殻を打ち破れ227回
≪オヤッ! そういうふうに歌に入るのかい。ちょっとしたお芝居仕立てに見えるけど…≫
岩本公水の生のステージで気がついたことがある。曲前のトークはほぼ素顔。それが自分で曲目を紹介して、イントロが始まった瞬間に、彼女は歌の主人公になっている。以後歌はヒロインの心情をまっすぐに吐露、濃密な感触で客に提示される。作品を「演じる」と言うよりは、もう少し没入気味の「なり切り型」なのだ。
演歌・歌謡曲の歌手たちの歌の伝え方を、おおよそ三つに分ける。「なり切り型」はいわば憑依の芸で、のり移ったように作品の主人公と本人が一体化する。「演じる系」は作品をシナリオに見立てて、主人公像を演じてみせるタイプ。もう一つは「本人本位」で、どんな作品でも、私が歌うとこうよ!とシンプルである。例をあげれば「なり切り型」の代表は都はるみ、「演じる系」は石川さゆりで、女性歌手の多くは「本人本位」だろう。
岩本公水のステージで、僕は彼女を「なり切り型」に見て取った。しかし、都はるみの憑依ぶりとは、少しタッチが違った。都の場合、作品にはまるとあとはもう一気々々。まるで傷心の主人公そのものが、身を揉み、ステージを走り、燃えるような熱気と迫力を示した。客席で僕はしばしば、手に汗をにぎったものだ。岩本の場合は、そこまでは没頭しない。なり切りながらどこかに、そういう自分を見守ってもう一人の彼女がいる醒め方があるのだ。言うなれば「天の目」「離見の見」の陶酔と抑制のほどの良さ。
『片時雨』も『能取岬』も『しぐれ舟』もそうなのだが、高音部のサビは、きれいな声を抒情的な響きで歌ってメロディー任せ。感情移入は大づかみだが、一転それが濃いめになるのは中、低音の一部。ここで彼女は歌を「決めにかかる」押しの強さを見せる。主催者のリクエストで歌った『風雪ながれ旅』に顕著だったが「アイヤー、アイヤー…」を哀調たっぷりに歌い放っておいて「津軽、八戸、大湊」をズシリと決めた。地名三つには情感の手がかりなどないが、それを漂泊の思いで熱くするのだ。
そう言えば…と気づいたことがもう一つ。歌の情感の起伏もそうだが、それに連れる身振り手振りも、イントロからエンディングまで、4分前後のドラマを物語っている。歌い終わってのお辞儀までが、歌の主人公のそれで、歌手本人のものではない。その徹底ぶりには、マネージャーも気が抜けまい。事務所社長の吉野功氏は舞台そでで身じろぎもせず、彼女の一挙手一投足を見守る視線が厳しかった。歌手と社長、一心同体の趣きまであるではないか!
≪歌手生活も25年になったか…≫
デビュー当初から親交があるから、僕にも多少の感慨はある。波乱に満ちた前半から「歌巧者」の潮が満ちて来た後半がある。ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級などの資格を取ったのは、歌手活動を中断していた時期。よこて発酵文化大使や埼玉伝統工業会館PR大使などは、陶芸に熱中、埼玉に自前の窯を持つその後の日々を示す。40代なかばの女盛り。「人」も「歌」も目下ゆったりと充実ということか。
岩本のナマ歌に久々に接したのは、10月18日、佐賀の東与賀文化ホール。実はこの日の催しは永井裕子の歌手生活20周年記念故郷コンサートで、岩本はそのゲストだった。永井もデビューから10年間、全作品をプロデュースした浅からぬ縁がある。ゲストが主で本末転倒の原稿になったが、本チャンの永井の分は他紙にたっぷり書いた。彼女の充実ぶりもなかなかで、両親の嬉しそうな顔もよかった。
「冬枯れの木にぶら下がる入陽かな」
「寒玉子割れば寄り添う黄身二つ」
亡くなった作曲家渡久地政信と作詞家横井弘による俳句で、古いJASRAC(日本音楽著作権協会)会報に載っていた。「上海帰りのリル」や「お富さん」などのヒット曲で知られる渡久地は奄美大島の出身。南国の体験がありありの句で、闊達な人柄もしのばれる。横井は「あざみの歌」や「哀愁列車」などに、僕の好きな「山の吊橋」も書いた叙情派。歌謡曲ふう愛情表現が、いかにもいかにもで、往時の穏やかな笑顔を思い出した。
この句が紹介されているのは、1988年のJASRAC会報。その年の1月21日に発足した「虎ノ門句会」の席で詠まれたものらしい。32年も前の古い資料を見せてくれたのは、二瓶みち子さん。その会が「ジャスラック句会」と名を変えて、今日も続いておりその世話人を務める。会の名が変わったのは、当時虎ノ門にあった協会が代々木上原に移っているせいだろう。
その二瓶さんからあろうことか、この句会の審査を頼まれてしまった。年間の優秀作の中から1句を選び賞を出す仕事。すでに「いではく賞」と「弦哲也賞」があって、三つめだそうな。作詞家星野哲郎の没後10年の11月15日、小金井の星野邸へ出かけて例によって酒宴。噂供養でほろ酔いのところへ、二瓶さんから、
「お手伝いして下さいましな…」
と、品よく持ちかけられて、ついずるっと引き受けてしまった。昔々、これも亡くなった作詞家吉岡治が主宰した句会へ、二、三度参加した程度の半可通だが、やむを得ない事情もあった。
星野の忌日「紙舟忌」がついに季語になった! と、二瓶さんから興奮気味の手紙を貰ったのは2017年だから3年前の暮れ。朝日新聞の歌壇に長谷川櫂氏の選で静岡の安藤勝志氏の
「紙舟忌や、酔ひて歌はむ〝なみだ船〟」
が選に入ったのを発見してのことだった。彼女は星野の事務所「紙の舟」に通い、薫陶よろしきを得ていた人だから、星野を師と仰ぐ僕にも大急ぎで知らせたかったのだろう。星野は〝鬼骨〟の号で例の虎ノ門句会に参加しており、二瓶さんも「大いにやりなさい」とすすめられた。
「俳句を何句か並べると演歌になり、演歌の一作を分解すると、何句かの俳句になること」
も実感したらしい。この手紙で僕は
「表現は簡潔さが命」
という師の教えを再認識したものだ。
コロナ禍は国内外ともに被害を拡大、人々の生活や社会の仕組みまでに厳しい影響を与えて「国難」という表現が妥当になって来た。
倒産する企業や、死を選ぶ人も増える苦難の中、僕は高齢ゆえにいたわられること多い身である。その鬱屈の日々の中で、たまたまJASRAC句会諸兄姉の作品に接する機会を得た。句のココロに眼や耳をこらすひとときは、巣ごもり無為の暮らしに、思いもかけぬ果報と感謝せねばなるまい。
歌社会は氷川きよしや坂本冬美の激しい「蜉化」「変化(へんげ)」が際立つ。アルバム「Papilion」でロックやラップ、バラードに転じた氷川は、その前後からの耽美的なビジュアル展開で、もはや性別を超えた。冬美は念願の桑田佳祐作詞、作曲による「ブッダのように私は死んだ」を得て、ほとんど憑依的とも思える世界へ傾倒。歌唱、ビジュアルともに、これまでの彼女の魅力を超えている。
ウイルス感染のとめどない拡大への不安、先行きのまるで見えない閉塞感に満ちた時代。このくらい激しい変化や、鋭い刺激が好まれ許容されるということなのか。いずれにしろ、ものみな変わる庶民生活の中で、演歌、歌謡曲だけではなく、Jポップもロックも、自分たちを見直し、新しい変化を目ざす時期、氷川と冬美はその先端を走っていることになりそうだ。
その反面、変化の激しさに抵抗する気分も生まれて来よう。新しい生活への変化を求められても、にわかにはついて行けないのもまた人情である。では流行歌は、どんな型とどんな息づかいで、そんな人々に寄り添って行けるのだろうか?
この稿は、のどかな俳句の話にはじまって、歌手2人の激変にいたった。僕は不要不急のものと言われたスポーツ新聞づくりに長くかかわり、育てられた。当然、流行歌も不要不急と言いだす向きには「断じてそういう産物ではない!」と訴えて、今年最後の稿としたい。
最近大病を体験した作詞家喜多條忠についての噂だが、
「毎日一万歩あるいて、ゴルフの練習場にせっせと通っているそうだ。12月4日、参加するあんたのコンペが伊豆であるんだって?」
このご時世で大丈夫か? の顔も含めて、教えてくれたのは、亡くなった作詞家星野哲郎の事務所「紙の舟」の広瀬哲哉である。もともとは日本クラウンのやり手宣伝部長で、定年退職後は番頭格でこの事務所を取り仕切っている。
彼もまた最近、大病をやって、その予後をせっせと歩いているらしい。浅草から隅田川沿いにとか、日本橋だの湯島あたりがどうとか、どうやらついでに東京の名所めぐりをしている気配。病後のやつれ方はなく、口調ものんびりしている。
「それにしても、あの手紙の文面は意味深だったな」
と、僕は彼をいたわりもせずに話を変える。11月15日の午後、場所は小金井・梶野町の星野宅。
実はこの日、星野の没後10年のしのぶ会を、ここでやることになっていた。半年も前から、僕もスケジュールを手帳に書き込んでいたのが、コロナ禍3密を避けるために、広瀬が「中止」を知らせて来た。その文面の後半で「宴はやめるが線香をあげに来るのはやぶさかではない」ことが、ごく控えめに、その分だけあいまいな表現でつけ加えられていたのだ。
「それなら俺は行くぞ、スポニチの記者時代から知遇を得て、師と仰ぐ人だったし、俺は哲の会の頭だものな」
そう勝手に合点して出かけたのである。哲の会というのは、レコード各社の星野番ディレクターの集まり。みな薫陶を得て親しい仲だが、立場はライバル同士だから、年嵩で第三者的な僕が座頭(がしら)をやった。没後何年経とうが、哲の会は続くのだし、年忌は「紙舟忌」に変わりはない。
星野家のいつもの部屋に、そこそこのメンバーが揃っていた。元クラウンの幹部牛尾氏に佐藤氏、現幹部の飯田氏、元コロムビアの大木。おしげとさっちゃんは星野のコロムビア時代からのお気に入りだし、作詞の紺野あずさは星野の弟子で近所に住む。宴は中止とは言っても、無遠慮に現れるやんちゃ用に、一応の酒肴は揃っている。それをゴチになりながら、故人の噂話をひとくさり。「噂供養」としゃれ込む部屋に流れていたのは、コロムビアとクラウンが没後10年を記念して作った星野の作品集。あれこれ聞き分けながら、表現簡潔で情が濃い星野流の作詞術に感じ入る。
「美辞麗句を用いず、彼の生活や体験に根ざした詞は、演歌の命そのものだった」
と評したのはゴールデンコンビを組んだ作曲家船村徹。この人も知遇に甘えて師と仰いだ縁がある。しかし、長く駄文を書き散らす不肖の弟子の僕には「推敲」の2文字がまぶしくも重い。
星野家をほどほどに辞して、東小金井の居酒屋に席を移す。そこまで追って来たのは、星野の長男有近真澄氏で、紙の舟を引き継ぎ、しばしばライブハウスで独特の歌世界を開陳するボーカリストが、
「統領(僕の仇名)たちが飲んでるのに、知らん顔など出来ないでしょう!」
どうやら病後の広瀬氏を帰らせての、こころ配りとおもてなしである。
それから1週間、21日からの3連休前後から、新型コロナは全国的に急激に増殖、案の定GoToトラベルがGoToトラブルに転じ、丸投げした首相と都知事のさや当てが取沙汰されるなど、物情騒然になった。ここで、喜多條が満を持し、練習ラウンドまでこなした意欲は空転する。12月3日~4日、伊東のサザンクロス・リゾートでの小西会コンペを延期したためだ。忘年会を兼ねた催し…と早くから告知した分だけ、プレーに10数人、酒宴のみ参加の4名などが名乗りを上げていた。しかし、小西会も今回が100回記念となるとメンバーはもはや皆老齢、そのくせ酔えばカンカンガクガクが習い性だから「3密」も「5小」も守れるはずなどありはしない。
それを「中止」ではなく「延期」にしたのは、ゲストに東伊豆町職員を定年退職した梅原裕一氏と、年内でサザンクロスの顧問の職を辞する粕谷武雄氏を招くせい。梅ちゃんは失礼にも「木っ端役人」と呼びならわし、本人もそれを名乗る名刺を作って悪ノリ。昔、熱川の海岸に星野哲郎作詞、船村徹作曲、鳥羽一郎歌の「愛恋岬」の歌碑を一緒に作った仲。粕谷氏は長く当リゾートの星野番として親身な仕え方をした大物。それゆえに小西会は、この2人を囲み、喜多條の全快を祝って、晴れて挙行出来る「春」を一途に待つのである。
殻を打ち破れ226回
≪ほほう、なかなかに...≫
と、神野美伽を聞いたあと、頬をゆるめた。新曲『泣き上手』のタイトルにひかれて、CDを回す。松井五郎の詞、都志見隆の曲、萩田光雄の編曲という顔ぶれにも興味がわいた。もちろんポップス系の歌謡曲、それを近ごろロック乗りもやる神野用に、どの程度の匙かげんの楽曲にしたのだろう?
甲斐性なしでのらりくらり、風に吹かれているような男に、ほだされた女が主人公。暮らし向きは思うに任せず、幸せは尻切れトンボだ。それだもの...と愚痴っぽくなったり、それでも...と耐えてみせたりすれば、おなじみの演歌になるところを、
♪泣くのは上手さ 泣くのは平気さ どうせ泣きながら 生まれてきたんだし...
と、松井のサビは、さらりと躱して独特の味を作った。
気性きっぱりの世話女房型。男の呑気そうな寝顔をぼんやり見ながら、毛布を掛けてやる夜もある。人生なんてそんなもんさとか、男女の間柄なんてそんなもんさなどと、達観している訳ではない。彼女には彼女流の"わきまえ方"がある気配。
お話4行サビ2行の詞を、都志見のメロディーは、シンプルに3回繰り返す。心地よいテンポ、起伏おさえめだがなかなかのムード派ぶり。萩田の編曲は間奏でエレキギターが小粋にメロディーを浮き上がらせる。そんなお膳立てが揃って、神野の歌は激することなく淡々と進む。ところがこの淡々...が曲者なのだ。歌全体をファルセットに近い発声で歌うことで、主人公のあてどない心情を匂わせる。もし地声の太めの響きで歌ったら、切ないはずのサビが、啖呵になってしまったろう。
言葉ひとつずつを丁寧にというよりは、大づかみに1フレーズに思いをこめる。よく聞けば語尾のあちこちで、ニュアンスを変え、情のこまやかさも作っている。CDを聞き直すごとに、芸事によく言う"細部に神宿る"の意味を思い返したりするのだ。
≪もしかすると彼女は、すうっとこの作品に入れたんじゃないかな...≫
と僕は神野の素の部分を推しはかる。下衆の勘ぐりになりたくないが、親しい間柄の分だけ、彼女と作詞家荒木とよひさの、暮らしと別れを連想してしまうのだ。気ままな文士ふうに、京都でひとり暮らしをした荒木を、神野はひところ「亭主の放し飼い」と笑ってみせた。しかし、別れてみればそれなりの葛藤は深く、彼女は"泣かない女"を装っていたことに僕は気づく。戦後満州(現中国)から引き揚げたせいもあってか、どこかに異邦人のかげりを宿した歌書きの、はぐれ加減の言動や生き方を許してはいたのだろうが...。
その一方では、歌書きの彼の才能を尊敬し、信じることに変わりはなかった。離婚後も神野は同志みたいに、彼の作品をいくつも歌っている。作曲したのは主に弦哲也だが、このコンビは神野の期待に応じ、あるいは挑発するように、いろいろな冒険作を提供した。昭和の演歌の再現から、思いがけないバラードまで、彼らは神野のボーカリストとしての魅力を大事にしていた。
荒木はレトリック派の女心ソングを得手とし、実績を作った。その世界から神野は、今作で松井五郎の世界に転じた。女心ソングにも味な手口を見せる松井も新しい歌謡曲の担い手だが、荒木とは文体や文脈が違って独自である。『泣き上手』の主人公は、そうは言っても実は"泣かない女"なのではないかと思う。実生活では"泣かない女"を装った神野が、陰では"泣いた"感慨を、この作品に歌いこめたとすれば、その微妙な匙かげんにも、神野の気性の"男前"に思い当たったりする。
山形の天童市へ出かけた。東北の歌自慢NO1を選ぶ「天童はな駒歌謡祭2020」の審査。ご多分にもれずコロナ禍で、歌うことまで自粛を強いられていた60余名が、のびのび大音声の歌を競った。11月8日、天童ホテルのホールが会場。地元の人々が手造りの、人情味たっぷりな催しだが、ウイルス予防の対策はこの上なしの厳重さ。県の感染者が累計89人とごく少ない地域だが、その分だけ郷土を守る意識と決意はきわめて強い。
僕は、酒なら出羽桜の「雪漫々」か10年ものの「枯山水」肴は芋煮と青菜漬け、飯は「つや姫」などご当地の美味を礼讃、人物なら地元の有力者で名僧の矢吹海慶師の猛烈な中毒者である。というのも、昨年まで19年続いた「佐藤千夜子杯歌謡祭」の審査に通い詰め、天童の人情と知遇にどっぷりつかっていたせいだ。
矢吹師は名刹妙法寺の住職で、日蓮宗の荒行を5回もやってのけた剛の者。その割に小柄で、興味津々の目の色をし、患った舌がんをカラオケで征圧した粋人。それが長く市の文化、教育関係の要職をこなし「千夜子杯」も今度の「はな駒歌謡祭」も、実行委員長として、町おこしの一端とする。長くポケットマネーを注ぎ込んで来たが、
「近ごろは家族葬がふえた。法事も内輪でやって、お布施の方まで自粛気味でねえ」
とボヤいて見せたりする。
《天童行は一年に一度という間合いが、何ともいえない...》
と、僕はずっと思っていた。ためぐちのつき合いだが、相手への敬意はちゃんと胸中にあり、出会いの新鮮さとなれなれしさが、ほどよく交錯する。物見遊山の旅もいいが、会いたい人に会いに行く旅こそ最高だろう。和尚を取り巻くスタッフも長いつき合いで、遠くの親戚みたいだ。ところがイベントが去年でなくなって、
《これじゃ年越しが出来そうもない...》
と、うつ向き加減でいたところへ、
「また今年もやるよ!」
の声がかかった。何と! 矢吹師チームは、日本アマチュア歌謡連盟の天童支部「名月会」を立ち上げ「はな駒歌謡祭」を創設、全国大会の東北地区予選会と位置づけて、僕の仕事を作ってくれてしまった! そう言えば昨年僕は、矢吹師の「米寿を祝う会」の発起人代表をやった。それを大いに多として師は、
「5年後にはあんたの米寿の会を、私が発起人で天童でやる!」
と確かに宣言するにはした。僕は酒の上のジョークと聞き流していたのだが、矢吹師はその約束を果たし、毎年初冬の僕の天童詣での道筋を作ってくれてしまったのだ!
事務局長の福田信子・司会係の福田豊志郎夫妻は、スタッフと出場者の両方で大わらわだが、催しのなり立ちには「当然!」の顔つき。「そんなのありなんだ!」と〝米寿同盟〟にゲスト歌手の奥山えいじは感じ入る。今年還暦というこのお仲間は、仙台を拠点に、稲作と歌手を兼業するいわば〝職業歌手〟で、目下「只見線恋歌」がヒット中。近々仙台のホテルで恒例のディナーショーをやるそうな。
ところで読者諸兄姉は「天童を救った男・吉田大八」をご存知だろうか? 明治維新前夜、東北平定のため進軍した鎮撫軍と、抵抗した奥羽列藩同盟の板ばさみになった天童藩を救うため、37才で自刃した藩の中老のこと。天童藩を治めていたのが織田信長の子孫というのも初めて知ったが、天童を将棋の駒の産地にしたのもこの人だと言う。藩は財政難で、貧困にあえぐ下級武士たちに駒づくりの内職を導入したが、反対意見も多かったはず。それを若くから要職にあった吉田が、
「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」
と押し切り、今日の繁栄の端緒を作ったとか。
その人の切腹の現場「観月庵」が、矢吹師の妙法寺の一角で、血染めの天井も残されている。矢吹師は彼を顕彰する銅像を桜の名所舞鶴山に建立。子息で副住職の矢吹栄修氏は、最近完成したドキュメント映像「大八伝・天童を救った男」の制作実行委員会を代表、脚本・解説も務めている。僕は11月7日夕、天童へ入ってすぐ妙法寺に案内され、その試写を見学した。
久々の天童一泊二日は、矢吹師父子の歴史観と郷土愛にも触れて、感興が山盛り。その帰路、山形新幹線が突然「落葉による車輪空転」という季節ネタ!? 事故で止まった。山形駅から在来線18駅を仙台へ出、別の新幹線で東京を目指す想定外の迂回になったが、別段苦にはならなかった。
佐賀へ出かけた。8月に信州・蓼科でゴルフをやって以来、2度めの遠出である。往復が飛行機、これは今年初だから、いい年をして少々浮き浮きする。永井裕子の20周年記念故郷コンサート、同行したのは作曲家四方章人とキングの古川ディレクターで、この二人と組んで僕は、永井のデビューから10年間、全曲をプロデュースした縁がある。永井の両親ともずいぶん久しぶりに会う。コロナ禍の最中だが、そんな身内ムードの旅だ。
10月18日、場所は東与賀文化ホール、午前の部と午後の部の、早め早めの2回公演。午前が佐賀県外の客、午後が県内の客に分けたのはコロナ対策で、検温、手指消毒、掛け声なしで応援はペンライトや拍手...の手はずは、今や全国共通だ。しかし僕は、感染者累計8300余の神奈川を出て、3万超の東京を経由、着いた先の佐賀はわずか250前後...という旅人である。うつる心配よりも持ち込む懸念の方が大だから、何だか後ろめたさが先に立つ。しかし公演前夜、唐人と言う町の〝むとう〟という洋風居酒屋でゴチになれば、そんな気苦労などどこかへ消し飛んだ。
永井のステージはご当地九州ものの「玄海恋太鼓」からズバッ! と始まる。喜多條忠の詞、岡千秋の曲で威勢がいい。作曲が岡ということは、10年以後の作品。それまでは四方が全曲書いた。育ての親でも10年間独占というのは珍しいケース。その代りに作詞家は2曲ずつ全部変えた。「菜の花情歌」が出てくれば、ああ、あれは阿久悠だ「哀愁桟橋」なら坂口照幸「愛のさくら記念日」ならうえだもみじ...と歌書きの顔が次々に浮かぶ。吉岡治、たかたかし、池田充男、ちあき哲也...とみんな親交つながりで、いい詞を沢山貰ったものだ。
四方がNHKのカラオケ指南番組でスカウト、連れて来たのは中学生時代。せめて高校くらい行かせようと提案したのは、哀しみ系声味が独特で、年に似ぬ節回しと、小柄だがパンチ十分の元気さを持ち、おまけに眼が滅法きれい...と、いいとこばかりが目についたせい。18才のデビュー曲に〝演歌のキャンディーズ〟を狙った「愛のさくら記念日」でお披露め、2作めに「みちのく雪列車」をはさみ、3作めの「哀愁桟橋」がヒットして軌道に乗ったが、いつどこで歌わせても、彼女の力量は何の心配もなかった。
それが後半の10年で「郡上八幡おんな町」「そして...雪の中」「ねんごろ酒」「そして...女」と、年齢相応の味しみじみと、歌に奥行きが出来ている。僕は彼女のステージを、午前の部は舞台そでに椅子を持ち出し、午後の部は4列めくらいの客席でたっぷり聞いた。曲の間のおしゃべりに、まだ可憐さが売りの時期の口ぶりが少し残るくらいで、全体はもう、
《いいぞ! いいぞ!》
のステージである。
ゲストは同郷の先輩西方裕之が「遠花火」「波止場」「赤とんぼ」に新曲「出世灘」を歌い、NHKのど自慢で歌詞を忘れて往生した自虐ネタで笑わせる。もう一人の先輩岩本公水は「片時雨」「能取岬」「対馬情歌」にヒット中の「しぐれ舟」を並べる。イントロからエンディングまで、1曲をドラマに見立てて、主人公を演じる歌唱と仕草の没入ぶりが、この人の歌のうまさを際立たせる。三人三様、やはり生歌はいいもんだ。
面白かったのは、午前の部、午後の部ともに、まず地元の歌巧者が8名ほど、自慢のノドを聞かせた趣向だ。佐賀や福岡の指折りのカラオケの先生とかで「熱祷」「人生の挽歌」「恋の酒」「恋雨港」「娘・長持唄」「アイヤ子守唄」など、めったに聞けぬ難曲が揃う。村田英雄や西方の師匠の作曲家徳久広司がこの地出身で、親しいつきあいの大衆演劇、三代目大川竜之助もたしかここ。そう言えば九州で結成、全国を旅する大衆演劇の劇団は相当数にのぼる。そういうタイプの芸どころなのか、地元の先生には、しわがれ声をふりしぼり、歌をセリフ仕立ての大芝居フィーリングで聞かせる芸達者が目立った。
「それにしてもなかなかの強者ぞろい。それが幕あけを飾るのがご当地の風習なの?」
と聞いたら、興行主の西日本音楽企画吉岡満雄社長は、
「ま、先生たちのお弟子さんも見に来てくれるということで、初の試みです。ハッハッハ...」
と屈託なげ。歌巧者たちは舞台で〝どうだ!〟の1曲、お陰で多少のチケットもはけて...と、ご当地いい気分企画は相乗効果があったようだ。
道中で立ち寄った店の〝とん骨ラーメン〟が、さっぱりしたいい味なのを褒めたら、
「この辺のは久留米系だからギトギトしないの」
と、打てば響いた古川ディレクターも佐賀の出身。車中の地元風物案内が、なかなかに嬉しそうだった。
殻を打ち破れ226回
「愚生、時勢に抗い新譜を出すことになりました」
作詞家もず唱平からの手紙の書き出しである。「時勢」とは「コロナ禍」と、歌手たちがみな開店休業、キャンペーン先一つない実情を指す。その中で「無策のリリース」をしたのだが、作品は『あーちゃんの唄』で、もずの作詞、宮下健治の作曲、三門忠司の歌。
≪そうか、こんな時期だと作家もプロモーションに乗り出すのか!≫
僕はニヤリとして手紙の意図をそう読み取る。ごく親しい相手だけに限ったものだろうが、彼にはやらねばならぬ思いが強く、それを伝えたいのだろう、令和2年の今年は戦後75年、歌のテーマは戦争未亡人だった三門の母親の生涯。いわば実話の個人史が戦後史に通じる素材で、折から敗戦の年と同じ夏から秋である。もずにすれば、今こそ書かねばならぬ歌であり、今こそ世に問い、一人でも多くの人に聞いてもらいたい歌なのだろう。
♪女手一つで このオレを 育ててくれたよ あーちゃんは…
と、歌は始まる。オレは三門自身、あーちゃんはその母で、大阪の下町の呼び方。それが、
♪ガチャマン時代 泉州の 紡績工場の女工さん…
と話が進む。泉州は大阪の紡績が盛んだった地帯で、その機械が「ガチャッ」と鳴るごとに一万円の利益が生まれた時代があったらしい。
三門は今年ちょうど75才。その父は昭和19年に戦死して、子供が生まれたことを知らず、子供の三門も父を写真でしか知らずに育った。母子の暮らしは歌詞の二番に出て来て「十軒長屋のすまんだ」で、働き者の母の女の証しは「マダムジュジュ」と、当時のごく一般的な化粧品が1点だけ。
「すまんだ」に「?」となったが、大阪の方言で「隅っこ」の意とか。これも「ガチャマン」も「あーちゃん」も、あえてなじみのない言葉を使い、化粧品名を出したりするのは、その時代の生活の貧しさにリアリティを持たせたいせいか? ま、歌の文句って奴、全部が全部判りきっていればいいというものでもないか!
作曲家宮下健治が書くメロディーには、時おり春日八郎の歌を連想する。昭和30年代から40年代ごろの匂いがあるせいで、今作には歌い出し2行分に、船村徹メロディーがにじむ気がした。いずれにしろこれらは戦後第一期生が歌や曲にした“のびやかな詠嘆”の魅力。それを今作は三門忠司が、ほどのいい哀愁ただよわせ、のうのうと歌っていい味を作った。南郷達也の編曲の暖かさも手伝っていようか。
≪相変わらずの“未組織労働者ソング”だな≫
ずいぶん昔のことだが、もずは自分の作品のテーマをそう語ったことがある。デビュー作の『釜ヶ崎人情』や出世作の『花街の母』に色濃いが、前者は日雇い労働者、後者は子連れの芸者が主人公。どちらも社会の底辺に生きる人々の哀歓を描いていた。もずは50年におよぶ作詞生活で、そういう庶民の生きづらさやしのぎ方たくましに思いを共有して来た。
師匠の詩人・喜志邦三が名付けたというペンネームからしてそうなのだ。「もず」は孤高の鳥の名前。「唱平」は「常に平和の貴重さを唱え続けよ」という師の願いがこめられたと聞いた。しかし、ものは流行歌である。声高に主義主張をぶち上げる種のものではない。主人公の置かれた状況や心境を、さりげなくしっかり語ることが大勢の共感につながる。
「もずの高鳴き」という言葉がある。梢に一羽、鋭く一声鳴くのがこの鳥の習性である。「もずの速贄(はやにえ)」というのもある。虫や蛙などの獲物を木の枝に刺して示す習性である。もず唱平の反骨は80才を過ぎても衰えることなく盛んなようだ。
《2月公演から214日ぶりの舞台だって。そりゃ拝見せねばなるまい...》
僕がいそいそ新宿の紀伊國屋サザンシアターへ出かけたのは9月30日のこと。24日が初日の劇団民芸公演「ワーニャ、ソーニャ、マーシャ、と、スパイク」(クリストファー・デュラング作、丹野郁弓訳・演出)で開演は午後1時30分である。
「へえ、あんたもそういうの見に行くんだ...」
と言われそうだが、この劇団は僕がスポーツニッポン新聞社づとめ時代のおつき合いで、それを忘れずに20年以上、毎公演お呼ばれをしている。社を卒業して以後、僕が70才で明治座初舞台と無謀な転進をしたのは、歌手川中美幸から声がかかってのこと。以後東宝現代劇75人の会に入り、あちこちの公演に出して貰っているが、それらはみんな「商業演劇」と呼ばれるジャンル。今回みたいに、片仮名だくさんの新劇との取り合わせを、奇妙に思う向きもあるのだろうが、そこはそれ、見るもの聞くものすべてが商売ネタのブンヤ気質、おまけに無手勝流老優の他流見学という殊勝な!? 心がけも手伝っている。
物語の舞台は米ペンシルベニア州のとある邸宅。そこで初老の男(千葉茂則)と養女(白石珠江)が暮らしている。平穏無事、何の不自由も刺激もない二人の退屈な日々へ、男の妹の女優(樫山文枝)が帰って来て、にわかに空気が波立ち、騒動が始まる―。
出演者は6人。それぞれが抱える屈託を一途に吐き出し合う。次第にあらわになるのは一見こともなげな暮らしの陰の、行き場のない不安やあせりや、達観しようとする無理。近ごろはやりの「生きづらさ」の種々相が、ユーモアをまじえて語りつがれていくのだが、自然、山盛りの長ぜりふ合戦である。半可通の僕に言わせれば、それはもう圧倒的な分量で、それを役者さんたちはよどみなく、それぞれの役の胸中のものとして滔滔また滔滔...。
《あれはすごいもんだったな...》
酷暑の夏がぴたっと終わり、急に赤トンボが舞う10月、葉山・森戸海岸を歩きながら、僕はそういうふうに思い返す。東宝現代劇75人の会公演では、作、演出の横澤祐一から、
「今回も辛抱役で済まんね」
と言われることもある。説明せりふが長く、見せ場に乏しいということらしいが、そう言えば友人の、
「よくまあ、あんなに長いセリフが覚えられる」
という感想に、
「お前は俺の記憶力を見に来てるのか? 肝心なのは演技力だろう」
と、まぜ返すこともあった。しかし今回の民芸を見れば、あんなもの長ゼリフの域になど全然入りはしない。
ご多分にもれず僕はも、2月の明治座・川中美幸公演「フジヤマ夢の湯物語」(柏田道夫作、池田政之演出)のあと、予定されていた仕事がみんな中止や延期で、民芸の方々と同じくらいのブランクに見舞われた。もう8カ月も舞台に立っていないのである。もともと発声も演技も、基礎的な訓練など全くないままの、見よう見真似の10年余だ。近々どこかから、さあやるぞ! と声がかかっても、さて、声は出るのか? 体は動くのか? 何とも情けないことだが、全く生理的な部分から、不安がひたひた押し寄せる。
長い巣ごもりのコロナ肥りも返上せねばなるまい。せめて足腰だけでも...と思っての、海岸歩きである。そのくせ砂浜の足許の悪さを避けて、波打ち際の平坦さを選んでしまう。こんなとこまで怠け癖が顔を出す仕儀に、右手にぶら下げた五木ひろしが重い。と言ってもそれは9月頭に彼が浅草公会堂でやったコンサートの、おみやげの買い物袋。黒地に金色で彼のシルエットや横文字の名前が入ったやつで、不要の時はごく小さめにたたみ込めて、トートバッグと言うのだそうな。それにおやつや日常品のあれこれを詰めて帰宅する。そんな買い物も7回目の年男になった今年、コロナ禍のお陰で身につけた習慣である。人間幾つになっても、新しい発見や体験があるのは、幸せなことと言わねばなるまい。
救いの声も突然降って来る。沢竜二からの電話で、
「今年もやるよ、11月30日、浅草公会堂だよ」
大衆演劇界の雄から、恒例の座長大会へのお誘いである。長いこと僕はチョイ役ながらレギュラー出演者。毎回おバカ丸出しのコミカルな出番で、座長たちの二枚目競演の中では、妙に目立って大受けするもうけ役に恵まれている。
《よおしっ!》
沢が歌う昭和おやじの最後っ屁ソング「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」のプロデューサーでもある僕は、俄然気合いが入るのだ。
地方の友人から、よく電話がかかって来る。
「テレビ、見たよ、元気そうで何より。一度遊びに来ませんか。仲間を集めるから、一杯やろうよ」
北海道や山形、島根だの屋久島だのからのものである。久しぶりの連絡のきっかけは、BSテレビ各局の〝昭和の歌回顧番組〟で、僕はそれに呼ばれてしばしば、
『年寄りの知ったかぶり』
のおしゃべりをしている。主な話題の主は、作家なら船村徹、浜口庫之助、星野哲郎、歌手なら美空ひばり、三橋美智也、春日八郎、村田英雄…が中心。みんな密着取材を許された人々だから、手持ちのエピソードが多い。
「それにしても、よく出ているねえ」
と、友人たちは口を揃える。80才を過ぎて隠居していないのは、彼らの周辺では極めて稀。それなのに君は…と言われれば、
「見た目はともかく、近ごろ体の中身はガタガタでねえ」
と、妙な言い訳をせざるを得ない。出演本数が多く見えるのは、BSのその種の番組、やたらに再放送が多いせいなのだ。
番組制作はテレビ局から制作会社に発注されている。僕が世話になっているのはおおむね3社で、自然、プロデューサーと親しくなる。
「今度はあの人で行こうと思うが、どう?」
「あの歌手についてのネタは、ありますか?」
などの打診がある。しかし当方にも得手不得手はある。僕はもともと密着型の体験派だから、取材し損なっている人が対象だと辞退する。実感のないまま、また聞きや聞きかじりをしゃべる気にはならない。
「だからさ、誰か他の人に頼んでよ」
と言うと、電話の相手は即座に、
「それがねえ、皆さん亡くなってしまって、あのころの話を出来るのは、あんたしかいないのよ」
と来る。消去法による人選か! と、当方は憮然とする。
《しかし、戦後の昭和ってのは。凄い時代だったな》
そんな番組の軒づたいをしながら、僕は考える。戦前、戦中に活躍した作家や歌手たちが、戦後しばらくを支える。NHKの連続ドラマ「エール」で俄然脚光を浴びた作曲家古関裕而など、その代表の一人だろう。そして、先に列挙した僕の親密な取材対象は、いわば戦後の第一期生である。そんな新旧の才能がしのぎをけずって実現したのが昭和の歌謡曲だったろう。背景には、敗戦からの復興、高度経済成長、経済大国への成功、それを象徴する東京オリンピックや万国博、やがてバブルの時代が来て、それが弾ける―そんな激動の時代を、歌謡曲は歌い継いで来た。
紅白歌合戦やレコード大賞が派手な演出で茶の間を興奮させた。あのころ、一家団欒がまだあった。老若男女が同じ歌を一緒に支持し、似た思いを託した。生き方考え方に共通する部分があって、共有された生活感。しかし、その陰には次第に、あてどなさや不安、少しずつふくらむ不満が生まれはしなかったか? 敗戦からの驚異的な復興も、右肩上がりの経済も、庶民の犠牲の上に成り立っていた。やがて人々は、富と貧困を軸にした分断を感じ取る。そんな屈託を慰め、励ましたのも歌謡曲だったろうか?
「平成で終わりかと思ったら、令和になってもまだ昭和の歌ばやりは続くねえ」
「平成の枠組みじゃ、こういう番組は作れませんよ。サザンと安室とピコ太郎じゃねえ」
BS各番組のスタッフと僕は、冗談まじりにそんな話をする。音楽的な好みが世代別に細分化の一途を辿っている。流行歌以外の娯楽も圧倒的に増えた。結果の一つとして、ヒット曲の粒はきわめて小さくなった。
《しかし、ちょっと待てよ…》
と僕は踏みとどまる。戦前、戦中に大きなヒット曲が生まれた背景には、庶民が戦争に動員された苦難があった。太平洋戦争に敗れ、そこから復興する道のりにも、やはり庶民の多くが犠牲を強いられていた。つまり老若男女が好みを一つにしたのは、みんなが苦しさや辛さを共有した時代だったのではないか? だとすればおとなが若者の歌に持つ感想と、若者がおとなの歌に持つ感想とが、
「みんな同じに聞こえて、訳が判らない」
となっている昨今は、何はともあれ極く平和な時代なのではないだろうか?
コロナ禍で仕事も思考も停止状態の昨今、僕はそんな屁理屈を口走りながら、『知ったかぶりおじさん』の繁盛を、とても幸せなことだと思ってちょろちょろしている。
殻を打ち破れ225回
季節はずれだが、雛祭りの話である。面白いことに"五人囃子"の面々はロックにドップリ。白酒に飽きた"右大臣"はハイボールを試飲、"内裏様"と"お雛様"はトップの座から、一番下の段に降りてのんびりしてみた。結果気がついたのは、決められた役割が全員にあって、それを無にすると七段飾りが崩れてしまうことだ。
『七段飾り』という歌。歌と演奏は松原徹とザ・ブルーエレファントで、教訓ちらりの童謡ふうだが、これがロック仕立てだから面白い。岡山在住のグループで、地元のRSKラジオの「朝耳らじお5.5」という番組で「今月の歌」を作ってもう10年になると言う。
その中から好評の5曲を選んでCDを作った。『七段飾り』のほかはカエルやホタル、かたつむり、へびなどがそれぞれの生きざまをブルースで語る『6月の歌』、いじめや差別を見据えたフォーク調の『2がつがきらいなオニ』、みんなの応援歌の『勇気
やる気 元気』、未来を語るバラード『この川の向こうには』など。
大阪に僕が関係する「詞屋(うたや)」というグループがある。独自の歌謡コンテンツづくりで、関西から東京一極の歌状況に一矢報いようと、試作集のアルバムをもう2枚も作った。松原はそのメンバーで、詞・曲・編曲・歌もやる。会のボス大森青児の詞の『おやじの歌』や作詞作曲した『哀しみは突然に』などを聞いて、フォークや歌謡コーラス系の人と思っていた。
ところが、届いたアルバムがこれである。『6月の歌』だけ名畑俊子の詞だが、他は詞曲歌ともに松原。童謡と受け取られそうな題材だが、子供にもよく判るメッセージがちゃんと歌い込まれている。
≪それにしても、よくやるわ...≫
と感じ入るのは、松原の歌の伝え方。今年還暦の思慮も分別もある男が一心に率直に歌う。子供の目線と自分の目線が同じ気配で、子供受けを狙う技や媚びなど全くない。至極大真面目で、これが「オトナの男の初心」なのか?
若いころ東京へ出た歌手志願である。歌社会の片隅であれこれ見聞、志得ぬまま岡山へ戻った。当初は演歌、やがてグループサウンズやフォークを体験したろう年代だ。そんな色あいが、今度のアルバムの曲想に出ている。地元へ帰って歌いはじめるのは、よくあるケース。僕にも浜松で大を成した佐伯一郎、埼玉で再びメジャー挑戦の新田晃也、東北にいる奥山えいじ、四国で踏ん張る仲町浩二、北陸の越前二郎ら、友人が多い。僕はテレビで名と顔を売る全国区型だけが歌手とは思っていない。それぞれの地元で、ファンと膝づめで歌い暮らす地方区型も、無名だが立派な歌手ではないか!
ところが松原は、それだけに止まらなかった。平成12年、40才の時に立ち上げたのが、特定非営利活動法人「音楽の砦」で、音楽を通して青少年の健全育成、高齢者の生活環境の向上、地域文化の発展を目指す。拠点は彼の事務所トコトコオフィス。具体的には高齢者対象の音楽セッション、講演や講座、企業の職員研修のためのボイストレーニングなど山盛り。今年はコロナ禍で思うに任せないが、そんな活動があってこそあの歌たちも生まれたのか?
そんな松原を「そんな偉い人の...」とあわてさせた事がある。売れっ子アレンジャー前田俊明の作品の編曲を頼んだ時だ。詞屋のメンバーの杉本浩平作詞の『古き町にて』で、大病で療養中だった前田に気分転換用として曲づくりをすすめた作品。一つの詞に3パターンの曲が届いたが、そのうちのBタイプを採用した。詞屋は歌は作るが歌手難である。乞われればすぐその気になる僕が歌ってアルバム第2作『大阪亜熱帯』に収められた。
前田が亡くなったのは今年の4月17日。『古き町にて』がおそらく、彼が作曲した唯一の歌と思うと、不思議な縁と長い友交に今も胸が熱くなる。

「白雲の城」をガツンと決めた。9月、明治座の氷川きよしだが、気合いの入り方が半端ではない。音域も声のボリュームもめいっぱいの〝張り歌〟で、それが客席に刺さって来る。「気合い」かと思ったがそれを越えて、伝わったのは「気概」の圧力と訴求力だった。
《うむ、なかなかに...》
などと、客席を見回す。僕の1階正面13列5番の席から斜め前方へ、空席が規則正しい列を作る。コロナ禍の最中の苦肉の興行、観客の両脇を1席ずつ空けて「密」を避けた結果だ。平時なら満員になる氷川公演だから、やはり少々寂しいが、時期が時期でやむを得まい。
司会西寄ひがしのトークが、景が変わるごとにかなり長めになるのは、氷川の衣装替えの時間かせぎ。大分板についているのは、氷川と一緒に働いて20年余、彼は彼なりの進化を目指した成果か? お次の景はガンガン音楽のボリュームまで上がって、氷川ポップスである。作詞もしたという「Never give up」を中心に、発声も唱法もガラリと変わるロックで攻め込んで来るさまは、まるで別人。
しかし当方は別に驚かない。6月に出た彼のアルバム「Papillon」を聞いているせいで、呼びものの「ボヘミアン・ラプソディ」をはじめ「Love Song」だの「Going my way」だの、ロックにバラード、ラップなどが14曲、演歌の「エ」の字も歌謡曲の「カ」の字もなかった。その一部が明治座の舞台に乗った訳だが、さて、熟女ファンの反応は? と見回して、これには相当に驚いた。歌謡曲・演歌の時には横揺れに穏やかだったペンライトが、一転して縦乗り。要所では高く突き上げてWAUWAU...。こちらも見事に「進化」しているではないか!
「こちらも...」と書いたが、氷川の昨今は「進化」などより「孵化」「変化(げ)」の印象が強い。今公演の第一部、芝居の「恋之介旅日記」(作、演出池田政之)にも「限界突破の七変化」のサブタイトルがついている。動くグラビアみたいに、「美しい氷川」をあの手この手。おなじみ芸達者の曽我廼家寬太郞、二枚目の川野太郎に今回は、僕の友人真砂京之介が仇役で出ていて、おしまいには大仰に斬られた。山村紅葉の女親分も笑わせるが、そんな中の氷川は、前回のこの劇場公演のこの役よりはセリフも多め、ところどころで見得を切ってファンを喜ばせる。「役者が楽しくやらなきゃ、お客は楽しめない」いつもの池田演出だ。
音楽性も大いに変わったが、並行するビジュアル面も激変した。昔々、丸山明宏(現美輪明宏)の化粧姿は「シスターボーイ」と呼ばれ「異形」や「異能」のただし書きがついた。ところが昨今は、女装タレントも大にぎわいで、それが「異端」などとは誰も思わぬ時代。氷川はそんな時流の中で、ためらわずに彼自身の内面も外面も自由に解放している。最高の価値とする「美しさ」をひたすら求め、信じるままに装い、それを楽しむ自分を歌でメッセージしているように見える。
自分の心の「なりゆき」に任せ、美の世界に「なり切る」生き方を選ぶことは、人気者にとっては相当な覚悟を必要とする。ファンの期待と行き違い、違和感を生み、失望させ、最悪モトもコもなくす恐れがあるせいだ。氷川はそんなイメージの世界を、独特のイメージ展開で切り抜け、熱心な熟女ファンたちまで説得してしまった。
「もう演歌歌手じゃないし...」
と、氷川は舞台でひょいと言った。そう言いながら「箱根八里の半次郎」をはじめ股旅ソング5曲を歌ってみせる。デビュー当時の荒けずりさは残したまま、歌唱に軽やかな味が加わっているのは、彼がロック的現在位置から往時へ「さかのぼって」見せたせいだろう。
「自分を表現することを恐れない。そうすることで新しい発見や出会いがあり、前とは違う人間になれた」
こう語ったのは、人種差別に抗議しながらテニスの全米オープンを戦い、優勝してのけた大坂なおみである。僕は一瞬、彼女の顔に氷川の顔を重ね合わせた。何ごとにも臆することなく、耽美の世界を追求する氷川の勇気と重なったせいだ。
この公演、僕の右隣り、空席を一つ置いた13列3番に吉岡あまなを招いた。亡くなった作詞家吉岡治の孫娘で、ずいぶん昔、川中美幸・松平健公演の明治座で一カ月、僕と真砂の楽屋内を手伝ってもらった縁がある。当時高校生活最後の冬だった彼女は、大学を卒業、もう立派な社会人になっている。
《弾き語りっていいね!》
である。9月2日午後、浅草公会堂で五木ひろしを聴いたが、これがまず第一の実感だった。「ITSUKIモデル弾き語りライブ」「今できること、ソーシャルディスタンスコンサート」がキャッチコピーのイベント。コロナ禍まっ最中だから、観客はマスク、手指消毒、検温、氏名に席番と連絡先を提出、声援はご遠慮、応援は拍手とペンライトが条件。客席1082の会場半分の、529席で前のめりのファン相手に、ギター一本の「よこはまたそがれ」から文字通りの熱唱が圧倒的だ。
気合いの入り方が半端ではない。生ステージを演歌畑じゃまず、俺がやらなきゃ誰がやる式の気負いがあったろう。2月の大阪新歌舞伎座以来、半年ぶりの生歌でもある。前日に1回、この日は2回のステージで、声がやや太めに聞こえたが、それも代表作のあれこれに説得力を加える。途中からバックにキーボード、ギター、バイオリンが加わったが、弾き語りの手作り感はそのままだ。伴奏音が薄いと、自然に歌声が前に出る。歌詞が一言ずつ、生き生きと伝わる。作品への共感や愛着が歌声を熱くする。息づかいも生々しく、歌巧者ならではの声の操り方、ロングトーンが高揚、随所に生まれる情感の陰影...。
よくあることだが、歌が巧みな人の場合、聴く僕の目の前を歌が横切っていく。オーケストラと一緒だと、歌と音楽が寄り添うせいか。いい音楽といい歌のコラボは、それならではの魅力を作りはするが、作品にこめられた真情の色は薄めで流れがちになる。それに比べれば弾き語りは、歌う人の思いと作品の情念が、束になって攻めて来る。歌が聞く僕に向かって、縦に刺さって来る。「横」よりは「縦」の訴求力が、まさに流行歌の命だ。BSフジで7本ほど撮った「名歌復活」という番組で、僕は弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人の4人の弾き語りから、僕はそんな確信を持った。彼らも巧みだが、五木はプロである。比べればそれなりの経験と自負と野心までが歌に乗る。
《演歌っていいね!》
彼の新しいアルバムのタイトルと同じ感想を僕も持った。後輩たちの最近のヒット曲をカバーした選曲で、言わばいいとこどり作品集。その中からステージに乗せたのは、坂本冬美の「俺でいいのか」鳥羽一郎の「男の庵」川野夏美の「満ち潮」山内惠介の「唇スカーレット」の4曲。
旬の歌手にはいい作品が集まるものだが、その鮮度と刺激性を汲み取った企画。そのうえに俺ならこう歌う! の〝お手品〟意識も秘めた歌唱だ。この企画のきっかけになったと言う「俺でいいのか」は吉田旺の作詞、以下前記の曲順に書けば、いではく、及川眠子、松井五郎とやり手の詞で、作曲は徳久、弦、弦と続いて「唇のスカーレット」は水森英夫である。作家同士のココロが動くから、いい詞にはいい曲がつくものだ。
今回のライブのゲストは坂本冬美。2月あたままで大阪で五木と「沓掛け時次郎」を共演した仲で、こちらも半年ぶりの舞台。その間に「俺でいいのか」がヒット曲に育っていた。「夜桜お七」と「また君に恋してる」で新境地を開いた冬美だが、やはり本籍地は演歌。それをこの作品で明確にできたからご同慶のいたりだ。五木の伴奏で歌ったが、冬美の味わいがいかにもいかにも。合わせて吉田旺作品の「赤とんぼ」も歌って、こちらもちあきなおみとはまた違う〝こまたの切れ上がり方〟が面白かった。
《演歌は、フル・コーラスがいいね!》
が、この日考えたことの三つめ。これも「名歌復活」でこだわり続けている点だが、歌詞には全部、起承転結、あるいは序破急の心の動きや物語性が書き込まれている。ところがいつのころからか「テレビサイズ」とカットが当たり前になっていて、3コーラスものなら一番と三番。2ハーフものなら1ハーフ。番組の限られた時間の中に、なるたけ多くの歌手と作品を...という算段だろうが、紅白歌合戦を筆頭に、作品が損なわれること甚だしい。近ごろはそれを前提に二番を手抜きする作詞家がいるが、これなど論外だ! プロの歌手が縮小2コーラスで、下手くそなカラオケ族がフルで歌ういやな現象をどう考えるべきか?
五木はこの日、作品本位を貫いて全曲フルコーラスを歌い、冬美もその通りにした。我が意を得たり! である。今回はベタぼめコラム。僕はひところ五木の歌づくりを手伝った経験があって、歌の巧さはよく判っているが、今回ほど胸に刺さるいい歌と人間味が濃かった舞台は初めてと思っている。

殻を打ち破れ224回
「歌詞の最後の1行でも、じっくり味わって下さい」
というメモ付きでCDが届いた。大泉逸郎の新曲『ありがてぇなあ』で、送り主は大泉が所属する事務所の社長木村尚武氏。コロナ禍、広範囲の水害惨状に心奪われる7月、さっそく聴いてみると――。
♪昇る朝日に
柏手うてば 胸の奥まで こだまする...
と、歌い出しから明るめで、何ともおおらか。そのうえ2番のおしまいでは
♪歳をとるって
ありがてぇ...
なんて言っている。山形あたりで半農半唱、気ままな歌手活動に恵まれている大泉の、老いの心境までにじむ詞は槙桜子。古風だがきっちり隙間がない味わいだ。それに大泉が曲をつけて、こちらは大ヒットした『孫』系のしみじみ泣かせるメロディーを歌う。
≪まぁな、確かにお互い、ありがてぇ日々を送っていることになるわな...≫
僕は「ダイジン」のニックネームで呼ぶ木村氏の笑顔を思い浮かべる。親父さんが山形の名士で、閣僚まで務めた政治家ゆえの愛称だが、昔は日本テレビの有力なプロデューサー、人気TV番組「歌まね合戦 スターに挑戦!!」で、若い才能を発掘「演歌を育てる会」も主導した。スポニチ時代に僕は、彼の番組によく呼ばれたが、ゲストが美空ひばりの場合限定。彼女と親交があり、僕が傍に居ると機嫌がいいのが狙いだったろう。
僕は平成12年にスポニチを退社したが、まっ先に
「俺んとこの顧問に来ない?
俺も日テレ辞めた時は苦労したし、今、大泉が当たってるから多少のゆとりがあるし...」
と誘ってくれたのが木村氏だった。その後、二、三の大手プロダクションからも声が掛かったが、完全にフリーでいたい痩せがまんから、全部ていねいにお断りした。しかし、さほど深いつき合いでもない木村氏からの好意は、第一号だったこともあり、嬉しさが今でも忘れられない。
彼と僕は昭和11年生まれの同い年で、今年は7巡めの年男である。この年でこんな時代に、元気でまだ歌世界の仕事をしているあたりがご同慶のいたり。「ありがてぇ」も異口同音になりそうだ。僕らは毎年秋に、山形の天童市で大いに飲みカラオケに興じた。同地出身の歌手・佐藤千夜子を顕彰する歌謡祭の審査に呼ばれていてのこと。僕の天童詣では、昨年でこのイベントが終了するまで16年連続を記録した。山形育ちの木村氏は、口は重いが歌は軽めに、この会の前夜祭などをリードしたものだ。
天童で忘れられないのは、歌謡祭の実行委員長でこの町の有力者矢吹海慶和尚と福田信子以下のスタッフ。「ホトケはほっとけ」だの「女と酒はニゴウまで」だのとジョークを連発、しかし言外に寓意や含蓄を秘める。和尚は、人生の粋人にして達人。その仁徳に魅かれる熟女たちがボランティアで支えたイベントだから、万事やたらに情が濃いめで、酒は出羽桜の枯山水、肴は芋煮と青菜漬け、めしはつや姫に止めをさす夜が続いた。
それやこれやで、酒どころ、歌どころ、人どころの天童にはまって、最大の催しになったのは昨年11月16日夜の「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」何しろ市の名士・有力者100人余の着席の祝賀会を、はばかりながら発起人代表を仰せつかった僕が取り仕切った。天童の夜もこれが最後! の感慨も手伝ったのが記憶に新しいが、な、な、何と今年、和尚が代表でNAKの支部を作り、今秋も装いもあらたな歌謡祭をやるからおいで...の連絡。和尚との再会、酒も歌ものチャンスがまた貰えることになった。秋11月が待ち遠しいばかり、コロナそこ退け!である。

おや、五木ひろし、ずいぶん若造りだが、結構似合ってるじゃん。ジーンズにスニーカー、手首まくりの青シャツに薄手のセーター肩にかけ、袖を胸もとで結んで、あぐらの左膝を立ててニッコリである。アルバムのジャケットだが、タイトルが「演歌っていいね!」と来た。長いこときちんと〝よそ行き〟の見た目とコメントで通して来たベテランが、こんな〝ふだん着〟の言動に転じているのも、ご時世に添ってのことか?
タイトルの割にいきなり自作の「VIVA・LA・VIDA!~生きてるっていいね!」だから、威勢がいい。一転して2曲目は「俺でいいのか」で坂本冬美のカバー。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、伊戸のりおの編曲でアルバムの本題に入った。お次は「男の庵」で鳥羽一郎のカバー。そうか、その手を考えたのか! と、プロデューサー兼業の五木の胸中に合点する。このところ世に出た後輩たちの作品のいいとこどりを13曲。ラストにまた自作の「春夏秋冬・夢祭り」を据えたサンドイッチ構成だ。
3曲目以降の曲目とオリジナル歌手を並べてみる。「満ち潮」(川野夏美)「唇スカーレット」(山内惠介)「雪恋華」(市川由紀乃)「望郷山河」(三山ひろし)「水に咲く花・支笏湖へ」(水森かおり)「アイヤ子守唄」(福田こうへい)「紙の鶴」(丘みどり)「倖せの隠れ場所」(北川大介)「尾曳の渡し」(森山愛子)「純烈のハッピーバースデー」(純烈)「最上の船頭」(氷川きよし)となる。出版社のクレジットはほとんどが2019年、そうなんだ、去年1年のヒットソングと歌手の顔が、さらっと俯瞰できる妙がある。これを続けたら、年度別ヒット曲五木ひろし歌唱盤が出来あがる。こんなの誰も考えなかったなあ。
選曲は詞本位だったろうか? なかにし礼、吉田旺、いではく、荒木とよひさ、喜多條忠、石原信一、さいとう大三、松井五郎、田久保真見なんて腕利きが並んでいる。いい歌は、いい詞といい曲が力を尽くすものだが、こちらは弦哲也が4曲、水森英夫が3曲、それに杉本眞人、徳久広司、原譲二、幸耕平あたり。いずれにしろ五木好みだろうが、それにしても「演歌っていいね!」と束ねたわりには、定型の3コーラス型は15曲中7曲とほぼ半分。残りは2ハーフタイプの破調で、ドのつく演歌はナシ。この節は演歌も姿形ではくくれなくなっているのがまざまざ。そう言えば愛の表現も多少様変わりして「満ち潮」の及川眠子は「悲しむための愛が終わる」と語り「水に咲く花」の伊藤薫は「いっそ憎んで嫌われて、ひどい別れの方がいい」なんて水森に言わせている。
おや、頑張ってるね! の麻こよみの「尾曳の渡し」はおなじみの道行きものだが「あなたにすべてを捨てさせて、今さら詫びても遅すぎる」と、ひとひねりして女性が主人公。「最上の船頭」の松岡宏一は、お千16才箱入り娘、弥助ははたちの手代...と時代劇仕立てだが、どうやら女性上位の逃避行だ。
それやこれやを気ままに選曲して五木の歌唱も、気分よさそうに気ままに聞こえるが、そこがこの人のしぶといところ。よく聞けば曲ごとに彼ならではの技術が動員されている。女性が主人公の作品は、歌の口調が女性のものではじまりサビあたり、メロディーに乗って歌をあおって行く部分では、芯に男気がちらりとする。望郷ものなら歌がたっぷりめになるし、嘆き唄だと地声と裏表のさかい目あたり、自在の声のあやつり方で哀切感をにじませた。リズミカルに弾む作品は、無心に弾んでみせて、五木らしさは薄めにする。恐らくは、後輩たちの各曲を聞いて「俺ならこう歌う」と歌を組み立てなおした五木流、そのうえで〝どや顔〟を見せないところが、年の功か? いずれにしろこの人に「近ごろ丸くなったものだ」の側面を見る気がする。
おや! を、もうひとつ追加すれば、五木オリジナルの2曲を除く13曲中5曲が鳥羽一郎、川野夏美、三山ひろし、北川大介、純烈の順で日本クラウンの作品。それぞれキャラクターが立っていて「いい仕事してるねえ」と制作者の肩を叩きたくなる。新着アルバム1枚にも、いろんなことが見えて楽しいものだ。
夕刻、友人からざらざら声で、
「俺たちは年配者、テレビは命の危険な暑さを連呼するけど、さて、コロナで逝くのか、熱中症で逝くのか、どっちにしたもんだ?」
と酔ってもいない電話が冗談とも本音ともつかない夏の8月、そう言やお互い7回目の年男だ...と応じながら、五木の気持ちの若さがうらやましくなる。彼は確か6回目の年男のはずだ。

「マザコンだからねえ」
とほめたつもりなのに「吾亦紅」を歌った直後の歌手すぎもとまさとは、作曲家杉本眞人の顔になって肩をすくめた。この曲を彼はもう何万回歌ったことだろう。ほとんど無心で歌える境地だろうが、サビの、
〽あなたに、あなたに謝りたくて...
の個所だけはいつも意識すると言う。あの高音ぎりぎりの切迫感と、他の部分の無造作なくらいの語り口が、得も言われぬ味わいを作っている。
男という奴はみんな、大なり小なりマザコンである。そう書く僕も人後に落ちぬ一人で、杉本の歌を聴く都度、鼻の奥がツンとなる。ことに歌い納めのフレーズ、
〽来月で俺、離婚するんだよ、そう、はじめて自分を生きる...
でカクッと来て、
〽髪に白髪が混じり始めても、俺、死ぬまで、あなたの子供...
で必ず涙っぽくなる。それにしても作詞家ちあき哲也は、何という詞を書き、世のマザコンの男どもにとどめを刺して逝ったものか!
杉本のこの歌を、また生で聴いたのは7月21日、フジテレビのスタジオ。4年間で7本めという不定期番組「名歌復活!」のビデオ撮りの現場だ。弦哲也、岡千秋、徳久広司に杉本と、ヒットメーカー四天王が思い思いに弾き語りを聞かせる。岡がピアノ、他の3人はギターだが、弾き語りの良さは作品の情感があらわになるほか、歌手の人となり、心の暖かさや優しさがにじむことだろう。おまけに全曲フル・コーラスである。各曲、作詞家の思いのたけが、はしょられずに、高い完成度を示す。
今回は今年没後10年の作詞家星野哲郎を偲んで、その作品を4人が歌った。弦が「みだれ髪」岡が「兄弟仁義」杉本が「雪椿」徳久が「男はつらいよ」という選曲。小林旭ファンの徳久はさしずめ「自動車ショー歌」か「昔の名前で出ています」あたりか...と思わせておいて意表を衝いた。
〽わたくし、生まれも育ちも葛飾・柴又です...
のあの名調子をやりたかったらしい。岡の「兄弟仁義」はテンション高過ぎる気合いの入り方から「いかん、いかん」と頭をかいて歌い直しをした。作品との取り組み方、見た目、キャラとは違って極めて生真面目な人なのだ。
楽曲交歓という趣向もある。弦が杉本の「かもめの街」杉本が弦の「暗夜航路」というのが好取組。弦は歌い派だが、この曲の語りの部分と歌う部分を、いい按配の彼流に歌い分けた。「暗夜航路」はキム・ヨンジャが日本での活躍の糸口を作ったスロー・ワルツ。語り派の杉本はそれを、あのぶつ切り心情吐露型歌唱に引き着ける。
《そこまでやるか...》
と僕は笑っちまったが、星野コーナーの「雪椿」だって、遠藤実作曲の演歌を、何と8ビートのノリで歌って、
「俺が歌うと、どうしてもこうなっちゃう」
とニヤニヤするのだ。
《しかし、いい歌が揃うものだ...》
と感じ入ったのは、作詞家の仕事の確かさと豊かさ。岡が歌った自作曲「ふたりの夜明け」と徳久の自作曲「俺でいいのか」は、作詞家吉田旺の旧作と新作。杉本が歌った「青春のたまり場」は阿久悠だし、弦の「天城越え」と「暗夜航路」はともに吉岡治作品だ。これにちあき哲也の2曲と星野哲郎の4曲が加わる逸品オンパレード。
長く体調不良の吉田旺は以前にも増して寡作だが、星野、吉岡、阿久、ちあきはすでに亡い。それぞれと親交のあった僕は、曲ごとに生まれた時期のあれこれを体験しているから、感慨もひとしお。歴史を背負った名人技を回想する心地だ。
《俺はこのスタジオで、一体何をしてるんだ?》
と、我に返ったりする。好評につきもう一作...が4年間で7本も続いた番組で、僕は勝手な時に勝手なことをしゃべっている。それにつき合ってくれる松本明子の役割は台本に「進行」とあり、僕は「聞き手」とあった。そうかそういうことか...と合点、弦の新作「演歌(エレジー)」について知ったかぶりをする。
弦の音楽生活55周年記念曲だが、息子の田村武也が作詞している。彼は路地裏ナキムシ楽団の座長で、フォークソングと芝居をコラボする新機軸演劇の作、演出家で作曲も歌もやる。そういう一人息子が、父親の来し方行く末を見すえた詞に、父への敬意をにじませているのが好ましいと、ナキムシ一座のレギュラー役者の僕は目を細めているのだ。

友人の境弘邦にさっそく電話をした。
「届いたよ、読み返してるけど面白い。各章各節ごとに頭のツカミがしっかりしてエピソード仕立てだ。これじゃ俺の商売あがったりだよ」
と言ったら、声まで笑顔のリアクションは、
「あっちこちから電話がかかりっぱなしで、応対にいとまなしって感じでさ...」
その日、彼の知り合いに一斉に届いたのは、著書「昼行灯の恥っ書き」である。つまりこのコラムの反対側のページで、平成27年秋から2年間、彼が書き綴った「あの日あの頃」が本になった。この種回顧ものは、とかく自慢話の連続になりがちだが、彼は交友録的角度と裏話でそれをうまくかわしていて、好感度が大きい。
「昼行灯」とは子供のころに父親から言われた特徴らしく「ぼんやりしている」の意か? そんな子が長じて「転がる石に苔むさず」を念じ「陰日向なく、好き嫌いなく、無欲で、身を粉にして働いた」日々の記録だ。彼は昭和12年3月、僕は11年10月の生まれで、ほぼ同い年、同じように僕もよく働いた。日本が太平洋戦争に負けた20年は小学校(当時は国民学校)3年生の夏で、その混乱にもろに巻き込まれ、生きることに必死で何でもした。国中が極度に貧しかった時代を、彼と僕は共有していることになる。
本のサブタイトルは「美空ひばりの最後を支えたプロデューサーの手記」とある。
《彼女についても、似た体験をしたんだな。後で考えれば表裏一体の例も多い...》
平成元年6月24日に彼女は亡くなった。享年52、手記によれば境はその日、北陸加賀温泉郷の旅館に居た。音楽評論家対策で、急遽ひばり邸へ戻ったのは翌日の昼前である。僕はスポニチの傍系会社の旅行で箱根に居り、タクシーを飛ばしてひばり邸に入ったのは、当日の午前3時過ぎ。すでに黒山の取材陣がひしめいていた。境の顔を見るなり、コロムビアの宣伝担当大槻孝造は泣いたと言う。緊張が解けたのだろう、午前4時ごろ、ひばり邸に居た関係者は彼一人で、表の取材陣は亡くなった事実確認を急いでいた。息子の和也君を出す訳にはいかないし、僕は彼らと同業、無理を承知で大槻に対応を指示した。亡くなった時間、場所の確認、遺体は戻っているが、事後も含めた詳細は決まり次第発表する...。
境は遺体と対面後に赤坂のコロムビア本社へ戻る。事後の相談と記者会見の準備だ。僕はスポニチの号外をひばり邸の前でも配ることを指示、NHKテレビの午前7時からのニュースでそれが大きく報じられるのを見て、深川・越中島のスポニチ本社へ戻った。徹夜仕事になったスタッフをねぎらい、その足でコロムビア本社へ入る。
役員会議室。コロムビアの正坊地隆美会長をはじめ役員全員に順天堂大学病院の主治医ら3人の医師が揃う。境はその部屋の入り口付近に、社員ではない3人の顔を見つける。ひばりの付き人2人と僕だ。境は一瞬まずい! と思うが、ひばりと僕の親密な信頼関係を考えてそのままにした。記者会見では「医学的に正確な説明をお願いする」のが、役員の希望。それに境が異を唱えた。九州での入院時の記者会見で、ひばりの股関節のレントゲン写真を公表してしまった悔いがあった。だから彼は主治医に、
「必要最低限の報告にとどめ、安らかな最期だったとつけ加えて下さい」
と頼んだ。歌謡界の女王の死は美しいままにしたい。余分なリアリティは必要ない。そう思い定めた彼が、僕を見返す。手記によれば僕は何度も頷いたという。
境は制作責任者として、コロムビアの演歌路線を確立、ひばり作品のプロデュースから衛星放送による全国葬までを立案実現「ひばり部長」と呼ばれた。昭和53年からほぼ12年、僕がひばり密着取材に恵まれたのは50年からのほぼ15年。当初彼には僕が癪のたねだった。事あるごとにひばりが、
「小西さんに聴いて貰って、小西さんは何て言ってた」
と聞くせいだ。しかし彼らが「おまえに惚れた」などで、ひばり作品をカラオケ対応路線に転じ難渋していたころ、本人の質問に僕が、
「ひばりさんならではの大作も魅力的だけど、カラオケファンにあなたらしいお手本を示すことも大事ではないか」
と答えて、結果側面援護をしていた事実を彼は知るよしもない。
没後30年余、境と僕のひばり体験は、そういう表裏一体例を幾つも作っていた。コロナ禍がひと段落したら僕は、彼とそんなあれこれを突き合わせてみたいと考えている。

殻を打ち破れ223回
超深夜型だから、朝の起床は遅め。すぐにテレビのスイッチを入れる。社会の窓を開ける心地で、チャンネルを合わせるのはニュースや情報番組。それをたれ流しに聞き流しながら、朝食はもう昼間近かだ。新聞社勤めのころから変わらぬペースだが、その後がいけない、新型コロナウイルスの蔓延を阻止するための非常事態宣言下では、外出自粛で人に会えないし芸能イベントも全部中止。これでは商売あがったりで、18才でスポーツニッポン新聞社のアルバイトのボーヤに拾われて以後65年、こんなに働かない日々など無かった。
とは言え、秋元順子のシングルは一枚仕上げた。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲、矢野立美編曲で、『帰れない夜のバラード』と『横濱(ハマ)のもへじ』のカップリング。3月中に詞曲があがり、アレンジの打合わせもすませて、4月初旬に音録り、中旬に歌ダビというスケジュール。一流の仕事師たちとのつき合いは嬉しいもので、作業はいい方向へ淀みなく進む。
♪鳴かないカラスが ネオンの上で フラれたあたしを 笑っているよ...
バラードの方の歌い出しの歌詞2行が、第1稿とガラッと変わって面白くなっているのを
「杉本ちゃんとやり取りしてたら、ふっと出て来たんだよね...」
と、喜多條が笑ったりする。
曲調は秋元の希望通りである。前作の『たそがれ坂の二日月』は詞曲同じコンビで、おとなの女の別れ歌を、軽く弾み加減にした。
≪この人には今、こんな感じのものを歌わせたい≫
と、僕のプロデュースはいつも、こちらの思い込みを形にする。過去に幾つかのヒット曲を持つが、みんなこのスタイル。ところが秋元の今回は打ち合わせの席で
「バラードがお望みでしょ?それでいいよね」
「ええ、ええ、是非それでお願いします」
と意見が一致。うまいことその流れの作品になったから、歌の仕上がりも上々の秋元流。サビあたりが少し強めの感情表現で「遊びの限りを尽くした男(やつ)」との別れを、あの含みのあるいい声に乗せた。
「今回も楽しいお仕事になりました」
と言う担当の湊尚子ディレクターのメモ付きで、5月末には完成盤が届いた。バーのカウンターにすわる秋元の目線が、ひょいと男を振り向き加減のジャケット写真で、これも「いいね、いいね」になる。
しかしまあ、4月5月は暇だった。たまにかかって来る電話は、僕の安否確認。年寄りで基礎疾患持ちが一番危いとされるから、
「まさか出歩いたりしてないだろうね。7回りめの年男でしょ。酒盛りも控えることです」
と相手の声音は優しげだ。「一歩も外へ出ない日だってあるよ」と答えると、先方は「えっ?」と聞き返す。僕はよほどの働き者か出好きと思われていたらしい。何のことはない、テレビの前でゴロゴロ、猫と添い寝をするか、本を読み、たまったCDを聴き、たまにはウォーキングも...と、ごく怠惰な日々。
「これで先々、元のペースに戻れるのかしらねぇ」
と案じたら、リモートとやらで珍しく家にずっと居るカミサンに
「80過ぎてんですから、もうそのままでいいんです」
と、軽くいなされた。てことはこれが僕の「新しい日常」とやらになるのかしら?
それにしても、アベノマスクはまだ来ないし、一人10万円も音沙汰なし。首相の「躊躇なく断行」の言葉の意味を疑う。自粛についての指示や張り紙の「当面」と「当分」の混用もいささか気になる。「当面」は「さしあたり」で「当分」は「しばらくの間」の意だから「当面の間自粛」はないよね。
会場の座席番号と姓名、連絡先を渡して来た。6月28日のことで、この原稿を書いているのが7月8日だから、あれから10日経つ。まだ何の連絡もないから、とりあえず無事か。同じような感想を持つ人々も多かろうが、いやいや...とまだ警戒心を維持するのは、歌手加藤登紀子とそのスタッフ、関係者だろう。東京・渋谷のオーチャードホールで、彼女が1000人の客を入れたコンサートをやっての後日―。
プロ野球、サッカー、大相撲などのスポーツや、歌手のコンサート、演劇公演などが、やるとすればすべて無観客、リモートのこの時期、加藤コンサートはちょっとした事件になった。マスコミが詰めかけ、会場入口には落ちつかぬ顔の長蛇の列、マスク着用、サーモグラフィーによる検温、手指の消毒、ソーシャルディスタンスの確保、スタッフはフェース・シールド...。当然と言えば当然だが、およそ娯楽とは縁が遠いものものしさ。だから加藤のステージでの第一声は、
「今日はありがとう。いい眺めよ。相当な覚悟をして来てくれたのよね」
になる。市松模様とはよくも言ったりだが、観客は前後左右を一席ずつ開けて1000人。僕は2階R1列15番の席、つまり舞台に向かって右側の2階バルコニーから、舞台と客席を等分に見下ろす位置についた。
「Rising」「Revolution」と2曲歌ってコメント「知床旅情」からは話しながらの歌になる。歌手生活55周年記念のコンサート。一部はどうやらその年月の自分を振り返る趣向と気づく。「知床旅情」はある男との交友からすくい上げた曲といい、1968年、
「ある夜、ある男と出会い、それから1年後に出来た歌」
とタネ明かしめいて「ひとり寝の子守歌」に入る。大方のファンも先刻承知だが「ある男」とは亡くなった加藤の夫君、全学連のリーダー藤本敏夫氏で、加藤は1972年6月、獄中の彼と結婚している。「誰も知らない」「赤い風船」などを歌い、レコード大賞の新人賞も受賞した歌謡曲系のデビューだが、藤本氏との共鳴を機に、シンガーソングライターに転身した。
中島みゆき作詞作曲の「この空を飛べたら」や河島英五の作品「生きてりゃいいさ」も出てくる。
〽人間は昔、鳥だったのかも知れないね、こんなにもこんなにも、空が恋しい...
という中島の歌詞に胸うたれ、河島との共演のエピソードで共感を語った。その時期の彼女の切迫した思いが、作品と重なったのだろう。「この手に抱きしめたい」から明日を見据える「未来への詩」で、彼女は一部をしめくくった。
加藤は1965年、日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝して歌手になった。石井好子音楽事務所とスポーツニッポン新聞社が共催したイベントだから、スポニチの音楽担当記者の僕は、当然みたいに加藤番になる。以後55年、加藤の歌手活動と同じ年月を、僕は彼女に伴走したことになる。時代が時代だから、彼女と藤本氏の交友は、周囲を騒動とさせた。やがて二人は千葉に大地を守る会と有機野菜などの農場を立ちあげ、3人の娘に恵まれた。加藤は世界各国を旅行、先々から〝共感する作品〟を持ち帰り「百万本のバラ」など多彩なレパートリーを作る。いずれにしろ55年、彼女の生き方は挑戦と波乱に満ちており、精神的浮沈も激しかった。
「ある時、ある人から君はノンフィクションの人だね...と言われて」
と加藤はステージで笑った。彼女の歌手活動と自作自演する作品が、その時々の彼女の生き方やさまざまな出来事と表裏一体であることを指して妙だ。
加藤は当初、無観客で考えた。ところが国が「50%1000人までOK」と指針変更したから「天の声!」と受け止めて、有観客の決行を決めたと言う。1943年12月生まれだから76才のはずだが、この人の姿勢は相変わらず〝鉄の女〟なみだ。低音を街角の老婆の呪文みたいに響かせ、中、低音はひび割れ方そのままの声を限りなくたかぶらせて、思いを祈りに昇華させる。ふっくら堂々の体型を長い布、裾ひろがり三角形のドレスに包んで、笑顔のトークは下町おばさんみたいな包容力も示した。
二部のゲスト出演は次女のYaeで、これまた堂々の声量。千葉の農場は娘たち夫婦が守っていて、加藤家は安泰に見えた。6月28日のこの夜、僕はみんなと一緒に、舞台の加藤とエア・ハイタッチをし、誰にも会わず誰とも話さずに帰宅した。

テーブルの上を透明のアクリル板が横切っている。その向こう側にいる女性は、フェース・シールドにマスク、おまけに眼鏡までかけているから、誰なのか判然としない。と言っても、僕は居酒屋に居るわけではない。僕もマスクをつけたままだし、向き合う女性の右側に居る青年もマスクが大きめである。新型ウイルスの非常事態宣言は解除されたが、東京の感染者数は減る気配もない或る日の東京・神泉のUSENスタジオ。実は僕がレギュラーでしゃべっている昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ、人生は!」でのことで、完全武装!?の女性は歌手のチェウニ、隣りの青年はゲストの歌手エドアルドだ。
ふだんは鼻にかかりる僕のモゴモゴ声が、マスク越しなのが気になって、芝居用の張り声を使った。しかし、どうしても響きが少し派手めになるから、エドアルドの身の上話にはなじまないかな...と気になりながらの録音だ。エドアルドはブラジル・サンパウロ出身。ブラジル人のジョセッファさんという女性が母親だが、生まれて2日後には日系二世のナツエさんの養子に出された。何とまあ数奇な生い立ち...と驚くが、しかし、
「生んでも育てられない女性と、子宝に恵まれない女性の間で、事前に話し合いがすんでいて、こういうこと、あっちではよくある話なんです」
と、本人は屈託がなく声も明るい。結局彼はナツエさんの母になついたおばあちゃん子で、祖母は日本人だった。物心ついたころにしびれたのが日本の演歌で、これはナツエさんの兄の影響だと言う。僕がエドアルドに初めて会ったのは19年前の平成13年。NAK(日本アマチュア歌謡連盟)の全国大会に、ブラジル代表としてやって来た彼が、細川たかしの「桜の花の散るごとく」を歌ってグランプリを受賞した。この大会は100人前後の予選通過者がノドを競う、相当にレベルの高いイベントだが、エドアルドはすっきり率直な歌い方と、得難い声味が際立った。審査委員長を務める僕が、総評でそれをほめたら、本人は日本でプロになりたいと言い出す。僕は「相撲部屋にでも入る気か!」と、ジョークを返したが、当時18才の彼は、150キロを超える巨体だった。
それから8年後、26才のエドアルドは、驚くべきことに80キロ以上も減量して日本へやって来た。大の男一人分超を削っている。
「胃と腸を手術でちぢめてつなぎ直してですね、まあ、栄養失調になってですね、やせました」
これまたあっけらかんと話す彼に、僕のアシスタント役のチェウニは目が点になる。ダイエットなんて発想は吹っ飛ぶ捨て身の覚悟で、歌謡界にさしたる当てもないままの来日。もう一つ驚くべきことに、千葉の弁当屋で働きはじめた彼を、義母のナツエさんが追いかけて来日、息子の野望の後押しをするのだ。エドアルドはその後、テレビ埼玉のカラオケ大会でグランドチャンピオンになるなど、手がかり足がかりを捜し、作曲家あらい玉英に認められて師事、平成27年に32才でデビューした。たきのえいじ作詞、あらい玉英作曲の第1作は「母きずな」で、彼の生い立ちが作品に影を作っていた。
エドアルドの歌手生活は今年で5年になる。最新作は「しぐれ雪」(坂口照幸作詞、宮下健治作曲)で5枚めのシングル。僕が悪ノリしているのは3作めの「竜の海」で、石原信一の詞に岡千秋の曲。越中の漁師歌だが、エドアルドの歌唱は日本人歌手のそれとはフィーリングが一味違って、独得の覇気があった。「心凍らせて」「さざんかの宿」「愛燦燦」などのカバーアルバムが1枚あるが《ほほう...》と思わされるのは「岸壁の母」や「瞼の母」で、やっぱり母もの。プロになって2度、サンパウロで凱旋コンサートをしているが、その時に生みの母ジョセッファさんと育ての母ナツエさんが、手を取り合って嬉し泣きに泣いたと言う。
少年時代から、彼の歌手志願の背中を押したサンパウロでの歌の師匠・北川彰久氏が、今年1月に亡くなった。毎年5月にNAKのブラジル代表を連れて来日した彼とは僕も昵懇だったから、その葬儀には弔辞を届けた。ブラジルの音楽界と日系社会に功績が大きく、カラオケを通じて日本とブラジルの国際交流にも大きく貢献した人だった。
びっくるするような話ばかりにつき合ったチェウニは、異国の日本で頑張る先輩歌手だが、エドアルドの日本語の巧みさに、
「敬語までちゃんとしてる」
と、しきりに感心していた。

殻を打ち破れ222回
五木ひろしの『おしどり』、川中美幸の『二輪草』、キム・ヨンジャの『北の雪虫』、神野美伽の『浮雲ふたり』、田川寿美の『哀愁港』、成世昌平の『はぐれコキリコ』、水森かおりの『熊野古道』、福田こうへいの『南部蝉しぐれ』、香西かおりの『氷雪の海』、丘みどりの『鳰の湖』、藤あや子の『むらさき雨情』など、ざっと思いつくままにヒット曲を並べてみる。実はこれらに共通点がひとつあるのだが、お判りになるだろうか?
もしあなたが、才能に満ち溢れた一人の男の名を挙げられたら、あなたは日本一の歌謡曲通と言ってもいい。答えは「編曲家前田俊明」で、この作品群は全部彼のアレンジで世に出た。
前田の訃報は歌社会の仲間何人かから届いた。彼の息子安章さんが生前親交のあった人々へ、FAXで知らせたものの転送である。脳腫瘍が再発して闘病が長く、亡くなったのは4月17日午後4時44分、通夜と葬儀は23日と24日、桐ヶ谷斎場で家族葬として営む。弔問、供花、香典などは一切辞退とあった。享年70、若過ぎる死である。家族だけで静かに...という思いが即座に伝わる。折から世界に蔓延した新型コロナウイルス禍で、緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出は自粛!が声高の時期だ。
≪不要なんてもんじゃないぞ。親友の弔いだ、何をおいても行こう!≫
一度はそう思った。しかし待てよ!とたたらを踏む。物情騒然の時だけに「心静かに」という遺族の思いは汲まねばなるまい。「密閉・密集・密接」の「3密」を避けたいおもんぱかりもあるだろう。こちらは80才を過ぎていて、感染していない確証もない。押しかけて行くと、かえって迷惑をかけることになりかねない。以前、家族葬へ出かけた経験は何度もある。家族同然のつき合いの仲間を見送った時だ。しかしあれは「平時」で、今は「戦時」だ。と、結局弔問は諦めた。
「そうか、あれが出世作だったんだ...」
僕の問いに前田は好人物そのものの笑顔で答えた。
「山川豊さんのデビュー曲で『函館本線』ですね。1981年だから、もうずいぶん昔です」
そんな取材で知り合って、長くお遊びのグループ"仲町会"の仲間にもなる。ゴルフ場からの帰りに、彼の車に便乗した回数は数え切れない。ギターを買ったのが小学校5年、中学でマンドリンと出会い、クラブ活動で編曲もやり、歌づくりにかかわる決心をする。明大マンドリン倶楽部で教えを受けたのは古賀政男...と、そんな彼の経歴を知ったのは、車中の雑談だった。
毎年夏ごろに、季節はずれの年賀状まがいが届いた。カラー写真の葉書きで、前年に夫人と海外旅行をした報告。毎年のことだから行く先が次第に中南米だのアフリカだの、ごく珍しい旅先になったが、その土地々々で民族楽器を買い求める楽しみもあったとか。歌謡界にも愛妻家はそこそこ居るが、まるで手放しで前田はその代表。
「俊ちゃん、今度はどこへ行くのよ」
と聞けば、
「だんだん行く先がなくなっちまって...」
と、しんから困ったような顔になった。
カラオケを楽しみに出かけたら、画面の編曲者名に気をつけてくれませんか。例えば水森かおりのご当地ソングは全曲彼の手になるし、角川博もそう、永井裕子もそうで、あなたが歌うヒット曲の半分くらいは彼がアレンジしていると気づくはずだ。
「シンプルで花やかで、歌いやすく明解なもの」
を心掛けたと言う前田俊明の編曲は、多岐多彩な作品群と歌手たちの個性を、華麗に染め上げ艶づかせて見事だった。僕は平成を代表する音楽家と心優しい親友を同時に失った無念を噛みしめている。
作詞家星野哲郎は今年、没後10年になる。あのしわしわ笑顔に会えなくなって、もうそんな年月が経ったのか! と、ふと立ち止まる感慨がある。その星野の未発表作品が出て来た。徳久広司が曲をつけ西方裕之が歌った「出世灘」と「有明の宿」のカップリング。2作とも温存されて、何と33年になると言う。
西方は1987年に「北海酔虎伝」でデビューした。佐賀県唐津市の出身。同郷の作曲家徳久に認められ、彼を頼ってこの世界に入った。いわば師弟の間柄だから当然、デビュー曲は徳久が書き、求められて星野が詞を書いた。この時星野がディレクターに渡した詞が数編あり、今作はその中の2編。徳久が改めて曲をつけて新装開店の運びになった。
「出世灘」は「小浜」や「牛深港」「天草灘」などを詠み込んだ漁師唄。「海の詩人」星野お手のものの世界で、主人公が大漁の獲物を贈るのは母親、やきもきさせる港の娘とはまだ他人で、墓所はその海と思い定めていたりする。表現簡潔、すっきりと5行詞3コーラス、ここがこの人の曲者らしいところなのだが、特段新しさを追わないかわりに、今日聞いても全く古さなど感じさせない。
「そこんところが凄いよな、33年も前のものだぜ...」
担当プロデューサーの古川健仁に言えば、
「そうでしょ、いいものはいつの時代もいいんですよね」
と、我が意を得たりの声になる。この件は星野の長男・有近真澄紙の舟社長に事前にあいさつもしたと言う。メーカー各社のディレクターで、星野の薫陶よろしきを得た面々が、生前から「哲の会」を作っていて、古川もその一人。ずいぶん昔の話だが、ある日スタジオから彼と星野が出て来るのに鉢合わせをした。「何の吹き込み?」と聞いたら、
「先生にいろいろ話して貰ったんです」
と、古川が涼しい顔をした。間もなく世に出たのが西方のアルバム「星野哲郎を唄う」で、西方が星野の代表作を歌う合い間に、星野がボソボソしゃべっている。どうやらスタジオで問わず語りを録音したものを、ナレーションとして組み込んでいるのだ。そのころから古川は、思いついたらすぐ...の臆面のない実行派で、星野も彼のそんな〝懐き方〟を許していたのだろう。
デビューの候補作だったから「出世灘」はやや若向きの詞だが、西方はその辺にこだわらずに、さらりとおとなの漁師唄に仕立てた。情緒的なのはカップリングの「有明の宿」の方。
〽どうせ二人は有明の、海に映した月と影...
と、許されぬ男女の道行きソングが、今の西方に似合いだったりする。
「有近さんも喜んでくれましたよ」
と言いながらもう一つ
「うえだもみじさんも喜んでくれましてねえ」
と、古川の声が明るいのは、永井裕子の20周年記念盤「そして...女」のカップリングに、彼女のデビュー曲「愛のさくら記念日」を新録音で加えたこと。実は永井をデビューから10年間、古川と組んで僕がプロデュースした縁があった。いい声味と力を持つ娘だから、デビュー曲はごあいさつがわりに明るく、キャンディーズの演歌版を狙った。面白がっていい詞を書いたのがうえだもみじで、大分前から僕と同じ葉山に住み、作詞はお休み、書道の先生をやっている。彼女にしてみれば、20年も前に手放した子が帰って来た心地かもしれない。
記念曲の「そして...女」は池田充男の詞。
〽この世が果てない海ならば、わたしは沖ゆくうたの舟...
と、女の生き方と歌い手の思いを重ね合わせて、星野同様にきれいだ。作曲は師匠四方章人で、僕らと組んだ10年間はずっと彼が曲を書いた。最近は荒木とよひさ・浜圭介がいい歌を連作しているが、記念曲となればやはり四方の出番で、彼ならではのいいメロディーに力が入った気配。
《知遇を得て星野は師匠、デビュー20周年の永井は孫みたいなものだ...》
浅からぬ縁につながる詩人と歌手の仕事の両方に、これまた親交の長い古川プロデューサーがかかわっている。厄介なウイルスによる〝コロナ・ブルー〟の日々も、ほっこりした気分になる。星野の長男有近や仏の四方ちゃんとは、ここ3カ月は会っていないが、そのブランクも消えてしまうよう。
永井裕子の20周年記念コンサートは、10月に延期して郷里の佐賀で凱旋イベントになる。西方裕之と岩本公水がゲストとやらで、
「四方先生も行くし、一緒にどうです?」
と古川に誘われて、僕はすっかりその気になっている。

「やっぱり中止か。俺はそのイベントを、コロナ明け、仕事再開のきっかけにしようと思ってたんだけどな...」
「ええ、状況が状況ですから、慎重が第一だろうということになって...」
作曲家弦哲也のマネジャー赤星尚也とのやりとりである。今年は弦の音楽生活が55周年の節目の年。4月に自作自演の記念アルバム「旅のあとさき」を出し、6月にはライブ・イベントを華々しく...の計画だった。国が5月25日に緊急事態宣言を解除しても、新型コロナウイルスの感染は、第2波、第3波の懸念が尾を引いていての断念だ。
アルバムは弦のセルフプロデュース、セルフカバーの作品集である。発売しっぱなしに出来るはずもないから、弦は自粛生活の中でも結構忙しいらしい。新聞雑誌やテレビ、ラジオなどのインタビュー。よくしたものでリモート取材なる新手法が当たり前になって、窮すれば通じている今日、時間と手間暇は多少かかるにしろ、弦の情熱や熱意はうまく伝わるらしいのだ。
当方は改めて、記念アルバムをゆっくり聴くことにする。「北の旅人」から始まって「五能線」「渡月橋」「長崎の雨」「天城越え」などの11曲に、リード曲「演歌(エレジー)」を最後に加えた。2500曲を超える作品群から、弦が選んだのは旅にまつわる作品。5年前の50周年には自伝「我、未だ旅の途中」を出版しているが、今度はLP「旅のあとさき」である。人の縁、歌の縁を辿って全国を旅する歌書きの、半生そのものもまた旅であれば、その間の感興を見つめ直し歌い直すのが、この節目の年のテーマになったのか。
「大阪セレナーデ」は都はるみが創唱したが、えっ、作詞も彼女だっけと再認識する。石原裕次郎、五木ひろし、川中美幸、石川さゆり、水森かおり、山本譲二らの歌で知られるヒット曲も全部新しいアレンジで、弦の歌唱用に仕立て直されている。全体が薄めのオケで、ギターがメインの趣向が目立つ。弦が歌を弾き語りの雰囲気でまとめているせいだ。
あの「天城越え」でさえ、弦が声を張ることはない。声を抑え、節を誇らず、言ってみれば情緒てんめん。あふれる思いを胸中であたため、声を殺して伝えようとするが、思いのほどが堰を切って溢れ出す聴き応えがある。ほとんどの歌詞が一人称の話し言葉。女や男が旅の途中で、離れ離れの相手に心情を訴える。背景にその土地々々の風景が歌い込まれるから、主人公の絵姿もくっきりとする按配。そんな作品を選んで今年72才の弦は、演歌、歌謡曲への見果てぬ夢を、僕らに手渡そうとするようだ。
結局作曲家弦哲也は、泣き虫や弱虫の味方なのだと合点が行く。つらいことも切ないことも耐えて忍んで、自分たちなりの明日を探す境地。だから彼の作品と歌は、嘆きや哀しみを芯に据えたうえで、温かく優しく、細やかな情で聴く側を包み込んでいくのだろう。
55周年を代表する新曲「演歌(エレジー)」は息子の田村武也が詞を書いた。ギターが錆びついて指が切れても、意地を貫いた日々...と前置きをして、
〽生きたあの日の、演歌が聴こえるか!
という2行を最後に繰り返す。息子は父の音楽的半生をそう見立て、共感するのだろう。「演歌」の2文字は歌の中ではそのまま発音され「エレジー」のただし書きがつくのはタイトルだけだ。
《ほほう...》
作品リストのクレジットを見て、僕はニヤリとする。「大阪セレナーデ」「新宿の月」やアルバム用新曲4曲のうち「夏井川」を武也がアレンジをしている。弦のこのアルバムは、心情あふれるフォーク系シンガーソングライターである息子との、協演の側面を持つのだ。
父親の弦との親交に恵まれる僕は、息子の武也とも親しい間柄である。「たむらかかし」をステージネームにする彼は、路地裏ナキムシ楽団の座長で、僕はその一座の役者である。ライブハウスからスタートしたこの楽団の公演は、青春ドラマチックフォークの生演奏と役者たちの芝居がコラボする新機軸。もともと〝ナキムシ〟を名乗るくらいに、人情の機微を描いて客を泣かせながら支持層を広げ、最近は中目黒のキンケロシアターを満員にしている。
作、演出から音響も照明も...と、多岐多彩な座長の才能に敬服して、弦とはまた一味違うつき合い方をする。父は父、子は子、それぞれ繊細な感性と独自の活動を目指す2人の芸能者相手に、僕なりの忖度を加えたココロのソーシャルディスタンスだ。弦ママも赤星もと弦一族との日々はなかなかに楽しい。

殻を打ち破れ221回
「謹告 開封後はすみやかに封筒を捨てて、ていねいに手洗いをお願いします」
と、いきなりの赤文字、それに続いて
「封筒は皆さんに届くまでに、いろいろな人が触れていますので、念のためです」
と説明文が黒文字である。新型コロナウイルス禍が世界中に蔓延、日本も危機感つのらせている最中の郵便物。差出し人は青森市の工藤隆さんで旧知の人の心遣い。内容は三橋美智也の後援会報で、工藤さんは「みちや会」本部のボスだ。昭和の大歌手・三橋の偉業を顕彰、各地にある支部を束ねて、精力的な活動が驚くほど長い。
今回で100号を数えるレポートは、A4版17ページの表裏に、後援会活動のあれこれが、写真入りでギッシリの労作。ページの多くを割いているのが、2月15日、上野で開かれた本部新年会の模様だ。この時期すでにウイルスの感染者が各地に出ており、苦渋の決断で決行したと言う。後援会活動は三橋ソングを継承、後々に伝えることを目的としていて、新年会もカラオケが中心。積年のノドと技を聞かせる熟年紳士淑女諸氏の写真が目白押しだ。
≪俺も参加したいくらいの雰囲気だ...≫
何となく、うらやましい気分になる。写真の中に作詞家たなかゆきおや作曲家榊薫人、元キングの制作部長満留紀弘さんらの顔を見つけるせい。ことに榊は僕が世田谷の経堂に住んでいたころ、近所づき合いになって、せっせと通って来た。新宿の阿部徳二郎一門で流しをやり、クラブの弾き語りも体験した東北人でやたらに粘り強い。芯からの三橋マニアだったから、
「もし三橋さんが元気だとしたら、彼に歌わせたい曲を50でも100でも書いてみようよ」
とそそのかして、花京院しのぶの"望郷シリーズ"をスタートさせた。そのうちの一曲『お父う』など、カラオケのスタンダードになっている。
三橋が亡くなったのは平成8年だから、もう24年になる。そんなに年月が過ぎたのか...と、月並みだが感傷的になる。歌謡少年だった僕は、彼のごく初期の作品『酒の苦さよ』や『角帽浪人』からのファン。高野公男・船村徹コンビの『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』は、そのあとのヒット曲だ。スポニチのアルバイトのボーヤのころは、千葉・松戸の流しの友人を頼って遊びに行き酒場で歌ったことがある。エア・ギターで『哀愁列車』専門だった。
三橋との親交に恵まれたのはスポニチの音楽担当記者になってから。それも彼が絶不調のまま紅白歌合戦で『星屑の町』を歌ったあとに、酒席で「引退を考えたりしないのか?」と質問して大ゲンカになった。駆け出し記者の無遠慮を恥じる一幕だが、麻布―銀座―向島と飲んで、双方相当に酔ってもいた。「表へ出ろ!」といきりたつ三橋の前から、そっと逃がしてくれたマネージャーの池ちゃんも、もう亡くなってずいぶんになる。
一件のあと、出演中の国際劇場の楽屋で仲直りしたが、その後はお互い心許した関係。三橋が熱海にホテルを作れば「彼女と一緒においで。最高の部屋を用意する」宝石商をやれば「ダイヤはいらないか、安くするよ」の申し出がある。双方とも丁重に断った。熱海で遊べる身分ではなかったし、半値にしてもダイヤはダイヤ。スポーツ紙記者が手の届く品ではない。
そう言えば...と思い出す。志村けんがコロナ禍で亡くなり、また脚光を浴びた『東村山音頭』は、三橋と下谷二三子のデュエット盤が元祖だった。
それやこれやを思い返す僕は、コロナ禍のために自宅に巣ごもり中。年寄りほど重篤化、持病があればなお...と言われればやむを得ない。記者から雑文屋の60年近く、飛び歩くのが商いだった僕の気分は「コロナ・ブルー」である。
BSテレビで平成の流行歌がよく流れる。新型コロナウイルスの影響が激甚で、番組制作が出来ぬための再放送。当方は巣ごもりのながら視聴で、時に胸を衝かれる。川中美幸の「二輪草」成世昌平の「はぐれコキリコ」水森かおりの「東尋坊」以降ご当地シリーズの全曲、神野美伽の「浮雲ふたり」をはじめ、亡くなった編曲家前田俊明の作品がやたらに多い。彼が平成のこの世界の代表であることを再確認してズンと重いのだ。
訃報は子息前田安章さんのFAXが、友人から転送されて知る。亡くなったのは4月17日午後4時44分で、23日に通夜、24日に葬儀を桐ヶ谷斎場で営む。家族葬につき弔問、供花などは一切謝絶とあった。脳腫瘍を手術、全快して現場復帰後しばらくして再発、また仕事を離れた長い闘病があった。享年70、早すぎる死を家族だけで静かに...の思いがあろうし、コロナ感染の〝3密〟を避けたいおもんばかりもあったろう。意を汲んで僕は後々に無念の弔意を伝えることにした。
つき合いの始めは取材。前田の出世作は昭和56年、山川豊がレコード大賞の新人賞を受賞した「函館本線」で、僕はこれに肩入れをしたスポニチの音楽担当記者。もっともこの時期、親しくなったのは前田ではなく、当時の東芝EMIの宣伝マン市川雅一氏で、双方カラオケのレパートリーにした。
当時の編曲界は斉藤恒夫、池多孝春、川口真、丸山雅仁、桜庭伸幸らが独特の音楽性を競っていた。そこへ参入した前田は、鈴木淳、弦哲也、岡千秋、四方章人らの作曲家勢や各メーカーのディレクターたちと親交を深め、独自の世界を切り開く。曲により飾る色あいはさまざまだが、
「シンプルで華やかさがあり、歌いやすく、明解なもの」
を本人が狙って華麗さが独自でひっぱりだこ。平成4年には藤あや子の「こころ酒」10年には川中美幸の「二輪草」でレコード大賞の編曲賞を受賞。17年と21年にはオリコン・トータルセールスの編曲家部門で1位を占めるブレークぶりだ。
「これも俊ちゃんか! おめでとう!」
「おかげさまで...」
例えば平成10年のレコード大賞。グランプリ候補の優秀作品賞10曲のうち8曲はJポップ系、残る2曲が川中の「二輪草」と田川寿美の「哀愁港」で、双方前田編曲だった。その表彰式、トロフィーを手渡す制定委員の僕と受け取る前田に、
「私語が多過ぎないか?」
と笑ったのが制定委員長の船村徹だった。
そのころはもう、弦、四方に編曲の若草恵、南郷達也、石倉重信らとともに、ゴルフとうまいもの探索の〝仲町会〟に、前田も名を連ねる飲み友だち。四方の作曲で僕がプロデュース、古川健仁がディレクターの永井裕子は、10年間ほぼ全曲、前田にアレンジを託してもいた。
「俊ちゃん!」「統領!」
と呼び合って、ゴルフ場からの帰路、前田の車に便乗したことなど数え切れない。
台東区入谷の生まれ。3軒隣りが教会で、讃美歌を聞きながら育つ。小学校5年の時にお年玉でギターを買った。マンドリンを弾き編曲もしたのが中学時代、作・編曲で身を立てる気になったのが17才で、明大マンドリン倶楽部に入り古賀政男の教えを受ける。ざっとそんな音楽的生い立ちの前田は宝飾屋(かざりや)の男3人兄弟の三男坊。江戸っ子だが温和でシャイな人柄で、律儀で実直な仕事ぶりはもしかすると、父から受け継いだ〝職人の血〟が生きていたろうか?
病気が再発した昨年、
「当分仕事を離れて、リフレッシュした方がいい。ま、我慢も仕事のうちさ」
と伝えたら、
「しばし、外野から観戦させてもらうことにします」
という返事が来た。毎年夏ごろに届いた、愛妻との海外旅行のラブラブ写真つきポストカードはそこで途絶えた。
「退屈してないか? 遊びで曲でも書いてみちゃどうだろう...」
僕がジョークの見舞いで渡した歌詞1編に、嬉しそうに曲を3ポーズも書いた。大阪の作詞研究グループ詞屋(うたや)の杉本浩平が作詞した「古き町にて」という作品。著名な演出家や大学の教授、小説家、エッセイストなど顔ぶれが面白いから僕も長くかかわって来たが、その私家版アルバム第2集「大阪亜熱帯」の最後に前田作品を据えた。知り合いの歌手は山ほど居るが、皆契約先があって手伝って貰えず、結局歌ったのは僕。雑文屋、舞台の役者の2足のワラジの3足めだ。
「統領、歌手としてもなかなかです」
昨年秋ごろ届けたアルバムに、本人から来た電話のお世辞が、最後のやりとりになった。

殻を打ち破れ220回
大切な客が鉢合わせをしたら、どうする?
一人は大阪から来た映画監督の大森青児。もう一人は冬の間、沖縄で暮らしている作詞家のもず唱平だ。さて――。
2月、僕が明治座の川中美幸公演に出演中の話。早々と先に約束したのは大森監督で
「18日は昼の1回公演だけど、それを観た後、会えますか?」
の電話にOK!何かうまいものでも...と返事をした。川中公演で2作ほど出して貰った演出家で、ことに「天空の夢」(明治座、大阪新歌舞伎座など)では、川中相手に大芝居という望外の役に抜擢されている。川中はこの作品で芸術祭の大賞を受賞、陰で僕は「それなら俺はさしずめ助演男優賞だ」などとうそぶいたものだ。大森監督はNHK出身で大河ほか数多くのドラマを手がけ、一昨年、映画第1作の「家族の日」を撮り、僕もちょこっと出演させて貰った。
そんな行きがかりがあるところへ、もず唱平から葉書が来る。
「18日に観劇、そのあと是非懇談など...」
とある。こちらは昭和48年にブレークした『花街の母』以来だから、もう47年の並みではない親交があり、言下にOKを出さざるを得ない。それならば、どうしたか?
「ええい、面倒!」
とばかり、ごちゃまぜの食事会にした。昼の部終演後だから、午後4時には行きつけの月島のもんじゃ屋「むかい」に店を開けて貰って、どういう歓談になるかは出たとこ勝負である。無茶は承知、無茶!?が通れば道理はひっ込むだろう。
その夜、大森監督から手渡されたのは、映画の次回作「もういちど、恋(仮)」のシナリオである。長年のコンビ古田求の脚本で、もう制作実行委員会まで立ち上げている。この人の凄いところは、独特の人脈を辿って、制作費全額をかき集めてしまう有言実行ぶり。前作「家族の日」は故郷岡山をベースに撮影、上映はコンサートに似た自主公開が軸で、北京映画祭にまで呼ばれた。今回はどうやら姫路が舞台になるらしく、もちろん僕の出番もある。
もずが持ち込んで来たのは、久々に新人に肩入れをした作品と、その歌い手。3月にデビューする小川みすずに『何でやねん』と、関西弁の女心ソングだ。小川には伊藤マネージャーが同行していて、この人は以前、僕が山口のりという歌手のプロデュースをした時からの長いつき合い。気がねのない間柄だから、小川のデビューまでのいわく因縁までがあけすけに語られる。その間もずはニコニコと寡黙だがよくしたもので、大森監督は歌謡界の裏話に興味を示して好反応――。
そして3月になる。例のウイルスのせいで"巣ごもり"をしている僕は、しみじみと小川を聞いた。もずの詞が
♪恋が愛には育たずに
死んでしもたんか...
とか
♪美学と云う気か
何でやねん...
なんてこれまでの彼の仕事では見かけなかった言葉使いが新鮮だ。それに浜圭介がゆったりめのブルースの曲をつけている。
≪二人ろも"ほほう"の仕上げ方や...≫
と、僕はいい気分。伊戸のりおの編曲もなかなかで、淡谷のり子や二葉あき子、平野愛子なんて、昔々の歌手のヒット曲を連想するのどかさが懐かしい。
大森監督のシナリオは、ごく限られた関係者用の準備稿だから、ここで内容を書く訳にはいくまい。まだ配役も決まっていないままのものを、僕の役は恐らく...と当て推量しながら読んで、3度ほど胸を衝かれて涙ぐんだ。
しかし、関西人の会話は実に楽しいものだった。大森監督は雄弁の人だし、伊藤マネージャーはそれに輪をかけて多弁にして駄弁。話題もここかと思えばまたあちらで、ユーモラスで賑やか。根にある諧謔精神と軽やかさに、茨城育ちの僕など気おくれして、相づちを打つ間もなかった。
殻を打ち破れ219回
やたらに威勢のいいイントロで、第2幕の緞帳が上がる。中央に大衆演劇の松井誠、バックの男女は彼の劇団員に扮して、一斉に舞い扇の波を作る。ガツンと歌に入ると、
♪泣いてこの世を生きるより
笑って生きろと励ました...
晴れ晴れと、リズムに乗る歌声の主は作曲家弦哲也で、どうやら彼の作品『男の夜明け』と見当がつく。えっ?
それにしても何で? そう思うのは、舞台が明治座、川中美幸の特別公演のせいだ。弦と彼女は常々「戦友」と表現するくらいの親交を持つ。声はすれども姿は見えずで、弦は歌だけ録音の友情出演になった訳か。
≪それにしても、縁が濃いめだ≫
僕が明治座そばの常宿ホテルに入ったのは2月1日の夜。翌日からの劇場でのけいこに備えてのことだが、テレビをつけたら突然弦が出て来た。石原裕次郎のために書いた1曲についての思い出話。その横でうんうん...と、したり顔なのは僕ではないか!
カメラが引いて出演者のみんなが写る。徳久広司、杉本眞人、岡千秋と並んで、僕の右隣は松本明子。何のことはない、BSフジの「名歌復活」の再放送。4人の作曲家を「杉岡弦徳」の名のユニットにして、新曲を!
なんて今ごろ盛り上がっている。
その新曲は『恋猫~猫とあたいとあの人と~』で、史上初の歌謡組曲。昨年末には番組内で披露、CDもテイチクから発売されている。何しろ弦が作曲家協会、作詞した喜多條忠が作詩家協会のそれぞれ会長で、他の面々も要職につくヒットメーカー。
「そんなのアリですか?」
と、当初相当にビビった松本も、そこはベテラン、芸熱心。ひどく個性的な4人のメロディーを読み切り身につけて、なかなかの仕上がりにした。
ところで明治座の2月公演だが「フジヤマ"夢の湯"物語」と題した、下町の人情コメディー。川中が銭湯の女主になっているが、借金を作った父親は行方不明。内風呂が当たり前の昨今では、客足も減って経営不振。やむなく「よろず代行業」を兼業するのだが、何しろ"よろず"が曲者で、笑いのネタには事を欠かない。
そこへまた、滅法ノリのいい写真屋のおやじが現われて、川中の幼な友達役の井上順である。笑わせたい!
楽しませたい! のサービス精神が、けいこ場から全開、セリフと動きの両方にギャグをちりばめて、演出の池田政之を笑わせる。この演出家もやるなら徹底的にと、率先垂範するタイプで、芝居はどんどん長くなるが、本番ではいいとこ取りをしてバッサリ削ることになりそう。
よろず代行のひとつとして、川中は勉強中の落語まで演じる。演目は「時そば」ならぬ「時うどん」で、関西風味に仕立て直したから、麺の種類が変わった。日々の苦心は本題に入る前に並べる"マクラ"で、熱心なファンは何回も観るから、それなりの趣向を凝らす必要に迫られそうだ。
「笑売歌手」の異名をあげたいくらい、川中の笑いづくりは定評があるが、大泣きする場面があるのも毎度おなじみ。今回は15年前に失踪した父親の、苦衷の実情を知って父恋しさが再然、泣き崩れる。彼女にそのタネ明かしをするのが、ふつつかながら弁護士役の僕という段取りだ。
ザ・スパイダースの人気者だった井上とは取材記者時代からの知り合いだが、共演は初めて。もう一人の麻丘めぐみも"左きき"当時からの知り合い。
「70才からこの道に入れてもらってさ」
「そうですってね。お元気で何よりです」
と、ご両人にはいじられられ加減の日々。2月4日初日、25日までのお楽しみである。
「家を出たところで、コンサートも何もやってない。人には会うなというから、散歩してるよ。家からちょっと行くと海があってな...」
しばらく会っていない松枝忠信氏に電話をしたら、相変わらず元気な声だった。もう昔話だが、彼が大阪、僕が東京のスポーツニッポン新聞社で同じ釜のめし。音楽担当記者として、絶妙のコンビぶりを発揮した。両方とも歌社会を跳梁跋扈(少し言い過ぎかな?)するネタ集めで、それを突き合わせて記事にするのが楽しくてたまらなかったものだ。
共通点は「3密」である。今やそれは世界的にご法度だが「密閉」「密集」「密接」がネタの漁場でこちらは漁師。大きなパーティーなど、「密集」する人数分だけネタがあると踏んで、水割り片手に会場を右往左往した。料理に手を出すなど時間の無駄で愚の骨頂。会場に入る前にざる蕎麦をやるのが心得だった。ネタの当たりが来れば以後その人に「密接」し、パーティーのあと個人的に「密閉」の時間を貰ったりする。何しろ手に職がないから「人頼り」の仕事で、コツは「人たらし」だったろうか。
コロナ禍で、人との接触を8割減らせ! の大号令がかかっている。ウイルスを拡大させないためには、巣ごもりするのが最大の闘い方と理解はしている。だから80代の老スポニチOBは珍しく従順だ。松枝はあの大震災を体験しているから、事の重大さは僕よりも深く実感しているかも知れない。しかし、現役の記者たちはこの事態をどうしのいでいるのだろう? 取材活動が不要不急のもののはずなどないとしても...。
《「3密」なあ。俺の場合はもう一つ足して「4密」だったな...》
と思い返す。取材相手に対するとめどない「密着」である。もっともこればかりは、それを許してくれる人に限られるからそう大勢ではない。取材をし原稿を書き、先方の才能や実績、人柄などに感じ入れば、即密着する。事あるごとにその人の側に居ると、会話が生まれネタが増え、それを原稿にする繰り返しの中で、ありがたいことに信頼関係が育つ。そのうち先方から声がかかるようになればめっけもの。こちらは滅私対応になる。
そういう型で知遇を得た人に作曲家では吉田正、船村徹、三木たかし、作詞家では星野哲郎、阿久悠、吉岡治、もず唱平らが居り、歌手では美空ひばり、川中美幸...と続く。縁は弾んで川中は、僕を役者として彼女の一座にまで加えてくれている。相手に密着を許されたら、こちらは長期戦を覚悟する。ネタ集めを急ぐよりは、その人の過去、現在、未来に寄り添い、すべてを吸収しにかかるのだ。いずれにしろ相手は大物である。分をわきまえ、程を心得て接すれば、汲めども尽きぬ宝物に恵まれること必定となる。
取材も芸事も同じで、万事「教わるより盗め」である。常時身辺にいることを認め、盗み放題を許してくれた船村、星野はやがて僕の「師」になった。もっとも歌づくりと取材とでは畑が違うから、先方にその気はない。ところがこちらは自分の生き方考え方にまで影響を受けているのだから、ご両所をあちこちで「師」と言いまくる。長いことそれを続けた結果、船村は
「いつからそうなったんだい?」
と笑いながら聞いたし、星野は、
「それよりもな、ゴルフだけは君の師匠になりたかったんだぞ」
と言い切った。双方ともに見事に免許皆伝ということではないか?
70才で役者になってこの方、この道での師匠は東宝現代劇75人の会の重鎮横澤祐一である。川中一座の芝居で初めて会い、その後一、二度一緒になり、75人の会公演に誘って貰い、僕がその会員になる道筋をつけてくれた。彼が作・演出をする公演にレギュラー出演してもう10年余。けいこ場や舞台で見よう見真似、ずいぶん多くを盗み学んだ。
「踵で芝居をしないとねえ」
酔余ぼそりと、そんなことを言う。芝居をかかとでですか? 要領を得ないまま僕は、横澤の呪文を抱え続けることになる。その後ずっと、出を待つ舞台そでで、僕はその一言を思い返すことが習慣になっているのだ。
僕の他流試合もよく見てくれる。出来がいいと我がことのように喜ぶが、
「楽な芝居をしていて、どうする!」
と、烈火の如く怒って深酒になる夜もある。どこかに「受け」を狙った邪心が見えすいたのか? 真面目に真一文字に、信じたままに行えば、客は反応するもので、余分な技は要らない。
ああ、そういうことなんだ! と近ごろ僕は思い当たる。この国の首相が作ったアベノマスク騒ぎや星野源とネットでの共演というコメディー(!)の質についてだ。あれは自作自演なのか、相当に優秀な演出家が居ての技なのか?

「続いてます? ずっと」
「うん、もう3カ月になる、そっちは?」
「まだ1カ月、めしの後なんかが辛い...」
作詞家喜多條忠とのそんなやり取りは、禁煙についてだ。僕が始めたのは今年の元旦。その後一緒に飲んだ時に喜多條は、
「何でまた?」
などと冷やかし顔だった。それが3月に入って突然「応援禁煙」をFAXで宣言して来た。この際俺も...の便乗型なのに、同じ苦労をして、僕を支援する気らしい。ま、きっかけは何にしろ、やめるならやめるに越したことはない。
4月1日、僕らは東京・関口台のキングレコード・スタジオにいた。作曲家の杉本眞人、アレンジャーの矢野立美が一緒で、このトリオで作った「帰れない夜のバラード」の録音。歌う秋元順子は早めに入って、スタッフに〝おやつ〟を配るなど、こまめに働いている。
「それにしても、こうなるとレコーディングも命懸けだねえ」
集まったミュージシャンも、それがジョークになどならない真顔だ。
3月29日、コメディアンの志村けんが亡くなっている。新型コロナウイルスが世界中に蔓延している最中である。スポニチ一面の大見出しは、
「志村けんさん、力尽く」
だった。体調不調で自宅静養に入ったのが3月17日、重度の肺炎で入院したのが20日、3日後にコロナウイルス陽性が判明、24日に人工心臓装置を装着したものの5日後に亡くなる。その恐るべき進行の早さへの驚きや、稀有の才能を失った無念がにじんだ見出しだったろうか。
彼の死が〝眼に見えない敵〟の脅威を実感的にした。世界を震撼させるコロナ禍の実態をメディアが詳報し、国内の感染者数や死亡例が連日うなぎのぼりでも、どこか対岸の火事、他人事めいていた空気が一気に変わった。有名人の大病は、金の力で何とかなるものだ...とひがむ庶民の暗黙裡のうなずき方も、吹き飛んだ。「不要不急」という4文字熟語の意味が、より深く理解されはじめる。
「力尽く」は3月31日付、翌4月1日付スポニチ一面の大見出しは
「志村さんロス~寂しすぎるよ」
だった。志村が生み出した笑いの数々を思い返す。徹底したムチャクチャどたばたが幼児を含めて全世代を喜ばせた。PTAが「低俗! 下品!」といきりたってもどこ吹く風でコントを量産、彼はテレビが生んだ実に今日的なコメディアンだった。それが、最期を誰にもみとられず、骨も拾われぬまま、カメラの放列に囲まれたのは、実兄知之氏に抱かれた骨壺という異様さ...。
秋元順子の新曲に話を戻す。プロデューサーの僕が喜多條に「考えてちょうだい」と話したのは昨年の暮れ。年が変わった1月、新年会気分の宴会の合い間に雑談ふうな詰め。タイトルはその夜に決まった。禁煙話が出たのもその席。「今さら手遅れだろう」や「えらいこっちゃ」の冷淡な反応があり、試作の歌詞のFAXのやりとりの中で、喜多條が応援宣言をする。杉本が曲づくり、編曲を矢野が頑張った日々がはさまって、歌づくりは2人の男の禁煙騒ぎと並行していたことになる。その間に僕は2月のほぼ一カ月、明治座の川中美幸公演に参加していた。芝居と禁煙が両立できたのか...が冒頭の喜多條発言の真意だったか。
「またひとつ、新しい秋元順子の世界をふやしていただけまして...」
と、やたらに味のあるいい声で歌った秋元順子が言う。カップリング曲など「横浜(はま)のもへじ」で、「へのへのもへじ」の仇名を持つ謎めいた男のおはなし。
「これは秋元さんも歌いたがらないネタだと思ったよ」
と、作曲の杉本まで笑う怪作!? である。
スタジオの内外、マスク姿ばかり目につく光景の中で作業は進む。オケ録りが終わったあたりへ、飛び込んで来たのはコーラス担当の女性2人。
「黒人っぽいフィーリングでさ...」
「OK!」
なんてやり取りのあと、男性コーラスも加わって歌いはじめたから、スタジオ内に眼をこらすと、これが何と杉本と矢野が歌っている。他でもやったことがあるらしく手慣れた呼吸の合わせ方で、秋元の歌のお伴が出来上がる。こういう仕事は、みんなが楽しんでいる雰囲気の中で、その実、芯はまともに競い合うあたりが醍醐味なのだ。
ところで6月に世に出す予定の秋元の歌づくり。この大変な時期に、これが「不要不急」のものか! と問われれば言葉もないが、仕事終わり恒例の一杯はちゃんと自粛した。社会人としての自覚はきちんとあるうえに、コロナが本当に怖いのだが、新曲は歌手の命だろうし、ねえ。

「どんなジャンルを歌いたいの?」
とよく聞かれて、それが悩みのタネだったと言う。テイチクから「私の花」(紙中礼子作詞、花岡優平作曲)でデビューする「ゆあさみちる」という歌手のことだ。
《へえ、そんな枠決めの仕方をそっち側がするんだ、このごろは...》
と、僕はニヤニヤする。
昔々、スポーツニッポン新聞の音楽担当だったころ、僕は歌い手たちによくなじられた。
「俺たちの音楽を、勝手にジャンル分けして、レッテルを貼らないでくれ!」
と言うのが彼らの言い分で、決めつけられるのを嫌った。グループサウンズ、フォーク、ロック、ニューミュージック、Jポップ...と、ポップス系のレッテルは大まかに、そんな流れで、それぞれにまた細分化するレッテルが生まれた。
「短い原稿だからさ、頭に○○○歌手の...とつけなけりゃ、読み手のイメージを絞れない」
と僕は言い訳をし、
「だけどレコード店だって、配列のコーナーでジャンル分けしてるぜ。あれも買い手の便宜をはかってるんじゃないの?」
と、言い返したりした。
歌にしろ音楽にしろ、作る側はより自由な方がいい。それは当たり前のことだ。それなのにゆあさは、作る側の人々からジャンルを問われた。経歴書によれば、4才からピアノ、小学生でトランペット、中学でイタリア歌曲、日本のポップスも。高校でNHKのど自慢、作詞作曲を始める、高卒で上京、CMソングを歌ったり、GLAYのアルバムにコーラスで参加...とある。その間、夢はいろんな形にふくらんだろう。交友関係もそれなりに広がって、影響も受けたろう。そんな時期やりたいものを本人が絞るのはむずかしい。絞れば逆に自分をせばめる不安も生じたろう。
あれこれ思い悩んだ末に、彼女が選んだのが作曲家花岡優平だった。秋元順子を「愛のままで」でブレークさせたシンガー・ソングライター。ゆあさは彼に曲を書いて貰おうとする。新潟・新発田から東京に出て、音楽界の裾野を歩いて何年か、彼女は自分の思いのたけを伝え、花岡の音楽に身を委ねようとした。そうすることで彼女は、自分の世界を絞り込むトライを試みる。
メジャーデビュー曲「私の花」は、ゆあさみちるの柔らかなメッセージソングになった。
〽咲かせるの、私の花は、信じる力で咲かせるの...
というフレーズの繰り返しの中で〝信じる力〟は〝魂(こころ)の力〟や〝愛する力〟に入れ替わる。誰のために、何のために咲かせるのかの問いの答えは「きっと自分のために」と出て来る。
実はこの娘の歌を、僕は昨年、六本木のライブハウスで聴いている。親交のある花岡に誘われてのことだが、その夜僕は彼女の居ずまいと歌が、すっきり率直なことに好感を持った。ライブ慣れした慣れ慣れしさがない。ファンとのやり取りにそれが微妙に表れて、親しげだが媚びがないのだ。花岡作品と彼女のオリジナルらしい作品も、何だか粋にこざっぱりした歌唱に似合った。ライブのあと、近所で一ぱいやって、そんな感想を伝えたのだが、花岡は急いでライブハウスへ戻った。バンドにギャラを支払うためと聞いて、僕はそんな形の師弟関係もあるのかと面白がった。
ゆあさのデビュー盤カップリング曲は、彼女が作詞作曲した「花の名前」である。この春公開予定の映画「セイキマツブルー」(監督ハシテツヤ)のエンディングテーマに使われているという。吐き出せぬ思い、忘れてはならぬ思いを、心に咲く花として育てて行こうというのが歌詞の大意。若いシンガーソングライターらしい一途さが、詞、曲、歌に表れて、やはり長めだ。
《そうかい、妙に花にこだわりながら、この娘は自分の歌を自分のジャンルにすると思い定めたのかい...》
僕はこの新人歌手の、こだわり方をほほえましいものに受け止める。誰だってみんなそうなのだ。音楽や歌だけにとどまらず、文学も絵も書も芸能芸術にかかわる人はみんな、自分だけのジャンル、つまりは独自性、オリジナリティを追求するものだろう。自由に気ままに(ということはそれに見合う苦悩や試行錯誤とともに)物を作る幸せって奴を体験できることを、喜ばねばなるまい。これを書いている3月11日は、9年前に原発事故と東日本大震災が起こった日で、復旧復興はまだ道遠い。新型コロナウイルスの発症が生活や経済に激しく影響、世界中が不安と混乱を充満させて、翌々日にはとうとう「パンデミック」と呼ばれる事態にまで発展している。

「やあ、やあ...」
と、久しぶりのあいさつの響きには、気取りも嘘もなかった。しかし、握手に差し出した手に、一瞬の迷いがある。例の新型コロナウイルス感染を、相手はどう考えているか? ところが、
「僕、手がつめたいんですよ」
と人なつっこい笑顔で、夏木ゆたかはこちらの手を握った。2月27日午後、ラジオ日本のスタジオ。彼の番組に作曲家ユニット杉岡弦徳、松本明子と連れ立って、出演するひとコマ。この番組自体が、前日までは東京タワーのスタジオで、一般ファン相手に公開放送する予定だった。それが急遽、スタジオに変更される。安倍首相が大規模イベントなどの自粛を要請、大騒ぎになった余波の一つだ。まさに号令一下、スポーツも音楽も、一斉にイベントが消えた。引き続き、小中高校も休校せよの指示である。突然の決定に驚きはするが、そのこと自体に異論ははさみにくい。ウイルスの勢いは中国に端を発し日本、韓国へ侵攻、世界各国各地域に広がっている。それもどういう経路でどう伝播するのかがはっきりせず、発症数ばかりが取り上げられ、処置なしと聞けば増殖するのは不安ばかりだ。
「ま、さほどの事ではあるまい」
という根拠のない楽観は影をひそめ、
「なりふり構わず、やる事はやろう!」
などという蛮勇は出番を失う。ことがことだから、誰がどう責任を取るのか、国や政治への不信が募る。国中があきれ返る責任回避状態だ。
2月25日、僕は明治座の川中美幸特別公演の千秋楽を迎えた。観客が大いに笑い「こういう時期にぴったり」の好評を得た一カ月だが、主催者の配慮から貸し切り公演2回分が中止になっている。大勢のファンを招待して、もしもの事があっては...の気遣いがあってのことだろう。長期公演のあとはしばらく、大てい腑抜けになる僕は、27日ラジオ日本のあと、28日から淡路島へ出かけ「阿久悠杯音楽祭」に参加するはずだったが7月に延期、そのほか二、三の行事が中止になってヤレヤレだ。骨休めのつもりだった3月のハワイ旅行も取りやめにした。わざわざ出かけて、東洋人だからと胡散臭い視線にさらされるのもたまらないし、第一、あっちもコロナ騒ぎの最中、熱でも出そうものなら病院にカン詰めにされかねない。
何しろ発症しやすいのは70代80代の老人で、疲れ果てていたり、持病があったり...と言われれば、要素どんぴしゃりと僕は適合する。だから人混みに出るなどもってのほか、家でじっとしているのが一番と言われても困る。そういう種族ってついこの間までは「粗大ゴミ」と呼ばれていたよな...と、お仲間のTORYO Officeの臼井芳美女史に言ったら、
「巣籠りって言うらしいですよ、近ごろは、はははは...」
とリアクションは軽かった。ゴミが鳥や虫に変わったと言うことか!
ところで冒頭の夏木ゆたかの件だが、昔々、彼がクラウンから歌手デビューをした時、僕はスポニチに記事を書いたそうな。そんな話をしながら、毎年5月、全日本アマチュア歌謡祭という一大カラオケ大会に、彼は司会、僕は審査委員長で顔を合わせている。
25日にラジオ日本へ出かけたのは、杉本眞人、岡千秋、弦哲也とこの日欠席の徳久広司の苗字を一字ずつ取った杉岡弦徳作品の売り込み。四人のユニットが作曲、詞を喜多條忠、歌を松本明子が担当した歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」が、何しろ10分近い長さなのを「そのまんま流しましょう」と、奇特なことを言ってくれたのが夏木とこの番組制作者たちなのだ。僕はその作品で、おでん屋のおやじとして松本とやりとり、歌をつないで行く役割も果たす。
「ねえさん、屋台の酒だぜ、そんなに飲んじゃいけないよ」
なんてセリフで、歌が始まる段取りを、この日は生放送だ。作家3人を前にした生歌で、松本も相当に緊張気味だったが、なかなかの味。番組のおまけみたいに松本と岡が「浪花恋しぐれ」杉本が「吾亦紅」弦が「天城越え」を弾き語りで歌って、聞く僕らは昼間からいい気分になった。
「そう言や、2曲あがったかい?」
と、杉本に作曲依頼した秋元順子用の催促をすると、
「ああ、こんな感じでさ」
と、その場で杉本が歌って聞かせる。これがかなりいい感じのバラードで、一日も早く、秋元に歌わせたくなる。役者をやった後は雑文屋とプロデューサー業で、コロナ騒ぎとは言え、幸いなことに巣籠りしている暇などない。

殻を打ち破れ218回
峠は深い。荒れる雪風吹、宿の灯りなど見えるはずもない。そんな光景の中を、一組の男女が辿る。相合傘である。厳しい冬景色の「動」と、行き暮れる女が見せる一瞬の「静」が、いい芝居のクライマックス・シーンを見せるようだ。
作詞家池田充男は、伍代夏子のためにそんな絵姿を用意した。『雪中相合傘』だが、弦哲也の曲、南郷達也の編曲。情緒的な曲と音に包まれて、伍代の歌はひたひたと主人公の思いを語る。不しあわせから出発する道行きソング。男の情にほろほろ泣きながら
♪生きてみせます
死ぬ気になって...
と、女は決意のほどを訴えたりする。
「池田先生から、すごくいい詞を頂きました」
友人のプロデューサー角谷哲朗が、声をひそめたのは、昨年11月19日の夜。月島の行きつけの店"むかい"でやった、仲町会の早めの忘年会の席だ。僕らはその日鎌ヶ谷CCでゴルフをやっての反省会!? で、メンバーの弦哲也や四方章人、南郷達也も居て賑やかなのに、どうしても報告は小声になる。
「そうか、じゃあとでウチにFAXしといてくれ」
僕の返事もそっけない。仲町会は元ビクターの朝倉隆を永久幹事に、元テイチクの千賀泰洋、松下章一、同社現役の佐藤尚、キングの古川健仁、三井エージェンシーの三井健生らに、編曲の前田俊明、若草恵、石倉重信らも加えて歌謡界なかなかのやり手揃い。もう30年以上、ゴルフや酒盛りを繰り返しているが、唯一ご法度なのは「新作」の売り込み。歌づくりの談論風発の楽しみに宣伝要素を持ち込むことは、仲間うちで自制しているのだ。
それからしばらく、暮れに角谷から池田の歌詞と伍代のCDが届く。師走のバタバタの中で、
≪ソツのない奴だ。ま、元気で何よりということか≫
僕は相手の顔を思い浮かべてニヤつく。つき合いの長さが、年数では思い浮かばない。彼の仕事に感想を言い、レコード会社移籍の相談にも乗った、結婚式では主賓を務めている。
「そばで暮らそうと思って...」
とうやうやしく、同じマンションへ越して来たことがある。世田谷・弦巻に住んでいたころだが、僕ン家は5階、相手は10階だったので、
「毎日、俺を見下ろして暮らす気か!」
と、冗談めかしたものだ。そう言えば坂本冬美で『夜桜お七』を作った昔、プロデューサーが僕で、彼はディレクターだった――。
≪そうか、これも有りかな...≫
と、新年、伍代のCDを聞き直してほろりとする。世の中は東京オリンピック、パラリンピックであおり立てられ、陽気なこと手放しである。そんな世相と真逆に『雪中相合傘』の男女は、灯りも見えぬ闇の中を行く。人間、一寸先は判らない。宴のあとには虚脱感がつきものだ、前回の東京オリンピックは昭和39年、スポニチの音楽担当記者だった僕は、事後のスッポ抜け現象を、世の中のあちこちで体験した。もし今回も、そんなふうに憑き物が落ちるとしたら、この歌はぴったりのやるせなさで似合うかも知れない。
≪池田充男の歌は、やっぱり嘆くのだ≫
と思い当たり、それが演歌歌謡曲の根っ子だと再確認もする。カップリングは『拝啓
男どの』と風変りなタイトル。昔なじみらしい男相手に、盛り場の様変わりを伝えながら、
♪世の中どこへどう流れても 咲いていますよ義理人情...
と女が語りかける。背景は神楽坂だ。
"勝手書き"のそんな詞に、池田の元気と若さを感じる。もう90才に手が届くだろう詩人が、伍代に2曲分、そんな熱い思いを託している。ひところ『悠々と...』や『酒暦』などで、人生を総括し加減に見えたのが気がかりだったから、なおさらである。

第一景は公園、その群衆の中の一人に僕は居る。占い師としての装束は、お衣装さんの女性が着せてくれた。小道具もそれなりで板着き、音楽が始まり、緞帳が上がる。緊張の一瞬である。ところが―、
客席がまっ白なのだ。ン? と、一瞬こちらの気持ちがたたらを踏む。目を凝らせばそこに出現しているのは、マスクの大群である。2月、明治座の川中美幸公演、世の中は新型コロナウイルスの疑心暗鬼が蔓延している。中国の武漢に端を発したこの疫病は、正体は判っていても伝播の実態が多様でつかみにくく、国内で死者も出た。とりあえずマスクと手洗い...と対応の指針がシンプルなだけ、東京はマスク顔の氾濫になった。劇場も同様なのだが、面白いのは休憩時間の後の客席。マスクの数が半分以下に減っている。食事のあとはやはり鬱陶しいのだし、危機感もとりあえず棚あげというのが、庶民感情なのか?
大劇場の長期公演に入ると、月日や曜日、時刻などがひどくあやふやになる。ま、やっているのが非日常の世界のせいだろうが、楽屋と舞台の行き来ばかりは、実に正確に規則正しい。次の出番で劇場下手の階段を上がると、途中で必ず仕事が終わった役者に会う。「お疲れさま」「行ってらっしゃい」などと、小声のあいさつを交わし、スタッフの懐中電灯に導かれ、位置につけば、必ず主演の川中美幸の後ろ姿がそこにあるといった按配。彼女主演の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の一場面だが、観客が見ている舞台上の役者の流れと相対する型で、舞台裏も人が流れているのだ。
ふと客席に眼を移す。舞台上の暗闇で揺れるちょうちんの灯りに合わせて、ペンライトが揺れている。灯りを手にする彼我の男女をいい気分にする一体感。川中のヒット曲の一つ「ちょうちんの花」が必ずこういう現象を起こす。
《阿久悠の詞だな、飲み屋の一隅で、〝人生ばなし〟をするという表現が、いかにも彼らしい...》
などと、楽屋の僕は老俳優から突然、はやり歌評判屋に立ち戻る。歌手とヒット曲の関係は微妙で、発表の新旧関係はなく、歌手が舞台に乗せる作品というものが必ずある。川中で言えば「ふたり酒」と「二輪草」は欠かせない。これは彼女の今日を作ったヒットだから当然。その他に必ず歌われるのが、前出の「ちょうちんの花」や「豊後水道」「遺らずの雨」「女の一生汗の花」などだ。
「女の一生...」は彼女と亡くなった母親久子さんの苦しかった一時期をテーマに、吉岡治が詞を書いた。川中がショーの中で、必ず触れるのが母親の話で、この曲が出て来るのは無理がない。面白いのは「豊後水道」が阿久悠「遺らずの雨」が山上路夫と、作詞家は分かれるが、ともに三木たかしの作曲。両作品に川中は特別な感興を持つようで、詞に魅かれるのか、曲に酔うのか、この2曲の川中の歌唱は、いつも情感が濃い目になる。
三木たかしに生前、その様子を伝えたら、彼はひどく驚き、喜んだものだ。歌書きにとっては、ヒット曲を作るのも嬉しい仕事に決まっているが、年月が経過してなお、自分の作品が歌われ続けている喜びはひとしおのものだろう。ところが作家たちは新しい歌づくりに追われるあまり、歌手たちそれぞれの活動の情報はあまり得ていない。作品が一人歩きをしていると言えば言えて、それはそれで心温まる出来事だが、さて、最近歌現場にあまり姿を見せぬ山上は、「遺らずの雨」がそんなに熱く、そんなに長く歌い継がれていることを、知っているだろうか? お節介な話だが、そのうち本人に伝えたいものだと思ったりする。
それにしても...と思うのは、阿久悠、吉岡治、三木たかしらの不在である。彼らは多くの歌手たちに、その財産となる作品を遺して逝った。川中の場合〝しあわせ演歌〟の元祖と呼ばれる、たかたかしと弦哲也が健在で、彼女のための歌づくりに力を注いでいる。それが歌手川中美幸の幸せだろうが、亡くなった歌書きたちの手腕の確かさにも、また改めて思いいたる。近ごろの演歌、歌謡曲は、ずいぶん長いこと作品が痩せ過ぎてはいまいか? 苦しさを増す商業状況があるにせよ、目先の成果を追うあまり、安易に慣れ過ぎてはいまいか?
川中の新曲は「海峡雪しぐれ」で、たかと弦のコンビ作。スタッフから「演歌の王道を!」と言われたと話しながら、川中は哀愁切々の歌唱。共演の松井誠がさっそく「僕も踊りのレパートリーに」と、如才のない発言をしている。

けいこ場に笑いが絶えない。場面ごとに芝居を固める時はもちろん、休憩時間もあちこちで、同時多発的に笑いのかたまりが生まれる。1月下旬の江東区明治座森下スタジオ。2月4日初日の川中美幸特別公演のけいこは、笑い合いながらその割にてきぱきと、事は進んでいる。
笑いの震源地!? は、演出家の池田政之と出演者の一人井上順。柏田道夫作、池田演出の芝居「フジヤマ〝夢の湯〟物語」(二幕)は下町の銭湯が舞台。近ごろは家庭に内風呂が当たり前だから、経営に行き詰まり、女主人の川中が〝よろず代行業〟を兼業することになる。当然、従業員がいろんな役割を果たすのを、ハラハラ見守るのが、川中の幼なじみの写真館の店主井上と、ビューティークリニックの社長麻丘めぐみ。銭湯を我が劇場に! と飛び込んで来るのが、大衆演劇の座長松井誠...。
お話がお話だから、笑いのネタには事欠かない。エピソードの一つずつを、役者が台本通りにやろうとすると、
「もっと面白く行けない?」
「一度下手そでへ走ったら、また戻っておいで。息が上がるまで、行ったり来たり...」
などと、演出の池田が若手役者たちをそそのかす。さっさと応じるのが由夏・芦田昌太郎姉弟だ。
「それならば、こう...」
と誰かが言えば、大笑いしながら即採用。
「こういうのはどうかしらねえ...」
と、割って入るのが井上で、自分の芝居もせりふ回しから動きまで、あの手この手の提案だらけ。
「笑わせる」「受ける」
を、四六時中考えている気配で、けいこ場へ入る前に秋葉原あたりの洋品店へ出かけて、色も柄もこれ以上なしという奇抜な代物を仕入れてくる。僕などセリフがまだ生覚えでへどもどするのを尻目に、衣装から小道具まで、着々とメドをつけて行く。
池田の率先垂範ぶりは、長い演劇生活の博覧強記に当意即妙がおまけ、芸の引き出しが山盛り状態だ。
劇中劇や舞踊はお手のものの松井も、劇団員に扮する男女が集まると即、踊りの手ほどき。
「生来せっかちなもんでねえ」
と笑いながら、休憩時間もあれこれ忙しい。
毎度のことながら、
「いい座組み、いい雰囲気」の中央にいるのは川中で、けいこ場の隅々にまでさりげない目配りとふれ合いづくり、関西の人特有のジョークもちょこちょこ飛び出す。その傍らで麻丘は、おっとりと出を待つ風情がなかなか。「わたしの彼は左きき」でブレークした当時のアイドル性も残しながら、60代の女性の生き方を探る気配だ。29年ぶりの新曲「フォーエバー・スマイル」を加えた自選ベストアルバム「麻丘めぐみPremium BEST」(CD2枚組40曲)が世に出たばかりだ。
《それにしてもお二人さん、ずいぶん久しぶりに出会ったもんだ》
というのが、けいこ場入りした僕の感慨。ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知とはGSブーム初期から親交があり、井上や堺正章、亡くなったかまやつひろしや井上堯之らからは、〝リーダーの客〟として遇されていた。あのころ精かんな二枚目だった井上が、ギャグの虫状態でコメディを手探りしていることに頭が下がる。麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞を獲得したころ、僕はそのスタッフの相談役だった。小澤音楽事務所の小澤惇社長、アルト企画高見和成社長らだが、その二人も今は亡い―。
そんなことに思いを巡らせていると、左手が自然にすっと、タバコの箱へ行く動作になる。
《あ、いかん、いかん、タバコはやめたんだ...》
と苦笑いするのだが、正月元旦から禁煙生活に入っていることを、すっかり忘れているから妙なもの。つまりそのくらい禁煙が苦痛でも何でもなく、食事のあとや酒場で乾杯! の時などに、ふっとタバコに向かう微妙な習慣だけがまだ残っている。
「何でまた?」
「年が年だ、今さら手遅れでしょう!」
「ま、カミサンは喜んでいるだろうがね」
など、ここ1カ月での周囲の反応は、どちらかと言えば冷ややかである。
ま、7巡めの年男としては、音楽業界各位に、妙に慣れ慣れしくなり、スポニチの後輩は全部呼び捨てになっている。役者としてはまだ13年めだが、舞台裏のあれこれも含めて、ともすれば判ったような顔をしはじめるころあい。この辺でそんな自分に、居ずまいを正させないとな...なんてあたりを、断煙の表向きの理由にしている。

殻を打ち破れ217回
信子さんが泣いた!
それも、登壇してマイクを持った瞬間、あいさつにならない。会場は静まり返る。主賓のテーブルに居た僕は、たまらずに声を挙げた。
「信子、泣いていい!泣いてもいいぞ!」
隣りの席の矢吹海慶和尚も、息を詰めている。万感胸にせまる気配で、それは同席した人々がみな、大なり小なり抱え込んだ感情でもあった。11月17日夜、山形県天童市の温泉ホテル「ほほえみの宿 滝の湯」の宴会場での出来事だ。
泣いたのは佐藤千夜子杯歌謡祭の実行委員会福田信子事務局長、見守った和尚は物心ともにこのイベントを支え、主宰した町の有力者で、僕はこのカラオケ大会の審査委員長。この席は大会の打ち上げで、例年なら"後夜祭"と名付けた陽気な宴会である。大会終了後に何も泣くほどのこともあるまいと思われよう。実はこの夜が年に一度で19回続いた大会の、最後の最後に当たっていた。
佐藤千夜子は、当地が生んだ日本のレコーディング歌手の第一号。大会はその実績を顕彰して彼女の名を冠していた。当初は地元本位の催しだったが、次第に全国規模にスケールアップ、最終回、今回のグランプリ受賞者は『人生の晩歌』を歌った千葉県市川市の和田健だったくらいだ。僕は16年連続で審査を務め、東北の歌好きたちの人情とおいしい物を満喫して来たから、感慨もひとしおの一幕だ。
大会は文字通りの"手づくり"で、事務局長といっても信子さんは単なる芸事好きのおばさん。それが準備段階から当日の運営まで、全員ボランティアのおばさんたち相手に率先奮闘の指揮を取った。19年やっても一向に進歩せず、舞台裏はいつも、ドタバタあわてふためくがかわいかったくらいで、信子さんが最後に泣いたのは、そんな大会を毎年支え切った達成感ゆえだったろう。
和尚はそんな彼女らの日々を見守り、事を任せて来た。この人がまた曲者で「酒と女は2ゴウまで」とか「仏はほっとけ」とか、冗談まじりでカラオケと酒をたしなむ。新聞記者時代から今日まで"人を観る"ことをなりわいとして来た僕には、彼が只者ではない見当くらいついてはいたが、その人柄に甘えて"ためぐち"のつき合いをさせて貰った。片言隻語に含蓄と慈味があって、僕の天童詣では、やがて和尚と会う楽しさに変わっていったものだ。
和尚と飲む出羽桜の「枯れ山水」は美味だった。癖になったのは「青菜漬け」や「いも煮」めしは「つや姫」に止めを刺し、酒どころ、歌どころ、人どころの東北の妙に、僕はすっかりはまった。旅という奴は、神社仏閣見聞に物見遊山、近ごろはご当地グルメばかりだが、何と言っても第一は、逢いたい人に逢える醍醐味だろう。
今大会の前夜祭は、和尚の「米寿を祝う会」になった。例年大会前夜は、和尚はじめ関係者と食事、二次会ふうにくり出すスナックで、カラオケに興じて来た。祝う会の発起人代表に指名された僕は、そのレベルのお遊びを兼ねての催しと早合点しいたが、案に相違のスケールだった。ホテル玄関の立て看板には「矢吹海慶上人の米寿を祝う会」とあり、何と"上人"である。参会者百余名が着席の宴席で、夫人同伴の和尚はカラフルな法衣をまとって壇上におさまる。僕は金屏風を背負ってのあいさつで、少々たたらを踏んだ。
改めて和尚の正体を知る。観月山妙法寺第十八世住職で、任ずること六十五年、日蓮宗大荒行寒中百日間を5回達成。市民文化会館と中央公民館の初代館長を兼務したほか、元、前、現を合わせ市の文化、教育全般で数々の役職を務める仁徳。山形いのちの電話理事、平成のかけ込み寺を営んで、舌がんの予後をカラオケでやってのけた八十八才、すこぶる元気と来る――。
――これではもう、今度会っても"ためぐち"をきける自信など無くなりそうだね!
舞台に巨大な将棋の駒が11個も並ぶ。それを背景に2人の男が対峙している。おなじみ、阪田三吉と関根金次郎の因縁の対局シーンだ。駒の間から男たちが現れる。舞台上手の数人が関根側、下手が阪田サイドで、彼らが、盤上の戦いを中継、解説、応援、言い争う。それぞれ口調が激しい。
《そうか、そういう手があったか!》
僕が合点したのは、勝負の内容ではなく、熱戦の様子を劇場の客に伝えるアイデアについてだ。映像なら棋士2人の表情の変化や駒を動かす手や指、取り囲む人々の動揺や感嘆などを、たたみ込んで熱気を表現できる。ところが芝居だと、そうはいかない。歌手三山ひろし扮する阪田三吉は、前かがみに盤上を見据えているだけで、客席からは遠い。
明治座の正月公演を見に行った。三山が初座長で「阪田三吉物語」をやる。映画や芝居でよく知られている演目。どんな按配か? とのぞいたのだが、これがなかなかの新趣向。立川志の春の同名の新作落語の舞台化で、志の春本人が冒頭から出語りで一席、劇中もちょくちょく現れて味な狂言回しをやる。三吉の生い立ちから最期、その記念碑のありかまでを時系列で説明し尽くすのだ。
無頼の賞金稼ぎ時代から関根との出会い、東西で反目する将棋界と双方を取り込んでの新聞社の暗闘、女房小春の献身とその死などのエピソードも次々に出て来るが、判りやすいことこの上ない。そのうえ三山三吉が要所で己の心境を語って客をうなずかせ、突飛なアクションで笑いを取る。破天荒な人物像を、熱演また熱演する従来の阪田ものに比べれば、淡白クールな仕上がりで、それが〝役者三山〟らしさの作り方か。
世の中、バラエティーばやりが長く続いている。テレビは芸人たちのおしゃべりが山盛り、ニュース番組のコメントにまで笑いの要素がちりばめられる。そんな風潮が蔓延してか、若者間で人気がある仲間はオモシロイ人、ヤサシイ人...。こうなれば、歌手の大劇場公演も笑いとは無縁ではいられまい。それもめいっぱい真面目にやって、結果オモシロければ最高だろう。三山の第二部オンステージは「FirstDream2020」のサブタイトルがついて、これでもかこれでもか。
三山が「雨に唄えば」などの映画音楽を「踊る」のだ。年配のファンはフレッド・アステアなんてあたりを思い浮かべそうなシーン。それを舞台いっぱいに展開して、そこそこ様になることで一生懸命さをアピールする。それに例の「俵星玄蕃」の長尺熱演を並べ、お次が昭和歌謡のミュージカル仕立て。「神田川」「青春時代」「結婚しようよ」「3年目の浮気」「うそ」「木綿のハンカチーフ」などの歌詞がクスグリのネタで、三山青年とその恋人の、同棲時代から破局までのドタバタ・コメディだ。
芝居とヒットパレードの二本立てという、従来のパターンでは近ごろのファンは納得しない。いつのころからか面白おかしさを期待する風習が行き渡ってしまった。カラオケのお仲間と一緒に好きな歌を聞き、あんな顔してあんな事する...と思いがけない寸劇で大いに笑い、ああ、よかったねと三々五々家路につく。ファンにそうあって欲しいと思えば、三山も奮闘せざるを得まい。大阪・新歌舞伎座は体験したが、東京明治座は初主演。
「デビュー11年めで、こういう大舞台に立たせていただけるのも、皆さまのご支援あってこそ...」
のあいさつを、社交辞令どまりにしてしまうわけにもいかない。
それやこれやの阪田ものと、ショーの品ぞろえ。おしまいには「望郷山河」「男の流儀」などのヒット曲に紅白歌合戦出場の感想などもチラッと話して、新曲「北のおんな町」は「買ってね」とタイトルを連呼、また笑いを誘う。酷使しているノドは大丈夫か? まだ若いんだから体調は維持できるだろうな。結局これは文字通り彼のワンマンショーだ。やれやれお疲れさん! そう思いながら僕が席を立とうとしたフィナーレで、いきなり三山が翔んだ。白いスーツの背中に天使みたいな羽根をつけての宙吊り。それも舞台上空を縦横無尽。スイスイとかっこ良くポーズしたり、溺れるようにバタバタしたり。客席の嘆声の中で、すうっと降下すると舞台中央、共演者と一緒に三方礼である。
僕が観たのは1月14日夜の部。3日後の17日にはこの劇場の2月公演、川中美幸主演の「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の顔寄せがある。共演者の一人の僕は、今度は〝いい笑いづくりのお手伝い〟で、同じ舞台を行き来することになる。

殻を打ち破れ216回
ヒョウタンからコマ...という奴が、実現した。作曲家たちとたくらんだ歌づくり。それが歌謡史上初の組曲に仕上がったから、やっていた連中さえ、なかば驚き、なかば呆れ、なかば興奮状態である。作品名は『歌謡組曲「恋猫」~猫とあたいとあの人と~』で、作曲が杉岡弦徳、作詞が喜多條忠、編曲が南郷達也と、みんな親しいお仲間。歌ったのはタレントの松本明子で、20分余の大作になった。
冗談の発端はBSフジで不定期に放送されている「名歌復活」という番組で、作曲家の杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司が思い思いの曲を弾き語りで歌うのが売り物だ。タイトルから判る通り、彼らの作品や彼ら好みの埋もれたいい歌を発聞掘するのが、当初のコンセプト。弾き語りの味が絶品で、必ずフルコーラス...という趣向が受けた。高視聴率に放送局や制作プロダクションが気を良くして、またやろう!もっとやろう!と、放送する機会が追加、また追加。もう本番は6回くらいになるか。BS番組の特徴で、再放送が多いから、ずい分長くかかわっている気がする。
僕と彼らの野放図な雑談にも、進行係の松本がすっかり慣れたころ、≪松本明子を歌手にしよう≫という話が、番組内で持ち上がった。せっかく名うての作曲家が揃っているのだから、曲はみんなで書こうと意見が一致。彼らの姓から一文字ずつ取った「杉岡弦徳」という作曲ユニットが出来あがる。作詞は喜多條忠にと僕が提案、これまたいいね!いいね!とまとまった。弦が作曲家協会の会長、喜多條は作詩家協会の会長でもある。あまりの大物揃いに歌手を指名された松本明子は、眼が点になり、ほとんど悶絶状態――。
それから約2年、ああだ、こうだ...のやりとりが交錯して、組曲「恋猫」は出来あがった。無茶ぶりだよこれは...と、悪乗りの渦に巻き込まれた喜多條は、杉岡弦徳それぞれの顔を夢に見て、うなされたとも言う。体裁は五つの歌詞をそれぞれ1コーラス分ずつ、作曲者のイメージに合わせて、全く異なる行数。失恋をぼやく女の第1コーナーを岡、男との出会いを回想する第2部を弦、飼い猫相手の愚痴の第3部を徳久、人生なんてそんなもんさと諦めかかる第4部を杉本がそれぞれ作曲、最後の第5部は4人がセッションして完成という具合い。全体を音楽監督ふうにリード、取りまとめたのは弦の役割だ。
青ざめて、必死で頑張ったのが松本である。各パートそれぞれに、ごく個性的な歌書きたちがとても個性的なメロディーをつけている。そのデモテープ相手に日夜歌唱の予習、復習のくり返し。内心「大丈夫かな?」と危惧した僕らを尻めに、彼女は見事にやたら高いハードルをクリアした。4人の作曲家が拍手したくらいの仕上がりである。
災難はいつふりかかるか判らない。あわせて5コーラスの歌の合い間を、女主人公と誰かの会話でつないだ方が物語性が濃くなるという話になり、お鉢がプロデューサーの僕に回って来た。舞台で役者をやっている経験を生かせ!と衆議一決、おでんの屋台の親父の役柄で、失恋女の松本と僕のぼそぼそセリフのやり取りが合計5ヵ所も。言いだしっぺは弦で、スタジオで僕にダメ出しをしたのは喜多條である。
10月24日、フジテレビの湾岸スタジオでやった「名歌復活」のビデオ撮りでも、それをそのまま再現した。引くに引けないノリの僕と、もはや余裕もにじませる松本のセリフと歌唱。背後でニヤニヤしているのが杉岡弦徳の4人と喜多條という20分余。NGなしで何とかやりとげた光景は、12月7日夜、3時間番組の最終部分でオンエアされる。恐るべきことにこの組曲「恋猫」は、やはり12月にテイチクからCDとして発売される。松本は上機嫌、僕は当分冷や汗をかくことになる。
暮れギリギリに台本が届き、正月は友人たちとの飲み会のあいまに、それと首っぴき。2月4日初日の川中美幸特別公演「フジヤマ"夢の湯"物語」(柏田道夫作、池田政之演出)で明治座に25日まで、詰め切りになる。
主演の川中は、経営不振の銭湯「夢の湯」を抱え、ご町内何でもOKの代行サービス業で大わらわ。気をもむ写真館の主井上順、実業家麻丘めぐみや大衆演劇の座長松井誠らがからむ下町人情劇だ。僕の役は川中に寄り添う弁護士だが、ことらもいろんなキャラで出たり入ったり。コミカルな役づくりで楽しくお手伝い・・・を目論んでいる。
松井は二度目、ほかに安奈ゆかり、由夏、穐吉次代、小早川真由、深谷絵美ら親しい顔ぶれとご一緒。三宅祐輔とは十手かざした親分子分で、大阪新歌舞伎座の花道を逆走した思い出がある。
思い出と言えば、井上順がスパイダースのボーカルでGSブームの人気者、麻丘はレコード大賞の最優秀新人賞をゲットしたころのつき合いだが、いずれも僕の取材記者時代の話。役者になっての初対面で、2人がどんな顔をするかが楽しみだ。顔寄せけいこ始めは1月17日である。
恒例の沢竜二「旅役者全国若手座長大会」が12月12日、浅草公会堂で。沢公演参加10年めで、初の女形役をやった。演目は「次郎長外伝・血煙り荒神山」。吉良の仁吉の家で働く女中3人組の一人お杉だが、今回も頬と鼻の頭を赤くしたおてもやんふうオッチョコチョイの造り。
訪ねて来た旅人に一目惚れ、身をくねらせて投げキッスをしてセリフも一言、二言。いつもチョイ役だが、相手は座長たちでみんなめいっぱいの二枚目ファッション。僕ひとりがオバカだから、やたらに受ける。「あんたは体中で芝居をするのがいいところ」と、座長の沢は毎回三枚目の役をくれるのだ。
友人の小森薫が手伝いに来たが"女装"と聞いて悶絶、近くの和服店へ飛び込んで、着せ方を教わって来た。その心配は無用で、着付けをしてくれたのが座長の一人市川富美雄の奥方。大衆演劇には床山さんやお衣装さんなど居ないが、急を知ってのボランティアだ。着付けをすませ、帯をポンと叩いた彼女と共演の岡本茉莉から、僕のオバカメーキャップに「かわいいわね」の一言があった。
川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座を手始めに、東宝現代劇75人の会、路地裏ナキムシ楽団、門戸竜二の大阪遠征に続いて沢竜二大会と、令和元年、僕の芝居行脚は合計5公演で打止め! 観て下さった諸兄姉に深謝、令和2年は2月明治座「川中美幸」公演でスタートです。
ちなみに門戸の「デラシネ」(田久保真見作詞、田尾将実作曲)と沢の「銀座のトンビ」(ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲)は、ともに僕のプロデュース作品。二人がそれぞれの舞台で熱唱するのを、楽屋で聞くのは気分のいいものだ。
羽田から関空へ飛んで、電車に乗り換えて阪南市へ。大阪だがかなり和歌山寄りの場所。その市立文化センターの開館30周年記念公演へかけつけた。大衆演劇のプリンスモンド竜二一座に加わって、演目は人情芝居「あにいもと」。
大店伊勢屋の若旦那(田代大悟)が、芸者に入れ上げて50両の借金を作った。僕は金貸し山路屋で、抵当に取った"雪舟の掛け軸"を売り飛ばそうとするチョイ悪。若旦那の窮地を救おうと一計を案じた大工(門戸)と障害のある妹(吉野悦世)の美人局にひっかかって、ひどい目に合うドタバタ騒ぎだ。
成田の門戸のけいこ場で2日ほどけいこをして、1回こっきりの本番。以前竜小太郎らとやったことがある役だから、委細承知とおおむねスイスイだ。共演は他に朝日奈ゆう子、本州里衣、蒼島えいすけ。磨呂バンドの歌謡ショーと、恒例の舞踏がついた3部構成である。
在阪の役者細川智と松田光生が激励!?に現われたのに仰天したが、久しぶりに楽屋で懐旧談。1泊2日でひと仕事は初体験だったが、旅公演は楽しいものと再確認した。11月23日と24日の出来事である。
演歌をジャズ・アレンジで歌う。バックはピアノ、ギター、ベースのトリオ。曲目は「ちょうちんの花」「遣らずの雨」「豊後水道」で、川中美幸はまっ赤なドレスに思い切り長めのパーマネント・ヘア。遊び心たっぷりの演出に、ディナーショーの客はノリノリになる。12月8日のホテルオークラ。少し早めの忘年会、あるいはクリスマス・パーティーの気分だ。
川中はこの日が誕生日。実年齢を肴に、老後のあれこれをジョークにする。新曲「笑売繁昌」をそのままに、この人のトークは定評通りで、爆笑、また爆笑の賑いを生む。関西出身ならではの諧謔サービスが行き届いて〝飾らない飾り方〟が身上だろうか。
「ふたり酒」や「二輪草」「男の値打ち」など、おなじみのヒット曲は着物姿で決める。「女の一生汗の花」になれば、当然みたいに亡くなった母親久子さんの話になる。辛い時期を二人三脚で越えた相棒でもあるから、母をテーマにした16曲のアルバムも「おかあちゃんへ」がタイトルになっている。10月1日が祥月命日、その一周忌法要も済ませていて、少しは心がなごむのか、母の遺した入れ歯をカスタネットに見たてて、
「それがカタカタいってかわいいの」
と、またジョークだ。
ゲストは作曲家の弦哲也。「ふたり酒」で〝しあわせ演歌〟の元祖になった仲だから、お互いを「同志」と呼び「戦友」に例える。「とまり木迷い子」をデュエットしたあとは、弦が「北の旅人」「裏窓」と「天城越え」をギターの弾き語り。前2曲は石原裕次郎、美空ひばりに書いた作品で、
「昭和の太陽のお二人に歌って貰えたことが、最高の思い出」
とコメントすれば、会場の昭和育ちが、それぞれの青春を思い返すことになる。弦の自画像的作品「我、未だ旅の途中」に共感する男たちも多い。
川中、弦ともに長い親交のある僕は、十分にリラックスして彼女と彼の歌、それに上物のワインに酔い、なかなかのディナーを賞味する。会場には二人の後援者たちの顔が揃う。その誰彼にあいさつをしながら、僕は知らず知らずのうちに知己が増えていることに気づく。縁につながるということは、心地よくありがたいものである。
当然みたいにショーの打ち上げにも参加する。来年2月の明治座公演「フジヤマ〝夢の湯〟物語」の話になる。川中から声をかけて貰っての舞台役者、レギュラー出演してもう13年。近ごろ何とか格好がついて来たと言われたりする僕は、この席でも川中一座の老優のたたずまいだ。それにしても...と、共演する井上順や麻丘めぐみの件を持ち出す。井上は元スパイダースのメンバーで、リーダー田邊昭知と僕は昵懇の間柄である。麻丘は昔々、森昌子らとレコード大賞の最優秀新人賞を争ったプロダクションの陰に居た。二人とも僕が役者兼業であるとは知らぬはずだから相当に驚いているだろう。
弦哲也は歌手の田村進二時代からの知り合い。仲町会のメンバーとして公私とものつき合いがあり、彼が作曲家協会の会長になったことを契機に、レコード大賞の制定委員に呼び戻された。〝昔の名前〟のお手伝いである。最近は杉本眞人、岡千秋、弦哲也、徳久広司と売れっ子たちの苗字を一字ずつ取った作曲ユニット杉岡弦徳の歌謡組曲「恋猫~猫とあたいとあの人と」をプロデュースしたばかり。おまけに弦の指名で、おでん屋台のおやじに扮し、歌った松本明子と曲間の小芝居までやった。この有様はCDになり12月テイチクから発売と来たからもう、アワワアワワ...である。
打ち上げの席には弦の長男田村武也も居た。こちらはご存知路地裏ナキムシ楽団の座長たむらかかしで、今年10月、めでたく第10泣き(つまりは第10回)公演を成功させた。彼と僕は
「統領!」「かかしさん!」
と呼び合う数少ないレギュラー出演者。若者たちの熱気溢れる音楽と芝居に、ひたすら平均年齢を引き上げるお仲間になっている。この楽団は来年の令和2年5月に、小豆島へ遠征公演が決まっていて、その話も酒席の肴になった。これを書いている12月10日は、記念すべき10回公演の映像試写会が青山であるから、その分も浮き浮き...だ。
それやこれやの年の瀬である。来年は84才、何回りめか数えるのも億劫なネズミ年の年男。それもこれもよくして下さるお仲間があっての幸せで、何よりもまず健康を維持! と心に決めて、この欄最終回のごあいさつ、ご愛読を深謝しております。

『午前3時の御祓い』
これはもう〝哲の会〟の伝説のイベントになっている。20年以上前の話だが、そんな深夜にむくつけき男たちが神前の板の間に正座して、御祓いを受けた。場所は山口県周防大島の筏神社。地名が出ただけで、もしや...と思われる向きもあろう。そう、作詞家星野哲郎の故郷で、宮司は星野夫人朱実さんの姉星野葉子さん――。
哲の会は文字通り、星野の薫陶よろしきを得たレコード各社のディレクターやプロダクション関係者の集まりで、記者時代から僕もその一員。それが昔、星野の島へ出かけたのは、彼が主宰したイベント「えん歌蚤の市」を手伝ってのこと。キャリアが長く歌巧者だが、埋もれたままの歌手たちに脚光を! という趣旨に、いいね、いいねの作詞家や作曲家、放送局の人々や僕らが、大挙押しかけたのだ。
蚤の市はこの島で何度かやったが、問題の御祓いはその中の出来事。哲の会の面々10数人は筏神社の大広間にざこ寝で泊めて貰うのが常。例年、深夜まで酒盛りをやったが、ある晩、僕らが小皿叩いて星野作品を大合唱するのに感じ入った葉子さんが、
「哲郎さんが皆さんに愛されていることがよく判った。それじゃ御祓いをしましょう!」
の一言で神前へ。酔っ払った男どもが、粛然と頭を下げた一幕になった。
「忘れられないなあ、また行きたいよ、あの島の人情、宮司さんの祝詞...」
そんな懐旧談が飛び出したのは11月19日の夜、仲町会コンペを千葉の鎌ヶ谷カントリー倶楽部でやった後、月島のもんじゃ「むかい」で反省会!? としゃれ込んだ最中だ。
「葉子さんのあの笑顔に会いたいよ」
「あの人、もう年が年だから、早めに行こう。年が明けて春先くらいでどうだ?」
「有志だけでもいいじゃないか。あの神前の板の間の感触が、まだ膝小僧に残っているよ」
詩人の人徳に合わせて、口々に言い合うのは元テイチクの千賀泰洋、松下章一、元ビクターの朝倉隆、元東芝EMIの角谷哲朗、三井エージェンシーの社長三井健生、キングの古川健仁なんてあたり。仲町会は弦哲也、四方章人ら作曲家に南郷達也、前田俊明、若草恵ら編曲家が主だが、前記の哲の会メンバーがダブっている。
宮司葉子さんは、寝泊りする壮年のやんちゃ坊主たちのために近所の人達も動員、献身的な接待をしてくれた。早朝から釣りに出る奴、昼を海水浴に興じる奴、昼から酒を飲みはじめる奴など、食事時間がめちゃくちゃなのへ、炊き出しみたいな大忙し。島だから海の幸には事欠かないが、その他のお菜は食い尽くし、台所にあったらっきょうなどは「将校用だ!」と年上の僕らがびんごと抱え込む騒ぎだ。宮司の威厳と作詞家の義姉の優しさを兼ねた葉子さんは、にこやかに僕ら哲の会みんなのおふくろさんになった。
―――11月22日、その葉子さんの突然の訃報がファックスで届く。前日の21日午前1時、のどのがんで死去、90才。送信者は星野の長男有近真澄である。22日深夜に帰宅した僕はあわてて電話をするが不通。24日が葬儀とあるのだが、何とも間の悪いことに僕は23日に大阪の阪南市へ入り、翌24日が市立文化センターの「門戸竜二特別公演」に出演というスケジュール...。
有近は23日早朝、周防大島へ向かったろう。僕はその少し後の便で羽田を発ち関西空港へ向かう。同じ羽田から西へ飛びながら、島へ行きたくてもいけぬいらだちが重い。阪南は大阪だが和歌山に近いあたりと聞く。途中何度か、有近のケイタイにかけるが不通。まだ機中か? もう葬儀の打ち合わせか? こちらは翌日の舞台のけいこである。着信履歴は先方に残るだろうが、当方がケイタイを持っていないから、僕の自宅へ電話しかない。それやこれやの行き違いのあと、やっと連絡がついたのは夜。島ではお清めの席が始まっていた。
葬儀は滞りなく済んだ。哲の会一同の花は飾った。がんを病んではいたが、年が年だけに進行は遅く、穏やかに暮らしていた。それが突然容態が変わって...と、有近の声が続く。僕は24日が舞台の本番だから、身動きが出来ないと、ただただ不義理を詫びるしかなかった。
星野哲郎ゆかりの人と言えば、昨年1月に北海道・鹿部の道場登氏が逝った。その一周忌法要は今年11月8日に営まれたが、島倉千代子の七回忌法要と重なって不義理をした。そして、周防大島のおふくろ星野葉子さんの霊前にぬかずくことも叶わない――。
令和元年は早くも12月である。心残りばかりが胸に滓りになって沈む。今年も多くの知人を見送った。冬の風に吹かれて、心がやたらに寒い年の瀬である。

殻を打ち破れ215回
「コトバであれこれ言うよりも、吠えてもらった方がいいと思って...。ふふふ...」
作詞家田久保真見がいたずらっぽい口調になった。10月6日昼、中目黒のキンケロ・シアターのロビー。僕が出演した路地裏ナキムシ楽団公演「屋上の上の奇跡」を見に来てくれてのひとコマだ。彼女の視線の先には歌手日高正人からの祝い花が居据わっている。並んでいるのは川中美幸や阿久悠の息子深田太郎、小西会からのものなど何基か。田久保が冗談めかしたのは、日高の新曲『男の遠吠え』を作詞した胸の内で、
「聴いたよ、正解だよな、遠吠えが...」
僕も我が意を得たり...のリアクションになる。日高は力士かレスラーかと思われる巨体が容貌魁偉の口下手、そのくせ好人物丸出しの笑顔で、大汗かきながら歌社会を駆け回る。どうにも捨て置けぬタイプだから、つき合いは40年を越えようか。それが前々日に劇場の楽屋に現われ
「頑張ってます!戦ってます。いい歌が出来て最高です!」
と連呼、終演後の小西会の面々20人ほどの酒盛りでも存在感をアピールしたばかりだった。
新曲は前奏から「うおうおうお~おお...」である。それが7個所も出て来て、合い間にコトバが入る。「男なら夢を見ろ」「信じたら命を懸けろ」「泥の船と知っても崩れるまで漕げ」...と、何とも勇ましい。日高の信条そのままみたいだから、彼も乗り気十分になるはずだ。しかし――、
作詞家田久保はやはり一流で、歌を勇ましいだけでは終わらせない。
♪魂が泣きじゃくる日の 想い出と酔いどれる日の 哀しみを抱き寄せる日の...
と、遠吠えに熟年の男の苦渋をにじませ、75才を越えてなお、見果てぬ夢を追う、無骨な日高の日々に重ね合わせるのだ。
作曲したのは真白リョウ。ロックの乗りに和の味わいも加えたポップスである。いくら気持ちが若くても、日高は音楽的には旧世代。レコーディングでは苦戦を強いられたはずだが、やりおわせれば"へのカッパ"で、てこずったことなどおくびにも出さず、楽屋での報告は次に続いた。
「あのですね。実はですね」
と持ち出したのがジャケットの件で、何とも赤塚不二夫の30年以上前の作品。日高の似顔に後光がさし、星がちりばめられた独特の絵で、赤塚のサインも入っている。いわば日高のお宝が世に出た形。
「赤塚なぁ、お前さんも親交があったんだ」
と、僕の感慨は横っ飛びする。昔、彼とは新宿あたりでよく飲んだ。それが縁で僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞の創刊50年には、題字横に指で50を示すニャロメが登場、記念に作った「ニャロメ旗」が、群馬の山岳会が冬期エベレストに挑戦した時は、山頂でひるがえった。50年祝賀パーティーでは、ほろ酔いの来賓祝辞で
「僕と小西は新宿で女を争った仲だ」
とぶち上げ、社の幹部が唖然とする一幕もあった。それやこれやのつき合いをフォロー、長く赤塚番を務めた同僚の山口孝記者が「赤塚不二夫伝・天才バカボンと三人の母」(内外出版社刊)を上梓、この9月29日に出版記念会を開いたばかりだった。
「縁なんですね、うん、縁なんだ」
日高はそれもこれもひっくるめて、彼の新曲に結びつける。見たばかりの僕らの芝居のことなどそっちのけである。
「楽しかった。ところどころジーンと来て泣けた。田村かかしという人の脚本演出がいいし、音楽と演劇のコラボも新機軸よね」
田久保の方はきちんと、ナキムシ楽団10回記念公演を笑顔で総括したものだ。
心に沁みる〝いい弔辞〟を二つ聴いた。11月11日、東京・青山葬儀所で営まれたJCM 茂木高一名誉会長のお別れの会。遺影の前に立ったのは作曲家の弦哲也と作詞家の喜多條忠で、それぞれ作曲家協会と作詩家協会の、会長としての立場だ。
最初の弦は、茂木氏を「関守」に例えた。これはいかめしいタイプの役人を連想するが、茂木氏はいつも柔和で、最高の笑顔で弦らを迎えたと言う。ご存知の向きも多かろうが、JCMはセントラル・ミュージックという社名の略称。文化放送の系列で、音楽出版事業を主とする。ひらたく言えばラジオ放送を背景に、歌手の育成、プロモーションや楽曲の制作などに係わり、歌謡界に貢献するのが役割。茂木氏は昭和32年に文化放送に入社、10年後のJCM創設にかかわり、以後常務、専務、社長、会長を歴任、平成25年に名誉会長になり、今年9月14日、85才で亡くなるまで、その任を全うした。
その間茂木氏は「ダイナミックレーダー・歌謡曲で行こう」や深夜番組の「走れ歌謡曲」などを手掛け、新人歌手の登竜門「新宿音楽祭」を創設するなど、活発な活動で数多くのスター歌手とヒット曲を世に送り出した。歌謡界切っての実力者なら〝やり手〟の老獪さも秘めていようが、JCMを訪れる関係者はまず茂木氏にあいさつをした。その様子を弦は「関守」に例えたのだろう。出会った人々には独特の笑顔と飾らぬ会話、親身の対応で接した。弦は茂木氏のそんな実績と人望を語り、簡潔で心あたたまる弔辞とした。
二人めの喜多條は、茂木氏を陰で「ムーミン・パパ」と呼びならわしていたと、より実感的な話をする。売れない放送作家時代、文化放送に通いつめ、局内の宿泊部屋に「棲息していた」と言う彼は、酒食まで氏に依存する。顔を合わせる都度聞かれたのは「大丈夫?」「喰えてる?」「ほんと?」の三つで、それは喜多條が功なり名遂げて以後も変わらなかったそうな。
この日、青山葬儀所は歌謡界の有力者や歌手とその関係者などで会場は満たされ、外には焼香を待つ人の列が出来た。そんな大勢が、作曲家と作詞家の弔辞にしみじみと聴き入った。二人とも不遇の時代を持ついわば苦労人で、茂木氏の人柄を語る言葉の端々に、彼ら自身の人柄もにじむ〝情の弔い〟になったものだ。
その3日前の8日昼、僕は北品川の東海寺で営まれた島倉千代子の七回忌法要に出向いた。ごく内々...の催しで、関係者がひと座敷分。石川さゆり、小林幸子、藤あや子、山崎ハコに南こうせつ、鳥羽一郎らと親しいあいさつを交わす。驚いたのは寺と墓地を囲んだ島倉ファンの群れで、その数何と200。貸切りバスまで動員されて、全国から集まったと聞く。ところが島倉の実弟も亡くなっており、親族の姿はゼロ―。
故人は山ほどの不幸を生きた人である。結婚と離婚、背負わされた巨額の負債が何度か。結局それで亡くなるのだが、二度のがんの発病...。時に声まで失って、その都度彼女は悲嘆に暮れ、やがて気丈に立ち直る。ヒット曲のタイトルそのままに「人生いろいろ」を笑顔で耐えた半生に見えた。
涙が芸の道連れとは言うものの...と、親交があった僕は、しばしば暗澹とした。美空ひばりをはじめ多くの女性歌手は、女の幸せも家庭の夢も捨てて、ひたすら庶民の娯楽に献身する。演歌、歌謡曲の主人公の辛い境遇をなぞる気配すら濃い。哀愁民族と僕が思う日本人の心を捉えるのは、身を捨ててまで奉仕して、悲恋を歌う彼女らの仕事だったのか?
法要を取り仕切ったのは、阿部三代松社長を筆頭にした日本コロムビアの人々である。この会社が身よりのない島倉の遺族代わり。彼女の遺品やもろもろの権利は、東海寺に寄進されており、陰で尽力したバーニングプロダクション周防郁雄社長も顔を見せていた。何かと厄介なことが残るこの世界のこととしても、これは極めて稀なケースだ。
墓参するファンの群れと話しているうちに、
「市川由紀乃の母です」
と名乗る婦人にまで出っくわした。
茂木名誉会長の弔いを囲んだのは家族と関係者の情、島倉千代子の霊を慰めたのは支持者たちの情だった。東海寺の参会者の中に美空ひばりの息子加藤和也氏の顔があって、僕は昔、島倉を喜ばせた語呂合わせを思いだした。
「美空ひばりは最初からおとな、島倉千代子は最後まで少女」
《北島三郎は元気だ!》
そう書くっきゃないな、これは...と思った。10月27日昼、東京プリンスホテルで開かれた作曲家中村典正のお別れの会でのこと。弔辞で彼は中村との交遊を語り尽くそうとした。弔辞は大てい書いたものを読み、故人の人柄や業績をたたえて型通りになるものだ。それを北島は遺影に正面切って、淡々と、時おり語気を強めながら、素手で語りかけた。言いたいことは山ほどある。時間的な長さなど意に介さずにまっしぐら。その熱意と音吐朗々に、僕は感じ入った。
お別れの会は日本クラウンの和田康孝社長と北島、それに中村夫人の歌手松前ひろ子が本名の中村弘子として3人が施主。北島は中村の友人であり、歌手代表であり、松前のいとこに当たるから親戚代表でもあったろうか。中村の作曲家デビューは北島の「田舎へ帰れよ」で昭和39年。その前年に創立されたクラウンは、この年の正月に第1回新譜を出している。コロムビアから移籍、クラウンの看板歌手になった北島と中村は、いわば同社同期の間柄。その後中村は北島のヒット曲「仁義」「終着駅は始発駅」のほかに「盃」「誠」「斧」など話題の一文字タイトルの歌づくりに参加している。
「歌手志望だったことは知らなかった...」
北島はつき合いのそもそもから語りはじめた。昔、歌手の登竜門として知られたコロムビア歌謡コンクールで入賞、山口・周南市から上京、歌手若山彰の付き人になり、作曲家原六郎に師事、作曲に転じた中村の、苦労人ぶりに気づいたのかも知れない。
「いやなところを一度も見せたことがない、いい男だった」
と言うのは、人前に出たがらない謙虚さと、囲碁、盆栽を趣味とする穏やかな人柄、麻雀とゴルフでの人づきあいなどを指していそうだ。
松前は北島の父方のいとこである。彼は当初彼女のプロ入りを渋ったとも聞くが、何くれとなく面倒を見たのだろう。中村に松前との結婚をすすめたのも俺...と弔辞は続いた。晴れてプロになった松前は、交通事故で声を失い、8年間ものブランクを余儀なくされている。中村がその間を支えて、再起から今日にいたる〝夫唱婦随〟ぶりにも、心を打たれていよう。
中村・松前夫妻は、門を叩いた三山ひろしを中堅演歌一方の旗頭に育てあげている。そのうえ娘の結婚相手として迎え入れた家庭づくりも堅実。性格的にはどうやら〝婦唱夫随〟の一端がうかがえるが、地方から捨て身で上京、名声と一定の平穏を得た彼らの生き方と身辺の固め方は、北島の若いころと軌を一にしているかも知れない。
ボスの肝入りの会だから会場内外には北島一家の顔が揃った。クラウンゆかりの古い人々の顔もずらり。みんなに親しまれたトラちゃんに献花する顔ぶれには、昨今の歌謡界と古きよき時代の歌謡界が交錯して見えた。ニックネームの由来は、中村がまだ無名だった昭和40年代にさかのぼる。彼の航空券を手配する担当者が、姓は判るが名が判らず「ええい、面倒」とばかり「とらきち」と書き込んだそうな。当時プロゴルファーの中村寅吉が有名だったことからの連想。そう言えば...と思い出すのだが、創立からしばらく「クラウン・スターパレード」一行が地方へよく出かけた。各地の民放テレビで歌手勢揃いの番組を放送、合わせて、首脳陣がその地区のレコード販売店主と会合を開き、よしみを通じた作戦。僕も取材で何度か同行したが、作曲家「中村とらきち」の名前の部分に、どういう漢字を当てはめたかは定かではない。いずれにしろ日本の7社めのレコード会社として誕生したクラウンの、牧歌的な時期の話ではある。
お別れの会の献花の返礼に、北島は松前と三山にはさまれ、椅子に座って対応した。彼が頸椎の手術のあと、立ち居振舞いに窮していることは周知の事実。
「それにしても、元気ですな」
と握手した僕の右手を、彼はしばらく放さなかった。彼や中村が過ごしたここ50年余を、よく知っている僕への懐旧の共感か。古きよき時代のあれこれを語り伝えたい思いが、彼の談話を長いものにしているのは、このところ恒例なのだ。
息子に先立たれ、身体が思うに任せぬいらだちもあるはずだが、それは表に出さず、北島三郎の動きは活発である。原譲二の筆名の作曲活動は旺盛だし、新曲も8月に出した「前に...」が今年のCD3枚目。
〽かわすな、ひるむな、ためらうな...
〽おごるな、迷うな、恐れるな...
と伊藤美和の詞に託して力説力唱する。中村典正と北島は83才。はばかりながら僕も同い年だが、元気な北島に尻を叩かれている心地がしたものだ。

殻を打ち破れ214回
≪いいじゃないか、こういう歌でお前さんは、還って来たんだな...≫
古くからの坂本冬美ファンと一緒に、僕はそう思った。しあわせ演歌冬美バージョンの『俺でいいのか』と、小気味のいい路地裏艶歌『男哭酒』のカップリング。久しぶりにモトの冬美に再び出会った気分だ。
吉田旺の詞がいいし、徳久広司の曲もいい。前田俊明のアレンジも手慣れてなかなか...と書いて、三拍子揃っていることに気づく。
しあわせ演歌と言っても、ひとひねり利いている。
♪二人ぽっちの門出の酒が 染めたうなじの細さに泣ける...
と、相手を見返す男も、あんたのためなら死ねると見詰める女も
♪星も見えない旅路の夜更け...
に居るのだ。『俺でいいのか』と問いかける男に、女の咲顔(笑顔を吉田はこう書くのだ!)がまぶし過ぎたりする――。
徳久の曲はW型である。歌い出しとサビと歌い収めに高音のヤマ場がある。ふつうおだやかめにスタートするM型の曲は、高音で張る部分がサビ一ヶ所になりがちだが、それに比べればインパクトの強さは倍以上。そのくせ破たんがなく、無駄もないメロディーで、芯が明るい。タイトルと同じ文句のサビが、以前徳久が書いた『おまえに惚れた』(美空ひばり)の♪惚れた
惚れたよ...を連想させるのもほほえましい。
≪冬美は"いい年増"になったもんだ≫
とも思う。もともとこの人は、「何を歌っても冬美」の得難い声の持ち主。それが作品によって趣きを変えるから、阿久悠が「色つきのたまねぎ」と評したことがある。むいてもむいても冬美...の意だろう。その独特の声味に、年相応、キャリアなりの生活感が加わった。声の切り替えや高音の張りに、かすれ気味の感触が生まれているのだ。もしかすると本人は、そこを気にするかも知れないが、歌のこまたが切れ上がったまま、情趣が濃いめじゃないか!
古い演歌好きの僕には、カップリングの『男哭酒』が捨て難い。自分を置き去りに逝った女をしのんで情緒てんめんの男唄。
♪あいつ居た春
居ない冬 心キリキリ風酒場...
と来て、男は「泣く」のではなく「哭く」のだ。だからタイトルは『男哭酒』と書いて「おなきざけ」と読ませる。
はばかりながら僕は昔々、彼女のために『夜桜お七』をプロデュースして、冬美の転機を作った。その後彼女は『また君に恋してる』を歌い、二つめの蜉化に成功している。歌世界の幅を広げた冬美は、ドレスでポップスを歌う今日性まで手にした。それもこれも「何を歌っても冬美」の強みで、ひところ僕は、彼女をニューヨークで歌わせてみたい夢を見たものだ。
そのくせ僕は、彼女が演歌に立ち戻る日を心待ちにもしていた。いくつかそれらしい挑戦を試みてはいたが、時期もよし、作品もよしの今作でこそ、わが意を得たりと合点する。
≪やったね、山口栄光!≫
と、友人の担当プロデューサーに拍手を送りたい。病気勝ちなのか、ほとんど人前に出なくなって久しい作詞家吉田旺にも拍手だ。1曲づつのこだわり方、ねばり強さ、独特の表現力は、変わることなく健在である。徳久広司の歌書きとしての千変万化は、油が乗り切って頼もしい。そして冬美がタイトルもじりで書けば
「わたしでいいの!」
と、昨今の演歌界に還って来た心意気にも共鳴する。
「やりやがったな、この野郎!」
亡くなった彼女の師匠・猪俣公章の声まで聞こえて来る心地がしている。
男の客がやたらに多い。それも多くは熟年である。女性客が居ても、ほとんどは彼らの連れ。ロビーのグッツ売り場に群がるのもほとんどが男。買い求め方が荒っぽくて、迫力まで感じる。作曲家杉本眞人、歌手名すぎもとまさとが集めた群衆だ。10月10日、用事がすんだ西麻布のスタジオから、プロデューサー佐藤尚の車で王子の北とぴあへかけつける。杉本のコンサートがそこで開かれていた。
「おっ、来てくれたんだ!」
シャイな杉本が相好を崩す。楽屋口から案内してくれたのも男、せまい楽屋に杉本と話し込んでいたのも複数の男。開演直前なのに妙にリラックスした雰囲気だ。
「この間は、ごちそうさん」
と杉本がぶっきら棒に言う。一瞬「ン?」になる僕が思い出したのは、ひと月ほど前に、行きつけの門前仲町「宇多川」で一ぱいやった件だ。六本木で秋元順子のライブを見たあと、作詞家の喜多條忠と彼を誘ったら、連れがあると言う。一緒でいいじゃないか...と乱暴に言ったら、観に来ていたファンを2人連れて来た。てっきり女性だろうと思っていたが、これも男。岩手だか青森だかの紳士で、杉本を応援する仲間が全国各地に多い気配があった。
北とぴあの客席の男たちのノリが滅法よかった。杉本の歌に合わせて、手を振り、声を合わせて大ホールがライブハウスみたい。「銀座のトンビ」では「ワッショイ、ワッショイ」がこだまする。「いまさらジロー」では「いまさらジロー、坂上二郎、二宮金次郎...」
と冗談の合いの手の大合唱。アイドル坊やにファンの女の子が反応するさまと、ほとんど同じ反応で、だんだん彼らがかわいく思えてくる。
「俺も年だから、だんだんきつくなって来たけど...」
ステージ上の杉本は古稀の70才。口の割りに精力的に動き、歌い語る。熱くなってるファンからすれば、似た世代の仲間意識や、彼を兄貴分とするリスペクト気分が強そう。杉本がスラックス、シャツにベストといういでたちなら、客席の面々も思い思いにラフな身なり、中には和服の着流しもいたりした。
「吾亦紅」は大ヒットしたからおなじみだろうが、母親の墓前で離婚を告げる息子が、白髪はふえたけど俺、死ぬまであんたの子供...と訴える真情ソング。「冬隣」は「地球の夜更けは淋しいよ...」を決め言葉に、逝ってしまった男を偲ぶ女性が主人公。男の真似して飲む焼酎にむせながら夜空を仰ぎ「この世にわたしを置いてった。あなたを怨んで呑んでます」なんて言っている。前者はちあき哲也の詞、後者は吉田旺の詞で、作曲と歌が杉本だ。
なぜか「死」にまつわる作品が多いが、それが象徴するように、バラード系は「杉本流情歌」である。それが歌謡曲ふう飾り言葉抜きで、率直に本音っぽい。辛い心情を彼のあの、ぶっきら棒口調と哀調のメロディーで歌うから、思いがストレートに伝わる。熟年の観客には思いあたる節も多そうで、会場がしみじみと一体化する。杉本とは長いつきあいで、彼の歌をよく聞き知っている僕でも、目頭が熱くなる。男は年を取ると涙腺がゆるむものだ。
終演後、僕は楽屋へ寄らずに次の仕事場へ行く。佐藤プロデューサーに託した伝言は、月並みだが「よかったよ」の一言である。会えば半端な感想など口にしにくい。十分に受けた感銘を言葉にしたら、話が長くなってその場にふさわしくなかろう。心に沁みたあれこれは、一人で抱えて帰るに限る。会場から近くのJR王子駅へ、聴衆の流れの中を歩く。男たちの多くは寡黙だった。彼らはきっと、杉本の歌に触発されて、人生って奴と向き合っている。自分自身の来し方行く末に思いをめぐらせてもいようか。
「アンコールもたけなわになっちまって...」
と客を笑わせながら、杉本は4曲もおまけをした。ラストはおなじみの「花のように鳥のように」で、これは、
?限りある一生を信じて、生きることが何よりも、しあわせに近い...
と阿久悠の詞が結ぶ。「しあわせに近い」の「近い」が曲者なのだ。
「100パーセントのしあわせなんてないもんな。60パーでも70パーでも、それを感じた時がしあわせなんだ。それを大事にしなきゃな」
と杉本も結んだ。これが作曲家杉本眞人と歌手すぎもとまさと(文中はややこしいので杉本で書いた)の創り出した世界である。上演2時間余、作品と歌手と彼の人柄と客が一体になって、おもしろくてやがて哀しい時間を共有するコンサート。歌社会でもきわめて稀れで、異色の充実感が一貫していた。

また家出をした。9月の門前仲町に続いて、今度は国道246に面した大橋のオリンピック・イン渋谷というホテル。10月2日に入って6日まで、ここから中目黒のキンケロ・シアターに通う。ここ5年ほど、レギュラーで出して貰っている路地裏ナキムシ楽団公演。このグループが今回はめでたく10回記念、これを「第10泣き」と表記する。
『涙の雨が降るぞオ』
がキャッチフレーズだ。
今作のタイトルは「屋上(やね)の上の奇跡」で、前作までとは打って変わったスペースファンタジー仕立て。タイムマシーンが過去と現在と未来を行き来する。とは言え不治の難病に冒された少年(中島由貴)と自称大発明家の青年(長谷川敦央)の交友が軸。例によって座長たむらかかしが中心のナキムシ楽団の音楽、歌と、役者の芝居が交錯する新機軸ドラマだ。
舞台は空と海に囲まれた病院の屋上。妙に強気な看護師長(小沢あきこ)にお尻を叩かれながら、自殺未遂の女(中島貴月)と入院患者の一人(橋本コーヘイ)の恋。ロックミュージシャン(千年弘高)と耳が聴こえない娘(三浦エリ)の淡い恋心。生さぬ仲の母(龝吉次代)と息子(小林司)の反発と和解などの悲喜こもごもが展開する。10作連続出演の小島督弘は、発明家の珍品の被害者。常連のIrohaは小道具揃えもてきぱき、病院長の僕にケイタイを持たせたりする。
バンド、役者も含めて若者揃い。その平均年齢を上げる僕の相棒は真砂京之介で死期が近い漁師という設定。真砂は松平健・川中美幸コンビの大劇場公演で、いつも一緒の10年来の友人。しかし別々のシーンばかりに出ていたのが、今回初めて面と向かっての芝居で、最初テレ気味がそのうち本気...と盛り上がった。二人は幼な友たちでいつもケンカ腰のやり取りだから、真砂の孫娘(鈴木茜)が気をもんだりする。友人の押田健史は発明家の弟だったり、未来からの使者だったりのお忙し。突拍子もない出番で笑いを取るもう一人の友人小森薫ともども新婚ほやほやで、二人の結婚披露宴は僕が主賓だった仲だ。
こう書いてくれば、ドラマの面白さや、和気あいあいの雰囲気が伝わるだろう。と、まあ、僕が役者だからお仲間の列挙がどうしても先になる。それにムッとしそうなのがミュージシャンたちで、何しろこの集団は〝楽団〟で〝劇団〟ではない。彼らがドラマを〝語り〟役者がドラマを〝歌う〟魅力を「青春ドラマチックフォーク」と標榜する。作詞、作曲、歌唱に演奏を担当するのがリーダーのたむらと暮らしべ四畳半、ハマモトええじゃろの3人。サポートするミュージシャンがカト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将、久保田みるくてぃと妙なステージネームの腕利きだ。
ミュージシャンたちは舞台中央後ろめに板つき。その前で役者が芝居をする。それぞれの仕事が混然一体、ドラマの起伏とボルテージを大きめに揺すり観客を巻き込んでいく。得も言われぬ感興が生まれるから、この楽団の公演は演る方も観る方も「クセになる」のが特色。青春の感慨が具体的でたっぷりめのオリジナル曲の情趣に、初参加の真砂はうっとりしっぱなしで、
「俺も歌いたくなっちまうよ」
作、演出のたむらの才腕にも脱帽する。
よくしたもので、真砂と僕が歌う場面もちょこっとある。屋上のベンチで茶わん酒をくみ交わし、往時を思い返しながら舟唄をひと節。アカペラで歌声が揃わないのもご愛敬という趣向だ。歌となれば本職の演歌の歌い手小沢あきこは新曲が出たばかり。それも亡くなった先輩島倉千代子の「鳳仙花」をカバー。本家のキイをそのままの熱唱で、けいこの間もキャンペーンやライブなどに出かけて精を出している。
今回の公演は10月4日から6日までの3日間6ステージ。僕は9月初旬の東宝現代劇75人の会に出演したから、こちらのけいこには遅れて参加した。清澄白河の深川江戸資料館でやった「離ればなれに深川」のお調子者やくざ川西康介から、病院院長野茂への切り替えにひと苦労。体にしみ込ませた前作のせりふがなかなか居なくならず、新しいせりふが入る隙間が生まれないのに驚いたりした。このコラムが読者諸兄姉の手許に届くころは万事後の祭り。ま、本番は何とかこぎつけたから、乞うご安心である。

2019年夏、ベテラン歌手秋元順子のアルバムをプロデュースした。「令和元年の猫たち~秋元順子愛をこめて~」で、隠れた猫ソングの名作揃い。もともと誰かでカバーしたいとメモに書き止めていた作品群で、ひょんなことから秋元との縁でそれが実現した。
浅川マキが生前大事にしていた「ふしあわせという名の猫」は寺山修司の詞。昔なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」からは「猫につけた鈴の音」で、面白おかしくやがて物哀しいシャンソン風味。阿久悠作品なら「シャム猫を抱いて」と「猫のファド」、荒木とよひさと三木たかしが趣向をこらした「NE-KO」といった具合い。中島みゆきの「なつかない猫」や山崎ハコの「ワルツの猫」もいいなと思い、おなじみの曲もあった方がいいかと、ちあき哲也の「ノラ」や意表を衝くアレンジ(桑山哲也)で「黒猫のタンゴ」を加えた。
秋元の15周年記念盤だが、キャリアはゆうに40年。独特のいい声とさすがの力量で、彼女は初対面(?)の作品たちを見事に歌いこなしている。
ジャケット写真は、訴える視線の猫のドアップ。折からの猫ブームの核心を捉える算段だ。「面白くて味わい深い作品集」と大方の好評を得て意を強くしている。
新作は末尾の1曲「たそがれ坂の二日月」で、喜多條忠の詞に杉本眞人の曲。喜多條とは五木ひろしの「凍て鶴」以来の力仕事。杉本は秋元のリクエストだったが、いかにも彼らしい軽妙なメロディーとリズムに仕立てた。編曲は小粋なポップス系の川村栄二に頼む。この世界一流の面々を友人に持つことはありがたいもので、詞、曲、編曲、歌唱の4拍子が、あ・うんの呼吸であっという間に揃った。狙い通りのこの作品をシングルカット。こちらも9月の発売早々から好調の出足である。
「やったね!」とばかりに打ち上げの酒で盛り上がったが、調子に乗った僕は月島あたりの街角で、秋元と熱いハグをした。合計150才超の抱擁に、担当の湊尚子ディレクター(キング)の眼が点になったものだ。
年がいくつになっても、面白いことに目がない。新聞社勤めが長かったことが、性分に輪をかけていようか。近ごろは、行動半径こそせばまっているが、人間関係は深く、意外な方面へ広がって心躍ることが次々。ここ12年ほど、舞台の役者に熱中しているのもそのひとつ。ズブの素人が、70才からこの道に入ったのだから、それなりの苦心や緊張も味わっているが、要は面白くてたまらないのだ。それにしても―。
大阪の行きつけの居酒屋から、歌手のCDの売り込み!? が届くとは思ってもみなかった。差し出し人は「久六」の女将今井かほるさん。作品は田村芽実という歌手の「舞台」「花のささやき」「愛の讃歌」の3曲入りで、
「息子が小西さんに聴いて欲しいと何回も言うので...」
という手紙が添えられている。「久六」は川中美幸公演などで1カ月くらい大阪住まいをする時の、僕の夜の拠点。気に入った店があると通い詰めて、わがままな常連客になる癖があるが、この店も10年を越すつきあいだ。店では「おっかさん!」と呼ぶ女将と長く意気投合していて「息子」と言うのは二代めの大将克至さん、これが熟年筋金入りのアイドル・オタクで、歌手田村は愛称が「メイメイ」とあり、ジャケット写真も、いかにも...のいでたちである。
「おっかさん」と「大将」は、僕の泣きどころもしっかり抑えていた。3曲のうち「花のささやき」が、亡くなった阿久悠が遺した詞で、作曲がその息子深田太郎とある。川中美幸一家の役者やミュージシャン、マネジャーらを中心に、お仲間と夜な夜なおだを上げるのだから、阿久父子と僕の親交も、店の2人はよく聞き知っていたのだろう。手紙の行間に「これが気に入らぬはずはない」といいたげな笑顔が並んで見える。
《それはそうだよな》
と、僕はニヤつきながらCDを聴く。実は少し以前にも聞いていて、そちらは阿久の息子の太郎から届いていた。それも彼が出版した書きおろしの『「歌だけが残る」と、あなたは言った―わが父、阿久悠』(河出書房新社刊)と一緒。そのあとがきで彼は『田村は「二〇一八年にソロデビューした天才歌手」』と触れている。その時期太郎は、彼女のミニ・アルバムに父子共作の「カガミよカガミ」を提供したとかで、そうすると今作は、2作めになるのだろうか?
太郎は20代にバンドを組んでいたころ、
「セックス・ピストルズの演奏に、ヘンリー・マンシーニのメロディーを乗せたい」
と、思いつきを話したという。それが50代になった今日、こういう姿の音楽になったものか...。
〽はしゃいでいるだけで本気が苦手、いつもジョークで、たがいに笑わせて...
と、阿久の詞は年ごろの女の子の不器用な生き方と生きづらい時代にふれる。「たった一人を死ぬほど思いつめる」恋を思い描きながら、主人公は、ふと、
〽夢中、熱中、チュウチュウチュチュチュ...
なんてフレーズを口ずさむのだ。メロディーとリズムは、そんな若い娘の屈託を軽めに、多少の苦渋もにじませながら、太郎ロックとでも言えそうなセンスだ。
メイメイこと田村芽実の歌声が、何とも言い難い魅力を持つ。朗々とは声を張らず、幼げな口ぶりで語ることもなく囁くともない。それがアイドル世代のもの言いに通じるさりげなさと頼りなさに聴こえ、今ふうな心のゆらめきやときめきを伝えるかと思うと、ドキッとするような妖しい声味が出て来たりする。これがハロプロ・オタクの「大将」をうっとりさせ、作曲者深田太郎をして「天才」と呼ばせるゆえんだろうが、正直なところ旧々世代の僕は、心中たたらを踏む心地もしないではない。
ところで太郎の著書だが〝怪物〟と呼ばれ、時代を疾駆した大物作詞家と、繊細な感性を持つ一人息子の、極めて特異な父子関係を語って実に興味深い。多忙に追われ、めったに帰宅しない父を迎える時は「特別な客」に見えた子供のころから、「父以外のもの、ロック」と出会う青春時代、「阿久悠と関わらない人生」をテーマにした学生時代「株式会社阿久悠」の取締役として、父の歩みを検証、その業績を後世に伝える昨今までを、敬意をこめ注意深く、率直に伝える好著だ。
大阪の居酒屋「久六」には、僕の留守中も在阪の役者さんが現れ、僕の東京の芝居の様子は、在京の女優さんがメールで「大将」に伝えているらしい。おっかさんの手紙には、
「早く大阪へ戻って! 来たら必ず店へおいで」
の意も、さりげなく書き込まれていた。

殻を打ち破れ213回
清澄通りの信号待ちで、歌手秋元順子とハグした。合計150才超の抱擁である。居合わせたキングレコードの面々の、眼が点になったのも無理はない。
月島のもんじゃ屋「むかい」で酒盛りをした。秋元のメジャーデビュー15周年を記念したアルバム『令和元年の猫たち』の制作打ち上げで、本人を中心に、笑顔を揃えたのは7人ほど。
「最高!いいものが出来た!」
と、手放しで自画自賛する会だ。
もんじゃ屋と言っても、並の店ではない。銀座5丁目にあった小料理屋「いしかわ五右衛門」が、再開発に追い立てられて移転した小店。30年近い常連の僕が
「うどん粉なんて食えるか、戦後の食糧難時代に、フスマ入りがゴソゴソする代用食として食わされた。その幼時体験がぶり返すじゃないか!」
と悪態をついたせいもあってか、相当な酒の肴が揃っている。第一、銀座で鳴らした大将の腕がもったいないと、月島も行きつけになったが、もんじゃは滅多に食わない。お女将の心尽くしもあって当夜のメインは"はも鍋"で、猛暑の夜でもみんなが、ふうふう舌鼓を打った。
ところで『令和元年の猫たち』だが、折からの猫ブームをあて込んだな...と言われればそれはその通り。しかし、聞いて貰えば薄っぺらなものではないと判るはずなのだ。ミソは選曲の面白さ。歴代の名作詞家たちが猫の人生、猫に託した人間の喜怒哀楽を書いた傑作を並べた。それも人知れず埋れていた作品の再発掘が狙い。
たとえば寺山修司が書いた『ふしあわせという名の猫』がある。親交があった浅川マキのレパートリーだが、彼女は自分の歌を他人がカバーすることを許さなかった。それが仕事先の名古屋で客死、大分日が経ったから、もういいだろうと世に出すことにした。なかにし礼が自作自演した『猫につけた鈴の音』というのもある。子供を欲しがったのに、にべもなく男が断り、失望した女が出て行くのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなる。仕方なしに鈴をつけてやって「おめでとう」と呟く男の心中はいかばかりか。
昔、なかにし礼が出したアルバム『マッチ箱の火事』に収められていた一曲。面白くてやがて哀しいシャンソン風味は、秋元の新境地開拓にもって来いだ。阿久悠が書いた『シャム猫を抱いて』や『猫のファド』もいいし、中島みゆきの『なつかない猫』や、山崎ハコの『ワルツの猫』も捨て難い。荒木とよひさの『NE-KO』もある。
おなじみの曲もあった方が...という意見を入れて、ちあき哲也の『ノラ』と、みおた・みずほ訳詞の『黒ネコのタンゴ』を加えた。全曲5人のミュージシャンをバックにしたライブ仕立て。『ノラ』は中村力哉、『黒ネコ』は桑山哲也のアレンジが「ほう、そう来るかい!」と言いたい味つけで、元歌とは趣きをまるで異にする――。
こうまで力み返って書くのは、はばかりながら僕がこのアルバムをプロデュースしたせい。「風(ふう)」と「パフ」という愛猫二人!?と同棲、猫好きでは人後に落ちぬ僕が、長いことメモして来た"わが心のキャット・ソング"の勢揃いである。歌うのが秋元で、ジャズが中心だが"何でもあり"の、彼女の力量があってこそのアルバムになった。新曲は『たそがれ坂の二日月』で、喜多條忠の詞、杉本眞人の曲、川村栄二の編曲。これがシングルになるはずだ。
この原稿にはアレが付くだろうな...と、僕がニヤニヤするのはジャケット写真の奇抜さ。ご覧の通り、何とも魅力的な猫のド・アップで、インパクトの強さといったらないじゃありませんか!
9月初旬の6泊7日ほど、深川・門前仲町のホテルに居た。昔、長いこと勤務したスポーツニッポン新聞社が越中島にあり、この一帯の飲み屋街はいわば僕の縄張り。ここから地下鉄大江戸線で一駅、清澄白河近くの深川江戸資料館小劇場でやった東宝現代劇75人の会公演へ通う。何で門仲泊まりかと言えば、共演者との反省会!? や、観に来てくれた友人たちとの宴会に便利なせい。5日間7公演、老優の僕を気づかってか、足を運んでくれた恩人、知人、友人は何と130人を越えた。涙が出るほどありがたい。
演目は「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の二幕九場。僕はお調子者のやくざ川西康介役で、出演者全員とからむ。自然出づっぱりで、せりふも山ほど。何しろ作、演出の横澤は、僕のこの道の師匠だから、緊張感も半端ではない。
《また見てるよ!》
芝居の最中に舞台ソデに目が行くと、必ず横澤の冷徹な視線に気づく。舞台の役者12年、この劇団に入れて貰って10年、客席の友人の視線は全く意識せず、全体の反応から来る陶酔の快さと、師匠のチェックが生む覚醒が、うまい具合に攪拌されればいい。しかし、年齢のせいにしたくはないが、集中力の方は時おり薄れる。とたんにせりふが表滑り、芝居にほころびが出る。細かい言い間違いや言い直しを、それとなくやるが、どうぞ客の諸兄姉には気づかれぬように...。
深川は掘割りの町である。それぞれを背景に、横澤の深川シリーズは今作で6本め。毎回いい役を貰っているのに...と、ふと立ち止まるのは、宿舎そばの大横川にかかる石島橋の上。人影もない深夜。その黒々とした流れを見おろし、アイコスのスムースなど一服すると、何やら感傷的な気分になる。口をつくのが昔々のはやり歌「川は流れる」だったりして、
〽病葉(わくらば)を今日も浮かべて、街の谷、川は流れる...
病葉役者が思い返すのは、今は亡き作詞者横井弘、作曲者桜田誠一の笑顔。歌った仲宗根美樹は元気にしていようか?
《そう言えば...》
と我に帰る。劇場には星野哲郎の息子有近真澄が一族郎党引き連れて6名も来てくれた。阿久悠の息子深田太郎は作家三田完と一緒に。吉岡治の息子天平や孫娘のあまなも来た。美空ひばりの息子加藤和也とその細君有香はなぜか別々の日に現れる。大きな実績を残した歌書きたちや、大歌手に密着取材をして、その子孫との〝その後〟のつき合いである。これもありがたい縁だろう。歌社会のお仲間の顔も沢山見た。親しい作家井口民樹は病いを押して夫人の介護つき。スポニチ時代の恩人牧内節男社長は僕よりはるか年上だが、
「君の芝居をみるのも、これが最後だろう...」
陸軍士官学校出身、毎日新聞時代にロッキード事件で辣腕をふるった社会部幹部で、僕ら記者の鑑なのに、珍しく弱気な発言をして去った。
8日昼の部が千秋楽。台風15号接近を心配したが、公演は無事に終了。後片づけのあと午後6時から門仲の中華料理店で、打ち上げである。飲み放題食い放題2時間を大騒ぎして、早々に解散する。電車が動くうちにと気もそぞろ。東海道線はもう止まったが、横須賀線はOKで、逗子駅から葉山へ、バスも運行していた。
うまく行ったのはそこまでで、台風の直撃を食らった。我が家はご用邸近くの柴崎地区と呼ばれる岬の突端。マンション最上階の5階に位置、眼前の海、その向こうに富士山、右手に江ノ島、左手に遠く大島...で、
「眺望絶佳!」
と、小西会の面々が嘆声をもらす代物だが、この夜ばかりはそれが裏目に出た。暴風雨が四方から叩きつけ、荒れた海の波しぶきが5階まで上がって、まるで滝壺の底状態。激しい音と建物の小ゆるぎに肝をつぶした愛猫の風(ふう)とパフは、あわてふためき、身を低くして隠れ場所を捜すが、三方が海、裏が山では、見つかるはずもない。
まんじりともせぬまま台風一過、その翌日10日から僕は路地裏ナキムシ楽団公演「屋上(やね)の上の奇跡」(4日初日、中目黒キンケロ・シアター)のけいこに入った。やくざの川西康介から、病院の院長・野茂への切り替え。引き続きの難行だが、望外の老後にうきうきしている。

川西康介、60代、江東区深川在住のやくざ。先々代の跡目を継いで、こぶりの建築会社を経営。隅田川畔にボロ・アパートを持つ大家だが、老朽化の激しさに苦慮する。何しろ太平洋戦争末期の東京大空襲から、辛うじて焼け残った代物である―と、僕は珍しく今回与えられた役柄とその周辺を書く。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(作、演出横澤祐一)の件で、上演するのはおなじみ大江戸線と半蔵門線の清澄白河駅そば、深川江戸資料館小劇場だ。
舞台になるのは問題のボロ・アパートに急造された喫茶店。康介の兄弥太郎(丸山博一)は管理人。三井留子(鈴木雅)と星会直子(梅原妙美)は一人暮らし、俳人の原田修(大石剛)と深川芸者鶴吉(高橋ひとみ)は夫婦、吉永貴子(高橋志麻子)と待子(下山田ひろの)は母娘で、折りに触れて弥太郎の娘八洲子(古川けい)や留子の息子章太郎(柳谷慶寿)が現れる。劇の冒頭に登場する竹原朋乃(松村朋子)と、時々ふらりと姿を見せる老人(横澤)が、この脚本家お得意の謎多い人物で、出演者はこれで全部。時代は敗戦から10数年後の昭和30年代後半、出て来る善男善女はみな、何かしらの事情を抱えている―。
ま、こういう方々とそれぞれの役柄を相手に、酷暑の8月、せっせと池袋・要町のけいこ場へ通った。この劇団、もともと劇作家菊田一夫の肝いりで作られた由緒正しいところで、その薫陶よろしきを得た面々はみなベテランの芸達者。そこに加入を許されて10年そこそこの僕は、年齢こそひけを取らないが、いつまでたっても一番の新参者だ。
けいこ後の反省会なる酒盛りでは、飲んべえキャリアなら相当に自信の僕も、水を得た魚になるが、けいこはやはりかなりの緊張感を強いられる。舞台装置が一つだけの二幕九場。自然おびただしいせりふが飛び交うことになるが、みなさん平然と役柄をこなす。月はじめの顔寄せ、台本の読み合わせで、もうせりふが入っている人に度肝を抜かれたり、着々と役に入っていく共演者を横目に、こちらはあたふたの連続だ。
《ン? どうしたんだ一体?》
と、自分にいらだつのはなかなか役が、自分のものにならないせい。師匠の横澤の教えを受けて、そこそこ型になったこれまでにくらべて、どうしたことか今回は思うに任せない。
「加齢による症状でしょう。抜本的な対策はありませんな。ま、あまりストレスを貯めないように...」
と、行く先々の医師が口を揃えるのを思い出す。年のせいにしたくはないが、物忘れはどんどん進行するのに、物覚えの方はまるで劣化している。
毎回見に来てくれる友人たちが、
「よくまあ、あれだけのせりふを覚えるよ」
と、妙なほめ方をしてくれるのへ、
「諸君は、俺の記憶力を見に来てるのか? 演技力についてのコメントはねえのか!」
と言い返して来たが、今回はそう言い切れるかどうか。葉山からバス、逗子から湘南新宿ラインで池袋へ。家からけいこ場までドア・トゥー・ドアで2時間半ほど。車内で台本を広げるのは面映ゆいから、自分のせりふを書きだした紙片相手にボソボソを続ける。そのうち車内では完ぺきの境に達するのだが、けいこ場で大声を出すと、とたんに頭がまっ白...という体たらくだ。
ホッと一息ついたのは8月の下旬、さすがの炎暑もひと段落という束の間の数日に、記憶力が少々戻って来た。九州北部は記録的大雨で大変な水害被害。知人に「大丈夫か?」の電話を入れるほどなのに、不謹慎のそしり免れぬのは承知で、気楽にけいこのラストスパートである。有楽町線要町駅から、谷端川南緑道をトボトボ10数分。日傘デビューを果たした日々を思い返す。ふと気づけば、終わったと勘違いしたさるすべりの花が一挙満開、カンナの花の赤や黄が背のびをはじめ、ずっとしおれたままだったおしろい花まで、息を吹き返しているではないか。
とまあ、それやこれやでけいこも何とか軌道に乗りかかった。僕の川西康介はやくざだが、気のいいお調子者。吉永母娘の双方に、ちょいとその気になったりするのだが、そんなにうまく行くはずもない。言ってみれば深川の寅さんみたいで、出番は全九場のうち五場。9月1日にけいこ場を閉めて深川へ入り、4日の初日に向けて、やっとこさ雄躍邁進! である。

《ほう...》
いい歌に出っくわした。昼ひなかからうなぎを食って、日本酒をやったせいばかりではない。「小島の女」というその作品が、妙にしみたのだ。桟橋で男を見送る女が主人公。北から流れて瀬戸内へ来た居酒屋ぐらしだが、それが一夜の相手と別れる。ま、お定まりの設定だが、歌詞に気になるフレーズがいくつかあった。例えば、
〽あたしの体を男がすぎた、何人だったか数えたくない...
〽カモメが泣いたらあたしは起きて、みそ汁なんかを作って送り出す...
ステージで歌っていたのは西山ひとみという歌手。聞いたことのある名前だが記憶はさだかではない。年かっこう、歌いぶりからすれば、かなりのベテラン。この世界の酸いも甘いも、そこそこ体験したろう気配がある。発声が妙だ。一度口中にこもったような声が、ハスキーな味を作って改めて出て来る。歌詞のコトバが粒立って聞こえないのは、唇の緊張感に欠けるせいか。しかし、これもこの人の個性と言えば個性か―。
西山とこの作品に出会ったのは、大分前の7月27日丑の日。上野・不忍池そばのうなぎ料理屋亀屋一睡亭4階のライブハウスだ。実はこの日、ギタリスト斉藤功の演奏会がそこであり、友人夫妻に誘われて出かけた。船村徹メロディーを中心にやるのが気になった。斉藤は船村の自主公演「演歌巡礼」をサポートした仲間たちバンドのメイン・ミュージシャン。船村の知遇を得て、外弟子を自称する僕の船村歴は54年だが、
「僕が今日あるとすれば、船村先生の薫陶を得たおかげです」
と、常々語る斉藤とのつき合いも長い。
さすがの手腕である。斉藤が弾いた船村作品は「別れの一本杉」「柿の木坂の家」「海の匂いのお母さん」「みだれ髪」など。弦を押さえた左手の指が、その箇所を離れぬまま、小刻みに揺れる。生み出された音色が、船村メロディーをはかなげに揺らして、余韻を深いものにする。泣くでもなく恨むでもなく、その哀愁にはそこはかとない抑制の妙がある。一世を風靡した〝泣き〟のギタリスト木村好夫の没後、斉藤が第一人者と目されるゆえん。多くの演歌歌謡曲系の作家や歌手が、レコーディングに彼をこぞって招くはずだ。
西山はその会のゲストとして登場、斉藤のギターで「小島の女」を歌った。もう一度聞きたいと言ったら、すぐにCDが届く。山上路夫の詞、杉本眞人の曲、斉藤がアレンジしたアコースティック・バージョン。どうやら彼女は、旧作のこの歌を、後生大事に吹き込み直しをし、編曲を変え、趣きを変えているらしい。彼女にとってはきっと、宝物の作品なのだろう。
《あの山上が、こういう詞も書いていたんだ...》
ずいぶん長いことご無沙汰をしっぱなしの詩人の顔を思い返した。昔、小柳ルミ子で、泣いて見送る弟をなだめながら、嫁ぐ娘の真情を書いた作詞家である。あれも舞台は瀬戸内。それがこの作品では西山に、
〽後添いぐちでもあったら行くよ...
と、やすらぎの寝ぐらを探す女の心情を歌わせていて面白い。行きずりの男を見送る女が、約束はいらない、またふたり縁があったら逢えるさ...と、泣きも恨みもせぬあたりが山上流か。
《流行歌って、いいもんだな...》
僕は〝埋もれたいい歌〟との、偶然の出会いにしみじみとする。杉本の曲もなかなかだ。毎月々々、流行歌はひっきりなしに生み出され、その多くがさしたる反響も得ぬまま、流れ去っていく。歌好きたちの支持を得るヒット曲はひと握り。制作者と作家や歌手が、精根こめた仕事をしても、消費され続けるのが流行歌ビジネスの現状なら、だれも異を唱えることはない。
「でも...」
と、与えられた作品を掌の珠みたいに、長く歌い継ぐ西山の例は、それだけに得難い。作品の完成度が高く、歌手に似合いならなおさらだ。
斉藤のコンサートには昵懇のジャズ歌手森サカエも来ていた。「ダーリン!」と呼び合い、人前でもハグをするこのベテランも、船村門下の姐御肌である。この会で僕は、西山のいい歌と出会い、船村の連載ネタをいくつか拾った。船村の郷里・栃木を中心に発行されている下野新聞の「素顔の船村徹・共に歩んだ半世紀」は、2年めに入っている。月に2回の掲載だが、地元だけに船村と親交があった読者は多い。その緊張感も手伝うのか、もう3回忌も過ぎた船村が、僕の胸中から全然居なくならない。それもこれも流行歌が結ぶ縁だろうか。

殻を打ち破れ212回
ケイタイに電話をしたらその夜、新田晃也は故郷の福島に居た。コンサートが終わったばかりだと言う。
「新曲、受けたか?」
と聞くと、待ってましたとばかりに、
「受けた、受けた。タイトルを言っただけで、もう爆笑!拍手が来ましたよ」
受け答えする彼の背後には、人々の談笑がにぎやかだ。久しぶりに会った友人たちか、それとも打ち上げのスタッフか。場所は居酒屋と、おおよその見当はつく。
≪そりゃ受けるだろうな、客のみんなに思い当たるふしがあるんだから...≫
こちらもニヤニヤする。新曲のタイトルが何と『もの忘れ』なのだ。
♪近頃めっきり
もの忘れ どうしてこの場所 俺はいる...
石原信一の詞の歌い出しである。薬は飲んだのかどうか?昨日の約束もすっかり忘れている...などと歌が続く。二番では惚れた女を待った雨の街角が出てくる。昨日今日のことはおぼつかないが、昔のことはやけにはっきりと覚えている老境がほほえましい。三番には、話の合わない息子や、わけのわからない娘のおしゃれまで。
僕もそんな年かっこうである。隣りの部屋へ行って、さて何しに来たのかなんてことはしばしば。友人との会話は、
「あいつだよ、ほら...」
と話しかけながら、あいつの顔は出て来ても名前が思い出せない。よくしたもので相手は、
「あぁ、あいつか。うん、まだ元気だろ?」
と応じて、話が通じてしまう。年寄りならではのツーカーで、友だちはなかなかいいものだ。
友人の新田のために、石原は時おり思い切った詞を書く。コンビの第一作は『寒がり』だったし『昭和生まれの俺らしく』なんてのもあった。2015年の新田の歌手活動50周年記念曲は『母のサクラ』で、年を重ねてしみじみ思い返す母親について二人は、大いに意気投合した。ともに70代、そんな年ならではの本音を歌にする。石原の詞にその都度じ~んと来て、新田が曲をつけて歌う作業。歌づくりを楽しんでもいようか。
流行歌はもともと、絵空事のお話である。恋愛ざたのあれこれが、永遠のテーマ。作家も歌手もいわば青春時代の感傷を、それぞれの味つけで独自の世界を作ろうと腐心する。絵空事に、血を通わせ肉とする試行錯誤をくり返すのだ。演歌、歌謡曲の歌手たちも、ご他聞にもれぬ高齢化社会の中にいる。孫に恵まれた年になっても、孫の話はせず、孫の歌は歌わない。ファンの夢をこわすまいとするのが一般的だ。
石原はヒットメーカーの一人である。市川由紀乃をはじめ、若手から中堅の歌手たちには、似合いの恋物語を書く。実績が認められて日本作詩家協会の幹部にもなっている。
「でもさ...」
と、時おり踏み止まったりするのだろう。熟年の歌手には年相応の歌があってもいいのではないか?ファンの年齢層が高いジャンルだけに、そんな歌に呼応する向きも居るはずだ。問題は"老けネタ"を承知の歌手が居るかどうかだったが、新田との出会いがそれを可能にした。
新田は銀座の名うての弾き語り出身。自作自演の演歌系シンガーソングライターとしてマイペースを貫いて来た。一発ブレーク、天下を取る夢を捨ててはいまいが、むしろ「自分らしい世界」を作ることに熱心な男だ。
新田が伊達、石原が会津と、同郷のよしみも深い二人の歌づくりは愉快な冒険である。二人それぞれとのつき合いが長く、引き合わせた僕としては、笑いながら極力応援せざるを得ない。
影を踏みながら歩いている。谷端川南緑道をトボトボ。連日35度の酷暑を午後1時半過ぎから15分ほど。地下鉄有楽町線の要町駅から行く先は廃校になった大明小学校跡の一部のけいこ場。9月4日初日の東宝現代劇75人の会公演「離ればなれに深川」(横澤祐一脚本・演出)のけいこだ。2時ちょっと前には現場へ着きたい。それにしても、全身から吹き出す汗はどうしたもんだ。
辿るのは遊歩道である。もともと川だったのを、埋め立てたのだろう。植え込みの緑が続き、ところどころに子供用のブランコ他の遊具がある。池袋界隈とも思えぬほど自然がたっぷり。さるすべりの花はもう終わった。無花果の実がふくらみ始めている。それやこれやを視線の隅に入れて移動する。5月ごろに歩いたら、すこぶる気分がよさそうな場所である。しかし今は8月初旬、カンカン照りが恨めしい。おまけに去年まであった喫煙スペースだってなくなっちまっているでないか!
「影を踏みながら...」と書いた。自分で作る影である。遊歩道だから緑はいっぱいあるが、背の高い樹木がないから日陰はない。やむを得ず日傘をさしているのだ。家人に買い与えられた代物。テレビが連日、
「お年寄りが熱中症で搬送され、亡くなった方も...」
と報じるのを見てのことらしい。そう言われれば僕も、十二分に該当する年齢である。家人の懸念も無理はないか。
「男が日傘? 冗談言うな!」
と、当初は抵抗した。はばかりながら昭和の男である。敗戦後の食料難にもツバを飲み込みながら耐えた。高校を出て上京、新聞社のボーヤに拾われたが、安月給の空腹にも耐えた。腹の皮が背骨にくっつきそうになり、JR王子駅から飛鳥山の坂が上がれなかったのも、今は笑い話だ。振り返ればこの年まで、耐えてしのいだ山ばっかりだった。歯をくいしばって耐える。明日を信じて踏んばる暑さになんか負けるか。それが男ってもんだろう...と、やたら演歌チックになる僕を、ニヤリと見返して家人が言ったものだ。
「男の日傘って、今やトレンドよ!」
ま、それはそれとして、けいこ場へ入ればこっちのもんである。時代は昭和30年代後半、舞台は深川のボロアパート。そこで暮らす人々の人情劇だが、僕の役はそのアパートの大家で建築会社の主、住人からは〝親分〟と呼ばれるやくざだ。それも能テンキなお調子者で、することなすことヘマばかりである。住人の一人で、もとはお家柄のご婦人(高橋志麻子)に懸想してのあれこれ。実の兄貴でアパートの管理人(丸山博一)から、その都度、
「馬鹿だねえ、まったく...」
とサジを投げられている。
セットがボロアパート一景だけの2幕9場。自然せりふ劇の色彩が濃く、そのうち5場と出番が多い僕にも、覚えるのが難儀なくらいのせりふがある。放っておけばそれを、突っ立ってしゃべってばかりになりそうなのへ、演出の横澤祐一が動きを加える。
「あ、そこは入り口をガラッとあけて、一歩中へ。あれ? 何よ、ちょうど良かった...なんて言いながら中央へ...ね!」
「そこね、つけ回しにしようか、貴子が嫌みな笑いを見せてカウンターの奥へ入るでしょ。それを見送りながらグルッと回り込む。立ち止まって老人を睨みつけて咳払い、管理人に眼をやると、また馬鹿だねえ...が来るでしょ。そこで正面切ってガクッとなって溶暗。そうだな、咳払いは2回やるか」
貴子は僕が懸想するご婦人。ライバルみたいな謎の老人をやるのは横澤。二人のからみ方に僕がイラ立つシーンだが、横澤は老人から演出家に早替わりしての演技指導である。その方が手っとり早いとばかり、貴子の動きも僕の動きもさっさとやって見せる。お手並み鮮やかだから僕は吹き出し、出を待つ鈴木雅、古川けい、下山田ひろの、高橋ひとみら女優陣は大笑い。一人ひどく真面目に、台本にあれこれ書き込むのは演出助手の柳谷慶寿という具合い。
行きは地獄、現場はよいよい...の日々。日傘の道々で僕を慰めるのは、小路の両側の民家からひょいと顔を出す猫の一、二匹である。立ち止まって愛想を言う僕を、怪訝な顔で見守るそいつらは、別に逃げるでもなく、なつくでもない。この欄で以前に触れたが、僕は秋元順子の新アルバム「令和元年の猫たち」をプロデュースしたばかり。寺山修司、阿久悠、なかにし礼、中島みゆき、山崎ハコらが書いた〝埋もれた猫ソング〟の傑作を集めたのを思い返す。それだけに道ばたの猫もお仲間気分。しばし灼熱も遠のいたりして、やれやれ...なのである。

〽ナムカラカンノトラヤ~ヤ...
がまた出て来た。太平洋戦争に日本が敗れた昭和20年、疎開して一時世話になった寺で、耳で覚えたお経の一部である。当時僕は小学校3年生(そのころはまだ国民学校と言った)だから、その意味など判るはずもない。歌謡少年の僕は、おまじないみたいに音だけで、これを覚えた。片仮名で書くしかないが、その表記だって正確とは全く思えない。
それにしても、ひと夏に2回である。1回目は7月12日の臨海斎場、ひばりプロ加藤和也社長の運転手・西澤利男氏の葬儀で聞いた。そして今度は同じ月の21日、永平寺別院長谷寺で営まれた作詞家阿久悠の13回忌法要で耳にする。阿久の墓は当初、伊豆の高台にあった。家族が住居を東京に移したころに、それも東京へ移転した。場所は六本木通りを青山の骨董通りへ右折する手前の角である。〝怪物〟の名をほしいままにした阿久の、〝主戦場〟にあたる界隈。ここならみんな、思いつく都度、いつでも墓参りが出来よう。
近ごろちょくちょく連絡を取っていた息子の深田太郎から、
「親族だけでやるつもりだけど...」
と聞いた僕が、
「俺も親族みたいなもんだろ!」
と強弁して押しかけた法要である。
《もう13回忌か...。それにしても午前10時からってのは早いな。俺、葉山からだぜ...》
身勝手な感想を抱えながら、控え室に通されたら、雄子夫人に太郎夫妻、阿久が見ぬままに逝った孫を中心に、集まったのはごく少人数。血縁でないのは、オフィス・トゥーワンの海老名俊則社長夫妻と僕だけだった。間もなく本堂へ。僧だけはすごく大勢である。メインの椅子に1人、それに両側で従う僧が5人ずつ。その後ろにもかなりの僧たちが控えていて、鐘と木魚の係りが1人ずつといった具合い。参列した僕らより相当に多い豪華版だ。
《内々でやっても、することはきちんと、堂々と構えるあたりが、実にあの人の法要らしい》
長いこと歌づくりに密着したが、阿久は僕らのスポニチに、エッセイや連載小説、作詞講座に27年におよぶ大河連載「甲子園の詩」などを精力的に寄稿した。しかしその間、慣れや手抜きのゆるみたるみが、一切なかった事に改めて感じ入る。
粛然たる法要もいいもので、読経の声がまっすぐに胸に来る。その中に「愛語」という言葉が出て来た。たまに耳にすることのある熟語である。阿久も僕も言葉や文字を繰る仕事をして来た。
《この際だから、この言葉が経の中でどういう意味を持つのかを考えてみるか》
僕は帰りしなに「修証義」なる小冊子を買い求めた。曹洞宗宗務庁刊で100円である。それによれば、衆生を利益する「四枚の般若」というのがあり、一が「布施」二が「愛語」三が「利行」四が「同事」で「これすなわち、薩?の行願」だと言う。仏の教えや戒めということか。
「愛語」にこだわる。これは赤子の思いを貯えて言語するもので、徳あるは讃(ほ)め、徳なきは憐み、怨敵を降伏し、君子を和睦させることを根本とし、聞く人を喜ばせ、心を楽しませる。聞いた人は肝に銘じ、魂に銘じる。だから「愛語」は「廻天の力」があると言うのだ。
《なるほど、そういうことか...》
と、僕は腑に落ちた気分になる。
今回の法要は、お清めの食事もなしで墓に焼香して散会した。これもいい! と共感しながら、手土産に添えられた太郎と雄子夫人のあいさつ状を読む。
「時代が昭和から平成、そして令和に突入いたしました。いつの時代も音楽が聞こえてくるような平和な世の中を祈り、これからも阿久悠が遺した歌の数々が、令和を生きる皆様の心のよりどころになるように、私どもも努力して参ります」
とあった。
阿久が書いた山ほどのヒット曲は、すべて彼が発した「愛語」だったと思い知る。流行歌に彼は、彼の信条や哲学を全力をあげて書き込んだ。だからこそ彼の作品は良質な娯楽として、長く人々の心を楽しませ、感興を深いものにするのか―。
「今回は珍しく、抹香くさい内容だな」
と思われる向きもあろう。10月で83才と馬齢を重ねた男の、老境が書かせたものとお汲み取り頂きたい。7月までとは一転、酷暑の日々が来た。間もなく「お盆」で9連休とかになる。帰省する人々、外遊する人々などで、みんなは大移動する。そんなお楽しみの中で、
「〝愛語〟なあ...」
なんてひととき、あれこれ思い返すのも、一興じゃありませんか!

こちらもレギュラー出演、若いミュージシャンや役者諸君に混じってブイブイ言っています。恒例の路地裏ナキムシ楽団公演は10月4日から3日間5公演、「屋根(やね)の上の奇跡」を中目黒キンケロ・シアターです。
ステージ下手板つきのバンドは、たむらかかし(Vo, AG)を筆頭に暮らしべ四畳半(Vo, AG)、ハマモトええじゃろ(Vo, Pf)、カト・ベック(EG)、アンドレ・マサシ(Ba)、遠藤若大将(Dr)、久保田みるくてぃ(Perc)の7人。それに対抗する演技陣は長谷川敦央、中島由貴、小沢あきこ、小島督弘、千年弘高、橋本コーヘイ、小森薫、Iroha、押田健史、中島貴月、穐吉次代、小林司、鈴木茜、三浦エリ、真砂京之介と僕。生演奏と芝居がコラボするこの新機軸エンタは今回が第10泣き記念公演です。
ライブハウスからスタート、次第に劇場へレベルアップ、第10回を「10泣き」と表記するのが特色。若者らしい感性で、人が生きていくことの機微を描いて、涙を誘います。その熱気がファンの心を撃って、毎回、けいこ始めの時期にチケット完売の勢いを持ちます。今作の舞台は病院の屋上。そこに集散する人々が、こちらも悲喜こもごもの生き方をさらします。メジャー展開定着を賭けるエネルギーにぜひ触れて下さい。
お待たせの東宝現代劇75人の会、今年の公演は9月4日から5日間、おなじみの深川江戸資料館小劇場です。横澤祐一脚本、演出の「離ればなれに深川」(2幕)で、くどいくらいに"深川"ですがシリーズ6作目、毎回大好評を受けて、今回のお話は、敗戦後10年ほどの時期、安アパートを舞台に、庶民の悲喜こもごもの人情劇が展開します。
出演は丸山博一、鈴木雅、高橋ひとみ、高橋志麻子、古川けい、柳谷慶寿、梅原妙美、大石剛、下山田ひろの、松村朋子らベテラン勢に、所属10年めの僕。東宝演劇を支えた面面の"味とコク"の仕事ぶりに、触発されること山ほどの日々です。酷暑に入った8月、せっせとけいこ場に通った成果!?をぜひご覧下さい。問い合わせ先は080-6697-3133です。

殻を打ち破れ211回
「頑張ってます!」
とエドアルドが言う。5月25日、東京・芝のメルパルクホール。関係者気分で楽屋裏に入って来た彼と、久しぶりに会った。この日、このホールで開かれていたのは「日本アマチュア歌謡祭」の第35回記念大会。エドアルドは18年前の2001年に、ブラジル代表として出場、グランプリを受賞してそのまま日本に居据わり、苦労してプロになった。レコードデビューして何年になるか、異郷人だからか望郷ソングを2曲ほどシングルで出し、最近作は『竜の海』(石原信一作詞、岡千秋作曲、前田俊明編曲)で、とてもいい歌だからあちこちに吹聴の原稿を書いた仲だ。
「ガンバッテ、マ~ス」
明るい一言にブラジル訛りを感じる。それはそうだろう。本名がフェレイラ吉川エドアルド年秋だが、生粋のブラジル人で日本は彼にとって異国である。そこで歌い、異国の楽曲で、異国の歌手たちとしのぎを削るのである。半端な頑張り方では勝ち目などない。グランプリを獲った時は、相撲部屋の新弟子みたいに太っていた。それが今では、すっきりと中肉中背、当時の半分くらいの体型になっている。ダイエットなんてなまやさしいやり方ではない。文字通り身を削る努力が、こんなにはっきりと眼に見える例など皆無だろう。
面倒を見てくれた事務所が、最近事業を縮小、エドアルドはその禄を離れた。当面は所属するレコード会社扱いで活路を模索する。縁が薄いのか、ツキがないのか、彼はまたまたそんな境遇とも戦わなければならない。演歌、歌謡曲を取り巻く状況は、相当に厳しい。それも承知で彼は、もうひと踏ん張りするのだろう。いい奴なのだ。いい歌い手なのだ。しかし、それだけで何とかなるほど、この世界は甘いものではない。
「うん、頑張れよ!」
僕はそう言って、かなり年下の友人の手を握った。出来る限りの応援をするつもりだが、今は、そう言うしかないか!
エドアルドの隣りで
「統領!あたしは来年40周年です。またいい曲を作って下さい!」
と、大声になったのは花京院しのぶである。僕は彼女のために、カラオケ上級者向けの"望郷シリーズ"をプロデュースして来た。亡くなった島津マネージャーとの、長いつき合いがあってのこと。今回の舞台でも『望郷新相馬』や『望郷やま唄』を歌う参加者が居た。歌の草の根活動をしている花京院の、ひたむきな努力の成果だ。
2曲とも、榊薫人の作曲である。集団就職列車で上京、新宿の流しからこの道に入り、苦吟していた彼に昔、曲づくりを頼んだ。大の三橋美智也マニアの彼だから「三橋さん用を想定して100曲も曲先で書いてみろ」と、乱暴きわまる注文だったが、その中から『お父う』も生まれた。
うまい具合いに民謡調に活路を見出した榊も、最近大病をして元のもくあみ状態。口下手、世渡り下手、宮城育ちの榊に、この際だから再起の発注をした。来年の花京院のための記念曲を
「もう一度、死ぬ気で書いてみろよ!」
深夜に電話をしたら、返答はやたらに力み返っていた。
≪よし、その意気だ≫
と僕は思う。苦境をはね返す意欲がバネになれば、それはきっと作品の勢いや艶に生きるだろう。例えは悪いが「火事場のバカ力」を期待するのだ。
日本アマチュア歌謡祭は、スポーツニッポン新聞社在職中に立ち上げたイベントである。それが35周年なら、その年月分だけ深いつきあいになった人も多いのだ。

「和也、水くせぇじゃねぇか!」
僕としては珍しく、他人に悪態をついた。もっとも口角はあげて、笑顔にとりつくろったうえのことだ。7月11日夜、場所は臨海斎場。ここで営まれていたのは西澤利男という人の通夜で、嫌味を言った相手はひばりプロダクションの加藤和也社長である。美空ひばり家三代のつき合いになっている彼を、僕は昔から親しみをこめて呼び捨てにしている。
「ま、ごくごく身内のことにしたかったんで...」
和也の言い訳は聞くまでもなく判っていた。西澤氏は彼の車の運転手で、音楽業界とはかかわりあいがない。だから「身内」で、だから参列者10数人ということになるのだろうが、それじゃ何か、俺は身内じゃないってことか? と僕は言い募りたかった。西澤氏と会ったのは、彼が和也の父・哲也氏の運転手だったころで、彼はひばり家の男二代にわたってその身辺にいたことになる。和也の代になってから、僕はしばしばその車に乗せて貰っている。会合のあと飲み屋へとか、僕が帰宅する最寄りの駅までとか、思い返せばきりがないくらいの回数になる。
実は西澤氏の死と、和也が「施主」として営む葬儀を、僕は花屋のマル源鈴木照義社長から聞いた。別の話をしていたそのおしまいに、ひょこっと出て来てのこと。和也も鈴木社長も、ゴルフと酒でお遊びの小西会の有力なメンバーである。早速連絡を取ったから、通夜にはテナーオフィスの徳永廣志社長や新聞販売店主で作曲もやる田崎隆夫もかけつけた。徳永は小西会の幹事長、田崎はやんちゃな少年時代の話が、和也とやたらにハモる仲間だ。
享年72、西澤氏は口数少なめで笑顔のいいダンディだった。しかし口ぶりや挙措に時折りちらりとする翳りが、ただものではない気配も作る。その物証!? が遺影の前に並んでいた。米軍将校の制帽にベレー帽が3点、肩章に鎖つきの認識票など、映画やテレビドラマでよく見るアメリカ兵の持ち物がズラリで、愛したという葉巻まで添えられている。彼は一体何者だったのか? 和也の説明を待った。
そもそもは、横浜のやんちゃだった。和也の父哲也氏と知り合うのもそのころ。武勇伝いろいろのあと、西澤氏は空手道場の師範代になり、米軍に乞われてベトナムに渡る。あちらでは米軍兵士に格闘技を教える軍属になり、ついには中尉に昇格したという。帰国して三島由紀夫の楯の会に参加、しばらく後に哲也氏の許にたどり着く―。
通夜のビールを含みながら、僕はぼう然とした。何という年月を生きた人なのだろう。復興、復活を急いだ時期の、日本の戦後の転変がその背景に見える。一途に、まっしぐらに生きたろうその折々の心境を、多くは語らなかったという男の、後年、微笑に見せたあの穏やかさは何だったのだろう?
和也の葬儀での立ち場は「施主」だった。「喪主」がいない。天涯孤独、西澤氏には一人の親族も居なかった。肺がんで倒れた彼に、大モテだった時期の女性に連絡は? と尋ねた和也に、
「全部きれいに別れたからな」
と、答えは苦笑まじりの一言だけ。肺がんも治療は一切受けず、痛み止めだけだった。自宅近くの病院で2週間近く、看病をし尽くした和也に、死の三日前に彼は、
「世話になったな、ありがとう」
と手を握ったと言う。
近ごろは、通夜に出席すれば告別式は欠礼することが多いが、僕は12日昼も臨海斎場へ出かけた。他の予定はキャンセルした。通夜は西澤氏の「見送り」であり、告別式は〝施主〟和也の「見届け」である。波らんに満ちた男の生と死を、一人で背負ったのがこの年下の友人なら、そばに居ることだけがせめての心尽くしと思った。彼にはまだ事後のあれこれも残っている。例えば西澤氏の遺骨をどこに収めるかも問題だろう。
棺を花で埋める最後のお別れで、和也がすっと動いた。テープレコーダーから流れたのは、西澤氏が好きだったフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」である。棺が火葬の扉の向こう側に収められた時、和也は戦い続けた男を見送るように挙手の礼をした。
「ナムカラヤンノ・トラヤーヤ...」
敗戦の年に、茨城に疎開して一時世話になった寺で、僕が耳で覚えたカタコトの経の一部である。西澤氏を送った読経で胸を刺されたが、同じ真言宗。少年時代の僕は、あやうくその寺の養子にされかかった。
店の照明が消えた。細長いカウンターの奥にある小さな庭園だけが、くっきりと浮かび上がる。草木の緑が色濃い装飾用のそれは「坪庭」と呼ばれるそうな。その手前に女性の人影が、うすらと見えて、彼女が吹き始めたのは篠笛である。哀感に満ちたその音色が、しょうしょうと店の空間を満たす。カウンターの酔客も僕も、粛然として束の間「いにしえの魅惑」へ導かれる。
7月9日深夜、場所は北陸金沢のひがし茶屋街、美しい出格子の古い町並みの大路は、寝静まったように人影もない。その通りの奥、突き当りの右側角で、ひっそりと営むスナックが一軒。篠笛を吹いた佳人はその店のママで、元芸妓。愛用の篠笛を見せて貰ったら、うるし塗りの黒で、この方が素の竹笛よりも音色が丸く優しげになるという。1820年に町割を改めお茶屋を集めたこの地区で、伝統を守る昔気質の女性と思ったら、毎朝10キロを走り、東京五輪の聖火リレー走者に応募する気だと、明るく笑った。
翌10日昼前から、僕は金沢テレビの「弦哲也の人生夢あり歌もあり」にゲスト出演した。作曲家弦哲也が石川県のあちこちを訪ね、ゲストとその風土や景観の妙を語り、双方の夢や歌心を披露するのが狙い。地元の名士・作家五木寛之が「恋歌サミット」というイベントをやり、弦がそれに招かれたのが縁で、彼がホスト役のこの番組が生まれたと言う。以来、金沢通いをして14年、弦はもはや優秀なこの町ガイド。車で移動する間の発言も、「ここが武家屋敷跡」「ここが近江町市場」「あれが兼六園」「あれが21世紀美術館」「こちら側が犀川、あちら側が浅野川」...と懇切ていねい。ついには加賀百万石の歴史や栄耀栄華にまでおよんだ。
ところで番組のロケだが、午前から夕刻までで3本分。訪ねた先は林恒宏さんが活動の拠点にする「語りバコ」と、平賀正樹さんが経営するジャズ喫茶「もっきりや」の2カ所。林さんは発声と言語の指導者で研声舎を主宰する「声の達人」ナレーター、俳優として活動するほか、ビジネスマン向けのボイストレーニングにも精を出す。平賀さんは精力的なレコード・コレクターで、有名無名のミュージシャンや歌手たちと親交のあるマスターだ。
林さんと「声談義」になるのは、僕が舞台役者をやっているせい。実は6月の新歌舞伎座公演にも金沢テレビのクルーが入っていて、主演の川中美幸と松平健にからむ僕の場面を取材していた。それもインサートする番組だから、僕は身にあまる光栄に恐縮しきり。林さんが室生犀星の詩を朗読する技には、弦ともども膝を打ったものだ。
平賀さんの「もっきりや」では〝幻のブルースシンガー〟と呼ばれた浅川マキの話になる。彼女は近辺の美川町の出身。寺山修司がプロデュース〝アングラの女王〟として頭角を現わす1960年代から、僕もその一部始終につき合っている。昔々のこと、真夜中に突然マキから歌いたいという電話があり、平賀さんが店に客を集めなおして、明け方までアカペラコンサートを開いたなどというエピソードが出てくる。店には彼女のファーストアルバムもあった。僕は寺山の詞、山木幸三郎の曲の「ふしあわせという名の猫」を所望する。最近秋元順子のアルバムを制作、カバーしたばかりだから、感慨が生々しい。ニューハードのギター奏者で作、編曲をやった山木も、ふらりとこの店に現れたと言う。
厄介だったのはこの番組、ゲスト出演したら必ず一曲ずつ歌う決まりごとがあったこと。ディレクターの注文で僕は、プロデュースした「舟唄」をまず歌う。声の達人の林さんが歌詞を朗読したあと、同じ部分を弦のギター伴奏でという趣向。作りはしたが歌うことなどなかった作品だが、アンコのダンチョネ節は小林旭の「アキラのダンチョネ節」の後半
〽嫌だ、やだやだ、別れちゃ嫌だと...
をパクってお遊びとした。
平賀さんの店では、ステージで「夜霧のブルース」をやる。弦のイントロが思いっ切りブルースだったが、こちらはバーボンをチビチだからいつもの気分。マスターは音楽評論家の歌ってのは、そんなもんか...と思ったろう。
さて、冒頭に書いたひがし茶屋街の件は、撮影前夜に前乗りしての見聞。その後僕は酔いに任せて片町新天地へ足をのばした。こちらは一転、巨大な迷路めいた路地を埋めて、居酒屋やバー、レストランなどが密集する庶民の歓楽街。その一軒のバーで、僕はレコードで「カスバの女」を聞いた。昭和20年代のエト邦枝のヒット曲である。そんな昔との出会いも飛び出して、金沢の1泊2日は、実に何とも感興深いものになった。

頭の中にあるのか、それとも心の中か。芝居の科白を入れる袋があるとする。その大小や機能には個人差があるのだろうか? 6月、大阪の新歌舞伎座の楽屋で、僕はふと、そんなことを考えた。川中美幸と松平健の合同公演。芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」と、この欄に何回か書いた。浅草近くの裏長屋を舞台に川中・松平の気のいい夫婦を中心にした時代劇の人情物語。大劇場公演には珍しいせりふ劇だが、実に数多くのコトバが飛び交う。
「いい年して般若が人食ったように紅ぬって、風呂屋の番台に色眼つかってるんだってね、この色狂い!」
川中演じるかかあ天下おはなの啖呵である。それに応じる鷲尾真知子の大家が、
「十両はおろか五両一両の銭だって、拝んだことのないような暮らしをしているくせに、えらそうな口叩くんじゃないよ!」
と来る。最近住みついた謎の姉弟の家賃についてのやりとり。支払いに窮した姉弟と、それならば...と立ち退きを迫る大家との間に、おはなが割って入っての大ゲンカだ。
双方に理はあるのだが、カッとなってどちらも一言も二言も多くなる。下町気質の一端だろうが、その激しさがヒステリックにせり上がるのだ。どちらも山ほどある科白の連発、それも江戸前のテンポでビシビシだから、観客はあっけにとられた。
《しかしまあ、よくもあれほど...》
と、ぼくは出を待つ舞台そでで感じ入る。因業な大家の悪態のつき方が、立て板に水で、その嫌みたっぷりが体全体からににじみ出る。素顔は物静かで、笑顔が素敵なベテラン鷲尾が、近寄り難くさえ感じられるのは、芸の力か。そんな騒動に閉口しながら、低姿勢でかみさんをたしなめ続けるのが、気のいい律儀者の六助で芸歴45年を記念する松平が、珍しい役柄に取り組んでいる。それが―。
「うるせいやい、すっこんでろ、このとんちきおかめ!」
と、突然おはなを叱り飛ばすのは、大立ち回りのあと。下戸の彼がノドをいやすために、おはなに酒をのまされて酔っぱらう。罪を背負って駆け落ち同然の姉弟が、無実と知って二人を秘かに旅立たせる大詰めだ。
「どこか遠くへ行きなさるがいい、知らねえ土地で仲良く、幸せになっておくんなさいよ!」
と、呼びかける見せ場で、はなむけの思いもこめてか、馬子唄をひと節。それも酔っぱらったへべれけ口調で、ゆらりゆらりと客を泣かせる場面だ。
ものがものだから、川中も松平も貧乏人のいでたちで、いつもの華やかさはない。そのうえ二人は、出ずっぱりのしゃべりっぱなしで、客を驚かせたり、笑わせたり、しみじみほろりとさせたり。その合い間を鷲尾の悪態が刺激的に緊張させるのだが、役柄が役柄だけに、きつい科白がこれでもか、これでもか...。
三者三様、科白を入れる袋の大きさに驚嘆する。芝居によってその袋は、伸縮自在なのだろうか? それとも科白の数によって、とめどなくふくらむものなのだろうか。その袋の中身と、演技者それぞれが持つだろう別の袋の中の本音は、響き合うものなのだろうか? 時に同化するのだろうか? 振り返れば僕は、どの程度の科白の袋を身につけ得たのか? それはこの先、経験を積むたびに、少しは大きく育っていくのだろうか?
くだらない屁理屈、年寄りの世迷言につき合わせるな! と、叱らないで頂きたい。言語は人格を示すと思っている。雑文屋稼業は、恥ずかしながら自分の言葉で自分を語る部分が多い。しかし、演技者は、自分とは全く違う人間を演じる。役柄として与えられた人間は、それなりの人格や言語を持っているはずで、演技者はそんな他人と自分自身とに、どう折り合いをつけていけるのだろう? 「科白の袋」と思っていたのは実は、演じる人間の人格や考え方生き方、特有の言語で満ちているものではないのか? 「量」はともかく、大切なのは「質」ではないのか?
6月27日大阪。梅雨が来ないまま台風が来た。G20サミットで、町は警官だらけである。厳重な警備は物流をストップさせ、人々の生活全般に、大きく影響している。そんな中に滞在し、28日千秋楽を迎えた僕は、何だか旅する人間みたいに浮遊していた。
26日夜には東京からの連絡で、作詞家千家和也の死を知る。「終着駅」や「そして神戸」など、いい歌を沢山書き、歌謡曲黄金の70年代に足跡を残した人だが、小説を書くと言って歌社会を離れ、以後の消息が途絶えていた。あれから彼は、どんな暮らしをしていたのだろう?

殻を打ち破れ210回
歌謡界は、いい人なら何とか生きられるほど甘くはない。人柄よりも才能本位だから、時に厄介なタイプでも、うまく行くことがある。しかし、長もちするのは「いい人」の方だ。人間関係がものを言う世界のだから、嫌われもんが長もちした例は、ほとんど無い。
そんなことを考えながら、4月29日、浅草ビューホテルへ出かけた。「北川裕二35周年記念ディナーショー」取材で、北川は作曲家弦哲也の弟子。昭和28年生まれだから、この8月で66才になるはずなのだが、申し訳ないことに歌をちゃんと聞いた記憶がない。たまに師匠の弦のイベントに出ていて、名前を知ってはいた。
新曲『やめとくれ!!』(かず翼作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲)を皮切りに、北川はガンガン21曲を歌い切った。身長172、体重75、がっしりした体格で、歌声の圧力もなかなか。デビュー曲の『雨の停車場』から発売順に書けば『溺愛』『潮来雨情』『女のみれん』『恋雨みれん』『なみだ百年』『命まるごと』『泣いて大阪』『酔風ごころ』など。みんな弦の作品だが、残念ながらブレークした曲はない。
だから彼は、弦作品をヒットさせ、恩返しをすることが「ライフワークだ」と胸を張る。なじみのある曲は『東京の灯よいつまでも』『別れの一本杉』『長崎の女』『霧の摩周湖』などで、昭和の匂いが強い。春日八郎や布施明のヒットを歌うことで判ろうが、セミクラシック寄りの発声で高音を決める唱法。歌い手は歌手を志した時代の、歌唱のファッションを長く道連れにするものか。
「キャバレーで歌ってたかねぇ?」
隣りの席に居た担当の中田信也ディレクターに聞いてみた。大勢の客相手に、声を励まし、受けを狙うタイプとも思えたためだ。答えはNO、一時流行した弾き語りもやっていない。これをやれば歌唱は、もう少しソフトなタッチになるだろう。
昭和58年、テレビの「新スター誕生」で、グランド・チャンピオンになったのが振り出し。アイドルを量産した"スタ誕"のあとがま番組だったが、業界から声はかからず、故郷の福島・郡山に戻る。しかし矢も楯もたまらず、番組の審査員だった弦哲也に直訴、断わられたが粘って2人めの弟子になった。本名の増子ひろゆきでデビューしたのが1年後の昭和59年で、2年後に北川裕二に改名している。
以後21枚のシングルを出し、キャンペーンや実演のステージで頑張って来た。言ってみれば草の根活動、膝づめで歌って少しずつファンをふやしたのだろう。今回のディナーショーは、主催、企画、構成が「Yuji音楽工房」とあって、彼の個人事務所。会場には北海道から九州までのファン300人が集まった。独立独歩、歌手生活35周年の長さを、彼の誠意が獲得した立派な成果だ。
ゲストは師匠の弦哲也。二人で『北の旅人』を歌い、弦は『天城越え』を弾き語りで歌って花を添えた。
「人を押しのけてでも前に出るタイプではない。お先にどうぞって、譲ってしまうような男でねぇ」
控え室で弦は、愛弟子をそう語った。歌を「飽きるな
諦めるな」と励まし、北川が落ち込んだ時には「外に出ろ、所をえらばず歌え」と叱咤したそうな。
冒頭に書いた例で言えば、北川裕二はきっと「いい人」なのだろう。それでなければ35年もの間、支えてくれる人々の"和"に出会えたはずがない。長い苦難の道を頑張ることも、師匠譲りだろうか。昭和、平成を歌い、令和に挑戦するファイトを聞いた。終演後僕も彼と激励の握手をしたが、達成感ありありの笑顔で、握り返した手は強く熱かった。
ホテルの部屋、電話器のメッセージ・ランプが点滅する。酔眠にその朱色がまぶしい。
《東京の便り、それも音楽界からか...》
案の定、キングレコードからのCDがフロントに届いていた。秋元順子の新曲のオケとテスト・ボーカルが収められたものだ。喜多條忠作詞、杉本眞人作曲の「たそがれ坂の二日月」で、アレンジは川村栄二。
《いいね、いいね...》
と深夜、ひとりで悦に入る。編曲は杉本と相談、異口同音で川村に決めた。すっきりと今日的な味わいのポップス系で、おとなの情感が粋だ。歌い手の〝思い〟に預ける音の隙間づくりが心憎く、秋元の歌声が生き生きとするはずだ。
詞の喜多條は僕の推薦、いきがかりがいろいろあるから虚心坦懐、大ていの無理は聞いてもらえる。作曲の杉本は秋元のリクエスト。詞の思いの伝え方が彼流の語り口とリズム感で快い。テストの秋元の歌には、杉本流の口調があちこちにあってニヤニヤする。これを彼女は、少し時間をかけて、きっちり彼女流に仕立て直すだろう。それだけの個性と年輪の味わいを楽しみにしようか!
手数をかけているのは、キングの湊尚子ディレクターである。プロデューサーの僕が、大阪・新歌舞伎座6月公演に出ていて不在。そのくせ、作品の狙いはどうの、ジャケットはどうの...と、あれこれ伝えた面倒を、着々とココロとカタチにしてくれるはず。届いたCDはその経過報告の手紙つきだ。
「そんな無茶なことしてて、本当にいいんですか?」
川中美幸側近の岩佐進悟が制作者不在を心配する。新歌舞伎座は川中と松平健の2座長公演。けいこから本番まで、責任者としてずっと一緒の岩佐とは、
「シンゴ、お前なあ...」
と、呼び捨てのつき合いが長い兄弟分だから、何ごとによらず肚から話し合う仲だ。
進悟が気づかうのも当然なのだ。僕は秋元のアルバム「令和元年の猫たち」も同時進行でプロデュースしている。長いことメモして貯めて来た〝猫ソング〟の集大成のつもり。昨今の猫ブームを当て込んだと言われればその通りだが、作品はそれぞれ、埋もれたいい作品揃いである。例えば、寺山修司が浅川マキのために書いた「ふしあわせという名の猫」は、寺山ならではの筆致と情感。昔、なかにし礼が自作自演したアルバム「マッチ箱の火事」の中の1曲「猫につけた鈴の音」は、面白くてやがて悲しいシャンソン風味だ。
子供が欲しいと言った女。それが愛の形とは思わないと拒む男。失望して女は去るのだが、彼女の置き土産の猫のお腹が大きくなって、のそのそと歩くけだるい夏の昼ざかり。男はその猫に鈴をつけてあげて「おめでとう、おめでとう」と頭をなぜるのだが、その胸中はいかばかりか。
《自作自演の礼ちゃんも、ここまでは歌えなかったな》
と、僕はひそかに憎まれ口を叩く。秋元が歌い、語る味わいの精緻さを思えば、この楽曲は初めて、手がけるべき歌手を得たということになるだろう。
犬は餌をくれる人間を、自分にとっての神だと考える。猫は人間が餌をくれるのは、自分が神だからだと思うのだ。そんな言い伝えが、ヨーロッパのどこかの島にあると聞いた。猫は決して口外しないが、人間の営みのすべてを熟視し、何も彼も知り尽くしている。歌づくりの名手たちは、そんな猫の人生(!?)を描き、猫に人間の哀歓を託して来た。今作には阿久悠が書いた「シャム猫を抱いて」や「猫のファド」も加えた。中島みゆきや山崎ハコが生みの親の猫ソングも、得がたい味わいがある。猫で連想するおなじみの曲ならちあき哲也の「ノラ」それに「黒猫のタンゴ」か。
別便でまた、湊ディレクターからトラックダウンしたそんな9曲分のCDが届く。これまた深夜、用意のウォークマンでしみじみと聞き直す。秋元の歌唱も秀逸だが、何よりも、作詞家たちの人生観や世界観が深い。聞けば聞くほど、さりげなく暖かく、しみじみと胸に刺さってくる。
《うん、これはなかなかのアルバムだ!》
酒の酔いが醒めてまた、別の酔い心地を味わいながら、自画自賛のひととき。芝居に打ち込む折々に思い当たるのだが、僕の正体はエエかっこしいのナルシストなのかも知れない。
月末、ひと仕事終えたら僕は、1カ月ぶりに葉山の自宅に戻る。ドアを開けた瞬間、わずかに身構える愛猫の「風(ふう)」と「パフ」の2匹は、次にまた、
「何だ、お前か!」
という顔をするだろう。

「金無垢の松平健」というのは圧巻である。ご存知の巨漢が、金のスパンコール一色の衣装で「マツケンサンバ」を歌い、踊る。これまたピカピカ衣装の男女ダンサーをバックに、大阪・新歌舞伎座の舞台を縦横無尽、客席も大いに沸くのだ。
「眼がチカチカして、痛いくらい...」
と笑うのは、舞台そでで出を待つ川中美幸。松平に招かれて、出演者全員が勢揃いするフィナーレだが、
「健さん、息が乱れもせずにそのまま挨拶でしょ、タフだとは知ってたけど、一体どうなってるのかなあ」
川中がまた嘆声になる。
6月、新歌舞伎座開場60周年記念の特別公演、松平、川中の歌もたっぷりのスペシャルショーで、特別出演の中村玉緒と松平の「浪花恋しぐれ」も大いに受ける。玉緒の飾りけのない老婆ぶりが、得も言われぬ可愛さなのだ。松平は「中村玉緒さま」と尊称を使う。師匠勝新太郎の夫人だから、そこは殊勝なもの。相手はのけぞり加減のリアクションで、客席も舞台上の面々も、ニコニコ顔のオンパレードだ。
芝居の「いくじなし」(平岩弓枝作、石井ふく子演出)一幕四場では、松平・川中の立居振舞が逆転する。江戸時代の裏長屋を舞台に、嬶天下のお花(川中)と甲斐性なし行商人六助(松平)が役どころ。川中が江戸弁を立て板に水でやたらに威勢がよく、呼ばれる松平が「へ~い」ボソボソと、漫才の突っ込みとボケふうに、おもしろおかしい夫婦である。それに長屋人種あれこれがからむ下町しみじみ人情劇だ。見せ場山盛りの大劇場公演としては珍しいタイプのせりふ劇。貧乏人扮装の両主役に意表を衝かれたファンは、そのまま芝居の世界に引き込まれていく―。
楽屋に突然、作詞家のもず唱平が現れた。先天的に厄介だったと言う血管が、心筋梗塞を引き起こし「あわや...」の瞬間もあった春先から復帰、びっくりするくらい元気になっている。往年の情熱的話術も復活していて、内緒にしていた病状から、川中の新曲「笑売繁盛」まで、こちらも縦横無尽のてい。彼の作詞50周年記念第2作に当たる今作の、プロモーション案や昨今の政治、国際関係、とりわけ北朝鮮対応への憤懣など、語気が熱い、熱い!
一夜、川中ともども、この関西を取り仕切る詩人から、今が旬の「はもしゃぶ」のもてなしを受けたが、彼を師匠と仰ぐ川中はその回復ぶりに大喜び。いわく因縁があって彼を呼び捨てのつきあいが長い僕も、
「今宵、一番の酒の肴はもずの復調だな」
などと冗談めかした。12年ほど前に、僕が川中から声をかけて貰って舞台の役者を目指した時は、
「そんな甘い世界やありまへんで!」
と、忠告、反対したもずも、僕が松平、川中ご両人にからむ今回の舞台に、どうやら得心した気配なのもやれやれ...だ。
それやこれやを楽屋同室の友人真砂京之介に報告したら、
「大先生を呼び捨てなのかよ」
と、あっけにとられた。長く松平側近のこの男は、今回の舞台唯一の激しい立ち回りを松平と演じている。いつもは暴れん坊将軍の松平と仇役の彼が丁々発止の殺陣でおなじみだが、長屋の住人と人買いの〝ぜげん〟という町人同士。組んずほぐれつの大乱闘を二人きりで、蓮池に沈められたり、脱出したり...の大騒ぎで、おしまいに真砂は雷に打たれて頭が変になる。
「こんな体育会系の仕事は初めてだ」
と、体のあちこちに打ち身のアザや小さいかすり傷を作りながらの奮闘である。芝居の続きみたいに、息も絶え絶えで楽屋に戻ってくるのへ、
「お疲れさん、いやあ、いい出来だったよ、今回も...」
と、毎回僕はねぎらい役。何しろこちらは町内の世話役で、松平・川中に上から目線でブイブイ言うだけの〝もうけ役〟だから、彼のココロの介抱は、時に、行きつけの居酒屋にまで続いたりする。
終演後の食事は、松平、川中それぞれのお供をする果報や、舞台のお仲間、東京からの友人、在阪の友人...と、多彩な夜をほどほどのスケジュール。何だかこの稿、末尾は〝うかれ町報告〟めくが、昼夜ともに日々これ好日である。関西の梅雨入りは6月下旬の見通しとかで、照る日曇る日、気温までほぼ快適で居酒屋「久六」のお女将と大将の機嫌も上々なのだ。

殻を打ち破れ209回
弔辞に拍手が湧くなんてことは、ありえるだろうか?
葬儀における弔辞はふつう、故人の業績や人望を讃える。相手が成功者ならネタが多く、遺徳をしのんで哀調もほどほど。しかし、さほどでもない人を真面目な人がやると、形通りで社交辞令に上滑り。そのくせ長めだから参会者はうんざりする。弔辞が本音で、人物像に迫るケースはごく少ない――。
俳優の堺正章はそれを、
「あなたはいい事も悪いことも、沢山僕らに教えてくれた。そのうち悪いことの方が、とても魅力的だったけど...」
と切り出した。会場はもうクスクス笑いだ。4月3日、東京の青山葬儀所で営まれた内田裕也の「Rock'n Roll葬」でのこと。故人は蛮行、奇行が多かったから、みんな思い当たる節が多い。
「あなたはロックンロールを貫いた」
と、内田の生涯を讃えたあと、歌手として長もちする秘訣を「ヒット曲を出さないことだ」と教えられた件を持ち出し
「あなたは、それも貫きましたね」
と語り継ぐ。事情を知らぬ向きには「皮肉」にも聞えようが、ロック界を主導しながらロックがビジネス化することを嫌い、ヒット戦線を度外視した内田の一念に、会場には同感の輪が広がる。
以前、パーティーの席で、司会した堺がアントニオ猪木に
「裕也さんに気合いを入れてやって下さい」
と頼んだ一幕も出て来た。バシッとやられた内田が
「30年ぶりにやられた。グラッと来たぞ」
と言ったので
「30年前になぐったのは、誰?」
と聞いたら
「樹木希林にきまってんだろ」
と内田が答えた話になると、会場は大爆笑である。
夫人の樹木希林が亡くなって半年後、延命治療も断わった覚悟の死を堺は
「やっぱり希林さんに呼ばれたんです。だからと言ってついでに、僕らを呼ばないで下さい」
と弔辞を結んだ。
会場からは割れんばかりの拍手である。堺の弔辞は時に軽妙に、時に真摯さをうかがわせる話術の妙があった。相手が相手だから面白いネタは山ほどある。その一つ二つを披露しながら彼が語ったのは、内田裕也という先達への共感と、己れの信条を一途に"むき出しの人生"を生きた男への敬意だったろう。内田の享年79、堺は72才、堺にも真情を吐露できる年輪があった。
この葬儀でもう一つ感動的だったのは、娘の内田也哉子さんの謝辞。結婚生活1年半で内田は家を出、40年余の別居生活を送った。也哉子さんが父と過ごした時間は数週間にも満たない。だから彼女は内田裕也という人を
「ほとんど知らないし、理解できない」
「亡くなったことに、涙がにじむことさえ戸惑っている」
率直である。父は自由奔放に生きて、恋愛沙汰も数多い。その時々、父の恋人たちに心から感謝を示した母と父のありようは、
「蜃気楼のようだが」
「二人の遺伝子は次の世代へと流転していく。この自然に包まれたカオスも、なかなか面白いものです」
と、口調も終始淡々としていた。
結びのひとことは
「ファッキン・ユーヤ
ドント・レスト・イン・ピース(クソったれ裕也、安らかになど眠るな!)ジャスト・ロックンロール!」
エッセイストらしい冷静にして親密な表現で、ここまで心のこもった本音の謝辞を、僕は初めて聞き心打たれたが、会場からはここでもまた拍手が起ったものだ。
けいこ場に森光子からの差入れがドカッと届いた。
「えっ?」「えっ?」
「えっ?」
と、怪訝な顔の勢揃いになる。それはそうだ。贈り主の森は亡くなってもう、ずいぶんの年月が経つが、あれ? まだお元気でしたっけ? なんて呟きももれる。去る者は日々に疎しの例えもあるか、それにしても―、
「あの人は、こういうことが好きだったのよ...」
演出家の石井ふく子が謎ときをする。江東区森下の明治座スタジオでけいこ中なのは、6月7日初日の新歌舞伎座公演「いくじなし」の一幕四場。平岩弓枝脚本、石井演出のこの芝居の初演で、森光子が主演したそうだ。昭和44年、歌舞伎座でのことで、
「相手役は中村屋でね」
と石井がさらりと言う。中村屋というと...と、僕は訳知りの林プロデューサーを頼る。答えは勘三郎で、先々代に当たるとか。
話題の贈り物は「京橋・桃六」の折り詰め弁当である。しっかりした経木の箱に、こわめしと季節野菜の煮物、肉だんごなどが詰まった逸品。包み紙の印刷によれば「創業百年、当主は四代目」で「素朴な手づくり」が売りとある。
「なるほどなあ...」
と、僕らはあの世の森とその関係者の心づくしに感じ入る。休憩時間にさっそく賞味する者や、大事そうに持ち帰る者まで、反応はさまざまで、しばらくは森の人柄や仕事ぶりの話があれこれ。森との親交が長かったのだろう、石井の笑顔が優しくあたりを見回している。
昭和44年と言えば、かれこれ50年も前のことだ。その時も演出担当の石井にとっては、愛着のある作品の一つなのだろう。今回の主演は松平健と川中美幸。中村屋と森とはキャラクターも芸風も違うが、こちらはこちらの風趣である。身振り手振りもまじえて、こと細かに演出する石井の胸中に去来するものは、ありやなしや...。江戸時代の裏長屋が舞台。そこで暮らす嬶天下の川中と、滅法気の好い旦那の松平のやりとりで話が進む。
松平は周知の通り、威風堂々の見事な体躯の持ち主。暴れん坊将軍や大石内蔵助をやる彼を見慣れている僕と友人の真砂京之介は、
「とても貧乏人の体格じゃないよな...」
などと、小声のへらず口を叩いている。大変なのは川中で四場全部に出ずっぱり。大阪出身の彼女が江戸下町弁で、威勢のいい啖呵もポンポンやるが、単語ひとつひとつのイントネーションが違うのだから、苦心のほどがしのばれる。
もっと大変...と脱帽するのは演出の石井ふく子で、6月明治座と新歌舞伎座の演出の掛け持ちである。それも同じけいこ場で、昼前後から3時間余を明治座の坂本冬美、泉ピン子主演の「恋桜」のけいこ。引き続き僕らの「いくじなし」に入る。「恋桜」は昨年、大阪でやったものの〝思い出しげいこ〟だそうだが、大劇場二つ用を一つのけいこ場に居続けで、しかも石井は僕より10才も年上と聞いた。その情熱とタフさは、驚異的と言わざるを得まい。
その手前、恐縮の限りだが、5月25日にはけいこを抜けて、僕は早朝から芝のメルパルクホールに詰め切りになった。今年35回を迎えた「日本アマチュア歌謡祭」で、100人、2コーラス、11時間の審査の取り仕切りである。スポニチ在職中に事業の一つとして立ち上げたイベント。東日本大震災の年だけ自粛して、36年のつき合いだ。驚くべきことに岐阜の長岡治生というご仁は28回連続出場の71才。歌唱水準の高さで知られるこの大会でも群を抜く実力者で、今回はグランプリに次ぐ最優秀歌唱賞を受賞した。28年も毎年聞いていると親戚みたいな気分になるが、歌に滋味まで生まれているあたり、頼もしい限りだ。
5月は並行して、秋元順子のアルバムと次作シングルをプロデュースしている。秋元が友人のテナーオフィス徳永廣志社長を頼った縁でのお声がかり。
「その代わりにお前なあ...」
と、大衆演劇の大物沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」のプロモーションを彼に頼んだ。これも僕のプロデュースだが、ちあき哲也作詞、杉本眞人作曲の作品が、キャラと芸風にぴったりはまった〝昭和のおやじの最後っ屁〟ソング。沢がやたらに〝やる気〟でカッカカッカしている。
それやこれやの後事を託して、僕は6月4日、大阪へ入る。やたら忙しいが、この節80過ぎの年寄りにすれば、ありがたいことこの上なしである。

ゴールデンウィーク明けから、せっせと江東区森下へ通っている。逗子から馬喰町まで横須賀線と房総快速の相互乗り入れで一本道、そこで都営新宿線に乗り換えて、浜町の次が森下である。行く先は明治座のけいこ場、6月7日初日の大阪新歌舞伎座公演のけいこだ。今年は役者の仕事が少なめで、この公演がいわば令和初。〝せっせと...〟とは書いたが、実情は〝いそいそと...〟の方が当たっている。
芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」一幕四場。主演が川中美幸と松平健の特別公演で、新歌舞伎座開場60周年記念企画だ。ご一緒するのは特別出演の中村玉緒と鷲尾真知子、中田喜子、外山誠二ら石井演出作品でおなじみの面々。関西ジャニーズJrの室龍太が二枚目、友人の真砂京之介や瀬野和紀は松平組、川中組は穐吉次代、小早川真由と僕といった具合いで、顔なじみには荒川秀史や森川隆士がいる。
葉山からドア・ツー・ドア2時間半弱、電車の中でブツブツせりふを繰り返しながら移動する。けいこ開始は昼の12時半だが、1時間30分以上前には主演の二人以外、もうほとんど集まっている。気合いが入るのは、演出家が大物のせいもありそうで、石井も間もなくけいこ場入りする。いつもは横着に甚平をけいこ着にする僕も、今回は浴衣に角帯をきりり。とは言っても、昨年3月の新歌舞伎座公演の時にお衣裳さんに頼んで、帯をつくりつけにしてもらってある。着脱ベリベリッ...と便利なものだ。
素足に雪駄をつっかけて、
「おい、六ちゃん、お前さん、さっき井戸端に居たから、話は聞いたろ...」
なんて、僕のせりふはいきなり上から目線。それに、
「へい...」
と応じるのが主演の松平で、その隣りに川中がいて、こちらにもひと言という、大変な出番を貰った。舞台は江戸浅草は龍泉寺町の裏長屋。川中は鼻っ柱の強い女房お花で、松平はその尻にしかれっぱなしの行商人。季節が夏の真っ盛りなのに、井戸の水が枯れてしまって、急遽井戸替えにかかる騒ぎになる。町内の世話役甚吉の僕は、大家さん鷲尾にくっついて、人集めに歩いている筋立てだ。
松平と川中は大変である、かかあ天下と気のいい亭主のやりとりが、江戸っ子気質でやたら威勢がいい。冷やっこい水売りは今が稼ぎ時だから、井戸替えには私が出ると言い出すお花と、因業な大家の口ゲンカが丁々発止である。この二人は隣人の家賃についても険悪なヤマ場がある。六さんは大家に謝ったり嫁を叱ったりで、またやりとりが口早にポンポン...。
主役の二人がこんなにしゃべりまくるのを見るのは初めて。僕と友人の真砂はけいこ場の隅で、
「大変だよなあ、お二人は...」
などと、なかば案じながら、なかば面白がっている。おはなしを厄介にするのは、長屋へ辿りついたいわくありげな姉弟の中田と室の存在。姉が弟のために身売りを計り、それを止める六さんと女衒の真砂の立ち回りの原因になる。
おなじみの「暴れん坊将軍」なら、松平の殿様と悪者の真砂の殺陣が見事に決まるところだが、今回は二人とも町人。せいぜい息を切らしながら、くんずほぐれつの取っ組み合いである。舞台に蓮の花が並んでいて、白いテープで四角に仕切ってあるのは、どうやら沼地。ということは、本番では水槽に本物の水が仕込まれていて、二人はずぶ濡れ、泥まみれになる安配だ。松平ファンはびっくりしそうな設定だが、本人は楽しそう。女衒役の真砂は、けいこから本当に息があがる運動量になる。
それやこれやの時代劇裏長屋人情劇だが、僕の出番は三場でブイブイいうばかり。演出補の盛田光紀の指示で、立ち位置や歩く段取りが決められたが、演出の石井からはダメが一つも出ない。90才超の大ベテラン演出家の顔色を盗み見ながら、身勝手な芝居をやっている僕はついに、
「ご注意を頂いていませんが、こんな感じでいいんでしょうか?」
と、お伺いを立てることになる。演出家はにこりと、
「いいですよ。貫禄があって...」
の一言だけだから、当方はありがたいやら、不安になるやら。
今回、それでも開放感十分なのは、芝居が江戸ものなこと。この劇場の川中公演はここ何年か、関西ものが続いていた。大阪で関西弁というのは、僕にとっては難行そのもの。冷汗三斗だった日々を思い返しているが、さて、行きつけの居酒屋〝久六〟の女将さんは、元気だろうか?

《ま、これも〝ゆうすけ〟らしい創作活動の一端か》
そんな感想を先に持ったまま、山田ゆうすけ自作自演のアルバムを聞き始めた。「冬の鳥~高林こうこの世界を歌う」がタイトル。作詞家高林とゆうすけのつき合いは長い。二人は「シルクロード」という同人誌で知り合って、その25周年を記念した企てだと言う。
「冬の鳥」「途中下車」「五条坂」「大阪ララバイ」「神戸メルヘン」「散り椿」「ぶるうす」「センチメンタルジャーニ」「枯葉の中の青い炎」「ラストタンゴ」と、曲目順にタイトルを並べれば、いかにもいかにも...の10曲。高林は関西の人で、友人の作詞家もず唱平に紹介されて僕も旧知の仲だが、寡黙だから詰めて話したことはない。それが―。
歌を書くとなると、秘めた情熱がほとばしるものか、全体的に長めの詞に、彼女なりの思いがあれこれ、多角度に書き込まれている。表題曲はメロ先だそうだが、雪の駅で去って行く恋人の前途を、
〽飛ぶなら高く、飛ぶなら遠く、飛ぶなら強く...
と祈る男心もの。「償いは、美しく見送ること」と思い定めた恋の幕切れだ。
「途中下車」は人生の息抜きの旅のひとときを描く。舞台は田舎町のひなびた宿。漬け物やホッケを肴に、銚子は3本。良い月と良い風を仲間に、男は往時を思い返す。優しい女がいた。悪だけど憎めない奴がいた。父親みたいに忠告してくれた人がいた...。
《どこかで聞いたな、これは...》
ひょいと思い出すのは、銀座のシャンソニエ。ここで歌っていたのは、歌を東北弁でやってのける変わりダネで、確か福浦光洋という人がこの作品を歌っていた。歌手歴30年余の年の功と東北弁が、人生を〝途中下車〟した男のひと夜を、味のあるいい歌にしていたものだ。
アルバムに添えられたゆうすけの手紙には、
「いろんな歌手に提供した作品や、書きおろしも集めてセルフカバーした」
とある。それにしても歌っているゆうすけ本人が、
「歌手としての力量はイマイチ、いやイマニだと思う」
と正直なところがほほえましい。
《ま、歌い続けりゃそのうち〝下手うま〟の境地に辿りつくケースだってあるさ》
とこちらは、冷やかし気分になる。
ゆうすけと会ったのは1998年に、彼が作曲家協会のソングコンテストでグランプリを取った時。選考会の座長だった僕と受賞者の間柄で、もう20年を越すつき合いになる。当時の受賞者で作曲の花岡優平、田尾将実、藤竜之介とゆうすけ、作詞の峰崎林一郎の5人組と「グウの会」を作った。「愚直」のグで、めげずに頑張れ! の意だったが、その後彼らはそれぞれに、歌社会にちゃんと居場所を作っている。
ゆうすけはこのところ、ネット関連のビジネスやSNSを使うプロモーションで、独自の仲間やコミュニティを作る作業に熱中、それらしい手応えを感じているらしい。そんな才覚を買われて、作曲家協会事務局のIT関係の仕事を引き受けてもいる。各メーカーへの売り込みはもう諦めた様子。彼我の作品的乖離が大きいし、相手側の顔ぶれも組織も当初とは大きく変わっていよう。最近、白内障の手術をした66才だが「やりたいことをやる」にはいい年ごろだ。70才で舞台役者になった僕の前例だってあるではないか!
話はアルバムに戻る。ゆうすけのメロディーは、フォーク系の穏やかさにポップスのヤマ場を作って、人柄なり。「大阪ララバイ」にはムード歌謡の匂いがあり「神戸メルヘン」は3連ものと、それなりの工夫をこらす。「五条坂」は老舗の陶芸店を守る女性が、去って行った窯ぐれを待つ切ない心情を歌う。高林の詞の「からだを全部耳にして」男を待つ切迫感と、曲の穏やかさのバランスが、聴く側にどういう味で届くものか? 「窯ぐれ」は「技術を磨くために、全国の窯元を渡り歩く職人」を指し「昨今はそんな職人も数少なくなっている」と、高林の曲目メモにあって、教えられた。
ゆうすけのこういう仕事は、
「トップダウンではなく、ボトムアップで仲間を増やしていく」
のが狙い。今年はもう1枚、友人の作詞家堀越そのえの作品集を作るそうな。手間暇と経費もかかろうが、熟年の初志なら、こちらは双手をあげて賛意を表すことに決めた。

殻を打ち破れ208回
「地方区の巨匠」と呼びならわしている佐伯一郎は、すこぶる元気である。
「聞いてみてよ」
と届いたのが、自作の15曲ほどを収めたCD。本人や弟子が歌っているデモだが、いかにも彼らしい"昭和テイスト"横溢の作曲集で、どうやら誰かの歌で世に出したい希望のようだ。というのも――。
脊髄の手術を繰り返して、車椅子が必要な暮らし。毎年恒例だった浅草公会堂コンサートも、大分前に閉幕した。体調はそんな風だが、演歌歌謡曲への情熱は衰えることがない。自分が無理なら楽曲だけでも一人歩きを!の一念が、各曲に添えられた歌詞の、彼流の筆文字ではねかえっている。僕とほぼ同じ年、そのエネルギーには頭が下がる。
『飲んだくれの詩』『捨て台詞』『時化』『海峡の果てに』などというタイトルがズラリと並ぶ。いずれも未発表曲というが、昭和30年代後半から、彼が得意として来た世界とメロディーに、僕はニヤニヤする。昭和を見送り、平成も終わるこの時期だからこそ、彼は彼流の決着のひとつをつける気になったのか。
今でこそ、地方に根を降ろして活動、インディーズの枠組にくくられる歌手は大勢いるが、佐伯はその"はしり"だ。静岡・浜松に蟠居、自作自演で人気を集め、育てた弟子には楽曲と芸名、歌う場を与えている。自前のレーベルまで持ち"東京望見"の意気で東海の雄になっていた。僕はもともと、テレビで顔と名を売るスター志望の"全国区型"だけが歌手ではないと思って来た。地元の歌好きと膝つき合わせて歌うタイプもまた、立派な歌手。だから東北に奥山えいじ、首都圏に新田晃也、名古屋に船橋浩二、高知に仲町浩二、福井に越前二郎などの友人が多い。
≪そう言えば佐伯は、一旗揚げに上京した若いころ、作曲家船村徹の弟子だった...≫
と往時を思い返す。その船村は今年3回忌。僕は2月1日に代々木上原のけやきホールで「船村徹の軌跡」というトークショーをやった。一緒に出たのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会と、ギターの名手斎藤功。祥月命日の2月16日にグランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」では、司会をやった。船村と個人的な交友のあった人だけを招いたうちうちの会だったが、"うちうち"で参会者150人である。船村の人脈の広さと深さに、改めて感じ入ったものだ。
「蒲田で芝居やっててさ、残念だけど行かれなかった」
と言ったのは、大衆演劇のベテラン沢竜二。母親が座長で、その楽屋で生まれたというこの人は"生涯旅役者"を自称するが、九州から上京した時期に、船村の門を叩いている。声がかかって僕は"沢竜二全国座長大会"のレギュラー役者だが、彼にぴったりの楽曲『銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ』ではプロデュースを買って出た。お陰で中高年の紳士たちの支持が熱く、
「ステージに出ると、紅白!紅白!の声がかかる。もちろん俺も出る覚悟だけど...」
と、本人も俄然"その気"で歌い歩いている。
昭和38年夏の初取材以来、知遇を得て僕の船村歴は54年にもなった。物書きの志と操を教わるよりは盗めで学んだいわば"外弟子"である。それが佐伯一郎とも沢竜二とも、出会いは別々だが結果同門の交友が長い。
昨年、川中美幸公演で一緒になった女優安奈ゆかりは、何と佐伯の娘だった。ふっくら体型で、いい声の個性派。「縁」の妙の不思議な継がり方に、僕はうっとりしている。
今年最初の舞台は大阪・新歌舞伎座。松平健・川中美幸特別公演で6月7日初日、28日が千秋楽。
芝居は平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」(4場)で、鼻っ柱の強い女房(川中)とお人好しの亭主(松平)が軸になる時代劇人情物語。舞台は下谷龍泉寺町の裏長屋。そこで起こる悲喜こもごもに首を突っ込む世話役、甚吉が僕の役。
ご一緒するのは特別出演の中村玉緒に中田喜子、鷲尾真知子、外山誠二、友人の真砂京之介、瀬能和紀、関西ジャニーズJrの室龍太という面々。
毎年、川中座長の新歌舞伎座公演は、関西もので、ご当地で関西弁の冷汗をかいたが、今回はお江戸ストーリーなので、内心ヤレヤレ・・・の気持ち。1カ月、老体に鞭打って、大方のご期待に応える覚悟でいる。
久々に仲町会のゴルフコンペがあった。4月17日、名門の千葉・鎌ヶ谷カントリークラブ。西コースのスタートホールの第1打。ドライバーショットが自分でも驚くほど、よく飛んだ。
「ナイス・ショット!」
同じ組の作曲家弦哲也や後の組の四方章人、アレンジャーの南郷達也らから〝おほめ〟の声がかかる。その他の声には「えっ? どうしたの?」に似た怪訝の気配がにじんだが、
《ようし! 大丈夫だ、この調子なら》
と、僕はひそかに自分自身を励ました―。
それなりのヒミツはある。前夜は一人、ゴルフ場近くのビジネスホテルに泊まった。葉山から早朝移動の体調ロスをまず避ける。次に「80才を越したんだから」と言い立てて、シルバー・ティーから打つ特権!? を獲得した。距離的に大分オマケがある。三つめは、亡くなった作曲家船村徹の形見分けのドライバー。まだビニールで覆われて未使用だったが、テレビの通販番組で〝驚異的飛距離〟と宣伝されている業物である。もっとも僕が、それを誇示するのはいい当たりの時だけ。チョロでは故人に顔向けが出来ない。
「年齢なんて関係ねえよ」
とうそぶいていたのは、70代後半まで。80才を過ぎたら〝思い込み〟と〝体調〟のギャップが、やたらに大きくなった。2月末に小西会コンペで遠征したボルネオ(マレーシア)では醜態を演じた。1ラウンド終わって、ホテルの部屋へ戻った午後、食事もそこそこに熱を出して寝込んだ。熱中症まがいで、まだ冬の日本から気温35度の現地、体の対応が追いつけなかった。病院へ連れて行かれて点滴を受ける。夜は一行の酒盛りに復帰するにはしたが...。
「統領、タフだねえ」
「80過ぎとは思えないよ」
などというはやし言葉に、常々〝その気〟になったのは愚の極みと思い知った。その後だけに千葉の「ようし!」は、大事な体力の確認である。ゴールデンウィーク明けの15日から、6月の大阪新歌舞伎座公演のけいこが始まる。
劇場開場60周年を記念した松平健・川中美幸特別公演で、平岩弓枝作、石井ふく子演出の「いくじなし」が第一部。浅草龍泉寺町の裏長屋を舞台に、気のいい水売り行商の六助(松平)とかかあ天下の女房はな(川中)を軸にした時代もの人情劇である。僕は町内の世話役甚吉という役を貰って、一場面だが両主役にからむ。年のせいで体にガタが来ていて...じゃ面目が立たない。
セリフを一生懸命覚えながら、栃木・下野新聞の連載の書きだめをする。「続・素顔の船村徹~共に歩んだ半世紀」で、昨年1年間、月2本で24本書いたものの続編である。昭和38年の初対面以来、僕の船村歴は54年。知遇を得て密着取材、〝外弟子〟を称して鳥羽一郎ら〝内弟子5人の会〟には兄貴風を吹かせている。最晩年の心臓手術から文化勲章受章、亡くなっての通夜、葬儀、1周忌、3回忌の法要まで、ずっと身辺に居たから、ほとんど〝親戚のおじさん〟状態。書くべきネタは山ほどあり、しかも下野新聞は船村の地元発行紙だから、気合いが入らざるを得ない。
5月分2本は入稿した。6月は大阪暮らしだから、あちらへ入る前に書いておこう。年寄りのぺいぺい役者が、公演の合い間に原稿書きなどもってのほか。ご一緒する向きが僕を〝二足のワラジ〟と知ってはいても、それに甘んじては芝居の世界のお行儀として最悪だろう。第一、資料のあれこれを宿舎のホテルに持ち込めば、大荷物を運搬することになる。
昨年24本、今年24本の連載となると、合計すれば単行本一冊くらいの分量。それを船村メロディーの曲目ごとに書くのだから、こちらで数えれば48曲分。さて、どの歌にしようか、あれも書きたいし、これも捨て難い。誰もが知っているヒット曲ははずせないし、隠れた名曲もある。北島三郎を筆頭に、育てられた歌手たちにも触れておきたい。それやこれやに思いをめぐらせる日夜、亡くなった船村が、僕の脳裡からずっと居なくならない。
「...という訳でさ」
なんて言いながら、ドライバーショットをビシッ、時にチョロ。スコアは西コース49、東コース54の合計103になったが、ぴったりオネストで、僕としてはまずまずの成果。しっかりけいこに励み、その間に雑事もこなして、これなら元気に大阪へ入れそうと気をよくしている。

「四万十川恋歌」
歌:仲町浩二 作詞:紺野あずさ 作曲:岡千秋 編曲:石倉重信
競作の「孫が来る!」から5年、仲町の第2作シングル。もともとスポーツニッポン新聞広告局勤めのサラリーマンが、定年でプロ歌手になった変わりダネ。出身地高知へ通い詰め、キャンペーンに明け暮れていた。当然「第2作はいつ?」の声が出て、あせる仲町の「いずれ"四万十川恋歌"を作るから」と、タイトルだけ先行予告していた経緯がある。
満を持して!?の新曲で、作詞は同じ高知出身、星野哲郎門下の紺野に、作曲は「孫が来る!」を競作した岡千秋をわずらわした。60才を過ぎて念願のプロになった仲町は、親交を深めた地元の各メディア、有力者たちの応援を受けて、見事に「地方区のアイドル!?」に育ちつつある。

「銀座のトンビ~あと何年・ワッショイ」
歌:沢竜二 作詞:ちあき哲也 作曲:杉本真人 編曲:伊戸のりお
沢竜二はご存知大衆演劇の雄。それが惚れ込んだ楽曲で何と、今年の紅白歌合戦出場を目指す。卒業した北島三郎より年上だから現役歌手の最年長。それがハンパない意気込みで歌い歩いている。
あいつらはみんな逝っちまったが、俺はあと何年生き残れる。あと何年、女にチヤホヤしてもらえる。あと何年、女房に大目に見てもらえる。命のローソク、最後の炎、俺は俺流に生きてやる、ワッショイ!
歌詞を沢が歌い、吼える。令和に年号が変わっても、変わらぬ性分、変わらぬ欲望をわれとわが身に突き合わせて、昭和おやじの快唱である。ワッショイ!ワッショイ!の掛け声で、呼応するのは熟年の紳士たち。みんな思い当たる節があって、「あのワッショイ!には、俺もかなわねえや」と、作曲者杉本も妙な太鼓判を押している。名残りのネオン街をとび歩くご同輩よ、時ならぬワッショイ!大合唱が聞こえたら、その騒ぎの中心に居るのは沢竜二だ!

歌手井上由美子は近所のおじさんやおばさんから「パチプロ」だと思われている。理由はもうけの手堅さ。投資額は1000円代で、ジャラジャラ...と来ても深追いしない。台の選び方や球の打ち方などに、それなりの「手」はあるのだろうが、きちんと稼いで大損がない。
大阪の藤井寺から上京、足立区や昨今の西小山付近などに住むが、なぜかそばにパチンコ屋がある。そこで打ったら最初からうまく行った。ビギナーズ・ラックである。
「パチンコ台が私を見ている。少しサービスして〝その気〟にさせる気だな」
と見た。うまく行かない時はさっさと家へ帰り、着替えをして入店する。自分を〝新顔〟に見せる細工で、これが図に当たったと言う。見ているのは台ではなく、その裏の店員の視線なのだろう。
「沢山たまった球を、主として何に代えるの?」 と聞いたのは、明らかに愚問だった。答えが、
「お金に決まってるじゃん」
と来たからだ。獲得する金は全部生活の足しにした。プロ歌手になる前は、そんな暮らしが長かった。
井上由美子は「演歌」の歌い手である。それに似合いの苦難の時期とエピソードもちゃんと持っている。しかし口調はやたら明るい。
「中学3年の時、母と私は、藤井寺に居る必要がなくなった」
両親の離婚が理由。そこで母子二人はすっぱりと大阪を捨てる。井上には歌手になる夢があったが、その方法について、知識もコネもない。とりあえず母もバイト、自分もバイトの日々である。ところが母が体調を崩したため、彼女は昼夜バイトのダブルで生計を支えた。文化放送の深夜番組「走れ歌謡曲」がやった新人歌手募集に応募、1年後にデビューする好機をつかむのは、一発勝負のいわば僥倖。それまでにカラオケ大会もオーディションも出たことはない。
根拠のない自信家井上由美子は「チビ」である。この表現は人をおとしめるとして要注意だが、身長146センチ、足のサイズ21・5、童顔の彼女は「かわいい」と言われそれを売りにするのだから、使ってもいいだろう。もっとも彼女は子供のころから、コンプレックスを持ってはいた。しかし歌手になると、あちこちでかわいいと言われるために、自分の価値として再認識。昨年から年齢も非公開にした。容姿の説得力を保つ作戦である。
恩人の名前が二人分出て来た。一人は元文化放送の玉井進一さん。応募した時に年齢制限越えを明記したら「正直でいい」とし、見た目を「かわいい」と評価して、歌手への道を開いてくれた。文化放送系の音楽出版社JCMの社長も務めた人だが、僕も親交がある人情家だ。もう一人は亡くなったアルデルジロー社長の我妻忠義さん。デビュー時井上を引き取ったプロダクションの主で、僕もこの人のお声がかりで役者の道へ入った。共通の恩人というのも縁の妙か。今は我妻氏の息子二人が事務所を引き継ぐが、何しろ井上が頼りの弱小プロ。そこで彼女は、
「お金を下さい。事務所がつぶれちゃいます!」 と、舞台で叫ぶ会社こみの〝自虐ネタ〟をやり、爆笑を呼んだりするのだ。
歌手井上由美子は「おもろい女」である。「パチンコ」に並ぶもう一人の趣味は「温泉」だが、長野の白骨温泉へ出かけた時など、2日間で12回もつかり、
「お肌ツルツルを通り越して、パサパサになった」
と笑い飛ばす。休みがあると飛んで行くのは伊香保の宿で素泊まり。コンビニでおにぎりなど買い込み、寸暇を惜しんでつかりまくると言う。
それやこれやを僕はレギュラー出演中のUSEN「昭和チャンネル」月曜日の「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」6月放送分で、彼女と5時間近くしゃべり尽くした。相棒の歌手チェウニも笑い転げんばかりの長時間だった。
井上が生来身につけていたのは、関西人特有の諧謔精神と、血液型Aの眼くばり心くばりのサービス。ボケよりツッコミの威勢の良さがある。目下彼女は新曲「想い出の路」キャンペーンに没頭しているが、僕はマネジャーに、
「バラエティ番組に出せ、パチンコか温泉探訪のレポーター役を取って来い!」
と注文した。まず顔を売る近道だが、さて我妻兄弟、どこまで頑張れるものかどうか...。

老練のシャンソン歌手出口美保は、粘りに粘った。以前にもこの欄で触れた大阪の作詞グループ「詞屋(うたや)」の歌づくり。メンバー各人の歌詞がほどほどに仕上がり、私家版のアルバム2作めにしようと企んでのことだ。作家・エッセイストの杉本浩平の詞「詩人の肖像」に、僕の友人の作曲家山田ゆうすけが曲をつけた。出口には前回同様サンプル歌唱を頼んだのだが、詞に注文がつき、曲に一部変更の相談が来る。
《こうなりゃ、とことんやるか!》
プロデューサー格の僕もハラを決めた。詞はそれまでに何度か手直し、タイトルもシャンソン風に変えていた。出口はその作品を「自分のレパートリー」にすると意気込む。それならば「試作品」を越える完成度を目指さなければなるまい。
出口は関西のレジェンドである。シャンソニエを持ち、そこを中心に歌いながら、年に一度はフェスティバル・ホールでリサイタルをやる。いくつかの教養講座で教え、相当数の教え子たちもいる。それだけに彼女なりの世界をはっきり持っており、それにふさわしい言葉やそうではない言葉にも敏感だ。だから、
「この部分はどうも...」
「このメロディーはもう少しこうならない?」
と、相談は細部にわたった。
その都度僕は杉本と話し合ってまた詞に手を加え、山田に注文して曲の手直しをする。
「すみませんねえ」
と詫びる彼女。
「いやいや、気持ちは判りますよ」
と応じる僕。これまで僕は歌謡曲のプロデュースをいくつかやり、歌手たちの代表曲にした経験がある。相手がスター歌手でもこうと決めたら一直線。反対も押し切る我の通し方だった。それがこんなに手間暇をかけたのは初めてだ。
出口の歌を聞いたのは、ずいぶん昔のNHKホールの「パリ祭」で、ズンと来る低中音の魅力と存在感をカラオケ雑誌の記事にまぎれ込ませた。ほんの数行なのに、それを読んだ彼女から連絡があり、東京でのコンサートも何度か見た。それを縁に詞屋の仕事につき合ってもらうことになる。
詞屋のアルバムは文字通りの手づくりで、メンバーの研鑚の記念品であり、欲を言えば作品のプロモーションが狙い。府長と市長が入れ替わり、大阪維新の会がダブル選挙圧勝、ぶち上げる都構想...などとは全く関係ないが、
「歌のコンテンツづくりが東京一極なのはいかがなものか、この際われわれが関西から発信したい」
とする会の意気に感じて手伝って来た。4年前のアルバム第1作は思い思いの作品でコンセプト薄め。今回は「大阪亜熱帯」「ちゃうちゃう大阪」「ふたりの天神祭り」「ワルツのような大阪で」など、いかにも〝らしい〟作品が集まっている。歌詞に本音を書き込むのはむずかしいが、リーダーで演出家の大森青児の「おやじの歌」は、101才で亡くなった父君への思いが切々である。
5月1日発売を目途にした作業。
「それにしてもお二人、粘りますなあ」
と会の面々に呆れられながら、締切りをかなり遅れ、見切り発車されそうな中で「詩人の肖像」は出来上がった、ピアノ一本をバックに、出口美保渾身の歌唱である。彼女も僕も、とうに80才を越えている〝老いの一徹〟だが、彼女はまだ、
「いまひとつ歯がゆい」
と、歌唱への未練を口にしている。
詞屋のメンバーは、大森、杉本のほかに槙映二、丘辺渉、井美香、近藤英子ほかだが、正体は大学の先生、作家、進学塾のやり手など、異業種ではひとかどの面々。そこが面白そうだと、僕は時おり大阪の合評会に参加、年寄りの知ったかぶりでお尻を叩いて来た。会の弱点は作詞家ばかりで、作曲、編曲、歌もやる松原徹と曲の上原昇以外は作曲、編曲、歌手の仲間が手薄なこと。いずれ関西の有志を糾合...とその気になっているから会は第2期に入りそうな気配だ。
「だから、歌い手がいまへんねん」
「これはお似合いの作品と思うんやけど...」
などと、冗談めかした視線に射すくめられて、酔狂な僕は杉本のもう一つの「古き町にて」を歌うことになった。作曲は大病の療養中だった有名アレンジャー前田俊明に依頼、女に振られたまま京都あたりで独居する熟年男の悔恨をしみじみ...という段取り。歌唱ばかりは口ほどにもないと、失笑を買うことは覚悟の上である。

殻を打ち破れ207回
偶然ってあるものだと思った。なかなかに味なものだとも思った。2月にちあきなおみを2度も聞いたのである。もちろんCDとテレビの映像でのことだが、久しぶりに沁みたのは『紅とんぼ』と『紅い花』の2曲――。
『紅とんぼ』にグッと来たのは、1日の代々木上原けやきホール。ここで僕は「巨匠船村徹の軌跡」の語り手をやった。共演したのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人組とギタリストの斎藤功。船村の歌づくりの足どりを、作詞家高野公男との時代、星野哲郎との時代を軸に辿った。
『別れの一本杉』をはじめ、往年のヒット曲を内弟子たちが歌い、斎藤の妙技は『みだれ髪』で。美空ひばりや北島三郎のヒット曲はCDで聞きながら、船村の"ひとと仕事"のあれこれを、エピソード仕立てでしゃべる段取り。昭和38年の初対面以来、僕の船村密着歴は54年に及ぶ。話のネタも聞き直したい歌も、山ほどあった。
高野、星野作品にしぼると、ちあきなおみがはずれてしまう。それでは残念...と、3時間余のショーの幕切れ近くに『紅とんぼ』を所望した。平成4年のNHKの歌番組を最後に、ふっつりと姿を消したままの歌手である。会場の人々も心なしか、かたずを飲む気配で聞き入った。昭和63年のシングル、まさにちあき円熟期の作品だ。
それから4日後の2月5日、風邪の微熱がおさまらぬまま、テレビをつけたらたまたまBSテレ東のちあきなおみ特集に出っくわした。大流行のインフルエンザではなかった安堵もふっ飛んで、テレビの画面に正対する。"いい歌"ばかりの中で、待ったのはやはり『紅い花』だった。平成3年の新譜、めったに聞けない作品をそれもフルコーラス。彼女41才の収録とテロップに出た。こちらも現役最晩年、歌い手盛り、女盛りの彼女だ。
『紅とんぼ』は、駅裏小路の店が店仕舞するドラマ。常連だったケンさんやしんちゃんに、酒も肴も空にしていって、ツケは帳消し、5年間ほんとにありがとう...と、ママの一人語りが続く。歌うちあきの表情は、客への感謝が暖く、故郷へ去る身の寂しさで揺れる。3コーラス全部、最後の決めのフレーズが
♪新宿駅裏"紅とんぼ"
思い出してね...時々は~
で、ここでちあきの顔はふっと真顔に戻った。はりつめんばかりの思いを表現、ちあきの全身がママそのものになっている。
≪演じるというレベルではない。これはもはや憑依の芸そのものだ≫
1日にCDで聞いた歌を、5日に映像で見直して、僕はそう納得した。
一転して『紅い花』は、熟年の男の悔恨がテーマ。ざわめきの中でふと、男は昔の自分を振り返る。思いをこめてささげた恋唄も、今では踏みにじられ、むなしく流れた恋唄になった。時はこんなに早く過ぎるのか、あの日あのころは今どこに...男はそんなほろ苦さをひとり、紅い花に託して凝然とする。ちあきのくぐもり加減にハスキーな歌声が、静かなまま激していく。情感は抑え込まれるからこそ生々しくなる。結果歌は、さりげなく熱い――。
ずいぶん昔に居なくなった、一人の歌手の歌心を、こんなふうに再確認することもある。そして僕は二人の男の顔を思い出した。『紅とんぼ』も『冬隣』も、『喝采』も作詞家吉田旺の作品である。『紅い花』は、テレビの歌謡番組が花盛りだった70年代から90年代に、腕を振るった構成作家松原史明が作詞した。吉田は書斎型の物静かな歌書き、松原はこわもての言動に、あの歌のような維細さを秘めた物書きである。久しく会わない二人の近況が、しきりに気になったものだ。
いきなりびっくりするくらいの〝ゆうとコール〟である。赤羽会館1階の客席はほとんど女子。歌が始まれば一斉にペンライトが揺れて、そのリズム感もなかなかだ。3月23日夕、辰巳ゆうとのファーストコンサート。昨年末のレコード大賞最優秀新人賞ほか、いろんな賞を取った注目株で、2階席にはメディア関係者が相当数集まった。
なぜか歌まで拠点が北区赤羽なのだ。
《もしかして...》
と思い返す。氷川きよしの初コンサートがここ。夜桜演歌まつりの発端もここ。双方見に行ったが、いずれも辰巳が所属する長良プロダクションの主催だった。ビクターの担当・菱田ディレクターに確認したら、拠点選びはやはり事務所主導である。先代の長良じゅん社長の遺志を、息子の神林義弘社長が引き継いでのことか。〝こだわり〟は時に、強い武器になる例だろう。
「おとこの純情」「下町純情」「赤羽ものがたり」と、辰巳のレパートリーはみな明るく、テンポ快適。新人だから歌唱に荒けずりなところはあるが、それも活力に通じ、美男子ぶりが彼女らを酔わせる。歌の中身は今様青春歌謡で、
〽叶わぬ夢を叶えるために(中略)ここぞと言う時一気に出せよ、やれば出来るさ、運も呼べ...
と、若者を鼓舞するタイプ。
僕の席は2階2E14。ショーの途中、辰巳の歌をごく小声でなぞる男が居た。前奏、間奏、後奏までの念の入れ方で、実に気分がよさそう、振り向けば後ろの席のハミングの主は作曲家徳久広司、隣りには作詞家久仁京介の笑顔がある。辰巳でひとやま当てたコンビが上機嫌なのだ。
《そう言えば...》
と、同じ月の17日、ザ・プリンスパークタワー東京で会った歌手藤野とし恵の迷いを思い出す。シングルを出すたびに、カップリング曲の方が評判になるらしい。タイトルで言えば「水無川」より「失恋に乾杯」で「路地しぐれ」より「私をどうするの」となる。メインは彼女らしい情緒艶歌、他方は前者がマンボ、後者がルンバだ。藤野は福田伴男・真子夫妻の「舞と食事と歌の会」にゲストで出ていた。福田氏は横浜の医師だが、山歩きと釣りとカラオケが大好きの粋人。夫人の真子さんは地唄舞いの本格派で、この夜は「雪」を舞った。僕は二人と長い交遊に恵まれている。
地唄舞いの粛然、精妙のあとは、カラオケ達者連のステージ。2次会も含めて、みんなが軽快にノリのいい曲を選んでいた。よく見ると、熟年の歌い手の体が倍テンポで動いている。
「そうなんだよな、近ごろは...」
と、僕は藤野とうなずき合った。みんなが一心に歌を楽しんでいる。情緒だの情感だのをひたひたと訴えることは、かったるくなったのか? この節、若者にも熟年にも、娯楽の種類は信じられないくらいに増えた。庶民の生活は大いに様変わりして、生活感も変わった。その中で、演歌歌謡曲の哀愁に、自分の思いを仮託する味わい方など失われてしまったのか?
暗めのドラマを聞かされるよりは、歌手と一緒にその場を楽しむ心地良さの方がいい。歌う側と楽しむ側が体を揺すり、手拍子を打ち、掛け声をかけ合ってひとときの〝まつり〟とする。そのためのツールとしての流行歌が近ごろは人気を集めやすいのか!
そんなことを考えながら24日昼は六本木のREAL DIVA'Sへ、ゆあさみちるという新人のライブを見に行った。友人の作曲家花岡優平が手がけていて、
《じゃあ、昼間から一杯やるか!》
と誘いに乗った。これが何とも小気味のいい魅力の持ち主だった。中肉中背、短髪、黒いシャツブラウスで、キビキビと体がよく動き、歌の合い間のコメントも手短か。時おりシャウトする地声が強く、情緒的湿度よりは、活力を伝えて快活だから、
「アイドル性があるな」
と言ったら、花岡は一瞬けげんな顔をした。年齢が高めの層相手のアイドルだって、アリではないか。
話は辰巳ゆうとに戻る。この青年は1曲ごとに数回「ありがとうございます」を繰り返した。客席を回るシーンなどその連発で、1ステージで150回くらいは言ったろうか。体の動きやコメントに氷川きよし似のところがあり、ファンに両手をひらひらさせるあたりは水森かおり似とも思えた。同じ事務所の先輩2人の、いいとこ取りをした賢さが、ごく自然なところが面白かった。

内田裕也はいつも「怒って」いたし「いらだって」いた。自分の考えにそぐわない事柄が多過ぎるし、それをアピールしても届かない無念がある。言動が粗野だから、主張ぶりは時に〝事件〟となって、世間の耳目をにぎわしてしまう。
《そうじゃねぇんだよ、このタコ!》
という鬱憤が、どうしても積み重なっていく。そういう一念と、蛮行、愚行に走ることの乖離を意識しながら、彼は彼流を押し通した。胸中にうずく含羞の美学など棚にあげたままだ。
1981年、樹木希林との離婚届けの件もそうだった。夜遅く会いたいという電話を受ける。僕はその日のスポニチ編集の責任者で、手が離せないと言っても、きかない。仕方なしに、勤め先近くの東京プリンスホテルのバーで落ち合った。
「離婚しました」
が彼の第一声。夫人が同意したとは思えないから問いただすと、二人分の印鑑を勝手に押している。誰がどう考えても、そんな届けは無効だから、取り下げるように話したが、
「渋谷区役所は受理した。決定だ」
と強弁する。その足でハワイへ発つと言うので、僕は社の車で成田空港まで同行、説得を続けたが、「うん」とは言わぬままだ。彼の言う通り、事実は事実だからありのままに記事にした。
案の定、大騒ぎになる。帰国後の彼と話して、友人の弁護士を紹介した。間違いなく敗訴になるにせよ、本人がマスコミ勢にもみくちゃにされ、またあらぬことを口走らぬように...のおもんばかりだ。
10年後の91年、都知事選に立候補する件は、赤坂プリンスホテルの寿司屋で報告を受けた。政治への関心と、候補者選定の舞台裏への義憤が熱く語られる。こちらには止める理由もないから、翌日の立候補届け出に、仲間の記者とカメラマンを同行させ、取材した。選挙運動の期間中も破天荒な遊説に密着する。落選はしたが彼は、5万票超の支持を得た。
長いつき合いがあった。ロカビリー・ブームからグループサウンズ・ブームまで、僕はジャズ喫茶や日劇のウエスタン・カーニバルなどを徹底取材した。異形の彼らの凄まじいエネルギーと熱狂するファンの姿を、世間は不良集団と指弾する。しかしそれは明らかに、新しい音楽や流行の波頭だったから、スポニチは支持し、僕はたくさんの記事を書いた。
もともと僕は密着型の記者である。歌手の美空ひばり、作曲の??田正、船村徹、作詞の星野哲郎、阿久悠、吉岡治らがそうだが、相手が許してくれればとことんその懐に深入りして「ひとと仕事」の実情をきわめようとした。「密着」と「癒着」は違うのだ。内田の場合もそうなり、しばしば一緒に酒を飲む間柄になった。
ところが相手は、ロックンロールと生き方考え方を表裏一体の魂と念じる男である。ロックがビジネス化することにも異議を唱え、憤懣やる方ないから、荒れた酒になることが多い。ゴールデン街ではいつも、彼をカウンターの一番奥に据え、僕はその手前に陣取った。居合わせた客の発言に腹を立ててケンカになると、僕は止め役である。口惜しがって彼は僕の腕を噛む。明け方、僕の右腕には彼の噛み跡が二つ三つ残ったものだ。
あとになれば笑い話の、そんなエピソードは、いくつもある。しかし、それを笑っては済ませないほど、その時々彼はすこぶる真剣でなりふりかまわない。短絡的で衝動的に行動する彼との酒は、いつも危険物持ち込みみたいな緊張を伴った。右側二の腕に残った彼の噛み跡は、当時の僕の名誉の勲章だったかも知れない。
駆け出し記者には、とうてい対応できる相手ではない。そのために僕は、スポニチに、〝裕也番〟の担当記者を置いた。晩年まで長く密着したのは佐藤雅昭で、文化社会部長もやったベテランである。2013年、彼の父親が亡くなった通夜に、内田が突然姿を現わした。何と葬儀式場は北海道の釧路である。こわもての内田の情愛の深さとおもんばかり、筋の通し方に僕は感じ入ったものだ。
内田裕也は己の信ずるままに戦い「むきだしの人生」79年を貫いて逝った。胸中の核としてあったのは、樹木希林夫人の言う「ひとかけらの純」だとすれば、もって瞑すべき生涯だったろう。
僕はこの欄の今年第1回から全部で、亡くなった人のことばかりを書いている。時代の変わりめに立ち会っている感慨がひとしおである。

「二度とない人生だから...」
を冒頭に置いて、いくつかの心得が並ぶ。いわく―、
「太陽や月、星に感謝して、宇宙の神秘を思い、心を洗い清めていこう」
「風の中の野の花のように、命を大切にして、必死に、丁寧に生きていこう」
「お金や出世より、貧しくとも心豊かに、優しく生きてゆこう」
「残り少ない人生だから、沢山の〝ありがとう〟を言うようにしよう」
箇条書きにそんな言葉が次々...。一部省略、一部割愛したが、これは亡くなった作詞家下地亜記子の信条であり、同時に遺言にもなった。
親交のあった歌手真木柚布子は、病床の下地からこのメモを示されて胸を衝かれた。下地はこの時すでに、自分の病状の厳しさを知り、残された日々がそう長くないことを、予感している気配があったと言う。後に真木は、渡されたメモの重さに思い当たる。作詞歴40年、72才で逝った下地は、自身の生き方考え方、歌づくりの姿勢を総括、それを歌みたいな表現で、真木に伝えたのではなかったか!
3月11日、中野サンプラザ13階のコスモルームで、真木は「下地亜記子先生との思い出ライブ」を開いた。「託された詩があり、伝えたい歌がある」をテーマに、3回忌の追悼イベント。彼女のファンや下地の知人、関係者など230人が集まった、こぶりのディナーショーである。その舞台で真木は、下地の遺言を朗読した。作曲家樋口義高のギター演奏がバックで、寄り添うように静か。
《3回忌に、こういう催しもありなんだ...》
2月16日に作曲家船村徹の3回忌の宴を、司会で手伝ったばかりの僕は、それとこれとを思い合わせる。船村の場合は、故人と親交のあった人だけを招いて、遺族の「アットホームな雰囲気に」という希望を満たした。一方下地の場合は、真木が下地作品を歌いまくる歌謡ショー。冒頭と幕切れに息子の下地龍魔があいさつをしたことだけが、それらしさの演出だ。
ともかくにぎやかだった。曲目を挙げれば、お祝いソングの「宝船」から、本格演歌の「北の浜唄」「夜叉」「雨の思案橋」にコミカルな「ふられ上手」「助六さん」リズムものの「大阪ブギウギ」「夜明けのチャチャチャ」じっくり聞かせるのは歌謡芝居「九段の母」...である。劇団四季に居たこともある芸達者・真木のために書いたとは言え、下地の詞世界の幅の広さがよく判る。隣りの席に居たキングの中田信也プロデューサーが
「売れ線ばかり作っても、おもろないもんねえ」
と笑ったが、彼が主導したトリオならではの面白さが前面に出ている。
下地は世渡り下手な作詞家だった。広告代理店のコピーライターから転じたと聞くが、歌謡界の表通りに出てはいない。それでは裏通りに居たかと言えばそうでもなく、コツコツと「自分の道」を歩いて来た人だ。決して器用な人だとも思えない。歴史ものにはちゃんと下調べをした痕跡があり、書いては消し、消しては書いた推敲のあとが歴然。歌の常套フレーズの中に、自分の言葉を書き込む粘り強さで、中には言葉山盛り、書き過ぎと思える作品もあった。安易に流れることを嫌った彼女の作詞術は、いってみれば力仕事で、出来栄えは〝おとこ前〟だったろうか。
真木もまた、表通りではなく、自分の道を行く歌手である。先に書いた曲目がそれぞれシングルで発表される都度、
《中田は一体、何を考えているんだ?》
と、企画の蛇行、路線の見えなさに疑問を持ったものだ。それが過日、真木のコンサートを見て、眼からウロコが落ちた。趣きが多岐にわたる作品群を、巧みに並べ合わせた構成で、まるで「ひとりバラエティー」の面白さ。歌謡ひとり芝居も情が濃いめで、僕は不覚にも涙ぐんだりした。
《彼女はそういうタイプのエンタテイナーなんだ...》
と合点する。それは流行歌の歌い手だから、一発ブレークを念じないはずはない。しかし下地・真木・中田のトリオは、ヒット狙いにあくせくするのを避け、真木なりの世界を作ることにも制作の狙いを絞っていたということか。
下地3回忌ショーの客席で右隣りに居たのが元JCMの岡賢一社長。森山慎也の筆名で香西かおりの「酒のやど」ほかのヒットを持つ人だが、 「この催しを決定的にいい会にしたのは、真木の誠意と歌手としての実力だな」
と感嘆していた。下地亜記子ももって冥すべきだったろう。

元第一プロダクション社長岸部清さんの死は、淡路島で聞いた。2月11日、作詞家阿久悠の故郷のこの島で、阿久作品限定の大がかりなカラオケ大会「阿久悠音楽祭2019」をやったことは、この欄でも書いた。その大会が終わり、大盛会に気をよくした打ち上げで、ひょいと席をはずしたのが同行した友人の飯田久彦。戻るなり神妙な顔で囁かれたのが岸部さんの訃報だった。
通夜・葬儀の日程はどうなったか...と、葉山の自宅へ戻ったら、スポーツニッポン新聞の後輩記者から電話が入る。岸部さんの人柄や業績についての問い合わせ。
《そうか、彼らは岸部さんが元気だったころを知らないんだ。ま、戦後のプロダクション隆盛時代を作った、いわば一期生のせいか...》
岸部さんの笑顔を思い出す。ぴんからトリオの「女のみち」の件になって、これは結局書かないだろうな...と言いながら、自慢話をひとつした。ある日、霞ヶ関の第一プロ社長室に呼ばれて彼らのテープを聞かされた。
「どう思う?」
岸部さんは「女のみち」の値踏みに窮していた。
「三振かホームラン。限りなくホームランに近い。だけど、ひどい歌詞です。まるで素人でしょう。大当たりはするけど、作品論としてはイマイチもいいとこかな」
僕はえらそうに太鼓判を押した。何といっても説得力が強力なのは、宮史郎の歌声。悪声の一種だが、だからこそ底辺の女の嘆き歌にビシッとはまっていた。森進一や金田たつえがそうだが、たぐいまれな悪声は、時として天下を取る魅力に通じる。
大ヒットした。そのころ親しかった第一プロの若手、只野・島津両君が、嬉しそうな顔で、
「社長がお礼に、台湾旅行に行こうと言ってます」
のお使いに来た。「バカなことを言うな。はいそうですか、今回はようございましたねなんて、ノコノコ出かける訳はないだろう」と言下に断ったら、二人は虚を衝かれた顔をしたものだ。
18日、青山葬儀所の岸部さんの通夜に出かける。葬儀委員長がホリプロの堀威夫最高顧問、副委員長が田辺エージェンシー田邊昭知社長とプロダクション尾木の尾木徹代表取締役、世話人がバーニングプロダクションの周防郁雄社長と、業界の大物が勢揃いだ。現役を退いて久しい岸部さんだが、この世界の草創期に名を成した人である。歌社会が総出の弔いになって当然だったろう。
《ところで只野、島津はどうした?》
立ち働く元第一プロの諸君を見回したら、
「只野は大病をして動けず、島津は今のところ連絡がついていない」
と、教えてくれる人がいた。親しかった分だけ、二人の不在には舌打ちしたい無念さが残った。
帰宅したら届いていたのはザ・キングトーンズのリードボーカル内田正人の訃報である。「グッドナイト・ベイビー」のヒットで知られる日本の〝ドゥーワップ〟の草分け。小沢音楽事務所に所属、長い親交があったが、小澤椁社長も「グッドナイト...」他を作曲した異色の歌書きむつひろしも、亡くなってずい分の年月が経つ。
内田は僕と同い年の82才。葬儀は近親者だけでやると聞くと、手を合わせる機会がない。むつひろしを弔ったのは平成17年の9月、「八月の濡れた砂」や「昭和枯れすすき」を書いた異才だが、最晩年は、がんの苦痛と戦っていた。その気をまぎらわせることと激励の意味も含めて、
「最後に1曲、これぞって曲を書き残せよ。ちあき哲也に詞をつけてもらって、内田正人に歌わせるから」
と、無茶振りをしたことがある。ところがそのころすでに内田は脳梗塞で倒れていて、以降長い闘病が続いた。そうこうするうちに親友のちあき哲也も旅立ってしまい、むつひろし最後の傑作曲は、宙に浮いたままになった。
2月25日から僕は今ボルネオに居る。正確に言えばマレーシアのコタキナバルというところで、ハワイのマウイみたいな景観とリゾート施設が整う。連日30度の気温だが、昔の日本の夏みたいな過ごしやすさの中で、小西会の遠出のゴルフ・ツアー。ボルネオはもう10回近く通っているが、幹事長の德永廣志テナーオフィス社長が、
「小西会もやばいよ。みんな年取っちまって、体調不良のいい訳ばかりだもん」
と嘆く。結局参加者はゴルフの2組ほど。苦笑いしながら、平成最後の春、僕は遠のいていく昭和と、親しかった人々の友情を思い返している。

「仲間たちをなァ、大事になァ」
これが亡くなった作曲家船村徹からのメッセージ。本人の筆跡で、遺影とともに祭壇に飾られた。透明のアクリル板仕立てで、背後の桜の花が透けて見える。その前には位牌と、生前愛飲した酒「男の友情」のボトルや愛用のグラス、周囲には春の花々が揃う。2月16日の祥月命日、グランドプリンスホテル高輪で開かれた「3回忌の宴」でのことだ。
業界の葬儀屋よろしく、数多くの作家や知人の葬儀や法要を手伝って来たが、
《3回忌が一番むずかしいな》
と常々思っていた。亡くなってまだ2年、大ていの遺族は喪失感が生々しい。それに引きかえ参会者の方は、去る者は日々にうとし...で、双方の偲ぶ心にギャップがある。ことに歌社会の面々は、仕事上の懸案事項があれこれあって、自然わいわいがやがやになりやすい。新聞記者時代の僕など、人が集まればネタ探しが最優先だったから、不逞のやからの見本みたいだった。
「だから今回は、うちうち、アットホームな感じでやりたいの」
船村夫人の佳子さん、施主になる長男蔦将包とその嫁さゆりさん、船村の娘三月子さん、渚子さんの意見が一致した。
「判りました」
と、その意を受けたのが、構成、演出など全体取り仕切りのボス境弘邦と、相談しながら飾り物や花の細工をしたマル源社長の鈴木照義と僕...と、いつものメンバーだ。
そこで参会者名簿だが、生前の船村と個人的に親しいつき合いのあった人にしぼる。当然親戚の人々、船村の弟子たちの同門会、船村の故郷の栃木、コンビだった作詞家高野公男の茨城勢、後輩の作曲家と作詞家、薫陶よろしきを得た歌手たちということになる。レコード会社やプロダクション関係はごく一部になったから、後日、
「何で俺が呼ばれなかったの?」
と疑義を唱える向きには、境と僕の責任だからと謝ることにした。それにしても〝うちうち〟なのに参会者150人である。さすが巨匠船村...と、僕は感じ入る。
もうひとつの〝それにしても〟だが、素人の僕に司会のおはちが回った。昭和38年夏の初対面以来、知遇を得て船村歴54年、物書きの志と操を習うよりは盗んだ外弟子である。ことに師の晩年は連日のように密着、船村家の番頭格になったうえ、ここ10年余は舞台で役者をやっていて、年も年だから、人前に出てもあがらないだろう...ということでご指名にあずかった。
《ようし、それなら俺流に...》
と境の台本を書き直して、本番前には栄養ドリンクなどを飲んだ気合の入れ方。
来賓のあいさつは、船村の秘書係りまでを長く務めた浅石道夫ジャスラック理事長、船村の件ではこの人を絶対はずせない歌手北島三郎の二人だけ。それでも予定より15分押した。話したいことは山ほどある人たちだから仕方がないにしても、
「あいさつが〝長い〟と言い切る司会者は初めて見た。僕なんか、口が割けても言えませんよ」
と、本職の司会者荒木おさむに笑いながら激励された。万事この調子で、それが僕の〝うちうち流〟コンセプト。献杯の五木ひろしには
「あいさつ、長くなてもいいよ」
と声をかけた。伝説のテレビ番組「全日本歌謡選手権」での船村との出会いから、師匠だった上原げんととのいきがかりまで、こちらも山ほどの思いを持つ。いつもは「仲間たちバンド!」で終わりの紹介だが、メンバー12人を一人ずつていねいに紹介、みんなに一言コメントを貰った。彼らが選んだ船村作品「みだれ髪」「柿の木坂の家」と、家族が選んだ「街路樹」「風雪ながれ旅」を演奏でしみじみと聴く。
会場入って右側が、まるでフリーマーケット状態。背広上下が2点をはじめ、ジャケット、ジャンパー、コート、作務衣、帽子、ネクタイのセット、ぐい呑み等々。これが全部船村の遺品だったが、カラくじなしのくじ引きで、にぎやかな形見分けになった。お別れは例によって星野哲郎作詞船村徹作曲の「師匠(おやじ)」を関係者の感謝をこめて。歌ったのは鳥羽一郎、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子5人の会、送り出しの演奏は「宗谷岬」で、会場にも戸外にも、春の気配が濃かった。
次の日、作詞家の喜多條忠から電話が入る。
「司会、よかったです。船村先生より俺の方が、足が5センチ長いことが判りました」
どうやらくじ引きで背広が当たり、帰宅してすぐに着てみたらしい。

淡路島に居た。2月10日から12日の2泊3日。東京からすれば南の方である。多少は暖かいか...と、のん気な旅は、羽田から徳島へ空路1時間20分、空港から大鳴門橋の高速を車で40分、島の中心部洲本へは案外あっさり着いた。しかし寒い。日本へやって来た例の史上最強の寒波とやらで、淡路島も例外ではなかった。
その寒空の下、11日の祝日に120人ものノド自慢が集まった。洲本市文化体育館文化ホールは〝しばえもん座〟のニックネームがある。そこで開催されたのは「阿久悠杯歌謡祭2019」阿久の故郷の島で、阿久作品限定のカラオケ大会である。
《そりゃ、手伝うしかないよな...》
と、審査に出かけたのは阿久作品で数多くのヒットソングを作った飯田久彦、朝倉隆に阿久の子息深田太郎と僕。あの〝怪物〟とは、切っても切れない仲の男たちということになる。おまけにゲストは山崎ハコ。彼女は阿久の未発表作を集めたアルバム「横浜から」を出したばかりだ。
天候の加減で欠席者が3人ほど出たが、ステージのボルテージは高かった。それぞれが歌う阿久作品は、傑作揃いである。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「雨の慕情」などはレコード大賞受賞曲だが、出場者たちは楽曲に寄り添い、ちゃんと〝自分の歌〟にしている。「街の灯り」を歌ったのは6人「聖橋で」が5人「転がる石」が5人...と、選曲が重なっても、歌唱は思い思いだ。参加者は中部、四国勢を中心に九州や広島、関東、東北からも。
言い出しっぺの情熱家は実行委員長の山中敬子氏。阿久が育った五色町の出身で、小学校から高校までを同じ校舎で学んでいて、崇敬の念がやたらに熱い。服飾関係の仕事で成功、島内有力者たちと親交があるうえ大の歌好きだ。彼女の一念発起に呼応したのが島の歌好きたちと観光関係者で、全国的組織の日本アマチュア歌謡連盟の竹本雅男本部長が指揮を取った。それにしても100人規模の全国大会である。第1回を成功に導いた陰の努力は、なみ大ていではなかったはず。話の発端から陰でかかわった僕は途中相当に心配したが、打ち上げの席では十分に快い酒に酔った。
成功の第一は、地元の人々の情熱、第二は参加者の歌唱の水準の高さ、第三は阿久悠の作品力の凄さだったろう。審査員席で僕らは歌われる1曲ごとに、阿久との親交のあれこれを思い浮かべた。120人近くの歌を聞くのはかなり難儀! と覚悟したが、それがそうではなくなった。100点満点で採点しながら、作業はけっこう楽しく、会場の人々の拍手も長丁場だが飽きる気配がなく、暖かかった。
ホテルの部屋で、兵庫県淡路県民局が編んだ小冊子「俳句で詠む淡路島百景」に出くわした。その序文に、淡路島は古事記に伝わる「国生み神話」の中で、日本で最初に創られた「日本のはじまりの島」とされているという。
《ほほう...》
と新しい発見をした気分で、書中の作品を引けば、
「この島の地球にやさし花菜畑」
「神の島埋みつくして若葉かな」
「胡麻干して淡路瓦の本普請」
「島一つ黄金に染めて秋落暉」
「流星に明かせし夜空島のもの」
などが目につく。阿久が少年時代にかこまれた島の豊かな四季や、彼の鋭く旺盛な叙情的感性を育てた風景に接した心地がした。
島のイベントに参加するには、当日の前後がどうしても〝乗り日〟になる。3日目の12日は洲本から阿久の通学道路などを辿って、五色町のウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)へ出かけた。ここには阿久作品を映画化した「瀬戸内少年野球団」のモニュメントや、彼の没後「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフにした「愛と希望の鐘」がある。ありがたいことに前日までとは一変したポカポカ陽気。眼下に新都志海水浴場、その向こうは青々と播磨灘である。土地の名産だった瓦を使った碑銘や、青銅色の野球少年像にからんで記念写真...と、阿久を偲びながらのおのぼりさん気分だ。
瀬戸内海はいい。これなら周防大島で星野哲郎音楽祭、小豆島でゆかりの吉岡治音楽祭がやれる。3島の優秀者を集めて、後日「瀬戸内歌の王座決定戦」ってのはどうだ! と、僕らの夢はふくらむばかりになった。

殻を打ち破れ206回
新年早々、まず聞いたCDは山田太郎の『やっと咲いたよなぁ』だった。
≪ふむ...≫
いろんな感慨がいっぺんに胸に来る。まずジャケット写真の彼の笑顔だが、亡くなった父君の西川幸男氏に似て来ている。しっかりとカメラを見据え、ほほえんでみせる目許に西川氏を思い出す。戦後のプロダクション業の創草期、テレビ局寄りの渡辺プロ、ホリプロと一線を画し、演歌・歌謡曲で全国の興行を制した新栄プロの創業者だ。その生前に長く、僕はたっぷり過ぎるほどの知遇をこの人から得た。
≪歌がうまい、熟年の味か...≫
山田のCDを聞き、一番だけでもそう感じる。中・低音に響く男の渋さ、高音部には晴れやかな明るさがある。二番三番と聞き進んで、歌に温かい情がにじむことに気づく。息づかいがたっぷりめで、夫婦歌の新曲に似合いだ。
♪生きる晴れ間に
見つめ合う それが夫婦の そろい花...
と三番の歌詞が来て
♪やっと
咲いたよなぁ...
と歌が収まる。苦労をともにした男女の年月をしのばせる詞は波たかし、聞き慣れぬ名だが原案は山田夫妻の実感か。作曲は岡千秋。この人も西川氏に認められ、無名のころからこの事務所の禄をはんだ。僕と同じ新栄育ち、二代目社長山田用に、初代へ恩返しのいいメロディーを書いている。
≪雀、百までって奴か...≫
山田は西川賢の本名で、西川氏の跡目を継いだが、競馬界で名を成した。馬主会の大幹部で、このジャンルでも父君の仕事を受けて、長く働いた成果だ。その間歌手活動は減ったが、宴席などでは請われてよく歌っていたろう。「新聞少年」でデビューした少年時代からずっと親交がある僕は
「金を取って歌っていた昔より、金を払って歌うこのごろの方が、腕が上がった。カラオケ様々だな」
と冗談を言って笑わせたこともある。何はともあれ2月には全国馬主会の会長に就任する矢先の歌の現場復帰である。超多忙は想定内の新曲発表、それなりの覚悟はあろうと言うものだ。
「聞いてくれた?」
と本人から電話があったのは、昨年の暮れも押し詰まったころ。まだCDが届いてないもの...と答えたら
「すぐ送るけど、クラウンは何をやってんだろ、全くもう...」
とボヤいた。発売元のクラウンと新栄プロと僕と、浅からぬ因縁の仲なのにという残念さが言外にある。
そう言われればそうなのだ。日本クラウンはコロムビアを脱退した実力者伊藤正憲氏を陣頭に、馬渕玄三、斉藤昇氏ら腕利きのプロデューサーたちが興した新会社。意気に感じた新栄プロの初代西川氏が、手持ちの歌手北島三郎、五月みどりらを移籍させて看板とした。コロムビアとの裁判沙汰を物ともせぬ男気。その間の男たちの連帯をテーマに、北島の『兄弟仁義』が生まれたほどの絆があった。クラウン設立は昭和38年、翌39年正月が第1回新譜の発売で、山田の「新聞少年」ヒットもここから。内勤記者から取材部門に異動した新米記者の僕は、当初からクラウンに日参して密着、レコード会社のいろはをここで覚えた。山田と僕はクラウン育ちでもある。
「昔は昔、今は今。その気で頑張ろう!」
山田の電話の最後に僕はそう言って笑った。何しろ55年も前の話、知る人ももう居ない。そう思いながらしかし、創業者や開拓者の志が受け継がれぬようで、一抹の寂しさは残る。温故知新の例えもある。新しそうなものばかりに、血道をあげていても仕方あるまい。
「お金が要るんです。お金をちょうだい!」
歌手が舞台で大真面目に言うから、少々驚いた。客席からはクスクス笑いが起こる。それが大笑いにつながったのは次の一言。
「会社があぶないんです。お金がないと、つぶれちゃうんです!」
井上由美子の、いわば自虐ネタ。応援に来ていた歌手たちと爆笑、その後で胸がツーンとした。
井上が所属しているのはアルデル・ジローというプロダクション。業界のやり手として知られた我妻忠義氏が興した会社で、その没後は二人の息子が引き継いだ。父親の代に川中美幸との契約を解消したから、今は井上が頼りの小さな事務所。この時期、諸般の情勢から、有名歌手を抱えた大手でも、そうそう楽な経営ではない。いわんや弱小プロにおいておや...で、歌手生活15年の井上にも、荷の重さが先に立つのか―。
彼女のコンサートは、1月11日昼、品川・荏原のひらつかホールで開かれた。タイトルが「由美子さ~ん! 開演時間ですよ~!!」と風変わりで、幕あけ、映像の彼女は商店街でパチンコをやっている。そこへタイトル通りの声がかかって、自転車で会場へ駆けつける段取りなのだが、実物の井上は、自転車に乗ったまま舞台へ現れた。のっけからコミカルな演出である。
「恋の糸ぐるま」「海峡桟橋」を歌い、メドレーでつなぐのは「赤い波止場」「片瀬波」「港しぐれ」「夜明けの波止場」に「夾竹桃の咲く岬」「城崎夢情 」「高梁慕情」...。残念ながらブレークした曲はないが、歌唱はそれなりにしっかりした演歌だ。サービス曲は「東京キッド」「ガード下の靴磨き」などが、ごく小柄な井上のキャラに合い、中島みゆきの「空と君のあいだに」やかぐや姫の「赤ちょうちん」杉本眞人の「冬隣」などは、歌手としての力量を問う選曲。
井上はその間、ジョークの連発で、冒頭のギャグもそこで出て来た。僕らを仰天させたのはアンコールの「ダンシング・ヒーロー」で、歌のノリもさることながら、突然登場したキモノ美女軍団の踊りが見事にキレキレ。DA PUMPもEXILEもそこ退け! の激しさだ。聞けば彼女たちは向島の芸者衆で、井上と親しいつき合いだそうな。
アルデル・ジローの先代我妻さんは、川中美幸ともども、僕を舞台の役者へ導いてくれた恩人。その息子たちの奮闘につき合うつもりで見に行った井上由美子だが、活路をひとつ見つけた心地がした。井上の歯切れのいい本音ジョークと、小柄でちょこちょこのキャラと、客の反応は、バラエティー向きである。ショーの演出も本人だと言うから、お笑いの素養は天性のものと見た。
1月23日には「コロムビアが平成最後に放つ秘密兵器」がふれ込みの門松みゆきデビューコンベンションに出かけた。いきなりの注文が乾杯の音頭である。昔はこの種のイベントに乾杯がつきもので、乾杯おじさんの異名を持つ大先輩も居たが、近ごろでもそんなのアリなの...と引き受けた。門松が10年内弟子暮らしをしたのが作曲家藤竜之介の許で、デビュー曲の「みちのく望郷歌」も彼の作曲。作詞が石原信一と来れば、二人とも、いわば弟分のつき合いだから、やむを得まい。
藤は20数年前から、花岡優平、田尾将実、山田ゆうすけ、峰崎林二郎とともに〝グウの会〟と名付けた飲み会を作り、僕が仕切っているお仲間。なかなかチャンスに恵まれなかった彼らに、
「愚直に頑張ろう!」
とお尻を叩いたのが会の名前のココロだ。一方の石原は、彼が大学を卒業したころからのつき合いで、当初はスポニチの常連ライターだった。
「だからさ...」
とステージで、僕が彼らの兄貴分なら、お前さんと俺は「おじさん」と「姪」の関係になると説明したが、門松はキョトン。委細かまわず僕の乾杯のあいさつは「親戚のおじさん」調になった。
《そうか、内弟子10年ねえ》
作曲家船村徹の内弟子、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾が、同じくらいの年数を辛抱したのと親しいが、女性にも我慢強いタイプが居たことに、一種の感慨もある。門松は16才から藤の門下で、第一興商のカラオケ・ガイドボーカルを150曲以上こなしたという。地力の強さを感じさせる歌声で、新人だから多少荒けずりだが、のびしろはたっぷり、津軽三味線の弾き語りも披露した。
特に演歌だからという訳でもなかろうが、近ごろ歌手たちの陰の人間関係にかかわることが多い。馬齢を重ねたせいか―と、少々ホロ苦さもある。

殻を打ち破れ205回
今年のレコード大賞の作詩賞は、松井五郎が受賞した。対象は山内惠介の『さらせ冬の嵐』と竹島宏の『恋町カウンター』の2曲。演歌ファンには聞き慣れぬ名前かも知れないが、この人はポップスの世界ではベテラン、相当な有名人だ。
≪よかったな。本人は今さら...とテレたかも知れないが...≫
と、余分な感想を後半につけ加えたのは、彼が仕事を歌謡曲分野に拡大、新鮮な魅力を作っているせい。僕は山内惠介に書き続けたシリーズで、それを面白がって来た。構築する世界がドラマチックで、インパクトが強い。70年代以降、阿久悠が圧倒的に作りあげた境地に近く、山内のキャラを生かして、その青春版の躍動感があった。
コツコツ歌っては来たが、作品に恵まれなかった竹島に悪ノリしたのも、松井の『恋町カウンター』と出会ったため。もしこの路線を続ければ、竹島は昨今勢いを持つ男性若手グループの一員に食い込む予感がある。民謡調の福田こうへい、演歌の三山ひろし、歌謡曲の山内惠介の新々ご三家に追いつき、ポップスの味わいで伍していけそうなのだ。この4人に青春ムード歌謡ふう純烈を並べれば、それぞれ個性のはっきりした集団がパワフルになる。世代交代の気運がある歌謡界で、先行する氷川きよしを兄貴分に見立てると、なかなかの陣立てではないか!
12月8日夜、テレビで日本作詩大賞の生中継に出っくわした。同じ時間に別のBSで、弦哲也、岡千秋、徳久広司、杉本眞人と出演、ワイワイ言ってるシリーズ「名歌復活」が放送されていたから、あっちもこっちも...の忙しさになった。作詩大賞の方に松井の顔が見えたから、レコ大と2冠になるといいななどと思ったが、結果は福田こうへいの『天竜流し』に決まった。万城たかしの詞で、作曲は四方章人である。
万城は地道に頑張って来た人だから、おめでとうと言いたいし、これで作詞の注文が増えたりすれば、なおいいなとも思う。だからこの受賞に異議を唱える気はないが、新聞記者くずれの僕にはどうしても、新風を吹き込むエネルギーや知恵を期待し、歓迎する性癖が強い。松井の仕事を支持するのは、彼の作品には独特の着想が際立ち、それにふさわしい表現力を示すせいだ。恋物語とその成否は流行歌の永遠のテーマ。長い歴史でほとんど書き尽くされていそうだが、それでも見方を変え深彫りすれば、一色変わった作品が生まれる例もある。
川中美幸が歌っている『半分のれん』がそのひとつ。作曲家協会と作詩家協会が共同企画するソングコンテストの2018グランプリ受賞作で、岸かいせいの作詞、左峰捨比古の作曲だ。舞台は居酒屋、登場人物は店の主らしい女と男客が一人。この設定には特段の新しさはない。それが、
♪のれんしまえば
あなたは帰る 出したままでは 誰かくる...
という女の思いから急展開する。きんぴらごぼうを出したり、問わず語りの身の上話をしたりして、女は客をひき止める。詞のとどめは、外の看板の灯をこっそり消し、商い札を裏返すあたり。こまかい細工を重ねて、女心のいじらしさを巧く表現した。深彫りさえすればこの手があったか...と感じ入ったものだ。
真正面から松井流の大胆な発想が一方にあれば、ありふれた設定の中で、創意工夫を凝らす表現が他方にある。色恋沙汰は書き尽くされたかと思ったが、歌をありふれたものにしない粘り強さが、まだまだ活路を持っていて頼もしいではないか!
何かと屈託多めの新年、さて仕事だ、仕事...と切り替えて、CDをあれこれ聞き直す。胸の奥にツンと来る歌を選び出した。ブラザーズ5の「吹く風まかせ~Going My Way」と沢竜二の「銀座のトンビ~あと何年ワッショイ」の2曲。双方熟年の男の、成り行きで生きて来は来たが、さて...の感慨がテーマだ。80才を過ぎた当方も十分に思い当たる。前回に書いたが、星野哲郎の友人、北海道・鹿部の道場登氏を葬い、放送作家の杉紀彦や、元ニューハードのギター奏者で、浅川マキの曲を幾つも書いた山木幸三郎の訃報などが相次いだ1月、
「う~む」
と落ち込んだ矢先のことだ。
〽あんな若さであいつも、あン畜生も、先に勝手に逝きやがって...
と、沢の「銀座のトンビ」は友人を見送った男が主人公。〝あン畜生〟は少々乱暴だが、そう言えるつき合いがあったのだろう。残された主人公は、あと何年生きられるとしても、
〽俺は俺のやり方で、お祭りやってやるけどね...
とハラをくくる。お祭りというのは、女にチヤホヤしてもらえる、女房に大目に見てもらえる、暴れたがりな欲望を開放する...とノー天気。合いの手に「ワッショイ!」を繰り返して陽気に歌うが、居直りと言うか、自棄クソと言うか、面白くてやがて哀しい歌詞のココロが陰でうずく。
作詞したちあき哲也は4年前に亡くなったが、僕にとっては〝あン畜生〟といいたいくらいの弟分、作曲した杉本眞人が大事なレパートリーの1曲として歌って来た。それに感動してカバーした沢は、僕より一才年上の大衆演劇の大物。作品の内容とノリに、思い当たる数々が彼の本音と重なって、
「これはもう、俺の歌ですよ」
と、気合いを入れてCDにした。年齢の割に声が若々しいし、役者だけに、やたら出てくる「ワッショイ!」のニュアンス分けもなかなかだ。
ブラザーズ5はご存知だろうが、杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃が組むユニット。いずれも70年代のフォークシーンで、ブイブイ言わせた男たちが熟年に達している。資料の勢揃い写真も高山以外はズボンのポケットに両手を突っ込んで、あっぱれ不逞のおじさんムード横溢だ。
4年ぶりのシングルは「君に会えて...会えてよかった」と「吹く風まかせ~Going My Way」で、作詞が石原信一、作曲が馬飼野康二。両A面扱いと聞くが、僕は後者に悪ノリした。こちらも歌の主人公が熟年で、
〽恋でもひとつしてみるか、行き先なんて吹く風まかせ...
とノー天気。沢の歌の舞台が「銀座のクラブ」なのに比べて、こちらは「洒落たカフェテラス」と少々若め。曲もカントリーふうに軽快で、5人組の音楽的出自が生きる。
気に入ったのは、各コーラス収めの2行分で、
〽Going My Way Taking My Time 変わりゆく時代でも、俺らしく生きるのさ...
のコーラス部分だ。5人組が気分よさそうに歌っていて、おそらく聴衆もここで声をあわせるだろう。沢の方はきっと「ワッショイ!」に、ファンが怒号で応じるだろうと、好一対の愉快さを持っている。
作詞した石原信一は、彼が大学を卒業した時分から、僕がスポーツニッポン新聞で作った、若者のページのレギュラー執筆者のいわば同志。そのつきあいが今日まで続いている。ひと回り年下の団塊の世代で、ばりばりの売れっ子にのし上がったが、僕にとってはやはり〝あン畜生〟の部類に入る親しさだ。その辺で、
「そうか...」
と気づく。沢の「銀座のトンビ」もブラザーズ5の「吹く風まかせ」も熱く共鳴し、たまらない気分にされそうなのは、団塊の世代前後から上の男たちだろう。2作とも絵空事のはやり歌に、作詞、作曲者と歌い手の、本音の部分が重なり、にじんでいるからこその説得力を持つ。
CD商売は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のご三家が活躍した昔から、買い手の年齢層をどんどん下げながら、今日にいたった。しかし、若者の音楽嗜好も多様化、細分化した昨今、買い手の的の年齢層を高めにし、反響を下におろしていく手もありはしないか。もともとご三家以前は、はやり歌は大人専用の娯楽だった。そんなことも再認識しながら、両者をこの作品で、同じ舞台に乗せてアピールしてみたい―遅まきながら、それが僕の初夢になった。

新年を挑戦の転機に
「俺は今、こういうメロディーが書きたい」「私が書きたい詞はこういうものだ」――作家たちの意気込みが"こだわり"に聴こえる何曲かが揃った。歌い手の個性を生かし、あるいは進化を期待する思いが、その芯にあるだろう。
新しい年を迎え、間もなく新しい年号に変わる。それを転機と捉え、歌社会の人々が創意工夫を凝らして挑戦するなら、頼もしい限りだ。はやり歌の拡散小形化や低迷を嘆くことなど、すっぱりと捨ててしまおう!
漁火街道
作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:椎名佐千子
ジャジャジャジャ~ン...と伊戸のりお編曲の前奏が始まる。「おっ、大きく構えたな!」と、聴く側のこちらは身がまえる。
作曲の岡千秋はこのところ「王道もの」を書くことに熱心な様子。今作も麻こよみの5行詞を、起承転結も彼流に、差す手引く手たっぷりめで「これでどうだ!」の気合いが入っている。絶唱型のメロディーだ。
ヤマ場はサビの「ねえ ねえ あなた 今頃どこにいる...」の高音部。椎名佐千子の歌はここでめいっぱいになる。長く歌い込めば、彼女の代表作の一つになるだろう。
「しゅら しゅしゅしゅ...」はどうやら、女がほどいた帯の音。それがまだ続いて、歌詞では「修羅 朱朱朱」と漢字表現だ。耳で聴くだけでは、そうとは判らないだろうに、作詞の田久保真見はこだわる。女の性は「修羅」そのもの、事実、三番でドキッとさせる。
これも作曲は岡千秋。女唄では定評のある角川博を知り尽くしていて、その"極み"を狙った気配がある。この人も最近、妙に強気だ。
角川は委細承知の歌唱、息づかいも巧み、歌の語尾に思いを託して、年期の芸を聴かせている。
初恋の詩集♡
作詞:志賀大介
作曲:伊藤雪彦
唄:三代沙也可
作曲家伊藤雪彦もこだわる。弟子の三代沙也可の作品は一手引き受け、他人に渡したことがない。それが湘南を舞台の連作に一段落、今作に転じた。昔なら舟木一夫に似合うだろう青春叙情歌。三代の歌も初々しい。
詞は志賀大介の遺作。三番に「夢よりも嘆きの歌ばかり」の一行がある。生前に彼は、自分の仕事にそんな苦渋を抱えていたのか?
散らず花
作詞:坂口照幸
作曲:四方章人
唄:西方裕之
作詞は名文句捜し、それを歌い出しに書ければ勝負が決まる。坂口照幸のこだわりは「やさしい男に女は惚れて、そのくせ訳あるひとに泣く」を一番の歌い出しに据えた。四方章人の曲のその部分を、西方裕之の歌は客観的に語り、サビの「いいのいいのよ」以降を主観的な嘆き歌とした。歌唱の微妙なサジ加減の妙を聴き取れば、楽しみが増す。
一番星
作詞:水木れいじ
作曲:水森英夫
唄:天童よしみ
チャカポコ賑やかな伊戸のりおのアレンジが、快適なテンポで進む人生の応援歌天童版。メロディーを軸に、しっかり声を張るタイプの曲をよく書く水森英夫が、こちらもそれが得意の天童に、この手のものを提供したのが面白い。
世に出るのが新年の初頭に似合いそうで、天童も気分よさそうに歌って、ちゃんと彼女の歌にする。なかなかである。
望郷山河
作詞:喜多條忠
作曲:中村典正
唄:三山ひろし
喜多條忠の詞は故郷の山河に「俺も男だ 負けないぜ」と、主人公の心意気が勇ましい。それを中村典正の曲はあえて〝望郷〟に軸足を置いた穏やかさ。三山ひろしの歌唱ものびのびのどかに聴こえる仕立て方だ。
弟子であり娘婿でもある三山に賭ける中村の思いが、透けて見える。中、低音の響きを中心に、三山の〝男らしさ〟を前面に出す演出だろう。
愛は一期一会
作詞:たきのえいじ
作曲:弦哲也
唄:北原ミレイ
たきのえいじの詞は、彼流の〝愛の讃歌〟で、最愛の人を得れば、生きて行ける未来を「一秒先」までと真摯さを訴える。
その序章4行分を、おおらかに語らせるのが弦哲也の曲。一転する次の4行で、女主人公の思いに切迫感を加えた。ポップス系のメロディーは弦の幅の広さを示し、大ステージで双手を広げて歌うミレイが、目に見えるようだ。
マンスリーコースの皆さんに
一つの歌が生まれる陰には、かかわった人たちの"一生懸命"が必ずある。僕は1曲ずつにそれを捜し、応援の弁を書いて来た。これが僕の批評の骨子で、アラ捜しはしない。マンスリーニュースを担当したのは平成13年11月号からと言うから、丸17年間毎月。僕は沢山勉強をさせて貰い、多くの知己を得た。平成とともにこの号が最終版である。よいお年を!よい歌を!を、ごあいさつとしたい。(小西)
「星野先生は、めんこいなあ...」
と、それが口癖の男がいた。作詞家星野哲郎を見やりながら、少年みたいな眼をキラキラさせて酒を飲む。当の星野は温顔しわしわとテレ笑いしながら、杯を交わす。昭和61年から21年もの毎夏、二人はホテルの宴会場やバーで、そんな出会いを繰り返した。場所は北海道の漁師町・鹿部。相手は地元の有力者・道場水産の道場登社長だ。
この欄にもう何回書いたか判らない。鹿部は函館空港から車で小一時間、川汲峠を越え、噴火湾の海沿いに北上したところで、人口4000。星野はそこで、定置網漁の船に乗って綱を引き、番屋でイカそうめんに舌つづみを打ち、昼は漁師たちとゴルフ、夜は酒宴の2泊3日を過ごした。海の男や港の女を主人公に、数多くのヒット曲を書いた〝海の詩人〟星野の、いわば〝海のおさらい〟の旅だ。
実際に彼が東シナ海で漁をするトロール船・第六あけぼの丸に乗っていたのは、終戦後のわずか2年。病を得て海を断念、作詞家に転じたが、功なり名遂げてもなお、
「海で一生を終わりたかった」
と言うこだわりがあった。
「僕は鹿部へ、心身に潮気を満たすために来ている。昔、船乗りだった僕から、いつか潮気が失せていたら、これ以上の恥はない」
星野は〝鹿部ぶらり旅〟の本意をそう語ったものだ。
一方の鹿部の人々には、知名人を招いて活性化を計る〝町おこし〟の狙いがあった。「21世紀を考える獏の会」のメンバーが、たまたま星野に声をかけたのは函館空港。ひょんな出会いが「海」と「男同志」をキイワードに、21年分もの友情で結ばれたことになる。その獏の会のメンバーで、星野の招へい元を買って出たのが道場登氏。20代で独立、たらこ専門の会社を興し「たらこの親父」の異名を道内にはせた立志伝中の人だ。それが大の酒好き、歌好き、ゴルフ好きで、あっという間に二人は肝胆相照らす仲になった。
海の男の特徴は、寡黙であること。無造作に身軽なこと。さりげなさと完璧さを持ち合わせ、あ・うんの呼吸で心を通わせ合うこと。だから彼らは、自分の本能を信じて生き、自然、虚飾の部分はそぎ落とされている。星野の旅のお供を続けた作曲家岡千秋、作詞家里村龍一と僕は、星野と道場のとっつぁんの交友の傍に居て、そんなことを学んだ。乞われれば岡は「海峡の春」や「黒あげは」を弾き語りで歌い、里村は釧路訛りのだみ声「新・日本昔ばなし」なるブラックユーモアで、漁師とそのかみさんたちを大笑いさせた。
星野が逝ったのは平成22年11月で享年85。僕らトリオは、驚いたことに、
「お前らが、星野先生の名代で来い!」
という道場社長の鶴の一声で、その後も鹿部詣でを続けた。行けば行ったで、払暁の釣りやゴルフ、昼からの酒である。ゴルフコンペにはずっと「星野哲郎杯」の横断幕が張られた。海の男のもう一つの特徴は、故人の追悼に心を砕く情の深さ。道場氏の場合はこれに、視野の広さ、心根の優しさ、無類の寂しがり屋が加わる。
海の詩人と日本一のたらこの親父の友情に、ピリオドが打たれたのは今年1月5日午後だった。正月三が日は相変わらず飲んでいたという道場社長の訃報は、あまりにも突然だった。誤えんが原因の心不全。尚子夫人が気づいた時は、居間のソファに寄りかかる形だったそうだ。9日午後6時から通夜、10日午後1時からが葬儀。僕らは初めて冬の鹿部へ飛んだ。岡と里村と僕、それに元コロムビアの大木舜、作詩家協会の高月茂代と、僕の後輩でスポニチプライムの高田雅春が9日の便。高田は事あるごとに僕らのツアコンにされる。10日当日は、仕事で体が空かなかった星野の長男有近真澄の代理で由紀子夫人と星野の秘書だった岸佐智子がとんぼ帰りだ。
葬儀は僕らがいつも宿舎にしたロイヤルホテルみなみ北海道鹿部のホールで、株式会社丸鮮道場水産の社葬として営まれた。ゴルフで顔なじみの男たちが、道場家長男の真一君、二男登志男君を中心に立ち働く。喪主の尚子夫人と長女真弓さんは気丈な立ち居振舞い、指揮するのは渡島信用金庫の伊藤新吉理事長で葬儀委員長である。読経は曹洞宗の僧侶が8人、ご詠歌は7人の婦人たち。焼香する人々は鹿部の人々全員かと思えるほどの列を作った。32人もの子供や孫、親戚の人々に囲まれて、道場氏の遺影は鹿部のボス然とした笑顔。戒名は「登鮮院殿尚覚真伝志禅大居士」享年79だった。

殻を打ち破れ204回
新曲の『片時雨』を聞いて「うまくなったな」と思った。もう一度聞き直して「いいじゃないか!」になった。岩本公水とはデビュー以来のつき合いだが、このところちょっとご無沙汰。そんな話をしたら編集部から「会ってみません?」ということになって――。
小西 いい歌だよな
岩本 私も初めて頂いた時、いいな、売れそうだなって思いました(笑)
小西 曲先だって? 岡千秋があれこれ考えて、これで行こうって強気になった気配だ。
岩本 岡先生は『北の絶唱』『雪の絶唱』に続いて、シングル連続3曲めです。3連演歌を2つやったから、今度は違うものをやろうと言って下さって...。打ち合わせの後がすごかったんです。
小西 どういうふうに?
岩本 事務所の近く、赤坂のカラオケ・ボックスに行って、あれ歌ってみろ、これ歌ってみろと...(笑)
小西 どんな曲を歌わされたのさ(笑)
岩本 岡先生の作品が多かった。『波止場しぐれ』とか『河内おとこ節』とか。今、これじゃないな、それじゃこれかなって。曲を入れたり、止めたりして下さって...。
小西 彼がそんなことまでしたの? マネージャーは何してたんだ?
岩本 居ません。岡先生と二人っきりです。
小西 危ねぇな(笑)。それでその後、飲みに行ったわけ?
岩本 はい。私、作家の先生にそこまで一生懸命して頂くのは初めてでした。それで...。
小西 どうなったのよ!(笑)
岩本 酒の歌をやろう。お前も40才越えて、芸歴も20年を越えたんだから、ギター演歌の王道をやろうって...。
小西 ちょっと待てよ。お前さん、もう40を越えたのかい? 20年以上になるのかい?(笑)
岩本 だって、吉岡治先生の『雪花火』がはたちの時でしたから。あれから23年になります。
小西 そうか、知らず知らずに、そんなに時が過ぎてたのか...(笑)
岩本 で、岡先生からは、飲んだ夜から2、3日で、デモテープが届きました。
小西 あのしゃがれ声のな(笑)。彼、歌も彼流にうまいもんだけど、すっと入れた?
岩本 はい。1回聞いただけでメロディー覚えました。ららら~って3番まで歌えました。
小西 そのららら~...に、詞をはめ込んだのが、いとう彩だ。
岩本 いとう先生も3作連続です。『北の絶唱』の時に、どうしたことか、私のステージをあっちこち見に来て下さってたんです。聞きましたら、興味がある、ずっと書いてみたいと思ってたって...。それならば是非ということになって、それから今度が3作めです。
小西 詞、曲ともに、いい縁があったってことか。歌づくりって、そういう情熱や思いがあらかじめあるってことが強いよな。酒場でひとり、別れた男を思う歌って、そんな体験があるのかどうか知らんけど(笑)ま、岡チンの思い通りに、年相応、キャリア相応の作品が出来上がった...。
岩本 自分自身で思うんですけど、歌い方が昔よりずっと素直になったなと...。
小西 俺たち物書きもあんたら歌い手も、率直なのが一番だね。気負いも衒いもなしに、すうっと真っ直ぐにね。それが何といっても本音に近い。『片時雨』のよさは、歌声の芯に岩本公水本人の思いがにじんでいること。歌詞で言えば3行めと4行めの頭の部分が、長めに揺れながら歌ってるあそこ。聞いてて気持ちがいい、歌ってて気持ちがいい。心地よく哀しいんだ。
岩本 気持ちがいいから、酔いがちになるんですね。レコーディングの時に、岡先生に言われました。「酔うのはお客の方で、自分が酔っててどうするのよ!」と。不思議に快いメロディーなので、ついつい...ね。それでハッ!と気づくんです。それ以来、酔い過ぎないように、酔い過ぎないように...と、毎日、頭に入れて歌っています。
小西 酔う、酔わない...の、そのギリギリのところがいいんだね。丸山雅仁のアレンジがまた、その気にさせるしな...。
岩本 ふふふふ...。
小西 俺さ、うまくなったな...と思ってたけど、こう話してみれば、やっと自分の背丈に合った作品に恵まれたんだと判ったよ。一時体調を崩して歌手活動を2年半も休んだ経験も、生きてるかも知れない。ところでお父さんは元気なの?
岩本 はい。元気で米づくりをやってます。一度歌手をやめて故郷へ帰ったころに、脳梗塞で倒れたんですけど。私を歌手にする夢が破れかけて、心が折れたのかも知れない。
小西 その看病をしながら、お前さん、ホームヘルパー2級、障害者(児)対応ヘルパー2級なんて資格を取ってる。休業中もちゃんと、やることはやってたんだ(笑)。
岩本 だって秋田での2年半、暇で仕方がなかったし...(笑)カラオケで毎日、ガンガン歌ってもいたんですよ(笑)
小西 陶芸も教室に行ってから、もう20年になる?
岩本 趣味だったんですけど、2年前に東秩父に窯を持ちました。
小西 プロフィールに「陶芸展」って欄がある。秋田や埼玉などで個展をずいぶんやって、公私ともに充実の平成時代だな(笑)
岩本 はい!(笑)
だいぶ前の話だが、銀座でばったり出会った。ちょうど蕎麦を喰いに行くところで「どうだ?」と聞いたら「うん」とついて来た。二人きりの時間も乙なものだったから、今度は「飲もうな」と誘ったら、やっぱり「うん」の返事。いずれ折を見て...の話だが、この人、人づきあいもやんわりと率直なあたりが、なかなかの熟女になっていた。
石田光輝、元気なんだな!
『半分のれん』というタイトルが思わせぶりで、逆にキャッチー。歌を聞いてその意味をほほえましく合点した。川中美幸が歌った作曲家協会と作詩家協会が募集したソングコンテストのグランプリ作。特段に目新しさはないが、よくある酒場風景でも、視線を変えたり、掘り下げたりすれば、「なるほど」の新味を作れる一例だろうか。そう言えば、カップリング作『ちゃんちき小町』の作曲者石田光輝は、昔、僕がかかわっていたころからの常連。米子で元気にやっていそうなのが嬉しい。
なみだ雲
作詞:羽衣マリコ
作曲:弦哲也
唄:川野夏美
2013年10月のマンスリーに、この人の『悲別~かなしべつ~』を〝うまい歌〟よりは〝いい歌〟と書いた。作曲家弦哲也が切り開いたドラマチック路線。以来ずっと弦の手腕と川野夏美の進化を追跡して来た。
今作はシャンソン風味の2ハーフ。歌詞の4行ずつを序破急の〝序〟と〝破〟に仕立て、おしまいの2行を〝急〟より心持ち穏やかめに収めた曲づくりだ。面白いのは、芝居なら1番が第一幕、2番が第二幕のような歌唱の情感のせり上がり。川野の新境地には、羽衣マリコの詞、川村栄二の編曲が必要だったのだろうな。
『流氷の駅』からもう10周年になるのか。走裕介のデビュー発表会に彼の故郷網走へ出かけたことを思い出す。気温30度のマレーシアから帰り、その足で流氷祭りへ。気温差40数度の厳冬に音を上げたものだ。
作詞が石原信一、作曲が田尾将実の『春待ち草』は、再会した男女のほのぼのを語るスローワルツ。亡くなった師匠船村徹作品で、声と節を聞かせて来た走には、新しい挑戦になる。歌詞4行めのサビが、意表を衝くメロディーの展開を示すあたりが、走らしい聞かせどころ。船村の長男蔦将包の編曲がサポートしている。
ひとり象潟
作詞:麻こよみ
作曲:新井利昌
唄:花咲ゆき美
歌詞の1番で言えば「信じたくない 信じない」のサビから「ひとり象潟 あなたに逢いたい」の「逢いたい」を心の叫びにしたかったのだろう。風景を淡々と描く歌い出しから、そういう形に切迫した展開を示すのが、ベテラン新井利昌の律儀な曲づくり。花咲ゆき美の歌唱はよく心得ていて、彼女なりに女心の一途さを率直に表現した。
半分のれん
作詞:岸かいせい
作曲:左峰捨比古
唄:川中美幸
春日はるみの芸名で歌い、不発のまま大阪へ戻った川中美幸は、母親のお好み焼き屋で一時、看板娘だった。その時期の客あしらいを思わせる明るさと弾み方が、歌の前半にあって若々しい。それが後半一転して、好いた客と二人きりを願ういじらしさをしっかり伝える。なかなかの役者ぶりと言えようか。ソングコンテスト受賞作だ。
礼文水道
作詞:森田いづみ
作曲:岡千秋
唄:水田竜子
森田いづみの詞は、礼文水道あたりの景色をあれこれ見せて、連絡船に女心の未練を託す。情感を表すのはもっぱら岡千秋の曲と前田俊明のアレンジで、そのせいだろうが、水田竜子の歌の眼差しは、はるか遠めを見て明るい。「ひとり見つめる」とか「祈るおんなの」とか「揺れて彷徨う」とかの収めにあるキイワードが、表現のよすがになっていそうだ。
最終出船
作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
唄:山口ひろみ
一般論だが、歌手の芸の〝しどころ〟は高音のサビの部分。それだけに、そこに到る歌い出しをどうクリアするかに苦心する。逆にその部分で魅力的な語り口を示せれば「うまいな」の第一印象が稼げる。山口ひろみのうまさはそこで点数を挙げ、サビもいなし加減に全開放しないところ。声を〝抑え〟て思いを〝突く〟唱法が、都はるみ調に聞こえた。
「悲しい酒」から「愛燦燦」まで、ひっきりなしに美空ひばりの歌声が流れて来る。
《文字通り歌声は永遠だな。彼女が亡くなったのは平成元年、その平成も30年の今年で終わろうというのに...》
親交があった感慨ごと楽屋のモニターをのぞけば、踊っているのは大衆演劇の座長たちだ。12月12日午後の浅草公会堂、沢竜二が主宰する恒例の座長大会の第2部。
「また芝居の話か?」
と、うんざりされそうだが、これが今年、僕が出演した6本目の舞台。第1部が「大親分勢揃い」で、驚いたことに大前田英五郎、清水次郎長、国定忠治に森の石松、桶屋の鬼吉など、有名どころがゾロゾロ出て来る。演じるのが座長たちだから皆な二枚目。ただ一人馬鹿桂という三下で、道化る僕がチョイ役なのにやたらに受ける。お客が笑えるのはここだけという、沢の気くばり配役だ。
というのも、新聞社勤めのころからの約束で、もう10年近いレギュラー出演。それにこの冬は、沢が「銀座のトンビ」を歌いたいと言うので、プロデュースを買って出てCDを作った。杉本眞人の作品で、彼が歌っておなじみ。老境のプレーボーイが「あと何年、バカをやれるか!?」とネオン街を飛び歩く内容だ。死んだちあき哲也が、杉本の年かっこうと遊び方ぴったりの詞を書いたのだが、これが沢にもモロに当てはまるうえ、何度も出る掛け声の「ワッショイ!」が悲喜こもごも、超ベテラン役者の味で何とも得難い。
沢と杉本は最近ラジオ番組で合流、大いに盛り上がったそうな。
「一緒に一杯やろう!」
がこういう時の決まり言葉だが、新宿育ちの杉本が近ごろ通うのは銀座と聞くし、沢が根城にしているのは池袋である。そう言えばこの歌は、杉本が歌うと銀座っぽくポップス系で、沢が歌うと池袋ふう演歌っぽさがにじむのが面白い。いずれにしろ二人があちこちで、
〽あと何年、女にチヤホヤしてもらえる...
〽あと何年、女房に大目に見てもらえる...
とぶち上げ、なかば自棄の「ワッショイ!」を繰り返す年の瀬、似たような老紳士たちが「ワッショイ!」「ワッショイ!」と声を揃えるか!
美空ひばりの話に戻ればハワイでやったイベントから、息子の加藤和也と有香夫妻が帰って来た。和也はおなじみゴルフと酒の〝小西会〟のメンバー。葉山国際でやった年忘れコンペのあとで、酔った事後報告が愉快だった。ひばりのフィルム出演と生で競演したゲストが細川たかし。司会の女性と通訳の女性を、ステージ上で手玉に取ってのジョーク連発が大受けした。細川の歯に衣着せぬ毒舌と稀有のユーモア精神はおなじみだが、ハワイの人々は爆笑に次ぐ爆笑。すっからかんに晴れ渡ったハワイと根っから陽性な細川は、これ以上ない組み合わせだ。あげくに歌は歌で、おなじみの細川節でビシッと決めるのだから、ハワイの人々が溜息を下げる様子が目に見えるようではないか!
美空ひばりと芝居とで、あとはどうなのよ? と聞かれれば、二足のワラジの僕はこの原稿をFAXしたあと、15日には加藤登紀子のほろ酔いコンサートに出かけ、翌16日は作詞家吉岡治の孫の吉岡あまなの大学卒業、社会人一年生のお祝いの会をやり、17日はレコード大賞の表彰式に出る。ひところ舞台裏のあれこれが不愉快で、
「やってられねえよ!」
と毒づいて縁切れになっていたレコ大だが、制定委員で久々の復帰。主催する作曲家協会が、弦哲也会長、徳久広司理事長以下、友人たちの新体制に変わってのお誘い。「昔の名前...」のお手伝い、夜は川中美幸ディナーショーに行く。
時おり町で見知らぬ人から「テレビで見てます」と声をかけられる。BSテレビで盛んな昭和の歌特集に呼ばれて、年寄りの知ったかぶりをやっているせいだが、さて、平成が終わり昭和がもっと遠くなってどうするのか?
「サザンと安室とピコ太郎じゃ、平成ものはしんどくなるねえ」
と、きついことを口走りながら、迎える新しい年と新年号である。少々早めだがこの欄も今回が今年の最終回。来年はやせ衰えたイノシシよろしく、80才代の猛進を敢行する覚悟をお伝えして、ご愛読への深謝に代えます!

エレベーターを降りたら眼の前に、坂本九が立って居たので驚いた。まっ赤なジャケットを着て、おなじみの人なつっこい笑顔だ。等身大のパネルである。集まる人々が、彼をはさんで記念写真を撮りはじめる。その人数が次第に増え雑踏に近いにぎわいになるが、何だか穏やかないい雰囲気だ。12月3日夜の銀座ヤマハホール、知り合いを捜したが見当たらないから、僕はロビーの片隅のカウンターで白ワインなどをちびり、ちびり。そんな光景を見守ることになる。
この夜、このホールで開かれたのは、「坂本九ファミリー ママエセフィーユ」という名の恒例のクリスマス・コンサート。出演者は坂本九夫人の柏木由紀子、娘の大島花子と舞坂ゆき子の3人で、2006年に始めた催しだから、もう13回めになるのか。今年は坂本の生誕77年を記念したスペシャル・バージョンという触れこみだが、どんな内容になるのか?
《それにしても、彼女らは偉いもんだ。彼も本望だろうな...》
坂本があの日航機事故で亡くなったのが1985年だから、もう33年になる。突然の死の悲嘆からやがて立ち直り、彼の魅力や実績を顕彰しながら、3人の女家族は、彼が生涯の仕事とした音楽で、人々を楽しませている。その追慕の思いの深さとその後の彼女らの自立した姿が、人々の心を動かすのだろう。年に一度だがそのために、毎回家族が趣向を凝らす手づくりな内容、つつましげに、決して大きくはない規模であることなどが、好感度につながるのか、チケットは毎回、発売と同時に完売するそうな。
僕が招かれた席は1階G列10番、中央を横断する通路を前にして、足ものびのびと至極楽ちんな場所。横を見れば坂本がダニー飯田とパラダイスキングに所属した時代から、ヒット曲を制作したベテランディレクター草野浩二が居り、僕の右隣りには、その後の坂本の制作にかかわり後にファンハウスというレコード会社を興した新田和長が居る。彼は今日も坂本一家と親交がある相談相手の一人。左側の席へは柏木と親しい歌手の竹内まりやが飛び込んで来た。
スペシャルバージョンの第1部は「ザ・グレイテストショーマン坂本九」で、さまざまな映像で彼が登場した。プレスリーを歌う彼、カントリーウエスタンを歌う彼、テレビでオリジナルヒット曲を歌う彼、舞台の「雲の上団五郎一座」に出演中の彼...。カラーにまじってモノクロ版も出てくるが、多くがテレビ番組の抜すいで、全盛期のテレビがエンターティナーとしての彼を育て、彼を必要としたことが判る。NHKの「夢で逢いましょう」に代表されようが、彼はテレビの申し子だった。ロカビリー・ブームの中から登用された才能だが、当時、若いエネルギーが炸裂したこのジャンルの人気者は、多くが異端の存在と目されていた。オトナ社会が彼らを〝悪い子〟と決めつけたとすれば、坂は穏健で陽気でみんなから愛される〝いい子〟の代表になっていはしなかったか?
第2部は「ザ・グレイテストヒッツ~坂本九」で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」など、おなじみの作品を夫人と娘たちがこもごもに歌った。曲にあわせてファンが手をたたいたり、歌ったりと呼応して、ステージと客席が一体になる場面も。彼女たちの歌声越しに甦るのは坂本の笑顔と独特な魅力だ。
「大きな存在を失ったんですよね」
隣席の新田がしみじみした声音で囁いた。
「そうだねえ」
と、僕は同調しながら、坂本を支えた作家たちの顔も思い返す。作詞家の永六輔、作曲家の中村八大やいずみたくらで、彼らが坂本に強力な「作品力」を提供していた。歌詞の第一行がタイトルと同じで、全編が話し言葉という永の仕事は、新鮮で独特のロマンチシズムを持つ。それに応じて曲を書いた中村やいずみの仕事ともども、新しい日本のポップスの行く方を指し示していたろう。前衛と言えば言えたが、それが多くの人々に愛され、歌い継がれる平易な親しみやすさを持っていたことが得難い。
僕がスポーツニッポン新聞の内勤記者から音楽を取材する担当に異動したのは昭和38年夏。28才の僕より5才年下の坂本は、すでにスターだった。彼の関係者もファンも、一様に親しげに彼を「九ちゃん」と呼んでいたが、幼いころ軍国少年だった僕には、人を愛称で呼ぶ習慣などない。インタビューでいつも「坂本さん」と呼ぶ僕に、彼はその都度怪訝な顔をしたことを今でも覚えている。

殻を打ち破れ203回
大衆演劇の大物・沢竜二と売れっ子編曲家の伊戸のりおが、文京区関口台のキングスタジオで待っていた。徳間ジャパンの梶田ディレクターと僕が合流する。10月4日夕、それぞれ旧知の仲だから「やあ、やあ」「どうも、どうも」になる。実はこれが一つの企画の顔合わせと細部の打ち合わせ、キイ合わせにアレンジの相談などを一ぺんにやる乱暴な会合。バタバタっと小1時間で万事OKになる。よォしっ!俺たちのお祭りなのだ、ワッショイ!
『銀座のトンビ』という"いい歌"がある。ちあき哲也の詞で、杉本眞人が作曲、すぎもとまさとが歌って、一部に根強いファンを持つ。
「あれをレコーディングしたいんだ。俺が歌うとやたらにウケる。みんなが、あんたの歌だって言うのよ。何とかならないかねぇ」
沢から深夜の電話がある。この人は何かしら思いつくと即電話...のタイプで、大てい酔っており、年のせいか相当にせっかち。僕は東京で仕事仲間に会い、お定まりの酒になるから、湘南葉山に帰宅するのはほとんど深夜。午前さまがベテラン役者からの留守電を聞いて、折り返しのやりとりは翌日の午後になる。
≪『銀座のトンビ』なあ。なるほど彼には似合いかも知れない。さて、作業としてはどこから手をつけるか...≫
そんな僕の思案は、ほろ酔いのベッドの中だ。
♪あと何年
俺は生き残れる あと何年 女にチヤホヤしてもらえる...
夜の銀座をピーヒョロ飛び回る年老いたプレイボーイが、そんなことを言い出す歌だ。あと何年、俺は飲んだくれる、女房に大目に見てもらえる。友だちの多くは勝手に逝きやがったが、俺は俺のやり方でお祭りをやってやる。暴れる欲望のまま、ハッピーにド派手に、ワッショイ!
すぎもとまさとのやんちゃなキャラと声味にぴったりはまる歌だ。いいコンビだったちあき哲也ならではの詞で、二人とも団塊の世代。人生どうにかここまで漕ぎつけて...の実感が歌い込まれるから、同世代の男たちがやたらに共鳴する。それぞれが最後のお祭りをやる気になる。ほろ苦く"来し方"を振り返り、傷つけちまった誰彼を思えば、少しもの悲しくもなりながら、ワッショイ!
スタジオのキイ合わせで沢竜二が歌った。なるほど、いいね、いいね...の味がある。役者だから、歌も演じることになるのだろうが、歌声の芯に本音がのぞく。杉本やちあきよりも一回りは年上だが、しっかり共感の手触りがある。役者だから心身も感性もそのくらい若いのか、それもあろうが、作品自体が世代を越えて、最終コーナーに入った男たちの胸を打つのさ!
「そういう訳だからさ、あんたの歌のポップス乗りよりは、歌謡曲寄りになるかも知れんけど...」
と杉本に電話を入れる。
「そうか、ありがたいことだねえ。あんたに任せるよ、うまくやって」
相手の返答もお楽しみの口ぶりだった。
「じゃあさ、こんな感じでエレキギターをメインに...」
伊戸が、音楽的見地をひとくさり。そう、そう...と、ディレクターもはなから悪ノリ気味。そんな打ち合わせに沢が持ち込んだのが大きなポスターで、彼が主宰する恒例の「全国座長大会」用。今年は12月12日、浅草公会堂だが、その隅に僕の写真も入っている。大衆演劇の名だたる座長たちに混じって、はばかりながら僕も長いことレギュラーだ。
「そこで歌うよ、ウケるぞ、また...」
「CDも間に合わせて、派手に即売だ!」
あっと言う間にその発売時期まで決めちまった。沢も僕も80代、彼の方が一つ上だが「うまく行く時ゃこんなもんか!」と目顔でニンマリして、ワッショイ!だ
「おお!」
思わず僕は快哉の声をもらした。大手プロダクション、サンミュージックの創立50周年記念式典の写真を見てのこと。前列中央に相澤社長、森田健作千葉県知事と並んで名誉顧問の福田時雄さんの笑顔があるではないか! 〝業界現役最長不倒距離〟と敬意をジョークに託して、長い親交を持つ人だ。11月27日に撮影したものを、僕は翌28日付のスポーツニッポン新聞の紙面で見つけた。野村将希、牧村三枝子、太川陽介らこの事務所生え抜きの顔も見える。
福田さんは昔から、僕ら新聞記者を大事にしてくれた。温和な人柄、歌謡界の生き字引きで、そこそこの酒好き、絶妙の話し上手...。思い返せばこの人とのひとときは〝夜の部〟の方が多い。レコード大賞や歌謡大賞が過熱していた昔、福田さんは陳情に全国を回った。審査をする民放各局のプロデューサーや新聞記者詣で。その先々へ転々と、彼のゴルフバッグが先行している話も聞いた。サンミュージックが各地にタレント養成所を持てば、その責任者としてまた全国...である。各地に福田さんファンが増え、情の濃いネットワークを作る。〝やり手〟だが敵はいない。
〝永遠のNO2〟でもある。西郷輝彦のマネージメントを手掛かりに、先代社長の相澤秀禎氏とプロダクションを興した片腕。昔はNO2が独立、事務所を開く例が多かったが、福田さんは相澤社長の相棒に徹した。社長は松田聖子をはじめ、女性歌手を育てることに熱心だったが、福田さんは「それならば...」と、男性タレントの発掘、育成に力を注ぐ。森田健作は彼がスカウト、人気者に育て、やがて政界へ送り出している。
もともとはドラム奏者。灰田勝彦のバンド時代、熱演!? のあまりシンバルを舞台に飛ばして、ボコボコのお仕置きを受けた話は、何度聞いても面白い。戦後の歌謡界のエピソード体験談で酒席は笑いが絶えない。西郷輝彦のバックに居たのがミュージシャンとしての最後の仕事。ある日西郷が「こんな感じで行けません?」とドラムを叩いてみせた。福田さんは4ビート、西郷の注文は8ビートだったから、福田さんは時代と世代の違いを痛感、即ドラムセットを売り、その金でスーツと鞄を買ってマネジャー業に転じた。
人間関係もそうだが、飲み屋発掘にも鼻が利いた。業界のゴルフコンペでは前夜に現地へ先乗り、ここぞ! と決めた店で歓談、酒盛り、カラオケ...。お供は元コロムビアの境弘邦と僕だが、店の雰囲気も肴も、ハズレたことがない。最近「空振りばかりになった」と、ゴルフを卒業してしまったのが残念だが、僕の舞台は必ず見に来てくれる。終演後は小西会の面々ともどもお定まりの酒だが、こっちの方はまだ元気。
「だいぶ腕をあげたが、さっと座ってさっと立てなくなったら、時代劇の役者は限界だよ」
と役者の僕への助言もあたたかい。82才の僕より大分年上なのだが、友だちづきあいの眼差しが嬉しくてたまらない人だ。
個人的な「おお!」をもうひとつ。11月18日、山形・天童で開かれた「佐藤千夜子杯歌謡祭2018」でのこと。歌どころ東北の人々がノドを競ったが「望郷新相馬」「望郷よされ節」「望郷五木くずし」と、かかわりのある〝望郷もの〟が3作も登場した。これは花京院しのぶという歌手のために僕がプロデュースしているシリーズで、カラオケ上級向けの難曲ばかり。相当に高いハードルを用意、歌う人に達成感を味わってもらう狙いがこんなところに生きていた。「...新相馬」が第1作で「...五木くずし」が最新作。長いつきあいの花京院には、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれだぞ」
無名のままでも楽曲が財産とお尻を叩き続ける甲斐があったというものだ。
この大会は日本のレコード歌手第1号の佐藤千夜子を顕彰、その故郷の天童で毎年開かれている。僕はもう14年も通って審査の仕切り役をやっているが、嬉しいことはもう一つ、この大会は地元ボランティアの人々だけで運営している手作りのイベントだが、その指揮をとるのが矢吹海慶という和尚。命がけの100日荒行を5回も完遂した日蓮宗の高僧だが、酒よし歌よしお人柄最高のくだけたご仁で、僕の天童詣ではいつからか、この人に会える楽しみの方が先になっている。
矢吹師も福田さんも〝昭和の男〟の哲学と魅力山盛りの粋人だから、これを書きながら僕は「おお!」と3回も発する夜になった。

「まず、安室奈美恵をどうするかかな」
そう口火を切ったら、関係者は「えっ?」という顔と、「そうか・・・」という顔になった。11月14日午後、代々木上原の古賀政男音楽財団の一室、開かれたのは「大衆音楽の殿堂」の運営委員会だ。この殿堂は昭和を中心に「歌謡曲、ポップスなどを作詩、作曲、歌唱、編曲、演奏した」人々を顕彰の対象にしている。これまでは各ジャンルとも相当なベテランばかりを選んで来て、若手はまだ参考リストにも入っていない。しかし、安室は〝平成の歌姫〟と呼ばれて、圧倒的な実績を残したうえ、今年引退しているのだから、リストに加えない訳にはいくまい。
何しろ平成9年に発足したこの顕彰の第1回受賞者は西条八十、藤浦洸、サトウハチロー、古賀政男、服部良一、中山晋平、岡晴夫、東海林太郎、美空ひばり・・・と、もはや歴史上の大物ばかり23人だった。以来ずっと大衆音楽の歴史を追う人選が主。平成30年度は10名(組)で、作詞家は三浦康照、山川啓介、山上路夫、作曲家は北原じゅん、平尾昌晃、歌手はかまやつひろし、三条正人、デューク・エイセス、作・編曲家の服部克久、演奏家が宮間利之と、顔ぶれが大分今日風になって来てはいる。しかしこのうち三浦、山川、北原、平尾、かまやつ、三条は年度内に亡くなったのが追悼選出の理由だ。
僕が参加しているのは、運営委で、植本浩財団理事長を議長に青木光一歌手協会名誉会長、民放連の青木隆典常務理事、飯田久彦エイベックス・シニアアドバイザー、中江利忠元朝日新聞社社長、永井多恵子世田谷文化財団理事長で元NHK副会長、前山寛邦コロムビアソングス社長に聖川湧が作曲家協会常務理事として参加する。そのそうそうたる顔ぶれに混じって、僕は例によって「年寄りの知ったかぶり」のお手伝いだ。
この催しには別に選考委員会があって、主な審議はそちらが担当する。運営委は選考基準を確認。おおよその顕彰者数を決めるほかに、会としての参考意見を審査委に具申するから僕の安室案も出る幕があった。他にも何人かの候補を加えたが、いずれにしろ具体化は選考委にゆだねられる。
《年寄の知ったかぶりなあ、最近はそんな役割が妙にふえた・・・》
僕がほろ苦くなるのは、BSテレビ各局の〝昭和の歌回顧番組〟に呼ばれることが多いせい。歌謡界の名士たちの〝人と仕事〟について、あれこれコメントする訳だが、この種番組は再放送が多いからしょっ中出演しているみたいになる。11月10日に出かけた岡山・高梁のイベントでも
「いつも見てるよ」「昨夜も見たぞ」
と、熟年の紳士たちから声をかけられた。高梁に出かけた訳は、水害で被災した現地を慰問するチャリティーショーの手伝い。この地でロケをした映画「家族の日」の大森青児監督に誘われたのは、その映画にちょい役で出して貰ったのが縁だ。
《それにしても・・・》
と僕が少々不満になる。BSテレビも映画もありがたいが、ここ10年余は舞台の役者として精進している。その手前、
「あれも見たよ」
と言って欲しいのだ。今年など何と5本もの芝居に、それも相当にいい役で出して貰っているのだが、舞台となると観客数がテレビとは比べものにならないから、やむを得ないのか!
そんな屈託をかかえながら、これを書いている翌日の15日には、レコード大賞の制定委員会に出席する。昔々、審査委員長を7年もやったが、以来ずいぶん長いご無沙汰をしていた。ところが主催する作曲家協会が弦哲也会長を筆頭に新体制になってのお声がかり。ここでも〝年寄りの知ったかぶり〟が役割か...と観念、いい年の瀬にしたいものだとその気になっている。
話は大衆音楽の殿堂に戻るが、
「安室を入れれば、若いファンがドッと来るよ」 と念押しもした。この顕彰、発足以来もう21年にもなり、古賀博物館に展示されている歌社会名士は283名(組)を数えるのに、認知度がいまひとつ。運営委員の一人としては、力足りずを反省しつつ、そろそろ陽動作戦に転じなければと口走ったりする。14日午後には今年の紅白歌合戦の出演者が発表され、15日にはレコ大の部門賞が決まった。さて、新しい年号になる来年の歌社会は、どういう展開を見せることになるのだろう?

大きいことは、いいことだ!
「どうです、最近の歌は?」と人に聞かれれば、その都度「痩せて来てるな」と答えた。カラオケ族狙いのチマチマした演歌が多い。手売りが主の歌手たちの活路など、理由はあれこれあろうが。
それが決して悪いとは言わない。求める人がいればそれに応じるのもビジネスだろう。だが一方では、冒険作をじっくり聞きたい。スケール大きめのいい歌が聞きたい欲が残る。今回は坂本冬美の『熊野路へ』永井裕子の『ねんごろ酒』が出て来て、胸がス~ッとした。
長崎しぐれ
作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:島津悦子
歌謡界に「都はるみの不在」がずいぶん長い。ふっつりと姿を消して、その後どうしているのだろう。三たび歌い始めることはもう、ないのだろうか?
そんな思いが、歌書きたちの胸によどむのは判る。それなら彼女が残した世界を、オマージュして...という歌づくりも判る気がする。徳久広司が書いた今作がそれに当たっていそうで『大阪しぐれ』をもう一度...の気配が濃い。「あなた私で いいのでしょうか」を各コーラスのまん中に、かず翼の詞は実質4行詞ですっきりしてなかなか。島津悦子の歌もそれ"らしく"柔らかで優しい。
望郷ひとり旅
作詞:麻こよみ
作曲:宮下健治
唄:木原たけし
東京発・全国狙いで、メディアを賑わすタイプばかりが歌手ではない。地方に根をおろして東京を望見、独自の活動をする"地方区歌手"も存在感がある―と常々そう思っていて、浜松の佐伯一郎をはじめ、親交のある歌手が各地に居る。面識はないが木原たけしも、そんな歌手の一人と思っている。
歌声の響きや語尾に顔を出す東北訛りが、いかにも岩手在住の味だ。麻こよみの詞、宮下健治の曲が、ひなびた伝統的路線で、それを生かす。故郷をしのぶ苦渋の歌なのに、妙にのびのびと明るめで、地に足つけていて頼もしい。
ふるさと太鼓
作詞:下地亜記子
作曲:原譲二
唄:北島三郎
歌手北島三郎も、原譲二を名乗る作曲家としての彼も、どうしてもこういう作品を歌い残したいのだろう。「日本列島四季折々に 愛と笑顔の花よ咲け」とばかりに、大衆を鼓舞する男唄。詞が下地亜記子の遺作なのもそれなりの意義を持っていただろう。82歳になったはずで、歌声は枯れているが、歌う背筋は伸びて、今年何と、4枚めのシングルにした。
坂本冬美が故郷和歌山をテーマに、4曲を集めた作品のひとつ。吉幾三の詞、曲との顔合わせだ。テレビ番組企画で生まれたというのが『熊野路へ』で、古道を歩く女のひとり旅、別れた人への回想も行き止まる。若草恵の編曲が彼らしくドラマチックで厚めなのを背景に、冬美は小さめに歌い出し、やがてスケール大きめに収める。年輪を感じる一作だ。
ねんごろ酒
作詞:荒木とよひさ
作曲:浜圭介
唄:永井裕子
詞が荒木とよひさ、曲が浜圭介だもの、タイトルから連想する類形タイプの歌ではない。詞が荒木らしく長めの8行、曲がいかにも浜らしく、粘着力と起伏に富む。それを永井裕子が、怖めず臆せず歌い切った2ハーフ。「ばか野郎が」を連発しながら、漁師町で生きる女の気風のよさを表現した。似合いの大作ふうで、裕子の力量が再確認されよう。
こころの灯り
作詞:石原信一
作曲:岡千秋
唄:北野まち子
「今では遠い人」の面影を、「こころの道しるべ」にして生きる女唄。石原信一のそれなりの詞を、岡千秋がいかにもいかにも...の曲にした。幸せ薄い女を、泣くでもなく嘆くでもなく、北野まち子が妙にせいせいした味で歌っている。キャリアは長い人だが、歌声も節回しも、汚れず崩れずにこの人なりの世界。お人柄なのかも知れない。
いつもまず〝最悪の事態〟を想定する。次に、そうならないための対策を幾つか。それを使って臨機応変、難儀をクリアすれば、まずほどほどに事は収まる。そんな習癖を僕は、スポーツニッポン新聞社で身につけた。整理部というセクションで1ページを任され、編集し紙面を制作する作業。集まる原稿の到着時間は、大てい希望的観測が基本だ。取材先の事情に左右されるし、記者には速筆遅筆の個人差がある。そんな実情はお構いなしに、締切り時間はケツカッチン、分単位のゆとりもない。
ページに入れる原稿が1、2本遅れたら、即、紙面に穴があく。最悪の事態だ。そこで悪知恵が生きる。短い穴うめ用の記事をひそかに隠し持っていること。それがなければ、ありあわせの広告をぶち込む。大きいのから小さいのまで幾つか。使用済みの広告だから、金にはならないが文句も来ない。その手の物件を僕らは「アカ」と呼んだ。
締め切り時間ごとに、そんなヒリヒリする作業を繰り返すが、最終版が終了すればあとは野となれ山となれ。ものが新聞だから文字通りの〝その日ぐらし〟で、明日は明日の風が吹くのだ。しかし、雑文屋稼業はそうは行かない。レギュラーの原稿は何を書くかで頭の中が終始チリチリする。対談をやればその整理があるし、飛び込みの仕事だと資料をあさる時間が要る。持ちかけられた相談事には、何人かの知恵を拝借しなければならないし、イベントづくりに参加すれば人脈の動員が必要になる。歌のプロデュースも3件ほど、役者兼業だから打ち合わせの間に科白を覚える。それぞれに最悪の事態を考え、いくつかの対策をひねり出すのだが、急を要する件と多少の待ち時間に恵まれるケースが交錯する。物事の順番が怪しくなり、頭がパンクしそうになる。
《ダメだ。何日か逃げよう。そうしなければ、あれもこれも事が将棋倒しになる!》
80才を過ぎてまだ仕事に恵まれる幸せをそっちのけで、何たる不心得! たまたま〝つれあい〟が4、5日休暇を取れることになった。短時間だからヨーロッパやハワイは無理。よォし、それならシンガポールか! あの屋上に舟が乗ってるようなホテルを取れ。遊覧船でレーザーショーを見る? ナイトサファリは月明りくらいの照明の中で、放し飼いの猛獣と対面するのか? プラナカン博物館? 何だそれは...。カニチリがうまそうだな。外国へ行ったら土地の料理を食するに限るぞ!
そんな御託を並べながら5日ほど、シンガポールのおのぼりさんになった。つれ合いは現地でもノートパソコンで情報と首っぴき。疲れるだろうなそれも...と一切任せっ放しで、こちらは頭の中をカラッポにすることに集中する。昼間からカクテルを飲み、煙草にうるさい国と聞いたが、喫煙個所がやたらにあることに悦に入る。ただし、加熱煙草はご法度だから、久々に紙巻きである。
ココロのセンタクが出来た気分で帰宅すると、愛猫の風(ふう)とパフは人見知り。留守電とFAXがたまっていた。さっそくそれに対応しながら、7日は大田区民ホール・アプリコの原田悠里コンサート2018を見に行く。昨年体調不良でドタキャンしたのを本人が覚えていて、
「今年は大丈夫よね」
と念を押されていた。「津軽の花」や「無情の波止場」がよくて新曲「恋女房」は師匠北島三郎作曲の夫婦もの。本人未体験の世界だが
「ファンが、悠里ちゃんは俺たちの恋女房だからいいよ! なんて言ってくれるのよ」
と、本人が悦に入る。。終演後、そのファンの群れにまじり、JR蒲田駅まで戻って急に回れ右、飲み屋横丁の〝筑前屋〟に飛び込む。生ビールに焼酎の水割りは5分5分の濃いめ。みそだれのモツ焼き1皿とびっくりするくらい大きなマグロのぶつ切り、とんぺい焼きで1時間弱。店捜しでは鼻が利く方だから、案の定うまかった。
誘える顔は幾つかあったのに、1人で飲んだのは蒲田という土地に屈託があってのこと。その一つがスポニチ時代、人事の行き違いに怒って社を辞めさせちまった同僚の件。蒲田の彼のマンションに手紙を差し込み、慰留しようと近所の飲み屋で幾晩か張り込んだが会えぬままになった。生涯に負い目をかかえる唯一のケースだ。
もう一つはわが家の菩提寺が、この町にある件。このところお仲間の通夜葬儀、法要などをせっせと手伝うばかりで、すっかりご無沙汰だから、そっちの方角に手を合わせてみたりした。この2件、新旧の〝最悪の事態〟で打つ手もない。

10月22日の月曜日は雨。翌23日火曜日は小雨。小豆島に居た。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の大きさ。映画「二十四の瞳」の舞台になったことや、有数のオリーブ産地として知られる。かつて、この島おこしのために石川さゆりの「波止場しぐれ」を吉岡治が作り、その縁で2000年までの5年間限定の、新人歌手育成イベント「演歌ルネッサンス」を主宰した。土庄港には歌碑や吉岡の顕彰碑などが建つ。
羽田から高松へジェット機で80分、空港から高松港へ車で50分、そこから小ぶりの高速船で30分余の旅程。イメージよりは決して遠くはない距離で、資料などパラパラめくっていたらまたたく間に着いた。吉岡の演歌ルネッサンスの片棒をかついで、僕も毎年通った場所。顕彰碑には長文の〝いわれ〟を書き、その除幕式にも参加、島へ渡るのは6年ぶりという勘定になる。
出迎えたのは、一連の吉岡ムーブメントを支えた島の幹部。20年近く前の初対面では、島の商工会議所のメンバーで、血気盛んな青年たちだったが、今では壮年から老境にかかる紳士たちの笑顔だ。メンバーの一人の寿司屋「弥助」で早速の酒になる。おやじが奮発した地元の魚を中心に、美味しいもの山盛り、亡くなった吉岡とのあれこれで席は大いに盛り上がる。
そもそもは彼らが〝島おこし〟企画に、ご当地ソング制作を吉岡に直訴したのが事の発端。突然飛び込んで来た彼らの熱意に、吉岡がほだされて歌を書き、イベントを興した。彼には〝演歌おこし〟の期待が生まれて、二つの〝おこし〟が合流した経緯がある。それだけに詩人と島人との絆は尋常ではない強さ。??岡の没後10年が再来年になるのを機に、追悼と感謝のイベントをやりたいと、今回は〝直訴〟のおはちが僕に回って来た。
「どうせやるなら、島外から大勢の人を呼べるものがいいよな」
「それなら全国規模の歌謡祭、素人参加で歌うのは吉岡作品限定だ。ヒット曲は山ほどあるんだし...」
「ゆくゆくは、吉岡先生の記念館も作りたいんだけど...」
と、話がふくらみ具体的になる。その席にニコニコ参加していたのは、この欄でおなじみの「路地裏ナキムシ楽団」の主宰者田村武也とプロデューサーの赤星尚也。田村は作曲家協会弦哲也会長の息子だが、吉岡イベントの相談なのに、なぜ吉岡の息子天平ではなく彼が同席したのかについては、それなりの理由があった。
島の有志を代表して、8月中旬に上京したのが小豆島ヘルシーランドという会社の柳生好彦相談役。広大なオリーブ畑を持ち、その実や葉などから開発したオリーブオイルや化粧品、健康食品など関連製品で成功した創業者だ。最近は会社を息子に委ね、もっぱら島の芸術、文化発展の諸策に奔走していて、話が吉岡イベントから「ナキムシ楽団」公演の招致に発展した。
何とこの島には、1686年ごろに始めた農村歌舞伎用の劇場がある。舞台だけに屋根があり、客席は露天の段々。肥土山離宮八幡神社境内に位置、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。聞けば昔々は集落ごとにこの種の会場が30カ所もあり、小豆島は演劇文化の島でもあったとか。300年余の伝統の劇場と「青春ドラマチックフォーク」を標榜する新機軸の音楽劇のコラボ。来年が10回公演に当たるナキムシ楽団側も大いに血が騒いで、早速下見に! と、田村・赤星コンビが僕に同行することになった。
肥土山劇場は茅葺きの屋根、木造で、改築、補強は続けたが姿形は昔のままで、樹々の中にうっそうとたたずんでいた。花道があり、人力で動かす回り舞台やセリもある。古色蒼然〝いにしえの芝居の神〟に守られる風情で、作、演出、作曲から歌唱まで、オールマイティの才人・田村の心が揺れぬはずはない。
僕もこの場面では、吉岡イベントの協力者からナキムシ楽団公演のレギュラー役者に早替わり、武者ぶるいをするくらいに心を動かされていた。
気がかりは舞台表裏の使い勝手や音響、照明などテクニカルな部分。その細部を検討する宿題は残ったが、来年秋にはナキムシ楽団初の遠征公演が「GO!」になる。招へい元の柳生相談役も「ようしッ!」の気合いの面持ちになった。
小豆島1泊2日の旅で、二つの大仕事が決まった。それもこれも〝吉岡治の縁〟と〝絶妙の出会い〟のたまものである。僕は今月82才になったが、病気はおろかボケている暇もない。

殻を打ち破れ202回
最近はあまり使われないが、歌社会にバンド言葉があった。「サ~ケ」は「酒」「ルービー」は「ビール」「テルホ」は「ホテル」「ナオン」は「女」...と、単純なサカサ表現。テレビで芸人さんが「マイウー!」と叫んだりするのは「うまい!」の意で、たまたま生き延びている例の一つだ。
ところがこの表現を正面から名乗る二人組が居て「ルービー・ブラザース」の湯原昌幸とすぎもとまさと。時おり気ままな歌づくりをして歌っていたが、最近4年ぶりに3枚目のシングルを出した。田久保真見作詞、杉本眞人作曲の『涙は熱いんだな』と、伊藤薫作詞、湯原昌幸作曲の『夕顔』というカップリング。ご存知だろうが、杉本は作曲者名は漢字表記、歌手名はひらがな表記で僕ら雑文屋は少々厄介な思いをする。
『涙は熱いんだな』は、やせがまんをして生きて来た中年男が、久しぶりに素直に泣いた実感のおはなし。「男は泣いたりするな」と、昭和育ちの父母に教えられ、それを鵜飲みにして来た結果だ。田久保の詞は涙の理由に触れず「生きているから泣けるんだな」の感慨に行きつく。その分だけ、団塊の世代である二人が、幅広く"ご同輩"の共感を得ることになりそうだ。
湯原はロカビリー・ブームの中から頭角を現わした歌手。杉本は少し遅れてフォークブームを体験、歌書きとして大成した。そういう意味では、昭和のポップス系育ちで、音楽的志向も含めて、ウマが合うのだろう。もう1曲の『夕顔』は、まるで終活ソング。ご時勢にさからって生きた奴が、宵に咲き朝に散る夕顔の花のいさぎよさに「教えてほしい、人の静かな終え方を」などと、伊藤薫の詞が言っている。
平成も30年で最後、来年から新しい年号の時代が始まるが、昭和はますます遠くなる。折から2年後の東京オリンピックへ、取り沙汰は妙に騒々しい。そんな中でふと"来し方"を振り返り「判る、判るよ」「そうだよな」と、彼らより少し上の世代の僕も、ついつい"その気"にさせられてしまった。「涙は...」はゆったりめのワルツで、作風も二人の歌唱も、何だか気分よさそう。時流とのはぐれ方を辛がるでもなく、困惑する訳でもなく、率直なところがいい。
秋口にはメーカー各社から、一斉にデュエットものが出る。もともとは年末年始のカラオケ宴会をあて込んだ企画。当初は男女が親しげに...のムード歌謡が多かった。最近はそれがスター歌手とお笑い芸人など、顔合わせの面白さが前面に出るサービス品になった。ルービー・ブラザースの今作も、そんな流れの中から世に出たのだが、少し異色で少ししんみりの形と中身が、なかなかに乙な味わいで目立っている。
スポーツニッポン新聞社に在籍していた昔、遊びのグループの"小西会"に会社の仲間の一人を誘ったことがある。グアムかサイパンだったと思うが、ゴルフをやって夜は酒盛り。ところがその男が浮かぬ顔なので、翌朝「なじめないか?」と気づかったら「みんなは何語でしゃべっているんだ?」と不審がった。グループにはレコード会社やプロダクションの仲間も居て、シャレや冗談で使っていたのが、例のサカサ言葉。訳を話したら当人も面白がって話に加わったが、慣れぬ表現だから言葉をいちいち転換する様子が笑いを誘ったりしたものだ。
社に戻った或る日、その男が僕を「ムウジョ」と呼ぶのに慌てた。「常務」のひっくり返しである。社内ではやるなよと笑ったが、以来ずっと彼は「ムウジョ」を通した。その男の名は八幡貴代一記者。一本気な"いごっそ"でいい奴だったが、あっさり先に逝ってしまった。ルービー・ブラザースは、そんな親友の顔まで思い出させたものだ。
月に一度がもう何年も続いているから、僕が今、一番頻繁に会っている歌手はチェウニである。USENの昭和チャンネルで、月曜日に終日放送中の「歌謡曲だよ人生は」のレギュラー同士。一回一人をゲストに、作家なら作品、歌手なら旧作から新作まで30曲前後を聞きながらの四方山話を5時間近く。一応台本はあるのだが、僕が気分本位、居酒屋ムードの対談!? をやり、チェウニはそのアシスタントだ。話の中で四文字熟語が出てくると、彼女の眼が点になるから説明、ちょっとした日本語教室になったりする。
12月放送分を録音したのが10月15日、ゲストが松前ひろ子で、夫君の作曲家中村典正との関係が「夫唱婦髄」か「婦唱夫随」かになったから厄介。字面を見せれば判り易いだろうが、ものが有線だから説明がむずかしい。松前をおっぽり出したまま、
「ダンナを指す〝夫〟という字があるだろ」
「うん」
「ご婦人なんかで使う〝婦〟という字がカミサンの意味もあってさ」
「ワカンナイヨ」
「判んなくてもいいよ。そのダンナの〝夫〟とカミサンの〝婦〟を入れ替えるとすればさ...」
「ダメ、全然ワカンナイ」
なんてやり取りになる。
委細かまわず話をすすめて、
「ところで、お前のところはどうだ?」
とチェウニに聞いたら、松前がびっくりして、
「結婚したの? 知らなかった...」
と話の雲行きが変わってしまった。
チェウニは実は、3年ほど前にNHK関係の紳士と結婚したのだが、別段内緒にしている訳ではなく、芸能人らしい発表をしていないだけ。情報的には〝なしくずし〟の新婚さんなのだ。
「そうなの。実はうちもね...」
と、松前が三山ひろしの結婚に触れたから、今度はこっちがびっくりした。歌手生活10周年、人気うなぎのぼりの彼が〝よもや〟の妻帯者と言う。奥さんが松前・中村夫妻の次女で、三山はきちんと交際のあいさつをし、3年ほどの期間を持って結婚したそうな。と言うことは歌手活動5年めくらいのおめでたで、彼がブレークした直後あたりという勘定。
諸般の情勢をかんがみて内々のことにしたらしいのだが、
「二人でハワイでも行って式をあげたら?」
と松前が言ったら、
「いえ、僕らはこのままでいいです」
と答えたと、松前がしんみり〝義母〟の顔と口調になった。番組の録音中の発言だから、こちらも内緒にしている訳ではなく、特に公表をしていないだけらしい。この情報、知る人は知る伝わり方で、僕は単に初耳だっただけなのだろう。
《そう言えば...》
と、思い当たる節はある。6月に明治座で観た彼のコンサートは、トークに情が濃くなり、アイドル風を脱皮する気配があったこと。7月の新歌舞伎座公演の作、演出者池田政之から、
「彼、芝居がうまくなったよ。ごく自然で...」
と聞いたことなど。三山は上げ潮の中で公私ともに充実、しっかり地に足つけた境地に達しているということか。
一方のチェウニも、彼女らしい安定ぶりを示す。9月28日にやったのが20周年コンサート。ブレークした「トーキョー・トワイライト」から、もうそんなに年月が経つのかと身内気分で観に行った。少女時代に一度来日してレコード化した「どうしたらいいの」の哀切感に、一目惚れならぬ一聴惚れして以来だから、僕のチェウニ歴は相当に長い。
《韓国流の歌唱を油絵に例え、日本歌手の表現を水彩画とすれば、さしずめチェウニの世界はパステル系か...》
などと一人合点した夜。終演後に元NHKのプロデューサー益弘泰男氏と一ぱいやった。僕がスポーツニッポン新聞社を卒業したら即、NHKBSの「歌謡最前線」2年分の司会の仕事をくれた恩人。USENの仕事もこの人のプロデュースで、相手役にチェウニを起用、僕らのトンチンカン問答を面白がっているのもこの人だ。スポニチ在籍中からしばしば声をかけて貰っていたから、僕は「益弘プロ所属」を自称している。
この夜、僕の胸を撃ったのは、チェウニの
「死ぬまで日本にいるからね」
の一言。決して結婚したためばかりではなく、彼女は歌い手として、日本に骨を埋める覚悟を決めているのだ。

女流二人をヨイショする
仕事柄が気になるから、ずっと追跡している作詞家が田久保真見。すっかり売れっ子で、実に幅広い歌世界を構築しているが、詞の〝醒めた視線〟は独自でしぶとい。その醒め加減が、歌の酔い心地とどうバランスを取って行くのかをあやぶんだのだが、こう多作になっているのは、制作者たちが認めているということか。最近気になるもう一人は朝比奈京仔という人。こちらは流行歌らしい酔い心地の程の良さで、独自のフレーズを捜している気配があってが楽しみだ。
海鳴りの駅
作詞:田久保真見
作曲:弦哲也
唄:大月みやこ
ああ海鳴りよ、波の慟哭よ...と来た。慟哭なぁ、歌言葉としてなじむかどうか? 字で見れば判るが、耳で聞いてそれと伝わるか?と、余分なことを一瞬考えた。その後で昔、「あなたの過去など...」の「過去」に菅原洋一が疑義を訴え、なかにし礼が突っぱねたケースを思い出す。結果あれは、あの歌のヘソになった。
作詞家田久保真見の冒険である。女性の離別を相変わらず醒めた表現で描いて、2番にそれも出てくる。さて、どう歌いこなすか...と、大月みやこはひと思案したことだろう。
残花(ざんか)
作詞:朝比奈京仔
作曲:小田純平
唄:山本譲二
こちらはタイトルからして「残花」である。許されぬ恋だが、どうしても散れない思いをはかなく白い残花に託した。残花は一体何の花かは触れない。
鳥羽一郎の『儚な宿』を聞いて、悪乗りヨイショをした朝比奈京仔の詞。泣いて泣いて涙に溺れる女心ソングだが、相手や境遇を恨んだりしないところが、ほどの良いこの人流。男にひかれて、底なしの沼にはまっている女に聞こえる。それを委細かまわぬ曲に乗せたのが小田純平。ひと思案したろう山本譲二は歌い収めの「残花」の部分でドスを利かせた。
タイトルも中身も、勇ましげな大相撲ものの詞は秋浩二。3番など「天下無敵の押し相撲、大和魂のど根性」と来る。それを筑紫竜平のペンネームで、大川栄策が作曲して歌う。
面白い対比だと思う。曲も歌も、勇ましくも男っぽくもないのだ。大川は自分の声味と節回しを優先して、のうのうと、いかにも彼らしい世界に仕上げてしまった。
京都 ふたたび
作詞:麻こよみ
作曲:徳久広司
唄:多岐川舞子
そうか、多岐川舞子の歌手歴も30周年になるのか。そこで出身地の京都を舞台に、もうひと花咲かせようということになったのか。麻こよみの詞がソツなく、愛した男との再会を喜ぶ。「つなぐ手と手の二寧坂」に収まるハッピーエンドだ。作曲は徳久広司。歌手に余分な思い入れや技を持ち込ませぬ徳久流が舞子の歌を率直に素直にしている。
ここのところ2作ほど、岡千秋作品で新味のある彼女ふうを歌って来た。それが一転、師匠北島三郎の曲に、木下龍太郎の詞の夫婦ものである。ゆったりめ、温かめの歌処理だが、メロディーは北島節の典型的な男唄。語り口に垣間見えるのは、師匠譲りか浪曲修業の成果か。張り歌の曲を語り歌に仕立てて、この人の芸は幅が広くなった。
雪の花哀歌
作詞:仁井谷俊也
作曲:岡千秋
唄:岡ゆう子
歌い出しを高音で出て、中盤と歌い収めにまた高音を使う。僕流に言えばW型のメロディーで、訴求力が強い。それをゆったりめにやったのが岡千秋。その起承転結の哀調に、岡ゆう子の歌表現が添った。その気にさせたくせに去った男への未練。仁井谷俊也の遺作の言葉一つ一つをていねいに歌う年季の芸で、この人らしい一途さと声味が生きた。
よりそい蛍
作詞:かず翼
作曲:徳久広司
唄:城之内早苗
どんな過去があってもいいと、蛍みたいに控えめだが、しっかり熱い思いを伝える女心ソング。かず翼の詞を徳久広司が、はじめの2行と残りの4行を2ブロックの曲にした。聞いていて思うのだが、城之内早苗の歌は、目の前にいて話しかけるような親近感を持つ。聞く側はそれにうん、うんと頷く気分になるのが妙で、この人の独自の境地だろうか。
〽口で言うより手の方が早い...
いつか聞いた歌の一節だが、今ふうに言えばパワハラ・ソングか。今回はそれとは全く違う〝手〟を拝見した。7月の川中美幸公演、9月末から10月にかけての氷川きよし公演、いずれも劇場は明治座で、双方、池田政之という人の作、演出。この場合の〝手〟は、この人の作劇術と演出ぶりで「口で言う」より「やって見せて」面白おかしく、役者たちをノセて実に手際がいいのだ。
10月10日に見た氷川の芝居は「母をたずねて珍道中。お役者恋之介旅日記」で、タイトルからして面白そう。それが、
《こうまで客を笑わせるか!》
と、呆れるくらい娯楽に徹している。大衆演劇の人気役者・嵐恋之介に扮する氷川が舞台に居る間は、何秒かに一度...と言ってもいいくらい頻繁に、客席に笑いが起こる。旅日記だから道中のエピソードがいくつか。氷川の相手が曽我廼家寛太郎だから、笑わせるのがお得意の芸達者。必要なセリフはほとんど彼が言って、それと氷川のやりとりの〝間〟だの〝ズレ〟だのが、まず訥々の妙になるからよくしたもの。犬の着ぐるみも含めた共演者のセリフや動きにも、大仰に書けば、絶え間ないくらいにギャグが仕込まれている。
「うん、そこはこうしちゃどうだろう?」
「面白い? じゃあこうやってみるか!」
僕もかなりいい役を貰って参加した、川中公演のけいこ場を思い出す。池田がやってみせる都度、けいこ場に笑いが起こる。ま、才気煥発と言うか当意即妙と言うか、引き出しのネタ山盛りと言うか。笑いのオマケがどんどん加わるから、自然芝居は長めになるが、最終的にはけいこ場でウケた部分を生かし、自分が書いた台本を、バッサリ削って寸法を合わせる。氷川公演のけいこ場もきっとそうだったに違いない。
観客大喜びの見せ場もちゃんと用意してある。というよりは、芝居の筋書きよりそちらがメイン。時代劇で人気役者の設定だから、日舞は踊るし、能や殺陣もやるが、その都度氷川は花やかな衣装をまとい、装置も豪華ケンランで、まるで動くグラビア。踊りや殺陣などが本格的にはほど遠いのも、
「きよし君、かっこいい!」
「きよし君、かわいい!」
になって結果オーライなのだ。
客席の笑いが止まり、し~んとなるのは、お話の説明部分。氷川の恋之介は、親にはぐれた旅芸人で自然に母親探しになる。それが実は笛の名門、六条流の跡目相続人で、彼が行方不明だから跡目をめぐる騒動が起きている...。と、その辺は共演者たちが幕前芝居でやる。お家騒動ものならこちらが本舞台になるだろうが、それはさておいて氷川は、本舞台で面白くかっこいい旅日記をやっている。逆転の発想でもあろうか。
「役者が楽しまなくては、観客が楽しむものにはならない」
と池田が言うのを耳にした。そうですか! とばかり、川中公演の出演者はみんな〝その気〟になったし、氷川公演の舞台も、みんなが楽しんでいる気配が濃い。池田という人の凄味は、スピードと繁盛ぶり。芝居一本を一晩で書き上げるが、その時はパソコンのキイを叩いて、はたから見れば半狂乱だそうな。作、演出家は松竹系と東宝系が大きな流れを作っていて、それに割り込んで今日があるのは、並大抵ではないアイディアと才能と心身ともにタフなことの証だろう。
商業演劇は主役と相手役を軸に、ほとんどが役者の寄せ集め。そのくせけいこ日数は短く、多くが2週間前後。だから彼は「注文するよりやって見せること」をモットーとする。そのためには、洋舞は無理としても、セリフ、所作、ギャグ、殺陣、日舞と、多岐なけいこを重ねて来たという。そんな長い研鑚が、この人の演出家としての個性を作ったのか。氷川が舞台でも言っていたが、この公演のけいこ日数は何と、1週間だったそうな。
驚くべきことのもう一つは売れ方。川中明治座公演の7月は、三山ひろしの新歌舞伎座公演とダブっていて、けいこで東京―大阪を何度も往復した。氷川公演は彼が参加する劇団NLTの新作喜劇「やっとことっちゃうんとこな」とこれもけいこがダブった。もちろん彼の作、演出で10月13日から俳優座劇場でやる。これが池田政之という人の演劇生活35年の集大成と言うから、僕は何をおいても駆けつける覚悟を強いられている気分だ。

JR中野駅の南口商店街を少し入った右側「さらしな本店」に立ち寄る。サンプラザ・ホールでコンサートを見たあとの〝おきまり〟だ。「そば焼酎のそば湯割り」を頼むと、小徳利に焼酎、ポットにそば湯が出る。濃いめ薄いめは客次第。つまみは「そば味噌」と、これが妙なものだが「いちじくの味噌煮」で、味噌がダブルが、好きなのだから仕方がない。いつも一人でチビチビやりながら、今見て来たコンサートのあれこれを、のんびり振り返るのだ。
《水森かおりなあ、あの人の魅力を一言で言えば〝下町娘の愛嬌〟ってことかな...》
「愛嬌」はふつう「愛敬」と書く。「にこやかでかわいらしいこと」「こっけいでほほえましいこと」と、これは「広辞苑」の説明だが「こっけい」は語弊があるから「コミカル」くらいがいい。漢字表記は「愛嬌」の方が、字面からも似合いに思えるのだ。そう言えば僕は、久しぶりに彼女の「ぴょんぴょん」と「ひらひら」を楽しみに出かけた。1曲歌い終わるごとに彼女は、嬉しそうに飛びはねる。客席からの拍手には、両手をバンザイの形にあげ、てのひらをひらひらさせて応じる。
9月25日の「メモリアルコンサート~歌謡紀行~」毎年恒例だが、この日が水森の24回めのデビュー記念日で「おしろい花」が第1曲。心情表現切々で、歌詞の一言ずつを噛みくだくように、ていねいに歌う。これがデビュー曲で、あのころ彼女は歌謡曲をこう歌っていたことを思い出す。そんな調子で「よりそい花」「いのち花」「北夜行」「竜飛岬」...。
〝ご当地ソングの女王〟と呼ばれるまでに大成したきっかけは「東尋坊」だった。恋にはぐれた女が傷心の旅をするシリーズ。その彩りとして、各地の風物が歌詞に書き込まれた。作詞家木下龍太郎の連作は、彼が亡くなるまで続き、その後は後輩たちが腕を振るっている。この日ステージで歌われたのは「安芸の宮島」「松島紀行」「熊野古道」「ひとり薩摩路」「五能線」「鳥取砂丘」の順。
木下はよく旅をする作詞家だった。歌ごころを揺らす旅なのか、それとも本当の旅好きだったのか。本人に言わせれば、
「ずた袋ひとつぶら下げて、ふらっとね...」
というスタイル。いずれにしろそんな体験が、一気に生きたのが水森の歌づくりで「五能線」など彼でなくては出てこない。「どこにあるのよ」と、僕らはいぶかって、本州の北端、日本海沿い...の説明に「へえ!」になったものだ。
このシリーズを水森が、
「お天気お姉さんの立ち位置で歌ってるの」
と言ったことがある。詞に書き込まれている風景を天気図みたいに大掴みに捉え、その中にたたずむ主人公の姿と心境を、聞き手に伝えるらしい。いわば「客観」と「主観」が交錯する歌表現。それが主人公の失意をほど良くさりげなく、明るめにして、先行きの希望につなげる境地を生んでいるのか。
「東尋坊」前後から、僕は彼女と親しくなったが、素直でざっくばらんな下町娘の人柄の良さは、ずっと変わらない。ま、人柄はどうでも、作品と人間関係、それに運に恵まれさえすれば、ひとかどの歌手にはなれる。しかし、長もちするために必要なのはやっぱり人柄で、そうでなければ〝女王〟にはなれまい。水森の場合はその人柄が巧まずに、言動に出っぱなしなのが、ファンに強い親近感を持たせてもいよう。
シリーズの陰の力持ちは作曲家の弦哲也で、長く続く路線の1曲ずつに、彼流の細やかな心遣いと工夫が生きている。この日のコンサートでは「釧路湿原」をテーマに「北国ひとり旅」というショート・ストーリーを書き、彼女の演技者としての一端を披露させている。
目下ヒット中の「水に咲く花・支笏湖」を歌った大詰め、
「アレをやるね、アレを...」
と、水森が「紅白歌合戦」でやった宙吊りで歌った。やれやれ...と席を立った僕に後ろから、
「やあ、お疲れさまでした。雨の中をどうも...」
と声をかけてきたのが弦で、まるで水森の父親みたいな笑顔だった―。
「さてと...」
と僕は「そば焼酎」と「さらしな本店」を後にする。終演後の楽屋で彼女の笑顔を見るのはパスしたが、
《こういう楽しみ方も、ま、いいとするか...》
中央快速で東京へ出て、横須賀線で逗子へ。水森の〝下町娘の愛嬌〟を思い返しながら、1時間半くらい〝気分のいい旅〟である。

《そうか、山川豊は立ち姿がいい歌手なんだ》
9月16日夕、浅草公会堂で開かれた彼のコンサートの冒頭で、僕はそう一人合点した。ステージ中央の階段の上に、彼は立っていた。その背景にあるのは、真っ赤な空で、10月に還暦を迎える山川の〝来し方〟を示す夕焼けか、それとも〝行く末〟を暗示する朝焼けか。スポットライトが当たると案の定、彼は陽光に対峙していて、客席へは後ろ姿である。長い足、年を感じさせぬ体型のスマートさ...。
〝立ち姿〟はやがて〝たたずみ方〟に変わる。「今日という日に感謝して」のオープニングから、立て続けに歌う各曲のイントロで、彼はそんな感じでしばしばたたずんでいた。「さあ行くぞ!」の気負いを見せるでもなく、ファンサービスのポーズも作らず、これが彼流の自然体なのか。「ときめきワルツ」「愛待草より」「流氷子守唄」とおなじみの曲が続く。基本的には口下手。「流氷...」の前では、珍しく海ものの作品が来て「これは鳥羽一郎のものじゃないのかと...」と、笑いを取るトークも訥々としている。司会の西寄ひがしが出て来ると、話は彼に預ける。一人語りの時は「うん」がちょくちょく出て来て、自分の話を確認しながらの気配がある。
「この前はテレビが入っていたけど...うん...」
と、2年前の35周年コンサートに触れた。それが今回はないのが少し寂しいのか、それとも、だから伸び伸びとやれるのか。「船頭小唄」から「丘を越えて」「かえり船」「港町十三番地」「黒い花びら」「高校三年生」「潮来笠」「君といつまでも」などをはさんで「見上げてごらん夜の星を」まで、いい歌といい時代をたどる13曲メドレーは一気、一気だ。
イントロで西寄のナレーションがあおる伝統的演出の「きずな」「しぐれ川」「夜桜」「友情(とも)」などでもそうだが、山川の歌いながらの動きは、舞台上手で1コーラス、下手へ移動して1コーラス、中央に戻って1コーラス、深々と一礼という具合い。ただひたすら歌うことに集中していて、ファンとのやりとりもごく少なめ、プレゼントは舞台では受け取らない。
《テレビ中継がなくて、よかったんだ、やっぱり...》
と、僕はまた合点する。あれが入ると絵づくりのための余分な演出が加わる。茶の間の客向けの選曲も出るだろう。歌手歴37年、それはそれでうまくこなすだろうが、彼は一途に歌い募る方が好きなんだろうし、浅草まで来た客は、それが望みでもある気配だ。
《37年か、彼も還暦だと言うし、こっちもその分年を取ったな...》
僕は客席で〝もう一人の山川豊〟を思い出す。昔いわゆる〝ご三家〟の筆頭・橋幸夫のマネージメント一切を取り仕切っていた人の名である。若くして亡くなったのだが、その人柄と剛腕が一時代を作った。親交を持ったお仲間が長良プロダクションの長良じゅん社長(当時)とバーニングプロダクションの周防郁雄社長。歌手山川は、この有力者二人がビラ配りまでする力の入れ方で育てた。メーカー、プロダクションを縦断して、亡くなった山川豊氏の弔い合戦の様相まで呈した大仕事。昭和56年、西暦で言えば1981年の2月、山川とデビュー曲「函館本線」はその波に乗る。僕はこの作品で、作詞家のたきのえいじやアレンジャーの前田俊明の名を知った。
山川の魅力は独特の中、低音の響きだが、高音と節回しにもなかなかの味がある。「函館本線」のヒットは「面影本線」「海峡本線」の三部作になり、山口洋子・平尾昌章コンビの「アメリカ橋」「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」のアメリカ3部作が生まれ、最近の「螢子」「再愛」「黄昏」につながる。
そんな歩みを歌い綴ってアンコールまで38曲。その間の衣装替えは白のスーツに着物の着流し、黒のスーツと上衣を赤のジャケットに替えた4ポーズ。舞台装置もほとんどなしで、背景が都会の影絵になるほか、照明で彩りを替えるシンプルさだ。〝歌を聴かせる〟ことに終始した演出は、スター歌手の〝どうだ顔〟や、人気歌手の〝媚び〟とは無縁なことが、いっそさわやか。
言ってみれば〝地味派手〟の境地で、前面に出たのは彼の人柄と歌一本やりの取り組み方。
《変わらない人だなあ》
日曜日、ずいぶん様変わりした浅草詣での人々の波の中を、僕はそんな感慨を持って往き来したものだ。

殻を打ち破れ201回
手許に一枚のCDがある。『MOSS WAVE 1968~1984』のタイトルで非売品。これは友人寺本幸司を主人公にしたパーティーで配られた。収められているのは19曲。浅川マキの『夜が明けたら』や『かもめ』下田逸郎の『踊り子』南正人の『海と男と女のブルース』桑名正博の『哀愁トゥナイト』や『月のあかり』リリイの『オレンジ村から春へ』沢チエの『夜の百合』などが並ぶ。演歌歌謡曲にフォークやロックと、ヒット戦線が何でもアリだった"あのころ"を偲ばせる歌ばかりだ。
パーティーとは8月6日夜、原宿のライブハウス「クロコダイル」で開かれたテラ(僕は寺本をそう呼ぶ)の80才を祝う会。CDに収められた歌たちは、彼がプロデュースした思い出の作品である。僕は歌謡曲人間だからとても歌えはしないが、それぞれの曲に個人的な思いもからむ。大ヒットこそしなかったが、みんないい作品でテラの音楽観なり時代感覚なりが、その背景にあるのだ。
「僕は月島の生まれでねえ...」
彼はパーティーのステージで、そんなことから話しはじめた。誕生会の世話人たちに「生前葬にはするなよ」と念を押した人間が、何と小1時間も"生い立ちの記"を語り続けて、僕らを驚かせた。面白おかしく...と配慮はされているが、それにしても長い。やむを得ず僕は焼酎の水割りのおかわりを続け、次第にそっちの方に酔った――。
作品集の発端の1960年代後半から、僕は三軒茶屋の"お化け屋敷"と呼ばれる古い西洋館に住んでいた。その一室、卓球がやれるくらい大きな部屋を占拠して、テラは僕んちの同居人第1号。飲みに来るのはテラの側の浅川マキ、下田逸郎らにパントマイムの青年やコピーライターの娘など種々雑多。僕の側は勤め先スポーツニッポン新聞の後輩に、売り出し前の作曲家三木たかしや中村泰士、たまに作詞家阿久悠、石坂まさをとその連れの阿部純子(のちの藤圭子)ら。面白がるレコード会社やプロダクションの有志が加わって、連夜ごちゃまぜの大騒ぎである。70年代に入ると僕がスポニチに若者ページ「キャンバスNOW」を立ち上げ、テラにプロデュースを頼んだから、その書き手も参入した。島田荘司、喰始、石原信一、生江有二、中村冬夫らで、後にそれぞれが名を成している。
テラはそんな安手の梁山泊を仕切っていたかと思うと、ふいと姿を消出す出没ぶりで仕事をこなし、その一部始終を僕は見守った。おデコで物を言うような発言に妙な説得力があり、やがて彼は音楽工房「モス・ファミリー」を興す。パーティーの述懐で面白かったのは①に画才で、子供のころにそのご褒美で、駄菓子屋の"もんじゃ"にありついた。②が瞬発力で、運動会は初速でトップに立つが、いつもそのうち抜かれたそうな。栴檀はふた葉にして...の類いか、長じて彼を腕利きの仕事師にしたのは、独特の美意識と、桟を見ての瞬発力だったろう。
クロコダイルには120人を越すテラの仲間が集まった。みんな本音のつき合いの親しみ易さがいい雰囲気を作る。"ロックテイストの宴"で、参加者はみなそれらしいいでたちだったが、よく見ると多くがそれぞれの年輪を示す風貌ではあった。
≪80才?何がめでたい!≫
そう軽口を叩きながら参加した僕だが、結局はテラの作品集にしみじみ往時を思い返す仕儀になる。考えてみればアルバイトのボーヤから校閲部、整理部と内勤9年の体験は、立派にスポニチの保守本道である。それが取材記者に転じるや、すぐに長髪にパンタロン、ラジカルな記者たちの頭目になれたのは、あのころのテラとその仲間の影響が大だった。ちなみに僕はテラより2才上で、10月に82才になる。あいつも俺も、その時々をめいいっぱい事に当たりながら、成り行き任せで生きて来たということか。双方の既往症は「人間中毒」と「ネオン中毒」だものな。
亜熱帯の演歌なのか?
「生命が危険」と連呼される夏、酷暑と言うか炎暑と言うか、各地多難でメチャクチャ暑い。9月だって油断がならない...という時期に、世に出る作品群である。
8つの作品に共通しているのは、表現のさりげなさ。過剰な感情移入や、演歌にままある押しつけがましさを、皆が避けている。もっとも気候だけでなく、政情も世相も閉塞感や末恐ろしさが先に立つ昨今、うんざりした気分がそうさせると思えなくもない。日本はこのまま亜熱帯になるのだろうか?
片時雨(かたしぐれ)
作詞:いとう彩
作曲:岡千秋
唄:岩本公水
《そうか、この人はこういう風に、作品の情感をまるで掌の中の珠のように、歌いころがせるようになったのだな》
と僕は合点した。長い歌手生活で、いろんな事があり、いろんなタイプの作品を歌って来たが、ひと言で言えば〝娘の歌〟だったと思う。ところが、今作は明らかに〝オンナの歌〟だ。
ギターが中心の音づくりは、昔からある〝流しの歌〟調で、5行詞、去った男を思い返してひとり酒の主人公は、はかなげな息づかいで嘆きを語る。いとうの詞に恨みがましさはなく前を向いているのもいい。
こちらも5行詞のギター流し調。古い演歌好きの僕なんか、つい「いいなぁ」としみじみしてしまうタイプだ。昔なら春日八郎が 春が来たとて、行ったとて...などと、男の嘆きを歌ったものだが、岩本作品の岡千秋、鏡作品の山崎剛昭の曲づくりは、似たような落としどころ。
こちらは作詞の久仁京介が、詞を船ものにしている。曲のサビのあとの〝ゆすりどころ〟を、各節「惚れたよ、泣いたよ、夢見たよ」で揃えて、鏡の芸に託した。去る女を見送る男の未練だが、やはり恨みがましさはない。
天の川恋歌
作詞:仁井谷俊也
作曲:徳久広司
唄:野中さおり
歌手生活も30周年になったとか。それを機に芸名の「彩央里」を「さおり」に変えた。心機一転の気構えだろうが、なるほどこの方が素直でいいか。
亡くなった仁井谷俊也の遺作。作曲の徳久広司が、彼女の歌も素直にした。歌詞の前半4行を素朴に語らせ、次の2行を高ぶらせる算段。歌唱にさりげなさと、いい味が生まれた。
花ふたたび
作詞:菅麻貴子
作曲:水森英夫
唄:キム・ヨンジャ
ヨンジャはなかなかに曲者である。ガンガン行ける韓国パワーを、声をしぼって語るように、仕向けたのは水森英夫の曲。この人ももともとガンガン行かせたがるタイプなのに、なぜか今作は抑えめを選んだ。
ヨンジャが曲者なのは、抑えた歌唱だが、決して抑えていない点。声をしならせてインパクトの強さをちゃんと維持している。
弥太郎鴉
作詞:久仁京介
作曲:宮下健治
唄:中村美律子
ヒット曲づくりの一策は「隙間狙い」誰もやらないなら、それで行こうという手で、近ごろ珍しい時代劇道中ものが出て来た。巻き舌で芝居っけ十分のこの種の歌なら、確かに中村美律子お手のものだろう。久仁京介の詞が「意地の筋立て、器量の錦」なんてフレーズを持ち出し、宮下健治の曲も気分よさそう。体調崩し気味の中村が元気でよかった。
こちらも"道行きソング"で、近ごろ珍しい狙い目。四方章人の穏やかめのメロディーに千葉一夫の穏やかめの歌唱で、歌詞ほどには切迫感を作らない。
しかし...と、制作者も歌手本人も考えたのか、千葉の歌唱はいつもより感情移入が強めで、突くところは突く。声が太めに聞こえるのは、彼のキャリアがそうさせた結果か。
女のゆりかご
作詞:里村龍一
作曲:岡千秋
唄:瀬口侑希
瀬口侑希はこのところ、一作ごとに歌唱が変わっている。今作など、息まじりに歌をゆすって、詞のはかなげで一途な色にも添った。おおらかな叙情派からスタート、キャリアを重ねる中で「器用じゃない人の器用さ」が生まれてなかなかの演歌。このところ消息が聞こえぬ里村龍一の詞が何だかわびしげなのへ、岡千秋の曲で、二人の友情がにじむ。
哀愁北岬
作詞:麻こよみ
作曲:影山時則
唄:服部浩子
もともとが、作品に何も足さない風情の歌が特徴だったのが服部浩子。長い年月を経て、そうも言ってられないと本人が考えたのか、昨今の歌の流れに添おうとしたのか。1コーラスの歌い始めと歌い収めの高音部に、訴求力を強めた工夫が聞こえる。声の芯をしならせて色を濃いめにしていて、作曲の影山時則が誘導したかも知れない。
歌手小沢あきこのダンナが倒れた...との一報は、けいこ場の空気を一変させた。路地裏ナキムシ楽団の中目黒キンケロ・シアター公演が初日を8月31日に控えていて、彼女はその主要女優の一人だ。座長で作、演出者の田村武也が、一応万が一の場合を考える。とは言え出演役者は15人、配役を一役ずつ繰り上げるしか方法はない。
「でも、本人が頑張ると言っているから、それを待とう」
小世帯なりに結束の堅い集団だから、みんなそれなりの決意を眼の色にした。
翌日、さりげない面持ちで、小沢はけいこ場に現れる。気づかって僕らもふだんの顔つきで彼女を迎える。病名も容体も誰も聞かない。あらかじめ「脳梗塞」と「意識がない」と知らされていて、それ以上詮索する必要はない。内心で僕は「ん?」にはなっている。意識がないというのは只事ではない。体験が多いだけに別の病名も考えたが、それも口に出せるものではない。
それから二日ほどのけいこと本番の5公演を、小沢はものの見事にやり遂げた。演目が「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」というファンタジックな人情劇。皮肉にも「生」や「死」にまつわるセリフがひんぱんに出て来る。小沢扮するマリアとホームレスの僕は実は父子という設定。母親を焼死させたことで、娘と父は義絶状態。それが僕の死後、火事場へ飛び込み娘を救った真相が明らかになる。
死後の僕と生身の彼女との切ない和解と、改めての別離のシーンがドラマの大詰め。その前に、
「意識が戻らないの?」
「年の割に働きづめの人だったからなあ」
などというやりとりが、他の役者間であったうえ、僕が、
「生きてくれ、マリア! 母さんの分も、な!」
と叫ぶのが幕切れである。セリフの一つ一つが、小沢の胸に刺さったはずだ。事態が事態だから、僕のセリフも意味合いがダブる。
「お父さん!」
やっと言えた娘のセリフは、小沢のあふれる涙と一緒。それに頷き返しながら、僕も本気で泣いた。
公演終了3日後の9月5日、訃報が届く。小沢の夫君はミュージシャン奥野暢也、やっぱりくも膜下出血で、4日午前死去、53才...。と言うことは彼女は病院と劇場を往復していたのか。文字通り不眠不休の日々だったのではないか。そう思うと改めて胸が痛い。劇場で相手役の小沢に僕がかけ得た言葉は「寝ろよ、お前がしっかりしてないと、な!」と「芝居は大丈夫だ。二人で何とでもやって行けるよ」の二言でしかなかった。
9月10日は終日かなりの雨。桐ヶ谷斎場の通夜に出かけた僕は女優小沢あきこの相手役としてだ。
「しかし、待てよ...」
僕はその道々、夫君奥野暢也に思い当たりがあることに気づく。スタジオ・ミュージシャンでドラム奏者、だとすると僕は、プロデュースした多くの作品の録音スタジオで、ずいぶん世話になった彼ではないのか? 通夜の会場には名だたるプロデューサー、ヒットメーカーの作曲家たちなどの顔が沢山あった。遺影を見てやっぱり彼だ! と確認する。ミュージシャンとプロデューサーは「おはようス」「お疲れさま」のあいさつ程度で、お互いに名乗ることのない仕事場。そのくせ僕らの作品は全部、そんなつき合いの彼らの才能と技に支えられている。
歌手の山内惠介が公演先の和光市から飛び込んでくる。奥野は彼のためのバンドのリーダーで、もう10年のつき合い。名古屋公演までずっと一緒のツアーで、別れた翌日に彼は倒れたのだと言う。
「参ったよな、こんなことになるなんて...」
山内が所属する三井エージェンシーは、三井健生社長夫妻に娘や社員たちまでが駆けつけていた。
そのお清めの席で、僕は歌社会の友人たちと故人の話をし、その後は五反田の居酒屋で、ナキムシ楽団の面々と改めてのお清めをやる。話題はとことん頑張り抜いた小沢の意地と芯の強さ。黒の和服で、凛然と通夜の客に応対した喪主としての立ち居振る舞いの見事さ。座長の田村や夫人をはじめ、レギュラーのミュージシャン、役者が全員顔を揃えていて、実にいい奴らだと改めて感じ入る。
小沢は今年が歌手25周年。故郷長野に材を取った記念曲「飯田線」が出たばかりだから、健気な孤軍奮闘はまだ当分続くことになる。

演出家で映画監督の大森青児は、有言実行型。おまけにせっかちと来ている。彼を中心に関西で旗揚げ!? した作詞家集団「詞屋」が、早くも2枚めの自主アルバムを作ると言い出した。この人には川中美幸の劇場公演「天空の夢」ほかで、とび切りいい役を貰っている手前、僕は甲斐々々しく、その手伝いをする。「詞屋」の例会に顔を出して叱咤激励し、「監修」を頼まれるが、何のことはない雑事一手引き受けの取りまとめ役。
「それにしても...」
と、僕が会合の都度力説するのは、集団の基本精神の確認。文化発信が東京一極に集中、ことさらに流行歌にその傾向が著しい。それに反旗をひるがえして、
『関西からヒットソングを!」
「関西ならではのコンテンツを!」
と集まったのが詞屋の面々で、大森を筆頭に大学の先生、小説家、エッセイスト、シナリオライター、塾の主宰者など多種多様。そんな知的レベルが面白そう...と首を突っ込んだのだが、これが想うようには参らぬ。毎月持ち寄る作品が、従来のヒット曲をお手本にしてしまうから、独自路線の開発には手間がかかった。
大分前に作ったアルバム第1号は、結局、東京発の歌たちの類型を脱けられなかった。そこで号令をかけたのは、
「浪花ものに集中して!」
で、大阪在住の作詞家もず唱平や、浪花ものが多い吉岡治、たかたかしの仕事を超えられるか? が大テーマになった。
「こんなもんかな、ひと踏ん張りしますか」
その上でほどほど作品を並べることにする。
おそらくアルバム・タイトルにもなるだろう「大阪亜熱帯」をはじめ「ワルツのような大阪で」「まんまる」など何編か。コンセプトからははずれたが、父君を亡くした大森監督の「親父の歌」の実感や、関西で活躍するシャンソンのベテラン出口美保用の「恋のマジシャン」なども加える。詞をまとめても残る問題は作曲、編曲に歌。スタジオに入ればそれなりの経費がかかる。
「何とかなりますよ、うん、何とかなる」
と主宰者大森は破顔一笑するが、こちらはそう楽天的にはなれない。
結局、作曲者として動員した僕の手駒(失礼!)は「大阪亜熱帯」に藤竜之介「恋のマジシャン」は山田ゆうすけ「まんまる」は近ごろライブ活動をしている奥野秀樹なんて顔ぶれ。そう言えば1枚めでは曲を田尾将実に頼んだ。田尾、藤、山田は「グウの会」というのをやり、気心の知れた仲間だが、災難はいつ降りかかるか判らない...と思ったろう。
ベテラン出口の登場からしてヒョウタンからコマなのだ。前回、女性歌手捜しに苦慮したのが大阪勢。一計を案じて僕が出口に、
「大勢居るお弟子さんから、見つくろってよ」
と、乱暴な打診をしたら、演歌系の作品を面白がって、
「わたしが歌うわ!」
になってしまった。詞屋の面々はさすがに恐縮して、今回は彼女用の作詞に汗をかいた訳...。
たて続けに大森監督から電話が入る。今度は歌づくりではなく、災害に遭った岡山・高梁の支援イベントである。NHK出身の彼の映画第一作監督作品は「家族の日」という現代社会視線のヒューマンドラマ。そのロケ地として全面協力を得たのが高梁だった。映画は国内を順次上映、北京映画祭に呼ばれるなど、一定の評価を得ている。イベントは11月10日だと言い、
「そう言えば井上由美子という歌手が〝高梁慕情〟ってご当地ソングを歌っているそうです」
と突然固有名詞が出て来た。井上は亡くなった我妻忠義社長のプロダクション、アルデル・ジローの所属。会社は息子の重範氏が引き継いでいて、早速話をしたら前日に他の仕事で現地に居る。
そんな話をしたのは、8月30日、中目黒キンケロ・シアターの楽屋。翌31日に僕も出演する路地裏ナキムシ楽団公演「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」(作、演出田村かかし)が始まるが、彼はそのスタッフでもある。
「何って間(ま) がいいんでしょ」
と、二人で笑い合って、実はこの原稿、その楽屋で書いている。役者と雑文屋の二足のワラジをやって12年め。劇場周辺では物を書かぬと決めていたが、とうとうその禁を破ってしまった。とにかく忙しすぎるのだ。

樋口紀男氏の訃報は、8月20日夕、北区王子の北とぴあのけいこ場で聞いた。緊張気味の表情で小声で伝えてくれたのは、友人の田村武也。作曲家協会の弦哲也会長の息子だから、その事務所に寄って知ったのだろう。
《そうか、やっぱりな...》
ある程度、覚悟めいたものがあったにせよ、僕は胸を衝かれてしばし黙然とした。断続的にではあったが、ずいぶん長い闘病を続けていた人だった。そこへここのところの、酷暑である。健康な人間でも相当に応える気候。病いに冒されている人には、越えにくい夏だったかも知れない。
けいこは今月末から来月にかけての路地裏ナキムシ楽団公演(中目黒キンケロ・シアター)の分。田村はその主宰者で「雨の日のともだち」の作・演出から音楽、映像の制作、劇中歌の作詞、作曲、演奏に歌...と、すべてを取り仕切る座長だ。
「27日通夜で28日が葬儀だとか...」
「俺、通夜の日はけいこ抜けるぞ」
そんなやりとりを手短かにして、けいこに入る。
若者中心の一座で、樋口氏を知る者は他に居ない。さりげなく演出家の椅子に着いた田村をうかがいながら、僕のけいこは少々うわの空になる。すっかり入っているはずの科白が飛んだりして、共演者が「おや?」の表情。このところずい分多くの友人や知人を見送っている。それがいちいち身に応える。その人の元気なころの顔がちらつくのだ。
「女の旅路」といういい歌があった。作詞家ちあき哲也のごく初期の作品で、六ツ見茂明という弾き語りの友人が曲を書いた。歌ったのは確かいとのりかずこという歌手で、40年以上も前、僕は六ツ見がやっていた外苑前のスナックで、やたらにこれを歌ったものだ。その出版権がバーニングパブリッシャーズにあった。誰かに歌って貰って、もう一度世に出したいと、樋口氏にかけ合った。
「ああ、あの作品なら、今でも行けるかも知れないな」
と、樋口氏は笑顔で応じて、歌手捜しまで何くれとなく話に乗ってくれた。しかし、その件はうまくまとまらず、結局は継続審議の形。そうこうするうちに、作詞、作曲家はともに亡くなっている。その悔いが、樋口氏の訃報でまた、生々しく甦る。穏やかな態度物腰で、口数も少なめ、我が強く言動ラフなお仲間に比べれば、紳士然とした樋口氏の、あの笑顔も一緒だ。
深夜帰宅して、届いていたFAXを取り出す。その中の2枚に樋口氏のものがあった。バーニングパブリッシャーズ常務取締役、心不全、享年78、葬いの式場は桐ヶ谷斎場とある。70代はまだ若い、惜しい人を亡くした...と、そんな思いがまたよぎる。病気が小康状態になる都度、彼はよく仕事場に顔を出した。パーティーなどで顔を合わせると、
「やあ...」「どうも...」
のやりとりになる。決して深くはないが、心に残るつき合いの呼吸があった。
長く音楽出版の仕事をして、人づきあいは広く多岐にわたった人徳の人だ。後日その葬送は、橋山厚志葬儀委員長をはじめ、ごく親しい人々で固める「友人葬」になると聞いた。その顔ぶれより僕は少々年嵩の部類に入る。親しく酒の仲などにならなかったのは、僕がスポーツニッポン新聞社の晩年、現場を後輩記者たちに任せたせいか、退社後は役者三昧の暮らしに入ったせいか...。
ここ20数年、僕が見送った歌社会の人々は多い。親交から葬いの手伝いをしたケースも相当な数にのぼる。その都度僕は逝った人々の心残りや無念を受け止め、微力ながらその思いを引き継いで行こうと、ひそかに心に決めている。歌手の美空ひばり、作詞家の中山大三郎、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、ちあき哲也、作曲家の??田正、三木たかし、船村徹などの順で、教えを受けた人ばかりだから、荷としてはかなり重い。しかし折りに触れていつも
《もし、あの人が今、元気だったら...》
と思い返し、事に当たるよすがとすることが、先人への崇敬であり、心づくしでもあろうかと思っている。
このコラムが読者諸兄姉の眼に触れる8月の最終週、週のはじめに樋口氏の通夜葬儀は済み、週末からはナキムシ楽団公演が始まっている。その芝居は愛すべき死神たちが、亡くなる人々の後悔や心残りを取り除いていく内容である。偶然にしろ妙な符合を感じて、胸がうずく。

殻を打ち破れ200回
「えっ、そうなの、知らなかった...」
歌手川中美幸が、それこそのけぞらんばかりに驚いた。7月5日夕、彼女の明治座公演の初日がめでたく終わった直後。楽屋前には共演中の女優安奈ゆかりと車椅子の紳士とつき添いのご婦人がいた。実はこの3人が親子なのだが、紳士は僕の親友で「地方区の巨匠」と呼びならわしている演歌の作曲家兼歌手、佐伯一郎だった。単なる父子なら川中も驚きはしない。劇場につめかけるファンには、そういうケースだってままある。しかし、相手が年上で先輩格の歌手となれば「嘘!本当?」となるのも無理はなかった。
川中公演の芝居は「深川浪花物語~浪花女の江戸前奮闘記」(池田政之作・演出)でタイトル通り、大阪からやって来た川中が、深川の料亭のお手伝いに拾われ、てんやわんやの末に女将にのし上がる物語。安奈の役はその料亭の仲居頭で、奮闘記の随所に出て来て、芝居の潤滑油として大活躍なのだ。しかし、川中一座は初参加でもあり、もともとプライベートな部分は抜き、本人本位の仕事だから、特に父親のことは話もしなかったのだろう。だが、僕の場合は少々違った。
「おやじさんを呼び捨てでつき合ってるんだから、お前さんにも君やさんはつかないよ」
けいこ場で顔を合わせるなり、僕は冗談めかしてそう宣言した。
「ええ、もちろんですよ。私も呼び捨てにして下さい」
安奈はふっくらした声音でそう応じた。たっぷり豊かな体型同様、会話も快活でやわやわと温い。初対面なのだが父親から僕のことは、あれこれ聞いていた気配で、
「初日に見に来ると言ってました。久しぶりにお会いするのがとても楽しみだと...」
「待てよ、体調はいまいちのはずだ。無理させちゃいけない」
「でも、そのためにリハビリに精を出しているって言ってました」
双方笑いながら、そんなやり取りになったものだ。
佐伯は若いころ、作曲家の船村徹に兄事、一緒のアルバムも作った仲。それが本拠の静岡・浜松へ戻って大勢の弟子を育て、その弟子たちと活躍の場を広げて、東海地方の雄になった。僕は元来、東京でテレビに出て、全国に名を売るスターだけが歌手とは思っていない。地方に根をおろして独自の活動を続ける歌手も貴重な存在として来たから、佐伯とは長く親交が続く。毎年浅草公会堂で一門の歌手たちとやるコンサートも、毎回駆けつけていたが、彼が脊椎をやられて入退院を繰り返すころから、しばらく会っていなかった。聞けば8回も手術を受けたと言う。
≪しかし、そうまでしてでも、来られてよかったな...≫
つき添いの佐伯夫人の笑顔を見ながら、僕はそう思った。川中公演は例によって彼女の"笑芸"が生き生き。芝居もしばしばファンを笑わせながら、時にしみじみ涙を誘う下町人情劇である。演出家池田のスピーディーなドラマづくりを、委細承知とばかりに安奈は、独特のキャラと達者な芸で出たり入ったりの大忙し。どうやら池田お気に入りの俳優の一人らしく、その甲斐々々しい仕事ぶりを、父も母も十分に堪能した面持ちだ。
「本当に助けられてますよ(左腕をちょんと叩いて)こっちの方もなかなかだし、よく気がつく人で、共演の皆さんにも愛されているし...」
川中のほめ言葉も決してお世辞ではないから、佐伯も涙ぐんだりする親馬鹿ぶり。夏の明治座の舞台裏で、突然生まれた芸能親子の人情劇の一幕だが、それを包む込む柔和さで、ここでも主役はやっぱり川中美幸だった。