。
 「はやり歌は売れてなんぼの商売でしょう。その歌ひとつに何を託すか、どこまで託し切れるかは、歌書き本人の粘着力次第でしょうが…」
 したり顔に突き放して、何とも薄情な対応ではあったろう。
 やがて吉岡は、日夜うた論議を尽くす同志、中村一好ディレクターを得る。彼は東大安田講堂組の議論好きで、二人の意見は「大衆音楽の娯楽性」で一致する。『真っ赤な太陽』『真夜中のギター』のあとの吉岡の長いブランクは8年余。眼からウロコが落ちた第一作は都はるみの『大阪しぐれ』で、以後はイッキ・イッキ!のヒット曲量産。演歌書き一方の旗頭にのし上がった。
 「おやじがその筋の人の女に手を出して、東京をところ払になってさ。俺はおやじと炭坑を転々とした。北の果て樺太まで二人連れの旅さ…」
 問わず語りに語った、彼の少年時代である。樺太は今のサハリン。とすると吉岡がそこに居たのは終戦前で小学校低学年か。そんな生い立ちが影を落としたかどうか、吉岡は生きること、愛することを悲哀の側から突き詰めた。「後ろ向きの美学」を自称したゆえんである。
 5月17日、心筋梗塞で死去。76才。5月24、25日が通夜葬儀で場所は築地本願寺。贈られた花300基、弔問した人900人。葬儀委員長を務めた僕は、この時「当代随一の艶歌書き」と3つ年上の親友を同時に失った。

月刊ソングブック
幡随院

幡随院

作詞:坂口照幸
作曲:宮下健治
唄:西方裕之

 「学がないから手紙は好かん」が口癖だった親父、そんな男から便箋1枚に走り書きの手紙がつく。「船をおりた」という息子への知らせだ。
 作詞・坂口照幸が、知恵をしぼった歌い出し。内容がそうと判るまで4行も使っているが、ま、これも彼のねばっこさか。
 宮下健治がつけた曲を、西方が男っぽく歌う。歌の主人公は息子。海で暮らす親父を離れ、街で生活して四十路坂をこえる。そんな父と子の、心の距離感を行きつ戻りつして、歌唱はなかなかの力仕事になった。

夢追い舟唄

夢追い舟唄

作詞:たきのえいじ
作曲:叶 弦大
唄:真木柚布子

 こちらは男と女の愛憎に棹をさす舟唄。二度も三度もあきらめて、まだひかれている女の未練を、たきのえいじが詞にした。♪夏をたたんで秋が来る。咲いて七草知る情け...なんて、名文句狙いのフレーズが三番に出て来たりする。作曲は叶弦大。「聞かせ歌」よりは「歌わせ歌」を書くのが身上と、思い定めている人らしい歌いやすさと訴求力が前面に出る。
 真木はサビあたり、ファルセットで歌い回して、はかなさや心許なさの演出。ちょっと品がないがいい女に仕立ててみせた。

幡随院

幡随院

作詞:久仁京介、原 譲二
作曲:原 譲二
唄:北島三郎

 原譲二のペンネームで、今回は曲だけではなく詞まで北島が手伝った。お話の主人公はタイトルが示す通り幡随院長兵衛。「天は一つさ、命も一つ」の男の生きざまを、北島説法で歌い切る。作品も歌唱も気合いが入って、いつもながらの北島節だ。

はぐれ雲

はぐれ雲

作詞:水木れいじ
作曲:四方章人
唄:永井裕子

 ピーヒョロロ...ととんびが鳴く前奏は前田俊明。永井のずう~っと先輩の、三橋美智也の世界を思い出す。水木れいじの詞は、勝気で情にもろい娘心を書き、それを四方章人の曲がのどかな道中ものにした。永井の歌はのびのびと、空を見上げる気分で屈託がない。

霧雨海峡

霧雨海峡

作詞:仁井谷俊也
作曲:中村典正
唄:川野夏美

 「ひとりで待つ」「忘れはしない」「帰って来てね」が一、二、三番のキーワード。船で出て行った男へ、ひたすら思いを届けたい娘心ソングだ。キーワードの部分がメロディーのサビ。川野は思いのたけを張り上げて、オーソドックスな海峡ものにした。

裏町

裏町

作詞:山田孝雄
作曲:叶 弦大
唄:鳥羽一郎

 訳も言わずに姿を消した女を、思い返している裏町暮らしの男。山田孝雄の詞はそれ以上の説明が何もなく、叶弦大は委細かまわずに曲をつけた。鳥羽はそのメロディーの起伏に乗って、一気に歌い切る気迫を示す。おかげで主人公が骨太の男になった。

はまなす海岸

はまなす海岸

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:小金沢昇司

 6行詞の5行目に「会いたい、会いたい、会いたいよ」のくり返しが各コーラスにある。お話しは去った女を探す男...だから、歌謡曲おなじみの設定。そうなると「会いたい...」以下をどう歌うかが鍵で、作品の色が決まる。小金沢は、そこを渋めの男っぽさでクリアした。

夫婦詩

夫婦詩

作詞:大地 良
作曲:大地 良
唄:杉 良太郎

 各コーラスの歌詞1行目が、今も昔も変わらぬ人生警句。それをバサッと前置きにした戯れ唄ふうな夫婦ものだ。歌の間のセリフも芝居がかって「人もうらやむ(チャンチャン)夫婦詩」と納まる。作詞、作曲もした杉が、ニヤリと悦に入っていそうだ。

あなたがいたから

あなたがいたから

作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:北野まち子

 何ともあけすけで、屈託のない「得恋ソング」で、ブンチャブンチャのリズムが明るくはずむ。作詞の麻こよみと作曲の徳久広司が、二人で作っておいて「いいネ、いいネ」と面白がっていそう。北野の歌がそういうふうにはまって、味な行進曲の楽しさがある。

卯の花しぐれ

卯の花しぐれ

作詞:麻こよみ
作曲:叶 弦大
唄:桜井くみ子

 前奏が妙に劇的なニュアンス。桜井が本格的な演歌に挑戦する予告になっている。用意された作品は、歌詞の前半4行分が語りで、残る2行が歌い上げる大詰め。結果桜井の歌は、前半に初々しさが匂い、後半ではその若さが少し引っ込んだ。むずかしいものだ。

屏風岬

屏風岬

作詞:森田圭悟
作曲:岡 千秋
唄:立樹みか

 風が吹き、かもめが鳴き、夜は雨になる屏風岬。そこで暮らす女が、未練心をかきくどく詞だ。その割に岡千秋の曲は、激することなく傾斜がゆるやかめ。それを歌うように語るように、立樹が淡々と形にした。いわば八分め歌唱の説得力、年の功だろうか?

嘘泣き

嘘泣き

作詞:田久保真見
作曲:浜 圭介
唄:ジェロ

 詞先の歌なのか曲先の歌なのか。田久保真見の詞も浜圭介の曲も、たたみ込んで強めに聞く側に迫って来る。アレンジが鈴木豪でポップス系の処理。これが追い立てる気配を加味、みんなでジェロの歌唱を若々しく、歌の感傷にみずみずしさを作った。

MC音楽センター
沢竜二公演「新宿さいど物語・日本の旅役者」作・演出・出演沢竜二、共演磯村みどり、岡本茉利、木内竜喜他。小西は実直なサラリーマン宮田正造役。旅回り一座の父娘のトラブルに首を突っ込み、沢に一喝されてヘドモドする。7月31日(土)8月1日(日)の2日間4公演。新宿紀伊国屋ホールで、開演は昼1:00、夜6:30 問い合わせは沢事務所03-3367-3336   新宿さいど物語・日本の旅役者  
劇団東宝現代劇75人の会、第25回公演 「喜劇・隣人戦争」(作小幡欣治、演出丸山博一)9月8日(水)から12日(日)まで池袋・東京芸術劇場小ホール2.出演は下山田ひろの、柳谷慶寿、村田美佐子、古川けい、田嶋佳子、松村朋子、鈴木雅、児玉利和、巌弘志、小林誠、松川清ほか。昨年のこの劇団公演「浅草瓢箪池」に出演、頑張ったごほうびみたいにまた声がかかって、小西本人は天にも昇る心地。 喜劇・隣人戦争01 喜劇・隣人戦争02